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「ウルバヌス8世 (ローマ教皇)」の版間の差分

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| 日本語名 = ウルバヌス8世
| 日本語名 = ウルバヌス8世
| タイトル = 第235代 ローマ教皇
| タイトル = 第235代 ローマ教皇
| 画像 = [[Image:Urbanviii.jpg|150px]]
| 画像 = [[ファイル:Urban VIII.jpg|180px]]
| 画像説明 = [[ミケランジェ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ|カラヴァッジォ]]によるウルバヌス8世の肖像画
| 画像説明 = [[ピエトロ・ダ・コルトーナ]]によるウルバヌス8世の肖像画([[1627年]]作)
| 就任 = 1623年8月6日
| 就任 = 1623年8月6日
| 離任 = 1644年7月29日
| 離任 = 1644年7月29日
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'''ウルバヌス8世'''(Urbanus V,[[1568年]][[4月5日]] - [[1644年]][[7月29日]])は[[教皇|ローマ教皇]](在位:[[1623年]][[8月6日]] - 1644年7月29日)。本名、マッフェオ・ヴィンチェンツォ・バルベリーニ(Maffeo Vincenzo Barberini)。[[三十年戦争]]を通じてせた聖職者というよりは政治家・統治者としての姿、学問と芸術の庇護、目にる[[縁故主義|ネポティズム]](親族登用主義)等様々な意味で最後の中世的教皇であった。彼の時代に[[ガリレオ・ガリレイ]]の裁判がおこなわれたでも有名
'''ウルバヌス8世'''(ウルバヌス8せい、{{lang-la|''Urbanus VIII''}}, {{lang-en|''Urban VIII''}}, [[1568年]][[4月5日]] - [[1644年]][[7月29日]])は[[バロック時代]]の[[教皇|ローマ教皇]](在位:[[1623年]][[8月6日]] - 1644年7月29日)。本名、マッフェオ・ヴィンチェンツォ・バルベリーニ(Maffeo Vincenzo Barberini)。[[三十年戦争]]を通じてせた[[聖職者]]というよりは[[政治家]][[統治者]]としての姿、[[学問]][[芸術]]の庇護、目にあまる[[縁故主義|ネポティズム]](親族登用主義)など、さまざまな意味で最後の[[中世]]的教皇であった。彼は[[文化]]・芸術の庇護者であり、教会改革を進め、[[教皇国家]]の領域を史上最大のものに拡大させたが、彼の治世で発生した巨額の[[負債]]は[[ローマ教皇庁]]を弱体化させ、長期にわたって[[ヨーロッパ]]に対し[[政治]]的・[[軍事]]的影響力を維持していくことを困難なものにした。なお、彼の時代に[[ガリレオ・ガリレイ]]の裁判(第2次裁判)がおこなわれたことでも知られている


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 教皇選任まで ===
マッフェオは[[フィレンツェ]]の実力者[[バルベリーニ家]]の出身であった。教皇庁の首席書記官だった伯父の引き立てで教皇庁で働くようになり、若くして[[シクストゥス5世 (ローマ教皇)|シクストゥス5世]]から[[グレゴリウス15世 (ローマ教皇)|グレゴリウス15世]]にいたる教皇達の側近として活躍した。[[クレメンス8世 (ローマ教皇)|クレメンス8世]]の時代に自身が首席書記官になると、教皇大使としてフランスへ赴いた。[[パウルス5世 (ローマ教皇)|パウルス5世]]の元でも同職におかれ、[[枢機卿]]にあげられ、[[ボローニャ]]の教皇使節に任命された。こうして順調に出世していったマッフェオは自然な流れで教皇に選ばれた。1623年8月6日の事であった。
[[ファイル:Urbanviii.jpg|190px|right|thumb|「マッフェオ・バルベリーニ(30歳、のちのウルバヌス8世)の肖像」([[1598年]]、[[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ|カラヴァッジォ]]画)]]
マッフェオは[[フィレンツェ]]([[イタリア]]・[[トスカーナ州]])の実力者で、[[カトリック教会]]に最も[[寄付]]を多くおこなっていた富裕な[[商人]]のひとつであった{{仮リンク|バルベリーニ家|en|Barberini}}の出身である<ref name=la2>[[#ラルース2|『ラルース 図説 世界人物百科II』(2004)pp.260-262]]</ref><ref name=pgms>[[#PGMS|マックスウェル・スチュアート(1999)pp.243-245]]</ref>。父はアントニオ・バルベリーニ、母はカミラ・バルバドーリであった。彼は、[[ローマ]]の学院で学んだが、そこは[[イエズス会]]によって質の高い教育がほどこされていた<ref name=la2/>。[[1589年]]には[[ピサ大学]]より[[法学]][[博士]]号を受けている。


やがて[[ローマ教皇庁]]の首席書記官だった[[伯父]]の引き立てで教皇庁で働くようになり、若くして[[シクストゥス5世 (ローマ教皇)|シクストゥス5世]]から[[グレゴリウス15世 (ローマ教皇)|グレゴリウス15世]]にいたる歴代教皇の[[側近]]として活躍した。[[クレメンス8世 (ローマ教皇)|クレメンス8世]]の時代に首席書記官になると、[[フランス国王]][[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]の[[宮廷]]にむけた教皇大使として[[フランス王国]]の首都[[パリ]]へ赴いた。教皇大使は、ローマ教皇の代理として教会改革を推進し、一方では教皇権とヨーロッパ諸国とを仲介する要職である<ref name=la2/>。[[1604年]]、クレメンス8世は彼を[[ナザレ]]の[[司教]]に叙任した。[[パレスティナ]]に所在するナザレの町は当時[[オスマン帝国]]の支配下にあったため、形ばかりの[[役職]]にすぎなかったが[[イエス・キリスト]]の育った地であり、[[名誉職]]にはちがいなかった。このころ、彼は、叔父の死によってその[[遺産]]を相続し、それにより彼は豪華な[[ルネサンス様式]]の[[宮殿]]をローマ市内に購入している。
ウルバヌス8世を名乗った彼の時代、長く続いた[[三十年戦争]]が暗い影を落としているだけでなく多事多難の時期であった。教皇自身もヨーロッパ列強の思惑と時に渡り合い、時に左右されながら、ヨーロッパの世俗的な一勢力として駆け引きを余儀なくされた。[[1626年]]には[[ウルビーノ公国]]を[[教皇領]]に編入し、[[1627年]]には[[マントヴァ]]で[[ゴンザーガ家]]の直系男子が途絶えると、[[ハプスブルク家]]の影響力に圧倒されながらも、その意に反してヌヴェール公[[カルロ1世・ゴンザーガ=ネヴェルス|カルロ1世]]を後継者に推している。また、[[1631年]]に[[サンマリノ]]の独立を承認した。


[[パウルス5世 (ローマ教皇)|パウルス5世]]の下でもフランス宮廷付教皇大使に任じられ、[[1606年]]には38歳で[[枢機卿]]に昇進し、[[1608年]]には[[スポレート]](イタリア・[[ウンブリア州]])の[[司教]]、[[1617年]]には教皇庁の[[ボローニャ]](イタリア・[[エミリア=ロマーニャ州]])使節にも任命された<ref name=konno>[[#今野|今野(1988)p.383]]</ref>。
ウルバヌス8世は教皇領を拡大した最後の教皇となった。戦乱の中で教皇は自領の軍事力の充実を図っている。マントヴァとの境に近い[[カステルフランコ]]と[[チヴィタベッキア]]港を要塞化し、[[サンタンジェロ城]]を強化し、すでに[[ティヴォリ]]にあった兵器工場を[[バチカン]]にも建築している。軍事力増強政策の中で[[パンテオン_(ローマ)|パンテオン]]の青銅の桁をはずして大砲を作った事は大きな物議をかもし、「蛮族(バルバリ)すら成し得なかった事をバルベリーニが成し遂げた」("quod non fecerunt barbari, fecerunt Barberini")と皮肉られた。


前任の[[グレゴリウス15世 (ローマ教皇)|グレゴリウス15世]]が熱病によって死去したのは[[1623年]][[7月8日]]のことであった<ref name=pgms241>[[#PGMS|マックスウェル・スチュアート(1999)pp.241-242]]</ref>。
ウルバヌス8世は、[[1633年]]にガリレオに自説を撤回させたことで歴史に名前を残すことになったが、その一方で学問と芸術の守護者でもあった。彼の時代に[[サン・ピエトロ大聖堂]]の献堂式が行われ、さらに整備をすすめて[[ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ]]に内陣の天蓋(バルダッキーノ)の制作を行わせている(ベルニーニはバルベリーニ宮殿の建築にもかかわった)。教皇の行わせたその他の建築事業ではバルベリーニ広場にあるトリトーネの噴水が特に有名である。また、フランスの画家[[ニコラ・プッサン]]と[[クロード・ローラン]]を[[ローマ]]に招いて活動させ、[[イエズス会]]の碩学[[アタナシウス・キルヒャー]]もローマに招いている。教皇自身もラテン語による詩作に優れ、多くの作品を残している。そして、[[1643年]]の[[回勅]]「イン・エミネンティ」で[[コルネリウス・ヤンセン]]の著作『アウグスティヌス』を断罪したことが長く続く[[ジャンセニスム]]論争の幕開けとなった。


グレゴリウス15世死後の、マッフェオ・バルベリーニが教皇ウルバヌス8世として選出された教皇選挙会議は混乱をきわめた<ref name=pgms/>。枢機卿10人が熱病に倒れ、有力な候補者のひとりボルケーゼ卿は重病の床にあって立候補を断念せざるをえなくなった<ref name=pgms/>。さらに、24人いる枢機卿に対し、20枚の用紙しか配られないなど、投票手続きにも不備があった<ref name=pgms/>。しかし、最終的には、それまで順調に出世してきたマッフェオしかないという妥協的な雰囲気のなかで、55歳のマッフェオ・バルベリーニが必要な得票数を得て教皇の座についた<ref name=pgms/>。1623年[[8月6日]]のことである<ref name=pgms/>。
同時にウルバヌス8世の治世で目につくことは大規模な[[縁故主義|ネポティズム]](親族登用主義)の実施である。バルベリーニの一族によって[[ローマ教皇庁|教皇庁]]とローマは牛耳られ、多くの富がバルベリーニ家にもたらされた。ウルバヌス8世は中世を通じて教皇庁の諸悪の根源として批判されていたネポティズムを大々的におこなった最後の教皇となった。以降、教皇庁では改革意識の高まりと共にネポティズムの根絶が目指されるようになる。


=== 教皇ウルバヌス8世の治世 ===
1644年、[[パルマ公国|パルマ公]][[オドアルド1世]]との争いの心労によって死去。
==== 教皇就任 ====
彼はグレゴリウス15世の後継者としてウルバヌス8世を名乗った<ref>{{cite encyclopedia| last = Ott| first = Michael T.| title = Pope Urban VIII| encyclopedia = The Catholic Encyclopedia| volume = XV| publisher = Robert Appleton Company| location = New York| year = 1912| url = http://www.newadvent.org/cathen/15218b.htm| accessdate = 2007-09-07 }}</ref>。教皇選挙の際に、[[ヴェネツィア共和国]]の特使ゼノは以下のような記述を書き残している<ref>[http://www.pickle-publishing.com/papers/triple-crown-urban-viii.htm ''The Triple Crown: An Account of the Papal Conclaves'' by Valérie Pirie]</ref>。
{{quotation|
新しい教皇は56歳。教皇聖下は背が高く、肌は褐色で顔立ちは整い、グレー混じりの黒い髪をしていた。彼は際だってエレガントであり、その法服も細部にわたって洗練されており、優雅で貴族的なその身のこなしと相まって絶妙な味わいを醸し出していた。彼は優れた話者かつ論者であり、詩歌を書き、また詩人や文芸家のよき保護者である。}}

自分が教皇に選ばれた選挙会議において、さまざまな策略や駆け引きが教皇庁内で繰り広げられていることを目にしたウルバヌス8世は、枢機卿会からは一定の距離を置くよう努め、自分自身の判断と自分の一族を頼みとして、生家バルベリーニ家の人びとをはじめとする[[親族]]を次々に昇進させていった<ref name=pgms/>。[[サン・ピエトロ大聖堂]]内の彼の[[墓]]の[[彫像]]の左[[肩]]、彫像の土台、[[石棺]]の上にはそれぞれバルベリーニ家の[[紋章]]である[[ミツバチ]]が彫られている<ref name=pgms/>。ウルバヌスは親族登用によって自己の勢力拡大を図ったのである<ref name=hashi>[[#橋口|橋口(2004)]]</ref>。

==== 教会改革 ====
[[ファイル:Papal.bull.JPG|right|thumb|300px|ウルバヌス8世の[[教皇勅書]]]]
ウルバヌス8世は[[イサベル・デ・アラゴン・イ・シシリア]]や{{仮リンク|アンドレア・コルシーニ|it|Andrea Corsini}}など多くの[[聖人]]を[[列聖]]し、[[聖別|聖別法]]を制定した<ref name=konno/>。また、[[聖マリア訪問童貞会]]や[[ヴァンサン・ド・ポール]]が創立した[[ラザリスト会]]といった新しく設立された[[修道会]]を認可し、[[聖務日課書]]を改訂するなど教会改革に熱心であった<ref name=konno/>。

教皇権の強化にも取り組み、ヨーロッパ外の[[伝道]]にも熱心で、布教活動にあたる聖職者を要請する教育機関「コレギウム・ウルバヌム」(ウルバヌス学院)を創設した<ref name=la2/><ref group="注釈">コレギウム・ウルバウムは主として[[新大陸]]布教の教育機関の役割を担わされた。[[#橋口|橋口(2004)]]</ref>。ウルバヌスはまた、「普遍教会の導き手」として、[[1545年]]の[[トリエント公会議]]に倣い、同様の議題を策定しようと図ったが、これには失敗している<ref name=la2/>。

==== 軍事と外交 ====
ウルバヌス8世の治世は[[神聖ローマ帝国]]を舞台として長く続いた[[三十年戦争]]([[1618年]]-[[1648年]])がヨーロッパ全体に暗い影を落としており、[[プロテスタント]]勢力の台頭もあって、ローマ教会にとっても多事多難の時期であった。教皇自身もヨーロッパ列強の思惑に対し、ときに対等に渡り合い、ときには左右されながら、世俗君主同様、ヨーロッパ内の一勢力としての政治的駆け引きを余儀なくされた。[[1626年]]には[[ウルビーノ公国]]を[[教皇領]]に編入し、[[1627年]]には[[マントヴァ公国]]で[[ゴンザーガ家]]の直系男子が途絶えると、[[ハプスブルク家]]の影響力に圧倒されながらも、その意に反してヌヴェール公[[カルロ1世・ゴンザーガ=ネヴェルス|カルロ1世]]を後継者に推している。[[1631年]]には[[イタリア半島]]北東部の[[サンマリノ]]の独立を承認した<ref name=rekibun52>[[#国旗|『世界の国旗と国ぐに』(2003)p.52]]</ref>。

戦乱のなかでウルバヌス8世は自領の軍事力の充実を図っている。彼は[[ローマ教皇領]]を拡大した最後の教皇となり、教皇領は史上最大となった<ref name=hashi/>。[[マントヴァ]]との境に近い[[カステルフランコ・エミーリア]]および[[チヴィタヴェッキア|チヴィタヴェッキア港]]を[[要塞]]化し、ローマの[[サンタンジェロ城]]を強化し、すでに[[ティヴォリ]]にあった兵器工場を[[バチカン]]にも増設している。また、軍事力増強政策の一環として、ウルバヌスがローマの[[パンテオン_(ローマ)|パンテオン]]の[[青銅]]の桁をはずして[[大砲]]を製造したことは大きな物議をかもし、「蛮族(バルバリ)すら成し得なかったことをバルベリーニが成し遂げた」("quod non fecerunt barbari, fecerunt Barberini")と皮肉られた。

ウルバヌス8世は、前代のグレゴリウス15世とは異なり、中立を保ちながらも[[フランス王国]]への接近を図った<ref name=pgms/><ref name=pgms241/><ref name=hashi/>。それは、[[1527年]]に起きた[[ローマ略奪]]のような事態を回避し、イタリアにおける神聖ローマ帝国=ハプスブルク家の野望に対抗するためであったが、そのことは逆に、[[ブルボン王朝]]に仕え、フランスをヨーロッパ一の強国に成長させるべく尽力した[[ルイ13世]]の名宰相[[リシュリュー]]枢機卿の政治手腕に翻弄される結果をもたらした<ref name=la2/><ref name=pgms/>。ウルバヌスは、[[1635年]]に[[神聖ローマ皇帝]]の[[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント2世]]が[[ドイツ]]のプロテスタント勢力と[[和議]]を結んだ際にも、ただ、それを追認するほかなかった<ref name=pgms/><ref group="注釈">ウルバヌス8世は、「神がおられるなら、リシュリュー枢機卿はたっぷり罰を受けるだろう。神がおられないなら、彼はうまくやりおおせるだろう」と述べている。[[#PGMS|マックスウェル・スチュアート(1999)p.244]]</ref>。また、1636年、ウルバヌスはケルンに平和会議を招集し、フランス・ドイツ間の和解を図ろうとして失敗している<ref name=konno/>。ウルバヌス8世が[[スウェーデン]]や[[オランダ]]などプロテスタントと同盟したフランスを支持したために、教皇権の権威はかえって失墜し、ヨーロッパにおける教皇の影響力が低下したことで、ローマ教会はドイツでの巻き返しを実現することがかえって困難になってしまった<ref name=la2/>。そのため、ウルバヌスはイタリア半島における利権の確保に注力せざるをえなくなったのである<ref name=la2/>。

==== 学問と芸術 ====
[[ファイル:Bernini Baldachino.jpg|left|thumb|180px|[[ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ]]による[[サン・ピエトロ大聖堂]]の天蓋]]
ウルバヌス8世は、[[1633年]]にガリレオに自説を撤回させたことで歴史に名前を残すことになった(詳細後述)。しかし、その一方で[[学問]]と[[芸術]]の守護者でもあった。高い教養で知られたウルバヌス8世は、[[画家]]、[[彫刻家]]、[[建築家]]をもっとも助成した教皇のひとりだったのである<ref name=la2/>。

「聖テレジアの法悦」([[1648年]])で知られる大芸術家[[ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ]]は、ウルバヌス8世によってローマのあらゆる芸術活動を任された人物であり、その一環として[[サン・ピエトロ大聖堂]]の内装に取り組んだ<ref name=la2/><ref name=kawabe>[[#河辺|河辺(2001)pp.110-111]]</ref>。ウルバヌスはベルニーニに対し内陣の[[天蓋]](バルダッキーノ)制作を委嘱しており、[[1626年]]、内部は改造中のままサン・ピエトロ大聖堂の献堂式が行われた<ref name=la2/>。サン・ピエトロ大聖堂の天蓋は、[[1624年]]から[[1635年]]まで完成に11年の歳月を要しており、また、[[使徒]][[ペトロ]]の[[墓]]の天蓋は教皇領の年間歳入の10倍の費用がかかったといわれている。サンピエトロ大聖堂の天蓋と、ウルバヌス8世死後に大聖堂内陣につくられた「聖ペトロの司教座」([[1656年]]-[[1666年]])は、ベルニーニによる[[バロック建築|バロック芸術]]の傑作といわれる<ref name=kawabe/>。それは、彫像的な性格を有した建築装置であり、絵画・彫刻・建築それぞれの特質を融合して一つの目的のために駆使した、いわば「総合舞台芸術」であった<ref name=kawabe/>。

ベルニーニは、ウルバヌス8世と甥の枢機卿タッデオによりローマの[[バルベリーニ宮殿]]の建築にもかかわった<ref name=la2/>。バルベリーニ家の栄光をたたえる[[フレスコ画]]は[[ピエトロ・ダ・コルトーナ]]によって描かれた<ref name=la2/>。そのほか、教皇による建設事業では[[バルベリーニ広場]]の「トリトーネの噴水」が特によく知られている。ウルバヌス8世はまた、[[カステル・ガンドルフォ]]([[ラツィオ州]][[ローマ県]])に[[別荘]]として[[ガンドルフォ城]]を築き、以後、同地は歴代ローマ教皇の避暑地となった<ref name=hashi/><ref group="注釈">ガンドルフォ城内の別荘群は教皇国家の終焉とともに手放されたが、1929年に教皇の特別領土とされ、教皇庁の避暑地に復した。</ref>。また、フランスの画家[[ニコラ・プッサン]]と[[クロード・ローラン]]を[[ローマ]]に招いて創作活動に従事させ、ドイツ出身のイエズス会の碩学[[アタナシウス・キルヒャー]]もローマに招いている。甥の枢機卿フランチェスコ・バルベリーニは、プッサンおよび {{仮リンク|シモン・ヴーエ|en|Simon Vouet}}を庇護した<ref name=la2/>。

[[ファイル:Urban VIII Bernini Musei Capitolini.jpg|right|thumb|180px|祝福を授けるポーズの教皇ウルバヌス8世([[ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ]]とその生徒による[[1635年]]-[[1640年]]の作品、[[サン・ピエトロ大聖堂]]内の[[墓]]の彫像)]]
[[1640年]]、[[ネーデルラント]]出身の神学者[[コルネリウス・ヤンセン]]は古代の[[教父]]として著名な[[アウグスティヌス]]の思想から大きな影響を受け、その[[恩寵説]]をもとに、その人間の自由意志の無力さや腐敗した人間本性の罪深さを強調した『アウグスティヌス-人間の本性の健全さについて-』を発表した。ウルバヌス8世がこれに対し、[[1643年]]の[[回勅]]「イン・エミネンティ」においてヤンセンの著作を断罪したことは、そののち長く続いた「[[ジャンセニスム]]論争」の幕開けとなった。

==== ネポティズムと教皇の最期 ====
ウルバヌス8世の治世において特徴的なことは大規模な[[縁故主義|ネポティズム]](親族登用主義)による人事である。バルベリーニの一族によって教皇庁とローマは牛耳られ、多くの富がバルベリーニ家にもたらされた。それに不満をもつローマ市民も少なくなかった<ref name=pgms/>。ウルバヌス8世は中世を通じて教皇庁の諸悪の根源として批判されていたネポティズムを大々的におこなった最後の教皇となった。これには当然弊害もあり、晩年のウルバヌス8世は、強欲な甥たちを信用した結果、[[1641年]]から[[1644年]]にかけてのイタリア内部の抗争に介入し、教皇庁の財源はそれにより大きな痛手を受けた<ref name=pgms/><ref group="注釈">教皇庁の借入金の額は[[1526年]]には歳入の3分の1ほどであったが、[[1599年]]には50パーセントを超え、[[1654年]]には歳入の6割近くに達していた。これに対して、そのあいだ宗教活動に用いられた支出は変わっていないので、長期的にみて財政は借金体質を深めていたといえる。[[#ラルース2|『ラルース 図説 世界人物百科II』(2004)p.262]]</ref>。

1644年、ウルバヌス8世は76歳で死去した。死因は[[パルマ公国|パルマ公]]の[[オドアルド1世]]との争いによる心労ともいわれている。枢機卿会との対立からはじまった教皇ウルバヌスの治世の最後はローマでの民衆暴動が締めくくった<ref name=pgms/>。ウルバヌス8世は教会の財源を浪費したのみならず、イタリアで無謀な戦争を重ねてきたため、門閥主義に対する反感もあって、その人気は地に堕ちていたのである<ref name=pgms/>。

ウルバヌス8世の死以降、教皇庁では改革意識の高まりとともにネポティズムの反省がなされ、その根絶が目指されるようになった。


== ウルバヌス8世とガリレオ裁判 ==
== ウルバヌス8世とガリレオ裁判 ==
{{main|ガリレオ・ガリレイ}}
ウルバヌス8世はガリレオ裁判と縁が深い。この裁判の詳細については[[ガリレオ・ガリレイ]]の項を参照の事。
ウルバヌス8世はガリレオ裁判と縁が深い。ガリレオはパウルス8世(在位:[[1605年]]-[[1621年]])によって批判され、ウルバヌス8世の時代になって再び異端者として糾弾された<ref name=pgms/>。ガリレオは個人的にはウルバヌスの友人であり、ローマの学院の後輩でもあった<ref name=la2/>。[[1623年]]のガリレオの著作『贋金鑑識官』はウルバヌス8世の支援で出版され、同書は教皇に献呈されたものであったにもかかわらず、ガリレオは自説を放棄させられた<ref name=la2/><ref name=pgms/>。ウルバヌスはガリレオに対する裁判とその判決に反対することができなかったのである<ref name=la2/>。
*1616年 ガリレオに対するローマ教皇庁[[異端審問|異端審問所]]の第1回宗教裁判。ガリレオは地動説を唱えないよう、注意を受ける。この際、枢機卿時代のウルバヌス8世も裁判に参加している。
*[[1616年]]…ガリレオに対するローマ教皇庁[[異端審問|異端審問所]]の第1回宗教裁判。ガリレオは[[地動説]]を唱えないよう、注意を受ける。この際、枢機卿時代のウルバヌス8世も裁判に参加している。
*1623年:ガリレオの『贋金鑑識官』がウルバヌス8世への献辞をつけて刊行。
*1623年…ガリレオの『贋金鑑識官』がウルバヌス8世への献辞をつけて刊行。
*1632年:『天文対話』刊行。地動説論者、天動説論者、中立派の3人による対話という形式で書かれている。教皇庁の許可を受けての出版であるが、物分りの悪い人物として描かれている天動説論者はウルバヌス8世をあてこすったものだという讒言があり、教皇を怒らせたという。
*[[1632年]]…『天文対話』刊行。地動説論者、天動説論者、中立派の3人による対話という形式で書かれている。教皇庁の許可を受けての出版であるが、物分りの悪い人物として描かれている天動説論者はウルバヌス8世をあてこすったものだという讒言があり、教皇を怒らせたという。
*1633年:ガリレオに対する第2回宗教裁判で[[異端]]の判決が下される(終身刑とされるが、直後に[[トスカーナ大公国]](フィレンツェ)ローマ大使館での軟禁に減刑)。
*[[1633年]]…ガリレオに対する第2回宗教裁判で[[異端]]の判決が下される(終身刑とされるが、直後に[[トスカーナ大公国]](フィレンツェ)ローマ大使館での軟禁に減刑)。

なお、P.G.マックスウェル・スチュアートは、ウルバヌス8世が[[天動説]]への共感や確信によりガリレオを断罪したというよりは、当時としては異端の臭いのする地動説に何か怪しさを感じただけにすぎなかっただろうと述べている<ref name=pgms/><ref group="注釈">ローマ教会がガリレオ裁判の誤りを認めたのは、[[1992年]]、教皇[[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]によるものであり、そのとき、ガリレオの死去から350年の歳月が経過していた。[[#マクラクラン|マクラクラン (2007)pp.143-144]]</ref>。

== サンマリノ独立承認 ==
{{main|サンマリノ}}
1631年、ウルバヌス8世は[[サンマリノ]]の独立を承認した。サンマリノは、このとき以来独立を保持し、現存する独立国家では最古の[[共和制]]国家である。なお、サンマリノの国名は、[[4世紀]]初め、マリーノという名の[[石工]]が[[ローマ皇帝]]による[[キリスト教]]迫害を逃れ、この地に潜伏して[[キリスト教徒]]の[[共同体]]をつくったという[[伝説]]にちなんでおり、石工マリーノを「聖(サン)マリーノ」と呼称したことに由来している<ref name=rekibun52/>。

== 人物 ==
[[アンドレア・ニコレッティ]]の『教皇ウルバヌス8世の生涯』によれば、ウルバヌス8世は[[身長]]が高く、均整のとれた筋骨たくましい堂々たる体格で、[[肌]]は[[オリーブ色]]、[[声]]は朗々としていたという<ref name=pgms/>。また、同書には、ウルバヌス8世が「すばらしい知力と博覧強記」の持ち主で、大きな[[頭]]、広い[[額]]、形のよい[[鼻]]、四角い[[あごひげ]]をもち、[[頬]]は本来ふくよかであったが、晩年にはげっそりとこけてしまったことを記載している<ref name=pgms/>。

=== 教養人ウルバヌス8世 ===
カトリックの伝統と[[人文主義]]の新しい潮流が混淆したローマの学院で学んだウルバヌス8世は、[[イタリア語|トスカーナ語]]、[[ラテン語]]、[[ギリシア語]]で著作を執筆した教養人であり、ラテン語の詩作に優れ、多くの作品をのこした<ref name=la2/>。その外交・軍事政策には失敗も少なくないウルバヌス8世であったが、今日でいう[[メセナ]](学問芸術への助成)活動についてはしばしば高い評価もあたえられる<ref name=la2/>。[[シクストゥス5世 (ローマ教皇)|シクストゥス5世]]によるローマ再整備ののち、その装飾を完成させ、ローマをヨーロッパ随一の芸術の都としたのは彼の功績といえる<ref name=la2/>。折しもこのころ、ローマでは[[オラトリオ修道会]]が中心となって、今までにない信仰心発露のスタイルとして新しい音楽ジャンル([[オラトリオ]])を編み出していた。ローマの[[祝祭]]は、華々しい[[行列]]やオラトリオなどの演出がウルバヌス8世の注力したバロック芸術と相まってにぎわい、[[巡礼]]や[[観光]]でローマにおとずれる人は年間数十万人にもおよんだ<ref name=la2/>。また、彼の理念はフランスではリシュリュー枢機卿や「太陽王」[[ルイ14世]]の養育係・宰相となったイタリア生まれの[[ジュール・マザラン]]枢機卿に受け継がれることとなった<ref name=la2/>。

=== 魔術への傾倒 ===
[[ファイル:Campanella-2.png|right|thumb|180px|[[トマソ・カンパネッラ|トマーゾ・カンパネッラ]]]]
猜疑心の強いウルバヌス8世は、[[占星術]]師にローマ在住の枢機卿の死期を占わせるようなことをしている<ref name=pgms/>。しかし、巷間では自分の詳細な[[運勢]]図が流れていることを知り、天界から悪意を受けないようにするため、[[ドミニコ会]]の[[修道士]]であった[[トマソ・カンパネッラ|トマーゾ・カンパネッラ]]の力を借りて、間近にせまった[[月食]]の悪影響を除去する[[儀式]]をおこなった<ref name=pgms/>。カンパネッラは、[[1589年]]から異端として長いあいだ投獄されていたが、[[1628年]]に釈放され、ウルバヌスの前に引き渡されたのである<ref name=pgms/>。カンパネッラの儀式は[[ラテラーノ宮殿]]の教皇の間でおこなわれた。それは、[[密室]]の[[壁]]に白い[[絹]]がかけられ、[[薬草]]が焚かれ、[[太陽]]と[[月]]を意味する2つの[[ランプ]]と[[十二宮]]が用意されて占星音楽が奏でられるというものであり、キリスト教の[[教義]]からは逸脱いちじるしい[[魔術]]的な儀式であった<ref name=pgms/>。

== 年譜 ==
* [[1568年]]…のちのウルバヌス8世、マッフェオ・バルベリーニがフィレンツェで生まれる(4月5日)。
* [[1604年]]…マッフェオ・バルベリーニがパリ教皇大使となる。
* [[1606年]]…枢機卿となる。
* [[1608年]]…スポレト司教となる。
* [[1617年]]…ボローニャの教皇特使となる。
* [[1623年]]…ウルバヌス8世としてローマ教皇に即位。ガリレオ・ガリレイ『贋金鑑識官』を発行。
* [[1624年]]…ベルリーニ、サン・ピエトロ大聖堂天蓋の内装に着工。
* [[1626年]]…ウルビーノ公国の教皇領編入。サン・ピエトロ大聖堂の献堂式を挙行。
* [[1627年]]…ウルバヌス8世、布教活動のために「コレギウム・ウルバヌム」を設立。
* [[1628年]]…トマーゾ・カンパネッラが釈放されてウルバヌス8世のために魔術的な儀式をおこなう。
* [[1631年]]…サンマリノ共和国の独立承認。
* [[1632年]]…ローマでバルベリーニ宮を着工。
* [[1633年]]…第2次ガリレオ裁判。
* [[1635年]]…ベルリーニによるサン・ピエトロ大聖堂天蓋が完成する。
* [[1640年]]…コルネリウス・ヤンセンがジャンセニズムの思想を叙述した『アウグスティヌス』が出版される。
* [[1643年]]…ウルバヌス8世、回勅でヤンセン『アウグスティヌス』を断罪。
* [[1644年]]…ウルバヌス8世、ローマで死去(7月29日)。

== 親族・友人 ==
兄に{{仮リンク|カルロ・バルベリーニ|en|Carlo Barberini (1562–1630)}}、アレクサンドロおよびニッコロ・バルベリーニ、弟に{{仮リンク|アントニオ・マルチェッロ・バルベリーニ|en|Antonio Marcello Barberini}}がおり、6歳年上の兄カルロの子(ウルバヌス8世にとっては甥)に{{仮リンク|フランチェスコ・バルベリーニ|en|Francesco Barberini (1597–1679)}}、{{仮リンク|タッデオ・バルベリーニ|en|Taddeo Barberini}}および{{仮リンク|アントニオ・バルベリーニ|en|Antonio Barberini}}がいる。教皇の弟アントニオおよび3人の甥たちはいずれも、その親族登用策で枢機卿に就任した。モデナ公爵夫人の[[ルクレツィア・バルベリーニ]]は[[パレストリーナ]]公でもあったタッデオの長女である<ref>[http://worldroots.com/foundation/families/taddeobarberinidesc.htm Worldroots:] Barberini</ref> 。タッデオの子には他に{{仮リンク|マッフェオ・バルベリーニ|en|Maffeo Barberini (1631–1685)}}、{{仮リンク|カルロ・バルベリーニ|en|Carlo Barberini}}がいる。

[[1667年]]に教皇となった[[クレメンス9世 (ローマ教皇)|クレメンス9世]]は、[[トスカーナ州|トスカーナ]]の[[ピストイア]]出身で、教皇となる以前の名をジュリオ・ロスピリオネージといい、ウルバヌス8世が教皇だったとき、学識豊かな教皇の周辺に集まった文人のひとりであった。彼は[[歌劇]]の[[台本]]作者という顔を持ち合わせており、宗教オペラの様式を創出し、最初期の[[喜歌劇]](コミック・オペラ)の台本を何本か手がけた<ref name=pgms249>[[#PGMS|マックスウェル・スチュアート(1999)pp.249-250]]</ref>。クレメンス9世は、若くしてバルベリーニ家に気に入られ、それが彼の昇進につながったのである<ref name=pgms249/>。教皇就任後のクレメンスはまた、バロックの大芸術家でウルバヌス8世のサン・ピエトロ大聖堂の改修事業に尽力した、旧友のジャン・ロレンツォ・ベルニーニに[[サンタンジェロ橋]]の装飾を依頼しており、[[橋]]はベルニーニ自作の2体ふくむ10体の[[天使]]像の彫刻で飾られている。

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
<div class="references-small">{{Reflist|2}}</div>

== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=[[今野國雄]]|chapter=ウルバヌス(8世)|editor=|year=1988|month=3|title=世界大百科事典 第3(イン-エン)|publisher=[[平凡社]]|series=|isbn=4-58-202700-8|ref=今野}}
* {{Cite book|和書|author=P.G.マックスウェル・スチュアート|translator=月森左知・菅沼裕乃(訳)|chapter=|editor=[[高橋正男]](監修)|year=1999|month=12|title=ローマ教皇歴代誌|publisher=[[創元社]]|series=|isbn=4-422-21513-2|ref=PGMS}}
* {{Cite book|和書|author=[[河辺泰宏]]|chapter=|editor=|year=2001|month=1|title=図説 ローマ|publisher=[[河出書房新社]]|series=ふくろうの本|isbn=4-309-76653-4|ref=河辺}}
* {{Cite book|和書|author=歴史と文化研究所(編著)|translator=|chapter=サンマリノ|editor=|year=2003|month=12|title=世界の国旗と国ぐに|publisher=[[メイツ出版]]|series=|isbn=4-89577-687-5|ref=国旗}}
* {{Cite book|和書|author=[[橋口倫介]]|chapter=ウルバヌス(8世)|editor=[[小学館]](編)|year=2004|month=2|title=日本大百科全書|publisher=小学館|series=スーパーニッポニカProfessional Win版|isbn=4099067459|ref=橋口}}
* {{Cite book|和書|author=|chapter=ウルバヌス8世|editor=[[フランソワ・トレモリエール]]、[[カトリーヌ・リシ]](共編) 樺山紘一日本語版監修|year=2004|month=10|title=ラルース 図説 世界人物百科II ルネサンス-啓蒙時代|publisher=[[原書房]]|series=|isbn=4-562-03729-6|ref=ラルース2}}
* {{Cite book|和書|author=ジェームズ・マクラクラン|year=2007|title=ガリレオ・ガリレイ 宗教と科学のはざまで(オックスフォード科学の肖像)|others=野本陽代訳|publisher=[[大月書店]]|isbn=978-4272440436|ref=マクラクラン}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[ガンドルフォ城]]
*[[ガンドルフォ城]]
*[[トマソ・カンパネッラ]]
*[[リシュリュー]]
*[[リシュリュー]]
*[[ジュール・マザラン]]
*[[ジュール・マザラン]]
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2012年10月31日 (水) 11:47時点における版

ウルバヌス8世
第235代 ローマ教皇

ピエトロ・ダ・コルトーナによるウルバヌス8世の肖像画(1627年作)
教皇就任 1623年8月6日
教皇離任 1644年7月29日
先代 グレゴリウス15世
次代 インノケンティウス10世
個人情報
出生 1568年4月5日
イタリアの旗 イタリアフィレンツェ
死去 1644年7月29日
イタリアの旗 イタリアローマ
その他のウルバヌス
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ウルバヌス8世(ウルバヌス8せい、ラテン語: Urbanus VIII, 英語: Urban VIII, 1568年4月5日 - 1644年7月29日)はバロック時代ローマ教皇(在位:1623年8月6日 - 1644年7月29日)。本名、マッフェオ・ヴィンチェンツォ・バルベリーニ(Maffeo Vincenzo Barberini)。三十年戦争を通じてみせた聖職者というよりは政治家統治者としての姿、学問芸術の庇護、目にあまるネポティズム(親族登用主義)など、さまざまな意味で最後の中世的教皇であった。彼は文化・芸術の庇護者であり、教会改革を進め、教皇国家の領域を史上最大のものに拡大させたが、彼の治世で発生した巨額の負債ローマ教皇庁を弱体化させ、長期にわたってヨーロッパに対し政治的・軍事的影響力を維持していくことを困難なものにした。なお、彼の時代にガリレオ・ガリレイの裁判(第2次裁判)がおこなわれたことでも知られている。

生涯

教皇選任まで

「マッフェオ・バルベリーニ(30歳、のちのウルバヌス8世)の肖像」(1598年カラヴァッジォ画)

マッフェオはフィレンツェイタリアトスカーナ州)の実力者で、カトリック教会に最も寄付を多くおこなっていた富裕な商人のひとつであったバルベリーニ家英語版の出身である[1][2]。父はアントニオ・バルベリーニ、母はカミラ・バルバドーリであった。彼は、ローマの学院で学んだが、そこはイエズス会によって質の高い教育がほどこされていた[1]1589年にはピサ大学より法学博士号を受けている。

やがてローマ教皇庁の首席書記官だった伯父の引き立てで教皇庁で働くようになり、若くしてシクストゥス5世からグレゴリウス15世にいたる歴代教皇の側近として活躍した。クレメンス8世の時代に首席書記官になると、フランス国王アンリ4世宮廷にむけた教皇大使としてフランス王国の首都パリへ赴いた。教皇大使は、ローマ教皇の代理として教会改革を推進し、一方では教皇権とヨーロッパ諸国とを仲介する要職である[1]1604年、クレメンス8世は彼をナザレ司教に叙任した。パレスティナに所在するナザレの町は当時オスマン帝国の支配下にあったため、形ばかりの役職にすぎなかったがイエス・キリストの育った地であり、名誉職にはちがいなかった。このころ、彼は、叔父の死によってその遺産を相続し、それにより彼は豪華なルネサンス様式宮殿をローマ市内に購入している。

パウルス5世の下でもフランス宮廷付教皇大使に任じられ、1606年には38歳で枢機卿に昇進し、1608年にはスポレート(イタリア・ウンブリア州)の司教1617年には教皇庁のボローニャ(イタリア・エミリア=ロマーニャ州)使節にも任命された[3]

前任のグレゴリウス15世が熱病によって死去したのは1623年7月8日のことであった[4]

グレゴリウス15世死後の、マッフェオ・バルベリーニが教皇ウルバヌス8世として選出された教皇選挙会議は混乱をきわめた[2]。枢機卿10人が熱病に倒れ、有力な候補者のひとりボルケーゼ卿は重病の床にあって立候補を断念せざるをえなくなった[2]。さらに、24人いる枢機卿に対し、20枚の用紙しか配られないなど、投票手続きにも不備があった[2]。しかし、最終的には、それまで順調に出世してきたマッフェオしかないという妥協的な雰囲気のなかで、55歳のマッフェオ・バルベリーニが必要な得票数を得て教皇の座についた[2]。1623年8月6日のことである[2]

教皇ウルバヌス8世の治世

教皇就任

彼はグレゴリウス15世の後継者としてウルバヌス8世を名乗った[5]。教皇選挙の際に、ヴェネツィア共和国の特使ゼノは以下のような記述を書き残している[6]

新しい教皇は56歳。教皇聖下は背が高く、肌は褐色で顔立ちは整い、グレー混じりの黒い髪をしていた。彼は際だってエレガントであり、その法服も細部にわたって洗練されており、優雅で貴族的なその身のこなしと相まって絶妙な味わいを醸し出していた。彼は優れた話者かつ論者であり、詩歌を書き、また詩人や文芸家のよき保護者である。

自分が教皇に選ばれた選挙会議において、さまざまな策略や駆け引きが教皇庁内で繰り広げられていることを目にしたウルバヌス8世は、枢機卿会からは一定の距離を置くよう努め、自分自身の判断と自分の一族を頼みとして、生家バルベリーニ家の人びとをはじめとする親族を次々に昇進させていった[2]サン・ピエトロ大聖堂内の彼の彫像の左、彫像の土台、石棺の上にはそれぞれバルベリーニ家の紋章であるミツバチが彫られている[2]。ウルバヌスは親族登用によって自己の勢力拡大を図ったのである[7]

教会改革

ウルバヌス8世の教皇勅書

ウルバヌス8世はイサベル・デ・アラゴン・イ・シシリアアンドレア・コルシーニイタリア語版など多くの聖人列聖し、聖別法を制定した[3]。また、聖マリア訪問童貞会ヴァンサン・ド・ポールが創立したラザリスト会といった新しく設立された修道会を認可し、聖務日課書を改訂するなど教会改革に熱心であった[3]

教皇権の強化にも取り組み、ヨーロッパ外の伝道にも熱心で、布教活動にあたる聖職者を要請する教育機関「コレギウム・ウルバヌム」(ウルバヌス学院)を創設した[1][注釈 1]。ウルバヌスはまた、「普遍教会の導き手」として、1545年トリエント公会議に倣い、同様の議題を策定しようと図ったが、これには失敗している[1]

軍事と外交

ウルバヌス8世の治世は神聖ローマ帝国を舞台として長く続いた三十年戦争1618年1648年)がヨーロッパ全体に暗い影を落としており、プロテスタント勢力の台頭もあって、ローマ教会にとっても多事多難の時期であった。教皇自身もヨーロッパ列強の思惑に対し、ときに対等に渡り合い、ときには左右されながら、世俗君主同様、ヨーロッパ内の一勢力としての政治的駆け引きを余儀なくされた。1626年にはウルビーノ公国教皇領に編入し、1627年にはマントヴァ公国ゴンザーガ家の直系男子が途絶えると、ハプスブルク家の影響力に圧倒されながらも、その意に反してヌヴェール公カルロ1世を後継者に推している。1631年にはイタリア半島北東部のサンマリノの独立を承認した[8]

戦乱のなかでウルバヌス8世は自領の軍事力の充実を図っている。彼はローマ教皇領を拡大した最後の教皇となり、教皇領は史上最大となった[7]マントヴァとの境に近いカステルフランコ・エミーリアおよびチヴィタヴェッキア港要塞化し、ローマのサンタンジェロ城を強化し、すでにティヴォリにあった兵器工場をバチカンにも増設している。また、軍事力増強政策の一環として、ウルバヌスがローマのパンテオン青銅の桁をはずして大砲を製造したことは大きな物議をかもし、「蛮族(バルバリ)すら成し得なかったことをバルベリーニが成し遂げた」("quod non fecerunt barbari, fecerunt Barberini")と皮肉られた。

ウルバヌス8世は、前代のグレゴリウス15世とは異なり、中立を保ちながらもフランス王国への接近を図った[2][4][7]。それは、1527年に起きたローマ略奪のような事態を回避し、イタリアにおける神聖ローマ帝国=ハプスブルク家の野望に対抗するためであったが、そのことは逆に、ブルボン王朝に仕え、フランスをヨーロッパ一の強国に成長させるべく尽力したルイ13世の名宰相リシュリュー枢機卿の政治手腕に翻弄される結果をもたらした[1][2]。ウルバヌスは、1635年神聖ローマ皇帝フェルディナント2世ドイツのプロテスタント勢力と和議を結んだ際にも、ただ、それを追認するほかなかった[2][注釈 2]。また、1636年、ウルバヌスはケルンに平和会議を招集し、フランス・ドイツ間の和解を図ろうとして失敗している[3]。ウルバヌス8世がスウェーデンオランダなどプロテスタントと同盟したフランスを支持したために、教皇権の権威はかえって失墜し、ヨーロッパにおける教皇の影響力が低下したことで、ローマ教会はドイツでの巻き返しを実現することがかえって困難になってしまった[1]。そのため、ウルバヌスはイタリア半島における利権の確保に注力せざるをえなくなったのである[1]

学問と芸術

ジャン・ロレンツォ・ベルニーニによるサン・ピエトロ大聖堂の天蓋

ウルバヌス8世は、1633年にガリレオに自説を撤回させたことで歴史に名前を残すことになった(詳細後述)。しかし、その一方で学問芸術の守護者でもあった。高い教養で知られたウルバヌス8世は、画家彫刻家建築家をもっとも助成した教皇のひとりだったのである[1]

「聖テレジアの法悦」(1648年)で知られる大芸術家ジャン・ロレンツォ・ベルニーニは、ウルバヌス8世によってローマのあらゆる芸術活動を任された人物であり、その一環としてサン・ピエトロ大聖堂の内装に取り組んだ[1][9]。ウルバヌスはベルニーニに対し内陣の天蓋(バルダッキーノ)制作を委嘱しており、1626年、内部は改造中のままサン・ピエトロ大聖堂の献堂式が行われた[1]。サン・ピエトロ大聖堂の天蓋は、1624年から1635年まで完成に11年の歳月を要しており、また、使徒ペトロの天蓋は教皇領の年間歳入の10倍の費用がかかったといわれている。サンピエトロ大聖堂の天蓋と、ウルバヌス8世死後に大聖堂内陣につくられた「聖ペトロの司教座」(1656年-1666年)は、ベルニーニによるバロック芸術の傑作といわれる[9]。それは、彫像的な性格を有した建築装置であり、絵画・彫刻・建築それぞれの特質を融合して一つの目的のために駆使した、いわば「総合舞台芸術」であった[9]

ベルニーニは、ウルバヌス8世と甥の枢機卿タッデオによりローマのバルベリーニ宮殿の建築にもかかわった[1]。バルベリーニ家の栄光をたたえるフレスコ画ピエトロ・ダ・コルトーナによって描かれた[1]。そのほか、教皇による建設事業ではバルベリーニ広場の「トリトーネの噴水」が特によく知られている。ウルバヌス8世はまた、カステル・ガンドルフォラツィオ州ローマ県)に別荘としてガンドルフォ城を築き、以後、同地は歴代ローマ教皇の避暑地となった[7][注釈 3]。また、フランスの画家ニコラ・プッサンクロード・ローランローマに招いて創作活動に従事させ、ドイツ出身のイエズス会の碩学アタナシウス・キルヒャーもローマに招いている。甥の枢機卿フランチェスコ・バルベリーニは、プッサンおよび シモン・ヴーエを庇護した[1]

祝福を授けるポーズの教皇ウルバヌス8世(ジャン・ロレンツォ・ベルニーニとその生徒による1635年-1640年の作品、サン・ピエトロ大聖堂内のの彫像)

1640年ネーデルラント出身の神学者コルネリウス・ヤンセンは古代の教父として著名なアウグスティヌスの思想から大きな影響を受け、その恩寵説をもとに、その人間の自由意志の無力さや腐敗した人間本性の罪深さを強調した『アウグスティヌス-人間の本性の健全さについて-』を発表した。ウルバヌス8世がこれに対し、1643年回勅「イン・エミネンティ」においてヤンセンの著作を断罪したことは、そののち長く続いた「ジャンセニスム論争」の幕開けとなった。

ネポティズムと教皇の最期

ウルバヌス8世の治世において特徴的なことは大規模なネポティズム(親族登用主義)による人事である。バルベリーニの一族によって教皇庁とローマは牛耳られ、多くの富がバルベリーニ家にもたらされた。それに不満をもつローマ市民も少なくなかった[2]。ウルバヌス8世は中世を通じて教皇庁の諸悪の根源として批判されていたネポティズムを大々的におこなった最後の教皇となった。これには当然弊害もあり、晩年のウルバヌス8世は、強欲な甥たちを信用した結果、1641年から1644年にかけてのイタリア内部の抗争に介入し、教皇庁の財源はそれにより大きな痛手を受けた[2][注釈 4]

1644年、ウルバヌス8世は76歳で死去した。死因はパルマ公オドアルド1世との争いによる心労ともいわれている。枢機卿会との対立からはじまった教皇ウルバヌスの治世の最後はローマでの民衆暴動が締めくくった[2]。ウルバヌス8世は教会の財源を浪費したのみならず、イタリアで無謀な戦争を重ねてきたため、門閥主義に対する反感もあって、その人気は地に堕ちていたのである[2]

ウルバヌス8世の死以降、教皇庁では改革意識の高まりとともにネポティズムの反省がなされ、その根絶が目指されるようになった。

ウルバヌス8世とガリレオ裁判

ウルバヌス8世はガリレオ裁判と縁が深い。ガリレオはパウルス8世(在位:1605年-1621年)によって批判され、ウルバヌス8世の時代になって再び異端者として糾弾された[2]。ガリレオは個人的にはウルバヌスの友人であり、ローマの学院の後輩でもあった[1]1623年のガリレオの著作『贋金鑑識官』はウルバヌス8世の支援で出版され、同書は教皇に献呈されたものであったにもかかわらず、ガリレオは自説を放棄させられた[1][2]。ウルバヌスはガリレオに対する裁判とその判決に反対することができなかったのである[1]

  • 1616年…ガリレオに対するローマ教皇庁異端審問所の第1回宗教裁判。ガリレオは地動説を唱えないよう、注意を受ける。この際、枢機卿時代のウルバヌス8世も裁判に参加している。
  • 1623年…ガリレオの『贋金鑑識官』がウルバヌス8世への献辞をつけて刊行。
  • 1632年…『天文対話』刊行。地動説論者、天動説論者、中立派の3人による対話という形式で書かれている。教皇庁の許可を受けての出版であるが、物分りの悪い人物として描かれている天動説論者はウルバヌス8世をあてこすったものだという讒言があり、教皇を怒らせたという。
  • 1633年…ガリレオに対する第2回宗教裁判で異端の判決が下される(終身刑とされるが、直後にトスカーナ大公国(フィレンツェ)ローマ大使館での軟禁に減刑)。

なお、P.G.マックスウェル・スチュアートは、ウルバヌス8世が天動説への共感や確信によりガリレオを断罪したというよりは、当時としては異端の臭いのする地動説に何か怪しさを感じただけにすぎなかっただろうと述べている[2][注釈 5]

サンマリノ独立承認

1631年、ウルバヌス8世はサンマリノの独立を承認した。サンマリノは、このとき以来独立を保持し、現存する独立国家では最古の共和制国家である。なお、サンマリノの国名は、4世紀初め、マリーノという名の石工ローマ皇帝によるキリスト教迫害を逃れ、この地に潜伏してキリスト教徒共同体をつくったという伝説にちなんでおり、石工マリーノを「聖(サン)マリーノ」と呼称したことに由来している[8]

人物

アンドレア・ニコレッティの『教皇ウルバヌス8世の生涯』によれば、ウルバヌス8世は身長が高く、均整のとれた筋骨たくましい堂々たる体格で、オリーブ色は朗々としていたという[2]。また、同書には、ウルバヌス8世が「すばらしい知力と博覧強記」の持ち主で、大きな、広い、形のよい、四角いあごひげをもち、は本来ふくよかであったが、晩年にはげっそりとこけてしまったことを記載している[2]

教養人ウルバヌス8世

カトリックの伝統と人文主義の新しい潮流が混淆したローマの学院で学んだウルバヌス8世は、トスカーナ語ラテン語ギリシア語で著作を執筆した教養人であり、ラテン語の詩作に優れ、多くの作品をのこした[1]。その外交・軍事政策には失敗も少なくないウルバヌス8世であったが、今日でいうメセナ(学問芸術への助成)活動についてはしばしば高い評価もあたえられる[1]シクストゥス5世によるローマ再整備ののち、その装飾を完成させ、ローマをヨーロッパ随一の芸術の都としたのは彼の功績といえる[1]。折しもこのころ、ローマではオラトリオ修道会が中心となって、今までにない信仰心発露のスタイルとして新しい音楽ジャンル(オラトリオ)を編み出していた。ローマの祝祭は、華々しい行列やオラトリオなどの演出がウルバヌス8世の注力したバロック芸術と相まってにぎわい、巡礼観光でローマにおとずれる人は年間数十万人にもおよんだ[1]。また、彼の理念はフランスではリシュリュー枢機卿や「太陽王」ルイ14世の養育係・宰相となったイタリア生まれのジュール・マザラン枢機卿に受け継がれることとなった[1]

魔術への傾倒

トマーゾ・カンパネッラ

猜疑心の強いウルバヌス8世は、占星術師にローマ在住の枢機卿の死期を占わせるようなことをしている[2]。しかし、巷間では自分の詳細な運勢図が流れていることを知り、天界から悪意を受けないようにするため、ドミニコ会修道士であったトマーゾ・カンパネッラの力を借りて、間近にせまった月食の悪影響を除去する儀式をおこなった[2]。カンパネッラは、1589年から異端として長いあいだ投獄されていたが、1628年に釈放され、ウルバヌスの前に引き渡されたのである[2]。カンパネッラの儀式はラテラーノ宮殿の教皇の間でおこなわれた。それは、密室に白いがかけられ、薬草が焚かれ、太陽を意味する2つのランプ十二宮が用意されて占星音楽が奏でられるというものであり、キリスト教の教義からは逸脱いちじるしい魔術的な儀式であった[2]

年譜

  • 1568年…のちのウルバヌス8世、マッフェオ・バルベリーニがフィレンツェで生まれる(4月5日)。
  • 1604年…マッフェオ・バルベリーニがパリ教皇大使となる。
  • 1606年…枢機卿となる。
  • 1608年…スポレト司教となる。
  • 1617年…ボローニャの教皇特使となる。
  • 1623年…ウルバヌス8世としてローマ教皇に即位。ガリレオ・ガリレイ『贋金鑑識官』を発行。
  • 1624年…ベルリーニ、サン・ピエトロ大聖堂天蓋の内装に着工。
  • 1626年…ウルビーノ公国の教皇領編入。サン・ピエトロ大聖堂の献堂式を挙行。
  • 1627年…ウルバヌス8世、布教活動のために「コレギウム・ウルバヌム」を設立。
  • 1628年…トマーゾ・カンパネッラが釈放されてウルバヌス8世のために魔術的な儀式をおこなう。
  • 1631年…サンマリノ共和国の独立承認。
  • 1632年…ローマでバルベリーニ宮を着工。
  • 1633年…第2次ガリレオ裁判。
  • 1635年…ベルリーニによるサン・ピエトロ大聖堂天蓋が完成する。
  • 1640年…コルネリウス・ヤンセンがジャンセニズムの思想を叙述した『アウグスティヌス』が出版される。
  • 1643年…ウルバヌス8世、回勅でヤンセン『アウグスティヌス』を断罪。
  • 1644年…ウルバヌス8世、ローマで死去(7月29日)。

親族・友人

兄にカルロ・バルベリーニ英語版、アレクサンドロおよびニッコロ・バルベリーニ、弟にアントニオ・マルチェッロ・バルベリーニ英語版がおり、6歳年上の兄カルロの子(ウルバヌス8世にとっては甥)にフランチェスコ・バルベリーニ英語版タッデオ・バルベリーニ英語版およびアントニオ・バルベリーニ英語版がいる。教皇の弟アントニオおよび3人の甥たちはいずれも、その親族登用策で枢機卿に就任した。モデナ公爵夫人のルクレツィア・バルベリーニパレストリーナ公でもあったタッデオの長女である[10] 。タッデオの子には他にマッフェオ・バルベリーニ英語版カルロ・バルベリーニ英語版がいる。

1667年に教皇となったクレメンス9世は、トスカーナピストイア出身で、教皇となる以前の名をジュリオ・ロスピリオネージといい、ウルバヌス8世が教皇だったとき、学識豊かな教皇の周辺に集まった文人のひとりであった。彼は歌劇台本作者という顔を持ち合わせており、宗教オペラの様式を創出し、最初期の喜歌劇(コミック・オペラ)の台本を何本か手がけた[11]。クレメンス9世は、若くしてバルベリーニ家に気に入られ、それが彼の昇進につながったのである[11]。教皇就任後のクレメンスはまた、バロックの大芸術家でウルバヌス8世のサン・ピエトロ大聖堂の改修事業に尽力した、旧友のジャン・ロレンツォ・ベルニーニにサンタンジェロ橋の装飾を依頼しており、はベルニーニ自作の2体ふくむ10体の天使像の彫刻で飾られている。

脚注

注釈

  1. ^ コレギウム・ウルバウムは主として新大陸布教の教育機関の役割を担わされた。橋口(2004)
  2. ^ ウルバヌス8世は、「神がおられるなら、リシュリュー枢機卿はたっぷり罰を受けるだろう。神がおられないなら、彼はうまくやりおおせるだろう」と述べている。マックスウェル・スチュアート(1999)p.244
  3. ^ ガンドルフォ城内の別荘群は教皇国家の終焉とともに手放されたが、1929年に教皇の特別領土とされ、教皇庁の避暑地に復した。
  4. ^ 教皇庁の借入金の額は1526年には歳入の3分の1ほどであったが、1599年には50パーセントを超え、1654年には歳入の6割近くに達していた。これに対して、そのあいだ宗教活動に用いられた支出は変わっていないので、長期的にみて財政は借金体質を深めていたといえる。『ラルース 図説 世界人物百科II』(2004)p.262
  5. ^ ローマ教会がガリレオ裁判の誤りを認めたのは、1992年、教皇ヨハネ・パウロ2世によるものであり、そのとき、ガリレオの死去から350年の歳月が経過していた。マクラクラン (2007)pp.143-144

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 『ラルース 図説 世界人物百科II』(2004)pp.260-262
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x マックスウェル・スチュアート(1999)pp.243-245
  3. ^ a b c d 今野(1988)p.383
  4. ^ a b マックスウェル・スチュアート(1999)pp.241-242
  5. ^ Ott, Michael T. (1912). "Pope Urban VIII". The Catholic Encyclopedia. Vol. XV. New York: Robert Appleton Company. 2007年9月7日閲覧
  6. ^ The Triple Crown: An Account of the Papal Conclaves by Valérie Pirie
  7. ^ a b c d 橋口(2004)
  8. ^ a b 『世界の国旗と国ぐに』(2003)p.52
  9. ^ a b c 河辺(2001)pp.110-111
  10. ^ Worldroots: Barberini
  11. ^ a b マックスウェル・スチュアート(1999)pp.249-250

参考文献

関連項目