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{{Infobox monument
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* [[正教会]](537年 – 1204年)
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* 正教会(1261年 – 1453年)
* [[イスラム教]][[モスク]](1453年 – 1935年)
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元々は[[東ローマ帝国]](ビザンツ帝国、ビザンティン帝国)時代に[[首都]][[コンスタンティノープル]]で建てられた[[キリスト教]][[正教会]]の[[大聖堂]]を起源とし、帝国第一の[[格式]]を誇る[[教会]]、[[コンスタンディヌーポリ総主教庁|コンスタンティノープル総主教座]]の所在地であった<ref name="mw112">Müller-Wiener (1977), p. 112.</ref>が、1204年から1261年までは[[ラテン帝国]]支配下において[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]の教徒大聖堂とされていた。その後は[[オスマン帝国]]による[[コンスタンティノープルの陥落]]が起きた[[1453年]]5月29日から[[1931年]]までの長期間にわたり[[イスラム教]]モスクとして改築を繰り返し使用されて現在の特徴的な姿となった<ref name="archnet.org">"[http://archnet.org/library/sites/one-site.jsp?site_id=2966 Hagia Sophia]." ArchNet.</ref>。トルコ共和国政府は[[1935年]]2月1日、[[世俗主義|世俗的]]な博物館({{lang-tr|Ayasofya Müzesi}})<ref>Magdalino, Paul, et. al. "Istanbul: Buildings, Hagia Sophia" in Grove Art Online. Oxford Art Online. http://www.oxfordartonline.com. accessed 28 February 2010.</ref>とし、それが2020年7月まで続いた。
'''アヤソフィア'''(<small>[[トルコ語]]</small>:{{lang|tr|Ayasofya}}、<small>[[古典ギリシア語]]</small>:{{lang|el|Ἁγία Σοφία (Hagia Sophiā)}}、<small>現代ギリシア語</small>:{{lang|el|Αγία Σοφία (Aagia Sophia)}})は、[[トルコ]]の[[イスタンブル]]にある[[博物館]]。[[東ローマ帝国]](ビザンツ帝国・ビザンティン帝国)時代に正統派[[キリスト教]]の[[大聖堂]]として建設されたもので、帝国第一の格式を誇る教会、[[コンスタンディヌーポリ総主教庁|コンスタンティノポリス総主教座]]の所在地であった。[[東西教会の分裂]]([[1054年]]の「相互破門」の舞台はまさに当大聖堂だった)以後は、[[正教会]]の総本山となる。


東ローマ帝国の代表的な遺構であり、しばしば[[ビザンティン建築]]の最高傑作と評価される。その歴史と威容から、[[オスマン帝国]]の時代においても第一級の格式を誇る[[モスク]]として利用された。[[日本語]]では慣用的に「ハギア・ソフィア」と呼称されるが、厳密には[[トルコ語]]読みは「アヤソフャ」、古典[[ギリシア語]]読みは「ハギア・ソピアー」、現代ギリシア語読みでは「アギア・ソフィア」に近い。正教会では「'''アギア・ソフィア大聖堂'''」と呼ばれ、「'''ハギア・ソフィア大聖堂'''」と表記されることも多い
東ローマ帝国の代表的な[[遺構]]であり、しばしば[[ビザンティン建築]]の最高傑作と評価される。その歴史と威容から、キリスト教建築物でありながらオスマン帝国の時代においても第一級の格式を誇るモスクとして利用された。日本語では慣用的に「ハギア・ソフィア」と呼称されるが、正教会では「'''アギア・ソフィア大聖堂'''」または「'''ハギア・ソフィア大聖堂'''」とも呼ばれる。


== 概説 ==
== 概説 ==
アヤソフィア、あるいはハギア・ソフィアと命名された教会堂建築は、[[ギリシア]]やトルコなど、かつての[[東ローマ帝国]](ビザンティン帝国ビザンツ帝国)領の各地に数多く残されているが、単にアヤソフィアと言った場合、イスタンブルのアヤソフィアを指すことが一般的である。元来の名称であるハギア・ソフィアはギリシア語で「[[ソフィア (神秘思想)|聖なる叡智]]」を意味し、その中世の発音「アヤ・ソフィア」がトルコ語名「アヤソフィア」の由来である。[[日本]]では'''[[聖ソフィア大聖堂]]'''、'''聖ソフィア寺院'''などとも呼ばれる。
アヤソフィア、あるいはハギア・ソフィアと命名された[[教会堂]][[建築物|建築]]は、[[ギリシア]]やトルコなど、かつての[[東ローマ帝国]]([[ビザンティン|ビザンティン帝国]]、ビザンツ帝国)領の各地に数多く残されているが、単にアヤソフィアと言った場合、イスタンブルのアヤソフィアを指すことが一般的である。元来の名称であるハギア・ソフィアはギリシア語で「[[ソフィア (神秘思想)|聖なる叡智]]」を意味し、その[[中世]]の発音「アヤ・ソフィア」がトルコ語名「アヤソフィア」の由来である。


教会は[[三位一体]]の第二にあたる[[ロゴス#キリスト教|ロゴス]]に捧げられた<ref name=ja471>Janin (1953), p. 471.</ref>もので、ロゴスが示すところの[[イエス・キリスト]]の[[受肉]]日である[[12月25日]]に献納された<ref name=ja471/>。
イエス・キリストを象徴する東に[[至聖所]]、西に正面玄関を持つ伝統的な平面構成だが、身廊中央部に巨大な[[ドーム]]があり、これがアヤソフィアの最大の特徴となっている。創建当時は単純な四角形平面であったが、その後、東ローマ帝国、オスマン帝国の時代を通じて、周囲に様々な施設が建て増しされた。内壁は基本的にはオスマン帝国時代に塗られた[[漆喰]]仕上げ、[[大理石]]仕上げとなっているが、一部が剥がされ、東ローマ帝国時代の[[モザイク]]壁画をみることができるようになっている。


時に使われるSancta Sophia(聖ソフィア)の名は{{仮リンク|殉教者ソフィア|en|Sophia the Martyr}}にちなんだと受け取られるが、「sophia」は[[ラテン語]]で「叡智」を意味し、ギリシア語表示の{{lang|grc|Ναός τῆς Ἁγίας τοῦ Θεοῦ Σοφίας}}は「神の聖なる叡智の神殿」を表している<ref>{{cite book | last = McKenzie | first = Steven L. | others= M. Patrick Graham | title = The Hebrew Bible Today: An Introduction to Critical Issues | url = https://books.google.co.jp/books?id=owwhpmIVgSAC&pg=PA149&dq=%22Jesus+Christ+as+the+Holy+Wisdom+of+God%22&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&=%22Jesus%20Christ%20as%20the%20Holy%20Wisdom%20of%20God%22&f=false | publisher=Westminster John Knox Press | location=Louisville, KY | year = 1998 | page=149 | isbn =0-664-25652-X }}</ref><ref>{{cite book | last = Binns | first = John | title = An Introduction to the Christian Orthodox Churches | url = https://books.google.co.jp/books?id=MOA5vfSl3dwC&pg=PA57&dq=%22Its+dedication+to+the+Wisdom+of+God+identified+it+with+Christ%22&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q=%22Its%20dedication%20to%20the%20Wisdom%20of%20God%20identified%20it%20with%20Christ%22&f=false | publisher=[[ケンブリッジ大学出版局]]| location=Cambridge | year = 2002 | page=57 | isbn =0-521-66738-0}}</ref>。
[[1985年]]、「[[イスタンブルの歴史地区]]」の一部として[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界文化遺産]]に登録された。

イエス・キリストを象徴する東に[[至聖所]]、西に正面[[玄関]]を持つ伝統的な[[平面]]構成だが、[[身廊]]中央部に巨大な[[ドーム]]があり、この点から[[ビザンティン建築]]の典型とみなされる<ref name=BAT>{{cite book | last1=Fazio|first1=Michael|last2=Moffett|first2=Marian|last3=Wodehouse|first3=Lawrence | title = Buildings Across Time | edition = 3rd | isbn = 978-0-07-305304-2 | publisher = McGraw-Hill Higher Education | year = 2009}}</ref>。創建当時は単純な[[四角形]]平面であったが、その後、東ローマ帝国、オスマン帝国の時代を通じて、周囲に様々な[[施設]]が建て増しされた。内[[壁]]は基本的にはオスマン帝国時代に塗られた[[漆喰]]仕上げ、[[大理石]]仕上げとなっているが、一部が剥がされ、東ローマ帝国時代の[[モザイク]][[壁画]]が再び表面に現れた。[[イスラム教]]が[[偶像崇拝]]を禁じているため、2020年7月のモスク化後、[[生神女|聖母子像]]や[[天使#キリスト教における天使|天使]]の絵は[[カーテン]]で隠された<ref name="朝日GLOBE2020OCT"/>。

アヤソフィアは「建築の歴史を変えた」とも評され<ref name="nytimes">{{cite news|url=http://www.nytimes.com/1993/08/22/travel/center-of-ottoman-power.html|title=Center of Ottoman Power|work=New York Times|last= Simons|first=Marlise |accessdate=4 June 2009 | date=22 August 1993}}</ref>、[[1520年]]に[[セビリア大聖堂]]が完成するまでは[[世界一の一覧|世界最大]]の大聖堂の地位を1000年近く保っていた。現在の建物は[[532年]]から[[537年]]にかけて東ローマ[[皇帝]][[ユスティニアヌス1世]]の命によって建設されたもので<ref>{{Cite book|和書 |author = 新建築社 |year = 2008 |title = NHK 夢の美術館 世界の名建築100選 |publisher = [[新建築社]] |page = 32 |isbn = 978-4-7869-0219-2}}</ref>、この地に建てられた3代目の建物にあたり、以前の2代はいずれも[[暴動]]によって破壊された。デザインはギリシアの[[物理学者]][[ミレトスのイシドロス]]と、数学者[[トラレスのアンテミオス]]によってなされた<ref>{{cite book | last = Kleiner | first = Fred S. | coauthors= Christin J. Mamiya | title = [[:en:Gardner's Art Through the Ages|Gardner's Art Through the Ages: Volume I, Chapters 1–18]] | publisher=Wadsworth | location= Mason, OH | edition=12th | year = 2008 | page=329 | isbn =0-495-46740-5}}</ref>。

[[1985年]]、「[[イスタンブール歴史地域]]」の一部として[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]に登録された。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 東ローマ帝国による創建 ===
=== 創建 ===
[[ファイル:Oldayasofya.jpg|left|thumb|旧ハギア・ソフィア大聖堂の遺構<br />415年にテオドシウス2世によって再建された聖堂の一部]]
[[ファイル:Oldayasofya.jpg|left|thumb|旧ハギア・ソフィア大聖堂の遺構<br />415年に[[テオドシウス2世]]によって再建された聖堂の一部]]
アヤソフィアは元来[[キリスト教]]の大聖堂である。最初の聖堂は[[360年]]、首都[[コンスタンティノポリス]](コンスタンティノープル)に[[コンスタンティヌス1世|コンスタンティヌス大帝]]の子[[コンスタンティウス2世]]の手によって建立された。単会(メガエクア)と呼ばれおり、聖は再建されても常に巨大なものであっため以後もほとんどこのように呼ばれてい。この聖堂が最初からハギア・ソフィア呼ばれていたのか後の再建からハギア・ソフィアと命名されたのかは分からない。最初の教会は木造屋根をもった[[バシリカ]]だったらしいが、今日ではその位置しか知られていない
アヤソフィアは元来[[キリスト教]]の大聖堂である。最初の聖堂は、東ローマ帝国首都[[コンスタンティノープル]](コンスタンティノポリス)に[[コンスタンティヌス1世|コンスタンティヌス大帝]]の子[[コンスタンティウス2世]]の手によって[[350年]]頃に設が始まり[[360年]]2月15日、[[アリウス派]][[僧|僧侶]]の[[司]]{{仮ンク|アンティオキアのウドクシオス|en|Eudoxius of Antioch}}によっ<ref name=ja472>Janin (1953), p. 472.</ref>献堂された<ref name=Hidaka21>[[#日高ら(1990)|日高ら(1990)p.21-24、2.ドームを仰ぎ見るとハギア・ソフィア大聖<ユスティニアヌス大帝による建設工事>]]</ref>

単に大教会(メガリ・エクリシア)と呼ばれており、聖堂は再建されても常に巨大なものであったため、以後もほとんどこのように呼ばれている。
この聖堂が最初からハギア・ソフィアと呼ばれていたのか、後の再建からハギア・ソフィアと命名されたのかは分からない<ref name=Hidaka21 />。最初の教会堂は木造屋根をもった[[バシリカ]]だったらしく<ref name=Hidaka21 />、「偉大な教会」({{lang|grc|Μεγάλη Ἐκκλησία}} (''{{transl|grc|Megálē Ekklēsíā}}'', "Great Church"))またはラテン語で「Magna Ecclesia」<ref name="Great Church">{{cite web| url=http://www.virtualworldheritage.org/papers/3181_976-Virtual_Hagia_Sophia.pdf|format=PDF|title=Virtual Hagia Sophia: Restitution, Visualization and Virtual Life Simulation|accessdate=3 July 2007|author=Alessandro E. FONI, George PAPAGIANNAKIS, Nadia MAGNENAT-THALMANN |archiveurl = https://web.archive.org/web/20070709194035/http://www.virtualworldheritage.org/papers/3181_976-Virtual_Hagia_Sophia.pdf <!-- Bot retrieved archive --> |archivedate = 9 July 2007}}</ref>と呼ばれた。これは、都市内にあったどの教会よりも大きな建物であったためである<ref name=ja471/>。今日ではその位置しか知られていない。

[[404年]]にコンスタンティノープル[[大主教]][[ヨアンネス・クリュソストモス]]追放に伴う争乱でこの聖堂が焼失すると、[[テオドシウス2世]]によってすぐに再建が行われ、[[415年]]に献堂された<ref name=Hidaka21 />。この聖堂も現在のものとは全く違うバシリカであり、現在でも一列の円柱と柱基、装飾された[[梁 (建築)|梁]]が残っている。

しかし、この聖堂も [[532年]]1月の首都市民の反乱([[ニカの乱]])における[[放火]]で、皇帝[[宮殿]]の一部や{{仮リンク|アギア・イリニ聖堂|en|Hagia Irene}}とともに再び焼失してしまう<ref name=Hidaka20>[[#日高ら(1990)|日高ら(1990)、p.20-21、2.ドームを仰ぎ見るとき、◎ハギア・ソフィア大聖堂<ニカの乱>]]</ref>。


[[コンスタンティノープルのソクラテス]]が[[440年]]に記したところによると、教会は[[346年]]に[[コンスタンティウス2世]]によって建設されたという<ref name=ja472/>。しかし[[7|7世紀]] - [[8世紀]]以降からの[[口伝]]では、この大建築物は[[コンスタンティヌス1世|コンスタンティヌス大帝]]によって建てられたという<ref name=ja472/>。{{仮リンク|ヨハネス・ゾナラス|en|Zonaras}}は2つの説を整合させ、コンスタンティウス2世は{{仮リンク|ニコメディアのエウセビオス|en|Eusebius of Nicomedia}}が献納した建物が壊れたため修理をしたのだと述べた<ref name=ja472/>。エウセビオスは[[339年]]から[[341年]]にコンスタンティノープルの司教職を務め、大帝は[[337年]]に亡くなっているため、最初の教会が大帝によって創建されたという考えは可能である<ref name=ja472/>。この最初の教会は、[[コンスタンディヌーポリ大主教|コンスタンティノープル大主教]]の[[ヨアンネス・クリュソストモス]]が皇帝[[アルカディウス]]の妃[[アエリア・エウドキア]]と対立し[[404年]]6月20日に追放処分に科せられた後に発生した暴動で焼失した<ref name=ja472/>。
[[404年]]にコンスタンティノポリス主教[[ヨアンネス・クリュソストモス]]追放に伴う争乱でこの聖堂が焼失すると、[[テオドシウス2世]]によってすぐに再建が行われ、[[415年]]に献堂された。この聖堂も現在のものとは全く違うバシリカであり、現在でも一列の円柱と柱基、装飾された梁が残っている。しかし、この聖堂も [[532年]]1月の首都市民の反乱(「[[ニカの乱]]」)における大火で、皇帝宮殿の一部やアギア・イリニ聖堂とともに再び焼失してしまう。


=== 現在に至る構築 ===
[[ファイル:Ayasofya-Innenansicht.jpg |right|thumb|アヤソフィア大聖堂の内部]]
[[ファイル:Ayasofya-Innenansicht.jpg |right|thumb|アヤソフィア大聖堂の内部]]
度の焼失を経た後、[[ユスティニアヌス1世|ユスティニアヌス帝]]はただちに再建することを決定し、その設計を[[トラレスのアンテミオス]]と[[ミレトスのイシドロス]]にゆだねた。の建設過程は[[プロコピオス]]によって詳細に報告されている。両者は地表の水平面を正確に計測し、ドームを支える主支柱を煉瓦ではなく大型の石材で造成することによって、[[クリープ]]による変形や乾燥収縮がきないようにした。このように緻密に建設を進めたにもわらず、ドーム下部のアーチ架構に差し掛かると建物は変形し始め、各所で亀裂や破壊がおこったとされている。プロコピオスによると、東側の大アーチの工事が完成しないうちにこれを支える主柱が外側に傾き始め、また、南と北のアーチは養生段階で下部の[[ティンパヌム]]に過大な荷重をかけたため、窓の円柱か2階廊下の円柱が破壊し始めた。それでも、巨大な[[控え壁|バットレス]]をドーム直下にまで補強するなどの方法によって41.5 mの高さのドームは建設され、工事は5年11ヶ月という短期間で終了し、 [[537年]][[12月27日]]、ユスティニアヌスを迎え、総主教[[メナス]]による献堂式を迎え。この時ユスティニアヌスは、古代[[イスラエル王国]]の[[ソロモン]]王の神殿を凌駕する聖堂を建てたという思いから、「ソロモンよ、余は汝に勝てり!」と叫んだと伝えられている
2度の焼失を経た後、[[ユスティニアヌス1世|ユスティニアヌス帝]]はちに再建することを決定し<ref name=Hidaka20 />、その設計を技師(ミヒャノピオスまたはミヒャノコス)[[トラレスのアンテミオス]]と[[ミレトスのイシドロス]]にると、金に糸目をつけず世界中から工員を集め、工事開始を急かし<ref name=Hidaka21 />過去のパジリカ復旧ではなく全く新たに設計され直した大聖堂の建設過程は[[プロコピオス]]によって詳細に報告されている<ref name=Hidaka21 />。両者は地表の水平面を正確に計測し、ドームを支える主支柱を[[レンガ]]ではなく大型の石材で造成することによって、[[クリープ]]による変形や乾燥収縮がきないようにした。このように緻密に建設を進めたにもかかわらず、ドーム下部の[[アーチ]]架構に差し掛かると建物は変形し始め、各所で[[クラック|亀裂]]や破壊がおこったとされている。プロコピオスによると、東側の大アーチの工事が完成しないうちにこれを支える主柱が外側に傾き始め、また、[[]][[]]のアーチは[[養生 (作業)|養生]]段階で下部の[[ティンパヌム]]に過大な[[荷重]]をかけたため、[[]]の円柱か2階廊下の円柱が破壊し始めた。それでも、巨大な[[控え壁|バットレス]]をドーム直下にまで補強するなどの方法によって高さ41.5 mのドームは建設された。


工事は5年11か月という短期間で終了し、 [[537年]]12月27日、ユスティニアヌス帝を迎え、総主教[[メナス]]による献堂式を迎えた<ref name=Hidaka21 />。この時ユスティニアヌスは、古代[[イスラエル王国]]の[[ソロモン神殿]]を凌駕する聖堂を建てたという思いから、
計画では真円になるはずだったドームは、建築中の歪みによって南北に2m程度長い楕円形になっており、また、ドーム基部に現在よりも大きな開口部を設けていたため、[[553年]]から頻発した地震によって亀裂を生じた。特に[[557年]][[12月14日]]の地震によって聖堂は大きなダメージを受け、[[558年]][[5月7日]]に東側のアーチと半ドーム、そして中央ドームの半分が崩壊した。
「[[ソロモン]]よ、余は汝に勝てり!」と叫んだと伝えられている<ref name=Hidaka21 />。プロコピオスは著書『建築について』にて、計算された巧みな[[比率]]を持ち、比率[[太陽光|陽光]]が豊かに差し込む会堂内部を「美の殿堂」と称え、中央の半球状ドームはまるで[[金]]の[[鎖]]で[[天空]]から吊るされたようだと感想を述べた<ref name=Hidaka21 />。


しかし、計画では[[真円]]になるはずだったドームは、建築中の[[ひずみ|歪み]]によって南北に2 m程度長い[[楕円]]形になっており、また、ドーム基部に現在よりも大きな開口部を設けていたため、[[553年]]から頻発した[[地震]]によって[[クラック|亀裂]]を生じた。特に[[コンスタンティノープル地震 (557年)|557年12月14日の地震]]によって聖堂は大きなダメージを受け、[[558年]]5月7日に東側のアーチと半ドーム、そして中央ドームの半分が崩壊した<ref name=Hidaka24>[[#日高ら(1990)|日高ら(1990)、p.24-26、2.ドームを仰ぎ見るとき、◎ハギア・ソフィア大聖堂<第一ドームの崩壊>]]</ref><ref name="Jan_1">{{cite book | last=Janin | first= Raymond | title=Constantinople Byzantine | publisher=Institut Français d'Etudes Byzantines | location=Paris | language=French | edition=1 | page=41 | year=1950}}</ref>。この崩落の主な原因は、非常に重い支持構造と、平たいドームの[[重さ]]による強い[[せん断]]荷重であった<ref name=mw86>Müller-Wiener (1977), p. 86.</ref>。これらがドームを支えていたアーチに変形を引き起こした<ref name=mw86/>。
再建工事は直ちに着手され、残存していたドームは取り除かれた。現在にみるドームは、[[小イシドロス]]らの専門委員会によって内壁を補強した上に架けられた第2ドームである。彼らはまずアーチの壁厚を調整して、ドーム基部を正方形に近づけ、元よりも高いドームを構築した。ドーム再建後、[[562年]][[12月24日]]に新たに献堂式が行われ、ユスティニアヌスは総主教[[エウテュキオス]]とともに[[チャリオット|戦車]]に乗って堂内に入ったとされる。このドームは[[989年]][[10月26日]]と[[1346年]][[5月19日]]に大規模な崩落をおこしており、10世紀の崩落ではドーム西側3分の1を、14世紀の崩落では南東方向の半分を失った。その際、基本的なデザインを維持したまま修復されたが、ドームの開口部は段階的に縮小された。また、[[563年]]には小イシドロスによってドーム基部に立ち上がる4基の塔状バットレスが建設された。これは現在3基が現存しており、堂内の4つの主柱に対応する。


再建工事は直ちに着手され、残存していたドームは取り除かれた<ref name=Hidaka24 />。現在にみるドームは、[[小イシドロス]]ら専門家によって内壁を補強した上に架けられた第2ドームである。彼らは旧来のドームにあった構造上の弱点を分析し<ref name=Hidaka24 />、まずアーチの壁厚を調整して、ドーム基部を正方形に近づけ、元よりも約6.4 m高いドームを構築し<ref name=Hidaka24 />、現在に至る高さ55.6 mへ改めた<ref>{{cite web|url=http://www.emporis.com/en/wm/bu/?id=haghiasophia-istanbul-turkey |title=Haghia Sophia |location=Istanbul / |publisher=Emporis |date= |accessdate=4 December 2011}}</ref>。また、軽量の[[建築材料]]を用いる工夫も施し<ref name=mw86/>、形状もリブ構造と[[穹隅|ペンデンティブ]]を備えるものに改良し、その直径も32.7 - 33.5 mとなった<ref name=mw86/>。
ユスティニアヌスによって再建されたアヤソフィア大聖堂は、[[コンスタンディヌーポリ総主教庁|コンスタンティノポリス総主教庁]]の所在地として正教会第一の格式を誇り、また[[東ローマ帝国]]の諸[[皇帝]]の[[廟|霊廟]]として用いられた。コンスタンティノポリスを訪れた人びとの巡礼記録から、聖堂内には現在では失われた施設・聖遺物があったことが知られる。14世紀にコンスタンティノポリスを訪れたロシア人[[スモレンスクのイグナティオス]]の記録では、聖堂内部には多くの礼拝堂が設けられ、「[[ノアの箱船]]の扉」やイエスが磔にされた「[[聖十字架]]」、「[[アブラハム]]のテーブル」など、多くの[[聖遺物]]が安置されていた。また、この時代は隣に総主教の宮殿が併設されており、内ナルテクス南端の、現在では出入り口となっている部分は、総主教宮殿への通路となっていた。

ドーム再建後、[[562年]]12月24日に新たに献堂式が行われ、賞賛の[[合唱]]の中ユスティニアヌスは総主教[[エウテュキオス]]とともに[[チャリオット|戦車]]に乗って堂内に入ったとされる<ref name=Hidaka24 />。このドームは[[989年]]10月26日と[[1346年]]5月19日に大規模な崩落を起こしており、[[10世紀]]の崩落ではドーム西側3分の1を、14世紀の崩落では[[南東]]方向の半分を失った<ref name=Hidaka28>[[#日高ら(1990)|日高ら(1990)、p.28-29、2.ドームを仰ぎ見るとき、◎ハギア・ソフィア大聖堂<その後の歴史>]]</ref>。その際、基本的な[[デザイン]]を維持したまま修復されたが、ドームの開口部は段階的に縮小された。

また、[[563年]]には小イシドロスによって外側にドーム基部まで立ち上がる4基の[[塔]]状[[控え壁|バットレス]]が建設された。これは現在3基が現存しており、堂内の4つの主柱に対応し、内部には折れ曲がった[[階段]]がある<ref name=Hidaka28 />。その後も補強を目的とした構造物の増築は続き、特に[[9世紀]]に行われた南北の[[ティンパヌム]]は大規模な工事となった<ref name=Hidaka28 />。

[[726年]]、皇帝[[レオーン3世]]は[[東ローマ帝国のイコノクラスム|イコノクラスム]](聖像破壊運動)を先導し、一連の[[勅令]]を発する中で軍([[:en:Byzantine army|英語版]])に全ての[[イコン]]を除く命令を下した。これによって全ての宗教画や像はアヤソフィアから取り除かれた。イコノクラスムは[[レオーン4世]]の皇后[[エイレーネー (東ローマ女帝)|エイレーネー]](後に女帝)が主導した[[787年]]の[[第2ニカイア公会議]]でいったん終息した<ref>[[井上浩一 (歴史学者)|井上浩一]]『ビザンツ皇妃列伝』([[白水社]])P137-138 </ref>が、829年に即位した皇帝[[テオフィロス]]は[[イスラム美術]]の影響を強く受け<ref>{{Cite web |url=http://www.ingentaconnect.com/content/routledg/calm/2004/00000016/00000001/art00004 |title=The 'Abbāsid palace of Theophilus: Byzantine taste for the arts of Islam |access-date=2022-05-28 |archive-url=https://web.archive.org/web/20181004092733/http://www.ingentaconnect.com/content/routledg/calm/2004/00000016/00000001/art00004 |archive-date=2018-10-04 |url-status=dead|url-status-date=2022-05}}</ref>、[[生物]]の表現一切を禁じた<ref>Brubaker (2011), p. 115</ref>。

[[989年]]10月25日の大地震は西側ドームのアーチ部分を崩落させた。皇帝[[バシレイオス2世]]は[[アルメニア人]]建築家であり、アニやアグリナの教会建設を行ったアルメニア人の{{仮リンク|アルキテクトのトルダト|en|Trdat the Architect}}に修復の主導を依頼した<ref>Maranci, Christina. "[http://www.jstor.org/stable/3592516?origin=JSTOR-pdf The Architect Trdat: Building Practices and Cross-Cultural Exchange in Byzantium and Armenia]." ''Journal of the Society of Architectural Historians'', Vol. 62, No. 3, September 2003, pp. 294–305.</ref>。

トルダトは落下したドームのアーチを再建し補強を施し、さらに西側のドーム15基にもリブ構造を導入した<ref name=mw87>Müller-Wiener (1977), p. 87.</ref>。この工事には6年が費やされ、[[994年]]5月13日に完成した。この時、4[[大天使]]の絵画を含む装飾にも手が加えられ、ドーム部分のキリストや後陣の[[使徒]][[ペテロ]]と[[パウロ]]の間でキリストを抱いた[[聖母マリア]]が加えられた<ref name=ma287>Mamboury (1953) p. 287</ref>。側面の大きなアーチには、[[預言者]]や[[教父]]らの絵画が施された<ref name=ma287/>。

ユスティニアヌスによって再建されたアヤソフィア大聖堂は、[[コンスタンディヌーポリ総主教庁|コンスタンティノープル総主教庁]]の所在地として[[正教会]]第一の格式を誇り、また[[東ローマ帝国]]の諸皇帝の[[廟|霊廟]]として用いられた。コンスタンティノープルを訪れた人びとの巡礼記録から、聖堂内には現在では失われた施設・[[聖遺物]]があったことが知られる。[[14世紀]]にコンスタンティノープルを訪れた[[ロシア人]][[スモレンスクのイグナティオス]]の記録では、聖堂内部には多くの[[礼拝堂]]が設けられ、「[[ノアの箱船]]の扉」や[[キリストの磔刑|イエス・キリストが磔]]にされた「[[聖十字架]]」、「[[アブラハム]]のテーブル」など、多くの聖遺物が安置されていた。また、この時代は隣に[[総主教]]の宮殿が併設されており、内[[ナルテクス]]南端の、現在では出入り口となっている部分は、総主教宮殿への通路となっていた。

=== カトリックからの奪還 ===
アヤソフィアは[[13世紀]]、[[ラテン帝国]]の支配にあった[[1204年|1204]] - [[1261年]]には[[カトリック教会|カトリック]]の影響下に置かれた<ref name=Hidaka31 />(背景については「[[第4回十字軍]]」参照)。[[1261年]]の[[コンスタンティノープルの回復 (1261年)|奪還]]後<ref name=mw91>Müller-Wiener (1977), p. 91.</ref>、[[床]]の装飾の一部に[[ボードゥアン1世 (ラテン皇帝)|ラテン皇帝ボードゥアン1世]]の[[墓石|墓碑文]]は、ビザンティンの人々が吐き捨てる[[唾]]に晒された<ref>[http://www.teslasociety.com/hagiasophia.htm]</ref> 。奪回した時、教会は荒れ果てた状態にあった。[[1317年]]、[[アンドロニコス2世パレオロゴス]]は亡き妃[[ヴィオランテ・ディ・モンフェラート]]の遺産を使い、教会の東と北に4つの[[控え壁|バットレス]]を新設した<ref name=mw91>Müller-Wiener (1977), p. 91.</ref>。


=== オスマン帝国時代 ===
=== オスマン帝国時代 ===
[[ファイル:Haga Sofia RB5.jpg|left|thumb|アヤソフィアのミフラーブ]]
[[File:Kék Mecset - 2014.10.23.JPG|thumb|495px|アヤソフィアの[[ナレット]]]]
[[ファイル:Haga Sofia RB5.jpg|left|thumb|アヤソフィアの[[ミフラーブ]]]]
[[1453年]][[5月29日]]、 [[コンスタンティノープルの陥落|コンスタンティノポリスを占拠]]した[[オスマン帝国]]の[[メフメト2世]]は、その日の午後に市入城するとすぐにこの大聖堂に赴いた。彼は大聖堂入り口の土を自らのターバンに振りかけて堂内に入り、コスタンティノポリス総主教庁から大聖堂を没収、[[モスク]]へ転用することを宣言した。このときにアヤソフィア大聖堂に接続する総主教館は破壊され、アヤソフィア内部は[[十字架]]が取り外され、[[マッカ]](メッカ)の方向を示すくぼみである[[ミフラーブ]]が加えられたが、内部の改修は必要最低限にとどめられた。その後、4本の[[ミナレット]]が建設され、礼拝堂内にはミンバルと呼ばれる説教壇も取り付けられた。アヤソフィア・ジャミィと呼ばれるようになったこの聖堂は[[トプカプ宮殿]]の側に位置し、[[オスマン帝国の君主]]が毎週の[[金曜礼拝]]に訪れ、帝国において最も格式の高いモスクのひとつとされた。
[[1453年]]、[[オスマン帝国]]皇帝[[メフメト2世]]はコンスタンティノープルを[[イスラム]]の勢力下に収めるため包囲した<ref name="Ali_Spencer">Ali, Daniel and Spencer, Robert. ''Inside Islam''. West Chester: Ascension Press, 2003, pp. 108–110, 112–118.</ref>。後に彼自身が後悔する事になるが、メフメト2世は都市の占領が成し遂げられれば、3日間の[[略奪]]行為を許すと軍に告げた<ref name="Runciman_1">{{cite book | last = Runciman | first = Steven | authorlink =Steven Runciman | title = The Fall of Constantinople, 1453 | publisher=Cambridge University Press | location= Cambridge | year = 1965 | page=145 | isbn =0-521-39832-0}}</ref><ref name="Nicol_a_1">Nicol, Donald M. ''The End of the Byzantine Empire''. London: Edward Arnold Publishers, 1979, p. 88.</ref>。アヤソフィアも例外ではなく、むしろ都市の宝物が収めてあると考えられ標的にされた<ref name="Nicol_a_2">Nicol. ''The End of the Byzantine Empire'', p. 90.</ref>。コンスタンティノープルの防衛網が崩れると、略奪者らはアヤソフィアへ押し寄せ、ドアを叩き壊した<ref name="Runciman_2">Runciman. ''The Fall of Constantinople'', p. 147.</ref>。教会に[[避難]]していた、防衛の役に立たない多くの者たちは<ref name="Runciman_3">Runciman. ''The Fall of Constantinople'', pp. 133–134.</ref><ref name="Nicol_b_1">Nicol, Donald M. ''The Last Centuries of Byzantium 1261–1453''. Cambridge: Cambridge University Press, 1972, p. 389.</ref>、教会に集まった人々もろとも侵略者の[[戦利品]]になり、[[虐殺]]されるか[[奴隷]]として鎖に繋がれ、建物も荒らされ略奪された<ref name="Nicol_a_2"/><ref name="Runciman_2"/>。キリスト教[[聖職者]]らは侵略者が妨害するまで祈り続けていた<ref name="Runciman_2"/>。メフメト2世は家臣らと到着すると、アヤソフィアをイスラム教の[[モスク]]に造り替えると宣言した。すると[[ウラマー]]の一人が聖壇に上がり、[[シャハーダ]]の暗唱が行われた<ref name="mw91"/><ref name="Runciman_5">Runciman. ''The Fall of Constantinople'', p. 149.</ref>。

こうして5月29日、 [[コンスタンティノープルの陥落]]を成し遂げたメフメト2世は、その日の午後に市入城するとすぐにこの大聖堂に赴き<ref name=Hidaka31 />、大聖堂入り口の[[土]]を自らの[[ターバン]]に振りかけて堂内に入り、コンスタンティノポリス総主教庁から大聖堂を接収してモスクへ転用することを宣言した<ref name="archnet.org"/><ref name="mw91"/><ref name=ja475>Janin (1953), p. 475.</ref><ref name=mb288>Mamboury (1953), p. 288.</ref>。
このときにアヤソフィア大聖堂に接続する[[総主教]]館は破壊され<ref name=Hidaka31 />、アヤソフィア内部は[[十字架]]が取り外され、[[マッカ]](メッカ)の方向を示すくぼみである[[ミフラーブ]]が加えられた。だが内部の改修は必要最低限にとどめられた事は、[[壁龕]]の[[聖人]]・[[教父]]像が現存している事からうかがえる<ref name=Hidaka31 />。その後、4本の[[ミナレット]]が建設され、南には帝国[[王室]]の[[墓地|墓所]]に使われた<ref name=Hidaka31 />。礼拝堂内には[[ミンバル]]と呼ばれる説教壇も取り付けられた。アヤソフィア・ジャミィと呼ばれるようになったこの聖堂は[[トプカプ宮殿]]の側に位置し、[[オスマン帝国の君主]]が毎週の[[金曜礼拝]]に訪れ、帝国において最も格式の高いモスクの一つとされた。

しかしその状態は、例えば[[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]の{{仮リンク|ペドロ・タファ|en|Pero Tafur}}<ref>{{cite book | last = Tafur | first = Pero | authorlink =Pero Tafur | others= Trans. M. Letts | title = Travels and Adventures, 1435–1439 | publisher=G. Routledge | location= London | year = 1926 | pages=138–148 | isbn = }}</ref>や[[フィレンツェ]]の{{仮リンク|クリストフォロ・ボンデルモンティ|en|Cristoforo Buondelmonti}}<ref>G. Gerola, “Le vedute di Costantinopoli di Cristoforo Buondemonti,” SBN 3 (1931): 247–79.</ref>など西側のからの旅行者が記したように、教会は荒廃するに任され、[[扉]]が外されたまま放置された箇所もあった。建物の手入れと改築を命じたメフメト2世は、同年6月1日には最初の金曜礼拝に赴いた<ref name=mb288>Mamboury (1953), p. 288.</ref>。アヤソフィアはコンスタンティノープルにおけるオスマン帝国初のモスクとなった<ref name=ne13>Necipoĝlu (2005), pg. 13</ref>。

[[1481年]]までに、南西の階段塔の上に[[ミナレット]]が建設された<ref name=mw91/>。次代の[[スルターン]]である[[バヤズィト2世]]はミナレットを北東角に設置した<ref name=mw91/>。このうち一つは{{仮リンク|1509年のイスタンブール地震|en|1509 Istanbul earthquake}}で倒壊したが<ref name=mw91/>、[[16世紀]]半ば前後に建物の東西部分に新設されたミナレットと対角線上に当る部分に移設された<ref name=mw91/>。16世紀には[[スレイマン1世]]が征服した[[ハンガリー]]から2基の巨大な[[燭台]]を持ち帰り、[[ミフラーブ]]の両脇に据えた。[[セリム2世]]時代には建物に劣化が見え始め、建築家であり世界初の地震対策技術者とも評された[[ミマール・スィナン]]が主導した外部からの補強構造追加など幅広い補修工事が行われた<ref name="earthquake">{{cite book | title=Hagia Sophia and Mimar Sinan| url=https://books.google.be/books?id=6j5nuvAd44QC&pg=PA383&dq=Sinan+earthquake+%22Hagia+Sophia%22#PPA383,M1| last=Mungan| first=I.| year=2004| pages=383–384| publisher=Mungan & Wittek (eds); Taylor & Francis Group, London| isbn=90-5809-642-4}}</ref>。スィナンは歴史的なビザンティン建築の西端に2基の大きなミナレットを据え、さらにスルターンの特別席が作られた。南東の建物では、[[1576年|1576]] - [[1577年]]にセリム2世の{{仮リンク|テュルベ|en|Türbe}}(墓[[廟]])を据えるため、1年前にS字型の角にあった総主教のテュルベが取り壊された<ref name=mw91/>。ドームの頂上には、金の[[三日月]]が取り付けられ<ref name=mw91/>、これが反射する光が届く35アルシン<ref>[[ロシア帝国|帝政ロシア]]における[[長さ]]の[[単位]]([[:ru:Аршин|{{lang|ru|Аршин}}]])。1 {{lang|ru|аршин}} ≒ 0.7112 m</ref>(約24 m)幅の建物周辺からは当時建っていたすべての家屋が取り除かれた<ref name=mw91/>。ここには後に、オスマン帝国の[[皇女]]43人のテュルベも追加された<ref name=mw91/>。

[[1594年]]には宮廷建築家(ミマール)のダヴッド・アーが、皇帝[[ムラト3世]]と{{仮リンク|ヴァリデ|en|Valide Sultan}}である[[サフィエ・スルタン]]の命を受け、皇帝のテュルベを建設した<ref name=mw91/>。その横の八角形の[[墓|陵]]には彼らの息子[[メフメト3世]]と彼のヴァリデが葬られたが、これは[[1608年]]に王室建築家のダルグチ・アハメッド・アーの手による<ref name=mw93>Müller-Wiener (1977), p. 93.</ref>。次代の皇帝[[ムスタファ1世]]のテュルベは、[[洗礼]]堂を作り変えて設けられた<ref name=mw93/>。ムラト3世はまた、[[ペルガモン]]から[[ヘレニズム]]調の[[アラバスター]]製[[壺]]を2つ移し、本堂の両端に据えた<ref name=mw91/>。

[[1717年]]、[[アフメト3世]]は内装のひどく損傷した漆喰の補修を命じ、多くの[[モザイク画]]がモスクの作業者らによる破壊から守られ保存される事に間接的ながら貢献した<ref name=mw93/>。事実、モザイク画の石は[[お守り|タリスマン]]と信じられ、訪問者へ売られる事が横行していた<ref name=mw93/>。

[[1847年]]、[[アブデュルメジト1世]]の命により、[[イタリア人]]建築家{{仮リンク|ガスパーレ・フォッサーティ|en|Fossati brothers}}によって構造的な補強が行われ、ドームの[[水平]][[推力]]に対抗するためドーム基部に[[鉄]]製の環状補強材が埋め込まれたが、これはあまり有効に機能していないことが判明している<ref name=Hidaka31 />。主柱に[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]と[[正統カリフ]]の名を記した円形の額が取り付けられたのもこの補修の時である。フォッサーティは工事の内容を纏めて書籍出版を準備し、同じ頃、[[ドイツ人]]建築家ザルツェンブルグも別に調査を許され、フォッサーティは大判の彩色図集を、ザルツェンブルグも大判の研究書をそれぞれ発行した<ref name=Hidaka31 />。

=== 宗教施設から博物館への転換 ===
[[第一次世界大戦]]でオスマン帝国は敗戦国となって滅び、代わって[[世俗主義]]的な[[トルコ共和国]]が建国された。オスマン帝国滅亡から12年後の[[1934年]]、トルコ共和国の建国者にして初代[[トルコの大統領|大統領]][[ムスタファ・ケマル・アタテュルク]]によってアヤソフィア・ジャミィは世俗化され<ref name=Hidaka31 />、翌年に[[博物館]]として公開した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2020-07/angelus-santa-sofia-istanbul-20200712.html|title=教皇「アヤソフィアを思い、非常に悲しんでいる」|publisher=Vatican news|date=2020-07-12|accessdate=2020-08-01}}</ref>。長年敷かれていた[[カーペット]]が取り払われて大理石の床の{{仮リンク|オンファリオン|en|Omphalion}}(戴冠のための円形の場)や、除去された白漆喰が覆っていた多くのモザイク画が姿を現した。

しかし建物の構造には劣化が見られ、[[ワールドモニュメント財団]] (WMF) は1996年と1998年の「ワールド・モニュメント・ウォッチ」に記載された。建物の[[銅]]製の[[屋根]]には[[クラック]]が入り、そこから染み込んだ[[水]]がフレスコ画やモザイク画を伝って流れ落ちていた。同様に[[湿度|湿気]]は下からも上がってモザイク画に影響していた。さらに[[地下水]]が上がって記念的建造物内部の湿度上昇に結びつき、[[石材]]や[[塗料]]を脅かしていた。[[アメリカン・エキスプレス]]社の資金援助を受け、WMFは[[1997年]]から[[2002年]]にかけて修復のための費用を交付すると保証した。第一段階として、[[天井]]部分のひび割れ修繕と構造の安定化工事が、{{仮リンク|トルコ文化観光省|en|Ministry of Culture and Tourism (Turkey)}}参加の下で行われた。第二段階はドーム内部の保存のため、若い[[トルコ人]]博物館[[学芸員]]を雇用して訓練する機会を設け、モザイク画の保護体制を確立した。[[2006年]]までにWMFのプロジェクトは完遂したが、他の部分にも引き続き保存活動が求められている<ref>{{cite web|url=http://www.wmf.org/project/hagia-sophia |title=World Monuments Fund – Hagia Sophia |publisher=Wmf.org |date= |accessdate=4 December 2011}}</ref>。

=== モスク回帰への動き ===
現代トルコにおいて、アヤソフィアの建物をモスクや教会など宗教的行事の場として使うことは厳しく禁じられてきた<ref>{{cite web|url=http://www.istanbul.gov.tr/Default.aspx?pid=343 |title=Ýstanbul Tanýtýmý - Ayasofya Müzesi |publisher=Istanbul.gov.tr |date= |accessdate=4 December 2011}}</ref>。しかし[[2006年]]にトルコ政府は、博物館内の小部屋をキリスト教徒やイスラム教徒のスタッフが祈りを捧げる場所として使えるよう許可を出したと伝えられた<ref>[http://arsiv.sabah.com.tr/2006/07/04/gnd102.html İbadete açık Ayasofya] {{tr icon}}</ref>。

イスラム回帰を進める[[レジェップ・タイイップ・エルドアン]][[トルコの大統領|大統領]]は2019年3月、アヤソフィアをモスクへ戻す方針を宣言し、トルコ政府は2020年5月29日、アヤソフィアを会場にコンスタンティノープル征服567周年記念式典を開いた。ここでイスラム教の聖典『[[コーラン]]』を朗読し、[[ギリシャ共和国]]政府は「世界中のキリスト教徒への侮辱」と抗議した<ref>[https://www.asahi.com/articles/DA3S14513119.html 世界文化遺産「アヤソフィア」宗教対立 揺れる融合の象徴/トルコ、モスクに戻す動き ギリシャ反発]『[[朝日新聞]]』朝刊2020年6月14日(国際面)2020年6月28日閲覧</ref>。

=== エルドアン政権によるモスクへの回帰 ===
2020年7月10日、トルコの裁判所はモスク(イスラム教礼拝所)から博物館に地位を変更したのは不当だとして現地のイスラム系団体が提訴していた問題で、イスラム系団体の訴えを認める判断を下した。これを受けて、[[レジェップ・タイイップ・エルドアン|エルドアン]]大統領は同日、アヤソフィアをモスクとする大統領令に署名した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20200710-H2LRJYL3DFIEVHUFJ523IUAV6A/|title=世界遺産アヤソフィアをモスクに トルコ大統領が大統領令|publisher=産経新聞 |date=2020-07-10 |accessdate=2020-07-11}}</ref>。


2020年7月24日、アヤソフィアはモスクに回帰して「アヤソフィア・ジャーミー」となり、86年ぶりとなる[[合同礼拝 (クルアーン)|金曜礼拝]]が行われた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200724/k10012531531000.html|title=トルコ ”モスク化”のアヤソフィアで86年ぶりに金曜礼拝|publisher=NHKNEWSWEB|date=2020-07-24|accessdate=2020-07-25|archiveurl=https://archive.ph/zPoZg|archivedate=2020-07-25}}</ref>。エルドアン大統領、[[フアット・オクタイ]][[トルコの副大統領|副大統領]]、[[トルコ大国民議会]]のムスタファ・シェントプ議長、保健省のファフレッティン・コジャ大臣、大統領府通信局のファフレッティン・アルトゥン局長、[[民族主義者行動党]]の[[デヴレト・バフチェリ]]党首もアヤソフィア・ジャーミーを訪れた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.trt.net.tr/japanese/toruko/2020/07/24/20200724-002-1461211 |title=【アヤソフィア歴史的な礼拝開放】 ついに金曜日の合同礼拝が始まる |publisher=TRT |date=2020-07-10 |accessdate=2020-07-24 |archive-url=https://web.archive.org/web/20201128231409/https://www.trt.net.tr/japanese/toruko/2020/07/24/20200724-002-1461211 |archive-date=2020-11-28 |url-status=dead|url-status-date=2022-05}}</ref>。アヤソフィアのツイッターアカウント(@ayasofyacamii)、エルドアン大統領のツイッターアカウントや政権与党の[[公正発展党]]の[[YouTube]]チャンネルにもアヤソフィアでの金曜礼拝の様子をストリーミング中継した。
オスマン時代にも継続的な補修工事が行われており、オスマン帝国最大の建築家[[ミマール・スィナン]]もこれに携わっている。[[1847年]]、[[アブデュルメジト1世]]の命により、イタリア人建築家[[ガスパーレ・フォッサーティ]]によって構造的な補強が行われ、ドームの水平推力に対抗するためドーム基部に鉄製の環状補強材が埋め込まれたが、これはあまり有効に機能していないことが判明している。主柱に[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]と[[正統カリフ]]の名を記した円形の額が取り付けられたのもこの補修の時である。


なお、キリスト教のモザイク画については礼拝時には布で覆いがかけられることになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fnn.jp/articles/-/66528 |title=“モスク化”した世界遺産で86年ぶり金曜礼拝 欧米のトルコへの反発懸念 |publisher=FNN |date=2020-07-25 |accessdate=2020-07-25 |archive-url=https://web.archive.org/web/20200724221319/https://www.fnn.jp/articles/-/66528 |archive-date=2020-07-24 |url-status=dead|url-status-date=2022-05}}</ref>が、トルコ政府は「モスク化」後も外国人や観光客の立ち入りを認める方針を示しており、礼拝以外の時間帯は観覧できる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.iza.ne.jp/article/20200724-3ZD2JY4TL5JWHP4TWCK43LPRLE/|title=アヤソフィアでイスラム教礼拝 85年ぶりに「モスク」本格運用|publisher=iza|date=2020-07-24 |accessdate=2020-07-25}}</ref>。これには国内外で根強いモスク化への反発を最小限に抑える狙いがあるとされているが、観光客の入場料が無料化されることから、日本円換算で年間60億円とされる収入の減少は確実と報じられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20200724-OYT1T50155/|title=世界遺産アヤソフィア、モスク化後初の集団礼拝…欧米各国は強い懸念|publisher=[[読売新聞]]オンライン|date=2020-07-24 |accessdate=2020-07-25}}</ref>。
[[1934年]]に、[[ムスタファ・ケマル]]によってアヤソフィア・ジャミィは世俗化され、[[1935年]]には正式に[[トルコ|トルコ共和国]]の[[博物館]]に改められ、以来一般に公開されている。


== 構造 ==
== 構造 ==
[[ファイル:Ayasofyaplan.jpg|thumb|400px|アヤソフィア平面図<br />東側右)が至聖所、西側左)が正面入口]]
[[ファイル:Ayasofyaplan.jpg|thumb|400px|アヤソフィア平面図<br />東側(左)[[至聖所]]、西側(右)が正面入口]]
平面は集中式プランと[[バシリカ]]式プランの融合を特色としているが、それまでの[[ローマ帝国]]、[[東ローマ帝国]](ビザンツ帝国)時代において、この建築物に類例するプランは存在していなかった。正教会の規範に従い、教会は西を開口部とし、東に至聖所を備えている。聖所(内陣)と正面入口の前に啓蒙所と呼ばれる細間があり、大聖堂として使われていた当時は、信者でないものはここから先に入ることを許されなかった。<!--また啓蒙所にある扉うち、中央東ローマ皇帝にのみ通過許された。 伝聞なのでコメントアウト-->
平面は集中式プランと[[バシリカ]]式プランの融合を特色としているが<ref name=Hidaka29>[[#日高ら(1990)|日高ら(1990)、p.29-31、2.ドームを仰ぎ見るとき、◎ハギア・ソフィア大聖堂<ビザンティンの光>]]</ref>、それまでの[[ローマ帝国]]、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)時代において、この建築物に類例するプランは存在していなかった。正教会の規範に従い、教会は西を開口部とし、東に[[至聖所]]を備えている。聖所([[内陣#教会建築における内陣|内陣]])と正面入口の前に啓蒙所と呼ばれる細間があり、大聖堂として使われていた当時は、信者でないものはここから先に入ることを許されなかった。現在は失われているが、啓蒙所の前に[[アトリウム]]あった。


基本的には長方形平面であるが、内部立面のアーケドやアーチによる曲線、ことにイシドロスとアンテミオスによって計画された30.95m四方形の上部のドームによって、建物全体が方形であることの印象は受けない。
基本的には[[長方形]]平面であるが、内部立面の[[アーケド]]やアーチによる曲線、ことにイシドロスとアンテミオスによって計画された30.95 m四方形の上部のドーム、さらにのち補強のために周囲に配された多くのバットレスによって、建物全体が方形であることの印象は受けない。


構造的に最も特徴的なのは、正方形のプランの上に、ドームが乗っていることである。それまでドーム建築は、ローマの[[パンテオン]]に見られるよう単純に、ドームの平面形と同じ円形プランで構成されていたが、ビザンチンの建築家は、ドームの円形と正方形の隙間にできる三角形部分を[[ペンデンティブ]]という支持方法で埋めることにより解決した。さらにアヤ・ソフィアでは、中央の大ドームを受けるのに平面の正方形の四辺にあたるところにそれぞれ大アーチを架け、ドームの重さによる外側への水平推力については、南北は二階の回廊をまたぐ巨大な控え壁、東西は大アーチの形をそのまま展開した半円形のドームで受けるという多種多彩な構造を用いて逃がしている。これら重層的な構造と、中央の大ドームの基部に円形に並べられた小窓などにより、外観、内観ともそれまでにない光に充ちた豊かな建築空間が出現した。西洋建築史においては、アヤソフィアによって古代は終わり、中世が始まったとも言われる<ref>森田慶一著『西洋建築入門』[[東海大学]]出版会</ref>。しかし、この斬新な構造は、論理性はともかく、強度的には不十分で、前述のように、地震によるドームの崩落の他、多くのバットレスの追加などを余儀なくさせ、この建物の外観を、最初の構想、および竣工当時からとは違うものにしてしまっている。
大ドームは上述の通り558年に崩落し、その後も地震による部分的な崩壊を経験しているが、基本的な構成は537年に建設された当時のままである。採光によって光の溢れるアヤソフィアのドームは「天から釣り下げられた円蓋」とされ、それがあまりにも印象的であるため、以後のビザンティン教会堂、および礼拝堂では、円蓋が建築平面の中心部に必ずと言ってよいほど配されるようになる。


主構造は、石積造の他、ローマ帝国で発展した、積み重ねた焼き[[レンガ]]を[[型枠]]として、その中にコンクリートを充填する方法をとっている。これが、総石造の建物と違い、工事期間の短かった理由である。「[[ローマン・コンクリート]]」も参照。
アヤソフィアは集中方式による教会建築としては最大級のものに属する。これ以降、東ローマ帝国では、アヤソフィアに匹敵する建築物、あるいはこれをひとまわり縮小した規模のものさえも造られなかった(11世紀の皇帝[[ロマノス3世アルギュロス]]の時代にこれに匹敵する規模の聖堂建設が計画されたが、実現しなかった)。[[オスマン帝国|オスマン朝]]時代になってからは、[[ブルー・モスク]]のように明らかにアヤソフィアに影響を受けた様式のモスクが建造された。
[[file:HagiaSophia.jpg|thumb|250px|切断図]]
大ドームは上述の通り[[558年]]に崩落し、その後も地震による部分的な崩壊を経験しているが、基本的な構成は[[537年]]に建設された当時のままである<ref name=Hidaka24 />。採光によって光の溢れるアヤソフィアのドームは「天から釣り下げられた円蓋」とされ、それがあまりにも印象的であるため、以後のビザンティン教会堂、および礼拝堂では、円蓋が建築平面の中心部に必ずと言ってよいほど配されるようになる。


アヤソフィアは集中方式による教会建築としては最大級のものに属する。これ以降、東ローマ帝国では、アヤソフィアに匹敵する建築物、あるいはこれを一回り縮小した規模のものさえも造られなかった(11世紀の皇帝[[ロマノス3世アルギュロス]]の時代にこれに匹敵する規模の聖堂建設が計画されたが、実現しなかった)。オスマン帝国時代になってからは、[[スルタンアフメト・モスク|ブルー・モスク(スルタンアフメト・モスク)]]のように明らかにアヤソフィアに影響を受けた様式のモスクが建造された。
今日、建築物の外観は漆喰で塗り込められ、四辺をオスマン時代に建設されたミナレットによって囲まれているが、イスタンブルの辿ってきた歴史の変遷を考えれば、この教会堂が遺っていること自体、ほとんど奇跡であると言って良い。すべては中世キリスト教徒のたゆまぬ修復とイスラム教徒のこの建築物に対する畏敬の念のたまものである。

今日、建築物の外壁は漆喰で塗り込められ、四辺をオスマン時代に建設された[[ミナレット]]によって囲まれているが、イスタンブールの辿ってきた歴史の変遷を考えれば、この教会堂が遺っていること自体、ほとんど奇跡であると言って良い。すべては[[中世]][[キリスト教徒]]のたゆまぬ修復と[[イスラム教徒]]のこの建築物に対する畏敬の念の賜物である。


== 博物館内部の装飾 ==
== 博物館内部の装飾 ==
[[ファイル:AyaSofyaInnereleN.jpg|thumb|アヤソフィア内部北面<br/>アーケードとティンパヌム]]
[[ファイル:AyaSofyaInnereleN.jpg|thumb|アヤソフィア内部北面<br/>アーケードとティンパヌム]]
[[ファイル:AyasofyaapsMosaic.jpg|thumb|[[アプス]]半ドームにある[[聖母子]]のモザイク画]]
[[ファイル:AyasofyaapsMosaic.jpg|thumb|[[アプス]]半ドームにある[[聖母子]]のモザイク画]]
[[ファイル:Johnchrysostom.jpg|thumb|ティンパヌムのモザイク画[[ヨハネス・クリュソストモス]]]]
[[ファイル:Johnchrysostom.jpg|thumb|ティンパヌムのモザイク画[[ヨハネス・クリュソストモス]]]]
[[ファイル: Byzantinischer Mosaizist des 9. Jahrhunderts 001.jpg |thumb|南入口のキリストと皇帝のモザイク画]]
[[ファイル:Hagia_Sophia_Imperial_Gate_mosaic_2.jpg|thumb|南入口のキリストと皇帝のモザイク画]]
[[ファイル:Byzantinischer Mosaizist um 1020 001.jpg|thumb|アヤソフィア内部のキリストと皇帝[[コンスタンティノス9世モノマコス|コンスタンティノス9世]]・ゾエ夫妻のモザイク画]]
[[ファイル:Empress_Zoe_mosaic_Hagia_Sophia.jpg|thumb|アヤソフィア内部のキリストと皇帝[[コンスタンティノス9世モノマコス|コンスタンティノス9世]]・ゾエ夫妻のモザイク画]]
[[ファイル:Byzantinischer Mosaizist um 1118 001.jpg|thumb|[[聖母子]]と[[12世紀]]の[[皇帝]][[ヨハネス2世コムネノス]]夫妻のモザイク画]]
[[ファイル:Comnenus_mosaics_Hagia_Sophia.jpg|thumb|[[聖母子]]と[[12世紀]]の[[皇帝]][[ヨハネス2世コムネノス]]夫妻のモザイク画]]
[[File:Hagiasophia-christ.jpg|150px|thumb|「[[デイシス]]」の[[モザイク]]・[[イコン]]]]
[[File:Christ_Pantocrator_Deesis_mosaic_Hagia_Sophia.jpg|150px|thumb|「[[デイシス]]」の[[モザイク]]・[[イコン]]]]
アヤソフィア博物館の内装は、ほぼモスク時代のものを踏襲し、2階までの壁面は多色[[大理石]]と金地[[モザイク]]で、その上部は漆喰で飾られている。[[アーケード]]は大理石の[[象眼]]細工で覆われ、古代建築から剥ぎ取られた大理石円柱によって支えられているが、 [[柱頭 (建築)|柱頭]]部分は新規に製作された[[アカンサス]]の葉の模様のある[[オーダー|変形イオニア式]]で、ユスティニアヌスの[[モノグラム]]が刻まれている。つまり、この部分は創建当時のものである。
アヤソフィア博物館の内装は、ほぼモスク時代のものを踏襲し、2階までの壁面は多色[[大理石]]と金地[[モザイク]]で、その上部は漆喰で飾られている。[[アーケード (建築物)|アーケード]]は大理石の[[象眼]]細工で覆われ、古代建築から剥ぎ取られた大理石円柱によって支えられているが、 [[柱頭 (建築)|柱頭]]部分は新規に製作された[[アカンサス]]の葉の模様のある[[ニア式|変形イオニア式]]で、ユスティニアヌスの[[モノグラム]]が刻まれている。つまり、この部分は創建当時のものである。


プロコピオスによると、創建当時、ドームには巨大な[[十字架]]が画かれ、[[アプス]]には図像が配されていたらしい。このモザイクは、円蓋の崩落や、[[726年]]から[[843年]]の聖像破壊運動によって破壊されたが、プロコピオスやその他の同時代の人びとの記録には、ドームの十字架以外についての記録がないため、そもそも創建当時、人物などのモザイクはなかったのではないかと考えられている。聖像破壊運動の後は、さまざまなモザイク画が作成され、今日その一部を見ることができる。
プロコピオスによると、創建当時、ドームには巨大な十字架が画かれ、[[アプス]]には図像が配されていたらしい。このモザイクは、円蓋の崩落や、726年から843年の聖像破壊運動によって破壊されたが、プロコピオスやその他の同時代の人びとの記録には、ドームの十字架以外についての記録がないため、そもそも創建当時、人物などのモザイクはなかったのではないかと考えられている。聖像破壊運動の後は、様々なモザイク画が作成され、今日その一部を見ることができる。


[[1453年]]にアヤソフィアはイスラム教のモスクとなったが、オスマン帝国はモザイクを破壊することはせず、[[漆喰]]で塗りつぶしていた。しかし、[[1847年]]から[[1849年]]のフォッサーティの改修作業の過程で壁面の調査も行われ、モザイクに感銘を受けたアブデュルメジト1世の命により、漆喰が剥がされ、本格的な調査が行われた。当時はまだアヤソフィアはモスクとして利用されていたため、この調査記録がまとめられた後、堂内壁面は再び漆喰が塗られた。
[[1453年]]にアヤソフィアはイスラム教のモスクとなったが、オスマン帝国はモザイクを破壊することはせず、漆喰で塗りしていた。しかし、[[1847年]]から[[1849年]]のフォッサーティの改修作業の過程で壁面の調査も行われ、モザイクに感銘を受けたアブデュルメジト1世の命により、漆喰が剥がされ、本格的な調査が行われた。当時はまだアヤソフィアはモスクとして利用されていたため、この調査記録がまとめられた後、堂内壁面は再び漆喰が塗られた。


[[トルコ革命]]後、[[1931年]]にアメリカの[[トーマス・ウィットモア]]主宰のビザンティン研究所がモザイクの調査を行い、[[1935年]]には、トルコ共和国政府の手でアヤソフィアは無宗教の文化財として公開された。その後、ビザンティン研究所は1950年代までモザイクの調査と漆喰の除去を行った。
[[トルコ革命]]後、[[1931年]]に[[アメリカ合衆国]]の[[トーマス・ウィットモア]]主宰のビザンティン研究所がモザイクの調査を行い、[[1935年]]には、トルコ共和国政府の手でアヤソフィアは[[無宗教]][[文化財]]として公開された。その後、ビザンティン研究所は[[1950年代]]までモザイクの調査と漆喰の除去を行った。

[[20世紀]]後半には歴史的建造物の保存に力が注がれるようになった。アヤソフィアの内部は各所に傷みが見られ、内部円柱の傾きやドームの歪みなどが発見されている。これらの主な原因は短期間で完成させた工事によるもので、レンガの間に盛られた[[モルタル]]がほぼレンガと同じくらい厚く、しかも充分な乾燥を待たずどんどん積み上げられたために長い間に[[クリープ]]現象が進んだものと考えられる。それでも大規模な崩壊が起きなかった事は、[[6世紀]]の設計が優れていた証左になる<ref name=Hidaka66>[[#日高ら(1990)|日高ら(1990)、p.66-69、2.ドームを仰ぎ見るとき、◎ハギア・ソフィア大聖堂<現代のハギア・ソフィア大聖堂>‐建築史研究家たちの挑戦]]</ref>。1990年からはトルコと[[日本]]の国際共同学術調査が開始された<ref name=Hidaka66 />。


=== モザイク画 ===
=== モザイク画 ===
大聖堂内部には、今日少数かつ断片的にではあるがキリスト教聖堂であったころのモザイク画が残っている。
大聖堂内部には、今日少数かつ断片的にではあるがキリスト教聖堂であったのモザイク画が残っている。
モザイク画のクローズアップを見るには、トルコ人[[ファインアート]][[写真家]]の{{仮リンク|アフメト・エルトゥウ|en|Ahmet Ertuğ}}の写真がアヤソフィア北のギャラリーで常設展示されている<ref>Index of Ahmet Ertuğ's [http://www.ahmetertug.com/index-exhibitions-1.html exhibitions.]</ref>。
; 『聖母子と大天使』(870年代?)
; 『聖母子と大天使』([[870年代]]?)
: アプスに残るモザイク画。5m近い聖母子の座像の両脇に[[大天使]]を配するが、北側の天使像はほとんど失われている。記録に残る銘文と、[[876年]]に総主教[[フォティオス]]が行った説教から、聖像破壊運動が収束した後に描かれたと考えられるが反論もある。フォティオスの説教がこの図像を指すものであれば、これは新たに画かれたことを暗に述べているが、中期ビザンティンの「新しい(Nea)」という概念は、聖像破壊運動以前の伝統への回の意味が強く、聖母子と大天使の図像は元の装飾を忠実に再現したものか、漆喰に塗り込められていたものを再びクリーニングしたのか、あるいは新たにデザインされたものかは不明である。
: [[アプス]]に残るモザイク画。5 m近い聖母子の座像の両脇に[[大天使]]を配するが、北側の天使像はほとんど失われている。記録に残る銘文と、876年に総主教[[フォティオス]]が行った説教から、聖像破壊運動が収束した後に描かれたと考えられるが反論もある。フォティオスの説教がこの図像を指すものであれば、これは新たに画かれたことを暗に述べているが、中期ビザンティンの「新しい(Nea)」という概念は、聖像破壊運動以前の伝統への回の意味が強く、聖母子と大天使の図像は元の装飾を忠実に再現したものか、漆喰に塗り込められていたものを再びクリーニングしたのか、あるいは新たにデザインされたものかは不明である。
; 大セクレトンの聖人像(870年代)
; 大セクレトンの聖人像(870年代)
: セクレトンは、2階西南にある小部屋で、かつては総主教宮殿からの通路の一部であった。聖像破壊運動により、[[768年]]あるいは[[769年]]に総主教[[ニケタス]]によって壁画が剥ぎ取られたが、その後、モザイクによって再び装飾された。[[ゲルマニクス]]や[[ニケフォロス]]といった、聖像破壊運動にあってイコンを擁護した総主教のほか、聖像破壊運動の後に総主教となった[[タラシオス]]、[[メトディオス]]の図像が断片的に残存している。
: セクレトンは、2階西南にある小部屋で、かつては総主教宮殿からの通路の一部であった。聖像破壊運動により、[[768年]]あるいは[[769年]]に総主教[[ニケタス]]によって壁画が剥ぎ取られたが、その後、モザイクによって再び装飾された。[[ゲルマニクス]]や[[ニケフォロス]]といった、聖像破壊運動にあってイコンを擁護した総主教のほか、聖像破壊運動の後に総主教となった[[タラシオス]]、[[メトディオス]]の図像が断片的に残存している。
; ティンパヌムの聖人像(877年頃)
; ティンパヌムの聖人像([[877]]頃)
: ドームを支えるアーチの下にある、南北の半円形壁面に残る聖人像である。北側に[[小イグナティオス]]、[[メトディオス]]、[[グレゴリオス・タウマトゥルゴス]]、[[ヨハネス・クリュソストモス]]、[[イグナティオス・テオフォロス]]、[[アレクサンドリアのキュリロス|キュリロス]]、[[アレクサンドリアのアタナシオス|(アレクサンドリアの)アタナシオス]]が画かれ、南側に[[ニコメディアのアンシモス]]、[[カイサリアのバシレイオス|大バシレイオス]]、[[ナジアンゾスのグレゴリオス]]、[[ディオニュシオス・アレオパギテス]]、[[ミラのニコラオス|ニコラオス]]、アルメニアのグレゴリオスが画かれていたが、今日ではヨハネス・クリュソストモス、小イグナティオスの図像がほぼ完全なかたちで残り、メトディオスらの図像の一部が残る。
: ドームを支えるアーチの下にある、南北の半円形壁面に残る聖人像である。北側に[[小イグナティオス]]、[[メトディオス]]、[[グレゴリオス・タウマトゥルゴス]]、[[ヨハネス・クリュソストモス]]、[[イグナティオス・テオフォロス]]、[[アレクサンドリアのキュリロス|キュリロス]]、[[アレクサンドリアのアタナシオス|(アレクサンドリアの)アタナシオス]]が画かれ、南側に[[ニコメディアのアンシモス]]、[[カイサリアのバシレイオス|大バシレイオス]]、[[ナジアンゾスのグレゴリオス]]、[[ディオニュシオス・アレオパギテス]]、[[ミラのニコラオス|ニコラオス]]、アルメニアのグレゴリオスが画かれていたが、今日ではヨハネス・クリュソストモス、小イグナティオスの図像がほぼ完全なで残り、メトディオスらの図像の一部が残る。
; 『キリストと皇帝』(10世紀初頭?)
; 『キリストと皇帝』(10世紀初頭?)
: ナルテクスから本堂への中央入り口上部にあるモザイク画。この中央入り口は皇帝の典礼用にのみ使われるもので、かつては別のモザイク画があった。今日見ることのできるモザイクは、キリストを取り囲むように大天使と聖母マリアの2つのメダイヨンが配置され、キリストに礼拝を行う皇帝が画かれている。これが何時、誰が作成させたのか、皇帝が誰であるのかということについては銘文がなく、[[テオフィロス]]説、[[レオーン6世]]説など諸説あるが定かではない。
: ナルテクスから本堂への中央入り口上部にあるモザイク画。この中央入り口は皇帝の典礼用にのみ使われるもので、かつては別のモザイク画があった。今日見ることのできるモザイクは、キリストを取り囲むように大天使と聖母マリアの2つのメダイヨンが配置され、キリストに礼拝を行う皇帝が画かれている。これがいつ、誰が作成させたのか、皇帝が誰であるのかということについては銘文がなく、[[テオフィロス]]説、[[レオーン6世]]説など諸説あるが定かではない。
; 『聖母子、ユスティニアヌス1世と[[コンスタンティヌス1世]]』(10世紀後半)
; 『聖母子、ユスティニアヌス1世と[[コンスタンティヌス1世]]』([[10世紀]]後半)
: 西南の玄関からナルテクスへの入り口上部にあるモザイク画。中央に立つ聖母子に、向かって左側のユスティニアヌスがアヤソフィアを、右側のコンスタンティヌスがコンスタンティノポリスの街をそれぞれ捧げている図が描かれている。作成時期や動機については不明である。
: 西南の玄関からナルテクスへの入り口上部にあるモザイク画。中央に立つ聖母子に、向かって左側のユスティニアヌスがアヤソフィアを、右側のコンスタンティヌスがコンスタンティノープルの街をそれぞれ捧げている図が描かれている。作成時期や動機については不明である。
; 『キリストと皇帝コンスタンティノス9世、皇后ゾエ』([[1042年]]から[[1055年]]頃)
; 『キリストと皇帝コンスタンティノス9世、皇后ゾエ』([[1042年]]から[[1055年]]頃)
: 南側2階廊に残る。モザイクの下部は失われているが、銘文から人物が特定できる。この図像は、もともとゾエが最初に結婚した[[ロマノス3世アルギュロス|ロマノス3世]]によって寄進されたものだと考えられるが、ゾエが後に[[ミカエル4世]]、[[コンスタンティノス9世モノマコス|コンスタンティノス9世]]と2度再婚しているため、夫である皇帝の顔や銘文は、恐らくその都度作り直された。今日でもその跡ははっきりとわかる。ゾエの顔とキリストの顔にも修正された跡があるが、なぜこの部分にまで修正を施さねばならなかったのかについては、諸説ある。コンスタンティノス9世は、マンガナのハギオス・ゲオルギオス聖堂建設や[[エルサレム]]の[[聖墳墓教会|聖墳墓聖堂]]の修復など、莫大な国家予算を聖堂の装飾や建設に注ぎ込んだ。
: 南側2階廊に残る。モザイクの下部は失われているが、銘文から人物が特定できる。この図像は、もともとゾエが最初に結婚した[[ロマノス3世アルギュロス|ロマノス3世]]によって寄進されたものだと考えられるが、ゾエが後に[[ミカエル4世]]、[[コンスタンティノス9世モノマコス|コンスタンティノス9世]]と2度再婚しているため、夫である皇帝の顔や銘文は、恐らくその都度作り直された。今日でもその跡ははっきりとわかる。ゾエの顔とキリストの顔にも修正された跡があるが、なぜこの部分にまで修正を施さねばならなかったのかについては、諸説ある。コンスタンティノス9世は、マンガナのハギオス・ゲオルギオス聖堂建設や[[エルサレム]]の[[聖墳墓教会|聖墳墓聖堂]]の修復など、莫大な国家予算を聖堂の装飾や建設に注ぎ込んだ。
; 『聖母子と皇帝[[ヨハネス2世コムネノス]]、皇后[[ピロシュカ|エイレーネー]](イリニ)』(1122年から1134年頃)
; 『聖母子と皇帝[[ヨハネス2世コムネノス]]、皇后[[ピロシュカ|エイレーネー]](イリニ)』([[1122]]から[[1134年]]頃)
: 12世紀に作成された、コンスタンティノポリスに残る唯一のモザイク画。12世紀に東ローマ帝国領内で作成されたモザイクは、今日ほとんど残っていないため、貴重である。図像の配置や銘文は、側にある『キリストと皇帝コンスタンティノス9世、皇后ゾエ』に影響を受けていることがわかる。すぐ横の柱側面には、彼の長男アレクシオスの図像もある。
: [[12世紀]]に作成された、コンスタンティノープルに残る唯一のモザイク画。12世紀に東ローマ帝国領内で作成されたモザイクは、今日ほとんど残っていないため、貴重である。図像の配置や銘文は、側にある『キリストと皇帝コンスタンティノス9世、皇后ゾエ』に影響を受けていることがわかる。すぐ横の柱側面には、彼の長男アレクシオスの図像もある。
; 『[[デイシス]]』(1260年頃)
; 『[[デイシス]]』([[1260]]頃)
: 元々は2階廊の壁面いっぱいに画かれたものであろうが、下部はほとんど失われている。それまでのモザイク画に比べてキリストの顔が立体的に描かれているのが特徴。そのほかにも、南窓からはいる光を効果的に利用するような工夫が成されているため、[[ビザンティン美術]]の最高傑作とされる。[[ミカエル8世パレオロゴス]]が[[ラテン帝国]]に奪われていた[[コンスタンティノポリス]]を奪回したことを記念して作られたとする説が有力であるが、文献がないため詳細は不明である。
: 元々は2階廊の壁面いっぱいに画かれたものであろうが、下部はほとんど失われている。それまでのモザイク画に比べてキリストの顔が立体的に描かれているのが特徴。そのほかにも、南窓からはいる光を効果的に利用するような工夫が成されているため、[[ビザンティン美術]]の最高傑作とされる。[[ミカエル8世パレオロゴス]]が[[ラテン帝国]]に奪われていた[[コンスタンティノープル]]を奪回したことを記念して作られたとする説が有力であるが、文献がないため詳細は不明である。
; 『[[エンリコ・ダンドロ]]の墓碑』(1205年)
; 『[[エンリコ・ダンドロ]]の墓碑』([[1205]]
: [[ラテン帝国]]の時代に造られたもので、デイシスと向かいあう位置の壁面近くにある。「狐」と呼ばれ[[第四次十字軍]]を巧みに操ったエンリコ・ダンドロの墓碑。これは[[ジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアン]]の『コンスタンティノポリス征服記』にも記されている。遺骨と遺品については1453年にオスマン帝国皇帝[[メフメト2世]]によってヴェネツィア共和国に返還された。
: [[ラテン帝国]]の時代に造られたもので、[[デイシス]]と向かいあう位置の壁面近くにある。「[[]]」と呼ばれ、コンスタンティノープルを占領してラテン帝国建国をもたらした[[第4回十字軍]]を巧みに操ったエンリコ・ダンドロの墓碑。これは[[ジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアン]]の『コンスタンティノープル征服記』にも記されている。[[遺骨]][[遺品]]については[[1453年]]にオスマン帝国皇帝[[メフメト2世]]によって[[ヴェネツィア共和国]]に返還された。


== 登録基準 ==
== 登録基準 ==
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== ギャラリー ==
== ギャラリー ==
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ファイル:Istanbul Hagia Sophia (235948631).jpeg|イスタンブールの道から
Image:Istanbul086.jpg|夜景
ファイル:Istanbul asv2020-02 img45 Hagia Sophia.jpg|夜景
Image:Hagiasophia.jpg|夜景
ファイル:Hagiasophia.jpg|夜景
Image:Imperial Gate Hagia Sophia 2007a.jpg|皇帝専用の入り口(外側から)
Image:Imperial Gate Hagia Sophia 2007 P.jpg|皇帝専用の入り口(側から)
ファイル:Imperial Gate Hagia Sophia 2007a.jpg|皇帝専用の入り口(側から)
ファイル:Imperial Gate Hagia Sophia 2007 P.jpg|皇帝専用の入り口(内側から)
Image:Haga Sofia RB3.jpg|身廊内観
Image:Hagia Sophia interior March 2008.jpg|身廊内観
ファイル:Haga Sofia RB3.jpg|身廊内観
ファイル:Hagia Sophia interior March 2008.jpg|身廊内観
Image:Seraf Haga Sofia RB1.jpg|[[熾天使|セラフィム]](熾天使)
ファイル:Seraf Haga Sofia RB1.jpg|[[熾天使|セラフィム]](熾天使)
Image:DSC04027a Istanbul - Aya Sophia - Navata - Foto G. Dall'Orto 24-5-2006.jpg|側廊内観
ファイル:DSC04027a Istanbul - Aya Sophia - Navata - Foto G. Dall'Orto 24-5-2006.jpg|側廊内観
ファイル:Hagia sofia miniaturk 02824.jpg|側面(実物の写真ではなくイスタンブル市街にあるミニチュア建築の博物館「ミニアテュルク」の模型)
File:HagiaSophia DomeVerticalPano (pixinn.net).jpg|身廊内観
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}

== 参考文献 ==
* シリル・マンゴー『ビザンティン建築』([[飯田喜四郎]]訳、本の友社〈図説世界建築史〉、1999年、ISBN 9784894390201)
* ジョン・ラウデン『初期キリスト教美術・ビザンティン美術』(益田朋幸訳、[[岩波書店]]〈岩波世界の美術〉、2000年、ISBN 9784000089234)
* 益田朋幸『ビザンティン』([[山川出版社]]〈世界歴史の旅〉、2004年、ISBN 9784634633100)
* 浅野和生『イスタンブールの大聖堂 モザイク画が語るビザンティン帝国』([[中央公論新社]]〈[[中公新書]]〉、2003年、ISBN 9784121016843)
* {{Cite book|和書|author =[[日高健一郎]]・谷水潤|others =|title =イスタンブール|series =建築巡礼17|origyear = |edition = |year = 1990|publisher = [[丸善]] |isbn = 4-621-03518-5|page = |ref = 日高ら(1990)}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
{{Commons|Hagia Sophia}}
{{Commons&cat|Hagia Sophia|Hagia Sophia}}
{{NIE Poster|year=1905|Saint Sophia, Church and Mosque of|アヤソフィア}}
{{ external media
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|image1 = [https://yandex.com/maps/-/CVfSRK~H 360° panoramic view] (virtual tour)
}}
{{ウィキプロジェクトリンク|世界遺産|[[File:Istanbul P. icon.png|45px]]}}
* [[大聖堂の一覧]]
* [[大聖堂の一覧]]
* [[モスクの一覧]]
* [[著名なモスクの一覧]]
* [[東ローマ帝国]]
* [[東ローマ帝国]]
* [[コンスタンティノープルの陥落]]
* [http://www.constantinopleguide.com/Hagia_sophia_jp.html アヤソフィア]
* [[オスマン帝国]]
* [[オスマン帝国]]
* [[ビザンティン建築]]
* [[ビザンティン建築]]
* [[ローマ建築]]
* [[ローマ建築]]
* [[イスタンブル歴史地]]
* [[イスタンブル歴史地]]
* [[トプカプ宮殿]]
* [[トプカプ宮殿]]
* [[スルタンアフメト・モスク]]
* [[スルタンアフメト・モスク]]
* [[イスタンブル地下宮殿]]
* [[イスタンブル地下宮殿]]
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2024年10月11日 (金) 08:38時点における最新版

アヤソフィア
Ἁγία Σοφία
Ayasofya
Sancta Sophia
アヤソフィア
アヤソフィアの位置(ファティ中心部内)
アヤソフィア
アヤソフィアの位置(イスタンブール内)
アヤソフィア
アヤソフィア (イスタンブール)
アヤソフィアの位置(イスタンブール県内)
アヤソフィア
アヤソフィア (イスタンブール県)
所在地 イスタンブール(かつてのコンスタンティノポリス)、トルコ
設計者 ミレトスのイシドロス
トラレスのアンテミオス
種類
素材 、brick
全長 82 m (269 ft)
73 m (240 ft)
高さ 55 m (180 ft)
建設開始 532年
完成 537年 (1487年前) (537)
世界遺産 イスタンブール歴史地域
トルコ
アヤソフィア
アヤソフィア
英名 Historic Areas of Istanbul
仏名 Zones historiques d'Istanbul
登録区分 文化遺産
登録基準 (1),(2),(3),(4)
登録年 1985年
公式サイト 世界遺産センター(英語)
地図
アヤソフィアの位置
使用方法表示

座標: 北緯41度0分31秒 東経28度58分48秒 / 北緯41.00861度 東経28.98000度 / 41.00861; 28.98000アヤソフィアトルコ語Ayasofya Camii古典ギリシア語Ἁγία Σοφία (Hagia Sophiā)現代ギリシア語Αγία Σοφία (Agia Sophia) /aʝa sofja/)は、トルコ共和国イスタンブールにあるモスク。2020年7月までは博物館[1]であった[2]

元々は東ローマ帝国(ビザンツ帝国、ビザンティン帝国)時代に首都コンスタンティノープルで建てられたキリスト教正教会大聖堂を起源とし、帝国第一の格式を誇る教会コンスタンティノープル総主教座の所在地であった[3]が、1204年から1261年まではラテン帝国支配下においてローマ・カトリックの教徒大聖堂とされていた。その後はオスマン帝国によるコンスタンティノープルの陥落が起きた1453年5月29日から1931年までの長期間にわたりイスラム教モスクとして改築を繰り返し使用されて現在の特徴的な姿となった[4]。トルコ共和国政府は1935年2月1日、世俗的な博物館(トルコ語: Ayasofya Müzesi[5]とし、それが2020年7月まで続いた。

東ローマ帝国の代表的な遺構であり、しばしばビザンティン建築の最高傑作と評価される。その歴史と威容から、キリスト教建築物でありながらオスマン帝国の時代においても第一級の格式を誇るモスクとして利用された。日本語では慣用的に「ハギア・ソフィア」と呼称されるが、正教会では「アギア・ソフィア大聖堂」または「ハギア・ソフィア大聖堂」とも呼ばれる。

概説

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アヤソフィア、あるいはハギア・ソフィアと命名された教会堂建築は、ギリシアやトルコなど、かつての東ローマ帝国ビザンティン帝国、ビザンツ帝国)領内の各地に数多く残されているが、単にアヤソフィアと言った場合、イスタンブールのアヤソフィアを指すことが一般的である。元来の名称であるハギア・ソフィアはギリシア語で「聖なる叡智」を意味し、その中世の発音「アヤ・ソフィア」がトルコ語名「アヤソフィア」の由来である。

教会は三位一体の第二にあたるロゴスに捧げられた[6]もので、ロゴスが示すところのイエス・キリスト受肉日である12月25日に献納された[6]

時に使われるSancta Sophia(聖ソフィア)の名は殉教者ソフィア英語版にちなんだと受け取られるが、「sophia」はラテン語で「叡智」を意味し、ギリシア語表示のΝαός τῆς Ἁγίας τοῦ Θεοῦ Σοφίαςは「神の聖なる叡智の神殿」を表している[7][8]

イエス・キリストを象徴する東に至聖所、西に正面玄関を持つ伝統的な平面構成だが、身廊中央部に巨大なドームがあり、この点からビザンティン建築の典型とみなされる[9]。創建当時は単純な四角形平面であったが、その後、東ローマ帝国、オスマン帝国の時代を通じて、周囲に様々な施設が建て増しされた。内は基本的にはオスマン帝国時代に塗られた漆喰仕上げ、大理石仕上げとなっているが、一部が剥がされ、東ローマ帝国時代のモザイク壁画が再び表面に現れた。イスラム教偶像崇拝を禁じているため、2020年7月のモスク化後、聖母子像天使の絵はカーテンで隠された[2]

アヤソフィアは「建築の歴史を変えた」とも評され[10]1520年セビリア大聖堂が完成するまでは世界最大の大聖堂の地位を1000年近く保っていた。現在の建物は532年から537年にかけて東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世の命によって建設されたもので[11]、この地に建てられた3代目の建物にあたり、以前の2代はいずれも暴動によって破壊された。デザインはギリシアの物理学者ミレトスのイシドロスと、数学者トラレスのアンテミオスによってなされた[12]

1985年、「イスタンブール歴史地域」の一部としてユネスコ世界遺産に登録された。

歴史

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創建

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旧ハギア・ソフィア大聖堂の遺構
415年にテオドシウス2世によって再建された聖堂の一部

アヤソフィアは元来、キリスト教の大聖堂である。最初の聖堂は、東ローマ帝国首都コンスタンティノープル(コンスタンティノポリス)にコンスタンティヌス大帝の子コンスタンティウス2世の手によって350年頃に建設が始まり360年2月15日に、アリウス派僧侶司教アンティオキアのエウドクシオス英語版によって[13]献堂された[14]

単に大教会(メガリ・エクリシア)と呼ばれており、聖堂は再建されても常に巨大なものであったため、以後もほとんどこのように呼ばれている。 この聖堂が最初からハギア・ソフィアと呼ばれていたのか、後の再建からハギア・ソフィアと命名されたのかは分からない[14]。最初の教会堂は木造屋根をもったバシリカだったらしく[14]、「偉大な教会」(Μεγάλη Ἐκκλησία (Megálē Ekklēsíā, "Great Church"))またはラテン語で「Magna Ecclesia」[15]と呼ばれた。これは、都市内にあったどの教会よりも大きな建物であったためである[6]。今日ではその位置しか知られていない。

404年にコンスタンティノープル大主教ヨアンネス・クリュソストモス追放に伴う争乱でこの聖堂が焼失すると、テオドシウス2世によってすぐに再建が行われ、415年に献堂された[14]。この聖堂も現在のものとは全く違うバシリカであり、現在でも一列の円柱と柱基、装飾されたが残っている。

しかし、この聖堂も 532年1月の首都市民の反乱(ニカの乱)における放火で、皇帝宮殿の一部やアギア・イリニ聖堂英語版とともに再び焼失してしまう[16]

コンスタンティノープルのソクラテス440年に記したところによると、教会は346年コンスタンティウス2世によって建設されたという[13]。しかし7世紀 - 8世紀以降からの口伝では、この大建築物はコンスタンティヌス大帝によって建てられたという[13]ヨハネス・ゾナラス英語版は2つの説を整合させ、コンスタンティウス2世はニコメディアのエウセビオス英語版が献納した建物が壊れたため修理をしたのだと述べた[13]。エウセビオスは339年から341年にコンスタンティノープルの司教職を務め、大帝は337年に亡くなっているため、最初の教会が大帝によって創建されたという考えは可能である[13]。この最初の教会は、コンスタンティノープル大主教ヨアンネス・クリュソストモスが皇帝アルカディウスの妃アエリア・エウドキアと対立し404年6月20日に追放処分に科せられた後に発生した暴動で焼失した[13]

現在に至る構築

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アヤソフィア大聖堂の内部

2度の焼失を経た後、ユスティニアヌス帝は直ちに再建することを決定し[16]、その設計を技師(ミヒャノピオスまたはミヒャノコス)トラレスのアンテミオスミレトスのイシドロスに委ねると、金に糸目をつけず世界中から工員を集め、工事開始を急かした[14]。過去のパジリカ復旧ではなく全く新たに設計され直した大聖堂の建設過程は、プロコピオスによって詳細に報告されている[14]。両者は地表の水平面を正確に計測し、ドームを支える主支柱をレンガではなく大型の石材で造成することによって、クリープによる変形や乾燥収縮が起きないようにした。このように緻密に建設を進めたにもかかわらず、ドーム下部のアーチ架構に差し掛かると建物は変形し始め、各所で亀裂や破壊がおこったとされている。プロコピオスによると、東側の大アーチの工事が完成しないうちにこれを支える主柱が外側に傾き始め、また、のアーチは養生段階で下部のティンパヌムに過大な荷重をかけたため、の円柱か2階廊下の円柱が破壊し始めた。それでも、巨大なバットレスをドーム直下にまで補強するなどの方法によって高さ41.5 mのドームは建設された。

工事は5年11か月という短期間で終了し、 537年12月27日、ユスティニアヌス帝を迎え、総主教メナスによる献堂式を迎えた[14]。この時ユスティニアヌスは、古代イスラエル王国ソロモン神殿を凌駕する聖堂を建てたという思いから、 「ソロモンよ、余は汝に勝てり!」と叫んだと伝えられている[14]。プロコピオスは著書『建築について』にて、計算された巧みな比率を持ち、比率陽光が豊かに差し込む会堂内部を「美の殿堂」と称え、中央の半球状ドームはまるで天空から吊るされたようだと感想を述べた[14]

しかし、計画では真円になるはずだったドームは、建築中の歪みによって南北に2 m程度長い楕円形になっており、また、ドーム基部に現在よりも大きな開口部を設けていたため、553年から頻発した地震によって亀裂を生じた。特に557年12月14日の地震によって聖堂は大きなダメージを受け、558年5月7日に東側のアーチと半ドーム、そして中央ドームの半分が崩壊した[17][18]。この崩落の主な原因は、非常に重い支持構造と、平たいドームの重さによる強いせん断荷重であった[19]。これらがドームを支えていたアーチに変形を引き起こした[19]

再建工事は直ちに着手され、残存していたドームは取り除かれた[17]。現在にみるドームは、小イシドロスら専門家によって内壁を補強した上に架けられた第2ドームである。彼らは旧来のドームにあった構造上の弱点を分析し[17]、まずアーチの壁厚を調整して、ドーム基部を正方形に近づけ、元よりも約6.4 m高いドームを構築し[17]、現在に至る高さ55.6 mへ改めた[20]。また、軽量の建築材料を用いる工夫も施し[19]、形状もリブ構造とペンデンティブを備えるものに改良し、その直径も32.7 - 33.5 mとなった[19]

ドーム再建後、562年12月24日に新たに献堂式が行われ、賞賛の合唱の中ユスティニアヌスは総主教エウテュキオスとともに戦車に乗って堂内に入ったとされる[17]。このドームは989年10月26日と1346年5月19日に大規模な崩落を起こしており、10世紀の崩落ではドーム西側3分の1を、14世紀の崩落では南東方向の半分を失った[21]。その際、基本的なデザインを維持したまま修復されたが、ドームの開口部は段階的に縮小された。

また、563年には小イシドロスによって外側にドーム基部まで立ち上がる4基のバットレスが建設された。これは現在3基が現存しており、堂内の4つの主柱に対応し、内部には折れ曲がった階段がある[21]。その後も補強を目的とした構造物の増築は続き、特に9世紀に行われた南北のティンパヌムは大規模な工事となった[21]

726年、皇帝レオーン3世イコノクラスム(聖像破壊運動)を先導し、一連の勅令を発する中で軍(英語版)に全てのイコンを除く命令を下した。これによって全ての宗教画や像はアヤソフィアから取り除かれた。イコノクラスムはレオーン4世の皇后エイレーネー(後に女帝)が主導した787年第2ニカイア公会議でいったん終息した[22]が、829年に即位した皇帝テオフィロスイスラム美術の影響を強く受け[23]生物の表現一切を禁じた[24]

989年10月25日の大地震は西側ドームのアーチ部分を崩落させた。皇帝バシレイオス2世アルメニア人建築家であり、アニやアグリナの教会建設を行ったアルメニア人のアルキテクトのトルダト英語版に修復の主導を依頼した[25]

トルダトは落下したドームのアーチを再建し補強を施し、さらに西側のドーム15基にもリブ構造を導入した[26]。この工事には6年が費やされ、994年5月13日に完成した。この時、4大天使の絵画を含む装飾にも手が加えられ、ドーム部分のキリストや後陣の使徒ペテロパウロの間でキリストを抱いた聖母マリアが加えられた[27]。側面の大きなアーチには、預言者教父らの絵画が施された[27]

ユスティニアヌスによって再建されたアヤソフィア大聖堂は、コンスタンティノープル総主教庁の所在地として正教会第一の格式を誇り、また東ローマ帝国の諸皇帝の霊廟として用いられた。コンスタンティノープルを訪れた人びとの巡礼記録から、聖堂内には現在では失われた施設・聖遺物があったことが知られる。14世紀にコンスタンティノープルを訪れたロシア人スモレンスクのイグナティオスの記録では、聖堂内部には多くの礼拝堂が設けられ、「ノアの箱船の扉」やイエス・キリストが磔にされた「聖十字架」、「アブラハムのテーブル」など、多くの聖遺物が安置されていた。また、この時代は隣に総主教の宮殿が併設されており、内ナルテクス南端の、現在では出入り口となっている部分は、総主教宮殿への通路となっていた。

カトリックからの奪還

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アヤソフィアは13世紀ラテン帝国の支配にあった1204 - 1261年にはカトリックの影響下に置かれた[1](背景については「第4回十字軍」参照)。1261年奪還[28]の装飾の一部にラテン皇帝ボードゥアン1世墓碑文は、ビザンティンの人々が吐き捨てるに晒された[29] 。奪回した時、教会は荒れ果てた状態にあった。1317年アンドロニコス2世パレオロゴスは亡き妃ヴィオランテ・ディ・モンフェラートの遺産を使い、教会の東と北に4つのバットレスを新設した[28]

オスマン帝国時代

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アヤソフィアのミナレット
アヤソフィアのミフラーブ

1453年オスマン帝国皇帝メフメト2世はコンスタンティノープルをイスラムの勢力下に収めるため包囲した[30]。後に彼自身が後悔する事になるが、メフメト2世は都市の占領が成し遂げられれば、3日間の略奪行為を許すと軍に告げた[31][32]。アヤソフィアも例外ではなく、むしろ都市の宝物が収めてあると考えられ標的にされた[33]。コンスタンティノープルの防衛網が崩れると、略奪者らはアヤソフィアへ押し寄せ、ドアを叩き壊した[34]。教会に避難していた、防衛の役に立たない多くの者たちは[35][36]、教会に集まった人々もろとも侵略者の戦利品になり、虐殺されるか奴隷として鎖に繋がれ、建物も荒らされ略奪された[33][34]。キリスト教聖職者らは侵略者が妨害するまで祈り続けていた[34]。メフメト2世は家臣らと到着すると、アヤソフィアをイスラム教のモスクに造り替えると宣言した。するとウラマーの一人が聖壇に上がり、シャハーダの暗唱が行われた[28][37]

こうして5月29日、 コンスタンティノープルの陥落を成し遂げたメフメト2世は、その日の午後に市入城するとすぐにこの大聖堂に赴き[1]、大聖堂入り口のを自らのターバンに振りかけて堂内に入り、コンスタンティノポリス総主教庁から大聖堂を接収してモスクへ転用することを宣言した[4][28][38][39]。 このときにアヤソフィア大聖堂に接続する総主教館は破壊され[1]、アヤソフィア内部は十字架が取り外され、マッカ(メッカ)の方向を示すくぼみであるミフラーブが加えられた。だが内部の改修は必要最低限にとどめられた事は、壁龕聖人教父像が現存している事からうかがえる[1]。その後、4本のミナレットが建設され、南には帝国王室墓所に使われた[1]。礼拝堂内にはミンバルと呼ばれる説教壇も取り付けられた。アヤソフィア・ジャミィと呼ばれるようになったこの聖堂はトプカプ宮殿の側に位置し、オスマン帝国の君主が毎週の金曜礼拝に訪れ、帝国において最も格式の高いモスクの一つとされた。

しかしその状態は、例えばコルドバペドロ・タファ英語版[40]フィレンツェクリストフォロ・ボンデルモンティ英語版[41]など西側のからの旅行者が記したように、教会は荒廃するに任され、が外されたまま放置された箇所もあった。建物の手入れと改築を命じたメフメト2世は、同年6月1日には最初の金曜礼拝に赴いた[39]。アヤソフィアはコンスタンティノープルにおけるオスマン帝国初のモスクとなった[42]

1481年までに、南西の階段塔の上にミナレットが建設された[28]。次代のスルターンであるバヤズィト2世はミナレットを北東角に設置した[28]。このうち一つは1509年のイスタンブール地震英語版で倒壊したが[28]16世紀半ば前後に建物の東西部分に新設されたミナレットと対角線上に当る部分に移設された[28]。16世紀にはスレイマン1世が征服したハンガリーから2基の巨大な燭台を持ち帰り、ミフラーブの両脇に据えた。セリム2世時代には建物に劣化が見え始め、建築家であり世界初の地震対策技術者とも評されたミマール・スィナンが主導した外部からの補強構造追加など幅広い補修工事が行われた[43]。スィナンは歴史的なビザンティン建築の西端に2基の大きなミナレットを据え、さらにスルターンの特別席が作られた。南東の建物では、1576 - 1577年にセリム2世のテュルベ英語版(墓)を据えるため、1年前にS字型の角にあった総主教のテュルベが取り壊された[28]。ドームの頂上には、金の三日月が取り付けられ[28]、これが反射する光が届く35アルシン[44](約24 m)幅の建物周辺からは当時建っていたすべての家屋が取り除かれた[28]。ここには後に、オスマン帝国の皇女43人のテュルベも追加された[28]

1594年には宮廷建築家(ミマール)のダヴッド・アーが、皇帝ムラト3世ヴァリデ英語版であるサフィエ・スルタンの命を受け、皇帝のテュルベを建設した[28]。その横の八角形のには彼らの息子メフメト3世と彼のヴァリデが葬られたが、これは1608年に王室建築家のダルグチ・アハメッド・アーの手による[45]。次代の皇帝ムスタファ1世のテュルベは、洗礼堂を作り変えて設けられた[45]。ムラト3世はまた、ペルガモンからヘレニズム調のアラバスターを2つ移し、本堂の両端に据えた[28]

1717年アフメト3世は内装のひどく損傷した漆喰の補修を命じ、多くのモザイク画がモスクの作業者らによる破壊から守られ保存される事に間接的ながら貢献した[45]。事実、モザイク画の石はタリスマンと信じられ、訪問者へ売られる事が横行していた[45]

1847年アブデュルメジト1世の命により、イタリア人建築家ガスパーレ・フォッサーティ英語版によって構造的な補強が行われ、ドームの水平推力に対抗するためドーム基部に製の環状補強材が埋め込まれたが、これはあまり有効に機能していないことが判明している[1]。主柱にムハンマド正統カリフの名を記した円形の額が取り付けられたのもこの補修の時である。フォッサーティは工事の内容を纏めて書籍出版を準備し、同じ頃、ドイツ人建築家ザルツェンブルグも別に調査を許され、フォッサーティは大判の彩色図集を、ザルツェンブルグも大判の研究書をそれぞれ発行した[1]

宗教施設から博物館への転換

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第一次世界大戦でオスマン帝国は敗戦国となって滅び、代わって世俗主義的なトルコ共和国が建国された。オスマン帝国滅亡から12年後の1934年、トルコ共和国の建国者にして初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクによってアヤソフィア・ジャミィは世俗化され[1]、翌年に博物館として公開した[46]。長年敷かれていたカーペットが取り払われて大理石の床のオンファリオン英語版(戴冠のための円形の場)や、除去された白漆喰が覆っていた多くのモザイク画が姿を現した。

しかし建物の構造には劣化が見られ、ワールドモニュメント財団 (WMF) は1996年と1998年の「ワールド・モニュメント・ウォッチ」に記載された。建物の製の屋根にはクラックが入り、そこから染み込んだがフレスコ画やモザイク画を伝って流れ落ちていた。同様に湿気は下からも上がってモザイク画に影響していた。さらに地下水が上がって記念的建造物内部の湿度上昇に結びつき、石材塗料を脅かしていた。アメリカン・エキスプレス社の資金援助を受け、WMFは1997年から2002年にかけて修復のための費用を交付すると保証した。第一段階として、天井部分のひび割れ修繕と構造の安定化工事が、トルコ文化観光省英語版参加の下で行われた。第二段階はドーム内部の保存のため、若いトルコ人博物館学芸員を雇用して訓練する機会を設け、モザイク画の保護体制を確立した。2006年までにWMFのプロジェクトは完遂したが、他の部分にも引き続き保存活動が求められている[47]

モスク回帰への動き

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現代トルコにおいて、アヤソフィアの建物をモスクや教会など宗教的行事の場として使うことは厳しく禁じられてきた[48]。しかし2006年にトルコ政府は、博物館内の小部屋をキリスト教徒やイスラム教徒のスタッフが祈りを捧げる場所として使えるよう許可を出したと伝えられた[49]

イスラム回帰を進めるレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領は2019年3月、アヤソフィアをモスクへ戻す方針を宣言し、トルコ政府は2020年5月29日、アヤソフィアを会場にコンスタンティノープル征服567周年記念式典を開いた。ここでイスラム教の聖典『コーラン』を朗読し、ギリシャ共和国政府は「世界中のキリスト教徒への侮辱」と抗議した[50]

エルドアン政権によるモスクへの回帰

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2020年7月10日、トルコの裁判所はモスク(イスラム教礼拝所)から博物館に地位を変更したのは不当だとして現地のイスラム系団体が提訴していた問題で、イスラム系団体の訴えを認める判断を下した。これを受けて、エルドアン大統領は同日、アヤソフィアをモスクとする大統領令に署名した[51]

2020年7月24日、アヤソフィアはモスクに回帰して「アヤソフィア・ジャーミー」となり、86年ぶりとなる金曜礼拝が行われた[52]。エルドアン大統領、フアット・オクタイ副大統領トルコ大国民議会のムスタファ・シェントプ議長、保健省のファフレッティン・コジャ大臣、大統領府通信局のファフレッティン・アルトゥン局長、民族主義者行動党デヴレト・バフチェリ党首もアヤソフィア・ジャーミーを訪れた[53]。アヤソフィアのツイッターアカウント(@ayasofyacamii)、エルドアン大統領のツイッターアカウントや政権与党の公正発展党YouTubeチャンネルにもアヤソフィアでの金曜礼拝の様子をストリーミング中継した。

なお、キリスト教のモザイク画については礼拝時には布で覆いがかけられることになった[54]が、トルコ政府は「モスク化」後も外国人や観光客の立ち入りを認める方針を示しており、礼拝以外の時間帯は観覧できる[55]。これには国内外で根強いモスク化への反発を最小限に抑える狙いがあるとされているが、観光客の入場料が無料化されることから、日本円換算で年間60億円とされる収入の減少は確実と報じられている[56]

構造

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アヤソフィア平面図
東側(図左)が至聖所、西側(図右)が正面入口

平面は集中式プランとバシリカ式プランの融合を特色としているが[57]、それまでのローマ帝国、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)時代において、この建築物に類例するプランは存在していなかった。正教会の規範に従い、教会は西を開口部とし、東に至聖所を備えている。聖所(内陣)と正面入口の前に啓蒙所と呼ばれる細間があり、大聖堂として使われていた当時は、信者でないものはここから先に入ることを許されなかった。現在は失われているが、啓蒙所の前にはアトリウムがあった。

基本的には長方形平面であるが、内部立面のアーケドやアーチによる曲線、ことにイシドロスとアンテミオスによって計画された30.95 m四方形の上部のドーム、さらにのち補強のために周囲に配された多くのバットレスによって、建物全体が方形であることの印象は受けない。

構造的に最も特徴的なのは、正方形のプランの上に、ドームが乗っていることである。それまでドーム建築は、ローマのパンテオンに見られるよう単純に、ドームの平面形と同じ円形プランで構成されていたが、ビザンチンの建築家は、ドームの円形と正方形の隙間にできる三角形部分をペンデンティブという支持方法で埋めることにより解決した。さらにアヤ・ソフィアでは、中央の大ドームを受けるのに平面の正方形の四辺にあたるところにそれぞれ大アーチを架け、ドームの重さによる外側への水平推力については、南北は二階の回廊をまたぐ巨大な控え壁、東西は大アーチの形をそのまま展開した半円形のドームで受けるという多種多彩な構造を用いて逃がしている。これら重層的な構造と、中央の大ドームの基部に円形に並べられた小窓などにより、外観、内観ともそれまでにない光に充ちた豊かな建築空間が出現した。西洋建築史においては、アヤソフィアによって古代は終わり、中世が始まったとも言われる[58]。しかし、この斬新な構造は、論理性はともかく、強度的には不十分で、前述のように、地震によるドームの崩落の他、多くのバットレスの追加などを余儀なくさせ、この建物の外観を、最初の構想、および竣工当時からとは違うものにしてしまっている。

主構造は、石積造の他、ローマ帝国で発展した、積み重ねた焼きレンガ型枠として、その中にコンクリートを充填する方法をとっている。これが、総石造の建物と違い、工事期間の短かった理由である。「ローマン・コンクリート」も参照。

切断図

大ドームは上述の通り558年に崩落し、その後も地震による部分的な崩壊を経験しているが、基本的な構成は537年に建設された当時のままである[17]。採光によって光の溢れるアヤソフィアのドームは「天から釣り下げられた円蓋」とされ、それがあまりにも印象的であるため、以後のビザンティン教会堂、および礼拝堂では、円蓋が建築平面の中心部に必ずと言ってよいほど配されるようになる。

アヤソフィアは集中方式による教会建築としては最大級のものに属する。これ以降、東ローマ帝国では、アヤソフィアに匹敵する建築物、あるいはこれを一回り縮小した規模のものさえも造られなかった(11世紀の皇帝ロマノス3世アルギュロスの時代にこれに匹敵する規模の聖堂建設が計画されたが、実現しなかった)。オスマン帝国時代になってからは、ブルー・モスク(スルタンアフメト・モスク)のように明らかにアヤソフィアに影響を受けた様式のモスクが建造された。

今日、建築物の外壁は漆喰で塗り込められ、四辺をオスマン時代に建設されたミナレットによって囲まれているが、イスタンブールの辿ってきた歴史の変遷を考えれば、この教会堂が遺っていること自体、ほとんど奇跡であると言って良い。すべては中世キリスト教徒のたゆまぬ修復とイスラム教徒のこの建築物に対する畏敬の念の賜物である。

博物館内部の装飾

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アヤソフィア内部北面
アーケードとティンパヌム
アプス半ドームにある聖母子のモザイク画
ティンパヌムのモザイク画『ヨハネス・クリュソストモス
南入口の『キリストと皇帝』のモザイク画
アヤソフィア内部の『キリストと皇帝コンスタンティノス9世・ゾエ夫妻』のモザイク画
聖母子12世紀皇帝ヨハネス2世コムネノス夫妻のモザイク画
デイシス」のモザイクイコン

アヤソフィア博物館の内装は、ほぼモスク時代のものを踏襲し、2階までの壁面は多色大理石と金地モザイクで、その上部は漆喰で飾られている。アーケードは大理石の象眼細工で覆われ、古代建築から剥ぎ取られた大理石円柱によって支えられているが、 柱頭部分は新規に製作されたアカンサスの葉の模様のある変形イオニア式で、ユスティニアヌスのモノグラムが刻まれている。つまり、この部分は創建当時のものである。

プロコピオスによると、創建当時、ドームには巨大な十字架が画かれ、アプスには図像が配されていたらしい。このモザイクは、円蓋の崩落や、726年から843年の聖像破壊運動によって破壊されたが、プロコピオスやその他の同時代の人びとの記録には、ドームの十字架以外についての記録がないため、そもそも創建当時、人物などのモザイクはなかったのではないかと考えられている。聖像破壊運動の後は、様々なモザイク画が作成され、今日その一部を見ることができる。

1453年にアヤソフィアはイスラム教のモスクとなったが、オスマン帝国はモザイクを破壊することはせず、漆喰で塗り潰していた。しかし、1847年から1849年のフォッサーティの改修作業の過程で壁面の調査も行われ、モザイクに感銘を受けたアブデュルメジト1世の命により、漆喰が剥がされ、本格的な調査が行われた。当時はまだアヤソフィアはモスクとして利用されていたため、この調査記録がまとめられた後、堂内壁面は再び漆喰が塗られた。

トルコ革命後、1931年アメリカ合衆国トーマス・ウィットモア主宰のビザンティン研究所がモザイクの調査を行い、1935年には、トルコ共和国政府の手でアヤソフィアは無宗教文化財として公開された。その後、ビザンティン研究所は1950年代までモザイクの調査と漆喰の除去を行った。

20世紀後半には歴史的建造物の保存に力が注がれるようになった。アヤソフィアの内部は各所に傷みが見られ、内部円柱の傾きやドームの歪みなどが発見されている。これらの主な原因は短期間で完成させた工事によるもので、レンガの間に盛られたモルタルがほぼレンガと同じくらい厚く、しかも充分な乾燥を待たずどんどん積み上げられたために長い間にクリープ現象が進んだものと考えられる。それでも大規模な崩壊が起きなかった事は、6世紀の設計が優れていた証左になる[59]。1990年からはトルコと日本の国際共同学術調査が開始された[59]

モザイク画

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大聖堂内部には、今日少数かつ断片的にではあるがキリスト教聖堂であった頃のモザイク画が残っている。 モザイク画のクローズアップを見るには、トルコ人ファインアート写真家アフメト・エルトゥウ英語版の写真がアヤソフィア北のギャラリーで常設展示されている[60]

『聖母子と大天使』(870年代?)
アプスに残るモザイク画。5 m近い聖母子の座像の両脇に大天使を配するが、北側の天使像はほとんど失われている。記録に残る銘文と、876年に総主教フォティオスが行った説教から、聖像破壊運動が収束した後に描かれたと考えられるが反論もある。フォティオスの説教がこの図像を指すものであれば、これは新たに画かれたことを暗に述べているが、中期ビザンティンの「新しい(Nea)」という概念は、聖像破壊運動以前の伝統への回の意味が強く、聖母子と大天使の図像は元の装飾を忠実に再現したものか、漆喰に塗り込められていたものを再びクリーニングしたのか、あるいは新たにデザインされたものかは不明である。
大セクレトンの聖人像(870年代)
セクレトンは、2階西南にある小部屋で、かつては総主教宮殿からの通路の一部であった。聖像破壊運動により、768年あるいは769年に総主教ニケタスによって壁画が剥ぎ取られたが、その後、モザイクによって再び装飾された。ゲルマニクスニケフォロスといった、聖像破壊運動にあってイコンを擁護した総主教のほか、聖像破壊運動の後に総主教となったタラシオスメトディオスの図像が断片的に残存している。
ティンパヌムの聖人像(877年頃)
ドームを支えるアーチの下にある、南北の半円形壁面に残る聖人像である。北側に小イグナティオスメトディオスグレゴリオス・タウマトゥルゴスヨハネス・クリュソストモスイグナティオス・テオフォロスキュリロス(アレクサンドリアの)アタナシオスが画かれ、南側にニコメディアのアンシモス大バシレイオスナジアンゾスのグレゴリオスディオニュシオス・アレオパギテスニコラオス、アルメニアのグレゴリオスが画かれていたが、今日ではヨハネス・クリュソストモス、小イグナティオスの図像がほぼ完全な形で残り、メトディオスらの図像の一部が残る。
『キリストと皇帝』(10世紀初頭?)
ナルテクスから本堂への中央入り口上部にあるモザイク画。この中央入り口は皇帝の典礼用にのみ使われるもので、かつては別のモザイク画があった。今日見ることのできるモザイクは、キリストを取り囲むように大天使と聖母マリアの2つのメダイヨンが配置され、キリストに礼拝を行う皇帝が画かれている。これがいつ、誰が作成させたのか、皇帝が誰であるのかということについては銘文がなく、テオフィロス説、レオーン6世説など諸説あるが定かではない。
『聖母子、ユスティニアヌス1世とコンスタンティヌス1世』(10世紀後半)
西南の玄関からナルテクスへの入り口上部にあるモザイク画。中央に立つ聖母子に、向かって左側のユスティニアヌスがアヤソフィアを、右側のコンスタンティヌスがコンスタンティノープルの街をそれぞれ捧げている図が描かれている。作成時期や動機については不明である。
『キリストと皇帝コンスタンティノス9世、皇后ゾエ』(1042年から1055年頃)
南側2階廊に残る。モザイクの下部は失われているが、銘文から人物が特定できる。この図像は、もともとゾエが最初に結婚したロマノス3世によって寄進されたものだと考えられるが、ゾエが後にミカエル4世コンスタンティノス9世と2度再婚しているため、夫である皇帝の顔や銘文は、恐らくその都度作り直された。今日でもその跡ははっきりとわかる。ゾエの顔とキリストの顔にも修正された跡があるが、なぜこの部分にまで修正を施さねばならなかったのかについては、諸説ある。コンスタンティノス9世は、マンガナのハギオス・ゲオルギオス聖堂建設やエルサレム聖墳墓聖堂の修復など、莫大な国家予算を聖堂の装飾や建設に注ぎ込んだ。
『聖母子と皇帝ヨハネス2世コムネノス、皇后エイレーネー(イリニ)』(1122年から1134年頃)
12世紀に作成された、コンスタンティノープルに残る唯一のモザイク画。12世紀に東ローマ帝国領内で作成されたモザイクは、今日ほとんど残っていないため、貴重である。図像の配置や銘文は、側にある『キリストと皇帝コンスタンティノス9世、皇后ゾエ』に影響を受けていることがわかる。すぐ横の柱側面には、彼の長男アレクシオスの図像もある。
デイシス』(1260年頃)
元々は2階廊の壁面いっぱいに画かれたものであろうが、下部はほとんど失われている。それまでのモザイク画に比べてキリストの顔が立体的に描かれているのが特徴。そのほかにも、南窓からはいる光を効果的に利用するような工夫が成されているため、ビザンティン美術の最高傑作とされる。ミカエル8世パレオロゴスラテン帝国に奪われていたコンスタンティノープルを奪回したことを記念して作られたとする説が有力であるが、文献がないため詳細は不明である。
エンリコ・ダンドロの墓碑』(1205年
ラテン帝国の時代に造られたもので、デイシスと向かいあう位置の壁面近くにある。「」と呼ばれ、コンスタンティノープルを占領してラテン帝国建国をもたらした第4回十字軍を巧みに操ったエンリコ・ダンドロの墓碑。これはジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアンの『コンスタンティノープル征服記』にも記されている。遺骨遺品については1453年にオスマン帝国皇帝メフメト2世によってヴェネツィア共和国に返還された。

登録基準

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この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (1) 人類の創造的才能を表現する傑作。
  • (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
  • (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
  • (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。

ギャラリー

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i 日高ら(1990)、p.31-66、2.ドームを仰ぎ見るとき、◎ハギア・ソフィア大聖堂<オスマン・トルコ時代のアヤソフィア>
  2. ^ a b 【At the scene 現場を旅する】[イスタンブール(トルコ)モスクに戻ったアヤソフィア朝日新聞グローブ』2020年10月(No.234)17面
  3. ^ Müller-Wiener (1977), p. 112.
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参考文献

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関連項目

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画像外部リンク
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外部リンク

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