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{{基礎情報 過去の国 |
{{基礎情報 過去の国 |
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|日本語国名 =サーマーン朝 |
|日本語国名 = サーマーン朝 |
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|通貨 = |
|通貨 = |
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|注記 = |
|注記 = |
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'''サーマーン朝'''( |
'''サーマーン朝'''(سامانيان Sāmāniyān, [[873年]] - [[999年]])は、[[中央アジア]]西南部の[[トランスオクシアナ]](マーワラーアンナフル)と[[イラン]]東部の[[ホラーサーン]]を支配した[[ペルシア人|イラン系]]の[[イスラム王朝|イスラーム王朝]]。 |
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[[首都]]は[[ブハラ]]。[[中央アジア]]最古の[[イスラム王朝|イスラーム王朝]]の1つに数えられる<ref name="nairiku68">間野、中見、堀、小松『内陸アジア』、68頁</ref>。ブハラ、サマルカンド、フェルガナ、チャーチュ([[タシュケント]])といった[[ウズベキスタン]]に含まれる都市のほか、[[アフガニスタン]]北部、[[イラン]]東部の[[ホラーサーン]]地方を支配した<ref>バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、63頁</ref>。 |
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==概要== |
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[[首都]]は[[ブハラ|ブハーラー]]。 |
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サーマーン家の[[君主]]は[[アッバース朝]]の権威のもとでの地方太守の格である[[アミール]]の称号を名乗り、アッバース朝の[[カリフ]]の宗主権のもとで支配を行ったが、[[イスラム世界|イスラーム世界]]において独立王朝が自立の証とする事業を行い、アッバース朝の東部辺境で勢力を振るった。 |
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[[トランスオクシアナ]]地域を[[ウズベキスタン]]と分有し、[[テュルク系]]の[[ウズベク|ウズベク人]]に対しイラン系の[[タジク人]]が多数を占める[[タジキスタン]]では、「サーマーン帝国」はタジク民族による民族王朝として位置付けられる。[[タジク語|現代タジク語]]でイスモイル・ソモニー(<span lang="tg" xml:lang="tg" style="font-family:'Palatino Linotype', sans-sarif;">Исмоили Сомонӣ</span> (Ismoil Somonii))と呼ばれる英主イスマーイール・サーマーニーは民族の英雄として高い評価が与えられ、独立後のタジキスタンの通貨単位である[[ソモニ]]も、「サーマーン家の人」を意味するソモニーに由来している。 |
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サーマーン朝の時代に東西[[トルキスタン]]、およびこれらの地に居住する[[テュルク系民族|トルコ系]]遊牧民のイスラーム化が進行した<ref name="nairiku68"/>。 |
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==歴史== |
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サーマーン朝を開いたサーマーン家は、[[サーサーン朝]]の[[バフラーム6世]]に遡るとされるマーワラーアンナフルのイラン系土着領主(デフカーン)の一族で、家名は[[8世紀]]前半に[[イスラム教|イスラーム教]]に最初に改宗した[[サーマーン・フダー]]の名に由来する。サーマーンの息子アサドは、ホラーサーンから挙兵して[[アッバース朝]]の[[カリフ]]位を奪取した[[マアムーン]]に組みし、マアムーンを後援した[[ターヒル朝]]の始祖でホラーサーン総督ターヒル・イブン・フサインによってマーワラーアンナフルの支配を委任されるようになった。マアムーンはカリフ位に即いた後、アサドの4人の息子たちであるヌーフ、アフマド、ヤフヤー、イルヤースのそれぞれに[[サマルカンド]]、[[フェルガナ|フェルガーナ]]、チャーチュ([[タシュケント]])、[[ヘラート]]の各地域の支配権を正式に委任したという。 |
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英主イスマーイール・サーマーニーは[[ウズベキスタン]]と[[タジキスタン]]で民族の英雄として高い評価が与えられ、タジキスタンの通貨単位である[[ソモニ]]は、サーマーニーに由来している<ref name="ceji-is">帯谷知可「イスマーイール・サーマーニー」『中央ユーラシアを知る事典』収録(平凡社, 2005年4月)、54-55頁</ref>。 |
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こうしたイスラーム勢力の抗争のもとで次第に勢力を高めたサーマーン家は、ターヒル朝が滅亡した[[873年]]を契機にサーマーン・フダーの曾孫ナスル・イブン=アフマド([[ナスル1世]])が自立、[[875年]]に[[アッバース朝]]第15代カリフ・[[ムウタミド]]からマーワラーアンナフル全域の支配権を改めて与えられてサーマーン朝を開いた。サーマーン家の[[君主]]はアッバース朝の権威のもとでの地方太守の格である[[アミール]]の称号を名乗り、アッバース朝の[[カリフ]]の宗主権のもとで支配を行ったが、[[南ロシア]]・[[シベリア]]から[[バルト海]]岸に至るまで流通した独自の[[貨幣]]の鋳造など、[[イスラム世界|イスラーム世界]]において独立王朝が自立の証とする事業を行い、アッバース朝の東部辺境で勢力を振るった。 |
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== 歴史 == |
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[[Image:Samanid mausoleum in Bukhara - 18-9-2004.jpg|thumb|160px|right|[[ブハラ|ブハーラー]]の郊外にある[[イスマーイール・サーマーニー廟]]]] |
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=== 成立の背景 === |
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サーマーン朝を開いたサーマーン家は、マーワラーアンナフルのイラン系土着領主(ディフカーン)の一族で、家名は[[8世紀]]前半に[[イスラム教|イスラーム]]に改宗した[[サーマーン・フダー]]の名に由来する<ref name="satoh">佐藤「サーマーン朝」『アジア歴史事典』4巻、58-59頁</ref><ref>間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、84頁</ref>。サーマーン・フダーは[[サーサーン朝]]時代の貴族の末裔であると考えられており<ref name="hamada155">濱田「「イスラーム化と「テュルク化」」」『中央ユーラシア史』、155頁</ref>、また[[ゾロアスター教]]の神官の家系の出身とも言われ<ref>前嶋『イスラムの時代 マホメットから世界帝国へ』、247頁</ref>、[[ウマイヤ朝]]の[[ホラーサーン]]総督アサド・イブン・アブドゥッラーによってイスラームに改宗したと伝えられている<ref name="ceji-sa">稲葉「サーマーン朝」『中央ユーラシアを知る事典』、216-217頁</ref>。 |
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サーマーンの息子アサドは、ホラーサーンから挙兵して[[アッバース朝]]の[[カリフ]]位を奪取した[[マアムーン]]に組みし、マアムーンを後援した[[ターヒル朝]]の始祖でホラーサーン総督ターヒル・イブン・フサインによって[[マーワラーアンナフル]]の支配を委任されるようになった。[[819年]]ごろ、マアムーンはアサドの4人の息子たちであるヌーフ、アフマド、ヤフヤー、イルヤースのそれぞれにサマルカンド、フェルガナ、チャーチュ、[[ヘラート]]の各地域の支配権を正式に委任した<ref name="hamada155"/>。[[827年]]には、アッバース朝統治下の[[アレクサンドリア]]総督にサーマーン家の人間が選ばれた<ref>バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、128頁</ref>。 |
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[[ターヒル朝]]の創始者である[[ターヒル・イブン=フサイン]](ターヒル1世)がアッバース朝のホラーサーン総督に任命された後、サーマーン家はターヒル1世の地位を承認し、ターヒル朝では副総督の地位を獲得する<ref name="satoh"/>。ヌーフが子をもうけずに没した後、ターヒル1世はヌーフが有していた支配権をアフマドとヤフヤーに分割し、アフマドの子孫がサーマーン家の本家筋となった<ref name="satoh"/>。アフマドには7人の子がおり、長子のナスル・イブン=アフマド([[ナスル1世]])がアフマドの跡を継いだ。 |
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=== サーマーン家の独立 === |
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こうしたイスラーム勢力の抗争のもとでサーマーン家は次第に勢力を高め、ターヒル朝が滅亡した[[873年]]を契機にナスル1世が自立する<ref name="ceji-sa"/>。[[875年]]にアッバース朝第15代カリフ・[[ムウタミド]]からマーワラーアンナフル全域の支配権を与えられてサーマーン朝を開いた。ナスル1世は8世紀末に建国された[[サッファール朝]]に対抗するため、[[ホラズム地方]]に勢力を広げ、サーマーン朝の基盤を築いた。 |
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ナスル1世はサマルカンドを本拠に定め、[[874年]]末に<ref>前嶋『イスラムの時代 マホメットから世界帝国へ』、248頁</ref>弟[[イスマーイール・サーマーニー]]を混乱状態に陥っていた[[ブハラ]]に総督として派遣した。イスマーイールはブハラの内乱を収め、この地を拠点としてホラーサーンの征服を進めた<ref name="satoh"/>。ナスルはブハラのイスマーイールに対して猜疑心を抱くようになり、[[885年]]に側近の進言を受けてイスマーイール討伐の軍を起こした<ref>ロス、スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』、139-140頁</ref>。ホラーサーン総督ラフィの仲裁によってナスルとイスマーイールの間に和平が成立し、イスマーイールは徴税官としてブハラに留まった<ref>ロス、スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』、140頁</ref>。 |
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翌[[886年]]にイスマーイールの反乱を疑ったナスルはブハラ遠征の準備を進めるが、[[888年]]末にイスマーイールはナスルの軍を破り、彼を捕虜とした。イスマーイールは勝者であるにもかかわらずナスルを許し、心を打たれたナスルはイスマーイールを後継者に指名した<ref>前嶋『イスラムの時代 マホメットから世界帝国へ』、248-249頁</ref>。ナスルは[[ヒジュラ暦]]279年([[892年]] - [[893年]])に没するまでサマルカンドで君主として君臨し、イスマイールはブハラに駐屯していた<ref>ロス、スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』、141頁</ref>。 |
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ナスルの死後、イスマーイールは首都をサマルカンドからブハラに移し、カリフ・[[ムウタディド]]からアミールの地位の継承を認められる。 |
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=== 最盛期 === |
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[[画像:Duschanbe Somonidenkmal.jpg|thumb|160px|right|イスマーイール・サーマーニーの像。[[タジキスタン]]の都[[ドゥシャンベ]]にある。]] |
[[画像:Duschanbe Somonidenkmal.jpg|thumb|160px|right|イスマーイール・サーマーニーの像。[[タジキスタン]]の都[[ドゥシャンベ]]にある。]] |
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893年、イスマーイールは北方の草原に興ったテュルク系遊牧民の国家[[カラハン朝]]の支配下にあった[[タラス]]を征服し、多数の戦利品を獲得する。この時、イスマーイールが捕虜とした人物の中にはカラハン朝の妃が含まれ、町の[[キリスト教]]教会が[[モスク]]に改築されたと伝えられている<ref>間野『中央アジアの歴史』、117頁</ref>。以来サーマーン朝はイスラーム世界東部の防壁として、イスラームに帰依していない遊牧民の進攻を抑え、各地から異教徒との戦闘を使命とする信仰の戦士([[ガーズィー]])が集まった<ref>前嶋『イスラムの時代 マホメットから世界帝国へ』、249頁</ref>。 |
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ナスル1世の弟[[イスマーイール・サーマーニー]]のとき最盛期で、[[サッファール朝]]を破ってホラーサーンまで直接支配下に組み入れ、中央イランまで影響下に置いた。東部では、トランスオクシアナの東限の[[スィル川]]を境に[[テュルク系]]の[[遊牧民]]との[[ジハード]]に努める一方、国境でテュルク系遊牧民の子弟を[[奴隷]]として購入し、[[マムルーク]]軍人として自国からアッバース朝中央に至るまで[[西アジア]]全域に供給し、イスラーム世界の軍事力がマムルーク中心となる端緒をつくった。 |
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他方、ブハラの南方ではサッファール朝が勢力を拡大しており、ムウタディドはサーマーン朝とサッファール朝が互いに争って勢力を弱めるように抗争を扇動していた<ref name="los144">ロス、スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』、144頁</ref>。[[900年]]にイスマーイールは[[バルフ]]の戦いでサッファール朝の君主[[アムル・イブン・ライス]]に勝利し、王朝は最盛期を迎える<ref name="satoh"/>。イスマーイールは捕虜としたアムルを[[バグダード]]のムウタディドの元に送り、アムルはバグダードで幽閉されて生涯を終えた<ref name="los144"/>。サッファール朝を破ったことで、サーマーン朝はカリフからマーワラーアンナフルとホラーサーンの支配を認められる<ref name="ceji-sa"/>。 |
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サーマーン朝の治下では[[アラブ人]]の征服以来沈滞していたイラン文化がイスラームと結びついて再興し、[[アラビア語]]の語彙を取り入れ[[アラビア文字]]で表記する[[ペルシア語|近世ペルシア語]]が発展した。首都ブハラには学問の中心となり、[[ブハーリー]]、[[イブン=スィーナー]]など、当時のイスラム世界を代表する知識人があらわれた。 |
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サーマーン朝は表面上はアッバース朝に従属の意思を示していたが、実際は独立国家としてイラン・中央アジアを統治していた<ref name="satoh"/><ref name="hamada155"/>。[[946年]]に[[ブワイフ朝]]がバグダードに入城するまでの間、慣例としてサーマーン朝の歴代君主はカリフへの貢納と引き換えにアミールの地位の承認を受けていた<ref name="hamada155"/>。 |
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[[10世紀]]に入ると権力闘争などにより次第に弱体化が進み、南部の[[アフガニスタン]]方面ではマムルーク系の将軍[[アルプテギーン]]が[[ガズナ]]で自立して[[ガズナ朝]]を開いた。一方北方の草原に興ったテュルク系遊牧民の[[カラハン朝]]が南下を開始し、サーマーン朝は両者に挟撃される形で滅亡した。 |
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王朝は[[ニーシャープール]]に配置した総督を介して、南東のホラーサーン地方を支配した<ref name="ceji-sa"/>。北東部ではトランスオクシアナの東限の[[シルダリヤ川|スィル川]]を境にテュルク系の[[遊牧民]]からの防備に努める一方<ref name="ceji-sa"/>、国境でテュルク系遊牧民の子弟を軍人奴隷([[グラーム]])として購入していた。サーマーン朝が遊牧民に対して実施した聖戦([[ジハード]])、草原地帯でのサーマーン朝王族、商人、学者、[[スーフィー]]の活動はテュルク系遊牧民のイスラームへの改宗を促した<ref>間野『中央アジアの歴史』、119-120頁</ref>。 |
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王朝の最盛期は、イスマーイールから彼の孫の{{仮リンク|ナスル2世|en|Nasr II}}の時代まで続いた<ref name="ceji-sa"/>。 |
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=== 滅亡 === |
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ナスル2世の没後に王朝の衰退が進み<ref name="satoh"/>、{{仮リンク|ヌーフ1世|en|Nuh I}}の即位後に地主やグラームの権力闘争が激化する<ref name="ceji-sa"/>。また、スィル川中流域はサーマーン朝の影響下に置かれていたが、上流域と下流域は依然としてテュルク系遊牧民の支配下に置かれていた<ref>バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、177頁</ref>。 |
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{{仮リンク|アブド・アル=マリク1世 (サーマーン朝)|en|Abd al-Malik I (Samanid emir)|label=アブド・アル=マリク1世}}の治世では、グラーム出身の近衛隊長[[アルプテギーン]]が宮廷第一の実力者として権勢を誇っていた<ref name="horupu">勝藤「アルプ・テギン」『世界伝記大事典 世界編』1巻収録(桑原武夫編, ほるぷ出版, 1980年12月)、262-263頁</ref>。文人宰相として有名な{{仮リンク|バルアミー|en|Bal'ami}}が、アルプテギーンの推挙によって宰相に起用される。[[961年]]([[962年]])にアブド・アル=マリク1世は、アルプテギーンを中央から遠ざけるためにホラーサーン総督に任命、同年にマリク1世は没する<ref name="horupu"/>。 |
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マリク1世の弟{{仮リンク|マンスール1世|en|Mansur I}}がアミールに即位するが、アルプテギーンはマンスール1世の即位に反対した。アルプテギーンはバルフを経て南部の[[アフガニスタン]]方面に移動し、[[ガズナ]]で自立して[[ガズナ朝]]を開いた。マンスール1世はガズナに討伐隊を送るが、アルプテギーンを破ることはできなかった。ガズナ朝は名目上はサーマーン朝に臣従していたが、事実上独立しており、ホラーサーン地方の領主も半独立した状態にあった<ref>ロス、スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』、147頁</ref>。 |
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一方、北方のカラハン朝は南下を開始し、[[980年]]にスィル川東岸の[[サイラム]]がカラハン朝の手に落ちた。ホラーサーン総督アブル・アリー・シムジェルとヘラート知事ファーイクはカラハン朝と内通し<ref>ロス、スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』、151-152頁</ref>、[[992年]]にサマルカンドとブハラがカラハン朝の手に落ちた。カラハン朝の君主アル=ハサンはブハラに入城するが、急病に罹り撤退した<ref>間野『中央アジアの歴史』、107頁</ref>。 |
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ブハラに帰還したアミール・{{仮リンク|ヌーフ2世|en|Nuh II}}は、ガズナ朝の[[サブク・ティギーン]]に援助を求めた。サブク・ティギーンとその子[[マフムード (ガズナ朝)|マフムード]]はヘラート、ニーシャープール、[[トゥース]]の反乱を鎮圧し、ファーイクはカラハン朝に亡命した。しかし、ヌーフ2世とサブク・ティギーンの間に不和が生まれ、サブク・ティギーンはカラハン朝と講和を締結し、ファイクをサマルカンドの総督に任命した<ref>ロス、スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』、152頁</ref>。 |
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[[997年]]、{{仮リンク|マンスール2世|en|Mansur II}}が新たなアミールとなる。マーワラーアンナフルはカラハン朝に浸食され、ホラーサーンはガズナ朝の君主となったマフムードに占領された。999年にマンスール2世は臣下のベクトゥズンに暗殺され、幼少の{{仮リンク|アブド・アル=マリク2世 (サーマーン朝)|en|Abd al-Malik II (Samanid emir)|label=アブド・アル=マリク2世}}が即位する。カラハン朝のイリク・ハンはマリク2世の保護を名目にサーマーン朝の領土に進軍し、999年にブハラは陥落する。政府は民衆の抵抗運動に期待したが、イスラーム化したカラハン朝の進攻に対して頑強な抗戦は行われなかった<ref>バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、189頁</ref>。捕らえられたマリク2世は獄中で没し<ref>ロス、スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』、153頁</ref>、サーマーン朝はカラハン朝とガズナ朝に挟撃される形で滅亡した<ref>羽田「サーマーン朝」『岩波イスラーム辞典』、414頁</ref>。 |
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=== 滅亡後 === |
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サーマーン朝の王族{{仮リンク|イスマーイール・エル・ムンタジ|en|Isma'il Muntasir}}はイリク・ハンから逃れ、マリク2世の死後も抗戦を続けた。イスマーイールは[[オグズ]]の支援を受けてカラハン朝に勝利を収め、ガズナ朝に占領されていたニーシャープールの奪回に成功する<ref name="los160">ロス、スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』、160頁</ref>。[[1005年]]、イスマーイールは遊牧民によって殺害される<ref name="los160"/>。 |
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[[1007年]]にはサーマーン朝の残党が[[アムダリヤ川|アム川]]南方で再興を図ったが、ガズナ朝によって駆逐された<ref>ロス、スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』、153-154頁</ref>。 |
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== 社会 == |
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=== 行政機構 === |
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サーマーン朝はサーサーン朝<ref name="satoh"/>やアッバース朝<ref name="ceji-sa"/>の司法・行政を見本とし、よく整備された官僚制度と徴税システムを備えていた。また、サーマーン朝の君主はサーサーン朝の貴族の家計に連なることを強調した<ref>間野『中央アジアの歴史』、103頁</ref><ref name="shimizu">清水宏祐「イラン世界の変容」『西アジア史 2 イラン・トルコ』収録(永田雄三編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2002年8月)、69-70頁</ref>。 |
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王朝の経済力を支えたのは在地のイラン系領主(ディフカーン)であり、トルコ系遊牧民の軍人奴隷(グラーム、[[マムルーク]])が軍事力の基盤となっていた<ref name="satoh"/><ref>間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、84,89頁</ref>。政府には10の行政部局(ディーワーン)が存在し、ジャイハーニーやバルアミーら宰相によって行政機構は機能していた。[[ソグディアナ]]、フェルガナ、ホラーサーンからの税収が国の収入源となり<ref name="ceji-sa"/>、税収の約半分は軍隊と官僚機構の維持費に充てられていた<ref>濱田「「イスラーム化と「テュルク化」」」『中央ユーラシア史』、155-156頁</ref>。サーマーン朝の時代にディフカーンの衰退が進み、王朝を打倒したカラハン朝の時代にディフカーンの没落は決定的になる<ref>バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、190頁</ref>。 |
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=== 軍人奴隷 === |
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戦争捕虜などの形で北方の草原地帯から連行された遊牧民は、タシュケントなどの草原地帯とオアシス地帯の境界に位置する都市の奴隷市場で売買されていた<ref>間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、89頁</ref>。また、奴隷市場で売買されていたグラームの中には、王朝末期の有力者ファーイクのような[[イベリア半島]]出身者もいた<ref>バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、173頁</ref>。中央アジアと西アジアの境界である[[アムダリヤ川||アムダリヤ]]には関所が設置され、中央アジアから西アジアへのグラームの移動には通行許可証と通行量が要求されていた<ref>間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、90頁</ref>。 |
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系統立てられた教育を受け、さらに君主への忠誠と軍事力を兼ね備えていたグラームは、サーマーン朝の隆盛に大いに貢献した<ref>間野、中見、堀、小松『内陸アジア』、66-67頁</ref>。オアシス都市群の文化・経済力とグラームによる国家の発展は、定住民と遊牧民の協調によって生み出された成果とも言える<ref>間野、中見、堀、小松『内陸アジア』、67頁</ref>。独立を企てる地方領主はグラームによって制御されており<ref name="hamada156">濱田「「イスラーム化と「テュルク化」」」『中央ユーラシア史』、156頁</ref>、グラームの重要性はサーマーン朝の命運を左右するほど大きなものとなった<ref>間野『中央アジアの歴史』、106頁</ref>。 |
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サーマーン朝で行われていた軍人奴隷の養成システムは、[[13世紀]]に[[エジプト]]で成立した[[マムルーク朝]]の諸制度、[[オスマン帝国]]の[[カプクル]](宮廷奴隷)制度の起源になったと考えられている<ref>濱田「「イスラーム化と「テュルク化」」」『中央ユーラシア史』、157-158頁</ref>。 |
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=== 宗教 === |
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サーマーン朝は[[ハナフィー学派]]の信条を公的な教義としていた<ref name="hamada-ci22">濱田『中央アジアのイスラーム』、22頁</ref>。ハナフィー派の神学者ハーキム・サマルカンディーの著書『大衆の書』は、イスマーイール・サーマーニーの公認を受けていた<ref name="hamada-ci22"/>。 |
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サマルカンドではハーキム・サマルカンディーのほか、ハナフィー学派から分かれた[[マートゥリーディー派|マートゥリーディー学派]]の祖{{仮リンク|アブー・マンスール・マートゥリーディー|en|Abu Mansur Maturidi}}(873年以前 - [[944年]]?)が生まれている。マートゥリーディー学派はアシュアリー学派とともに、[[スンナ派]]の正統神学とみなされるようになる<ref>濱田『中央アジアのイスラーム』、20頁</ref>。また、ザーヒル・イブン・アフマド、アル=カッファールら法学者たちの活動によって、サーマーン朝統治下のホラーサーン北部とトルキスタンに[[シャーフィイー学派]]が広まった<ref>バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、160,163頁</ref>。 |
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サーマーン朝支配下の[[トルキスタン]]の都市には、[[ゾロアスター教|ゾロアスター教徒]]の共同体が存在していた<ref>バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、104頁</ref>。また、[[マニ教]]を信仰する人々も生活していた<ref>バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、115-116頁</ref>。サーマーン朝ではサマルカンドに住むマニ教徒に対する弾圧が計画されたが、マニ教を信仰する[[回鶻|トグズ・オグズ]]の指導者が自分たちの領地内のムスリムに報復を行うと脅迫したため、弾圧は中止された<ref>バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、179頁</ref>。 |
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== 経済 == |
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[[Image:Nasr II Nishapur coin 921 922.jpg|thumb|180px|ナスル2世の治世に鋳造された貨幣]] |
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9世紀末からイスマーイール・サーマーニーが行った北方の草原地帯への遠征によって、交易路が確立される<ref name="hamada155"/>。王朝が鋳造した独自の[[貨幣]]は、交易路を介して[[南ロシア]]<ref name="satoh"/>、[[バルト海]]沿岸部や[[北欧]]に広まり<ref>History of Bukhara, By Narshakhi trans. Richard N. Frye, 143頁</ref>、それらの地では貨幣が出土している。さらに、交易に携わる商人を介して、交易路上のテュルク系遊牧民の間にイスラームが広まった<ref name="hamada155"/>。サーマーン朝は遊牧民から馬や肉、皮革を輸入し、綿織物、毛織物、絹織物を輸出していた<ref>バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、166-167頁</ref>。 |
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また、国内の安定化は農業の発達に繋がったが、農村に利益は還元されなかった<ref name="mano-c93">間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、93頁</ref>。農村部の利益は都市部の支配者層や商人の元に吸い上げられ、彼らの活動が都市の経済を活性化させた<ref name="mano-c93"/>。 |
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=== 産業 === |
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前述のグラームの輸出がサーマーン朝の主要産業となっていた<ref name="hamada156"/>。市場で購入された奴隷は5年の間訓練を受け、中でも優秀な人物は君主の側近として登用され、部下と官職を与えられた<ref>濱田「「イスラーム化と「テュルク化」」」『中央ユーラシア史』、157頁</ref>。彼らはブハラ、サマルカンドといったサーマーン朝の中心都市からアッバース朝中央に至るまで西アジア全域に供給され、イスラーム世界の軍事力がマムルーク中心となる端緒をつくった<ref>間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、89,92頁</ref><ref>梅村坦「中央アジアのトルコ化」『中央アジア史』収録(竺沙雅章監修、間野英二責任編集, アジアの歴史と文化8, 同朋舎, 1999年4月)、79頁</ref>。 |
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西アジア世界ではグラームの購入によって多量のディルハム銀貨が東方イスラーム世界に流出したため、鋳造される銀貨の質が低下した<ref name="shimizu"/>。 |
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サーマーン朝を代表する工業製品として、ザンダニージュ織、サマルカンド紙が挙げられる<ref name="ceji-sa"/>。これらの製品は、西方のイスラーム文化と中央アジア文化の調和によって生まれたとも言える<ref name="ceji-sa"/>。 |
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== 文化 == |
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[[Image:Samanid mausoleum in Bukhara - 18-9-2004.jpg|thumb|160px|[[ブハラ]]郊外の[[イスマーイール・サーマーニー廟]]]] |
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サーマーン朝はイスラーム化前のイラン文化の復興を推進し、支配下の[[オアシス都市]]ではイラン・イスラム文化が発達した<ref>間野『中央アジアの歴史』、103-104頁</ref>。首都ブハラは学問の中心となり、[[ブハーリー]]、[[イブン・スィーナー]](アウィケンナ、アヴィセンナ)など、当時のイスラム世界を代表する知識人があらわれた<ref>間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、93頁</ref>。サーマーン朝統治下の中央アジアでは知識人を要請するための神学校([[マドラサ]])が設立され、国からの補助が与えられたマドラサと、異端に属する学派が運営する私立のマドラサが存在していた<ref>バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、134-135頁</ref>。 |
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サーマーン朝の治下では[[アラブ人]]の征服以来沈滞していたイラン文化がイスラームと結びついて再興し、[[アラビア語]]の語彙を取り入れ[[アラビア文字]]で表記する[[ペルシア語|近世ペルシア語]]が発展した<ref name="satoh"/><ref>間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、85頁</ref>。サーマーン朝ではホラーサーン様式(サブケ・ホラーサーニー)と呼ばれるペルシア語詩の文体が使用され<ref name="shimizu"/>、[[ルーダキー]]、{{仮リンク|ダキーキー|en|Abu-Mansur Daqiqi}}らの詩人を輩出した。また、中央アジア各地の方言を用いた詩作を試みる動きも見られた<ref>バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、66頁</ref>。詩作以外の活動の1つとしては、バルアミーによる[[タバリー]]の著書のペルシア語訳が挙げられる。 |
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一方では[[アラビア語]]による作詩や著述活動も続けられており、サーマーン朝は2つの言語が併用された状態にあった<ref>濱田「「イスラーム化と「テュルク化」」」『中央ユーラシア史』、158頁</ref>。文章語としては依然としてアラビア語が多く使われており<ref name="shimizu"/>、官庁で使われる用語はアラビア語で統一されていた<ref>前嶋『イスラムの時代 マホメットから世界帝国へ』、250頁</ref>。後世のイラン、トルキスタンでは、アラビア語は神学の分野でなおも存続した<ref>バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、67頁</ref>。 |
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また、サーマーン朝では[[数学]]、[[天文学]]などの[[自然科学]]も発達した<ref>濱田「「イスラーム化と「テュルク化」」」『中央ユーラシア史』、160頁</ref>。サーマーン朝末期には、イブン・スィーナー、[[アブー・ライハーン・アル・ビールーニー|ビールーニー]]というイスラム科学を代表する2人の学者が誕生した。 |
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サーマーン朝期のブハラの建造物の多くは、イスマーイール・サーマーニーの治世に建てられた<ref>ロス、スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』、145頁</ref>。ブハラにある、[[イスマーイール・サーマーニー廟]]の通称で知られるサーマーン家の廟は、中央アジア最古のイスラーム建築物と考えられている<ref name="ceji-is"/>。また、イスマーイールの治世には、遊牧民の襲来に備えて中央アジアのオアシス都市を囲んでいた[[土塁]]の建設と保持が中止された<ref>バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、75-77頁</ref>。 |
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== 歴代君主 == |
== 歴代君主 == |
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# [[アブド・アル=マリク2世]]([[999年]]) |
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== 脚注 == |
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== 参考文献 == |
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* 稲葉穣「サーマーン朝」『中央ユーラシアを知る事典』収録([[平凡社]], 2005年4月) |
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* [[勝藤猛]]「アルプ・テギン」『世界伝記大事典 世界編』1巻収録(桑原武夫編, [[ほるぷ出版]], 1980年12月) |
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* 佐藤圭四郎「サーマーン朝」『アジア歴史事典』4巻収録(平凡社, 1960年) |
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* [[羽田正]]「サーマーン朝」『岩波イスラーム辞典』収録([[岩波書店]], 2002年2月) |
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* 濱田正美「「イスラーム化と「テュルク化」」」『中央ユーラシア史』収録([[小松久男]]編, 新版世界各国史, [[山川出版社]], 2000年10月) |
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* 濱田正美『中央アジアのイスラーム』(世界史リブレット, 山川出版社, 2008年2月) |
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* [[前嶋信次]]『イスラムの時代 マホメットから世界帝国へ』(講談社学術文庫, 講談社, 2002年3月) |
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* [[間野英二]]『中央アジアの歴史』(講談社現代新書 新書東洋史8, [[講談社]], 1977年8月) |
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* 間野英二、中見立夫、堀直、小松久男『内陸アジア』(地域からの世界史, [[朝日新聞社]], 1992年7月) |
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* 間野英二「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』収録(竺沙雅章監修、間野英二責任編集, アジアの歴史と文化8,[[ 同朋舎]], 1999年4月) |
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* デニスン・ロス、ヘンリ・スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』(三橋冨治男訳, ユーラシア叢書, [[原書房]], 1976年) |
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* [[ワシーリィ・バルトリド|V.V.バルトリド]]『トルキスタン文化史』1巻(小松久男監訳, [[東洋文庫 (平凡社)|東洋文庫]], 平凡社, 2011年2月) |
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2013年6月26日 (水) 13:49時点における版
サーマーン朝(سامانيان Sāmāniyān, 873年 - 999年)は、中央アジア西南部のトランスオクシアナ(マーワラーアンナフル)とイラン東部のホラーサーンを支配したイラン系のイスラーム王朝。
首都はブハラ。中央アジア最古のイスラーム王朝の1つに数えられる[1]。ブハラ、サマルカンド、フェルガナ、チャーチュ(タシュケント)といったウズベキスタンに含まれる都市のほか、アフガニスタン北部、イラン東部のホラーサーン地方を支配した[2]。
サーマーン家の君主はアッバース朝の権威のもとでの地方太守の格であるアミールの称号を名乗り、アッバース朝のカリフの宗主権のもとで支配を行ったが、イスラーム世界において独立王朝が自立の証とする事業を行い、アッバース朝の東部辺境で勢力を振るった。
サーマーン朝の時代に東西トルキスタン、およびこれらの地に居住するトルコ系遊牧民のイスラーム化が進行した[1]。
英主イスマーイール・サーマーニーはウズベキスタンとタジキスタンで民族の英雄として高い評価が与えられ、タジキスタンの通貨単位であるソモニは、サーマーニーに由来している[3]。
歴史
成立の背景
サーマーン朝を開いたサーマーン家は、マーワラーアンナフルのイラン系土着領主(ディフカーン)の一族で、家名は8世紀前半にイスラームに改宗したサーマーン・フダーの名に由来する[4][5]。サーマーン・フダーはサーサーン朝時代の貴族の末裔であると考えられており[6]、またゾロアスター教の神官の家系の出身とも言われ[7]、ウマイヤ朝のホラーサーン総督アサド・イブン・アブドゥッラーによってイスラームに改宗したと伝えられている[8]。
サーマーンの息子アサドは、ホラーサーンから挙兵してアッバース朝のカリフ位を奪取したマアムーンに組みし、マアムーンを後援したターヒル朝の始祖でホラーサーン総督ターヒル・イブン・フサインによってマーワラーアンナフルの支配を委任されるようになった。819年ごろ、マアムーンはアサドの4人の息子たちであるヌーフ、アフマド、ヤフヤー、イルヤースのそれぞれにサマルカンド、フェルガナ、チャーチュ、ヘラートの各地域の支配権を正式に委任した[6]。827年には、アッバース朝統治下のアレクサンドリア総督にサーマーン家の人間が選ばれた[9]。
ターヒル朝の創始者であるターヒル・イブン=フサイン(ターヒル1世)がアッバース朝のホラーサーン総督に任命された後、サーマーン家はターヒル1世の地位を承認し、ターヒル朝では副総督の地位を獲得する[4]。ヌーフが子をもうけずに没した後、ターヒル1世はヌーフが有していた支配権をアフマドとヤフヤーに分割し、アフマドの子孫がサーマーン家の本家筋となった[4]。アフマドには7人の子がおり、長子のナスル・イブン=アフマド(ナスル1世)がアフマドの跡を継いだ。
サーマーン家の独立
こうしたイスラーム勢力の抗争のもとでサーマーン家は次第に勢力を高め、ターヒル朝が滅亡した873年を契機にナスル1世が自立する[8]。875年にアッバース朝第15代カリフ・ムウタミドからマーワラーアンナフル全域の支配権を与えられてサーマーン朝を開いた。ナスル1世は8世紀末に建国されたサッファール朝に対抗するため、ホラズム地方に勢力を広げ、サーマーン朝の基盤を築いた。
ナスル1世はサマルカンドを本拠に定め、874年末に[10]弟イスマーイール・サーマーニーを混乱状態に陥っていたブハラに総督として派遣した。イスマーイールはブハラの内乱を収め、この地を拠点としてホラーサーンの征服を進めた[4]。ナスルはブハラのイスマーイールに対して猜疑心を抱くようになり、885年に側近の進言を受けてイスマーイール討伐の軍を起こした[11]。ホラーサーン総督ラフィの仲裁によってナスルとイスマーイールの間に和平が成立し、イスマーイールは徴税官としてブハラに留まった[12]。
翌886年にイスマーイールの反乱を疑ったナスルはブハラ遠征の準備を進めるが、888年末にイスマーイールはナスルの軍を破り、彼を捕虜とした。イスマーイールは勝者であるにもかかわらずナスルを許し、心を打たれたナスルはイスマーイールを後継者に指名した[13]。ナスルはヒジュラ暦279年(892年 - 893年)に没するまでサマルカンドで君主として君臨し、イスマイールはブハラに駐屯していた[14]。
ナスルの死後、イスマーイールは首都をサマルカンドからブハラに移し、カリフ・ムウタディドからアミールの地位の継承を認められる。
最盛期
893年、イスマーイールは北方の草原に興ったテュルク系遊牧民の国家カラハン朝の支配下にあったタラスを征服し、多数の戦利品を獲得する。この時、イスマーイールが捕虜とした人物の中にはカラハン朝の妃が含まれ、町のキリスト教教会がモスクに改築されたと伝えられている[15]。以来サーマーン朝はイスラーム世界東部の防壁として、イスラームに帰依していない遊牧民の進攻を抑え、各地から異教徒との戦闘を使命とする信仰の戦士(ガーズィー)が集まった[16]。
他方、ブハラの南方ではサッファール朝が勢力を拡大しており、ムウタディドはサーマーン朝とサッファール朝が互いに争って勢力を弱めるように抗争を扇動していた[17]。900年にイスマーイールはバルフの戦いでサッファール朝の君主アムル・イブン・ライスに勝利し、王朝は最盛期を迎える[4]。イスマーイールは捕虜としたアムルをバグダードのムウタディドの元に送り、アムルはバグダードで幽閉されて生涯を終えた[17]。サッファール朝を破ったことで、サーマーン朝はカリフからマーワラーアンナフルとホラーサーンの支配を認められる[8]。
サーマーン朝は表面上はアッバース朝に従属の意思を示していたが、実際は独立国家としてイラン・中央アジアを統治していた[4][6]。946年にブワイフ朝がバグダードに入城するまでの間、慣例としてサーマーン朝の歴代君主はカリフへの貢納と引き換えにアミールの地位の承認を受けていた[6]。
王朝はニーシャープールに配置した総督を介して、南東のホラーサーン地方を支配した[8]。北東部ではトランスオクシアナの東限のスィル川を境にテュルク系の遊牧民からの防備に努める一方[8]、国境でテュルク系遊牧民の子弟を軍人奴隷(グラーム)として購入していた。サーマーン朝が遊牧民に対して実施した聖戦(ジハード)、草原地帯でのサーマーン朝王族、商人、学者、スーフィーの活動はテュルク系遊牧民のイスラームへの改宗を促した[18]。
王朝の最盛期は、イスマーイールから彼の孫のナスル2世の時代まで続いた[8]。
滅亡
ナスル2世の没後に王朝の衰退が進み[4]、ヌーフ1世の即位後に地主やグラームの権力闘争が激化する[8]。また、スィル川中流域はサーマーン朝の影響下に置かれていたが、上流域と下流域は依然としてテュルク系遊牧民の支配下に置かれていた[19]。
アブド・アル=マリク1世の治世では、グラーム出身の近衛隊長アルプテギーンが宮廷第一の実力者として権勢を誇っていた[20]。文人宰相として有名なバルアミーが、アルプテギーンの推挙によって宰相に起用される。961年(962年)にアブド・アル=マリク1世は、アルプテギーンを中央から遠ざけるためにホラーサーン総督に任命、同年にマリク1世は没する[20]。
マリク1世の弟マンスール1世がアミールに即位するが、アルプテギーンはマンスール1世の即位に反対した。アルプテギーンはバルフを経て南部のアフガニスタン方面に移動し、ガズナで自立してガズナ朝を開いた。マンスール1世はガズナに討伐隊を送るが、アルプテギーンを破ることはできなかった。ガズナ朝は名目上はサーマーン朝に臣従していたが、事実上独立しており、ホラーサーン地方の領主も半独立した状態にあった[21]。
一方、北方のカラハン朝は南下を開始し、980年にスィル川東岸のサイラムがカラハン朝の手に落ちた。ホラーサーン総督アブル・アリー・シムジェルとヘラート知事ファーイクはカラハン朝と内通し[22]、992年にサマルカンドとブハラがカラハン朝の手に落ちた。カラハン朝の君主アル=ハサンはブハラに入城するが、急病に罹り撤退した[23]。
ブハラに帰還したアミール・ヌーフ2世は、ガズナ朝のサブク・ティギーンに援助を求めた。サブク・ティギーンとその子マフムードはヘラート、ニーシャープール、トゥースの反乱を鎮圧し、ファーイクはカラハン朝に亡命した。しかし、ヌーフ2世とサブク・ティギーンの間に不和が生まれ、サブク・ティギーンはカラハン朝と講和を締結し、ファイクをサマルカンドの総督に任命した[24]。
997年、マンスール2世が新たなアミールとなる。マーワラーアンナフルはカラハン朝に浸食され、ホラーサーンはガズナ朝の君主となったマフムードに占領された。999年にマンスール2世は臣下のベクトゥズンに暗殺され、幼少のアブド・アル=マリク2世が即位する。カラハン朝のイリク・ハンはマリク2世の保護を名目にサーマーン朝の領土に進軍し、999年にブハラは陥落する。政府は民衆の抵抗運動に期待したが、イスラーム化したカラハン朝の進攻に対して頑強な抗戦は行われなかった[25]。捕らえられたマリク2世は獄中で没し[26]、サーマーン朝はカラハン朝とガズナ朝に挟撃される形で滅亡した[27]。
滅亡後
サーマーン朝の王族イスマーイール・エル・ムンタジはイリク・ハンから逃れ、マリク2世の死後も抗戦を続けた。イスマーイールはオグズの支援を受けてカラハン朝に勝利を収め、ガズナ朝に占領されていたニーシャープールの奪回に成功する[28]。1005年、イスマーイールは遊牧民によって殺害される[28]。
1007年にはサーマーン朝の残党がアム川南方で再興を図ったが、ガズナ朝によって駆逐された[29]。
社会
行政機構
サーマーン朝はサーサーン朝[4]やアッバース朝[8]の司法・行政を見本とし、よく整備された官僚制度と徴税システムを備えていた。また、サーマーン朝の君主はサーサーン朝の貴族の家計に連なることを強調した[30][31]。
王朝の経済力を支えたのは在地のイラン系領主(ディフカーン)であり、トルコ系遊牧民の軍人奴隷(グラーム、マムルーク)が軍事力の基盤となっていた[4][32]。政府には10の行政部局(ディーワーン)が存在し、ジャイハーニーやバルアミーら宰相によって行政機構は機能していた。ソグディアナ、フェルガナ、ホラーサーンからの税収が国の収入源となり[8]、税収の約半分は軍隊と官僚機構の維持費に充てられていた[33]。サーマーン朝の時代にディフカーンの衰退が進み、王朝を打倒したカラハン朝の時代にディフカーンの没落は決定的になる[34]。
軍人奴隷
戦争捕虜などの形で北方の草原地帯から連行された遊牧民は、タシュケントなどの草原地帯とオアシス地帯の境界に位置する都市の奴隷市場で売買されていた[35]。また、奴隷市場で売買されていたグラームの中には、王朝末期の有力者ファーイクのようなイベリア半島出身者もいた[36]。中央アジアと西アジアの境界である|アムダリヤには関所が設置され、中央アジアから西アジアへのグラームの移動には通行許可証と通行量が要求されていた[37]。
系統立てられた教育を受け、さらに君主への忠誠と軍事力を兼ね備えていたグラームは、サーマーン朝の隆盛に大いに貢献した[38]。オアシス都市群の文化・経済力とグラームによる国家の発展は、定住民と遊牧民の協調によって生み出された成果とも言える[39]。独立を企てる地方領主はグラームによって制御されており[40]、グラームの重要性はサーマーン朝の命運を左右するほど大きなものとなった[41]。
サーマーン朝で行われていた軍人奴隷の養成システムは、13世紀にエジプトで成立したマムルーク朝の諸制度、オスマン帝国のカプクル(宮廷奴隷)制度の起源になったと考えられている[42]。
宗教
サーマーン朝はハナフィー学派の信条を公的な教義としていた[43]。ハナフィー派の神学者ハーキム・サマルカンディーの著書『大衆の書』は、イスマーイール・サーマーニーの公認を受けていた[43]。
サマルカンドではハーキム・サマルカンディーのほか、ハナフィー学派から分かれたマートゥリーディー学派の祖アブー・マンスール・マートゥリーディー(873年以前 - 944年?)が生まれている。マートゥリーディー学派はアシュアリー学派とともに、スンナ派の正統神学とみなされるようになる[44]。また、ザーヒル・イブン・アフマド、アル=カッファールら法学者たちの活動によって、サーマーン朝統治下のホラーサーン北部とトルキスタンにシャーフィイー学派が広まった[45]。
サーマーン朝支配下のトルキスタンの都市には、ゾロアスター教徒の共同体が存在していた[46]。また、マニ教を信仰する人々も生活していた[47]。サーマーン朝ではサマルカンドに住むマニ教徒に対する弾圧が計画されたが、マニ教を信仰するトグズ・オグズの指導者が自分たちの領地内のムスリムに報復を行うと脅迫したため、弾圧は中止された[48]。
経済
9世紀末からイスマーイール・サーマーニーが行った北方の草原地帯への遠征によって、交易路が確立される[6]。王朝が鋳造した独自の貨幣は、交易路を介して南ロシア[4]、バルト海沿岸部や北欧に広まり[49]、それらの地では貨幣が出土している。さらに、交易に携わる商人を介して、交易路上のテュルク系遊牧民の間にイスラームが広まった[6]。サーマーン朝は遊牧民から馬や肉、皮革を輸入し、綿織物、毛織物、絹織物を輸出していた[50]。
また、国内の安定化は農業の発達に繋がったが、農村に利益は還元されなかった[51]。農村部の利益は都市部の支配者層や商人の元に吸い上げられ、彼らの活動が都市の経済を活性化させた[51]。
産業
前述のグラームの輸出がサーマーン朝の主要産業となっていた[40]。市場で購入された奴隷は5年の間訓練を受け、中でも優秀な人物は君主の側近として登用され、部下と官職を与えられた[52]。彼らはブハラ、サマルカンドといったサーマーン朝の中心都市からアッバース朝中央に至るまで西アジア全域に供給され、イスラーム世界の軍事力がマムルーク中心となる端緒をつくった[53][54]。
西アジア世界ではグラームの購入によって多量のディルハム銀貨が東方イスラーム世界に流出したため、鋳造される銀貨の質が低下した[31]。
サーマーン朝を代表する工業製品として、ザンダニージュ織、サマルカンド紙が挙げられる[8]。これらの製品は、西方のイスラーム文化と中央アジア文化の調和によって生まれたとも言える[8]。
文化
サーマーン朝はイスラーム化前のイラン文化の復興を推進し、支配下のオアシス都市ではイラン・イスラム文化が発達した[55]。首都ブハラは学問の中心となり、ブハーリー、イブン・スィーナー(アウィケンナ、アヴィセンナ)など、当時のイスラム世界を代表する知識人があらわれた[56]。サーマーン朝統治下の中央アジアでは知識人を要請するための神学校(マドラサ)が設立され、国からの補助が与えられたマドラサと、異端に属する学派が運営する私立のマドラサが存在していた[57]。
サーマーン朝の治下ではアラブ人の征服以来沈滞していたイラン文化がイスラームと結びついて再興し、アラビア語の語彙を取り入れアラビア文字で表記する近世ペルシア語が発展した[4][58]。サーマーン朝ではホラーサーン様式(サブケ・ホラーサーニー)と呼ばれるペルシア語詩の文体が使用され[31]、ルーダキー、ダキーキーらの詩人を輩出した。また、中央アジア各地の方言を用いた詩作を試みる動きも見られた[59]。詩作以外の活動の1つとしては、バルアミーによるタバリーの著書のペルシア語訳が挙げられる。
一方ではアラビア語による作詩や著述活動も続けられており、サーマーン朝は2つの言語が併用された状態にあった[60]。文章語としては依然としてアラビア語が多く使われており[31]、官庁で使われる用語はアラビア語で統一されていた[61]。後世のイラン、トルキスタンでは、アラビア語は神学の分野でなおも存続した[62]。
また、サーマーン朝では数学、天文学などの自然科学も発達した[63]。サーマーン朝末期には、イブン・スィーナー、ビールーニーというイスラム科学を代表する2人の学者が誕生した。
サーマーン朝期のブハラの建造物の多くは、イスマーイール・サーマーニーの治世に建てられた[64]。ブハラにある、イスマーイール・サーマーニー廟の通称で知られるサーマーン家の廟は、中央アジア最古のイスラーム建築物と考えられている[3]。また、イスマーイールの治世には、遊牧民の襲来に備えて中央アジアのオアシス都市を囲んでいた土塁の建設と保持が中止された[65]。
歴代君主
- ナスル1世(875年 - 892年)
- イスマーイール・サーマーニー(892年 - 907年)
- アフマド(907年 - 914年)
- ナスル2世(914年 - 943年)
- ヌーフ1世(943年 - 954年)
- アブド・アル=マリク1世(954年 - 961年)
- マンスール1世(961年 - 976年)
- ヌーフ2世(976年 - 997年)
- マンスール2世(997年 - 999年)
- アブド・アル=マリク2世(999年)
脚注
- ^ a b 間野、中見、堀、小松『内陸アジア』、68頁
- ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、63頁
- ^ a b 帯谷知可「イスマーイール・サーマーニー」『中央ユーラシアを知る事典』収録(平凡社, 2005年4月)、54-55頁
- ^ a b c d e f g h i j k 佐藤「サーマーン朝」『アジア歴史事典』4巻、58-59頁
- ^ 間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、84頁
- ^ a b c d e f 濱田「「イスラーム化と「テュルク化」」」『中央ユーラシア史』、155頁
- ^ 前嶋『イスラムの時代 マホメットから世界帝国へ』、247頁
- ^ a b c d e f g h i j k 稲葉「サーマーン朝」『中央ユーラシアを知る事典』、216-217頁
- ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、128頁
- ^ 前嶋『イスラムの時代 マホメットから世界帝国へ』、248頁
- ^ ロス、スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』、139-140頁
- ^ ロス、スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』、140頁
- ^ 前嶋『イスラムの時代 マホメットから世界帝国へ』、248-249頁
- ^ ロス、スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』、141頁
- ^ 間野『中央アジアの歴史』、117頁
- ^ 前嶋『イスラムの時代 マホメットから世界帝国へ』、249頁
- ^ a b ロス、スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』、144頁
- ^ 間野『中央アジアの歴史』、119-120頁
- ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、177頁
- ^ a b 勝藤「アルプ・テギン」『世界伝記大事典 世界編』1巻収録(桑原武夫編, ほるぷ出版, 1980年12月)、262-263頁
- ^ ロス、スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』、147頁
- ^ ロス、スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』、151-152頁
- ^ 間野『中央アジアの歴史』、107頁
- ^ ロス、スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』、152頁
- ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、189頁
- ^ ロス、スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』、153頁
- ^ 羽田「サーマーン朝」『岩波イスラーム辞典』、414頁
- ^ a b ロス、スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』、160頁
- ^ ロス、スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』、153-154頁
- ^ 間野『中央アジアの歴史』、103頁
- ^ a b c d 清水宏祐「イラン世界の変容」『西アジア史 2 イラン・トルコ』収録(永田雄三編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2002年8月)、69-70頁
- ^ 間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、84,89頁
- ^ 濱田「「イスラーム化と「テュルク化」」」『中央ユーラシア史』、155-156頁
- ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、190頁
- ^ 間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、89頁
- ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、173頁
- ^ 間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、90頁
- ^ 間野、中見、堀、小松『内陸アジア』、66-67頁
- ^ 間野、中見、堀、小松『内陸アジア』、67頁
- ^ a b 濱田「「イスラーム化と「テュルク化」」」『中央ユーラシア史』、156頁
- ^ 間野『中央アジアの歴史』、106頁
- ^ 濱田「「イスラーム化と「テュルク化」」」『中央ユーラシア史』、157-158頁
- ^ a b 濱田『中央アジアのイスラーム』、22頁
- ^ 濱田『中央アジアのイスラーム』、20頁
- ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、160,163頁
- ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、104頁
- ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、115-116頁
- ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、179頁
- ^ History of Bukhara, By Narshakhi trans. Richard N. Frye, 143頁
- ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、166-167頁
- ^ a b 間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、93頁
- ^ 濱田「「イスラーム化と「テュルク化」」」『中央ユーラシア史』、157頁
- ^ 間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、89,92頁
- ^ 梅村坦「中央アジアのトルコ化」『中央アジア史』収録(竺沙雅章監修、間野英二責任編集, アジアの歴史と文化8, 同朋舎, 1999年4月)、79頁
- ^ 間野『中央アジアの歴史』、103-104頁
- ^ 間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、93頁
- ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、134-135頁
- ^ 間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、85頁
- ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、66頁
- ^ 濱田「「イスラーム化と「テュルク化」」」『中央ユーラシア史』、158頁
- ^ 前嶋『イスラムの時代 マホメットから世界帝国へ』、250頁
- ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、67頁
- ^ 濱田「「イスラーム化と「テュルク化」」」『中央ユーラシア史』、160頁
- ^ ロス、スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』、145頁
- ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、75-77頁
参考文献
- 稲葉穣「サーマーン朝」『中央ユーラシアを知る事典』収録(平凡社, 2005年4月)
- 勝藤猛「アルプ・テギン」『世界伝記大事典 世界編』1巻収録(桑原武夫編, ほるぷ出版, 1980年12月)
- 佐藤圭四郎「サーマーン朝」『アジア歴史事典』4巻収録(平凡社, 1960年)
- 羽田正「サーマーン朝」『岩波イスラーム辞典』収録(岩波書店, 2002年2月)
- 濱田正美「「イスラーム化と「テュルク化」」」『中央ユーラシア史』収録(小松久男編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2000年10月)
- 濱田正美『中央アジアのイスラーム』(世界史リブレット, 山川出版社, 2008年2月)
- 前嶋信次『イスラムの時代 マホメットから世界帝国へ』(講談社学術文庫, 講談社, 2002年3月)
- 間野英二『中央アジアの歴史』(講談社現代新書 新書東洋史8, 講談社, 1977年8月)
- 間野英二、中見立夫、堀直、小松久男『内陸アジア』(地域からの世界史, 朝日新聞社, 1992年7月)
- 間野英二「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』収録(竺沙雅章監修、間野英二責任編集, アジアの歴史と文化8,同朋舎, 1999年4月)
- デニスン・ロス、ヘンリ・スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』(三橋冨治男訳, ユーラシア叢書, 原書房, 1976年)
- V.V.バルトリド『トルキスタン文化史』1巻(小松久男監訳, 東洋文庫, 平凡社, 2011年2月)