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{{出典の明記|date=2010年9月}}
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|位置画像説明 = 12世紀、西遼の最大版図
|位置画像説明 = 1200年頃の西遼の支配領域
|公用語 = 契丹語
|公用語 = 中国語、契丹語
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[[ファイル:Premongol.png|thumb|right|250px|13世紀初頭の周辺地図]]
[[File:南宋疆域图(繁).png|thumb|200px|right|[[1142年]]頃西遼と周辺]]
'''西遼'''(せいりょう、[[拼音]]:Xī Liáo)は、[[1132年]]から[[1211年]]まで[[トルキスタン]]に存在した国の[[中国]]史料での呼び名。[[1125年]]に、[[金 (王朝)|金]]に滅ぼされた[[遼]]の皇族である[[耶律大石]]が西に逃れて建てたこう呼ばれる。
'''西遼'''(せいりょう、[[拼音]]:Xī Liáo)は、[[1132年]]から[[1218年]]まで[[トルキスタン]]に存在した国。[[1124年]]に、[[金 (王朝)|金]]に滅ぼされた[[遼]]の皇族である[[耶律大石]]が中央アジアに逃れて建てた国家る。
主にペルシア語などのイスラーム史料からは'''カラ・キタイ'''( قرا ختاىQarā Khitā'ī:カラー・ヒターイー)と呼ばれる。この語は黒い[[契丹]]の意味とされるが、遼の国号である「大契丹国」の契丹語ないし[[テュルク]]語での音写に基づいたものなど、別説もあり詳細は不明。なお'''後遼'''という表記も散見される。


[[中国]]史料では遼の皇族による国家であるために「西遼」と呼ばれている<ref name="fujieda">藤枝「西遼」『アジア歴史事典』5巻、208-209頁</ref>。[[ペルシア語]]などのイスラーム史料からは'''カラ・キタイ'''( قرا ختاى Qarā Khitā'ī:カラー・ヒターイー)と呼ばれる。この語は「黒い[[契丹]]」<ref name="fujieda"/>「強力な契丹」<ref name="cuji">杉山「カラキタイ」『中央ユーラシアを知る事典』、145-146頁</ref>の意味とされるが、正確な意味は明らかになっていない<ref>''The Empire of the Qara Khitai in Eurasian History: Between China and the Islamic World'', 216-217頁</ref>。[[明]]代に成立した[[類書]]『[[三才図会]]』では、西遼を指す名称として「黒契丹」という語が使われている<ref name="chuko335">樺山、礪波、山内『宋と中央ユーラシア』、335頁</ref>。
[[天山山脈]]の南北のシルクロードルートを押さえ、中継貿易で栄えた。首都は[[ベラサグン]](フスオルド Ghuzz Orda / غزباليغ Ghuzz-Balïγ 。現在の[[キルギスタン]]トクモクの付近)。


イスラームの史家は西遼の君主を'''グル・ハン'''( كور خان Kūr khān < Gür χan 「全ての[[ハーン|ハン]]」、「ハンの中のハン」<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、331頁</ref>、「大いなるハン」<ref name="cuji"/>、「勇敢なハン」<ref name="itani112">井谷「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、112頁</ref>などの意味)と呼んだ。
== 歴史 ==
<!-- 西遼の君主は'''グル・ハン'''の称号を名乗った(杉山「カラキタイ」『中央ユーラシアを知る事典』、145-146頁)-->
西遼自身は記録を残さず、これらの情報は中国史料とイスラーム史料によるものである。


首都は[[ベラサグン|グズオルド]]<ref name="cmd144">ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、144頁</ref>(虎思斡耳朶、Ghuzz Orda /غزباليغ Ghuzz-Balïγ クズオルド<ref name="miyawaki">宮脇淳子『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』(刀水歴史全書, 刀水書房, 2002年9月)、64頁</ref>、フスオルド<ref name="fujieda"/>。現在の[[キルギス|キルギス共和国]]トクモクの付近)。
しかしながら、漢文史料や、アラビア語・ペルシア語での史料はカラ・キタイ史のみを専門にあつかった史書は現存していない。そのため、同時代や滅亡後に編まれた他の年代記などで断片的に記述されている情報を総合しなければカラ・キタイ史の再構築は不可能な状態にある。

== 歴史 ==
{{See also|遼|北遼}}
西遼自身は記録を残さず、これらの情報は中国史料とイスラーム世界の史料によるものである<ref name="fujieda"/><ref name="chuko335"/>


=== 耶律大石の西走と勢力の伸張 ===
=== 耶律大石の西走と勢力の伸張 ===
[[1125年]]、遼が金により滅ぼされる際に、皇族の耶律大石は一部の契丹族を率いて外蒙古に逃れて、現地の諸部族の力を借りて[[可汗]]と称した。しかし[[1130年]]、この地にも金の勢力が迫ってきたので、更に西へ逃れて[[ビシュバリク]]に入り、[[天山ウイグル王国]]を臣従させて征服。さらに[[ベラサグン]]にいた東[[カラ・ハン朝]]を征服しベラサグンを改称してフスオルドとし、[[1132年]]にグル・ハン( كور خان Kūr khān < Gür χan 「全ての[[ハーン|ハン]]」、「全世界のハン」ほどの意味)を名乗って即位し。その後、天山北路・南路を完全に制圧して交易の要衝を抑えて国力を増大させる
[[1124年]]2月、遼が金により滅ぼされる際に、皇族の耶律大石は一部の契丹族を率いて[[モンゴル高原]]の鎮州可敦城(現在の[[エジン旗]]近辺<ref name="cmd144"/>)に逃れて、現地の諸部族の力を借りて天祐皇帝と称した<ref name="fujieda"/>。しかし、この地にも金の勢力が迫ってきたため耶律大石は[[アルタイ山脈]]を越えて更に西へ移動する。移動に際して[[ビシュバリク]]を本拠地とする[[天山ウイグル王国]]と衝突し、[[1131年]]にウイグル王国は耶律大石の部下を捕らえて金に引き渡したが<ref name="chuko335">樺山、礪波、山内『宋と中央ユーラシア』、336頁</ref>、1132年ごろにウイグルを臣従させる<ref>梅村「オアシス世界の展開」『中央ユーラシア史』、133,139頁</ref>。さらに[[ベラサグン]]を本拠地とする東[[カラ・ハン朝]]を征服しベラサグンをグズオルドと改称して新国家首都に定め<ref name="fujieda"/>


更に西への進出を図り、[[1137年]]には西カラ・ハン朝のマフムード2世の軍を破って臣属させ、さらホラズム地方を劫略して[[ホラズム・シャー朝]]の[[アト]]に対しても金3万ディーナーの歳幣支払うよう講和させ。ついに[[1141年]]にはカラ・ハン朝へ援軍を出した[[セルジューク朝]][[サンジャル]]に大勝た(このセルジューク朝に対する戦勝が[[ヨーロッパ]]に誤って伝えられ、[[プレスター・ジョン]]の伝説を生むことになったと言われる。これにより西カラ・ハン朝の領土とセルジューク朝の盟下にあった[[ホラズム・シャー朝]]の宗主権を手中にし、当時のパミール以東のトルキスタンと西方の[[マーワラーアンナフル]]、すなわち現在の東西トルキスタンに跨がる地域の支配を確立した。
耶律大石は更に西への進出を図り、[[1137年]]には[[ホジェンド]]近郊で西カラ・ハン朝のマフムード2世の軍を破って臣属させる<ref name="itani112"/>。マフムード2世は叔父あたる[[セルジュ朝]]の[[スルターン]]・[[サンジャ]]に助け求め、要請に応じサンジャルは自ら軍を率て中央アジア進軍する。[[1141年]]9月9日に[[カトワーンの戦い]]で西遼とセルジューク・西カラハン朝の連合軍が衝突、西遼は勝利を収める。このセルジューク朝に対する戦勝がシリアの十字軍を通して[[ヨーロッパ]]に誤って伝えられ、キリスト教国の君主[[プレスター・ジョン]]の伝説を生むことになったと言われる<ref>井谷「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、113頁</ref>。さらに[[ホラズム]]地方を劫略して[[ホラズム・シャー朝]]の[[アトスズ]]に対しても金30,000(もしくは3,000)ディーナールの歳幣を支払うよう講和させた<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、141,143頁</ref>。これにより西カラ・ハン朝の領土とセルジューク朝の盟下にあったホラズム・シャー朝の宗主権を手中にし、当時のパミール以東のトルキスタンと西方の[[マーワラーアンナフル]]、すなわち現在の東西トルキスタンに跨がる地域の支配を確立した<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、141頁</ref>


[[1143年]]、耶律大石は遼の故地の奪還を願って7万の親征軍を金に対して出発させるが、行軍中に58歳で病死し、東征は中止となった。
[[1143年]]、耶律大石は遼の故地の奪還を願って70,000の親征軍を金に対して出発させるが、行軍中に58歳で病死し、東征は中止となった。


徳宗・耶律大石の死後、その子の仁宗・[[耶律夷列]]が跡を継いだ。即位当時の耶律夷列は幼く、[[1150年]]まで耶律大石の后・[[塔不煙]]が摂政として夷列を後見した<ref name="cmd142">ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、142頁</ref>。[[1163年]]に夷列が没し、その子が成人するまでの間、夷列の妹である[[プスワン|普速完]]が摂政として幼帝を後見した<ref name="cmd142"/>。[[1172年]]からのホラズム・シャー朝の内訌では、西遼は王位を要求するホラズム王子[[アラーウッディーン・テキシュ]]を支援した<ref>井谷「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、127頁</ref>。テキシュが貢納の支払いを拒否すると、西遼はテキシュと王位を巡って対立していた[[ジャラールッディーン・スルターン・シャー]]に援軍を送った<ref>デニスン・ロス、ヘンリ・スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』(三橋冨治男訳, ユーラシア叢書, 原書房, 1976年)、189-191頁</ref>。
徳宗・耶律大石の死後、その末子の仁宗・[[耶律夷列]](イリ)が後を継いだ。だが、[[1163年]]に夷列が早世し、その姉の普速完([[プスワン]])が弟の跡を継ぐ。この時代には耶律大石の時代と変わらず、東西トルキスタンに勢力を張り、交易の利益を元に繁栄を築いた。


=== 衰退 ===
=== 衰退 ===
[[1177年]]に不倫が原因で普速完が殺害され、<!-- 兄を殺害して跡を継いだ<ref name="fujieda"/> -->耶律夷列の次子・[[チルク|耶律直魯古]]が即位する。
だが、[[1177年]]に不倫が原因で伯母の普速完が殺害され、兄を殺害して後を継いだ[[チルク|直魯古]]の時代になると、西方でホラズム・シャー朝の[[アラーウッディーン・ムハンマド]]が[[イラク]]の[[セルジューク朝]]本家を滅ぼし、[[アフガニスタン]]から北進してきた[[ゴール朝]]を撃退して、マーワラーアンナフルと[[ホラーサーン]]全域・東部イランを掌握して勢力を増して独立した。さらに[[サマルカンド]]周辺を領有していたカラ・ハン朝の最後の君主ウスマーンもこれに呼応して離叛した。
<!-- 即位後、耶律直魯古の兄は殺害された(ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、333頁)-->


耶律直魯古は政治を顧みずに狩猟と快楽に耽溺し、そのためにホラズム・シャー朝、ウイグル王国、 西カラ・ハン朝の離反を招く<ref name="cmd142"/>。さらに[[ナイマン|ナイマン族]]の移動とホラズム・シャー朝が扇動したムスリム住民の反乱により、帝国の衰退が始まる<ref>バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、201頁</ref>。西方でホラズム・シャー朝のテキシュは[[イラク・セルジューク朝|イラクのセルジューク朝]]を滅ぼし、勢力を拡大する。
[[1200年]]頃にアラーウッディーンの軍勢が最初の反抗で東進してきたが、西遼軍はこれを破りスルターン・アラーウッディーンの捕縛に成功した。しかし程なくホラズム・シャー朝軍の工作によってスルターンを取り逃がした。[[1210年]]に再びアラーウッディーンはウスマーンと合同して[[スィル川]]を渡って進軍。東岸のバナーカトにおいて将軍ターヤンクー率いる西遼軍は撃破され西トルキスタンを奪われる。アラーウッディーンのスィル川での勝利に呼応して彼を君主として迎えるべく首都ベラサグンでも叛乱が起き、チルクはこれを討伐せねばらならなかった。


スルターンに即位したテキシュの弟[[アラーウッディーン・ムハンマド]]は[[アフガニスタン]]から北進してきた[[ゴール朝]]を撃退して、マーワラーアンナフルと[[ホラーサーン]]全域・東部イランを掌握して勢力を増した。[[サマルカンド]]周辺を領有していた西カラ・ハン朝の最後の君主ウスマーンは西遼への貢納の支払いに絶えかね、アラーウッディーンに決起を促した<ref name="cmd156">ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、156頁</ref>。[[1208年]]頃にアラーウッディーンは貢納の取り立てに来た西遼の官吏を殺害し、軍勢を率いて東進したが、西遼軍はこれを破りアラーウッディーンの捕縛に成功した。しかし、程なくホラズム・シャー朝軍の工作によってアラーウッディーンを取り逃がした<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、157頁</ref>。
更にこの時期には[[モンゴル高原]]で[[モンゴル]]族が着実に勢力を蓄えており、東の天山ウイグル王国も[[チンギス・カン|チンギス・ハーン]]の元へ帰参し、東の領土も失った。そこで[[1208年]]、チンギス・ハーンとの戦いに敗れた[[ナイマン]]の長・[[クチュルク]]を皇女の婿君として迎え入れてチンギス・ハーンに対抗しようとした。しかしこれが裏目に出て、ベラサグンの叛乱鎮圧後の軍議が散会した隙を突かれ、クチュルクにより[[1211年]]に国を簒奪され、西遼は滅びた。

1208年、耶律直魯古はチンギス・ハーンとの戦いに敗れたナイマンの長・[[クチュルク]]を皇女の婿君として迎え入れた<ref name="cmd142"/>。しかしこれが裏目に出て、クチュルクは離散したナイマンの遊牧民を糾合して反乱を起こし、ナイマンと同じくモンゴルに敗れた[[メルキト]]の部衆もクチュルクの軍に加わった<ref name="cmd144"/>。クチュルクはホラズム・シャー朝と同盟してウーズガンドの宝物庫の略奪を図るが、耶律直魯古はクチュルクの軍を破り、彼の部下の多くを捕虜とした。

[[1209年]]にウイグル王国は西遼から派遣された徴税人の搾取に反発し、徴税人を殺害して[[モンゴル高原]]で勢力を蓄えた[[モンゴル帝国]]に帰順した<ref name="chuko391">樺山、礪波、山内『宋と中央ユーラシア』、391頁</ref>。翌[[1210年]]に再びアラーウッディーンがウスマーンと合同して[[スィル川]]を渡って進軍<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、157頁</ref>。スィル川東岸のバナーカトにおいて将軍ターヤンクー率いる西遼軍は撃破され、西トルキスタンを奪われる。アラーウッディーンのスィル川での勝利に呼応して彼を君主として迎えるべく首都ベラサグンでも叛乱が起き、耶律直魯古はこれを討伐せねばらならなかった。ベラサグンの叛乱鎮圧後の軍議が散会した隙を突かれ、[[1211年]](もしくは[[1212年]])にクチュルクは耶律直魯古を捕らえ、帝位を簒奪した<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、146頁</ref>。

[[1213年]]に耶律直魯古は没し、遼の皇統は断絶する<ref name="fujieda"/>。


=== その後 ===
=== その後 ===
クチュルクは簒奪後に[[仏教]]を国教化他宗教弾圧したため住民背かれ、契丹皇族にも反発受け国内の統制に完全に失敗したとくにトルキスタンの主要都市であった[[カシュガル]]と[[ホータン]]を武力で屈服させ、ホータンでは自ら主催した宗教討論の席上で現地の[[ウラマー]]を怒りに任せて拷問にかけるなどしたため、ムスリム住民からの反発を招いた。そして[[1218年]]にはカシュガルの西でモゴルの[[四駿四狗#ジェベ|ジェベ]]に敗れ、西遼の領土は[[モンゴル帝国]]に併合された。クチュルクは[[パミール高原]]付近のバダフシャーンに逃亡するものの現地の[[ムスリム]]に捕えられた末ジェベの軍に引き渡され処刑された
クチュルクは[[アルマリク]]の部族長オザル服従させようと、町数度攻撃した奇襲よってオザル殺害するさらにトルキスタンの主要都市であった[[カシュガル市|カシュガル]]と[[ホータン市|ホータン]]を武力で屈服させ、ホータンでは自ら主催した宗教討論の席上で現地の[[ウラマー]]を怒りに任せて拷問にかけるなどしたため、ムスリム住民からの反発を招いた<ref>ドーソモンゴル帝国史』1巻147-149頁</ref>


そして[[1218年]]に、西遼はモンゴル帝国の将軍[[ジェベ]]の攻撃を受ける。カシュガルを攻撃した際にジェベは住民に信仰の自由を約束し、これを聞いた住民たちは自分たちの家に配備されたクチュルクの兵士を殺害した<ref name="cmd149">ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、149頁</ref>。クチュルクは[[パミール高原]]付近のバダフシャーンに逃亡するものの、モンゴル軍に捕らえられ処刑された<ref name="cmd149"/>。
その後、モンゴル帝国の領地が分配されるに当たり、この西遼の故地は[[チャガタイ]]に与えられた。[[チャガタイ・ハン国]]の領土はほぼ西遼のそれに合致する。また、アラーウッディーン・ムハンマドにスィル河畔で敗れたターヤンクーにはバラク・ハージブという兄弟がおり、この戦いの後にホラズム・シャー朝に仕え[[ケルマーンのカラ・キタイ朝]]の始祖となった


その後、モンゴル帝国の領地が分配されるに当たり、この西遼の故地は[[チャガタイ]]に与えられた。[[チャガタイ・ハン国]]の領土はほぼ西遼のそれに合致する<ref name="fujieda"/>
== 政治・ ==
西遼は中国文化を中央アジアに持ち込み、仏教・[[マニ教]]を信仰した。しかしこれらを住民に強要することはなかったため西遼の文化的痕跡はほとんど残らなかった。


また、アラーウッディーン・ムハンマドにスィル河畔で敗れたターヤンクーには[[バラク・ハージブ]]という兄がおり、この戦いの後にホラズム・シャー朝に仕え[[ケルマーン州|ケルマーン]]の[[ケルマーン・カラヒタイ朝|カラヒタイ朝]]の始祖となった。バラク・ハージブとターヤンクーの一族は約80年の間ケルマーンに地方政権の君主として君臨するが、[[1306年]]に[[イルハン朝]]の[[オルジェイトゥ]]・ハンによって支配権を没収された。
耶律大石が西へ伴った契丹族の数は極めて少なかったため、国内に対して強権を発動することは不可能であった。そのため税を少額しか課すことができず、財政のほとんどを交易に頼っていた。

== 社会 ==
[[File:A Kara-Khitan man.JPG|thumb|180px|『[[三才図会]]』に描かれた黒契丹人と馬]]
=== 中国文化の継承 ===
遼の復興を掲げて建てられた西遼では<ref name="fujieda"/>、故国の中国文化が継承されていた<ref name="VV200">バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、200頁</ref>。中国式の年号が使用され、君主の没時には廟号が追贈された<ref name="mano137">間野『中央アジアの歴史』、137頁</ref>。行政府は遼と同じく南北二院に分かれており<ref name="fujieda"/>、[[駅伝制]]が実施されていた<ref name="cuji"/>。官庁では[[中国語]]と[[契丹語]]が第一言語として使用されていたが、さらにペルシア語と[[ウイグル語]]も使われていた<ref>''The Empire of the Qara Khitai in Eurasian History: Between China and the Islamic World'', pp. 94</ref>。また、王朝では康国通宝という中国風の貨幣が鋳造されていた<ref>間野『中央アジアの歴史』、137-138頁</ref>。

しかし、西遼の中国文化は支配下に置いていたオアシス都市のトルコ・イスラム文化にはほとんど影響を与えず<ref>間野『中央アジアの歴史』、138頁</ref>、逆に支配層がイスラム文化の影響を受けた<ref name="VV200"/>。

=== 現地領主への統治の委任 ===
西遼は広大な東西トルキスタンの地を征服したにもかかわらず、その征服地を臣下に分配することはなく、土着の領主に銀牌を授与してわずかな土地の支配権を認めていた<ref name="fujieda"/>。小監、バスカクと呼ばれた代官を派遣して徴税を行う以外、オアシス地帯の生活に深く干渉することは無かった<ref name="mano137"/>。代官の派遣先では、イスラム国家で導入されている[[人頭税]]([[ジズヤ]])ではなく、中国式の戸数割の税制が布かれていた<ref name="fujieda"/><ref name="VV200"/>。西遼から代官が派遣されたウイグル王国はカガン、ハンといった王号を使用することはできなかったが、政治の実権はウイグル王が保持していた<ref>梅村「オアシス世界の展開」『中央ユーラシア史』、139頁</ref>。西遼末期には代官は従属国で重税を課し、搾取に苦しんだ西カラハン朝、ウイグル王国の離反を招いた<ref name="cmd156"/><ref name="chuko391"/>。

支配地の経営を現地の旧支配者に委任する西遼の方針は、後継のモンゴル帝国にも引き継がれた<ref name="miyawaki"/>。

=== 宗教 ===
支配層の契丹人の間では仏教が信仰されていたが<ref name="mano137"/>、建国者である耶律大石を[[マニ教|マニ教徒]]とする記録も残る<ref name="fujieda"/>。

カシュガル、[[ヤルカンド県|ヤルカンド]]、ホータンなどのオアシス都市の住民の大部分はムスリムであり、彼らは交易に従事していた<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、150頁</ref>。被支配者層の中にはマニ教を信仰する者もおり<ref name="cuji"/>、カシュガルに置かれた[[ネストリウス派]][[キリスト教]]の司教区は、西遼に含まれるセミレチエ地方も管轄していた<ref name="fujieda"/>。ムスリムを危険視するクチュルクの治下では大規模な迫害が行われ、彼らの家には監視の兵士が配置された<ref>バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、202頁</ref>。モンゴルが西遼を征服した時、迫害から解放されたイスラム教徒は信仰の自由を大いに喜んだ<ref name="fujieda"/>。


== 歴代君主 ==
== 歴代君主 ==
#徳宗・[[耶律大石]](タイシ、天祐帝、在位[[1124年]] - [[1143年]]) - [[遼]]・[[耶律阿保機|太祖]]の8世の末裔
#徳宗・[[耶律大石]](タイシ、天祐帝、在位[[1124年]] - [[1143年]]) - [[遼]]・[[耶律阿保機|太祖]]の8世の末裔
#感天蕭太后・[[タプイェン]](塔不煙)(在位1143年-[[1150年]])- 大石の後妻
#感天蕭太后・[[塔不煙]](タプイェン在位1143年-[[1150年]])- 耶律大石の後妻
#仁宗・[[耶律夷列]](イリ、紹興帝、在位1150年 - [[1163年]])- 大石の
#仁宗・[[耶律夷列]](イリ、在位1150年 - [[1163年]])- 耶律大石の子
#承天太后・[[プスワン]](普速完)(在位1163年 - [[1177年]])- 夷列の姉。
#承天太后・[[プスワン|普速完]](プスワン、在位1163年 - [[1177年]])- 耶律夷列の
#襄宗・[[チルク|耶律直魯古]](チルク、在位1177年 - [[1211年]]) - 夷列の次男
#[[チルク|耶律直魯古]](チルク、在位1177年 - [[1211年]]) - 耶律夷列の次男
#缺王・[[クチュルク|屈出律]](在位1211年 - [[1218年]])- 直魯古の女婿
#[[クチュルク|屈出律]](クチュルク、在位1211年 - [[1218年]])- 耶律直魯古の女婿


== 年号 ==
== 年号 ==
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#[[天禧 (西遼)|天禧]]
#[[天禧 (西遼)|天禧]]


== 脚注 ==
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== 参考 ==
* 井谷鋼造「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』収録(永田雄三編, 新版世界各国史, [[山川出版社]], 2002年8月)
* 梅村坦「オアシス世界の展開」『中央ユーラシア史』収録([[小松久男]]編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2000年10月)
* 樺山紘一、礪波護、山内昌之編『宋と中央ユーラシア』(世界の歴史7巻, [[中央公論新社|中央公論社]], 1997年6月)
* [[杉山正明]]「カラキタイ」『中央ユーラシアを知る事典』収録([[平凡社]], 2005年4月)
* [[藤枝晃]]「西遼」『アジア歴史事典』5巻収録(平凡社, 1960年)
* 間野英二『中央アジアの歴史』(講談社現代新書 新書東洋史8, [[講談社]], 1977年8月)
* [[ワシーリィ・バルトリド|V.V.バルトリド]]『トルキスタン文化史』1巻(小松久男監訳, [[東洋文庫 (平凡社)|東洋文庫]], 平凡社, 2011年2月)
* [[アブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン|C.M.ドーソン]]『モンゴル帝国史』1巻([[佐口透]]訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1968年3月)

== 関連項目 ==
* [[契丹]]
* [[遼]]
* [[北遼]]
* [[東遼]]
* [[東丹国]]
* [[ケルマーン・カラヒタイ朝]]
* [[耶律氏]]
* [[遼史]]
* [[モンゴル帝国]]

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2013年2月28日 (木) 11:01時点における版

西遼
1132年 - 1218年 モンゴル帝国
西遼の位置
1200年頃の西遼の支配領域
公用語 中国語、契丹語
首都 グズオルド(ベラサグン
グル・ハン
1132年 - 1143年 耶律大石
1150年 - 1163年耶律夷列
1211年(1212年) - 1218年クチュルク
変遷
耶律大石が天祐皇帝を称する 1124年
グズオルドを首都に制定1132年
クチュルクの簒奪1211年1212年
滅亡1218年
1142年頃の西遼と周辺国

西遼(せいりょう、拼音:Xī Liáo)は、1132年から1218年までトルキスタンに存在した国。1124年に、に滅ぼされたの皇族である耶律大石が中央アジアに逃れて建てた国家である。

中国史料では遼の皇族による国家であるために「西遼」と呼ばれている[1]ペルシア語などのイスラーム史料からはカラ・キタイ( قرا ختاى Qarā Khitā'ī:カラー・ヒターイー)と呼ばれる。この語は「黒い契丹[1]「強力な契丹」[2]の意味とされるが、正確な意味は明らかになっていない[3]代に成立した類書三才図会』では、西遼を指す名称として「黒契丹」という語が使われている[4]

イスラームの史家は西遼の君主をグル・ハン( كور خان Kūr khān < Gür χan 「全てのハン」、「ハンの中のハン」[5]、「大いなるハン」[2]、「勇敢なハン」[6]などの意味)と呼んだ。

首都はグズオルド[7](虎思斡耳朶、Ghuzz Orda /غزباليغ Ghuzz-Balïγ クズオルド[8]、フスオルド[1]。現在のキルギス共和国トクモクの付近)。

歴史

西遼自身は記録を残さず、これらの情報は中国史料とイスラーム世界の史料によるものである[1][4]

耶律大石の西走と勢力の伸張

1124年2月、遼が金により滅ぼされる際に、皇族の耶律大石は一部の契丹族を率いてモンゴル高原の鎮州可敦城(現在のエジン旗近辺[7])に逃れて、現地の諸部族の力を借りて天祐皇帝と称した[1]。しかし、この地にも金の勢力が迫ってきたため、耶律大石はアルタイ山脈を越えて更に西へ移動する。移動に際してビシュバリクを本拠地とする天山ウイグル王国と衝突し、1131年にウイグル王国は耶律大石の部下を捕らえて金に引き渡したが[4]、1132年ごろにウイグルを臣従させる[9]。さらにベラサグンを本拠地とする東カラ・ハン朝を征服し、ベラサグンをグズオルドと改称して新国家の首都に定めた[1]

耶律大石は更に西への進出を図り、1137年にはホジェンド近郊で西カラ・ハン朝のマフムード2世の軍を破って臣属させる[6]。マフムード2世は叔父にあたるセルジューク朝スルターンサンジャルに助けを求め、要請に応じたサンジャルは自ら軍を率いて中央アジアに進軍する。1141年9月9日にカトワーンの戦いで西遼とセルジューク・西カラハン朝の連合軍が衝突し、西遼は勝利を収める。このセルジューク朝に対する戦勝がシリアの十字軍を通してヨーロッパに誤って伝えられ、キリスト教国の君主プレスター・ジョンの伝説を生むことになったとも言われる[10]。さらにホラズム地方を劫略してホラズム・シャー朝アトスズに対しても金30,000(もしくは3,000)ディーナールの歳幣を支払うよう講和させた[11]。これにより西カラ・ハン朝の領土とセルジューク朝の盟下にあったホラズム・シャー朝の宗主権を手中にし、当時のパミール以東のトルキスタンと西方のマーワラーアンナフル、すなわち現在の東西トルキスタンに跨がる地域の支配を確立した[12]

1143年、耶律大石は遼の故地の奪還を願って70,000の親征軍を金に対して出発させるが、行軍中に58歳で病死し、東征は中止となった。

徳宗・耶律大石の死後、その子の仁宗・耶律夷列が跡を継いだ。即位当時の耶律夷列は幼く、1150年まで耶律大石の后・塔不煙が摂政として夷列を後見した[13]1163年に夷列が没し、その子が成人するまでの間、夷列の妹である普速完が摂政として幼帝を後見した[13]1172年からのホラズム・シャー朝の内訌では、西遼は王位を要求するホラズム王子アラーウッディーン・テキシュを支援した[14]。テキシュが貢納の支払いを拒否すると、西遼はテキシュと王位を巡って対立していたジャラールッディーン・スルターン・シャーに援軍を送った[15]

衰退

1177年に不倫が原因で普速完が殺害され、耶律夷列の次子・耶律直魯古が即位する。

耶律直魯古は政治を顧みずに狩猟と快楽に耽溺し、そのためにホラズム・シャー朝、ウイグル王国、 西カラ・ハン朝の離反を招く[13]。さらにナイマン族の移動とホラズム・シャー朝が扇動したムスリム住民の反乱により、帝国の衰退が始まる[16]。西方でホラズム・シャー朝のテキシュはイラクのセルジューク朝を滅ぼし、勢力を拡大する。

スルターンに即位したテキシュの弟アラーウッディーン・ムハンマドアフガニスタンから北進してきたゴール朝を撃退して、マーワラーアンナフルとホラーサーン全域・東部イランを掌握して勢力を増した。サマルカンド周辺を領有していた西カラ・ハン朝の最後の君主ウスマーンは西遼への貢納の支払いに絶えかね、アラーウッディーンに決起を促した[17]1208年頃にアラーウッディーンは貢納の取り立てに来た西遼の官吏を殺害し、軍勢を率いて東進したが、西遼軍はこれを破りアラーウッディーンの捕縛に成功した。しかし、程なくホラズム・シャー朝軍の工作によってアラーウッディーンを取り逃がした[18]

1208年、耶律直魯古はチンギス・ハーンとの戦いに敗れたナイマンの長・クチュルクを皇女の婿君として迎え入れた[13]。しかしこれが裏目に出て、クチュルクは離散したナイマンの遊牧民を糾合して反乱を起こし、ナイマンと同じくモンゴルに敗れたメルキトの部衆もクチュルクの軍に加わった[7]。クチュルクはホラズム・シャー朝と同盟してウーズガンドの宝物庫の略奪を図るが、耶律直魯古はクチュルクの軍を破り、彼の部下の多くを捕虜とした。

1209年にウイグル王国は西遼から派遣された徴税人の搾取に反発し、徴税人を殺害してモンゴル高原で勢力を蓄えたモンゴル帝国に帰順した[19]。翌1210年に再びアラーウッディーンがウスマーンと合同してスィル川を渡って進軍[20]。スィル川東岸のバナーカトにおいて将軍ターヤンクー率いる西遼軍は撃破され、西トルキスタンを奪われる。アラーウッディーンのスィル川での勝利に呼応して彼を君主として迎えるべく首都ベラサグンでも叛乱が起き、耶律直魯古はこれを討伐せねばらならなかった。ベラサグンの叛乱鎮圧後の軍議が散会した隙を突かれ、1211年(もしくは1212年)にクチュルクは耶律直魯古を捕らえ、帝位を簒奪した[21]

1213年に耶律直魯古は没し、遼の皇統は断絶する[1]

その後

クチュルクはアルマリクの部族長オザルを服従させようとし、町を数度攻撃した後に奇襲によってオザルを殺害する。さらにトルキスタンの主要都市であったカシュガルホータンを武力で屈服させ、ホータンでは自ら主催した宗教討論の席上で現地のウラマーを怒りに任せて拷問にかけるなどしたため、ムスリム住民からの反発を招いた[22]

そして1218年に、西遼はモンゴル帝国の将軍ジェベの攻撃を受ける。カシュガルを攻撃した際にジェベは住民に信仰の自由を約束し、これを聞いた住民たちは自分たちの家に配備されたクチュルクの兵士を殺害した[23]。クチュルクはパミール高原付近のバダフシャーンに逃亡するものの、モンゴル軍に捕らえられ処刑された[23]

その後、モンゴル帝国の領地が分配されるに当たり、この西遼の故地はチャガタイに与えられた。チャガタイ・ハン国の領土は、ほぼ西遼のそれに合致する[1]

また、アラーウッディーン・ムハンマドにスィル河畔で敗れたターヤンクーにはバラク・ハージブという兄がおり、この戦いの後にホラズム・シャー朝に仕えケルマーンカラヒタイ朝の始祖となった。バラク・ハージブとターヤンクーの一族は約80年の間ケルマーンに地方政権の君主として君臨するが、1306年イルハン朝オルジェイトゥ・ハンによって支配権を没収された。

社会

三才図会』に描かれた黒契丹人と馬

中国文化の継承

遼の復興を掲げて建てられた西遼では[1]、故国の中国文化が継承されていた[24]。中国式の年号が使用され、君主の没時には廟号が追贈された[25]。行政府は遼と同じく南北二院に分かれており[1]駅伝制が実施されていた[2]。官庁では中国語契丹語が第一言語として使用されていたが、さらにペルシア語とウイグル語も使われていた[26]。また、王朝では康国通宝という中国風の貨幣が鋳造されていた[27]

しかし、西遼の中国文化は支配下に置いていたオアシス都市のトルコ・イスラム文化にはほとんど影響を与えず[28]、逆に支配層がイスラム文化の影響を受けた[24]

現地領主への統治の委任

西遼は広大な東西トルキスタンの地を征服したにもかかわらず、その征服地を臣下に分配することはなく、土着の領主に銀牌を授与してわずかな土地の支配権を認めていた[1]。小監、バスカクと呼ばれた代官を派遣して徴税を行う以外、オアシス地帯の生活に深く干渉することは無かった[25]。代官の派遣先では、イスラム国家で導入されている人頭税ジズヤ)ではなく、中国式の戸数割の税制が布かれていた[1][24]。西遼から代官が派遣されたウイグル王国はカガン、ハンといった王号を使用することはできなかったが、政治の実権はウイグル王が保持していた[29]。西遼末期には代官は従属国で重税を課し、搾取に苦しんだ西カラハン朝、ウイグル王国の離反を招いた[17][19]

支配地の経営を現地の旧支配者に委任する西遼の方針は、後継のモンゴル帝国にも引き継がれた[8]

宗教

支配層の契丹人の間では仏教が信仰されていたが[25]、建国者である耶律大石をマニ教徒とする記録も残る[1]

カシュガル、ヤルカンド、ホータンなどのオアシス都市の住民の大部分はムスリムであり、彼らは交易に従事していた[30]。被支配者層の中にはマニ教を信仰する者もおり[2]、カシュガルに置かれたネストリウス派キリスト教の司教区は、西遼に含まれるセミレチエ地方も管轄していた[1]。ムスリムを危険視するクチュルクの治下では大規模な迫害が行われ、彼らの家には監視の兵士が配置された[31]。モンゴルが西遼を征服した時、迫害から解放されたイスラム教徒は信仰の自由を大いに喜んだ[1]

歴代君主

  1. 徳宗・耶律大石(タイシ、天祐帝、在位1124年 - 1143年) - 太祖の8世の末裔
  2. 感天蕭太后・塔不煙(タプイェン、在位1143年-1150年)- 耶律大石の後妻
  3. 仁宗・耶律夷列(イリ、在位1150年 - 1163年)- 耶律大石の子
  4. 承天太后・普速完(プスワン、在位1163年 - 1177年)- 耶律夷列の妹
  5. 耶律直魯古(チルク、在位1177年 - 1211年) - 耶律夷列の次男
  6. 屈出律(クチュルク、在位1211年 - 1218年)- 耶律直魯古の女婿

年号

  1. 延慶 1132年 - 1134年
  2. 康国 1134年 - 1143年
  3. 咸清
  4. 紹興
  5. 崇福
  6. 天禧

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 藤枝「西遼」『アジア歴史事典』5巻、208-209頁
  2. ^ a b c d 杉山「カラキタイ」『中央ユーラシアを知る事典』、145-146頁
  3. ^ The Empire of the Qara Khitai in Eurasian History: Between China and the Islamic World, 216-217頁
  4. ^ a b c 樺山、礪波、山内『宋と中央ユーラシア』、335頁 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "chuko335"が異なる内容で複数回定義されています
  5. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、331頁
  6. ^ a b 井谷「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、112頁
  7. ^ a b c ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、144頁
  8. ^ a b 宮脇淳子『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』(刀水歴史全書, 刀水書房, 2002年9月)、64頁
  9. ^ 梅村「オアシス世界の展開」『中央ユーラシア史』、133,139頁
  10. ^ 井谷「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、113頁
  11. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、141,143頁
  12. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、141頁
  13. ^ a b c d ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、142頁
  14. ^ 井谷「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、127頁
  15. ^ デニスン・ロス、ヘンリ・スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』(三橋冨治男訳, ユーラシア叢書, 原書房, 1976年)、189-191頁
  16. ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、201頁
  17. ^ a b ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、156頁
  18. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、157頁
  19. ^ a b 樺山、礪波、山内『宋と中央ユーラシア』、391頁
  20. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、157頁
  21. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、146頁
  22. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、147-149頁
  23. ^ a b ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、149頁
  24. ^ a b c バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、200頁
  25. ^ a b c 間野『中央アジアの歴史』、137頁
  26. ^ The Empire of the Qara Khitai in Eurasian History: Between China and the Islamic World, pp. 94
  27. ^ 間野『中央アジアの歴史』、137-138頁
  28. ^ 間野『中央アジアの歴史』、138頁
  29. ^ 梅村「オアシス世界の展開」『中央ユーラシア史』、139頁
  30. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、150頁
  31. ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、202頁

参考文献

  • 井谷鋼造「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』収録(永田雄三編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2002年8月)
  • 梅村坦「オアシス世界の展開」『中央ユーラシア史』収録(小松久男編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2000年10月)
  • 樺山紘一、礪波護、山内昌之編『宋と中央ユーラシア』(世界の歴史7巻, 中央公論社, 1997年6月)
  • 杉山正明「カラキタイ」『中央ユーラシアを知る事典』収録(平凡社, 2005年4月)
  • 藤枝晃「西遼」『アジア歴史事典』5巻収録(平凡社, 1960年)
  • 間野英二『中央アジアの歴史』(講談社現代新書 新書東洋史8, 講談社, 1977年8月)
  • V.V.バルトリド『トルキスタン文化史』1巻(小松久男監訳, 東洋文庫, 平凡社, 2011年2月)
  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻(佐口透訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1968年3月)

関連項目

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