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「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の版間の差分

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[[File:Firma_de_Leonardo_Da_Vinci.svg|thumb|282px|レオナルドのサイン]]
'''レオナルド・ダ・ヴィンチ''' ({{lang|it|Leonardo da Vinci}}, [[1452年]][[4月15日]] - [[1519年]][[5月2日]] [[ユリウス暦]])は[[イタリア]]の[[ルネサンス]]期を代表する[[芸術家]]で、'''万能人''' ({{lang|it|uomo universale}}, ウォモ・ウニヴェルサーレ) などと呼ばれている。
'''レオナルド・ダ・ヴィンチ''' ({{lang-it-short|Leonardo da Vinci}}、{{IPA-it|leoˈnardo da ˈvintʃi}} {{Audio|it-Leonardo di ser Piero da Vinci.ogg|発音}})[[1452年]][[4月15日]] - [[1519年]][[5月2日]]([[ユリウス暦]]))は[[イタリア]]の[[ルネサンス|ルネサンス期]]を代表する[[芸術家]]。本名はレオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ ({{lang|it|Leonardo di ser Piero da Vinci}}) で、絵画、彫刻、建築、音楽、科学、数学、工学、発明、解剖学、地学、地誌学、植物学など様々な分野に顕著な業績を残し、「'''万能人''' ({{lang|it|uomo universale}})」 などと呼ばれている。


<!-- NOTE The following paragraph is about HISTORIC OPINION not POV. It does not contravene Wiki policy, even though it uses words like "archetype", "greatest" and "most". It states how Leonardo has been DESCRIBED and CONSIDERED for 500 years. It cites 8 references which make these statements. -->
本名は'''レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ''' ({{lang|it|Leonardo di ser Piero da Vinci}})。
レオナルドはルネサンス期を代表する[[博学者]]であり、「飽くなき探究心」と「尽きることのない独創性」を兼ね備えた人物といわれている<ref name=HG>{{Cite book|first=Helen|last=Gardner|title=Art through the Ages|year=1970|pages= 450 - 456}}</ref>。史上最高の画家の一人とされているとともに、おそらくは人類史上もっとも多才な人物である<ref name=genius>Vasari, Boltraffio, Castiglione, "Anonimo" Gaddiano, Berensen, Taine, Fuseli, Rio, Bortolon.</ref>。アメリカ人美術史家ヘレン・ガードナー ([[:en:Helen Gardner (art historian)|en:Helen Gardner]]) は、レオナルドが関心を持っていた領域分野の広さと深さは空前のもので「レオナルドの知性と性格は超人的、神秘的かつ隔絶的なものである」とした<ref name=HG/>。しかしながらマルコ・ロッシは、レオナルドに関して様々な考察がなされているが、レオナルドのものの見方は神秘的などではなく極めて論理的であり、その実証的手法が時代を遥かに先取りしていたのであるとしている<ref>
{{Cite book
|first=Marco
|last=Rosci
|title=Leonardo
|year=1977
|page= 8
}}</ref>。


レオナルドは、公証人セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチと農夫の娘カテリーナとの間に非嫡出子として[[フィレンツェ共和国]]の[[ヴィンチ]]に生まれた。当時有名だったフィレンツェの画家[[アンドレア・デル・ヴェロッキオ|ヴェロッキオ]]の工房に弟子入りし、画家としてのキャリア初期には[[ミラノ公国|ミラノ公]][[ルドヴィーコ・スフォルツァ]]に仕えている。その後、[[ローマ]]、[[ボローニャ]]、[[ヴェネツィア]]などで活動し、晩年は[[フランス君主一覧|フランス王]][[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]に下賜されたフランスの邸宅で過ごした。
[[絵画]]、[[彫刻]]、[[建築]]、[[土木]]、[[人体]]、その他の[[科学技術]]に通じ、極めて広い分野に足跡を残している。『[[最後の晩餐 (レオナルド)|最後の晩餐]]』や『[[モナ・リザ]]』などの精巧な[[絵画]]は盛期ルネサンスを代表する作品になっている。膨大な手稿を残しており、その中には[[航空]]についてのアイデアも含まれていた。

<!---さらに[[解剖学]]や[[天文学]]、[[土木工学]]の発展にも貢献した。 【?どの程度貢献したのか。そもそも知られてなかったのでは....?】--->
レオナルドは多才な人物だったが、存命中から現在にいたるまで、画家としての名声がもっとも高い<ref name=genius/>。とくに、その絵画作品中もっとも有名でもっとも多くのパロディ画が制作された肖像画『[[モナ・リザ]]』と<ref>John Lichfield, ''[http://www.independent.co.uk/news/world/europe/the-moving-of-the-mona-lisa-6149165.html The Moving of the Mona Lisa]'', The Independent, 2005-04-02 (accessed 2012-04-24)</ref>、もっとも多くの複製画や模写が描かれた宗教画『[[最後の晩餐 (レオナルド)|最後の晩餐]]』に比肩しうる絵画作品は、[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]が描いた『[[アダムの創造]]』以外には存在しないといわれている<ref name=HG/>。また、[[デッサン|ドローイング]]の『[[ウィトルウィウス的人体図]]』も文化的象徴 ([[:en:cultural icon]]) と見なされており<ref>Vitruvian Man is referred to as "iconic" at the following websites and many others:[http://www.italian-renaissance-art.com/Vitruvian-Man.html Vitruvian Man], [http://artpassions.com/art/1109-Fine-Art-Classics/0000067329-Leonardo-Da-Vinci-Vitruvian-Man.html Fine Art Classics], [http://www.timeshighereducation.co.uk/story.asp?storyCode=403230&sectioncode=26 Key Images in the History of Science]; [http://www.ingenious.org.uk/read/identity/bodyimage/Curiosityanddifference/ Curiosity and difference]; [http://www.guardian.co.uk/artanddesign/2006/aug/30/art1 The Guardian: The Real da Vinci Code]</ref>、イタリアの1ユーロ硬貨、教科書、Tシャツなど様々な製品に用いられている。現存するレオナルドの絵画作品は15点程度といわれており決して多くはない。これは、レオナルドが完全主義者で何度も自身の作品を破棄したこと、新たな技法の実験に時間をかけていたこと、ひとつの作品を完成させるまでに長年にわたって何度も手を加える習慣があったことなどによる<ref group="注">作品全体、あるいは作品の大部分をレオナルドが描いたと、ほとんどの美術史家に認められている現存するレオナルドの絵画作品は15点である。その多くが木の板に描かれた[[板絵]]だが、[[壁画]]、大規模なドローイング、そして絵画制作の下準備として描かれた下絵2点も、絵画作品15点の中に含まれている。絵画以外でレオナルド自身の手によるとされている作品は数多い。</ref>。それでもなお、絵画作品、レオナルドが残したドローイングや科学に関するイラストが描かれた[[レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿|手稿]]、絵画に対する信念などは後世の芸術家へ多大な影響を与えた。このようなレオナルドに匹敵する才能の持ち主だとされたのは、同時代人でレオナルドよりも20歳余り年少の[[ミケランジェロ]]だけであった。

レオナルドは科学的創造力の面でも畏敬されている<ref name=genius/>。[[ヘリコプター]]や[[戦車]]の概念化、[[太陽エネルギー]]や計算機の理論<ref>
{{cite web
|url=http://192.220.96.166/leonardo/leonardo.html
|title=The Controversial Replica of Leonardo's Adding Machine
|accessdate=2010-12-22
}}</ref>、二重船殻構造 ([[:en:double hull]]) の研究、さらには初歩の[[プレートテクトニクス|プレートテクトニクス理論]]も理解していた。レオナルドが構想、設計したこれらの科学技術のうち、レオナルドの存命中に実行に移されたものは僅かだったが<ref group="注">レオナルドの構想に必要とされる[[金属工学]]や科学技術は、ルネサンス時代にはほとんど存在していなかった。</ref>、自動糸巻器、針金の強度検査器といった小規模なアイディアは実用化され、製造業の黎明期をもたらした<ref group="注">レオナルドが構想した実用的アイディアの多くが、ヴィンチのレオナルド博物館で展示されている。</ref>。また、[[解剖学]]、[[土木工学]]、[[光学]]、[[流体力学]]の分野でも重要な発見をしていたが、レオナルドがこれらの発見を公表しなかったために、後世の科学技術の発展に直接の影響を与えることはなかった<ref>Capra, pp.5–6</ref>。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 幼少期、1452年から1466年 ===
[[ファイル:Leonardo_da_Vinci.jpeg|200px|thumb|left|レオナルド・ダ・ヴィンチ]]
[[ファイル:Pcs34560_IMG_2133.JPG|200px|thumb|left|レオナルド・ダ・ヴィンチ]]
[[File:Vinci casa Leonardo.jpg|thumb|[[ヴィンチ]]にあるレオナルドが幼少期を過ごした家。]]
レオナルドは1452年4月15日([[ユリウス暦]])の「日没3時間後」{{refnest |group = "注" |レオナルドの出生は、父方の祖父セル・アントーニオの日記に「4月15日土曜日の、日が暮れてから3時間後に孫が生まれた」と記録されている(Angela Ottino della Chiesa in ''Leonardo da Vinci'', and Reynal & Co., ''Leonardo da Vinci'' (William Morrow and Company, 1956))。この日記に記されている日付はユリウス暦で、現在の[[グレゴリオ暦]]に直すとこの時期のフィレンツェの日没は午後6時40分で、日没後3時間は午後9時40分ごろということになる。当時の一日の概念は日没から翌日の日没までだったため、日記に記されている4月15日という日付は、現代でいえば4月14日ということになる。この日付を現代の暦に換算すると、レオナルドの誕生日は4月23日である<ref name=AV/>。}}に、[[トスカーナ州|トスカーナ]]のヴィンチに生まれた。ヴィンチは[[アルノ川]]下流に位置する村で、[[メディチ家]]が支配する[[フィレンツェ共和国]]に属していた<ref name= SerA>His birth is recorded in the diary of his paternal grandfather Ser Antonio, as cited by Angela Ottino della Chiesa in ''Leonardo da Vinci'', p. 83</ref>。父はフィレンツェの裕福な公証人セル(メッセル)・ピエロ・フルオジーノ・ディ・アントーニオ・ダ・ヴィンチで、母は農夫の娘カテリーナである<ref name=AV>
レオナルドは[[1452年]][[4月15日]]、[[イタリア]]の[[トスカーナ]]にある[[ヴィンチ]]村で生まれた。生家は現存する。ヴィンチ家は[[13世紀]]より続くヴィンチ村では名の通った血筋で、父セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ (Ser Piero da Vinci) は[[公証人]]を務め、家は裕福であった。
{{Cite book
|first=Alessandro
|last=Vezzosi
|title=Leonardo da Vinci: Renaissance Man|year=1997
}}</ref>
<ref name=Chiesa83>
{{Cite book
|first=Angela Ottino
|last=della Chiesa
|title=The Complete Paintings of Leonardo da Vinci
|year=1967
|page=83}}</ref>
{{refnest |group = "注"
|レオナルドの母親カテリーナは、中東あるいは「地中海沿岸地方」の出身の農奴階級だといわれることがある。ヴィンチのレオナルド博物館館長アレッサンドロ・ヴェゾーシは、レオナルドの父親ピエロがカテリーナという名前の、中東出身の農奴を所有していた証拠の存在を指摘している。レオナルドが中東の血を引いているという説は、レオナルドの指紋をその作品から復元することに成功したマルタ・ファルコーニが支持している<ref>
{{Cite news
|first=Marta
|last=Falconi
|agency= Associated Press
|publisher=Fox
|place=USA
|url=http://www.foxnews.com/wires/2006Dec01/0,4670,LeonardoapossFingerprint,00.html|title=Experts Reconstruct Leonardo Fingerprint
|date=2006-12-12
|accessdate=2010-01-06
|edition=News
|origyear=2006-12-1
}}</ref>。ファルコーニは、中東に起源を持つ人々の60%に見られる渦巻状の指紋のパターンが、レオナルドの指紋にも存在すると主張している。ただし、このレオナルドが中東人種の血を引いているという説を否定する研究者も存在する。[[カリフォルニア大学]]アーヴァイン校の犯罪社会学准教授サイモン・コールは「わずか1本の指から採取された指紋で、その人物の人種を推測することは不可能だ」としている。
}}。


レオナルドの「姓」であるダ・ヴィンチは、「ヴィンチ(出身)の」とを意味する。出生名の「レオナルド・ディ・セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ」は、「ヴィンチ(出身)のセル(父親メッセルの略称)の(息子の)レオナルド」という意味となる<ref name=SerA/>。セル(メッセル ({{lang|it|Messer}})) は敬称であり、レオナルドの父親が紳士階級に属していたことを表している。
母カテリーナ (Caterina) は農民あるいは木こりの娘といわれ、詳細は分かっていないが、ヴィンチ家に頻繁に出入りしていたとされる。父とカテリーナに婚姻関係は無い。しかし、「レオナルド・ダ・ヴィンチ」という名前が与えられたことと、祖父アントーニオの日記に生まれた様子が詳細に記載されていることから、私生児とはいえレオナルドが望まれない子供であった可能性は低い。カテリーナはレオナルド出産の数ヵ月後にアントーニオ・ディ・ピエーロ・デル・ヴァッカ・ダ・ヴィンチに嫁いでいる。父セル・ピエーロも同時期にフィレンツェ出身のアルビエーラと結婚した。


[[File:Study of a Tuscan Landscape.jpg|thumb|left|現在知られている、レオナルドが描いた最初期のドローイング、[[ウフィツィ美術館]]([[マドリード]])。]]
幼少期のレオナルドは、原因は不明だが正当な教育を受けず、自然とともに暮らしていた。当時から左手で鏡文字を書いたと言われるが、これは彼が読み書きの教育を受けなかったためともされる。この時期に、自由奔放な性格だったと言われる叔父から影響を受けたと指摘されている。彼の文字の癖は、父の公証人という仕事を継ぐことに大きな障害となった(当時、私生児は公証人になれないという規定があったため父の仕事を継げなかったという説もある)。
レオナルドの幼少期についてはほとんど伝わっていない。生まれてから5年をヴィンチの村落で母親と共に暮らし、1457年からは父親、祖父母、叔父フランチェスコと、ヴィンチの都市部で過ごした。レオナルドの父親セル・ピエロは、レオナルドが生まれて間もなくアルビエラという名前の16歳の娘と結婚しており、レオナルドとこの義母の関係は良好だったが、義母は若くして死去してしまっている<ref name="LB">
{{Cite book
|first = Liana
|last = Bortolon
|title=The Life and Times of Leonardo
|publisher=Paul Hamlyn
|publication-place=London
|year=1967
}}</ref>。レオナルドが16歳のときに、父親が20歳の娘フランチェスカ・ランフレディーニと再婚したが、セル・ピエロに嫡出子が誕生したのは、3回目と4回目の結婚時のことだった<ref>Rosci, p. 20.</ref>。
レオナルドは、正式にではなかったがラテン語、幾何学、数学の教育を受けた。後にレオナルドは幼少期の記憶として二つの出来事を記している。ひとつはレオナルド自身が何らかの神秘体験と考えていた記憶で、ハゲワシが空から舞い降り、子供用ベッドで寝ていたレオナルドの口元をその尾で何度も打ち据えたというものである<ref>Rosci, p. 21.</ref>。もうひとつの記憶は、山を散策していたレオナルドが洞窟を見つけたとときのものである。レオナルドは、洞窟の中に潜んでいるかもしれない化け物に怯えながらも、洞窟の内部はどのようになっているのだろうかという好奇心で一杯になったと記している<ref name=LB/>。


レオナルドの幼少期は様々な推測の的となっている。<ref>{{cite book
確証には欠けるが、レオナルドは14から16歳の間に[[フィレンツェ]]へ移ったとされる。画家見習いとして[[アンドレア・デル・ヴェロッキオ]]の工房に弟子入りし、[[サンドロ・ボッティチェッリ|ボッティチェッリ]]らと共に学んだ。この工房でヴェロッキオの絵画『キリストの洗礼』の一部を描いたが、その出来は師匠ヴェロッキオを驚愕させ、以後ヴェロッキオは一切筆をもたなくなったという逸話がある。レオナルドに嫉妬したという説もあるが、工房の絵画部門は彼に任せて本業である彫刻に専念した、というのが真相らしい。
|last=Brigstoke
|first=Hugh
|title=The Oxford Companion the Western Art
|location=Oxford, ENG, UK
|year= 2001
}}</ref>。16世紀の画家で、ルネサンス期の芸術家たちの伝記『[[画家・彫刻家・建築家列伝]]』を著した[[ジョルジョ・ヴァザーリ]]は、レオナルドの幼少期について次のように記述している。小作農の家で育ったレオナルドに、あるとき父親セル・ピエロが絵を描いてみるように勧めた。レオナルドが描いたのは口から火を吐く化け物の絵で、気味悪がったセル・ピエロはこの絵をフィレンツェの画商に売り払い、さらに画商からミラノ公の手に渡った。レオナルドの描いた絵で利益を手にしたセル・ピエロは、矢がハートに突き刺さった装飾のある楯飾りを購入し、レオナルドを育てた小作人へ贈った<ref>{{cite book
|last=Vasari
|first=Giorgio
|title=Lives of the Artists
|year=1568
|publisher= Penguin Classics
|pages=258–9
}}</ref>。


=== ヴェロッキオの工房時代、1466年 - 1476年 ===
[[1472年]]にフィレンツェで画家組合「[[聖ルカ組合]]」に登録されている。
[[File:Andrea del Verrocchio 002.jpg|thumb|left|220px|[[アンドレア・デル・ヴェロッキオ|ヴェロッキオ]]とレオナルドが描いた『キリストの洗礼』、1472年 - 1475年、[[ウフィツィ美術館]](マドリード)。]]
1466年に、14歳だったレオナルドは「フィレンツェでもっとも優れた」工房のひとつを主宰していた芸術家[[アンドレア・デル・ヴェロッキオ|ヴェロッキオ]]に弟子入りした<ref name="Rosci">Rosci, p.13</ref>。ヴェロッキオの弟子、あるいは協業関係にあった有名な芸術家として、[[ドメニコ・ギルランダイオ]]、[[ピエトロ・ペルジーノ|ペルジーノ]]、[[サンドロ・ボッティチェッリ|ボッティチェッリ]]、[[ロレンツォ・ディ・クレディ]]らがいる<ref name=LB/><ref name=DA/>。レオナルドはこの工房で、理論面、技術面ともに目覚しい才能を見せた<ref>Rosci, p.27</ref>。レオナルドの才能は、ドローイング、絵画、彫刻といった芸術分野だけでなく、設計分野、化学、冶金学、金属加工、石膏鋳型鋳造、皮細工、機械工学、木工など、様々な分野に及んでいた<ref name=AM>
{{Cite book
|first=Andrew
|last=Martindale
|year=1972
|title=The Rise of the Artist
}}</ref>。


ヴェロッキオの工房で製作される絵画のほとんどは、弟子や工房の雇われ画家による作品だった。ヴァザーリはその著書で『キリストの洗礼』 ([[:en:The Baptism of Christ (Verrocchio)|en:The Baptism of Christ]]) はヴェロッキオとレオナルドの合作で、レオナルドが受け持った箇所は、キリストのローブを捧げ持つ幼い天使であるとしている。そして、弟子レオナルドの技量があまりに優れていたために、師ヴェロッキオは二度と絵画を描くことはなかったと記されている<ref>Vasari, p.258</ref><ref group="注">ヴェロッキオが絵画制作を中止したこととレオナルドは無関係で、単にヴェロッキオが彫刻作品に専念するためだったという説もある。</ref>。『キリストの洗礼』は[[テンペラ]]で描かれた絵画の上から、当時の新技法だった[[油彩]]で加筆された作品であり、近代の分析によると、風景、岩、キリストの大部分などもレオナルドの手によるものだといわれている<ref>della Chiesa, p.88</ref>。また、レオナルドはヴェロッキオの美術作品2点のモデルになったともいわれている。それらの作品は、フィレンツェの[[バルジェロ美術館]]が所蔵するブロンズ彫刻『ダヴィデ』 ([[:en:David (Verrocchio)]]) と、[[ロンドン]]の[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]が所蔵する『トビアスと天使』 ([[:en:Tobias and the Angel (Verrocchio)]]) に描かれている[[ラファエル|大天使ラファエル]]である<ref name=Chiesa83/>。
[[1482年]]から[[1499年]]にかけて、レオナルドは[[ミラノ]]公[[ルドヴィーコ・スフォルツァ]](イル・モーロ)に仕えながら、自分の工房を開いて独立した。レオナルドはイル・モーロから巨大な[[スフォルツァ騎馬像]]の制作を依頼されたが、戦争が迫ったため騎馬像のための銅が大砲の製造に転用されてしまい、計画は頓挫した。レオナルドはミラノで、ジャコモという非常に美しい少年を引き取った。ジャコモには盗癖があったが、レオナルドはサライ (Salai, 子悪魔) の愛称をつけてかわいがったという。


レオナルドは20歳になる1472年までに、[[聖ルカ組合]]からマスター(親方)の資格を得ている。レオナルドが所属していた聖ルカ組合は、芸術だけでなく医学も対象とした[[ギルド]]だった{{refnest |group = "注"
[[1499年]]10月、[[ルイ12世 (フランス王)|ルイ12世]]率いるフランス軍が侵攻すると、イル・モーロは逃亡し、ミラノは戦わずに陥落した。レオナルドはミラノに留まったが、フランス軍の射手が<!---等身大の?--->騎馬像の粘土原型<!--- "Gran Cavallo" --->を練習の的にしているのを知り、ミラノを離れることにした。[[1500年]]、弟子のサライや友人の[[ルカ・パチョーリ]]と共に[[マントヴァ]]へ行き、2か月後には[[ヴェネツィア]]に、暮れにはフィレンツェに戻った。
|1472年以前からレオナルドがこの聖ルカ組合に所属していたことは、現存する1472年から1520年のかけてのギルドの支払記録からもほぼ確実視されている<ref name=Chiesa83/>。
}}。その後、父親セル・ピエロがレオナルドに工房を与えてヴェロッキオから独立させ、レオナルドはヴェロッキオとの協業関係を継続していった<ref name=LB/>。制作日付が知られているレオナルドの最初期の作品は、1473年8月5日に、ペンとインクでアルノ渓谷を描いたドローイングである<ref group="注">このドローイングは、[[マドリード]]の[[ウフィツィ美術館]]が所蔵している。Drawing No. 8P.</ref><ref name= DA/>。
{{-}}


=== 円熟期、1476年 - 1513年 ===
[[1502年]]8月から、レオナルドは教皇軍総指揮官[[チェーザレ・ボルジア]](教皇[[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンデル6世]]の庶子)の[[軍事顧問]]兼技術者として働いた。しかし8ヶ月程度でフィレンツェに戻り、[[アルノ川]]の水路変更計画や、[[ヴェッキオ宮殿]]の壁画・[[アンギアーリの戦い (絵画)|アンギアーリの戦い]](未完)などの仕事に従事した。
[[File:Leonardo da Vinci - Adorazione dei Magi - Google Art Project.jpg|thumb|250px|『東方三博士の礼拝』(1481年、ウフィツィ美術館(マドリード))。未完成のこの作品には、多くの人々に囲まれた聖母子が描かれている。遠景には風景と崩壊した建物が表現され、聖母子のほうへとやってくる多くの人々が描かれている。]]
1476年のフィレンツェの裁判記録に、レオナルド他3名の青年が[[同性愛]]の容疑をかけられたが放免されたというものがある<ref name=Chiesa83/><ref group="注">ルネサンス期のフィレンツェでは、同性愛は法的に禁止されていた。</ref>。この1476年以降、1478年になるまで、レオナルドの作品や居住地に関する記録が残っていない<ref name="everything">
{{Cite book
|title=The Everything Da Vinci Book
|first=Shana
|last=Priwer
|first2= Cynthia
|last2=Phillips
|year=2006
|page=245
}}</ref>。1478年にレオナルドは、ヴェロッキオとの共同制作を中止し、父親の家からも出て行った。アノニモ・ガッディアーノという正体不明の人物が、1480年にレオナルドがメディチ家の庇護を受けており、フィレンツェのサン・マルコ広場庭園で[[ネオプラトニズム|新プラトン主義者]]の芸術家、詩人、哲学者らが集まった、メディチ家が主宰する[[プラトン・アカデミー]]の一員だったという説を唱えている<ref name=Chiesa83/>。1478年1月にレオナルドは、最初の独立した絵画制作の依頼を受けた。[[ヴェッキオ宮殿]]サン・ベルナルド礼拝堂の祭壇画の制作で、1481年5月にはサン・ドナート・スコペート修道院の修道僧から、『東方三博士の礼拝』 ([[:en:Adoration of the Magi (Leonardo)]]) の制作依頼も受けている<ref name=Wasser1>
{{Cite book
|first= Jack
|last = Wasserman
|title = Leonardo da Vinci
|year = 1975
|pages = 77–78
}}</ref>。しかしながら、礼拝堂祭壇画は未完成のまま放置された。『東方三博士の礼拝』もレオナルドが[[ミラノ公国]]へと向かったために制作が中断され、未完成に終わっている。


ヴァザーリの著書によると、レオナルドは才能溢れる音楽家でもあり<ref>
[[1506年]]、[[スイス]]の傭兵が[[フランス]]軍を追い払うと、[[マッシミリアーノ・スフォルツァ]]が治めるミラノに戻った。そこで、後に生涯の友人となり、後継者ともなった[[フランチェスコ・メルツィ]]に出会った。
{{cite book
|last=Winternitz
|first=Emanuel
|title= Leonardo Da Vinci As a Musician
|year=1982
}}</ref>、1482年に馬の頭部を意匠とした銀の[[ライアー|リラ]]を制作したとされている。フィレンツェの支配者[[ロレンツォ・デ・メディチ]]が、この銀のリラを土産にレオナルドをミラノ公国へと向かわせ、当時のミラノ公[[ルドヴィーコ・スフォルツァ]]との間で平和条約を結ぼうとした<ref>
{{cite book
|last= Rossi
|first=Paolo
|title=The Birth of Modern Science
|year=2001
|page=33
}}</ref>。当時のレオナルドがルドヴィーコに送った書簡の記述で、現在もよく引用される文章がある。レオナルドが自然科学分野で驚嘆すべき様々な業績を挙げていたことを物語る内容で、さらにレオナルドが絵画分野でも非凡な能力を有していることをルドヴィーコに告げる文章である<ref name=DA/><ref>
{{cite web
|title=Leonardo's Letter to Ludovico Sforza
|work=
|publisher =Leonardo-History
|date=
|url=http://www.leonardo-history.com/life.htm?Section=S5
|accessdate=2010-01-05}}</ref>。


レオナルドは1482年から1499年まで、ミラノ公国で活動した。現在ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する『[[岩窟の聖母]]』は、1483年に聖母無原罪の御宿り信心会からの依頼で、[[サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 (ミラノ)|サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院]]の壁画『[[最後の晩餐 (レオナルド)|最後の晩餐]]』(1495年 - 1498年)も、このミラノ公国滞在時に描かれた作品である<ref name=Kemp>
[[1513年]]と[[1516年]]には[[ローマ]]にいた(このころはミラノとフィレンツェ、ローマをたびたび移動していたようである)。当時、ローマでは[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]や[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]が活動していた。ラファエロはレオナルドの絵を模写し、影響を受けているが、ミケランジェロとの接触はほとんどなかったようである。
{{Cite book
|first=Martin
|last=Kemp
|title=Leonardo
|year=2004
}}</ref>。1493年から1495年のレオナルドの納税記録が現存しており、レオナルドの扶養家族の中にカテリーナという女性が記載されている。この女性は1495年に死去しているが、このときの葬儀費用明細から、レオナルドの生母カテリーナだと考えられている<ref>Codex II, 95 r, Victoria and Albert Museum, as cited by della Chiesa p. 85</ref>。


[[File:Study of horse.jpg|thumb|left|upright|馬の側面と、胸から上、右脚が描かれた習作。[[ロイヤル・コレクション]]、[[ウィンザー城]]。]]
[[ファイル:IngresDeathOfDaVinci.jpg|thumb|260px|フランソワ1世に抱かれて死ぬレオナルド]]
レオナルドはミラノ公ルドヴィーコから、様々な企画を命じられた。特別な日に使用する山車とパレードの準備、[[ミラノのドゥオーモ|ミラノ大聖堂]]円屋根の設計、スフォルツァ家の初代ミラノ公[[フランチェスコ・スフォルツァ]]の巨大な騎馬像の制作などである。ただしこの騎馬像は、レオナルドが手がける作品としては異例なことに、その後数年間にわたって制作が開始されなかった。騎馬像の原型となる粘土製の馬の像が完成したのは1492年である。このフランチェスコの騎馬像を大きさの点で凌ぐルネサンス期の彫刻作品は、[[ドナテッロ]]の『ガッタメラータ騎馬像』(1453年、サンタントーニオ・ダ・パードヴァ聖堂前サント広場)と、ヴェロッキオの『[[バルトロメーオ・コッレオーニ#騎馬像|バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像]]』(1496年、サン・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会前広場)の2作品だけであり、レオナルドが制作した粘土製の馬の像は、「巨大な馬 ({{lang|it|Gran Cavallo}})」として知られるようになっていった<ref name=DA/><ref group="注">ヴェロッキオの『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』が鋳造されたのは1488年で、ヴェロッキオが死去した後のことである。レオナルドがフランチェスコ・スフォルツァの巨大な騎馬像の制作を開始したのは、『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』の完成よりも前ということになる。</ref>。レオナルドはこの『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』の鋳造を具体的に進めようとしたが<ref name=DA/>、レオナルドを嫌っていた競争相手のミケランジェロは、レオナルドにこのような大仕事ができるわけがないと侮辱したといわれている<ref name=LB/>。この騎馬像制作のために17トンのブロンズが用意されたが、フランス王[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]のミラノ侵攻に対抗するために、1494年11月にこのブロンズが大砲の製作材料に流用されてしまった<ref name=DA/>。
[[1515年]]に即位したフランス王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]は、同年にミラノを占領した。この時、レオナルドは[[ボローニャ]]で行なわれたフランソワ1世とローマ教皇[[レオ10世 (ローマ教皇)|レオ10世]]の和平交渉の締結役に任命され、(恐らくは、このとき初めて)フランソワ1世に出会った。以後、フランソワ1世の庇護を受け、[[1516年]]からは王の居城[[アンボワーズ城]]に隣接し、フランソワ1世が幼少期を過ごした[[クルーの館]] (Clos Lucé) に招かれ、年金を受けて余生を過ごした。


1499年に[[第二次イタリア戦争]]が勃発し、イタリアに侵攻したフランス軍が、レオナルドがブロンズ増の原型用に制作した粘土像「巨大な馬」を射撃練習の的にして破壊した。ルドヴィーコ率いるミラノ公国はフランスに敗れ、レオナルドは弟子のサライや友人の数学者[[ルカ・パチョーリ]]とともに[[ヴェネツィア]]へと避難した<ref name=Chiesa85>della Chiesa, p.85</ref>。レオナルドはこのヴェネツィアで、フランス軍の海上攻撃からヴェネツィアを守る役割の軍事技術者として雇われている<ref name=LB/>。レオナルドが故郷フィレンツェに帰還したのは1500年のことで、サンティッシマ・アンヌンツィアータ修道院 ([[:en:Santissima Annunziata, Florence]]) の修道僧のもとで、家人ともども賓客として寓された。ヴァザーリの著書には、レオナルドがこの修道院で工房を与えられ、『[[聖アンナと聖母子]]』の習作ともいわれる『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』(1499年 - 1500年、[[ナショナルギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]])を描いたとされている。さらにこの『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』は「老若男女を問わず」多くの人が見物に訪れ、「祭りの様相を呈していた」と記されている<ref>Vasari, p.256</ref>
レオナルドは、[[1519年]][[5月2日]]にフランスのクルーの館で亡くなった。右の絵画ではフランソワ1世に抱かれて死去するさまが描かれている。実際にはこのような場面はなかったが、王とレオナルドの親交の深さが分かる。
{{refnest |group = "注"
|2005年になって、[[軍事地理学]]部局として100年にわたって使用されていた建物の修復中に、レオナルドが使用していたこの工房が発見された<ref>
{{cite news
|first=Richard
|last=Owen
|title=Found: the studio where Leonardo met Mona Lisa
|publisher=The Times
|date= 2005-01-12
|url=http://www.timesonline.co.uk/tol/news/world/article411195.ece|accessdate=2010-01-05|location=London
}}</ref>。
}}。


[[File:Leonardo da Vinci - Plan of Imola - Google Art Project.jpg|thumb|250px|レオナルドがチェーザレ・ボルジアの命令で制作した、非常に精密な[[イーモラ]]の地図。]]
レオナルドの遺言状には、彼の葬式に60人の貧乏人に60本の松明を持たせ参列させること。そしてフランチェスコ・ダ・メルツォの裁量にて彼らに参列代として銭を与えること。またさらに、その松明を四つの教会に分けることを希望することなどが遺されていた。[[アンボワーズ]]にある聖フロランタン教会に埋葬されたが、その後、墓が暴かれてしまい、遺骨の行方は分からない。
1502年にレオナルドは[[チェゼーナ]]を訪れ、ローマ教皇[[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンデル6世]]の息子[[チェーザレ・ボルジア]]の軍事技術者として、チェーザレとともにイタリア中を行脚した<ref name=Chiesa85/>。1502年にレオナルドはチェーザレの命令で、要塞を建築する[[イーモラ]]の開発計画となる地図を制作した。当時の地図は極めて希少であるだけでなく、その制作に当たってはレオナルドのまったく新しい概念が導入されていた。チェーザレはレオナルドを、土木技術に特化した[[工兵]]の長たる軍事技術者に任命している。同年にレオナルドは、[[トスカーナ]]の渓谷地帯ヴァルディキアーナ ([[:en:Valdichiana]]) の地図も制作している。この地図もチェーザレが軍事戦略上有利な地位を占めるのに役立った。


レオナルドは再びフィレンツェに戻り、1508年10月18日にフィレンツェの芸術家ギルド「聖ルカ組合」に再加入した。そして、フィレンツェ政庁舎([[ヴェッキオ宮殿]])大会議室の壁画『[[アンギアーリの戦い (絵画)|アンギアーリの戦い]]』のデザインと制作に2年間携わった<ref name=Chiesa85/>。このとき大会議室の反対側の壁では、ミケランジェロが『カッシーナの戦い』([[:en:Battle of Cascina (Michelangelo))]]) の制作に取り掛かっていた{{refnest |group = "注" |『アンギアーリの戦い』も『カッシーナの戦い』も未完に終わり現存していない。ミケランジェロが描いた『カッシーナの戦い』の全体像は、1542年にアリストトーレ・ダ・サンガッロの模写によって知られている<ref>
レオナルドは若い頃は「この世で最高の美男子」と呼ばれるほどの美貌の持ち主だったらしいが、生涯特定の女性と親しい関係になることはなく、独身だった。
{{cite book
|first=Ludwig
|last= Goldscheider
|title=Michelangelo: paintings, sculptures, architecture
|year=1967
|publisher=Phaidon Press
|isbn=978-0-7148-1314-1
}}</ref>。レオナルドが描いた『アンギアーリの戦い』は、下絵に描かれたスケッチと作品中央部分ののみを描いた数点の模写でしか知られていない。模写の中でおそらくもっとも精密に描かれているのは[[ピーテル・パウル・ルーベンス]]の手によるものである<ref>della Chiesa, pp.106–107</ref>。
}}。またレオナルドは1504年に、ミケランジェロが手がけていた完成間近の『[[ダビデ像|ダヴィデ像]]』をどこに設置するべきかを決める委員会の一員になっている<ref>Gaetano Milanesi, ''Epistolario Buonarroti'', Florence (1875), as cited by della Chiesa.</ref>{{refnest |group = "注"
|『ダヴィデ像』の設置場所を決定する委員会は、レオナルド、[[サンドロ・ボッティチェッリ|ボッティチェッリ]]ら多くの芸術家も参加した、総勢30名のフィレンツェ市民で構成されていた<ref>The minutes of the meeting were published in Giovanni Gaye, ''Carteggio inedito d'artisti del sec. XIV, XV, XVI,'' Florence, 1839–40, 2: 454–463. For an English translation of the document, see Seymour, ''Michelangelo's David,'' 140-155 and for an analysis, see Saul Levine, "The Location of Michelangelo's David: The Meeting of January 25, 1504, ''Art Bulletin'' 56 (1974): 31-49; N. Randolph Parks, "The Placement of Michelangelo's ''David:'' A Review of the Documents," ''Art Bulletin,'' 57 (1975) 560-570; and Rona Goffen, ''Renaissance Rivals: Michelangelo, Leonardo, Raphael, Titian,'' New Haven, 2002, 123–127.</ref>。
}}。


1506年にレオナルドはミラノを訪れた。[[ベルナルディーノ・ルイーニ]]、ジョヴァンニ・アントーニオ・ボルトラッフィオ ([[:en:Giovanni Antonio Boltraffio]])、マルコ・ドッジョーノ ([[:en:Marco d'Oggione]]) ら、絵画分野におけるレオナルドの主要な弟子や追随者たちは、このミラノ滞在時に関係があった人々である<ref name=LB/><ref group="注">マルコ・ドッジョーノは『最後の晩餐』の模写でも知られている。</ref>。ただし、1504年に父親セル・ピエロが死去したこともあって、このときのレオナルドのミラノ滞在は短期間に終わった。1507年にはフィレンツ家に戻り、父親の遺産を巡る兄弟たちとの問題解決に腐心している。翌1508年にミラノへ戻り、サンタ・バビーラ教会区のポルタ・オリエンターレに購入した邸宅に落ち着いた<ref name=Chiesa86>della Chiesa, p.86</ref>。
レオナルドには多数の友人がいた。以下はその例である。
* [[ミケランジェロ・ブオナローティ]]
* [[ファッジョ・カルダーノ]] - [[ジェロラモ・カルダーノ]]の父親の[[数学者]]、[[法学者]]
* [[フランチェスコ・メディチ]] - 画家で教え子
* [[ジェラルモ・メディチ]] - ミラノ軍の大佐
* [[ジョバンニ・フランチェスコ・ラスティシ]]
* [[チェーザレ・ボルジア]] - 軍人
* [[ニッコロ・マキャヴェッリ]] - 作家
* [[アンドレア・ダ・フェッラーラ]]
* [[フランチェスコ・ナーニ]]
* [[ルカ・パチョーリ]] - 数学者・[[複式簿記]]を著書『スンマ』で紹介した人物


=== 晩年、1513年 - 1519年 ===
== 芸術活動 ==
1513年9月から1516年にかけて、レオナルドは[[バチカン|ヴァチカン]]のベルヴェデーレで多くのときを過ごしている。当時のヴァチカンはミケランジェロと若き[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]が活躍していた場所でもあった<ref name=Chiesa86/>。1515年10月にフランス王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]がミラノ公国を占領し<ref name=Wasser1/>、レオナルドは[[ボローニャ]]で開催された、フランソワ1世とローマ教皇[[レオ10世 (ローマ教皇)|レオ10世]]との和平会談に招かれた<ref name=LB/><ref>Georges Goyau, ''François I'', Transcribed by Gerald Rossi. The Catholic Encyclopedia, Volume VI. Published 1909. New York: Robert Appleton Company. Retrieved on 2007-10-04</ref><ref>
[[ファイル:Leonardo da Vinci (1452-1519) - The Last Supper (1495-1498).jpg|thumb|center|500px|[[最後の晩餐 (レオナルド)|最後の晩餐]](1495-97年、[[サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 (ミラノ)|サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会]]壁画:油彩・テンペラ)]]
{{cite web
[[ファイル:Mona_Lisa.jpg|thumb|180px|[[モナ・リザ]](1503-06年、[[ルーヴル美術館]]収蔵)]]
|first=Salvador
[[ファイル:Lady with an Ermine.jpg|thumb|180px|[[白貂を抱く貴婦人]](1485-90年、[[チャルトリスキ美術館]]収蔵)]]
|last=Miranda
レオナルドの芸術作品は、『最後の晩餐』(1498年, ''Ultima Cena 又は Cenacolo'' ミラノ)や『モナ・リザ』 (1503 -1506年, ''La Gioconda'', [[ルーヴル美術館]]蔵) のような精巧な絵画がよく知られている。彼の絵画の特徴は[[スフマート技法]]と[[空気遠近法]]である。画家として非常に有名であるが、現存する絵画は17点(うち数点は弟子の手との説もある)に過ぎない。そのうち1点のみ北アメリカ大陸にある。彫像は残っていないが、小さな馬の彫刻が[[リムリック]]([[アイルランド]])のハント美術館にある。
|url=http://www.fiu.edu/~mirandas/bios1527-ii.htm|title=The Cardinals of the Holy Roman Church: Antoine du Prat
|year=1998–2007
|accessdate = 2007-10-04
}}</ref>。このときレオナルドは、歩いていって胸部からユリの花がこぼれる絡繰仕掛けのライオンの制作を依頼された<ref name="Vasari, p.265">Vasari, p.265</ref>
{{refnest |group = "注"
|この絡繰仕掛けのライオンがいつ制作されたのかは不明だが、フランソワ1世の[[リヨン]]入城時に、フランソワ1世と教皇レオ10世の和平交渉の仲立ちとして使用されたと考えられている。ライオンはラテン語でレオであり、ローマ教皇レオ10世の、フランス王の紋章であるユリはフランス王フランソワ1世の象徴である。このライオンは復元されて、現在ボローニャの博物館で展示されている<ref>
{{cite web
|title=Reconstruction of Leonardo's walking lion
|url= http://www.ancientandautomata.com/ita/lavori/leone.htm
|language=Italian
|accessdate= 2010-01-05
}}</ref>。
}}。


[[File:Clos luce 04 straight.JPG|250px|thumb|レオナルドが1519年に息を引き取ったクルーの館。]]
レオナルドは絵の構想を練りながら膨大な数の素描やスケッチを書いたが、絵は制作されずに、スケッチの山ばかりが残されることも多かった。書き始めたものも、未完成のまま放置されたり、依頼主に渡されなかったものがある。レオナルドは、遅筆であると同時に、代表作とされるものでも未完の作品が多い画家である。『[[モナ・リザ]]』も手の部分が未完成ともいわれる。
レオナルドは1516年にフランソワ1世に招かれ、フランソワ1世の居城[[アンボワーズ城]]近くの[[クルーの館]]が邸宅として与えられた<ref group="注">クルーの館は、現在博物館として使用されている。</ref>。レオナルドは死去するまでの最晩年の3年間を、弟子のミラノ貴族フランチェスコ・メルツィ ([[:en:Francesco Melzi]]) ら、弟子や友人たちと共に過ごした。レオナルドがフランソワ1世から受け取った年金は、死去するまでの合計額で10,000スクードにのぼっている<ref name=Chiesa86/>。


レオナルドは1519年5月2日にクルーの館で死去した。フランソワ1世とは緊密な関係を築いたと考えられており、ヴァザーリも自著でレオナルドがフランソワ1世の腕の中で息を引き取ったと記している。このエピソードはフランス人芸術家たちに親しまれ、[[ドミニク・アングル]]、フランソワ・ギョーム・メナゴーらが、このエピソードをモチーフにした作品を描き、オーストリア人画家[[アンゲリカ・カウフマン (画家)|アンゲリカ・カウフマン]]も同様の絵画を制作しているが、このエピソードはおそらく史実ではなく、伝説の類である<ref group="注">レオナルドが死去した日に、クルーの館から旅程で二日間かかる[[サン=ジェルマン=アン=レー]]から王令が出されている。このことが、フランソワ1世がレオナルドの最期を看取っていないという証拠となっている。ただし、ホワイトの『最初の科学者レオナルド ({{lang|en|Leonardo: The First Scientist}})』では、この布告にフランソワ1世の署名がないことを指摘している。</ref>。さらにヴァザーリは、レオナルドが最後の数日間を司祭と過ごして告解を行い、臨終の秘蹟を受けたとしている<ref>Vasari, p.270</ref>。レオナルドの遺言に従って、60名の貧者がレオナルドの葬列に参加した<ref group= "注">レオナルドの遺言どおりに、会葬者として参列した60名の貧者全員に、レオナルドの遺産から施しが与えられた。</ref>。フランチェスコ・メルツィがレオナルドの主たる相続人兼遺言執行者で、メルツィはレオナルドの金銭的遺産だけでなく、絵画、道具、蔵書、私物なども相続した。また、長年の弟子で友人でもあったサライと使用人バッティスタ・ディ・ビルッシスに所有していたワイン畑を半分ずつ遺しているほか、自身の兄弟たちには土地を、給仕係の女性には毛皮の縁飾りがついた最高級の黒いマントを遺した<ref group = "注">上質の素材が使用されていたこの黒いマントは既製品だったが、豪華な毛皮の縁飾りは別途追加されたものだった。この黒のマントが遺贈されたのは、この女性がレオナルドの葬式に着用する喪服に困らないように配慮する意図もあった。</ref><ref>
[[1481年]]に『東方三博士の礼拝』 (''Adorazione dei Magi'', ウフィッツィ美術館蔵、未完) の作画を請け負うが、膨大なスケッチを残して絵は未完成のまま知人に預け、ミラノへ行ってしまった。
{{cite web
|title=Leonardo's will
|work=
|publisher=Leonardo-history
|date=
|url=http://www.leonardo-history.com/life.htm?Section=S6
|accessdate=2007-09-28
}}</ref>。レオナルドの遺体は、アンボワーズ城のサン=ユベール礼拝堂に埋葬された。


レオナルドの死後20年ほど後に、フランソワ1世が「かつてこの世界にレオナルドほど優れた人物がいただろうか。絵画、彫刻、建築のみならず、レオナルドはこの上なく傑出した哲学者でもあった」と語ったことが、彫金師、彫刻家[[ベンヴェヌート・チェッリーニ]]の記録に記されている<ref>
ミラノでは、[[ミラノ公国|ミラノ公]][[ルドヴィーコ・スフォルツァ]](イル・モーロ)に依頼された7mもある巨大な[[スフォルツァ騎馬像]]<!--- "Gran Cavallo" --->の構想に、16年もの歳月を費やした。『岩窟の聖母』は、[[1483年]]に制作された。
{{cite book
[[1493年]]に粘土の原型像が完成した。しかし、鋳造を前にして、[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]の[[フランス]]との戦争が迫ったため、[[1495年]]、用意した7トンの銅が大砲の製造に転用されてしまい、計画は中止された(この計画に基づいて、[[1999年]]に馬のみの像が[[ニューヨーク]]の個人によって作られ、ミラノに寄贈された)。一方、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・クラーチェ修道院の食堂に描いた『最後の晩餐』<ref>ルドヴィーコ・スフォルツァの注文で、1494~1497年の間に制作された。</ref>は、福音書を題材に劇的な場面をリアルに描き、レオナルドの名声を高めた。
|author=Mario Lucertini, Ana Millan Gasca, Fernando Nicolo
|title=Technological Concepts and Mathematical Models in the Evolution of Modern Engineering Systems
|url=http://books.google.com/?id=YISIUycS4HgC&pg=PA13&lpg=PA13&dq=leonardo+cellini+francois+philosopher|accessdate=2007-10-03|isbn=978-3-7643-6940-8|year=2004
|publisher=Birkhäuser
}}</ref>。


== 交友関係と影響 ==
フィレンツェに戻ったレオナルドは、市庁舎([[ヴェッキオ宮殿]])の会議室に『[[アンギアーリの戦い (絵画)|アンギアーリの戦い]]』を題材にした壁画を描く依頼を受けた。反対側の壁には、彼のライバルであった[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]が絵を描くことになった。この仕事にも入念な準備がなされたが、技術的課題から壁画は失敗し、未完のままレオナルドはフィレンツェを去った。未完とはいえ、[[ピーテル・パウル・ルーベンス|ルーベンス]]などが模写しており、後の画家に与えた影響は大きかったが、世間的にはまったくの失敗であった。また、ミケランジェロも未完のままフィレンツェを離れてしまい、市庁舎の壁画は後に[[ジョルジョ・ヴァザーリ]]が異なる絵で仕上げた。
=== フィレンツェでレオナルドを取り巻いていた芸術的、社会的背景 ===
[[File:Florenca146.jpg|thumb|left|upright|[[ロレンツォ・ギベルティ]]が制作した[[サン・ジョヴァンニ洗礼堂]]の『天国への門』。当時のフィレンツェが誇る芸術作品で、その制作には多くの芸術家が参画した。]]
レオナルドが若年だった当時のフィレンツェは、[[人文主義|ルネサンス人文主義]]における思想、文化の中心地だった<ref name="Rosci" />。レオナルドがヴェロッキオに弟子入りした1466年は、ヴェロッキオの師で偉大な彫刻家だったドナテッロが死去した年でもある。遠近法を絵画作品に最初に取り入れて、[[風景画]]の発展に多大な貢献をなした画家[[パオロ・ウッチェロ]]は、すでに老境に入っていた。画家[[ピエロ・デッラ・フランチェスカ]]、[[フィリッポ・リッピ]]、彫刻家[[ルカ・デッラ・ロッビア]]、建築家・著述家[[レオン・バッティスタ・アルベルティ]]も60歳代だった。これら初期ルネサンスを代表する芸術家たちの次世代で成功を収めたのが、レオナルドの師ヴェロッキオ、[[アントニオ・デル・ポッライオーロ]]、ミーノ・ダ・フィエゾーレ ([[:en:Mino da Fiesole]]) らである。フィエゾーレは人物彫刻を得意とした彫刻家で、[[ロレンツォ・デ・メディチ]]の父親[[ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチ|ピエロ]]や伯父ジョヴァンニ ([[:en:Giovanni di Cosimo de' Medici]]) の胸像は、本人に非常によく似ているといわれている<ref name=Hartt>
{{Cite book
|first=Frederich
|last=Hartt
|title=A History of Italian Renaissance Art
|year=1970
|pages=127–333
}}</ref><ref name=Rosci1>Rosci, ''Leonardo'', chapter 1, ''the historical setting'', pp.9–20</ref><ref name=Bruck/><ref name=Rach/>。


また、当時のフィレンツェは、写実的で感情豊かな人物像を[[フレスコ]]で描いた画家[[マサッチオ]]、人物と建築物が複雑な構成で表現された[[サン・ジョヴァンニ洗礼堂]]の金箔に彩られた東扉『天国への門』を制作した彫刻家[[ロレンツォ・ギベルティ]]など、ドナテッロと同時代の芸術家たちの作品で飾り立てられていた。ピエロ・デッラ・フランチェスカは空気遠近法の研究を推し進め<ref>Piero della Francesca, ''On Perspective for Painting (De Prospectiva Pingendi)''</ref>、科学的に正確な光の描写を絵画にもたらした最初の画家となった。これらの研究と[[レオン・バッティスタ・アルベルティ]]の『絵画論』といった芸術論文が<ref>Leon Battista Alberti, ''De Pictura'', 1435. [http://www.noteaccess.com/Texts/Alberti/ ''On Painting'', in English], [http://www.liberliber.it/biblioteca/a/alberti/de_pictura/html/depictur.htm ''De Pictura'', in Latin]{{dead link|date=October 2011}}</ref>、当時の若年の芸術家たちに大きな影響を与え、レオナルドも先人たちからの影響のなかで独自の観察眼や芸術観を培っていった<ref name=Hartt/><ref name=Bruck/><ref name=Rach/>。
数少ないレオナルドの絵画のうち、『モナ・リザ』『[[聖アンナと聖母子]]』『[[洗礼者ヨハネ]]』の3枚は、[[イタリア]]ではなく[[フランス]]の[[ルーヴル美術館]]にある。これは、フランソワ1世に[[フランス]]へ招かれた際、レオナルドが持って行き、[[フランス]]国内で没したためである。この3枚に、レオナルドは死ぬまで筆を入れ続けたとも言われる。


マサッチオの『楽園追放』(1425年ごろ、ブランカッチ礼拝堂壁画 ([[:en:The Expulsion from the Garden of Eden]])) は、裸身で取り乱す[[アダムとイヴ]]を力強い造形で描いた作品である。光と陰の対比を用いて三次元的に人物を描写した『楽園追放』はレオナルドに大きな影響を与え、自身の作品でこの三次元的描写を発展させていくことになる。また、ドナテッロの彫刻『[[ダヴィデ像 (ドナテッロ)|ダヴィデ]]』における人文主義的作風が、後のレオナルドの作品群、とくに『洗礼者ヨハネ』(1513年 - 1516年、ルーヴル美術館所蔵 ([[:en:St. John the Baptist (Leonardo)]]))に影響を与えている<ref name=Hartt/><ref name= Rosci1/>。
レオナルドは、「自分の芸術を真に理解できるのは数学者だけである」という言葉を残している。


[[File:Leonardo da Vinci 036.jpg|thumb|right|『カーネーションの聖母』、1478年 - 1480年、[[アルテ・ピナコテーク]]([[ミュンヘン]])。レオナルドが描いた初期の聖母子像。]]
また、レオナルドは[[音楽]]の[[演奏]]及び[[作曲]]も行なった。[[リュート]]を演奏し、自作の[[リラ]]を弾きながら歌った。ミラノを最初に訪れたのは、[[メディチ家]]の依頼で[[スフォルツァ家]]にリラを献上するためだったという説もある。新しい[[楽器]]のアイディアや[[演劇用]]にデザインした服装もスケッチに残されている。それを元に[[紙オルガン]]や[[ヴィオラ・オルガニスタ]]などが再現され、演奏も行なわれている。
フィレンツェで伝統的に好まれていた絵画分野に、[[聖母子]]を描いた小規模な[[祭壇画]]がある。当時、これらの祭壇画はリッピ、ヴェロッキオ、[[ルカ・デッラ・ロッビア|デッラ・ロッビア]]一族らの工房で制作された作品が多かった<ref name=Hartt/>。レオナルドが聖母子を描いた初期の作品に『カーネーションの聖母』(1478年 - 1480年、[[アルテ・ピナコテーク]] ([[:en:Madonna of the Carnation]]))と『ブノアの聖母』(1478年頃、[[エルミタージュ美術館]] ([[:en:The Benois Madonna]]))がある。これらレオナルドが描いた聖母子は、基本的にはフィレンツェの伝統的な聖母子の作風に則っている。しかしながら『ブノアの聖母子』に顕著な聖母子をピラミッド型に配する構成は、伝統的な作風からは逸脱した表現となっている。後に同様の構成で描かれたレオナルドの作品に『[[聖アンナと聖母子]]』(1508年ごろ、ルーヴル美術館)がある<ref name=LB/>。


レオナルドは[[サンドロ・ボッティチェッリ|ボッティチェッリ]](1445年ごろ - 1510年)、[[ドメニコ・ギルランダイオ|ギルランダイオ]](1449年 - 1494年)、[[ペルジーノ]](1450年ごろ - 1523年)と同時代人で、わずかに年少である<ref name=Rosci1/>。レオナルドはこの3人と相弟子としてヴェロッキオの工房で出会い、[[メディチ家]]が主宰するプラトン・アカデミーに出入りした<ref name=LB/>。ボッティチェッリはとくにメディチ家に気に入られており、画家としての成功は約束されていたも同然だった。ギルランダイオとペルジーノはどちらも多作な画家で、後に大規模な工房を経営するにいたった。両者共に制作依頼主を満足させるだけの技量を持った芸術家で、ギルランダイオは大規模なフレスコ宗教画に裕福なフィレンツェ市民の肖像を描き入れた作品を、ペルジーノは甘美で無垢な多数の聖者や天使を描いた作品を、それぞれ得意としていた<ref name=Hartt/>。
=== 主な絵画作品 ===

<gallery>
[[File:Hugo van der Goes 006.jpg|thumb|left|[[フーゴー・ファン・デル・グース|フーホ・ファン・デル・フース]]が描いた『ポルティナーリの三連祭壇画』中央パネル(1475年頃、[[ウフィツィ美術館]])。フィレンツェの[[サンタ・マリーア・ヌオーヴァ]]施薬院付属サンテディジオ教会の祭壇画用として制作された。]]
Image:Andrea del Verrocchio 002.jpg|キリストの洗礼(1472 - 1475、ヴェロッキオと共作、[[ウフィッツィ美術館]]蔵)
ボッティチェッリとギルランダイオは、ローマ教皇[[シクストゥス4世 (ローマ教皇)|シクストゥス4世]]から、ヴァチカンの[[システィーナ礼拝堂]]壁画制作の依頼を受けた。1479年にペルジーノがローマ教皇庁から、礼拝堂壁画制作の責任者に任じられて間もなくのことである。しかしながらこの栄誉ある壁画制作には、レオナルドは関与していない。レオナルドが依頼を受けた最初の重要な絵画制作は、1481年にサン・ドナート・スコペート修道院の修道僧からの『東方三博士の礼拝』 ([[:en:Adoration of the Magi (Leonardo)]]) だが、未完のままに終わっている<ref name=LB/>。
File:Leonardo da Vinci 052.jpg|受胎告知(1472-75、[[ウフィツィ美術館]]蔵)

File:Leonardo da Vinci Benois Madonna.jpg|ブノワの聖母(1475-78頃、[[エルミタージュ美術館]]蔵)
レオナルドがヴェロッキオの工房で働いていた時期の1476年に<!-- 【訳者(光舟)による注意書き】『ポルティナーリの三連祭壇画』がフィレンツェに持ち込まれたのは1483年のはずだけど、とりあえず英語版のまま訳す。 -->[[初期フランドル派]]の画家[[フーゴー・ファン・デル・グース|フーホ・ファン・デル・フース]]の油彩画『ポルティナーリの三連祭壇画』(1475年ごろ、[[ウフィツィ美術館]] ([[:en:Portinari Altarpiece]]))がフィレンツェに持ち込まれた。北方ヨーロッパの初期フランドル派が完成させた新たな絵画技法である[[油彩]]は、レオナルド、ギルランダイオ、ペルジーノら、フィレンツェで活動していた芸術家たちに多大な影響を与えた<ref name=Rosci1/>。その後、[[シチリア]]出身の画家[[アントネロ・ダ・メッシーナ|アントネッロ・ダ・メッシーナ]]が油彩技法を身につけ、1479年にヴェネツィアを訪れた。当時のヴェネツィアで第一人者であった画家[[ジョヴァンニ・ベッリーニ]]がメッシーナから油彩技法を伝授され、たちまちのうちにヴェネツィアでも油彩による絵画制作が主流となった。そして、後にレオナルドもヴェネツィアを訪れることになる<ref name=Rosci1/><ref name=Rach/>。
Image:Léonard de Vinci - Saint Jérôme.jpg|聖ヒエロニムス(1480- 1482、未完、[[バチカン美術館]]蔵)

Image:Leonardo_da_Vinci_-_Adorazione_dei_Magi_-_Google_Art_Project.jpg|東方三博士の礼拝(1481-1482、未完、[[ウフィツィ美術館]]蔵)
当時の代表的な建築家[[ドナト・ブラマンテ|ドナート・ブラマンテ]]と[[アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ヴェッキオ]]と同じように、レオナルドも集中形式の教会のデザインを試みた。多くの設計図や外観図がその手稿に残されているが、実現した計画はひとつもなかった<ref name=Rosci1/><ref>Hartt, pp.391–2</ref>。
Image:Leonardo, Felsgrottenmadonna 1.JPG|[[岩窟の聖母]](1483-1486、[[ルーブル美術館]]蔵)

Image:Leonardo, Felsgrottenmadonna2.JPG|[[岩窟の聖母]](1495 - 1508、[[ナショナルギャラリー (ロンドン)]]蔵)
[[File:Ghirlandaio a-pucci-lorenzo-de-medici-f-sassetti 1.jpg|thumb|ギルランダイオが描いたフレスコ画。左から、アントニオ・プッチ ([[:en:Antonio di Puccio Pucci]])、[[ロレンツォ・デ・メディチ]]、フランチェスコ・サセッティ ([[:en:Francesco Sassetti]])、[[クレメンス7世 (ローマ教皇)|ジュリオ・デ・メディチ]]。]]
File:Leonardo - St. Anne cartoon-alternative-downsampled.jpg|聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ(1499 - 1500、[[ナショナルギャラリー (ロンドン)]]蔵
レオナルドがフィレンツェに在住していたときのフィレンツェの支配者は[[ロレンツォ・デ・メディチ]]だった。ロレンツォはレオナルドよりも3歳年長で、弟の[[ジュリアーノ・デ・メディチ|ジュリアーノ]]は1478年に起きた、いわゆる[[パッツィ家の陰謀]]で暗殺された。後にレオナルドがメディチ家の使者として派遣されるミラノ公国を1479年から1499年まで統治したミラノ公[[ルドヴィーコ・スフォルツァ]]は、レオナルドと同年の生まれである<ref name=Rosci1/>。
File:La_Vierge,_l'Enfant_Jésus_et_sainte_Anne,_by_Leonardo_da_Vinci,_from_C2RMF_retouched.jpg|[[聖アンナと聖母子]](1508-1510、[[ルーヴル美術館]]蔵)

File:Saint_Jean-Baptiste,_by_Leonardo_da_Vinci,_from_C2RMF_retouched.jpg|[[洗礼者ヨハネ]](1513-16、[[ルーヴル美術館]]蔵)
レオン・バッティスタ・アルベルティの紹介を受けてメディチ一族の邸宅を訪れたレオナルドは、哲学者で[[ネオプラトニズム|新プラトン主義]]の提唱者[[マルシリオ・フィチーノ]]、古典文学の注釈書の著者[[クリストフォロ・ランディーノ]]、ギリシア語教授で[[アリストテレス]]の著作の翻訳者ジョヴァンニ・アルギロプーロ ([[:en:John Argyropoulos]]) ら、当時第一流のルネサンス人文主義者たちの知遇を得た。また、メディチ家が主催するプラトン・アカデミーには、才能に溢れた若き哲学者[[ピコ・デラ・ミランドラ|ピーコ・デッラ・ミランドラ]]の姿もあった<ref name=Rosci1/><ref name=Rach/><ref>
</gallery>
{{Cite book
* 『ジネヴラ・デ・ベンチの肖像』 [[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)]]蔵 1474 - 1486
|first=Hugh Ross
* 『カーネーションを持つ聖母』[[アルテ・ピナコテーク]]蔵 1478–1480
|last=Williamson
* 『[[白貂を抱く貴婦人]]』[[チャルトリスキ美術館]]蔵 1485-1490
|title=Lorenzo the Magnificent
* 『音楽家の肖像』 [[アンブロジアーナ図書館]] 1490頃
|year=1974
* 『[[リッタの聖母]]』 [[エルミタージュ美術館]]蔵 1490 - 1491
}}</ref>。後にレオナルドは手稿の余白に「メディチが私を創り、そしてメディチが私を台無しにした」と書き入れている。レオナルドが、ロレンツォの推挙によってミラノ公の宮廷に迎え入れられたのは間違いなく、なぜレオナルドがこのような謎めいた書込みを残したのかは分かっていない<ref name=LB/>。
* 『[[最後の晩餐 (レオナルド)|最後の晩餐]]』 [[サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 (ミラノ)|サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会]] 1495–1498

* 『糸車の聖母』1501年 スイス、個人蔵 :2003年8月27日盗難され行方不明になっていたが、2007年10月4日に発見された。
「[[盛期ルネサンス]]三大巨匠」と並び称されるレオナルド、ミケランジェロ、ラファエロだが、この三名は同年代人ではない。ミケランジェロが生まれたときにレオナルドは13歳で、ラファエロが生まれたときにはレオナルドは21歳だった<ref name=Rosci1/>。レオナルドは1519年に67歳で、ラファエロは1520年に37歳でそれぞれ死去しているが、長命を保ったミケランジェロが死去したのは1564年で88歳のことである<ref name=Bruck>
* 『[[モナ・リザ]]』 [[ルーヴル美術館]]蔵 1503 - 1506
{{Cite book
* 『ほつれ髪の女』 [[パルマ国立美術館]]蔵 1506年-1508年頃
|first=Gene A.
|last=Brucker
|title=Renaissance Florence
|year=1969
}}</ref><ref name=Rach>
{{Cite book
|first=Ilan
|last=Rachum
|title=The Renaissance, an Illustrated Encyclopedia
|year=1979
}}</ref>。

=== 私生活 ===
[[File:Isabella d'este.jpg|thumb|left|upright|マントヴァ侯妃[[イザベラ・デステ]]の肖像習作。1500年、ルーヴル美術館]]
{{Main|:en:Leonardo da Vinci's personal life}}
レオナルドはその生涯を通じて、異常なまでの創意工夫の才を示し続けた。ヴァザーリはレオナルドを「ずば抜けた肉体美」「計り知れない優雅さ」「強靭な精神力と大いなる寛容さ」「威厳ある精神と驚くべき膨大な知性」と評し<ref>Vasari, p.253</ref>、レオナルドがあらゆる面で人を惹きつける人物だったと記している。さらにヴァザーリは、レオナルドが菜食主義者であり、籠に入って売られている鳥を購入し、その鳥を放してやるような、命あるものをこよなく愛する人物だったとしている<ref>Vasari, p.257</ref><ref>Eugene Muntz, ''Leonardo da Vinci Artist, Thinker, and Man of Science'' (1898), quoted at [http://www.ivu.org/history/davinci/hurwitz.html Leonardo da Vinci's Ethical Vegetarianism]</ref>。レオナルドには様々な分野の、歴史的に見ても重要な多くの友人がいた。例えば、近代会計学の父ともいわれる数学者[[ルカ・パチョーリ]]は、1490年代にレオナルドと共著で数学の論文を著している<ref>
{{cite web
|url=http://www.metmuseum.org/special/Leonardo_Master_Draftsman/draftsman_left_essay.asp|title=Leonardo, Left-Handed Draftsman and Writer
|accessdate=2009-10-18
|last=Bambach
|first=Carmen
|year= 2003
|location=New York
|publisher=Metropolitan Museum of Art
|archiveurl=http://web.archive.org/web/20091110221047/http://www.metmuseum.org/special/leonardo_master_draftsman/draftsman_left_essay.asp <!--Added by H3llBot-->
|archivedate=2009-11-10
}}</ref>。フェラーラ公[[エルコレ1世・デステ]]の娘で、マントヴァ侯妃[[イザベラ・デステ|イザベラ]]とミラノ公妃[[イザベラ・デステ|イザベラ]]の姉妹を除くと、レオナルドと親しかった女性は伝わっていない<ref>Cartwright Ady, Julia. Beatrice d'Este, Duchess of Milan, 1475–1497. Publisher: J.M. Dent, 1899; Cartwright Ady, Julia. Isabella D'Este, Marchioness of Mantua, 1474–1539. Publisher; J.M. Dent, 1903.</ref>。レオナルドはマントヴァ滞在中にイザベラの肖像習作を描いており、この習作をもとに肖像画を描いたと考えられているが、現存していない<ref name=LB/>。

交友関係以外のレオナルドの私生活は謎に包まれている。とくにレオナルドの性的嗜好は、さまざまな当てこすり、研究、憶測の的になっている。最初にレオナルドの性的嗜好が話題になったのは16世紀半ばのことだった。その後19世紀、20世紀にもこの話題が取り上げられており、中でも[[ジークムント・フロイト]]が唱えた説が有名である<ref>Sigmund Freud, ''Eine Kindheitserinnerung des Leonardo da Vinci'', (1910)</ref>。レオナルドともっとも親密な関係を築いたのは、おそらく弟子のサライとメルツィである。メルツィはレオナルドの死を知らせる書簡をレオナルドの兄弟に送った人物で、その書簡にはレオナルドがいかに自分たちを情熱的に愛したかということが書かれていた。16世紀になって、このようなレオナルドの人間関係は性的なものだったのではないかという説が生まれた。1476年のフィレンツェの裁判記録に、当時24歳だったレオナルド他3名の青年が、有名だった男娼と揉め事を起こしたとして、同性愛の容疑をかけられたという記録がある。この件は証拠不十分で放免されているが、容疑者の一人リオナルデ・デ・トルナブオーニがロレンツォ・デ・メディチの縁者であり<ref>ロレンツォ・デ・メディチの母[[ルクレツィア・トルナブオーニ|ルクレツィア]]は。トルナブオーニ家出身。</ref>、メディチ家が圧力をかけて無罪とさせたのではないかという説もある<ref>{{cite web
|url=http://www.bnl.gov/bera/activities/globe/leonardo_da_vinci.htm
|title=How do we know Leonardo was gay?
|publisher=Bnl.gov
|date=2001-05-03
|accessdate=2011-10-29
}}</ref>。この記録はレオナルドに同性愛者の傾向があったことを示唆しており、『洗礼者ヨハネ』や『バッカス』といった絵画作品、その他多くのドローイングに両性具有的な性愛表現が見られるとする研究者もいる<ref>Michael Rocke, ''Forbidden Friendships'' epigraph, p. 148 & N120 p.298</ref> <!-- The info contained here is beyond dispute. It HAS been claimed. Please look at the main article and carry on the argument there. -->。

=== 助手と弟子 ===
[[File:Saint Jean-Baptiste, by Leonardo da Vinci, from C2RMF retouched.jpg|thumb|upright|『洗礼者ヨハネ』、1514年頃、[[ルーヴル美術館]]([[パリ]])。ヨハネのモデルは弟子のサライだといわれている<ref name="Salai as John the Baptist">
{{cite news
|url=http://www.artdaily.com/index.asp?int_sec=2&int_new=44665
|title=Art Historian Silvano Vinceti Claims Male Model Behind Leonardo da Vinci's Mona Lisa |agency=Associated Press
|date=2011-2-2
|accessdate=2011-11-16
|author=Rizzo, Alessandra
}}</ref>。]]
「小悪魔」を意味する「サライ」という通称で知られるジャン・ジャコモ・カプロッティ ([[:en:Salaì]]) がレオナルドの邸宅に住み込んだのは1490年である。その後1年足らずで、サライはレオナルドの金銭や貴重品を少なくとも5度にわたって盗んだ。サライはこれらの盗品を高価な衣装の購入に充て、レオナルドはサライの不品行を「盗人、嘘吐き、強情、大食漢」と論っている<ref>Leonardo, Codex C. 15v, Institut of France. Trans. Richter</ref>。しかしながらレオナルドはサライをこの上なく甘やかし、その後30年にわたって自身の邸宅に住まわせている<ref>della Chiesa, p.84</ref>。サライはアンドレア・サライという名前で多くの絵画を描いた。しかしながら、レオナルドがサライに「絵画について非常に多くのことを教えた<ref name="Vasari, p.265"/>」が、レオナルドのほかの弟子たち、例えばマルコ・ドッジョーノ ([[:en:Marco d'Oggiono]])、ジョヴァンニ・アントーニオ・ボルトラッフィオ ([[:en:Giovanni Antonio Boltraffio]]) らの作品に比べると、芸術的価値に劣るといわれている。1515年にサライは『モナ・ヴァンナ』として知られる、『[[モナ・リザ]]』の裸体ヴァージョンの絵画を描いている<ref>{{cite web
|last=Gross
|first=Tom
|title=Mona Lisa Goes Topless
|work=
|publisher=Paintingsdirect.com
|date=
|url= http://www.paintingsdirect.com/content/artnews/032001/artnews1.html
|accessdate=2007-09-27
|archiveurl=http://web.archive.org/web/20070403073656/http://www.paintingsdirect.com/content/artnews/032001/artnews1.html
|archivedate=2007-04-03
}}</ref>。後に1525年にレオナルドが死去すると、サライは『モナ・リザ』を譲られた。サライはこの『モナ・リザ』は505リラの価値があると考えていたが、この評価額は当時の小さな肖像画としては異例なまでに高額だった<ref name=NR>
{{cite web
|last=Rossiter
|first=Nick
|title=Could this be the secret of her smile?
|work=
|publisher=Telegraph.co.UK
|date=2003-07-04
|url=http://www.telegraph.co.uk/arts/main.jhtml?xml=/arts/2003/04/07/banr.xml
|accessdate=2007-10-03
|location=London
}}</ref>。

レオナルドは1506年に[[ロンバルディア州|ロンバルディア]]の貴族の子息フランチェスコ・メルツィを弟子にした。メルツィはレオナルドお気に入りの弟子で、レオナルドがフランスへ移住したときにも同行し、レオナルドが死去するまで起居を共にしている<ref name=LB/>。メルツィはレオナルドの遺産として、芸術、科学の諸作品、写本、コレクションを贈られ、遺言執行人にも任命されていた。

== 絵画作品 ==
{{See also|:en:List of works by Leonardo da Vinci}}
近年の研究ではレオナルドの科学者や発明家としての才能が高く評価されているが、400年以上にわたってレオナルドがもっとも賞賛されてきたのは画家としての才能である。現存するレオナルドの真作、あるいはレオナルド作であろうと考えられている絵画作品は僅かではあるが、いずれの作品も傑作だと見なされている<ref>1490年時点で、レオナルドは「神の手を持つ」画家だといわれていた。(Daniel Arasse, ''Leonardo da Vinci'', pp.11–15)</ref>。

レオナルドの作品は、様々な出来の多くの模写が存在することでも有名で、長年にわたって美術品鑑定家や批評家を悩ませ続けてきた。レオナルドの真作に見られる優れた点は顔料の塗布手法だけでなく、解剖学、光学、植物学、地質学、人相学などの詳細な知識に立脚した、革新的な絵画技法である。人物の表情やポーズで感情を描写する技法、人物の配置構成における創造性、色調の繊細な移り変わりなど、レオナルドの絵画作品には際立った点が多くみられる。これらレオナルドの革新的絵画技法の集大成といえるのが『モナ・リザ』、『最後の晩餐』、『岩窟の聖母』である<ref>Frederick Hartt, ''A History of Italian Renaissance Art'', pp.387–411.</ref>。

=== 初期の絵画作品 ===
[[File:Leonardo Da Vinci - Annunciazione.jpeg|thumb|300px|『受胎告知』([[:en:Annunciation (Leonardo)]])、1475年 - 1485年、[[ウフィツィ美術館]]([[マドリード]])。レオナルドの完成している絵画としては、最初期の作品と見なされている。]]
レオナルドの画家としてのキャリアは、師ヴェロッキオとの合作『キリストの洗礼』に始まる。ほかにレオナルドの徒弟時代の作品として、2点の『受胎告知』がある。そのうち1点は縦14[[センチメートル|cm]]、横59cmの小さな絵画で、もともとは[[ロレンツォ・ディ・クレディ]]の大きな祭壇画の飾絵だったものが散逸した作品である。もう1点の『受胎告知』は縦98cm、横217cmという大規模な作品となっている<ref>della Chiesa, pp. 88, 90</ref>。どちらの『受胎告知』も、[[フラ・アンジェリコ]]の『受胎告知』などとよく似た伝統的な構図で描かれている。座した、あるいは跪いた聖母マリアを画面右に配し、背中の羽を高く掲げ、豪奢な衣装を身につけた横向きの天使が、純潔を意味するユリとともに画面左に配されている。大きな『受胎告知』(1472年 - 1475年、ウフィツィ美術館 ([[:en:Annunciation (Leonardo)]]))は、かつてはギルランダイオの作品と考えられていたが、現在ではレオナルドの真作にほぼ間違いないと考えられている<ref name=Berti>
{{Cite book
|first = Luciano
|last = Berti
|title = The Uffizi
|year = 1971
|pages = 59–62
}}</ref>。小さな『受胎告知』では、マリアは天使から眼を背け、両手を握りしめている。このポーズは神の意思への服従を象徴する。しかしながら大きな『受胎告知』のマリアは、このような服従を示すポーズをとっていない。予期せぬ天使の訪れで読書を中断させられたマリアの右手は、今まで読んでいた聖書に置かれ、左手は歓迎あるいは驚きを意味する、立てた状態で描かれている<ref name=Hartt/>。冷静ともいえるこの若きマリアのポーズは、[[神の母]]たる役割に服従するのではなく、自身に満ちて受け入れることを意味している。若きレオナルドはこの『受胎告知』でマリアを神格化せずに、人間の女性として描いた。これは神の顕現において人間が果たす役割を認識していることを表している
{{refnest |group = "注"
|イギリス人美術史家[[マイケル・バクサンドール]]は、伝統的な絵画に描かれた「受胎告知」で、聖母マリアの「賞賛に値する態度」あるいは反応を、動揺、沈思、問いかけ、服従、賞賛の5つに大別している。しかしながら、レオナルドの『受胎告知』のマリアは、これら伝統的な描写と合致してはいない<ref>
{{Cite book
|first=Michael
|last=Baxandall
|title=Painting and Experience in Fifteenth Century Italy
|year=1974
|pages=49–56
}}</ref>。
}}。
{{-}}

=== 1480年代の絵画作品 ===
[[File:Leonardo, san girolamo.jpg|left|thumb|upright|『荒野の聖ヒエロニムス』、1480年頃、[[バチカン宮殿|ヴァチカン宮殿]]、未完。]]
レオナルドは1480年代に、非常に重要な絵画2点の制作を引き受け、ほかに革新的な構成をもつ重要な絵画1点の制作を開始した。これら3点の絵画のうち2点は未完に終わり、残る1点が完成度合いや支払を巡って長い論争となった。未完に終わった絵画のうちの1点が『荒野の聖ヒエロニムス』で、美術史家リアナ・ボルトロンはこの絵画がレオナルドが不遇だった時代の作品ではないかとしており、その根拠としてレオナルドの日記の「生きることを学んできたつもりだったが、単に死ぬことを学んでいたらしい」という記述を挙げている<ref name=LB/>。

[[File:Virgin of the Rocks.jpg|thumb|『[[岩窟の聖母]]』、1483年 - 1486年、[[ルーヴル美術館]](パリ)。]]
『荒野の聖ヒエロニムス』は描き始めの時点で放棄された作品だが、極めて異例な構成をもって描かれている{{refnest |group = "注"
|『荒野の聖ヒエロニムス』は18世紀に女流画家[[アンゲリカ・カウフマン (画家)|アンゲリカ・カウフマン]]が所有していたが、後に裁断されてしまった。後世になって主要な2枚の断片が屑屋と靴屋で見つかり、修復されて現在に至っている<ref name=Wasser2>Wasserman, pp.104–6</ref>。ただし、作品の外周部は失われたものとみなされている。
}}。[[ヒエロニムス]]は苦行者として画面中央一杯に描かれ、傾けられた顔はやや上を向いている。左膝は地面に付けられており、右手は画面端まで伸ばされ、視線は右手とは反対の方向に向けられている。J.ワッサーマンは、この作品にレオナルドが持つ解剖学の知識が反映されていると指摘した<ref name=Wasser2/>。前面にはヒエロニムスの象徴である大きなライオンが寝そべり、その胴体と尾が別方向のカーブを描いている。背景に粗く描かれた岩地の風景が、ヒエロニムスの身体を浮かび上がらせている。

『荒野の聖ヒエロニムス』と同様に、大胆な構成、風景描写、さらには人間模様が描かれているのが『東方三博士の礼拝』(1481年、ウフィツィ美術館(マドリード))で、サン・ドナート・スコペート修道院の修道僧から依頼された作品だった。250cm 四方で、非常に複雑な構成が採用されている。レオナルドは『東方三博士の礼拝』を制作するにあたって、線遠近法で描かれた背景の古代ローマ建築物など、数多くのドローイングと習作を描いた。しかしながら、1482年にロレンツォ・デ・メディチから、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァへの使者としてミラノ公国へ向かうように命じられたため、『東方三博士の礼拝』の制作も未完のまま放棄されてしまった<ref name=Chiesa83/><ref name=Berti/>。

この時期に描かれたもうひとつの重要な絵画が『[[岩窟の聖母]]』で、ミラノの聖母無原罪の御宿り信心会からの依頼による作品である。『岩窟の聖母』は、ジョヴァンニ・アンブロージオ・デ・プレディス ([[:en:Giovanni Ambrogio de Predis]]) と弟エヴァンジェリスタが協力した作品で、既に完成していた祭壇を飾る大きな祭壇画として描かれた<ref>Wasserman, p.108</ref>。レオナルドはこの作品を、聖アンナ、聖母マリア、幼児キリストの聖家族が、天使に守られてのエジプトへの逃避中に幼い洗礼者ヨハネと出会うという、聖書の正典ではありえない場面に設定した。さらに幼いヨハネはキリストを救世主と認め、祈りを捧げている情景が表現されている。崩れ落ちそうな岩と渦巻く川を背景にして、青白い顔をした美しい人々が、幼児キリストを愛情をこめて崇拝している場面が描かれている<ref>
{{cite web
|title =The Mysterious Virgin
|work =
|publisher =National Gallery, London
|url =http://www.nationalgallery.org.uk/collection/features/potm/2006/may/feature1.htm
|accessdate = 2007-09-27
}}</ref>。『岩窟の聖母』は200cm × 120という比較的大規模な作品ではあるが、『東方三博士の礼拝』のような複雑な画面構成にはなっていない。『東方三博士の礼拝』にはおよそ15名の人物像と詳細な建築物が描かれているが、『岩窟の聖母』に描かれているのは4名の人物像と岩の洞窟だけである。『岩窟の聖母』は異なるヴァージョンで2点制作され、1点は聖母無原罪の御宿り信心会の礼拝堂に(現在ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵しているヴァージョン)、もう1点はレオナルドの手元に留め置かれ、後にレオナルドと共にフランスへと持ち込まれている(現在パリのルーヴル美術館が所蔵するヴァージョン)。しかしながら聖母無原罪の御宿り信心会が正式に『岩窟の聖母』を入手、ないし制作代金を支払ったのは16世紀になってからのことだった<ref name=DA>
{{Cite book
|first = Daniel
|last = Arasse
|title = Leonardo da Vinci
|year = 1998
}}</ref><ref name="Chiesa85"/>。

=== 1490年代の絵画作品 ===
[[File:Última Cena - Da Vinci 5.jpg|thumb|left|300px|『[[最後の晩餐 (レオナルド)|最後の晩餐]]』、1498年、[[サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 (ミラノ)|サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院]](ミラノ)。]]
レオナルドが1490年代に描いた絵画作品のなかでもっとも有名な作品は、ミラノの[[サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 (ミラノ)|サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院]]の食堂にある壁画『[[最後の晩餐 (レオナルド)|最後の晩餐]]』である。この作品にはキリストが捕縛、処刑される直前に、12名の弟子たちとともにとった夕餐の情景が描かれており、キリストが「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている<ref>『ヨハネによる福音書』13:21。</ref>」と口にした瞬間が描写されている。レオナルドは、このキリストの言葉によって12名の弟子たちが狼狽したという『[[ヨハネによる福音書]]』の一場面をこの壁画に描き出したのである<ref name=DA/>。

レオナルドの同時代人のイタリア人著述家マッテオ・バンデッロ(1480年ごろ - 1562年 ([[:en:Matteo Bandello]]))は、レオナルドがこの『最後の晩餐』の製作中には、数日間夜明けから夕暮れまで食事もとらずに絵画制作に没頭し、そのあと3、4日はまったく絵筆をとらなかったとしている<ref>Wasserman, p.124</ref>。この制作手法は修道院長には理解し難いものであり、レオナルドがミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァに苦情を申し立てるまで、上級幹部たちはレオナルドに迅速な作業を要求した。ヴァザーリは、レオナルドが『最後の晩餐』に描くキリストと裏切り者ユダの顔の表現に苦労しており、修道院長をモデルにするかもしれないとルドヴィーコに語ったと記している<ref>Vasari, p.263</ref>。

完成した『最後の晩餐』は、構成、人物表現共に非常に優れた作品だと評価されたが<ref>Vasari, p.262</ref>、急速に状態が劣化していき、完成の百年後には「完全に崩壊した」といわれるようになった<ref>della Chiesa, p.97</ref>。レオナルドはこの壁画を制作するにあたって信頼の置ける[[フレスコ|フレスコ技法]]ではなく、ジェッソを主材料とした下塗りの上から[[テンペラ]]を用いたため、作品表面にカビが生じ、顔料の剥落を招いてしまったのである<ref>della Chiesa, p.98</ref>。このような非常に大きな損傷を被っているとはいえ、『最後の晩餐』はもっとも模写や複製などが制作された絵画作品のひとつであり、絵画だけではなく絨毯やカメオなど、さまざまな媒体に複製されている。

=== 1500年代の絵画作品 ===
[[File:Mona Lisa, by Leonardo da Vinci, from C2RMF retouched.jpg|thumb|『[[モナ・リザ]]』、1503年 - 1505年/1507年、[[ルーヴル美術館]]。]]
レオナルドが16世紀に描いた小規模な肖像画で、[[ルーヴル美術館]]が所蔵する『[[モナ・リザ]]』は、世界でもっとも有名な絵画作品といわれている。描かれている女性が浮かべているとらえ所のない微笑が高く評価されている作品で、口元と目に表現された微妙な陰影がこの女性の謎めいた雰囲気をもたらしている。この微妙な陰影技法は「[[スフマート]]」あるいは「レオナルドの煙」と呼ばれている。ヴァザーリはこの『モナ・リザ』を直接目にしたことはなく、噂でしか知らなかったといわれているが、「その微笑は魅力的で、人間ではなく神が浮かべているようにみえる。この絵画を目にしたものは、まるでモデルが生きているかのように描かれていることに驚くことだろう」としている<ref>Vasari, p.267</ref>
{{refnest |group = "注"
|ヴァザーリが『モナ・リザ』を直接目にしたことがあるかどうかについては議論となっている。未見であるとする説の根拠は、ヴァザーリが『モナ・リザ』の眉毛に言及していることが主となっている。ダニエル・アラッセは著書『レオナルド・ダ・ヴィンチ』で、レオナルドは『モナ・リザ』に眉毛を描いていたが、後世に除去された可能性について述べている。16世紀半ばでは眉毛を抜くことが一般的だったという説もある<ref name=DA/>。『モナ・リザ』を高解像度カメラで解析したパスカル・コットは、オリジナルの『モナ・リザ』には眉毛とまつげが存在していたが、徐々に消えていってしまったと主張している<ref>{{cite news
|publisher=BBC News
|title= The Mona Lisa had brows and lashes
|date = 2007-10-22
|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/7056041.stm
|accessdate=2008-02-22
}}</ref>。
}}。

その他『モナ・リザ』の特徴として、飾り気のない衣装、うねって流れるような背後の風景、抑制された色調、極めて高度な写実技法などが挙げられる。これらの特徴は顔料に油絵の具を使用することによってもたらされたものだが、絵画技法はテンペラと同様な手法が用いられており、画肌表面で顔料を混ぜ合わせた筆あとはほとんど見られない{{refnest |group = "注"
|ジャック・ワッサーマンは「比類ない画肌処理」と呼んでいる<ref>Wasserman, p.144</ref>。
}}。ヴァザーリはレオナルドを「他者を絶望、落胆させるような、自信に満ちた芸術家」として、その絵画技術を絶賛している<ref>Vasari, p.266</ref>。ルネサンス期に制作された[[板絵]]としては、『モナ・リザ』の保存状態は完璧に近く、修復加筆の痕跡もほとんど見られない<ref>della Chiesa, p.103</ref>。

自然の風景の中に人物像を描くという『[[聖アンナと聖母子]]』の構成は、ジャック・ワッサーマンが「息をのむような美しさ」としており<ref>Wasserman, p.150</ref>、『荒野の聖ヒエロニムス』の傾いた人物像を髣髴とさせる。『聖アンナと聖母子』が群を抜いている点は、二人の人物が斜めに重ねあわされている構図にある。母アンナの膝に座る聖母マリアが、自身が将来遭遇する受難の象徴である子羊を手荒に扱うキリストをたしなめようと、身体を傾けて腕を伸ばしている<ref name=DA/>。『聖アンナと聖母子』も多くの模写が制作された絵画で、ミケランジェロ、ラファエロ、[[アンドレア・デル・サルト]]らにも影響を与え<ref>della Chiesa, p.109</ref>、さらにはその弟子である[[ヤコポ・ダ・ポントルモ]]、[[コレッジョ]]らにも影響を与えた。また、『聖アンナと聖母子』の画面構成はヴェネツィアの画家[[ティントレット]]や[[パオロ・ヴェロネーゼ]]らが好んで採用した。

=== ドローイング ===
{{multiple image
| align = right
| direction = horizontal
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| header =
| image1 = Leonardo da vinci, The Virgin and Child with Saint Anne 01.jpg
| width1 =175
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| caption1 = 『[[聖アンナと聖母子]]』、1510年頃、[[ルーヴル美術館]]。
| image2 = Leonardo - St. Anne cartoon-alternative-downsampled.jpg
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| caption2 = 『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』、1499年 - 1500年ごろ、[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]。
}}
レオナルドは多作な画家ではなかったが、多くのデッサンやドローイングを残しており、その[[レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿|手稿]]にはレオナルドが興味をもったあらゆる事象の小さなスケッチや詳細なドローイングで埋め尽くされている。絵画作品の習作や下絵も多く現存しており、『東方三博士の礼拝』、『岩窟の聖母』、『最後の晩餐』などの習作であると特定できるものもある<ref name=Popham/>。制作日時が判明している最初期のドローイングは1473年の『アルノ川の風景』で、川、山、モンテルーポ城、農地が極めて詳細に描かれている<ref name=LB/><ref name=Popham>
{{Cite book
|first = A.E.
|last = Popham
|title = The Drawings of Leonardo da Vinci
|year = 1946
}}</ref>。レオナルドが描いたドローイングの中で有名な作品として、人体の調和を表現した『[[ウィトルウィウス的人体図]]』(アカデミア美術館)、『岩窟の聖母』の習作『天使の頭部』(ルーヴル美術館)、植物が描かれた習作『ベツレヘムの星』(ウィンザー城[[ロイヤル・コレクション]])、160cm ×100cm の『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』(ナショナル・ギャラリー)などがある<ref name=Popham/>。色つきの紙に黒チョークで描かれた『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』には、陰影表現に『モナ・リザ』に見られるスフマート技法が用いられている。この『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』を直接の習作として描かれた絵画作品は存在しないともいわれているが、ルーヴル美術館が所蔵する『聖アンナと聖母子』は構成がよく似ている<ref>della Chiesa, p.102</ref>。

実在の人物をモデルとしていると思われるものの、大げさに誇張して描かれた「[[戯画|カリカチュア]]」と呼ばれる多くのドローイングがある。ヴァザーリは、レオナルドは興味を惹かれる容貌の持ち主を見かけると、一日中その後を着いてまわって観察し続けたと記している<ref>Vasari, p.261</ref>。美しい少年を描いた習作も数多く存在する。弟子のサライに関連するものも多いが、いわゆる「ギリシア人風の横顔」と称される、希少かつ高く評価されている習作がある<ref group = "注">「ギリシア人風の横顔」には額から高い鼻先までまっすぐにつながった横顔を持つ少年が描かれている。これは古代ギリシア彫刻に多くみられる特徴となっている。</ref>。これら端整な「ギリシア人風の横顔」は、レオナルドの戦士を描いた習作と好対照であるといわれることもある<ref name=Popham/>。また、サライは仮装のような装束で描かれていることも多い。レオナルドはショーや行列の演出を任されることもあり、これらはそのための習作だった可能性もある。その他に衣服の習作もあり、なかには極めて詳細に描かれたものも存在している。レオナルドは初期の作品から優れた衣服の表現技法を見せている。1479年にレオナルドがフィレンツェで描いた、猟奇的ともいえるスケッチがある。ロレンツォ・デ・メディチの弟ジュリアーノが暗殺された[[パッツィ家の陰謀]]に加担したベルナルド・バロンチェッリが、絞首刑に処せられた場面を描いたスケッチである<ref name=Popham/>。このスケッチにはレオナルドが流麗な[[鏡文字]]で書いた、バロンチェッリが処刑されたときに身につけていた衣服のことが記されている。
{{-}}


== 科学と技術 ==
=== ギャラリー ===
以下は、記事本文中で使用している絵画作品以外の、レオナルドの「真作 ({{lang|en|Universally accepted}})」、あるいは「ほぼ真作 ({{lang|en|Generally accepted}})]とされている絵画作品である。
* レオナルドは、最初に、内部を知り絵をより美しく真実に近づけようとする目的から、動物(馬とされる)の[[解剖]]を行った。後に人体の解剖に立ち会い、自分自身でも行い、極めて詳細に書きこんだ解剖図を多数作成している。人体及び[[解剖学]]に関する成果は、時に工学的に表現され、最古の[[ロボット]]の設計との評価も受けている。
* [[目]]の仕組みに付いても研究しており、眼球内で[[光]]が[[屈折]]し、[[網膜]]に届く様子を描いている。
* 当時、[[空気]]によると思われていた[[陰茎]]の[[勃起]]が、[[血液]]によるものであるという考察も、鏡文字(後述)で残している。
* 飛行することに興味を持った時期があり、[[鳥類|鳥]]の飛行する様子について詳細な研究を行い、それを元にいくつかの飛行用装置を試作したと言われている。その中には、実際に動かすことはできなかったが、4人の人力で飛ぶ[[ヘリコプター]]の他、[[オーニソプター]]や[[ハンググライダー]]に酷似したものも含まれている。落下に備えて、[[パラシュート]]のようなものも考案していた。[[1496年]][[1月3日]]に、彼が発明した機械で飛ぼうとして失敗した記録が残っている。
*[[日本]]では、レオナルドの描いたヘリコプターの図案が[[全日本空輸|全日本空輸(ANA)]]の社章として[[2012年]]3月まで使用されていた。この社章はかつては[[垂直尾翼]]にもデザインされていた。現行塗装では採用されなくなったが、2012年現在は復刻塗装機([[モヒカン刈り|モヒカン]]ジェット、[[ボーイング767]]・JA602A)で見ることができる。
* [[1502年]]、[[オスマン帝国]]の[[バヤズィト2世]]が行なった国家事業計画で、[[コンスタンティノープル|コンスタンティノポリス]]にかける240mの[[橋]]の設計を行なった。この橋は、[[ボスポラス海峡]]の、現在[[金角湾]]として知られる場所に架けられるはずだった。実際には橋は建設されなかったが、レオナルドの視点が再評価され、[[2001年]]、[[ノルウェー]]にその設計を元にした少し小さな橋が建設された。[http://www.vebjorn-sand.com/thebridge.htm]
* 機械類として、[[歯車]]を用いた史上初めての[[機械式計算機]]、[[バネ]]の動力で動く[[自動車]]などを構想していた。[[バチカン]]にいた頃には、[[凹面鏡]]を用いて太陽光を集め、[[水]]を温める[[太陽熱温水器]]で、太陽光線を[[工学]]的に利用することを考えていた。
* [[天文学]]の分野では、[[太陽]]と[[月]]は[[地球]]の周りを回っており、月の光は地球の[[海]]が太陽光線を反射したもの(天動説)だと考えていたが、後に地球は太陽の周りを回っている(地動説)と結論付けた。
* [[ダ・ヴィンチの星]]などの[[立体]]図形も考案している。
* [[水理学]]の観点からみると、[[アルノ川]]や[[ロアール川]]、[[ソーヌ川]]といった河川の改修に技術者として携わるなどしており、非常に優れた河川技術者でもあった<ref name="nezu">{{Cite book|和書|author=禰津家久|year=1995|title=水理学・流体力学|publisher=朝倉書店|id=ISBN 4-254-26135-7|pages=pp.5-6}}</ref>。河川改修のほかにも、非常に正確な乱流のスケッチや、流れの[[連続式]]の明示、『水の運動と測定』で水の流れに関する科学的な考察など水理学的な業績を残しており、[[禰津家久]]はレオナルドを「水理学の父」であると評価している<ref name="nezu" />。
<gallery>
<gallery>
File:Leonardo da Vinci, Ginevra de' Benci, 1474-78.png|『ジネヴラ・デ・ベンチの肖像』、1476年 - 1478年頃(諸説あり)、[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー・オブ・アート]]
File:View of a Skull II.jpg|頭蓋骨のスケッチ
File:Leonardo da Vinci Benois Madonna.jpg|『ブノワの聖母』、1479年 - 1480年頃(諸説あり)、[[エルミタージュ美術館]]
File:Leonardo helicopter.JPG|ヘリコプター図案
File:Madonna Litta.jpg|『リッタの聖母』、1481年 - 1497年頃(諸説あり)、[[エルミタージュ美術館]]、他者との合作という説もある
File:Design for a Flying Machine.jpg|人力オーニソプター図案
File:Leonardo da Vinci - Franchino Gaffurio.jpg|『音楽家の肖像』、1485年頃(諸説あり)、[[アンブロジアーナ図書館]]
File:Old Man with Water Studies.jpg|橋脚周囲に発生している乱流の正確なスケッチ
File:Dama z gronostajem.jpg|『[[白貂を抱く貴婦人]]』、1490年頃、[[チャルトリスキ美術館]]
File:Da Vinci Vitruve Luc Viatour.jpg|[[ウィトルウィウス的人体図]]
File:Leonardo da Vinci 050.jpg|『ミラノの貴婦人の肖像』、1496年 - 1497年頃(諸説あり)、[[ルーヴル美術館]]
File:Da Vinci Studies of Embryos Luc Viatour.jpg|胎児と子宮
File:Leonardo da Vinci, Madonna of the Yarnwinder, Buccleuch version.jpg|『糸車の聖母』、1501年 - 1507年頃(諸説あり)、[[スコットランド国立美術館]](バクルー・コレクションからの貸与絵画)、他者との合作という説もある<!--<ref>
{{Cite book
|last1=Syson
|first1=Luke
|coauthors=Larry Keith, Arturo Galansino, Antoni Mazzotta, Scott Nethersole and Per Rumberg
|title=Leonardo da Vinci: Painter at the Court of Milan
|location=London
|publisher=National Gallery
|year=2011
|page=294
}}</ref>-->
<ref>
{{cite book
|last=Zöllner
|first=Frank
|title=Leonardo da Vinci: The Complete Paintings and Drawings
|year=2011
|volume=1
|location=Cologne
|publisher=Taschen
|page=239
}}</ref>
File:Salvator Mundi (around 1500, private coll., possibly Leonardo).jpg|『救世主』、1504年 - 1507年頃(諸説あり)、プライベートコレクション
File:Leonardo da Vinci - Female head (La Scapigliata) - WGA12716.jpg|『ほつれ髪の女性』、1508年頃、パルマ国立美術館
</gallery>
</gallery>


=== レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿 ===
== 手稿 ==
[[File:Da Vinci Vitruve Luc Viatour.jpg|thumb|『[[ウィトルウィウス的人体図]]』、1485年頃、[[アカデミア美術館]](ウィーン)]]
{{see|レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿}}
{{seealso|レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿}}
レオナルドの多岐に渡る研究は、13,000ページに及ぶノートに、芸術的な図と共に記録されている。この膨大なノートは、19-20世紀になって、科学技術の分野での先駆的な研究として注目を集めるようになった。レオナルドはこれを出版する計画を抱いていたようである。
[[人文主義者|ルネサンス人文主義]]では、科学と芸術をかけ離れた両極端なものとは見なしてはいなかった。レオナルドが残した科学や工学に関する研究も、その芸術作品と同じく印象深い革新的なものだった<ref name=DA/>。これらの研究は13,000ページに及ぶ手稿にドローイングと共に記されており、現代科学の先駆ともいえる、芸術と[[自然哲学]]が融合したものである。手稿には日々の暮らしや旅行先でレオナルドが興味を惹かれた事柄が記録されており、レオナルドは自身を取り巻く世界への観察眼を終生持ち続けた<ref name=DA/>。


レオナルドの手跡はほとんどが草書体の鏡文字で記されている。この理由としてレオナルドの秘密主義によるものだとする説もあるが、単にレオナルドが書きやすかっただけだとする説もある。レオナルドは左利きであり、右から左へと文字を書くほうが楽だったと思われる<ref group = "注">左利きで先割れの羽ペンを使用する場合、左から右へと文字を綴ることは非常に難しい。</ref>。
ほとんどは左手で[[ペン]]を持ち、[[鏡文字]]で記述されている。彼が鏡文字を用いた理由は諸説ある。左利きであったために、乾く前のインクで手が汚れないようにするためという説、印刷しやすくするためという説、科学=異端という見方があったために、教会からの批判や弾圧を避けるためという説、[[ディスレクシア|読字障害]]であったという説などがある。


[[File:Da Vinci Studies of Embryos Luc Viatour.jpg|thumb|left|子宮内の胎児が描かれた手稿。1510年頃、[[ロイヤル・コレクション]]([[ウィンザー城]])]]
レオナルドの死後、ノートはメルツィに相続された。彼はそれをイタリアに持ち帰り、厳重に管理したとされるが、息子の時代に散逸してしまい、今は3分の1しか残っていないとされる。現在、彼のノートの殆どは国が所有しており、一部を富豪がコレクションしている。ノートを時系列で並べると、初期にはキリスト教の影響下にあった考え方が、観察と推測により徐々に事実へと近づく様子が見て取れる。
レオナルドの手稿とそのドローイングには、レオナルドが興味と関心を持ったあらゆる分野の事象が書かれている。食料品店や自身の召使いの一覧といった日常的なものから、翼や水上歩行用の靴の研究にいたるまで、極めて幅広いジャンルにまたがっている。そのほか、絵画の構成案、詳細表現や衣服の習作を始め、顔、感情表現、動物、乳児、解剖、植物の習作や研究、岩石の組成、川の渦巻き、兵器、ヘリコプター、建築の研究などが手稿に書かれている。さまざまな種類、大きさの紙に記されたこれらの手稿はレオナルドの死後に散逸し、現在では[[ウィンザー城]]の[[ロイヤル・コレクション]]、[[ルーヴル美術館]]、スペイン国立図書館 ([[:en:Biblioteca Nacional de España]])、[[ヴィクトリア&アルバート博物館]]などに所蔵されている。また、アンブロジアーナ図書館には12巻のアトランティコ手稿 ([[:en:Codex Atlanticus]]) が、大英博物館にはアランデル手稿 ([[:en:Codex Arundel]]) がそれぞれ所蔵されている<ref>
{{cite web
|title =Sketches by Leonardo
|work =Turning the Pages
|publisher =British Library
|url =http://www.bl.uk/onlinegallery/ttp/ttpbooks.html
|accessdate =2007-09-27
}}</ref>。[[ビル・ゲイツ]]が所蔵するレスター手稿 ([[:en:Codex Leicester (Leonardo da Vinci)]]) は科学に関する研究が多く記された手稿で、毎年1度、1カ国、1カ所のみで展示されている。


レオナルドの手稿は、最終的には出版することを目的として書かれたものだと考えられている。これは多くの手稿で様式や順番が整理されているためである。1枚の手稿にひとつの事柄について記されているものが多い。例えば人間の心臓や胎児について書かれた手稿には、詳細な説明とドローイングが1枚の紙に記されている<ref>Windsor Castle, Royal Library, sheets RL 19073v-19074v and RL 19102 respectively.</ref>。しかしながら、レオナルドの存命中にこれらの手稿が出版されなかった理由は分かっていない<ref name=DA/>。
[[1490年]]頃のノートには''プロポーションの法則'' (''Canon of Proportions'') が書かれている。このなかの『[[ウィトルウィウス的人体図]]』は、当時発見された古代ローマの[[建築家]]の[[ウィトルウィウス]]の「建築論」にある「人体は円と正方形に内接する」という記述を表現している。この図は、レオナルドの描いた中で最もよく引用されるものの一つであり、[[イタリア]]の1.00[[ユーロ]]硬貨にも用いられている。[[NTTドコモ]]のクレジット事業、[[iD (クレジット決済サービス)|iD]]のサービスマークにも使用されている。
{{-}}


=== 科学に関する手稿 ===
ノートには[[軍事]]関係のアイディアも多数描かれている。当時、権力者に売り込む最も良い手段が[[軍事技術]]であったことも関連している。[[機関銃]]、馬や人力によって動く装甲[[チャリオット|戦車]]、[[クラスター爆弾]]などである。[[潜水艦]]もある。しかし、彼は後に[[戦争]]は人類が行なう最も愚かなものと考えるようになった。
[[File:Leonardo polyhedra.png|thumb|upright|[[ルカ・パチョーリ]]の『神聖比率』([[:en:De divina proportione]]) の挿絵。レオナルドが描いたドローイングを版画にしたもの。]]
レオナルドの科学への取り組み方も観察によるものだった。ある事象を理解するために詳細な記述と画像化を繰り返し、実験や理論は重視していなかった。レオナルドは[[ラテン語]]や[[数学]]の正式な教育を受けておらず、独力でラテン語を習得したものの、当時の多くの学者からは科学者であるとは見なされていなかった。1490年代にレオナルドは[[ルカ・パチョーリ]]のもとで数学を学び、1509年に出版されることになるパチョーリの『神聖比率』の挿絵に使用する版画の下絵として、正多面体骨格モデルのドローイングを複数描いている<ref name=DA/>。残された手稿の内容から判断すると、レオナルドはさまざまな主題を扱った科学論文集を出版する予定だったと考えられる。平易な文章で書かれた[[解剖学]]を扱った手稿は、枢機卿ルイ・ダラゴンの秘書官がフランスを訪れていた1517年に実施された解剖を、レオナルドが見学した体験から書かれているといわれている<ref>
{{Cite book
|last = O'Malley
|last2 = Saunders
|title = Leonardo on the Human Body
|year = 1982
|publisher = Dover Publications
|publication-place = New York
}}</ref>。弟子のフランチェスコ・メルツィが編纂した解剖学、光や風景の表現手法に関するレオナルドの手稿が、1651年にフランスとイタリアで『絵画論 ({{lang|it|Trattato della pittura}})』(ウルビーノ手稿とも呼ばれる ([[:en:Codex Urbinas]]))として出版された。1724年にはドイツでも出版されている<ref>della Chiesa, p.117</ref>。『絵画論』がフランスで出版後50年間で62版まで版を重ねたこともあって、レオナルドは「フランス芸術学教育者の始祖」と見なされるようになっていった<ref name=DA/>。科学分野でレオナルドが行った実験は当時の科学理論に適ったものだったが、物理学者フリッチョフ・カプラのようにレオナルドを徹底的に追求した研究者たちは、後世の[[ガリレオ・ガリレイ]]、[[アイザック・ニュートン]]といった科学者たちと比べると、レオナルドは本質的に全く別種の研究者であるとし、レオナルドの科学的理論と仮説は芸術、とくに絵画と一体化したものだったと主張している<ref>Capra, Fritjof. The Science of Leonardo; Inside the Mind of the Genius of the Renaissance. (New York, Doubleday, 2007)</ref>。


=== 解剖学に関する手稿 ===
== エピソード ==
[[File:Studies of the Arm showing the Movements made by the Biceps.jpg|left|thumb|腕骨格の研究手稿、1510年頃。]]
* 本名は '''Leonardo di Ser Piero da Vinci''' (ヴィンチ家出身でセル・ピエロの〔息子の〕レオナルド)である。姓の da Vinci は「[[ヴィンチ]]村出身」という意味である。
レオナルドが人体解剖学の正式な教育を受け始めたのは、ヴェロッキオの徒弟時代のことで、これは師のヴェロッキオが弟子全員に解剖学の知識の習得を勧めたためである。レオナルドはすぐに画家にとって必要とされる局所解剖学の知識を身につけ、[[筋肉]]、[[腱]]など、人体の内部構造を描いた多くのドローイングを残している。
* レオナルドは自身の作品に「Leonardos」または「Io, Leonardo」とサインした。専門家も彼の作品を「da Vincis」ではなく「Leonardos」と表記する。ちなみに、ヴィンチ (Vinci) は[[イグサ]] (Vinchi, ヴィンキ) に由来し、レオナルドもそのモチーフを作中に取り入れている。
* フィレンツェ時代の[[1476年]]、当時有名な[[男娼]]だった17歳のヤコポ・サルタレッリ (Jacopo Saltarelli) にモデルを打診したことから、[[同性愛|同性愛者]]([[男色]]家)として匿名で告発された。他の3人の若い男性とともに同性愛者として容疑がかけられたが、証拠不十分で放免されている。しかし以後、レオナルドと3人の男性はフィレンツェの'''夜の士官'''(ルネサンス期の風紀取締り役のようなもの)から監視を受けた<ref>レオナルドの伝記を書いた[[ロバート・ペイン]]は、レオナルドが男性も女性と同じように愛し得たと信じていたようである([[娼婦]]との付き合いも彼のメモに残されている)。</ref>。当時は若者の間では同性愛は非常に進んだ考え方とされており{{要出典|date=2011年7月}}、レオナルドひとりが格別特異な性的嗜好を持っていたわけではない。ところが、時代が下り、知名度が上がるに連れ、スキャンダル性を演出する逸話として時代背景を無視して盛んに語られるようになった{{要出典|date=2011年7月}}。


著名な芸術家だったレオナルドは、フィレンツェのサンタ・マリーア・ヌオーヴァ病院 ([[:en:Hospital of Santa Maria Nuova]]) での遺体解剖の立会いを許可されており、さらに後にはミラノとローマの病院でも同様の立会いを許されている。レオナルドは1510年から1511年にかけてパドヴァ大学解剖学教授マルカントニオ・デッラ・トッレ ([[:en:Marcantonio della Torre]]) とともに共同研究を行った。レオナルドは200枚以上の紙にドローイングを描き、それらの多くに解剖学に関する覚書を記している。レオナルドの死後、これらの手稿を受け継いだ弟子のフランチェスコ・メルツィが出版しようとしたが、手稿の言及範囲の広さとレオナルド独特の筆記法のために作業は困難を極めた<ref name=KDK/>。結局メルツィの存命中には出版することができず、メルツィの死後50年以上にわたって作業は放置されてしまった。結局、1651年に出版された『絵画論』にも含まれることになる、解剖学に関する僅かな手稿のみが、フランスで1632年に出版されただけとなった<ref name=DA/><ref name=KDK>Kenneth D. Keele, ''Leonardo da Vinci's Influence on Renaissance Anatomy'', (1964)[http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1033412/pdf/medhist00157-0072.pdf]</ref>。メルツィはレオナルドの手稿を出版するにあたってその編纂を任されていた時期に、多数の解剖学者や芸術家たちがレオナルドの手稿を研究しており、画家のヴァザーリ、[[ベンヴェヌート・チェッリーニ|チェッリーニ]]、[[アルブレヒト・デューラー|デューラー]]らが、この手稿の挿絵をもとにした多くのドローイングを描いている<ref name=KDK/>。
== その他 ==

* ミラノの[[スフォルツァ騎馬像]](レプリカ):1989年、名古屋で開催された[[世界デザイン博覧会]]に高さ8.3m、幅3.6m、全長8.8mの[[繊維強化プラスチック|強化プラスチック]]像が東海銀行によって出展された。現在でも[[名古屋国際会議場]]に展示されている。
レオナルドは筋肉や腱などと同じく、人体骨格を扱った手稿も多数制作している。骨格と筋肉の機能に関するこれらの研究は、現代科学でいう[[バイオメカニクス]]の初歩にも適用可能な先駆的研究ともいわれている<ref name=Mason>
* この「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の項目の文章は2006年公開の映画「[[ダ・ヴィンチ・コード (映画)|ダ・ヴィンチ・コード]]」の広告に使用された。
{{cite book
*かつてのイタリアの50000リレ紙幣にその肖像が描かれた時代があった。
|last = Mason
*レオナルドの用いる遠近法は、正しい正遠近法に比べて、奥行きを強調しすぎた誤ったものである。ただしこれが意図的であるかははっきりしていない。
|first = Stephen F.
|title = A History of the Sciences
|publisher = Collier Books
|year = 1962
|location = New York, NY
|page = 550
|isbn =
}}</ref>。レオナルドは心臓や[[循環器]]、[[性器]]、[[器官|臓器]]などの手稿も残しており、胎児を描いた最初期の科学的なドローイングを描いている<ref name=Popham/>。芸術家としてのレオナルドは綿密な観察によって、加齢による影響、生理学的観点からみた感情表出を記録し、とくに激しい感情が人間に及ぼす影響について研究した。また、顔部に奇形や罹病跡をもつ人物のドローイングも多数描いている<ref name=DA/><ref name=Popham/>。

レオナルドは人間だけではなく、解剖に付されたウシ、鳥、サル、クマ、カエルといった動物の解剖画も手稿に描いており、人間との内部構造の違いを比較している。また、ウマに関する手稿も多く残している。

=== 工学と創案に関する手稿 ===
[[File:Design for a Flying Machine.jpg|thumb|[[オーニソプター]]の概念図、1488年頃、[[フランス学士院]]。]]
存命時のレオナルドは工学技術者としても評価されていた。ミラノ公[[ルドヴィーコ・スフォルツァ]]に宛てた書簡で、レオナルドは自らのことを都市防衛、都市攻略に用いるあらゆる兵器を作ることができると書いている。1499年にフランス軍に敗れたミラノ公国からヴェネツィアへと避難したレオナルドは、当地で工学技術者の職を得て、都市防衛のための移動要塞を考案している。また、[[ニッコロ・マキャヴェッリ]]も参画していたアルノ川流路変更計画にも、土木技術者として加わった<ref>
{{cite book
|author = Roger Masters
|title = Machiavelli, Leonardo and the Science of Power
|year = 1996
}}</ref><ref>
{{cite book
|author = Roger Masters
|title = Fortune is a River: Leonardo Da Vinci and Niccolò Machiavelli's Magnificent Dream to Change the Course of Florentine History
|year = 1998
}}</ref> 。レオナルドの手稿には、数多くの現実的あるいは非現実的な創案があり、楽器ヴィオラ・オルガニスタ ([[:en:Viola organista]])、水圧ポンプ、迫撃砲、蒸気砲などの創案が含まれている<ref name=LB/><ref name=DA/>。

1502年にレオナルドは、[[オスマン帝国]][[スルタン]]の[[バヤズィト2世]]が構想した土木工事計画のために長さ200メートルにおよぶ橋の設計図を制作している。この橋は[[ボスポラス海峡]]入り江の[[金角湾]]に架けられる予定だった。しかしながらバヤズィト2世はこのような大規模な土木工事は不可能だとして、この工事計画を承認しなかった。このときレオナルドがデザインした橋は、2001年にノルウェーで実施された「レオナルド・ブリッジ・プロジェクト ([[:en:Vebjørn Sand Da Vinci Project]]) で実際に建設された<ref>
{{cite web
|url=http://www.vebjorn-sand.com/
|title=The Leonardo Bridge Project
|publisher=Vebjorn-sand.com
|date= |accessdate=2011-10-29
}}</ref><ref>
{{cite news
|last =Levy
|first =Daniel S.
|title =Dream of the Master
|publisher =''Time'' magazine
|date = October 4, 1999
|url =http://www.vebjorn-sand.com/dreamsofthemaster.html
|accessdate =2007-09-27
|archiveurl = http://web.archive.org/web/20070912033510/http://www.vebjorn-sand.com/dreamsofthemaster.html
|archivedate = 2007-09-12
}}</ref>。

レオナルドはその生涯を通じて空を飛ぶことを夢見ていた。1505年ごろの『鳥の飛翔に関する手稿』 ([[:en:Codex on the Flight of Birds]]) などで鳥の飛翔を研究し、[[ハンググライダー]]や[[ヘリコプター]]のような飛行器具の概念図を制作している<ref name=DA/>。イギリスのテレビ局[[チャンネル4]]は2003年のドキュメンタリー番組『レオナルドが夢見た機械 (Leonardo's Dream Machines)』で、レオナルドの手稿に残る設計どおりにさまざまな器具を製作した<ref>[http://www.imdb.com/title/tt0365434/ Leonardo's Dream Machines]</ref>。設計どおりに動作したものもあれば、全く役に立たないものまでさまざまな結果となった。

== 名声と評価 ==
{{Main|:en:Cultural references to Leonardo da Vinci}}
[[File:Francois I recoit les derniers soupirs de Leonard de Vinci by Ingres.jpg|thumb|『レオナルド・ダ・ヴィンチの死』、[[ドミニク・アングル]]、1518年。レオナルドはフランス王フランソワ1世に看取られながら死去したという伝承をもとに描かれた作品。]]
レオナルドの名声は生前から一貫しており、フランス王フランソワ1世がレオナルドをまるで戦利品であるかのようにフランスへと連れて行くほどだった。フランソワ1世は最晩年のレオナルドを支え、レオナルドはフランソワ1世の腕の中で息を引き取ったという伝承が残っている。レオナルドに関する世間からの関心は、その後も衰えることはなかった。現在でもレオナルドの有名な美術作品を観るために大衆が列をなし、Tシャツにはレオナルドの絵画がプリントされ、作家たちはレオナルドの驚くべき博学さとその私生活についての考察を書き続け、史上最高の知性を持った人物であるとみなされている<ref name=DA/>。

ヴァザーリは『[[画家・彫刻家・建築家列伝]]』の1568年に出版された第2版の<ref>Vasari, p.255</ref>、レオナルドの列伝冒頭で次のように紹介している。
{{Quotation|
多くの人々がそれぞれに優れた才能を持ってこの世に生を受ける。しかし、ときに一人の人間に対して人知を遥かに超える、余人の遠く及ばない驚くばかりの美しさ、優雅さ、才能を天から与えられることがある。霊感とでもいうべきその言動は、人間の技能ではなく、まさしく神のみ技といえる。レオナルド・ダ・ヴィンチがこような人物であることは万人が認めるところで、素晴らしい肉体的な美しさを兼ね備えるこの芸術家は、言動のすべてが無限の優雅さに満ち、その洗練された才気はあらゆる問題を難なく解決してしまう輝かしいものだった。
|[[ジョルジョ・ヴァザーリ]]『[[画家・彫刻家・建築家列伝]]』
}}
画家、批評家、歴史家たちからの尽きることのない高い評価は、さまざまな賛辞となって表現されている。『宮廷人』の著者[[バルダッサーレ・カスティリオーネ]]は1528年に「ほかに世界最高の画家がいたとしても、彼(レオナルド)の懸絶した芸術の前では顔色を失うだろう」とし<ref>
{{Cite journal
|first = Baldassare
|last = Castiglione
|title = Il Cortegiano
|year = 1528
}}</ref>、レオナルドの伝記を書いた、通称アノニモ・ガッディアーノと呼ばれる詳細不明の伝記作家は1540年に「彼(レオナルド)の才能は極めて稀なあらゆる分野に通暁したもので、万物が彼に味方しているかのような奇跡といえるものである」と賞賛している<ref>"Anonimo Gaddiani", elaborating on ''Libro di Antonio Billi'', 1537–1542</ref>。

[[File:Leonardo IMG 1759.JPG|left|thumb|没地[[アンボワーズ]]にある、レオナルドの銅像。]]
19世紀はレオナルドの才能に対する賞賛がとくに高まった時期となった。これはイギリスで活動したスイス人画家[[ヨハン・ハインリヒ・フュースリー]]が1801年に書いた「現代美術の夜明けといえる出来事だった。レオナルド・ダ・ヴィンチが、それまでの優れているとはいえなかった芸術を光輝に満ちたものへと一変させた。ただ一人の天才がすべてのことを成し遂げたのである」という文章によるものだった<ref>
{{Cite journal
|first = Henry
|last = Fuseli
|title = Lectures
|volume = II
|year = 1801
}}</ref>。A. E. リオも1861年に「彼(レオナルド)は、その才能の偉大さ、高貴さにおいて、あらゆる芸術家から屹立した存在だった」とレオナルドを評価した<ref>
{{Cite journal
|first = A.E.
|last = Rio
|title = L'art chrétien
|year = 1861
}}</ref>

19世紀にはレオナルドが残した膨大な手稿が、その絵画作品と同様に広く知られるようになった。[[イポリット・テーヌ]]は1866年に「これほど多彩な才能を持つ人間はおそらく他に存在しない。飽きるということを知らず、その探究心は無限であり、生まれながらに洗練された、同時代はもちろん、その後何世紀にもわたって群を抜いている人物である」としている<ref>
{{Cite journal
|first = Hippolyte
|last = Taine
|title = Voyage en Italie
|year = 1866
}}</ref>。美術史家[[バーナード・ベレンソン]]は1896年に「レオナルドは真の天才といえる唯一の芸術家である。彼(レオナルド)が触れたものは、すべてが永遠の美へと姿を変えた。頭蓋骨の断面、雑草の構造、筋肉の習作などあらゆるものが、彼が持つ描線と陰影の感性によって永久の生命を吹き込まれたのである」と記している<ref>
{{Cite journal
|first = Bernard
|last = Berenson
|title = The Italian Painters of the Renaissance
|year = 1896
}}</ref>。

レオナルドの類稀な知性への関心は、衰えるところを知らない。専門家によるレオナルドの文章の研究と解釈、絵画作品への最先端の科学技術を駆使した分析によってその業績が明らかにされ、さらには、記録には残っているものの現存しないとされる作品の探索も試みられている<ref>
{{cite web
|url = http://www.artnewsonline.com/currentarticle.cfm?art_id=1240
|title = ArtNews article about current studies into Leonardo's life and works
|first = Melinda
|last = Henneberger
|publisher = Art News Online
|accessdate = 2010-01-10
|archiveurl = http://web.archive.org/web/20060505165842/http://www.artnewsonline.com/currentarticle.cfm?art_id=1240
|archivedate = 2006-05-05
}}</ref>。リアナ・ボルトロンは1967年の著書で「あらゆることに関心を示す彼(レオナルド)の好奇心が、さまざまな分野に対する知識を追い求めさせた。レオナルドは間違いなく比類なき万能の天才である。……レオナルドが没して5世紀が過ぎたが、未だにレオナルドは我々の畏敬の対象となっている」と記している<ref name= LB/>。
{{-}}

== 脚注 ==
{{reflist|colwidth=30em|group="注"}}

== 出典 ==
{{reflist|25em}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
{{refbegin|2}}
* {{cite book | author = Daniel Arasse| title = Leonardo da Vinci | publisher = Konecky & Konecky | year = 1997 | isbn = 1-56852-198-7}}
* {{cite book | author = Michael Baxandall | title = Painting and Experience in Fifteenth Century Italy | year = 1974 | publisher = Oxford University Press | isbn = 0-19-881329-5}}
* {{cite book | author = Fred Bérence | title = Léonard de Vinci, L'homme et son oeuvre | publisher = Somogy | year = 1965 | id = Dépot légal 4° trimestre 1965}}
* {{cite book | author = Luciano Berti | title = The Uffizi | year = 1971 | publisher = Scala}}
* {{cite book | author = Liana Bortolon| title = The Life and Times of Leonardo | publisher = Paul Hamlyn, London | year = 1967 | id = }}
* {{cite book | author = Hugh Brigstoke| title = The Oxford Companion the Western Art | publisher = U.S.: Oxford University Press | year = 2001 | isbn = 0-19-866203-3}}
* {{cite book | author = Gene A. Brucker| title = Renaissance Florence | publisher = Wiley and Sons| year = 1969 | isbn = 0-471-11370-0}}
* {{cite book | author = Fritjof Capra | title = The Science of Leonardo | publisher = Doubleday | location = U.S. | year = 2007 |isbn = 978-0-385-51390-6}}
* {{cite book | author = Cennino Cennini | title = Il Libro Dell'arte O Trattato Della Pittui | publisher = BiblioBazaar | location = U.S. | year = 2009 |isbn = 978-1-103-39032-8}}
* {{cite book | author = Angela Ottino della Chiesa| title = The Complete Paintings of Leonardo da Vinci | publisher = Penguin Classics of World Art series | year = 1967 | isbn = 0-14-008649-8}}
* {{cite book | author = Simona Cremante | title = Leonardo da Vinci: Artist, Scientist, Inventor | publisher = Giunti | year = 2005 | isbn = 88-09-03891-6 (hardback)}}
* {{cite book | author = Frederich Hartt| title = A History of Italian Renaissance Art | publisher = Thames and Hudson | year = 1970 | isbn = 0-500-23136-2}}
* {{cite book | author = Michael H. Hart | title = The 100 | publisher = Carol Publishing Group | year = 1992 | isbn = 0-8065-1350-0 (paperback)}}
* {{cite book | author = Martin Kemp| title = Leonardo | publisher = Oxford University Press| year = 2004 | isbn = 0-19-280644-0}}
*{{cite book | title=[http://libmma.contentdm.oclc.org/cdm/compoundobject/collection/p15324coll10/id/84801/rec/2 ''Leonardo da Vinci: anatomical drawings from the Royal Library, Windsor Castle''] | location=New York | publisher=The Metropolitan Museum of Art | year=1983 | isbn=9780870993626}}
* {{cite book| author = Mario Lucertini, Ana Millan Gasca, Fernando Nicolo | title = Technological Concepts and Mathematical Models in the Evolution of Modern Engineering Systems| work = | publisher = Birkhauser| year = 2004| isbn = 3-7643-6940-X}}
* {{cite book | author = John N. Lupia| title = The Secret Revealed: How to Look at Italian Renaissance Painting | publisher = Medieval and Renaissance Times, Vol. 1, no. 2 (Summer, 1994): 6–17 | issn = 1075-2110}}
* {{cite book | author = Andrew Martindale| title = The Rise of the Artist | publisher = Thames and Hudson | year = 1972 | isbn = 0-500-56006-4}}
* {{cite book | author = Roger Masters | title = Machiavelli, Leonardo and the Science of Power | publisher = University of Notre Dame Press | year = 1996 | isbn = 0-268-01433-7}}
* {{cite book | author = Roger Masters | title = Fortune is a River: Leonardo Da Vinci and Niccolò Machiavelli's Magnificent Dream to Change the Course of Florentine History | publisher = Simon & Schuster | year = 1998 | isbn = 0-452-28090-7}}
* {{cite book | author = Charles D. O'Malley and J. B. de C. M. Sounders | title = Leonardo on the Human Body: The Anatomical, Physiological, and Embryological Drawings of Leonardo da Vinci. With Translations, Emendations and a Biographical Introduction | publisher = Henry Schuman, New York | year = 1952 | id = }}
* {{cite book | author = Charles Nicholl | title = Leonardo da Vinci, The Flights of the Mind | publisher = Penguin | year = 2005 | isbn = 0-14-029681-6}}
* {{cite book | author = Sherwin B. Nuland| title = Leonardo Da Vinci | publisher = Phoenix Press | year = 2001 | isbn = 0-7538-1269-X}}
* {{cite book | author =A.E. Popham | title = The Drawings of Leonardo da Vinci | publisher = Jonathan Cape | year = 1946 | isbn = 0-224-60462-7}}
* {{cite book | author =Shana Priwer & Cynthia Phillips | title = The Everything Da Vinci Book: Explore the Life and Times of the Ultimate Renaissance Man | publisher = Adams Media | year = 2006 | isbn = 1-59869-101-5}}
* {{cite book | author = Ilan Rachum| title = The Renaissance, an Illustrated Encyclopedia'' | publisher = Octopus | year = 1979 | isbn = 0-7064-0857-8}}
* {{cite book | author = Jean Paul Richter | title = The Notebooks of Leonardo da Vinci | publisher = Dover | year = 1970 | isbn = 0-486-22572-0}} volume 2: ISBN 0-486-22573-9. A reprint of [http://www.gutenberg.org/etext/5000 the original 1883 edition].
* {{cite book | author = Marco Rosci| title = Leonardo | publisher = Bay Books Pty Ltd| year = 1977 | isbn = 0-85835-176-5}}
* {{cite book | author = Paolo Rossi| title = The Birth of Modern Science | publisher = Blackwell Publishing| year = 2001 | isbn = 0-631-22711-3}}
* {{cite book | author = Bruno Santi | title = Leonardo da Vinci | publisher = Scala / Riverside | year = 1990}}
* {{cite book |author = Theophilus | title = On Divers Arts | publisher = University of Chicago Press | location=U.S. |year = 1963 | isbn = 978-0-226-79482-2}}
* {{cite book | author = Jack Wasserman | title = Leonardo da Vinci | publisher = Abrams | year = 1975 | isbn = 0-8109-0262-1}}
* {{cite book | author = Giorgio Vasari| title = Lives of the Artists'' | publisher = Penguin Classics, trans. George Bull 1965| year = 1568 | isbn = 0-14-044164-6}}
* {{Cite book | first = Hugh Ross | last = Williamson | title = Lorenzo the Magnificent | year = 1974 | publisher = Michael Joseph | isbn = 0-7181-1204-0}}
* {{cite book | author = Emanuel Winternitz | title=Leonardo Da Vinci As a Musician | year=1982 | publisher=Yale University Press | location=U.S. | isbn=978-0-300-02631-3}}
* {{cite book | author = Alessandro Vezzosi | title = Leonardo da Vinci: Renaissance Man | publisher = Thames & Hudson Ltd, London | year = 1997 (English translation) | isbn = 0-500-30081-X}}
* {{cite book | author = Frank Zollner | title = Leonardo da Vinci: The Complete Paintings and Drawings | publisher = Taschen | year = 2003 | isbn = 3-8228-1734-1 (hardback)}} [The chapter "The Graphic Works" is by Frank Zollner & Johannes Nathan].
{{refend}}

== 関連文献 ==
* 『よみがえる最後の晩餐』片桐頼継、アメリア アレナス共著、日本放送出版協会、2000年 ISBN 4-14-080494-7
* 『よみがえる最後の晩餐』片桐頼継、アメリア アレナス共著、日本放送出版協会、2000年 ISBN 4-14-080494-7
* 『レオナルド・ダ・ヴィンチという神話』片桐頼継、角川選書、2003年 ISBN 4-04-703359-6
* 『レオナルド・ダ・ヴィンチという神話』片桐頼継、角川選書、2003年 ISBN 4-04-703359-6
167行目: 703行目:
*『レオナルド・ダ・ヴィンチ 伝説の虚実 創られた物語と西洋思想の系譜』 竹下節子 中央公論新社 2006年5月 ISBN 4-12-003733-9
*『レオナルド・ダ・ヴィンチ 伝説の虚実 創られた物語と西洋思想の系譜』 竹下節子 中央公論新社 2006年5月 ISBN 4-12-003733-9
*『レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯 飛翔する精神の軌跡』 チャールズ・ニコル 越川倫明ほか訳、白水社 2009年
*『レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯 飛翔する精神の軌跡』 チャールズ・ニコル 越川倫明ほか訳、白水社 2009年
*『レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と科学』 カルロ・ペドレッティ、アンドレ・シャステル、パオロ・ガッルッツィ、ルカ・アントッチャ、マルコ・チャンキ共著、[[前田富士男]]・ラーン大原三恵・小林明子訳、イースト・プレス、2006年。
*『[[下村寅太郎]]著作集5. レオナルド研究』 みすず書房 1992。
*『[[下村寅太郎]]著作集5. レオナルド研究』 みすず書房 1992。
*『[[兒島喜久雄]] レオナルド研究寄與』[[澤柳大五郎]]編、座右宝刊行会 1973。
*『[[兒島喜久雄]] レオナルド研究寄與』[[澤柳大五郎]]編、座右宝刊行会 1973。
*[[レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿]]
*[[レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿]]
** 『レオナルド素描集成』 レオナルド・ダ・ヴィンチおよびその周辺画家の素描、L.C.アラーノ解説
** 『レオナルド素描集成』 レオナルド・ダ・ヴィンチおよびその周辺画家の素描、L.C.アラーノ解説
**: 日本版は澤柳大五郎監修、三神弘彦訳、みすず書房.1984、大変高価
**: 日本版は澤柳大五郎監修、三神弘彦訳、みすず書房.1984。
**『レオナルド・ダ・ヴィンチ解剖図集』 松井喜三編解説 みすず書房 1971、新版2001
**『レオナルド・ダ・ヴィンチ解剖図集』 松井喜三編解説 みすず書房 1971、新版2001
*: 他に[[岩波書店]]で、多数刊行されている。

== 脚注 ==
{{reflist}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[美しき姫君]]
{{wikisourcelang|it|Autore:Leonardo da Vinci|{{PAGENAME}}}}
* [[ルネサンス期のイタリア絵画]]
{{Commons&cat|Leonardo da Vinci|Leonardo da Vinci}}
* [[フィウミチーノ空港|レオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港]]
* [[フィウミチーノ空港|レオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港]]
* [[児島喜久雄]] - 戦前日本におけるレオナルド・ダ・ヴィンチ研究の泰斗。
* [[児島喜久雄]] - 戦前日本におけるレオナルド・ダ・ヴィンチ研究の泰斗。
* [[澤柳大五郎]] - 児島の弟子でレオナルド・ダ・ヴィンチ研究もした。
* [[下村寅太郎]] - 戦後日本におけるレオナルド・ダ・ヴィンチ研究の泰斗。
* [[飯塚伊賀七]] - [[つくば市|つくば]]のダ・ヴィンチの異名を持つ。
* [[ダ・ヴィンチ・コード]] - レオナルドにまつわる謎を描いた小説
* [[ダ・ヴィンチ・コード]] - レオナルドにまつわる謎を描いた小説
* [[ダ・ヴィンチ]] - [[メディアファクトリー]]が発行している読書雑誌。
* [[コント・レオナルド]] - レオナルド熊が組んだコンビ。相方はブッチャー武者、石倉三郎。
* [[レオナルド・ディカプリオ]] - 彼の名前はレオナルド・ダ・ヴィンチに由来する。
* [[Da Vinci (医療ロボット)|da Vinci]] - 手術用ロボット。
* [[FEMTO LDV]] - [[レーシック]]に使用するレーザー照射装置。「LDV」は「Leonardo Da Vinci」の略。
* [[レオナルドダヴィん家]] - [[きゆづきさとこ]]原作のマンガ、「[[GA 芸術科アートデザインクラス]]」に登場する[[ダンボール]]製の部屋。[[芦原ちかこ]]が部長部屋として製作。
* [[エスエス製薬]] - 睡眠改善薬[[ドリエル]]の広告において「レオニャルド・フミンチ」という[[ネコ]]のキャラクターを使用している。


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Sisterlinks|commons=Leonardo da Vinci}}
* [http://www.gutenberg.net/etext04/7ldvc09.txt レオナルド・ダ・ヴィンチのノート] ([[プロジェクト・グーテンベルク|Project Gutenberg]]、英語、図無し)
{{Wikisource author|Leonardo da Vinci}}
* [http://www.bbc.co.uk/science/leonardo/ BBCのレオナルド特集ページ](英語)
* [http://www.gutenberg.net/etext04/7ldvc09.txt レオナルド・ダ・ヴィンチのノート] ([[プロジェクト・グーテンベルク|Project Gutenberg]])
* [http://www.bbc.co.uk/science/leonardo/ BBCのレオナルド特集ページ]
* {{ws|"[[wikisource:Catholic Encyclopedia (1913)/Leonardo da Vinci|Leonardo da Vinci]]" in the 1913 ''Catholic Encyclopedia''}}
* [http://leonardovirginoftherocks.blogspot.com/ Leonardo da Vinci and ''the Virgin of the Rocks'', A different point of view]
* {{gutenberg author|Leonardo_da_Vinci}}
* {{gutenberg|no=7785|name=Leonardo da Vinci'' by Maurice Walter Brockwell'}}
* [http://www.sacred-texts.com/aor/dv/index.htm Complete text & images of Richter's translation of the Notebooks]
* [http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/l/leonardo/ Web Gallery of Leonardo Paintings]
* [http://www.drawingsofleonardo.org/ Drawings of Leonardo da Vinci]
* [http://arts.guardian.co.uk/features/story/0,,1860869,00.html Da Vinci Decoded] Article from ''[[The Guardian]]''
* [http://www.ted.com/index.php/talks/view/id/235 The true face of Leonardo Da Vinci?]
* [http://www.ivu.org/history/davinci/hurwitz.html Leonardo da Vinci's Ethical Vegetarianism]
* [http://fulltextarchive.com/pages/The-Notebooks-of-Leonardo-Da-Vinci-Complete1.php The Notebooks of Leonardo da Vinci]
* [http://davincideluge.blogspot.com/ Selected 'prophecies' from Volume II of the notebooks (translated)]
*[http://hos.ou.edu/galleries//15thCentury/Leonardo/ Online Galleries, History of Science Collections, University of Oklahoma Libraries] High resolution images of works by and/or portraits of Leonardo da Vinci in .jpg and .tiff format.
* [http://www.royalcollection.org.uk/exhibitions/leonardo-da-vinci-anatomist Leonardo da Vinci: Anatomist] The Queen's Gallery, Buckingham Palace, Friday, 4 May 2012 to Sunday, 7 October 2012. High-resolution anatomical drawings.
*[http://news.yahoo.com/famous-leonardo-self-portrait-critical-condition-144805263.html Yahoo news, Leonardo's Self-portrait in critical condition]
*[http://news.yahoo.com/blogs/sideshow/exclusive-500-old-leonardo-da-vinci-sculpture-horse-201456519.html Yahoo news, EXCLUSIVE: 500-year-old Leonardo da Vinci sculpture ‘Horse and Rider’ unveiled]
{{レオナルド・ダ・ヴィンチ}}
{{Normdaten|TYP=p|GND=118640445|LCCN=n/79/34525|NDL=00447394|VIAF=24604287}}


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[[af:Leonardo da Vinci]]
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[[am:ሊዮናርዶ ዳቬንቺ]]
[[an:Leonardo da Vinci]]
[[ar:ليوناردو دا فينشي]]
[[arc:ܠܝܘܢܪܕܘ ܕܗ ܒܢܬܫܝ]]
[[arz:ليوناردو دافينشى]]
[[as:লিঅ'নাৰ্ড' দা ভিন্সি]]
[[ast:Leonardo da Vinci]]
[[ay:Leonardo da Vinci]]
[[az:Leonardo da Vinçi]]
[[ba:Леонардо да Винчи]]
[[bat-smg:Leuonards da Vėnčės]]
[[bcl:Leonardo Da Vinci]]
[[be:Леанарда да Вінчы]]
[[be-x-old:Леанарда да Вінчы]]
[[bg:Леонардо да Винчи]]
[[bn:লিওনার্দো দা ভিঞ্চি]]
[[bo:ལེ་ཨོ་ན་ཏོ་ཏ་ཧྥིན་ཆི།]]
[[br:Leonardo da Vinci]]
[[bs:Leonardo da Vinci]]
[[ca:Leonardo da Vinci]]
[[ch:Leonardo da Vinci]]
[[ckb:لێوناردۆ دا ڤینچی]]
[[crh:Leonardo da Vinçi]]
[[cs:Leonardo da Vinci]]
[[cv:Леонардо да Винчи]]
[[cy:Leonardo da Vinci]]
[[da:Leonardo da Vinci]]
[[de:Leonardo da Vinci]]
[[diq:Leonardo da Vinci]]
[[el:Λεονάρντο ντα Βίντσι]]
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2013年3月9日 (土) 06:00時点における版

レオナルド・ダ・ヴィンチ
Leonardo da Vinci
トリノ王宮図書館が所蔵するレオナルドの自画像。1513年 - 1515年頃
生誕 Leonardo di ser Piero da Vinci
(1452-04-15) 1452年4月15日
イタリアの旗 イタリアフィレンツェ共和国ヴィンチ
死没 1519年5月2日(1519-05-02)(67歳没)
フランスの旗 フランス アンボワーズ
国籍 イタリアの旗 イタリア
代表作モナ・リザ
最後の晩餐
ウィトルウィウス的人体図
運動・動向 盛期ルネサンス
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レオナルドのサイン

レオナルド・ダ・ヴィンチ (: Leonardo da Vinciイタリア語発音: [leoˈnardo da ˈvintʃi] it-Leonardo di ser Piero da Vinci.ogg 発音[ヘルプ/ファイル]1452年4月15日 - 1519年5月2日ユリウス暦))はイタリアルネサンス期を代表する芸術家。本名はレオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ (Leonardo di ser Piero da Vinci) で、絵画、彫刻、建築、音楽、科学、数学、工学、発明、解剖学、地学、地誌学、植物学など様々な分野に顕著な業績を残し、「万能人 (uomo universale)」 などと呼ばれている。

レオナルドはルネサンス期を代表する博学者であり、「飽くなき探究心」と「尽きることのない独創性」を兼ね備えた人物といわれている[1]。史上最高の画家の一人とされているとともに、おそらくは人類史上もっとも多才な人物である[2]。アメリカ人美術史家ヘレン・ガードナー (en:Helen Gardner) は、レオナルドが関心を持っていた領域分野の広さと深さは空前のもので「レオナルドの知性と性格は超人的、神秘的かつ隔絶的なものである」とした[1]。しかしながらマルコ・ロッシは、レオナルドに関して様々な考察がなされているが、レオナルドのものの見方は神秘的などではなく極めて論理的であり、その実証的手法が時代を遥かに先取りしていたのであるとしている[3]

レオナルドは、公証人セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチと農夫の娘カテリーナとの間に非嫡出子としてフィレンツェ共和国ヴィンチに生まれた。当時有名だったフィレンツェの画家ヴェロッキオの工房に弟子入りし、画家としてのキャリア初期にはミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァに仕えている。その後、ローマボローニャヴェネツィアなどで活動し、晩年はフランス王フランソワ1世に下賜されたフランスの邸宅で過ごした。

レオナルドは多才な人物だったが、存命中から現在にいたるまで、画家としての名声がもっとも高い[2]。とくに、その絵画作品中もっとも有名でもっとも多くのパロディ画が制作された肖像画『モナ・リザ』と[4]、もっとも多くの複製画や模写が描かれた宗教画『最後の晩餐』に比肩しうる絵画作品は、ミケランジェロが描いた『アダムの創造』以外には存在しないといわれている[1]。また、ドローイングの『ウィトルウィウス的人体図』も文化的象徴 (en:cultural icon) と見なされており[5]、イタリアの1ユーロ硬貨、教科書、Tシャツなど様々な製品に用いられている。現存するレオナルドの絵画作品は15点程度といわれており決して多くはない。これは、レオナルドが完全主義者で何度も自身の作品を破棄したこと、新たな技法の実験に時間をかけていたこと、ひとつの作品を完成させるまでに長年にわたって何度も手を加える習慣があったことなどによる[注 1]。それでもなお、絵画作品、レオナルドが残したドローイングや科学に関するイラストが描かれた手稿、絵画に対する信念などは後世の芸術家へ多大な影響を与えた。このようなレオナルドに匹敵する才能の持ち主だとされたのは、同時代人でレオナルドよりも20歳余り年少のミケランジェロだけであった。

レオナルドは科学的創造力の面でも畏敬されている[2]ヘリコプター戦車の概念化、太陽エネルギーや計算機の理論[6]、二重船殻構造 (en:double hull) の研究、さらには初歩のプレートテクトニクス理論も理解していた。レオナルドが構想、設計したこれらの科学技術のうち、レオナルドの存命中に実行に移されたものは僅かだったが[注 2]、自動糸巻器、針金の強度検査器といった小規模なアイディアは実用化され、製造業の黎明期をもたらした[注 3]。また、解剖学土木工学光学流体力学の分野でも重要な発見をしていたが、レオナルドがこれらの発見を公表しなかったために、後世の科学技術の発展に直接の影響を与えることはなかった[7]

生涯

幼少期、1452年から1466年

ヴィンチにあるレオナルドが幼少期を過ごした家。

レオナルドは1452年4月15日(ユリウス暦)の「日没3時間後」[注 4]に、トスカーナのヴィンチに生まれた。ヴィンチはアルノ川下流に位置する村で、メディチ家が支配するフィレンツェ共和国に属していた[9]。父はフィレンツェの裕福な公証人セル(メッセル)・ピエロ・フルオジーノ・ディ・アントーニオ・ダ・ヴィンチで、母は農夫の娘カテリーナである[8] [10] [注 5]

レオナルドの「姓」であるダ・ヴィンチは、「ヴィンチ(出身)の」とを意味する。出生名の「レオナルド・ディ・セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ」は、「ヴィンチ(出身)のセル(父親メッセルの略称)の(息子の)レオナルド」という意味となる[9]。セル(メッセル (Messer)) は敬称であり、レオナルドの父親が紳士階級に属していたことを表している。

現在知られている、レオナルドが描いた最初期のドローイング、ウフィツィ美術館マドリード)。

レオナルドの幼少期についてはほとんど伝わっていない。生まれてから5年をヴィンチの村落で母親と共に暮らし、1457年からは父親、祖父母、叔父フランチェスコと、ヴィンチの都市部で過ごした。レオナルドの父親セル・ピエロは、レオナルドが生まれて間もなくアルビエラという名前の16歳の娘と結婚しており、レオナルドとこの義母の関係は良好だったが、義母は若くして死去してしまっている[12]。レオナルドが16歳のときに、父親が20歳の娘フランチェスカ・ランフレディーニと再婚したが、セル・ピエロに嫡出子が誕生したのは、3回目と4回目の結婚時のことだった[13]。 レオナルドは、正式にではなかったがラテン語、幾何学、数学の教育を受けた。後にレオナルドは幼少期の記憶として二つの出来事を記している。ひとつはレオナルド自身が何らかの神秘体験と考えていた記憶で、ハゲワシが空から舞い降り、子供用ベッドで寝ていたレオナルドの口元をその尾で何度も打ち据えたというものである[14]。もうひとつの記憶は、山を散策していたレオナルドが洞窟を見つけたとときのものである。レオナルドは、洞窟の中に潜んでいるかもしれない化け物に怯えながらも、洞窟の内部はどのようになっているのだろうかという好奇心で一杯になったと記している[12]

レオナルドの幼少期は様々な推測の的となっている。[15]。16世紀の画家で、ルネサンス期の芸術家たちの伝記『画家・彫刻家・建築家列伝』を著したジョルジョ・ヴァザーリは、レオナルドの幼少期について次のように記述している。小作農の家で育ったレオナルドに、あるとき父親セル・ピエロが絵を描いてみるように勧めた。レオナルドが描いたのは口から火を吐く化け物の絵で、気味悪がったセル・ピエロはこの絵をフィレンツェの画商に売り払い、さらに画商からミラノ公の手に渡った。レオナルドの描いた絵で利益を手にしたセル・ピエロは、矢がハートに突き刺さった装飾のある楯飾りを購入し、レオナルドを育てた小作人へ贈った[16]

ヴェロッキオの工房時代、1466年 - 1476年

ヴェロッキオとレオナルドが描いた『キリストの洗礼』、1472年 - 1475年、ウフィツィ美術館(マドリード)。

1466年に、14歳だったレオナルドは「フィレンツェでもっとも優れた」工房のひとつを主宰していた芸術家ヴェロッキオに弟子入りした[17]。ヴェロッキオの弟子、あるいは協業関係にあった有名な芸術家として、ドメニコ・ギルランダイオペルジーノボッティチェッリロレンツォ・ディ・クレディらがいる[12][18]。レオナルドはこの工房で、理論面、技術面ともに目覚しい才能を見せた[19]。レオナルドの才能は、ドローイング、絵画、彫刻といった芸術分野だけでなく、設計分野、化学、冶金学、金属加工、石膏鋳型鋳造、皮細工、機械工学、木工など、様々な分野に及んでいた[20]

ヴェロッキオの工房で製作される絵画のほとんどは、弟子や工房の雇われ画家による作品だった。ヴァザーリはその著書で『キリストの洗礼』 (en:The Baptism of Christ) はヴェロッキオとレオナルドの合作で、レオナルドが受け持った箇所は、キリストのローブを捧げ持つ幼い天使であるとしている。そして、弟子レオナルドの技量があまりに優れていたために、師ヴェロッキオは二度と絵画を描くことはなかったと記されている[21][注 6]。『キリストの洗礼』はテンペラで描かれた絵画の上から、当時の新技法だった油彩で加筆された作品であり、近代の分析によると、風景、岩、キリストの大部分などもレオナルドの手によるものだといわれている[22]。また、レオナルドはヴェロッキオの美術作品2点のモデルになったともいわれている。それらの作品は、フィレンツェのバルジェロ美術館が所蔵するブロンズ彫刻『ダヴィデ』 (en:David (Verrocchio)) と、ロンドンナショナル・ギャラリーが所蔵する『トビアスと天使』 (en:Tobias and the Angel (Verrocchio)) に描かれている大天使ラファエルである[10]

レオナルドは20歳になる1472年までに、聖ルカ組合からマスター(親方)の資格を得ている。レオナルドが所属していた聖ルカ組合は、芸術だけでなく医学も対象としたギルドだった[注 7]。その後、父親セル・ピエロがレオナルドに工房を与えてヴェロッキオから独立させ、レオナルドはヴェロッキオとの協業関係を継続していった[12]。制作日付が知られているレオナルドの最初期の作品は、1473年8月5日に、ペンとインクでアルノ渓谷を描いたドローイングである[注 8][18]

円熟期、1476年 - 1513年

『東方三博士の礼拝』(1481年、ウフィツィ美術館(マドリード))。未完成のこの作品には、多くの人々に囲まれた聖母子が描かれている。遠景には風景と崩壊した建物が表現され、聖母子のほうへとやってくる多くの人々が描かれている。

1476年のフィレンツェの裁判記録に、レオナルド他3名の青年が同性愛の容疑をかけられたが放免されたというものがある[10][注 9]。この1476年以降、1478年になるまで、レオナルドの作品や居住地に関する記録が残っていない[23]。1478年にレオナルドは、ヴェロッキオとの共同制作を中止し、父親の家からも出て行った。アノニモ・ガッディアーノという正体不明の人物が、1480年にレオナルドがメディチ家の庇護を受けており、フィレンツェのサン・マルコ広場庭園で新プラトン主義者の芸術家、詩人、哲学者らが集まった、メディチ家が主宰するプラトン・アカデミーの一員だったという説を唱えている[10]。1478年1月にレオナルドは、最初の独立した絵画制作の依頼を受けた。ヴェッキオ宮殿サン・ベルナルド礼拝堂の祭壇画の制作で、1481年5月にはサン・ドナート・スコペート修道院の修道僧から、『東方三博士の礼拝』 (en:Adoration of the Magi (Leonardo)) の制作依頼も受けている[24]。しかしながら、礼拝堂祭壇画は未完成のまま放置された。『東方三博士の礼拝』もレオナルドがミラノ公国へと向かったために制作が中断され、未完成に終わっている。

ヴァザーリの著書によると、レオナルドは才能溢れる音楽家でもあり[25]、1482年に馬の頭部を意匠とした銀のリラを制作したとされている。フィレンツェの支配者ロレンツォ・デ・メディチが、この銀のリラを土産にレオナルドをミラノ公国へと向かわせ、当時のミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァとの間で平和条約を結ぼうとした[26]。当時のレオナルドがルドヴィーコに送った書簡の記述で、現在もよく引用される文章がある。レオナルドが自然科学分野で驚嘆すべき様々な業績を挙げていたことを物語る内容で、さらにレオナルドが絵画分野でも非凡な能力を有していることをルドヴィーコに告げる文章である[18][27]

レオナルドは1482年から1499年まで、ミラノ公国で活動した。現在ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する『岩窟の聖母』は、1483年に聖母無原罪の御宿り信心会からの依頼で、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の壁画『最後の晩餐』(1495年 - 1498年)も、このミラノ公国滞在時に描かれた作品である[28]。1493年から1495年のレオナルドの納税記録が現存しており、レオナルドの扶養家族の中にカテリーナという女性が記載されている。この女性は1495年に死去しているが、このときの葬儀費用明細から、レオナルドの生母カテリーナだと考えられている[29]

馬の側面と、胸から上、右脚が描かれた習作。ロイヤル・コレクションウィンザー城

レオナルドはミラノ公ルドヴィーコから、様々な企画を命じられた。特別な日に使用する山車とパレードの準備、ミラノ大聖堂円屋根の設計、スフォルツァ家の初代ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァの巨大な騎馬像の制作などである。ただしこの騎馬像は、レオナルドが手がける作品としては異例なことに、その後数年間にわたって制作が開始されなかった。騎馬像の原型となる粘土製の馬の像が完成したのは1492年である。このフランチェスコの騎馬像を大きさの点で凌ぐルネサンス期の彫刻作品は、ドナテッロの『ガッタメラータ騎馬像』(1453年、サンタントーニオ・ダ・パードヴァ聖堂前サント広場)と、ヴェロッキオの『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』(1496年、サン・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会前広場)の2作品だけであり、レオナルドが制作した粘土製の馬の像は、「巨大な馬 (Gran Cavallo)」として知られるようになっていった[18][注 10]。レオナルドはこの『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』の鋳造を具体的に進めようとしたが[18]、レオナルドを嫌っていた競争相手のミケランジェロは、レオナルドにこのような大仕事ができるわけがないと侮辱したといわれている[12]。この騎馬像制作のために17トンのブロンズが用意されたが、フランス王シャルル8世のミラノ侵攻に対抗するために、1494年11月にこのブロンズが大砲の製作材料に流用されてしまった[18]

1499年に第二次イタリア戦争が勃発し、イタリアに侵攻したフランス軍が、レオナルドがブロンズ増の原型用に制作した粘土像「巨大な馬」を射撃練習の的にして破壊した。ルドヴィーコ率いるミラノ公国はフランスに敗れ、レオナルドは弟子のサライや友人の数学者ルカ・パチョーリとともにヴェネツィアへと避難した[30]。レオナルドはこのヴェネツィアで、フランス軍の海上攻撃からヴェネツィアを守る役割の軍事技術者として雇われている[12]。レオナルドが故郷フィレンツェに帰還したのは1500年のことで、サンティッシマ・アンヌンツィアータ修道院 (en:Santissima Annunziata, Florence) の修道僧のもとで、家人ともども賓客として寓された。ヴァザーリの著書には、レオナルドがこの修道院で工房を与えられ、『聖アンナと聖母子』の習作ともいわれる『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』(1499年 - 1500年、ナショナル・ギャラリー)を描いたとされている。さらにこの『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』は「老若男女を問わず」多くの人が見物に訪れ、「祭りの様相を呈していた」と記されている[31] [注 11]

レオナルドがチェーザレ・ボルジアの命令で制作した、非常に精密なイーモラの地図。

1502年にレオナルドはチェゼーナを訪れ、ローマ教皇アレクサンデル6世の息子チェーザレ・ボルジアの軍事技術者として、チェーザレとともにイタリア中を行脚した[30]。1502年にレオナルドはチェーザレの命令で、要塞を建築するイーモラの開発計画となる地図を制作した。当時の地図は極めて希少であるだけでなく、その制作に当たってはレオナルドのまったく新しい概念が導入されていた。チェーザレはレオナルドを、土木技術に特化した工兵の長たる軍事技術者に任命している。同年にレオナルドは、トスカーナの渓谷地帯ヴァルディキアーナ (en:Valdichiana) の地図も制作している。この地図もチェーザレが軍事戦略上有利な地位を占めるのに役立った。

レオナルドは再びフィレンツェに戻り、1508年10月18日にフィレンツェの芸術家ギルド「聖ルカ組合」に再加入した。そして、フィレンツェ政庁舎(ヴェッキオ宮殿)大会議室の壁画『アンギアーリの戦い』のデザインと制作に2年間携わった[30]。このとき大会議室の反対側の壁では、ミケランジェロが『カッシーナの戦い』(en:Battle of Cascina (Michelangelo))) の制作に取り掛かっていた[注 12]。またレオナルドは1504年に、ミケランジェロが手がけていた完成間近の『ダヴィデ像』をどこに設置するべきかを決める委員会の一員になっている[35][注 13]

1506年にレオナルドはミラノを訪れた。ベルナルディーノ・ルイーニ、ジョヴァンニ・アントーニオ・ボルトラッフィオ (en:Giovanni Antonio Boltraffio)、マルコ・ドッジョーノ (en:Marco d'Oggione) ら、絵画分野におけるレオナルドの主要な弟子や追随者たちは、このミラノ滞在時に関係があった人々である[12][注 14]。ただし、1504年に父親セル・ピエロが死去したこともあって、このときのレオナルドのミラノ滞在は短期間に終わった。1507年にはフィレンツ家に戻り、父親の遺産を巡る兄弟たちとの問題解決に腐心している。翌1508年にミラノへ戻り、サンタ・バビーラ教会区のポルタ・オリエンターレに購入した邸宅に落ち着いた[37]

晩年、1513年 - 1519年

1513年9月から1516年にかけて、レオナルドはヴァチカンのベルヴェデーレで多くのときを過ごしている。当時のヴァチカンはミケランジェロと若きラファエロが活躍していた場所でもあった[37]。1515年10月にフランス王フランソワ1世がミラノ公国を占領し[24]、レオナルドはボローニャで開催された、フランソワ1世とローマ教皇レオ10世との和平会談に招かれた[12][38][39]。このときレオナルドは、歩いていって胸部からユリの花がこぼれる絡繰仕掛けのライオンの制作を依頼された[40] [注 15]

レオナルドが1519年に息を引き取ったクルーの館。

レオナルドは1516年にフランソワ1世に招かれ、フランソワ1世の居城アンボワーズ城近くのクルーの館が邸宅として与えられた[注 16]。レオナルドは死去するまでの最晩年の3年間を、弟子のミラノ貴族フランチェスコ・メルツィ (en:Francesco Melzi) ら、弟子や友人たちと共に過ごした。レオナルドがフランソワ1世から受け取った年金は、死去するまでの合計額で10,000スクードにのぼっている[37]

レオナルドは1519年5月2日にクルーの館で死去した。フランソワ1世とは緊密な関係を築いたと考えられており、ヴァザーリも自著でレオナルドがフランソワ1世の腕の中で息を引き取ったと記している。このエピソードはフランス人芸術家たちに親しまれ、ドミニク・アングル、フランソワ・ギョーム・メナゴーらが、このエピソードをモチーフにした作品を描き、オーストリア人画家アンゲリカ・カウフマンも同様の絵画を制作しているが、このエピソードはおそらく史実ではなく、伝説の類である[注 17]。さらにヴァザーリは、レオナルドが最後の数日間を司祭と過ごして告解を行い、臨終の秘蹟を受けたとしている[42]。レオナルドの遺言に従って、60名の貧者がレオナルドの葬列に参加した[注 18]。フランチェスコ・メルツィがレオナルドの主たる相続人兼遺言執行者で、メルツィはレオナルドの金銭的遺産だけでなく、絵画、道具、蔵書、私物なども相続した。また、長年の弟子で友人でもあったサライと使用人バッティスタ・ディ・ビルッシスに所有していたワイン畑を半分ずつ遺しているほか、自身の兄弟たちには土地を、給仕係の女性には毛皮の縁飾りがついた最高級の黒いマントを遺した[注 19][43]。レオナルドの遺体は、アンボワーズ城のサン=ユベール礼拝堂に埋葬された。

レオナルドの死後20年ほど後に、フランソワ1世が「かつてこの世界にレオナルドほど優れた人物がいただろうか。絵画、彫刻、建築のみならず、レオナルドはこの上なく傑出した哲学者でもあった」と語ったことが、彫金師、彫刻家ベンヴェヌート・チェッリーニの記録に記されている[44]

交友関係と影響

フィレンツェでレオナルドを取り巻いていた芸術的、社会的背景

ロレンツォ・ギベルティが制作したサン・ジョヴァンニ洗礼堂の『天国への門』。当時のフィレンツェが誇る芸術作品で、その制作には多くの芸術家が参画した。

レオナルドが若年だった当時のフィレンツェは、ルネサンス人文主義における思想、文化の中心地だった[17]。レオナルドがヴェロッキオに弟子入りした1466年は、ヴェロッキオの師で偉大な彫刻家だったドナテッロが死去した年でもある。遠近法を絵画作品に最初に取り入れて、風景画の発展に多大な貢献をなした画家パオロ・ウッチェロは、すでに老境に入っていた。画家ピエロ・デッラ・フランチェスカフィリッポ・リッピ、彫刻家ルカ・デッラ・ロッビア、建築家・著述家レオン・バッティスタ・アルベルティも60歳代だった。これら初期ルネサンスを代表する芸術家たちの次世代で成功を収めたのが、レオナルドの師ヴェロッキオ、アントニオ・デル・ポッライオーロ、ミーノ・ダ・フィエゾーレ (en:Mino da Fiesole) らである。フィエゾーレは人物彫刻を得意とした彫刻家で、ロレンツォ・デ・メディチの父親ピエロや伯父ジョヴァンニ (en:Giovanni di Cosimo de' Medici) の胸像は、本人に非常によく似ているといわれている[45][46][47][48]

また、当時のフィレンツェは、写実的で感情豊かな人物像をフレスコで描いた画家マサッチオ、人物と建築物が複雑な構成で表現されたサン・ジョヴァンニ洗礼堂の金箔に彩られた東扉『天国への門』を制作した彫刻家ロレンツォ・ギベルティなど、ドナテッロと同時代の芸術家たちの作品で飾り立てられていた。ピエロ・デッラ・フランチェスカは空気遠近法の研究を推し進め[49]、科学的に正確な光の描写を絵画にもたらした最初の画家となった。これらの研究とレオン・バッティスタ・アルベルティの『絵画論』といった芸術論文が[50]、当時の若年の芸術家たちに大きな影響を与え、レオナルドも先人たちからの影響のなかで独自の観察眼や芸術観を培っていった[45][47][48]

マサッチオの『楽園追放』(1425年ごろ、ブランカッチ礼拝堂壁画 (en:The Expulsion from the Garden of Eden)) は、裸身で取り乱すアダムとイヴを力強い造形で描いた作品である。光と陰の対比を用いて三次元的に人物を描写した『楽園追放』はレオナルドに大きな影響を与え、自身の作品でこの三次元的描写を発展させていくことになる。また、ドナテッロの彫刻『ダヴィデ』における人文主義的作風が、後のレオナルドの作品群、とくに『洗礼者ヨハネ』(1513年 - 1516年、ルーヴル美術館所蔵 (en:St. John the Baptist (Leonardo)))に影響を与えている[45][46]

『カーネーションの聖母』、1478年 - 1480年、アルテ・ピナコテークミュンヘン)。レオナルドが描いた初期の聖母子像。

フィレンツェで伝統的に好まれていた絵画分野に、聖母子を描いた小規模な祭壇画がある。当時、これらの祭壇画はリッピ、ヴェロッキオ、デッラ・ロッビア一族らの工房で制作された作品が多かった[45]。レオナルドが聖母子を描いた初期の作品に『カーネーションの聖母』(1478年 - 1480年、アルテ・ピナコテーク (en:Madonna of the Carnation))と『ブノアの聖母』(1478年頃、エルミタージュ美術館 (en:The Benois Madonna))がある。これらレオナルドが描いた聖母子は、基本的にはフィレンツェの伝統的な聖母子の作風に則っている。しかしながら『ブノアの聖母子』に顕著な聖母子をピラミッド型に配する構成は、伝統的な作風からは逸脱した表現となっている。後に同様の構成で描かれたレオナルドの作品に『聖アンナと聖母子』(1508年ごろ、ルーヴル美術館)がある[12]

レオナルドはボッティチェッリ(1445年ごろ - 1510年)、ギルランダイオ(1449年 - 1494年)、ペルジーノ(1450年ごろ - 1523年)と同時代人で、わずかに年少である[46]。レオナルドはこの3人と相弟子としてヴェロッキオの工房で出会い、メディチ家が主宰するプラトン・アカデミーに出入りした[12]。ボッティチェッリはとくにメディチ家に気に入られており、画家としての成功は約束されていたも同然だった。ギルランダイオとペルジーノはどちらも多作な画家で、後に大規模な工房を経営するにいたった。両者共に制作依頼主を満足させるだけの技量を持った芸術家で、ギルランダイオは大規模なフレスコ宗教画に裕福なフィレンツェ市民の肖像を描き入れた作品を、ペルジーノは甘美で無垢な多数の聖者や天使を描いた作品を、それぞれ得意としていた[45]

フーホ・ファン・デル・フースが描いた『ポルティナーリの三連祭壇画』中央パネル(1475年頃、ウフィツィ美術館)。フィレンツェのサンタ・マリーア・ヌオーヴァ施薬院付属サンテディジオ教会の祭壇画用として制作された。

ボッティチェッリとギルランダイオは、ローマ教皇シクストゥス4世から、ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂壁画制作の依頼を受けた。1479年にペルジーノがローマ教皇庁から、礼拝堂壁画制作の責任者に任じられて間もなくのことである。しかしながらこの栄誉ある壁画制作には、レオナルドは関与していない。レオナルドが依頼を受けた最初の重要な絵画制作は、1481年にサン・ドナート・スコペート修道院の修道僧からの『東方三博士の礼拝』 (en:Adoration of the Magi (Leonardo)) だが、未完のままに終わっている[12]

レオナルドがヴェロッキオの工房で働いていた時期の1476年に初期フランドル派の画家フーホ・ファン・デル・フースの油彩画『ポルティナーリの三連祭壇画』(1475年ごろ、ウフィツィ美術館 (en:Portinari Altarpiece))がフィレンツェに持ち込まれた。北方ヨーロッパの初期フランドル派が完成させた新たな絵画技法である油彩は、レオナルド、ギルランダイオ、ペルジーノら、フィレンツェで活動していた芸術家たちに多大な影響を与えた[46]。その後、シチリア出身の画家アントネッロ・ダ・メッシーナが油彩技法を身につけ、1479年にヴェネツィアを訪れた。当時のヴェネツィアで第一人者であった画家ジョヴァンニ・ベッリーニがメッシーナから油彩技法を伝授され、たちまちのうちにヴェネツィアでも油彩による絵画制作が主流となった。そして、後にレオナルドもヴェネツィアを訪れることになる[46][48]

当時の代表的な建築家ドナート・ブラマンテアントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ヴェッキオと同じように、レオナルドも集中形式の教会のデザインを試みた。多くの設計図や外観図がその手稿に残されているが、実現した計画はひとつもなかった[46][51]

ギルランダイオが描いたフレスコ画。左から、アントニオ・プッチ (en:Antonio di Puccio Pucci)、ロレンツォ・デ・メディチ、フランチェスコ・サセッティ (en:Francesco Sassetti)、ジュリオ・デ・メディチ

レオナルドがフィレンツェに在住していたときのフィレンツェの支配者はロレンツォ・デ・メディチだった。ロレンツォはレオナルドよりも3歳年長で、弟のジュリアーノは1478年に起きた、いわゆるパッツィ家の陰謀で暗殺された。後にレオナルドがメディチ家の使者として派遣されるミラノ公国を1479年から1499年まで統治したミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァは、レオナルドと同年の生まれである[46]

レオン・バッティスタ・アルベルティの紹介を受けてメディチ一族の邸宅を訪れたレオナルドは、哲学者で新プラトン主義の提唱者マルシリオ・フィチーノ、古典文学の注釈書の著者クリストフォロ・ランディーノ、ギリシア語教授でアリストテレスの著作の翻訳者ジョヴァンニ・アルギロプーロ (en:John Argyropoulos) ら、当時第一流のルネサンス人文主義者たちの知遇を得た。また、メディチ家が主催するプラトン・アカデミーには、才能に溢れた若き哲学者ピーコ・デッラ・ミランドラの姿もあった[46][48][52]。後にレオナルドは手稿の余白に「メディチが私を創り、そしてメディチが私を台無しにした」と書き入れている。レオナルドが、ロレンツォの推挙によってミラノ公の宮廷に迎え入れられたのは間違いなく、なぜレオナルドがこのような謎めいた書込みを残したのかは分かっていない[12]

盛期ルネサンス三大巨匠」と並び称されるレオナルド、ミケランジェロ、ラファエロだが、この三名は同年代人ではない。ミケランジェロが生まれたときにレオナルドは13歳で、ラファエロが生まれたときにはレオナルドは21歳だった[46]。レオナルドは1519年に67歳で、ラファエロは1520年に37歳でそれぞれ死去しているが、長命を保ったミケランジェロが死去したのは1564年で88歳のことである[47][48]

私生活

マントヴァ侯妃イザベラ・デステの肖像習作。1500年、ルーヴル美術館

レオナルドはその生涯を通じて、異常なまでの創意工夫の才を示し続けた。ヴァザーリはレオナルドを「ずば抜けた肉体美」「計り知れない優雅さ」「強靭な精神力と大いなる寛容さ」「威厳ある精神と驚くべき膨大な知性」と評し[53]、レオナルドがあらゆる面で人を惹きつける人物だったと記している。さらにヴァザーリは、レオナルドが菜食主義者であり、籠に入って売られている鳥を購入し、その鳥を放してやるような、命あるものをこよなく愛する人物だったとしている[54][55]。レオナルドには様々な分野の、歴史的に見ても重要な多くの友人がいた。例えば、近代会計学の父ともいわれる数学者ルカ・パチョーリは、1490年代にレオナルドと共著で数学の論文を著している[56]。フェラーラ公エルコレ1世・デステの娘で、マントヴァ侯妃イザベラとミラノ公妃イザベラの姉妹を除くと、レオナルドと親しかった女性は伝わっていない[57]。レオナルドはマントヴァ滞在中にイザベラの肖像習作を描いており、この習作をもとに肖像画を描いたと考えられているが、現存していない[12]

交友関係以外のレオナルドの私生活は謎に包まれている。とくにレオナルドの性的嗜好は、さまざまな当てこすり、研究、憶測の的になっている。最初にレオナルドの性的嗜好が話題になったのは16世紀半ばのことだった。その後19世紀、20世紀にもこの話題が取り上げられており、中でもジークムント・フロイトが唱えた説が有名である[58]。レオナルドともっとも親密な関係を築いたのは、おそらく弟子のサライとメルツィである。メルツィはレオナルドの死を知らせる書簡をレオナルドの兄弟に送った人物で、その書簡にはレオナルドがいかに自分たちを情熱的に愛したかということが書かれていた。16世紀になって、このようなレオナルドの人間関係は性的なものだったのではないかという説が生まれた。1476年のフィレンツェの裁判記録に、当時24歳だったレオナルド他3名の青年が、有名だった男娼と揉め事を起こしたとして、同性愛の容疑をかけられたという記録がある。この件は証拠不十分で放免されているが、容疑者の一人リオナルデ・デ・トルナブオーニがロレンツォ・デ・メディチの縁者であり[59]、メディチ家が圧力をかけて無罪とさせたのではないかという説もある[60]。この記録はレオナルドに同性愛者の傾向があったことを示唆しており、『洗礼者ヨハネ』や『バッカス』といった絵画作品、その他多くのドローイングに両性具有的な性愛表現が見られるとする研究者もいる[61]

助手と弟子

『洗礼者ヨハネ』、1514年頃、ルーヴル美術館パリ)。ヨハネのモデルは弟子のサライだといわれている[62]

「小悪魔」を意味する「サライ」という通称で知られるジャン・ジャコモ・カプロッティ (en:Salaì) がレオナルドの邸宅に住み込んだのは1490年である。その後1年足らずで、サライはレオナルドの金銭や貴重品を少なくとも5度にわたって盗んだ。サライはこれらの盗品を高価な衣装の購入に充て、レオナルドはサライの不品行を「盗人、嘘吐き、強情、大食漢」と論っている[63]。しかしながらレオナルドはサライをこの上なく甘やかし、その後30年にわたって自身の邸宅に住まわせている[64]。サライはアンドレア・サライという名前で多くの絵画を描いた。しかしながら、レオナルドがサライに「絵画について非常に多くのことを教えた[40]」が、レオナルドのほかの弟子たち、例えばマルコ・ドッジョーノ (en:Marco d'Oggiono)、ジョヴァンニ・アントーニオ・ボルトラッフィオ (en:Giovanni Antonio Boltraffio) らの作品に比べると、芸術的価値に劣るといわれている。1515年にサライは『モナ・ヴァンナ』として知られる、『モナ・リザ』の裸体ヴァージョンの絵画を描いている[65]。後に1525年にレオナルドが死去すると、サライは『モナ・リザ』を譲られた。サライはこの『モナ・リザ』は505リラの価値があると考えていたが、この評価額は当時の小さな肖像画としては異例なまでに高額だった[66]

レオナルドは1506年にロンバルディアの貴族の子息フランチェスコ・メルツィを弟子にした。メルツィはレオナルドお気に入りの弟子で、レオナルドがフランスへ移住したときにも同行し、レオナルドが死去するまで起居を共にしている[12]。メルツィはレオナルドの遺産として、芸術、科学の諸作品、写本、コレクションを贈られ、遺言執行人にも任命されていた。

絵画作品

近年の研究ではレオナルドの科学者や発明家としての才能が高く評価されているが、400年以上にわたってレオナルドがもっとも賞賛されてきたのは画家としての才能である。現存するレオナルドの真作、あるいはレオナルド作であろうと考えられている絵画作品は僅かではあるが、いずれの作品も傑作だと見なされている[67]

レオナルドの作品は、様々な出来の多くの模写が存在することでも有名で、長年にわたって美術品鑑定家や批評家を悩ませ続けてきた。レオナルドの真作に見られる優れた点は顔料の塗布手法だけでなく、解剖学、光学、植物学、地質学、人相学などの詳細な知識に立脚した、革新的な絵画技法である。人物の表情やポーズで感情を描写する技法、人物の配置構成における創造性、色調の繊細な移り変わりなど、レオナルドの絵画作品には際立った点が多くみられる。これらレオナルドの革新的絵画技法の集大成といえるのが『モナ・リザ』、『最後の晩餐』、『岩窟の聖母』である[68]

初期の絵画作品

『受胎告知』(en:Annunciation (Leonardo))、1475年 - 1485年、ウフィツィ美術館マドリード)。レオナルドの完成している絵画としては、最初期の作品と見なされている。

レオナルドの画家としてのキャリアは、師ヴェロッキオとの合作『キリストの洗礼』に始まる。ほかにレオナルドの徒弟時代の作品として、2点の『受胎告知』がある。そのうち1点は縦14cm、横59cmの小さな絵画で、もともとはロレンツォ・ディ・クレディの大きな祭壇画の飾絵だったものが散逸した作品である。もう1点の『受胎告知』は縦98cm、横217cmという大規模な作品となっている[69]。どちらの『受胎告知』も、フラ・アンジェリコの『受胎告知』などとよく似た伝統的な構図で描かれている。座した、あるいは跪いた聖母マリアを画面右に配し、背中の羽を高く掲げ、豪奢な衣装を身につけた横向きの天使が、純潔を意味するユリとともに画面左に配されている。大きな『受胎告知』(1472年 - 1475年、ウフィツィ美術館 (en:Annunciation (Leonardo)))は、かつてはギルランダイオの作品と考えられていたが、現在ではレオナルドの真作にほぼ間違いないと考えられている[70]。小さな『受胎告知』では、マリアは天使から眼を背け、両手を握りしめている。このポーズは神の意思への服従を象徴する。しかしながら大きな『受胎告知』のマリアは、このような服従を示すポーズをとっていない。予期せぬ天使の訪れで読書を中断させられたマリアの右手は、今まで読んでいた聖書に置かれ、左手は歓迎あるいは驚きを意味する、立てた状態で描かれている[45]。冷静ともいえるこの若きマリアのポーズは、神の母たる役割に服従するのではなく、自身に満ちて受け入れることを意味している。若きレオナルドはこの『受胎告知』でマリアを神格化せずに、人間の女性として描いた。これは神の顕現において人間が果たす役割を認識していることを表している [注 20]

1480年代の絵画作品

『荒野の聖ヒエロニムス』、1480年頃、ヴァチカン宮殿、未完。

レオナルドは1480年代に、非常に重要な絵画2点の制作を引き受け、ほかに革新的な構成をもつ重要な絵画1点の制作を開始した。これら3点の絵画のうち2点は未完に終わり、残る1点が完成度合いや支払を巡って長い論争となった。未完に終わった絵画のうちの1点が『荒野の聖ヒエロニムス』で、美術史家リアナ・ボルトロンはこの絵画がレオナルドが不遇だった時代の作品ではないかとしており、その根拠としてレオナルドの日記の「生きることを学んできたつもりだったが、単に死ぬことを学んでいたらしい」という記述を挙げている[12]

岩窟の聖母』、1483年 - 1486年、ルーヴル美術館(パリ)。

『荒野の聖ヒエロニムス』は描き始めの時点で放棄された作品だが、極めて異例な構成をもって描かれている[注 21]ヒエロニムスは苦行者として画面中央一杯に描かれ、傾けられた顔はやや上を向いている。左膝は地面に付けられており、右手は画面端まで伸ばされ、視線は右手とは反対の方向に向けられている。J.ワッサーマンは、この作品にレオナルドが持つ解剖学の知識が反映されていると指摘した[72]。前面にはヒエロニムスの象徴である大きなライオンが寝そべり、その胴体と尾が別方向のカーブを描いている。背景に粗く描かれた岩地の風景が、ヒエロニムスの身体を浮かび上がらせている。

『荒野の聖ヒエロニムス』と同様に、大胆な構成、風景描写、さらには人間模様が描かれているのが『東方三博士の礼拝』(1481年、ウフィツィ美術館(マドリード))で、サン・ドナート・スコペート修道院の修道僧から依頼された作品だった。250cm 四方で、非常に複雑な構成が採用されている。レオナルドは『東方三博士の礼拝』を制作するにあたって、線遠近法で描かれた背景の古代ローマ建築物など、数多くのドローイングと習作を描いた。しかしながら、1482年にロレンツォ・デ・メディチから、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァへの使者としてミラノ公国へ向かうように命じられたため、『東方三博士の礼拝』の制作も未完のまま放棄されてしまった[10][70]

この時期に描かれたもうひとつの重要な絵画が『岩窟の聖母』で、ミラノの聖母無原罪の御宿り信心会からの依頼による作品である。『岩窟の聖母』は、ジョヴァンニ・アンブロージオ・デ・プレディス (en:Giovanni Ambrogio de Predis) と弟エヴァンジェリスタが協力した作品で、既に完成していた祭壇を飾る大きな祭壇画として描かれた[73]。レオナルドはこの作品を、聖アンナ、聖母マリア、幼児キリストの聖家族が、天使に守られてのエジプトへの逃避中に幼い洗礼者ヨハネと出会うという、聖書の正典ではありえない場面に設定した。さらに幼いヨハネはキリストを救世主と認め、祈りを捧げている情景が表現されている。崩れ落ちそうな岩と渦巻く川を背景にして、青白い顔をした美しい人々が、幼児キリストを愛情をこめて崇拝している場面が描かれている[74]。『岩窟の聖母』は200cm × 120という比較的大規模な作品ではあるが、『東方三博士の礼拝』のような複雑な画面構成にはなっていない。『東方三博士の礼拝』にはおよそ15名の人物像と詳細な建築物が描かれているが、『岩窟の聖母』に描かれているのは4名の人物像と岩の洞窟だけである。『岩窟の聖母』は異なるヴァージョンで2点制作され、1点は聖母無原罪の御宿り信心会の礼拝堂に(現在ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵しているヴァージョン)、もう1点はレオナルドの手元に留め置かれ、後にレオナルドと共にフランスへと持ち込まれている(現在パリのルーヴル美術館が所蔵するヴァージョン)。しかしながら聖母無原罪の御宿り信心会が正式に『岩窟の聖母』を入手、ないし制作代金を支払ったのは16世紀になってからのことだった[18][30]

1490年代の絵画作品

最後の晩餐』、1498年、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院(ミラノ)。

レオナルドが1490年代に描いた絵画作品のなかでもっとも有名な作品は、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂にある壁画『最後の晩餐』である。この作品にはキリストが捕縛、処刑される直前に、12名の弟子たちとともにとった夕餐の情景が描かれており、キリストが「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている[75]」と口にした瞬間が描写されている。レオナルドは、このキリストの言葉によって12名の弟子たちが狼狽したという『ヨハネによる福音書』の一場面をこの壁画に描き出したのである[18]

レオナルドの同時代人のイタリア人著述家マッテオ・バンデッロ(1480年ごろ - 1562年 (en:Matteo Bandello))は、レオナルドがこの『最後の晩餐』の製作中には、数日間夜明けから夕暮れまで食事もとらずに絵画制作に没頭し、そのあと3、4日はまったく絵筆をとらなかったとしている[76]。この制作手法は修道院長には理解し難いものであり、レオナルドがミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァに苦情を申し立てるまで、上級幹部たちはレオナルドに迅速な作業を要求した。ヴァザーリは、レオナルドが『最後の晩餐』に描くキリストと裏切り者ユダの顔の表現に苦労しており、修道院長をモデルにするかもしれないとルドヴィーコに語ったと記している[77]

完成した『最後の晩餐』は、構成、人物表現共に非常に優れた作品だと評価されたが[78]、急速に状態が劣化していき、完成の百年後には「完全に崩壊した」といわれるようになった[79]。レオナルドはこの壁画を制作するにあたって信頼の置けるフレスコ技法ではなく、ジェッソを主材料とした下塗りの上からテンペラを用いたため、作品表面にカビが生じ、顔料の剥落を招いてしまったのである[80]。このような非常に大きな損傷を被っているとはいえ、『最後の晩餐』はもっとも模写や複製などが制作された絵画作品のひとつであり、絵画だけではなく絨毯やカメオなど、さまざまな媒体に複製されている。

1500年代の絵画作品

モナ・リザ』、1503年 - 1505年/1507年、ルーヴル美術館

レオナルドが16世紀に描いた小規模な肖像画で、ルーヴル美術館が所蔵する『モナ・リザ』は、世界でもっとも有名な絵画作品といわれている。描かれている女性が浮かべているとらえ所のない微笑が高く評価されている作品で、口元と目に表現された微妙な陰影がこの女性の謎めいた雰囲気をもたらしている。この微妙な陰影技法は「スフマート」あるいは「レオナルドの煙」と呼ばれている。ヴァザーリはこの『モナ・リザ』を直接目にしたことはなく、噂でしか知らなかったといわれているが、「その微笑は魅力的で、人間ではなく神が浮かべているようにみえる。この絵画を目にしたものは、まるでモデルが生きているかのように描かれていることに驚くことだろう」としている[81] [注 22]

その他『モナ・リザ』の特徴として、飾り気のない衣装、うねって流れるような背後の風景、抑制された色調、極めて高度な写実技法などが挙げられる。これらの特徴は顔料に油絵の具を使用することによってもたらされたものだが、絵画技法はテンペラと同様な手法が用いられており、画肌表面で顔料を混ぜ合わせた筆あとはほとんど見られない[注 23]。ヴァザーリはレオナルドを「他者を絶望、落胆させるような、自信に満ちた芸術家」として、その絵画技術を絶賛している[84]。ルネサンス期に制作された板絵としては、『モナ・リザ』の保存状態は完璧に近く、修復加筆の痕跡もほとんど見られない[85]

自然の風景の中に人物像を描くという『聖アンナと聖母子』の構成は、ジャック・ワッサーマンが「息をのむような美しさ」としており[86]、『荒野の聖ヒエロニムス』の傾いた人物像を髣髴とさせる。『聖アンナと聖母子』が群を抜いている点は、二人の人物が斜めに重ねあわされている構図にある。母アンナの膝に座る聖母マリアが、自身が将来遭遇する受難の象徴である子羊を手荒に扱うキリストをたしなめようと、身体を傾けて腕を伸ばしている[18]。『聖アンナと聖母子』も多くの模写が制作された絵画で、ミケランジェロ、ラファエロ、アンドレア・デル・サルトらにも影響を与え[87]、さらにはその弟子であるヤコポ・ダ・ポントルモコレッジョらにも影響を与えた。また、『聖アンナと聖母子』の画面構成はヴェネツィアの画家ティントレットパオロ・ヴェロネーゼらが好んで採用した。

ドローイング

『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』、1499年 - 1500年ごろ、ナショナル・ギャラリー

レオナルドは多作な画家ではなかったが、多くのデッサンやドローイングを残しており、その手稿にはレオナルドが興味をもったあらゆる事象の小さなスケッチや詳細なドローイングで埋め尽くされている。絵画作品の習作や下絵も多く現存しており、『東方三博士の礼拝』、『岩窟の聖母』、『最後の晩餐』などの習作であると特定できるものもある[88]。制作日時が判明している最初期のドローイングは1473年の『アルノ川の風景』で、川、山、モンテルーポ城、農地が極めて詳細に描かれている[12][88]。レオナルドが描いたドローイングの中で有名な作品として、人体の調和を表現した『ウィトルウィウス的人体図』(アカデミア美術館)、『岩窟の聖母』の習作『天使の頭部』(ルーヴル美術館)、植物が描かれた習作『ベツレヘムの星』(ウィンザー城ロイヤル・コレクション)、160cm ×100cm の『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』(ナショナル・ギャラリー)などがある[88]。色つきの紙に黒チョークで描かれた『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』には、陰影表現に『モナ・リザ』に見られるスフマート技法が用いられている。この『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』を直接の習作として描かれた絵画作品は存在しないともいわれているが、ルーヴル美術館が所蔵する『聖アンナと聖母子』は構成がよく似ている[89]

実在の人物をモデルとしていると思われるものの、大げさに誇張して描かれた「カリカチュア」と呼ばれる多くのドローイングがある。ヴァザーリは、レオナルドは興味を惹かれる容貌の持ち主を見かけると、一日中その後を着いてまわって観察し続けたと記している[90]。美しい少年を描いた習作も数多く存在する。弟子のサライに関連するものも多いが、いわゆる「ギリシア人風の横顔」と称される、希少かつ高く評価されている習作がある[注 24]。これら端整な「ギリシア人風の横顔」は、レオナルドの戦士を描いた習作と好対照であるといわれることもある[88]。また、サライは仮装のような装束で描かれていることも多い。レオナルドはショーや行列の演出を任されることもあり、これらはそのための習作だった可能性もある。その他に衣服の習作もあり、なかには極めて詳細に描かれたものも存在している。レオナルドは初期の作品から優れた衣服の表現技法を見せている。1479年にレオナルドがフィレンツェで描いた、猟奇的ともいえるスケッチがある。ロレンツォ・デ・メディチの弟ジュリアーノが暗殺されたパッツィ家の陰謀に加担したベルナルド・バロンチェッリが、絞首刑に処せられた場面を描いたスケッチである[88]。このスケッチにはレオナルドが流麗な鏡文字で書いた、バロンチェッリが処刑されたときに身につけていた衣服のことが記されている。

ギャラリー

以下は、記事本文中で使用している絵画作品以外の、レオナルドの「真作 (Universally accepted)」、あるいは「ほぼ真作 (Generally accepted)]とされている絵画作品である。

手稿

ウィトルウィウス的人体図』、1485年頃、アカデミア美術館(ウィーン)

ルネサンス人文主義では、科学と芸術をかけ離れた両極端なものとは見なしてはいなかった。レオナルドが残した科学や工学に関する研究も、その芸術作品と同じく印象深い革新的なものだった[18]。これらの研究は13,000ページに及ぶ手稿にドローイングと共に記されており、現代科学の先駆ともいえる、芸術と自然哲学が融合したものである。手稿には日々の暮らしや旅行先でレオナルドが興味を惹かれた事柄が記録されており、レオナルドは自身を取り巻く世界への観察眼を終生持ち続けた[18]

レオナルドの手跡はほとんどが草書体の鏡文字で記されている。この理由としてレオナルドの秘密主義によるものだとする説もあるが、単にレオナルドが書きやすかっただけだとする説もある。レオナルドは左利きであり、右から左へと文字を書くほうが楽だったと思われる[注 25]

子宮内の胎児が描かれた手稿。1510年頃、ロイヤル・コレクションウィンザー城

レオナルドの手稿とそのドローイングには、レオナルドが興味と関心を持ったあらゆる分野の事象が書かれている。食料品店や自身の召使いの一覧といった日常的なものから、翼や水上歩行用の靴の研究にいたるまで、極めて幅広いジャンルにまたがっている。そのほか、絵画の構成案、詳細表現や衣服の習作を始め、顔、感情表現、動物、乳児、解剖、植物の習作や研究、岩石の組成、川の渦巻き、兵器、ヘリコプター、建築の研究などが手稿に書かれている。さまざまな種類、大きさの紙に記されたこれらの手稿はレオナルドの死後に散逸し、現在ではウィンザー城ロイヤル・コレクションルーヴル美術館、スペイン国立図書館 (en:Biblioteca Nacional de España)、ヴィクトリア&アルバート博物館などに所蔵されている。また、アンブロジアーナ図書館には12巻のアトランティコ手稿 (en:Codex Atlanticus) が、大英博物館にはアランデル手稿 (en:Codex Arundel) がそれぞれ所蔵されている[91]ビル・ゲイツが所蔵するレスター手稿 (en:Codex Leicester (Leonardo da Vinci)) は科学に関する研究が多く記された手稿で、毎年1度、1カ国、1カ所のみで展示されている。

レオナルドの手稿は、最終的には出版することを目的として書かれたものだと考えられている。これは多くの手稿で様式や順番が整理されているためである。1枚の手稿にひとつの事柄について記されているものが多い。例えば人間の心臓や胎児について書かれた手稿には、詳細な説明とドローイングが1枚の紙に記されている[92]。しかしながら、レオナルドの存命中にこれらの手稿が出版されなかった理由は分かっていない[18]

科学に関する手稿

ルカ・パチョーリの『神聖比率』(en:De divina proportione) の挿絵。レオナルドが描いたドローイングを版画にしたもの。

レオナルドの科学への取り組み方も観察によるものだった。ある事象を理解するために詳細な記述と画像化を繰り返し、実験や理論は重視していなかった。レオナルドはラテン語数学の正式な教育を受けておらず、独力でラテン語を習得したものの、当時の多くの学者からは科学者であるとは見なされていなかった。1490年代にレオナルドはルカ・パチョーリのもとで数学を学び、1509年に出版されることになるパチョーリの『神聖比率』の挿絵に使用する版画の下絵として、正多面体骨格モデルのドローイングを複数描いている[18]。残された手稿の内容から判断すると、レオナルドはさまざまな主題を扱った科学論文集を出版する予定だったと考えられる。平易な文章で書かれた解剖学を扱った手稿は、枢機卿ルイ・ダラゴンの秘書官がフランスを訪れていた1517年に実施された解剖を、レオナルドが見学した体験から書かれているといわれている[93]。弟子のフランチェスコ・メルツィが編纂した解剖学、光や風景の表現手法に関するレオナルドの手稿が、1651年にフランスとイタリアで『絵画論 (Trattato della pittura)』(ウルビーノ手稿とも呼ばれる (en:Codex Urbinas))として出版された。1724年にはドイツでも出版されている[94]。『絵画論』がフランスで出版後50年間で62版まで版を重ねたこともあって、レオナルドは「フランス芸術学教育者の始祖」と見なされるようになっていった[18]。科学分野でレオナルドが行った実験は当時の科学理論に適ったものだったが、物理学者フリッチョフ・カプラのようにレオナルドを徹底的に追求した研究者たちは、後世のガリレオ・ガリレイアイザック・ニュートンといった科学者たちと比べると、レオナルドは本質的に全く別種の研究者であるとし、レオナルドの科学的理論と仮説は芸術、とくに絵画と一体化したものだったと主張している[95]

解剖学に関する手稿

腕骨格の研究手稿、1510年頃。

レオナルドが人体解剖学の正式な教育を受け始めたのは、ヴェロッキオの徒弟時代のことで、これは師のヴェロッキオが弟子全員に解剖学の知識の習得を勧めたためである。レオナルドはすぐに画家にとって必要とされる局所解剖学の知識を身につけ、筋肉など、人体の内部構造を描いた多くのドローイングを残している。

著名な芸術家だったレオナルドは、フィレンツェのサンタ・マリーア・ヌオーヴァ病院 (en:Hospital of Santa Maria Nuova) での遺体解剖の立会いを許可されており、さらに後にはミラノとローマの病院でも同様の立会いを許されている。レオナルドは1510年から1511年にかけてパドヴァ大学解剖学教授マルカントニオ・デッラ・トッレ (en:Marcantonio della Torre) とともに共同研究を行った。レオナルドは200枚以上の紙にドローイングを描き、それらの多くに解剖学に関する覚書を記している。レオナルドの死後、これらの手稿を受け継いだ弟子のフランチェスコ・メルツィが出版しようとしたが、手稿の言及範囲の広さとレオナルド独特の筆記法のために作業は困難を極めた[96]。結局メルツィの存命中には出版することができず、メルツィの死後50年以上にわたって作業は放置されてしまった。結局、1651年に出版された『絵画論』にも含まれることになる、解剖学に関する僅かな手稿のみが、フランスで1632年に出版されただけとなった[18][96]。メルツィはレオナルドの手稿を出版するにあたってその編纂を任されていた時期に、多数の解剖学者や芸術家たちがレオナルドの手稿を研究しており、画家のヴァザーリ、チェッリーニデューラーらが、この手稿の挿絵をもとにした多くのドローイングを描いている[96]

レオナルドは筋肉や腱などと同じく、人体骨格を扱った手稿も多数制作している。骨格と筋肉の機能に関するこれらの研究は、現代科学でいうバイオメカニクスの初歩にも適用可能な先駆的研究ともいわれている[97]。レオナルドは心臓や循環器性器臓器などの手稿も残しており、胎児を描いた最初期の科学的なドローイングを描いている[88]。芸術家としてのレオナルドは綿密な観察によって、加齢による影響、生理学的観点からみた感情表出を記録し、とくに激しい感情が人間に及ぼす影響について研究した。また、顔部に奇形や罹病跡をもつ人物のドローイングも多数描いている[18][88]

レオナルドは人間だけではなく、解剖に付されたウシ、鳥、サル、クマ、カエルといった動物の解剖画も手稿に描いており、人間との内部構造の違いを比較している。また、ウマに関する手稿も多く残している。

工学と創案に関する手稿

オーニソプターの概念図、1488年頃、フランス学士院

存命時のレオナルドは工学技術者としても評価されていた。ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァに宛てた書簡で、レオナルドは自らのことを都市防衛、都市攻略に用いるあらゆる兵器を作ることができると書いている。1499年にフランス軍に敗れたミラノ公国からヴェネツィアへと避難したレオナルドは、当地で工学技術者の職を得て、都市防衛のための移動要塞を考案している。また、ニッコロ・マキャヴェッリも参画していたアルノ川流路変更計画にも、土木技術者として加わった[98][99] 。レオナルドの手稿には、数多くの現実的あるいは非現実的な創案があり、楽器ヴィオラ・オルガニスタ (en:Viola organista)、水圧ポンプ、迫撃砲、蒸気砲などの創案が含まれている[12][18]

1502年にレオナルドは、オスマン帝国スルタンバヤズィト2世が構想した土木工事計画のために長さ200メートルにおよぶ橋の設計図を制作している。この橋はボスポラス海峡入り江の金角湾に架けられる予定だった。しかしながらバヤズィト2世はこのような大規模な土木工事は不可能だとして、この工事計画を承認しなかった。このときレオナルドがデザインした橋は、2001年にノルウェーで実施された「レオナルド・ブリッジ・プロジェクト (en:Vebjørn Sand Da Vinci Project) で実際に建設された[100][101]

レオナルドはその生涯を通じて空を飛ぶことを夢見ていた。1505年ごろの『鳥の飛翔に関する手稿』 (en:Codex on the Flight of Birds) などで鳥の飛翔を研究し、ハンググライダーヘリコプターのような飛行器具の概念図を制作している[18]。イギリスのテレビ局チャンネル4は2003年のドキュメンタリー番組『レオナルドが夢見た機械 (Leonardo's Dream Machines)』で、レオナルドの手稿に残る設計どおりにさまざまな器具を製作した[102]。設計どおりに動作したものもあれば、全く役に立たないものまでさまざまな結果となった。

名声と評価

『レオナルド・ダ・ヴィンチの死』、ドミニク・アングル、1518年。レオナルドはフランス王フランソワ1世に看取られながら死去したという伝承をもとに描かれた作品。

レオナルドの名声は生前から一貫しており、フランス王フランソワ1世がレオナルドをまるで戦利品であるかのようにフランスへと連れて行くほどだった。フランソワ1世は最晩年のレオナルドを支え、レオナルドはフランソワ1世の腕の中で息を引き取ったという伝承が残っている。レオナルドに関する世間からの関心は、その後も衰えることはなかった。現在でもレオナルドの有名な美術作品を観るために大衆が列をなし、Tシャツにはレオナルドの絵画がプリントされ、作家たちはレオナルドの驚くべき博学さとその私生活についての考察を書き続け、史上最高の知性を持った人物であるとみなされている[18]

ヴァザーリは『画家・彫刻家・建築家列伝』の1568年に出版された第2版の[103]、レオナルドの列伝冒頭で次のように紹介している。

多くの人々がそれぞれに優れた才能を持ってこの世に生を受ける。しかし、ときに一人の人間に対して人知を遥かに超える、余人の遠く及ばない驚くばかりの美しさ、優雅さ、才能を天から与えられることがある。霊感とでもいうべきその言動は、人間の技能ではなく、まさしく神のみ技といえる。レオナルド・ダ・ヴィンチがこような人物であることは万人が認めるところで、素晴らしい肉体的な美しさを兼ね備えるこの芸術家は、言動のすべてが無限の優雅さに満ち、その洗練された才気はあらゆる問題を難なく解決してしまう輝かしいものだった。 — ジョルジョ・ヴァザーリ画家・彫刻家・建築家列伝

画家、批評家、歴史家たちからの尽きることのない高い評価は、さまざまな賛辞となって表現されている。『宮廷人』の著者バルダッサーレ・カスティリオーネは1528年に「ほかに世界最高の画家がいたとしても、彼(レオナルド)の懸絶した芸術の前では顔色を失うだろう」とし[104]、レオナルドの伝記を書いた、通称アノニモ・ガッディアーノと呼ばれる詳細不明の伝記作家は1540年に「彼(レオナルド)の才能は極めて稀なあらゆる分野に通暁したもので、万物が彼に味方しているかのような奇跡といえるものである」と賞賛している[105]

没地アンボワーズにある、レオナルドの銅像。

19世紀はレオナルドの才能に対する賞賛がとくに高まった時期となった。これはイギリスで活動したスイス人画家ヨハン・ハインリヒ・フュースリーが1801年に書いた「現代美術の夜明けといえる出来事だった。レオナルド・ダ・ヴィンチが、それまでの優れているとはいえなかった芸術を光輝に満ちたものへと一変させた。ただ一人の天才がすべてのことを成し遂げたのである」という文章によるものだった[106]。A. E. リオも1861年に「彼(レオナルド)は、その才能の偉大さ、高貴さにおいて、あらゆる芸術家から屹立した存在だった」とレオナルドを評価した[107]

19世紀にはレオナルドが残した膨大な手稿が、その絵画作品と同様に広く知られるようになった。イポリット・テーヌは1866年に「これほど多彩な才能を持つ人間はおそらく他に存在しない。飽きるということを知らず、その探究心は無限であり、生まれながらに洗練された、同時代はもちろん、その後何世紀にもわたって群を抜いている人物である」としている[108]。美術史家バーナード・ベレンソンは1896年に「レオナルドは真の天才といえる唯一の芸術家である。彼(レオナルド)が触れたものは、すべてが永遠の美へと姿を変えた。頭蓋骨の断面、雑草の構造、筋肉の習作などあらゆるものが、彼が持つ描線と陰影の感性によって永久の生命を吹き込まれたのである」と記している[109]

レオナルドの類稀な知性への関心は、衰えるところを知らない。専門家によるレオナルドの文章の研究と解釈、絵画作品への最先端の科学技術を駆使した分析によってその業績が明らかにされ、さらには、記録には残っているものの現存しないとされる作品の探索も試みられている[110]。リアナ・ボルトロンは1967年の著書で「あらゆることに関心を示す彼(レオナルド)の好奇心が、さまざまな分野に対する知識を追い求めさせた。レオナルドは間違いなく比類なき万能の天才である。……レオナルドが没して5世紀が過ぎたが、未だにレオナルドは我々の畏敬の対象となっている」と記している[12]

脚注

  1. ^ 作品全体、あるいは作品の大部分をレオナルドが描いたと、ほとんどの美術史家に認められている現存するレオナルドの絵画作品は15点である。その多くが木の板に描かれた板絵だが、壁画、大規模なドローイング、そして絵画制作の下準備として描かれた下絵2点も、絵画作品15点の中に含まれている。絵画以外でレオナルド自身の手によるとされている作品は数多い。
  2. ^ レオナルドの構想に必要とされる金属工学や科学技術は、ルネサンス時代にはほとんど存在していなかった。
  3. ^ レオナルドが構想した実用的アイディアの多くが、ヴィンチのレオナルド博物館で展示されている。
  4. ^ レオナルドの出生は、父方の祖父セル・アントーニオの日記に「4月15日土曜日の、日が暮れてから3時間後に孫が生まれた」と記録されている(Angela Ottino della Chiesa in Leonardo da Vinci, and Reynal & Co., Leonardo da Vinci (William Morrow and Company, 1956))。この日記に記されている日付はユリウス暦で、現在のグレゴリオ暦に直すとこの時期のフィレンツェの日没は午後6時40分で、日没後3時間は午後9時40分ごろということになる。当時の一日の概念は日没から翌日の日没までだったため、日記に記されている4月15日という日付は、現代でいえば4月14日ということになる。この日付を現代の暦に換算すると、レオナルドの誕生日は4月23日である[8]
  5. ^ レオナルドの母親カテリーナは、中東あるいは「地中海沿岸地方」の出身の農奴階級だといわれることがある。ヴィンチのレオナルド博物館館長アレッサンドロ・ヴェゾーシは、レオナルドの父親ピエロがカテリーナという名前の、中東出身の農奴を所有していた証拠の存在を指摘している。レオナルドが中東の血を引いているという説は、レオナルドの指紋をその作品から復元することに成功したマルタ・ファルコーニが支持している[11]。ファルコーニは、中東に起源を持つ人々の60%に見られる渦巻状の指紋のパターンが、レオナルドの指紋にも存在すると主張している。ただし、このレオナルドが中東人種の血を引いているという説を否定する研究者も存在する。カリフォルニア大学アーヴァイン校の犯罪社会学准教授サイモン・コールは「わずか1本の指から採取された指紋で、その人物の人種を推測することは不可能だ」としている。
  6. ^ ヴェロッキオが絵画制作を中止したこととレオナルドは無関係で、単にヴェロッキオが彫刻作品に専念するためだったという説もある。
  7. ^ 1472年以前からレオナルドがこの聖ルカ組合に所属していたことは、現存する1472年から1520年のかけてのギルドの支払記録からもほぼ確実視されている[10]
  8. ^ このドローイングは、マドリードウフィツィ美術館が所蔵している。Drawing No. 8P.
  9. ^ ルネサンス期のフィレンツェでは、同性愛は法的に禁止されていた。
  10. ^ ヴェロッキオの『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』が鋳造されたのは1488年で、ヴェロッキオが死去した後のことである。レオナルドがフランチェスコ・スフォルツァの巨大な騎馬像の制作を開始したのは、『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』の完成よりも前ということになる。
  11. ^ 2005年になって、軍事地理学部局として100年にわたって使用されていた建物の修復中に、レオナルドが使用していたこの工房が発見された[32]
  12. ^ 『アンギアーリの戦い』も『カッシーナの戦い』も未完に終わり現存していない。ミケランジェロが描いた『カッシーナの戦い』の全体像は、1542年にアリストトーレ・ダ・サンガッロの模写によって知られている[33]。レオナルドが描いた『アンギアーリの戦い』は、下絵に描かれたスケッチと作品中央部分ののみを描いた数点の模写でしか知られていない。模写の中でおそらくもっとも精密に描かれているのはピーテル・パウル・ルーベンスの手によるものである[34]
  13. ^ 『ダヴィデ像』の設置場所を決定する委員会は、レオナルド、ボッティチェッリら多くの芸術家も参加した、総勢30名のフィレンツェ市民で構成されていた[36]
  14. ^ マルコ・ドッジョーノは『最後の晩餐』の模写でも知られている。
  15. ^ この絡繰仕掛けのライオンがいつ制作されたのかは不明だが、フランソワ1世のリヨン入城時に、フランソワ1世と教皇レオ10世の和平交渉の仲立ちとして使用されたと考えられている。ライオンはラテン語でレオであり、ローマ教皇レオ10世の、フランス王の紋章であるユリはフランス王フランソワ1世の象徴である。このライオンは復元されて、現在ボローニャの博物館で展示されている[41]
  16. ^ クルーの館は、現在博物館として使用されている。
  17. ^ レオナルドが死去した日に、クルーの館から旅程で二日間かかるサン=ジェルマン=アン=レーから王令が出されている。このことが、フランソワ1世がレオナルドの最期を看取っていないという証拠となっている。ただし、ホワイトの『最初の科学者レオナルド (Leonardo: The First Scientist)』では、この布告にフランソワ1世の署名がないことを指摘している。
  18. ^ レオナルドの遺言どおりに、会葬者として参列した60名の貧者全員に、レオナルドの遺産から施しが与えられた。
  19. ^ 上質の素材が使用されていたこの黒いマントは既製品だったが、豪華な毛皮の縁飾りは別途追加されたものだった。この黒のマントが遺贈されたのは、この女性がレオナルドの葬式に着用する喪服に困らないように配慮する意図もあった。
  20. ^ イギリス人美術史家マイケル・バクサンドールは、伝統的な絵画に描かれた「受胎告知」で、聖母マリアの「賞賛に値する態度」あるいは反応を、動揺、沈思、問いかけ、服従、賞賛の5つに大別している。しかしながら、レオナルドの『受胎告知』のマリアは、これら伝統的な描写と合致してはいない[71]
  21. ^ 『荒野の聖ヒエロニムス』は18世紀に女流画家アンゲリカ・カウフマンが所有していたが、後に裁断されてしまった。後世になって主要な2枚の断片が屑屋と靴屋で見つかり、修復されて現在に至っている[72]。ただし、作品の外周部は失われたものとみなされている。
  22. ^ ヴァザーリが『モナ・リザ』を直接目にしたことがあるかどうかについては議論となっている。未見であるとする説の根拠は、ヴァザーリが『モナ・リザ』の眉毛に言及していることが主となっている。ダニエル・アラッセは著書『レオナルド・ダ・ヴィンチ』で、レオナルドは『モナ・リザ』に眉毛を描いていたが、後世に除去された可能性について述べている。16世紀半ばでは眉毛を抜くことが一般的だったという説もある[18]。『モナ・リザ』を高解像度カメラで解析したパスカル・コットは、オリジナルの『モナ・リザ』には眉毛とまつげが存在していたが、徐々に消えていってしまったと主張している[82]
  23. ^ ジャック・ワッサーマンは「比類ない画肌処理」と呼んでいる[83]
  24. ^ 「ギリシア人風の横顔」には額から高い鼻先までまっすぐにつながった横顔を持つ少年が描かれている。これは古代ギリシア彫刻に多くみられる特徴となっている。
  25. ^ 左利きで先割れの羽ペンを使用する場合、左から右へと文字を綴ることは非常に難しい。

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参考文献

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関連文献

  • 『よみがえる最後の晩餐』片桐頼継、アメリア アレナス共著、日本放送出版協会、2000年 ISBN 4-14-080494-7
  • 『レオナルド・ダ・ヴィンチという神話』片桐頼継、角川選書、2003年 ISBN 4-04-703359-6
    万能の天才という手放しのレオナルド礼賛に疑問を呈し、特に「発明」なるものの多くが実用にはほど遠く、また他人のアイディアも含まれると指摘している。しかし、レオナルドの功績は絵画の革新など別の面にもある。
  • 『レオナルド・ダ・ヴィンチ 伝説の虚実 創られた物語と西洋思想の系譜』 竹下節子 中央公論新社 2006年5月 ISBN 4-12-003733-9
  • 『レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯 飛翔する精神の軌跡』 チャールズ・ニコル 越川倫明ほか訳、白水社 2009年
  • 『レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と科学』 カルロ・ペドレッティ、アンドレ・シャステル、パオロ・ガッルッツィ、ルカ・アントッチャ、マルコ・チャンキ共著、前田富士男・ラーン大原三恵・小林明子訳、イースト・プレス、2006年。
  • 下村寅太郎著作集5. レオナルド研究』 みすず書房 1992。
  • 兒島喜久雄 レオナルド研究寄與』澤柳大五郎編、座右宝刊行会 1973。
  • レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿
    • 『レオナルド素描集成』 レオナルド・ダ・ヴィンチおよびその周辺画家の素描、L.C.アラーノ解説
      日本版は澤柳大五郎監修、三神弘彦訳、みすず書房.1984。
    • 『レオナルド・ダ・ヴィンチ解剖図集』 松井喜三編解説 みすず書房 1971、新版2001

関連項目

外部リンク

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