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[[File:Mokkan.jpg|thumb|Add caption here|木簡([[平城宮跡]]遺構展示館)]] |
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'''木簡'''(もっかん)とは、古代の東アジアで[[墨]]で文字を書くために使われた、[[短冊]]状の細長い木の板である。[[紙]]の普及により廃れたが、荷札には長く用いられた。 |
'''木簡'''(もっかん)とは、古代の東アジアで[[墨]]で[[文字]]を書くために使われた、[[短冊]]状の細長い木の板である。[[紙]]の普及により廃れたが、荷札には長く用いられた。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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木の板に文字を書くことは、文字 |
木の板に文字を書くことは、文字の存在する文化圏では古くからごく一般に行われていた。後代にも文字を書いた木というだけなら、落書きした木片や呪いの札など多種多様なものがみられる。歴史学・考古学の見地からは、それらすべてが過去の生活の様子を伝える貴重な資料であり、広い意味での木簡として研究対象になる<ref>鬼頭清明『木簡』8-9頁。和田萃「木簡は語る」12-13頁。</ref>。この意味での木簡は、研究上の概念であり、その時代の人々が字が書かれた様々な木を木簡として一まとめに考えていたわけではない。 |
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その中で、中国と日本では一行または数行の文を書いた細長い板が多数出土しており、典型的な、狭義の木簡 |
その中で、[[中国]]と[[日本]]では一行または数行の文を書いた細長い板が多数出土しており、これこそが典型的な、狭義の木簡である。これらは当時も木簡と呼ばれていたが、用途や状況に応じて様々に呼ばれた。漢代まで木簡と竹簡には冊書を作る用途があり、一行しか書けない細長い規格で作られた。後に長い文書が紙で作られるようになり、木簡の形に対する制約がなくなっても、細長い形は変わらなかった。 |
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木簡の特徴の一つは、削って書き直したり再利用したりすることができるという点 |
木簡の特徴の一つは、削って書き直したり再利用したりすることができるという点である。そのため当時の文具には筆、墨、硯に加えて[[刀子|小刀]]が含まれていた。削り屑に習字した例もあり、上述の広義の木簡に含まれる。 |
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== 中国の木簡 == |
== 中国の木簡 == |
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ハンガリー出身のイギリス人[[オーレル・スタイン]]が尼雅で50枚、スウェーデンの[[スウェン・ヘディン]]が[[楼蘭]]で120枚余の[[晋 (王朝)|晋]]代の木簡を発見した[[1901年]]が、遺跡からの木簡出土の始まりの年である。スタインは、[[1907年]]、[[1913年]]-[[1916年|16年]]の、第2次・第3次探検でも、約900枚の[[漢代]]の木簡を発見している(敦煌漢簡)。その後[[1930年]]にはエチナ川流域から一挙に1万点以上の大量の木簡が発見された([[居延漢簡]])。20世紀前半には西北辺境からの発見が多かったが、後半には全国で多数見つかるようになった。 |
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ハンガリー出身のイギリス人[[オーレル・スタイン]]が尼雅([[ニヤ遺跡]])で50枚、スウェーデンの[[スウェン・ヘディン]]が[[楼蘭]]で120枚余の[[晋 (王朝)|晋]]代の木簡を発見した[[1901年]]を、遺跡からの木簡出土の嚆矢とする<ref>鬼頭清明「木簡と古代史」12頁。</ref>。スタインは、[[1907年]]、[[1913年]]-[[1916年|16年]]の、第2次・第3次探検でも、約900枚の[[漢代]]の木簡を発見している(敦煌漢簡)。その後[[1930年]]にはエチナ川流域から一挙に1万点以上の大量の木簡が発見された([[居延漢簡]])。このように、20世紀前半にはヨーロッパ人の中央アジア探検隊が西北辺境で発見したが、後半には中国人自身がで全国から多数発見するようになった<ref>大庭脩「中国簡牘研究の現状」。</ref>。スタインらの発見は極度の乾燥状態で保存されたものだが、後半以降は地中の墓にあって水に漬かった状態や高い湿度のおかげで腐らず残ったものである<ref>大庭脩「中国簡牘研究の現状」64-65頁。</ref>。発見数は100万点を超えると言われる<ref>市大樹『飛鳥の木簡』8頁。</ref>。 |
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中国では[[竹]]に文字を書いた[[竹簡]]が主流で、単に簡や簡牘といえば竹簡を指す。しかし[[黄河]]流域以北で木簡も広く用いられた。紙が普及しない漢代まで、木簡・竹簡は文書の材料として広く用いられていた。木簡と竹簡の相違は、その用途の相違によるものとも考えられる。つまり、各種の証明書や検・檄・符などの単独簡として用いられる簡には木簡が用いられ、それに対して、書物や簿籍などの編綴簡には竹簡が用いられている、という出土状況から、そのように考えられている。 |
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日本で木簡と呼ぶものを中国の考古学では簡牘という。[[竹]]に文字を書いた[[竹簡]]が主流で、単に簡や簡牘といえば竹簡を指す。気候の関係で竹が生育しない[[黄河]]流域以北では木の木簡も広く用いられた。紙が普及しない漢代まで、木簡・竹簡は文書の材料として広く用いられていた。木簡と竹簡の相違は、その用途の相違によるものとも考えられる。つまり、各種の証明書や検・檄・符などの単独簡として用いられる簡には木簡が用いられ、それに対して、書物や簿籍などの編綴簡には竹簡が用いられている、という出土状況から、そのように考えられている。 |
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漢代の一般的な簡牘は長さ一尺(23cm)、皇帝用の簡牘は長さ一尺一寸(25cm)、[[経書]]用の簡牘は二尺四寸(55cm)と、用途に応じた定型で作られ、文章が長くなるときにはつづりあわせて冊(編綴簡)にした。 |
漢代の一般的な簡牘は長さ一尺(23cm)、皇帝用の簡牘は長さ一尺一寸(25cm)、[[経書]]用の簡牘は二尺四寸(55cm)と、用途に応じた定型で作られ、文章が長くなるときにはつづりあわせて冊(編綴簡)にした。 |
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紙が普及しはじめた魏晋の頃には、文書に紙と木が併用された。公式的な長い文書には紙が使われ、特別な儀式を除き簡を束ねて冊を作ることはしなくなった。そのせいで木簡は一枚で完結する文書に用いられることになり、形の規格がなくなった。 |
紙が普及しはじめた魏晋の頃には、文書に紙と木が併用された。公式的な長い文書には紙が使われ、特別な儀式を除き簡を束ねて冊を作ることはしなくなった。そのせいで木簡は一枚で完結する文書に用いられることになり、形の規格がなくなった。中国ではふつう木簡の裏に字を書かなかったようである<ref>鬼頭清明「木簡と古代史」10頁。</ref>。 |
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=== 著名な木簡発見 === |
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* 居延漢簡 - 前述。[[新疆ウイグル自治区]]の楼蘭・尼雅やエチナ川流域で発見される。 |
* 居延漢簡 - 前述。[[新疆ウイグル自治区]]の楼蘭・尼雅やエチナ川流域で発見される。 |
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* 馬圏湾漢簡 - 1979年、[[敦煌市]]西北95kmの漢代の烽燧址から出土した、約1200枚の木簡。 |
* 馬圏湾漢簡 - 1979年、[[敦煌市]]西北95kmの漢代の烽燧址から出土した、約1200枚の木簡。 |
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== 日本の木簡 == |
== 日本の木簡 == |
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日本の木簡としては、[[正倉院]]の宝物に付けられていた |
日本の木簡としては、[[正倉院]]の宝物に付けられていた30数点が伝わるほか、[[1928年]]に[[三重県]]の[[柚井遺跡]]で3点、[[1930年]]に[[秋田県]]の[[払田柵跡]]で2点が見つかっていたが、当時はあまり注目されなかった<ref>栄原永遠男「三重・柚井遺跡」、同「秋田・払田柵跡」。払田柵跡では1970年にも1点が見つかった。鬼頭清明「木簡と古代史」には払田柵跡で1930年に3点見つかったとある。和田萃「木簡は語る」には1980年代になって柚井遺跡から1点、払田柵で2点が戦前に発見されていたことが1980年代になって判明したとあるが、採らない。</ref>。大量出土は[[1961年]]の[[平城京]]跡での41点に始まり<ref>考古学者田中琢は小雪がちらつくなか平城宮跡で8世紀のゴミため用の穴を掘って、出土品をバケツのなかで洗っていた時に泥水の中から木片に書いた文字が浮かんだのを見つけた。(田中琢「世界最古のカードシステム」/田中琢・佐原真著『考古学の散歩道』岩波書店〈岩波新書(新赤版)312〉1995年第9版 54ページ)</ref>、以後続々と各地で見つかるようになった。数的に多いのは1996年の平城京東南隅から約1万3千点、1988~1989年の[[長屋王家木簡]]と隣接する二条大路木簡があわせて約11万点<ref>和田萃「木簡は語る」4頁。長屋王家木簡に限ると約3万5千点である(同3頁)。</ref>、[[長岡京]]など都からのものである。特に長屋王家木簡の発見で、重要な考古資料として木簡が広く知られるようになった<ref>和田萃「木簡は語る」2頁。</ref>。だが、最近では[[藤原京]]より以前の宮都やその周辺の遺跡からも、さらに、国・郡の地方官衙や寺院など全国から出ている<ref>出土地は秋田県から宮崎県におよんでいる。前掲田中(1995) 54ページ</ref>。2011年末までに38万点以上が見つかっている<ref>市大樹『飛鳥の木簡』4頁。</ref>。 |
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日本の木簡はほとんどが水に漬かった状態の土の中から発見されている。1960年代から急に発見が多くなったのは、それまで見逃されがちだった土中の木片に注意を払い、調査を緻密にしたためである。木簡点数の多くは削り屑で、削り屑に文字が書かれていなければ木簡ではないが、一字でも字の断片でも墨書があれば木簡として記録する。屑同士が接合すれば複数片をまとめて1点と数えるが、実際には困難なので、削られた断片が数えられることになる<ref>市大樹『飛鳥の木簡』4頁、8頁。</ref>。 |
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日本の木簡研究は、木簡を形状と用途の二側面から分類している。形状の分類で[[奈良国立文化財研究所]]が平城京木簡の分類に際してとった13または18の型式がよく知られているが、他の方法もある。どの方法でも数が多くて目立つのは、[[短冊]]形、切りこみつき短冊形、一端を尖らせた短冊型である。大きさに定まった規格はなく、長さ20センチメートルから30センチメートル、幅2センチメートルから4センチメートルが多いが、これとかけ離れた大きさのものもあった。用途別では、文書木簡、付札木簡、その他の三つに分ける。用途と形状は密接にかかわっている。 |
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日本の木簡研究は、木簡を形状と用途の二側面から分類している。形状の分類で[[奈良国立文化財研究所]]が平城京木簡の分類に際してとった型式がよく知られているが、他の方法もある。どの方法でも数が多くて目立つのは、[[短冊]]形、切りこみつき短冊形、一端を尖らせた短冊型である。大きさに定まった規格はなく、ほとんどは長さ20センチメートルから30センチメートル、幅1.5センチメートルから4センチメートルの範囲に入るが、これとかけ離れた大きさのものもあった。用途別では、文書木簡、付札木簡、その他の三つに分ける<ref>鬼頭清明『木簡』32-33頁。市大樹『飛鳥の木簡』9頁。</ref>。用途と形状は密接にかかわっている。 |
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文書木簡は、7世紀後半から、[[奈良時代]]と[[平安時代]]の10世紀までを中心に使われた。日本に文字が入ってきたとき、中国では既に紙が普及しつつあり、紙と木簡・竹簡が併用されていた。日本もそれを踏襲し、比較的短い文書についてだけ木簡を使った。すべての文書に紙を使わなかったのは、当時まだ紙が高価で需要を満たすに足りなかったためと考えられる。日本では竹簡は作られなかった。 |
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日本に竹簡はなく<ref>池田温「中国木簡の特色」28頁。</ref>、冊書も作らなかった<ref>鬼頭清明「木簡と古代史」9頁。池田温「中国木簡の特色」30-31頁。</ref>。 |
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文書木簡は、役所の間の連絡に使った文書と、日常事務の帳票の二種に大別される。人を召還する文書、飯を請求する文書など短い連絡・請求に用いられる木簡、官吏の人事考課用に一人一枚ずつ作って勤務評定を記した木簡、倉庫の出納を記録した倉札などがある。文書木簡の中には、板に孔をあけて紐や棒を通したものがある。 |
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=== 文書木簡 === |
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付札は物の内容を示すためにつけるもので、切り込みつきか、端を尖らせたものである。切り込みがあるのは、紐をそこにかけて板を結び、紐の反対端を荷物に結びつけるのである。尖らせたものは、それを俵や荷物の縄がけに差し込むためと考えられている。付札には荷物の送り主と宛て先を記す荷札と、保管される物に付けておく物品付札があった。当時は税として中央の役所に納入するものに荷札が付けられており、これを貢進物木簡(貢進物付札)と呼ぶ。要は荷札なのだが、この時代のものは量が豊富なだけでなく、送り手と内容の情報が定型的に書き込まれ、資料として読み取れる情報量が多い。 |
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文書木簡は、7世紀後半から、[[奈良時代]]と[[平安時代]]の10世紀までを中心に使われた。日本に文字が入ってきたとき、中国では既に紙が普及しつつあり、紙と木簡・竹簡が併用されていた。日本もそれを踏襲し、比較的短い文書についてだけ木簡を使った<ref>舘野和之「律令制の成立と木簡」324-325頁。</ref>。すべての文書に紙を使わなかったのは、当時まだ紙が高価だったためでもあるが、簡単に壊れない木の耐久性を活用した面もある<ref>市大樹『飛鳥の木簡』10-11頁。</ref>。 |
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文書木簡は、役所の間の連絡に使った文書(狭義の文書木簡)と、日常事務の帳票・記録(記録木簡)の二種に大別される。人を召還する文書、飯を請求する文書など短い連絡・請求に用いられる木簡、官吏の人事考課用に一人一枚ずつ作って勤務評定を記した木簡、倉庫の出納を記録した倉札などがある。形は短冊形が多く、記録木簡の中には、板に孔をあけて紐や棒を通したものがある。 |
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7世紀の文書木簡には、宛先である某に対して「某の前で申す」という意味の句から始めるものが目立つ。[[前白木簡]]という。目上に対するものだけでなく、対等の関係でもみられる<ref>鶴見泰寿「七世紀の宮都木簡」306頁。</ref>。また、連絡用の文書には日付がほとんどない<ref>鶴見泰寿「七世紀の宮都木簡」307頁。</ref>。声を張り上げて伝えたり宣べたりすることで公式業務がなされた口頭行政が背景にあるかと言われる<ref>舘野和之「律令制の成立と木簡」324頁。</ref>。書き方は一行にずらずら書き並べ、字配りがない<ref>鐘江宏之「七世紀の地方木簡」、289-291頁。</ref>。年を記すときには[[干支]]が使われ、[[元号]]は使われない。 |
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これに対して8世紀の文書木簡は、差出・宛所、元号日付を字配りよく配置し、官の上下関係により符・移・解といった字を使い分け、書式が整ってくる<ref>鐘江宏之「七世紀の地方木簡」290-293頁。</ref>。大宝元年([[701年]])制定の[[大宝律令|大宝令]]の影響とされる<ref>鐘江宏之「七世紀の地方木簡」292頁。</ref>。 |
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=== 付札 === |
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付札は物の内容を示すためにつけるもので、切り込みつきか、端を尖らせたものが多い。切り込みがあるのは、紐をそこにかけて板を結び、紐の反対端を荷物に結びつけるのである<ref>『評制下荷札木簡集成』5頁、44頁。</ref>。日本の木簡では上端に切り込みがあるものがほとんどだが、下のほうに切り込みを入れたものもわずかながらある<ref>『評制下荷札木簡集成』5頁。</ref>。尖らせたものは、それを俵や荷物の縄がけに差し込むためと考えられている<ref>『評制下荷札木簡集成』5頁。</ref>。。付札には荷物の送り主と宛て先を記す荷札(貢進物付札)と、保管される物に付けておく物品付札があった。 |
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当時は税として中央の役所に納入するものに荷札が付けられており、送り手と内容の情報が定型的に書き込まれ、資料として読み取れる情報量が多い。 |
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=== その他 === |
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その他には習字、落書き、呪符、[[駒 (将棋)|将棋の駒]]まで含めた様々な木の板が入る。告知札は立て札のことで、史料に「牓」と書かれるものらしいが、その文が「告知」で始まることからこう呼ばれる。[[題箋]](題箋軸)は紙の巻物の軸に用いる木で、長く突き出した部分に巻物の内容を記した。封緘木簡は、一枚の木を割って二つにしたものに紙の手紙をはさんで紐でしばり、紐の上から「封」の字を書いた上で、宛て先などを記したものである。 |
その他には習字、落書き、呪符、[[駒 (将棋)|将棋の駒]]まで含めた様々な木の板が入る。告知札は立て札のことで、史料に「牓」と書かれるものらしいが、その文が「告知」で始まることからこう呼ばれる。[[題箋]](題箋軸)は紙の巻物の軸に用いる木で、長く突き出した部分に巻物の内容を記した。封緘木簡は、一枚の木を割って二つにしたものに紙の手紙をはさんで紐でしばり、紐の上から「封」の字を書いた上で、宛て先などを記したものである。 |
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=== 製造から廃棄まで === |
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1992年初め、藤原京跡で土坑を掘っていたときに、黒色の土の中から長さ18センチ、幅1センチ、厚さ0.4センチほどの薄くて細長い板きれが多数見つかった。トイレットペーパーと同じ役割のヘラである。そのヘラに文字が見えるものがあり、使用済みの木簡を転用したことが分かる。<ref>前掲書田中(1995) 56ページ</ref> |
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==== 製造 ==== |
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10世紀より後になると文書木簡は見られなくなる。しかし運送する荷につける荷札は引き続き盛行し、やはり前代から見られる呪術のための札、寺社への参詣の印をして配る参篭札、[[座]]の一員である証明として今日の身分証明書のように使う札、質権設定を示すために付ける質札など多様な木簡が作られた。木の耐久性を利用したものである。中世に木簡は多く木札と呼ばれた。荷札は近代まで続き、宗教的な札は現代にもあるが、木簡という歴史学・考古学用語で呼ばれることはない。 |
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木簡の製造については知られることがないが、何も書かれていない未使用品(または再生済み未使用品)の木簡がまとまって出ることもある。大量に必要とするところでは生産・再生・保管の体制が整えられていたと考えられる。日本の荷札木簡については国([[令制国]])によって用いられる材が違っていたことが知られている。 |
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==== 再利用 ==== |
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使用済み木簡は、一面を削って再利用された。削って薄くなると最終的に捨てられる。長屋王家では邸内の各部局から出た使用済み木簡を一箇所で回収して再利用していたらしい。裏を使って別の用途にあてることもある。 |
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削り屑はごみとして捨てられるが、何か字が書かれていれば、広義の木簡として数えられる。情報量は少ないが、読み取った語が年代決定に役立ったり、その場所の機能についての手がかりになることもある。 |
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余白を使って字の練習をしたものも多く、この部分に注目すると習書木簡と呼ばれる。情報の価値は多くないが、何らかの句の習書の出典がつきとめられると、その文献が日本に招来されていた時期や普及度を推測する手がかりになる。 |
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便所で尻を拭う[[籌木]]に転用されたものもあり、[[トイレ遺構|便所遺構]]から発見される。1992年初め、藤原京跡で土坑を掘っていたときに、黒色の土の中から長さ18センチ、幅1センチ、厚さ0.4センチほどの薄くて細長い板きれが多数見つかった。トイレットペーパーと同じ役割のヘラである。そのヘラに文字が見えるものがあり、使用済みの木簡を転用したことが分かる。<ref>前掲書田中(1995) 56ページ</ref> |
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==== 移動と廃棄 ==== |
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木簡は最終的には廃棄され、捨てられた場所で腐蝕を免れたものが考古学資料として掘り出される。 |
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木簡は最初に字が書かれたところから遠く離れた場所で捨てられることがある。荷札木簡が多数見つかるのは[[藤原京]]、[[長岡京]]、[[平城京]]だが、書いたのは全国で貢進物を整えた地方の役人である。 |
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=== 時代変化 === |
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木簡の盛期は8世紀末までで<ref>市大樹『飛鳥の木簡』46頁。</ref>、文書木簡は10世紀より後になると見られなくなる。しかし運送する荷につける荷札は引き続き盛行し、やはり前代から見られる呪術のための札、寺社への参詣の印をして配る参篭札、[[座]]の一員である証明として今日の身分証明書のように使う札、質権設定を示すために付ける質札など多様な木簡が作られた。木の耐久性を利用したものである。中世に木簡は多く木札と呼ばれた。荷札は近代まで続き、宗教的な札は現代にもあるが、これらが木簡という歴史学・考古学用語で呼ばれることはない。それでも、発掘調査で見つかると、現代のものも木簡として報告されることになる<ref>[[徳島県]][[徳島市]]の[[観音寺遺跡]]で、昭和30年代に[[徳島市立国府小学校]]で使っていたプールの[[命札]]が出土した。和田萃「木簡は語る」14-15頁、市大樹『飛鳥の木簡』4頁。</ref>。 |
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== 朝鮮の木簡 == |
== 朝鮮の木簡 == |
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朝鮮では戦前に楽浪付近の墓から木簡が1点発見された。ついで[[1975年]]に[[新羅]]の王宮、[[月城]]の雁鴨池から40点が出土し、[[三国時代 (朝鮮半島)|三国時代]]と統一新羅時代の遺跡から多数の木簡が発見されている。 |
朝鮮では戦前に楽浪付近の墓から木簡が1点発見された。ついで[[1975年]]に[[新羅]]の王宮、[[月城]]の雁鴨池から40点が出土し、[[三国時代 (朝鮮半島)|三国時代]]と統一新羅時代の遺跡から多数の木簡が発見されている。2012年頃までの発見数は約700点と少ないが<ref>市大樹『飛鳥の木簡』8頁。</ref>、日本の古代史にも関わる重要な知見が得られている<ref>市大樹『飛鳥の木簡』40-45頁。</ref>。 |
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日本では7世紀前半の木簡が発見されておらず、数が多くなるのは680年代の[[天武天皇]]の時代からだが、朝鮮では7世紀前半から見つかっている。[[京畿道]][[河南市]]の[[二聖山城]]でみつかった[[608年]]の木簡や、[[慶州市]][[月城垓子]]から出た木簡の書き方は、日本の前白木簡の起源と考えられる<ref>李成市「東アジアの木簡文化」133-134頁。</ref>。また従来日本の[[国字]]と考えられていた椋(くら)、鎰(かぎ)といった字が朝鮮半島に由来することも出土木簡から判明した<ref>市大樹『飛鳥の木簡』30-31頁。</ref>。 |
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日本の木簡と形を比較したときに目立つのは、側面にも書いた觚の存在である。四面あるいはそれ以上の面を持つ柱の各面に記したものである<ref>李成市「東アジアの木簡文化」148頁。</ref>。日本の木簡は表と裏に書く板状のものが大半で、棒状のものはごく珍しい。その一つに長大な木に『[[論語]]』の一部を記した論語木簡がある。穴埋め問題対策用の試験勉強用具という説がある<ref>李成市「東アジアの木簡文化」139-141頁。</ref>。 |
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== 脚注 == |
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<references /> |
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== 参考文献 == |
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*[[池田温]]「中国木簡の特色」、平野邦雄・鈴木靖民・編『木簡が語る古代史』、吉川弘文館、1996年。 |
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*[[市大樹]]『飛鳥の木簡 古代史の新たな解明』、中央公論新社(中央新書)、2012年。 |
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*[[今泉隆雄]]『古代木簡の研究』、吉川弘文館、1998年 ISBN 4-642-02327-5 |
|||
*[[大庭脩]]「中国簡牘研究の現状」、『木簡研究』創刊号、1979年。 |
|||
*大庭脩・編著『木簡 古代からのメッセージ』 大修館書店 1998年 ISBN 4-469-23140-1 |
|||
*[[鐘江宏之]]「七世紀の地方木簡」、『木簡研究』第20号、1998年。 |
|||
*[[鬼頭清明]]『木簡の社会史 天平人の日常生活』、講談社(講談社学術文庫)、1997年 ISBN 4-06-159670-5、初版は1984年に河出書房新社より刊) |
|||
*鬼頭清明「木簡と古代史」、平野邦雄・鈴木靖民・編『木簡が語る古代史』、吉川弘文館、1996年。 |
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*鬼頭清明『木簡』(考古学ライブラリー5)、ニュー・サイエンス社、2004年(初版1990年)。 |
|||
*[[栄原永遠男]]「三重・柚井遺跡」、『木簡研究』創刊号、1979年。 |
|||
*栄原永遠男「秋田・払田柵跡」、『木簡研究』創刊号、1979年。 |
|||
*[[佐藤信 (歴史学者)|佐藤信]]『日本古代の宮都と木簡』 吉川弘文館 1997年 ISBN 4-642-02311-9 |
|||
*[[水藤真]]『木簡・木札が語る中世』 東京堂出版 1995年 ISBN 4-490-20265-2 |
|||
*[[舘野和之]]「律令制の成立と木簡 七世紀の木簡をめぐって」、『木簡研究』第20号、1998年。 |
|||
*[[鶴見泰寿]]「七世紀の宮都木簡」、『木簡研究』第20号、1998年。 |
|||
*[[寺崎保広]] 『古代日本の都城と木簡』 吉川弘文館 2006年 ISBN 4-642-02454-9 |
|||
*[[東野治之]] 『日本古代木簡の研究』 塙書房 1983年 ISBN 4-827-31007-6 |
|||
*[[冨谷至]] 『木簡・竹簡の語る中国古代 書記の文化史』 岩波書店(世界歴史選書) 2003年 ISBN 4-00-026846-5 |
|||
*[[原秀三郎]]「木簡と墨書土器」、『岩波講座日本通史』(第5巻古代4) 1995年 ISBN 4-000-10574-4 |
|||
*[[平川南]] 『古代地方木簡の研究』 吉川弘文館 2003年 ISBN 4-642-02380-1 |
|||
*[[平野邦雄]]・[[鈴木靖民]]・編『木簡が語る古代史』(上・下) 吉川弘文館 1996年 ISBN 4-642-07492-9 |
|||
*[[文化財研究所]]・[[奈良文化財研究所]]『評制下荷札木簡集成』、東京大学出版会、2006年。 |
|||
*[[李成市]]「東アジアの木簡文化 伝播の過程を読み解く」、木簡学会・編『木簡から古代がみえる』、岩波書店(岩波新書)、2010年。 |
|||
*[[和田萃]]「木簡は語る 研究の足跡」、木簡学会・編『木簡から古代がみえる』、岩波書店(岩波新書)、2010年。 |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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== 脚注 == |
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<references /> |
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== 参考文献 == |
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{{参照方法|date=2010年9月|section=1}} |
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*今泉隆雄『古代木簡の研究』、吉川弘文館、1998年 ISBN 4-642-02327-5 |
|||
*[[大庭脩]]・編著『木簡 古代からのメッセージ』 大修館書店 1998年 ISBN 4-469-23140-1 |
|||
*[[鬼頭清明]]『木簡の社会史 天平人の日常生活』、講談社(講談社学術文庫)、1997年 ISBN 4-06-159670-5、初版は1984年に河出書房新社より刊) |
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*佐藤信『日本古代の宮都と木簡』 吉川弘文館 1997年 ISBN 4-642-02311-9 |
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*[[原秀三郎]]「木簡と墨書土器」、『岩波講座日本通史』(第5巻古代4) 1995年 ISBN 4-000-10574-4 |
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*[[平野邦雄]]・[[鈴木靖民]]・編『木簡が語る古代史』(上・下) 吉川弘文館 1996年 ISBN 4-642-07492-9 |
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*水藤真『木簡・木札が語る中世』 東京堂出版 1995年 ISBN 4-490-20265-2 |
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*[[東野治之]] 『日本古代木簡の研究』 塙書房 1983年 ISBN 4-827-31007-6 |
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*[[寺崎保広]] 『古代日本の都城と木簡』 吉川弘文館 2006年 ISBN 4-642-02454-9 |
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*[[平川南]] 『古代地方木簡の研究』 吉川弘文館 2003年 ISBN 4-642-02380-1 |
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*[[冨谷至]] 『木簡・竹簡の語る中国古代 書記の文化史』 岩波書店(世界歴史選書) 2003年 ISBN 4-00-026846-5 |
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2013年3月20日 (水) 03:11時点における版
木簡(もっかん)とは、古代の東アジアで墨で文字を書くために使われた、短冊状の細長い木の板である。紙の普及により廃れたが、荷札には長く用いられた。
概要
木の板に文字を書くことは、文字の存在する文化圏では古くからごく一般に行われていた。後代にも文字を書いた木というだけなら、落書きした木片や呪いの札など多種多様なものがみられる。歴史学・考古学の見地からは、それらすべてが過去の生活の様子を伝える貴重な資料であり、広い意味での木簡として研究対象になる[1]。この意味での木簡は、研究上の概念であり、その時代の人々が字が書かれた様々な木を木簡として一まとめに考えていたわけではない。
その中で、中国と日本では一行または数行の文を書いた細長い板が多数出土しており、これこそが典型的な、狭義の木簡である。これらは当時も木簡と呼ばれていたが、用途や状況に応じて様々に呼ばれた。漢代まで木簡と竹簡には冊書を作る用途があり、一行しか書けない細長い規格で作られた。後に長い文書が紙で作られるようになり、木簡の形に対する制約がなくなっても、細長い形は変わらなかった。
木簡の特徴の一つは、削って書き直したり再利用したりすることができるという点である。そのため当時の文具には筆、墨、硯に加えて小刀が含まれていた。削り屑に習字した例もあり、上述の広義の木簡に含まれる。
中国の木簡
ハンガリー出身のイギリス人オーレル・スタインが尼雅(ニヤ遺跡)で50枚、スウェーデンのスウェン・ヘディンが楼蘭で120枚余の晋代の木簡を発見した1901年を、遺跡からの木簡出土の嚆矢とする[2]。スタインは、1907年、1913年-16年の、第2次・第3次探検でも、約900枚の漢代の木簡を発見している(敦煌漢簡)。その後1930年にはエチナ川流域から一挙に1万点以上の大量の木簡が発見された(居延漢簡)。このように、20世紀前半にはヨーロッパ人の中央アジア探検隊が西北辺境で発見したが、後半には中国人自身がで全国から多数発見するようになった[3]。スタインらの発見は極度の乾燥状態で保存されたものだが、後半以降は地中の墓にあって水に漬かった状態や高い湿度のおかげで腐らず残ったものである[4]。発見数は100万点を超えると言われる[5]。
日本で木簡と呼ぶものを中国の考古学では簡牘という。竹に文字を書いた竹簡が主流で、単に簡や簡牘といえば竹簡を指す。気候の関係で竹が生育しない黄河流域以北では木の木簡も広く用いられた。紙が普及しない漢代まで、木簡・竹簡は文書の材料として広く用いられていた。木簡と竹簡の相違は、その用途の相違によるものとも考えられる。つまり、各種の証明書や検・檄・符などの単独簡として用いられる簡には木簡が用いられ、それに対して、書物や簿籍などの編綴簡には竹簡が用いられている、という出土状況から、そのように考えられている。
漢代の一般的な簡牘は長さ一尺(23cm)、皇帝用の簡牘は長さ一尺一寸(25cm)、経書用の簡牘は二尺四寸(55cm)と、用途に応じた定型で作られ、文章が長くなるときにはつづりあわせて冊(編綴簡)にした。
紙が普及しはじめた魏晋の頃には、文書に紙と木が併用された。公式的な長い文書には紙が使われ、特別な儀式を除き簡を束ねて冊を作ることはしなくなった。そのせいで木簡は一枚で完結する文書に用いられることになり、形の規格がなくなった。中国ではふつう木簡の裏に字を書かなかったようである[6]。
著名な木簡発見
- 居延漢簡 - 前述。新疆ウイグル自治区の楼蘭・尼雅やエチナ川流域で発見される。
- 馬圏湾漢簡 - 1979年、敦煌市西北95kmの漢代の烽燧址から出土した、約1200枚の木簡。
- 走馬楼呉簡 - 1996年、長江以南、湖南省長沙市で発見される。三国時代呉の嘉禾年間(232年-237年)の紀年を含む、木簡が数万点、竹簡は約2000点が出土した。その多くは、契約文書類である。
- 敦煌懸泉置木簡 - 敦煌の東方にある、前漢中頃より魏晋代の郵便施設である懸泉置から出土した、20000点余の木簡。
日本の木簡
日本の木簡としては、正倉院の宝物に付けられていた30数点が伝わるほか、1928年に三重県の柚井遺跡で3点、1930年に秋田県の払田柵跡で2点が見つかっていたが、当時はあまり注目されなかった[7]。大量出土は1961年の平城京跡での41点に始まり[8]、以後続々と各地で見つかるようになった。数的に多いのは1996年の平城京東南隅から約1万3千点、1988~1989年の長屋王家木簡と隣接する二条大路木簡があわせて約11万点[9]、長岡京など都からのものである。特に長屋王家木簡の発見で、重要な考古資料として木簡が広く知られるようになった[10]。だが、最近では藤原京より以前の宮都やその周辺の遺跡からも、さらに、国・郡の地方官衙や寺院など全国から出ている[11]。2011年末までに38万点以上が見つかっている[12]。
日本の木簡はほとんどが水に漬かった状態の土の中から発見されている。1960年代から急に発見が多くなったのは、それまで見逃されがちだった土中の木片に注意を払い、調査を緻密にしたためである。木簡点数の多くは削り屑で、削り屑に文字が書かれていなければ木簡ではないが、一字でも字の断片でも墨書があれば木簡として記録する。屑同士が接合すれば複数片をまとめて1点と数えるが、実際には困難なので、削られた断片が数えられることになる[13]。
日本の木簡研究は、木簡を形状と用途の二側面から分類している。形状の分類で奈良国立文化財研究所が平城京木簡の分類に際してとった型式がよく知られているが、他の方法もある。どの方法でも数が多くて目立つのは、短冊形、切りこみつき短冊形、一端を尖らせた短冊型である。大きさに定まった規格はなく、ほとんどは長さ20センチメートルから30センチメートル、幅1.5センチメートルから4センチメートルの範囲に入るが、これとかけ離れた大きさのものもあった。用途別では、文書木簡、付札木簡、その他の三つに分ける[14]。用途と形状は密接にかかわっている。
文書木簡
文書木簡は、7世紀後半から、奈良時代と平安時代の10世紀までを中心に使われた。日本に文字が入ってきたとき、中国では既に紙が普及しつつあり、紙と木簡・竹簡が併用されていた。日本もそれを踏襲し、比較的短い文書についてだけ木簡を使った[17]。すべての文書に紙を使わなかったのは、当時まだ紙が高価だったためでもあるが、簡単に壊れない木の耐久性を活用した面もある[18]。
文書木簡は、役所の間の連絡に使った文書(狭義の文書木簡)と、日常事務の帳票・記録(記録木簡)の二種に大別される。人を召還する文書、飯を請求する文書など短い連絡・請求に用いられる木簡、官吏の人事考課用に一人一枚ずつ作って勤務評定を記した木簡、倉庫の出納を記録した倉札などがある。形は短冊形が多く、記録木簡の中には、板に孔をあけて紐や棒を通したものがある。
7世紀の文書木簡には、宛先である某に対して「某の前で申す」という意味の句から始めるものが目立つ。前白木簡という。目上に対するものだけでなく、対等の関係でもみられる[19]。また、連絡用の文書には日付がほとんどない[20]。声を張り上げて伝えたり宣べたりすることで公式業務がなされた口頭行政が背景にあるかと言われる[21]。書き方は一行にずらずら書き並べ、字配りがない[22]。年を記すときには干支が使われ、元号は使われない。
これに対して8世紀の文書木簡は、差出・宛所、元号日付を字配りよく配置し、官の上下関係により符・移・解といった字を使い分け、書式が整ってくる[23]。大宝元年(701年)制定の大宝令の影響とされる[24]。
付札
付札は物の内容を示すためにつけるもので、切り込みつきか、端を尖らせたものが多い。切り込みがあるのは、紐をそこにかけて板を結び、紐の反対端を荷物に結びつけるのである[25]。日本の木簡では上端に切り込みがあるものがほとんどだが、下のほうに切り込みを入れたものもわずかながらある[26]。尖らせたものは、それを俵や荷物の縄がけに差し込むためと考えられている[27]。。付札には荷物の送り主と宛て先を記す荷札(貢進物付札)と、保管される物に付けておく物品付札があった。
当時は税として中央の役所に納入するものに荷札が付けられており、送り手と内容の情報が定型的に書き込まれ、資料として読み取れる情報量が多い。
その他
その他には習字、落書き、呪符、将棋の駒まで含めた様々な木の板が入る。告知札は立て札のことで、史料に「牓」と書かれるものらしいが、その文が「告知」で始まることからこう呼ばれる。題箋(題箋軸)は紙の巻物の軸に用いる木で、長く突き出した部分に巻物の内容を記した。封緘木簡は、一枚の木を割って二つにしたものに紙の手紙をはさんで紐でしばり、紐の上から「封」の字を書いた上で、宛て先などを記したものである。
製造から廃棄まで
製造
木簡の製造については知られることがないが、何も書かれていない未使用品(または再生済み未使用品)の木簡がまとまって出ることもある。大量に必要とするところでは生産・再生・保管の体制が整えられていたと考えられる。日本の荷札木簡については国(令制国)によって用いられる材が違っていたことが知られている。
再利用
使用済み木簡は、一面を削って再利用された。削って薄くなると最終的に捨てられる。長屋王家では邸内の各部局から出た使用済み木簡を一箇所で回収して再利用していたらしい。裏を使って別の用途にあてることもある。
削り屑はごみとして捨てられるが、何か字が書かれていれば、広義の木簡として数えられる。情報量は少ないが、読み取った語が年代決定に役立ったり、その場所の機能についての手がかりになることもある。
余白を使って字の練習をしたものも多く、この部分に注目すると習書木簡と呼ばれる。情報の価値は多くないが、何らかの句の習書の出典がつきとめられると、その文献が日本に招来されていた時期や普及度を推測する手がかりになる。
便所で尻を拭う籌木に転用されたものもあり、便所遺構から発見される。1992年初め、藤原京跡で土坑を掘っていたときに、黒色の土の中から長さ18センチ、幅1センチ、厚さ0.4センチほどの薄くて細長い板きれが多数見つかった。トイレットペーパーと同じ役割のヘラである。そのヘラに文字が見えるものがあり、使用済みの木簡を転用したことが分かる。[28]
移動と廃棄
木簡は最終的には廃棄され、捨てられた場所で腐蝕を免れたものが考古学資料として掘り出される。
木簡は最初に字が書かれたところから遠く離れた場所で捨てられることがある。荷札木簡が多数見つかるのは藤原京、長岡京、平城京だが、書いたのは全国で貢進物を整えた地方の役人である。
時代変化
木簡の盛期は8世紀末までで[29]、文書木簡は10世紀より後になると見られなくなる。しかし運送する荷につける荷札は引き続き盛行し、やはり前代から見られる呪術のための札、寺社への参詣の印をして配る参篭札、座の一員である証明として今日の身分証明書のように使う札、質権設定を示すために付ける質札など多様な木簡が作られた。木の耐久性を利用したものである。中世に木簡は多く木札と呼ばれた。荷札は近代まで続き、宗教的な札は現代にもあるが、これらが木簡という歴史学・考古学用語で呼ばれることはない。それでも、発掘調査で見つかると、現代のものも木簡として報告されることになる[30]。
朝鮮の木簡
朝鮮では戦前に楽浪付近の墓から木簡が1点発見された。ついで1975年に新羅の王宮、月城の雁鴨池から40点が出土し、三国時代と統一新羅時代の遺跡から多数の木簡が発見されている。2012年頃までの発見数は約700点と少ないが[31]、日本の古代史にも関わる重要な知見が得られている[32]。
日本では7世紀前半の木簡が発見されておらず、数が多くなるのは680年代の天武天皇の時代からだが、朝鮮では7世紀前半から見つかっている。京畿道河南市の二聖山城でみつかった608年の木簡や、慶州市月城垓子から出た木簡の書き方は、日本の前白木簡の起源と考えられる[33]。また従来日本の国字と考えられていた椋(くら)、鎰(かぎ)といった字が朝鮮半島に由来することも出土木簡から判明した[34]。
日本の木簡と形を比較したときに目立つのは、側面にも書いた觚の存在である。四面あるいはそれ以上の面を持つ柱の各面に記したものである[35]。日本の木簡は表と裏に書く板状のものが大半で、棒状のものはごく珍しい。その一つに長大な木に『論語』の一部を記した論語木簡がある。穴埋め問題対策用の試験勉強用具という説がある[36]。
脚注
- ^ 鬼頭清明『木簡』8-9頁。和田萃「木簡は語る」12-13頁。
- ^ 鬼頭清明「木簡と古代史」12頁。
- ^ 大庭脩「中国簡牘研究の現状」。
- ^ 大庭脩「中国簡牘研究の現状」64-65頁。
- ^ 市大樹『飛鳥の木簡』8頁。
- ^ 鬼頭清明「木簡と古代史」10頁。
- ^ 栄原永遠男「三重・柚井遺跡」、同「秋田・払田柵跡」。払田柵跡では1970年にも1点が見つかった。鬼頭清明「木簡と古代史」には払田柵跡で1930年に3点見つかったとある。和田萃「木簡は語る」には1980年代になって柚井遺跡から1点、払田柵で2点が戦前に発見されていたことが1980年代になって判明したとあるが、採らない。
- ^ 考古学者田中琢は小雪がちらつくなか平城宮跡で8世紀のゴミため用の穴を掘って、出土品をバケツのなかで洗っていた時に泥水の中から木片に書いた文字が浮かんだのを見つけた。(田中琢「世界最古のカードシステム」/田中琢・佐原真著『考古学の散歩道』岩波書店〈岩波新書(新赤版)312〉1995年第9版 54ページ)
- ^ 和田萃「木簡は語る」4頁。長屋王家木簡に限ると約3万5千点である(同3頁)。
- ^ 和田萃「木簡は語る」2頁。
- ^ 出土地は秋田県から宮崎県におよんでいる。前掲田中(1995) 54ページ
- ^ 市大樹『飛鳥の木簡』4頁。
- ^ 市大樹『飛鳥の木簡』4頁、8頁。
- ^ 鬼頭清明『木簡』32-33頁。市大樹『飛鳥の木簡』9頁。
- ^ 池田温「中国木簡の特色」28頁。
- ^ 鬼頭清明「木簡と古代史」9頁。池田温「中国木簡の特色」30-31頁。
- ^ 舘野和之「律令制の成立と木簡」324-325頁。
- ^ 市大樹『飛鳥の木簡』10-11頁。
- ^ 鶴見泰寿「七世紀の宮都木簡」306頁。
- ^ 鶴見泰寿「七世紀の宮都木簡」307頁。
- ^ 舘野和之「律令制の成立と木簡」324頁。
- ^ 鐘江宏之「七世紀の地方木簡」、289-291頁。
- ^ 鐘江宏之「七世紀の地方木簡」290-293頁。
- ^ 鐘江宏之「七世紀の地方木簡」292頁。
- ^ 『評制下荷札木簡集成』5頁、44頁。
- ^ 『評制下荷札木簡集成』5頁。
- ^ 『評制下荷札木簡集成』5頁。
- ^ 前掲書田中(1995) 56ページ
- ^ 市大樹『飛鳥の木簡』46頁。
- ^ 徳島県徳島市の観音寺遺跡で、昭和30年代に徳島市立国府小学校で使っていたプールの命札が出土した。和田萃「木簡は語る」14-15頁、市大樹『飛鳥の木簡』4頁。
- ^ 市大樹『飛鳥の木簡』8頁。
- ^ 市大樹『飛鳥の木簡』40-45頁。
- ^ 李成市「東アジアの木簡文化」133-134頁。
- ^ 市大樹『飛鳥の木簡』30-31頁。
- ^ 李成市「東アジアの木簡文化」148頁。
- ^ 李成市「東アジアの木簡文化」139-141頁。
参考文献
- 池田温「中国木簡の特色」、平野邦雄・鈴木靖民・編『木簡が語る古代史』、吉川弘文館、1996年。
- 市大樹『飛鳥の木簡 古代史の新たな解明』、中央公論新社(中央新書)、2012年。
- 今泉隆雄『古代木簡の研究』、吉川弘文館、1998年 ISBN 4-642-02327-5
- 大庭脩「中国簡牘研究の現状」、『木簡研究』創刊号、1979年。
- 大庭脩・編著『木簡 古代からのメッセージ』 大修館書店 1998年 ISBN 4-469-23140-1
- 鐘江宏之「七世紀の地方木簡」、『木簡研究』第20号、1998年。
- 鬼頭清明『木簡の社会史 天平人の日常生活』、講談社(講談社学術文庫)、1997年 ISBN 4-06-159670-5、初版は1984年に河出書房新社より刊)
- 鬼頭清明「木簡と古代史」、平野邦雄・鈴木靖民・編『木簡が語る古代史』、吉川弘文館、1996年。
- 鬼頭清明『木簡』(考古学ライブラリー5)、ニュー・サイエンス社、2004年(初版1990年)。
- 栄原永遠男「三重・柚井遺跡」、『木簡研究』創刊号、1979年。
- 栄原永遠男「秋田・払田柵跡」、『木簡研究』創刊号、1979年。
- 佐藤信『日本古代の宮都と木簡』 吉川弘文館 1997年 ISBN 4-642-02311-9
- 水藤真『木簡・木札が語る中世』 東京堂出版 1995年 ISBN 4-490-20265-2
- 舘野和之「律令制の成立と木簡 七世紀の木簡をめぐって」、『木簡研究』第20号、1998年。
- 鶴見泰寿「七世紀の宮都木簡」、『木簡研究』第20号、1998年。
- 寺崎保広 『古代日本の都城と木簡』 吉川弘文館 2006年 ISBN 4-642-02454-9
- 東野治之 『日本古代木簡の研究』 塙書房 1983年 ISBN 4-827-31007-6
- 冨谷至 『木簡・竹簡の語る中国古代 書記の文化史』 岩波書店(世界歴史選書) 2003年 ISBN 4-00-026846-5
- 原秀三郎「木簡と墨書土器」、『岩波講座日本通史』(第5巻古代4) 1995年 ISBN 4-000-10574-4
- 平川南 『古代地方木簡の研究』 吉川弘文館 2003年 ISBN 4-642-02380-1
- 平野邦雄・鈴木靖民・編『木簡が語る古代史』(上・下) 吉川弘文館 1996年 ISBN 4-642-07492-9
- 文化財研究所・奈良文化財研究所『評制下荷札木簡集成』、東京大学出版会、2006年。
- 李成市「東アジアの木簡文化 伝播の過程を読み解く」、木簡学会・編『木簡から古代がみえる』、岩波書店(岩波新書)、2010年。
- 和田萃「木簡は語る 研究の足跡」、木簡学会・編『木簡から古代がみえる』、岩波書店(岩波新書)、2010年。
関連項目
外部リンク
- 奈良文化財研究所 木簡データベース
- 大庭 脩「漢墓出土の簡牘」『書学書道史研究』第1996巻第6号、書学書道史学会、1996年6月、3-15頁、ISSN 1884-2550、ISSN 1884-2550、2010(平成22年)-08-21閲覧。