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{{Infobox 人物 |
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[[画像:Andrew-carnegie-portrait-pd.png|thumb|250px|right|アンドリュー・カーネギー]] |
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| name = アンドリュー・カーネギー |
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'''アンドリュー・カーネギー'''('''Andrew Carnegie''', [[1835年]][[11月25日]] - [[1919年]][[8月11日]])は、[[スコットランド]]生まれ、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]出身の[[実業家]]。カーネギー鉄鋼会社を創業し、成功を収め「鋼鉄王」と称された(後に会社は売却され、合併して[[USスチール]]社となる)。彼は、事業で成功を収めた後、教育や文化の分野へ多くの寄付を行ったことから、今日でも慈善家としてよく知られている。また、[[ナポレオン・ヒル]]・プログラムの創始者、ナポレオン・ヒル博士に自身の成功哲学に基づく成功プログラム開発を発注したことでも有名である。 |
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| image = Andrew Carnegie, three-quarter length portrait, seated, facing slightly left, 1913-crop.jpg |
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| caption = Andrew Carnegie (1913) |
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| birth_date = {{生年月日と年齢|1835|11|25|no}} |
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| birth_place = {{GBR}} スコットランド、[[ファイフ]]、[[ダンファームリン]] |
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| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1835|11|25|1919|8|11}} |
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| death_place = {{USA}} [[マサチューセッツ州]]レノックス |
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| occupation = [[実業家]]、[[フィランソロピー|篤志家]] |
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| death_cause = [[気管支肺炎]] |
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| spouse = {{仮リンク|ルイーズ・ホイットフィールド・カーネギー|en|Louise Whitfield Carnegie|label=ルイーズ・ホイットフィールド}} |
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| children = {{仮リンク|マーガレット・カーネギー・ミラー|en|Margaret Carnegie Miller}} |
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| networth = 2007年の価値に換算して2983億ドル<ref>[[フォーブス (雑誌)|フォーブス誌]]2008年2月の記事</ref> |
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| website = |
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| signature = Andrew Carnegie signature.svg |
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}} |
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[[ファイル:Andrew Carnegie in National Portrait Gallery IMG 4441.JPG|200px|right|thumb|カーネギーの肖像([[:en:National Portrait Gallery (United States)|National Portrait Gallery]]、ワシントンD.C.]] |
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'''アンドリュー・カーネギー'''('''Andrew Carnegie'''<ref name="MacKay p29">{{Harvnb|MacKay|1997|p=29}}</ref>, [[1835年]][[11月25日]] - [[1919年]][[8月11日]])は、[[スコットランド]]生まれで[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[実業家]]。崩れ行く橋を見て着想を得てカーネギー鉄鋼会社を創業し、成功を収めて「鋼鉄王」と称された。立志伝中の人物であり、[[ジョン・ロックフェラー]]に次ぐ史上2番目の富豪とされることが多い。事業で成功を収めた後、教育や文化の分野へ多くの寄付を行ったことから、2013年の今日でも[[フィランソロピー|慈善活動家]]としてよく知られている。1889年の『富の福音』は[[フィランソロピー]]を志す人々への啓蒙書となっている。 |
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== 生い立ち == |
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[[1835年]]、カーネギーはスコットランドの[[ダンファームリン]]で手織り職人の長男として生まれた。当時のイギリスの織物産業は、[[蒸気機関]]を使用した[[工場]]に移りつつあり、手織り職人の仕事がなくなってしまったため、[[1848年]]に両親はアメリカへの移住を決める。 |
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スコットランドの[[ダンファームリン]]で生まれ、1848年には両親と共にアメリカに移住した。アメリカではまず織物工場で作業員として働き、後に同社オーナー専属の計算書記となった。間もなく電信配達夫となり、電信会社で昇進。1860年代には鉄道、寝台車、鉄橋、油井やぐらなどの事業を行った。 |
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アメリカへ移住した後、12歳のカーネギーは学校へ行かずに紡績工場で働く。その後、何度か転職し、[[ピッツバーグ]]電信局の[[電報]]配達の仕事に就く。当時の電信局では受信した[[モールス信号]]を紙テープに刻み、テープからアルファベットに解読して電報を作成していたが、16歳のカーネギーは[[モールス符号|モールス信号]]を耳で聞き分ける特技を身につけ、電信技士に昇格した。 |
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1870年代にはピッツバーグで{{仮リンク|カーネギー鉄鋼|en|Carnegie Steel Company|label=カーネギー鉄鋼会社}}を創業。1890年代には同社が世界最大で最も高収益な会社となった。事業で得た富で[[カーネギー・ホール]]などを建てている。引退した従業員のための年金基金も創設した。1901年、[[ジョン・モルガン|J・P・モルガン]]に4億8000万ドルで同社を売却。{{仮リンク|エルバート・H・ゲイリー|en|Elbert H. Gary}}のフェデラル鉄鋼会社と合併して[[USスチール]]となった。 |
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その後、トーマス・A・スコットに秘書兼電信士として引き抜かれ、[[ペンシルバニア鉄道]]へ入社する。18歳の頃に、スコットがペンシルバニア鉄道の副社長に昇進すると、代わりにカーネギーがピッツバーグの責任者になった。 |
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カーネギーは残りの人生を慈善活動に捧げ、図書館建設、世界平和、教育、科学研究などに多額の寄付をした。{{仮リンク|アッパーアイオワ大学|en|Upper Iowa University}}のキャンパスに図書館を建設するため、下院議長{{仮リンク|デイビッド・B・ヘンダーソン|en|David B. Henderson}}に2万5千ドルを寄贈している<ref>{{Cite book|last=Wadian|first=Jerome W. |last2=Regan |first2=Stephen D. |title=Pioneering spirit : Upper Iowa University celebrating 150 years, 1857-2007|year=2008|publisher=WDG Pub.|location=Cedar Rapids, Iowa|isbn=9780979377907}}</ref>。{{仮リンク|ニューヨーク・カーネギー財団|en|Carnegie Corporation of New York}}、{{仮リンク|カーネギー国際平和基金|en|Carnegie Endowment for International Peace}}、[[カーネギー研究所]]、[[カーネギーメロン大学]]、[[カーネギー博物館]]などの創設に資金を提供した。最も金をつぎ込んだのはアメリカ各地やイギリスおよびカナダなどでの[[カーネギー図書館]]、学校、大学の創設である。 |
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== 事業家としての活動 == |
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オハイオへ移動中のカーネギーに発明家のウードルフが[[寝台車 (鉄道)|寝台車]]のアイデアを持ちかけ、ペンシルバニア鉄道は試験的な採用を決めた。ウードルフに誘われたカーネギーは、借金をして寝台車のための会社に出資し、大成功を収めた。[[1861年]]に[[南北戦争]]が始まると、北軍に味方するスコットに同伴し、軍の輸送を支援した。南北戦争終結後にペンシルバニア鉄道を退職し、事業家となる。当時の鉄道の橋は木製が多かったが、彼は耐久性に優れた鉄製の需要増加を予測し、キーストン鉄橋会社を設立し成功した。 |
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== 生涯 == |
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さらに、技術革新により[[鋳鉄]]よりも強靭な[[鋼|鋼鉄]]の大量製造が可能になり、鉄道のレールや建築へ使用されることを予見し、製鉄事業の規模拡大に力を注ぎ、'''鋼鉄王'''と呼ばれた。しかし、従業員の労働環境は劣悪であった。 |
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=== 前半生 === |
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[[1901年]]に、鉄鋼会社を[[JPモルガン・チェース|モルガン]]へ4億8000万ドルで売却し、以後は慈善活動を行った。 |
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[[ファイル:Birthplace of Andrew Carnegie, Dunfermline.jpg|thumb|right|170px|[[ダンファームリン]](スコットランド)にある生家]] |
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[[1835年]]、カーネギーはスコットランドの[[ダンファームリン]]で[[織り|手織り]][[職人]]の長男として生まれた<ref name="MacKay pp23-24">{{Harvnb|MacKay|1997|pp=23–24}}</ref>。生家の一階の半分を占める部屋は隣の手織り職人一家と共有で、居間としてもダイニングルームとしても寝室としても使われた<ref name="MacKay pp23-24" />。アンドリューという名前は祖父にちなんでつけられた<ref name="MacKay pp23-24" />。1836年、父ウィリアム・カーネギーが[[ダマスク織|ダマスク織り]]で儲けたため、やや広い家に移り住んだ<ref name="MacKay pp23-24" />。叔父のジョージ・ローダーは彼に[[ロバート・バーンズ]]の作品や[[ロバート1世 (スコットランド王)|ロバート1世]]や[[ウィリアム・ウォレス]]や{{仮リンク|ロブ・ロイ・マグレガー|en|Robert Roy MacGregor}}といったスコットランドの歴史上の偉人について教えた。 |
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==私生活== |
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[[1887年]][[4月22日]]、52歳の時、ルイーズ・ホイットフィールド(30)という女性と結婚する。 |
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==== エピソード ==== |
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== 慈善家としての活動 == |
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カーネギーがまだ子供の頃、母親と一緒に市場へ買い物に行った時のことである。果物屋の店先に山積みされていた[[サクランボ|さくらんぼ]]に見入るカーネギー少年に気付いた果物屋の主人が、「さくらんぼを一つかみ分だけサービスしてあげよう」と、気前よくカーネギー少年に言った。 しかし、カーネギー少年はさくらんぼに全く手を出そうとしない。 そこで主人が「さくらんぼは嫌いなのかい?」と尋ねたが、カーネギー少年は「嫌いじゃない」と言うだけで、やはりさくらんぼに手を出そうとしなかった。 主人は不思議そうな顔をしながら、さくらんぼをつかんでカーネギー少年の帽子に入れてやった。 それを見ていた母親もやはり不思議に思ったらしく、帰宅後に「どうして自分でさくらんぼを取らなかったの?」と尋ねてみると、カーネギー少年は得意そうに、「だって、ぼくの手よりも果物屋さんの手の方が大きいから、さくらんぼをいっぱいもらえるでしょ」と答えたという。カーネギーが子供の頃から人並外れて計算高い性格であったことを物語るエピソードである。 |
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{{See also|カーネギー図書館}} |
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彼は著書『''富の福音''』のなかで、「裕福な人はその富を浪費するよりも、社会がより豊かになるために使うべきだ。」と述べている。また、[[社会進化論|社会ダーウィン主義]]の実践者でもあり、不平等な状態を是とした。無条件に貧しいものへ与えることを有害とし、努力する者を支援するために、富が使用されるよう寄付する者が責任を持つべきだとしている。そのため、彼は自分が今まで稼いできた資産の全額を寄付に廻している(カーネギーが、死ぬ前年までに寄付した総額は、3億5069万ドルに達したと言われている)。彼は「富を持って死ぬことは不名誉である」と主張し、死の際にやむなく行う遺贈ではなく、生存中に活用先への責任を持ちながら行った、[[スタンフォード大学]]の創設者[[リーランド・スタンフォード|スタンフォード]]のような例を模範として実践した。[[1902年]][[1月28日]]に、[[ワシントンD.C.]]で1億ドル以上を投じて[[カーネギー財団]]を設立した。また、[[オランダ]]に平和宮殿を設立し、後に[[国際司法裁判所]]として使用されている。引退前にも、[[1891年]]に設立した[[ニューヨーク]]の[[カーネギー・ホール]]や[[1900年]]に設立したカーネギー技術学校(後の[[カーネギーメロン大学]])などの慈善活動を行っていた。カーネギー・ホールは[[1925年]]に彼の未亡人が売却したが現在もそのままの名前が使用されている。 |
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==カーネギーの遺言== |
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老いて行く彼を見た親族は、当然のことながら彼の遺産が気になって仕方がなかった。親族が彼に遺産をどのように分配するのか聞きにくると、彼は決まって弁護士に話すので私が息を引き取ったら弁護士を通して話を聞いてほしいと言った。<br> |
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==== アメリカ移住 ==== |
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亡くなった後、遺言状が発表される日時に親戚中が集まった。弁護士に案内され、現場に行ってみると黒い大きな金庫が1つ置いてあった。そして弁護士立会いのもと、金庫を開けるとその中には1枚の小さな封筒が入っており、封筒には小さな手紙が1枚入っていて、こう書いてあった。<br> |
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当時のイギリスの織物産業は、[[蒸気機関]]([[力織機]])を使用した[[工場]]に移りつつあり、手織り職人の仕事がなくなってしまったため、[[1848年]]に両親はアメリカ(ペンシルベニア州アラゲイニー、2013年現在のピッツバーグ)への移住を決める<ref name="MacKay pp37-38">{{Harvnb|MacKay|1997|pp=37–38}}</ref>。移住費用も借金する必要があった。当時のアラゲイニーは貧民街だった。1848年、13歳で初めて就いた仕事は綿織物工場での[[ボビン (裁縫)|ボビン]]ボーイ(織機を操作する女性工員にボビンを供給する係)で、1日12時間週6日働いた。当初の週給は1.20ドルだった<ref>[http://books.google.com/books?id=RekoAAAAYAAJ&printsec=titlepage&dq=Carnegie+knows+the+presid... ''Autobiography of Andrew Carnegie''] p. 34</ref>。父は当初綿織物工場で働いていたが、[[リンネル]]を織って行商する仕事を始めた。母は靴の包装でかせいだ。 |
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==== 鉄道 ==== |
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'''「子孫に財産を残すほどおろかなことはない」'''<br> |
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[[ファイル:Andrew and Thomas Carnegie - Project Gutenberg eText 17976.jpg|thumb|right|upright|16歳のときのカーネギー。弟のトーマスと]] |
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その後何度か転職し1850年、叔父の勧めもあってオハイオ電信会社の[[ピッツバーグ]]電信局で[[電報]]配達の仕事に就く(週給2.50ドル)<ref>[http://books.google.com/books?id=RekoAAAAYAAJ&printsec=titlepage&dq=Carnegie+knows+the+presid... ''Autobiography of Andrew Carnegie''] p. 37</ref>。この仕事は劇場にタダで入れるなどの役得があり、そのおかげでカーネギーは[[シェイクスピア|シェイクスピア劇]]のファンになった。彼は非常に働き者で、ピッツバーグの企業の位置と重要な人物の顔をすべて記憶した。そうやって多くの[[人間関係|関係]]を築いていった。また自分の仕事に細心の注意を払い、当時の[[電信]]局では受信した[[モールス信号]]を紙テープに刻み、テープからアルファベットに解読して電報を作成していたが、カーネギーは[[モールス符号|モールス信号]]を耳で聞き分ける特技を身につけ、1年以内に電信技士に昇格した。ジェームズ・アンダーソン大佐は、働く少年たちのために毎週土曜の夜に約400冊の個人的蔵書を解放しており、カーネギーはそこで勉強し読書好きになった。彼は経済面でも知的・文化的面でも借りられるものは何でも借り、独力で成功を導いた。その能力、重労働を厭わぬ自発性、忍耐力、用心深さは、間もなく好機をもたらした。 |
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1853年、[[ペンシルバニア鉄道]]の[[トマス・アレクサンダー・スコット]]がカーネギーを秘書兼電信士として引き抜き、週給は4.00ドルになった。18歳の頃に、スコットがペンシルバニア鉄道の副社長に昇進すると、代わりにカーネギーがピッツバーグの責任者になった。このペンシルバニア鉄道での経験は後の成功に大いに役立っている。鉄道会社はアメリカ初の大企業群であり、その中でもペンシルバニア鉄道は最大の企業だった。カーネギーはそこで、特にスコットから経営と[[原価]]管理について多くを学んだ<ref name="Nasaw">{{Harvnb|Nasaw|2007|pp=54–59, 64–65}}</ref>。 |
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彼は、その巨万の富を一切子孫に遺すことなく全て慈善事業に寄付し、最後まで[[社会ダーウィン主義]]の実践を貫き通したのである。 |
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スコットはまた、彼の最初の投資についても支援している。スコットや社長のJ・エドガー・トムソンは取引関係のある会社の内部情報を知りうる立場にあり、それを利用して株式を売買したり、代償の一部として契約相手の株式を得たりしていた<ref name="Nasaw_pg59_60">{{Harvnb|Nasaw|2007|pp=59–60}}</ref>。1855年、スコットはカーネギーに500ドルで{{仮リンク|アダムス・エクスプレス|en|Adams Express Company}}の株式を購入する話をもちかけ、カーネギーの母が700ドルの家を[[抵当]]に入れて500ドルを捻出した<ref name="Nasaw_pg59_60"/><ref>[http://books.google.com/books?id=RekoAAAAYAAJ&printsec=titlepage&dq=Carnegie+knows+the+presid... ''Autobiography of Andrew Carnegie''] p. 79</ref>。数年後、オハイオへ移動中のカーネギーに発明家のウードルフが[[寝台車 (鉄道)|寝台車]]のアイデアを持ちかけ、ペンシルバニア鉄道は試験的な採用を決めた。ウードルフに誘われたカーネギーは、借金をして寝台車のための会社に出資し、大成功を収めた。彼はそうして得た資金を鉄道関連の会社(鉄鋼業、[[鉄橋|橋梁]]建設業、[[軌条|レール]]製造業など)に再投資していった。そうして徐々に資金を蓄えていき、後の成功の基盤を築いた。その後も企業を設立する際にトムソンとスコットとの密接な[[人間関係|関係]]を利用しており、レールと橋梁を供給する会社を設立した際にはこの二人に[[株主]]となってもらった。 |
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==エピソード== |
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カーネギーがまだ子供の頃、母親と一緒に市場へ買い物に行った時のことである。果物屋の店先に山積みされていた[[サクランボ|さくらんぼ]]に見入るカーネギー少年に気付いた果物屋の主人が、「さくらんぼを一つかみ分だけサービスしてあげよう」と、気前よくカーネギー少年に言った。 しかし、カーネギー少年はさくらんぼに全く手を出そうとしない。 そこで主人が「さくらんぼは嫌いなのかい?」と尋ねたが、カーネギー少年は「嫌いじゃない」と言うだけで、やはりさくらんぼに手を出そうとしなかった。 主人は不思議そうな顔をしながら、さくらんぼをつかんでカーネギー少年の帽子に入れてやった。 それを見ていた母親もやはり不思議に思ったらしく、帰宅後に「どうして自分でさくらんぼを取らなかったの?」と尋ねてみると、カーネギー少年は得意そうに、「だって、ぼくの手よりも果物屋さんの手の方が大きいから、さくらんぼをいっぱいもらえるでしょ」と答えたという。カーネギーが子供の頃から人並外れて計算高い性格であったことを物語るエピソードである。 |
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==== 1860–1865: 南北戦争 ==== |
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==その他== |
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[[南北戦争]]の前に、カーネギーはウードルフの会社と[[ジョージ・プルマン]]の[[プルマン社|会社]]の合併を仲介した。プルマンは800km以上の長距離の旅行が可能な[[一等車|一等]][[寝台車 (鉄道)|寝台車]]を発明した。その際の投資は大いに成功し、ウードルフとカーネギーの利益の源泉となった。その後もカーネギーはスコットの下で働き、鉄道のサービスにいくつか改善を施している。 |
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19世紀後半から20世紀初期の米国で、彼を含め産業界の指導者の多くは「反軍備」「反戦争」の立場であり、産業としての軍備に反対していた。[[アメリカ反帝国主義連盟]]のメンバーとなった。<!--<ref name = "軍産複合体のアメリカ"/>。--> |
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1861年春、軍隊輸送の責任者(陸軍次官補)に任命されたスコットはカーネギーを東部の軍用鉄道と合衆国政府の電信網の監督に任命した。カーネギーは南軍によって寸断されたワシントンD.C.までの鉄道路線の再建を支援した。[[第一次ブルランの戦い|ブルラン]]での北軍の敗北の直後にワシントンD.C.への北軍の旅団を輸送する機関車に乗り込み、敗軍の輸送も現場で監督した。彼の指揮下で電信サービスは効率化され、北軍が最終的に勝利する一因となった。 |
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== 著書邦訳 == |
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南軍を打ち負かすには大量の[[弾薬]]を必要とし、補給には鉄道(と電信)が大いに活用された。この戦争で産業の重要性が明らかとなった。 |
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==== キーストン鉄橋会社 ==== |
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[[ファイル:Andrew Carnegie circa 1878 - Project Gutenberg eText 17976.jpg|thumb|1878年ごろの写真]] |
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南北戦争の際、艦船の装甲、砲、その他様々な工業製品に使用するため鉄鋼の需要が高まり、ピッツバーグは軍需産業の一大拠点となっていた。カーネギーは戦前から製鉄業に投資しており、それが富の源泉となった。 |
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南北戦争終結後にペンシルバニア鉄道を退職し、製鉄業に専念するようになった。いくつかの製鉄所を創業し、最終的にピッツバーグで{{仮リンク|キーストン鉄橋|en|Keystone Bridge Company|label=キーストン鉄橋会社}}(1865年)とユニオン製鉄所を創業。ペンシルバニア鉄道は辞めたがその経営陣(スコットやトムソン)とは密接な関係を保っていた。その関係を利用し、キーストン鉄橋会社が[[鉄橋]]建造の[[契約]]を結び、製鉄所がレール生産の契約を結んだ。また、スコットとトムソンには彼の会社の[[株主]]になってもらい、ペンシルバニア鉄道は彼の最大の顧客となった。最初の製鋼工場を建設した際は、トムソンの名を冠した。カーネギーは実業家として優れていただけでなく、人間的な魅力と文学的素養も備えていた。多くの社会的行事に招待されるようになり、それをうまく利用した<ref>{{Harvnb|Nasaw|2007|pp=105–107}}</ref>。[[セントルイス]]で[[ミシシッピ川]]をまたいで建設された[[イーズ橋]](1874年完成)では、キーストン鉄橋を通して鋼製の材料を提供すると共に、このプロジェクト自体にも出資している。このプロジェクトは、材料としての鋼の技術的優位性を実証する試金石という面があったものであるが、それが成功したことで、鋼の市場が拡大した。 |
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1884年、[[ペンシルベニア州]]ベナンゴ郡の産油地帯にある農場に4万ドルを出資。その農場に設置した油井から1年で石油が採れ利益が上がるようになり、配当金として100万ドルを得た。 |
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=== 実業家として === |
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==== 1885–1900: 鉄鋼王 ==== |
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[[ファイル:Bessemer converter.jpg|right|thumb|300px|ベッセマー転炉]] |
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カーネギーの母は彼を結婚させなかった<ref name="books.google.com">{{Cite web|url= http://books.google.com/books?id=vgi3OveS4b4C&pg=PA78&dq=Andrew+Carnegie+married&hl=en&sa=X&ei=hjChUIjAFIHDygGK2YDgBA&sqi=2&ved=0CC0Q6AEwAA#v=onepage&q&f=false |title=Andrew Carnegie: Industrial Philanthropist - Laura Bufano Edge - Google Books |publisher=Books.google.com |date= |accessdate=2012-11-20}}</ref>。1886年に母が亡くなると、[[1887年]][[4月22日]]、52歳の時、ルイーズ・ホイットフィールド(30)という女性と結婚した<ref name="books.google.com"/><ref>{{Cite web|url= http://books.google.com/books?id=CyvHd3LxnIkC&pg=PA72&dq=Andrew+Carnegie+Louise&hl=en&sa=X&ei=6DKhUOvWEOvOyAH1k4DIAQ&ved=0CDMQ6AEwAg#v=onepage&q=Andrew%20Carnegie%20Louise&f=false |title=Andrew Carnegie: Captain of Industry - Dana Meachen Rau - Google Books |publisher=Books.google.com |date= |accessdate=2012-11-20}}</ref>。1897年、唯一の子どもである[[娘]]が産まれ<ref>{{Cite web|url= http://books.google.com/books?id=vgi3OveS4b4C&pg=PA93&dq=Andrew+Carnegie+Louise&hl=en&sa=X&ei=6DKhUOvWEOvOyAH1k4DIAQ&ved=0CDwQ6AEwBQ#v=onepage&q&f=false |title=Andrew Carnegie: Industrial Philanthropist - Laura Bufano Edge - Google Books |publisher=Books.google.com |date=1902-06-21 |accessdate=2012-11-20}}</ref>、母の名をとって[[マーガレット]]と名付けた<ref>{{Cite web|url= http://books.google.com/books?id=82w0rAyuhUkC&pg=PA40&dq=Andrew+Carnegie+married&hl=en&sa=X&ei=hjChUIjAFIHDygGK2YDgBA&sqi=2&ved=0CDYQ6AEwAw#v=onepage&q&f=false |title=Andrew Carnegie: And the Steel Industry - Lewis K. Parker - Google Books |publisher=Books.google.com |date= |accessdate=2012-11-20}}</ref>。 |
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カーネギーはそれまでにアメリカで個人が所有する最大の製鋼所を経営し、[[鋼|製鋼業]]で財産を形成した。彼が成し遂げた2回の重要な技術革新のうち1つは、[[製鋼]]に[[ベッセマー法]]を採用して鋼を安価に大量生産できるようにしたことである。[[ヘンリー・ベッセマー]]は、炭素含有量の高い[[銑鉄]]を制御された高速な方法で燃焼させる炉を発明した。その結果鋼の価格が下がり、橋や建築用の桁や梁、鉄道レールなどに鋼が使われるようになった。2つめは、原材料の供給元を含めた[[垂直統合 (ビジネス用語)|垂直統合]]を成し遂げたことである。1880年代後半、カーネギーの会社は[[銑鉄]]、[[コークス]]、鋼製のレールの世界最大の供給業者となっており、日産2,000トンの[[銑鉄]]を生産していた。1888年、ライバルの{{仮リンク|ホームステッド鉄鋼|en|Homestead Steel Works}}を買収し、それに伴って石炭と鉄鉱石の鉱山、685kmもの長い鉄道、大型貨物船を入手した。1892年、所有する会社をまとめて{{仮リンク|カーネギー鉄鋼|en|Carnegie Steel Company|label=カーネギー鉄鋼会社}}を創業。 |
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1889年にはアメリカの鋼生産量はイギリスを抜き、その大きな部分をカーネギーが所有していた。ペンシルバニア鉄道のかつての上司の名を冠した{{仮リンク|エドガー・トムソン製鋼所|en|Edgar Thomson Steel Works}}、ピッツバーグ・ベッセマー製鋼所、ルーシー溶鉱炉、ユニオン製鉄所、ユニオン工場 (Wilson, Walker & County)、キーストン鉄橋会社、ハートマン製鋼所、フリック・コークス、スコットランドの鉱山などを含み、カーネギーの帝国は成長していった。 |
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==== 1880–1900: 著作家および活動家として ==== |
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カーネギーはその後も実業家として活動し続けたが、文学的関心も満たすようになった。イギリスの詩人[[マシュー・アーノルド]]やイギリスの哲学者[[ハーバート・スペンサー]]を支援し、歴代の[[アメリカ合衆国大統領]]<ref>John K. Winkler ''Incredible Carnegie'', p. 172, Read Books, 2006 ISBN 978-1-4067-2946-7</ref>や政治家や著名な作家とも親交した<ref>John K. Winkler ''Incredible Carnegie'', p. 13, Read Books, 2006 ISBN 978-1-4067-2946-7</ref>。 |
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1879年、故郷[[ダンファームリン]]に水泳プールを建設。翌年には、ダンファームリンに無料図書館を建設するために4万ドルを寄付した。1884年、[[ニューヨーク大学]]医科大学院の前身であるベルビュー病院医科大学に5万ドルを寄付し、[[組織学]]の研究所を創設した(現在カーネギー研究所と呼ばれている)。 |
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1881年、70歳の母を含めた一家でイギリスへ旅行した。馬車でスコットランドを巡り、各地で歓迎された。故郷ダンファームリンへの凱旋がクライマックスであり、そこでカーネギーの寄付で建設されるカーネギー図書館の礎石を母が据えた。カーネギーはイギリス社会に批判的だったが、イギリスを嫌っていたわけではない。むしろ、英語圏の人々の関係強化のために[[触媒]]として働こうと考えていた。そのため、1880年代初めに彼はイングランドの複数の新聞を購読している。それも全て君主制を廃止して「イギリス共和国」を創設しようと主張している新聞だった。首相[[ウィリアム・グラッドストン]]を含め多くのイギリス人の友人がいた。 |
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1886年、弟のトーマスが43歳で他界。それでも事業での成功は続いた。そのころ[[スペリオル湖]]周辺の価値の高い鉄鉱山を安く購入している。イギリスへの旅行の後、その経験を ''An American Four-in-hand in Britain'' という本にして出版している。また、複数の雑誌に寄稿するようになった。例えば、{{仮リンク|ジェイムズ・ノウルズ (建築家)|en|James Knowles (architect)|label=ジェイムズ・ノウルズ}}が編集する ''[[:en:Nineteenth Century (periodical)|Nineteenth Century]]'' や{{仮リンク|ロイド・ブライス|en|Lloyd Bryce}}が編集する ''North American Review'' などである。 |
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1886年、''Triumphant Democracy''(民主主義の勝利)と題した当時としては過激な本を書いた。統計などを駆使し、イギリスの[[君主制]]よりもアメリカの[[共和制]]のほうが優れていると主張した本である。アメリカの発展を好意的かつ理想的に捉え、イギリス王室を批判している。表紙にはひっくり返った[[西洋の冠|王冠]]と壊れた[[王笏]]が描かれていた。この本はイギリスで大きな議論を呼んだ。アメリカでは好意的に受け入れられ、4万部を売り上げた。 |
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1889年、''North American Review'' 6月号に "Wealth" と題した記事を掲載<ref>[http://www.swarthmore.edu/SocSci/rbannis1/AIH19th/Carnegie.html "Wealth"]</ref>。これを読んだ[[ウィリアム・グラッドストン]]はイングランドでの出版を持ちかけ、''[[:en:Pall Mall Gazette|Pall Mall Gazette]]'' に "The Gospel of Wealth"(富の福音)として掲載された。この記事も大いに議論を呼んだ。カーネギーは裕福な実業家の人生は2つの部分から成るべきだと主張している。1つめは蓄財の期間、2つめはその富を大衆に分配する期間である。カーネギーは[[人生の意義|人生を価値あるものとする]]鍵は[[フィランソロピー]]だとした。 |
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カーネギーは偉大な[[ジャーナリスト]]としても知られており、新聞に寄稿したり編集者に手紙を書いたりした。新聞を読む習慣は幼少期のころからあった<ref>Swetnam, George (1980) ''Andrew Carnegie''. Twayne Publishers.</ref>。例えば、イングランドとスコットランドを旅行中に書き始めた "Round the world" と題した記事などがある<ref>{{Harvnb|Livesay|2006}}</ref>。 |
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1898年、カーネギーは[[フィリピン]]独立を画策した。[[米西戦争]]終結に伴い、アメリカはスペインから2000万ドルでフィリピンを購入。アメリカの[[帝国主義]]に対抗すべく、アメリカからの独立を買い取れるようにフィリピンの人々に個人的に2000万ドルを提供しようとした<ref>[http://www.pbs.org/wgbh/amex/carnegie/timeline/timeline2.html Andrew Carnegie timeline of events] PBS.</ref>。しかし、この申し出を受ける者は現れなかった。米西戦争の結果[[キューバ]]がアメリカに併合されそうになり、これにも反対した。こちらは[[グロバー・クリーブランド]]や[[ベンジャミン・ハリソン]]や[[マーク・トウェイン]]らと共に結成した[[アメリカ反帝国主義連盟]]による反対が若干功を奏した<ref>Robert P. Porter ''[http://books.google.com/books?id=t2goAAAAYAAJ&dq=andrew+carnegie+Cuba&lr= Industrial Cuba]'', p. 43, G. P. Putnam's Sons, 1899</ref><ref>Katherine Hirschfeld ''Health, Politics and Revolution in Cuba'', p. 117, Transaction Publishers, 2008 ISBN 978-1-4128-0863-7</ref>。 |
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==== 1901: USスチール ==== |
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1901年、66歳になったカーネギーは引退を考えていた。その準備として会社を一般的な株式会社化している。銀行家の[[ジョン・モルガン]]は当時のアメリカ金融業界の最重要人物で、カーネギーが非常に効率的に利益を生み出す様を見ていた。モルガンは鉄鋼業界を統一することで、コストを削減し、製品価格を下げ、大量生産し、労働賃金を上げることを想像した。そのためにはカーネギーの会社や他の会社を買収して合併させ、無駄を排除する必要がある。1901年3月2日、モルガンらの折衝により時価総額10億ドルを越える史上初の企業[[USスチール]]が誕生した。 |
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{{仮リンク|チャールズ・M・シュワブ|en|Charles M. Schwab}}が秘密裏に交渉したこの買収劇は、当時のアメリカ史上最大のものだった。モルガンが組織した[[トラスト (企業形態)|トラスト]]とカーネギーが手放した企業がUSスチールに組み入れられた。カーネギーの会社は年間売上高の12倍、4億8千万ドルで買収されており、当時最大の個人的取引だった。 |
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カーネギーの保有していた総額2億2563万9000ドルの株式は、50年間5%の金価格債券と交換された。その株式売却の契約は1901年2月26日になされている。そして3月2日、資本金14億ドル(当時のアメリカの国富の4%に相当)のUSスチールが創設された。[[債券]]は2週間以内にニュージャージー州[[ホーボーケン (ニュージャージー州)|ホーボーケン]]のハドソン信託会社に運び込まれ、約2億3千万ドルぶんの債券を収めるための地下室が新たに建設された。 |
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=== 引退後 === |
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==== 1901–1919: 篤志家として ==== |
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[[ファイル:James Bryce, 1st Viscount Bryce & Andrew Carnegie - Project Gutenberg eText 17976.jpg|thumb|カーネギー(左)と[[ジェームズ・ブライス]]]] |
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[[ファイル:Macomb Public Library.JPG|left|thumb|[[イリノイ州]]マコームにある[[カーネギー図書館]]]] |
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引退後のカーネギーは篤志家として活躍した。[[フィランソロピー|慈善活動]]に関する考え方については既に ''Triumphant Democracy'' (1886) と『富の福音』(1889) において表明していた。 |
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スコットランドの{{仮リンク|スキボ城|en|Skibo Castle}}を購入し、そことニューヨークを生活拠点とした。それからの[[人生]]は、公共の利益と社会的・教育的発展のために資産を使うことに捧げた。また英語の発展のため、{{仮リンク|スペル改正|en|spelling reform}}運動を強力に支持した。 |
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彼の様々な慈善活動の中でも突出しているのは、アメリカ合衆国、イギリス、他の英語圏の国々での[[公共図書館]]設置である。それらは[[カーネギー図書館]]と呼ばれ、数多くの場所に建てられた。最初の図書館は1883年、故郷ダンファームリンで開館した。彼の手法は、地元の自治体が土地と運営予算を用意できた場合だけ、建物と初期の蔵書を提供するというものだった。地元に対しては、1885年にピッツバーグに公共図書館用に50万ドルを寄付し、1886年にはアラゲイニーに音楽ホールと図書館用に25万ドルを寄付し、[[エディンバラ]]にも図書館用に25万ドルを寄付した。全部で3,000弱の図書館の設立資金を提供しており、アメリカ47州、カナダ、イギリス、[[アイルランド]]、オーストラリア、ニュージーランド、[[西インド諸島]]、[[フィジー]]に建設された。また、1899年には[[バーミンガム大学]]創設資金として5万ポンドを寄付している<ref>[http://ecommons.library.cornell.edu/handle/1813/25762 The Carnegie Committee], ''Cornell Alumni News'', II(10), November 29, 1899, p. 6</ref>。 |
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[[ファイル:Syracuse Carnegie Library.jpg|thumb|left|[[シラキュース大学]]のカーネギー図書館]] |
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19世紀末のアメリカでは、無料図書館を市民に開放すべきだという考え方が一般にみられた<ref>{{Harvnb|VanSlyck|1991}}</ref>。しかし、理想的な無料図書館のデザインについては白熱した議論が戦わされていた。図書館の専門家は管理運営を効率化できるデザインを要求していたが、一方で篤志家らは温情主義的で市民の誇りとなるような建物を好んだ。1886年から1917年にかけて、カーネギーはその両者の考えを折衷し、図書館の慈善的な面と効率的デザインを追求した。 |
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ニューヨーク州のブルーム郡公共図書館は1904年10月に開館した。当初はビンガムトン公共図書館と呼ばれ、カーネギーの7万5千ドルの寄付で建てられたものである。この建物は公共図書館と公民館として使えるよう設計された。 |
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1901年、カーネギーが寄付した200万ドルでピッツバーグに[[カーネギー工科大学]]{{enlink|Carnegie Institute of Technology}} (CIT) が創設され、1902年にも同額を寄付してワシントンD.C.に[[カーネギー研究所|ワシントン・カーネギー協会]]が創設された。その後も両組織に寄付をしており、他の大学にも寄付をしている。CITは後に[[カーネギーメロン大学]]の一部となっている。[[コーネル大学]]では理事を務めた。 |
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[[ファイル:CMU Hamerschlag Hall.jpg|thumb|right|[[カーネギーメロン大学]]]] |
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[[ジョージ・ヘール]]は[[カーネギー研究所|ワシントン・カーネギー協会]]の支援で[[ウィルソン山天文台]]の257センチ反射望遠鏡建設を建設していたが、カーネギーは存命中にその完成を迎えたいと考え1911年に同協会に1000万ドルを寄付し、建設促進を図った。望遠鏡は1917年11月2日に[[ファーストライト]]を迎えた<ref>Simmons, Mike (1984). [http://www.mtwilson.edu/his/art/g1a4.php "History of Mount Wilson Observatory – Building the 100-Inch Telescope"]. [[ウィルソン山天文台|Mount Wilson Observatory]] Association (MWOA).</ref>。カーネギーが亡くなったのはその後である。 |
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1901年、スコットランドで1000万ドルを [[:en:Carnegie Trust for the Universities of Scotland|Carnegie Trust for the Universities of Scotland]] 設立のために寄付した。彼が契約書に署名したのは1901年6月7日で、1902年8月21日に設立認許状が発効した。当時スコットランドの4大学への政府の補助金は5万ポンドしかなかった。トラストの目的はスコットランドの大学での科学研究を発展させ、スコットランドの優秀な若者が大学に進学できるようにすることである<ref>[http://www.carnegie-trust.org/our-history.html Carnegie Trust for the Universities of Scotland]</ref>。カーネギーは[[セント・アンドルーズ大学 (スコットランド)|セント・アンドルーズ大学]]の名誉総長に選ばれた。故郷ダンファームリンにも多額の寄付をしている。図書館に加え、個人的に土地を買い{{仮リンク|ピッテンクリーフ公園|en|Pittencrieff Park}}として一般解放した。またダンファームリンの住民のために Carnegie Dunfermline Trust<ref>[https://www.oscr.org.uk/search-charity-register/charity-extract/?charitynumber=sc015710 Carnegie Dunfermline Trust, Registered Charity no. SC015710] at the Office of the Scottish Charity Regulator</ref> を設立している。2013年現在、ダンファームリンにはカーネギーの像がある。1913年にはさらに [[:en:Carnegie United Kingdom Trust|Carnegie United Kingdom Trust]] 設立に1000万ドルを寄付し、補助金の基金とした<ref>[https://www.oscr.org.uk/search-charity-register/charity-extract/?charitynumber=sc012799 Carnegie United Kingdom Trust, Registered Charity no. SC012799] at the Office of the Scottish Charity Regulator</ref><ref>[http://www.carnegieuktrust.org.uk Carnegie United Kingdom Trust website]</ref>。 |
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1901年、ホームステッドのかつての従業員のために大規模な年金も創設している。1905年にはアメリカの大学教授たちのための年金を創設した。こちらは[[:en:TIAA-CREF|TIAA-CREF]]の一部となった。なお、何らかの宗教を背景にした大学はその宗教との関係を断ち切ることが年金加入の条件になっていた。 |
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音楽を愛したカーネギーは7,000台の教会用オルガンを作らせている。1891年に建設した[[カーネギー・ホール]]は寄贈せずに所有していたが、[[1925年]]に彼の未亡人が売却した。ただし2013年現在もそのままの名前が使用されている。 |
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[[ファイル:Pittencrieff Park, Dunfermline.jpg|thumb|160px|ピッテンクリーフ公園(ダンファームリン)]] |
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[[ブッカー・T・ワシントン]]が黒人教育のために創設した{{仮リンク|タスキーギ大学|en|Tuskegee University|label=タスキーギ職業訓練校}}も支援している。また、ワシントンが [[:en:National Negro Business League|National Negro Business League]] を創設するのも支援した。 |
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1904年、アメリカとカナダで英雄的行為(自己犠牲的行為)を表彰する{{仮リンク|カーネギー英雄基金|en|Carnegie Hero Fund}}を創設。同様の基金を後にイギリス、スイス、ノルウェー、スウェーデン、フランス、イタリア、オランダ、ベルギー、デンマーク、ドイツにも創設した。1903年にはオランダの[[デン・ハーグ]]にて[[平和宮]]を建設する資金として150万ドルを寄付し、この建物は後に[[国際司法裁判所]]として使用されている。 |
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カーネギーの慈善活動と芸術振興を称えて1917年10月14日、ボストンの[[ニューイングランド音楽院]]にてカーネギーを [[:en:Phi Mu Alpha Sinfonia|Phi Mu Alpha Sinfonia]] という[[フラタニティとソロリティ|フラタニティ]]の名誉会員とする式典が行われた。同フラタニティの理念とカーネギーの若者の才能を伸ばすという価値観が一致したためである。 |
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19世紀当時の富豪の基準をもって判断すれば、カーネギーは特に冷酷な男というわけではなく、「冷徹に利益を追求する貪欲さは十分持ち合わせている[[人道主義]]者」、ということになる<ref>Krause, Paul. ''The Battle for Homestead 1880–1892'', p. 233, University of Pittsburgh Press, 1992 ISBN 978-0-8229-5466-8</ref>。別の言い方をするならば(今日的な視点で見ると)、彼の生活(水準)と彼が雇っていた労働者たちや貧困者たちの生活(水準)は著しく異なっていた。伝記作家 Joseph Wall は「おそらくカーネギーは自分の金を分け与えることでその金を集めるためにしてきたことを正当化しようとしたのだろう」とコメントした<ref>[http://www.pbs.org/wgbh/amex/carnegie/filmmore/description.html "Andrew Carnegie"]. ''The American Experience''. PBS.</ref>。 |
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スコットランドからの移民の子が成功したということで、カーネギーを[[アメリカン・ドリーム]]の体現者だと見る人もいる。彼は成功を収めただけでなく篤志家としても活動し、さらには植民地化された国々の民主化と独立も実現しようと努力した<ref>Swetnam, George. (1980) Twayne Publishers.</ref>。 |
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=== 死 === |
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[[ファイル:Andrew Carnegie Gravesite.JPG|thumb|150px|カーネギーの墓(ニューヨーク州スリーピーホロー)]] |
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[[ファイル:Andrew Carnegie Footstone 2010.JPG|thumb|150px|right|アンドリュー・カーネギーの名が刻まれた台石]] |
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1919年8月11日、[[気管支肺炎]]のためマサチューセッツ州レノックスで亡くなった。生前、既に3億5069万5653ドルを寄付していた<ref>{{Cite news|title=Andrew Carnegie Dies Of Pneumonia In His 84th Year|url= http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?res=9A05E2DA1338EE32A25751C1A96E9C946896D6CF |quote=Andrew Carnegie died at Shadow Brook of bronchial pneumonia at 7:10 o'clock this morning. |work=The New York Times |date=August 12, 1919 |accessdate=2008-08-01}}</ref>。遺産の3000万ドルも基金や慈善団体や年金などに遺贈された<ref>{{Cite news|title=Carnegie's Estate, At Time Of Death, About $30,000,000 |url= http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?res=9E03E3DF103DE533A2575AC2A96E9C946896D6CF |quote=The will of Andrew Carnegie, filed here yesterday and admitted to probate immediately by Surrogate Fowler, disposes of an estate estimated at between $25,000,000 and $30,000,000. The residuary estate of about $20,000,000 goes to the Carnegie Corporation. |work=The New York Times |date=August 29, 1919 |accessdate=2008-08-01}}</ref>。[[ニューヨーク州]]ノース・タリータウン(2013年現在のスリーピーホロー)にあるスリーピーホロー墓地に埋葬された。いわゆる[[金ぴか時代]]を代表するもう1人の有名人[[サミュエル・ゴンパーズ]]もすぐ近くに埋葬されている<ref>{{Cite web|url= http://www.sleepyhollowcemetery.org/about/famous-interments/|title=Famous Interments |year=2009|publisher=Sleepy Hollow Cemetery Historic Fund|accessdate=2010-04-19}}</ref>。 |
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== 批判 == |
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=== 1889: ジョンズタウン洪水 === |
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カーネギーも会員だった{{仮リンク|サウスフォーク・フィッシング・ハンティングクラブ|en|South Fork Fishing and Hunting Club}}は、1889年に2,209名の死者を出した{{仮リンク|ジョンズタウン洪水|en|Johnstown Flood}}の原因を作ったとして非難されている<ref>Frank, Walter Smoter (2004). "The Cause of the Johnstown Flood". Walter Smoter Frank. According to the source, the article is a version of a May 1988 article in Civil Engineering, pp. 63–66</ref>。 |
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友人のベンジャミン・ラフの発案で仕事上のパートナー{{仮リンク|ヘンリー・クレイ・フリック|en|Henry Clay Frick}}がペンシルベニア州ジョンズタウンの上流に作ったのがサウスフォーク・フィッシング・ハンティングクラブである。60人余りの会員はペンシルベニア州西部の富豪たちで、フリックの親友[[アンドリュー・メロン]]、弁護士{{仮リンク|フィランダー・ノックス|en|Philander Knox}}、ジェイムズ・ヘイ・リード、カーネギーらが参加していた。ジョンズタウンの上流にあるサウスフォークという町の近くに{{仮リンク|サウスフォークダム|en|South Fork Dam}}があった。このダムはペンシルベニア州政府が1838年から1853年までの年月をかけて、ジョンズタウンのある盆地に運河網を作るための貯水池として建設したものである。しかし輸送手段が運河から鉄道に移ったためダムは不要となり、ペンシルバニア鉄道が買い取り、さらに1881年にはサウスフォーク・フィッシング・ハンティングクラブの所有となった。そして、ダム自体は若干修理しただけで貯水量を増やして人工湖とし、湖畔に別荘やクラブハウスを建設した。このダムから20マイル下流にジョンズタウンがあった。 |
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ダムの高さは22m、幅は284mだった。1881年にクラブを開設してから1889年までにダムは度々漏水し、主に泥や麦わらで応急修理していた。さらに以前の所有者が[[鋳鉄]]製の3本の放水管を撤去しており、制御された形で放水できない状態になっていた。ジョンズタウンのさらに下流にあるカンブリア製鉄所がダムについての懸念を表明していた。1889年初頭の積雪が春の到来と共に融け、水かさが増えてダムが耐え切れなくなり、5月31日にジョンズタウンに向かって2000万トンの水が流れ込み洪水となった<ref>David McCullough, "The Johnstown Flood", (1968)</ref>。ダム決壊の一報がピッツバーグに伝えられると、フリックをはじめとするクラブ会員が集まり、被災者支援のためのピッツバーグ救済委員会を作り、クラブと洪水の関係については一切公言しないことを申し合わせた。この戦略は成功し、クラブ会員は訴えられずに済んだ。 |
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カンブリア製鉄所は洪水で多大な被害を被ったが、1年以内に操業再開にこぎつけた。洪水後、カーネギーはジョンズタウンの図書館を再建している。その図書館は2013年現在では洪水博物館になっている。 |
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=== 1892: ホームステッド工場のストライキ === |
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1892年に起こった{{仮リンク|ホームステッド・ストライキ|en|Homestead Strike}}は143日間も続いた[[労働争議]]で流血沙汰になり、アメリカ史上最も深刻なストライキである。カーネギー鉄鋼の本拠地ペンシルベニア州ホームステッドで、組合と会社の間の論争から発展して発生した。 |
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不安がピークに達する前に、カーネギーはスコットランド旅行に出発している。組合との調停はパートナーだったヘンリー・クレイ・フリックに委ねた。フリックは組合を快く思っていないことで有名だった。 |
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前年度会社は60%も利益が増加していたが、会社側は給与を30%以上増やすことを断わった。一部労働者が60%の賃金増を要求したため、経営側は組合員を締め出した。労働者側はこれを経営側による[[ロックアウト]]だとし、ストライキが発生した。フリックは数千人のスト破りの作業員を雇い、作業員を守るために[[ピンカートン探偵社]]に協力を要請した。 |
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7月6日、ピンカートンがニューヨークとシカゴから300人の護衛を送り込み、乱闘が発生。死者10人(ストライキ側が7人、ピンカートン側が3人)、負傷者数百名の大惨事となった。ペンシルベニア州知事はこれを鎮圧するため州兵を送り込んだ。ストライキとの直接の関係はないが、同年[[アナキズム|アナキスト]]の[[アレクサンダー・バークマン]]がフリック暗殺を試み、フリックは負傷した。バークマンは「フリックを排除すれば、カーネギーがホームステッドの一件の責任者になる」と思ったと述べている<ref>Alexander Berkman ''[http://books.google.com/books?id=FC4UAAAAIAAJ&dq=Alexander+Berkman&lr= Prison Memoirs of an Anarchist]'', p. 67, Mother Earth Publishing Association, 1912</ref>。その後、非組合員の移民を労働者として雇い入れることで操業再開にこぎつけ、カーネギーがアメリカに帰国した。しかし、この一件でカーネギーの評判に傷がつく結果となった。 |
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== 哲学 == |
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=== 富について === |
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[[ファイル:Andrew Carnegie at Skibo 1914 - Project Gutenberg eText 17976.jpg|thumb|スキボ城にて (1914)]] |
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[[ファイル:Stain Glass Andrew Mellon.JPG|thumb|アンドリュー・カーネギーに捧げられたステンドグラス([[ワシントン大聖堂]])]] |
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1868年、33歳のとき、カーネギーは「蓄財は偶像崇拝の悪い種の一つだ。金銭崇拝ほど品位を低下させる偶像はない」と書き残している<ref>Maury Klein ''The Change Makers'', p. 57, Macmillan, 2004 ISBN 978-0-8050-7518-2</ref>。そして同じ文章の中で、自分の品位を落とさないために35歳で引退してその後は慈善活動を行うと記し「金持ちとして死ぬことほど不名誉なことはない」と書いている。しかし、彼が最初に慈善活動を行ったのは1881年のことで、故郷ダンファームリンでの図書館建設だった<ref>Dwight Burlingame ''Philanthropy in America'', p. 60, ABC-CLIO, 2004 ISBN 978-1-57607-860-0</ref>。死の際にやむなく行う遺贈ではなく、生存中に活用先への責任を持ちながら行った、[[スタンフォード大学]]の創設者[[リーランド・スタンフォード|スタンフォード]]のような例を模範として実践した。 |
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彼は著書『''富の福音''』のなかで、「裕福な人はその富を浪費するよりも、社会がより豊かになるために使うべきだ。」と述べている。 |
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1908年、カーネギーは当時ジャーナリストだった[[ナポレオン・ヒル]]に500人以上の裕福な成功者にインタビューして成功の共通点を見つけることを無償で依頼した。結局ヒルはカーネギーの協力者となった。彼らの成果はカーネギーの死後に ''[[:en:The Law of Success|The Law of Success]]'' (1928) と ''[[:en:Think and Grow Rich|Think and Grow Rich]]'' (1937) というヒルの著作として出版された。特に後者は初版以降絶版になったことがなく、全世界で総計3000万部を売り上げている。1960年、ヒルはカーネギー式の蓄財法についても記した簡易版を出版している。長らくそれが入手可能な唯一の版だった。2004年、ロス・コーンウェルが ''Think and Grow Rich!: The Original Version, Restored and Revised'' を出版。これは本来の版を若干改訂したものに詳細な巻末注と索引と付録を追加したものである。 |
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=== 知的影響 === |
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カーネギーは[[ハーバート・スペンサー]]の著作を高く評価し、スペンサーが自身の教師だとさえ述べている<ref>Carnegie, Andrew (2009-12-14).''The Autobiography of Andrew Carnegie and The Gospel of Wealth''(p. 165). Neeland Media LLC. Kindle Edition.</ref>。しかしその行動はスペンサーの考え方に反する部分も多い。 |
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スペンサー流の[[社会進化論]]は、政府の干渉に反対し個人の権利を尊重するもので、適者生存という考え方が根底にある。スペンサーは昆虫が特定の環境に適応して様々な種に分かれていったように、人間社会も自然に分業化されると考えた<ref>Spencer, Herbert, 1855 (The Principles of Psychology, Chapter 1. Method). (Kindle Locations 7196-7197). Kindle Edition</ref>。生存競争を勝ち抜いた個人は進化の最先端にあり、その世代で選び抜かれた自衛力の最も強い個体だとする<ref>Spencer, Herbert 1904. (An Autobiography, Chapter 23, A More Active Year) (Kindle Location 5572). Peerless Press. Kindle Edition</ref>。さらにスペンサーは、政府の権限は社会的求心力や人権を保護するために人々から一時的に与えられているに過ぎないとした<ref>Spencer, Herbert, 1851 (Social Statics, Chapter 19 The Right to Ignore the State). (Kindle Locations 43303-43309). Kindle Edition.</ref><ref>Spencer, Herbert, 1851 (Social Statics, Chapter 21 The Duty of the State). (Kindle Locations 44159-44168). Kindle Edition.</ref>。スペンサー流の「適者生存」の考え方では不平等な状態を是とし、弱者や貧者への施しは進化を害するとしている<ref name="ReferenceA">Spencer, Herbert, 1851 (Social Statics, chapter 25 poor-laws). (Kindle Locations 45395-45420). Kindle Edition.</ref>。スペンサーは、弱者や堕落した者や障害者を選り分ける厳しい運命に人々が抗うことが社会のためになると強調している<ref name="ReferenceA"/>。 |
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カーネギーが19世紀末から20世紀初頭にかけてとった政治的・経済的立場は、自由競争主義を擁護するものだった。そのため政府主導の慈善活動や政府による商業活動への干渉には激しく抵抗した。カーネギーは資本の集中が社会の進化に必須だと信じ、奨励されるべきだと考えていた<ref name="ReferenceB">Carnegie, Andrew 1901 The Gospel of Wealth and Other Timely Essays (Popular Illusions about Trusts). (Kindle Locations 947-954). Neeland Media LLC. Kindle Edition.</ref>。カーネギーは商業における「適者生存」を熱心に支持し、鉄鋼業のすべての工程を支配する際の障害となるものを排除していった<ref name="Nasaw07">{{Harvnb|Nasaw|2007}}</ref>。コスト削減をする際には労働経費削減も行った<ref>Carnegie, Andrew (2009-12-14). The Autobiography of Andrew Carnegie and The Gospel of Wealth (pp. 118-121). Neeland Media LLC. Kindle Edition.</ref>。スペンサー流の考え方ではコスト削減による物価下落が自然なことであり、組合はコストを押し上げて社会進化を妨げる存在だった<ref>Carnegie, Andrew 1901 The Gospel of Wealth and Other Timely Essays (Popular Illusions about Trusts). (Kindle Locations 1188-1195). Neeland Media LLC. Kindle Edition.</ref>。カーネギーは自身の行為が社会全体に役立っていると信じ、組合は少数の私利私欲を体現していると思っていた<ref name="Nasaw07"/>。 |
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表面上カーネギーはスペンサーを信奉する他の自由競争主義の資本家と同じようであり、自らスペンサーの弟子だと称していた<ref name="Carnegie, Andrew pp. 163-171">Carnegie, Andrew (2009-12-14). The Autobiography of Andrew Carnegie and The Gospel of Wealth (pp. 163-171). Neeland Media LLC. Kindle Edition.</ref>。一方でカーネギーはスペンサー流の適者生存を体現した人と見られていた。1903年にスペンサーが亡くなるまで2人は互いに尊敬しあい、親交していた<ref name="Carnegie, Andrew pp. 163-171"/>。しかしスペンサーの社会進化論とカーネギーの資本家としての行為には、いくつか重要な不一致が存在する。 |
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スペンサーは製造業において個人の優れた資質は比較的影響が小さいとし許容できるとしたが、市場の大部分を独占する者が現れると競争が阻害される虞があるとした。そして独占者が同情的自制のない性格だった場合、競合者が打ち負かされる可能性がある点を懸念していた<ref name="autogenerated1">Spencer, Herbert 1887 (The Ethics of Social Life: Negative Beneficence). The Collected Works of 6 Books (With Active Table of Contents) (Kindle Locations 26500-26524). Kindle Edition.</ref>。彼は自由市場競争の果てに戦争状態が必ず到来するとは思っていなかった。さらにスペンサーは経済力が上の者が競争相手を廃業に追い込むためにその経済力を活用する「商業的殺人」も行われていると主張した<ref name="autogenerated1"/>。カーネギーは垂直統合によって鉄鋼業で富を築いた。また、何社かの競争相手は株式の大部分を押さえるという手法で買収し吸収合併し、自らの会社を成長させていった<ref>{{Harvnb|Morris|2005|p=132}}</ref>。さらに鉄道会社との密接な関係もカーネギーの成功の一因であり、鉄道会社が線路などに鉄鋼を必要としただけでなく、原材料や鉄鋼製品の輸送で鉄道会社が潤うという面もあった。鉄鋼業と鉄道業は自由競争に任せずに価格カルテルを結んでいた<ref name="Nasaw07" />。 |
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カーネギーが市場操作した以外に、アメリカの関税は自国の鉄鋼業界に有利になるよう設定されていた。カーネギーは有利な関税率が継続されるよう議会にも熱心に働きかけていた<ref name="Nasaw07" />。カーネギーはそのことを隠そうとしていたが、1900年にヘンリー・クレイ・フリックがいかに関税率がカーネギー鉄鋼にとって有利に設定されていたかを明らかにした<ref name="Nasaw07" />。スペンサーは、規制や関税など政府による経済活動への干渉は絶対反対の立場だった。スペンサーは関税を製造業者や職人など少数の人々に利するために大勢から取り立てる課税形態だと考えていた<ref>Spencer, Herbert. Principles of Ethics, 1897 (Chapter 22: Political Rights-So-called). (With Active Table of Contents) (Kindle Locations 24948-24956). Kindle Edition.</ref>。カーネギーが友人としてスペンサーと個人的に親しかったのは確かだが、政治的・経済的思想の面では必ずしも忠実な信奉者ではなかった。また、カーネギーはスペンサーの主要な理論の一部を誤解するか意図的に誤り伝えたようである。 |
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{{Quote|人間社会の条件から次のような重要な要求が生まれる。資本の集中化は今日の需要を満たすのに必須であり、疑いの目で見ずに促進されるべきである。それが人間社会に有害ということは全くないが、多くは有益であるかまたは間もなく有益となることを義務付けられる。それは不均質から均質への進化であり、明らかに発展の新たな段階である。|Carnegie, Andrew 1901 The Gospel of Wealth and Other Timely Essays<ref name="ReferenceB"/>}} |
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慈善活動の面では、カーネギーの行動はスペンサーの哲学から大きく乖離しており、複雑化している。1854年の論文 ''Manners and Fashion'' でスペンサーは公教育を「古い体系」(old schemes) と称した。彼はさらに、公立学校や大学は学生の頭を無駄な知識で一杯にし、有益な知識は教えないとした。スペンサーは政治・宗教・文学・慈善など種類を問わずあらゆる組織を信用しないとし、組織が影響力を強めれば規制も強化されると信じていた。それに加えてスペンサーはあらゆる組織は発展するに従って権力と金が集まって堕落し、当初の精神を失い、活気のない機構へと変化するとした<ref>Spencer, Herbert. 1854 (Manners and Fashion)The Collected Works of 6 Books (With Active Table of Contents) (Kindle Locations 74639-74656). Kindle Edition.</ref>。スペンサーは貧しく圧政に苦しむ人々を救おうとする慈善活動は、どんな形であれ無謀であり何も成し遂げられないと主張している。スペンサーは貧困層を救済しようとする試みは後世に増大する禍根を残すだけだと考えていた<ref>Spencer, Herbert; Eliot, Charles William (2011-09-15). The Collected Works of 6 Books (With Active Table of Contents) (Kindle Locations 45395-45420). Kindle Edition.</ref>。スペンサーの信奉者を自称するカーネギーは「私は事業でできるかぎりの良いことを行ってきた。私はその事業から完全に手を引いた」と述べている<ref>Andrew Carnegie congressional testimony February 5, 1915</ref>。 |
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カーネギーは社会の進歩は道徳的義務を果たす個人に依存していると考えていた<ref name="Nasaw07" />。したがって本当の慈善とは、自ら成長し目標を達成しようとする人々を助ける形で行うべきだと信じていた<ref name="autogenerated2">Carnegie, Andrew (2011-03-31). The Gospel of Wealth and Other Timely Essays (Kindle Locations 747-748). Neeland Media LLC. Kindle Edition.</ref>。さらに他の富豪にも公園、美術品、図書館、その他コミュニティを改善する何らかの努力など長続きする形での寄付を勧めている<ref>Carnegie, Andrew (2009-12-14). The Autobiography of Andrew Carnegie and The Gospel of Wealth . Neeland Media LLC. Kindle Edition.</ref>。また、遺産相続には強く反対している。成功した実業家の子孫は親ほど有能ではないと信じていた<ref name="autogenerated2"/>。多額の遺産を子らに残すことは、社会に還元できたはずの富を浪費するだけだと信じていた。特にカーネギーは、自分がそうだったように未来のリーダーは貧困層から生まれると信じていた<ref name="autogenerated3">Carnegie, Andrew (2011-03-31). The Gospel of Wealth and Other Timely Essays (Kindle Locations 682-689). Neeland Media LLC. Kindle Edition.</ref>。彼は、貧しいほど親は子を注意深く育て、職業倫理も叩き込むので、富裕層より貧困層の方が成功しやすいと信じていた<ref name="autogenerated3"/>。 |
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=== 宗教と世界観 === |
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19世紀のスコットランドでの宗派間の争いを目にしたカーネギーは、教団を持つ宗教には一切関わらなかった<ref name="Nasaw07" />。その代わりとして自然主義的用語や科学的用語を通して世界を見ることを好み、「神学と心霊を排除しただけでなく、進化の真実も見つけた」と述べている<ref>Carnegie, Andrew. ''Autobiography of Andrew Carnegie'' (1920, 2006). ISBN 1-59986-967-5 (p. 339)</ref>。 |
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年を経ると、反宗教的態度はやや軟化している。1905年から1926年まで[[社会的福音]]が司牧した Madison Avenue Presbyterian Church に属していたが、妻や娘は Brick Presbyterian Church に属していた<ref>[http://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=FA0E13F6395C1B728DDDAA0A94DC405B898DF1D3 "Bagpipe Tunes at Carnegie Wedding"]. ''The New York Times''. April 23, 1919.{{リンク切れ|date=2012年12月}}</ref>。また、「万物から生じる無限かつ永遠のエネルギー」への信仰を告白した聖[[アンデレ]]に対する文書を用意したことがある(公表しなかった)<ref>{{Harvnb|Nasaw|2007|p=625}}</ref>。ナポレオン・ヒルはカーネギーが「無限の知性」(Infinite Intelligence) を信じることが重要だとしていたと書いている(ヒルはそれを「神」または「絶対者」の言い換えとみなした)<ref>Hill, Napoleon (1953, 1981, revised 2004) ''How To Raise Your Own Salary'', The Napoleon Hill Foundation, pp. 77–78, ISBN 0-9743539-4-9 - also published as ''The Wisdom of Andrew Carnegie as Told to Napoleon Hill'', ISBN 0-937539-45-7</ref><ref>Hill, Napoleon and Cornwell, Ross (2004; 3rd edition 2008) ''Think and Grow Rich!: The Original Version, Restored and Revised'', Aventine Press, p. 330, ISBN 1-59330-200-2</ref>。 |
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=== 世界平和 === |
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イギリスの自由主義の政治家{{仮リンク|ジョン・ブライト|en|John Bright}}を英雄と捉えていたカーネギーは、若いころから世界平和の追求を心がけていた<ref>Carnegie, Andrew. ''Autobiography of Andrew Carnegie'' (Boston, 1920), Ch. 21, pp. 282–283</ref>。彼のモットー "All is well since all grows better" は事業に関してだけでなく、国際関係についての観点にも当てはまっている。 |
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世界平和への彼の愛好と努力にも関わらず、カーネギーは多くのジレンマ、国際関係への彼の見方と様々な義理の間の衝突に直面した。例えば1880年代から1890年代にかけて、カーネギーの事業はアメリカ海軍の近代化のため大量の装甲板を受注することで拡大した。その間カーネギーはアメリカの海外侵出に反対している<ref>Carnegie, Andrew. ''An American Four-in-Hand in Britain'' (New York, 1883), pp. 14–15</ref>。彼はまた[[英米関係]]の友好促進を唱えながら、イギリスの階級社会を批判する本を出版して議論を呼んでいる<ref>Carnegie, Andrew. ''Triumphant Democracy'', passim</ref>。 |
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アメリカが外国を併合しようとする件では、カーネギーは常に反対の立場だった。ハワイ、グアム、プエルトリコの併合には反対しなかったが、フィリピン併合には反対の立場を貫いた。フィリピン人が独立を求めて戦ったので、カーネギーはその島を征服することは民主主義の根本原則に反すると信じ、米軍を撤退させフィリピンを独立させることを[[ウィリアム・マッキンリー]]に進言した<ref>Carnegie, Andrew. "Americanism Versus Imperialism", esp. pp. 12–13</ref>。この行動は反帝国主義的な他のアメリカ人に感銘を与え、[[アメリカ反帝国主義連盟]]の副会長に彼が選ばれることになった。 |
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1901年に事業を売却すると、カーネギーは平和のために専念できるようになった。資産の多くを平和維持機関の発展のために寄贈した。友人でイギリスのジャーナリストだった[[ウィリアム・トーマス・ステッド]]が国際社会の平和と調停のための新機関創設を要請したとき、カーネギーは次のように答えている。 |
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{{Quote|私は別の組織を作るのが賢明とは思わない。もちろん私が間違っている可能性もあるが、億万長者の金で作られた組織は哀れみの対象として始まり、嘲笑の対象として終わるだろうことは確実だ。あなたがそれに気づかないとは驚きだ。億万長者の金ほど、その組織の権威の公平性を奪うものはない。だからその組織は汚されてしまう。<ref>Quoted in Hendrick. Carnegie 2: p.337</ref>}} |
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カーネギーは国際関係での平和維持は人々の努力と意志によると信じていた。お金は単に行動を促進するだけである。世界平和が財政援助にのみ依存するなら、それは目標ではなくなり、哀れみの行為にようなものになるだろう。 |
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1910年に創設した{{仮リンク|カーネギー国際平和基金|en|Carnegie Endowment for International Peace}}は、戦争根絶という最終目標に至る道程の重要な一里塚とみなされ、司法的手段を提供することで戦争を根絶しようとするものだった。彼はその基金が現行国際法下での国家の権利と責任についての情報収集を促進し、その成文化を促進するものとした<ref>{{Harvnb|Patterson|1970|pp=371–383}}</ref>。 |
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1914年、第一次世界大戦直前にカーネギーは Church Peace Union (CPU) という宗教界、学界、政界のリーダーたちのグループを結成した。彼はCPUを通して世界中の宗教団体や道徳的団体を結集し、戦争根絶に向けたリーダーシップを形成することを目論んでいた。結成イベントとして1914年8月1日、CPUは南ドイツにあるコンスタンス湖畔で国際会議を開催しようとした。しかし参加者が会場に向かおうとしたころ、ドイツによるベルギー侵攻が始まった。 |
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始まりは不吉だったが、CPUは発展した。今日では倫理に重点を置いており、{{仮リンク|カーネギー国際関係倫理協会|en|Carnegie Council for Ethics in International Affairs}} と呼ばれる独立した非営利組織となっている。その目的は国際関係における倫理的表明をすることである。 |
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第一次世界大戦勃発は世界平和について楽観的だったカーネギーに衝撃を与えた。彼の反帝国主義と平和促進の努力は全て失敗し、カーネギー基金も彼の期待に応えられなかったが、彼の国際関係についての信念と考え方は後の[[国際連盟]]結成の基盤を築くのに役立っている。 |
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== 文学における言及 == |
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[[ジョン・ドス・パソス]]の『北緯四十二度線』(1930) では、カーネギーが自信満々の投資家として描かれている<ref>{{Cite book|last=Dos Passos|first=John|title=42nd Parallel|isbn=978-0-618-05681-1|location=New York|publisher=Mariner Books|origyear=1930|year=2000|pages=207–208}}</ref>。 |
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== 著作 == |
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* ''An American Four-in-hand in Britain'' (1883) |
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* ''Round the World'' (1884) |
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* ''Triumphant Democracy'' (1886) |
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* ''[[:en:The Gospel of Wealth|The Gospel of Wealth]]'' (1889) |
|||
** 富の福音 伊藤重治郎訳 実業之日本社, 明36.1 |
|||
** 富の福音 自分がして欲しいことはまず人にそれを行え! [[田中孝顕]]監訳 騎虎書房 1990.12 |
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* ''The Empire of Business'' (1902) |
|||
** 実業の帝国 小池靖一訳 実業之日本社 明35.11 |
|||
* ''The Secret of Business is the Management of Men'' (1903)<ref>Carnegie, Andrew (1903). ''[http://books.google.com/books?id=ym0AAAAAYAAJ&pg=PA5&dq=the+world%27s+work&lr=&ei=sfMzStrgEqewkQSD3_CLBQ-a#PPA42,M2 The Secret of Business is the Management of Men]''</ref> |
|||
* ''James Watt'' (1905) - スコットランド偉人伝シリーズの1冊 |
|||
* ''Problems of Today'' (1907) |
|||
* ''Autobiography of Andrew Carnegie'' (1920) - 自伝<ref>{{Cite book |last=Carnegie |first=Andrew |editor=John Charles Van Dyke |title=Autobiography of Andrew Carnegie |url= http://books.google.com/books?id=RekoAAAAYAAJ&pg=PP1 |accessdate=2010-12-24 |year=1920 |publisher=Houghton Mifflin company |isbn=1-55553-000-1}}</ref> |
|||
** アンドルー・カーネギー自叙伝 小畑久五郎訳 富山房, 大正11 |
|||
** 製鉄王カーネギー自叙伝 大原武夫訳編 東洋書館, 1952 |
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** カーネギー自伝 [[坂西志保]]訳、東京創元社 1959 のち角川文庫「鉄鋼王カーネギー自伝」、中公文庫 |
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** 世界偉人自伝全集 カーネギー 石川光男訳編 小峰書店 1968 |
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=== 原著不明の邦訳 === |
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*最近五十年間米国繁昌記 高橋光威訳 博文館, 明24 |
*最近五十年間米国繁昌記 高橋光威訳 博文館, 明24 |
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*実業の帝国 小池靖一訳 実業之日本社 明35.11 |
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*富の福音 伊藤重治郎訳 実業之日本社, 明36.1 |
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*実業の鍵 伊藤重次郎訳 実業之日本社, 明38.10 |
*実業の鍵 伊藤重次郎訳 実業之日本社, 明38.10 |
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*国際平和論 [[都筑馨六]]訳 大日本平和協会, 明41.7 |
*国際平和論 [[都筑馨六]]訳 大日本平和協会, 明41.7 |
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*アンドルー・カーネギー自叙伝 小畑久五郎訳 富山房, 大正11 |
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*製鉄王カーネギー自叙伝 大原武夫訳編 東洋書館, 1952 |
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*実業成功への道 山田勝人訳 実業之日本社, 1953 |
*実業成功への道 山田勝人訳 実業之日本社, 1953 |
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*カーネギー自伝 [[坂西志保]]訳 東京創元社 1959 のち角川文庫「鉄鋼王カーネギー自伝」、中公文庫 |
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*世界偉人自伝全集 カーネギー 石川光男訳編 小峰書店 1968 |
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*富の福音 自分がして欲しいことはまず人にそれを行え! [[田中孝顕]]監訳 騎虎書房 1990.12 |
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*大富豪の黄金律を活用した生き方 A.カーネギーの人生哲学を学ぶ 田中孝顕監訳 騎虎書房 1996 |
*大富豪の黄金律を活用した生き方 A.カーネギーの人生哲学を学ぶ 田中孝顕監訳 騎虎書房 1996 |
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*私の履歴書 「黄金律」に生きた心優しい男の物語 田中孝顕訳 騎虎書房 1997.7 |
*私の履歴書 「黄金律」に生きた心優しい男の物語 田中孝顕訳 騎虎書房 1997.7 |
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== 記念と記録 == |
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==関連項目== |
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[[ファイル:Andrew Carnegie's statue, Dunfermline.jpg|thumb|right|200px|故郷[[ダンファームリン]]にある立像]] |
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* [[ディプロドクス]]・カルネギイイという恐竜は、彼の援助で[[ユタ州]]で発掘されたため、そのように名付けられた。カーネギーはこれを大層誇りに思い、ヨーロッパと南アメリカの博物館に完全骨格のレプリカを寄贈した。実際の化石は[[カーネギー自然史博物館]]にある。 |
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* カーネギーの栄誉を称えて、ペンシルベニア州とオクラホマ州にカーネギーと名付けられた町がある。 |
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* [[サボテン]]のパキケレウス連カルネギア属は、カーネギーから名付けられた。 |
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* [[カーネギー賞]]は、イギリスの児童文学賞である。カーネギー図書館を各地に建てた功績を称えて創設された。 |
|||
カーネギーの書簡は[[アメリカ議会図書館]]が所蔵している。コロンビア大学図書館のカーネギーコレクション<ref>[http://library.columbia.edu/indiv/rbml/units/carnegie.html Carnegie Collections] the Columbia University Libraries</ref>はカーネギーが創設したカーネギー財団などの文書を集め保管している。[[カーネギーメロン大学]]とピッツバーグのカーネギー図書館は共同でアンドリュー・カーネギー・コレクションを創設し、カーネギーの人生に関する資料をデジタル形式で公開している<ref>[http://diva.library.cmu.edu/carnegie/ Andrew Carnegie Collection]</ref>。 |
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== 脚注 == |
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{{Reflist|2}} |
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== 参考文献 == |
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=== 一次文献 === |
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*Carnegie, Andrew. [http://www.wordowner.com/carnegie/preface.htm ''Autobiography of Andrew Carnegie'']. (1920, 2006). ISBN 1-59986-967-5. |
|||
*Carnegie, Andrew. [http://digital.library.cornell.edu/cgi/t/text/pageviewer-idx?c=nora;cc=nora;rgn=full%20text;idno=nora0148-6;didno=nora0148-6;view=image;seq=0661;node=nora0148-6%3A1 ''Wealth'']. (1888, 1998). |
|||
*[[ナポレオン・ヒル|Hill, Napoleon]]. ''Think and Grow Rich'' (1937, 2004). ISBN 1-59330-200-2. - カーネギーとの長い関係についての回想とカーネギーについての幅広い巻末注がある。 |
|||
=== 二次文献 === |
|||
* Goldin, Milton. "Andrew Carnegie and the Robber Baron Myth". In ''Myth America: A Historical Anthology, Volume II''. 1997. Gerster, Patrick, and Cords, Nicholas. (editors.) Brandywine Press, St. James, NY. ISBN 1-881089-97-5 |
|||
*Josephson; Matthew. (1938, 1987). ''The Robber Barons: The Great American Capitalists, 1861–1901'' ISBN 99918-47-99-5 |
|||
*Krass, Peter. (2002). ''Carnegie'' Wiley. ISBN 0-471-38630-8 |
|||
* {{Cite journal|last=Lanier |first=Henry Wysham |year=1901 |month=April |title=The Many-Sided Andrew Carnegie: A Citizen of the Republic |journal=The World's Work: A History of Our Time |volume=I |pages=618–630 |id= |url= http://books.google.com/books?id=688YPNQ5HNwC&pg=PA618-IA2|accessdate=2009-07-09 |quote= }} |
|||
* Lester, Robert M. (1941). ''Forty Years of Carnegie Giving: A Summary of the Benefactions of Andrew Carnegie and of the Work of the Philanthropic Trusts Which He Created''. C. Scribner's Sons, New York. |
|||
* {{Citation |last=Livesay |first=Harold C. |year=2006 |title=Andrew Carnegie and the Rise of Big Business |edition=3rd |isbn=978-0321432872 |publisher=Pearson |pages=240}} |
|||
*{{Cite journal| author = Lorenzen, Michael. | year = 1999 | title = Deconstructing the Carnegie Libraries: The Sociological Reasons Behind Carnegie's Millions to Public Libraries | url = | journal = Illinois Libraries | volume = 81 | issue = 2| pages = 75–78 }} |
|||
* {{Citation |last=Morris |first=Charles R. |year=2005 |title=The Tycoons: How Andrew Carnegie, John D. Rockefeller, Jay Gould, and J. P. Morgan Invented the American Supereconomy |publisher=Times Books |isbn=0-8050-7599-2}} |
|||
* {{Citation |title= Andrew Carnegie|last= Nasaw|first= David|year= 2007|publisher= The Penguin Press|location= New York |isbn= 9780143112440 |url= http://books.google.co.jp/books?id=ni0EsmebjYwC&hl=ja&source=gbs_navlinks_s}} |
|||
*{{Cite journal|last=Patterson |first=David S. |year=1970 | title = Andrew Carnegie's Quest for World Peace | url = | journal = Proceedings of the American Philosophical Society | volume = 114 | issue = 5| pages = 371–383 |ref=harv}} |
|||
* Rees, Jonathan. (1997). "Homestead in Context: Andrew Carnegie and the Decline of the Amalgamated Association of Iron and Steel Workers." ''Pennsylvania History'' '''64'''(4): 509–533. ISSN 0031-4528 |
|||
*Ritt Jr., Michael J., and Kirk Landers. (1995). ''A Lifetime of Riches: The Biography of Napoleon Hill'' ISBN 0-525-94001-4 |
|||
* {{Citation |last=VanSlyck |first=Abigail A. |title='The Utmost Amount of Effective Accommodation': Andrew Carnegie and the Reform of the American Library. |journal=Journal of the Society of Architectural Historians |year=1991 |volume=50 |issue=4 |pages=359–383 |issn=0037-9808}} |
|||
*Wall, Joseph Frazier. ''Andrew Carnegie'' (1989). ISBN 0-8229-5904-6 |
|||
*[http://www.eh.net/encyclopedia/article/Whaples.Carnegie Whaples, Robert. "Andrew Carnegie"], ''Encyclopedia of Economic and Business History''. |
|||
* {{Citation |last=Mackay |first=James Alexander |title=Little Boss: a life of Andrew Carnegie |url= http://books.google.co.jp/books/about/Little_Boss.html?id=t2JmAAAAMAAJ&redir_esc=y |publisher=Mainstream |year=1997 |isbn=9781851588329 |pages=320}} |
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== 関連項目 == |
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* [[カーネギー研究所]] |
* [[カーネギー研究所]] |
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* [[カーネギー財団]] |
* [[カーネギー財団]] |
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* [[金ぴか時代]] |
* [[金ぴか時代]] |
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* [[泥棒男爵]] |
* [[泥棒男爵]] |
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* [[ディプロドクス]]([[恐竜]]。彼の援助で発掘された個体に、'''D.カーネギーイ'''(''D.carnegiei'')という名前がつけられている) |
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==外部リンク== |
== 外部リンク == |
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{{Wikisource author|Andrew Carnegie}} |
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{{Commonscat|Andrew Carnegie}} |
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*[http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40019185&VOL_NUM=00000&KOMA=2&ITYPE=0 『カーネギー』]([[1903年]]) |
*[http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40019185&VOL_NUM=00000&KOMA=2&ITYPE=0 『カーネギー』]([[1903年]]) |
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*{{Gutenberg author| id=Andrew+Carnegie | name=Andrew Carnegie}} |
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*[http://www.carnegiebirthplace.com/ Carnegie Birthplace Museum website] |
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*{{NRA|P4936}} |
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*{{Wikisource-inline|list= |
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**{{Cite Americana|Carnegie, Andrew|noicon=x}} |
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**{{Cite EB1911|Carnegie, Andrew|short=x|noicon=x}} |
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**{{Cite Appleton's|Carnegie, Andrew|year=1900|author=Anne Lynch Botta|noicon=x}} |
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}} |
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*{{Find A Grave|173|Andrew Carnegie|work=Businessman, Philanthropist|author=Edward Parsons|date=January 1, 2001|accessdate=2011-08-18}} |
|||
*[http://www.booknotes.org/Watch/173040-1/Peter+Krass.aspx ''Booknotes'' interview with Peter Krass on ''Carnegie'', November 24, 2002.] |
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{{Normdaten|VIAF=94625754}} |
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[[Category:1835年生|かあねきいあんとりゆう]] |
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[[Category:1919年没|かあねきいあんとりゆう]] |
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[[Category:アンドリュー・カーネギー|*かあねきいあんとりゆう]] |
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{{Persondata |
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[[af:Andrew Carnegie]] |
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|NAME= Carnegie, Andrew |
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[[ar:أندرو كارنجي]] |
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|ALTERNATIVE NAMES= |
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[[az:Endryu Karnegi]] |
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|SHORT DESCRIPTION= American businessman and philanthropist |
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[[bg:Андрю Карнеги]] |
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|DATE OF BIRTH= November 25, 1835 |
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[[ca:Andrew Carnegie]] |
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|PLACE OF BIRTH= Dunfermline, Fife |
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[[cs:Andrew Carnegie]] |
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|DATE OF DEATH= August 11, 1919 |
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[[da:Andrew Carnegie]] |
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|PLACE OF DEATH= Shadow Brook Lenox, Massachusetts |
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[[de:Andrew Carnegie]] |
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}} |
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[[en:Andrew Carnegie]] |
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{{DEFAULTSORT:かあねきい あんとりゆう}} |
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[[eo:Andrew Carnegie]] |
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[[Category:アンドリュー・カーネギー|*]] |
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[[es:Andrew Carnegie]] |
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[[Category:ペンシルベニア州の人物]] |
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[[eu:Andrew Carnegie]] |
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[[Category:1835年生]] |
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[[fa:اندرو کارنگی]] |
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[[Category:1919年没]] |
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[[fi:Andrew Carnegie]] |
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[[fr:Andrew Carnegie]] |
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[[fy:Andrew Carnegie]] |
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[[gu:એન્ડ્રુ કાર્નેગી]] |
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[[he:אנדרו קרנגי]] |
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[[hi:ऐंड्रू कार्नेगी]] |
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[[id:Andrew Carnegie]] |
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[[is:Andrew Carnegie]] |
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[[it:Andrew Carnegie]] |
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[[kn:ಆಂಡ್ಯ್ರೂ ಕಾರ್ನೆಗೀ]] |
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[[ko:앤드루 카네기]] |
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[[la:Andreas Carnegie]] |
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[[lt:Andrew Carnegie]] |
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[[mr:अँड्रु कार्नेगी]] |
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[[my:အင်ဒရူး ကာနက်ဂျီ]] |
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[[nl:Andrew Carnegie]] |
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[[no:Andrew Carnegie]] |
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[[oc:Andrew Carnegie]] |
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[[pl:Andrew Carnegie]] |
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[[pms:Andrew Carnegie]] |
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[[pnb:انڈریو کارنیگی]] |
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[[pt:Andrew Carnegie]] |
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[[ro:Andrew Carnegie]] |
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[[ru:Карнеги, Эндрю]] |
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[[simple:Andrew Carnegie]] |
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2013年3月22日 (金) 18:48時点における版
アンドリュー・カーネギー | |
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Andrew Carnegie (1913) | |
生誕 |
1835年11月25日 イギリス スコットランド、ファイフ、ダンファームリン |
死没 |
1919年8月11日(83歳没) アメリカ合衆国 マサチューセッツ州レノックス |
死因 | 気管支肺炎 |
職業 | 実業家、篤志家 |
純資産 | 2007年の価値に換算して2983億ドル[1] |
配偶者 | ルイーズ・ホイットフィールド |
子供 | マーガレット・カーネギー・ミラー |
署名 | |
アンドリュー・カーネギー(Andrew Carnegie[2], 1835年11月25日 - 1919年8月11日)は、スコットランド生まれでアメリカの実業家。崩れ行く橋を見て着想を得てカーネギー鉄鋼会社を創業し、成功を収めて「鋼鉄王」と称された。立志伝中の人物であり、ジョン・ロックフェラーに次ぐ史上2番目の富豪とされることが多い。事業で成功を収めた後、教育や文化の分野へ多くの寄付を行ったことから、2013年の今日でも慈善活動家としてよく知られている。1889年の『富の福音』はフィランソロピーを志す人々への啓蒙書となっている。
スコットランドのダンファームリンで生まれ、1848年には両親と共にアメリカに移住した。アメリカではまず織物工場で作業員として働き、後に同社オーナー専属の計算書記となった。間もなく電信配達夫となり、電信会社で昇進。1860年代には鉄道、寝台車、鉄橋、油井やぐらなどの事業を行った。
1870年代にはピッツバーグでカーネギー鉄鋼会社を創業。1890年代には同社が世界最大で最も高収益な会社となった。事業で得た富でカーネギー・ホールなどを建てている。引退した従業員のための年金基金も創設した。1901年、J・P・モルガンに4億8000万ドルで同社を売却。エルバート・H・ゲイリーのフェデラル鉄鋼会社と合併してUSスチールとなった。
カーネギーは残りの人生を慈善活動に捧げ、図書館建設、世界平和、教育、科学研究などに多額の寄付をした。アッパーアイオワ大学のキャンパスに図書館を建設するため、下院議長デイビッド・B・ヘンダーソンに2万5千ドルを寄贈している[3]。ニューヨーク・カーネギー財団、カーネギー国際平和基金、カーネギー研究所、カーネギーメロン大学、カーネギー博物館などの創設に資金を提供した。最も金をつぎ込んだのはアメリカ各地やイギリスおよびカナダなどでのカーネギー図書館、学校、大学の創設である。
生涯
前半生
1835年、カーネギーはスコットランドのダンファームリンで手織り職人の長男として生まれた[4]。生家の一階の半分を占める部屋は隣の手織り職人一家と共有で、居間としてもダイニングルームとしても寝室としても使われた[4]。アンドリューという名前は祖父にちなんでつけられた[4]。1836年、父ウィリアム・カーネギーがダマスク織りで儲けたため、やや広い家に移り住んだ[4]。叔父のジョージ・ローダーは彼にロバート・バーンズの作品やロバート1世やウィリアム・ウォレスやロブ・ロイ・マグレガーといったスコットランドの歴史上の偉人について教えた。
エピソード
カーネギーがまだ子供の頃、母親と一緒に市場へ買い物に行った時のことである。果物屋の店先に山積みされていたさくらんぼに見入るカーネギー少年に気付いた果物屋の主人が、「さくらんぼを一つかみ分だけサービスしてあげよう」と、気前よくカーネギー少年に言った。 しかし、カーネギー少年はさくらんぼに全く手を出そうとしない。 そこで主人が「さくらんぼは嫌いなのかい?」と尋ねたが、カーネギー少年は「嫌いじゃない」と言うだけで、やはりさくらんぼに手を出そうとしなかった。 主人は不思議そうな顔をしながら、さくらんぼをつかんでカーネギー少年の帽子に入れてやった。 それを見ていた母親もやはり不思議に思ったらしく、帰宅後に「どうして自分でさくらんぼを取らなかったの?」と尋ねてみると、カーネギー少年は得意そうに、「だって、ぼくの手よりも果物屋さんの手の方が大きいから、さくらんぼをいっぱいもらえるでしょ」と答えたという。カーネギーが子供の頃から人並外れて計算高い性格であったことを物語るエピソードである。
アメリカ移住
当時のイギリスの織物産業は、蒸気機関(力織機)を使用した工場に移りつつあり、手織り職人の仕事がなくなってしまったため、1848年に両親はアメリカ(ペンシルベニア州アラゲイニー、2013年現在のピッツバーグ)への移住を決める[5]。移住費用も借金する必要があった。当時のアラゲイニーは貧民街だった。1848年、13歳で初めて就いた仕事は綿織物工場でのボビンボーイ(織機を操作する女性工員にボビンを供給する係)で、1日12時間週6日働いた。当初の週給は1.20ドルだった[6]。父は当初綿織物工場で働いていたが、リンネルを織って行商する仕事を始めた。母は靴の包装でかせいだ。
鉄道
その後何度か転職し1850年、叔父の勧めもあってオハイオ電信会社のピッツバーグ電信局で電報配達の仕事に就く(週給2.50ドル)[7]。この仕事は劇場にタダで入れるなどの役得があり、そのおかげでカーネギーはシェイクスピア劇のファンになった。彼は非常に働き者で、ピッツバーグの企業の位置と重要な人物の顔をすべて記憶した。そうやって多くの関係を築いていった。また自分の仕事に細心の注意を払い、当時の電信局では受信したモールス信号を紙テープに刻み、テープからアルファベットに解読して電報を作成していたが、カーネギーはモールス信号を耳で聞き分ける特技を身につけ、1年以内に電信技士に昇格した。ジェームズ・アンダーソン大佐は、働く少年たちのために毎週土曜の夜に約400冊の個人的蔵書を解放しており、カーネギーはそこで勉強し読書好きになった。彼は経済面でも知的・文化的面でも借りられるものは何でも借り、独力で成功を導いた。その能力、重労働を厭わぬ自発性、忍耐力、用心深さは、間もなく好機をもたらした。
1853年、ペンシルバニア鉄道のトマス・アレクサンダー・スコットがカーネギーを秘書兼電信士として引き抜き、週給は4.00ドルになった。18歳の頃に、スコットがペンシルバニア鉄道の副社長に昇進すると、代わりにカーネギーがピッツバーグの責任者になった。このペンシルバニア鉄道での経験は後の成功に大いに役立っている。鉄道会社はアメリカ初の大企業群であり、その中でもペンシルバニア鉄道は最大の企業だった。カーネギーはそこで、特にスコットから経営と原価管理について多くを学んだ[8]。
スコットはまた、彼の最初の投資についても支援している。スコットや社長のJ・エドガー・トムソンは取引関係のある会社の内部情報を知りうる立場にあり、それを利用して株式を売買したり、代償の一部として契約相手の株式を得たりしていた[9]。1855年、スコットはカーネギーに500ドルでアダムス・エクスプレスの株式を購入する話をもちかけ、カーネギーの母が700ドルの家を抵当に入れて500ドルを捻出した[9][10]。数年後、オハイオへ移動中のカーネギーに発明家のウードルフが寝台車のアイデアを持ちかけ、ペンシルバニア鉄道は試験的な採用を決めた。ウードルフに誘われたカーネギーは、借金をして寝台車のための会社に出資し、大成功を収めた。彼はそうして得た資金を鉄道関連の会社(鉄鋼業、橋梁建設業、レール製造業など)に再投資していった。そうして徐々に資金を蓄えていき、後の成功の基盤を築いた。その後も企業を設立する際にトムソンとスコットとの密接な関係を利用しており、レールと橋梁を供給する会社を設立した際にはこの二人に株主となってもらった。
1860–1865: 南北戦争
南北戦争の前に、カーネギーはウードルフの会社とジョージ・プルマンの会社の合併を仲介した。プルマンは800km以上の長距離の旅行が可能な一等寝台車を発明した。その際の投資は大いに成功し、ウードルフとカーネギーの利益の源泉となった。その後もカーネギーはスコットの下で働き、鉄道のサービスにいくつか改善を施している。
1861年春、軍隊輸送の責任者(陸軍次官補)に任命されたスコットはカーネギーを東部の軍用鉄道と合衆国政府の電信網の監督に任命した。カーネギーは南軍によって寸断されたワシントンD.C.までの鉄道路線の再建を支援した。ブルランでの北軍の敗北の直後にワシントンD.C.への北軍の旅団を輸送する機関車に乗り込み、敗軍の輸送も現場で監督した。彼の指揮下で電信サービスは効率化され、北軍が最終的に勝利する一因となった。
南軍を打ち負かすには大量の弾薬を必要とし、補給には鉄道(と電信)が大いに活用された。この戦争で産業の重要性が明らかとなった。
キーストン鉄橋会社
南北戦争の際、艦船の装甲、砲、その他様々な工業製品に使用するため鉄鋼の需要が高まり、ピッツバーグは軍需産業の一大拠点となっていた。カーネギーは戦前から製鉄業に投資しており、それが富の源泉となった。
南北戦争終結後にペンシルバニア鉄道を退職し、製鉄業に専念するようになった。いくつかの製鉄所を創業し、最終的にピッツバーグでキーストン鉄橋会社(1865年)とユニオン製鉄所を創業。ペンシルバニア鉄道は辞めたがその経営陣(スコットやトムソン)とは密接な関係を保っていた。その関係を利用し、キーストン鉄橋会社が鉄橋建造の契約を結び、製鉄所がレール生産の契約を結んだ。また、スコットとトムソンには彼の会社の株主になってもらい、ペンシルバニア鉄道は彼の最大の顧客となった。最初の製鋼工場を建設した際は、トムソンの名を冠した。カーネギーは実業家として優れていただけでなく、人間的な魅力と文学的素養も備えていた。多くの社会的行事に招待されるようになり、それをうまく利用した[11]。セントルイスでミシシッピ川をまたいで建設されたイーズ橋(1874年完成)では、キーストン鉄橋を通して鋼製の材料を提供すると共に、このプロジェクト自体にも出資している。このプロジェクトは、材料としての鋼の技術的優位性を実証する試金石という面があったものであるが、それが成功したことで、鋼の市場が拡大した。
1884年、ペンシルベニア州ベナンゴ郡の産油地帯にある農場に4万ドルを出資。その農場に設置した油井から1年で石油が採れ利益が上がるようになり、配当金として100万ドルを得た。
実業家として
1885–1900: 鉄鋼王
カーネギーの母は彼を結婚させなかった[12]。1886年に母が亡くなると、1887年4月22日、52歳の時、ルイーズ・ホイットフィールド(30)という女性と結婚した[12][13]。1897年、唯一の子どもである娘が産まれ[14]、母の名をとってマーガレットと名付けた[15]。
カーネギーはそれまでにアメリカで個人が所有する最大の製鋼所を経営し、製鋼業で財産を形成した。彼が成し遂げた2回の重要な技術革新のうち1つは、製鋼にベッセマー法を採用して鋼を安価に大量生産できるようにしたことである。ヘンリー・ベッセマーは、炭素含有量の高い銑鉄を制御された高速な方法で燃焼させる炉を発明した。その結果鋼の価格が下がり、橋や建築用の桁や梁、鉄道レールなどに鋼が使われるようになった。2つめは、原材料の供給元を含めた垂直統合を成し遂げたことである。1880年代後半、カーネギーの会社は銑鉄、コークス、鋼製のレールの世界最大の供給業者となっており、日産2,000トンの銑鉄を生産していた。1888年、ライバルのホームステッド鉄鋼を買収し、それに伴って石炭と鉄鉱石の鉱山、685kmもの長い鉄道、大型貨物船を入手した。1892年、所有する会社をまとめてカーネギー鉄鋼会社を創業。
1889年にはアメリカの鋼生産量はイギリスを抜き、その大きな部分をカーネギーが所有していた。ペンシルバニア鉄道のかつての上司の名を冠したエドガー・トムソン製鋼所、ピッツバーグ・ベッセマー製鋼所、ルーシー溶鉱炉、ユニオン製鉄所、ユニオン工場 (Wilson, Walker & County)、キーストン鉄橋会社、ハートマン製鋼所、フリック・コークス、スコットランドの鉱山などを含み、カーネギーの帝国は成長していった。
1880–1900: 著作家および活動家として
カーネギーはその後も実業家として活動し続けたが、文学的関心も満たすようになった。イギリスの詩人マシュー・アーノルドやイギリスの哲学者ハーバート・スペンサーを支援し、歴代のアメリカ合衆国大統領[16]や政治家や著名な作家とも親交した[17]。
1879年、故郷ダンファームリンに水泳プールを建設。翌年には、ダンファームリンに無料図書館を建設するために4万ドルを寄付した。1884年、ニューヨーク大学医科大学院の前身であるベルビュー病院医科大学に5万ドルを寄付し、組織学の研究所を創設した(現在カーネギー研究所と呼ばれている)。
1881年、70歳の母を含めた一家でイギリスへ旅行した。馬車でスコットランドを巡り、各地で歓迎された。故郷ダンファームリンへの凱旋がクライマックスであり、そこでカーネギーの寄付で建設されるカーネギー図書館の礎石を母が据えた。カーネギーはイギリス社会に批判的だったが、イギリスを嫌っていたわけではない。むしろ、英語圏の人々の関係強化のために触媒として働こうと考えていた。そのため、1880年代初めに彼はイングランドの複数の新聞を購読している。それも全て君主制を廃止して「イギリス共和国」を創設しようと主張している新聞だった。首相ウィリアム・グラッドストンを含め多くのイギリス人の友人がいた。
1886年、弟のトーマスが43歳で他界。それでも事業での成功は続いた。そのころスペリオル湖周辺の価値の高い鉄鉱山を安く購入している。イギリスへの旅行の後、その経験を An American Four-in-hand in Britain という本にして出版している。また、複数の雑誌に寄稿するようになった。例えば、ジェイムズ・ノウルズが編集する Nineteenth Century やロイド・ブライスが編集する North American Review などである。
1886年、Triumphant Democracy(民主主義の勝利)と題した当時としては過激な本を書いた。統計などを駆使し、イギリスの君主制よりもアメリカの共和制のほうが優れていると主張した本である。アメリカの発展を好意的かつ理想的に捉え、イギリス王室を批判している。表紙にはひっくり返った王冠と壊れた王笏が描かれていた。この本はイギリスで大きな議論を呼んだ。アメリカでは好意的に受け入れられ、4万部を売り上げた。
1889年、North American Review 6月号に "Wealth" と題した記事を掲載[18]。これを読んだウィリアム・グラッドストンはイングランドでの出版を持ちかけ、Pall Mall Gazette に "The Gospel of Wealth"(富の福音)として掲載された。この記事も大いに議論を呼んだ。カーネギーは裕福な実業家の人生は2つの部分から成るべきだと主張している。1つめは蓄財の期間、2つめはその富を大衆に分配する期間である。カーネギーは人生を価値あるものとする鍵はフィランソロピーだとした。
カーネギーは偉大なジャーナリストとしても知られており、新聞に寄稿したり編集者に手紙を書いたりした。新聞を読む習慣は幼少期のころからあった[19]。例えば、イングランドとスコットランドを旅行中に書き始めた "Round the world" と題した記事などがある[20]。
1898年、カーネギーはフィリピン独立を画策した。米西戦争終結に伴い、アメリカはスペインから2000万ドルでフィリピンを購入。アメリカの帝国主義に対抗すべく、アメリカからの独立を買い取れるようにフィリピンの人々に個人的に2000万ドルを提供しようとした[21]。しかし、この申し出を受ける者は現れなかった。米西戦争の結果キューバがアメリカに併合されそうになり、これにも反対した。こちらはグロバー・クリーブランドやベンジャミン・ハリソンやマーク・トウェインらと共に結成したアメリカ反帝国主義連盟による反対が若干功を奏した[22][23]。
1901: USスチール
1901年、66歳になったカーネギーは引退を考えていた。その準備として会社を一般的な株式会社化している。銀行家のジョン・モルガンは当時のアメリカ金融業界の最重要人物で、カーネギーが非常に効率的に利益を生み出す様を見ていた。モルガンは鉄鋼業界を統一することで、コストを削減し、製品価格を下げ、大量生産し、労働賃金を上げることを想像した。そのためにはカーネギーの会社や他の会社を買収して合併させ、無駄を排除する必要がある。1901年3月2日、モルガンらの折衝により時価総額10億ドルを越える史上初の企業USスチールが誕生した。
チャールズ・M・シュワブが秘密裏に交渉したこの買収劇は、当時のアメリカ史上最大のものだった。モルガンが組織したトラストとカーネギーが手放した企業がUSスチールに組み入れられた。カーネギーの会社は年間売上高の12倍、4億8千万ドルで買収されており、当時最大の個人的取引だった。
カーネギーの保有していた総額2億2563万9000ドルの株式は、50年間5%の金価格債券と交換された。その株式売却の契約は1901年2月26日になされている。そして3月2日、資本金14億ドル(当時のアメリカの国富の4%に相当)のUSスチールが創設された。債券は2週間以内にニュージャージー州ホーボーケンのハドソン信託会社に運び込まれ、約2億3千万ドルぶんの債券を収めるための地下室が新たに建設された。
引退後
1901–1919: 篤志家として
引退後のカーネギーは篤志家として活躍した。慈善活動に関する考え方については既に Triumphant Democracy (1886) と『富の福音』(1889) において表明していた。
スコットランドのスキボ城を購入し、そことニューヨークを生活拠点とした。それからの人生は、公共の利益と社会的・教育的発展のために資産を使うことに捧げた。また英語の発展のため、スペル改正運動を強力に支持した。
彼の様々な慈善活動の中でも突出しているのは、アメリカ合衆国、イギリス、他の英語圏の国々での公共図書館設置である。それらはカーネギー図書館と呼ばれ、数多くの場所に建てられた。最初の図書館は1883年、故郷ダンファームリンで開館した。彼の手法は、地元の自治体が土地と運営予算を用意できた場合だけ、建物と初期の蔵書を提供するというものだった。地元に対しては、1885年にピッツバーグに公共図書館用に50万ドルを寄付し、1886年にはアラゲイニーに音楽ホールと図書館用に25万ドルを寄付し、エディンバラにも図書館用に25万ドルを寄付した。全部で3,000弱の図書館の設立資金を提供しており、アメリカ47州、カナダ、イギリス、アイルランド、オーストラリア、ニュージーランド、西インド諸島、フィジーに建設された。また、1899年にはバーミンガム大学創設資金として5万ポンドを寄付している[24]。
19世紀末のアメリカでは、無料図書館を市民に開放すべきだという考え方が一般にみられた[25]。しかし、理想的な無料図書館のデザインについては白熱した議論が戦わされていた。図書館の専門家は管理運営を効率化できるデザインを要求していたが、一方で篤志家らは温情主義的で市民の誇りとなるような建物を好んだ。1886年から1917年にかけて、カーネギーはその両者の考えを折衷し、図書館の慈善的な面と効率的デザインを追求した。
ニューヨーク州のブルーム郡公共図書館は1904年10月に開館した。当初はビンガムトン公共図書館と呼ばれ、カーネギーの7万5千ドルの寄付で建てられたものである。この建物は公共図書館と公民館として使えるよう設計された。
1901年、カーネギーが寄付した200万ドルでピッツバーグにカーネギー工科大学 (Carnegie Institute of Technology) (CIT) が創設され、1902年にも同額を寄付してワシントンD.C.にワシントン・カーネギー協会が創設された。その後も両組織に寄付をしており、他の大学にも寄付をしている。CITは後にカーネギーメロン大学の一部となっている。コーネル大学では理事を務めた。
ジョージ・ヘールはワシントン・カーネギー協会の支援でウィルソン山天文台の257センチ反射望遠鏡建設を建設していたが、カーネギーは存命中にその完成を迎えたいと考え1911年に同協会に1000万ドルを寄付し、建設促進を図った。望遠鏡は1917年11月2日にファーストライトを迎えた[26]。カーネギーが亡くなったのはその後である。
1901年、スコットランドで1000万ドルを Carnegie Trust for the Universities of Scotland 設立のために寄付した。彼が契約書に署名したのは1901年6月7日で、1902年8月21日に設立認許状が発効した。当時スコットランドの4大学への政府の補助金は5万ポンドしかなかった。トラストの目的はスコットランドの大学での科学研究を発展させ、スコットランドの優秀な若者が大学に進学できるようにすることである[27]。カーネギーはセント・アンドルーズ大学の名誉総長に選ばれた。故郷ダンファームリンにも多額の寄付をしている。図書館に加え、個人的に土地を買いピッテンクリーフ公園として一般解放した。またダンファームリンの住民のために Carnegie Dunfermline Trust[28] を設立している。2013年現在、ダンファームリンにはカーネギーの像がある。1913年にはさらに Carnegie United Kingdom Trust 設立に1000万ドルを寄付し、補助金の基金とした[29][30]。
1901年、ホームステッドのかつての従業員のために大規模な年金も創設している。1905年にはアメリカの大学教授たちのための年金を創設した。こちらはTIAA-CREFの一部となった。なお、何らかの宗教を背景にした大学はその宗教との関係を断ち切ることが年金加入の条件になっていた。
音楽を愛したカーネギーは7,000台の教会用オルガンを作らせている。1891年に建設したカーネギー・ホールは寄贈せずに所有していたが、1925年に彼の未亡人が売却した。ただし2013年現在もそのままの名前が使用されている。
ブッカー・T・ワシントンが黒人教育のために創設したタスキーギ職業訓練校も支援している。また、ワシントンが National Negro Business League を創設するのも支援した。
1904年、アメリカとカナダで英雄的行為(自己犠牲的行為)を表彰するカーネギー英雄基金を創設。同様の基金を後にイギリス、スイス、ノルウェー、スウェーデン、フランス、イタリア、オランダ、ベルギー、デンマーク、ドイツにも創設した。1903年にはオランダのデン・ハーグにて平和宮を建設する資金として150万ドルを寄付し、この建物は後に国際司法裁判所として使用されている。
カーネギーの慈善活動と芸術振興を称えて1917年10月14日、ボストンのニューイングランド音楽院にてカーネギーを Phi Mu Alpha Sinfonia というフラタニティの名誉会員とする式典が行われた。同フラタニティの理念とカーネギーの若者の才能を伸ばすという価値観が一致したためである。
19世紀当時の富豪の基準をもって判断すれば、カーネギーは特に冷酷な男というわけではなく、「冷徹に利益を追求する貪欲さは十分持ち合わせている人道主義者」、ということになる[31]。別の言い方をするならば(今日的な視点で見ると)、彼の生活(水準)と彼が雇っていた労働者たちや貧困者たちの生活(水準)は著しく異なっていた。伝記作家 Joseph Wall は「おそらくカーネギーは自分の金を分け与えることでその金を集めるためにしてきたことを正当化しようとしたのだろう」とコメントした[32]。
スコットランドからの移民の子が成功したということで、カーネギーをアメリカン・ドリームの体現者だと見る人もいる。彼は成功を収めただけでなく篤志家としても活動し、さらには植民地化された国々の民主化と独立も実現しようと努力した[33]。
死
1919年8月11日、気管支肺炎のためマサチューセッツ州レノックスで亡くなった。生前、既に3億5069万5653ドルを寄付していた[34]。遺産の3000万ドルも基金や慈善団体や年金などに遺贈された[35]。ニューヨーク州ノース・タリータウン(2013年現在のスリーピーホロー)にあるスリーピーホロー墓地に埋葬された。いわゆる金ぴか時代を代表するもう1人の有名人サミュエル・ゴンパーズもすぐ近くに埋葬されている[36]。
批判
1889: ジョンズタウン洪水
カーネギーも会員だったサウスフォーク・フィッシング・ハンティングクラブは、1889年に2,209名の死者を出したジョンズタウン洪水の原因を作ったとして非難されている[37]。
友人のベンジャミン・ラフの発案で仕事上のパートナーヘンリー・クレイ・フリックがペンシルベニア州ジョンズタウンの上流に作ったのがサウスフォーク・フィッシング・ハンティングクラブである。60人余りの会員はペンシルベニア州西部の富豪たちで、フリックの親友アンドリュー・メロン、弁護士フィランダー・ノックス、ジェイムズ・ヘイ・リード、カーネギーらが参加していた。ジョンズタウンの上流にあるサウスフォークという町の近くにサウスフォークダムがあった。このダムはペンシルベニア州政府が1838年から1853年までの年月をかけて、ジョンズタウンのある盆地に運河網を作るための貯水池として建設したものである。しかし輸送手段が運河から鉄道に移ったためダムは不要となり、ペンシルバニア鉄道が買い取り、さらに1881年にはサウスフォーク・フィッシング・ハンティングクラブの所有となった。そして、ダム自体は若干修理しただけで貯水量を増やして人工湖とし、湖畔に別荘やクラブハウスを建設した。このダムから20マイル下流にジョンズタウンがあった。
ダムの高さは22m、幅は284mだった。1881年にクラブを開設してから1889年までにダムは度々漏水し、主に泥や麦わらで応急修理していた。さらに以前の所有者が鋳鉄製の3本の放水管を撤去しており、制御された形で放水できない状態になっていた。ジョンズタウンのさらに下流にあるカンブリア製鉄所がダムについての懸念を表明していた。1889年初頭の積雪が春の到来と共に融け、水かさが増えてダムが耐え切れなくなり、5月31日にジョンズタウンに向かって2000万トンの水が流れ込み洪水となった[38]。ダム決壊の一報がピッツバーグに伝えられると、フリックをはじめとするクラブ会員が集まり、被災者支援のためのピッツバーグ救済委員会を作り、クラブと洪水の関係については一切公言しないことを申し合わせた。この戦略は成功し、クラブ会員は訴えられずに済んだ。
カンブリア製鉄所は洪水で多大な被害を被ったが、1年以内に操業再開にこぎつけた。洪水後、カーネギーはジョンズタウンの図書館を再建している。その図書館は2013年現在では洪水博物館になっている。
1892: ホームステッド工場のストライキ
1892年に起こったホームステッド・ストライキは143日間も続いた労働争議で流血沙汰になり、アメリカ史上最も深刻なストライキである。カーネギー鉄鋼の本拠地ペンシルベニア州ホームステッドで、組合と会社の間の論争から発展して発生した。
不安がピークに達する前に、カーネギーはスコットランド旅行に出発している。組合との調停はパートナーだったヘンリー・クレイ・フリックに委ねた。フリックは組合を快く思っていないことで有名だった。
前年度会社は60%も利益が増加していたが、会社側は給与を30%以上増やすことを断わった。一部労働者が60%の賃金増を要求したため、経営側は組合員を締め出した。労働者側はこれを経営側によるロックアウトだとし、ストライキが発生した。フリックは数千人のスト破りの作業員を雇い、作業員を守るためにピンカートン探偵社に協力を要請した。
7月6日、ピンカートンがニューヨークとシカゴから300人の護衛を送り込み、乱闘が発生。死者10人(ストライキ側が7人、ピンカートン側が3人)、負傷者数百名の大惨事となった。ペンシルベニア州知事はこれを鎮圧するため州兵を送り込んだ。ストライキとの直接の関係はないが、同年アナキストのアレクサンダー・バークマンがフリック暗殺を試み、フリックは負傷した。バークマンは「フリックを排除すれば、カーネギーがホームステッドの一件の責任者になる」と思ったと述べている[39]。その後、非組合員の移民を労働者として雇い入れることで操業再開にこぎつけ、カーネギーがアメリカに帰国した。しかし、この一件でカーネギーの評判に傷がつく結果となった。
哲学
富について
1868年、33歳のとき、カーネギーは「蓄財は偶像崇拝の悪い種の一つだ。金銭崇拝ほど品位を低下させる偶像はない」と書き残している[40]。そして同じ文章の中で、自分の品位を落とさないために35歳で引退してその後は慈善活動を行うと記し「金持ちとして死ぬことほど不名誉なことはない」と書いている。しかし、彼が最初に慈善活動を行ったのは1881年のことで、故郷ダンファームリンでの図書館建設だった[41]。死の際にやむなく行う遺贈ではなく、生存中に活用先への責任を持ちながら行った、スタンフォード大学の創設者スタンフォードのような例を模範として実践した。
彼は著書『富の福音』のなかで、「裕福な人はその富を浪費するよりも、社会がより豊かになるために使うべきだ。」と述べている。
1908年、カーネギーは当時ジャーナリストだったナポレオン・ヒルに500人以上の裕福な成功者にインタビューして成功の共通点を見つけることを無償で依頼した。結局ヒルはカーネギーの協力者となった。彼らの成果はカーネギーの死後に The Law of Success (1928) と Think and Grow Rich (1937) というヒルの著作として出版された。特に後者は初版以降絶版になったことがなく、全世界で総計3000万部を売り上げている。1960年、ヒルはカーネギー式の蓄財法についても記した簡易版を出版している。長らくそれが入手可能な唯一の版だった。2004年、ロス・コーンウェルが Think and Grow Rich!: The Original Version, Restored and Revised を出版。これは本来の版を若干改訂したものに詳細な巻末注と索引と付録を追加したものである。
知的影響
カーネギーはハーバート・スペンサーの著作を高く評価し、スペンサーが自身の教師だとさえ述べている[42]。しかしその行動はスペンサーの考え方に反する部分も多い。
スペンサー流の社会進化論は、政府の干渉に反対し個人の権利を尊重するもので、適者生存という考え方が根底にある。スペンサーは昆虫が特定の環境に適応して様々な種に分かれていったように、人間社会も自然に分業化されると考えた[43]。生存競争を勝ち抜いた個人は進化の最先端にあり、その世代で選び抜かれた自衛力の最も強い個体だとする[44]。さらにスペンサーは、政府の権限は社会的求心力や人権を保護するために人々から一時的に与えられているに過ぎないとした[45][46]。スペンサー流の「適者生存」の考え方では不平等な状態を是とし、弱者や貧者への施しは進化を害するとしている[47]。スペンサーは、弱者や堕落した者や障害者を選り分ける厳しい運命に人々が抗うことが社会のためになると強調している[47]。
カーネギーが19世紀末から20世紀初頭にかけてとった政治的・経済的立場は、自由競争主義を擁護するものだった。そのため政府主導の慈善活動や政府による商業活動への干渉には激しく抵抗した。カーネギーは資本の集中が社会の進化に必須だと信じ、奨励されるべきだと考えていた[48]。カーネギーは商業における「適者生存」を熱心に支持し、鉄鋼業のすべての工程を支配する際の障害となるものを排除していった[49]。コスト削減をする際には労働経費削減も行った[50]。スペンサー流の考え方ではコスト削減による物価下落が自然なことであり、組合はコストを押し上げて社会進化を妨げる存在だった[51]。カーネギーは自身の行為が社会全体に役立っていると信じ、組合は少数の私利私欲を体現していると思っていた[49]。
表面上カーネギーはスペンサーを信奉する他の自由競争主義の資本家と同じようであり、自らスペンサーの弟子だと称していた[52]。一方でカーネギーはスペンサー流の適者生存を体現した人と見られていた。1903年にスペンサーが亡くなるまで2人は互いに尊敬しあい、親交していた[52]。しかしスペンサーの社会進化論とカーネギーの資本家としての行為には、いくつか重要な不一致が存在する。
スペンサーは製造業において個人の優れた資質は比較的影響が小さいとし許容できるとしたが、市場の大部分を独占する者が現れると競争が阻害される虞があるとした。そして独占者が同情的自制のない性格だった場合、競合者が打ち負かされる可能性がある点を懸念していた[53]。彼は自由市場競争の果てに戦争状態が必ず到来するとは思っていなかった。さらにスペンサーは経済力が上の者が競争相手を廃業に追い込むためにその経済力を活用する「商業的殺人」も行われていると主張した[53]。カーネギーは垂直統合によって鉄鋼業で富を築いた。また、何社かの競争相手は株式の大部分を押さえるという手法で買収し吸収合併し、自らの会社を成長させていった[54]。さらに鉄道会社との密接な関係もカーネギーの成功の一因であり、鉄道会社が線路などに鉄鋼を必要としただけでなく、原材料や鉄鋼製品の輸送で鉄道会社が潤うという面もあった。鉄鋼業と鉄道業は自由競争に任せずに価格カルテルを結んでいた[49]。
カーネギーが市場操作した以外に、アメリカの関税は自国の鉄鋼業界に有利になるよう設定されていた。カーネギーは有利な関税率が継続されるよう議会にも熱心に働きかけていた[49]。カーネギーはそのことを隠そうとしていたが、1900年にヘンリー・クレイ・フリックがいかに関税率がカーネギー鉄鋼にとって有利に設定されていたかを明らかにした[49]。スペンサーは、規制や関税など政府による経済活動への干渉は絶対反対の立場だった。スペンサーは関税を製造業者や職人など少数の人々に利するために大勢から取り立てる課税形態だと考えていた[55]。カーネギーが友人としてスペンサーと個人的に親しかったのは確かだが、政治的・経済的思想の面では必ずしも忠実な信奉者ではなかった。また、カーネギーはスペンサーの主要な理論の一部を誤解するか意図的に誤り伝えたようである。
人間社会の条件から次のような重要な要求が生まれる。資本の集中化は今日の需要を満たすのに必須であり、疑いの目で見ずに促進されるべきである。それが人間社会に有害ということは全くないが、多くは有益であるかまたは間もなく有益となることを義務付けられる。それは不均質から均質への進化であり、明らかに発展の新たな段階である。—Carnegie, Andrew 1901 The Gospel of Wealth and Other Timely Essays[48]
慈善活動の面では、カーネギーの行動はスペンサーの哲学から大きく乖離しており、複雑化している。1854年の論文 Manners and Fashion でスペンサーは公教育を「古い体系」(old schemes) と称した。彼はさらに、公立学校や大学は学生の頭を無駄な知識で一杯にし、有益な知識は教えないとした。スペンサーは政治・宗教・文学・慈善など種類を問わずあらゆる組織を信用しないとし、組織が影響力を強めれば規制も強化されると信じていた。それに加えてスペンサーはあらゆる組織は発展するに従って権力と金が集まって堕落し、当初の精神を失い、活気のない機構へと変化するとした[56]。スペンサーは貧しく圧政に苦しむ人々を救おうとする慈善活動は、どんな形であれ無謀であり何も成し遂げられないと主張している。スペンサーは貧困層を救済しようとする試みは後世に増大する禍根を残すだけだと考えていた[57]。スペンサーの信奉者を自称するカーネギーは「私は事業でできるかぎりの良いことを行ってきた。私はその事業から完全に手を引いた」と述べている[58]。
カーネギーは社会の進歩は道徳的義務を果たす個人に依存していると考えていた[49]。したがって本当の慈善とは、自ら成長し目標を達成しようとする人々を助ける形で行うべきだと信じていた[59]。さらに他の富豪にも公園、美術品、図書館、その他コミュニティを改善する何らかの努力など長続きする形での寄付を勧めている[60]。また、遺産相続には強く反対している。成功した実業家の子孫は親ほど有能ではないと信じていた[59]。多額の遺産を子らに残すことは、社会に還元できたはずの富を浪費するだけだと信じていた。特にカーネギーは、自分がそうだったように未来のリーダーは貧困層から生まれると信じていた[61]。彼は、貧しいほど親は子を注意深く育て、職業倫理も叩き込むので、富裕層より貧困層の方が成功しやすいと信じていた[61]。
宗教と世界観
19世紀のスコットランドでの宗派間の争いを目にしたカーネギーは、教団を持つ宗教には一切関わらなかった[49]。その代わりとして自然主義的用語や科学的用語を通して世界を見ることを好み、「神学と心霊を排除しただけでなく、進化の真実も見つけた」と述べている[62]。
年を経ると、反宗教的態度はやや軟化している。1905年から1926年まで社会的福音が司牧した Madison Avenue Presbyterian Church に属していたが、妻や娘は Brick Presbyterian Church に属していた[63]。また、「万物から生じる無限かつ永遠のエネルギー」への信仰を告白した聖アンデレに対する文書を用意したことがある(公表しなかった)[64]。ナポレオン・ヒルはカーネギーが「無限の知性」(Infinite Intelligence) を信じることが重要だとしていたと書いている(ヒルはそれを「神」または「絶対者」の言い換えとみなした)[65][66]。
世界平和
イギリスの自由主義の政治家ジョン・ブライトを英雄と捉えていたカーネギーは、若いころから世界平和の追求を心がけていた[67]。彼のモットー "All is well since all grows better" は事業に関してだけでなく、国際関係についての観点にも当てはまっている。
世界平和への彼の愛好と努力にも関わらず、カーネギーは多くのジレンマ、国際関係への彼の見方と様々な義理の間の衝突に直面した。例えば1880年代から1890年代にかけて、カーネギーの事業はアメリカ海軍の近代化のため大量の装甲板を受注することで拡大した。その間カーネギーはアメリカの海外侵出に反対している[68]。彼はまた英米関係の友好促進を唱えながら、イギリスの階級社会を批判する本を出版して議論を呼んでいる[69]。
アメリカが外国を併合しようとする件では、カーネギーは常に反対の立場だった。ハワイ、グアム、プエルトリコの併合には反対しなかったが、フィリピン併合には反対の立場を貫いた。フィリピン人が独立を求めて戦ったので、カーネギーはその島を征服することは民主主義の根本原則に反すると信じ、米軍を撤退させフィリピンを独立させることをウィリアム・マッキンリーに進言した[70]。この行動は反帝国主義的な他のアメリカ人に感銘を与え、アメリカ反帝国主義連盟の副会長に彼が選ばれることになった。
1901年に事業を売却すると、カーネギーは平和のために専念できるようになった。資産の多くを平和維持機関の発展のために寄贈した。友人でイギリスのジャーナリストだったウィリアム・トーマス・ステッドが国際社会の平和と調停のための新機関創設を要請したとき、カーネギーは次のように答えている。
私は別の組織を作るのが賢明とは思わない。もちろん私が間違っている可能性もあるが、億万長者の金で作られた組織は哀れみの対象として始まり、嘲笑の対象として終わるだろうことは確実だ。あなたがそれに気づかないとは驚きだ。億万長者の金ほど、その組織の権威の公平性を奪うものはない。だからその組織は汚されてしまう。[71]
カーネギーは国際関係での平和維持は人々の努力と意志によると信じていた。お金は単に行動を促進するだけである。世界平和が財政援助にのみ依存するなら、それは目標ではなくなり、哀れみの行為にようなものになるだろう。
1910年に創設したカーネギー国際平和基金は、戦争根絶という最終目標に至る道程の重要な一里塚とみなされ、司法的手段を提供することで戦争を根絶しようとするものだった。彼はその基金が現行国際法下での国家の権利と責任についての情報収集を促進し、その成文化を促進するものとした[72]。
1914年、第一次世界大戦直前にカーネギーは Church Peace Union (CPU) という宗教界、学界、政界のリーダーたちのグループを結成した。彼はCPUを通して世界中の宗教団体や道徳的団体を結集し、戦争根絶に向けたリーダーシップを形成することを目論んでいた。結成イベントとして1914年8月1日、CPUは南ドイツにあるコンスタンス湖畔で国際会議を開催しようとした。しかし参加者が会場に向かおうとしたころ、ドイツによるベルギー侵攻が始まった。
始まりは不吉だったが、CPUは発展した。今日では倫理に重点を置いており、カーネギー国際関係倫理協会 と呼ばれる独立した非営利組織となっている。その目的は国際関係における倫理的表明をすることである。
第一次世界大戦勃発は世界平和について楽観的だったカーネギーに衝撃を与えた。彼の反帝国主義と平和促進の努力は全て失敗し、カーネギー基金も彼の期待に応えられなかったが、彼の国際関係についての信念と考え方は後の国際連盟結成の基盤を築くのに役立っている。
文学における言及
ジョン・ドス・パソスの『北緯四十二度線』(1930) では、カーネギーが自信満々の投資家として描かれている[73]。
著作
- An American Four-in-hand in Britain (1883)
- Round the World (1884)
- Triumphant Democracy (1886)
- The Gospel of Wealth (1889)
- 富の福音 伊藤重治郎訳 実業之日本社, 明36.1
- 富の福音 自分がして欲しいことはまず人にそれを行え! 田中孝顕監訳 騎虎書房 1990.12
- The Empire of Business (1902)
- 実業の帝国 小池靖一訳 実業之日本社 明35.11
- The Secret of Business is the Management of Men (1903)[74]
- James Watt (1905) - スコットランド偉人伝シリーズの1冊
- Problems of Today (1907)
- Autobiography of Andrew Carnegie (1920) - 自伝[75]
- アンドルー・カーネギー自叙伝 小畑久五郎訳 富山房, 大正11
- 製鉄王カーネギー自叙伝 大原武夫訳編 東洋書館, 1952
- カーネギー自伝 坂西志保訳、東京創元社 1959 のち角川文庫「鉄鋼王カーネギー自伝」、中公文庫
- 世界偉人自伝全集 カーネギー 石川光男訳編 小峰書店 1968
原著不明の邦訳
- 最近五十年間米国繁昌記 高橋光威訳 博文館, 明24
- 実業の鍵 伊藤重次郎訳 実業之日本社, 明38.10
- 国際平和論 都筑馨六訳 大日本平和協会, 明41.7
- 実業成功への道 山田勝人訳 実業之日本社, 1953
- 大富豪の黄金律を活用した生き方 A.カーネギーの人生哲学を学ぶ 田中孝顕監訳 騎虎書房 1996
- 私の履歴書 「黄金律」に生きた心優しい男の物語 田中孝顕訳 騎虎書房 1997.7
記念と記録
- ディプロドクス・カルネギイイという恐竜は、彼の援助でユタ州で発掘されたため、そのように名付けられた。カーネギーはこれを大層誇りに思い、ヨーロッパと南アメリカの博物館に完全骨格のレプリカを寄贈した。実際の化石はカーネギー自然史博物館にある。
- カーネギーの栄誉を称えて、ペンシルベニア州とオクラホマ州にカーネギーと名付けられた町がある。
- サボテンのパキケレウス連カルネギア属は、カーネギーから名付けられた。
- カーネギー賞は、イギリスの児童文学賞である。カーネギー図書館を各地に建てた功績を称えて創設された。
カーネギーの書簡はアメリカ議会図書館が所蔵している。コロンビア大学図書館のカーネギーコレクション[76]はカーネギーが創設したカーネギー財団などの文書を集め保管している。カーネギーメロン大学とピッツバーグのカーネギー図書館は共同でアンドリュー・カーネギー・コレクションを創設し、カーネギーの人生に関する資料をデジタル形式で公開している[77]。
脚注
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- ^ Autobiography of Andrew Carnegie p. 37
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参考文献
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関連項目
外部リンク
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- Andrew Carnegieの作品 (インターフェイスは英語)- プロジェクト・グーテンベルク
- Carnegie Birthplace Museum website
- "アンドリュー・カーネギーの関連資料一覧" (英語). イギリス国立公文書館.
- ウィキソースに以下の原文があります。
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は必須です。 (説明) - Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). 1911.
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