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「ジャン・ジロー」の版間の差分

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|名前 = ジャン・ジロー<br />Jean Giraud
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|本名 = ジャン・アンリ・ガストン・ジロー
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{{漫画}}
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'''ジャン・アンリ・ガストン・ジロー'''(Jean Henri Gaston Giraud、[[1938年]][[5月8日]] - [[2012年]][[3月10日]])は、'''メビウス'''(Moebius)のペンネームでも知られる[[フランス]]の[[漫画家]]([[バンドデシネ]]作家)。40年にわたって続けられた[[西部劇]]漫画『[[ブルーベリー (漫画)|ブルーベリー]]』シリーズでは「ジャン・ジロー」(ジル)を、より自由な筆致で[[SF]]・[[ファンタジー]]作品を手がける際には「メビウス」を用いた。特に後者の活動で国際的な名声を得ており、[[エルジェ]]以降もっとも重要なバンドデシネ作家とも言われている<ref>Screech, Matthew. 2005. "A challenge to Convention: Jean Giraud/Gir/Moebius" Chapter 4 in Masters of the ninth art: bandes dessinées and Franco-Belgian identity. Liverpool University Press. pp 95 - 128.</ref>。[[大友克洋]]、[[宮崎駿]]、[[谷口ジロー]]などへの直接的な影響を通じて[[日本の漫画|日本の漫画界]]へも多大な影響を与えた。『[[エイリアン (映画)|エイリアン]]』をはじめとして、多数のSF映画にもデザイナーとして関わっている。
'''ジャン・アンリ・ガストン・ジロー'''(Jean Henri Gaston Giraud、[[1938年]][[5月8日]] - [[2012年]][[3月10日]]<ref>[http://www.europe1.fr/France/Le-dessinateur-et-scenariste-Jean-Giraud-est-mort-E1-983443/ Jean Giraud, alias Moebius, est mort] sur europe1.fr</ref>)は、[[フランス]]の[[漫画家]]。「'''メビウス'''(Moebius)」のペンネームで知られる。「'''ジル'''(Gir)」の名でも呼ばれる。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
=== 若齢期 ===
ジローは、[[1938年]]に[[パリ]]郊外の[[ノジャン=シュル=マルヌ]]で生まれた。16歳の時、ジローはArts Appliqués(応用美術)の独習を開始した。18歳の時に、ジローの漫画作品『Frank et Jeremie』が『Far West』誌に掲載された。[[1961年]]に、ジローは当時のヨーロッパを代表する漫画家であった[[ジジェ]]の許に弟子入りし、『Jerry Spring』の制作に加わった。
[[1938年]]、[[パリ]]郊外の[[ノジャン=シュル=マルヌ]]で生まれる。3歳のときに両親が離婚し、以来[[フォントネー=スー=ボワ]]の母親の家と祖父母の家を行き来しながら育った<ref name=BIO214>原(編)、214頁。</ref>。最初の絵画体験は祖父母の家で見た絵入り雑誌『世界一周』の挿絵であり、インタビューではそのなかでも特に[[ギュスターヴ・ドレ]]の名を挙げている<ref name=BIO214/>。少年時代には[[エルジェ]]、{{仮リンク|ペロ (漫画家)|label=ペロ|fr|René Pellos}}、{{仮リンク|アラン・サン=トガン|label=サン=トガン|fr|Alain Saint-Ogan}}、{{仮リンク|アンドレ・フランカン|fr|André Franquin}}といった作家のバンドデシネのほか、当時フランスでさかんに出版されていたアメリカ、イタリアなどの外国産の作品を多く読み、『[[フラッシュ・ゴードン]]』『[[ザ・ファントム]]』などのアメリカのヒーローものに衝撃を受けている<ref>中里、199-202頁。</ref>。また15歳のときに父に薦められてオプタ社のSF雑誌『フィクション』を読み、これによってSFに興味を持つようになった<ref name=BIO214/>{{refnest|group="注釈"|ジローは自身に影響を与えた書物として、SF作品のほかには[[ボリス・ヴィアン]]、[[ジュリアン・グラック]](『シルトの岸辺』)、[[レーモン・ルーセル]]を挙げている<ref>メビウス、サドゥール、112頁。</ref>。ボリス・ヴィアンの作品には軍隊時代に出会ったという。レーモン・ルーセルについては、作品タイトルや作中の台詞で言葉遊びを多用する傾向などにも影響が現われている<ref>古永、原、208頁。</ref>。そのほか「アポロ」という名のイギリス人による『美術史』のフランス語版に感銘を受けたという<ref name=BIO214/>。}}。のちに「メビウス」の筆名を思いついたのも、『フィクション』誌や同社の『ギャラクシー』誌で[[メビウスの輪]]を題材にしたSF作品を読んだ体験からであった<ref name=SADOUL112116>メビウス、サドゥール、112頁・116頁。</ref>{{refnest|group="注釈"|ジローは「メビウス」の筆名を、「ひとひねりしたBD(バンドデシネ)」というその作風と関連付けて説明している<ref>メビウス、サドゥール、112頁・115頁。</ref>。「バンドデシネ」(bandes dessinées) はもともと「描かれた帯」の意である。また「ひとひねりした」 (tordu) というフランス語には「まともでない、変な」という意味がある<ref>メビウス、サドゥール、123頁(訳注3)。</ref>。}}。


公立学校卒業したジローは、16歳のときに通信制の美術講座エコール・アーベーセーに登録し、その後{{仮リンク|パリ装飾美術学校|fr|École nationale supérieure des arts appliqués et des métiers d'art}}に入学、[[タピスリー]]科に入る<ref name=BIO214/>{{refnest|group="注釈"|ジローははじめビジュアルコミュニケーション、視覚コミュニケーションなどコミュニケーション系の学科を希望していたが、すでに定員に達していて入れなかった<ref name=PIZZOLI0509>{{Cite web |date= 2012年5月9日 |url= http://books.shopro.co.jp/bdfile/2012/05/bd-4.html |title=【BD研究会レポート】メビウス追悼 ダニエル・ピゾリ氏が語るメビウス〔ジャン・ジロー編〕|work= BDfile |publisher= 小学館集英社プロダクション |accessdate= 2012-10-31}}</ref>。}}。在学中の1956年、『ファー・ウェスト』誌に「フランクとジェレミー」が掲載され、以後1958年にかけて『シッティング・ブル』誌、『フリプネとマリゼット』誌、『クール・ヴァイヤン』誌などに[[西部劇|ウェスタンもの]]・ユーモアものの作品を発表した。当時のジローのスタイルはその後に弟子入りする{{仮リンク|ジジェ|fr|Jijé}}の作風に強く影響されたものであった<ref>Giraud, Jean. "Introduction to King of the Buffalo by Jean Giraud". 1989. Moebius 9: Blueberry. Graphitti designs.</ref>。17歳のころ、学校を休学したジローは、再婚して[[メキシコ]]に移住していた母親をたずねて同地を訪れ、ここで8ヶ月間をすごした。19世紀の西部劇の世界がまだ残っていたメキシコ滞在の経験は、ジローの西部劇への興味を強めるとともに、のちの「メビウス」としての作品にも様々な面で影響を及ぼしており、彼の自己形成に重要な意味を持つことになった<ref name=BIO214/><ref>メビウス、浦沢、夏目、30-31頁。</ref>。またメキシコではのちの作家活動において影響を受けることになるアメリカの漫画雑誌『[[MAD (雑誌)|マッド]]』をはじめて目にしている。
[[1962年]]にジローは原作者の[[ジャン・ミシェル・シャルリエ]]と共に、『Pilote』誌で『Fort Navajo』の連載を開始した。この作品は大きな成功を収め、[[1974年]]まで中断されることなく続いた。ジローとシャルリエにより『Fort Navajo』で登場したブルーベリー中尉はたちまち人気キャラクターとなり、ブルーベリー中尉が活躍するスピンオフ西部劇作品『Blueberry』はジローの生地フランスで最も知名度の高いジローの作品となった。フランスにおけるジローの名声は極めて高いものであり、彼を記念する郵便切手が発行されたほどであった。また、ジローは彼の本名とジル(Gir)という筆名で、オークレールやタルディなどの他の作家のために多数の原作を手掛けた。


帰国後の1958年、装飾学校での同窓生であった[[ジャン=クロード・メジエール]]とともに、当時スター作家であったジジェのもとを訪れる。その後兵役について2年半のあいだ[[ドイツ]]と[[アルジェリア]]に滞在<ref name=BIO214/>。在軍中に軍事雑誌『5/5 Forces Françaises』の製作に協力する<ref>{{cite web | title = Jean Giraud | url =http://lambiek.net/artists/g/giraud.htm |work=Comiclopedia |publisher=Lambiek | accessdate=2012-10-27}}</ref>。帰国後の1961年、再びジジェを訪れて彼のアシスタントとなり、ジジェの西部劇作品『ジェリー・スプリング』(『{{仮リンク|ピロット|fr|Pilote (périodique)}}』誌)の1エピソード「コロナド街道」のペン入れを1年ほどのあいだ担当した<ref name=BIO215>原(編)、215頁。</ref>。ジジェのもとでは絵の技術にとどまらず、絵に向き合う描き手としての姿勢といった根本的な部分についても多くを学んだという<ref>原、136頁</ref>{{refnest|group="注釈"|ただし、ジローはジジェの教えをすべて受け入れたわけではない。自然や資料を見て対象を描くように促すジジェに対して、ジローは「物事を内側から描く」自分のスタイルを貫き、しかしそれにも関わらずジジェそっくりの絵を描くことができた<ref name=PIZZOLI0509/>。ジジェはジローが非常に少ない線で絵を描くことに驚き、ジローを「BD(バンドデシネ)の[[アルチュール・ランボー|ランボー]]」と呼んだ<ref>中里、204頁。</ref>。}}。
ジローが[[サイエンス・フィクション|SF]]作品と、[[ファンタジー]]作品のために用いているメビウス(Moebius)というペンネームは、[[1963年]]に生まれた。『Hara-Kiri』と題された風刺雑誌で、ジローはメビウス名義で1963年から[[1964年]]までに21作の漫画を執筆し、その後10年間メビウスの名は行方不明であった。[[1975年]]に、彼自身が創刊者の一人として名を連ねる『[[メタル・ユルラン]]』誌でジローはメビウスとして復帰し、[[1981年]]に『[[アンカル]]』シリーズを、映画監督としても著名な[[アレハンドロ・ホドロフスキー]]の原作で連載開始した。ジローのメビウス名義での代表作である『Le Garage hermétique』シリーズと、革命的な『[[アルザック]]』シリーズも、『メタル・ユルラン』で連載された作品である。


=== 初期「メビウス」と『ブルーベリー』 ===
ジローは多数のSF映画でストーリーボードやデザイン案を手掛けている。[[1982年]]に、ジローは[[ルネ・ラルー]]監督による、[[ステファン・ウル]]の原作小説に基づくSFアニメーション映画『[[時の支配者]](原題: Les Maîtres du temps)』にメビウス名義で参加。公式にクレジットされてはいないが、同年の[[リドリー・スコット]]監督によるSF映画『[[ブレードランナー]]』にも主要キャラクターの衣装デザイナーとして参加している。また、同作品の画期的な「混沌とした未来社会のイメージ」は、ジローの作品からインスパイアされたものであり、ジローが作りだした未来社会のイメージはこの映画を経由して、多くのサブカルチャーに影響を与えた。
ジジェのアシスタントを務めた後、ジローはアシェット社の事典『文明の歴史』の挿絵をメジエールとともに手がけていたが、しだいに漫画を描きたいという気持ちが高まり、過激な風刺雑誌として知られていた『{{仮リンク|ハラキリ (雑誌)|label=ハラキリ|fr|Hara-Kiri (journal)}}』誌 に持ち込みをはじめた<ref name=BIO215/>。1963年、同誌第28号に「21世紀の人間」が掲載され、これによってジローは「メビウス」として新たなデビューを飾った<ref name=BIO215/><ref name=BIB208>古永、原、208頁。</ref>。また前年に『ピロット』誌の中心人物であった{{仮リンク|ジャン=ミシェル・シャルリエ|fr|Jean-Michel Charlier}}と出会っていたジローは、1963年の『ピロット』210号より、シャルリエを原作とするジャン・ジロー名義の{{refnest|group="注釈"|作品自体には「ジル」の署名が使われていたが、出版社の意向で「ジャン・ジロー」の名で出版されることになった<ref>メビウス、サドゥール、116頁。</ref>。}}西部劇作品『ナヴァホ砦』(のち『{{仮リンク|ブルーベリー (漫画)|label=ブルーベリー|fr|Blueberry}}』第1巻となる)の連載を開始した。その後、ジローは『ナヴァホ砦』と平行して『ハラキリ』誌にメビウス名義によるいくつかの短編作品を発表している。当時の「メビウス」の作風はのちのそれとは違い、前述の『マッド』などによるアメリカの[[アンダーグラウンド・コミックス]]の影響を強く受けたものであった<ref name=BIB208/>{{refnest|group="注釈"|特に『マッド』の作家{{仮リンク|ジャック・デイヴィス|en|Jack Davis (cartoonist)}}によく似た絵柄であったが<ref name=PIZZOLI0509/>、ジロー自身は同誌の作家ではデイヴィスよりも{{仮リンク|ウィル・エルダー|en|Will Elder}}からの影響を強調している<ref name=SADOUL112116/>。}}。しかし1964年、「メビウス」としての創作が行き詰まり(インタビューでは「ある日突然、まったく一本の線すら描けなくなってしまった」と述べている<ref name=SADOUL113>メビウス、サドゥール、113頁。</ref>)、『ハラキリ』創刊者でもあった{{仮リンク|フランソワ・カヴァナ|fr|Francois Cavanna}}に恫喝まがいの言葉で引き止められながらもやむなく「メビウス」としての活動を一切やめ<ref name=SADOUL113/>、以後10年の間「ジャン・ジロー」としての仕事に没頭することになった。


1965年に第一巻『ナヴァホ砦』が刊行された『ブルーベリー』シリーズは、すでに雑誌掲載中から人気を博しており、やがてバンドデシネのウェスタンものを代表する作品のひとつとなっていった<ref>原、134頁。</ref>。このシリーズは[[南北戦争]]直後を時代背景として、複雑な過去をもつ北軍の中尉ブルーベリーの様々な冒険を描いてゆくもので、「メビウス」のそれとは違い伝統的なコミックの技法に則って描かれている<ref name=SADOUL113/><ref name=ONO57>小野、57頁。</ref>。当初その作風は師匠のジジェに強く影響されたものであり、そのためジローが『ブルーベリー』第4作「行方知れずの騎兵」を執筆中に一時アメリカに失踪したときには、ジジェがその代筆を行うことが可能であった<ref>Jean-Marc Lofficier. 1989. "The Past Master", in Moebius 5: Blueberry. Graphitti designs.</ref>。しかしやがて画風、コマ割りの試行錯誤を経て独自の作風を獲得してゆき<ref>原、139頁-143頁。</ref>、のち「メビウス」としての活動を再開してからも続けられ、様々な作風の変化を経ながら40年もの間描き継がれる長期シリーズとなった。巻数は28巻(2005年)におよび、さらに『ブルーベリーの青春時代』『保安官ブルーベリー』の2作のスピンオフシリーズも制作された。
[[1988年]]には、[[スタン・リー]]と共に、[[アメリカン・コミック]]のキャラクターである[[シルバーサーファー]]が登場する上下編の特別作品を執筆した。映画『[[クリムゾン・タイド]]』の劇中では、[[デンゼル・ワシントン]]演じるロン・ハンター少佐により、ジローのサーファーは[[ジャック・カービー]]によるサーファーとは別物であると、やや悪意を込めて言及される(この場面はクレジットに表記されていない[[クエンティン・タランティーノ]]により執筆された)。ジローは[[宮崎駿]]の友人としても知られている。彼ら2人は、[[2004年]]12月から翌年3月まで、[[パリ造幣局]]で両者の作品の展示会を共同で開催した。


=== 「メビウス」の再開と映画との関わり ===
[[2007年]]の時点で、ジローはジャン・ヴァン・アムの原作による『La Version irlandaise』と題された『XIII』シリーズのエピソードを執筆中である。ジローによる『XIII』の新刊は、通常のヴァン・アム作、ウィリアム・ヴァンス画による『Le Dernier Round』と共に、2007年11月に発行が予定されている{{要出典|date=2008年5月}}。
「メビウス」名義での活動再開の端緒となったものは、1973年に『ピロット』誌に掲載された短編作品「まわり道」であった。「まわり道」はジル名義で署名されているものの、超現実的なプロットや細密なハッチング、自由奔放なコマ割りなど、『ブルーベリー』の伝統的な技法からの大きな逸脱が見られ<ref>古永、原、207頁。</ref>、ジロー自身によってもその後の「メビウス」としての活動再開の出発点に位置づけられている<ref name=HARA144>原、144頁。</ref>{{refnest|group="注釈"|ただし、漫画以外では1969年にオプタ社の挿絵をメビウス名義で手がけていた時期がある<ref name=BIO215/>。この頃のメビウスの細密画風の絵には、[[ヴァージル・フィンレイ]]などのアメリカのSF挿絵画家の影響が色濃く表れている<ref name=PIZZOLI0509/>。またメビウスは後述の『巨根男』もフィンレイの影響のもとで描かれていると述べている<ref name=FURUNAGA152153>古永、152-153頁。</ref>。}}。翌年には同誌でメビウス名義による「白い悪夢」を掲載し、また同年刊行された『巨根男(バンダール・フー)』では、見開きの左では一枚絵で、右ではコマ割り漫画で別々の物語を展開させる実験的な構成を試みている<ref name=FURUNAGA152153/>。さらにこの年、ジャン=ピエール=デュオネ、{{仮リンク|フィリップ・ドリュイエ|fr|Philippe Druille}}{{refnest|group="注釈"|『アルザック』を含め、『メタル・ユルラン』創刊当時のメビウスの作風はドリュイエの影響を強く受けている<ref name=PIZZOLI0530>{{Cite web |date= 2012年5月30日 |url= http://books.shopro.co.jp/bdfile/2012/05/bd-6.html |title= 【BD研究会レポート】メビウス追悼 ダニエル・ピゾリ氏が語るメビウス〔質疑応答編〕|work= BDfile |publisher= 小学館集英社プロダクション |accessdate= 2012-10-30}} </ref>。}}、ベルナール・ファルカスと共同でレ・ジュマイノイド・アソシエを設立し、12月に同社より娯楽雑誌『[[メタル・ユルラン]]』誌を創刊した。ジローは創刊号より、翼竜に乗って異世界を旅する男の物語を『[[アルザック]]』を掲載している。この作品は台詞や擬音を一切廃した、当時としては珍しいサイレント形式が取られており、当時技術的に可能となった絵に直接彩色する方法で作られたこともあって、当時のバンドデシネ界に衝撃をもって迎えられた<ref name=PIZZOLI0516>{{Cite web |date= 2012年5月16日 |url= http://books.shopro.co.jp/bdfile/2012/05/bd-5.html |title=【BD研究会レポート】メビウス追悼 ダニエル・ピゾリ氏が語るメビウス〔メビウス編〕|work= BDfile |publisher= 小学館集英社プロダクション |accessdate= 2012-10-31}}</ref>。。SF色の強い『メタル・ユルラン』は以後「メビウス」名義での活動拠点となり、1976年には『ブルーベリー』と双璧をなす<ref name=ONO57/>メビウスのSFシリーズ『{{仮リンク|密封されたガレージ|fr|Le Garage Hermétique}}』の掲載も始まった。『メタル・ユルラン』は1977年からはアメリカ合衆国で『ヘヴィ・メタル』として翻訳刊行もされており、メビウス作品をアメリカに紹介する役割も担った<ref>小田切、89頁-90頁。</ref>。


1975年、ジローは映画監督[[アレハンドロ・ホドロフスキー]]と出会い、ホドロフスキーが当時手がけていた映画『デューン』の製作に関わるために訪米した。『デューン』の企画は結局頓挫したが(その後『[[デューン/砂の惑星|デューン]]』は[[デイヴィッド・リンチ]]監督で1984年に公開された)、ジローはその後『猫の目』(1978年)やSFシリーズ『[[アンカル]]』(1981年-1988年、いずれもメビウス名義)などホドロフスキーを原作とする作品を手がけている。ジローは師匠と呼ぶほどホドロフスキーの人間性に傾倒し、一時期彼の存在はジローの精神的支柱となっていた<ref>古永、126頁-127頁。</ref>{{refnest|group="注釈"|ジローは宗教団体ISO-ZENに入り1978年から1986年までのあいだ[[タヒチ]]にある教団の芸術家村で生活をしていたが、入信のきっかけはホドロフスキーとの交流で無意識の世界に興味を持ったことであった<ref>古永、138頁-139頁。</ref>。後には{{仮リンク|アンスティンクトセラピー|en|Anopsology}}にも入信している。いずれも家族を引き連れての入信であったが、その後こうした新興宗教団体とは距離を置くようになった<ref name=PIZZOLI0530/>。}}。また『デューン』に関わる過程で脚本家の[[ダン・オバノン]]と知り合い<ref>Scanlon, Paul; Michael Cross (1979). The Book of Alien. London: Titan Books. </ref>、1976年にはオバノンを原作とする、近未来を舞台にした探偵漫画「ロング・トゥモロー」を『メタル・ユルラン』に掲載した。この作品は[[ウィリアム・ギブソン]]の初期作品やリドリー・スコット監督のSF映画『[[ブレードランナー]]』のヴィジュアルに影響を与えた作品としても知られている<ref>小田切、93頁。</ref><ref>古永、原、212頁。</ref>。1979年にはオバノンが脚本を書いた映画『[[エイリアン (映画)|エイリアン]]』にデザイナーとして関わり、以降『[[トロン]]』(1982年)『[[アビス]]』(1989年)『[[フィフス・エレメント]]』(1997年)といった様々なSF映画のコンセプトデザインを手がけていくこととなった。映像作品では他に、1982年の[[ルネ・ラルー]]監督によるSFアニメーション映画『[[時の支配者]]』に原画、彩色、脚本などで参加し、同年のファンタフェスティバル・最優秀児童映画賞をラルー監督とともに受けているほか、[[ウィンザー・マッケイ]]の『[[リトル・ニモ]]』を原作とする1989年の日本製アニメ映画『ニモ/NEMO』の企画にも関わっている。2002年には『アルザック』を自身の手でTVアニメーション化した(『アルザック・ラプソディ』)。
ジローと宮崎は互いのファンであり、長年の親交を保っている。宮崎はジローがメビウス名義で発表した『アルザック』から多大な影響を受けたと語っている。ジローは『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』にちなんで、長女をナウシカ(Nausicaä)と名付けている<ref>{{ citation
| title=Miyazaki Moebius : coup d'envoi
| first=Julie
| last=Bordenave
| url=http://www.animeland.com/index.php?rub=articles&id=618
| publisher=AnimeLand.com
| accessdate=2008-05-18
}}</ref><ref>{{ citation
| title=美術館日誌 2002年08月01日 (木)
| editor=三鷹の森ジブリ美術館
| url=http://www.ghibli-museum.jp/diary/004624.html
| publisher=徳間記念アニメーション文化財団
| accessdate=2008-05-18
}}</ref>。2004年にはパリで共同展示会を開催した。


『アンカル』以降のメビウスの作品には、もともと[[シトロエン]]の広告企画だったものが長編SFへと発展した『[[エデナの世界]]』(1985年-2001年)などがある。1988年から1989年にかけて、メビウスは[[スタン・リー]]を原作として、アメリカのヒーローコミック『[[シルバーサーファー]]』のミニシリーズ2冊を手がけた。この作品は[[マーベル・コミック]]社からEpic Comicsのインプリントで刊行され、のち『Silver Surfer: Parable』としてまとめられている<ref group="注釈">[[トニー・スコット]]監督の映画『[[クリムゾン・タイド]]』(1995年)には、[[デンゼル・ワシントン]]が演じるロン・ハンター少佐が、ジローのサーファーは[[ジャック・カービー]]によるサーファーとは別物であると言及するシーンがある。</ref>。メビウスはこの作品で1989年度の[[アイズナー賞]]の限定シリーズ部門を受賞した。1997年には日本の漫画家[[谷口ジロー]]の作画による『イカル』を『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』誌に連載している。この作品は12回の連載で第一部が完結したが、同誌の編集長が代わったため再開されないまま終わってしまった<ref>小野、69頁。</ref>。
[[菜食主義者]]であり、みんなで食事をするときも一人離れて食べていたという<ref>[[大塚康生]]『作画汗まみれ』</ref>。


=== 晩年の活動と死去 ===
[[2012年]][[3月10日]]、長い闘病生活の末に逝去<ref>[http://www.lefigaro.fr/culture/2012/03/10/03004-20120310ARTFIG00384-jean-giraud-un-geant-du-9e-art-s-en-est-alle.php Jean Giraud : un géant du 9e art s'en est allé] Le Figaro 2012-3-10</ref>。{{没年齢|1938|5|8|2012|3|10}}。
2000年から2010年にかけて、ジローは「ジャン・ジロー=メビウス」の名義で『インサイド・メビウス』シリーズを執筆した。この作品はジローの内面的な世界を扱った一種の自伝作品であり、作者自身がキャラクターとして登場し、青年時代の自分と対話を行ったり、ブルーベリー中尉(『ブルーベリー』)、アルザック(『アルザック』)、グリュベール少佐(『密封されたガレージ』)などの過去作品の登場人物たちと対話を繰り広げるといった自由な展開を見せている。晩年にはほかに『密封されたガレージ』の新作執筆(2008年)や『アルザック』の新たなシリーズの企画したり(3部作が予定されていたが、死去によって2010年の最初の1冊のみで終わった)、ジャン・ジロー名義で{{仮リンク|ジャン・ヴァン・アム|fr|Jean Van Hamme}}原作の『{{仮リンク|XIII (漫画)|label=XIII|fr|XIII (bande dessinée)}}』シリーズの1作『La Version Irlandaise』(アイルランド・ヴァージョン、2007年)を手がけるなどしている。

[[2012年]][[3月10日]]、ジャン・ジロー=メビウスは長い闘病生活の末にパリにおいて73歳で死去した<ref>{{Cite web |author= Hamel, Ian |date= March 10, 2012 |url= http://www.lepoint.fr/culture/deces-a-paris-du-dessinateur-et-scenariste-de-bd-moebius-10-03-2012-1439874_3.php |title= Décès à Paris du dessinateur et scénariste de BD Moebius |publisher= Le Point.fr. |accessdate=2012-10-28}}</ref><ref>{{Cite web |author= Connelly, Brendon |date= March 10, 2012 |url= http://www.bleedingcool.com/2012/03/10/moebius-aka-jean-girard-aka-gir-has-passed-away/|title= Moebius, aka Jean Girard, aka Gir, Has Passed Away |publisher= Bleeding Cool|accessdate=2012-10-28}}</ref><ref>{{Cite web |author= |date= March 9, 2012 |url= http://www.liberation.fr/culture/01012395155-jean-giraud-alias-moebius-pere-de-blueberry-s-efface |title= Jean Giraud alias Moebius, père de Blueberry, s'efface |publisher= Libération |accessdate= 2012-10-28}}</ref><ref>{{Cite web |date= March 10, 2012 |url= http://www.euronews.com/2012/03/10/french-master-of-comics-artist-moebius-dies/ |title= French ‘master of comics’ artist Moebius dies |publisher= euronews.com. |accessdate=2012-10-28}}</ref>。直接の死因は[[悪性リンパ腫]]による[[肺塞栓症]]である。同3月15日、[[モンパルナス墓地]]に埋葬された<ref>{{Cite web |date= |url= http://www.francesoir.fr/loisirs/culture/l-enterrement-de-jean-giraud-alias-moebius-aura-lieu-a-paris-le-15-mars-195806.html| title= L’enterrement de Jean Giraud, alias Moebius, aura lieu à Paris le 15 mars |publisher= Frencesoir.fr. |accessdate= 2012-10-28}}</ref>。フランスの文化相[[フレデリック・ミッテラン]]は、フランスはジローとメビウスという、二人の偉大なアーティストを同時に失ったと追悼コメントを述べている<ref>{{Cite web |date= March 11, 2012 |url= http://www.thejakartaglobe.com/afp/comic-book-artist-moebius-dies/503864 |title= Comic book artist Moebius dies |publisher= Jakarta Globe |accessdate=2012-10-28}}</ref>。日本でも[[大友克洋]]、[[浦沢直樹]]、[[谷口ジロー]]らの追悼コメントが各紙誌に掲載された<ref name=EUR55>『Euromanga』7号、55頁。</ref>。

== 作風 ==
[[File:Jean Giraud 20080706 Japan Expo 02.jpg|thumb|170px|グリュベール少佐を描くメビウス(ジャパン・エキスポ2008(パリ))]]
ジローは「ジャン・ジロー」(ジル)と「メビウス」という筆名だけでなく、両者で作風を使い分けており、ジロー自身はその違いを筆とペン、[[ディキシーランド・ジャズ|ニューオリンズ・ジャズ]]と[[ビ・バップ]]というふうに様々な言葉で説明していた<ref name=HARA144/>。「ジャン・ジロー」名義で書かれた『ブルーベリー』シリーズは総じて伝統的で厳密なスタイルが取られている<ref name=SADOUL113/>。すなわち、[[リアリズム]]の規範のもと、鉛筆でしっかりと下書きをしたうえで、筆のタッチを生かし入念に仕上げられている<ref name=SADOUL114>メビウス、サドゥール、114頁。</ref><ref>原、144頁-145頁。</ref><ref name=ONO57/>。一方「メビウス」はより自発的、即興的な創作方法が取られている<ref>メビウス、サドゥール、121頁。</ref><ref>原、145頁。</ref><ref name=PIZZOLI0516/>。画材はペンや[[ロットリング]]が主体となり<ref>小野、58頁。</ref><ref name=PIZZOLI0516/>、速写、素早さがその特徴となる<ref name=SADOUL114/>。1960年代、ジローは「メビウス」としての仕事をいったん打ち切って10年ほどの間『ブルーベリー』に専念するが、これが「文体練習」となってのちの「メビウス」の活動を支えることになった<ref name=SADOUL113/>。ただし40年つづいている『ブルーベリー』シリーズは絵柄の変化も大きく、時期によっては「メビウス」の特徴が出ていたりすることもある<ref>原、140頁-145頁。</ref>。

「メビウス」の画風は細密画風のものと簡略化されたものとに大別されるが<ref>古永、150頁。</ref>、おおむね均一でニュートラルな描線<ref>竹川、152-153頁。</ref>、[[ハッチング]]や点描<ref>原、140頁-141頁。</ref>、独特の浮遊感<ref name=TANI186>谷口、寺田、186頁。</ref>などによって特徴付けられており、日本ではその特徴的な陰影の線は「メビウス線」とも呼ばれている(後述するように[[手塚治虫]]が用いていた言葉である)。スケッチ集『B砂漠の40日間』や『インサイド・メビウス』では下書きをせず、はじめからインクで描く試みも行っている<ref>小野、62頁。</ref><ref>古永、241頁。</ref>。晩年には[[ペンタブレット]]も用いた<ref name=PIZZOLI0516/>。よく使用されるモチーフには砂漠<ref>小野、62 -63頁。</ref>、鉱物・結晶<ref>竹川、155-156頁。</ref>、飛行や落下<ref>竹川、156頁。</ref>、縦長の帽子をかぶった人物<ref>竹川、149頁。</ref>といったものがある。そのような「メビウスらしさ」を持ち続ける一方で、メビウスは常にさまざまな影響を受け続け、新しいものを取り入れながら変化していく作家でもあった<ref name=PIZZOLI0516/><ref name=PIZZOLI0530/>。このため、作品におけるスタイルの不統一性もメビウスの特徴となっている<ref name=HARA139>原、139頁。</ref>。たとえば『密封されたガレージ』では、即興的な方法が取られていることもあって主人公や脇役の顔、服装などがしょっちゅう変化しており<ref>谷口、寺田、180頁。</ref>、ジャン・ジロー名義の『ブルーベリー』にもスタイルの不統一性の特徴が顔を出している<ref name=HARA139/>。同じ絵の中ですらスタイルが変わることもあった<ref>原、147頁(脚注16)。</ref><ref name=PIZZOLI0516/>。

== 日本の漫画との関係 ==
=== 日本の漫画への影響 ===
<!--日本への影響関係については「メビウス」が主体となるので以降は「メビウス」を基本として表記している-->
日本でのメビウスの本格的な紹介は1979年からはじまるが、それ以前に洋書から独自にメビウスを発見し影響を受けていたのが[[谷口ジロー]]であり、これが日本におけるメビウス受容の始まりである<ref name=TANAKA71>田中、71頁。</ref>。谷口はまず1974年ごろ、友人から借りたフランスの特集雑誌『GRAPHIS=159』に掲載されていた『ブルーベリー』のページを見てジャン・ジローの作品(特にベタの使い方<ref>谷口、寺田、177頁</ref>)にほれ込み、自身のテキストとするためにフランスの出版社へ作品を注文した<ref name=TANAKA71/>。1975年に『メタル・ユルラン』が創刊されるとそれも定期購読し<ref>小野、69頁。</ref>、ジャン・ジロー作品と、メビウス作品の特に探偵ものに大きな影響を受けることになった<ref name=TANI186/>{{refnest|group="注釈"|谷口の作品『事件屋稼業』のキャラクターはメビウスの短編から取られている<ref>谷口、寺田、178頁。</ref>。谷口はジャン・ジロー/メビウスをはじめとして[[フランソワ・スクイテン]]、[[ポール・ジロン]]、[[エンキ・ビラル]]、[[パラシオス]]、[[ミッシェル・クレスピ]]らバンドデシネ作家から多くの影響を受けたが、その後独自の画風を確立し、また題材もSFや探偵ものから私小説的な世界を中心とするようになった。谷口の作品はフランスをはじめ海外で多数翻訳されて高い評価を受けており、特に『歩くひと』(1990年)のフランス語版はメビウスの目にとまり、これがきっかけで『イカル』での共作が実現することになった<ref>田中、72頁-73頁。</ref>。}}(なお、谷口のほかにジャン・ジローの『ブルーベリー』から影響を受けている日本の漫画家に[[バロン吉元]]がいる<ref>小野、66頁。</ref>)。また[[藤原カムイ]]は1977年に洋書売り場で『アルザック』を立ち読みして衝撃を受け、この作品のイメージをもとに短編「趨向」を描いた。以後藤原は『彼方へ』(1978年-1984年)の連作をはじめとしてメビウスのタッチやモチーフを採用した作品をいくつか発表しており、谷口についで最初期にメビウスに影響を受けた作家である<ref>田中、71頁-72頁。</ref>。

1979年にはSF・漫画雑誌『[[スターログ]]』3月号でメビウスの「バラッド」が掲載され、また『[[S-Fマガジン]]』3月号でもメビウスを絵付きで詳しく紹介した。[[浦沢直樹]]、[[とり・みき]]、[[寺田克也]]、[[吉井宏]]などはこの両誌の特集のいずれかまたは両方でメビウスを知り影響を受けている<ref>田中、74頁。</ref>。『スターログ』はその後も80年代の前半までメビウスの紹介を続け、1982年に国際SFアート大賞を設けたときにはメビウスを海外審査員として参加させた。また第一回国際SFアート大賞展では、まだ劇場未公開であった『時の支配者』を西武百貨店で上映した。これに伴って初来日したメビウスはファンたちに熱狂的に迎えられている。一方で80年代に行われた代表作『アンカル』の翻訳は6巻中1巻のみで終わるなど、その受容は一部の漫画家やマニアに留まり一般層までには行き着かなかった<ref>田中、74頁-75頁。</ref>。

メビウスの影響を受けた作家として特に言及されることが多いのが、「日本のメビウス」とも言われた[[大友克洋]]である<ref name=TANAKA77>田中、75頁。</ref>。谷口や藤原と違い、大友はもともとメビウスに近い資質を持っており、当時日本の漫画において優勢であった[[劇画]]の作風からの脱却を目指す過程でメビウスの作品と出会い、より一層洗練されたスタイルを身に付けていった<ref>田中、77頁。</ref><ref>竹熊、81頁-85頁。</ref>。大友の作品は「大友以前、大友以後」([[米澤嘉博]])と言われるほど80年代-90年代の日本の漫画界に大きな影響力を持ち、メビウスと同時に大友の影響を受けた作家、大友を介してメビウスの影響を受けた作家も多いため、日本におけるメビウスの影響の度合いが測りにくい原因ともなっている<ref>田中、75頁-76頁。</ref>。

晩年の[[手塚治虫]]も、メビウスの特徴的な陰影の線を「メビウス線」と名づけて自作に用い、『[[陽だまりの樹]]』では、短い線を繰り返して陰影をつけた雲を「メビウスの雲」と呼んでアシスタントへの指示に使用するなどして影響を受けている<ref>メビウス、浦沢、夏目、37頁-38頁。</ref>。手塚は1982年の[[アングレーム国際漫画祭|アングレーム国際バンドデシネフェスティバル]]でメビウスと出会っており、早い時期からメビウスと大友の比較も行っている<ref name=TANAKA77/>。また[[宮崎駿]]は、1980年に『アルザック』を読んで大きな衝撃を受け「強烈な影響」を受けたと述べている<ref name=EUR55/>。すでに自身の画風が固まってしまっていたためにその影響を絵に生かすことはできなかったが、アニメ『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』はメビウスの影響の下で制作されているという<ref>{{Cite web|url= http://www.nausicaa.net/miyazaki/interviews/miyazaki_moebious.html |title= A talk between Hayao Miyazaki and Moebius |work= The Hayao Miyazaki Web |accessdate=2012-10-30}}</ref><ref>{{Cite web |author= Andy Khouri |date= March 10, 2012 |url= http://www.comicsalliance.com/2012/03/10/jean-moebius-giraud-dies-age-73/ |title= R.I.P. Jean 'Moebius' Giraud (1938-2012) |publisher= AOL |work= COMICS ALLIANCE |accessdate=2012-10-30}}</ref>。メビウスから直接的な影響を受けた作家には、他に[[松本大洋]]、[[小池桂一]]、[[湊谷夢吉]]、[[たむらしげる]]などがいる<ref>田中、70頁。</ref>。

=== 日本の漫画からの影響 ===
メビウスは日本の漫画家に多大な影響を与える一方で、日本の漫画表現に感銘を受け影響を受けてもいる。1982年に手塚の案内で京都に来たときには、手塚のアニメ『[[火の鳥2772]]』を見てショックを受け、手塚の作品量の多さに驚いている。このとき日本の漫画専門店にも回っており、当時フランスではほとんど知られていなかった日本の漫画表現に衝撃を受け、以後数年の間ヨーロッパで日本の漫画の重要性を問いて回っていた。また手塚のスタジオを見せてもらったことで、会社の重要性に対する認識が変わったという<ref>メビウス、浦沢、夏目、39頁。</ref><ref>小野、60頁。</ref>。この来日体験はまた、メビウスに東洋美術・東洋思想からの強い影響を与えることにもなった<ref name=PIZZOLI0530/>。

自身が強い影響を与えている大友克洋についても早くから注目しており、大友がまだ代表作『[[AKIRA]]』を描きはじめる前から大友の漫画を購入し「まるで学生に戻ったかのように」大友の絵の描き方を研究している<ref>メビウス、浦沢、夏目、39頁-40頁。</ref>。メビウスの『[[エデナの世界]]』にも、大友の『AKIRA』からの強い影響を見て取ることができる<ref name=PIZZOLI0530/>。またメビウスはやはり自身が影響を与えた宮崎駿のファンでもあり、自身の娘に宮崎の『風の谷のナウシカ』にちなんでノウシカ(Nausicaä)と名づけている<ref>小野、56頁。</ref>。2004年にはパリ造幣局で宮崎との共同展示会「MIYAZAKI/MOEBIUS」を開催した<ref name=EUR55/>。


== 主要作品 ==
== 主要作品 ==
=== 著作 ===
* 『ブルーベリー』シリーズ ''Blueberry'' (1963年 - )
==== シリーズ ====
* 『[[アルザック]]』 ''Arzach'' (1976年、メビウス名義)
* [[ブルーベリー (漫画)|ブルーベリー]](''Blueberry''、ジャン=ミシェル・シャルリエ原作、1963年-2005年、29巻)ジャン・ジロー名義
* ''Le Garage Hermétique de Jerry Cornelius'' (1976年 - 1980年、メビウス名義)
* [[アンカル]]』シリーズ ''L'Incal'' (1981 - 1988年、メビウス名義
* [[密封されたガレージ]]''Le Garage Hermétique de Jerry Cornelius''、1976年-2008年、4巻)メビウス名義
* ''Le Monde d'Edena'' (1985 - 2001年、メビウス名義
* [[アンカル]](''L'Incal''、[[アレハンドロ・ホドロフスキー]]原作、1981年-1988年、6巻)メビウス名義
* 『シルバーサーファー:パラブル』 ''Silver Surfer: Parable'' (1988 - 1989年、メビウス名義
* [[エデナの世界]](''Le Monde d'Edena''、1985年-2001年、5巻)メビウス名義
* [[B砂漠の40日間]]''40 days dans le desert'' (1999年、メビウス名義
* [[インサイド・メビウス]]''Inside Moebius''、2000年-2010年、6巻)ジャン・ジロー=メビウス名義
* ''Halo Graphic Novel'' (2006年)


=== 映画作品 ===
==== 単巻 ====
特記のない限りメビウス名義
* 『[[エイリアン (映画)|エイリアン]]』(1979年、初期コンセプトおよびノストロモ号の宇宙服デザイン)
* 巨根男(''Le Bandard fou''、1974年)
* 『[[時の支配者]]』(1982年、美術デザイン)
* [[アルザック]](''Arzach''、1976年)
* 『[[トロン (映画)|トロン]]』(1982年、舞台およびコスチュームデザイン)
* 猫の目(''Les Yeux du Chat''、アレハンドロ・ホドロフスキー原作、1978年)
* ''Masters of the Universe'' (1987年、舞台およびキャラクターデザイン)
* シルバーサーファー:パラブル(''Silver Surfer: Parable''、[[スタン・リー]]原作、1988年-1989年)
* 『[[ウィロー]]』(1988年、クリーチャーデザインおよびストーリーボード)
* [[B砂漠の40日間]](''40 days dans le desert''、ドローイング集、1999年)
* 『[[アビス]]』(1989年)
* 『[[リトル・ニモ]]』(1989年、脚本)
* 『[[フィフス・エレメント]]』(1997年、デザイン)


=== ビデオゲーム ===
==== 短編集 ====
特記のない限りメビウス名義
* 『[[パンツァードラグーン]]』(1995年)
* ジョン・ウォーターカラーの殺人外套(''John Watercolor et sa redingote qui tue !''、1976年)
* 人間はおいしいか?(''L’homme est-il bon ?''、1977年)
* 世界殺害者(''Tueur de monde''、1979年)
* 盲目の神殿(''La Citadelle aveugle''、1989年)
* ファラゴネシアへの寄港(''Escale sur Pharagonescia''、1989年)
* ロング・トゥモロー(''The Long Tomorrow''、1989年)


=== アニメーション ===
=== 映像作品 ===
==== 実写映画 ====
* 『[http://columbia.jp/dvd/titles/moebius/ アルザック・ラプソディ]』(2002年、メビウス名義、監督)
* [[エイリアン (映画)|エイリアン]]([[リドリー・スコット]]監督、1979年) - 初期コンセプトおよびノストロモ号の宇宙服デザイン
* [[トロン (映画)|トロン]]([[スティーブン・リズバーガー]]監督、1982年) - 舞台およびコスチュームデザイン
* [[マスターズ/超空の覇者]] ([[ゲイリー・ゴダード]]監督、1987年) - 舞台およびキャラクターデザイン
* [[ウィロー]]([[ロン・ハワード]]監督、1988年) - クリーチャーデザインおよびストーリーボード
* [[アビス]]([[ジェームズ・キャメロン]]監督、1989年) - コンセプトデザイン
* [[白い悪夢]]([[マチュー・カソヴィッツ]]監督、1991年) - 原作
* [[フィフス・エレメント]]([[リュック・ベッソン]]監督、1997年) - コンセプトデザイン
* [[ブルーベリー (映画)|ブルーベリー]]([[ヤン・クーネン]]監督、[[2004年]]) - 原作


==== アニメーション ====
== 参考文献 ==
* [[時の支配者]](アニメ映画、[[ルネ・ラルー]]監督、1982年) - 原画、彩色、脚本
{{reflist}}
* [[ニモ/NEMO]](アニメ映画、[[波多正美]]、[[ウィリアム・T・ハーツ]]監督、1989年) - 脚本
* アルザック・ラプソディ(TVアニメーション、2002年) - 監督
* メビウスの帯を抜けて(3Dアニメ映画、 Glenn Chaika、Kelvin Lee監督、2005年) - 原案


== 関連項目 ==
== 主な受賞 ==
* 1975年:イエロー・キッド賞(イタリア)最優秀海外アーティスト
* [[バンド・デシネ]]
* 1977年:[[アングレーム国際漫画祭|アングレーム国際バンドデシネフェスティバル]] ベスト・フレンチ・アーティスト
* [[宮崎駿]]
* 1979年:アダムソン賞(スウェーデン) - 『ブルーベリー』他
* [[谷口ジロー]] - 谷口の漫画作品『イカル』では、ジローがメビウス名義で原作を務めた。名前が共にジローなのは偶然。
* 1980年:イエロー・キッド賞 最優秀海外アーティスト
* [[大友克洋]] - ジローから多大な影響を受けている。
* 1980年:フランスSFグランプリ特別賞 - 『運命の少佐』(『密封されたガレージ』第一巻)
* 1981年:[[アングレーム国際漫画祭 グランプリ|アングレーム国際バンドデシネフェスティバル グランプリ]]
* 1985年:アングレーム国際バンドデシネフェスティバル 美術部門グランプリ
* 1986年:インクポット賞
* 1988年:[[ハーヴェイ賞]](アメリカ合衆国) 最優秀翻訳作品 - 『メビウス・アルバム』シリーズ
* 1989年:[[アイズナー賞]](アメリカ合衆国) シリーズ部門 - 『シルバーサーファー』
* 1989年:ハーヴェイ賞 最優秀翻訳作品 - 『アンカル』
* 1991年:アイズナー賞 単巻部門 - 『コンクリート』
* 1991年:ハーヴェイ賞 最優秀翻訳作品 - 『ブルーベリー』
* 1997年:[[世界幻想文学大賞]] 芸術家部門
* 1997年:ハーヴェイ賞 ジャック・カーヴィの殿堂
* 1998年:アイズナー賞 殿堂
* 2000年:マックスとモーリッツ賞 特別賞 - 「全作品」

== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references group="注釈"/>

=== 参照 ===
{{reflist|2}}

== 参考文献 ==
*『ユリイカ 詩と批評』 2009年7月号(特集・メビウスと日本マンガ)、青土社。以下を収録(参照したもののみ)
**メビウス、[[浦沢直樹]]、[[夏目房之介]] 「メビウス∞描線がつなぐヨーロッパと日本」 29-46頁
**[[小野耕世]] 「ジャン・ジロー=メビウスとの会話」 52-69頁
**[[田中秀臣]] 「静かな革命」 70-79頁
**[[竹熊健太郎]] 「翼よ、あれが日本のマンガだ。」 80-87頁
**小田切博 「ポップ、メビウス、アメリカ」 88-93頁
**メビウス、ヌマ・サドゥール 「メビウスとの対話」 古永真一訳 112-124頁
**[[原正人]] 「『ブルーベリー』とはなにか」 132-147頁
**竹川環史 「メビウス―視ることへの贈りもの」 148-159頁
**[[谷口ジロー]]、[[寺田克也]] 「われら、メビウスの徒」 176-189頁
**中里修作 「メビウスはいかにメビウスとなったのか」 198-204頁
**古永真一、原正人 「メビウス/ジャン・ジロー主要作品解題」 205-213頁
**原正人編 「メビウス・バイオグラフィー」 214-220頁
*『Euromanga』 7号(追悼 メビウス特集) 飛鳥新社、2012年
*古永真一 『BD 第九の芸術』 未知谷、2010年


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* [http://www.jeangiraudmoebius.fr/ Official website]
* [http://www.jrc.or.jp/vcms_lf/koho090615.pdf 「The story of an idea 〜赤十字誕生物語〜」] - [[日本赤十字社]]のサイトで無料公開されている、メビウス作画の歴史漫画(PDFファイル)
* [http://www.jrc.or.jp/vcms_lf/koho090615.pdf 「The story of an idea 〜赤十字誕生物語〜」] - [[日本赤十字社]]のサイトで無料公開されている、メビウス作画の歴史漫画(PDFファイル)
* [http://www.artfacts.net/index.php/pageType/exhibitionInfo/exhibition/14579 Notice for an exhibition of Giraud/Moebius' work]
* [http://www.artfacts.net/index.php/pageType/exhibitionInfo/exhibition/14579 Notice for an exhibition of Giraud/Moebius' work]
* [http://users.rcn.com/aardy/comics/awards/ Comic Book Awards Almanac]
* [http://users.rcn.com/aardy/comics/awards/ Comic Book Awards Almanac]
* [http://groups.yahoo.com/group/moebius-l/ Moebius Discussion Group]
* [http://groups.yahoo.com/group/moebius-l/ Moebius Discussion Group]
* {{imdb name|0320786}}
* [http://www.imdb.com/name/nm0320786/ Moebius IMDb profile]
* [http://www.jeangiraudmoebius.fr/ Official website]


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[[Category:フランスの漫画家]]
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[[Category:1938年生]]
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2012年11月4日 (日) 03:56時点における版

ジャン・ジロー(メビウス)
Jean Giraud (Moebius)
本名 ジャン・アンリ・ガストン・ジロー
生誕 (1938-05-08) 1938年5月8日
フランス ノジャン=シュル=マルヌ
死没 (2012-03-10) 2012年3月10日(73歳没)
フランス、パリ
国籍 フランスの旗 フランス
職業 漫画家イラストレーター
ジャンル 西部劇(ジャン・ジロー)
SFファンタジー(メビウス)
代表作ブルーベリー』(ジャン・ジロー)
アルザック』(メビウス)
密封されたガレージ』(メビウス)
受賞 本文参照
公式サイト 公式サイト
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ジャン・アンリ・ガストン・ジロー(Jean Henri Gaston Giraud、1938年5月8日 - 2012年3月10日)は、メビウス(Moebius)のペンネームでも知られるフランス漫画家バンドデシネ作家)。40年にわたって続けられた西部劇漫画『ブルーベリー』シリーズでは「ジャン・ジロー」(ジル)を、より自由な筆致でSFファンタジー作品を手がける際には「メビウス」を用いた。特に後者の活動で国際的な名声を得ており、エルジェ以降もっとも重要なバンドデシネ作家とも言われている[1]大友克洋宮崎駿谷口ジローなどへの直接的な影響を通じて日本の漫画界へも多大な影響を与えた。『エイリアン』をはじめとして、多数のSF映画にもデザイナーとして関わっている。

経歴

若齢期

1938年パリ郊外のノジャン=シュル=マルヌで生まれる。3歳のときに両親が離婚し、以来フォントネー=スー=ボワの母親の家と祖父母の家を行き来しながら育った[2]。最初の絵画体験は祖父母の家で見た絵入り雑誌『世界一周』の挿絵であり、インタビューではそのなかでも特にギュスターヴ・ドレの名を挙げている[2]。少年時代にはエルジェペロフランス語版サン=トガンフランス語版アンドレ・フランカンフランス語版といった作家のバンドデシネのほか、当時フランスでさかんに出版されていたアメリカ、イタリアなどの外国産の作品を多く読み、『フラッシュ・ゴードン』『ザ・ファントム』などのアメリカのヒーローものに衝撃を受けている[3]。また15歳のときに父に薦められてオプタ社のSF雑誌『フィクション』を読み、これによってSFに興味を持つようになった[2][注釈 1]。のちに「メビウス」の筆名を思いついたのも、『フィクション』誌や同社の『ギャラクシー』誌でメビウスの輪を題材にしたSF作品を読んだ体験からであった[6][注釈 2]

公立学校卒業したジローは、16歳のときに通信制の美術講座エコール・アーベーセーに登録し、その後パリ装飾美術学校に入学、タピスリー科に入る[2][注釈 3]。在学中の1956年、『ファー・ウェスト』誌に「フランクとジェレミー」が掲載され、以後1958年にかけて『シッティング・ブル』誌、『フリプネとマリゼット』誌、『クール・ヴァイヤン』誌などにウェスタンもの・ユーモアものの作品を発表した。当時のジローのスタイルはその後に弟子入りするジジェフランス語版の作風に強く影響されたものであった[10]。17歳のころ、学校を休学したジローは、再婚してメキシコに移住していた母親をたずねて同地を訪れ、ここで8ヶ月間をすごした。19世紀の西部劇の世界がまだ残っていたメキシコ滞在の経験は、ジローの西部劇への興味を強めるとともに、のちの「メビウス」としての作品にも様々な面で影響を及ぼしており、彼の自己形成に重要な意味を持つことになった[2][11]。またメキシコではのちの作家活動において影響を受けることになるアメリカの漫画雑誌『マッド』をはじめて目にしている。

帰国後の1958年、装飾学校での同窓生であったジャン=クロード・メジエールとともに、当時スター作家であったジジェのもとを訪れる。その後兵役について2年半のあいだドイツアルジェリアに滞在[2]。在軍中に軍事雑誌『5/5 Forces Françaises』の製作に協力する[12]。帰国後の1961年、再びジジェを訪れて彼のアシスタントとなり、ジジェの西部劇作品『ジェリー・スプリング』(『ピロットフランス語版』誌)の1エピソード「コロナド街道」のペン入れを1年ほどのあいだ担当した[13]。ジジェのもとでは絵の技術にとどまらず、絵に向き合う描き手としての姿勢といった根本的な部分についても多くを学んだという[14][注釈 4]

初期「メビウス」と『ブルーベリー』

ジジェのアシスタントを務めた後、ジローはアシェット社の事典『文明の歴史』の挿絵をメジエールとともに手がけていたが、しだいに漫画を描きたいという気持ちが高まり、過激な風刺雑誌として知られていた『ハラキリフランス語版』誌 に持ち込みをはじめた[13]。1963年、同誌第28号に「21世紀の人間」が掲載され、これによってジローは「メビウス」として新たなデビューを飾った[13][16]。また前年に『ピロット』誌の中心人物であったジャン=ミシェル・シャルリエフランス語版と出会っていたジローは、1963年の『ピロット』210号より、シャルリエを原作とするジャン・ジロー名義の[注釈 5]西部劇作品『ナヴァホ砦』(のち『ブルーベリーフランス語版』第1巻となる)の連載を開始した。その後、ジローは『ナヴァホ砦』と平行して『ハラキリ』誌にメビウス名義によるいくつかの短編作品を発表している。当時の「メビウス」の作風はのちのそれとは違い、前述の『マッド』などによるアメリカのアンダーグラウンド・コミックスの影響を強く受けたものであった[16][注釈 6]。しかし1964年、「メビウス」としての創作が行き詰まり(インタビューでは「ある日突然、まったく一本の線すら描けなくなってしまった」と述べている[18])、『ハラキリ』創刊者でもあったフランソワ・カヴァナに恫喝まがいの言葉で引き止められながらもやむなく「メビウス」としての活動を一切やめ[18]、以後10年の間「ジャン・ジロー」としての仕事に没頭することになった。

1965年に第一巻『ナヴァホ砦』が刊行された『ブルーベリー』シリーズは、すでに雑誌掲載中から人気を博しており、やがてバンドデシネのウェスタンものを代表する作品のひとつとなっていった[19]。このシリーズは南北戦争直後を時代背景として、複雑な過去をもつ北軍の中尉ブルーベリーの様々な冒険を描いてゆくもので、「メビウス」のそれとは違い伝統的なコミックの技法に則って描かれている[18][20]。当初その作風は師匠のジジェに強く影響されたものであり、そのためジローが『ブルーベリー』第4作「行方知れずの騎兵」を執筆中に一時アメリカに失踪したときには、ジジェがその代筆を行うことが可能であった[21]。しかしやがて画風、コマ割りの試行錯誤を経て独自の作風を獲得してゆき[22]、のち「メビウス」としての活動を再開してからも続けられ、様々な作風の変化を経ながら40年もの間描き継がれる長期シリーズとなった。巻数は28巻(2005年)におよび、さらに『ブルーベリーの青春時代』『保安官ブルーベリー』の2作のスピンオフシリーズも制作された。

「メビウス」の再開と映画との関わり

「メビウス」名義での活動再開の端緒となったものは、1973年に『ピロット』誌に掲載された短編作品「まわり道」であった。「まわり道」はジル名義で署名されているものの、超現実的なプロットや細密なハッチング、自由奔放なコマ割りなど、『ブルーベリー』の伝統的な技法からの大きな逸脱が見られ[23]、ジロー自身によってもその後の「メビウス」としての活動再開の出発点に位置づけられている[24][注釈 7]。翌年には同誌でメビウス名義による「白い悪夢」を掲載し、また同年刊行された『巨根男(バンダール・フー)』では、見開きの左では一枚絵で、右ではコマ割り漫画で別々の物語を展開させる実験的な構成を試みている[25]。さらにこの年、ジャン=ピエール=デュオネ、フィリップ・ドリュイエ[注釈 8]、ベルナール・ファルカスと共同でレ・ジュマイノイド・アソシエを設立し、12月に同社より娯楽雑誌『メタル・ユルラン』誌を創刊した。ジローは創刊号より、翼竜に乗って異世界を旅する男の物語を『アルザック』を掲載している。この作品は台詞や擬音を一切廃した、当時としては珍しいサイレント形式が取られており、当時技術的に可能となった絵に直接彩色する方法で作られたこともあって、当時のバンドデシネ界に衝撃をもって迎えられた[27]。。SF色の強い『メタル・ユルラン』は以後「メビウス」名義での活動拠点となり、1976年には『ブルーベリー』と双璧をなす[20]メビウスのSFシリーズ『密封されたガレージフランス語版』の掲載も始まった。『メタル・ユルラン』は1977年からはアメリカ合衆国で『ヘヴィ・メタル』として翻訳刊行もされており、メビウス作品をアメリカに紹介する役割も担った[28]

1975年、ジローは映画監督アレハンドロ・ホドロフスキーと出会い、ホドロフスキーが当時手がけていた映画『デューン』の製作に関わるために訪米した。『デューン』の企画は結局頓挫したが(その後『デューン』はデイヴィッド・リンチ監督で1984年に公開された)、ジローはその後『猫の目』(1978年)やSFシリーズ『アンカル』(1981年-1988年、いずれもメビウス名義)などホドロフスキーを原作とする作品を手がけている。ジローは師匠と呼ぶほどホドロフスキーの人間性に傾倒し、一時期彼の存在はジローの精神的支柱となっていた[29][注釈 9]。また『デューン』に関わる過程で脚本家のダン・オバノンと知り合い[31]、1976年にはオバノンを原作とする、近未来を舞台にした探偵漫画「ロング・トゥモロー」を『メタル・ユルラン』に掲載した。この作品はウィリアム・ギブソンの初期作品やリドリー・スコット監督のSF映画『ブレードランナー』のヴィジュアルに影響を与えた作品としても知られている[32][33]。1979年にはオバノンが脚本を書いた映画『エイリアン』にデザイナーとして関わり、以降『トロン』(1982年)『アビス』(1989年)『フィフス・エレメント』(1997年)といった様々なSF映画のコンセプトデザインを手がけていくこととなった。映像作品では他に、1982年のルネ・ラルー監督によるSFアニメーション映画『時の支配者』に原画、彩色、脚本などで参加し、同年のファンタフェスティバル・最優秀児童映画賞をラルー監督とともに受けているほか、ウィンザー・マッケイの『リトル・ニモ』を原作とする1989年の日本製アニメ映画『ニモ/NEMO』の企画にも関わっている。2002年には『アルザック』を自身の手でTVアニメーション化した(『アルザック・ラプソディ』)。

『アンカル』以降のメビウスの作品には、もともとシトロエンの広告企画だったものが長編SFへと発展した『エデナの世界』(1985年-2001年)などがある。1988年から1989年にかけて、メビウスはスタン・リーを原作として、アメリカのヒーローコミック『シルバーサーファー』のミニシリーズ2冊を手がけた。この作品はマーベル・コミック社からEpic Comicsのインプリントで刊行され、のち『Silver Surfer: Parable』としてまとめられている[注釈 10]。メビウスはこの作品で1989年度のアイズナー賞の限定シリーズ部門を受賞した。1997年には日本の漫画家谷口ジローの作画による『イカル』を『モーニング』誌に連載している。この作品は12回の連載で第一部が完結したが、同誌の編集長が代わったため再開されないまま終わってしまった[34]

晩年の活動と死去

2000年から2010年にかけて、ジローは「ジャン・ジロー=メビウス」の名義で『インサイド・メビウス』シリーズを執筆した。この作品はジローの内面的な世界を扱った一種の自伝作品であり、作者自身がキャラクターとして登場し、青年時代の自分と対話を行ったり、ブルーベリー中尉(『ブルーベリー』)、アルザック(『アルザック』)、グリュベール少佐(『密封されたガレージ』)などの過去作品の登場人物たちと対話を繰り広げるといった自由な展開を見せている。晩年にはほかに『密封されたガレージ』の新作執筆(2008年)や『アルザック』の新たなシリーズの企画したり(3部作が予定されていたが、死去によって2010年の最初の1冊のみで終わった)、ジャン・ジロー名義でジャン・ヴァン・アムフランス語版原作の『XIIIフランス語版』シリーズの1作『La Version Irlandaise』(アイルランド・ヴァージョン、2007年)を手がけるなどしている。

2012年3月10日、ジャン・ジロー=メビウスは長い闘病生活の末にパリにおいて73歳で死去した[35][36][37][38]。直接の死因は悪性リンパ腫による肺塞栓症である。同3月15日、モンパルナス墓地に埋葬された[39]。フランスの文化相フレデリック・ミッテランは、フランスはジローとメビウスという、二人の偉大なアーティストを同時に失ったと追悼コメントを述べている[40]。日本でも大友克洋浦沢直樹谷口ジローらの追悼コメントが各紙誌に掲載された[41]

作風

グリュベール少佐を描くメビウス(ジャパン・エキスポ2008(パリ))

ジローは「ジャン・ジロー」(ジル)と「メビウス」という筆名だけでなく、両者で作風を使い分けており、ジロー自身はその違いを筆とペン、ニューオリンズ・ジャズビ・バップというふうに様々な言葉で説明していた[24]。「ジャン・ジロー」名義で書かれた『ブルーベリー』シリーズは総じて伝統的で厳密なスタイルが取られている[18]。すなわち、リアリズムの規範のもと、鉛筆でしっかりと下書きをしたうえで、筆のタッチを生かし入念に仕上げられている[42][43][20]。一方「メビウス」はより自発的、即興的な創作方法が取られている[44][45][27]。画材はペンやロットリングが主体となり[46][27]、速写、素早さがその特徴となる[42]。1960年代、ジローは「メビウス」としての仕事をいったん打ち切って10年ほどの間『ブルーベリー』に専念するが、これが「文体練習」となってのちの「メビウス」の活動を支えることになった[18]。ただし40年つづいている『ブルーベリー』シリーズは絵柄の変化も大きく、時期によっては「メビウス」の特徴が出ていたりすることもある[47]

「メビウス」の画風は細密画風のものと簡略化されたものとに大別されるが[48]、おおむね均一でニュートラルな描線[49]ハッチングや点描[50]、独特の浮遊感[51]などによって特徴付けられており、日本ではその特徴的な陰影の線は「メビウス線」とも呼ばれている(後述するように手塚治虫が用いていた言葉である)。スケッチ集『B砂漠の40日間』や『インサイド・メビウス』では下書きをせず、はじめからインクで描く試みも行っている[52][53]。晩年にはペンタブレットも用いた[27]。よく使用されるモチーフには砂漠[54]、鉱物・結晶[55]、飛行や落下[56]、縦長の帽子をかぶった人物[57]といったものがある。そのような「メビウスらしさ」を持ち続ける一方で、メビウスは常にさまざまな影響を受け続け、新しいものを取り入れながら変化していく作家でもあった[27][26]。このため、作品におけるスタイルの不統一性もメビウスの特徴となっている[58]。たとえば『密封されたガレージ』では、即興的な方法が取られていることもあって主人公や脇役の顔、服装などがしょっちゅう変化しており[59]、ジャン・ジロー名義の『ブルーベリー』にもスタイルの不統一性の特徴が顔を出している[58]。同じ絵の中ですらスタイルが変わることもあった[60][27]

日本の漫画との関係

日本の漫画への影響

日本でのメビウスの本格的な紹介は1979年からはじまるが、それ以前に洋書から独自にメビウスを発見し影響を受けていたのが谷口ジローであり、これが日本におけるメビウス受容の始まりである[61]。谷口はまず1974年ごろ、友人から借りたフランスの特集雑誌『GRAPHIS=159』に掲載されていた『ブルーベリー』のページを見てジャン・ジローの作品(特にベタの使い方[62])にほれ込み、自身のテキストとするためにフランスの出版社へ作品を注文した[61]。1975年に『メタル・ユルラン』が創刊されるとそれも定期購読し[63]、ジャン・ジロー作品と、メビウス作品の特に探偵ものに大きな影響を受けることになった[51][注釈 11](なお、谷口のほかにジャン・ジローの『ブルーベリー』から影響を受けている日本の漫画家にバロン吉元がいる[66])。また藤原カムイは1977年に洋書売り場で『アルザック』を立ち読みして衝撃を受け、この作品のイメージをもとに短編「趨向」を描いた。以後藤原は『彼方へ』(1978年-1984年)の連作をはじめとしてメビウスのタッチやモチーフを採用した作品をいくつか発表しており、谷口についで最初期にメビウスに影響を受けた作家である[67]

1979年にはSF・漫画雑誌『スターログ』3月号でメビウスの「バラッド」が掲載され、また『S-Fマガジン』3月号でもメビウスを絵付きで詳しく紹介した。浦沢直樹とり・みき寺田克也吉井宏などはこの両誌の特集のいずれかまたは両方でメビウスを知り影響を受けている[68]。『スターログ』はその後も80年代の前半までメビウスの紹介を続け、1982年に国際SFアート大賞を設けたときにはメビウスを海外審査員として参加させた。また第一回国際SFアート大賞展では、まだ劇場未公開であった『時の支配者』を西武百貨店で上映した。これに伴って初来日したメビウスはファンたちに熱狂的に迎えられている。一方で80年代に行われた代表作『アンカル』の翻訳は6巻中1巻のみで終わるなど、その受容は一部の漫画家やマニアに留まり一般層までには行き着かなかった[69]

メビウスの影響を受けた作家として特に言及されることが多いのが、「日本のメビウス」とも言われた大友克洋である[70]。谷口や藤原と違い、大友はもともとメビウスに近い資質を持っており、当時日本の漫画において優勢であった劇画の作風からの脱却を目指す過程でメビウスの作品と出会い、より一層洗練されたスタイルを身に付けていった[71][72]。大友の作品は「大友以前、大友以後」(米澤嘉博)と言われるほど80年代-90年代の日本の漫画界に大きな影響力を持ち、メビウスと同時に大友の影響を受けた作家、大友を介してメビウスの影響を受けた作家も多いため、日本におけるメビウスの影響の度合いが測りにくい原因ともなっている[73]

晩年の手塚治虫も、メビウスの特徴的な陰影の線を「メビウス線」と名づけて自作に用い、『陽だまりの樹』では、短い線を繰り返して陰影をつけた雲を「メビウスの雲」と呼んでアシスタントへの指示に使用するなどして影響を受けている[74]。手塚は1982年のアングレーム国際バンドデシネフェスティバルでメビウスと出会っており、早い時期からメビウスと大友の比較も行っている[70]。また宮崎駿は、1980年に『アルザック』を読んで大きな衝撃を受け「強烈な影響」を受けたと述べている[41]。すでに自身の画風が固まってしまっていたためにその影響を絵に生かすことはできなかったが、アニメ『風の谷のナウシカ』はメビウスの影響の下で制作されているという[75][76]。メビウスから直接的な影響を受けた作家には、他に松本大洋小池桂一湊谷夢吉たむらしげるなどがいる[77]

日本の漫画からの影響

メビウスは日本の漫画家に多大な影響を与える一方で、日本の漫画表現に感銘を受け影響を受けてもいる。1982年に手塚の案内で京都に来たときには、手塚のアニメ『火の鳥2772』を見てショックを受け、手塚の作品量の多さに驚いている。このとき日本の漫画専門店にも回っており、当時フランスではほとんど知られていなかった日本の漫画表現に衝撃を受け、以後数年の間ヨーロッパで日本の漫画の重要性を問いて回っていた。また手塚のスタジオを見せてもらったことで、会社の重要性に対する認識が変わったという[78][79]。この来日体験はまた、メビウスに東洋美術・東洋思想からの強い影響を与えることにもなった[26]

自身が強い影響を与えている大友克洋についても早くから注目しており、大友がまだ代表作『AKIRA』を描きはじめる前から大友の漫画を購入し「まるで学生に戻ったかのように」大友の絵の描き方を研究している[80]。メビウスの『エデナの世界』にも、大友の『AKIRA』からの強い影響を見て取ることができる[26]。またメビウスはやはり自身が影響を与えた宮崎駿のファンでもあり、自身の娘に宮崎の『風の谷のナウシカ』にちなんでノウシカ(Nausicaä)と名づけている[81]。2004年にはパリ造幣局で宮崎との共同展示会「MIYAZAKI/MOEBIUS」を開催した[41]

主要作品

著作

シリーズ

単巻

特記のない限りメビウス名義

  • 巨根男(Le Bandard fou、1974年)
  • アルザックArzach、1976年)
  • 猫の目(Les Yeux du Chat、アレハンドロ・ホドロフスキー原作、1978年)
  • シルバーサーファー:パラブル(Silver Surfer: Parableスタン・リー原作、1988年-1989年)
  • B砂漠の40日間40 days dans le desert、ドローイング集、1999年)

短編集

特記のない限りメビウス名義

  • ジョン・ウォーターカラーの殺人外套(John Watercolor et sa redingote qui tue !、1976年)
  • 人間はおいしいか?(L’homme est-il bon ?、1977年)
  • 世界殺害者(Tueur de monde、1979年)
  • 盲目の神殿(La Citadelle aveugle、1989年)
  • ファラゴネシアへの寄港(Escale sur Pharagonescia、1989年)
  • ロング・トゥモロー(The Long Tomorrow、1989年)

映像作品

実写映画

アニメーション

主な受賞

  • 1975年:イエロー・キッド賞(イタリア)最優秀海外アーティスト
  • 1977年:アングレーム国際バンドデシネフェスティバル ベスト・フレンチ・アーティスト
  • 1979年:アダムソン賞(スウェーデン) - 『ブルーベリー』他
  • 1980年:イエロー・キッド賞 最優秀海外アーティスト
  • 1980年:フランスSFグランプリ特別賞 - 『運命の少佐』(『密封されたガレージ』第一巻)
  • 1981年:アングレーム国際バンドデシネフェスティバル グランプリ
  • 1985年:アングレーム国際バンドデシネフェスティバル 美術部門グランプリ
  • 1986年:インクポット賞
  • 1988年:ハーヴェイ賞(アメリカ合衆国) 最優秀翻訳作品 - 『メビウス・アルバム』シリーズ
  • 1989年:アイズナー賞(アメリカ合衆国) シリーズ部門 - 『シルバーサーファー』
  • 1989年:ハーヴェイ賞 最優秀翻訳作品 - 『アンカル』
  • 1991年:アイズナー賞 単巻部門 - 『コンクリート』
  • 1991年:ハーヴェイ賞 最優秀翻訳作品 - 『ブルーベリー』
  • 1997年:世界幻想文学大賞 芸術家部門
  • 1997年:ハーヴェイ賞 ジャック・カーヴィの殿堂
  • 1998年:アイズナー賞 殿堂
  • 2000年:マックスとモーリッツ賞 特別賞 - 「全作品」

脚注

注釈

  1. ^ ジローは自身に影響を与えた書物として、SF作品のほかにはボリス・ヴィアンジュリアン・グラック(『シルトの岸辺』)、レーモン・ルーセルを挙げている[4]。ボリス・ヴィアンの作品には軍隊時代に出会ったという。レーモン・ルーセルについては、作品タイトルや作中の台詞で言葉遊びを多用する傾向などにも影響が現われている[5]。そのほか「アポロ」という名のイギリス人による『美術史』のフランス語版に感銘を受けたという[2]
  2. ^ ジローは「メビウス」の筆名を、「ひとひねりしたBD(バンドデシネ)」というその作風と関連付けて説明している[7]。「バンドデシネ」(bandes dessinées) はもともと「描かれた帯」の意である。また「ひとひねりした」 (tordu) というフランス語には「まともでない、変な」という意味がある[8]
  3. ^ ジローははじめビジュアルコミュニケーション、視覚コミュニケーションなどコミュニケーション系の学科を希望していたが、すでに定員に達していて入れなかった[9]
  4. ^ ただし、ジローはジジェの教えをすべて受け入れたわけではない。自然や資料を見て対象を描くように促すジジェに対して、ジローは「物事を内側から描く」自分のスタイルを貫き、しかしそれにも関わらずジジェそっくりの絵を描くことができた[9]。ジジェはジローが非常に少ない線で絵を描くことに驚き、ジローを「BD(バンドデシネ)のランボー」と呼んだ[15]
  5. ^ 作品自体には「ジル」の署名が使われていたが、出版社の意向で「ジャン・ジロー」の名で出版されることになった[17]
  6. ^ 特に『マッド』の作家ジャック・デイヴィス英語版によく似た絵柄であったが[9]、ジロー自身は同誌の作家ではデイヴィスよりもウィル・エルダー英語版からの影響を強調している[6]
  7. ^ ただし、漫画以外では1969年にオプタ社の挿絵をメビウス名義で手がけていた時期がある[13]。この頃のメビウスの細密画風の絵には、ヴァージル・フィンレイなどのアメリカのSF挿絵画家の影響が色濃く表れている[9]。またメビウスは後述の『巨根男』もフィンレイの影響のもとで描かれていると述べている[25]
  8. ^ 『アルザック』を含め、『メタル・ユルラン』創刊当時のメビウスの作風はドリュイエの影響を強く受けている[26]
  9. ^ ジローは宗教団体ISO-ZENに入り1978年から1986年までのあいだタヒチにある教団の芸術家村で生活をしていたが、入信のきっかけはホドロフスキーとの交流で無意識の世界に興味を持ったことであった[30]。後にはアンスティンクトセラピー英語版にも入信している。いずれも家族を引き連れての入信であったが、その後こうした新興宗教団体とは距離を置くようになった[26]
  10. ^ トニー・スコット監督の映画『クリムゾン・タイド』(1995年)には、デンゼル・ワシントンが演じるロン・ハンター少佐が、ジローのサーファーはジャック・カービーによるサーファーとは別物であると言及するシーンがある。
  11. ^ 谷口の作品『事件屋稼業』のキャラクターはメビウスの短編から取られている[64]。谷口はジャン・ジロー/メビウスをはじめとしてフランソワ・スクイテンポール・ジロンエンキ・ビラルパラシオスミッシェル・クレスピらバンドデシネ作家から多くの影響を受けたが、その後独自の画風を確立し、また題材もSFや探偵ものから私小説的な世界を中心とするようになった。谷口の作品はフランスをはじめ海外で多数翻訳されて高い評価を受けており、特に『歩くひと』(1990年)のフランス語版はメビウスの目にとまり、これがきっかけで『イカル』での共作が実現することになった[65]

参照

  1. ^ Screech, Matthew. 2005. "A challenge to Convention: Jean Giraud/Gir/Moebius" Chapter 4 in Masters of the ninth art: bandes dessinées and Franco-Belgian identity. Liverpool University Press. pp 95 - 128.
  2. ^ a b c d e f g 原(編)、214頁。
  3. ^ 中里、199-202頁。
  4. ^ メビウス、サドゥール、112頁。
  5. ^ 古永、原、208頁。
  6. ^ a b メビウス、サドゥール、112頁・116頁。
  7. ^ メビウス、サドゥール、112頁・115頁。
  8. ^ メビウス、サドゥール、123頁(訳注3)。
  9. ^ a b c d 【BD研究会レポート】メビウス追悼 ダニエル・ピゾリ氏が語るメビウス〔ジャン・ジロー編〕”. BDfile. 小学館集英社プロダクション (2012年5月9日). 2012年10月31日閲覧。
  10. ^ Giraud, Jean. "Introduction to King of the Buffalo by Jean Giraud". 1989. Moebius 9: Blueberry. Graphitti designs.
  11. ^ メビウス、浦沢、夏目、30-31頁。
  12. ^ Jean Giraud”. Comiclopedia. Lambiek. 2012年10月27日閲覧。
  13. ^ a b c d 原(編)、215頁。
  14. ^ 原、136頁
  15. ^ 中里、204頁。
  16. ^ a b 古永、原、208頁。
  17. ^ メビウス、サドゥール、116頁。
  18. ^ a b c d e メビウス、サドゥール、113頁。
  19. ^ 原、134頁。
  20. ^ a b c 小野、57頁。
  21. ^ Jean-Marc Lofficier. 1989. "The Past Master", in Moebius 5: Blueberry. Graphitti designs.
  22. ^ 原、139頁-143頁。
  23. ^ 古永、原、207頁。
  24. ^ a b 原、144頁。
  25. ^ a b 古永、152-153頁。
  26. ^ a b c d e 【BD研究会レポート】メビウス追悼 ダニエル・ピゾリ氏が語るメビウス〔質疑応答編〕”. BDfile. 小学館集英社プロダクション (2012年5月30日). 2012年10月30日閲覧。
  27. ^ a b c d e f 【BD研究会レポート】メビウス追悼 ダニエル・ピゾリ氏が語るメビウス〔メビウス編〕”. BDfile. 小学館集英社プロダクション (2012年5月16日). 2012年10月31日閲覧。
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  32. ^ 小田切、93頁。
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  45. ^ 原、145頁。
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  48. ^ 古永、150頁。
  49. ^ 竹川、152-153頁。
  50. ^ 原、140頁-141頁。
  51. ^ a b 谷口、寺田、186頁。
  52. ^ 小野、62頁。
  53. ^ 古永、241頁。
  54. ^ 小野、62 -63頁。
  55. ^ 竹川、155-156頁。
  56. ^ 竹川、156頁。
  57. ^ 竹川、149頁。
  58. ^ a b 原、139頁。
  59. ^ 谷口、寺田、180頁。
  60. ^ 原、147頁(脚注16)。
  61. ^ a b 田中、71頁。
  62. ^ 谷口、寺田、177頁
  63. ^ 小野、69頁。
  64. ^ 谷口、寺田、178頁。
  65. ^ 田中、72頁-73頁。
  66. ^ 小野、66頁。
  67. ^ 田中、71頁-72頁。
  68. ^ 田中、74頁。
  69. ^ 田中、74頁-75頁。
  70. ^ a b 田中、75頁。
  71. ^ 田中、77頁。
  72. ^ 竹熊、81頁-85頁。
  73. ^ 田中、75頁-76頁。
  74. ^ メビウス、浦沢、夏目、37頁-38頁。
  75. ^ A talk between Hayao Miyazaki and Moebius”. The Hayao Miyazaki Web. 2012年10月30日閲覧。
  76. ^ Andy Khouri (March 10, 2012). “R.I.P. Jean 'Moebius' Giraud (1938-2012)”. COMICS ALLIANCE. AOL. 2012年10月30日閲覧。
  77. ^ 田中、70頁。
  78. ^ メビウス、浦沢、夏目、39頁。
  79. ^ 小野、60頁。
  80. ^ メビウス、浦沢、夏目、39頁-40頁。
  81. ^ 小野、56頁。

参考文献

  • 『ユリイカ 詩と批評』 2009年7月号(特集・メビウスと日本マンガ)、青土社。以下を収録(参照したもののみ)
    • メビウス、浦沢直樹夏目房之介 「メビウス∞描線がつなぐヨーロッパと日本」 29-46頁
    • 小野耕世 「ジャン・ジロー=メビウスとの会話」 52-69頁
    • 田中秀臣 「静かな革命」 70-79頁
    • 竹熊健太郎 「翼よ、あれが日本のマンガだ。」 80-87頁
    • 小田切博 「ポップ、メビウス、アメリカ」 88-93頁
    • メビウス、ヌマ・サドゥール 「メビウスとの対話」 古永真一訳 112-124頁
    • 原正人 「『ブルーベリー』とはなにか」 132-147頁
    • 竹川環史 「メビウス―視ることへの贈りもの」 148-159頁
    • 谷口ジロー寺田克也 「われら、メビウスの徒」 176-189頁
    • 中里修作 「メビウスはいかにメビウスとなったのか」 198-204頁
    • 古永真一、原正人 「メビウス/ジャン・ジロー主要作品解題」 205-213頁
    • 原正人編 「メビウス・バイオグラフィー」 214-220頁
  • 『Euromanga』 7号(追悼 メビウス特集) 飛鳥新社、2012年
  • 古永真一 『BD 第九の芸術』 未知谷、2010年

外部リンク