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'''イスタンブル'''({{lang-tr|'''İstanbul'''}} [isˈtanbul]、{{lang-la|'''Constantinopolis'''}}コンスタンティーノポリス、{{lang-en|'''Istanbul'''}}、{{lang-el|'''Κωνσταντινούπολις'''}}コンスタンディヌーポリ)は[[トルコ|トルコ共和国]]西部に位置する都市。[[日本]]<!-- など -->では一般に<!-- 英語由来の -->「'''イスタンブール'''」と呼ばれることが多い。
'''イスタンブル'''({{lang-tr|İstanbul}} [isˈtanbul]、{{lang-la|Constantinopolis}}コンスタンティーノポリス、{{lang-en|Istanbul}}、{{lang-el|Κωνσταντινούπολις}}コンスタンディヌーポリ)は[[トルコ]]最大の都市で、トルコの経済、文化、歴史の中心地である。[[日本]]では一般に「'''イスタンブール'''」と呼ばれることが多い。人口は1,350万人を擁し[[バルカン半島]]では最大、ヨーロッパでは最大規模の都市圏{{enlink|List of metropolitan areas in Europe|a=on}}の一つで、イスタンブル市域の人口は[[世界の市域人口の順位|世界の大都市の市域人口]]の上位に含まれている<ref name="tuik">{{cite web|url=http://rapor.tuik.gov.tr/reports/rwservlet?adnksdb2&ENVID=adnksdb2Env&report=wa_buyukbelediye.RDF&p_kod=1&p_yil=2011&p_dil=1&desformat=html|publisher=The Turkish Statistical Institute|title=Province by Province / Town Center and Town / Village Population – 2011|work=Address Population-Based Registration System (ABPRS) Database|year=2011|accessdate=9 May 2012}}</ref><ref name="mocljo145">{{harvnb|Mossberger|Clarke|John|2012|p=145}}</ref><ref>[http://www.demographia.com/db-worldua.pdf Demographia: World Urban Areas & Population Projections]</ref>
イスタンブルはトルコに16ある{{仮リンク|大都市自治体|en|Metropolitan municipalities in Turkey}}<ref>[http://report.tuik.gov.tr/reports/rwservlet?adnksdb2=&report=buyukbelediye.RDF&p_kod=1&p_yil=2010&p_dil=2&desformat=html&ENVID=adnksdb2Env Statistical Institute page]</ref>({{lang-tr|Büyükşehir, Anakent}})の1つで {{convert|5343|km2|mi2|sp=us}} の広大なエリアは[[イスタンブル県]]と同一の広がりを持ち、イスタンブルは同県の県都である{{efn|name=city-area}}。同都市はトルコ北西部に位置し、[[マルマラ海]]と[[黒海]]を結ぶ世界でも最も混雑する航路の一つである[[ボスポラス海峡]]を挟んで大陸間に股がった都市である。市域はボスポラス海峡を挟んで[[東]]の[[アジア]]([[アナトリア半島]])側と[[西]]の[[ヨーロッパ]]([[トラキア]]地方)側両方に拡がり、西側の市域は[[金角湾]]で南北に分かれる<ref name=Hidaka10>[[#日高ら(1990)|日高ら(1990)、p.10-11、1.イスタンブールへようこそ、- 歴史を辿る<神話の中で生まれた町>]]</ref>。2[[大陸]]にまたがる大都市であり、アジアの最も西にある都市でもある<ref name=Hidaka6>[[#日高ら(1990)|日高ら(1990)、p.6-7、1.イスタンブールへようこそ、- イスタンブールに魅せられて]]</ref>。商業や歴史の中心はヨーロッパ側に広がり、住民の3分の1はアジア側に居住している<ref name="wctr281">{{harvnb|WCTR Society; Unʼyu Seisaku Kenkyū Kikō|2004|p=281}}</ref>。


{{仮リンク|サライブルヌ|en|Sarayburnu}}の岬に紀元前660年に[[ビュザンティオン]]として創建され、現在では歴史上最も重要な都市の一つとしてイスタンブルは知られている。[[330年]]に[[コンスタンティノープル]]として再建されて以降およそ16世紀の間、[[ローマ帝国]] (330-395)、[[東ローマ帝国|ビザンティン]] (395-1204, 1261-1453)、[[ラテン帝国]] (1204-1261)、[[オスマン帝国]] (1453-1922) と4つの帝国の首都であった<ref name=Ino56>[[#井上1990|井上(1990)、p.56-58、2-「新しいローマ」の登場、憧れの都コンスタンティノープル]]</ref><ref>{{harvnb|Çelik|1993|p=xv}}</ref>。1453年にオスマン帝国により都市が征服され[[コンスタンティノープルの陥落]]が起こる以前のローマやビザンティンの時代はキリスト教発展の要であったが、征服後は[[イスラーム]]の中心やオスマンの[[カリフ]]の中心に変わった<ref name="maag1145">{{harvnb|Masters|Ágoston|2009|pp=114–5}}</ref>。トルコ共和国がアンカラを新しい首都に制定したが、宮殿や帝国のモスクは今でもイスタンブルの丘に見ることが出来、イスタンブルの以前の中心的な役割を想起させる遺産となっている。イスタンブルは歴史上重要な[[シルクロード]]に沿った戦略的な場所に位置し<ref>{{harvnb|Dumper|Stanley|2007|p=320}}</ref>、ヨーロッパと中東への鉄道網と黒海と地中海を結ぶ唯一の航路は1923年のトルコ共和国の設立を差し引いても、幅広い人々を育むのに役立っている。戦間期には新しい首都のために見落とされたが、その後直ぐにイスタンブルはその傑出した部分の多くを取り戻している。アナトリア中から移住者がイスタンブルやその周辺に集まり居住地が広まり、1950年代以来人口は10倍に増加している<ref name="tu224">{{harvnb|Turan|2010|p=224}}</ref><ref name="ecoc-popdem">{{cite web|url=http://www.ibb.gov.tr/sites/ks/en-US/0-Exploring-The-City/Location/Pages/PopulationandDemographicStructure.aspx|publisher=Istanbul Metropolitan Municipality|title=Population and Demographic Structure|year=2008|accessdate=27 March 2012|work=Istanbul 2010: European Capital of Culture}}</ref>。20世紀後半には芸術祭が確立し、その間にインフラが改善され複合的な交通網が整備されて行った。
[[ボスポラス海峡]]をはさんで[[アジア]]([[アナトリア半島]])側と[[ヨーロッパ]]([[トラキア]]地方)側の両方に拡がっており、2[[大陸]]にまたがる大都市である。首都[[アンカラ]]を上回る同国最大の都市であり、文化・経済の中心となっている。[[イスタンブル県]]の[[県都]]でもある。[[2000年]]の人口は約880万人で、イスタンブル県全体では1000万人を越える。[[2010年]]の近郊を含む[[世界の都市的地域の人口順位|都市的地域の人口]]は1,313万人であり、世界有数の[[メガシティ]]といえる<ref>[http://www.demographia.com/db-worldua.pdf Demographia: World Urban Areas & Population Projections]</ref>。[[モスクワ]]、[[ロンドン]]、[[ルール地方]]、[[パリ]]に並ぶ[[ヨーロッパ]]屈指の[[世界の都市圏人口の順位|人口規模]]をもち、[[2012年]]、アメリカの[[シンクタンク]]が公表した[[ビジネス]]・[[人材]]・[[文化]]・[[政治]]などを対象とした総合的な[[世界都市#世界都市指数|世界都市ランキング]]において、世界第37位の都市と評価された<ref>[http://www.atkearney.com/images/global/pdf/2012_Global_Cities_Index_and_Emerging_Cities_Outlook-FINAL3.pdf 2012 Global Cities Index and Emerging Cities Outlook] (2012年4月公表)</ref>。


[[欧州文化首都]]であった2010年にはイスタンブルに約700万人の海外からの観光客が訪れ、世界で10番目に最もポピュラーな観光地であった<ref name="weiner">{{cite web|url=http://travel.usnews.com/features/Worlds_Most_Visited_Cities|last=Weiner|first=Miriam B|work=U.S. News & World Report|title=World's Most Visited Cities|accessdate=21 May 2012}}</ref>。イスタンブルの最大の呼び物は今でも残されている歴史の中心で、部分的に[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]に登録されているが、文化やエンタテインメントの中心は市内の天然の良港である{{仮リンク|ベイオール|en|Beyoğlu}}地区の[[金角湾]]周辺に見られる。イスタンブルは[[世界都市]]と見なされ<ref>{{cite web|url=http://www.lboro.ac.uk/gawc/world2010.html|title=The World According to GaWC 2010|work=Globalization and World Cities (GaWC) Study Group and Network|publisher=Loughborough University|accessdate=8 May 2012}}</ref>、多くのトルコの企業やメディアの拠点があり、トルコの国内総生産の4分の1以上を占めている<ref name="oecd">{{cite web|url=http://www.oecd.org/gov/regionaldevelopment/40317916.pdf|title=OECD Territorial Reviews: Istanbul, Turkey|publisher=The Organisation for Economic Co-operation and Development|date=March 2008|work=Policy Briefs|accessdate=20 August 2012}}</ref>。
その歴史は長く、かつての[[ローマ帝国]]、[[東ローマ帝国]]([[中世ローマ帝国]])、[[ラテン帝国]]([[第4回十字軍]])、[[オスマン帝国]]の首都が置かれていた。[[イスタンブルの歴史地区]]は[[世界遺産]]に登録されている。北緯41度1分7秒、東経28度57分53秒。[[2010年]]の[[欧州文化首都]]だった。
2012年、アメリカの[[シンクタンク]]が公表した[[ビジネス]]・[[人材]]・[[文化]]・[[政治]]などを対象とした総合的な[[世界都市#世界都市指数|世界都市ランキング]]において、世界第37位の都市と評価された<ref>[http://www.atkearney.com/images/global/pdf/2012_Global_Cities_Index_and_Emerging_Cities_Outlook-FINAL3.pdf 2012 Global Cities Index and Emerging Cities Outlook](2012年4月公表)</ref>。
新しい活力と急速な経済成長にオリンピックを利用することを希望しイスタンブルは[[2020年夏季オリンピック]]の招致活動{{enlink|Istanbul bid for the 2020 Summer Olympics|a=on}}を行っている<ref name="olympic.org">{{cite web|url=http://www.olympic.org/news/ioc-selects-three-cities-as-candidates-for-the-2020-olympic-games/166288|publisher=The International Olympic Committee|title=IOC selects three cities as Candidates for the 2020 Olympic Games|date=24 May 2012|accessdate=18 June 2012}}</ref>。


== 都市名の経緯 ==
== 呼称 ==
古代の[[ビュザンティオン]](ビザンティオン)、[[コンスタンティノポリス]](コンスタンティノープル)と同じ街である<ref name=Hidaka7>[[#日高ら(1990)|日高ら(1990)、p.7-9、1.イスタンブールへようこそ、- 雑踏の中で]]</ref>。最初に知られている都市の名称はビザンティウム''Byzantium''(ビザンティオン、''Byzántion'')でこの名称は紀元前660年頃に植民都市を創建した{{仮リンク|ビザス|en|Byzas}}の名が元になっている{{efn|name=byz-date|The foundation of Byzantion (Byzantium) is sometimes, especially in encyclopedic or other tertiary sources, placed firmly in 667 BC. However, historians have disputed the precise year the city was founded. Commonly cited is the work of 5th-century-BC historian [[Herodotus]], which says the city was founded seventeen years after the city of [[Chalcedon]],<ref>Herodotus ''Histories'' 4.144, translated in {{harvnb|De Sélincourt|2003|p=288}}</ref> which came into existence around 685 BC. However, [[Eusebius]], while concurring with 685 BC as the year Chalcedon was founded, places Byzantion's establishment in 659 BC.<ref name="isa199">{{harvnb|Isaac|1986|p=199}}</ref> Among more modern historians, Carl Roebuck proposed the 640s BC<ref>{{harvnb|Roebuck|1959|p=119}}, also as mentioned in {{harvnb|Isaac|1986|p=199}}</ref> while others have suggested even later. Further, the foundation date of Chalcedon is itself subject to some debate; while many sources place it in 685 BC,<ref>{{harvnb|Lister|1979|p=35}}</ref> others put it in 675 BC<ref name="fre10">{{harvnb|Freely|1996|p=10}}</ref> or even 639 BC (with Byzantion's establishment placed in 619 BC).<ref name="isa199" /> As such, some sources have opted to refer to Byzantium's foundation as simply located in the 7th century BC.}}<ref name="roo177">{{harvnb|Room|2006|pp=177}}</ref>。[[コンスタンティヌス1世]]の後、新しい[[ローマ帝国]]の東の首都を330年に創建し都市は「コンスタンティンの都市」を意味するコンスタンティノポリス ''Constantinopolis''(コンスタンティノープル ''Constantinople'')と名付けられ、広く知られる名称となった。ギリシア語では現在、{{lang|el|Κωνσταντινούπολη}} 「コンスタンディヌーポリ」と呼ばれている。ラテン語由来の名であるコンスタンティノポリスに基くが、綴りに若干の変化があり、読みも現代ギリシャ語のものとなっている。コンスタンティヌスは新ローマを意味する ''Nea Roma'' の名称を広めようとしたが、これは広く使われることはなかった<ref>{{harvnb|Gregory|2010|pp=62–3}}</ref>。
本市は、古代の[[ビュザンティオン]](ビザンティオン)、[[コンスタンティノポリス]](コンスタンティノープル)と同じ街である。


コンスタンティノープルの名称は西洋ではトルコ共和国が建国されるまで最も広く使われた名称で、[[オスマン語]]ではコンスタンティニイェ ''Kostantiniyye'' ({{lang|osm|قسطنطينيه}}) はオスマン支配期に主に使われた名称である。それにも関わらずオスマン時代の都市を言い表す時、コンスタンティノープル ''Constantinople'' を使うことは今では歴史的には間違っていなくても政治的には正しくないとトルコ人により見なされている<ref name="maag286">{{harvnb|Masters|Ágoston|2009|p=286}}</ref>。19世紀には都市の名称は外国人やトルコ人のいずれかによりいくつかのものが使われていた。ヨーロッパ人はコンスタンティノープルを市内全てを言い表すのに使っていたが、スタンブール ''Stamboul'' の名はトルコ人により使われており、金角湾とマルマラ海の間の城壁で囲まれた半島を言い表していた<ref name="maag286" />。ペラ ''Pera''(ギリシャ語では横切ってなどの意味)は金角湾とボスポラス海峡の間を言い表すのに使われていたがトルコ人は{{仮リンク|ベイオール|en|Byzas}}を使っており今日でも使われている<ref>{{harvnb|Masters|Ágoston|2009|pp=226–7}}</ref>。
イスタンブルの名は、[[東ローマ帝国]]時代から[[スラブ人]]らが旧市街を指して呼んでいたスタンブルという地名がトルコ人にも取り入れられたものと考えられる。この名前は、一説には[[ギリシャ語]]の "{{lang|grc|εἰς τὴν Πόλιν" ,"(eis) stin poli"}} (「都市に」)から取られ、[[ギリシャ人]]がコンスタンティノポリスを「都市の中の都市」と呼んだことに由来するという。あるいは、Con'''stan'''tino'''pol'''isがつづまったstanpolという形を[[語源]]に想定する説や、イスラーム・ブール(「イスラムの地」という意味)を語源に想定する説がある<ref>http://www.aii-t.org/j/maqha/magazine/osman/20080219.htm</ref>。
イスラムの街やイスラムで満たされたを意味するイスラムボル ''Islambol'' は時折、イスタンブルを表す口語として使われオスマンが硬貨の一部にも刻印されているが<ref>{{harvnb|Finkel|2005|pp=57, 383}}</ref>、これが現代の名称であるイスタンブルの前の名称であると信じることは誤りでイスラムボルの以前から存在しオスマンやムスリムにより都市が攻略される以前から存在していた<ref name="roo177" />。
イスタンブル ''İstanbul''({{IPA-tr|isˈtanbuɫ}} 口語では {{IPA-tr|ɯsˈtambuɫ|}})の語源は一説に{{仮リンク|中世ギリシャ語|en|Medieval Greek}}の表現である {{lang|grc|"εἰς τὴν [[ポリス|Πόλιν]]"}}(発音 {{IPA-el|is tin ˈpolin|}})からで「都市で」や「都市に」を意味する<ref name=Ino56 />。これは当時、イスタンブル周辺部では唯一の大都市の地位を反映し、現代の人々が近くの都市の中心を「都心」"the City"と称するのと同じである。他のものではコンスタンティノープル ''Constantinople'' から進化し第一音節と第三音節が省略されたと言う見方もある<ref name="roo177" />。


現代のトルコ語ではイスタンブルの表記は ''İstanbul'' でドットが付いたİが使われ、{{仮リンク|トルコ語のアルファベット|en|Turkish alphabet}}ではドットの有無が区別される。また英語では第一音節の (''Is'') に強勢が置かれるが、トルコ語では第二音節の (''tan'') に置かれる<ref>{{harvnb|Göksel|Kerslake|2005|p=27}}</ref>。
[[トルコ人]]に先立ってコンスタンティノポリスに接触した[[ムスリム|イスラム教徒]]たちの書いた[[史料]]では、[[9世紀]]にはこの町の名称として、[[アラビア語]]で「クスタンティン([[コンスタンティヌス1世|コンスタンティヌス]])の町」を意味する「クスタンティニーヤ {{lang|ar|قسطنطنية}} (Qusṭanṭiniyya)」あるいは「クスタンティーナ {{lang|ar|قسطنطينه}} (Qusṭanṭīna)」が一般化されていた。「スタンブル」「イスタンブル」という名称がイスラム教圏でいつ頃から広く用いられるようになったかは定かではない。しかし、[[アナトリア半島|アナトリア]]のトルコ化がかなり進んでいた[[14世紀]]初頭に編纂された[[ペルシア語]]の[[歴史書]]では、コンスタティノポリスについては「クスタンティーナ」が一般的に使用されている一方で、「イスタンブール ({{lang|fa|استنبول}} Istanbūl)」がその異称として用いられている例が見られ、少なくとも当時のアナトリア方面の人々の間では「コンスタンティノポリス」の異称として「イスタンブル」という名称が使用されていたことが窺える。
イスタンブル ''İstanbul'' は単独の都市の名称として1930年に公式に採用された<ref>{{harvnb|Room|2006|pp=177–8}}</ref><ref>{{harvnb|Göktürk|Soysal|Türeli|2010|p=7}}</ref>。イスタンブル出身者は ''İstanbullu''(複数では ''İstanbullular'')だが英語ではイスタンブライト ''Istanbulite'' が使われている<ref>{{harvnb|Keyder|1999|p=95}}</ref>。


=== リゴス ===
日本の歴史叙述では、オスマン朝がこの町を征服した[[1453年]]を境にして「コンスタンティノープル」から「イスタンブル」と言い換えるのが通例である。しかし当のオスマン朝の人々が用いた文章語である[[オスマン語]]の上では、この町の名前は「[[イスラーム]]が広まった」を意味する {{lang|ar|اسلامبول}} İslâmbol と綴られたり、Āstāne-ye Sa‘ādat/Asitane-i Saadet(「幸福の宮居」)、Ummu 'd-Dunyā/Ümm-i Dünya(「世界の母」)、Dāru s-Salṭanat/Darü’s-Saltanat (「王権の館」)などとペルシア語・アラビア語で様々に美称されており、また[[貨幣]]の刻印などでは正式な都市の名称としてコスタンティニーヤのオスマン語・トルコ語形である「'''コスタンティニエ''' ({{lang|ar|قسطنطنية}} Kostantiniyye)」が長く使われ続けていた。
[[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス]]によれば、ビザンティオンの最初の名称はリゴス ''Lygos'' であったとされる<ref>[http://www.masseiana.org/pliny.htm#BOOK%20IV Pliny the Elder, book IV, chapter XI:<br /> "''On leaving the Dardanelles we come to the Bay of Casthenes, ... and the promontory of the Golden Horn, on which is the town of Byzantium,a a free state, formerly called Lygos; it is 711 miles from Durazzo,'' ..." )]</ref>。これはおそらく、半島近くの後に都市となる場所に位置したトラキア人の集落の名称かもしれない。({{仮リンク|サライブルヌ|en|Sarayburnu}})<ref name="janin">{{cite book|title=Constantinople byzantine|last=Janin|first=Raymond |authorlink= Raymond Janin|place=Paris|publisher=Institut Français d'Études Byzantines|year=1964|page=10f.}}</ref>


=== ビザンティオン ===
この都市の正式名称がイスタンブルに改められ、国際的にもコンスタンティノープルではなくイスタンブルと呼ばれるようになるのは、[[トルコ革命]]後の[[1930年]]のことである。なお、ギリシア語では現在、{{lang|el|Κωνσταντινούπολη}} 「コンスタンディヌーポリ」と呼ばれている。ラテン語由来の名であるコンスタンティノポリスに基くが、綴りに若干の変化があり、読みも現代ギリシャ語のものとなっている。
{{further2|ビザンティオン}}


ビザンティオン'''Byzantion''' (Βυζάντιον)、ラテン語化された名称ではビザンティウム'''Byzantium'''は紀元前667年に[[メガラ]]からの入植者により創建された。名称自体はトラキア人かイリュリア人に由来すると考えられ、ギリシャ人の入植よりも前に遡る<ref name="janin"/>。おそらく、トラキア人かイリュリア人の個人名であった{{仮リンク|ビュザス|en|Byzas}}''Byzas''から来ており<ref name=Georgacas1947/>{{rp|352ff}}、古代ギリシャの伝説ではメガラの入植者のリーダーで都市の名称の由来で創建者である伝説上の王を示している。ずっと後にはビザンティオン ''Byzantium'' の名称は、西洋ではその首都であった[[東ローマ帝国]]を言い表す名称として一般化した。この使い方を取り入れたのはドイツ人の歴史家{{仮リンク|ヒエロニュムス・ウルフ|en|Hieronymus Wolf}}で帝国が消滅した1世紀後のことである。帝国が存在した期間、ビザンティオンの使われ方は帝国そのものよりも街自体に限られていた。
[[ファイル:Istambul and Bosporus big.jpg|thumb|300px|イスタンブール衛星写真|イスタンブル市街の衛星写真。左がヨーロッパ、右がアジアで、両者の間を隔てるのが[[ボスポラス海峡]]。海峡の南が[[マルマラ海]]で、北が[[黒海]]。マルマラ海の北岸、ヨーロッパ側に見える三角形の半島が[[イスタンブルの歴史地区|イスタンブル旧市街]]で、海峡から旧市街に切れ込んだ海が[[金角湾]]。この写真から、旧市街から城壁や海を越えて市街地が拡大していることがよく分かる。]]

===アウグスタ・アントニーナ===
アウグスタ・アントニーナ'''Augusta Antonina'''の名称は[[3世紀]]の短期間、街の名称として使われていた。この名称はローマ皇帝[[セプティミウス・セウェルス]] (193-211) により息子で後の皇帝である[[カラカラ]]のアントニヌスの名誉により命名されている<ref name="IA">Necdet Sakaoğlu (1993/94a): "İstanbul'un adları" ["The names of Istanbul"]. In: 'Dünden bugüne İstanbul ansiklopedisi', ed. Türkiye Kültür Bakanlığı, Istanbul.</ref>。

=== 新ローマ ===
[[コンスタンティヌス1世]]は330年5月11日に新しいローマ帝国の東の首都を創建する前に、ローマを部分的に手本とし街を根本的に建て直すとてつもないスケールの大きな建設計画を着手した。この期間の名称には新や第二のローマを意味する {{lang|grc|ἡ Νέα, δευτέρα Ῥώμη}}<ref>According to the ''Reallexikon für Antike und Christentum'', vol. 164 (Stuttgart 2005), column 442, there is no evidence for the tradition that Constantine officially dubbed the city "New Rome" (''Nova Roma'' or ''Nea Rhome''). Commemorative coins that were issued during the 330s already refer to the city as ''Constantinopolis'' (see e.g. Michael Grant, ''The climax of Rome'' (London 1968), p. 133). It is possible that the Emperor called the city "Second Rome" (''Deutera Rhome'') by official decree, as reported by the 5th-century church historian [[Socrates of Constantinople]].</ref>やローマを愛する''Alma Roma''&nbsp; {{lang|grc|Ἄλμα Ῥώμα}}, {{lang|grc|Βυζαντιάς Ῥώμη}}, {{lang|grc|ἑῴα Ῥώμη}}、東のローマ、ローマ・コンスタンティノポリターナなどがあった<ref name=Georgacas1947>{{Cite journal |author=Georgacas, Demetrius John |year=1947 |title=The Names of Constantinople |journal=Transactions and Proceedings of the American Philological Association |volume=78 |pages=347–67 |doi=10.2307/283503 |publisher=The Johns Hopkins University Press |jstor=283503 }}</ref>{{rp|354}}。

新ローマの用法はギリシャ人の作家により使われた時には元のローマとのライバル関係を強調する特に[[東西教会の分裂]]の文脈に向いて行った。新ローマは今でも公式に{{仮リンク|コンスタンティノープ総大主教|en|Ecumenical Patriarch of Constantinople}}の肩書きの一部である<ref>[http://www.ec-patr.org/athp/index.php?lang=en Bartholomew, Archbishop of Constantinople, New Rome and Ecumenical Patriarch]</ref>。

===コンスタンティノープル===
{{further2|コンスタンティノープル}}
コンスタンティノープル'''Constantinople'''(コンスタンティヌスの都市)の名称は[[コンスタンティヌス1世]]の名誉からすぐにより広く知られるようになった。ギリシャ語の語形ではΚωνσταντινούπολις、ラテン語の語形では''Constantinopolis''であった。最初に公式に使われたのは[[テオドシウス2世]] (408-450) 統治下であったことが実証されている<ref name="IA"/>。主要な公式名称としてビザンティン時代を通して残り、20世紀初期まで西洋では一般的な名称として使われていた。コスタンティニエ''Kostantiniyye''の異なった形も含めオスマン帝国でもトルコ共和国の出現まで使われていた<ref>Finkel, Caroline, ''Osman's Dream'', (Basic Books, 2005), 57; "''Istanbul was only adopted as the city's official name in 1930..''".</ref>。

=== 他のビザンティンの名称 ===
コンスタンティノープル''Constantinople''の他にもビザンティンは幅広い名誉ある名称で呼ばれ、「女王の都市」({{lang|grc|Βασιλὶς τῶν πόλεων}}) と呼ばれることもあった。しかし、一般的な話し言葉では最も広く使われる言い方は単に都市や都会を意味するポリス{{lang|grc|ἡ Πόλις}}(現代のギリシャ語では''η Πόλη'')である。この使われ方は今日でも口語のギリシャ語やアルメニア語(Պոլիս、{{仮リンク|西アルメニア方言|en|Western Armenian dialect}}でボリス)の語法で後のトルコ名であるイスタンブルの元の一つでもある。

=== イスタンブル・コスタンティニエ ===
現代のトルコ語の名称はイスタンブル'''İstanbul'''({{IPA-tr|isˈtanbuɫ|pron}})であるが、これは10世紀以来のものでトルコの典拠によれば表現の幅があるが最初に[[アルメニア語]]や[[アラビア語]]で実証されている。これはギリシャ語の語形 "εις την Πόλιν" または "στην Πόλη" {{IPA-el|istimbolin|}}「街へ」、「街で」<ref>An alternative derivation, directly from ''Constantinople'', was entertained as an hypothesis by some researchers in the 19th century but is today regarded as obsolete; see Sakaoğlu (1993/94a: 254) for references.</ref>、"{{lang|grc|εἰς τὴν Πόλιν}}", "(eis) stin poli"(エス・テン・ポリン「都市に、町へ」)から取られ<ref name=Ino56 />、それ故これを基本にギリシャ語の用法では単に「都市」や「街」と呼んでいる。冠詞の一部分や他の接辞のギリシャ語の地名への結合はオスマン期以前では一般的なもので、ナヴァリノの代わりにアヴァリノ<ref>Detailed history at [[Pylos#The Name of Navarino]]</ref>、サティネスの代わりアティネスなどがある<ref name=Bourne1887>{{Cite journal
| author = Bourne, Edward G.
| year = 1887
| title = The Derivation of Stamboul
| journal = American Journal of Philology
| volume = 8
| issue = 1
| pages = 78–82
| doi = 10.2307/287478
| publisher = The Johns Hopkins University Press
| jstor = 287478
}}</ref>。
似たような例には現代のトルコの地名でギリシャ語由来のものには[[イズミット]]などがあり、初期にはイズニクミット ''İznikmit'' で{{仮リンク|ニコメディア|en|Nicomedia}}から、[[イズニク]]はギリシャのニカエア''Nicaea''、[[サムスン (都市)|サムスン]] (''s'Amison'' = "se + Amisos")、''İstanköy''はギリシャの島[[コス島]]などがある。語頭のiの起こりはこれらの名称の古いギリシャ語の語形の一部を ''is-'' と一緒に反映しているか、部分的に第二の[[音挿入]]により、[[トルコ語]]の[[音素配列論|音素配列]]構造を成している。''İstanbul''は1453年の征服前でさえ普通の話し言葉では一般的な名称であったが、オスマンの当局はコスタンティニエ''Kostantiniyye''など他の名称の公式の使用を特定の状況で好んでいた。故に''Kostantiniyye''は硬貨の鋳造に17世紀後半使われ、19世紀に再び使われている。

コンスタンティニエ'''Kostantiniyye'''({{lang-ar|القسطنطينية}} {{Unicode|al-Qusṭanṭiniyah}} クスタンティニーヤ、[[オスマン語]]: {{lang|osm|قسطنطينيه}} Kostantiniyye コンスタンティニエ)の名称は[[イスラム世界]]で知られるようになった名称である。[[トルコ人]]に先立ってコンスタンティノポリスに接触した[[ムスリム|イスラム教徒]]たちの書いた[[史料]]では、9世紀にはこの街の名称であった。これは、アラビア語のコンスタンティノープル ''Constantinople'' の語形の[[翻訳借用]]でギリシャ語要素の''-polis''の代わりにアラビア語で「-の場所」を意味する語を最後に当てている。オスマンにより攻略された1453年以降、オスマントルコでは一番使われた公式名称で<ref>G. Necipoĝlu "From Byzantine Constantinople to Ottoman Kostantiniyye: Creation of a Cosmopolitan Capital and Visual Culture under Sultan Mehmed II" Ex. cat. "From Byzantion to Istanbul: 8000 Years of a Capital", June 5 - September 4, 2010, Sabanci University Sakip Sabanci Museum, Istanbul. Istanbul: Sakip Sabanci Museum, 2010 p. 262</ref>、帝国が崩壊する1923年までのほとんどの期間使われていた。しかしながら、いくつかの時期にオスマンの権力者は他の名称を好んだ。オスマンの役所や裁判所では''Kostantiniyye''を''be-Makam-ı Darü's-Saltanat-ı Kostantiniyyetü'l-Mahrusâtü'l-Mahmiyye''のような正式な文書で元の場所を表現する複雑なやり方の一部として使っていた<ref name="Ko">Necdet Sakaoğlu (1993/94b): "Kostantiniyye". In: 'Dünden bugüne İstanbul ansiklopedisi', ed. Türkiye Kültür Bakanlığı, Istanbul.</ref>。19世紀、トルコの本の印刷では外国でコンスタンティノープルを使うのとは対照的に使われていたが、同時期にイスタンブルは公用語の一部としてオスマンの軍隊の高官 (''İstanbul ağası'') や都市の身分の高い行政官 (''İstanbul efendisi'') の肩書きの一部に使われていた<ref name="Dic">A.C. Barbier de Meynard (1881): ''Dictionnaire Turc-Français.'' Paris: Ernest Leroux.</ref>。
イスタンブル''İstanbul''や同じ名称の他のいくつかの異なった表現の名称も幅広くオスマンの文学や詩で使われた<ref name="IA"/>。

1923年のトルコ共和国の建国後はイスタンブル以外の別の名称はトルコ語では使われなり、1930年3月28日のトルコの郵便法ではトルコ当局は外国人に公式にこれまでの伝統的なトルコ語以外での名称(コンスタンティノープルやツァーリグラードなど)で街を言い表すの止める他、自分たちの言語でもイスタンブルを唯一の都市の名称として取り入れるよう求めた<ref>Stanford and Ezel Shaw (1977): History of the Ottoman Empire and Modern Turkey. Cambridge: Cambridge University Press. Vol II, p. 386; Robinson (1965), The First Turkish Republic, p. 298</ref>。手紙や小包をイスタンブル"Istanbul"ではなくコンスタンティノープル"Constantinople" で送るとトルコの郵便当局により配達されることはなく、このことは世界的に新しい名称の施策が広まることに貢献した。

===スタンボウル===
スタンボウル'''Stamboul'''やスタンブル'''Stambul'''はイスタンブル''İstanbul''の語形の変わった種類で、イスタンブルのようにそれ自体の語形の頭に ''i-'' は無く、中世初期には最初に10世紀のアラビア語の典拠に実証され<ref>Arab historian [[Al Masudi]] writes that the Greek calls the city ''Stanbulin''. Necipoĝlu (2010) p. 262</ref>、アルメニア語では12世紀にはそうであった。いくつかの初期の典拠にはギリシャ語の''Poli(n)''を元に同様な''Bulin''の短い表現も単独で前述の文が無く実証されている<ref name="EI">"Istanbul", in ''Encyclopedia of Islam''.</ref>。この表現は現代のアルメニア語でも生きている。

スタンボウル''Stamboul''は西洋の言葉でイスタンブルと同様に1930年代の新しいトルコの語形に置き換わるまで使われていた。19世紀から20世紀初期、西ヨーロッパやアメリカの典拠では良くコンスタンティノープル''Constantinople''は大都市全体を言い表すのに使われていたが、スタンボウル ''Stamboul'' は中心部の歴史的な半島部分を言い表すのに用いられ、ビザンティン時代の城壁の内側 (''Theodosian'') を指していた<ref name="Dwight">H. G. Dwight (1915): ''Constantinople Old and New.'' New York: Scribner's. {{Page needed|date=September 2010}}</ref><ref>[[Edmondo De Amicis]] (1878) ''Costantinopoli'' Milano, Treves, ''passim''</ref>。

===イスラームボル===
イスラームボル'''Islambol'''(多くのイスラム)やイスラムブル'''Islambul'''(イスラムの発見)はイスタンブル''Istanbul''へオスマンが1453年に攻略し新しいイスラムのオスマン帝国の首都しての役割を表現するため作られた[[民間語源]]の適応であった。イスラーム・ブール(「イスラムの地」という意味)を語源に想定する説もある<ref>http://www.aii-t.org/j/maqha/magazine/osman/20080219.htm</ref>。最初に実証されたのは攻略直後で、現代の一部の作家たちは[[メフメト2世]]自身が付けたものとしている<ref name="IA"/>。いくつかの17世紀のオスマンの典拠では、最も目立つもので[[エヴリヤ・チェレビ]]が、当時の一般的なトルコでの名称として表現している。17世紀から18世紀、これは公式に使われていた。最初に使われた語は "Islambol" で[[アフメト3世]]の時代の1703年、貨幣の鋳造に使われた。

=== 他のオスマンでの名称 ===
オスマンと同時代の外国の人々は特に外交書簡でオスマン帝国の政府を特定の敬語で表現し、以下のようなものが含まれていた。

* ''Dersaadet''({{lang|ar|در سعادت}}『歓喜の門』)
* ''Derâliye''({{lang|ar|در عاليه}}『崇高な戸』)''Der''はペルシャ語で戸に当たる語。
* ''Bâb-ı Âlî''({{lang|ar|باب العالی}}『荘厳な朝廷』)''Bab''はアラビア語で戸に当たる語。
* ''Pâyitaht''({{lang|ar|پایتخت}}『王座の中心』)ペルシャ語で首都。
* ''Asitane''({{lang|fa|آستانه}})ペルシャ語からでスルタンの宮居又はオスマン帝国の中心の意味。([[アラビア語]]: الأستانة)Āstāne-ye Sa‘ādat/Asitane-i Saadet(「幸福の宮居」)

歓喜の門、崇高な戸、荘厳な朝廷は文字通りオスマンのスルタン宮殿であった[[トプカプ宮殿]]でそこに位置した朝廷、それ故イギリスの[[ホワイトホール (ロンドン)|ホワイトホール]]や日本の[[霞ヶ関]]のようなオスマン帝国中枢を表す換喩であった。
ビザンティン帝国近隣の多くの人々は「大都市」や「皇帝の都市」、「ローマの首都」と言った概念の表現を使っていた。10世紀から12世紀の間、コンスタンティノープルは世界ではバグダードと並ぶ2つの大都市のうちの1つであった。

===古ノルド語===
中世の[[ヴァイキング]]は東ヨーロッパでの拡大を通して[[ヴァリャーグ]]などでビザンティン帝国との接点があり、[[古ノルド語]]ではミクラガルズ'''Miklagarðr'''(''mikill''は大きなや偉大な、''garðr''は街)後の ミクラガード'''Miklagard'''を使っていた。今日でもこの語は[[アイスランド語]]のミクリガルドゥール''Mikligarður''や[[フェロー語]]のミクラガルドゥール''Miklagarður''の語に残っている。

=== スラヴ諸語 ===
[[スラヴ語派]] では皇帝の都を意味するツァリグラド''Tsarigrad''・''Carigrad''の名称で呼ばれ、スラヴ語派の単語''[[ツァーリ|tsar]]''は[[カエサル (称号)|カエサル]]や[[君主]](王)と''grad''(都市)から来ている。キリル文字では''Царьград''で、これはおそらく[[ギリシャ語]]の皇帝の街を意味する''Βασιλέως Πόλις'' (Vasileos Polis) などからの[[翻訳借用]]である。この言い方は今でも時折、ブルガリア語で使われ一方で[[セルビア・クロアチア語]]や[[ロシア語]]、[[マケドニア語]]では懐古的である。セルビア・クロアチア語ではビザンティンやオスマン帝国の歴史的な首都を言う場合は今でも使われている。スロベニア語では''{{lang|sl|Carigrad}}''が現代の都市の別の名称で使われている。[[チェコ語]]など[[西スラヴ語群]]ではツァーリフラッド''Cařihrad''が19世紀まで使われていたが今では稀である。また、スラヴ語派からルーマニア語にツァリグラード''Ţarigrad''で借用されたが、コンスタンティノープルの方がはるかに広く使われた。

===ペルシャ語・ウルドゥー語・アラビア語===
クスタンティニーヤ''Kustantiniyyah''に並んで、[[ペルシャ語]]や[[ウルドゥー語]]、[[アラビア語]]など以外にも他の[[イスラム世界]]の言語での呼称は''Cesar''(皇帝)を元にしたものが使われ、ペルシャ語やウルドゥー語では''Kayser-i Zemin''やアラビア語では民族名の''Rum''(ローマ人)が、「ローマ人の大きな都市」''Rūmiyyat al-kubra''、「ローマ人の王座」''Takht-e Rum''がペルシャ語やウルドゥー語では使われたりする<ref name="EI" />。

===ヘブライ語===
[[ヘブライ語]]では時折、クシュタンディナ (קושטנדינה) やクシュタンディナ・ラバティ (קושטנדינה רבתי) と呼ばれ、文字通り大きなクシュタンディナでまたは略してクシュタקושטאとも呼ばれ、コンスタンティニエが変化したものである。この使われ方は20世紀初期までユダヤ人の間で一般的であったが現代の[[イスラエル]]ではこの使われ方はほとんど見られず、ヘブライ語でもトルコ語のイスタンブル (איסטנבול) が転写されている。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
{{main|:w:History of Istanbul}}
{{main|ビュザンティオン|コンスタンティノープル}}
[[File:Second Court Topkapi 2007 80.JPG|right|thumb|[[ビザンティオン]]の[[アクロポリス]]で発見された今でも残っているビザンティオンの円柱。現在はトプカプ宮殿の敷地にある。|alt=A stout cylindrical column in a courtyard in front of palatial arches of Islamic style]]
21世紀初めに考古学者により発見された紀元前7,000年に遡る新石器時代の遺物は、イスタンブルの歴史的な半島には以前考えられていたよりも前のボスポラス海峡が形成される以前から人が住んでいたことを示している<ref>{{cite news |last=Rainsford |first=Sarah|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/7820924.stm|publisher=BBC|title=Istanbul's ancient past unearthed |date=10 January 2009 |accessdate=21 April 2010}}</ref>。
遺物の発見以前は{{仮リンク|フリギア人|en|Phrygians}}を含め[[トラキア人]]の部族がサイライブルヌに紀元前6,000年後半から住み始めたと言うのが従来の考えである<ref name="fre10" />。アジア側の遺物は紀元前4,000年に遡る物とされ、{{仮リンク|カディキョイ|en|Kadıköy}}地区のフィキルテペ''Fikirtepe''で発見されている<ref>{{harvnb|Düring|2010|pp=181–2}}</ref>。同じ場所は紀元前1,000年初めには[[フェニキア]]の交易地点で、同様に紀元前660年頃に設立された{{仮リンク|カルケドン|en|Chalcedon}}の町があった{{efn|name=byz-date}}。

しかしながら、イスタンブルの歴史は一般的に紀元前660年頃{{efn|name=byz-date}}に{{仮リンク|ビザス|en|Byzas}}王の下[[メガラ]]からの入植者が、[[ボスポラス海峡]]のヨーロッパ側に植民都市[[ビザンティオン]]を創建した時代に遡る。入植者は金角湾に隣接した初期のトラキア人の居住地であった場所に[[アクロポリス]]の建設を進め、生まれたばかりの都市の経済に勢いを与えた<ref>{{harvnb|Çelik|1993|p=11}}</ref>。ビザンティオンは紀元前5世紀の変わり目に短期間[[アケメネス朝]]の支配を経験するが、ギリシャ人は[[ペルシア戦争]]で取り戻している<ref>{{harvnb|De Souza|2003|p=88}}</ref>。都市の開祖は[[ギリシア神話]]の[[海神]][[ポセイドン]]とケロエッサの間に生まれた子{{仮リンク|ビザス|en|Byzas}}であり、彼は[[太陽神]][[アポロン]]の協力を得て彼の名を冠した「ビュザンティオン」を建設したとされ、[[トラキア人]]の王による侵略から町を守り、妻ペイダレイアも[[スキタイ]]の侵攻を防いだとも言われる<ref name=Hidaka10 />。ビザンティオンは [[デロス同盟]]とその後の{{仮リンク|第二アテナイ連合|en|Second Athenian Empire}}の一部であったが、紀元前355年についには独立を得ている<ref>{{harvnb|Freely|1996|p=20}}</ref>。長いローマとの同盟関係の後、ビザンティオンは73年に公式にローマ帝国の一部となった<ref>{{harvnb|Freely|1996|p=22}}</ref>。ビザンティオンのローマ皇帝[[セプティミウス・セウェルス]]に対抗する敵対者{{enlink|Roman usurper|a=on}}[[ペスケンニウス・ニゲル]]の支持は大きな代償となり、2年にわたる包囲は都市を荒廃させた。195年に降伏している<ref>{{harvnb|Grant|1996|pp=8–10}}</ref>。


それにも関わらず、セウェルスは5年後にビザンティオンの再建を始め都市は回復し多くの取引はそれ以前の繁栄を上回った<ref>{{harvnb|Limberis|1994|pp=11–2}}</ref>。
現在「旧市街」と呼ばれる[[マルマラ海]]と[[金角湾]]に囲まれた、[[ヨーロッパ大陸]]から突き出した[[半島]]の先端に設けられた[[古代ギリシア]]の植民都市[[ビュザンティオン]]が、イスタンブルの起源である。ビュザンティオンは[[紀元前667年]]頃に[[アッティカ]]にあった[[メガラ]]市からの植民者たちによって建設されたとされている。以後は平凡な地方都市として長く続いたが、[[ローマ帝国]]末期[[330年]]に[[コンスタンティヌス1世]]がここに遷都、ビュザンティオンを[[コンスタンティノポリス]]と改名した。以来1100年以上に渡り、[[東ローマ帝国]]の首都として、[[1453年]]の[[コンスタンティノープルの陥落|コンスタンティノポリス陥落]](トルコやイスラム世界では「イスタンブルの開拓」または「イスタンブルの征服」(İstanbul'un Fethi)と呼ばれている)までキリスト教徒の都であった。預言者[[ムハンマド]]のハディース(言葉)で「コンスタンティンの町」を征服する司令官やその兵士たちが褒められているという伝説があり、歴代のイスラム教司令官がイスタンブルの征服を試みた。[[674年]]から[[678年]]に、[[ウマイヤ朝]]初代の[[カリフ]]、[[ムアーウィヤ]]時代から<ref>「生き残った帝国 ビザンティン」p126 井上浩一 2008年3月10日第1刷発行 講談社学術文庫</ref>1453年にオスマン帝国のメフメト2世までの間、イスラム教司令官により計15回の包囲が行われた。


=== コンスタンティノープルの興亡 ===
1453年にこの町を征服した[[オスマン帝国]]の[[メフメト2世]]はただちに[[エディルネ]]から遷都し、イスタンブルは引き続き東地中海を支配する帝国の首都となった。コンスタンティノープルは[[イスラム教|イスラム]]の支配下に入り、[[アヤソフィア|聖ソフィア大聖堂]](アヤソフィア)をはじめとする多くのキリスト教の教会が強制的に接収され[[モスク]]になった。
{{main|コンスタンティノープル}}
[[ファイル:Valens aquädukt02.jpg|thumb|250px|left|東ローマ帝国時代の[[ヴァレンス水道橋]]]]
[[ファイル:Valens aquädukt02.jpg|thumb|250px|left|東ローマ帝国時代の[[ヴァレンス水道橋]]]]
[[コンスタンティヌス1世]]は324年9月に実質的なローマ帝国全体の皇帝になった<ref>{{harvnb|Barnes|1981|p=77}}</ref>。コンスタンティヌスは2ヶ月後に新しいキリスト教の都市にビザンティオンを置き換えるための都市計画を打ち出した。帝国の東の首都として都市は新ローマを意味する{{仮リンク|ネア・ローマ|en|New Rome}}''Nea Roma''と名付けられたが、一番単純なコンスタンティノープルの名称が20世紀まで続いた<ref>{{harvnb|Barnes|1981|p=212}}</ref>。6年後の330年5月11日にコンスタンティノープルはついにビザンティン帝国や東ローマ帝国の名称で知られる帝国の首都として宣言された<ref name="ba222">{{harvnb|Barnes|1981|p=222}}</ref>。
メフメト2世はモスクと病院、学校などをくみあわせた複合施設群を設立し、ローマ帝国の引いた水道([[ローマ水道]])を補修し、後の[[グランドバザール]]の前身となる屋根付きバザールを始めとする商業施設を建設して都市インフラを再興した。さらに、被征服者の[[キリスト教徒]]に[[ズィンミー]](公認された異教徒)として一定程度の人権を保障して新都にそのまま住まわせる一方、[[アナトリア半島]]の諸都市から[[ムスリム]](イスラム教徒)の富裕者を強制的に移住させる政策をとったので、[[15世紀]]後半の50年間にイスタンブルは東ローマ帝国の末期には激減していた人口を大きく上回る大都市となった。また、[[1460年]]ごろから[[王宮]]として[[トプカプ宮殿]]の建造を開始した。この宮殿はその後も歴代スルタンによって増築が進められ、19世紀半ばまで王宮として帝国政治の中心となっていた。


この遷都にはいくつかの伝説があり、当初コンスタンティヌス1世は[[トロイ]]に遷都しようと考えていたが夢で[[神]]の啓示を受けて変更した、[[カルケドン]]を予定し建設工事に取り掛かったが[[鷲]]が道具を咥えてビュザンティオンに飛び去った、また夢に現れた老婆が美しい女性に変貌し、このように古い町ビュザンティオンを新生するよう求められたという<ref name=Ino58>[[#井上1990|井上(1990)、p.58-60、2-「新しいローマ」の登場、私の前を歩いている御方が]]</ref>。また新都の城壁建設にも伝説があり、コンスタンティヌスが自ら槍を手に地面に線を引いて城壁の位置を指示したが、余りにも長く続くので従者が聞くと、コンスタンティヌスは「私の前を歩く御方がお止まりになるまでだ」と答えたという<ref name=Ino58 />。
[[1517年]]に、[[セリム1世]]は[[カイロ]]を征服し、[[マムルーク朝]]を滅ぼした。マムルーク朝の滅亡にともない、聖地[[マッカ|メッカ]]、[[メディナ]]をオスマン帝国の保護下に置いたことで、オスマン帝国は[[スンナ派]]イスラム世界の盟主の地位を獲得した。これにともない、オスマン帝国のスルタンはイスラム世界のカリフとなり、イスタンブルはイスラム世界の最高指導者が滞在する、マッカ、メディナ、[[エルサレム]](クドュス)に次ぐ重要都市となった。


[[File:Map of Constantinople (1422) by Florentine cartographer Cristoforo Buondelmonte.jpg|left|thumb|upright=0.75|1422年に{{仮リンク|クリストフォロ・ブオンデルモンティ|en|Cristoforo Buondelmonti}}により作られた最古の現存するコンスタンティノープルの地図|alt=A crudely drawn map depicting a walled city on a peninsula with a park, a network of roads, and a scattering of buildings]]
[[ファイル:Dolmabahce.jpg|thumb|300px|ドルマバフチェ宮殿]]
コンスタンティノープルの創建はコンスタンティヌスの最も永続的な成果として、ローマの力の東進や街をギリシャ文化やキリスト教の中心にしたことにある<ref name="ba222" /><ref name="gr63">{{harvnb|Gregory|2010|p=63}}</ref>。多くの教会が街中に建てられ、その中には[[アヤソフィア]]も含まれ、1,000年の間世界最大の大聖堂であり続けた<ref name="klwa171">{{harvnb|Klimczuk|Warner|2009|p=171}}</ref>。
各街区には[[オスマン帝国の君主|君主]]や大臣などの有力者が設立したモスクがつくられ、イスラム都市の伝統にのっとったモスクと公共施設が整備された。また、イスラーム教徒による差別と抑圧はあったものの[[東方正教会|東方正教]]や[[アルメニア使徒教会]]の[[教会]]、[[ユダヤ教]]の[[シナゴーグ]]も数多く維持され、ムスリムの[[トルコ人]]のみならず、[[ギリシャ人]]、[[アルメニア人]]、[[ユダヤ人]]、そして[[西ヨーロッパ]]諸国からやってきた商人・使節など、様々な人々が住む多文化都市、東西交易の中心都市でもあった。
コンスタンティヌスにより着手された他の街の改良には[[コンスタンティノープル競馬場]]の大改修や拡張が含まれ、何万もの観衆を収容し競馬場は市民生活の中心となり、5世紀や6世紀には[[ニカの乱]]を含め社会不安の出来事の中心であった<ref>{{cite web|last=Dash|first=Mike|url=http://blogs.smithsonianmag.com/history/2012/03/blue-versus-green-rocking-the-byzantine-empire/|title=Blue Versus Green: Rocking the Byzantine Empire|publisher=The Smithsonian Institution|work=Smithsonian Magazine|date=2 March 2012|accessdate=30 July 2012}}</ref><ref>{{harvnb|Dahmus|1995|p=117}}</ref>。


コンスタンティノープルの位置はまたその存在が時の試練に耐えることを確実とした。多くの世紀、城壁や海岸により東やイスラムの進軍する侵略者からヨーロッパを守っていた<ref name="gr63" />。[[中世]]の大部分の間とビザンティン時代の後半、コンスタンティノープルはヨーロッパ大陸最大で最も裕福な都市で、当時の世界最大の都市であった<ref>{{harvnb|Cantor|1994|p=226}}</ref><ref>{{harvnb|Morris|2010|pp=109–18}}</ref>。
[[近代]]には旧市街のみならず、新市街と呼ばれる[[ガラタ]]地区、[[ベイオール]]地区やアジア側の[[ユスキュダル]]などを取り込んで大都市へと発展する。とくに、ベイオール地区ではペラ大通り(現在の[[イスティクラル通り]])に沿ってヨーロッパ各国の大使館や多国籍のホテル、レストラン、商店が立ち並び、ヨーロッパから移植された西欧文化のショーウインドウとなった。[[1855年]]には[[電信]]が開通、[[1871年]]にはヨーロッパ側に、[[1873年]]にはアジア側に[[鉄道]]が開通した。[[1856年]]には新市街に[[アブデュルメジト1世]]によって[[ドルマバフチェ宮殿]]が完成し、スルタンも新市街へと移住したことで開発のテンポはさらに速まった。[[1883年]]に運行を開始した[[オリエント急行]]は、[[1888年]]にイスタンブルへの直接乗り入れを開始し、西ヨーロッパとイスタンブルは直接結ばれることとなった<ref>「オリエント急行の時代 ヨーロッパの夢の軌跡」p183 平井正 2007年1月25日発行 中央公論新社</ref>。
[[第4回十字軍]]の後、コンスタンティノープルの衰退が始まり第4回十字軍の間に略奪や占領があった<ref>{{harvnb|Gregory|2010|pp=324–9}}</ref>。コンスタンティノープルは後に正教会のビザンティン帝国を置き換えるために、カトリックの十字軍によって作られた[[ラテン帝国]]の中心となった<ref>{{harvnb|Gregory|2010|pp=330–3}}</ref>。しかしながら、ラテン帝国は短命でビザンティン帝国は弱体化しながらも1261年に復活した<ref>{{harvnb|Gregory|2010|p=340}}</ref>。コンスタンティノープルの教会や防衛力、基本的な公益事業は荒廃しており<ref>{{harvnb|Gregory|2010|pp=341–2}}</ref>、人口は8世紀の50万人から10万人へ減少していた{{efn|name=pop-figures}}。
[[アンドロニコス2世パレオロゴス|アンドロニコス2世]]によって始められた様々な経済や軍事力の削減などの軍事の政策は、帝国を弱体化させ攻撃に対してより脆弱なままにした<ref>{{harvnb|Reinert|2002|pp=258–60}}</ref>。


14世紀半ばオスマン・トルコ{{enlink|Ottoman Turks|a=on}}は小さな町や都市を攻略し、コンスタンティノープルへの供給路を断ちゆっくりと締め付ける戦略を始めた<ref>{{harvnb|Baynes|1949|p=47}}</ref>。1453年5月29日に8週間にわたる包囲の後、ついに[[スルターン]]の[[メフメト2世]]は[[コンスタンティノープルの陥落]]<ref name=Ino238>[[#井上1990|井上(1990)、p.238-240、6-ビサンティン帝国の落日、ビサンティン帝国の滅亡]]</ref>の勝者になり[[オスマン帝国]]の新しい首都として宣言された。この間、ビザンティン帝国最後の皇帝であった[[コンスタンティノス11世]]は殺されている。その後、スルターンはアヤソフィアへ赴き[[イマーム]]に[[シャハーダ]]を命じ、壮大な大聖堂は帝国のモスクへと変わった<ref>{{harvnb|Gregory|2010|pp=394–9}}</ref>。(トルコやイスラム世界では「イスタンブルの開拓」または「イスタンブルの征服」(İstanbul'un Fethi) と呼ばれている。)預言者[[ムハンマド]]のハディース(言葉)で「コンスタンティンの町」を征服する司令官やその兵士たちが褒められているという伝説があり、歴代のイスラム教司令官がイスタンブルの征服を試みた。674年から678年に、[[ウマイヤ朝]]初代のカリフ、[[ムアーウィヤ]]時代から<ref name=Ino114>[[#井上1990|井上(1990)、p.114-116、3-「パンとサーカス」の終焉、「髭の皇帝」は誰か]]</ref>1453年にオスマン帝国のメフメト2世までの間、イスラム教司令官により計15回の包囲が行われた。1453年にこの町を征服したオスマン帝国の[[メフメト2世]]はただちに[[エディルネ]]から遷都し、イスタンブルは引き続き東地中海を支配する帝国の首都となった。
[[第1次世界大戦]]によって敗北したオスマン帝国は[[セーブル条約]]によって大幅な領土割譲を余儀なくされたが、これに不満なオスマン議会は国民盟約を採択し、協商国の要求に抵抗した。これを押さえつけるためにイギリス軍が武力で干渉しイスタンブールは一時占領下におかれた。しかし、[[ムスタファ・ケマル]]率いるトルコ新政府は武力で占領軍を圧倒し、[[1923年]]、前年にスルタンを廃止してオスマン帝国を消滅させ、首都機能をアンカラに移したアンカラのトルコ大国民議会は、トルコ共和国の建国を宣言<ref>「バルカン 歴史と現在」p308-309 ジョルジュ・カステラン著 山口俊章訳 1994年7月発行 サイマル出版会</ref>。これによって、イスタンブルは[[コンスタンティヌス1世]]の遷都以来、約1600年続いた帝国の首都としての地位を失った。しかし、共和国期も依然としてトルコの社会・経済・文化の中心都市として繁栄し、市域はさらに拡大を続けてボスポラス海峡の沿岸全域とマルマラ海沿岸の広い地域を含む大都市となった。


=== オスマントルコの時代 ===
[[ファイル:Dolmabahce.jpg|thumb|200px|ドルマバフチェ宮殿]]
[[File:Süleymaniye Mosque, Istanbul.jpg|thumb|upright|[[スレイマニエ・モスク]]は[[ミマール・スィナン]]が携わったイスタンブルのモスクのうちの一つ。|alt=A lithograph depicting a building with a complex set of domes, arches, and towers on a deserted street.]]
コンスタンティノープルの陥落後、メフメト2世は直ちに街を復興するために試みた。モスクと病院、学校などを組み合わせた複合施設群を設立し、ローマ帝国の引いた水道([[ローマ水道]])を補修し、後の[[グランドバザール]]の前身となる屋根付きバザールを始めとする商業施設を建設して都市インフラを再興した。また、[[王宮]]として[[トプカプ宮殿]]の建造を開始している<ref name="holale307">{{harvnb|Holt|Lambton|Lewis|1977|pp=307}}</ref>。この宮殿はその後も歴代スルタンによって増築が進められ、19世紀半ばまで王宮として帝国政治の中心となっていた。包囲の間都市から逃れていた人々の帰還を促し、ユダヤ教徒や被征服者の[[キリスト教徒]]に[[ズィンミー]](公認された異教徒)として一定程度の人権を保障して新都にそのまま住まわせる一方、[[アナトリア半島]]の諸都市から[[ムスリム]](イスラム教徒)の富裕者を強制的に移住させる政策をとったため、15世紀後半の50年間にイスタンブルは東ローマ帝国の末期には激減していた人口を大きく上回る大都市となった。また、スルターンはヨーロッパ中から首都に人々を招き入れ、オスマン期に持続した国際的な社会を築いている<ref>{{harvnb|Holt|Lambton|Lewis|1977|pp=306–7}}</ref>。


オスマンは急速に街をキリスト教の牙城から[[イスラーム文化]]の象徴に変化させた。[[ワクフ (イスラム)|ワクフ]]は壮大な帝国のモスク、また度々隣接した学校や病院、[[ハンマム]]などの公衆浴場の建設などに資金を供給するため設立された<ref name="holale307" />。各街区には[[オスマン帝国の君主|君主]]や大臣などの有力者が設立したモスクが造られ、イスラム都市の伝統に則ったモスクと公共施設が整備された。また、イスラーム教徒による差別と抑圧はあったものの[[東方正教会|東方正教]]や[[アルメニア使徒教会]]の[[教会]]、[[ユダヤ教]]の[[シナゴーグ]]も数多く維持され、ムスリムの[[トルコ人]]のみならず、[[ギリシャ人]]、[[アルメニア人]]、[[ユダヤ人]]、そして[[西ヨーロッパ]]諸国からやってきた商人・使節など、様々な人々が住む多文化都市、東西交易の中心都市でもあった。1517年に[[オスマン家]]は[[イスラム帝国]]の地位を宣言し、イスタンブルは4世紀にわたり{{仮リンク|オスマンのカリフ|en|Ottoman Caliphate}}の首都として続いた<ref name="maag1145" />。
== 行政区分 ==
1520-1566年の[[スレイマン1世]]の治世の時代、特に偉大な芸術と建築的偉業の時代であった。主要な建築家であった[[ミマール・スィナン]]は市内のいくつかの象徴的な建築物に携わり、この間オスマンの芸術や陶器、[[イスラームの書法]]、{{仮リンク|オスマンの細密画|en|Ottoman miniature}}が栄えた<ref>{{harvnb|Holt|Lambton|Lewis|1977|pp=735–6}}</ref>。イスタンブルの全人口は18世紀までに57万人に達した<ref name="chfo">{{cite journal|last1=Chandler|first1=Tertius|last2=Fox|first2=Gerald|title=3000 Years of Urban Growth|year=1974|publisher=Academic Press|location=London|isbn=978-0-12-785109-9|ref=harv}}</ref>。19世紀初めの反乱の時代は進歩的な皇帝であった[[マフムト2世]]の高まりに導かれ、政治改革が生じ新しい技術の街への導入が認められ<ref>{{harvnb|Shaw|Shaw|1977|pp=4–6, 55}}</ref> この時代に金角湾に橋が架けられた<ref>{{harvnb|Çelik|1993|pp=87–9}}</ref>。1880年代にイスタンブルはヨーロッパの鉄道網と結ばれ<ref name="ha251">{{harvnb|Harter|2005|p=251}}</ref>、1883年に運行を開始した[[オリエント急行]]は、1888年にイスタンブルへの直接乗り入れを開始している。これにより、西ヨーロッパとイスタンブルは直接結ばれることとなった<ref>「オリエント急行の時代 ヨーロッパの夢の軌跡」p183 平井正 2007年1月25日発行 中央公論新社</ref>。安定的な水道や電気、電話、路面電車など近代的な施設が他のヨーロッパの都市に比べ後であるが、イスタンブルに後の数十年間にわたり徐々に導入されていった<ref>{{harvnb|Shaw|Shaw|1977|pp=230, 287, 306}}</ref>。それでも、近代化への取り組みは{{仮リンク|オスマン帝国の衰退|en|decline of the Ottoman Empire}}を阻止するのには十分ではなかった。
[[File:Istanbul location districts.svg|right|thumb|380px|イスタンブルの行政区分]]
イスタンブルは、39の区に分かれている。かつては32区であったが、[[2009年]]の地方選挙前に改変され、7つの区が増えた。人口分布を反映し、マルマラ海に面した中心街に近いエリアほど区が細分化されており、郊外に当たる黒海側は区割りが大きい。ボスポラス海峡の西側で、北を金角湾、南をマルマラ海、西をテオドシウスの城壁に挟まれた地域は旧市街と呼ばれ、かつてビュザンティオンが建設され、コンスタンティノープルとして発展した地域である。当時の市街はこの旧市街の地域に限られていた。19世紀、金角湾を北に渡った地域が新市街として開発された。


{{wide image|Galata Kulesi 'nden panorama.jpg|2000px|[[ガラタ塔]]の展望台から望むイスタンブル市街の風景。1890年のオスマン帝国末期の写真}}
== 気候 ==
[[温帯]]に属する[[西岸海洋性気候|海洋性気候]]、[[地中海性気候]]、[[大陸性気候]]が交差している特殊性で知られる。6月から8月の夏は通常高温・多湿であるのに対し、12月から3月にかけての冬は寒く、風が強く、雪が多い。
{{Infobox Weather
|metric_first=yes
|single_line=yes
|location={{TUR}}・イスタンブル
|Jan_REC_Hi_°C = 18.3
|Feb_REC_Hi_°C = 24.0
|Mar_REC_Hi_°C = 26.2
|Apr_REC_Hi_°C = 32.9
|May_REC_Hi_°C = 33.0
|Jun_REC_Hi_°C = 40.2
|Jul_REC_Hi_°C = 40.5
|Aug_REC_Hi_°C = 38.8
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|Oct_REC_Hi_°C = 34.2
|Nov_REC_Hi_°C = 27.2
|Dec_REC_Hi_°C = 21.2
|Year_REC_Hi_°C =40.5
|Jan_Hi_°C = 8.7
|Feb_Hi_°C = 9.1
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|Oct_Hi_°C = 20.1
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|Dec_Hi_°C = 11.1
|Year_Hi_°C = 18.4
|Jan_Lo_°C = 2.9
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|May_Lo_°C = 12.0
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|Dec_Lo_°C = 5.3
|Year_Lo_°C = 10.3
|Jan_MEAN_°C = 5.8
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|Oct_REC_Lo_°C = 1.0
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|Year_REC_Lo_°C =-16.1
|Jan_Hum= 77
|Feb_Hum= 75
|Mar_Hum= 74
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|Jan_Precip_days = 20
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|Jan_Precip_mm = 98.4
|Feb_Precip_mm = 80.2
|Mar_Precip_mm = 69.9
|Apr_Precip_mm = 45.8
|May_Precip_mm = 36.1
|Jun_Precip_mm = 34.0
|Jul_Precip_mm = 38.8
|Aug_Precip_mm = 47.8
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|Oct_Precip_mm = 96.9
|Nov_Precip_mm = 110.7
|Dec_Precip_mm = 123.9
|Year_Precip_mm = 843.9
|source = [[世界気象機関]] ([[国際連合]])<ref>{{cite web |url=http://www.worldweather.org/014/c00047.htm |title=Weather Information for Istanbul |accessdate=2010年3月6日}}</ref> Devlet Meteoroloji İşleri Genel Müdürlüğü<ref>[http://www.dmi.gov.tr/veridegerlendirme/il-ve-ilceler-istatistik.aspx?m=ISTANBUL]</ref><!-- <ref>{{cite web |url=http://www.dmi.gov.tr/sondurum/en-dusuk-sicakliklar.aspx?t=t&gun=120131&ind=1&s=NM&f= |title=Ölçülen En Düşük Sıcaklıklar (Lowest Recorded Temperatures): 30.01.2012 06:00 - 31.01.2012 06:00 (UTC) - İstanbul |accessdate=}}</ref> --> BBC Weather Centre<ref>{{cite web |url=http://www.bbc.co.uk/weather/world/city_guides/results.shtml?tt=TT004370 |title=BBC - Weather Centre - World Weather - Average Conditions - Istanbul |accessdate=2010年3月6日}}</ref>
}}


=== 20世紀以降から現代 ===
== 経済 ==
20世紀初め、[[青年トルコ人革命]]により廃位された[[アブデュルハミト2世]]や一連の戦争は病んでいる帝国の首都を悩ませた<ref>{{harvnb|Çelik|1993|p=31}}</ref>。これらの[[第一次世界大戦]]の終わりはイギリスやフランス、イタリアによる{{仮リンク|コンスタンティノープルの占領|en|Occupation of Constantinople}}の結果となった。遂にはオスマン帝国最後の皇帝であった[[メフメト6世]]が1922年11月に亡命し、翌年[[ローザンヌ条約]]によりコンスタンティノープルの占領は終わり、アンカラのトルコ大国民議会で[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク]]はトルコ共和国の建国を宣言し<ref>「バルカン 歴史と現在」p308-309 ジョルジュ・カステラン著 山口俊章訳 1994年7月発行 サイマル出版会</ref>共和国が認められた<ref>{{harvnb|Landau|1984|p=50}}</ref>。共和国の初期の頃、オスマンの歴史から新しい世俗的な国を遠ざけるためイスタンブルはトルコの首都の選択から外されアンカラが支持された<ref>{{harvnb|Dumper|Stanley|2007|p=39}}</ref>。しかしながら、1940年代後半から1950年代初めにイスタンブルは大きな構造変化を経験し、新しい公共広場や大通り、道路が市内中で建設され、時には歴史的な建築物が犠牲となった<ref>{{harvnb|Keyder|1999|pp=11–2, 34–6}}</ref>。アナトリアの人々が膨張するイスタンブルの郊外に建設された新しい工場の雇用を見付けるため市内に移住したため、1970年代に急増が始まった。都市のこの突然の人口の増大は大規模な住宅開発の需要の要因となり、以前の中心部から離れた村や森はイスタンブルの大都市圏に飲み込まれた<ref>{{harvnb|Efe|Cürebal|2011|pp=718–9}}</ref>。
トルコ最大の経済都市であり、2005年のイスタンブル市のGDPは1330億ドルを記録した。産業面では、トルコの20%の工場雇用、38%の工場、そしてトルコの貿易の55%がイスタンブルでおこなわれている。周辺の絹やタバコ、綿花、果物、オリーブオイルといった農産物の集散地ともなっている。食品加工、織物、石油製品、ゴム、金属食器、皮革、化学品、エレクトロニクス、ガラス、機械、製紙、アルコールなどの工業があり、また自動車産業もさかんである。金融面でもトルコの中心であり、トルコ唯一の[[証券取引所]]である[[イスタンブル証券取引所]]がある。そのほかの産業として、世界中から集まる観光客を相手とした観光業も重要な部分を占めている。


== 交通 ==
==地理==
[[ファイル:Istambul and Bosporus big.jpg|thumb|300px|イスタンブール衛星写真|イスタンブル市街の衛星写真。左がヨーロッパ、右がアジアで、両者の間を隔てるのが[[ボスポラス海峡]]。海峡の南が[[マルマラ海]]で、北が[[黒海]]。マルマラ海の北岸、ヨーロッパ側に見える三角形の半島が[[イスタンブルの歴史地区|イスタンブル旧市街]]で、海峡から旧市街に切れ込んだ海が[[金角湾]]。この写真から、旧市街から城壁や海を越えて市街地が拡大していることがよく分かる。]]
ヨーロッパ側とアジア側にそれぞれ国際特急の発着する[[鉄道駅]]、[[高速バス]]ターミナル、[[国際空港]]があり、トルコ各地や諸外国と繋がっている。また市内交通は急速に近代化されている。
イスタンブルはトルコ北西部[[マルマラ地方]]に位置し、{{convert|5343|km2|sqmi|sp=us}} の範囲を占めている{{efn|name=city-area|Sources have provided conflicting figures on the area of Istanbul. The most authoritative source on this figure ought to be the Istanbul Metropolitan Municipality (MMI), but the English version of its website suggests a few figures for this area. One page states that "Each MM is sub-divided into District Municipalities ("DM") ''of which there are 27 in Istanbul''" [emphasis added] with a total area of {{convert|1538.9|km2|sqmi|sp=us}}.<ref name="mmi-districts">{{cite web|url=http://www.ibb.gov.tr/en-US/Organization/Jurisdiction/Pages/Districts.aspx |title=Districts |publisher=Istanbul Metropolitan Municipality |accessdate=21 December 2011}}</ref> However, the Municipal History page appears to be the most explicit and most updated, saying that in 2004, "Istanbul Metropolitan Municipality's jurisdiction was enlarged to cover all the area within the provincial limits". It also states a 2008 law merged the [[Eminönü]] district into the [[Fatih]] district (a point that is not reflected in the previous source) and increased the number of districts in Istanbul to thirty-nine.<ref name="mmi-history">{{cite web|url=http://www.ibb.gov.tr/en-US/Organization/MunicipalHistory/Pages/AnaSayfa.aspx |title=History of Local Governance in Istanbul |publisher=Istanbul Metropolitan Municipality |accessdate=21 December 2011}}</ref> That total area, as corroborated on the Turkish version of the MMI website,<ref>{{cite web|url=http://www.ibb.gov.tr/tr-TR/kurumsal/Pages/IlceveIlkKademe.aspx |title=İstanbul İl ve İlçe Alan Bilgileri |publisher=Istanbul Metropolitan Municipality |accessdate=20 June 2010 |language=Turkish |trans_title=Istanbul Province and District Area Information}}</ref> and a recently updated Jurisdiction page on the English site<ref name="mmi-jurisdiction">{{cite web|url=http://www.ibb.gov.tr/en-US/Organization/Jurisdiction/Pages/AnaSayfa.aspx |title=Jurisdiction |publisher=Istanbul Metropolitan Municipality |accessdate=21 December 2011}}</ref> is {{convert|5343|km2|sqmi|sp=us}}.}}。ボスポラス海峡は[[マルマラ海]]と[[黒海]]を結び市街を歴史や経済の中心であるヨーロッパの[[トラキア]]側とアジアの[[アナトリア]]側に分けている。さらに市街は[[金角湾]]により分けられ、以前のビザンティンやコンスタンティノープルが創建された半島は天然の港に囲まれている。マルマラ海やボスポラス海峡、金角湾の交わる辺りが今日のイスタンブルの中心で数千年の間攻撃から街を守って来ており、まだ街の景観の特徴として良く残されている<ref name="gr63" />。
=== 空港 ===
[[ファイル:Ataturk Havalimani 2.jpg|thumb|right|アタテュルク国際空港]]


[[File:West-turkey-plates-cropped.gif|thumb|left|トルコ西部の断層は丁度、イスタンブルの南西に集中しマルマラ海とエーゲ海の下を通っている。|alt=A high concentration of fault lines in northwestern Turkey, where the Eurasian and African plates meet; a small number of faults and ridges also appear under the Mediterranean]]
海外からの主要な玄関口となるのはヨーロッパ側のイェシルキョイ (Yeşilköy) にある[[アタテュルク国際空港]]である。市街地の24km西にあり、空港には空港バス (HAVAŞ) と[[イスタンブールLRT]]が乗り入れている。観光名所の多い旧市街中心部に行くには、途中ゼイティンブルヌ (Zeytinburnu) 駅で地下鉄から路面電車 (Tramvay) に乗り換えるのが一般的である。アジア側には[[フォーミュラ1|F1]]も開かれる[[イスタンブール・パーク]]サーキットの近くに[[サビハ・ギョクチェン国際空港]]があり、こちらもヨーロッパ、中東の各都市から定期便がある。


イスタンブルの市章のモデルにもなっている[[ローマの七丘]]をモデルとした{{仮リンク|イスタンブルの七丘|en|Seven hills of Istanbul}}は歴史的な半島を特徴付け、それぞれの頂上には帝国のモスクがある。これらの丘の最も東のものはサライブルヌの上の[[トプカプ宮殿]]の場所である<ref>{{cite web|url=http://english.istanbul.gov.tr/Default.aspx?pid=294|publisher=Governorship of Istanbul|title=Istanbul from a Bird's Eye View|accessdate=13 June 2010}}</ref>。金角湾の反対側から上がると、別の円錐の丘で近代的なベイオール地区が位置している。地形のためにベイオールの建物はかつて斜面を保った擁壁の助けを借りて建てられ、道は階段の形で配置された<ref name="topo" />。アジア側に位置するユスキュダルでは地形が徐々にボスポラス海峡沿岸の下方に延びるとともに、同じような丘陵地の特性を示すが、シェムシパシャ''Şemsipaşa''やアヤズマ''Ayazma''では景色がより急峻な岬に似ている。イスタンブルで一番海抜が高いのは{{仮リンク|チャムジャの丘|en|Camlica Hill}}''Büyük Çamlıca Tepesi''で {{convert|288|m|ft|sp=us}} である<ref name="topo">{{cite web|url=http://www.kultur.gov.tr/EN,33069/the-topography-of-istanbul.html|publisher=Republic of Turkey Ministry of Culture and Tourism|title=The Topography of İstanbul|accessdate=19 June 2012}}</ref>。
=== 鉄道 ===
[[ファイル:Bahnhofsfront-Istanbul-Sirkeci retouched.jpg|thumb|right|シルケジ駅]]
ヨーロッパ側には[[オリエント急行]]の終点であった[[シルケジ駅]]がある。[[1890年]]完成のこの駅は、現在では[[トルコ国鉄]] (TCDD) の主要駅としてヨーロッパ各地からの国際列車が[[ギリシア]]の[[テッサロニキ]]や[[ブカレスト]]経由(ボスポラス急行)でここに着く。


イスタンブルは[[北アナトリア断層]]の近くに位置し、[[アフリカプレート]]や[[ユーラシアプレート]]の境界に近い。この断層地帯は北アナトリアからマルマラ海にかけて走り、これは都市の歴史を通していくつかの甚大な震災と関連している。甚大な震災の中には{{仮リンク|1509年イスタンブル地震|en|1509 Istanbul earthquake}}が含まれこの地震による[[津波]]は城壁を超え市街を破壊し、10,000人が犠牲になった。より最近では[[イズミット]]近くを震源とする1999年の[[イズミット地震 (1999年)|イズミット地震]]で18,000人が犠牲となり、イスタンブル郊外の1,000人も含まれている。イスタンブルの人々はイスタンブルの急速な人口増加に対応するために最近建設された数千の住宅が正しく建設されていない可能性があり、さらに壊滅的な震災が都市で発生することを危惧している<ref name="dis-awaits">{{cite news|last=Revkin|first=Andrew C.|title=Disaster Awaits Cities in Earthquake Zones|url=http://www.nytimes.com/2010/02/25/science/earth/25quake.html|work=The New York Times|date=24 February 2010|accessdate=13 June 2010}}</ref>。地震学者は2030年までに[[マグニチュード]](モーメントマグニチュード)7.6かより大きな地震がイスタンブルで起こる可能性が60%以上であると言っている<ref>{{cite journal|doi=10.1126/science.288.5466.661|last1=Parsons|first1=Tom|last2=Toda|first2=Shinji|last3=Stein|first3=Ross S.|last4=Barka|first4=Aykut|last5=Dieterich|first5=James H.|year=2000|title=Heightened Odds of Large Earthquakes Near Istanbul: An Interaction-Based Probability Calculation|journal=Science|pmid=10784447|publisher=The American Association for the Advancement of Science|location=Washington, D.C.|volume=288|issue=5466|pages=661–5|ref=harv}}</ref><ref>{{cite news|last=Traynor|first=Ian|title=A Disaster Waiting to Happen – Why a Huge Earthquake Near Istanbul Seems Inevitable|url=http://www.guardian.co.uk/world/2006/dec/09/turkey.naturaldisasters|work=The Guardian |location=UK |date=9 December 2006|accessdate=13 June 2010}}</ref>。
アジア側には[[ハイダルパシャ駅]]があり、[[アンカラ]](1日数便)や[[アナトリア]]各地に列車が発着している。また、[[アンカラ]]への[[トルコ高速鉄道|高速鉄道]]の建設も進められている。


=== 気候 ===
[[マルマライ計画]]が完成するとアジアとヨーロッパが鉄路で結ばれることになる。
イスタンブルの気候は改訂された[[ケッペンの気候区分]]によれば[[地中海性気候]] (''Csa'') と[[温暖湿潤気候]] (''Cfa'') の境界にあたり、夏の2ヶ月間だけ40mm以下の降水量のため亜熱帯か地中海性の気候か単独で分類されるのが妨げられている<ref>{{cite journal|url=http://www.schweizerbart.de/resources/downloads/paper_free/55034.pdf |first=Markus |last=Kottek |first2=Jürgen |last2=Grieser |first3=Christoph |last3=Beck |first4=Bruno |last4=Rudolf |first5=Franz |last5=Rube |title=World Map of the Köppen-Geiger climate classification updated |journal=Meteorologische Zeitschrift |month=June |year=2006 |volume=15 |issue=3 |pages=259–263 |accessdate=2011-02-27 |doi=10.1127/0941-2948/2006/0130}}</ref><ref>{{cite journal|url=http://www.hydrol-earth-syst-sci-discuss.net/4/439/2007/hessd-4-439-2007.pdf |first=M. C. |last=Peel |first2=B. L. |last2=Finlayson |first3=T. A. |last3=McMahon |title=Updated world map of the Köppen-Geiger climate classification |journal=Hydrology and Earth System Sciences |year=2007 |volume=4 |pages=439–473 |accessdate=2011-02-27|doi=10.5194/hessd-4-439-2007|issue=2}}</ref>。しかしながら、広大な市域や多様な地形、海辺の場所などイスタンブルでは{{仮リンク|微気候|en|microclimate}}が見られる。市街の北部は[[海洋性気候]]で表されるが、これは黒海からの湿気や比較的高い植生の密度による。市街南部の人口密集地の気候は暖かく、湿度の影響を受けにくい<ref name="efcu716">{{harvnb|Efe|Cürebal|2011|pp=716–7}}</ref>。


[[File:Fog-over-istanbul-skyscrapers.jpg|thumb|right|{{仮リンク|レヴェント|en|Levent}}地区を覆う霧。朝によく発生する。|alt=Skyscrapers, both near and far, soar above a dense layer of fog that keeps the ground hidden from view.]]
=== 道路 ===
[[ヨーロッパ]]と[[トルコ]]を結ぶ2本の[[高速道路]]が走っている。E5と呼ばれる古い方は都市内交通として機能しており、TEM (Trans European Motorway) と呼ばれる新しい方は主に[[大陸]]間移動の通過交通に利用されている。E5の[[ボスポラス橋]]とTEMの[[ファーティフ・スルタン・メフメト橋]](第二ボスポラス橋)、2本の橋梁が[[ボスポラス海峡]]のヨーロッパ側と[[アジア]]側をつないでいる。


実際、イスタンブルの気候の顕著な特徴の一つに持続的な高湿度があり、湿度は80%に達しほとんどは朝である<ref name="bbc-weather">{{cite web|url=http://www.bbc.co.uk/weather/745044|publisher=BBC Weather Centre|work=World Weather|title=Weather – Istanbul|accessdate=15 October 2012}}</ref>。これらの気象条件により霧はごくありふれたもので、市の北側や中心部から離れた場所ではより多い<ref name="efcu716" />。特に深い霧はボスポラス海峡を含め地域の交通を混乱させ、秋や冬の月に継続的に起こり湿度が高いまま午後まで残る<ref>{{cite web|url=http://www.hurriyetdailynews.com/default.aspx?pageid=438&n=istanbul-enshrouded-in-dense-fog-2005-01-14|title=Istanbul Enshrouded in Dense Fog|work=Turkish Daily News|date=14 January 2005|accessdate=15 October 2012}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.todayszaman.com/newsDetail_getNewsById.action;jsessionid=FAB4C1B60E306ABF22F28B59203430B2?pageNo=137&category=&dt=2009&newsId=193715&columnistId=0|work=Today's Zaman|date=23 November 2009|accessdate=15 October 2012|title=Thick Fog Causes Disruption, Flight Delays in İstanbul}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.todayszaman.com/newsDetail_getNewsById.action;jsessionid=86594F6ACB2187D581BA55332977A69F?newsId=226474|work=Today's Zaman|title=Dense Fog Disrupts Life in Istanbul|date=6 November 2010|accessdate=15 October 2012}}</ref>。高湿度の条件と霧は夏の月の間は昼までに解消されるが、長引いた湿度は夏の高い気温に不快な悪影響を与える<ref name="bbc-weather" /><ref name="pelit">{{cite web|last=Pelit|first=Attila|url=http://www.timeout.com/istanbul/features/306/when-to-go-to-istanbul|work=TimeOut Istanbul|title=When to Go to Istanbul|accessdate=19 December 2011}}</ref>。夏の数ヶ月間の最高気温の平均は29℃程度で、降雨は珍しく6月から8月にかけて測定可能な降水量は15日程度だけである<ref name="tsms-main">{{cite web|url=http://www.dmi.gov.tr/veridegerlendirme/il-ve-ilceler-istatistik.aspx?m=ISTANBUL|title=Resmi İstatistikler (İl ve İlçelerimize Ait İstatistiki Veriler)|trans_title=Official Statistics (Statistical Data of Provinces and Districts) - Istanbul|publisher=Turkish State Meteorological Service|language=Turkish|accessdate=22 September 2012}}</ref>。しかしながら、低い降水量にもかかわらず夏の月の期間、雷雨は高く集中している<ref>{{harvnb|Quantic|2008|p=155}}</ref>。
=== 船 ===
冬のイスタンブルは{{仮リンク|地中海盆地|en|Mediterranean Basin}}周辺の他のほとんどの都市と比べると冷涼で最低気温の平均は4-5℃である<ref name="tsms-main" />。黒海からの[[湖水効果雪]]はよくあり、予測するのが難しく霧と共に厄介なものになる可能性があり、都市のインフラを混乱させる<ref>{{cite journal|last=Kindap|first=Tayfin|title=A Severe Sea-Effect Snow Episode Over the City of Istanbul|journal=Natural Hazards|volume=54|issue=3|year=2010|date=19 January 2010|pages=703–23|url=http://www.springerlink.com/content/cu66841r30p20v72/|accessdate=15 October 2012|issn=1573-0840|ref=harv}}</ref>。春や秋は穏やかであるが、しばしば雨が降ったり変わり易い北西からの冷たい風や南からの暖かい突風で、同じ日に激しい気温変化を引き起こす<ref name="pelit" /><ref>{{cite web|url=http://www.hurriyetdailynews.com/default.aspx?pageid=438&n=istanbul-winds-2009-10-15|work=Turkish Daily News|title=Istanbul Winds Battle Over the City|date=17 October 2009|accessdate=15 October 2012}}</ref>。
[[イズミール]]など各地へカーフェリーや高速船が運航されている。


イスタンブルの年間降雨日は平均で115日で、年間降水量は {{convert|852|mm|in|1|sp=us}} である<ref name="tsms-main" /><ref name="tsms-rain">{{cite web|url=http://www.dmi.gov.tr/veridegerlendirme/yillik-toplam-yagis-verileri.aspx?m=istanbul |title=Yıllık Toplam Yağış Verileri|language=Turkish|trans_title=Annual Total Participation Data: Istanbul, Turkey|publisher=Turkish State Meteorological Service|accessdate=6 July 2012}}</ref>。極値は最高気温の記録は40.5℃、最低気温の記録は-16.1℃をそれぞれ観測している。1日当たりの降水量の記録は {{convert|227|mm|in|sp=us}} で、1日当たりの降雪量の記録は {{convert|80|cm|in|sp=us}} である<ref>{{cite web|url=http://www.dmi.gov.tr/files/kurumsal/ekitap/4mevsim2/s5152.pdf |title=İstanbul Bölge Müdürlüğü'ne Bağlı İstasyonlarda Ölçülen Ekstrem Değerler|language=Turkish|trans_title=Extreme Values Measured in Istanbul Regional Directorate|publisher=Turkish State Meteorological Service |accessdate=27 July 2010}}</ref><ref>{{cite web|url=http://journals.ametsoc.org/doi/abs/10.1175/1520-0493(1998)126%3C3036%3AMCBOTE%3E2.0.CO%3B2 |title=March 1987 Cyclone (Blizzard) over the Eastern Mediterranean and Balkan Region Associated with Blocking |publisher=American Meteorological Society |accessdate=27 July 2010}}</ref>。
=== 市内公共交通網 ===
{{Main|イスタンブルの公共交通網}}
{{Weather box
[[ファイル:Istanbul Rapid Transit Map.png|thumb|200px|イスタンブル公共交通路線図1]]
| location = イスタンブル (1970–2011)
[[ファイル:Istanbul Rapid Transit Map with Metrobüs (schematic).png|thumb|200px|イスタンブル公共交通路線図2]]
| metric first = yes
市内交通として[[ライトレール]]、[[地下鉄]]、[[トラム]]、[[ケーブルカー]]、近郊電車、市バス、シーバスなどが運行されている。
| single line = yes
| Jan high C = 9.3
| Feb high C = 9.7
| Mar high C = 12.1
| Apr high C = 17.0
| May high C = 22.1
| Jun high C = 26.9
| Jul high C = 29.4
| Aug high C = 29.2
| Sep high C = 25.5
| Oct high C = 20.2
| Nov high C = 15.2
| Dec high C = 11.2
| year high C =
| Jan low C = 4.2
| Feb low C = 4.0
| Mar low C = 5.5
| Apr low C = 9.3
| May low C = 13.5
| Jun low C = 18.0
| Jul low C = 20.4
| Aug low C = 20.5
| Sep low C = 17.4
| Oct low C = 13.6
| Nov low C = 9.3
| Dec low C = 6.2
| year low C =
| precipitation colour = green
| Jan precipitation mm = 100.9
| Feb precipitation mm = 80.9
| Mar precipitation mm = 69.6
| Apr precipitation mm = 45.4
| May precipitation mm = 35.5
| Jun precipitation mm = 37.5
| Jul precipitation mm = 39.0
| Aug precipitation mm = 46.3
| Sep precipitation mm = 62.9
| Oct precipitation mm = 100.7
| Nov precipitation mm = 108.6
| Dec precipitation mm = 124.7
| year precipitation mm =
| Jan precipitation days = 15.6
| Feb precipitation days = 14.2
| Mar precipitation days = 11.8
| Apr precipitation days = 10.7
| May precipitation days = 7.3
| Jun precipitation days = 5.4
| Jul precipitation days = 3.7
| Aug precipitation days = 4.0
| Sep precipitation days = 5.6
| Oct precipitation days = 10.2
| Nov precipitation days = 11.2
| Dec precipitation days = 15.4
| year precipitation days =
| unit precipitation days = 0.1 mm
| Jan sun= 68.2
| Feb sun= 87.6
| Mar sun= 133.3
| Apr sun= 180.0
| May sun= 251.1
| Jun sun= 285.0
| Jul sun= 319.3
| Aug sun= 288.3
| Sep sun= 228.0
| Oct sun= 158.1
| Nov sun= 99.0
| Dec sun= 68.2
| source 1 = Turkish State Meteorological Service<ref name="tsms-main" /><ref name="tsms-rain" /> (all exc. rain data: 1970–2011; rain data: 1970–2010)}}


== 高等教育機関 ==
== 都市景観 ==
{{仮リンク|ファティ|en|Fatih}}地区はオスマンに征服されるまで[[ガラタ]]のジェノヴァ共和国の要塞がある街全体と一致している。ジェノヴァの要塞は19世紀には街の北側へ市街地を拡大するため大部分が取り壊され、唯一[[ガラタ塔]]だけが残っている<ref>{{harvnb|Çelik|1993|pp=70, 169}}</ref>。ガラタは現在の行政区では{{仮リンク|ベイオール|en|Beyoğlu}}地区に含まれ、[[タクスィム広場]]周辺部はイスタンブルの商業や娯楽の中心地となっている<ref>{{harvnb|Çelik|1993|p=127}}</ref>。
[[File:İstanbul Üniversitesi.JPG|thumb|イスタンブル大学正門]]
[[1453年]][[5月30日]]に[[マドラサ]]として創立されたトルコ最古の[[大学]]である{{仮リンク|イスタンブル大学|en|Istanbul University}}をはじめ、{{仮リンク|イスタンブル工科大学|en|Istanbul Technical University}}や{{仮リンク|マルマラ大学|en|Marmara University}}など多くの大学がある。


[[ドルマバフチェ宮殿]]はオスマン期の統治の中心で、ベイオール北の[[ベシクタシュ]]地区にある。そこを越えた場所にある[[イニョニュ・スタジアム]]はトルコでは最古のスポーツクラブである[[ベシクタシュJK]]が本拠地としている<ref name="fifa-bes">{{cite web|url=http://www.fifa.com/classicfootball/clubs/club=44163/index.html |publisher=FIFA |accessdate=8 April 2012|title=Besiktas: The Black Eagles of the Bosporus}}</ref>。
== 観光 ==
以前は村であった{{仮リンク|オルタキョイ|en|Ortaköy}}はベシクタシュ地区内にあり、{{仮リンク|オルタキョイモスク|en|Ortaköy Mosque}}の名称にも含まれボスポラス海峡に沿った第1ボスポラス橋近くに位置する。ボスポラス海峡に岸に沿って並んだ北側の{{仮リンク|ヤリィ|en|yalı (residence)}}は豪華な{{仮リンク|シャレー|en|Chalet}}の邸宅は19世紀に貴族やエリート階級の夏の離宮として建てられた<ref>{{cite web|url=http://www.nytimes.com/1999/10/29/arts/antiques-for-turks-art-to-mark-700th-year.html?pagewanted=all&src=pm|last=Moonan|first=Wendy|work=The New York Times|title=For Turks, Art to Mark 700th Year|date=29 October 1999|accessdate=4 July 2012}}</ref>。さらに内陸や市内の環状道路の外側にある{{仮リンク|レヴェント|en|Levent}}や{{仮リンク|マスラク|en|Maslak}}はイスタンブルの重要な経済の中心である<ref>{{harvnb|Oxford Business Group|2009|p=105}}</ref>。
[[File:Hagia Sophia exterior 2007 002.jpg|thumb|right|アヤソフィア]]
[[File:PIC 2004-08-20 11-24 9538.jpg|thumb|right|スレイマニエ・モスク]]
[[File:Kanlica.JPG|thumb|left|もともとはイスタンブルの郊外で{{仮リンク|ヤリィ|en|yalı (residence)}}と呼ばれる邸宅がボスポラス海峡沿いに建ち並び、現在ではイスタンブルの高級地区の一部。|alt=Two- and three-story colored houses with docks and balconies, built directly on the edge of the water]]
オスマン期、[[ユスキュダル]]や[[カドゥキョイ]]はイスタンブルの郊外で、駐屯地や海辺の別荘、庭園がある静かな場所であったが20世紀の後半になるとアジア側も急速な都市化を経験し、市内の他の住宅地区と比較して後に開発されたこの地区はより良いインフラと都市計画に至っている<ref name="wctr281" />。ボスポラス海峡のアジア側の多くは経済や商業的な中心のヨーロッパ側の郊外として機能し、市内の人口の3分の1を占めるが雇用は4分の1を占めるだけである<ref name="wctr281" />。20世紀のイスタンブルの急速な成長の結果、市内の相当な部分で[[ゲジェコンドゥ]](一夜建て)と呼ばれる不法建築物が構成されている<ref name="kar7896">{{harvnb|Karpat|1976|pp=78–96}}</ref>。現在では徐々にいくつかのゲジェコンドゥが占める地区は取り壊され、現代的な大規模住宅群に置き換わって来ている<ref name="yavuz">{{cite news|last=Yavuz|first=Ercan|url=http://www.todayszaman.com/newsDetail_getNewsById.action?load=detay&link=177450&bolum=103|work=Today's Zaman|title=Gov't launches plan to fight illegal construction|date=8 June 2009|accessdate=20 December 2011}}</ref>。


イスタンブルには他の大都市のように主要な都市公園はないが、多くの緑地が広がっている。{{仮リンク|ギュルハーネ公園|en|Gülhane Park}}や{{仮リンク|ユルドゥズ公園|en|Yıldız Park}}はもともとトプカプ宮殿やユルドゥズ宮殿などイスタンブルの2つの宮殿の土地に含まれていたが、トルコ共和国になり初期の10年間で公共の公園に利用されるようになった<ref>{{harvnb|Boyar|Fleet|2010|p=247}}</ref>。
トルコを代表する観光地であり、[[2012年]]に[[マスターカード]]が公表した統計によると、世界で5番目に外国人旅行者が多く訪れる都市である<ref>[http://newsroom.mastercard.com/wp-content/uploads/2012/06/MasterCard_Global_Destination_Cities_Index_2012.pdf MasterCard Global Destination Cities Index 2012]</ref>。日本語ガイドブックや、都市としての歴史書も多数刊行されている。
{{仮リンク|フェテヒ・パシャ・コルス|en|Fethi Paşa Korusu}}はアナトリアのボスポラス橋に隣接したユルドゥズ宮殿反対側の丘の斜面に位置している。ヨーロッパ側に沿ったファティ・スルタン・メフメト橋に近い{{仮リンク|エミルギャン公園|en|Emirgan Park}}はもともとはオスマンの指導者の私有地に属しており、47haの公園内には多様な植物があり、2005年以来毎年チューリップ祭が催されている<ref>{{harvnb|Taylor|2007|p=241}}</ref>。イスタンブルっ子 (Istanbulites) に夏の間、ポピュラーな場所には{{仮リンク|ベオグラードの森|en|Belgrad Forest}}が含まれ市の北縁の {{convert|5500|ha|acre|adj=off}} を占めている。森林はもともとビザンティンやオスマンの時代に市内に水を供給するための貯水池として使われ今でも残っている<ref>{{cite web|url=http://www.kultur.gov.tr/EN/belge/2-14846/water-supply-systems-reservoirs-charity-and-free-founta-.html|publisher=Republic of Turkey Ministry of Culture and Tourism|title=Water Supply Systems, Reservoirs, Charity and Free Fountains, Turkish Baths|accessdate=29 April 2012}}</ref><ref>{{harvnb|Time Out Guides|2010|p=212}}</ref>。
* [[アヤソフィア]]
*[[聖ゲオルギオス大聖堂]] - アギア・ソフィア大聖堂(アヤソフィア)がモスクに改修されたのちの17世紀に、[[コンスタンディヌーポリ総主教庁|コンスタンディヌーポリ総主教]]の座所となった[[正教会]]の[[大聖堂]]。
* [[トプカプ宮殿]]
* [[スルタンアフメト・モスク]](ブルーモスク)
* [[コンスタンティノープル競馬場]](アト・メイダヌ)
* [[イスタンブル地下宮殿|地下宮殿]](イェレバタン・サライ)
* [[スレイマニエ・モスク]]
* [[カーリエ博物館]]
* [[テオドシウスの城壁]]
*[[ガラタ]]
*[[イスタンブル・トンネル]](テュネル) - 世界一短い地下鉄
これらは[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[文化遺産 (世界遺産)|世界文化遺産]][[イスタンブルの歴史地区]]を構成する歴史的建造物群である。
* [[グランドバザール]]
* [[エジプトバザール]]
* [[ヴァレンス水道橋]]
* [[金角湾]]
* [[ガラタ橋]]
* [[イスティクラル通り]]
* [[タクスィム広場]]
* [[ドルマバフチェ宮殿]]
* [[ルメリ・ヒサル]]


== 姉妹都市 ==
=== 建築物 ===
{{main|:w:Architecture of Istanbul}}
{|style="padding:2px; font-size:90%;"
[[File:Hagia Sophia (5 Aug 2008).jpg|thumb|right|元々は大聖堂で後にモスクに変わったアヤソフィアは現在は博物館。6世紀に建てられる。|alt=A reddish building topped by a large dome and surrounded by smaller domes and four towers]]
イスタンブルは主としてビザンティンやオスマンの建築物で知られているが、しかしその建物はそれ以前に街を支配した様々な人々や帝国を反映している。例えば、ジェノヴァやローマの建築はイスタンブルではオスマンに相対する物として見ることが出来る。古代の[[ギリシア建築]]は何も残らなかったが、[[ローマ建築]]はより耐久性があることが証明されている。[[コンスタンティノープル競馬場]](ヒッポドローム)からのオベリスクは今でもスルタンアフメト広場で見られ、[[ヴァレンス水道橋]]の一部の区間は4世紀後半に建てられたが比較的手付かずでファティ地区の西縁に残っている<ref name="coaot">{{harvnb|Chamber of Architects of Turkey|2006|pp=80, 118}}</ref>。
{{仮リンク|コンスタンティヌスの円柱|en|Column of Constantine}}は330年に新しいローマ帝国の首都を記すため建てられたが、ヒッポドロームからそう遠くない場所に今でも建っている<ref name="coaot" />。

初期の[[ビザンティン建築]]は古典様式のローマのドームやアーチをモデルとし受け継いでいたが、{{仮リンク|聖セルギウス・バッカス教会|en|Church of the Saints Sergius and Bacchus}}(リトルアヤソフィア)ではこれらの要素に改良がなされた。イスタンブルで現存する最古のビザンティン建築は廃墟ではあるけれど後にイムラホルモスクに転換された454年に建てられた{{仮リンク|ストゥディオス修道院|en|Monastery of Stoudios}}である<ref>{{harvnb|Chamber of Architects of Turkey|2006|p=176}}</ref>。1261年にコンスタンティノープルが奪回されるとビザンティン様式は今でも現存する最も重要な[[カーリエ博物館|コーラ教会]]と{{仮リンク|パンマカリストス教会|en|Pammakaristos Church}}に拡大している。それでも、イスタンブルで最も象徴的なビザンティン様式の建築物の頂点の一つは[[アヤソフィア]]で、一番上のドームは直径31mあり<ref>{{harvnb|Gregory|2010|p=138}}</ref>、アヤソフィアはモスクに変わる前は1,000年以上にわたり世界最大の大聖堂で、現在では博物館になっている<ref name="klwa171" />。

イスタンブルに現存する最古の[[オスマン建築]]には{{仮リンク|アナドル・ヒサル|en|Anadoluhisarı}}や[[ルメリ・ヒサル]]などの城塞が含まれ、コンスタンティノープルの市街をオスマンが包囲する際の助けとなった<ref>{{harvnb|Freely|2000|p=283}}</ref>。4世紀の間にわたって、オスマンは高くそびえるモスクや華麗な宮殿を建築しいつまでも残るイスタンブルの印象的な街並を作って行った。最大の宮殿である[[トプカプ宮殿]]は内部のバロック様式のハレムから[[新古典主義建築]]の{{仮リンク|エンダルン学校|en|Enderun School}}(図書館)など多種多様な建築様式が含まれている<ref>{{harvnb|Necipoğlu|1991|pp=180, 136–137}}</ref>。{{仮リンク|オスマン帝国のモスク|en|Mosques commissioned by the Ottoman dynasty}}には[[スルタンアフメト・モスク]](ブルーモスク)や[[スレイマニエ・モスク]]、{{仮リンク|イェ二モスク|en|New Mosque (Istanbul)}}が含まれ、これら全ては16世紀から17世紀にオスマン帝国の隆盛期に建てられている。後の世紀、特に[[タンジマート]]の改革期にはオスマン様式の建築物はヨーロッパ様式のものに変わっている<ref>{{harvnb|Çelik|1993|p=159}}</ref>。
{{仮リンク|イスティクラル通り|en|İstiklal Avenue}}周辺の地区は壮麗なヨーロッパの大使館や新古典様式や[[ネオルネッサンス建築]]、[[アール・ヌーヴォー]]建築の通りで満たされている。ベイオールの建築物は教会や店舗、劇場、公的な建物である[[ドルマバフチェ宮殿]]などが含まれる<ref>{{harvnb|Çelik|1993|pp=133–34, 141}}</ref>。

== 行政 ==
[[ファイル:Map of the Districts of Istanbul.png|right|thumb|340px|イスタンブルの市街はボスポラス海峡に沿った中心部から遠くに伸びる。(地図の上部が黒海で下部がマルマラ海)|alt=A map depicting districts, squeezed between two bodies of water; farther districts are very large compared to those clustered in the center.]]
2004年以来、イスタンブルはトルコでは2つある市域と県域が同一の範囲で広がる都市<ref>もう1都市は同じ大都市自治体の[[イズミット]]でこちらは[[コジャエリ県]]とほぼ同一の範囲</ref>の1つである<ref>{{cite web|title=Büyükşehir Belediyesi Kanunu|trans_title=Metropolitan Municipal Law|url=http://www.tbmm.gov.tr/kanunlar/k5216.html|accessdate=30 November 2010|quote=Bu Kanunun yürürlüğe girdiği tarihte; büyükşehir belediye sınırları, İstanbul ve Kocaeli ilinde, il mülkî sınırıdır. (On the date this law goes in effect, the metropolitan city boundaries, in the provinces of İstanbul and Kocaeli, are those of the province.)|work=Türkiye Büyük Millet Meclisi|date=10 July 2004|language=Turkish}}</ref>。イスタンブルはイスタンブル県の県都と見なされ、イスタンブル大都市自治体 (MMI) により統治され39の都市行政区に分けられている{{efn|name=city-area}}。

現在の都市機構は19世紀のタンジマート期の改革に遡り、それ以前は[[カーディー]]と大宰相の後援の下、[[イマーム]]により都市を率いていた。フランスの都市をモデルに、宗教的な仕組みは市長とイスタンブル中の{{仮リンク|ミレット制|en|millet (Ottoman Empire)}}の代表者で構成された議会に置き換わった。ベイオールは市内では最初の自らの首長と議会を有する地区であったが、議員はミレットの代表者の代わりに地区に長年住む住民であった。[[オスマン帝国憲法]]以後、法律が制定されこの仕組みは市全体に拡大され20の[[パリの行政区]]を模範としていたが、1908年まで全ては実行されておらずイスタンブルは9つの地区で構成された行政区として宣言された<ref>{{harvnb|Çelik|1993|pp=42–8}}</ref><ref>{{harvnb|Kapucu|Palabiyik|2008|p=145}}</ref>。この仕組みは ''belediye''(自治体)と名称を変えてトルコ共和国建国後も続いたが、1957年にこの自治体は解散した<ref name="mmi-history" /><ref>{{harvnb|Taşan-Kok|2004|p=87}}</ref>。イスタンブルを含めトルコの人口集中地区に隣接した小さな集落は1980年代初期にそれぞれ主要都市に併合され、その結果大都市の自治体となった<ref>{{harvnb|Wynn|1984|p=188}}</ref><ref>{{harvnb|Taşan-Kok|2004|pp=87–8}}</ref>。

イスタンブル大都市自治体の意思決定機関は、地区議会から選ばれた議員による市議会である。市議会は予算管理やインフラの維持、博物館や主要な文化センターの監督など市全体の問題を担当している<ref name="kapa1535">{{harvnb|Kapucu|Palabiyik|2008|pp=153–5}}</ref>。市政府は「強力な市長と弱い議会」のアプローチの下で運営されるため、議会の指導者、市長は迅速な意思決定を行う権限を有しているがしばしば透明性は犠牲にされる<ref>{{cite journal|last=Erder|first=Sema|title=Local Governance in Istanbul|year=2009|date=November 2009|series=Urban Age|journal=Istanbul: City of Intersections|publisher=London School of Economics|location=London|page=46|url=http://v0.urban-age.net/publications/newspapers/istanbul/media/UrbanAgeIstanbulNewspaper_en.pdf|format=pdf|accessdate=16 July 2012|ref=harv}}</ref>。市議会は大都市行政委員会により助言されるが、委員会もまた自らの意思決定を行う限られた権限を有する<ref name="kapa156">{{harvnb|Kapucu|Palabiyik|2008|p=156}}</ref>。全ての委員会の代表者は市長や議会により任命される<ref name="kapa156" /><ref name="mmi-mec">{{cite web|url=http://www.ibb.gov.tr/en-US/Organization/Encumen/Pages/AnaSayfa.aspx|publisher=Istanbul Metropolitan Municipality|title=Metropolitan Executive Committee|accessdate=21 December 2011}}</ref>。

[[File:İstanbul Büyükşehir Belediyesi Başkanlığı.jpg|left|thumb|ファティ地区にある1953年に建てられたイスタンブル市庁舎|alt=A mid-rise glass-paned office building, with an array of Turkish flags in the front.]]
一方、地区議会はそれぞれの地区内の廃棄物管理や建設計画に関して主に責任がある。それぞれの地区は独自の予算を有するが、市長には地区の意思決定を再検討する権利がある。区長を含むすべての地区議会の議員の5分の1はそれぞれの地区の代表として市議会の議員として選ばれる<ref name="kapa1535" />。全ての地区議会と市長を含む市議会の議員は5年ごとの選挙により選出される<ref>{{harvnb|Kapucu|Palabiyik|2008|pp=155–6}}</ref>。
2004年以来、[[公正発展党]]の{{仮リンク|カディール・トプバシュ|en|Kadir Topbaş}}がイスタンブル市長を務めている<ref>{{cite web|url=http://www.ibb.gov.tr/en-US/Baskan/Pages/Baskan.aspx|publisher=Istanbul Metropolitan Municipality|title=The Mayor's Biography|accessdate=21 December 2011}}</ref>。

イスタンブル大都市自治体とイスタンブル県は同等の管轄区域を持つが、いくつかの権限は県政府に残されている。イスタンブル大都市自治体に似て、イスタンブル県は政府から任命された知事<ref>[http://www.istanbul.tr.emb-japan.go.jp/consulate_j/ryoji/ist1.html 在イスタンブール日本国総領事館 イスタンブールについて]</ref>、民主的に選出された意思決定機関である地方議会と任命された行政委員会がある。自治体レベルで行政委員会が反映され、県行政委員会には、大臣や部門長が含まれ県議会に助言を行っている<ref name="mmi-mec" /><ref>{{cite web|url=http://www.ioi.gov.tr/index.php?yol=0_1_124|publisher=Istanbul Special Provincial Administration|title=Organizasyon|trans_title=Organization|accessdate=21 December 2011|language=Turkish}}</ref>。県行政の役割は学校や住宅、政府の建物、道路の建設や維持、芸術、文化、自然環境保全や推進に限定されている<ref>{{harvnb|Organisation for Economic Co-operation and Development|2008|p=206}}</ref>。フセイン・アヴニ・ムトゥル''Hüseyin Avni Mutlu''は2010年5月以来、イスタンブル県の県知事である<ref>{{cite web|url=http://www.ioi.gov.tr/encumen_baskani.php|publisher=Istanbul Special Provincial Administration|title=Encümen Başkanı|trans_title=Head of the Council|accessdate=21 December 2011|language=Turkish}}</ref>。

== 統計 ==
{| class="toccolours" style="clear: right; float: right; border-spacing: 0; margin: 0 0 1em 1em; width: 27em; text-align: center;"
|+ <span style="font-size: 110%;">'''人口推移'''</span>
|-
|-
! colspan="2" | トルコ共和国建国以前
| style="vertical-align:top; width:33%" |
! colspan="3" style="border-left: 1px solid black;" | トルコ共和国建国以後
*{{Flagicon|KAZ}} [[アルマトイ]]([[カザフスタン]])
|-
*{{Flagicon|JOR}} [[アンマン]]([[ヨルダン]])
! style="border-bottom: 1px solid black; padding: 1px;" | 年
*{{Flagicon|ITA}} [[ヴェネツィア]]([[イタリア]])
! style="border-bottom: 1px solid black; padding: 1px;" | {{abbr|人口}}
*{{Flagicon|KGZ}} [[オシ]]([[キルギス]])
! style="border-bottom: 1px solid black; padding: 1px; border-left: 1px solid black;" | 年
*{{Flagicon|UKR}} [[オデッサ]]([[ウクライナ]])
! style="border-bottom: 1px solid black; padding: 1px;" | {{abbr|人口}}
*{{Flagicon|EGY}} [[カイロ (エジプト)|カイロ]]([[エジプト]])
! style="border-bottom: 1px solid black; padding: 1px;" | {{abbr|±%|増加率}}
*{{Flagicon|RUS}} [[カザン]](ロシア)
|-
*{{Flagicon|AFG}} [[カブール]]([[アフガニスタン]])
! 100
*{{Flagicon|VEN}} [[カラカス]]([[ベネズエラ]])
| 36,000
*{{Flagicon|GER}} [[ケルン]]([[ドイツ]])
! style="border-left: 1px solid black;" | 1924
*{{Flagicon|ROU}} [[コンスタンツァ]]([[ルーマニア]])
| 500,000
*{{Flagicon|UZB}} [[サマルカンド]]([[ウズベキスタン]])
| —
*{{Flagicon|BIH}} [[サラエヴォ]]([[ボスニア・ヘルツェゴビナ]])
|-
*{{Flagicon|RUS}} [[サンクトペテルブルク]]([[ロシア]])
! 361
*{{Flagicon|KSA}} [[ジッダ]]([[サウジアラビア]])
| 300,000
| style="vertical-align:top; width:33%" |
! style="border-left: 1px solid black;" | 1927
*{{Flagicon|JPN}} [[下関市|下関]]([[日本]])
| 680,000
*{{Flagicon|INA}} [[ジャカルタ]]([[インドネシア]])
| +36.0%
*{{Flagicon|CHN}} [[上海市|上海]]([[中華人民共和国|中国]])
|-
*{{Flagicon|MAS}} [[ジョホールバル]]([[マレーシア]])
! 500
*{{Flagicon|Macedonia}} [[スコピエ]]([[マケドニア]])
| 400,000
*{{Flagicon|SWE}} [[ストックホルム]]([[スウェーデン]])
! style="border-left: 1px solid black;" | 1935
*{{Flagicon|FRA}} [[ストラスブール]]([[フランス]])
| 741,000
*{{Flagicon|CHN}} [[西安市|西安]](中国)
| +9.0%
*{{Flagicon|Bangladesh}} [[チッタゴン]]([[バングラデシュ]])
|-
*{{Flagicon|IRN}} [[テヘラン]]([[イラン]])
! 7th {{abbr|c.|century}}
*{{Flagicon|Albania}} [[ドゥラス]]([[アルバニア]])
| 150–350,000
*{{Flagicon|UAE}} [[ドバイ]]([[アラブ首長国連邦]])
! style="border-left: 1px solid black;" | 1940
*{{Flagicon|GEO}} [[トビリシ]]([[グルジア]])
| 793,000
*{{Flagicon|Azerbaijan}} [[バクー]]([[アゼルバイジャン]])
| +8.4%
*{{Flagicon|Cuba}} [[ハバナ]]([[キューバ]])
|-
| style="vertical-align:top; width:33%" |
! 8th {{abbr|c.|century}}
*{{Flagicon|ESP}} [[バルセロナ]]([[スペイン]])
| 125–500,000
*{{Flagicon|Sudan}} [[ハルツーム]]([[スーダン]])
! style="border-left: 1px solid black;" | 1945
*{{Flagicon|USA}} [[ヒューストン]]([[アメリカ合衆国]])
| 860,000
*{{Flagicon|ITA}} [[フィレンツェ]]([[イタリア]])
| +8.4%
*{{Flagicon|ARG}} [[ブエノスアイレス]]([[アルゼンチン]])
|-
*{{Flagicon|KOR}} [[釜山広域市|釜山]]([[大韓民国|韓国]])
! 9th {{abbr|c.|century}}
*{{Flagicon|HUN}} [[ブダペスト]]([[ハンガリー]])
| 50–250,000
*{{Flagicon|CZE}} [[プラハ]]([[チェコ]])
! style="border-left: 1px solid black;" | 1950
*{{Flagicon|BUL}} [[プロヴディフ]]([[ブルガリア]])
| 983,000
*{{Flagicon|GER}} [[ベルリン]](ドイツ)
| +14.3%
*{{Flagicon|Turkmenistan}} [[マル (都市)|メルヴ]]([[トルクメニスタン]])
|-
*{{Flagicon|Morocco}} [[ラバト]]([[モロッコ]])
! 1000
*{{Flagicon|Pakistan}} [[ラホール]]([[パキスタン]])
| 150–300,000
*{{Flagicon|BRA}} [[リオデジャネイロ]]([[ブラジル]])
! style="border-left: 1px solid black;" | 1955
*{{Flagicon|POL}} [[ワルシャワ]]([[ポーランド]])
| 1,258,000
| +28.0%
|-
! 1100
| 200,000
! style="border-left: 1px solid black;" | 1960
| 1,466,000
| +16.5%
|-
! 1200
| 150,000
! style="border-left: 1px solid black;" | 1965
| 1,742,000
| +18.8%
|-
! [[ラテン帝国|1261]]
| 100,000
! style="border-left: 1px solid black;" | 1970
| 2,132,000
| +22.4%
|-
! 1350
| 80,000
! style="border-left: 1px solid black;" | 1975
| 2,547,000
| +19.5%
|-
! [[コンスタンティノープルの陥落|1453]]
| 45,000
! style="border-left: 1px solid black;" | 1980
| 2,772,000
| +8.8%
|-
! 1500
| 200,000
! style="border-left: 1px solid black;" | 1985
| 5,475,000
| +97.5%
|-
! 1550
| 660,000
! style="border-left: 1px solid black;" | 1990
| 7,620,000
| +39.2%
|-
! 1700
| 700,000
! style="border-left: 1px solid black;" | 1995
| 9,260,000
| +21.5%
|-
! 1800
| 570,000
! style="border-left: 1px solid black;" | 2000
| 10,923,000
| +18.0%
|-
! 1850
| 785,000
! style="border-left: 1px solid black;" | 2005
| 12,061,000
| +10.4%
|-
! [[第一次世界大戦|1914]]
| 1,125,000
! style="border-left: 1px solid black;" | 2010
| 13,256,000
| +9.9%
|-
| colspan="5" | <span style="font-size: 90%;">Sources: {{harvnb|Chandler|1987}}, {{harvnb|Morris|2010}}, and {{harvnb|Turan|2010}} <br /> Pre-Republic figures estimated{{efn|name=pop-figures|Historians disagree—sometimes substantially—on population figures of Istanbul (Constantinople), and other world cities, prior to the 20th century. However, {{harvnb|Chandler|1987|pp=463–505}}, a follow-up to Chandler & Fox 1974,<ref name="chfo" /> performs a comprehensive look at different sources' estimates and chooses the most likely based on historical conditions; it, therefore, is the source of most population figures between 100 and 1914. The ranges of values between 500 and 1000 are due to {{harvnb|Morris|2010}}, which also does a comprehensive analysis of sources, including Chandler (1987); Morris notes that many of Chandler's estimates during that time seem too large for the city's size, and presents alternative, smaller estimates. Chandler disagrees with {{harvnb|Turan|2010}} on the population of the city in the mid-1920s (with the former suggesting 817,000 in 1925), but Turan, p. 224, is, nevertheless, used as the source of population figures between 1924 and 2005. Turan's figures, as well as the 2010 figure,<ref name="turkstat-curr">{{cite web|url=http://www.turkstat.gov.tr/PreHaberBultenleri.do?id=8428|title=Address Based Population Registration System Results of 2010|date=28 January 2011|publisher=Turkish Statistical Institute|accessdate=24 December 2011|format=doc}}</ref> come from the [http://www.turkstat.gov.tr/ Turkish Statistical Institute]. The drastic increase in population between 1980 and 1985 is largely due to an enlargement of the city's limits (see the [[#Administration|Administration section]]). Explanations for population changes in pre-Republic times can be inferred from the [[#History|History section]].}}</span>
|}
|}
歴史の大半を通じてイスタンブルは世界の大都市の中に位置付けられてきた。500年までにはコンスタンティノープルはローマを超え40万から50万の人口を擁していた<ref>{{harvnb|Morris|2010|p=113}}</ref>。コンスタンティノープルは歴史的な大都市である[[バグダード]]や[[長安]]を押し退け、13世紀までには世界最大の人口を抱える都市に位置していた。世界最大の都市には戻らなかったものの、コンスタンティノープル陥落後も19世紀初めにロンドンが上回るまで、ヨーロッパ最大の都市であった<ref name="cha463">{{harvnb|Chandler|1987|pp=463–505}}</ref>。今日でも[[モスクワ]]と並びヨーロッパ最大の都市集積を形成している{{efn|name=un-agg|The United Nations defines an urban agglomeration as "the population contained within the contours of a contiguous territory inhabited at urban density levels without regard to administrative boundaries". The agglomeration "usually incorporates the population in a city or town plus that in the suburban areas lying outside of, but being adjacent to, the city boundaries".<ref name="wup-faq">{{cite web|url=http://esa.un.org/unup/Documentation/faq.htm|publisher=The United Nations|work=World Urbanization Prospects, the 2011 Revision|title=Frequently Asked Questions|date=5 April 2012|accessdate=20 September 2012}}</ref> Figures dated 1 July 2011 place the populations of the agglomerations of Moscow and Istanbul at 11.62 million and 11.25 million, respectively.<ref name="wup-pop">{{cite web|url=http://esa.un.org/unpd/wup/CD-ROM/WUP2011-F11a-30_Largest_Cities.xls|publisher=The United Nations|work=World Urbanization Prospects, the 2011 Revision|title=File 11a: The 30 Largest Urban Agglomerations Ranked by Population Size at Each Point in Time, 1950–2025|format=xls|date=5 April 2012|accessdate=20 September 2012}}</ref> The UN estimates that the agglomeration of Istanbul will exceed the agglomeration of Moscow in population by 2015 (with 12.46 million and 12.14 million, respectively), although extrapolation suggests that the former will not surpass latter until the second half of 2013. A revision with 2013 data is due in the first half of 2014.<ref name="wup-faq" />}}。


トルコの統計機関はイスタンブルの人口は2011年12月31日現在13,483,052人と推計しており、トルコ最大の都市を形成しトルコの全人口の18%を占めている<ref name="tuik" />。広大な面積のためイスタンブルは[[世界の市域人口の順位]]でトップ5に含まれているがこれは[[都市圏]]と同等と考えられ、本来の市街人口は大体15位以下である<ref name="mocljo145" /><ref name="wup-pop" />。イスタンブルの人口は年間3.45%増加しており、[[経済協力開発機構|OECD]]の78の大都市圏の中でも最も高い位置にある。第二、第三の位置を占めるOECDの大都市圏もイズミルやアンカラなどトルコの都市で、この高い人口増加率はトルコの全国的な都市化を反映している<ref name="oecd" />。イスタンブルは特に20世紀後半に急速に成長し、1950年から2000年の間の半世紀に人口は10倍になった<ref name="tu224" />。人口の急増は市域の拡大から来ており、特に1980年から1985年にかけては人口は2倍になっている<ref name="mmi-history" />。著しい成長がありそれは未だにあり、大部分は住環境の改善や職を求めるトルコ東部からの移住者により勢いが与えられている。イスタンブルの多くの住民は7つの北部や東部の県を出自としているが、イスタンブルのその人口はそれぞれの地方の人口を超えている。とくにイスタンブルの50万人を数える住民は[[スィヴァス県]]や[[カスタモヌ県]]の人口を超えている<ref name="ecoc-popdem" />。
== 脚注 ==
イスタンブルの人口に占める外国人の割合は僅かで、2007年現在42,228人であった<ref>{{cite web|url=http://www.todayszaman.com/news-201695-starting-up-in-turkey-expats-getting-organized.html|work=Today's Zaman|last=Kamp|first=Kristina|date=17 February 2010|accessdate=27 March 2012|title=Starting Up in Turkey: Expats Getting Organized}}</ref>。
{{Reflist}}

28%の市民だけが元からのイスタンブルの出身である<ref name="konda">{{cite web|url=http://www.scribd.com/doc/37355320/Social-structure-survey-2006-KONDA-Research|publisher=KONDA Research|title=Social Structure Survey 2006|year=2006|accessdate=27 March 2012}} (Note: Accessing KONDA reports directly from [http://konda.com.tr/en/ KONDA]'s own website requires registration.)</ref>。

イスタンブルの人口密度は2,523人/km<sup>2</sup>でトルコの人口密度の102人/km<sup>2</sup>を遥かに超えている<ref>{{cite web|url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/tu.html|publisher=The Central Intelligence Agency|title=Turkey|work=The World Factbook|date=28 June 2012|accessdate=6 July 2012}}</ref>。人口密度が高い傾向にあるのは北西部や西部、ヨーロッパ側に位置する南西部の市中心部である。最も人口密度が高いのはアジア側の地区である[[ユスキュダル]]である<ref name="ecoc-popdem" />。
===宗教・民族 ===
[[File:SultanAhmetMosqueCourtyard.jpg|thumb|left|[[スルタンアフメト・モスク]]はイスタンブルでは最大で、{{仮リンク|トルコ政府宗教局|en|Presidency of Religious Affairs}}によりイスラームの祝祭日に祈りが主導される。|alt=A building with six minarets, one central dome, four semi-domes and numerous small domes.]]
イスタンブルは多くの歴史を通じて国際的な都市であったが、オスマン帝国の終わり以来均質化されてきている。それでもトルコの少数民族のほとんどは集中してイスタンブルに残っている。トルコ国内やイスタンブルの大多数の人たちは自分たちを[[ムスリム]]と見なし、より明確には[[スンナ派]]の信徒である。ほとんどのスンナ派の信徒は[[ハナフィー学派]]を信奉し、約10%のスンナ派の信徒は[[シャーフィイー学派]]を信奉している。450万人のトルコ人の非スンナ派を数え、これらは[[アレヴィー派]]である。トルコ国内のアレヴィー派の3分の1はイスタンブルに居住している<ref name="konda" />。[[スーフィズム]]のような[[神秘主義]]はトルコ共和国の建国後、公式に禁止されたが今でも多数の信者を誇っている<ref>{{cite web|author=U.S. Bureau of Democracy, Human Rights, and Labor|url=http://www.state.gov/j/drl/rls/irf/2007/90204.htm|publisher=U.S. Department of State|title=Turkey: International Religious Freedom Report 2007|accessdate=27 March 2012}}</ref>。

[[File:İstanbul 6000.jpg|thumb|left|{{仮リンク|エユップスルタンモスク|en|Eyüp Sultan Mosque}}、{{仮リンク|アブ・アイユブ・アル・アンサリ|en|Abu Ayyub al-Ansari}}の宮殿は巡礼者にはポピュラーな場所<ref>{{harvnb|Davidson|Gitlitz|2002|p=180}}</ref>|alt=A building with several domes, large and small, in front of a courtyard with a smaller standalone structure]]

{{仮リンク|コンスタティノープル総主教|en|Ecumenical Patriarch of Constantinople}}は6世紀以来、総主教に定められ3億人の[[正教会]]信徒の指導者として広く見なされている<ref>{{cite web|url=http://www.patriarchate.org/patriarchate/history|publisher=The Ecumenical Patriarch of Constantinople|title=History of the Ecumenical Patriarch|accessdate=20 June 2012}}</ref>。1601年以来、総主教はイスタンブルの[[聖ゲオルギオス大聖堂]]を基盤にしている。19世紀に入るとイスタンブルのキリスト教徒は[[ギリシャ正教会]]か[[アルメニア教会]]いずかれの信徒である傾向があった<ref>{{harvnb|Çelik|1993|p=38}}</ref>。1923年の{{仮リンク|トルコとギリシャの住民交換|en|Population exchange between Greece and Turkey}}や1942年の{{仮リンク|ヴァルリク・ヴェルギシ|en|Varlık Vergisi}}(富裕税)、1955年の{{仮リンク|イスタンブル暴動|en|Istanbul riots}}など20世紀の多くの出来事により、{{仮リンク|フェネル|en|Fener}}や{{仮リンク|サムティア|en|Samatya}}を中心としていたギリシャ人の人口はかなり減少している。1923年には13万にも居たイスタンブルのギリシャ人は21世紀初めには3,000人に減少している<ref>{{harvnb|Athanasopulos|2001|p=82}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www1.mfa.gr/en/issues-of-greek-turkish-relations/relevant-documents/the-greek-minority-and-its-foundations-in-istanbul-gokceada-imvros-and-bozcaada-tenedos.html|publisher=Hellenic Republic Ministry of Foreign Affairs|title=The Greek Minority and its foundations in Istanbul, Gokceada (Imvros) and Bozcaada (Tenedos)|date=21 March 2011|accessdate=21 June 2012}}</ref>。

{{仮リンク|トルコのアルメニア人|en|Armenians in Turkey}}の人口は[[アルメニア人虐殺]]により部分的な減少を見たが、最近の[[アルメニア]]からの移民により戻って来ている。1913年には164,000人のアルメニア人がイスタンブルに居たが今日では50,000から70,000人のアルメニア人が居る<ref>{{cite web|url=http://www.armenianow.com/news/10672/armenian_in_istanbul_diaspora_in_t|work=Armenia Now|title=Armenian in Istanbul: Diaspora in Turkey welcomes the setting of relations and waits more steps from both countries|last=Khojoyan|first=Sara|date=16 October 2009|accessdate=21 June 2012}}</ref>。

最大の少数民族は[[クルド人]]コミュニティで、トルコ東部や南東部を元にしている。市内のクルド人の存在はオスマン時代初期に遡るが<ref>{{harvnb|Masters|Ágoston|2009|pp=520–1}}</ref>、イスタンブルへのクルド人の流入は1970年代後半の{{仮リンク|クルド・トルコ紛争|en|Kurdish–Turkish conflict}}と[[クルディスタン労働者党]]により加速し始めている<ref>{{harvnb|Wedel|2000|p=182}}</ref>。200万から400万人のクルド人がイスタンブルには居住し、イスタンブルは世界の他のどの都市よりもクルド人が住んでいることを意味している<ref>{{cite web|url=http://www.time.com/time/world/article/0,8599,2104027,00.html|work=TIME|last=Zalewski|first=Piotr|title=Istanbul: Big Trouble in Little Kurdistan|date=9 January 2012|accessdate=23 June 2012}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.economist.com/node/4389654|work=The Economist|title=Can't They Get Along Anymore?|date=8 September 2005|accessdate=23 June 2012}}</ref>。

{{仮リンク|ボラト|en|Balat (Istanbul)}}地区はかなりの[[セファルディム]]コミュニティが暮らしており、最初に形成されたのは[[スペイン異端審問]]の時代に遡る<ref>{{harvnb|Rôzen|2002|pp=55–8, 49}}</ref>。[[ロマニオット]]と[[アシュケナジム]]はセファルルディムよりも前にイスタンブルに同様に居住していたが、その割合は減っており今日ではアシュケナジムはイスタンブルのユダヤ人のほんの1%だけである<ref>{{harvnb|Rôzen|2002|pp=49–50}}</ref><ref>{{harvnb|Brink-Danan|2011|p=176}}</ref>。イスラエルへの移住によりユダヤ人の人口は全国的に減少し、1950年の100,000人から2005年には18,000人に減少している。大部分はイスタンブルかイズミルに居住している<ref>{{harvnb|ʻAner|2005|p=367}}</ref>。{{仮リンク|レヴァンティン|en|Levantines (Latin Christians)}}はオスマン期にガラタに居住した[[カトリック教会|カトリック]]教徒で、19世紀から20世紀初期のイスタンブルの文化や建築を形作るのに重要な役割を担った。彼らの人口は減っているが今でも少数が市内に残っている<ref>{{harvnb|Schmitt|2005|loc=passim}}</ref>。

== 経済 ==
[[File:LeventView.jpg|thumb|right|レヴェントのビジネス地区にはイスタンブルの高層ビルが林立する。|alt=A half dozen skyscrapers interspersed among low- and mid-rises, with open expanse visible in the background]]
2008年現在のイスタンブルの[[国内総生産|GDP]]は1,820億[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]で、世界の都市圏の域内総生産では34位に付けている<ref>{{cite web|url=https://www.ukmediacentre.pwc.com/imagelibrary/downloadMedia.ashx?MediaDetailsID=1562|publisher=PricewaterhouseCoopers|title=III – Which are the largest city economies in the world and how might this change by 2025?|date=November 2009|accessdate=27 March 2012}}</ref>。イスタンブルはトルコ国内のGDPの27%を占め、国内産業労働力の20%が都市に存在する<ref name="oecd" /><ref name="urge">{{cite web|url=http://www.urge-project.ufz.de/istanbul/general.htm|title=Presentation of Reference City: Istanbul|publisher=Urban Green Environment|year=2001|accessdate=30 December 2011}}</ref>。1人当たりのGDPで70%、生産性で50%それぞれ国内平均を上回っており一つには高付加価値に集中した生産活動が要因である。多くの人口とトルコ経済への高い貢献からイスタンブルはトルコの国税の5分の2を担っている<ref name="oecd" />。税には30人のイスタンブルを本拠とする億万長者も含まれ、この数は世界の都市で5番目に多い人数である<ref>{{cite web|url=http://www.forbes.com/sites/calebmelby/2012/03/16/moscow-beats-new-york-london-in-list-of-billionaire-cities/|last=Melby|first=Caleb|work=Forbes|title=Moscow Beats New York, London In List Of Billionaire Cities|date=16 March 2012|accessdate=27 March 2012}}</ref>。
都市の大きさが想像されるように、イスタンブルではオリーブオイル、タバコ、輸送機器、電機など様々な製品を生産し多様な産業経済を擁している<ref name="urge" />。高付加価値の生産活動への集中があるにも関わらず低付加価値の生産部門もかなりを占め、イスタンブルのGDPに占める割合は26%だが市の合計出荷額の5分の4に相当している<ref name="oecd" />。2005年にイスタンブルに本拠地を置く企業の輸出総額は 41,397,000,000ドルで、輸入総額は69,883,000,000ドルであった。これはトルコ全体の合計にそれぞれ輸出で57%、輸入で60%を占めている<ref>{{cite web|url=http://arsiv.ntvmsnbc.com/news/361031.asp|publisher=NTV-MSNBC|title=Dış Ticaretin Lokomotifi İstanbul|trans_title=Istanbul is the Locomotive of Foreign Trade|language=Turkish|date=13 February 2006|accessdate=28 March 2012}}</ref><ref>[http://www.cnnturk.com/EKONOMI/GENEL/haber_detay.asp?PID=40&HID=1&haberID=157457 CNN Türk: Dış ticaretin lokomotifi İstanbul (Istanbul is the locomotive of foreign trade)]</ref>。

イスタンブルはトルコでは唯一の{{仮リンク|資本市場|en|Capital market}}である[[イスタンブル証券取引所]]を有する。もともとは1866年にたオスマン証券取引所として設立されたが、その重要性は1930年代の[[世界大恐慌]]により減少した。一連のトルコ政府の金融自由化計画により1986年に現在の形で再編成されている<ref>{{cite journal|last1=Odabaşı|first1=Attila|last2=Aksu|first2=Celal|last3=Akgiray|first3=Vedat|year=2004|month=December|title=The Statistical Evolution of Prices on the Istanbul Stock Exchange|journal=The European Journal of Finance|volume=10|pages=510–25|doi=10.1080/1351847032000166931|publisher=Routledge|location=London|ref=harv|issue=6}}</ref>。19世紀から20世紀初期の間、ガラタの{{仮リンク|バンカラル・ジャデッシ|en|Bankalar Caddesi}}''Bankalar Caddesi''(銀行大通り)はオスマン帝国の金融センターでオスマン証券取引所もそこにあった<ref name="OBM">{{cite web|url=http://www.obarsiv.com/english/history.html|publisher=The Ottoman Bank Archives and Research Centre|title=History of the Bank|accessdate=28 March 2012}}</ref>。バンカラル・ジャデッシはイスタンブルの金融地区として1990年代まで続き、トルコのほとんどの銀行は本社をモダンなビジネス中心地区であるレヴェントやマスラクに移転している。1995年に[[イスタンブル証券取引所]]は現在の{{仮リンク|サルイエル|en|Sarıyer}}の{{仮リンク|イスティニエ|en|İstinye}}地区に建物を移転している<ref>{{cite web|url=http://www.ise.org/aboutus/History.aspx|publisher=Istanbul Stock Exchange|title=Milestones in ISE History|year=2012|accessdate=28 March 2012}}</ref>。

[[File:Ortakoy mosque.jpg|thumb|left|黒海とマルマラ海を結ぶボスポラス海峡は世界でも繁忙な航路の一つ。左側がボスポラス橋、右側がオルタキョイモスク。|alt=A large ship passes underneath a suspension bridge and behind a small mosque with two towering minarets.]]

現在、石油が豊富な黒海と地中海を結ぶ唯一の海のルートであるボルポラス海峡は世界でも混雑した航路の1つで、1年間で2億トン以上の原油が通過しており交通量はスエズ運河の3倍に上る<ref>{{harvnb|Oxford Business Group|2009|p=112}}</ref>。混雑を緩和するため、新たな運河が街のヨーロッパ側に海峡と並行して{{仮リンク|イスタンブル運河|en|Canal Istanbul}}として知られる運河を建設することが提案されている<ref>{{cite web|url=http://www.guardian.co.uk/world/2011/apr/27/istanbul-new-bosphorus-canal|work=The Guardian|title=Istanbul's new Bosphorus canal 'to surpass Suez or Panama'|author=Jones, Sam, and agencies|date=27 April 2011|accessdate=29 April 2012}}</ref>。

イスタンブルには{{仮リンク|ハイダルパシャ港|en|Port of Haydarpaşa}}、アンバルリ港''Ambarlı''、ズィーティンブルヌ港''Zeytinburnu''の3つの大きな港の他にいくつかの小さな港や石油ターミナルがボスポラス海峡やマルマラ海沿いに立地している<ref>{{harvnb|Organisation for Economic Co-operation and Development|2008|p=80}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.cerrahogullari.com.tr/ports.htm|publisher=Cerrahogullari T.A.S.|title=Ports of Turkey|accessdate=28 August 2012}}</ref>。ハイダルパシャ港はボスポラス海峡の南東に位置し、2000年代初めまでイスタンブル最大の港であった。ハイダルパシャ港からアンバルリ港へ運営がシフトして以来、ハイダルパシャ港は容量以下で運営され港を閉鎖する計画もある<ref>{{cite web|url=http://www2.lse.ac.uk/LSECities/citiesProgramme/pdf/Haydarpasa%20Summary.pdf|publisher=London School of Economics|last=Cavusoglu|first=Omer|title=Summary on the Haydarpasa Case Study Site|year=2010|month=March|work=Cities Programme|accessdate=3 April 2012}}</ref>。

2007年現在、アンバルリは都心の西端に位置し年間150万[[TEU]]の取扱能力があり地中海沿岸では4番目に大きな貨物ターミナル港である。一方のハイダルパシャ港の取扱能力は354,000TEUである<ref>{{cite web|url=http://www.muhtesemkaynak.com/56.pdf|title=What Role for Turkish Ports in the Regional Logistics Supply Chains?|last1=Zeybek|first1=Hülya|last2=Kaynak|first2=Muhtesem|date=27–30 May 2008|publisher=International Conference on Information Systems and Supply Chain|accessdate=28 August 2012}}</ref><ref>Organisation for Economic Co-operation and Development 2008 p82</ref>。

ズィーティンブルヌ港は自動車道路や[[アタチュルク国際空港]]に近いことから利点があり<ref>{{harvnb|Organisation for Economic Co-operation and Development|2008|p=143}}</ref>、都市の長期計画で全てのターミナルと道路、鉄道網との相互の接続性を必要としている<ref>Organisation for Economic Co-operation and Development 2008 p81</ref>。

イスタンブルは著名な観光地として観光客数が増加しており、2000年には240万人の外国人観光客が訪れ2010年には700万人の外国人観光客が訪れており世界で10番目に多くの観光客が訪れる都市である<ref name="weiner" /><ref>{{cite web|url=http://www-sre.wu-wien.ac.at/ersa/ersaconfs/ersa06/papers/237.pdf|publisher=Vienna University of Economics and Business|title=Urban Tourism: An Analysis of Visitors to Istanbul|last1=Kerimoğlu|first1=Ebra|last2=Ciraci|first2=Hale|accessdate=不明}}</ref>。イスタンブルはトルコの外国人観光客の4分の1を受け入れ、トルコでは[[アンタルヤ]]に次ぐ国際的なゲートウェイとなっている。イスタンブルの観光業界はヨーロッパ側に集中し、市内の90%以上のホテルはヨーロッパ側に立地している。低中級クラスのホテルは{{仮リンク|サライブルヌ|en|Sarayburnu}}に立地する傾向があり、ハイエンドのホテルは金角湾北側の歓楽街や金融センターに立地する。イスタンブルには70の博物館があるが、もっとも観光客が訪れのはトプカプ宮殿博物館とアヤソフィアで毎年3,000万ドルの収益をもたらす。市の環境マスタープランでは17の宮殿と64のモスク、49の教会はイスタンブルで歴史的に重要なものであると言及している<ref name="iv&c">{{cite web|url=http://www.igd.com.tr/Upload/file_4d9f1f3815b2d.pdf|publisher=Istanbul Valuation and Consulting|title=Istanbul '10|work=Turkey Tourism Market Research Reports|year=2010|accessdate=29 March 2012}} (n.b. Source indicates that the Topkapı Palace Museum and the Hagia Sophia together bring in {{nowrap|55 million [[Turkish lira|TL]]}}, approximately {{nowrap|$30 million}} in 2010, on an annual basis.)</ref>。

所得分配はイスタンブルでは公平ではなく、20%の最高所得層が64%の資産を利用し20%の最低所得層が4%の資産を利用している<ref>{{cite web|title=İstanbul Büyükşehir Belediyesi Resmi Web Sitesi |publisher= Istanbul Metropolitan Municipality (IMMWEBl) |url=http://www.ibb.gov.tr/tr-TR/KenteBakis/IsVeEkonomi/EkonomikBuyukluk/| accessdate=2007-01-01 |archiveurl = http://web.archive.org/web/20061113164121/http://www.ibb.gov.tr/tr-TR/KenteBakis/IsVeEkonomi/EkonomikBuyukluk/ |archivedate = 2006-11-13}}</ref>。

=== 金融 ===
[[File:Bankalar Caddesi Şubat 2012.jpg|thumb|バンカラル・カデッシはオスマン期のイスタンブルの金融の中心。右側は1892年に完成したオスマン中央銀行の本店の最初の建物。]]

イスタンブルは1923年にアンカラが政治的な首都になってからも常に「金融の首都」である。1980年代の特定の市場開放はさらにこの地位を強化した。1986年初め発足したイスタンブル証券取引所 (ISE) は普通株、国債、短期国債、収益分配証明書、債券、民営化の管理で発行される債券と社債取引、夜間の業務を行うために設立されたトルコでは唯一の証券取引所である<ref>{{cite web|title=Financial sector|publisher= Foreign Economic Relations Board Turkey DEIK |url=http://www.deik.org.tr/bultenler/businessguide/DEIK-BG-5-FinancialSector.pdf|format= PDF | accessdate=2007-01-01 |archiveurl = http://web.archive.org/web/20061218191258/http://www.deik.org.tr/bultenler/businessguide/DEIK-BG-5-FinancialSector.pdf <!-- Bot retrieved archive --> |archivedate = 2006-12-18}}</ref>。

[[File:Maslak kerembarut.jpg|thumb|left|金融地区のマスラク]]

1993年にイスタンブル証券取引所は金市場の自由化を決定し、1995年にイスタンブル金取引所が設立されトルコ中央銀行の金塊の輸入独占は終わりを告げ、金取引は民間部門のメンバーに移された<ref>{{cite web|title=World Gold Council > jewellery:Turkey|publisher= World Gold Council |url=http://www.gold.org/jewellery/professional/initiatives/middle_east/turkey.html| accessdate=2007-01-01}}</ref>。
レヴェント、マスラクはトルコの大企業や銀行、世界的な金融部門の巨大企業の地域本部が置かれており、[[シティバンク、エヌ・エイ|シティバンク]]、[[メリルリンチ]]、[[JPモルガン・チェース|JPモルガン]]、[[HSBCホールディングス]]、[[ABNアムロ銀行]]、[[フォルティスグループ]]、[[INGグループ]]、[[BNPパリバ]]、[[ソシエテ・ジェネラル]]、[[ウニクレーディト・イタリアーノ]]、[[ドイツ銀行]]、[[コメルツ銀行]]などがイスタンブルに拠点を置いており、他の金融機関も多く立地している。レヴァントとマスラクの両地区は絶えず成長しダイナミックなスカイラインに変わり、いくつもの新しい超高層ビル計画が提案され認可されており毎年着手されている。

=== 工業 ===
[[File:FulyaGirişi.JPG|thumb|300px|欧州最大規模のショッピングモール{{仮リンク|イスタンブル・ジョヴァヒル|en|Istanbul Cevahir}}前にある、{{仮リンク|イスタンブルメトロ|en|Istanbul Metro}}の{{仮リンク|シシュリ|en|Şişli}}の駅入口]]
イスタンブルはトルコの産業の中心で、トルコの労働力の20%を雇用し職場の38%を提供している。これに加えて、イスタンブルはトルコの貿易の55%と卸売りの45%を生み出し、GDPの21.2%、税収の40%、工業生産額の27.5%に寄与している。多くのトルコの大きな生産工場はイスタンブルに立地しており、イスタンブルやその周辺部では[[木綿]]や[[果物]]、[[オリーブオイル]]、[[絹]]、[[タバコ]]など生産されている。食品加工、織物製品、オイル製品、ゴム製品、金属製品、皮革、電機、ガラス、機械、紙や紙製品、アルコール飲料などはイスタンブル市内の主要な工業製品に含まれる。イスタンブルではまた、自動車やトラックの組み立て工場もある。これらの様々な事業は過去にペンキ工場に近かったため悪化した2008年の花火爆発事故のような災害にも見舞われている<ref>[http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/accidents/2344455/2579064] 無許可の花火工房爆発、20人死亡、トルコ 2008年02月01日 01:31 AFP</ref>。

医薬産業は1952年にレヴェントにエジザルバシュ医薬品工場が設立され始まった<ref>Baytop T. Türk Eczacılık Tarihi Araştırmaları (History of Turkish Pharmacy Researches) Istanbul. 2000:12-75.</ref>。今日では134の企業がトルコの製薬業界でビジネスを行っており、大部分はイスタンブルかその近郊を基盤としている<ref>Dogan UVEY*, Ayse Nur GOKCE*, Ibrahim BASAGAOGLU (2004) "Pharmaceutical Industry in Turkey" in 38th International Medical History Congress in Istanbul</ref>。
===観光 ===
[[File:İstanbul skyline from the Marmara-hotel.JPG|thumb|left|300px|マルマラホテルからの[[タクスィム広場]]とカンファレンスバレーの眺め。]]
イスタンブルはトルコでも最も重要な観光スポットの1つである。数千ものホテルや他の旅行者中心の産業がイスタンブルにはあり、観光や業務で訪れる両方の旅行者を満たしている。2006年には23,148,669人がトルコを訪れ、ほとんどはイスタンブルや[[アンタルヤ]]の空港や港を通り入国している<ref>[http://www.hurriyet.com.tr/ekonomi/5865839.asp?gid=52 Hürriyet: 2006’da Türkiye’ye gelen turist başına harcama 728 dolara indi]</ref>。
イスタンブルのアタチュルク国際空港や[[サビハ・ギョクチェン国際空港]]を利用しトルコに入国した観光客は2005年の4,849,353人から翌年には5,346,658人に増加している<ref>[http://www.sabah.com.tr/2007/01/09/gnd121.html Sabah: Turist sayısı genelde düştü İstanbul'da arttı]</ref>。2011年には急成長しているトルコの観光事業により1,050万人に増加している。2011年のイスタンブルの2つの国際空港は5,000万人以上の旅客を扱っている<ref>[http://dhmi.gov.tr/istatistik.aspx]</ref>。

イスタンブルはまた世界の主要な会議の目的地の一つであり、世界有数の国際的な団体や機関にとってはますます人気のある選択肢となっている<ref>{{cite web| url=http://www.eibtm.com/app/homepage.cfm?linkid=23044&moduleid=3336&pram=364&K_NP_id=8324&LocParam=Y&appname=100486
| title=EIBTM 2007 - The Global Meetings & Incentive Exhibition for the MICE Industry | publisher=Reed Exhibitions Limited (member of the Association of Event Organisers (AEO))| accessdate=2006-03-11}} {{Dead link|date=October 2010|bot=H3llBot}}</ref>。イスタンブルの会議の魅力は3つに分かれた会議と展示エリアにより発展した。カンファレンス・ヴァレー(イスタンブルコンベンション・エキシビジョンセンター、イスタンブルヒルトン・コンベンション・エキシビジョンセンター、軍事博物館文化センター・ジェマイルレシィトリーコンサートホール)、空港・エキシビジョン地区 (150,000m<sup>2</sup> (1.6 m sq ft))、CNR国際博覧センターの周辺の展示スペース)、ビジネス・金融地区(多くの分散型のセンターを含む)がある。これらが集まったエリアは宿泊施設、会議場、展示スペースが結合したのが特徴である。これらは個々にでもイスタンブルメトロの輸送を通じて総合的に使うことも出来、10,000人またはそれ以上の参加者に対応している。

== 文化 ==
{{main|:w:Culture of Istanbul}}
イスタンブルは歴史的に文化的な中心として知られているが、トルコ共和国の中心がアンカラに移ると文化的なシーンは停滞した<ref>{{harvnb|Göktürk|Soysal|Türeli|2010|p=8}}</ref>。新しい政府はトルコ人に音楽の伝統とくにヨーロッパ由来の音楽に適用させようと新しい計画を確立したが、音楽の機関や海外の古典音楽の芸術家は主に新しい首都に集中した<ref>{{harvnb|Reisman|2006|p=88}}</ref>。多くのトルコの文化的なシーンはイスタンブルにルーツを持っていたが、文化的な重要性が単にその過去の栄光に基づくだけでない都市として再びグローバルに現れることは1980年代や1990年代までなかった<ref>{{harvnb|Göktürk|Soysal|Türeli|2010|pp=2–4}}</ref>。

[[File:İstanbul Arkeoloji Müzeleri.JPG|thumb|left|{{仮リンク|イスタンブル考古学博物館|en|Istanbul Archaeology Museums}}は1891年に{{仮リンク|オスマン・ハムディ・ベイ|en|Osman Hamdi Bey}}により創設されたトルコ最古の近代博物館<ref name="kultur">{{cite web|url=http://www.kultur.gov.tr/EN/belge/2-19958/istanbul---archaeology-museum.html|publisher=Republic of Turkey Ministry of Culture and Tourism|title=İstanbul – Archaeology Museum|accessdate=19 April 2012}}</ref>。|alt=The facade of a masonry building, with four Greek adorning its entrance, under a clear blue sky]]

=== 美術館・博物館 ===
19世紀末までにはイスタンブルは都市自体、この地域の芸術の中心としてトルコやヨーロッパ、中東などから街に芸術家を集めていた。アンカラをトルコの文化の中心として作る努力にも関わらず、1970年代までイスタンブルはトルコの主要な芸術関連の機関が置かれていた<ref name="gosotu2213">{{harvnb|Göktürk|Soysal|Türeli|2010|pp=221–3}}</ref>。さらに、1980年代には大学やアートジャーナルが新たにイスタンブルに創設され、以前はアンカラを拠点としていた芸術家が移って来ている<ref>{{harvnb|Göktürk|Soysal|Türeli|2010|pp=223–4}}</ref>。

ベイオールは街の芸術の中心として一変し、若い芸術家や以前は海外に暮らしていた年長のトルコの芸術家が基盤をこの場所に見付けている。{{仮リンク|イスタンブル現代美術館|en|İstanbul Modern}}、{{仮リンク|ペラ美術館|en|Pera Museum}}、{{仮リンク|サキプ・サバンジュ美術館|en|Sakıp Sabancı Museum}}、{{仮リンク|サントラル・イスタンブル|en|SantralIstanbul}}などモダンな美術館は2000年代に開館し、展示スペースやオークションハウスは都市の国際的な雰囲気への寄与を引き立てるものになっている<ref>{{cite web|url=http://www.nytimes.com/2012/02/12/magazine/istanbul-art-boom-bubble.html?pagewanted=all|work=The New York Times|title=The Istanbul Art-Boom Bubble|last=Hansen|first=Suzy|date=10 February 2012|accessdate=19 April 2012}}</ref>。
しかし、これらの美術館は未だに歴史的な半島にあるトルコの近代的な博物館の先駆けとなった{{仮リンク|イスタンブル考古学博物館|en|Istanbul Archaeology Museums}}や{{仮リンク|トルコ・イスラーム美術博物館|en|Turkish and Islamic Arts Museum}}ほどの人気は得ていない<ref name="iv&c" /><ref name="kultur" />。
=== 映画 ===
トルコでの最初の映画上映は少なくとも1896年の{{仮リンク|ユルドゥズ宮殿|en|Yıldız Palace}}で、パリで技術が公開された丁度1年後であった<ref>{{harvnb|Göktürk|Soysal|Türeli|2010|pp=130–1}}</ref>。映画館はベイオールで急速に現れ始め、今では{{仮リンク|イスティクラル通り|en|İstiklal Avenue}}の名で知られる通り沿い映画館は集中していた<ref>{{harvnb|Göktürk|Soysal|Türeli|2010|pp=133–4}}</ref>。トルコの映画産業は1950年代まで発展は無かったが、イスタンブルは初期の{{仮リンク|トルコの映画|en|Cinema of Turkey}}中心であった<ref>{{harvnb|Göktürk|Soysal|Türeli|2010|p=146}}</ref>。それ以来、イスタンブルはトルコで最も人気がある映画やドラマ、コメディーの場所である<ref>{{harvnb|Göktürk|Soysal|Türeli|2010|p=165}}</ref>。トルコの映画産業は世紀の後半に強化されるが、それは{{仮リンク|ウザク|en|Uzak}}''Uzak'' (2002)、{{仮リンク|私の父と私の息子|en|My Father and My Son}}''Babam ve Oğlum'' (2005) まで無く、2つの映画はイスタンブルで撮影されトルコ映画は国際的なかなりの成功を見始めた<ref>{{cite web|url=https://publications.credit-suisse.com/app/article/index.cfm?fuseaction=OpenArticle&aoid=340736&coid=341935&lang=en|publisher=Credit-Suisse|title=Golden Age for Turkish Cinema|last=Nikitin|first=Nikolaj|date=6 March 2012|accessdate=6 July 2012}}</ref>。イスタンブルとその絵のような美しいスカイラインは多くの海外映画の舞台となり、{{仮リンク|トプカピ|en|Topkapi (film)}} (1964) や[[007 ワールド・イズ・ノット・イナフ]] (1999)、{{仮リンク|ミッション・イスタンブル|en|Mission Istaanbul}} (2008) などがある<ref>{{harvnb|Köksal|2012|pp=24–5}}</ref>。

=== イベント ===
文化的な再現と同時にイスタンブルでは文化的な催しが創設され、1973年頃からトルコや世界中から様々な芸術が披露し始められた。フラグシップとなる{{仮リンク|イスタンブル国際映画祭|en|International Istanbul Film Festival}}や{{仮リンク|イスタンブル国際ジャズフェスティバル|en|Istanbul International Jazz Festival}}は1980年代初期から行われている。現在では専ら音楽やダンスだけを中心とした、以前のイスタンブルフェスティバルは1994年以来、{{仮リンク|イスタンブル国際音楽祭|en|Istanbul International Music Festival}}として知られている<ref>{{cite web|url=http://muzik.iksv.org/en/thefestival/history|publisher=The Istanbul Foundation for Culture and Arts|title=History|accessdate=13 April 2012}}</ref>。元のイスタンブルフェスティバルから発展した祭典で最も顕著な催しには{{仮リンク|イスタンブル・ビエンナーレ|en|Istanbul Biennial}}があり、1987年以来2年ごとに開催されている。初期の姿はトルコの視覚芸術を披露する目的であったが、国際的なアーティストに開放されて以来、[[ヴェネツィア・ビエンナーレ]]や[[サンパウロ・ビエンナーレ]]と並び権威ある[[ビエンナーレ]]として評価が上がって来ている<ref>{{cite web|url=http://www.guardian.co.uk/travel/2011/sep/21/istanbul-biennial-2011-modern-art|work=The Guardian|last=Gibbons|first=Fiachra|title=10 of the Best Exhibitions at the Istanbul Biennial|date=21 September 2011|accessdate=13 April 2012}}</ref>。

=== レジャー・エンターテイメント ===
[[File:Grand-Bazaar Shop.jpg|thumb|right|グランドバザールは世界最大規模の屋内市場の一つ。|alt=Goods overflow out of storefronts, leaving a narrow passageway where shoppers move about.]]
イスタンブルには歴史的なものから現代のものまで多くの商業施設がある。[[カパルチャルシュ|カパル・チャルシュ]]''Kapalıçarşı''(グランドバザール)は1461年以来市場が開かれており、世界最古で最大の屋内市場である<ref>{{cite journal|editor-last=Hensel|editor-first=Michael|editor2-last=Sungurogl|editor2-first=Defne|editor3-last=Ertaş|editor3-first=Hülya|title=Turkey at the Threshold|journal=Architectural Design|volume=80|year=2010|month=January/February|isbn=978-0-470-74319-5|publisher=John Wiley & Sons|location=London|ref=harv|issue=1}}</ref><ref name="kos9192">{{harvnb|Köse|2009|pp=91–2}}</ref>。{{仮リンク|ムハマトパシャ・チャルシュ|en|Mahmutpasha Bazaar, Istanbul}}は青空市でカパル・チャルシュから{{仮リンク|エジプシャン・バザール|en|Spice Bazaar, Istanbul}}にかけ広がっている。エジプシャンバザールは1660年以来、イスタンブルのメジャーな香辛料の市として開かれている。{{仮リンク|ガレリア・アタキョイ|en|Galleria Ataköy}}はトルコのモダンなショッピングモールの先駆けとして1987年に開業した<ref>{{harvnb|Taşan-Kok|2004|p=166}}</ref>。それ以来、モールは歴史的な半島の外のメジャーなショッピングセンターになっている。{{仮リンク|アクメルケズ|en|Akmerkez}}は1995年と1996年に「欧州最高」、「世界最高」のショッピングモールのタイトルを{{仮リンク|ショッッピングセンター国際評議会|en|International Council of Shopping Centers}}より与えられている。{{仮リンク|イスタンブル・ジョヴァヒル|en|Istanbul Cevahir}}は2005年に開業しそれ以来、欧州最大のショッピングモールである。{{仮リンク|カニヨンショッピングモール|en|Kanyon Shopping Mall, Istanbul}}は2006年に建てられた商業建築カテゴリーで都市景観建築評価賞を獲得している<ref name="kos9192" />。

{{仮リンク|ニシャンタシュ|en|Nişantaşı}}の{{仮リンク|アブディイペクチ通り|en|Abdi İpekçi Street}}とアナトリア側の{{仮リンク|バグダード通り|en|Bağdat Avenue}}は高級ショッピング地区へ発展している<ref>{{cite web|url=http://www.hurriyetdailynews.com/default.aspx?pageid=438&n=abdi-ipekci-street-to-be-the-new-champs-elysee-2010-09-03|work=Hürriyet Daily News|title=Abdi İpekçi Avenue to be new Champs Elysee|date=3 September 2010|last=Emeksiz|first=İpek|accessdate=28 April 2012}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.cnngo.com/explorations/shop/mystery-shoppers-rank-worlds-best-shopping-avenues-060108|publisher=CNN|title=Shopping in Singapore is Better than Paris|date=6 January 2012|accessdate=28 April 2012}}</ref>。

[[File:Nişantaşı 2010-11 Yılbaşı Süslemeleri.jpg|thumb|left|大晦日のニシャンタシュのデコレーション]]

典型的な[[ケバブ]]のような[[トルコ料理]]と並んでイスタンブルは、歴史的なシーフードレストランでも有名である。市内の多くの最も評判な店や高級な店はボスポラス海峡の海岸にあり、マルマラ海に沿った{{仮リンク|クムカプ|en|Kumkapı}}地区には歩行者ゾーンがあり周辺には約50のレストランがある<ref>{{cite web|url=http://www.hurriyetdailynews.com/default.aspx?pageid=438&n=managing-the-difficult-balance-between-tourism-and-authenticity-kumkapi-2008-07-26|work=Hürriyet Daily News|title=Managing the Difficult Balance Between Tourism and Authenticity|last=Schäfers|first=Marlene|date=26 July 2008|accessdate=29 April 2012}}</ref>。

イスタンブル中心部から {{convert|15|km|mi|sp=us|0}} 離れた{{仮リンク|プリンス諸島|en|Princes' Islands}}はシーフードレストランでも人気がある。これらのレストランは車の来ない通りと、静かで穏やかな雰囲気がある歴史的な夏の離宮で、プリンス諸島はイスタンブルっ子や外国人観光客にとっては人気のある観光地である<ref>{{cite web|url=http://travel.nytimes.com/2011/07/10/travel/buyukada-near-istanbul-is-an-island-idyll.html?pagewanted=all|work=The New York Times|title=A Turkish Idyll Lost in Time|last=Schillinger|first=Liesl|date=8 July 2011|accessdate=29 April 2012}}</ref>。外国の料理を特徴としたレストランは主にベイオール地区に集中している。イスティクラル通りに沿った、{{仮リンク|チチェキ・パサジュ|en|Çiçek Pasajı}}はワインハウス({{仮リンク|メイハネ|en|meyhanes}}としても知られる。)やパブ、レストランが入っている<ref>{{harvnb|Keyder|1999|p=34}}</ref><ref>{{cite web|last=Kugel|first=Seth|url=http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9E00E4DB1030F934A25754C0A9679D8B63&pagewanted=all|title=The $100 Istanbul Weekend|work=The New York Times|date=17 July 2011|accessdate=29 April 2012}}</ref>。イスティクラル通り周辺の他のいくつかの地区ではベイオールのナイトライフに応えるため最近では改装され、以前の商店街は現在ではパブやカフェ、生演奏が行われるレストランが林立している<ref>{{harvnb|Knieling|Othengrafen|2009|pp=228–34}}</ref>。他のイスタンブルのナイトライフの中心的な場所には{{仮リンク|ニシャンタシュ|en|Nişantaşı}}や{{仮リンク|オルタキョイ|en|Ortaköy}}、{{仮リンク|ベベック|en|Bebek, Istanbul}}、{{仮リンク|カドゥキョイ|en|Kadıköy}}などがある<ref>{{cite web|last1=Tomasetti|first1=Kathryn|last2=Rutherford|first2=Tristan|url=http://www.guardian.co.uk/travel/2012/mar/23/istanbul-nightlife-bars-breakfast-brunch|work=The Guardian|title=A Big Night Out in Istanbul – And a Big Breakfast the Morning After|date=23 March 2012|accessdate=29 April 2012}}</ref>。

== スポーツ ==
[[File:Atatürk Olimpiyat.jpg|thumb|right|76,092人の観客を収容可能なアタチュルクオリンピックスタジアムはトルコ最大の多目的スタジアム|alt=A stadium with a football pitch and track surrounded by multi-tier seating and covered by a large hanging roof]]
イスタンブルにはいくつかのトルコで最も古いスポーツクラブがある。[[ベシクタシュJK]]は1903年に創設され、数あるクラブチームの中でも最古のものと考えられている。初期にはトルコで唯一のクラブチームで、時折トルコの代表チームとしてプレーしていた<ref name="fifa-bes" />。サッカーのクラブチームは国内の争いでそれぞれの優位な時期を見て来たが<ref name="fifa-bes" />、[[ガラタサライSK (サッカー)|ガラタサライ]]や[[フェネルバフチェSK]]は国際大会では善戦し、プロサッカー1部リーグ[[スュペル・リグ]]で最も多くの優勝回数を誇っている<ref name="fifa-gal">{{cite web|url=http://www.fifa.com/classicfootball/clubs/club=31018/index.html|publisher=FIFA|title=Galatasaray: The Lions of the Bosporus|accessdate=10 April 2012}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.uefa.com/uefachampionsleague/season=2008/clubs/club=52692/matches/index.html|publisher=The Union of European Football Associations|title=UEFA Champions League 2007/08 – History – Fenerbahçe|date=8 October 2011|accessdate=10 April 2012}}</ref>。ガラタサライとフェネルバフチェSKはボスポラス海峡を挟んで長年にわたりライバル関係にあり、ガラタサライは市内のヨーロッパ側にフェネルバフチェSKはアナトリア側に本拠地を置いている<ref name="fifa-gal" />。
イスタンブルには[[エフェス・ピルゼン S.K.]]、[[ベシクタシュJK (バスケットボール)|ベシクタシュJK]]、[[フェネルバフチェ・ユルケル]]、{{仮リンク|ガラタサライ・メディカルパーク|en|Galatasaray Medical Park (men's basketball)}}の4つのクラブチームがあり、プロバスケットボール1部リーグの[[ターキッシュ・バスケットボール・リーグ]]でプレーしている<ref>{{cite web|url=http://www.tbl.org.tr/beko/index.asp?sezon=2011-2012|publisher=The Turkish Basketball League|title=Türkiye Basketbol Ligleri|trans_title=Turkish Basketball League|language=Turkish|date=27 June 2012|accessdate=不明}}</ref>。

イスタンブルには2000年から多くのスポーツ施設が建設されたり改良されており、[[夏季オリンピック]]の招致活動が行われている。[[アタテュルク・オリンピヤット・スタディ|アタチュルク・オリンピックスタジアム]]はトルコ最大の多目的スタジアムで、2002年に竣工し[[国際陸上競技連盟]]では最上級に分類される陸上競技施設である<ref>{{cite web|url=http://www.iaaf.org/download/download?filename=5b516685-e0c0-499e-8f93-5aa1d5d8b05a.pdf&urlslug=IAAF%20CERTIFICATES%20-%20Certified%20Athletics%20Facilities|publisher=The International Association of Athletics Federations|title=List of Certified Athletics Facilities|date=1 January 2013|accessdate=2 January 2013}}</ref>。スタジアムでは[[UEFAチャンピオンズリーグ 2004-05 決勝]]が開催され、{{仮リンク|イスタンブル・ビュユクシェヒル・ベレディイェ・アンカラスポル|en|İstanbul Büyükşehir Belediyespor (football team)}}のホームフィールドとして残っている。[[シュクリュ・サラジオウル・スタジアム]]はフェネルバフチェSKのホームフィールドで、改修工事が竣工した3年後に{{仮リンク|UEFAチャンピオンズリーグ 2008-09 決勝|en|2009 UEFA Cup Final}}が開催された。2011年には[[トルコ・テレコム・アリーナ]]が完成し、ガラタサライのホームであった{{仮リンク|アリ・サーミ・イェンスタジアム|en|Ali Sami Yen Stadium}}から置き換わった<ref>{{cite web|url=http://en.archive.uefa.com/competitions/uefacup/history/season=2009/intro.html|publisher=The Union of European Football Associations|title=2008/09: Pitmen strike gold in Istanbul|date=20 May 2009|accessdate=10 April 2012}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.hurriyetdailynews.com/ascioglu-sues-partners-in-joint-project-over-ali-sami-yen-land.aspx?pageID=238&nID=15972&NewsCatID=345|work=Hürriyet Daily News|title=Aşçıoğlu Sues Partners in Joint Project Over Ali Sami Yen Land|last=Aktaş|first=İsmail|date=14 March 2012|accessdate=3 July 2012}}</ref>。3つ全てのスタジアムは[[UEFAスタジアムカテゴリー]]でカテゴリー4に分類され、UEFAチャンピオンズリーグを開催するのに適したスタジアムである{{efn|name=uefa-category|While UEFA does not apparently keep a list of Category 4 stadiums, regulations stipulate that only these elite stadiums are eligible to host UEFA Champions League Finals,<ref>{{cite web|url=http://www.uefa.com/MultimediaFiles/Download/Regulations/uefa/Others/91/48/36/914836_DOWNLOAD.pdf|publisher=The Union of European Football Associations|format=pdf|page=14|title=Regulations of the UEFA European Football Championship 2010–12|accessdate=10 April 2012}}</ref> which Atatürk Olympic Stadium did in 2005, and UEFA Europa League (formerly UEFA Cup) Finals,<ref>{{cite web|url=http://www.uefa.com/MultimediaFiles/Download/Regulations/competitions/Regulations/01/48/48/90/1484890_DOWNLOAD.pdf|publisher=The Union of European Football Associations|format=pdf|page=17|title=Regulations of the UEFA Europa League 2010/11|accessdate=10 April 2012}}</ref> which Şükrü Saracoğlu Stadium did in 2009. [[Türk Telekom Arena]] is noted as an elite UEFA stadium by its architects.<ref>{{cite web|url=http://www.asp-stuttgart.de/index2.php?lan=en&n=2&s=3&d=1&id=38&type=&site=http%3A//www.asp-stuttgart.de/asp_content.php%3Flan%3Den%26n%3D2%26s%3D3%26d%3D1%26id%3D38|publisher='asp' Architekten|title=Türk Telekom Arena Istanbul|accessdate=5 July 2012}}</ref>}}。

[[File:Ülker Sports Arena- Fenerbahçe vs. Armani Milano.jpg|thumb|left|{{仮リンク|ウルケルスポーツアリーナ|en|Ülker Sports Arena}}は2012年に開業し、バルケットボールやバレーボールのクラブチームであるフェネルバフチェ・ユルケルのホームコート。|alt=A brightly lit basketball court and game, with spectators filling the surrounding darkened bowl of seats]]
[[スィナン・エルデム・ドーム]]はヨーロッパ最大の屋内アリーナの中に含まれ[[2010年バスケットボール世界選手権]]や[[2012年世界室内陸上競技選手権大会]]、{{仮リンク|2011-12ユーロリーグ|en|2011–12 Euroleague}}の準決勝が開催されている<ref>{{cite web|url=http://turkey2010.fiba.com/pages/eng/fe/10/fwcm/event-guide/cities/istanbul/p/arena.html|publisher=FIBA|title=2010 FIBA World Championship Istanbul: Arenas|accessdate=10 April 2012}}</ref>。

2010年にシナン・エルデムドームが完成するまで[[アブディ・イペクチ・アリーナ]]がイスタンブルの主要な屋内アリーナで[[2001年バスケットボール男子欧州選手権]]が開催された<ref>{{cite web|url=http://turkey2010.fiba.com/pages/eng/fe/10/fwcm/event-guide/cities/istanbul/p/arena.html|publisher=FIBA|title=Istanbul – Arenas|year=2010|accessdate=29 June 2012}}</ref>。他の屋内アリーナの中には2000年から運営されている{{仮リンク|BJKアクアトラルアリーナ|en|BJK Akatlar Arena}}が含まれ、イスタンブルのスポーツクラブのホームコートを提供している。より最近では13,800席を備える{{仮リンク|ウルケルスポーツアリーナ|en|Ülker Sports Arena}}は2012年に開業し、フェネルバフチェ・ユルケルのホームコートにしている<ref>{{cite web|url=http://www.euroleague.net/news/i/92943/180/fenerbahce-ulker-s-new-home-ulker-sports-arena-opens|publisher=Euroleague Basketball|title=Fenerbahce Ulker's new home, Ulker Sports Arena, opens|date=24 January 2012|accessdate=29 June 2012}}</ref>。建設ブームにも関わらず、2000、2004、2008、2012年のオリンピック招致や[[UEFA EURO 2012]]、[[UEFA EURO 2016]]の招致は失敗に終わっている<ref>{{cite web|url=http://www.csmonitor.com/World/Latest-News-Wires/2011/0902/2020-Olympics-Six-cities-lodge-bids-for-the-games|work=The Christian Science Monitor|last=Wilson|first=Stephen|title=2020 Olympics: Six cities lodge bids for the games|date=2 September 2011|accessdate=29 June 2012}}</ref>。イスタンブルは現在、[[2020年夏季オリンピック]]に向けて招致活動{{enlink|Istanbul bid for the 2020 Summer Olympics|a=on}}を行っている。2013年9月7日には開催都市が発表される<ref name="olympic.org" /><ref>{{cite web|url=http://www.independent.co.uk/sport/football/international/uefa-announce-new-euro-2020-bid-process-7757074.html|work=The Independent|title=UEFA Announce New Euro 2020 Bid Process|date=16 May 2012|accessdate=29 June 2012}}</ref>。

[[イスタンブール・パーク]]は2005年に[[世界ツーリングカー選手権]]が2006年に[[ル・マン・シリーズ]]が開催されているが、それ以降はどちらも開催されていない<ref>{{cite web|url=http://www.fiawtcc.com/events|publisher=FIA World Touring Car Championship|title=Events|year=2012|accessdate=29 June 2012}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.europeanlemansseries.com/en/s02_corporate/s02p17_circuits.php|title=The Circuits|publisher=European Le Mans Series|year=2012|accessdate=3 July 2012}}</ref>。2005年から2011年の間、イスタンブール・パークでは毎年開催される[[トルコグランプリ]]が行われていたが、資金難から将来の開催は不確実さが残る<ref>{{cite web|url=http://www.guardian.co.uk/sport/2011/apr/22/turkey-f1-grand-prix|work=The Guardian|last=Richards|first=Giles|title=Turkey Grand Prix Heads for the Scrapyard Over $26m Price Tag|date=22 April 2011|accessdate=3 July 2012}}</ref>。イスタンブルセーリングクラブは1952年に創設され、イスタンブルやその周辺の航路で行われるショーケースとなる競技を毎年行っている<ref>{{cite web|url=http://www.istanbulyelken.org.tr/yarislar/48-2012-yar%C4%B1%C5%9F-program%C4%B1-ve-genel-yar%C4%B1%C5%9F-talimat%C4%B1.html|publisher=The Istanbul Sailing Club|title=2012 Yarış Programı ve Genel Yarış Talimatı|language=Turkish|trans_title=2012 Race Schedule and General Sailing Instructions|year=2012|accessdate=3 July 2012}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.hurriyetdailynews.com/default.aspx?pageid=438&n=sailing-week-starts-in-istanbul-2008-08-23|work=Hürriyet Daily News|author=Turkish Daily News|title=Sailing Week Starts in Istanbul|date=23 August 2008|accessdate=3 July 2012}}</ref>。
トルコオフショアレーシングクラブも主要なレースを主催しており、もっとも権威あるレースである海兵隊杯も含まれる<ref>{{cite web|url=http://www.tayk.org.tr/about-us|publisher=The Turkish Offshore Racing Club|title=About Us|date=31 March 2012|accessdate=3 July 2012}}</ref>。イスタンブルでは時折、{{仮リンク|F1パワーボート世界選手権|en|F1 Powerboat World Championship}}も開催され最後に開催されたのは2000年で、ボスポラス海峡で開かれた<ref>{{cite web|url=http://www.f1h2o.com/races/index.php|publisher=F1 Powerboat World Championship|title=Races|year=2012|accessdate=3 July 2012}}</ref>。

== メディア ==
[[File:Istanbul 17 (RaBoe).jpg|right|thumb|1948年に創刊したHürriyetはトルコで最も読まれている新聞。|alt=Entrance to an office building with an overhead sign saying 'Hürriyet']]
ほとんどの国営のラジオ局やテレビ局はアンカラをベースとしているが、イスタンブルはトルコメディアの最も重要なハブである。メディア産業のルーツは、オスマン帝国の首都であった時代の1831年に最初にトルコで発行された新聞である''Takvim-i Vekayi''(情勢の暦)にある。{{仮リンク|ジャガログル|en|Cağaloğlu}}通りでは新聞が印刷され、バーブ・アーリ通り''Bâb-ı Âli''は金角湾を越えたベイオールとともに急速にトルコの印刷メディアの中心となった<ref>{{harvnb|Brummett|2000|pp=11, 35, 385–6}}</ref>。今日、イスタンブルでは幅広い種類の定期刊行物が発行されている。ほとんどの全国紙はイスタンブルを拠点として、同時にアンカラやイズミル版がある<ref name="loc-pro">{{cite web|url=http://lcweb2.loc.gov/frd/cs/profiles/Turkey.pdf|publisher=The Library of Congress Federal Research Division|title=Country Profile: Turkey|date=August 2008|accessdate=8 May 2012}}</ref>。

=== 新聞 ===
イスタンブルを拠点とする{{仮リンク|ザマン新聞|en|Zaman (newspaper)}}は1986年の創刊と歴史が浅いが、トルコでは最も広く流通している新聞で週に100万部が発行されている。{{仮リンク|ポスタ新聞|en|Posta (newspaper)}}、[[ヒュッリイェト]]、{{仮リンク|サバ新聞|en|Sabah (newspaper)}}、{{仮リンク|ハバールテュルク|en|Habertürk}}の各新聞はトルコの5大紙で、それぞれ毎週20万部以上を売り上げている。ヒュッリイェトの英字版である{{仮リンク|ヒュリットデイリーニュース|en|Hürriyet Daily News}}は1961年より発行されていたが、2007年にザマン新聞により発行された英字紙の{{仮リンク|トゥデイズ・ザマン|en|Today's Zaman}}が発行部数で追い抜いた。いくつかの小さな新聞社の中にはイスタンブルを拠点とする[[ミッリイェト]]や{{仮リンク|チュムフリエット|en|Cumhuriyet}}のような人気の発行者も含まれる<ref name="loc-pro" /><ref>{{cite web|url=http://www.medyatava.com/tiraj.asp|title=Gazete Net Satışları|trans_title=Net Sales of Newspapers|language=Turkish|work=Medyatava|accessdate=8 May 2012|date=30 April 2012}}</ref>。

[[File:İstanbul radio1.JPG|left|thumb|国営の TRT'sの本社。イスタンブルではラジオも放送。|alt=A four-story, white flat-roofed building with two Turkish flags and a portrait on the exterior]]

=== ラジオ ===
イスタンブルでのラジオ放送の開始は1927年に遡り、最初のラジオ電波の送信はエミノニュ''Eminönü''の中央郵便局の上から行われた。後の数10年間で設立された他のラジオ局と先の放送の管理は最終的には国営の[[トルコ国営放送]] (TRT) の下になり、1964年の設立から1990年までラジオやテレビの放送を独占していた<ref name="trt-radio">{{cite web|url=http://www.trt.net.tr/Generic/SayfaTasarimiGoster.aspx?TaslakKodu=bc738c28-15c7-4f98-8793-8d75c4a15cba&dil=en|publisher=The Turkish Radio and Television Corporation|title=TRT – Radio|accessdate=8 May 2012}}</ref>。今日、TRTは4局の国営ラジオ局を運営しこれらの放送局はトルコの人口の90%以上をカバー出来るように全国に送信所を持っている。Radio 2は唯一イスタンブルに拠点を置いており、教育番組からスポーツ競技の放送までをカバーしトルコでは最もポピュラーなラジオ局である<ref name="trt-radio" />。イスタンブルのラジオ放送はトルコでは一番賑やかで主にトルコ語や英語の番組内容を特徴としている。両方の内容を放送する希有な放送局には{{仮リンク|アチクラジオ|en|Açık Radyo}} (94.9 FM) がある。トルコでは初の民放ラジオ局で初の海外音楽を特徴とする1992年に設立された{{仮リンク|メトロFM|en|Metro FM (Turkey)}} (97.2 FM) も含まれる。国営のRadio 3はアンカラを拠点とするが英語のポップスを特徴とし、NTV Radyo (102.8 FM) は英語のニュース番組を放送している<ref>{{harvnb|Time Out Guides|2010|p=224}}</ref>。

=== テレビ ===
''TRT-Children''はTRTのテレビ局で唯一、イスタンブルを拠点としている<ref>{{cite web|url=http://www.trt.net.tr/Generic/SayfaTasarimiGoster.aspx?TaslakKodu=a7de2f34-dc4f-475e-840f-54812bc5b567&dil=en|publisher=The Turkish Radio and Television Corporation|title=TRT – Television|accessdate=8 May 2012}}</ref>。それにもかかわらず、イスタンブルにはいくつものトルコの放送局や国際的な報道機関の拠点が置かれている。イスタンブルを拠点とする{{仮リンク|トルコスターテレビ|en|Star TV (Turkey)}}はTRTのテレビ放送の独占が終わった後に始めて設立された民放局である。スターテレビと同じくイスタンブルを拠点とする{{仮リンク|ショーテレビ|en|Show TV}}は全国的に人気が高いままで、トルコやアメリカのシリーズ物の番組を放送している<ref>{{harvnb|Norris|2010|p=184}}</ref>。{{仮リンク|サマンヨルテレビ|en|Samanyolu TV}}、{{仮リンク|Kanal D|en|Kanal D}}、{{仮リンク|トルコATV|en|Atv (Turkey)}}や他のイスタンブルのテレビ局はニュース番組やシリーズ番組の混成で放送される。{{仮リンク|トルコNTV|en|NTV (Turkey)}}(アメリカの[[MSNBC]]と提携)と{{仮リンク|Sky Turk|en|Sky Turk 360}}もイスタンブルを拠点とするが、主にトルコを視聴範囲としたニュースを放送している。[[BBC]]はイスタンブルに地域事務所を置きトルコ語ニュースの運営を援助しているのに対し、アメリカのニュース専門チャンネル[[CNN]]は1999年にトルコ語放送の{{仮リンク|CNNトルコ|en|CNN Türk}}を1999年に設立した<ref>{{cite web|url=http://news.bbc.co.uk/aboutbbcnews/hi/profiles/newsid_3660000/3660911.stm|publisher=BBC|title=Chris Morris|accessdate=8 May 2012}}</ref>。ビジネスとエンターテイメントのチャンネルである[[CNBC-e]]もイスタンブルを拠点とし、2000年から放送を開始した。

== 教育 ==
[[File:Istanbul University cropped.JPG|thumb|right|upright|イスタンブル大学の入口。市内ではトルコの最古の教育機関|alt=A triumphal arch adjacent to a Turkish flag and in front of an open plaza]]
[[イスタンブル大学]]は1453年に創設された、市内にある最古のトルコの教育機関である。元は[[マドラサ]]で、大学には法律、医学、科学部門が19世紀に創設されトルコ共和国が建国されてからは宗教から分離された<ref>{{cite web|publisher=Istanbul University|url=http://www2.istanbul.edu.tr/english/?p=68|title=History|date=11 August 2011|accessdate=20 August 2012}}</ref>。[[イスタンブル工科大学]]は1773年に[[オスマン帝国海軍]]の技術学校として創設されたのが起源で、工科に特化した大学としては世界で3番目に古い大学である<ref>{{cite web|url=http://www.itu.edu.tr/en/?about/history|publisher=Istanbul Technical University|title=History|accessdate=4 July 2012}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.best.eu.org/student/education/universityProfile.jsp?universityPtr=7h066pc|publisher=Board of European Students of Technology|title=University Profile: Istanbul Technical University, Turkey|accessdate=30 March 2012}}</ref>。これらの公立大学は市内にある8つの内の2つで<ref>{{cite web|url=http://www.yok.gov.tr/en/content/view/761/lang,tr/|publisher=The Turkish Council of Higher Education|title=State Universities|accessdate=30 March 2012}}</ref>、他の有名なイスタンブルの国立大学には[[ミマール・スィナン芸術大学]]が含まれ1970年代までトルコで最も重要な芸術に関する機関で<ref name="gosotu2213" />、[[マルマラ大学]]はトルコでは3番目に大きな高等教育機関である<ref>{{cite web|url=http://www.marmara.edu.tr/en/information/general-information|publisher=Marmara University|title=About Marmara|accessdate=4 July 2012}}</ref>。{{仮リンク|イスタンブル文化大学|en|Istanbul Medeniyet University}}は2010年に創設された一番新しい公立大学で、11の学部を通して2年間の学位取得過程を提供している<ref>{{cite web|url=http://www.medeniyet.edu.tr/General_Information.html|publisher=Istanbul Medeniyet University|location=Ankara|title=General Information|accessdate=30 March 2012}}</ref>。

イスタンブルの著名な大学には政府の支援があるが、市内には多くの著名な私立の機関もある。最初の近代的な私立大学として{{仮リンク|ロバートカレッジ|en|Robert College}}は1863年にアメリカからの団体により設立された。高等教育部門は1971年に[[ボアズィチ大学]]に移行され、残りの部門はアルナウトゥキョイ''Arnavutköy''にロバートカレッジの名の下、全寮制学校として残った<ref name="dog">{{cite web|last=Doğramacı|first=İhsan|url=http://www.intconfhighered.org/Dogramaci-final.doc|format=DOC|title=Private Versus Public Universities: The Turkish Experience|work=18th International Conference on Higher Education|location=Ankara|year=2005|month=August|accessdate=30 March 2012}}</ref><ref>{{cite web|url=http://webportal.robcol.k12.tr/About-RC/HistoryOfRc/Pages/default.aspx|publisher=Robert College|title=History of RC|year=2012|accessdate=15 October 2012}}</ref>。私立大学はトルコでは公式には1982年の{{仮リンク|トルコの憲法|en|Constitution of Turkey}}により非合法となったが、1970年当時イスタンブルにあった15の「高校」は事実上の大学であった。イスタンブルで1982年以来、最初の私立大学が設立されたのは1992年の{{仮リンク|コチ大学|en|Koç University}}で他に数十の大学が10年の間に開学している<ref name="dog" />。
今日、市内には少なくとも30の私立大学があり{{仮リンク|イスタンブル商科大学|en|Istanbul Commerce University}}や{{仮リンク|カディル・ハス大学|en|Kadir Has University}}も含まれる<ref>{{cite web|url=http://www.yok.gov.tr/en/content/view/762/lang,tr/|publisher=The Turkish Council of Higher Education|title=Private Universities|accessdate=30 March 2012}}</ref>。
[[File:RobertCollegeGouldHall1.jpg|thumb|left|ボアズィチ大学はアメリカの寄宿学校であったロバートカレッジの高等教育部門が移行したのが始まり。|alt=An ivy-covered neoclassical building atop a hill, with a greenery-adorned walkway leading to its entrance]]
2007年には約4,350の学校があるが、そのうちの半数は小学校で各校平均688人の生徒が在籍する。近年ではイスタンブルの教育システムは大幅に拡大してきており、2000年から2007年にかけて学級数や教師の数は倍近くに生徒の数は60%以上増加している<ref>{{cite web|url=http://www.istanbul.gov.tr/Modules/SayilarlaIst2/tabloizleme2.aspx?id=83|publisher=Governorship of Istanbul|title=2007 Yılına Ait Veriler|language=Turkish|trans_title=Data for 2007|archiveurl=http://www.webcitation.org/60e31AvfM|archivedate=2 August 2011|accessdate=30 March 2012}}</ref>。

{{仮リンク|ガラタサライ高校|en|Galatasaray High School}}は1481年にガラタ宮殿帝国学校として設立されたイスタンブルでは最古の高校で、市内でも2番目に古い教育機関である。この学校は[[バヤズィト2世]]の命により建てられ、さらなる帝国の成長を強化するための手段として多様な背景を持つ学生を教育しようとした<ref>{{cite web|url=http://gsu.edu.tr/fr/universite/tarihce|publisher=Galatasaray University|title=Historique|language=French|trans_title=History|accessdate=30 March 2012}}</ref>。トルコの{{仮リンク|アナトリアン高校|en|Anatolian High School}}の1つで、外国語での教育に重点を置くエリート公立高校である。ガラタサライは例えばフランス語で教育が行われ、他のアナトリアン高校はトルコ語と並んで英語やドイツ語で主に授業を行っている<ref>{{cite web|url=http://mevzuat.meb.gov.tr/html/45.html|publisher=Ministry of Education|title=Millî Eğitim Bakanlığı Anadolu Liseleri Yönetmeliği|language=Turkish|trans_title=Ministry of Education Regulation on Anatolian High Schools|date=5 November 1999|accessdate=30 March 2012}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.gsl.k12.tr/europecelebratesit/galatasaray.htm|publisher=Galatasaray High School|title=Galatasaray Lisesi|accessdate=4 July 2012}}</ref>。市内にはまた、{{仮リンク|リセオ・イタリアーノ|en|Liceo Italiano}}など外国の高校もあり、外国人を教育するために19世紀に設立された<ref>{{cite web|url=http://www.liceoitaliano.net/en/pages/history.htm|publisher=Liceo Italiano|title=The History of the Italian School|accessdate=3 July 2012}}</ref>。

イスタンブルの他のいくつかの高校は独自の教育や入学条件を特徴としている。{{仮リンク|クレリ軍事高校|en|Kuleli Military High School}}はボスポラス海峡の岸に沿った{{仮リンク|チェンギャルキョイ|en|Çengelköy}}にあり、{{仮リンク|トルコ海軍高校|en|Turkish Naval High School}}は{{仮リンク|プリンス諸島|en|Princes' Islands}}の1つにありこれらは軍の高校で、{{仮リンク|トルコ空軍士官学校|en|Turkish Air Force Academy}}や{{仮リンク|トルコ軍士官学校|en|Turkish Military Academy}}、{{仮リンク|トルコ海軍士官学校|en|Turkish Naval Academy}}などを補完するものである。他の重要な高校には{{仮リンク|ダルシュファカ高校|en|Darüşşafaka High School}}があり、少なくとも一方の親が居ない全国の子供に無料で教育を行っている。ダルシュファカでは第4学年で英語の授業が始まり、第6学年で第二外国語であるドイツ語とフランス語の授業が始まる<ref>{{cite web|url=http://www.darussafaka.k12.tr/English/Sayfalar/Principles-of-Education.aspx|publisher=Darüşşafaka High School|title=Principles of Education|accessdate=6 July 2012}}</ref>。他の市内の有名な高校には1908年に設立された{{仮リンク|カブタシュ・エルケクリセ|en|Kabataş Erkek Lisesi}}<ref>{{cite web|url=http://www.kabataserkeklisesi.k12.tr/|publisher=Kabataş Erkek Lisesi|title=Kabataş Erkek Lisesi|language=Turkey|accessdate=31 March 2012}}</ref>や1955年に設立された{{仮リンク|カディキョイ・アナドルリセ|en|Kadıköy Anadolu Lisesi}}が知られている<ref>{{cite web|url=http://www.kalev.org.tr/MenuContent.aspx?id=77|publisher=Kadıköy Anadolu Lisesi|title=KAL Uygulamalı Yabancı Dil Laboratuvarı|language=Turkish|trans_title=KAL Applied Foreign Language Lab|accessdate=31 March 2012}}</ref>。

==公共サービス ==
[[File:Sunset at Santral Istanbul.jpg|thumb|right|シラフタラガ発電所は現在は美術館で、1914年から1952年の間はイスタンブルの唯一の電力源]]
イスタンブルの最初の[[水道]]システムは街の歴史の初期に遡り[[ヴァレンス水道橋]]のような{{仮リンク|水道橋|en|aqueduct}}により水は当時街の多くの貯水池に蓄えられていた<ref name=iskitarihce>{{cite web|url=http://www.iski.gov.tr/en-US/arasayfalar.php?sayfa=0-1&dosya=tarihce_1.phtm|title=Istanbul and the History of Water in Istanbul|publisher=Istanbul Water and Sewerage Administration|accessdate=11 March 2006 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20070929003533/http://www.iski.gov.tr/en-US/arasayfalar.php?sayfa=0-1&dosya=tarihce_1.phtm|archivedate=29 September 2007}}</ref>。

[[スレイマン1世]]の命令によりキクチェシュメ''Kırkçeşme''水道網が1563年までに建設され、この水道網は毎日 4,200立方メートルの水を158箇所に送水していた<ref name=iskitarihce/>。後には公の要求によって、多くの水源から{{仮リンク|アフメト3世の泉|en|Fountain of Ahmed III}}のような公共の泉へ導管を使い送水された<ref>{{harvnb|Tigrek|Kibaroğlu|2011|pp=33–4}}</ref>。今日のイスタンブルでの塩素処理やろ過した水道水の供給や、[[下水処理場|下水処理]]のシステムはイスタンブル上下水道局 (İSKİ) により管理されている<ref>{{cite web|url=http://www.iski.gov.tr/en-US/arasayfalar.php?sayfa=0-1&dosya=tarihce_2.phtm|title=İSKİ Administration|publisher=Istanbul Water and Sewerage Administration|accessdate=31 March 2012|archiveurl=http://web.archive.org/web/20070929003514/http://www.iski.gov.tr/en-US/arasayfalar.php?sayfa=0-1&dosya=tarihce_2.phtm |archivedate=29 September 2007}}</ref>。

{{仮リンク|シラフタラガ発電所|en|Silahtarağa Power Station}}''Silahtarağa''は金角湾沿いの[[火力発電所]]で最初の機関室が完成した1914年から1952年までイスタンブルの唯一の電力源であった<ref name="silah">{{cite web|url=http://www.santralistanbul.org/pages/index/silahtaraga-elektrik-santrali/en|title=Silahtarağa Power Plant|publisher=SantralIstanbul|accessdate=31 March 2012}}</ref>。トルコ共和国建国後は都市の電力需要の増加に対応し発電所は幾度も施設の改装を受け、1923年の23 MW から1956年にはピークの 120 MW に容量が増加した<ref name="silah" /><ref name="teias">{{cite web|url=http://www.teias.gov.tr/istatistikler/tarihce(ing).htm|year=2001|title=Short History of Electrical Energy in Turkey|publisher=Turkish Electricity Transmission Company|archiveurl=http://web.archive.org/web/20091128083310/http://www.teias.gov.tr/istatistikler/tarihce(ing).htm|archivedate=28 November 2009|deadurl=yes|accessdate=5 July 2012}}</ref>。発電所の容量は次第に減少し、経済的な理由により1983年に閉鎖された<ref name="silah" />。発電と送電を独占する国営のトルコ電力庁 (TEK) が1970年から1984年の間設立されていたが、現在ではトルコ発電送電会社 (TEAŞ) とトルコ配電会社 (TEDAŞ) に分けられ、完全な民営の電力公益事業者である<ref name="teias" />。

[[File:Main Post Office, Istanbul.jpg|left|thumb|upright|1909年に遡る現在のイスタンブルの中央郵便局<ref>{{cite web|url=http://www.emporis.com/building/centralpostoffice-istanbul-turkey|publisher=Emporis|title=Central Post Office|accessdate=4 April 2012}}</ref>|alt=An arched neoclassical building with hanging banners, with a yellow vehicle parked in front]]

オスマンの郵便・電信省は1840年に創設され最初の郵便局である帝国の郵便局は{{仮リンク|イェニモスク|en|New Mosque (Istanbul)}}の中庭近くに開局した。1876年には最初の国際郵便網がイスタンブルと広大なオスマン帝国の領地を超えた間に開設された<ref name="PTT">{{cite web|url=http://www.ptt.gov.tr/index.snet?wapp=histor_en&open=1|publisher=The Post and Telegraph Organization|title=About Us &#124; Brief History|accessdate=31 March 2012}}</ref>。皇帝[[アブデュルメジト1世]]は1847年に[[サミュエル・モールス]]に最初の公式な特許を授与し、最初の電信線がイスタンブルと[[エディルネ]]の間に建設され1856年の[[クリミア戦争]]終戦の通知までには完成している<ref>{{harvnb|Masters|Ágoston|2009|p=557}}</ref>。初期の電話回線はイスタンブルでは1881年頃に出始め、後に最初の手動の[[電話交換機]]が1909年にイスタンブルで運用が始まり郵便・電信省は郵便・電信電話省になった<ref name="PTT" /><ref>{{harvnb|Shaw|Shaw|1977|p=230}}</ref>。イスタンブルの通信インフラはその後、大幅に発達している。[[GSM]]の携帯電話網がトルコに到達したのは1994年のことで、イスタンブルは最初にサービスが提供された都市のうちの1つであった<ref name="turkt">{{cite web|url=http://www.turktelekom.com.tr/tt/portal/About-TT/Company-Profile/History/|title=About Türk Telekom: History|publisher=Türk Telekom|accessdate=31 March 2012}}</ref>。今日、携帯電話と固定電話のサービスは、1995年に郵便・電信電話省から{{仮リンク|トルコテレコム|en|Türk Telekom}}が分離されて2005年に民営化されて以降いくつかの民間事業者により提供されている<ref name="PTT" /><ref name="turkt" />。郵便事業は今も郵便・電信機構の管理下で国営として残っており PTTの頭文字は保っている<ref name="PTT" />。

2000年にはイスタンブルには137の病院があり、そのうちの100は私立の病院であった<ref>{{harvnb|Sanal|2011|p=85}}</ref>。トルコの国民は国営の病院で医療助成が受けることができる<ref name="loc-pro" />。公立病院は混雑しているか遅い状態で、私立の病院は余裕がある人には適している。私立の病院はここ10年ほどで顕著に増加し外来患者の私立病院の利用割合も2005年と2009年を比較すると6%から23%に増加している<ref name="loc-pro" /><ref>{{harvnb|Oxford Business Group|2009|p=197}}</ref>。多くの私立の病院や一部の公立病院はハイテク設備を備え[[核磁気共鳴画像法|MRI]]も含みまた医療研究センターと関連付けられている<ref>{{harvnb|Oxford Business Group|2009|p=198}}</ref>。トルコは他の国よりもより多くのアメリカを基盤とする{{仮リンク|ジョイントコミッション|en|Joint Commission}}の認定を受けた病院があり、ほとんどは大都市に集中している。とくに私立病院の高い質の医療は急増するトルコへの[[医療観光]]に貢献し、2007年から2008年に40%増加した<ref>{{harvnb|Connell|2010|pp=52–3}}</ref>。レーザー眼科手術はとくに医療観光の患者の間で広まっており、トルコは手続きで特化していることで知られている<ref>{{harvnb|Papathanassis|2011|p=63}}</ref>。

==交通==
{{main|イスタンブルの公共交通網}}
=== 道路 ===
[[File:Fatih Sultan Mehmet Bridge panorama.jpg|thumb|right| [[ファーティフ・スルタン・メフメト橋]]はボスポラス海峡に架かる吊り橋の一つ]]
イスタンブルの主要な自動車道路には{{仮リンク|オトヨル1号線|en|Otoyol 1}} (O-1)、{{仮リンク|オトヨル2号線|en|Otoyol 2}} (O-2)、{{仮リンク|オトヨル3号線|en|Otoyol 3}} (O-3)、{{仮リンク|オトヨル4号線|en|Otoyol 4}} (O-4) がある。O-1は街の内側の環状道路を構成し[[ボスポラス橋]]を渡っており、O-2は街の外側の環状道路で [[ファーティフ・スルタン・メフメト橋]](第二ボスポラス橋)を通っている。O-2は[[エディルネ]]に続いており、O-4は東側の[[アンカラ]]へと続いている。O-2、O-3、O-4はつながり合って、[[ポルトガル]]からトルコ、[[イラン]]国境までの[[欧州自動車道路]][[E80号線]]の一部を構成している<ref name="googma">{{Google maps|url=http://maps.google.com/maps?hl=en&ll=41.036118,29.047165&spn=0.147611,0.292168&t=m&z=12|title=Istanbul Overview|accessdate=1 April 2012|link=no}}</ref>。2つのボスポラス海峡に架かる橋はトルコのアジア側とヨーロッパ側を結び、2つの橋で毎日40万台もの自動車交通を扱っている<ref>{{harvnb|Efe|Cürebal|2011|p=720}}</ref>。14.6kmの2本で構成された{{仮リンク|ユーラシアトンネル|en|Eurasia Tunnel}}がクムカピ (Kumkapı)、ファティヒ (Fatih) とセリミエ (Selimiye)、ユスキュダル (Üsküdar) 間のボスポラス海峡の下で現在建設中である<ref name="eib">{{cite web|url=http://www.eib.org/attachments/pipeline/20090678_nts_en.pdf|publisher=The European Investment Bank|work=Eurasia Tunnel Environmental and Social Impact Assessment|title=Volume I: Non Technical Summary (NTS)|author=ERM Group (Germany and UK) and ELC-Group (Istanbul)|date=January 2011|year=2011|accessdate=4 July 2012}}</ref>。
{{仮リンク|第3ボスポラス橋|en|Third Bosphorus Bridge}}は1990年代初期に最初に構想されたが、最終的に実現可能であると言うことでプロジェクトが2012年に正式に着手された<ref name="let">{{cite web|url=http://www.guardian.co.uk/world/2012/jun/08/bosphorus-bridge-row-istanbul-turkey|work=The Guardian|last=Letsch|first=Constanze|title=Plan for New Bosphorus Bridge Sparks Row Over Future of Istanbul|date=8 June 2012|accessdate=4 July 2012}}</ref>。これらの新たなトンネルと橋の計画は2015年には完成の見込みである<ref name="eib" /><ref name="let" />。

=== 公共交通 ===
[[File:Istanbul T1 line Alstom Citadis tram.jpg|thumb|left|イスタンブルの近代的なトラム。1872年に登場した馬車軌道からの長い道程がある。|alt=A red and silver electrified tram running through a street as a crossing pedestrian waits for it to pass]]
イスタンブルの公共交通網は[[路面電車]]、[[ケーブルカー]]、[[地下鉄]]路線、路線バス、[[バス・ラピッド・トランジット]]、フェリーなど複合的なシステムで構成されている。交通機関の運賃は2010年に導入された[[ICカード]]システムである{{仮リンク|イスタンブルカルト|en|Istanbulkart}}か以前からの電子チケットデバイスである{{仮リンク|アクビル|en|Akbil (smart ticket)}}に統合され利用されている<ref>{{cite web|url=http://www.hurriyetdailynews.com/default.aspx?pageid=438&n=new-card-alternative-to-akbil-raises-questions-2010-07-16|last=Songün|first=Sevim|work=Hürriyet Daily News|title=Istanbul Commuters Skeptical of Transit Change|date=16 July 2010|accessdate=5 July 2012}}</ref>。
{{仮リンク|イスタンブルの市電|en|Trams in Istanbul}}は馬車軌道であった1872年に遡るが1960年代には最初の電化された市電は廃止されている<ref name="iett-history">{{cite web|url=http://www.iett.gov.tr/en/metin.php?no=8|publisher=Istanbul Electricity, Tramway and Tunnel General Management|title=Chronological History of IETT|accessdate=1 April 2012}}</ref>。
イスタンブル市電・チュネル会社''İETT''が運行する市電は1990年代には徐々に復活し、{{仮リンク|イスタンブルノスタルジックトラム|en|Istanbul nostalgic tram}}や速いトラム路線が導入され、現在では毎日265,000人を運んでいる<ref name="iett-history" /><ref>{{cite web|url=http://www.istanbul-ulasim.com.tr/rayl%C4%B1-sistemler/t1-kabata%C5%9F-%E2%80%93-ba%C4%9Fc%C4%B1lar.aspx|publisher=İstanbul Ulaşım A.Ş. (Istanbul Transport Corporation)|title=T1 Bağcılar–Kabataş Tramvay Hattı|language=Turkish|trans_title=T1 Bağcılar–Kabataş Tram Line|accessdate=20 August 2012}}</ref>。[[イスタンブル・トンネル]](Tünel、チュネル)は1875年に開業し、世界ではロンドンの[[メトロポリタン鉄道]]に次いで2番目に古い地下式鉄道である<ref name="iett-history" />。この路線は現在でも[[カラキョイ]]と{{仮リンク|イスティクラル通り|en|İstiklal Avenue}}の急な573mの路線を運行しており、よりモダンなケーブル鉄道がタクシム広場とカラキョイの間を2006年から走り始めた<ref>{{cite web|url=http://www.iett.gov.tr/en/metin.php?no=46|publisher=Istanbul Electricity, Tramway and Tunnel|title=Tunnel|accessdate=3 April 2012}} (Note: It is apparent this is merely a machine translation of the original [http://www.iett.gov.tr/metin.php?no=46 Turkish page].)</ref><ref>{{cite web|url=http://www.istanbul-ulasim.com.tr/rayl%C4%B1-sistemler/f1-taksim-%E2%80%93-kabata%C5%9F.aspx|publisher=İstanbul Ulaşım A.Ş. (Istanbul Transport Corporation)|title=F1 Taksim–Kabataş Füniküler Hattı|language=Turkish|trans_title=F1 Bağcılar–Kabataş Funicular Line|accessdate=20 August 2012}}</ref>。
{{仮リンク|イスタンブル地下鉄|en|Istanbul Metro}}は3つの接続されていない路線、{{仮リンク|M1A線|en|M1A (Istanbul)}}、{{仮リンク|M2A線|en|M2A (Istanbul)}}、{{仮リンク|M4A線|en|M4A (Istanbul)}}で構成され、{{仮リンク|M3A線|en|M3A (Istanbul)}}などの他の路線が建設中か計画中である<ref>{{cite web|url=http://www.istanbul-ulasim.com.tr/rayl%C4%B1-sistemler.aspx|publisher=İstanbul Ulaşım A.Ş. (Istanbul Transport Corporation)|title=Raylı Sistemler|language=Turkish|trans_title=Rail Systems|accessdate=20 August 2012}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.istanbul-ulasim.com.tr/yolcu-hizmetleri/a%C4%9F-haritalar%C4%B1.aspx|publisher=İstanbul Ulaşım A.Ş. (Istanbul Transport Corporation)|title=Ağ Haritaları|language=Turkish|trans_title=Network Maps|accessdate=20 August 2012}}</ref>。

イスタンブルの両側の地下鉄は最終的にボスポラス海峡の下を通る[[マルマライ計画]]の海底トンネルにより結ばれ、トラキア側とアナトリア側では史上初となる鉄道による接続が2015年に完了する<ref>{{cite web|url=http://www.oxfordbusinessgroup.com/economic_updates/turkey-connecting-continents|publisher=Oxford Business Group|title=Turkey: Connecting Continents|work=Economic Updates|date=7 March 2012|accessdate=3 April 2012}}</ref>。計画の完了後にはイスタンブルの鉄道のシェアは現在の4%から28%に増加すると予想され、これは唯一東京やニューヨークに続くものである<ref>{{harvnb|Efe|Cürebal|2011|p=723}}</ref>。それまでは路線バスが市内両サイドの毎日220万人の輸送を担う<ref>{{cite web|url=http://www.iett.gov.tr/en/metin.php?no=38|publisher=Istanbul Electricity, Tramway and Tunnel General Management|title=Public Transportation in Istanbul|accessdate=3 April 2012}}</ref>。{{仮リンク|メトロバス|en|Metrobus (Istanbul)}}はバスの高速輸送網を構成し、ボスポラス橋を横切り専用の車線により目的地まで達している<ref>{{cite web|url=http://www.iett.gov.tr/en/metin.php?no=58|publisher=Istanbul Electricity, Tramway and Tunnel General Management|title=Metrobus|accessdate=3 April 2012}}</ref>。

=== 水運 ===
{{仮リンク|イスタンブルシーバス|en|İDO}}は旅客船とカーフェリーを組み合わせボスポラス海峡の両岸やさらには北部や黒海などを結ぶ航路を運航している<ref>{{cite web|url=http://www.ido.com.tr/tr/interaktif-haritalar/ic-hatlar|publisher=İDO|title=Interaktif Haritalar &#124; İç Hatlar|language=Turkish|trans_title=Interactive Map of Timetables &#124; Inner-City Lines|accessdate=3 April 2012}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.ido.com.tr/tr/interaktif-haritalar/dis-hatlar|publisher=İDO|title=Dış Hatlar|language=Turkish|trans_title=Interactive Map of Timetables &#124; Inter-City Lines|accessdate=3 April 2012}}</ref>。İDOはマルマラ海周辺にも就航地があり、自治体が運営するフェリー運航事業者としては世界最大である<ref>{{cite web|url=http://www.ebrd.com/pages/news/press/2011/110927.shtml|last=Grytsenko|first=Sergiy|publisher=The European Bank for Reconstruction and Development|title=EBRD Supports Privatisation of Ferry Operations in Istanbul|date=26 September 2011|accessdate=4 April 2012}}</ref>。イスタンブルのクルーズ船のターミナルはカラキョイにある{{仮リンク|イスタンブル港|en|Port of Istanbul}}で1時間に1万人の旅客を扱う容量がある<ref>{{cite web|url=http://www.tdi.com.tr/?s=icerikDetay&icerikId=44|publisher=Turkey Maritime Organization|title=Liman Hizmetleri|language=Turkish|trans_title=Port Services|date=10 February 2011|accessdate=28 August 2012}}</ref>。イスタンブルにやって来るほとんどの人たちは空路だが、約50万人の外国人観光客は海路により街へやって来る<ref name="iv&c" />。
=== 鉄道 ===
[[ファイル:Bahnhofsfront-Istanbul-Sirkeci-Liesel.jpg|thumb|シルケジ駅]]
イスタンブルで国際間の鉄道が開業したのは1889年ことで、ブカレストと[[シルケジ駅]]の間でシルケジ駅は遂にはパリからの[[オリエント急行]]の東のターミナル駅として有名になった<ref name="ha251" />。[[ブカレスト]]や[[テッサロニキ]]からの定期列車の運行は2010年初めまで続けられ、前者はマルマライ計画の工事により中断され後者は{{仮リンク|ギリシャ債務危機|en|Greek government-debt crisis}}の影響による<ref>{{cite web|url=http://www.tcdd.gov.tr/home/detail/?id=599|publisher=Turkish State Railways|language=Turkish|title=Bölgesel Yolcu Trenleri|trans_title=Regional Passenger Trains|accessdate=3 April 2012}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.guardian.co.uk/travel/2012/jun/22/greek-summer-holiday-save-greece|publisher=The Guardian|last=Keenan|first=Steve|title=How Your Greek Summer Holiday Can Help Save Greece|date=22 June 2012|accessdate=28 September 2012}}</ref>。1908年に[[ハイダルパシャ駅]]が開業した後は、[[バグダード鉄道]]の西のターミナルや[[ヒジャーズ鉄道]]の延伸に使われた。今日ではどちらの路線もイスタンブルからの直接の運行はない<ref>{{cite web|url=http://www.emporis.com/building/haydarpasatrainstation-istanbul-turkey|publisher=Emporis|title=Haydarpasa Train Station|accessdate=3 April 2012}}</ref><ref>{{cite web|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/8518109.stm|publisher=BBC|last=Head|first=Jonathan|date=16 February 2010|accessdate=3 April 2012|title=Iraq – Turkey railway link re-opens}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.tcdd.gov.tr/tcdding/ortadogu_ing.html|publisher=Turkish National Railways|title=Transports to Middle-Eastern Countries|accessdate=3 April 2012}}</ref>。[[アンカラ]]やトルコを横断した他の地点への運行は通常[[トルコ国鉄]]により行われているが、マルマライ計画や{{仮リンク|イスタンブル-アンカラ高速線|en|Istanbul-Ankara high-speed railway}}の建設工事のため、2012年2月から一時的に閉鎖されている<ref name="akay">{{cite web|url=http://www.todayszaman.com/newsDetail_getNewsById.action?newsId=270498|last=Akay|first=Latifa|work=Today's Zaman|title=2012 Sees End of Line for Haydarpaşa Station|date=5 February 2012|accessdate=3 April 2012}}</ref>。新しい駅はハイダルパシャ、シルケジの両ターミナル駅を置き換えマルマライ計画完成時には市街の分かれている鉄道網をつなぎ開業することが予想されるが、それまではイスタンブルの都市間鉄道サービスは一時的に休止されている<ref name="akay" />。

=== 長距離バス ===
民間のバス会社は鉄道網によって提供されるサービースを超えて、代わりにより上手く運営されている。イスタンブルの主要バスターミナルはヨーロッパ最大で、毎日15,000台のバスと60万人の旅客を扱いトルコ国内や近隣国をはじめ遠くは[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]まで運行されている<ref>{{cite web|url=http://www.otogaristanbul.com/index.php?sayfa=otogar1|publisher=Avrasya Terminal İşletmeleri A.Ş. (Eurasian Terminal Management, Inc.)|title=İstanbul Otogarı|language=Turkish|trans_title=Istanbul Bus Station|accessdate=3 April 2012}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.touring.de/index.php?id=2&L=1|publisher=Touring|title=Eurolines Germany–Deutsche Touring GmbH–Europabus|accessdate=3 April 2012}}</ref>。
=== 空港 ===
[[File:Ataturk Airport overview Karakas.jpg|thumb|right|2011年には3,740万人の旅客を扱った[[アタテュルク国際空港]]。イスタンブルのハブ空港|alt=An aerial view of an airport with three runways and several taxiways arranged around a terminal]]
イスタンブルには2つの国際空港があり、そのうちの大きい方である[[アタテュルク国際空港]]は市中心部の西側24kmの場所に位置し2011年には3,740万人の旅客を扱い、ヨーロッパでは8番目、世界では30番目に忙しい空港であった<ref>{{cite web|url=http://www.guardian.co.uk/news/datablog/2012/may/04/world-top-100-airports|work=The Guardian|title=The World's Top 100 Airports: Listed, Ranked, and Mapped|last=Rogers|first=Simon|date=4 May 2012|accessdate=6 July 2012}}</ref>。[[サビハ・ギョクチェン国際空港]]は市中心部の南東45kmの場所にあり、2001年にアタチュルク国際空港の混雑緩和のため開港している。[[格安航空会社]]が占めており、イスタンブルの第2の空港として特に2009年に新しい国際線ターミナルが開業して以来、急速に旅行者にはポピュラーになって来ている<ref>{{cite web|url=http://www.ft.com/intl/cms/s/0/3f88624c-d88f-11de-b63a-00144feabdc0.html|work=The Financial Times|last=Strauss|first=Delphine|title=Sabiha Gökçen: New Terminal Lands On Time and Budget|date=25 November 2009|accessdate=4 July 2012}}</ref>。サビハ・ギョクチェン国際空港は2011年には1,270万人の旅客を扱っており、{{仮リンク|国際空港評議会|en|Airports Council International}}は世界で最も急速に成長している空港としている<ref>{{cite web|url=http://www.dhmi.gov.tr/getBinaryFile.aspx?Type=13&dosyaID=3&IstatistikID=54|publisher=General Directorate of State Airports Authority|title=Yolcu Trafiği (Gelen-Giden)|language=Turkish|trans_title=Passenger Traffic (Incoming-Outgoing)|accessdate=3 April 2012|format=pdf}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.todayszaman.com/newsDetail_getNewsById.action;jsessionid=80B2A61513A6823BCDA930B0513BCC04?newsId=254217|work=Today's Zaman|title=Sabiha Gökçen Named World's Fastest Growing Airport|date=18 August 2011|accessdate=4 April 2012}}</ref>。イスタンブルには複数の滑走路と巨大なターミナルを備えた世界最大規模となる第3の空港が黒海沿岸に計画されている<ref>{{cite web|url=http://www.hurriyetdailynews.com/minister-names-location-for-3rd-istanbul-airport.aspx?pageID=238&nid=26973|work=Hürriyet Daily News|title=Minister Names Location for 3rd Airport|date=3 August 2012|accessdate=18 August 2012}}</ref><ref>[http://www.ft.com/intl/cms/s/0/e726f572-6577-11e2-a3db-00144feab49a.html#axzz2JH9rMl3M Turkey seeks to build six-runway airport] ft.com January 23, 2013 6:26 pm</ref>。

== 姉妹都市 ==
イスタンブルは以下の都市と姉妹都市の関係にある<ref name="Istanbul1">{{cite web|url=http://www.greatistanbul.com/sister_cities.htm|title=Sister Cities of Istanbul|accessdate=2009-07-01}}</ref><ref name="Istanbul2">{{cite news|url=http://www.radikal.com.tr/haber.php?haberno=94185|publisher=Radikal|language=Turkish|date=2009-07-01|quote=49 sister cities in 2003|title=İstanbul'a 49 kardeş|last=Erdem|first=Selim Efe|accessdate=2009-07-22}}</ref><ref name="Istanbul3">{{cite web |url= http://www.ibb.gov.tr/tr-TR/kurumsal/Birimler/DisIliskilerMd/Documents/guncelleme08032010/kardes_sehir_isbirligi_ve_iyi_niyet_anlasmasi_imzalanan_seh.pdf |title=kardes_sehir_isbirligi_ve_iyi_niyet_anlasmasi_imzalanan_seh.pdf (application/pdf Object) |first= |last=IBB|work=ibb.gov.tr |year=2010 [last update] |accessdate=30 May 2011}}</ref>。
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;[[ヨーロッパ]]
* {{flagicon|Kosovo}} [[プリズレン]], コソボ
* {{flagicon|Azerbaijan}} [[バクー]], アゼルバイジャン<ref name="Istanbul3"/>
* {{flagicon|Greece}} [[アテネ]], ギリシャ<ref name="Istanbul3"/>
* {{flagicon|Germany}} [[ベルリン]], ドイツ<ref name="Berlin">{{cite web|url=http://www.berlin.de/rbmskzl/staedteverbindungen/index.en.html|title=Berlin's international city relations |publisher=Berlin Mayor's Office|accessdate=2009-07-01}}</ref>
* {{flagicon|Spain}} [[バルセロナ]], スペイン<ref name="Barcelona">{{cite web|url=http://w3.bcn.es/XMLServeis/XMLHomeLinkPl/0,4022,229724149_257215678_1,00.html|title=Barcelona internacional - Ciutats agermanades|publisher=© 2006-2009 [http://www.bcn.es/catala/copyright/welcome2.htm Ajuntament de Barcelona]|language=Spanish|accessdate=2009-07-13}}</ref>
* {{flagicon|Hungary}} [[ブダペスト]], ハンガリー<ref name="Budapest">{{cite web|title=Sister cities of Budapest|language=Hungarian|publisher=''Official Website of Budapest''|url=http://www.budapest.hu/engine.aspx?page=20030224-cikk-testvervarosok|accessdate=2009-07-01}}</ref>
* {{flagicon|Germany}} [[ケルン]], ドイツ<ref name="Istanbul3"/>
* {{flagicon|Romania}} [[コンスタンツァ]], ルーマニア<ref name="Istanbul3"/>
* {{flagicon|Albania}} [[ドゥラス]], アルバニア<ref name="Istanbul3"/>
* {{flagicon|Italy}} [[フィレンツェ]], イタリア<ref name="Istanbul3"/>
* {{flagicon|Russia}} [[カザン]], ロシア<ref name="Istanbul3"/>
* {{flagicon|UK}} [[ロンドン]], イギリス<ref name="Istanbul3"/>
* {{flagicon|Ukraine}} [[オデッサ]], ウクライナ<ref name="Istanbul3"/>
* {{flagicon|Bulgaria}} [[プロヴディフ]], ブルガリア<ref name="Istanbul3"/>
* {{flagicon|Czech Republic}} [[プラハ]], チェコ<ref name="Prague">{{cite web| author =www.praha-mesto.cz| title =Partner cities| url =http://magistrat.praha-mesto.cz/72647_Partnerska-mesta| accessdate = 2008-10-09}}</ref>
* {{flagicon|Netherlands}} [[ロッテルダム]], オランダ
* {{flagicon|Russia}} [[サンクトペテルブルク]], ロシア (1990)<ref name="saint_petersburg">{{cite web |url=http://eng.gov.spb.ru/figures/ities |title=Saint Petersburg in figures - International and Interregional Ties |publisher=Saint Petersburg City Government |accessdate=2008-11-23}}</ref>
* {{flagicon|Bosnia and Herzegovina}} [[サラエヴォ]], ボスニア・ヘルツェゴビナ
* {{flagicon|Macedonia}} [[スコピエ]], マケドニア共和国<ref name="Istanbul3"/>
* {{flagicon|Sweden}} [[ストックホルム]], スウェーデン<ref name="Istanbul3"/>
* {{flagicon|France}} [[ストラスブール]], フランス<ref name="Istanbul3"/>
* {{flagicon|Italy}} [[ヴェネツィア]], イタリア<ref name="Istanbul3"/>
* {{flagicon|Poland}} [[ワルシャワ]], ポーランド<ref name="Istanbul3"/>
;[[アジア]]
* {{flagicon|Iran}} [[タブリーズ]], イラン
* {{flagicon|Kazakhstan}} [[アルマトイ]], カザフスタン
* {{flagicon|Jordan}} [[アンマン]], ヨルダン
* {{flagicon|Lebanon}} [[ベイルート]], レバノン
* {{flagicon|Thailand}} [[バンコク]], タイ
* {{flagicon|South Korea}} [[釜山広域市]], 韓国
* {{flagicon|Syria}} [[ダマスカス]], シリア
* {{flagicon|United Arab Emirates}} [[ドバイ]], アラブ首長国連邦
* {{flagicon|Vietnam}} [[ホーチミン市]], ベトナム
* {{flagicon|Iran}} [[エスファハーン]], イラン
* {{flagicon|Indonesia}} [[ジャカルタ]], インドネシア
* {{flagicon|Saudi Arabia}} [[ジェッダ]], サウジアラビア
* {{flagicon|Malaysia}} [[ジョホールバル]], マレーシア
* {{flagicon|Afghanistan}} [[カブール]], アフガニスタン
* {{flagicon|Pakistan}} [[ラホール]], パキスタン
* {{flagicon|Turkmenistan}} [[マル (都市)|マル]]
* {{flagicon|Kyrgyzstan}} [[オシ]], キルギスタン
* {{flagicon|Uzbekistan}} [[サマルカンド]], ウズベキスタン
* {{flagicon|People's Republic of China}} [[上海市]], 中国
* {{flagicon|Japan}} [[下関市]], 日本
* {{flagicon|Indonesia}} [[スラバヤ]], インドネシア
* {{flagicon|People's Republic of China}} [[西安市]], 中国
* {{flagicon|People's Republic of China}} [[広州市]], 中国<ref>http://www.ibb.gov.tr/tr-TR/Pages/Haber.aspx?NewsID=20463</ref>
* {{flagicon|PAK}} [[カラチ]], パキスタン
;[[アメリカ州|アメリカ]]
* {{flagicon|Argentina}} [[ブエノスアイレス]], アルゼンチン
* {{flagicon|Venezuela}} [[カラカス]], ベネゼエラ
* {{flagicon|Cuba}} [[ハバナ]], キューバ
* {{flagicon|USA}} [[ヒューストン]], アメリカ合衆国
* {{flagicon|Bolivia}} [[スクレ (ボリビア)|スクレ]], ボリビア
* {{flagicon|Mexico}} [[メキシコシティ]], メキシコ
* {{flagicon|Brazil}} [[リオデジャネイロ]], ブラジル
* {{flagicon|Canada}} [[トロント]], カナダ
;[[アフリカ]]
* {{flagicon|Egypt}} [[カイロ]], エジプト
* {{flagicon|Algeria}} [[コンスタンティーヌ]],アルジェリア
* {{flagicon|Sudan}} [[ハルツーム]], スーダン
* {{flagicon|Morocco}} [[ラバト]], モロッコ
* {{flagicon|Somalia}} [[モガディシュ]], ソマリア
}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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* [[サイト・ファーイク]] - イスタンブルを舞台とした小説を多数発表。
* [[サイト・ファーイク]] - イスタンブルを舞台とした小説を多数発表。
* [[ピエール・ロティ]] - 処女作の舞台
* [[ピエール・ロティ]] - 処女作の舞台

== 注釈 ==
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== 脚注 ==
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=== 脚注関連文献 ===
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* {{cite book|last=ʻAner|first=Nadav|year=2005|editor-last=Pergola|editor-first=Sergio Della|editor2-last=Gilboa|editor2-first=Amos|editor3-last=Ṭal|editor3-first=Rami|title=The Jewish People Policy Planning Institute Planning Assessment, 2004–2005: The Jewish People Between Thriving and Decline|publisher=Gefen Publishing House Ltd|location=Jerusalem|isbn=978-965-229-346-6|ref=harv}}
* {{cite book|last=Athanasopulos|first=Haralambos|title=Greece, Turkey, and the Aegean Sea: A Case Study in International Law|year=2001|publisher=McFarland & Company, Inc|location=Jefferson, N.C.|isbn=978-0-7864-0943-3|ref=harv}}
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* {{cite book|last=Schmitt|first=Oliver Jens|title=Levantiner: Lebenswelten und Identitäten einer ethnokonfessionellen Gruppe im osmanischen Reich im "langen 19. Jahrhundert" |year=2005|publisher=Oldenbourg|location=München|language=German|isbn=978-3-486-57713-6|ref=harv}}
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* [http://www.istanbulbulteni.com/ Istanbul Metropolitan Municipality: Istanbul Bulteni Magazine official website]

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2013年3月29日 (金) 16:31時点における版

イスタンブル
İstanbul
イスタンブルの風景
イスタンブルの風景
位置
イスタンブルとイスタンブル県の位置の位置図
イスタンブルとイスタンブル県の位置
の位置図
座標 : 北緯41度0分44.06秒 東経28度58分33.66秒 / 北緯41.0122389度 東経28.9760167度 / 41.0122389; 28.9760167
行政
トルコの旗 トルコ
  イスタンブル県
 市 イスタンブル
市長 Kadir Topbaş
公正発展党
地理
面積  
  市域 5,343 km2 (2,063 mi2)
標高 100 m (328 ft)
人口
人口 (2012年現在)
  市域 13,854,740人
    人口密度   2,593人/km2
  備考 [1]
その他
等時帯 東ヨーロッパ時間 (UTC+2)
夏時間 東ヨーロッパ夏時間 (UTC+3)
郵便番号 34010 - 34850(ヨーロッパ側)
80000 - 81800(アジア側)
市外局番 (+90) 212(ヨーロッパ側)
(+90) 216(アジア側)
ナンバープレート 34
公式ウェブサイト : http://english.istanbul.gov.tr/(英文)

イスタンブルトルコ語: İstanbul [isˈtanbul]、ラテン語: Constantinopolisコンスタンティーノポリス、英語: Istanbulギリシア語: Κωνσταντινούπολιςコンスタンディヌーポリ)はトルコ最大の都市で、トルコの経済、文化、歴史の中心地である。日本では一般に「イスタンブール」と呼ばれることが多い。人口は1,350万人を擁しバルカン半島では最大、ヨーロッパでは最大規模の都市圏 (enの一つで、イスタンブル市域の人口は世界の大都市の市域人口の上位に含まれている[1][2][3]。 イスタンブルはトルコに16ある大都市自治体[4]トルコ語: Büyükşehir, Anakent)の1つで 5,343 square kilometers (2,063 sq mi) の広大なエリアはイスタンブル県と同一の広がりを持ち、イスタンブルは同県の県都である[注釈 1]。同都市はトルコ北西部に位置し、マルマラ海黒海を結ぶ世界でも最も混雑する航路の一つであるボスポラス海峡を挟んで大陸間に股がった都市である。市域はボスポラス海峡を挟んでアジアアナトリア半島)側と西ヨーロッパトラキア地方)側両方に拡がり、西側の市域は金角湾で南北に分かれる[5]。2大陸にまたがる大都市であり、アジアの最も西にある都市でもある[6]。商業や歴史の中心はヨーロッパ側に広がり、住民の3分の1はアジア側に居住している[7]

サライブルヌ英語版の岬に紀元前660年にビュザンティオンとして創建され、現在では歴史上最も重要な都市の一つとしてイスタンブルは知られている。330年コンスタンティノープルとして再建されて以降およそ16世紀の間、ローマ帝国 (330-395)、ビザンティン (395-1204, 1261-1453)、ラテン帝国 (1204-1261)、オスマン帝国 (1453-1922) と4つの帝国の首都であった[8][9]。1453年にオスマン帝国により都市が征服されコンスタンティノープルの陥落が起こる以前のローマやビザンティンの時代はキリスト教発展の要であったが、征服後はイスラームの中心やオスマンのカリフの中心に変わった[10]。トルコ共和国がアンカラを新しい首都に制定したが、宮殿や帝国のモスクは今でもイスタンブルの丘に見ることが出来、イスタンブルの以前の中心的な役割を想起させる遺産となっている。イスタンブルは歴史上重要なシルクロードに沿った戦略的な場所に位置し[11]、ヨーロッパと中東への鉄道網と黒海と地中海を結ぶ唯一の航路は1923年のトルコ共和国の設立を差し引いても、幅広い人々を育むのに役立っている。戦間期には新しい首都のために見落とされたが、その後直ぐにイスタンブルはその傑出した部分の多くを取り戻している。アナトリア中から移住者がイスタンブルやその周辺に集まり居住地が広まり、1950年代以来人口は10倍に増加している[12][13]。20世紀後半には芸術祭が確立し、その間にインフラが改善され複合的な交通網が整備されて行った。

欧州文化首都であった2010年にはイスタンブルに約700万人の海外からの観光客が訪れ、世界で10番目に最もポピュラーな観光地であった[14]。イスタンブルの最大の呼び物は今でも残されている歴史の中心で、部分的にユネスコ世界遺産に登録されているが、文化やエンタテインメントの中心は市内の天然の良港であるベイオール英語版地区の金角湾周辺に見られる。イスタンブルは世界都市と見なされ[15]、多くのトルコの企業やメディアの拠点があり、トルコの国内総生産の4分の1以上を占めている[16]。 2012年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス人材文化政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第37位の都市と評価された[17]。 新しい活力と急速な経済成長にオリンピックを利用することを希望しイスタンブルは2020年夏季オリンピックの招致活動 (enを行っている[18]

呼称

古代のビュザンティオン(ビザンティオン)、コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)と同じ街である[19]。最初に知られている都市の名称はビザンティウムByzantium(ビザンティオン、Byzántion)でこの名称は紀元前660年頃に植民都市を創建したビザス英語版の名が元になっている[注釈 2][25]コンスタンティヌス1世の後、新しいローマ帝国の東の首都を330年に創建し都市は「コンスタンティンの都市」を意味するコンスタンティノポリス Constantinopolis(コンスタンティノープル Constantinople)と名付けられ、広く知られる名称となった。ギリシア語では現在、Κωνσταντινούπολη 「コンスタンディヌーポリ」と呼ばれている。ラテン語由来の名であるコンスタンティノポリスに基くが、綴りに若干の変化があり、読みも現代ギリシャ語のものとなっている。コンスタンティヌスは新ローマを意味する Nea Roma の名称を広めようとしたが、これは広く使われることはなかった[26]

コンスタンティノープルの名称は西洋ではトルコ共和国が建国されるまで最も広く使われた名称で、オスマン語ではコンスタンティニイェ Kostantiniyye (قسطنطينيه) はオスマン支配期に主に使われた名称である。それにも関わらずオスマン時代の都市を言い表す時、コンスタンティノープル Constantinople を使うことは今では歴史的には間違っていなくても政治的には正しくないとトルコ人により見なされている[27]。19世紀には都市の名称は外国人やトルコ人のいずれかによりいくつかのものが使われていた。ヨーロッパ人はコンスタンティノープルを市内全てを言い表すのに使っていたが、スタンブール Stamboul の名はトルコ人により使われており、金角湾とマルマラ海の間の城壁で囲まれた半島を言い表していた[27]。ペラ Pera(ギリシャ語では横切ってなどの意味)は金角湾とボスポラス海峡の間を言い表すのに使われていたがトルコ人はベイオール英語版を使っており今日でも使われている[28]。 イスラムの街やイスラムで満たされたを意味するイスラムボル Islambol は時折、イスタンブルを表す口語として使われオスマンが硬貨の一部にも刻印されているが[29]、これが現代の名称であるイスタンブルの前の名称であると信じることは誤りでイスラムボルの以前から存在しオスマンやムスリムにより都市が攻略される以前から存在していた[25]。 イスタンブル İstanbulトルコ語発音: [isˈtanbuɫ] 口語では [ɯsˈtambuɫ])の語源は一説に中世ギリシャ語の表現である "εἰς τὴν Πόλιν"(発音 [is tin ˈpolin])からで「都市で」や「都市に」を意味する[8]。これは当時、イスタンブル周辺部では唯一の大都市の地位を反映し、現代の人々が近くの都市の中心を「都心」"the City"と称するのと同じである。他のものではコンスタンティノープル Constantinople から進化し第一音節と第三音節が省略されたと言う見方もある[25]

現代のトルコ語ではイスタンブルの表記は İstanbul でドットが付いたİが使われ、トルコ語のアルファベット英語版ではドットの有無が区別される。また英語では第一音節の (Is) に強勢が置かれるが、トルコ語では第二音節の (tan) に置かれる[30]。 イスタンブル İstanbul は単独の都市の名称として1930年に公式に採用された[31][32]。イスタンブル出身者は İstanbullu(複数では İstanbullular)だが英語ではイスタンブライト Istanbulite が使われている[33]

リゴス

ガイウス・プリニウス・セクンドゥスによれば、ビザンティオンの最初の名称はリゴス Lygos であったとされる[34]。これはおそらく、半島近くの後に都市となる場所に位置したトラキア人の集落の名称かもしれない。(サライブルヌ英語版[35]

ビザンティオン

ビザンティオンByzantion (Βυζάντιον)、ラテン語化された名称ではビザンティウムByzantiumは紀元前667年にメガラからの入植者により創建された。名称自体はトラキア人かイリュリア人に由来すると考えられ、ギリシャ人の入植よりも前に遡る[35]。おそらく、トラキア人かイリュリア人の個人名であったビュザス英語版Byzasから来ており[36]:352ff、古代ギリシャの伝説ではメガラの入植者のリーダーで都市の名称の由来で創建者である伝説上の王を示している。ずっと後にはビザンティオン Byzantium の名称は、西洋ではその首都であった東ローマ帝国を言い表す名称として一般化した。この使い方を取り入れたのはドイツ人の歴史家ヒエロニュムス・ウルフ英語版で帝国が消滅した1世紀後のことである。帝国が存在した期間、ビザンティオンの使われ方は帝国そのものよりも街自体に限られていた。

アウグスタ・アントニーナ

アウグスタ・アントニーナAugusta Antoninaの名称は3世紀の短期間、街の名称として使われていた。この名称はローマ皇帝セプティミウス・セウェルス (193-211) により息子で後の皇帝であるカラカラのアントニヌスの名誉により命名されている[37]

新ローマ

コンスタンティヌス1世は330年5月11日に新しいローマ帝国の東の首都を創建する前に、ローマを部分的に手本とし街を根本的に建て直すとてつもないスケールの大きな建設計画を着手した。この期間の名称には新や第二のローマを意味する ἡ Νέα, δευτέρα Ῥώμη[38]やローマを愛するAlma Roma  Ἄλμα Ῥώμα, Βυζαντιάς Ῥώμη, ἑῴα Ῥώμη、東のローマ、ローマ・コンスタンティノポリターナなどがあった[36]:354

新ローマの用法はギリシャ人の作家により使われた時には元のローマとのライバル関係を強調する特に東西教会の分裂の文脈に向いて行った。新ローマは今でも公式にコンスタンティノープ総大主教英語版の肩書きの一部である[39]

コンスタンティノープル

コンスタンティノープルConstantinople(コンスタンティヌスの都市)の名称はコンスタンティヌス1世の名誉からすぐにより広く知られるようになった。ギリシャ語の語形ではΚωνσταντινούπολις、ラテン語の語形ではConstantinopolisであった。最初に公式に使われたのはテオドシウス2世 (408-450) 統治下であったことが実証されている[37]。主要な公式名称としてビザンティン時代を通して残り、20世紀初期まで西洋では一般的な名称として使われていた。コスタンティニエKostantiniyyeの異なった形も含めオスマン帝国でもトルコ共和国の出現まで使われていた[40]

他のビザンティンの名称

コンスタンティノープルConstantinopleの他にもビザンティンは幅広い名誉ある名称で呼ばれ、「女王の都市」(Βασιλὶς τῶν πόλεων) と呼ばれることもあった。しかし、一般的な話し言葉では最も広く使われる言い方は単に都市や都会を意味するポリスἡ Πόλις(現代のギリシャ語ではη Πόλη)である。この使われ方は今日でも口語のギリシャ語やアルメニア語(Պոլիս、西アルメニア方言英語版でボリス)の語法で後のトルコ名であるイスタンブルの元の一つでもある。

イスタンブル・コスタンティニエ

現代のトルコ語の名称はイスタンブルİstanbul発音 [isˈtanbuɫ])であるが、これは10世紀以来のものでトルコの典拠によれば表現の幅があるが最初にアルメニア語アラビア語で実証されている。これはギリシャ語の語形 "εις την Πόλιν" または "στην Πόλη" [istimbolin]「街へ」、「街で」[41]、"εἰς τὴν Πόλιν", "(eis) stin poli"(エス・テン・ポリン「都市に、町へ」)から取られ[8]、それ故これを基本にギリシャ語の用法では単に「都市」や「街」と呼んでいる。冠詞の一部分や他の接辞のギリシャ語の地名への結合はオスマン期以前では一般的なもので、ナヴァリノの代わりにアヴァリノ[42]、サティネスの代わりアティネスなどがある[43]。 似たような例には現代のトルコの地名でギリシャ語由来のものにはイズミットなどがあり、初期にはイズニクミット İznikmitニコメディアから、イズニクはギリシャのニカエアNicaeaサムスン (s'Amison = "se + Amisos")、İstanköyはギリシャの島コス島などがある。語頭のiの起こりはこれらの名称の古いギリシャ語の語形の一部を is- と一緒に反映しているか、部分的に第二の音挿入により、トルコ語音素配列構造を成している。İstanbulは1453年の征服前でさえ普通の話し言葉では一般的な名称であったが、オスマンの当局はコスタンティニエKostantiniyyeなど他の名称の公式の使用を特定の状況で好んでいた。故にKostantiniyyeは硬貨の鋳造に17世紀後半使われ、19世紀に再び使われている。

コンスタンティニエKostantiniyyeアラビア語: القسطنطينيةal-Qusṭanṭiniyah クスタンティニーヤ、オスマン語: قسطنطينيه Kostantiniyye コンスタンティニエ)の名称はイスラム世界で知られるようになった名称である。トルコ人に先立ってコンスタンティノポリスに接触したイスラム教徒たちの書いた史料では、9世紀にはこの街の名称であった。これは、アラビア語のコンスタンティノープル Constantinople の語形の翻訳借用でギリシャ語要素の-polisの代わりにアラビア語で「-の場所」を意味する語を最後に当てている。オスマンにより攻略された1453年以降、オスマントルコでは一番使われた公式名称で[44]、帝国が崩壊する1923年までのほとんどの期間使われていた。しかしながら、いくつかの時期にオスマンの権力者は他の名称を好んだ。オスマンの役所や裁判所ではKostantiniyyebe-Makam-ı Darü's-Saltanat-ı Kostantiniyyetü'l-Mahrusâtü'l-Mahmiyyeのような正式な文書で元の場所を表現する複雑なやり方の一部として使っていた[45]。19世紀、トルコの本の印刷では外国でコンスタンティノープルを使うのとは対照的に使われていたが、同時期にイスタンブルは公用語の一部としてオスマンの軍隊の高官 (İstanbul ağası) や都市の身分の高い行政官 (İstanbul efendisi) の肩書きの一部に使われていた[46]。 イスタンブルİstanbulや同じ名称の他のいくつかの異なった表現の名称も幅広くオスマンの文学や詩で使われた[37]

1923年のトルコ共和国の建国後はイスタンブル以外の別の名称はトルコ語では使われなり、1930年3月28日のトルコの郵便法ではトルコ当局は外国人に公式にこれまでの伝統的なトルコ語以外での名称(コンスタンティノープルやツァーリグラードなど)で街を言い表すの止める他、自分たちの言語でもイスタンブルを唯一の都市の名称として取り入れるよう求めた[47]。手紙や小包をイスタンブル"Istanbul"ではなくコンスタンティノープル"Constantinople" で送るとトルコの郵便当局により配達されることはなく、このことは世界的に新しい名称の施策が広まることに貢献した。

スタンボウル

スタンボウルStamboulやスタンブルStambulはイスタンブルİstanbulの語形の変わった種類で、イスタンブルのようにそれ自体の語形の頭に i- は無く、中世初期には最初に10世紀のアラビア語の典拠に実証され[48]、アルメニア語では12世紀にはそうであった。いくつかの初期の典拠にはギリシャ語のPoli(n)を元に同様なBulinの短い表現も単独で前述の文が無く実証されている[49]。この表現は現代のアルメニア語でも生きている。

スタンボウルStamboulは西洋の言葉でイスタンブルと同様に1930年代の新しいトルコの語形に置き換わるまで使われていた。19世紀から20世紀初期、西ヨーロッパやアメリカの典拠では良くコンスタンティノープルConstantinopleは大都市全体を言い表すのに使われていたが、スタンボウル Stamboul は中心部の歴史的な半島部分を言い表すのに用いられ、ビザンティン時代の城壁の内側 (Theodosian) を指していた[50][51]

イスラームボル

イスラームボルIslambol(多くのイスラム)やイスラムブルIslambul(イスラムの発見)はイスタンブルIstanbulへオスマンが1453年に攻略し新しいイスラムのオスマン帝国の首都しての役割を表現するため作られた民間語源の適応であった。イスラーム・ブール(「イスラムの地」という意味)を語源に想定する説もある[52]。最初に実証されたのは攻略直後で、現代の一部の作家たちはメフメト2世自身が付けたものとしている[37]。いくつかの17世紀のオスマンの典拠では、最も目立つものでエヴリヤ・チェレビが、当時の一般的なトルコでの名称として表現している。17世紀から18世紀、これは公式に使われていた。最初に使われた語は "Islambol" でアフメト3世の時代の1703年、貨幣の鋳造に使われた。

他のオスマンでの名称

オスマンと同時代の外国の人々は特に外交書簡でオスマン帝国の政府を特定の敬語で表現し、以下のようなものが含まれていた。

  • Dersaadetدر سعادت『歓喜の門』)
  • Derâliyeدر عاليه『崇高な戸』)Derはペルシャ語で戸に当たる語。
  • Bâb-ı Âlîباب العالی『荘厳な朝廷』)Babはアラビア語で戸に当たる語。
  • Pâyitahtپایتخت『王座の中心』)ペルシャ語で首都。
  • Asitaneآستانه)ペルシャ語からでスルタンの宮居又はオスマン帝国の中心の意味。(アラビア語: الأستانة)Āstāne-ye Sa‘ādat/Asitane-i Saadet(「幸福の宮居」)

歓喜の門、崇高な戸、荘厳な朝廷は文字通りオスマンのスルタン宮殿であったトプカプ宮殿でそこに位置した朝廷、それ故イギリスのホワイトホールや日本の霞ヶ関のようなオスマン帝国中枢を表す換喩であった。 ビザンティン帝国近隣の多くの人々は「大都市」や「皇帝の都市」、「ローマの首都」と言った概念の表現を使っていた。10世紀から12世紀の間、コンスタンティノープルは世界ではバグダードと並ぶ2つの大都市のうちの1つであった。

古ノルド語

中世のヴァイキングは東ヨーロッパでの拡大を通してヴァリャーグなどでビザンティン帝国との接点があり、古ノルド語ではミクラガルズMiklagarðrmikillは大きなや偉大な、garðrは街)後の ミクラガードMiklagardを使っていた。今日でもこの語はアイスランド語のミクリガルドゥールMikligarðurフェロー語のミクラガルドゥールMiklagarðurの語に残っている。

スラヴ諸語

スラヴ語派 では皇帝の都を意味するツァリグラドTsarigradCarigradの名称で呼ばれ、スラヴ語派の単語tsarカエサル君主(王)とgrad(都市)から来ている。キリル文字ではЦарьградで、これはおそらくギリシャ語の皇帝の街を意味するΒασιλέως Πόλις (Vasileos Polis) などからの翻訳借用である。この言い方は今でも時折、ブルガリア語で使われ一方でセルビア・クロアチア語ロシア語マケドニア語では懐古的である。セルビア・クロアチア語ではビザンティンやオスマン帝国の歴史的な首都を言う場合は今でも使われている。スロベニア語ではCarigradが現代の都市の別の名称で使われている。チェコ語など西スラヴ語群ではツァーリフラッドCařihradが19世紀まで使われていたが今では稀である。また、スラヴ語派からルーマニア語にツァリグラードŢarigradで借用されたが、コンスタンティノープルの方がはるかに広く使われた。

ペルシャ語・ウルドゥー語・アラビア語

クスタンティニーヤKustantiniyyahに並んで、ペルシャ語ウルドゥー語アラビア語など以外にも他のイスラム世界の言語での呼称はCesar(皇帝)を元にしたものが使われ、ペルシャ語やウルドゥー語ではKayser-i Zeminやアラビア語では民族名のRum(ローマ人)が、「ローマ人の大きな都市」Rūmiyyat al-kubra、「ローマ人の王座」Takht-e Rumがペルシャ語やウルドゥー語では使われたりする[49]

ヘブライ語

ヘブライ語では時折、クシュタンディナ (קושטנדינה) やクシュタンディナ・ラバティ (קושטנדינה רבתי) と呼ばれ、文字通り大きなクシュタンディナでまたは略してクシュタקושטאとも呼ばれ、コンスタンティニエが変化したものである。この使われ方は20世紀初期までユダヤ人の間で一般的であったが現代のイスラエルではこの使われ方はほとんど見られず、ヘブライ語でもトルコ語のイスタンブル (איסטנבול) が転写されている。

歴史

A stout cylindrical column in a courtyard in front of palatial arches of Islamic style
ビザンティオンアクロポリスで発見された今でも残っているビザンティオンの円柱。現在はトプカプ宮殿の敷地にある。

21世紀初めに考古学者により発見された紀元前7,000年に遡る新石器時代の遺物は、イスタンブルの歴史的な半島には以前考えられていたよりも前のボスポラス海峡が形成される以前から人が住んでいたことを示している[53]。 遺物の発見以前はフリギア人を含めトラキア人の部族がサイライブルヌに紀元前6,000年後半から住み始めたと言うのが従来の考えである[24]。アジア側の遺物は紀元前4,000年に遡る物とされ、カディキョイ英語版地区のフィキルテペFikirtepeで発見されている[54]。同じ場所は紀元前1,000年初めにはフェニキアの交易地点で、同様に紀元前660年頃に設立されたカルケドンの町があった[注釈 2]

しかしながら、イスタンブルの歴史は一般的に紀元前660年頃[注釈 2]ビザス英語版王の下メガラからの入植者が、ボスポラス海峡のヨーロッパ側に植民都市ビザンティオンを創建した時代に遡る。入植者は金角湾に隣接した初期のトラキア人の居住地であった場所にアクロポリスの建設を進め、生まれたばかりの都市の経済に勢いを与えた[55]。ビザンティオンは紀元前5世紀の変わり目に短期間アケメネス朝の支配を経験するが、ギリシャ人はペルシア戦争で取り戻している[56]。都市の開祖はギリシア神話海神ポセイドンとケロエッサの間に生まれた子ビザス英語版であり、彼は太陽神アポロンの協力を得て彼の名を冠した「ビュザンティオン」を建設したとされ、トラキア人の王による侵略から町を守り、妻ペイダレイアもスキタイの侵攻を防いだとも言われる[5]。ビザンティオンは デロス同盟とその後の第二アテナイ連合英語版の一部であったが、紀元前355年についには独立を得ている[57]。長いローマとの同盟関係の後、ビザンティオンは73年に公式にローマ帝国の一部となった[58]。ビザンティオンのローマ皇帝セプティミウス・セウェルスに対抗する敵対者 (enペスケンニウス・ニゲルの支持は大きな代償となり、2年にわたる包囲は都市を荒廃させた。195年に降伏している[59]

それにも関わらず、セウェルスは5年後にビザンティオンの再建を始め都市は回復し多くの取引はそれ以前の繁栄を上回った[60]

コンスタンティノープルの興亡

東ローマ帝国時代のヴァレンス水道橋

コンスタンティヌス1世は324年9月に実質的なローマ帝国全体の皇帝になった[61]。コンスタンティヌスは2ヶ月後に新しいキリスト教の都市にビザンティオンを置き換えるための都市計画を打ち出した。帝国の東の首都として都市は新ローマを意味するネア・ローマ英語版Nea Romaと名付けられたが、一番単純なコンスタンティノープルの名称が20世紀まで続いた[62]。6年後の330年5月11日にコンスタンティノープルはついにビザンティン帝国や東ローマ帝国の名称で知られる帝国の首都として宣言された[63]

この遷都にはいくつかの伝説があり、当初コンスタンティヌス1世はトロイに遷都しようと考えていたが夢での啓示を受けて変更した、カルケドンを予定し建設工事に取り掛かったがが道具を咥えてビュザンティオンに飛び去った、また夢に現れた老婆が美しい女性に変貌し、このように古い町ビュザンティオンを新生するよう求められたという[64]。また新都の城壁建設にも伝説があり、コンスタンティヌスが自ら槍を手に地面に線を引いて城壁の位置を指示したが、余りにも長く続くので従者が聞くと、コンスタンティヌスは「私の前を歩く御方がお止まりになるまでだ」と答えたという[64]

A crudely drawn map depicting a walled city on a peninsula with a park, a network of roads, and a scattering of buildings
1422年にクリストフォロ・ブオンデルモンティ英語版により作られた最古の現存するコンスタンティノープルの地図

コンスタンティノープルの創建はコンスタンティヌスの最も永続的な成果として、ローマの力の東進や街をギリシャ文化やキリスト教の中心にしたことにある[63][65]。多くの教会が街中に建てられ、その中にはアヤソフィアも含まれ、1,000年の間世界最大の大聖堂であり続けた[66]。 コンスタンティヌスにより着手された他の街の改良にはコンスタンティノープル競馬場の大改修や拡張が含まれ、何万もの観衆を収容し競馬場は市民生活の中心となり、5世紀や6世紀にはニカの乱を含め社会不安の出来事の中心であった[67][68]

コンスタンティノープルの位置はまたその存在が時の試練に耐えることを確実とした。多くの世紀、城壁や海岸により東やイスラムの進軍する侵略者からヨーロッパを守っていた[65]中世の大部分の間とビザンティン時代の後半、コンスタンティノープルはヨーロッパ大陸最大で最も裕福な都市で、当時の世界最大の都市であった[69][70]第4回十字軍の後、コンスタンティノープルの衰退が始まり第4回十字軍の間に略奪や占領があった[71]。コンスタンティノープルは後に正教会のビザンティン帝国を置き換えるために、カトリックの十字軍によって作られたラテン帝国の中心となった[72]。しかしながら、ラテン帝国は短命でビザンティン帝国は弱体化しながらも1261年に復活した[73]。コンスタンティノープルの教会や防衛力、基本的な公益事業は荒廃しており[74]、人口は8世紀の50万人から10万人へ減少していた[注釈 3]

アンドロニコス2世によって始められた様々な経済や軍事力の削減などの軍事の政策は、帝国を弱体化させ攻撃に対してより脆弱なままにした[75]

14世紀半ばオスマン・トルコ (enは小さな町や都市を攻略し、コンスタンティノープルへの供給路を断ちゆっくりと締め付ける戦略を始めた[76]。1453年5月29日に8週間にわたる包囲の後、ついにスルターンメフメト2世コンスタンティノープルの陥落[77]の勝者になりオスマン帝国の新しい首都として宣言された。この間、ビザンティン帝国最後の皇帝であったコンスタンティノス11世は殺されている。その後、スルターンはアヤソフィアへ赴きイマームシャハーダを命じ、壮大な大聖堂は帝国のモスクへと変わった[78]。(トルコやイスラム世界では「イスタンブルの開拓」または「イスタンブルの征服」(İstanbul'un Fethi) と呼ばれている。)預言者ムハンマドのハディース(言葉)で「コンスタンティンの町」を征服する司令官やその兵士たちが褒められているという伝説があり、歴代のイスラム教司令官がイスタンブルの征服を試みた。674年から678年に、ウマイヤ朝初代のカリフ、ムアーウィヤ時代から[79]1453年にオスマン帝国のメフメト2世までの間、イスラム教司令官により計15回の包囲が行われた。1453年にこの町を征服したオスマン帝国のメフメト2世はただちにエディルネから遷都し、イスタンブルは引き続き東地中海を支配する帝国の首都となった。

オスマントルコの時代

ドルマバフチェ宮殿
A lithograph depicting a building with a complex set of domes, arches, and towers on a deserted street.
スレイマニエ・モスクミマール・スィナンが携わったイスタンブルのモスクのうちの一つ。

コンスタンティノープルの陥落後、メフメト2世は直ちに街を復興するために試みた。モスクと病院、学校などを組み合わせた複合施設群を設立し、ローマ帝国の引いた水道(ローマ水道)を補修し、後のグランドバザールの前身となる屋根付きバザールを始めとする商業施設を建設して都市インフラを再興した。また、王宮としてトプカプ宮殿の建造を開始している[80]。この宮殿はその後も歴代スルタンによって増築が進められ、19世紀半ばまで王宮として帝国政治の中心となっていた。包囲の間都市から逃れていた人々の帰還を促し、ユダヤ教徒や被征服者のキリスト教徒ズィンミー(公認された異教徒)として一定程度の人権を保障して新都にそのまま住まわせる一方、アナトリア半島の諸都市からムスリム(イスラム教徒)の富裕者を強制的に移住させる政策をとったため、15世紀後半の50年間にイスタンブルは東ローマ帝国の末期には激減していた人口を大きく上回る大都市となった。また、スルターンはヨーロッパ中から首都に人々を招き入れ、オスマン期に持続した国際的な社会を築いている[81]

オスマンは急速に街をキリスト教の牙城からイスラーム文化の象徴に変化させた。ワクフは壮大な帝国のモスク、また度々隣接した学校や病院、ハンマムなどの公衆浴場の建設などに資金を供給するため設立された[80]。各街区には君主や大臣などの有力者が設立したモスクが造られ、イスラム都市の伝統に則ったモスクと公共施設が整備された。また、イスラーム教徒による差別と抑圧はあったものの東方正教アルメニア使徒教会教会ユダヤ教シナゴーグも数多く維持され、ムスリムのトルコ人のみならず、ギリシャ人アルメニア人ユダヤ人、そして西ヨーロッパ諸国からやってきた商人・使節など、様々な人々が住む多文化都市、東西交易の中心都市でもあった。1517年にオスマン家イスラム帝国の地位を宣言し、イスタンブルは4世紀にわたりオスマンのカリフ英語版の首都として続いた[10]。 1520-1566年のスレイマン1世の治世の時代、特に偉大な芸術と建築的偉業の時代であった。主要な建築家であったミマール・スィナンは市内のいくつかの象徴的な建築物に携わり、この間オスマンの芸術や陶器、イスラームの書法オスマンの細密画英語版が栄えた[82]。イスタンブルの全人口は18世紀までに57万人に達した[83]。19世紀初めの反乱の時代は進歩的な皇帝であったマフムト2世の高まりに導かれ、政治改革が生じ新しい技術の街への導入が認められ[84] この時代に金角湾に橋が架けられた[85]。1880年代にイスタンブルはヨーロッパの鉄道網と結ばれ[86]、1883年に運行を開始したオリエント急行は、1888年にイスタンブルへの直接乗り入れを開始している。これにより、西ヨーロッパとイスタンブルは直接結ばれることとなった[87]。安定的な水道や電気、電話、路面電車など近代的な施設が他のヨーロッパの都市に比べ後であるが、イスタンブルに後の数十年間にわたり徐々に導入されていった[88]。それでも、近代化への取り組みはオスマン帝国の衰退英語版を阻止するのには十分ではなかった。

ガラタ塔の展望台から望むイスタンブル市街の風景。1890年のオスマン帝国末期の写真

20世紀以降から現代

20世紀初め、青年トルコ人革命により廃位されたアブデュルハミト2世や一連の戦争は病んでいる帝国の首都を悩ませた[89]。これらの第一次世界大戦の終わりはイギリスやフランス、イタリアによるコンスタンティノープルの占領英語版の結果となった。遂にはオスマン帝国最後の皇帝であったメフメト6世が1922年11月に亡命し、翌年ローザンヌ条約によりコンスタンティノープルの占領は終わり、アンカラのトルコ大国民議会でムスタファ・ケマル・アタテュルクはトルコ共和国の建国を宣言し[90]共和国が認められた[91]。共和国の初期の頃、オスマンの歴史から新しい世俗的な国を遠ざけるためイスタンブルはトルコの首都の選択から外されアンカラが支持された[92]。しかしながら、1940年代後半から1950年代初めにイスタンブルは大きな構造変化を経験し、新しい公共広場や大通り、道路が市内中で建設され、時には歴史的な建築物が犠牲となった[93]。アナトリアの人々が膨張するイスタンブルの郊外に建設された新しい工場の雇用を見付けるため市内に移住したため、1970年代に急増が始まった。都市のこの突然の人口の増大は大規模な住宅開発の需要の要因となり、以前の中心部から離れた村や森はイスタンブルの大都市圏に飲み込まれた[94]

地理

イスタンブル市街の衛星写真。左がヨーロッパ、右がアジアで、両者の間を隔てるのがボスポラス海峡。海峡の南がマルマラ海で、北が黒海。マルマラ海の北岸、ヨーロッパ側に見える三角形の半島がイスタンブル旧市街で、海峡から旧市街に切れ込んだ海が金角湾。この写真から、旧市街から城壁や海を越えて市街地が拡大していることがよく分かる。

イスタンブルはトルコ北西部マルマラ地方に位置し、5,343 square kilometers (2,063 sq mi) の範囲を占めている[注釈 1]。ボスポラス海峡はマルマラ海黒海を結び市街を歴史や経済の中心であるヨーロッパのトラキア側とアジアのアナトリア側に分けている。さらに市街は金角湾により分けられ、以前のビザンティンやコンスタンティノープルが創建された半島は天然の港に囲まれている。マルマラ海やボスポラス海峡、金角湾の交わる辺りが今日のイスタンブルの中心で数千年の間攻撃から街を守って来ており、まだ街の景観の特徴として良く残されている[65]

A high concentration of fault lines in northwestern Turkey, where the Eurasian and African plates meet; a small number of faults and ridges also appear under the Mediterranean
トルコ西部の断層は丁度、イスタンブルの南西に集中しマルマラ海とエーゲ海の下を通っている。

イスタンブルの市章のモデルにもなっているローマの七丘をモデルとしたイスタンブルの七丘英語版は歴史的な半島を特徴付け、それぞれの頂上には帝国のモスクがある。これらの丘の最も東のものはサライブルヌの上のトプカプ宮殿の場所である[99]。金角湾の反対側から上がると、別の円錐の丘で近代的なベイオール地区が位置している。地形のためにベイオールの建物はかつて斜面を保った擁壁の助けを借りて建てられ、道は階段の形で配置された[100]。アジア側に位置するユスキュダルでは地形が徐々にボスポラス海峡沿岸の下方に延びるとともに、同じような丘陵地の特性を示すが、シェムシパシャŞemsipaşaやアヤズマAyazmaでは景色がより急峻な岬に似ている。イスタンブルで一番海抜が高いのはチャムジャの丘英語版Büyük Çamlıca Tepesiで 288 meters (945 ft) である[100]

イスタンブルは北アナトリア断層の近くに位置し、アフリカプレートユーラシアプレートの境界に近い。この断層地帯は北アナトリアからマルマラ海にかけて走り、これは都市の歴史を通していくつかの甚大な震災と関連している。甚大な震災の中には1509年イスタンブル地震英語版が含まれこの地震による津波は城壁を超え市街を破壊し、10,000人が犠牲になった。より最近ではイズミット近くを震源とする1999年のイズミット地震で18,000人が犠牲となり、イスタンブル郊外の1,000人も含まれている。イスタンブルの人々はイスタンブルの急速な人口増加に対応するために最近建設された数千の住宅が正しく建設されていない可能性があり、さらに壊滅的な震災が都市で発生することを危惧している[101]。地震学者は2030年までにマグニチュード(モーメントマグニチュード)7.6かより大きな地震がイスタンブルで起こる可能性が60%以上であると言っている[102][103]

気候

イスタンブルの気候は改訂されたケッペンの気候区分によれば地中海性気候 (Csa) と温暖湿潤気候 (Cfa) の境界にあたり、夏の2ヶ月間だけ40mm以下の降水量のため亜熱帯か地中海性の気候か単独で分類されるのが妨げられている[104][105]。しかしながら、広大な市域や多様な地形、海辺の場所などイスタンブルでは微気候英語版が見られる。市街の北部は海洋性気候で表されるが、これは黒海からの湿気や比較的高い植生の密度による。市街南部の人口密集地の気候は暖かく、湿度の影響を受けにくい[106]

Skyscrapers, both near and far, soar above a dense layer of fog that keeps the ground hidden from view.
レヴェント英語版地区を覆う霧。朝によく発生する。

実際、イスタンブルの気候の顕著な特徴の一つに持続的な高湿度があり、湿度は80%に達しほとんどは朝である[107]。これらの気象条件により霧はごくありふれたもので、市の北側や中心部から離れた場所ではより多い[106]。特に深い霧はボスポラス海峡を含め地域の交通を混乱させ、秋や冬の月に継続的に起こり湿度が高いまま午後まで残る[108][109][110]。高湿度の条件と霧は夏の月の間は昼までに解消されるが、長引いた湿度は夏の高い気温に不快な悪影響を与える[107][111]。夏の数ヶ月間の最高気温の平均は29℃程度で、降雨は珍しく6月から8月にかけて測定可能な降水量は15日程度だけである[112]。しかしながら、低い降水量にもかかわらず夏の月の期間、雷雨は高く集中している[113]。 冬のイスタンブルは地中海盆地周辺の他のほとんどの都市と比べると冷涼で最低気温の平均は4-5℃である[112]。黒海からの湖水効果雪はよくあり、予測するのが難しく霧と共に厄介なものになる可能性があり、都市のインフラを混乱させる[114]。春や秋は穏やかであるが、しばしば雨が降ったり変わり易い北西からの冷たい風や南からの暖かい突風で、同じ日に激しい気温変化を引き起こす[111][115]

イスタンブルの年間降雨日は平均で115日で、年間降水量は 852 millimeters (33.5 in) である[112][116]。極値は最高気温の記録は40.5℃、最低気温の記録は-16.1℃をそれぞれ観測している。1日当たりの降水量の記録は 227 millimeters (8.9 in) で、1日当たりの降雪量の記録は 80 centimeters (31 in) である[117][118]

イスタンブル (1970–2011)の気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平均最高気温 °C°F 9.3
(48.7)
9.7
(49.5)
12.1
(53.8)
17.0
(62.6)
22.1
(71.8)
26.9
(80.4)
29.4
(84.9)
29.2
(84.6)
25.5
(77.9)
20.2
(68.4)
15.2
(59.4)
11.2
(52.2)
18.98
(66.18)
平均最低気温 °C°F 4.2
(39.6)
4.0
(39.2)
5.5
(41.9)
9.3
(48.7)
13.5
(56.3)
18.0
(64.4)
20.4
(68.7)
20.5
(68.9)
17.4
(63.3)
13.6
(56.5)
9.3
(48.7)
6.2
(43.2)
11.83
(53.28)
降水量 mm (inch) 100.9
(3.972)
80.9
(3.185)
69.6
(2.74)
45.4
(1.787)
35.5
(1.398)
37.5
(1.476)
39.0
(1.535)
46.3
(1.823)
62.9
(2.476)
100.7
(3.965)
108.6
(4.276)
124.7
(4.909)
852
(33.542)
平均降水日数 (≥0.1 mm) 15.6 14.2 11.8 10.7 7.3 5.4 3.7 4.0 5.6 10.2 11.2 15.4 115.1
平均月間日照時間 68.2 87.6 133.3 180.0 251.1 285.0 319.3 288.3 228.0 158.1 99.0 68.2 2,166.1
出典:Turkish State Meteorological Service[112][116] (all exc. rain data: 1970–2011; rain data: 1970–2010)

都市景観

ファティ英語版地区はオスマンに征服されるまでガラタのジェノヴァ共和国の要塞がある街全体と一致している。ジェノヴァの要塞は19世紀には街の北側へ市街地を拡大するため大部分が取り壊され、唯一ガラタ塔だけが残っている[119]。ガラタは現在の行政区ではベイオール英語版地区に含まれ、タクスィム広場周辺部はイスタンブルの商業や娯楽の中心地となっている[120]

ドルマバフチェ宮殿はオスマン期の統治の中心で、ベイオール北のベシクタシュ地区にある。そこを越えた場所にあるイニョニュ・スタジアムはトルコでは最古のスポーツクラブであるベシクタシュJKが本拠地としている[121]。 以前は村であったオルタキョイ英語版はベシクタシュ地区内にあり、オルタキョイモスク英語版の名称にも含まれボスポラス海峡に沿った第1ボスポラス橋近くに位置する。ボスポラス海峡に岸に沿って並んだ北側のヤリィ英語版は豪華なシャレー英語版の邸宅は19世紀に貴族やエリート階級の夏の離宮として建てられた[122]。さらに内陸や市内の環状道路の外側にあるレヴェント英語版マスラクはイスタンブルの重要な経済の中心である[123]

Two- and three-story colored houses with docks and balconies, built directly on the edge of the water
もともとはイスタンブルの郊外でヤリィ英語版と呼ばれる邸宅がボスポラス海峡沿いに建ち並び、現在ではイスタンブルの高級地区の一部。

オスマン期、ユスキュダルカドゥキョイはイスタンブルの郊外で、駐屯地や海辺の別荘、庭園がある静かな場所であったが20世紀の後半になるとアジア側も急速な都市化を経験し、市内の他の住宅地区と比較して後に開発されたこの地区はより良いインフラと都市計画に至っている[7]。ボスポラス海峡のアジア側の多くは経済や商業的な中心のヨーロッパ側の郊外として機能し、市内の人口の3分の1を占めるが雇用は4分の1を占めるだけである[7]。20世紀のイスタンブルの急速な成長の結果、市内の相当な部分でゲジェコンドゥ(一夜建て)と呼ばれる不法建築物が構成されている[124]。現在では徐々にいくつかのゲジェコンドゥが占める地区は取り壊され、現代的な大規模住宅群に置き換わって来ている[125]

イスタンブルには他の大都市のように主要な都市公園はないが、多くの緑地が広がっている。ギュルハーネ公園英語版ユルドゥズ公園英語版はもともとトプカプ宮殿やユルドゥズ宮殿などイスタンブルの2つの宮殿の土地に含まれていたが、トルコ共和国になり初期の10年間で公共の公園に利用されるようになった[126]フェテヒ・パシャ・コルス英語版はアナトリアのボスポラス橋に隣接したユルドゥズ宮殿反対側の丘の斜面に位置している。ヨーロッパ側に沿ったファティ・スルタン・メフメト橋に近いエミルギャン公園英語版はもともとはオスマンの指導者の私有地に属しており、47haの公園内には多様な植物があり、2005年以来毎年チューリップ祭が催されている[127]。イスタンブルっ子 (Istanbulites) に夏の間、ポピュラーな場所にはベオグラードの森英語版が含まれ市の北縁の 5,500ヘクタール (14,000エーカー) を占めている。森林はもともとビザンティンやオスマンの時代に市内に水を供給するための貯水池として使われ今でも残っている[128][129]

建築物

A reddish building topped by a large dome and surrounded by smaller domes and four towers
元々は大聖堂で後にモスクに変わったアヤソフィアは現在は博物館。6世紀に建てられる。

イスタンブルは主としてビザンティンやオスマンの建築物で知られているが、しかしその建物はそれ以前に街を支配した様々な人々や帝国を反映している。例えば、ジェノヴァやローマの建築はイスタンブルではオスマンに相対する物として見ることが出来る。古代のギリシア建築は何も残らなかったが、ローマ建築はより耐久性があることが証明されている。コンスタンティノープル競馬場(ヒッポドローム)からのオベリスクは今でもスルタンアフメト広場で見られ、ヴァレンス水道橋の一部の区間は4世紀後半に建てられたが比較的手付かずでファティ地区の西縁に残っている[130]コンスタンティヌスの円柱英語版は330年に新しいローマ帝国の首都を記すため建てられたが、ヒッポドロームからそう遠くない場所に今でも建っている[130]

初期のビザンティン建築は古典様式のローマのドームやアーチをモデルとし受け継いでいたが、聖セルギウス・バッカス教会英語版(リトルアヤソフィア)ではこれらの要素に改良がなされた。イスタンブルで現存する最古のビザンティン建築は廃墟ではあるけれど後にイムラホルモスクに転換された454年に建てられたストゥディオス修道院英語版である[131]。1261年にコンスタンティノープルが奪回されるとビザンティン様式は今でも現存する最も重要なコーラ教会パンマカリストス教会英語版に拡大している。それでも、イスタンブルで最も象徴的なビザンティン様式の建築物の頂点の一つはアヤソフィアで、一番上のドームは直径31mあり[132]、アヤソフィアはモスクに変わる前は1,000年以上にわたり世界最大の大聖堂で、現在では博物館になっている[66]

イスタンブルに現存する最古のオスマン建築にはアナドル・ヒサル英語版ルメリ・ヒサルなどの城塞が含まれ、コンスタンティノープルの市街をオスマンが包囲する際の助けとなった[133]。4世紀の間にわたって、オスマンは高くそびえるモスクや華麗な宮殿を建築しいつまでも残るイスタンブルの印象的な街並を作って行った。最大の宮殿であるトプカプ宮殿は内部のバロック様式のハレムから新古典主義建築エンダルン学校英語版(図書館)など多種多様な建築様式が含まれている[134]オスマン帝国のモスク英語版にはスルタンアフメト・モスク(ブルーモスク)やスレイマニエ・モスクイェ二モスク英語版が含まれ、これら全ては16世紀から17世紀にオスマン帝国の隆盛期に建てられている。後の世紀、特にタンジマートの改革期にはオスマン様式の建築物はヨーロッパ様式のものに変わっている[135]イスティクラル通り英語版周辺の地区は壮麗なヨーロッパの大使館や新古典様式やネオルネッサンス建築アール・ヌーヴォー建築の通りで満たされている。ベイオールの建築物は教会や店舗、劇場、公的な建物であるドルマバフチェ宮殿などが含まれる[136]

行政

A map depicting districts, squeezed between two bodies of water; farther districts are very large compared to those clustered in the center.
イスタンブルの市街はボスポラス海峡に沿った中心部から遠くに伸びる。(地図の上部が黒海で下部がマルマラ海)

2004年以来、イスタンブルはトルコでは2つある市域と県域が同一の範囲で広がる都市[137]の1つである[138]。イスタンブルはイスタンブル県の県都と見なされ、イスタンブル大都市自治体 (MMI) により統治され39の都市行政区に分けられている[注釈 1]

現在の都市機構は19世紀のタンジマート期の改革に遡り、それ以前はカーディーと大宰相の後援の下、イマームにより都市を率いていた。フランスの都市をモデルに、宗教的な仕組みは市長とイスタンブル中のミレット制の代表者で構成された議会に置き換わった。ベイオールは市内では最初の自らの首長と議会を有する地区であったが、議員はミレットの代表者の代わりに地区に長年住む住民であった。オスマン帝国憲法以後、法律が制定されこの仕組みは市全体に拡大され20のパリの行政区を模範としていたが、1908年まで全ては実行されておらずイスタンブルは9つの地区で構成された行政区として宣言された[139][140]。この仕組みは belediye(自治体)と名称を変えてトルコ共和国建国後も続いたが、1957年にこの自治体は解散した[96][141]。イスタンブルを含めトルコの人口集中地区に隣接した小さな集落は1980年代初期にそれぞれ主要都市に併合され、その結果大都市の自治体となった[142][143]

イスタンブル大都市自治体の意思決定機関は、地区議会から選ばれた議員による市議会である。市議会は予算管理やインフラの維持、博物館や主要な文化センターの監督など市全体の問題を担当している[144]。市政府は「強力な市長と弱い議会」のアプローチの下で運営されるため、議会の指導者、市長は迅速な意思決定を行う権限を有しているがしばしば透明性は犠牲にされる[145]。市議会は大都市行政委員会により助言されるが、委員会もまた自らの意思決定を行う限られた権限を有する[146]。全ての委員会の代表者は市長や議会により任命される[146][147]

A mid-rise glass-paned office building, with an array of Turkish flags in the front.
ファティ地区にある1953年に建てられたイスタンブル市庁舎

一方、地区議会はそれぞれの地区内の廃棄物管理や建設計画に関して主に責任がある。それぞれの地区は独自の予算を有するが、市長には地区の意思決定を再検討する権利がある。区長を含むすべての地区議会の議員の5分の1はそれぞれの地区の代表として市議会の議員として選ばれる[144]。全ての地区議会と市長を含む市議会の議員は5年ごとの選挙により選出される[148]。 2004年以来、公正発展党カディール・トプバシュ英語版がイスタンブル市長を務めている[149]

イスタンブル大都市自治体とイスタンブル県は同等の管轄区域を持つが、いくつかの権限は県政府に残されている。イスタンブル大都市自治体に似て、イスタンブル県は政府から任命された知事[150]、民主的に選出された意思決定機関である地方議会と任命された行政委員会がある。自治体レベルで行政委員会が反映され、県行政委員会には、大臣や部門長が含まれ県議会に助言を行っている[147][151]。県行政の役割は学校や住宅、政府の建物、道路の建設や維持、芸術、文化、自然環境保全や推進に限定されている[152]。フセイン・アヴニ・ムトゥルHüseyin Avni Mutluは2010年5月以来、イスタンブル県の県知事である[153]

統計

人口推移
トルコ共和国建国以前 トルコ共和国建国以後
人口 人口 ±%
100 36,000 1924 500,000
361 300,000 1927 680,000 +36.0%
500 400,000 1935 741,000 +9.0%
7th c. 150–350,000 1940 793,000 +8.4%
8th c. 125–500,000 1945 860,000 +8.4%
9th c. 50–250,000 1950 983,000 +14.3%
1000 150–300,000 1955 1,258,000 +28.0%
1100 200,000 1960 1,466,000 +16.5%
1200 150,000 1965 1,742,000 +18.8%
1261 100,000 1970 2,132,000 +22.4%
1350 80,000 1975 2,547,000 +19.5%
1453 45,000 1980 2,772,000 +8.8%
1500 200,000 1985 5,475,000 +97.5%
1550 660,000 1990 7,620,000 +39.2%
1700 700,000 1995 9,260,000 +21.5%
1800 570,000 2000 10,923,000 +18.0%
1850 785,000 2005 12,061,000 +10.4%
1914 1,125,000 2010 13,256,000 +9.9%
Sources: Chandler 1987, Morris 2010, and Turan 2010
Pre-Republic figures estimated[注釈 3]

歴史の大半を通じてイスタンブルは世界の大都市の中に位置付けられてきた。500年までにはコンスタンティノープルはローマを超え40万から50万の人口を擁していた[155]。コンスタンティノープルは歴史的な大都市であるバグダード長安を押し退け、13世紀までには世界最大の人口を抱える都市に位置していた。世界最大の都市には戻らなかったものの、コンスタンティノープル陥落後も19世紀初めにロンドンが上回るまで、ヨーロッパ最大の都市であった[156]。今日でもモスクワと並びヨーロッパ最大の都市集積を形成している[注釈 4]

トルコの統計機関はイスタンブルの人口は2011年12月31日現在13,483,052人と推計しており、トルコ最大の都市を形成しトルコの全人口の18%を占めている[1]。広大な面積のためイスタンブルは世界の市域人口の順位でトップ5に含まれているがこれは都市圏と同等と考えられ、本来の市街人口は大体15位以下である[2][158]。イスタンブルの人口は年間3.45%増加しており、OECDの78の大都市圏の中でも最も高い位置にある。第二、第三の位置を占めるOECDの大都市圏もイズミルやアンカラなどトルコの都市で、この高い人口増加率はトルコの全国的な都市化を反映している[16]。イスタンブルは特に20世紀後半に急速に成長し、1950年から2000年の間の半世紀に人口は10倍になった[12]。人口の急増は市域の拡大から来ており、特に1980年から1985年にかけては人口は2倍になっている[96]。著しい成長がありそれは未だにあり、大部分は住環境の改善や職を求めるトルコ東部からの移住者により勢いが与えられている。イスタンブルの多くの住民は7つの北部や東部の県を出自としているが、イスタンブルのその人口はそれぞれの地方の人口を超えている。とくにイスタンブルの50万人を数える住民はスィヴァス県カスタモヌ県の人口を超えている[13]。 イスタンブルの人口に占める外国人の割合は僅かで、2007年現在42,228人であった[159]

28%の市民だけが元からのイスタンブルの出身である[160]

イスタンブルの人口密度は2,523人/km2でトルコの人口密度の102人/km2を遥かに超えている[161]。人口密度が高い傾向にあるのは北西部や西部、ヨーロッパ側に位置する南西部の市中心部である。最も人口密度が高いのはアジア側の地区であるユスキュダルである[13]

宗教・民族

A building with six minarets, one central dome, four semi-domes and numerous small domes.
スルタンアフメト・モスクはイスタンブルでは最大で、トルコ政府宗教局英語版によりイスラームの祝祭日に祈りが主導される。

イスタンブルは多くの歴史を通じて国際的な都市であったが、オスマン帝国の終わり以来均質化されてきている。それでもトルコの少数民族のほとんどは集中してイスタンブルに残っている。トルコ国内やイスタンブルの大多数の人たちは自分たちをムスリムと見なし、より明確にはスンナ派の信徒である。ほとんどのスンナ派の信徒はハナフィー学派を信奉し、約10%のスンナ派の信徒はシャーフィイー学派を信奉している。450万人のトルコ人の非スンナ派を数え、これらはアレヴィー派である。トルコ国内のアレヴィー派の3分の1はイスタンブルに居住している[160]スーフィズムのような神秘主義はトルコ共和国の建国後、公式に禁止されたが今でも多数の信者を誇っている[162]

A building with several domes, large and small, in front of a courtyard with a smaller standalone structure
エユップスルタンモスク英語版アブ・アイユブ・アル・アンサリ英語版の宮殿は巡礼者にはポピュラーな場所[163]

コンスタティノープル総主教英語版は6世紀以来、総主教に定められ3億人の正教会信徒の指導者として広く見なされている[164]。1601年以来、総主教はイスタンブルの聖ゲオルギオス大聖堂を基盤にしている。19世紀に入るとイスタンブルのキリスト教徒はギリシャ正教会アルメニア教会いずかれの信徒である傾向があった[165]。1923年のトルコとギリシャの住民交換や1942年のヴァルリク・ヴェルギシ英語版(富裕税)、1955年のイスタンブル暴動英語版など20世紀の多くの出来事により、フェネルサムティア英語版を中心としていたギリシャ人の人口はかなり減少している。1923年には13万にも居たイスタンブルのギリシャ人は21世紀初めには3,000人に減少している[166][167]

トルコのアルメニア人英語版の人口はアルメニア人虐殺により部分的な減少を見たが、最近のアルメニアからの移民により戻って来ている。1913年には164,000人のアルメニア人がイスタンブルに居たが今日では50,000から70,000人のアルメニア人が居る[168]

最大の少数民族はクルド人コミュニティで、トルコ東部や南東部を元にしている。市内のクルド人の存在はオスマン時代初期に遡るが[169]、イスタンブルへのクルド人の流入は1970年代後半のクルド・トルコ紛争英語版クルディスタン労働者党により加速し始めている[170]。200万から400万人のクルド人がイスタンブルには居住し、イスタンブルは世界の他のどの都市よりもクルド人が住んでいることを意味している[171][172]

ボラト英語版地区はかなりのセファルディムコミュニティが暮らしており、最初に形成されたのはスペイン異端審問の時代に遡る[173]ロマニオットアシュケナジムはセファルルディムよりも前にイスタンブルに同様に居住していたが、その割合は減っており今日ではアシュケナジムはイスタンブルのユダヤ人のほんの1%だけである[174][175]。イスラエルへの移住によりユダヤ人の人口は全国的に減少し、1950年の100,000人から2005年には18,000人に減少している。大部分はイスタンブルかイズミルに居住している[176]レヴァンティンはオスマン期にガラタに居住したカトリック教徒で、19世紀から20世紀初期のイスタンブルの文化や建築を形作るのに重要な役割を担った。彼らの人口は減っているが今でも少数が市内に残っている[177]

経済

A half dozen skyscrapers interspersed among low- and mid-rises, with open expanse visible in the background
レヴェントのビジネス地区にはイスタンブルの高層ビルが林立する。

2008年現在のイスタンブルのGDPは1,820億ドルで、世界の都市圏の域内総生産では34位に付けている[178]。イスタンブルはトルコ国内のGDPの27%を占め、国内産業労働力の20%が都市に存在する[16][179]。1人当たりのGDPで70%、生産性で50%それぞれ国内平均を上回っており一つには高付加価値に集中した生産活動が要因である。多くの人口とトルコ経済への高い貢献からイスタンブルはトルコの国税の5分の2を担っている[16]。税には30人のイスタンブルを本拠とする億万長者も含まれ、この数は世界の都市で5番目に多い人数である[180]。 都市の大きさが想像されるように、イスタンブルではオリーブオイル、タバコ、輸送機器、電機など様々な製品を生産し多様な産業経済を擁している[179]。高付加価値の生産活動への集中があるにも関わらず低付加価値の生産部門もかなりを占め、イスタンブルのGDPに占める割合は26%だが市の合計出荷額の5分の4に相当している[16]。2005年にイスタンブルに本拠地を置く企業の輸出総額は 41,397,000,000ドルで、輸入総額は69,883,000,000ドルであった。これはトルコ全体の合計にそれぞれ輸出で57%、輸入で60%を占めている[181][182]

イスタンブルはトルコでは唯一の資本市場であるイスタンブル証券取引所を有する。もともとは1866年にたオスマン証券取引所として設立されたが、その重要性は1930年代の世界大恐慌により減少した。一連のトルコ政府の金融自由化計画により1986年に現在の形で再編成されている[183]。19世紀から20世紀初期の間、ガラタのバンカラル・ジャデッシ英語版Bankalar Caddesi(銀行大通り)はオスマン帝国の金融センターでオスマン証券取引所もそこにあった[184]。バンカラル・ジャデッシはイスタンブルの金融地区として1990年代まで続き、トルコのほとんどの銀行は本社をモダンなビジネス中心地区であるレヴェントやマスラクに移転している。1995年にイスタンブル証券取引所は現在のサルイエル英語版イスティニエ英語版地区に建物を移転している[185]

A large ship passes underneath a suspension bridge and behind a small mosque with two towering minarets.
黒海とマルマラ海を結ぶボスポラス海峡は世界でも繁忙な航路の一つ。左側がボスポラス橋、右側がオルタキョイモスク。

現在、石油が豊富な黒海と地中海を結ぶ唯一の海のルートであるボルポラス海峡は世界でも混雑した航路の1つで、1年間で2億トン以上の原油が通過しており交通量はスエズ運河の3倍に上る[186]。混雑を緩和するため、新たな運河が街のヨーロッパ側に海峡と並行してイスタンブル運河英語版として知られる運河を建設することが提案されている[187]

イスタンブルにはハイダルパシャ港英語版、アンバルリ港Ambarlı、ズィーティンブルヌ港Zeytinburnuの3つの大きな港の他にいくつかの小さな港や石油ターミナルがボスポラス海峡やマルマラ海沿いに立地している[188][189]。ハイダルパシャ港はボスポラス海峡の南東に位置し、2000年代初めまでイスタンブル最大の港であった。ハイダルパシャ港からアンバルリ港へ運営がシフトして以来、ハイダルパシャ港は容量以下で運営され港を閉鎖する計画もある[190]

2007年現在、アンバルリは都心の西端に位置し年間150万TEUの取扱能力があり地中海沿岸では4番目に大きな貨物ターミナル港である。一方のハイダルパシャ港の取扱能力は354,000TEUである[191][192]

ズィーティンブルヌ港は自動車道路やアタチュルク国際空港に近いことから利点があり[193]、都市の長期計画で全てのターミナルと道路、鉄道網との相互の接続性を必要としている[194]

イスタンブルは著名な観光地として観光客数が増加しており、2000年には240万人の外国人観光客が訪れ2010年には700万人の外国人観光客が訪れており世界で10番目に多くの観光客が訪れる都市である[14][195]。イスタンブルはトルコの外国人観光客の4分の1を受け入れ、トルコではアンタルヤに次ぐ国際的なゲートウェイとなっている。イスタンブルの観光業界はヨーロッパ側に集中し、市内の90%以上のホテルはヨーロッパ側に立地している。低中級クラスのホテルはサライブルヌ英語版に立地する傾向があり、ハイエンドのホテルは金角湾北側の歓楽街や金融センターに立地する。イスタンブルには70の博物館があるが、もっとも観光客が訪れのはトプカプ宮殿博物館とアヤソフィアで毎年3,000万ドルの収益をもたらす。市の環境マスタープランでは17の宮殿と64のモスク、49の教会はイスタンブルで歴史的に重要なものであると言及している[196]

所得分配はイスタンブルでは公平ではなく、20%の最高所得層が64%の資産を利用し20%の最低所得層が4%の資産を利用している[197]

金融

バンカラル・カデッシはオスマン期のイスタンブルの金融の中心。右側は1892年に完成したオスマン中央銀行の本店の最初の建物。

イスタンブルは1923年にアンカラが政治的な首都になってからも常に「金融の首都」である。1980年代の特定の市場開放はさらにこの地位を強化した。1986年初め発足したイスタンブル証券取引所 (ISE) は普通株、国債、短期国債、収益分配証明書、債券、民営化の管理で発行される債券と社債取引、夜間の業務を行うために設立されたトルコでは唯一の証券取引所である[198]

金融地区のマスラク

1993年にイスタンブル証券取引所は金市場の自由化を決定し、1995年にイスタンブル金取引所が設立されトルコ中央銀行の金塊の輸入独占は終わりを告げ、金取引は民間部門のメンバーに移された[199]。 レヴェント、マスラクはトルコの大企業や銀行、世界的な金融部門の巨大企業の地域本部が置かれており、シティバンクメリルリンチJPモルガンHSBCホールディングスABNアムロ銀行フォルティスグループINGグループBNPパリバソシエテ・ジェネラルウニクレーディト・イタリアーノドイツ銀行コメルツ銀行などがイスタンブルに拠点を置いており、他の金融機関も多く立地している。レヴァントとマスラクの両地区は絶えず成長しダイナミックなスカイラインに変わり、いくつもの新しい超高層ビル計画が提案され認可されており毎年着手されている。

工業

欧州最大規模のショッピングモールイスタンブル・ジョヴァヒル英語版前にある、イスタンブルメトロシシュリ英語版の駅入口

イスタンブルはトルコの産業の中心で、トルコの労働力の20%を雇用し職場の38%を提供している。これに加えて、イスタンブルはトルコの貿易の55%と卸売りの45%を生み出し、GDPの21.2%、税収の40%、工業生産額の27.5%に寄与している。多くのトルコの大きな生産工場はイスタンブルに立地しており、イスタンブルやその周辺部では木綿果物オリーブオイルタバコなど生産されている。食品加工、織物製品、オイル製品、ゴム製品、金属製品、皮革、電機、ガラス、機械、紙や紙製品、アルコール飲料などはイスタンブル市内の主要な工業製品に含まれる。イスタンブルではまた、自動車やトラックの組み立て工場もある。これらの様々な事業は過去にペンキ工場に近かったため悪化した2008年の花火爆発事故のような災害にも見舞われている[200]

医薬産業は1952年にレヴェントにエジザルバシュ医薬品工場が設立され始まった[201]。今日では134の企業がトルコの製薬業界でビジネスを行っており、大部分はイスタンブルかその近郊を基盤としている[202]

観光

マルマラホテルからのタクスィム広場とカンファレンスバレーの眺め。

イスタンブルはトルコでも最も重要な観光スポットの1つである。数千ものホテルや他の旅行者中心の産業がイスタンブルにはあり、観光や業務で訪れる両方の旅行者を満たしている。2006年には23,148,669人がトルコを訪れ、ほとんどはイスタンブルやアンタルヤの空港や港を通り入国している[203]。 イスタンブルのアタチュルク国際空港やサビハ・ギョクチェン国際空港を利用しトルコに入国した観光客は2005年の4,849,353人から翌年には5,346,658人に増加している[204]。2011年には急成長しているトルコの観光事業により1,050万人に増加している。2011年のイスタンブルの2つの国際空港は5,000万人以上の旅客を扱っている[205]

イスタンブルはまた世界の主要な会議の目的地の一つであり、世界有数の国際的な団体や機関にとってはますます人気のある選択肢となっている[206]。イスタンブルの会議の魅力は3つに分かれた会議と展示エリアにより発展した。カンファレンス・ヴァレー(イスタンブルコンベンション・エキシビジョンセンター、イスタンブルヒルトン・コンベンション・エキシビジョンセンター、軍事博物館文化センター・ジェマイルレシィトリーコンサートホール)、空港・エキシビジョン地区 (150,000m2 (1.6 m sq ft))、CNR国際博覧センターの周辺の展示スペース)、ビジネス・金融地区(多くの分散型のセンターを含む)がある。これらが集まったエリアは宿泊施設、会議場、展示スペースが結合したのが特徴である。これらは個々にでもイスタンブルメトロの輸送を通じて総合的に使うことも出来、10,000人またはそれ以上の参加者に対応している。

文化

イスタンブルは歴史的に文化的な中心として知られているが、トルコ共和国の中心がアンカラに移ると文化的なシーンは停滞した[207]。新しい政府はトルコ人に音楽の伝統とくにヨーロッパ由来の音楽に適用させようと新しい計画を確立したが、音楽の機関や海外の古典音楽の芸術家は主に新しい首都に集中した[208]。多くのトルコの文化的なシーンはイスタンブルにルーツを持っていたが、文化的な重要性が単にその過去の栄光に基づくだけでない都市として再びグローバルに現れることは1980年代や1990年代までなかった[209]

The facade of a masonry building, with four Greek adorning its entrance, under a clear blue sky
イスタンブル考古学博物館は1891年にオスマン・ハムディ・ベイにより創設されたトルコ最古の近代博物館[210]

美術館・博物館

19世紀末までにはイスタンブルは都市自体、この地域の芸術の中心としてトルコやヨーロッパ、中東などから街に芸術家を集めていた。アンカラをトルコの文化の中心として作る努力にも関わらず、1970年代までイスタンブルはトルコの主要な芸術関連の機関が置かれていた[211]。さらに、1980年代には大学やアートジャーナルが新たにイスタンブルに創設され、以前はアンカラを拠点としていた芸術家が移って来ている[212]

ベイオールは街の芸術の中心として一変し、若い芸術家や以前は海外に暮らしていた年長のトルコの芸術家が基盤をこの場所に見付けている。イスタンブル現代美術館英語版ペラ美術館英語版サキプ・サバンジュ美術館英語版サントラル・イスタンブル英語版などモダンな美術館は2000年代に開館し、展示スペースやオークションハウスは都市の国際的な雰囲気への寄与を引き立てるものになっている[213]。 しかし、これらの美術館は未だに歴史的な半島にあるトルコの近代的な博物館の先駆けとなったイスタンブル考古学博物館トルコ・イスラーム美術博物館英語版ほどの人気は得ていない[196][210]

映画

トルコでの最初の映画上映は少なくとも1896年のユルドゥズ宮殿英語版で、パリで技術が公開された丁度1年後であった[214]。映画館はベイオールで急速に現れ始め、今ではイスティクラル通り英語版の名で知られる通り沿い映画館は集中していた[215]。トルコの映画産業は1950年代まで発展は無かったが、イスタンブルは初期のトルコの映画英語版中心であった[216]。それ以来、イスタンブルはトルコで最も人気がある映画やドラマ、コメディーの場所である[217]。トルコの映画産業は世紀の後半に強化されるが、それはウザク英語版Uzak (2002)、私の父と私の息子英語版Babam ve Oğlum (2005) まで無く、2つの映画はイスタンブルで撮影されトルコ映画は国際的なかなりの成功を見始めた[218]。イスタンブルとその絵のような美しいスカイラインは多くの海外映画の舞台となり、トプカピ (1964) や007 ワールド・イズ・ノット・イナフ (1999)、ミッション・イスタンブル英語版 (2008) などがある[219]

イベント

文化的な再現と同時にイスタンブルでは文化的な催しが創設され、1973年頃からトルコや世界中から様々な芸術が披露し始められた。フラグシップとなるイスタンブル国際映画祭英語版イスタンブル国際ジャズフェスティバル英語版は1980年代初期から行われている。現在では専ら音楽やダンスだけを中心とした、以前のイスタンブルフェスティバルは1994年以来、イスタンブル国際音楽祭英語版として知られている[220]。元のイスタンブルフェスティバルから発展した祭典で最も顕著な催しにはイスタンブル・ビエンナーレ英語版があり、1987年以来2年ごとに開催されている。初期の姿はトルコの視覚芸術を披露する目的であったが、国際的なアーティストに開放されて以来、ヴェネツィア・ビエンナーレサンパウロ・ビエンナーレと並び権威あるビエンナーレとして評価が上がって来ている[221]

レジャー・エンターテイメント

Goods overflow out of storefronts, leaving a narrow passageway where shoppers move about.
グランドバザールは世界最大規模の屋内市場の一つ。

イスタンブルには歴史的なものから現代のものまで多くの商業施設がある。カパル・チャルシュKapalıçarşı(グランドバザール)は1461年以来市場が開かれており、世界最古で最大の屋内市場である[222][223]ムハマトパシャ・チャルシュ英語版は青空市でカパル・チャルシュからエジプシャン・バザールにかけ広がっている。エジプシャンバザールは1660年以来、イスタンブルのメジャーな香辛料の市として開かれている。ガレリア・アタキョイ英語版はトルコのモダンなショッピングモールの先駆けとして1987年に開業した[224]。それ以来、モールは歴史的な半島の外のメジャーなショッピングセンターになっている。アクメルケズ英語版は1995年と1996年に「欧州最高」、「世界最高」のショッピングモールのタイトルをショッッピングセンター国際評議会英語版より与えられている。イスタンブル・ジョヴァヒル英語版は2005年に開業しそれ以来、欧州最大のショッピングモールである。カニヨンショッピングモール英語版は2006年に建てられた商業建築カテゴリーで都市景観建築評価賞を獲得している[223]

ニシャンタシュ英語版アブディイペクチ通り英語版とアナトリア側のバグダード通り英語版は高級ショッピング地区へ発展している[225][226]

大晦日のニシャンタシュのデコレーション

典型的なケバブのようなトルコ料理と並んでイスタンブルは、歴史的なシーフードレストランでも有名である。市内の多くの最も評判な店や高級な店はボスポラス海峡の海岸にあり、マルマラ海に沿ったクムカプ英語版地区には歩行者ゾーンがあり周辺には約50のレストランがある[227]

イスタンブル中心部から 15 kilometers (9 mi) 離れたプリンス諸島英語版はシーフードレストランでも人気がある。これらのレストランは車の来ない通りと、静かで穏やかな雰囲気がある歴史的な夏の離宮で、プリンス諸島はイスタンブルっ子や外国人観光客にとっては人気のある観光地である[228]。外国の料理を特徴としたレストランは主にベイオール地区に集中している。イスティクラル通りに沿った、チチェキ・パサジュ英語版はワインハウス(メイハネ英語版としても知られる。)やパブ、レストランが入っている[229][230]。イスティクラル通り周辺の他のいくつかの地区ではベイオールのナイトライフに応えるため最近では改装され、以前の商店街は現在ではパブやカフェ、生演奏が行われるレストランが林立している[231]。他のイスタンブルのナイトライフの中心的な場所にはニシャンタシュ英語版オルタキョイ英語版ベベック英語版カドゥキョイなどがある[232]

スポーツ

A stadium with a football pitch and track surrounded by multi-tier seating and covered by a large hanging roof
76,092人の観客を収容可能なアタチュルクオリンピックスタジアムはトルコ最大の多目的スタジアム

イスタンブルにはいくつかのトルコで最も古いスポーツクラブがある。ベシクタシュJKは1903年に創設され、数あるクラブチームの中でも最古のものと考えられている。初期にはトルコで唯一のクラブチームで、時折トルコの代表チームとしてプレーしていた[121]。サッカーのクラブチームは国内の争いでそれぞれの優位な時期を見て来たが[121]ガラタサライフェネルバフチェSKは国際大会では善戦し、プロサッカー1部リーグスュペル・リグで最も多くの優勝回数を誇っている[233][234]。ガラタサライとフェネルバフチェSKはボスポラス海峡を挟んで長年にわたりライバル関係にあり、ガラタサライは市内のヨーロッパ側にフェネルバフチェSKはアナトリア側に本拠地を置いている[233]。 イスタンブルにはエフェス・ピルゼン S.K.ベシクタシュJKフェネルバフチェ・ユルケルガラタサライ・メディカルパーク英語版の4つのクラブチームがあり、プロバスケットボール1部リーグのターキッシュ・バスケットボール・リーグでプレーしている[235]

イスタンブルには2000年から多くのスポーツ施設が建設されたり改良されており、夏季オリンピックの招致活動が行われている。アタチュルク・オリンピックスタジアムはトルコ最大の多目的スタジアムで、2002年に竣工し国際陸上競技連盟では最上級に分類される陸上競技施設である[236]。スタジアムではUEFAチャンピオンズリーグ 2004-05 決勝が開催され、イスタンブル・ビュユクシェヒル・ベレディイェ・アンカラスポル英語版のホームフィールドとして残っている。シュクリュ・サラジオウル・スタジアムはフェネルバフチェSKのホームフィールドで、改修工事が竣工した3年後にUEFAチャンピオンズリーグ 2008-09 決勝が開催された。2011年にはトルコ・テレコム・アリーナが完成し、ガラタサライのホームであったアリ・サーミ・イェンスタジアム英語版から置き換わった[237][238]。3つ全てのスタジアムはUEFAスタジアムカテゴリーでカテゴリー4に分類され、UEFAチャンピオンズリーグを開催するのに適したスタジアムである[注釈 5]

A brightly lit basketball court and game, with spectators filling the surrounding darkened bowl of seats
ウルケルスポーツアリーナ英語版は2012年に開業し、バルケットボールやバレーボールのクラブチームであるフェネルバフチェ・ユルケルのホームコート。

スィナン・エルデム・ドームはヨーロッパ最大の屋内アリーナの中に含まれ2010年バスケットボール世界選手権2012年世界室内陸上競技選手権大会2011-12ユーロリーグ英語版の準決勝が開催されている[242]

2010年にシナン・エルデムドームが完成するまでアブディ・イペクチ・アリーナがイスタンブルの主要な屋内アリーナで2001年バスケットボール男子欧州選手権が開催された[243]。他の屋内アリーナの中には2000年から運営されているBJKアクアトラルアリーナ英語版が含まれ、イスタンブルのスポーツクラブのホームコートを提供している。より最近では13,800席を備えるウルケルスポーツアリーナ英語版は2012年に開業し、フェネルバフチェ・ユルケルのホームコートにしている[244]。建設ブームにも関わらず、2000、2004、2008、2012年のオリンピック招致やUEFA EURO 2012UEFA EURO 2016の招致は失敗に終わっている[245]。イスタンブルは現在、2020年夏季オリンピックに向けて招致活動 (enを行っている。2013年9月7日には開催都市が発表される[18][246]

イスタンブール・パークは2005年に世界ツーリングカー選手権が2006年にル・マン・シリーズが開催されているが、それ以降はどちらも開催されていない[247][248]。2005年から2011年の間、イスタンブール・パークでは毎年開催されるトルコグランプリが行われていたが、資金難から将来の開催は不確実さが残る[249]。イスタンブルセーリングクラブは1952年に創設され、イスタンブルやその周辺の航路で行われるショーケースとなる競技を毎年行っている[250][251]。 トルコオフショアレーシングクラブも主要なレースを主催しており、もっとも権威あるレースである海兵隊杯も含まれる[252]。イスタンブルでは時折、F1パワーボート世界選手権も開催され最後に開催されたのは2000年で、ボスポラス海峡で開かれた[253]

メディア

Entrance to an office building with an overhead sign saying 'Hürriyet'
1948年に創刊したHürriyetはトルコで最も読まれている新聞。

ほとんどの国営のラジオ局やテレビ局はアンカラをベースとしているが、イスタンブルはトルコメディアの最も重要なハブである。メディア産業のルーツは、オスマン帝国の首都であった時代の1831年に最初にトルコで発行された新聞であるTakvim-i Vekayi(情勢の暦)にある。ジャガログル英語版通りでは新聞が印刷され、バーブ・アーリ通りBâb-ı Âliは金角湾を越えたベイオールとともに急速にトルコの印刷メディアの中心となった[254]。今日、イスタンブルでは幅広い種類の定期刊行物が発行されている。ほとんどの全国紙はイスタンブルを拠点として、同時にアンカラやイズミル版がある[255]

新聞

イスタンブルを拠点とするザマン新聞英語版は1986年の創刊と歴史が浅いが、トルコでは最も広く流通している新聞で週に100万部が発行されている。ポスタ新聞英語版ヒュッリイェトサバ新聞英語版ハバールテュルク英語版の各新聞はトルコの5大紙で、それぞれ毎週20万部以上を売り上げている。ヒュッリイェトの英字版であるヒュリットデイリーニュース英語版は1961年より発行されていたが、2007年にザマン新聞により発行された英字紙のトゥデイズ・ザマン英語版が発行部数で追い抜いた。いくつかの小さな新聞社の中にはイスタンブルを拠点とするミッリイェトチュムフリエット英語版のような人気の発行者も含まれる[255][256]

A four-story, white flat-roofed building with two Turkish flags and a portrait on the exterior
国営の TRT'sの本社。イスタンブルではラジオも放送。

ラジオ

イスタンブルでのラジオ放送の開始は1927年に遡り、最初のラジオ電波の送信はエミノニュEminönüの中央郵便局の上から行われた。後の数10年間で設立された他のラジオ局と先の放送の管理は最終的には国営のトルコ国営放送 (TRT) の下になり、1964年の設立から1990年までラジオやテレビの放送を独占していた[257]。今日、TRTは4局の国営ラジオ局を運営しこれらの放送局はトルコの人口の90%以上をカバー出来るように全国に送信所を持っている。Radio 2は唯一イスタンブルに拠点を置いており、教育番組からスポーツ競技の放送までをカバーしトルコでは最もポピュラーなラジオ局である[257]。イスタンブルのラジオ放送はトルコでは一番賑やかで主にトルコ語や英語の番組内容を特徴としている。両方の内容を放送する希有な放送局にはアチクラジオ英語版 (94.9 FM) がある。トルコでは初の民放ラジオ局で初の海外音楽を特徴とする1992年に設立されたメトロFM英語版 (97.2 FM) も含まれる。国営のRadio 3はアンカラを拠点とするが英語のポップスを特徴とし、NTV Radyo (102.8 FM) は英語のニュース番組を放送している[258]

テレビ

TRT-ChildrenはTRTのテレビ局で唯一、イスタンブルを拠点としている[259]。それにもかかわらず、イスタンブルにはいくつものトルコの放送局や国際的な報道機関の拠点が置かれている。イスタンブルを拠点とするトルコスターテレビ英語版はTRTのテレビ放送の独占が終わった後に始めて設立された民放局である。スターテレビと同じくイスタンブルを拠点とするショーテレビ英語版は全国的に人気が高いままで、トルコやアメリカのシリーズ物の番組を放送している[260]サマンヨルテレビ英語版Kanal D英語版トルコATV英語版や他のイスタンブルのテレビ局はニュース番組やシリーズ番組の混成で放送される。トルコNTV英語版(アメリカのMSNBCと提携)とSky Turk英語版もイスタンブルを拠点とするが、主にトルコを視聴範囲としたニュースを放送している。BBCはイスタンブルに地域事務所を置きトルコ語ニュースの運営を援助しているのに対し、アメリカのニュース専門チャンネルCNNは1999年にトルコ語放送のCNNトルコ英語版を1999年に設立した[261]。ビジネスとエンターテイメントのチャンネルであるCNBC-eもイスタンブルを拠点とし、2000年から放送を開始した。

教育

A triumphal arch adjacent to a Turkish flag and in front of an open plaza
イスタンブル大学の入口。市内ではトルコの最古の教育機関

イスタンブル大学は1453年に創設された、市内にある最古のトルコの教育機関である。元はマドラサで、大学には法律、医学、科学部門が19世紀に創設されトルコ共和国が建国されてからは宗教から分離された[262]イスタンブル工科大学は1773年にオスマン帝国海軍の技術学校として創設されたのが起源で、工科に特化した大学としては世界で3番目に古い大学である[263][264]。これらの公立大学は市内にある8つの内の2つで[265]、他の有名なイスタンブルの国立大学にはミマール・スィナン芸術大学が含まれ1970年代までトルコで最も重要な芸術に関する機関で[211]マルマラ大学はトルコでは3番目に大きな高等教育機関である[266]イスタンブル文化大学英語版は2010年に創設された一番新しい公立大学で、11の学部を通して2年間の学位取得過程を提供している[267]

イスタンブルの著名な大学には政府の支援があるが、市内には多くの著名な私立の機関もある。最初の近代的な私立大学としてロバートカレッジ英語版は1863年にアメリカからの団体により設立された。高等教育部門は1971年にボアズィチ大学に移行され、残りの部門はアルナウトゥキョイArnavutköyにロバートカレッジの名の下、全寮制学校として残った[268][269]。私立大学はトルコでは公式には1982年のトルコの憲法英語版により非合法となったが、1970年当時イスタンブルにあった15の「高校」は事実上の大学であった。イスタンブルで1982年以来、最初の私立大学が設立されたのは1992年のコチ大学英語版で他に数十の大学が10年の間に開学している[268]。 今日、市内には少なくとも30の私立大学がありイスタンブル商科大学英語版カディル・ハス大学英語版も含まれる[270]

An ivy-covered neoclassical building atop a hill, with a greenery-adorned walkway leading to its entrance
ボアズィチ大学はアメリカの寄宿学校であったロバートカレッジの高等教育部門が移行したのが始まり。

2007年には約4,350の学校があるが、そのうちの半数は小学校で各校平均688人の生徒が在籍する。近年ではイスタンブルの教育システムは大幅に拡大してきており、2000年から2007年にかけて学級数や教師の数は倍近くに生徒の数は60%以上増加している[271]

ガラタサライ高校英語版は1481年にガラタ宮殿帝国学校として設立されたイスタンブルでは最古の高校で、市内でも2番目に古い教育機関である。この学校はバヤズィト2世の命により建てられ、さらなる帝国の成長を強化するための手段として多様な背景を持つ学生を教育しようとした[272]。トルコのアナトリアン高校英語版の1つで、外国語での教育に重点を置くエリート公立高校である。ガラタサライは例えばフランス語で教育が行われ、他のアナトリアン高校はトルコ語と並んで英語やドイツ語で主に授業を行っている[273][274]。市内にはまた、リセオ・イタリアーノ英語版など外国の高校もあり、外国人を教育するために19世紀に設立された[275]

イスタンブルの他のいくつかの高校は独自の教育や入学条件を特徴としている。クレリ軍事高校英語版はボスポラス海峡の岸に沿ったチェンギャルキョイ英語版にあり、トルコ海軍高校英語版プリンス諸島英語版の1つにありこれらは軍の高校で、トルコ空軍士官学校英語版トルコ軍士官学校英語版トルコ海軍士官学校英語版などを補完するものである。他の重要な高校にはダルシュファカ高校英語版があり、少なくとも一方の親が居ない全国の子供に無料で教育を行っている。ダルシュファカでは第4学年で英語の授業が始まり、第6学年で第二外国語であるドイツ語とフランス語の授業が始まる[276]。他の市内の有名な高校には1908年に設立されたカブタシュ・エルケクリセ英語版[277]や1955年に設立されたカディキョイ・アナドルリセ英語版が知られている[278]

公共サービス

シラフタラガ発電所は現在は美術館で、1914年から1952年の間はイスタンブルの唯一の電力源

イスタンブルの最初の水道システムは街の歴史の初期に遡りヴァレンス水道橋のような水道橋により水は当時街の多くの貯水池に蓄えられていた[279]

スレイマン1世の命令によりキクチェシュメKırkçeşme水道網が1563年までに建設され、この水道網は毎日 4,200立方メートルの水を158箇所に送水していた[279]。後には公の要求によって、多くの水源からアフメト3世の泉英語版のような公共の泉へ導管を使い送水された[280]。今日のイスタンブルでの塩素処理やろ過した水道水の供給や、下水処理のシステムはイスタンブル上下水道局 (İSKİ) により管理されている[281]

シラフタラガ発電所英語版Silahtarağaは金角湾沿いの火力発電所で最初の機関室が完成した1914年から1952年までイスタンブルの唯一の電力源であった[282]。トルコ共和国建国後は都市の電力需要の増加に対応し発電所は幾度も施設の改装を受け、1923年の23 MW から1956年にはピークの 120 MW に容量が増加した[282][283]。発電所の容量は次第に減少し、経済的な理由により1983年に閉鎖された[282]。発電と送電を独占する国営のトルコ電力庁 (TEK) が1970年から1984年の間設立されていたが、現在ではトルコ発電送電会社 (TEAŞ) とトルコ配電会社 (TEDAŞ) に分けられ、完全な民営の電力公益事業者である[283]

An arched neoclassical building with hanging banners, with a yellow vehicle parked in front
1909年に遡る現在のイスタンブルの中央郵便局[284]

オスマンの郵便・電信省は1840年に創設され最初の郵便局である帝国の郵便局はイェニモスク英語版の中庭近くに開局した。1876年には最初の国際郵便網がイスタンブルと広大なオスマン帝国の領地を超えた間に開設された[285]。皇帝アブデュルメジト1世は1847年にサミュエル・モールスに最初の公式な特許を授与し、最初の電信線がイスタンブルとエディルネの間に建設され1856年のクリミア戦争終戦の通知までには完成している[286]。初期の電話回線はイスタンブルでは1881年頃に出始め、後に最初の手動の電話交換機が1909年にイスタンブルで運用が始まり郵便・電信省は郵便・電信電話省になった[285][287]。イスタンブルの通信インフラはその後、大幅に発達している。GSMの携帯電話網がトルコに到達したのは1994年のことで、イスタンブルは最初にサービスが提供された都市のうちの1つであった[288]。今日、携帯電話と固定電話のサービスは、1995年に郵便・電信電話省からトルコテレコムが分離されて2005年に民営化されて以降いくつかの民間事業者により提供されている[285][288]。郵便事業は今も郵便・電信機構の管理下で国営として残っており PTTの頭文字は保っている[285]

2000年にはイスタンブルには137の病院があり、そのうちの100は私立の病院であった[289]。トルコの国民は国営の病院で医療助成が受けることができる[255]。公立病院は混雑しているか遅い状態で、私立の病院は余裕がある人には適している。私立の病院はここ10年ほどで顕著に増加し外来患者の私立病院の利用割合も2005年と2009年を比較すると6%から23%に増加している[255][290]。多くの私立の病院や一部の公立病院はハイテク設備を備えMRIも含みまた医療研究センターと関連付けられている[291]。トルコは他の国よりもより多くのアメリカを基盤とするジョイントコミッション英語版の認定を受けた病院があり、ほとんどは大都市に集中している。とくに私立病院の高い質の医療は急増するトルコへの医療観光に貢献し、2007年から2008年に40%増加した[292]。レーザー眼科手術はとくに医療観光の患者の間で広まっており、トルコは手続きで特化していることで知られている[293]

交通

道路

ファーティフ・スルタン・メフメト橋はボスポラス海峡に架かる吊り橋の一つ

イスタンブルの主要な自動車道路にはオトヨル1号線英語版 (O-1)、オトヨル2号線英語版 (O-2)、オトヨル3号線英語版 (O-3)、オトヨル4号線英語版 (O-4) がある。O-1は街の内側の環状道路を構成しボスポラス橋を渡っており、O-2は街の外側の環状道路で ファーティフ・スルタン・メフメト橋(第二ボスポラス橋)を通っている。O-2はエディルネに続いており、O-4は東側のアンカラへと続いている。O-2、O-3、O-4はつながり合って、ポルトガルからトルコ、イラン国境までの欧州自動車道路E80号線の一部を構成している[294]。2つのボスポラス海峡に架かる橋はトルコのアジア側とヨーロッパ側を結び、2つの橋で毎日40万台もの自動車交通を扱っている[295]。14.6kmの2本で構成されたユーラシアトンネルがクムカピ (Kumkapı)、ファティヒ (Fatih) とセリミエ (Selimiye)、ユスキュダル (Üsküdar) 間のボスポラス海峡の下で現在建設中である[296]第3ボスポラス橋は1990年代初期に最初に構想されたが、最終的に実現可能であると言うことでプロジェクトが2012年に正式に着手された[297]。これらの新たなトンネルと橋の計画は2015年には完成の見込みである[296][297]

公共交通

A red and silver electrified tram running through a street as a crossing pedestrian waits for it to pass
イスタンブルの近代的なトラム。1872年に登場した馬車軌道からの長い道程がある。

イスタンブルの公共交通網は路面電車ケーブルカー地下鉄路線、路線バス、バス・ラピッド・トランジット、フェリーなど複合的なシステムで構成されている。交通機関の運賃は2010年に導入されたICカードシステムであるイスタンブルカルトか以前からの電子チケットデバイスであるアクビル英語版に統合され利用されている[298]イスタンブルの市電英語版は馬車軌道であった1872年に遡るが1960年代には最初の電化された市電は廃止されている[299]。 イスタンブル市電・チュネル会社İETTが運行する市電は1990年代には徐々に復活し、イスタンブルノスタルジックトラム英語版や速いトラム路線が導入され、現在では毎日265,000人を運んでいる[299][300]イスタンブル・トンネル(Tünel、チュネル)は1875年に開業し、世界ではロンドンのメトロポリタン鉄道に次いで2番目に古い地下式鉄道である[299]。この路線は現在でもカラキョイイスティクラル通り英語版の急な573mの路線を運行しており、よりモダンなケーブル鉄道がタクシム広場とカラキョイの間を2006年から走り始めた[301][302]イスタンブル地下鉄は3つの接続されていない路線、M1A線英語版M2A線英語版M4A線英語版で構成され、M3A線英語版などの他の路線が建設中か計画中である[303][304]

イスタンブルの両側の地下鉄は最終的にボスポラス海峡の下を通るマルマライ計画の海底トンネルにより結ばれ、トラキア側とアナトリア側では史上初となる鉄道による接続が2015年に完了する[305]。計画の完了後にはイスタンブルの鉄道のシェアは現在の4%から28%に増加すると予想され、これは唯一東京やニューヨークに続くものである[306]。それまでは路線バスが市内両サイドの毎日220万人の輸送を担う[307]メトロバス英語版はバスの高速輸送網を構成し、ボスポラス橋を横切り専用の車線により目的地まで達している[308]

水運

イスタンブルシーバス英語版は旅客船とカーフェリーを組み合わせボスポラス海峡の両岸やさらには北部や黒海などを結ぶ航路を運航している[309][310]。İDOはマルマラ海周辺にも就航地があり、自治体が運営するフェリー運航事業者としては世界最大である[311]。イスタンブルのクルーズ船のターミナルはカラキョイにあるイスタンブル港で1時間に1万人の旅客を扱う容量がある[312]。イスタンブルにやって来るほとんどの人たちは空路だが、約50万人の外国人観光客は海路により街へやって来る[196]

鉄道

シルケジ駅

イスタンブルで国際間の鉄道が開業したのは1889年ことで、ブカレストとシルケジ駅の間でシルケジ駅は遂にはパリからのオリエント急行の東のターミナル駅として有名になった[86]ブカレストテッサロニキからの定期列車の運行は2010年初めまで続けられ、前者はマルマライ計画の工事により中断され後者はギリシャ債務危機英語版の影響による[313][314]。1908年にハイダルパシャ駅が開業した後は、バグダード鉄道の西のターミナルやヒジャーズ鉄道の延伸に使われた。今日ではどちらの路線もイスタンブルからの直接の運行はない[315][316][317]アンカラやトルコを横断した他の地点への運行は通常トルコ国鉄により行われているが、マルマライ計画やイスタンブル-アンカラ高速線英語版の建設工事のため、2012年2月から一時的に閉鎖されている[318]。新しい駅はハイダルパシャ、シルケジの両ターミナル駅を置き換えマルマライ計画完成時には市街の分かれている鉄道網をつなぎ開業することが予想されるが、それまではイスタンブルの都市間鉄道サービスは一時的に休止されている[318]

長距離バス

民間のバス会社は鉄道網によって提供されるサービースを超えて、代わりにより上手く運営されている。イスタンブルの主要バスターミナルはヨーロッパ最大で、毎日15,000台のバスと60万人の旅客を扱いトルコ国内や近隣国をはじめ遠くはフランクフルトまで運行されている[319][320]

空港

An aerial view of an airport with three runways and several taxiways arranged around a terminal
2011年には3,740万人の旅客を扱ったアタテュルク国際空港。イスタンブルのハブ空港

イスタンブルには2つの国際空港があり、そのうちの大きい方であるアタテュルク国際空港は市中心部の西側24kmの場所に位置し2011年には3,740万人の旅客を扱い、ヨーロッパでは8番目、世界では30番目に忙しい空港であった[321]サビハ・ギョクチェン国際空港は市中心部の南東45kmの場所にあり、2001年にアタチュルク国際空港の混雑緩和のため開港している。格安航空会社が占めており、イスタンブルの第2の空港として特に2009年に新しい国際線ターミナルが開業して以来、急速に旅行者にはポピュラーになって来ている[322]。サビハ・ギョクチェン国際空港は2011年には1,270万人の旅客を扱っており、国際空港評議会は世界で最も急速に成長している空港としている[323][324]。イスタンブルには複数の滑走路と巨大なターミナルを備えた世界最大規模となる第3の空港が黒海沿岸に計画されている[325][326]

姉妹都市

イスタンブルは以下の都市と姉妹都市の関係にある[327][328][329]

ヨーロッパ
アジア
アメリカ
アフリカ

関連項目

注釈

  1. ^ a b c Sources have provided conflicting figures on the area of Istanbul. The most authoritative source on this figure ought to be the Istanbul Metropolitan Municipality (MMI), but the English version of its website suggests a few figures for this area. One page states that "Each MM is sub-divided into District Municipalities ("DM") of which there are 27 in Istanbul" [emphasis added] with a total area of 1,538.9 square kilometers (594.2 sq mi).[95] However, the Municipal History page appears to be the most explicit and most updated, saying that in 2004, "Istanbul Metropolitan Municipality's jurisdiction was enlarged to cover all the area within the provincial limits". It also states a 2008 law merged the Eminönü district into the Fatih district (a point that is not reflected in the previous source) and increased the number of districts in Istanbul to thirty-nine.[96] That total area, as corroborated on the Turkish version of the MMI website,[97] and a recently updated Jurisdiction page on the English site[98] is 5,343 square kilometers (2,063 sq mi).
  2. ^ a b c The foundation of Byzantion (Byzantium) is sometimes, especially in encyclopedic or other tertiary sources, placed firmly in 667 BC. However, historians have disputed the precise year the city was founded. Commonly cited is the work of 5th-century-BC historian Herodotus, which says the city was founded seventeen years after the city of Chalcedon,[20] which came into existence around 685 BC. However, Eusebius, while concurring with 685 BC as the year Chalcedon was founded, places Byzantion's establishment in 659 BC.[21] Among more modern historians, Carl Roebuck proposed the 640s BC[22] while others have suggested even later. Further, the foundation date of Chalcedon is itself subject to some debate; while many sources place it in 685 BC,[23] others put it in 675 BC[24] or even 639 BC (with Byzantion's establishment placed in 619 BC).[21] As such, some sources have opted to refer to Byzantium's foundation as simply located in the 7th century BC.
  3. ^ a b Historians disagree—sometimes substantially—on population figures of Istanbul (Constantinople), and other world cities, prior to the 20th century. However, Chandler 1987, pp. 463–505, a follow-up to Chandler & Fox 1974,[83] performs a comprehensive look at different sources' estimates and chooses the most likely based on historical conditions; it, therefore, is the source of most population figures between 100 and 1914. The ranges of values between 500 and 1000 are due to Morris 2010, which also does a comprehensive analysis of sources, including Chandler (1987); Morris notes that many of Chandler's estimates during that time seem too large for the city's size, and presents alternative, smaller estimates. Chandler disagrees with Turan 2010 on the population of the city in the mid-1920s (with the former suggesting 817,000 in 1925), but Turan, p. 224, is, nevertheless, used as the source of population figures between 1924 and 2005. Turan's figures, as well as the 2010 figure,[154] come from the Turkish Statistical Institute. The drastic increase in population between 1980 and 1985 is largely due to an enlargement of the city's limits (see the Administration section). Explanations for population changes in pre-Republic times can be inferred from the History section.
  4. ^ The United Nations defines an urban agglomeration as "the population contained within the contours of a contiguous territory inhabited at urban density levels without regard to administrative boundaries". The agglomeration "usually incorporates the population in a city or town plus that in the suburban areas lying outside of, but being adjacent to, the city boundaries".[157] Figures dated 1 July 2011 place the populations of the agglomerations of Moscow and Istanbul at 11.62 million and 11.25 million, respectively.[158] The UN estimates that the agglomeration of Istanbul will exceed the agglomeration of Moscow in population by 2015 (with 12.46 million and 12.14 million, respectively), although extrapolation suggests that the former will not surpass latter until the second half of 2013. A revision with 2013 data is due in the first half of 2014.[157]
  5. ^ While UEFA does not apparently keep a list of Category 4 stadiums, regulations stipulate that only these elite stadiums are eligible to host UEFA Champions League Finals,[239] which Atatürk Olympic Stadium did in 2005, and UEFA Europa League (formerly UEFA Cup) Finals,[240] which Şükrü Saracoğlu Stadium did in 2009. Türk Telekom Arena is noted as an elite UEFA stadium by its architects.[241]

脚注

  1. ^ a b c Province by Province / Town Center and Town / Village Population – 2011”. Address Population-Based Registration System (ABPRS) Database. The Turkish Statistical Institute (2011年). 9 May 2012閲覧。
  2. ^ a b Mossberger, Clarke & John 2012, p. 145
  3. ^ Demographia: World Urban Areas & Population Projections
  4. ^ Statistical Institute page
  5. ^ a b 日高ら(1990)、p.10-11、1.イスタンブールへようこそ、- 歴史を辿る<神話の中で生まれた町>
  6. ^ 日高ら(1990)、p.6-7、1.イスタンブールへようこそ、- イスタンブールに魅せられて
  7. ^ a b c WCTR Society; Unʼyu Seisaku Kenkyū Kikō 2004, p. 281
  8. ^ a b c 井上(1990)、p.56-58、2-「新しいローマ」の登場、憧れの都コンスタンティノープル
  9. ^ Çelik 1993, p. xv
  10. ^ a b Masters & Ágoston 2009, pp. 114–5
  11. ^ Dumper & Stanley 2007, p. 320
  12. ^ a b Turan 2010, p. 224
  13. ^ a b c Population and Demographic Structure”. Istanbul 2010: European Capital of Culture. Istanbul Metropolitan Municipality (2008年). 27 March 2012閲覧。
  14. ^ a b Weiner, Miriam B. “World's Most Visited Cities”. U.S. News & World Report. 21 May 2012閲覧。
  15. ^ The World According to GaWC 2010”. Globalization and World Cities (GaWC) Study Group and Network. Loughborough University. 8 May 2012閲覧。
  16. ^ a b c d e OECD Territorial Reviews: Istanbul, Turkey”. Policy Briefs. The Organisation for Economic Co-operation and Development (March 2008). 20 August 2012閲覧。
  17. ^ 2012 Global Cities Index and Emerging Cities Outlook(2012年4月公表)
  18. ^ a b IOC selects three cities as Candidates for the 2020 Olympic Games”. The International Olympic Committee (24 May 2012). 18 June 2012閲覧。
  19. ^ 日高ら(1990)、p.7-9、1.イスタンブールへようこそ、- 雑踏の中で
  20. ^ Herodotus Histories 4.144, translated in De Sélincourt 2003, p. 288
  21. ^ a b Isaac 1986, p. 199
  22. ^ Roebuck 1959, p. 119, also as mentioned in Isaac 1986, p. 199
  23. ^ Lister 1979, p. 35
  24. ^ a b Freely 1996, p. 10
  25. ^ a b c Room 2006, pp. 177
  26. ^ Gregory 2010, pp. 62–3
  27. ^ a b Masters & Ágoston 2009, p. 286
  28. ^ Masters & Ágoston 2009, pp. 226–7
  29. ^ Finkel 2005, pp. 57, 383
  30. ^ Göksel & Kerslake 2005, p. 27
  31. ^ Room 2006, pp. 177–8
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  • 日高健一郎・谷水潤『イスタンブール』丸善〈建築巡礼17〉、1990年。ISBN 4-621-03518-5 

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観光

座標: 北緯41度00分49秒 東経28度57分18秒 / 北緯41.01361度 東経28.95500度 / 41.01361; 28.95500

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