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'''冠位十二階'''(かんいじゅうにかい)は、[[日本]]で[[603年]]に制定され、[[605年]]から[[648年]]まで行われた[[冠位]]制度である<ref>{{Cite web |title=冠位十二階(かんいじゅうにかい)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E5%86%A0%E4%BD%8D%E5%8D%81%E4%BA%8C%E9%9A%8E-48440 |website=コトバンク |access-date=2024-01-11 |language=ja |first=精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,改訂新版 世界大百科事典,百科事典マイペディア,日本大百科全書(ニッポニカ),山川 日本史小辞典 改訂新版,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,旺文社日本史事典 |last=三訂版,世界大百科事典内言及}}</ref>。 |
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'''冠位十二階'''(かんいじゅうにかい)は、[[推古天皇]]11年[[12月5日 (旧暦)|12月5日]]([[604年]][[1月11日]])に定められた[[位階]]制度。 |
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日本で初めての冠位・[[位階]]であり、この制定により人材登用の道が開かれた。朝廷に仕える臣下を12の等級に分け、地位を表す色別に分けた冠を授けるものである。 |
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[[七色十三階冠]]の施行により廃止された。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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『[[日本書紀]]』によれば[[推古天皇|推古天皇11年]]12月5日([[604年]]1月11日)に初めて制定された。[[大徳 (冠位)|大徳]]・[[小徳]]・[[大仁]]・[[小仁]]・[[大礼]]・[[小礼]]・[[大信]]・[[小信]]・[[大義 (冠位)|大義]]・[[小義]]・[[大智 (冠位)|大智]]・[[小智]]の12階の冠位が制定された。冠は[[絁]](絹織物の一種)でできており、頂を合わせて袋のようにして、その囲りに縁を着けた。元日にはさらに[[髻華]](うず)という髪飾りを着けた<ref>『日本書紀』巻22、推古天皇11年12月壬申(5日)条。</ref>。翌12年([[605年]])1月1日に天皇が冠位を初めて諸臣に授けた<ref>『日本書紀』巻22、推古天皇12年正月戊戌(1日)条。</ref>。[[聖徳太子]]の事績を伝える『[[上宮聖徳法王帝説]]』にも同様の記述がある。 |
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* 『[[日本書紀]]』では、「(推古天皇)十一年...十二月 戊辰[[朔]]壬申 始行冠位 大德 小德 大仁 小仁 大禮 小禮 大信 小信 大義 小義 大智 小智 并十二階 並以當色絁縫之 頂撮總如囊 而著縁焉 唯元日著髻華 髻華 此云 (推古天皇)十二年春正月 戊戌朔 始賜冠位於諸臣 各有差」と記述されている。 |
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* 『[[上宮聖徳法王帝説]]』では、「爵十二級、大徳、少徳、大仁、少仁、大礼、□□大信、少信、大義、少義、大智、少智」とある。なお、「□□」は欠字。 |
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* 『[[隋書]]』{{Lang|zh-tw|卷81 列傳第46 東夷 俀國}}では、({{Lang|zh-tw|俀王}}[[多利思比孤|{{lang|zh-tw|多利思北孤}}]]は「{{Lang|zh-tw|姓阿毎 字多利思北孤號阿輩雞彌}}」。なお『[[新唐書]]』では「{{Lang|zh-tw|用明 亦曰目多利思比孤 直隋開皇末 始與中國通}}」とある)、「{{Lang|zh-tw|内官有十二等 一曰大德 次小德 次大仁 次小仁 次大義 次小義 次大禮 次小禮 次大智 次小智 次大信 次小信 員無定數}}」とあり、[[隋]]にも知られていた。 |
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『[[隋書]]』倭国伝は、官に12等があり大徳・小徳・大仁・小仁・大義・小義・大礼・小礼・大智・小智・大信・小信で定員がないと記す。順序が書紀のものと異なり、仁義礼智信という[[五常]]の通常の配列に従っている。唐代に書かれた『[[翰苑]]』には、『括地志』に曰くとして倭国の十二等の官の第一に麻卑兜吉寐(まひときみ、まひとぎみ、まへつきみ)があり<ref>「まひとぎみ」は原田淑人「冠位の形態から観た飛鳥文化」393頁。「まへつきみ」は黛弘道「冠位十二階考」330頁、同「冠位十二階の実態と源流」359頁。</ref>、華言(中国語)で大徳というとある。二は小徳で、三以下は大義、小義と『隋書』と同じ順で続く。『日本書紀』と順序の違いがあるが、冠位十二階が実際に制定・施行されたことを証明するものである。 |
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『日本書紀』の記述には主語はないが、『上宮聖徳法王帝説』では[[聖徳太子]]と[[蘇我馬子]]が「共に天下の政を輔けて」と記されていることから、この2人の事蹟と考えられている。 |
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この時始められた冠位制度は、天皇が臣下のそれぞれに冠(位冠)を授け、冠の色の違いで身分の高下を表すものである。前代の[[氏姓制度]]と異なり、氏ではなく個人に対して与えられ、世襲の対象にならない。豪族の身分秩序を再編成し、官僚制度の中に取り込む基礎を作るもので、政治上の意義が大きかった<ref>井上光貞「冠位十二階とその史的意義」283頁。</ref>。大化3年([[647年]])に[[七色十三階冠]]が制定され、翌大化4年([[648年]])4月1日に廃止されたが、その後もいくたびかの改変を経て[[律令制]]の[[位階]]制度となり、遺制は現代まで及ぶ。 |
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[[豪族]]を序列化し、また、[[氏]]や[[姓]]にとらわれることなく優秀な人材を登用することを目指した。また、官位の任命を[[天皇]]が行うことにより、豪族に対する天皇の権威向上を図った。ただし、この制度は言わば移行期の制度<ref>[[大化の改新]]以前に、ともに冠位十二階における第二位の小徳であり、改新に功労があったとされている[[巨勢徳多]]と[[大伴長徳]]が冠位十三階で与えられた位階は、ともに後世の[[従三位]]相当である小紫が授けられている。改新の功績の結果によって小紫に至ったと考えれば、小徳が後世の従四位程度の位階にしか相当しないと考えられ、大徳も後世の正四位程度であったと考えられている。ただし、大徳・小徳は律令制の位階では、従三位以上にあたる[[公卿]]待遇を受けていたとする見方もある。</ref>であり、[[大臣 (古代日本)|大臣]]や[[大連 (古代日本)|大連]]といった最上級の姓に属する豪族は、依然として大徳よりも上位に置かれていた。また、現存している記録に残された冠位とその人物が属している姓の水準が一致している例が多い(臣・連以外の姓より大徳が輩出された例は無く、村主・首以下の姓で小徳を輩出した例は無い)点や、[[遣隋使]]で活躍した[[小野妹子]]が大徳に昇進した例外を除いては冠位の昇進の記録がわずかであった事など、氏姓によって与えられる位階に一定の制約があったとする見方も存在する。 |
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冠と結びつかないが同様に人に等級を付ける制度は[[高句麗]]・[[新羅]]・[[百済]]の[[官位]]があり、日本の冠位に先行している。同じ時代の[[隋]]・[[唐]]の[[官品]]には似ないが、より以前の[[漢]]代や[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]の思想制度の影響が指摘される。 |
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冠位十二階の制度は、第1回[[遣隋使]]を推古天皇8年([[600年]])に派遣した時の教訓から編み出されたものであった。[[7世紀]]の[[東アジア]]情勢を考えると、[[倭国]]にとって、隋との国交を開いておくことが是非必要であった。冠位十二階制は、[[高句麗]]・[[百済]]を通して、北朝・南朝両方のものが伝わったとされている。 |
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== 制定の目的 == |
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冠位十二階制は、[[日本]]で初めて作られた冠位制であり、この後の諸冠位制を経て、様々な紆余曲折を経て、律令位階制へ移行していった。 |
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制定の目的は『日本書紀』等に記されない。よく説かれるのは二つで、一つは家柄にこだわらず貴族ではなくても有能な人間を確保する人材登用のため、もう一つは外交使節の威儀を整えるためである。 |
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氏姓制度の姓([[カバネ]])と比べたときの冠位の特徴は、姓が氏に対して授けられるのに対し、冠位は個人に授けられる点である<ref>坂本太郎『大化改新の研究』203頁。宮田俊彦「聖徳太子とその時代」22頁。</ref>。そして姓は世襲されるが、冠位は一身限りで世襲されない<ref>坂本太郎『大化改新の研究』203頁。</ref>。また、それまでの氏はそれぞれ個別的に天皇への奉仕を誓っており、対等な氏に属する人を組み合わせて上司と部下という職務上の上下関係を結ばせるのは簡単ではなかった。冠位を媒介にすることで、官僚的な上下関係を納得させやすくする。場合によっては生れが賤しい者を生れが良い者の上に立たせることも可能になる。冠位は旧来の氏姓の貴賤を否定するものではないが、旧来の豪族を官人に脱皮させる上で大きな役割を果たした。 |
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== 位階と冠の色 == |
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百数十年後に書かれた『日本書紀』の推古天皇11年([[603年]])に冠位十二階を定めたときの記述には、12の位階の名前は書かれているが、それぞれの位階に対応する色の名前が書かれていない。[[谷川士清]]の『日本書紀通証』によると、12の位階の冠の色は次のようなものであった可能性が高いと推定されるが、断定はできない。地位の高い位階から順に、位階の名前と冠の色を次に列挙する。 |
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外交では、高句麗・新羅・百済に類似した官人序列の制度があり、中国にも官品制度があった。こうした諸国との使者の応接に際しては、その使者の地位の高下や、応接する人の地位が気にかかる。この点官位はわかりやすい指標で、日本に同様のものがあればこれら諸国との交際に便があるだけでなく、日本も劣らず制度が整った国であるという対外的威容を備えることができる<ref>関晃「推古朝政治の性格」(『大化改新の研究』下27頁・『東北大学日本文化研究所研究報告』第3集43頁)。宮本救「冠位十二階と皇親」42頁。</ref>。これら諸国との冠位の対応表を作る試みもあるが、やりとりされる使者の位の違いから、互いの対応はとれていなかったという説もある<ref>武光誠『日本古代国家と律令制』9-17頁。</ref>。 |
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# '''大徳''' (だいとく)({{legend2|#800080|濃紫|border=solid 1px #000000}}) |
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# '''小徳''' (しょうとく)({{legend2|#CC99FF|薄紫|border=solid 1px #000000}}) |
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# '''大仁''' (だいにん)({{legend2|#333399|濃青|border=solid 1px #000000}}) |
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# '''小仁''' (しょうにん)({{legend2|#3366FF|薄青|border=solid 1px #000000}}) |
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# '''大礼''' (だいらい)({{legend2|#FF0000|濃赤|border=solid 1px #000000}}) |
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# '''小礼''' (しょうらい)({{legend2|#FF6600|薄赤|border=solid 1px #000000}}) |
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# '''大信''' (だいしん)({{legend2|#FFFF00|濃黄|border=solid 1px #000000}}) |
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# '''小信''' (しょうしん)({{legend2|#FFFF99|薄黄|border=solid 1px #000000}}) |
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# '''大義''' (だいぎ)({{legend2|#FFFFFF|濃白|border=solid 1px #000000}}) |
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# '''小義''' (しょうぎ)({{legend2|#FFFFFF|薄白|border=solid 1px #000000}}) |
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# '''大智''' (だいち)({{legend2|#000000|濃黒|border=solid 1px #000000}}) |
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# '''小智''' (しょうち)({{legend2|#808080|薄黒|border=solid 1px #000000}}) |
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外交的動機については、第1回[[遣隋使]]を推古天皇8年([[600年]])に派遣した時の教訓から冠位十二階が編み出されたとする有力な説がある<ref>井上光貞「冠位十二階とその史的意義」300頁。</ref>。『日本書紀』にはこの遣使に関する記事がないが、隋の側にはあり、「王は天を兄、日を弟として、日がのぼる前に政務をとる」という倭の制度を聞いて、隋の文帝([[楊堅]])が道理がないと批判したという。書紀に記載がないのはこの遣使の扱いを屈辱とした書紀の編者がわざと載せなかったためではないかと推測する。そしてこの失敗を繰り返さないため、十二階の冠位を定めてから、その位を帯びた使節として[[小野妹子]]を派遣し、礼を学びたいと言わせたのではないかという<ref>大隅清陽「古代冠位制度の変遷」44頁。吉田孝「律令国家の形成と東アジア世界」260-261頁。</ref>。 |
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古代の青は紫に近い色で、紫色の染料は貴重であった。 |
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これらの色は、紫と、[[五行説]]による5色を当てはめたものであり、その後の[[衣服令]]で色の濃淡で位階を細かく表したことから推測されたものである。ただし、濃い白と薄い白の区別をするという不自然さがあるため、実際に濃淡による区別をしたかどうかは疑問が残る。 |
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(位階の大と小の色を、色の濃度の違いで区別するように制度が変わったのは、冠位十二階を定めたときよりも後である) |
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== 冠位の |
== 冠位の授受と使用 == |
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=== 冠位を授ける者 === |
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『日本書紀』推古十一年十二月条 |
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冠位を与える形式的な授与者は天皇である<ref name="名前なし-1">関晃「推古朝政治の性格」(『大化改新の研究』28頁・『東北大学日本文化研究所研究報告』第3集44頁)。</ref>。学説としては、かつて冠位十二階はもっぱら[[摂政]]・[[皇太子]]の[[聖徳太子]](厩戸皇子)の業績であるとみなされていたが<ref>坂本太郎『大化改新の研究』。黛弘道「冠位十二階考」288頁、同「冠位十二階の実態と源流」357-358頁。</ref>、後には大臣である[[蘇我馬子]]の関与が大きく認められるようになった。学者により厩戸皇子の主導権をどの程度認めるかに違いがあるが、誰に冠位を授けるかを決める人事権者は、制定時には両者の共同とする学者が多い<ref name="名前なし-1"/>。 |
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馬子とその子で大臣を継いだ[[蘇我蝦夷|蝦夷]]、さらにその子の[[蘇我入鹿|入鹿]]の冠位は伝えられない。蘇我蝦夷が、子の入鹿に私的に[[紫冠]]を与えて大臣にしたことが、『日本書紀』に記される。古くはこれが最高の冠位である大徳にあたり、蝦夷・入鹿は大徳を勝手に受け渡したのだと解釈されていた。しかし現在では蘇我の大臣は十二階の冠位を授からなかったと考えられている<ref>宮田俊彦「聖徳太子とその時代」22-23頁。黛弘道「冠位十二階考」319-323頁。</ref>。馬子・蝦夷・入鹿は冠位を与える側であって、与えられる側ではなかった。厩戸皇子等の皇族も同じ意味で冠位の対象ではなかった<ref>宮田俊彦「聖徳太子とその時代」23頁。井上光貞「冠位十二階とその史的意義」289頁。宮本救「冠位十二階と皇親」31頁。</ref>。 |
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十二月戊辰(ぼしん)朔壬申(じんしん)、始めて冠位のことを行う。大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智、併せて十二階、並びに当色の絁(あしぎぬ)を以てこれを縫う。頂(いただき)は撮(と)り総(すべ)て嚢(のう)の如くにして、縁(もとはり)を着く。唯だ元日には髻華(うず)を著す。「髻華、此をば宇孺(うず)という」 |
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=== 冠位を授かる者 === |
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十二年春正月戊戌(ぼじゅつ)、始めて冠位を諸臣に賜うこと各差(おのおのしな)あり。 |
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姓(カバネ)は氏の構成員全員が身に帯びるが、冠位は直接何かの役職について朝廷に仕えるような個人だけが授かった。判明している数十例からみる限り、十二階の冠位の授与範囲は、[[畿内]]とその周辺に限られていたらしい。具体的には、中央の有力豪族と畿内周辺の地方豪族が冠位を授かり、他地域の地方豪族はもらわなかった。朝廷の支配力の限界である<ref>黛弘道「冠位十二階考」304-309頁。</ref>。 |
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知られる限りの例では、最上位の大徳と小徳は[[臣]]・[[連]]・[[君]]といった高い姓(カバネ)を持つ者で占められている(『[[上宮聖徳太子傳補闕記]]』では「[[造]]」の姓を持つ[[秦河勝]]が小徳に叙されているが、他にそのような記述は見られない)。大仁・小仁では高いカバネと低いカバネがまじっている。大礼以下は地方豪族や下級の[[伴造]]が主で、高いカバネのものは少数になる<ref>武光誠「冠位十二階の再検討」28頁。</ref>。 |
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ここでは、具体的な色を書いていない。色の深浅の区別は、養老令からである。「当色」は、位階相当の色として、[[五行思想]]に基づいた五常の徳目(仁・礼・信・義・智)の青・赤・黄・白・黒が考えられる。徳は、五常の徳目を統べる意があることから、[[漢]]代以降、帝王の色として尊ばれた「紫」を充てた推測できる(『[[漢書]]』天文志)。 |
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[[国博士]]の[[高向玄理]]が小徳、仏師の[[鞍作止利]]が大仁など、あまり高くない氏の出身者が特別な能力功績により高い冠位を授けられた例がいくつか伝わる。冠位十二階は門閥を打破し実績による人材登用の道を開くものだという説が根強くあるが<ref>坂本太郎は冠位は全く勲功によると述べ(『大化改新の研究』203頁)、黛弘道も「冠位制度が皆次第転昇の原則を有する」はずだと論じた(「冠位十二階考」296頁)。</ref>、昇進は[[小野妹子]]が第5階の大礼から第1階の大徳に登ったのが顕著な例で、着実な昇進と呼ぶべき例はあまりない。後の律令制下の位階のような生まれの良さが昇進速度に反映して差が開くのではなく、生まれの貴賤で位が決まり、ほとんどの人がそのまま変わらないような、固定的身分制度であった<ref>喜田新六「位階制の変遷について」上4頁。</ref>。 |
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「白」の濃淡はどうして見分けるのだろうかと疑問視されている。冠位十二階の衣服については、[[高松塚古墳]]壁画の人物群像が参考になる。この壁画の人物図は、およそ7世紀後期から[[8世紀]]前期の風俗を伝えるものと推測されている。 |
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=== 着用場面 === |
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[[古墳時代]]の5世紀から日本の支配層は冠を着用しており、朝鮮半島の影響を強く受けた金属製(多くは金銅)の冠が[[古墳]]の[[副葬品]]として見つかっている。やはり5世紀にあたる『日本書紀』の[[安康天皇]]紀と[[雄略天皇]]紀に見える<ref>『日本書紀』巻第13、安康天皇元年(454年)2月戊辰(1日)条、巻第14、雄略天皇14年(470年)4月甲午(1日)条。</ref>[[押木珠縵]]もこの型と言われる<ref>新編日本古典文学全集『日本書紀』2、134頁頭注。</ref>。 |
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[[大宝]]元年([[701年]])に[[官位制]]に切り替わる間に、冠位制は何度か改訂が行われている。 |
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十二階制の施行期にも位冠でない冠が使われていたと考えられる。十二階の上にあった蘇我大臣家には紫冠があり、皇族も自己の冠を着用していた。下のほうでは、やはり冠位を持たない地方豪族が自分の冠を持っていたようで、[[伊勢国|伊勢]]の[[荒木田氏]]が代々赤冠を着けていたことが知られる<ref>黛弘道「冠位十二考」327-329頁。</ref>。藤原氏の『[[家伝]]』には中臣鎌足([[藤原鎌足]])が青年のときに良家の子に一斉に錦冠が授けられることになったとあり、これもまた十二階の外の冠と説かれる<ref>増田美子は錦冠が大徳・小徳の冠で、良家の子が小徳を授かったと解釈する</ref>。しかし蘇我氏の紫冠も含めてこれら史料の信頼性を低く見て、後世の造作とみなする学者も多い<ref>時野谷滋「薫弘道氏『冠位十二階考』読む」129-130頁。川服武胤「推古朝冠服小考」19-20頁注7。宮本救「冠位十二階と皇親」27頁。</ref>。 |
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最初の大幅な改訂は、[[大化]]3年([[647年]])の冠位十三階である。大化5年([[649年]])、冠位十九階に改められている(冠位十九階は、冠位十三階を基本とし、中間の冠位を細かく分けたものである。 |
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冠位は服装の規定と連動するもので、推古天皇16年8月の唐の使者[[裴世清]]の接待や、天皇と臣下の[[薬猟]]のときに(推古天皇19年5月5日、20年5月5日)、冠位によって服装と髪飾りを分けたことが『日本書紀』に記されている<ref>武光誠「冠位十二階の再検討」17-18頁。</ref>。 |
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[[天智天皇]]3年([[664年]])には更に細分化された、冠位二十六階に改訂されている。これらは、冠位十二階に組み込まれなかった[[大臣 (日本)|大臣]](おおおみ)などを冠位制の序列に組み込もうとした試みだと考えられる。しかしながら、大臣は依然として旧冠を使用していたと言われている。 |
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== 冠位と位冠 == |
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[[天武天皇]]14年([[685年]])、諸王以上十二階、諸臣四十八階が導入されている。[[親王]]や諸王も冠位制の中に組み込んだ。 |
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=== 名称と順序 === |
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冠位の名称のうち、徳を除いた五つは[[儒教]]の徳目である[[五常]]である。五常は仁義礼智信と並べるのが普通だが、冠位十二階は仁礼信義智という見慣れない順序をとっている。これは[[五行]]思想の木火土金水に対応したものである<ref>谷川士清『日本書紀通証』巻第27、臨川書店版第3冊1520頁。河村秀根・益根『書紀集解』巻22、臨川書店版第4冊1273頁。</ref>。五行の並べ方には二種類あり、そのうちの五行相生は、木は火を生み、火は土を生み、という関係を木火土金水の順で表す。これを対応する徳に置き換えると、仁礼信義智が得られる。冠位十二階は五行相生にもとづくのであろう<ref>坂本太郎『大化改新の研究』229-230頁。武光誠『日本古代国家と律令制』21頁。福永光司「聖徳太子の冠位十二階」75頁。</ref>。 |
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徳については五行と別の説明が必要になる。『[[聖徳太子伝暦]]』は、徳は仁以下の五つを合わせたものだから最上としたと説き、これが通説である<ref>『東大寺図書館蔵文明十六年書写『聖徳太子伝暦』影印と研究』152-153頁に「徳トいふ者、五行を摂ム也」。谷川士清『日本書紀通証』巻27、臨川書店版第3冊1520-1521頁。</ref>。 |
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大宝元年(701年)に、冠位制は廃止され、[[律令制|律令]][[太政官|官位制]]に移行している。基本となっているのは冠位四十八階であるが、名称を正一位、従三位などと分かりやすく改訂し、四十八階を三十階に減らしている。 |
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五行思想は中国の思想的産物ではあるが、仁礼信義智の順序で五常を並べて地位の表示にし、徳をその上に置くという発想については、日本独自のものとする説と、中国の[[道教]]の影響とする説が分かれる。伝統的な通説は、冠位十二階を立案した日本人の創案と考えた<ref>坂本太郎『大化改新の研究』234-235頁。宮田俊彦「聖徳太子とその時代」21頁。武光誠「冠位十二階の再検討」(『日本古代国家と律令制』21頁)。</ref>。ことさら順序を変え、信と礼を上にしたところに[[十七条憲法]]の思想、ひいては聖徳太子の思想の反映を見る人もいる<ref>坂本太郎『大化改新の研究』234-235頁。宮田俊彦「聖徳太子とその時代」21頁。</ref>。日本創案説の論拠には、中国の文献に徳仁礼信義智の配列が見えないことがあった<ref>宮田俊彦「聖徳太子とその時代」21頁。</ref>。 |
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== 参考文献 == |
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* 平田耿二「聖徳太子と冠位十二階」(新人物往来社 編『日本の組織図事典』(新人物往来社、[[昭和]]63年([[1988年]])) ISBN 4404015070 |
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しかし1981年に道教研究者の[[福永光司]]が、5世紀成立の道教経典『[[太霄琅書]]』に徳仁礼信義智の配列がそのままあると指摘して道教の影響を説き、学説状況は変わってきた<ref>福永光司「聖徳太子の冠位十二階」76-77頁</ref>。別に、隋の[[蕭吉]]著『[[五行大義]]』に、仁礼信義智をこの順で説明し、それらが合わさって徳を全うするという趣旨の文があることから、[[遣隋使]]が隋から摂取したとする説もある<ref>若月義小「冠位制の基礎的考察」129-130頁。</ref>。 |
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官位・官職を12に分ける制度は、高句麗の官位や[[北周]]の冕(冠の一種)に先例がある。ただ、基準数として12を用いるのは、[[十二支]]、[[十二宮]]、[[十二星]]など中国に例が多く、特定の制度の継承でない可能性もある<ref>坂本太郎『大化改新の研究』237-238頁。</ref>。 |
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=== 色 === |
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{| class="wikitable" style="text-align:center; float:right; margin:0px 0px 7px 7px;" |
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|+冠の色の諸説 |
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| rowspan="2" style="width:4em;" | 冠位 || colspan="3" | 五行説 || colspan="3" | 非五行説 |
|||
|- |
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| 濃薄区別 || 濃薄区別なし || 徳冠が錦 || colspan="2" | 七色十三階制から || 隋書から |
|||
|- |
|||
| '''大徳''' |
|||
| style="background-color:#800080; color:#FFFFFF" | 濃紫 |
|||
| style="background-color:#800080; color:#FFFFFF; font-size:x-large;" rowspan="2" | 紫 |
|||
| style="color:#FF0000; font-size:x-large;" rowspan="2" | 錦 |
|||
| style="background-color:#FF0000; font-size:x-large;" rowspan="2" | 赤 |
|||
| style="background-color:#800080; color:#FFFFFF; font-size:x-large;" rowspan="2" | 紫 |
|||
| style="background-color:#800080; color:#FFFFFF; font-size:x-large;" rowspan="6" | 紫 |
|||
|- |
|||
| '''小徳''' |
|||
| style="background-color:#CC99FF" | 薄紫 |
|||
|- |
|||
| '''大仁''' |
|||
| style="background-color:#333399; color:#FFFFFF" | 濃青 |
|||
| style="background-color:#333399; color:#FFFFFF; font-size:x-large;" rowspan="2" | 青 |
|||
| style="background-color:#333399; color:#FFFFFF; font-size:x-large;" rowspan="2" | 青 |
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| style="background-color:#333399; color:#FFFFFF; font-size:x-large;" rowspan="2" | 青 |
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| style="background-color:#FF0000; font-size:x-large;" rowspan="2" | 赤 |
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|- |
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| '''小仁''' |
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| style="background-color:#3366FF" | 薄青 |
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|- |
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| '''大礼''' |
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| style="background-color:#FF0000" | 濃赤 |
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| style="background-color:#FF0000; font-size:x-large;" rowspan="2" | 赤 |
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| style="background-color:#FF0000; font-size:x-large;" rowspan="2" | 赤 |
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| style="background-color:#000000; color:#FFFFFF; font-size:x-large;" rowspan="8" | 黒 |
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| style="background-color:#333399; color:#FFFFFF; font-size:x-large;" rowspan="2" | 青 |
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|- |
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| '''小礼''' |
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| style="background-color:#FF6600" | 薄赤 |
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|- |
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| '''大信''' |
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| style="background-color:#FFFF00" | 濃黄 |
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| style="background-color:#FFFF00; font-size:x-large;" rowspan="2" | 黄 |
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| style="background-color:#FFFF00; font-size:x-large;" rowspan="2" | 黄 |
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| style="background-color:#233B6C; color:#FFFFFF; font-size:x-large;" rowspan="2" | 紺 |
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| style="background-color:#FF0000; color:#FFFFFF; font-size:x-large;" rowspan="2" | 緋 |
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|- |
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| '''小信''' |
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| style="background-color:#FFFF99" | 薄黄 |
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| '''大義''' |
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| style="background-color:#FFFFFF" | 濃白 |
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| style="background-color:#FFFFFF; font-size:x-large;" rowspan="2" | 白 |
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| style="background-color:#FFFFFF; font-size:x-large;" rowspan="2" | 白 |
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| style="background-color:#000000; color:#FFFFFF; font-size:x-large;" rowspan="2" | 黒 |
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| style="background-color:#008000; font-size:x-large;" rowspan="2" | 緑 |
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|- |
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| '''小義''' |
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| style="background-color:#DDDDDD" | 薄白 |
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|- |
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| '''大智''' |
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| style="background-color:#000000; color:#FFFFFF" | 濃黒 |
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| style="background-color:#000000; color:#FFFFFF; font-size:x-large;" rowspan="2" | 黒 |
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| style="background-color:#000000; color:#FFFFFF; font-size:x-large;" rowspan="2" | 黒 |
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| style="background-color:#008000; font-size:x-large;" rowspan="2" | 緑 |
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| style="background-color:#267CA7; font-size:x-large;" rowspan="2" | 縹 |
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|- |
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| '''小智''' |
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| style="background-color:#808080" | 薄黒 |
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|} |
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十二階制の位冠は絁(絹の布の一種)という布でできていて、二つの部分からなる。本体は袋状の帽子で、その周りに数センチか十数センチの縁がつく。飾りを付けることもある。冠には位によって異なる色が定められたが、『日本書紀』等の諸史料は何が何色に対応するのかを示さない<ref>岸哲男「推古朝冠位十二階の「当色」について」58頁。</ref>。五行五色説をもっとも有力なものとして様々な推定説が唱えられていたが、どれも確証はない<ref>岸哲男「推古朝冠位十二階の「当色」について」69頁。虎尾達哉「冠位十二階と大化以降の諸冠位」33頁。吉川真司『飛鳥の都』25頁。</ref>。 |
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徳を除く冠の色は、一般に五行に対応する[[五色]]であろうとされており、それに従えば仁が[[青]]、礼が[[赤]]、信が[[黄色|黄]]、義が[[白]]、智が[[黒]]となる<ref>谷川士清『日本書紀通証』巻27、臨川書店版第3冊1521頁。河村秀根・益根『書紀集解』巻22、臨川書店版第4冊1274頁。増田美子『古代服飾の研究』108-110頁。</ref>。江戸時代の国学者[[谷川士清]]は大小を濃淡で分けたが、それは後の制度からの類推である<ref>谷川士清『日本書紀通証』巻27、臨川書店版第3冊1521頁。原田淑人(「冠位の形態から観た飛鳥文化」393頁)は大小の区別法は不明とする。</ref>。 |
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五行説の難点は、義の白にある。白は古代日本で尊貴な色とされており、後の[[大宝律令|大宝令]]([[701年]])では天皇だけの衣色と定められた<ref>岸哲男「推古朝冠位十二階の「当色」について」67頁。</ref>。大宝令以前の天皇の色については不明だが、[[七色十三階冠]]から[[冠位四十八階]]までの諸制度で白が冠位の色、つまり皇族臣下の色として使われた形跡がない。大義・小義のような下級の色に使われたか疑問が残る<ref>岸哲男「推古朝冠位十二階の「当色」について」62頁。</ref>。 |
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五行によらず、後代の制度を遡らせたり、隋の制度をあてはめたりして推定する説もある。[[七色十三階冠]]は七色の冠を大小に分けるもので、そのうち紫、青、黒の3色が冠位の名に出ている<ref>『日本書紀』大化3年是歳条。「七色」と書くが、色で冠の名が示されるのは3つだけで、あとの3つは織・縫・錦という織物の生地の名で、残る1つは建武である。</ref>。この3色をとって徳が赤、仁が青、礼信義智が黒とあてはめたり、それに服色の緋(赤)、紺、緑を加えて徳が紫、仁が赤、礼が青、信が紺、義が黒、智が緑と割り当てる説がある。『隋書』礼儀志から服の色の制度をとり、徳仁礼が紫、信が緋、義が緑、縹が智とする説もある<ref>これら諸説については増田美子『古代服飾の研究』105-107頁に紹介がある。</ref>。 |
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最高位については五行からあてはめることはできない。[[斉明天皇|皇極天皇]]2年([[642年]])10月に[[蘇我蝦夷]]が私に[[紫冠]]を子の[[蘇我入鹿|入鹿]]に授けて[[大臣]]に擬したとあるのが手がかりになる。蝦夷・入鹿は最高の大徳であったと推定し、[[紫]]が徳の色であろうとする説が江戸時代から長く行なわれていた<ref>谷川士清『日本書紀通証』巻27、臨川書店版第3冊1520頁。</ref>。しかし大臣が十二階から超然としていたとなると、大徳・小徳を紫冠とする積極的根拠はなくなる<ref>黛弘道「冠位十二階考」321-323頁。岸哲男「推古朝冠位十二階の「当色」について」62頁。増田美子『古代服飾の研究』111頁。しかし喜田新六は、蝦夷・入鹿が大徳でないことを認めつつ、「私に授けた」のは最高位の冠と同じ色のはずだという理由で、大徳を紫冠とする(「位階制の変遷について」上3-4頁。)。</ref>。それでも、隋が五品以上の服を紫としたことからの類推で紫を大徳・小徳にあてる説が古くからあり<ref>河村秀根・益根『書紀集解』巻22推古紀、臨川書店版第4冊1274頁。</ref>、紫説は上記非五行の諸説にもみるように根強いものがある<ref>吉村武彦『古代王権の展開』126頁に紫と五行の五色が示される。</ref>。紫以外の色では、後の七色十三階冠からの類推で、[[絹織物|錦]](模様を織りだした高級な絹の布)とする説がある<ref>増田美子『古代服飾の研究』111頁。</ref>。 |
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== 諸外国の制度との関係 == |
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{{seealso|服制}} |
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冠位という用語を使うのは日本だけだが、中国及び[[高句麗]]・[[新羅]]・[[百済]]に先行して類似の制度があった。同時代的には朝鮮の官位に似ており、こちらを主に参考にしたとする説と、主に中国の古典文献を参考に考案したとする説がある<ref>朝鮮諸国の官位を継承したとみる人には、曽我部静雄(「位階制度の成立」12頁・通巻309頁)、井上光貞(「冠位十二階とその史的意義」296頁)、黛弘道(「冠位十二階の実態と源流」367頁)、大庭脩(「隋唐の位階制と日本」334-335頁。)、大隅清陽(「古代官位制度の変遷」)がいる。中国の影響を重くみるのは武光誠(『日本古代国家と律令制』8-9頁)、武田佐知子(「中国の衣服制と冠位十二階」178-179頁)らである。ただし、本文で後述するように、この対立はあちらが立てばこちらが立たないというようなものではない。</ref>。 |
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日本に冠位が設置施行された時期に中国にあった官品制度は、官を序列する仕組みであって、人を序列する冠位・位階制度とは原理的に異なる<ref>宮崎市定「日本の官位令と唐の官品令」218頁。</ref>。冠位は[[隋]]・[[唐]]の制度を参照して作られたものではない。日本では冠位を爵とも呼んだが、隋・唐の爵は冠位とも官品とも異なり、[[秦]]・[[漢]]代の[[二十等爵]]が冠位に似た人に与える等級である<ref>宮崎市定「日本の官位令と唐の官品令」225-228頁。</ref>。冠や服の色で官吏の等級を表す思想はもと中国にはなく、[[後漢]]末に魏の武帝([[曹操]])が布でかぶりものを作り、その色を分けて貴賤を表したのをはじめとする<ref>武田佐知子「中国の衣服制と冠位十二階」152-153頁。</ref>。服色では、[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]に北朝の[[北魏]]で定められた五等公服が五色の服色で等級を表したもので、これが品([[官品]])により色を分ける[[北周]]の制度にも引き継がれていたと言われる<ref>武田佐知子「中国の衣服制と冠位十二階」168-172頁。</ref>。等級による分割ではないが、北周では役務別に十二種の冕(冠の一種)を定め、それが五行の色で定められていた<ref>黛弘道「冠位十二階考」332-333頁。</ref>。 |
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高句麗・百済・新羅の官位は、人に授けて肩書きとする点、授けるときに生まれの貴賤が重視される点で、日本の冠位と似る<ref>大隅清陽「古代官位制度の変遷」44頁。</ref>。『隋書』高麗伝が伝える高句麗の官は十二等あり、冠の違いで等級を示した。この十二等各々の名称は古い官職名が転用されたものだが、日本の冠位十二階とは位の数も冠の違いを伴う点も似ている<ref>坂本太郎『大化改新の研究』237頁。宮崎市貞「」。井上光貞「冠位十二階とその史的意義」292-293頁。</ref>。新羅の十七等も冠の違いをともなう位であった<ref>井上光貞「冠位十二階とその史的意義」294-295頁。</ref>。『隋書』百済伝が官に十六品があると記す百済の十六等の官位は、日本の冠位と同質で、帯の色を分け、高位の冠に飾りをつけた<ref>坂本太郎『大化改新の研究』223-225頁。井上光貞「冠位十二階とその史的意義」295-296頁。</ref>。百済の十六階のうち十二階の名称は漢語を用いて整然と設計されており、その点で冠位十二と似ている<ref>井上光貞「冠位十二階とその史的意義」297頁。</ref>。布製のかぶりものを冠と呼ぶのは百済の風習である<ref>武田佐知子「中国の衣服制と冠位十二階」153頁。</ref>。朝鮮三国の官位の成立時期は明らかでないが、日本の冠位より前であることは確かで、使者の往来がある隣国の制度として知られていた。 |
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だが朝鮮重視説をとる場合でも、その朝鮮の制度は古い中国の制度を範として作ったものであるから、冠位十二階は間接的に中国の制度の影響下にある<ref>曽我部静雄「位階制度の成立」11-12頁(通巻308-309頁)。</ref>。中国の古典を範にしたとしても、日本人が朝鮮三国の官位の知識を持たずにいたとは考えられない。いずれに重みがかかるにせよ、一つのモデルの単純な模倣ではなく、各種制度を参考に独自の制度を案出したものであろう<ref>坂本太郎『大化改新の研究』204-205頁。</ref>。そして、異なる制度になったのは偶然や工夫の結果ではなく、違えることに意味があったと考えられる。古代の東アジアで官吏の服装は、それと一体になる儀式とともに支配秩序を目で見えるかたちで表す機能を持っており、ある国の制度をそのままに採用することは、その国の支配体制への服属を意味していた。新羅や百済に対して優越的な[[小中華]]として振る舞った当時の日本にとって、朝鮮諸国の単純な模倣はせず、中国に対しても独自性を持つ制度を求めた。冠位十二階は、中国的な礼秩序を、朝鮮三国とも中国とも異なる方法で示すための制度であったと言える<ref>廣瀬圭「古代服制の基礎的考察」21頁、39頁、福永光司「聖徳太子の冠位十二階」82頁注4。武田佐知子「古代国家の形成と身分標識」242-244頁。</ref>。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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<references/> |
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{{Reflist|3}} |
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== 参考文献 == |
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*[[小島憲之]]・[[西宮一民]]・[[毛利正守]]・[[直木孝次郎]]・[[蔵中進]]校注・訳『日本書紀』2(新編日本古典文学全集3)、小学館、1996年。 |
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*[[岸哲男]]「推古朝冠位十二階の「当色」について」『二松学舎大学東洋学研究所集刊』第13集、1982年。 |
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*[[喜田新六]]「位階制の変遷について上・下」『歴史地理』第85巻第2号・3号、1954年12月・1955年3月。 |
|||
*[[井上光貞]]「冠位十二階とその史的意義」『日本古代国家の研究』、岩波書店、1965年。初出は『日本歴史』第176号、1963年。 |
|||
*[[坂本太郎 (歴史学者)|坂本太郎]]『大化改新の研究』至文堂、1938年。 |
|||
*[[関晃]]「推古朝政治の性格」『大化改新の研究』下(関晃著作集第2巻)、吉川弘文館、1996年。初出は『東北大学日本文化研究所研究報告』第3集、1967年。 |
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*[[曽我部静雄]]「位階制度の成立」『芸林』第4巻第2号、1953年。 |
|||
*[[河村秀根]]・益根『[[書紀集解]]』臨川書店、1969年。 |
|||
*[[武田佐知子]]「中国の衣服制と冠位十二階 五行思想と服色」『古代国家の形成と衣服制』吉川弘文館、1984年。初出は『女子美術大学紀要』13号、1983年。 |
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*武田佐知子「古代国家の形成と身分標識、『古代国家の形成と衣服制』吉川弘文館、1984年。 |
|||
*[[武光誠]]「冠位十二階の再検討」『日本古代国家と律令制』吉川弘文館、1984年。(『日本歴史』第346号、1977年)掲載の同名論文を改稿。 |
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*[[谷川士清]]著、[[小島憲之]]解題、『[[日本書紀通証|日本書紀通證]]』臨川書店、1978年。 |
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*[[時野谷滋]]「薫弘道氏『冠位十二階考』読む」『日本上古史研究』第3巻第7号(通巻31号)、1958年7月。 |
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*[[虎尾達哉]]「冠位十二階と大化以降の諸冠位 増田美子氏の新説をめぐって」『鹿大史学』40号、1992年。 |
|||
*[[原田淑人]]「冠位の形態から観た飛鳥文化の性格」、[[斎藤忠]]編『日本考古学論集』2(集落と衣食住)、吉川弘文館、1986年。初出は『聖心女子大学論叢』第13号、1959年。 |
|||
*[[平田耿二]]「聖徳太子と冠位十二階」(新人物往来社 編『日本の組織図事典』(新人物往来社、1988年) ISBN 4404015070 |
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*[[廣瀬圭]]「古代服制の基礎的考察」『日本歴史』第359号、1978年1月。 |
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*[[福永光司]]「聖徳太子の冠位十二階」『道教と日本文化』人文書院、1982年。初出は『図書』1981年9月。 |
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*[[増田美子]]『古代服飾の研究 縄文から奈良時代』源流社、1995年。 |
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*[[黛弘道]]「冠位十二階考」『律令国家成立史の研究』吉川弘文館、1982年。 |
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*黛弘道「冠位十二階の実態と源流」『律令国家成立史の研究』吉川弘文館、1982年。 |
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*[[宮田俊彦]]「聖徳太子とその時代」『歴史教育』第2巻第4号、1954年。 |
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*[[宮本救]]「冠位十二階と皇親」竹内理三博士還暦記念会『律令国家と貴族社会』吉川弘文館、1969年所収。 |
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*[[吉川真司]]『飛鳥の都』(シリーズ日本古代史3)岩波書店(岩波新書)、2011年。 |
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*[[吉村武彦]]『古代王権の展開』(集英社版日本の歴史3)集英社、1991年。 |
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*[[若月義小]]「冠位制の基礎的考察」『立命館文学』448・449・450合併号、1982年。 |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[冠位・位階制度の変遷]] |
* [[冠位・位階制度の変遷]] |
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* [[禁色]](ゆるし色) - 上位の位階の色を着用することは禁止されていたが、勅許により許可されるようにもなった。 |
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* {{ill2|九品十八階|zh|九品十八階}} |
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** [[琉球の位階]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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* [http://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/syoki/syoki22_1.htm#sk22_04 日本書紀 推古天皇 四 施行冠位十二階] |
* [https://web.archive.org/web/20061224235639/http://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/syoki/syoki22_1.htm#sk22_04 日本書紀 推古天皇 四 施行冠位十二階] |
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* {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/intelljp/cn-history/zui/wa.htm |title=隋書卷八十一 列傳第四十六 東夷 倭國}} |
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* [http://www2.plala.or.jp/cygnus/R35.html 隋書卷八十一 列傳第四十六 東夷 倭國(版本の一部)] |
* [http://www2.plala.or.jp/cygnus/R35.html 隋書卷八十一 列傳第四十六 東夷 倭國(版本の一部)] |
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* |
* {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/intelljp/cn-history/new_tou/nihon.htm |title=新唐書卷二百二十 列傳第一百四十五 東夷 日本}} |
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[[zh:冠位十二阶]] |
2024年7月30日 (火) 02:32時点における最新版
冠位十二階(かんいじゅうにかい)は、日本で603年に制定され、605年から648年まで行われた冠位制度である[1]。
日本で初めての冠位・位階であり、この制定により人材登用の道が開かれた。朝廷に仕える臣下を12の等級に分け、地位を表す色別に分けた冠を授けるものである。
七色十三階冠の施行により廃止された。
概要
[編集]『日本書紀』によれば推古天皇11年12月5日(604年1月11日)に初めて制定された。大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智の12階の冠位が制定された。冠は絁(絹織物の一種)でできており、頂を合わせて袋のようにして、その囲りに縁を着けた。元日にはさらに髻華(うず)という髪飾りを着けた[2]。翌12年(605年)1月1日に天皇が冠位を初めて諸臣に授けた[3]。聖徳太子の事績を伝える『上宮聖徳法王帝説』にも同様の記述がある。
『隋書』倭国伝は、官に12等があり大徳・小徳・大仁・小仁・大義・小義・大礼・小礼・大智・小智・大信・小信で定員がないと記す。順序が書紀のものと異なり、仁義礼智信という五常の通常の配列に従っている。唐代に書かれた『翰苑』には、『括地志』に曰くとして倭国の十二等の官の第一に麻卑兜吉寐(まひときみ、まひとぎみ、まへつきみ)があり[4]、華言(中国語)で大徳というとある。二は小徳で、三以下は大義、小義と『隋書』と同じ順で続く。『日本書紀』と順序の違いがあるが、冠位十二階が実際に制定・施行されたことを証明するものである。
この時始められた冠位制度は、天皇が臣下のそれぞれに冠(位冠)を授け、冠の色の違いで身分の高下を表すものである。前代の氏姓制度と異なり、氏ではなく個人に対して与えられ、世襲の対象にならない。豪族の身分秩序を再編成し、官僚制度の中に取り込む基礎を作るもので、政治上の意義が大きかった[5]。大化3年(647年)に七色十三階冠が制定され、翌大化4年(648年)4月1日に廃止されたが、その後もいくたびかの改変を経て律令制の位階制度となり、遺制は現代まで及ぶ。
冠と結びつかないが同様に人に等級を付ける制度は高句麗・新羅・百済の官位があり、日本の冠位に先行している。同じ時代の隋・唐の官品には似ないが、より以前の漢代や南北朝時代の思想制度の影響が指摘される。
制定の目的
[編集]制定の目的は『日本書紀』等に記されない。よく説かれるのは二つで、一つは家柄にこだわらず貴族ではなくても有能な人間を確保する人材登用のため、もう一つは外交使節の威儀を整えるためである。
氏姓制度の姓(カバネ)と比べたときの冠位の特徴は、姓が氏に対して授けられるのに対し、冠位は個人に授けられる点である[6]。そして姓は世襲されるが、冠位は一身限りで世襲されない[7]。また、それまでの氏はそれぞれ個別的に天皇への奉仕を誓っており、対等な氏に属する人を組み合わせて上司と部下という職務上の上下関係を結ばせるのは簡単ではなかった。冠位を媒介にすることで、官僚的な上下関係を納得させやすくする。場合によっては生れが賤しい者を生れが良い者の上に立たせることも可能になる。冠位は旧来の氏姓の貴賤を否定するものではないが、旧来の豪族を官人に脱皮させる上で大きな役割を果たした。
外交では、高句麗・新羅・百済に類似した官人序列の制度があり、中国にも官品制度があった。こうした諸国との使者の応接に際しては、その使者の地位の高下や、応接する人の地位が気にかかる。この点官位はわかりやすい指標で、日本に同様のものがあればこれら諸国との交際に便があるだけでなく、日本も劣らず制度が整った国であるという対外的威容を備えることができる[8]。これら諸国との冠位の対応表を作る試みもあるが、やりとりされる使者の位の違いから、互いの対応はとれていなかったという説もある[9]。
外交的動機については、第1回遣隋使を推古天皇8年(600年)に派遣した時の教訓から冠位十二階が編み出されたとする有力な説がある[10]。『日本書紀』にはこの遣使に関する記事がないが、隋の側にはあり、「王は天を兄、日を弟として、日がのぼる前に政務をとる」という倭の制度を聞いて、隋の文帝(楊堅)が道理がないと批判したという。書紀に記載がないのはこの遣使の扱いを屈辱とした書紀の編者がわざと載せなかったためではないかと推測する。そしてこの失敗を繰り返さないため、十二階の冠位を定めてから、その位を帯びた使節として小野妹子を派遣し、礼を学びたいと言わせたのではないかという[11]。
冠位の授受と使用
[編集]冠位を授ける者
[編集]冠位を与える形式的な授与者は天皇である[12]。学説としては、かつて冠位十二階はもっぱら摂政・皇太子の聖徳太子(厩戸皇子)の業績であるとみなされていたが[13]、後には大臣である蘇我馬子の関与が大きく認められるようになった。学者により厩戸皇子の主導権をどの程度認めるかに違いがあるが、誰に冠位を授けるかを決める人事権者は、制定時には両者の共同とする学者が多い[12]。
馬子とその子で大臣を継いだ蝦夷、さらにその子の入鹿の冠位は伝えられない。蘇我蝦夷が、子の入鹿に私的に紫冠を与えて大臣にしたことが、『日本書紀』に記される。古くはこれが最高の冠位である大徳にあたり、蝦夷・入鹿は大徳を勝手に受け渡したのだと解釈されていた。しかし現在では蘇我の大臣は十二階の冠位を授からなかったと考えられている[14]。馬子・蝦夷・入鹿は冠位を与える側であって、与えられる側ではなかった。厩戸皇子等の皇族も同じ意味で冠位の対象ではなかった[15]。
冠位を授かる者
[編集]姓(カバネ)は氏の構成員全員が身に帯びるが、冠位は直接何かの役職について朝廷に仕えるような個人だけが授かった。判明している数十例からみる限り、十二階の冠位の授与範囲は、畿内とその周辺に限られていたらしい。具体的には、中央の有力豪族と畿内周辺の地方豪族が冠位を授かり、他地域の地方豪族はもらわなかった。朝廷の支配力の限界である[16]。
知られる限りの例では、最上位の大徳と小徳は臣・連・君といった高い姓(カバネ)を持つ者で占められている(『上宮聖徳太子傳補闕記』では「造」の姓を持つ秦河勝が小徳に叙されているが、他にそのような記述は見られない)。大仁・小仁では高いカバネと低いカバネがまじっている。大礼以下は地方豪族や下級の伴造が主で、高いカバネのものは少数になる[17]。
国博士の高向玄理が小徳、仏師の鞍作止利が大仁など、あまり高くない氏の出身者が特別な能力功績により高い冠位を授けられた例がいくつか伝わる。冠位十二階は門閥を打破し実績による人材登用の道を開くものだという説が根強くあるが[18]、昇進は小野妹子が第5階の大礼から第1階の大徳に登ったのが顕著な例で、着実な昇進と呼ぶべき例はあまりない。後の律令制下の位階のような生まれの良さが昇進速度に反映して差が開くのではなく、生まれの貴賤で位が決まり、ほとんどの人がそのまま変わらないような、固定的身分制度であった[19]。
着用場面
[編集]古墳時代の5世紀から日本の支配層は冠を着用しており、朝鮮半島の影響を強く受けた金属製(多くは金銅)の冠が古墳の副葬品として見つかっている。やはり5世紀にあたる『日本書紀』の安康天皇紀と雄略天皇紀に見える[20]押木珠縵もこの型と言われる[21]。
十二階制の施行期にも位冠でない冠が使われていたと考えられる。十二階の上にあった蘇我大臣家には紫冠があり、皇族も自己の冠を着用していた。下のほうでは、やはり冠位を持たない地方豪族が自分の冠を持っていたようで、伊勢の荒木田氏が代々赤冠を着けていたことが知られる[22]。藤原氏の『家伝』には中臣鎌足(藤原鎌足)が青年のときに良家の子に一斉に錦冠が授けられることになったとあり、これもまた十二階の外の冠と説かれる[23]。しかし蘇我氏の紫冠も含めてこれら史料の信頼性を低く見て、後世の造作とみなする学者も多い[24]。
冠位は服装の規定と連動するもので、推古天皇16年8月の唐の使者裴世清の接待や、天皇と臣下の薬猟のときに(推古天皇19年5月5日、20年5月5日)、冠位によって服装と髪飾りを分けたことが『日本書紀』に記されている[25]。
冠位と位冠
[編集]名称と順序
[編集]冠位の名称のうち、徳を除いた五つは儒教の徳目である五常である。五常は仁義礼智信と並べるのが普通だが、冠位十二階は仁礼信義智という見慣れない順序をとっている。これは五行思想の木火土金水に対応したものである[26]。五行の並べ方には二種類あり、そのうちの五行相生は、木は火を生み、火は土を生み、という関係を木火土金水の順で表す。これを対応する徳に置き換えると、仁礼信義智が得られる。冠位十二階は五行相生にもとづくのであろう[27]。
徳については五行と別の説明が必要になる。『聖徳太子伝暦』は、徳は仁以下の五つを合わせたものだから最上としたと説き、これが通説である[28]。
五行思想は中国の思想的産物ではあるが、仁礼信義智の順序で五常を並べて地位の表示にし、徳をその上に置くという発想については、日本独自のものとする説と、中国の道教の影響とする説が分かれる。伝統的な通説は、冠位十二階を立案した日本人の創案と考えた[29]。ことさら順序を変え、信と礼を上にしたところに十七条憲法の思想、ひいては聖徳太子の思想の反映を見る人もいる[30]。日本創案説の論拠には、中国の文献に徳仁礼信義智の配列が見えないことがあった[31]。
しかし1981年に道教研究者の福永光司が、5世紀成立の道教経典『太霄琅書』に徳仁礼信義智の配列がそのままあると指摘して道教の影響を説き、学説状況は変わってきた[32]。別に、隋の蕭吉著『五行大義』に、仁礼信義智をこの順で説明し、それらが合わさって徳を全うするという趣旨の文があることから、遣隋使が隋から摂取したとする説もある[33]。
官位・官職を12に分ける制度は、高句麗の官位や北周の冕(冠の一種)に先例がある。ただ、基準数として12を用いるのは、十二支、十二宮、十二星など中国に例が多く、特定の制度の継承でない可能性もある[34]。
色
[編集]冠位 | 五行説 | 非五行説 | ||||
濃薄区別 | 濃薄区別なし | 徳冠が錦 | 七色十三階制から | 隋書から | ||
大徳 | 濃紫 | 紫 | 錦 | 赤 | 紫 | 紫 |
小徳 | 薄紫 | |||||
大仁 | 濃青 | 青 | 青 | 青 | 赤 | |
小仁 | 薄青 | |||||
大礼 | 濃赤 | 赤 | 赤 | 黒 | 青 | |
小礼 | 薄赤 | |||||
大信 | 濃黄 | 黄 | 黄 | 紺 | 緋 | |
小信 | 薄黄 | |||||
大義 | 濃白 | 白 | 白 | 黒 | 緑 | |
小義 | 薄白 | |||||
大智 | 濃黒 | 黒 | 黒 | 緑 | 縹 | |
小智 | 薄黒 |
十二階制の位冠は絁(絹の布の一種)という布でできていて、二つの部分からなる。本体は袋状の帽子で、その周りに数センチか十数センチの縁がつく。飾りを付けることもある。冠には位によって異なる色が定められたが、『日本書紀』等の諸史料は何が何色に対応するのかを示さない[35]。五行五色説をもっとも有力なものとして様々な推定説が唱えられていたが、どれも確証はない[36]。
徳を除く冠の色は、一般に五行に対応する五色であろうとされており、それに従えば仁が青、礼が赤、信が黄、義が白、智が黒となる[37]。江戸時代の国学者谷川士清は大小を濃淡で分けたが、それは後の制度からの類推である[38]。
五行説の難点は、義の白にある。白は古代日本で尊貴な色とされており、後の大宝令(701年)では天皇だけの衣色と定められた[39]。大宝令以前の天皇の色については不明だが、七色十三階冠から冠位四十八階までの諸制度で白が冠位の色、つまり皇族臣下の色として使われた形跡がない。大義・小義のような下級の色に使われたか疑問が残る[40]。
五行によらず、後代の制度を遡らせたり、隋の制度をあてはめたりして推定する説もある。七色十三階冠は七色の冠を大小に分けるもので、そのうち紫、青、黒の3色が冠位の名に出ている[41]。この3色をとって徳が赤、仁が青、礼信義智が黒とあてはめたり、それに服色の緋(赤)、紺、緑を加えて徳が紫、仁が赤、礼が青、信が紺、義が黒、智が緑と割り当てる説がある。『隋書』礼儀志から服の色の制度をとり、徳仁礼が紫、信が緋、義が緑、縹が智とする説もある[42]。
最高位については五行からあてはめることはできない。皇極天皇2年(642年)10月に蘇我蝦夷が私に紫冠を子の入鹿に授けて大臣に擬したとあるのが手がかりになる。蝦夷・入鹿は最高の大徳であったと推定し、紫が徳の色であろうとする説が江戸時代から長く行なわれていた[43]。しかし大臣が十二階から超然としていたとなると、大徳・小徳を紫冠とする積極的根拠はなくなる[44]。それでも、隋が五品以上の服を紫としたことからの類推で紫を大徳・小徳にあてる説が古くからあり[45]、紫説は上記非五行の諸説にもみるように根強いものがある[46]。紫以外の色では、後の七色十三階冠からの類推で、錦(模様を織りだした高級な絹の布)とする説がある[47]。
諸外国の制度との関係
[編集]冠位という用語を使うのは日本だけだが、中国及び高句麗・新羅・百済に先行して類似の制度があった。同時代的には朝鮮の官位に似ており、こちらを主に参考にしたとする説と、主に中国の古典文献を参考に考案したとする説がある[48]。
日本に冠位が設置施行された時期に中国にあった官品制度は、官を序列する仕組みであって、人を序列する冠位・位階制度とは原理的に異なる[49]。冠位は隋・唐の制度を参照して作られたものではない。日本では冠位を爵とも呼んだが、隋・唐の爵は冠位とも官品とも異なり、秦・漢代の二十等爵が冠位に似た人に与える等級である[50]。冠や服の色で官吏の等級を表す思想はもと中国にはなく、後漢末に魏の武帝(曹操)が布でかぶりものを作り、その色を分けて貴賤を表したのをはじめとする[51]。服色では、南北朝時代に北朝の北魏で定められた五等公服が五色の服色で等級を表したもので、これが品(官品)により色を分ける北周の制度にも引き継がれていたと言われる[52]。等級による分割ではないが、北周では役務別に十二種の冕(冠の一種)を定め、それが五行の色で定められていた[53]。
高句麗・百済・新羅の官位は、人に授けて肩書きとする点、授けるときに生まれの貴賤が重視される点で、日本の冠位と似る[54]。『隋書』高麗伝が伝える高句麗の官は十二等あり、冠の違いで等級を示した。この十二等各々の名称は古い官職名が転用されたものだが、日本の冠位十二階とは位の数も冠の違いを伴う点も似ている[55]。新羅の十七等も冠の違いをともなう位であった[56]。『隋書』百済伝が官に十六品があると記す百済の十六等の官位は、日本の冠位と同質で、帯の色を分け、高位の冠に飾りをつけた[57]。百済の十六階のうち十二階の名称は漢語を用いて整然と設計されており、その点で冠位十二と似ている[58]。布製のかぶりものを冠と呼ぶのは百済の風習である[59]。朝鮮三国の官位の成立時期は明らかでないが、日本の冠位より前であることは確かで、使者の往来がある隣国の制度として知られていた。
だが朝鮮重視説をとる場合でも、その朝鮮の制度は古い中国の制度を範として作ったものであるから、冠位十二階は間接的に中国の制度の影響下にある[60]。中国の古典を範にしたとしても、日本人が朝鮮三国の官位の知識を持たずにいたとは考えられない。いずれに重みがかかるにせよ、一つのモデルの単純な模倣ではなく、各種制度を参考に独自の制度を案出したものであろう[61]。そして、異なる制度になったのは偶然や工夫の結果ではなく、違えることに意味があったと考えられる。古代の東アジアで官吏の服装は、それと一体になる儀式とともに支配秩序を目で見えるかたちで表す機能を持っており、ある国の制度をそのままに採用することは、その国の支配体制への服属を意味していた。新羅や百済に対して優越的な小中華として振る舞った当時の日本にとって、朝鮮諸国の単純な模倣はせず、中国に対しても独自性を持つ制度を求めた。冠位十二階は、中国的な礼秩序を、朝鮮三国とも中国とも異なる方法で示すための制度であったと言える[62]。
脚注
[編集]- ^ 三訂版,世界大百科事典内言及, 精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,改訂新版 世界大百科事典,百科事典マイペディア,日本大百科全書(ニッポニカ),山川 日本史小辞典 改訂新版,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,旺文社日本史事典. “冠位十二階(かんいじゅうにかい)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2024年1月11日閲覧。
- ^ 『日本書紀』巻22、推古天皇11年12月壬申(5日)条。
- ^ 『日本書紀』巻22、推古天皇12年正月戊戌(1日)条。
- ^ 「まひとぎみ」は原田淑人「冠位の形態から観た飛鳥文化」393頁。「まへつきみ」は黛弘道「冠位十二階考」330頁、同「冠位十二階の実態と源流」359頁。
- ^ 井上光貞「冠位十二階とその史的意義」283頁。
- ^ 坂本太郎『大化改新の研究』203頁。宮田俊彦「聖徳太子とその時代」22頁。
- ^ 坂本太郎『大化改新の研究』203頁。
- ^ 関晃「推古朝政治の性格」(『大化改新の研究』下27頁・『東北大学日本文化研究所研究報告』第3集43頁)。宮本救「冠位十二階と皇親」42頁。
- ^ 武光誠『日本古代国家と律令制』9-17頁。
- ^ 井上光貞「冠位十二階とその史的意義」300頁。
- ^ 大隅清陽「古代冠位制度の変遷」44頁。吉田孝「律令国家の形成と東アジア世界」260-261頁。
- ^ a b 関晃「推古朝政治の性格」(『大化改新の研究』28頁・『東北大学日本文化研究所研究報告』第3集44頁)。
- ^ 坂本太郎『大化改新の研究』。黛弘道「冠位十二階考」288頁、同「冠位十二階の実態と源流」357-358頁。
- ^ 宮田俊彦「聖徳太子とその時代」22-23頁。黛弘道「冠位十二階考」319-323頁。
- ^ 宮田俊彦「聖徳太子とその時代」23頁。井上光貞「冠位十二階とその史的意義」289頁。宮本救「冠位十二階と皇親」31頁。
- ^ 黛弘道「冠位十二階考」304-309頁。
- ^ 武光誠「冠位十二階の再検討」28頁。
- ^ 坂本太郎は冠位は全く勲功によると述べ(『大化改新の研究』203頁)、黛弘道も「冠位制度が皆次第転昇の原則を有する」はずだと論じた(「冠位十二階考」296頁)。
- ^ 喜田新六「位階制の変遷について」上4頁。
- ^ 『日本書紀』巻第13、安康天皇元年(454年)2月戊辰(1日)条、巻第14、雄略天皇14年(470年)4月甲午(1日)条。
- ^ 新編日本古典文学全集『日本書紀』2、134頁頭注。
- ^ 黛弘道「冠位十二考」327-329頁。
- ^ 増田美子は錦冠が大徳・小徳の冠で、良家の子が小徳を授かったと解釈する
- ^ 時野谷滋「薫弘道氏『冠位十二階考』読む」129-130頁。川服武胤「推古朝冠服小考」19-20頁注7。宮本救「冠位十二階と皇親」27頁。
- ^ 武光誠「冠位十二階の再検討」17-18頁。
- ^ 谷川士清『日本書紀通証』巻第27、臨川書店版第3冊1520頁。河村秀根・益根『書紀集解』巻22、臨川書店版第4冊1273頁。
- ^ 坂本太郎『大化改新の研究』229-230頁。武光誠『日本古代国家と律令制』21頁。福永光司「聖徳太子の冠位十二階」75頁。
- ^ 『東大寺図書館蔵文明十六年書写『聖徳太子伝暦』影印と研究』152-153頁に「徳トいふ者、五行を摂ム也」。谷川士清『日本書紀通証』巻27、臨川書店版第3冊1520-1521頁。
- ^ 坂本太郎『大化改新の研究』234-235頁。宮田俊彦「聖徳太子とその時代」21頁。武光誠「冠位十二階の再検討」(『日本古代国家と律令制』21頁)。
- ^ 坂本太郎『大化改新の研究』234-235頁。宮田俊彦「聖徳太子とその時代」21頁。
- ^ 宮田俊彦「聖徳太子とその時代」21頁。
- ^ 福永光司「聖徳太子の冠位十二階」76-77頁
- ^ 若月義小「冠位制の基礎的考察」129-130頁。
- ^ 坂本太郎『大化改新の研究』237-238頁。
- ^ 岸哲男「推古朝冠位十二階の「当色」について」58頁。
- ^ 岸哲男「推古朝冠位十二階の「当色」について」69頁。虎尾達哉「冠位十二階と大化以降の諸冠位」33頁。吉川真司『飛鳥の都』25頁。
- ^ 谷川士清『日本書紀通証』巻27、臨川書店版第3冊1521頁。河村秀根・益根『書紀集解』巻22、臨川書店版第4冊1274頁。増田美子『古代服飾の研究』108-110頁。
- ^ 谷川士清『日本書紀通証』巻27、臨川書店版第3冊1521頁。原田淑人(「冠位の形態から観た飛鳥文化」393頁)は大小の区別法は不明とする。
- ^ 岸哲男「推古朝冠位十二階の「当色」について」67頁。
- ^ 岸哲男「推古朝冠位十二階の「当色」について」62頁。
- ^ 『日本書紀』大化3年是歳条。「七色」と書くが、色で冠の名が示されるのは3つだけで、あとの3つは織・縫・錦という織物の生地の名で、残る1つは建武である。
- ^ これら諸説については増田美子『古代服飾の研究』105-107頁に紹介がある。
- ^ 谷川士清『日本書紀通証』巻27、臨川書店版第3冊1520頁。
- ^ 黛弘道「冠位十二階考」321-323頁。岸哲男「推古朝冠位十二階の「当色」について」62頁。増田美子『古代服飾の研究』111頁。しかし喜田新六は、蝦夷・入鹿が大徳でないことを認めつつ、「私に授けた」のは最高位の冠と同じ色のはずだという理由で、大徳を紫冠とする(「位階制の変遷について」上3-4頁。)。
- ^ 河村秀根・益根『書紀集解』巻22推古紀、臨川書店版第4冊1274頁。
- ^ 吉村武彦『古代王権の展開』126頁に紫と五行の五色が示される。
- ^ 増田美子『古代服飾の研究』111頁。
- ^ 朝鮮諸国の官位を継承したとみる人には、曽我部静雄(「位階制度の成立」12頁・通巻309頁)、井上光貞(「冠位十二階とその史的意義」296頁)、黛弘道(「冠位十二階の実態と源流」367頁)、大庭脩(「隋唐の位階制と日本」334-335頁。)、大隅清陽(「古代官位制度の変遷」)がいる。中国の影響を重くみるのは武光誠(『日本古代国家と律令制』8-9頁)、武田佐知子(「中国の衣服制と冠位十二階」178-179頁)らである。ただし、本文で後述するように、この対立はあちらが立てばこちらが立たないというようなものではない。
- ^ 宮崎市定「日本の官位令と唐の官品令」218頁。
- ^ 宮崎市定「日本の官位令と唐の官品令」225-228頁。
- ^ 武田佐知子「中国の衣服制と冠位十二階」152-153頁。
- ^ 武田佐知子「中国の衣服制と冠位十二階」168-172頁。
- ^ 黛弘道「冠位十二階考」332-333頁。
- ^ 大隅清陽「古代官位制度の変遷」44頁。
- ^ 坂本太郎『大化改新の研究』237頁。宮崎市貞「」。井上光貞「冠位十二階とその史的意義」292-293頁。
- ^ 井上光貞「冠位十二階とその史的意義」294-295頁。
- ^ 坂本太郎『大化改新の研究』223-225頁。井上光貞「冠位十二階とその史的意義」295-296頁。
- ^ 井上光貞「冠位十二階とその史的意義」297頁。
- ^ 武田佐知子「中国の衣服制と冠位十二階」153頁。
- ^ 曽我部静雄「位階制度の成立」11-12頁(通巻308-309頁)。
- ^ 坂本太郎『大化改新の研究』204-205頁。
- ^ 廣瀬圭「古代服制の基礎的考察」21頁、39頁、福永光司「聖徳太子の冠位十二階」82頁注4。武田佐知子「古代国家の形成と身分標識」242-244頁。
参考文献
[編集]- 小島憲之・西宮一民・毛利正守・直木孝次郎・蔵中進校注・訳『日本書紀』2(新編日本古典文学全集3)、小学館、1996年。
- 岸哲男「推古朝冠位十二階の「当色」について」『二松学舎大学東洋学研究所集刊』第13集、1982年。
- 喜田新六「位階制の変遷について上・下」『歴史地理』第85巻第2号・3号、1954年12月・1955年3月。
- 井上光貞「冠位十二階とその史的意義」『日本古代国家の研究』、岩波書店、1965年。初出は『日本歴史』第176号、1963年。
- 坂本太郎『大化改新の研究』至文堂、1938年。
- 関晃「推古朝政治の性格」『大化改新の研究』下(関晃著作集第2巻)、吉川弘文館、1996年。初出は『東北大学日本文化研究所研究報告』第3集、1967年。
- 曽我部静雄「位階制度の成立」『芸林』第4巻第2号、1953年。
- 河村秀根・益根『書紀集解』臨川書店、1969年。
- 武田佐知子「中国の衣服制と冠位十二階 五行思想と服色」『古代国家の形成と衣服制』吉川弘文館、1984年。初出は『女子美術大学紀要』13号、1983年。
- 武田佐知子「古代国家の形成と身分標識、『古代国家の形成と衣服制』吉川弘文館、1984年。
- 武光誠「冠位十二階の再検討」『日本古代国家と律令制』吉川弘文館、1984年。(『日本歴史』第346号、1977年)掲載の同名論文を改稿。
- 谷川士清著、小島憲之解題、『日本書紀通證』臨川書店、1978年。
- 時野谷滋「薫弘道氏『冠位十二階考』読む」『日本上古史研究』第3巻第7号(通巻31号)、1958年7月。
- 虎尾達哉「冠位十二階と大化以降の諸冠位 増田美子氏の新説をめぐって」『鹿大史学』40号、1992年。
- 原田淑人「冠位の形態から観た飛鳥文化の性格」、斎藤忠編『日本考古学論集』2(集落と衣食住)、吉川弘文館、1986年。初出は『聖心女子大学論叢』第13号、1959年。
- 平田耿二「聖徳太子と冠位十二階」(新人物往来社 編『日本の組織図事典』(新人物往来社、1988年) ISBN 4404015070
- 廣瀬圭「古代服制の基礎的考察」『日本歴史』第359号、1978年1月。
- 福永光司「聖徳太子の冠位十二階」『道教と日本文化』人文書院、1982年。初出は『図書』1981年9月。
- 増田美子『古代服飾の研究 縄文から奈良時代』源流社、1995年。
- 黛弘道「冠位十二階考」『律令国家成立史の研究』吉川弘文館、1982年。
- 黛弘道「冠位十二階の実態と源流」『律令国家成立史の研究』吉川弘文館、1982年。
- 宮田俊彦「聖徳太子とその時代」『歴史教育』第2巻第4号、1954年。
- 宮本救「冠位十二階と皇親」竹内理三博士還暦記念会『律令国家と貴族社会』吉川弘文館、1969年所収。
- 吉川真司『飛鳥の都』(シリーズ日本古代史3)岩波書店(岩波新書)、2011年。
- 吉村武彦『古代王権の展開』(集英社版日本の歴史3)集英社、1991年。
- 若月義小「冠位制の基礎的考察」『立命館文学』448・449・450合併号、1982年。
関連項目
[編集]- 冠位・位階制度の変遷
- 禁色(ゆるし色) - 上位の位階の色を着用することは禁止されていたが、勅許により許可されるようにもなった。
- 九品十八階