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「ハーバート・ヘンリー・アスキス」の版間の差分

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{{政治家
{{大統領
| 人名 = [[w:Earl of Oxford and Asquith|オックスフォード及びアスキス伯爵]](1925年受爵)<BR>ハーバート・ヘンリー・アスキス
|人名 = 初代オックスフォード及びアスキス伯<br/>ハーバート・ヘンリー・アスキス
| 各国語表記 = Herbert Henry Asquith,<br />Earl of Oxford and Asquith
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|生年月日 =[[1852年]][[9月12日]]
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|出生地 =[[イギリス]]、[[イングランド]]、[[ウェスト・ヨークシャー州]]、{{仮リンク|モーリー (ウェスト・ヨークシャー)|label=モーリー|en|Morley, West Yorkshire}}
| 職名 = 首相
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|前職 = [[弁護士]]
| 元首 = [[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]<BR>[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]
|所属政党 = [[自由党 (イギリス)|自由党]]
| 出生日 = [[1852年]][[9月12日]]
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| 没地 = [[オックスフォードシャー|オックスフォードシャー州]]サットン・コートニー
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| 配偶者 = マーゴット・テナント
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}}
[[w:Earl of Oxford and Asquith|オックスフォード及びアスキス伯爵]]'''ハーバート・ヘンリー・アスキス'''('''Herbert Henry Asquith''', Earl of Oxford and Asquith, [[1852年]][[9月12日]] - [[1928年]][[2月15日]])は、[[イギリス]]の政治家。[[自由党 (イギリス)|自由党]]総裁、[[第一次世界大戦]]開戦時の[[イギリスの首相|首相]]。子に映画監督の[[アンソニー・アスキス]]、曾孫に女優の[[ヘレナ・ボナム=カーター]]がいる
初代[[オックスフォード及びアスキス伯爵]]'''ハーバート・ヘンリー・アスキス'''('''Herbert Henry Asquith''', 1st Earl of Oxford and Asquith, [[ガーター勲章|KG]], [[枢密院 (イギリス)|PC]], [[勅選弁護士|KC]], [[1852年]][[9月12日]] - [[1928年]][[2月15日]])は、[[イギリス]]の[[政治家]]、[[貴族]]。

[[ヘンリー・キャンベル=バナマン]]の引退後、代わって[[自由党 (イギリス)|自由党]]党首・[[イギリスの首相|首相]]となった(在職[[1908年]]-[[1916年]])。さまざまな内政改革を行いつつ、外交では自由帝国主義者として海軍増強に力を入れ、[[ドイツ帝国]]との[[建艦競争]]を行い、最終的には[[第一次世界大戦]]を招いた。

子に映画監督の[[アンソニー・アスキス]]、曾孫に女優の[[ヘレナ・ボナム=カーター]]がいる。


== 概要 ==
== 概要 ==
1852年生まれ。幼い頃に父を亡くし、いろいろな家を転々とする半孤児的な少年時代を送る。学業優秀だったため、[[奨学金]]を得て[[オックスフォード大学]][[ベリオール・カレッジ (オックスフォード大学)|ベリオール・カレッジ]]に入学。
[[イングランド]]、[[:en:Morley, West Yorkshire|モーリー]]([[ウェスト・ヨークシャー]])出身。[[1908年]]に首相に就任した。在任中、[[マルコーニ]]事件(※[[タイタニック (客船)|タイタニック号]]遭難事件で[[遭難信号]]を発信した通信技術が脚光を浴び、その大手企業マルコーニ社の株価が急騰した。その際、大蔵大臣[[デビッド・ロイド・ジョージ|ロイド・ジョージ]]、海軍大臣[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]ら閣僚が、未公開時に譲渡された同社株を高値で売り抜けたことが発覚し、糾弾された)等、スキャンダルがあったものの、第一次大戦勃発で疑惑追及は尻すぼみとなる。

大学卒業後、[[弁護士]]となる。[[1886年]]の総選挙に自由党候補として出馬して初当選する。自由党内ではローズベリー伯爵の自由帝国主義派の派閥に属した。[[1889年]]に{{仮リンク|アイルランド国民党|en|Irish Parliamentary Party}}党首[[チャールズ・スチュワート・パーネル|パーネル]]の冤罪を晴らしたことで政治家、弁護士として名をあげる。

[[1892年]]発足の第4次グラッドストン内閣に内務大臣として入閣。続くローズベリー伯爵内閣でも留任した。1895年から1905年までの自由党野党時代には[[ジョゼフ・チェンバレン]]の保護貿易論を批判する運動で活躍し、後に自由党党首となりうる声望を得た。[[1905年]]に発足した自由党政権[[ヘンリー・キャンベル=バナマン]]内閣に大蔵大臣として入閣した。

キャンベル=バナマンの政界引退で[[1908年]]に後継の首相に就任した。1908年には70歳以上の高齢者に年金を支給する老齢年金法を制定、1910年には富裕層に税負担させる税制改正を含む「人民予算」を可決させた。1911年には[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]の拒否権を制限し、庶民院の優越を確立した[[議会法]]を制定した。人民予算と議会法は貴族院と鋭く衝突することになり、1910年に2度解散総選挙が行われる事態となった。しかし二度とも自由党は単独で過半数を得ることが出来ず、内閣は[[労働党 (イギリス)|労働党]]とアイルランド国民党の[[閣外協力]]を基盤とするようになった。

外交面では自由帝国主義外交を行い、海軍増強に力を入れ、[[大英帝国]]の植民地支配を脅かす[[ドイツ帝国]]と[[建艦競争]]を行った。ドイツとの緊張は高まっていき、最終的に1914年の[[第一次世界大戦]]を招いた。

1914年8月4日、ドイツによる[[ベルギー]]の中立侵犯を理由にイギリスの第一次世界大戦参戦を決定した。1915年に[[保守党 (イギリス)|保守党]]と労働党の主戦派を閣内に引き入れて、[[挙国一致内閣]]を成立させた。

戦争は泥沼化していく中、アスキスの[[総力戦]]体制構築が手ぬるいと感じていた[[デビッド・ロイド・ジョージ]]により[[1916年]][[12月]]に首相職から引きづり降ろされた。以降自由党はロイド・ジョージ派とアスキス派に分裂した。

1925年にはオックスフォード及びアスキス伯爵の爵位を与えられるも1928年に死去した。
{{-}}
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
[[1852年]][[9月12日]]、[[ウェスト・ヨークシャー]]の{{仮リンク|モーリー (ウェスト・ヨークシャー)|label=モーリー|en|Morley, West Yorkshire}}で生まれる<ref name="中村(1978)11">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.11</ref>。

父は羊毛業者のジョゼフ。母はその妻エミリー。兄にウィリアム、妹にエベリンがいる<ref name="中村(1978)11"/>。[[1860年]]に父が死んだため、母の実家に身を寄せた。兄とともに[[リーズ]]郊外のフルネックにある[[モラヴィア兄弟団]]系の寄宿学校に入学する<ref name="中村(1978)12">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.12</ref>。

[[1862年]]には祖父の死で母が実家を出ることになり、アスキスと兄はロンドンの伯父に引き取られたが、伯父の引っ越しに伴い[[イズリントン]]の医者のところへ預けられ、{{仮リンク|シティ・オブ・ロンドン・スクール|en|City of London School}}に入学した<ref name="中村(1978)12">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.12</ref>。

古典で優秀な成績を残したため、古典奨学金を獲得でき、[[オックスフォード大学]]の[[ベリオール・カレッジ (オックスフォード大学)|ベリオール・カレッジ]]に入学できた<ref name="中村(1978)13">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.13</ref>。大学では常に首席の成績であった。学生クラブ活動にも熱心だった<ref name="中村(1978)13">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.13</ref>。

=== 弁護士 ===
1875年に大学を卒業した後、[[ロンドン]]に上京。[[リンカーン法曹院]]で学びつつ、オックスフォード大学の先輩である弁護士{{仮リンク|チャールズ・ボウエン (ボウエン男爵)|label=チャールズ・ボウエン|en|Charles Bowen, Baron Bowen}}の助手を務めた。ボウエンから[[コモン・ロー]]について教えを受けた<ref name="中村(1978)14">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.14</ref>。

わずか9か月ほどで弁護士として独立開業することに成功するも法曹界に人脈が無さ過ぎて、事務所の経営は厳しかった。1876年には医者の娘ヘレン・メランドと結婚している。彼女には幾らか収入の当てがあったので、質素な生活を営むぐらいはできた<ref name="中村(1978)14">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.14</ref>。彼女との間には3人の男子と1人の女子を儲けている<ref name="中村(1978)15">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.15</ref>。

[[1881年]]に[[自由党 (イギリス)|自由党]]左派が前年に作った「80年クラブ」に入会している<ref name="中村(1978)16">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.16</ref>。

[[1883年]]頃にボウエンの縁で{{仮リンク|イングランド及びウェールズ司法長官|label=司法長官|en|Attorney General for England and Wales}}{{仮リンク|ヘンリー・ジェームズ (初代ジェームス・オブ・ヘリフォード)|label=ヘンリー・ジェームズ|en|Henry James, 1st Baron James of Hereford}}に注目されるようになってから、弁護士業が軌道に乗るようになった<ref name="中村(1978)16">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.16</ref>。

=== 庶民院議員に当選、最初の野党時代===
[[File:Herbert Henry Asquith Vanity Fair 1 August 1891-cropped.jpg|180px|thumb|1891年8月1日の『{{仮リンク|ヴァニティ・フェアー (イギリス雑誌)|label=ヴァニティ・フェアー|en|Vanity Fair (British magazine)}}』誌のアスキスの[[戯画]]。]]
[[1885年]]に発足した[[自由党 (イギリス)|自由党]]政権の第3次[[ウィリアム・グラッドストン]]内閣はアイルランド自治法案を議会に提出したが、[[ジョゼフ・チェンバレン]]らが自由党を割って反対票を投じた結果、法案は否決された。これを受けてグラッドストンは1886年7月に{{仮リンク|1886年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1886}}に打って出た。

この選挙でアスキスは{{仮リンク|イースト・ファイフ選挙区|en|East Fife (UK Parliament constituency)}}から自由党候補として出馬した。この選挙区はこれまで出馬していた自由党候補がチェンバレンとともに自由党を離党したため、自由党の候補が空きになっていた選挙区だった<ref name="中村(1978)17">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.17</ref>。自由党の地盤の選挙区であり、グラッドストン支持を訴えるアスキスが当選を果たした(ただし総選挙全体の結果は自由党の敗北であり、第3次グラッドストン内閣は退陣することになった)<ref>[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.17-18</ref>。

[[保守党 (イギリス)|保守党]]政権下の1887年3月24日に{{仮リンク|処女演説|en|Maiden speech}}を行い、アイルランド担当大臣[[アーサー・バルフォア]]が制定したアイルランド強圧法に反対する演説を行った。{{仮リンク|自由統一党 (イギリス)|label=自由統一党|en|Liberal Unionist Party}}のジョゼフ・チェンバレンはアスキスの処女演説を褒めている<ref>[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.18-19</ref>。

自由党内では[[アーチボルド・プリムローズ (第5代ローズベリー伯)|ローズベリー伯爵]]、[[エドワード・グレイ]]、{{仮リンク|リチャード・ホールデン (ホールデン子爵)|label=リチャード・ホールデン|en|Richard Haldane, 1st Viscount Haldane}}らとともに「自由帝国主義」派の派閥に属していた<ref name="中村(1978)19">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.19</ref>。

アスキスが名をあげたのは、[[1889年]]に{{仮リンク|アイルランド国民党|en|Irish Parliamentary Party}}党首[[チャールズ・スチュワート・パーネル|パーネル]]がアイルランド担当相[[フレデリック・キャヴェンディッシュ]]卿の暗殺に関与したことを示唆する『[[タイムズ]]』紙の記事が捏造であることを証明したことだった。アスキスはパーネルから依頼を受けてこの件の調査にあたった。記事を書いた者は追及を苦にして自殺してしまったが、アスキスは諦めることなく、『タイムズ』紙支配人を追及し、とうとう『タイムズ』紙がたいした調査もせずにこの捏造記事を載せたことを証明した。これによりパーネル人気は絶大なものになり、アスキスの知名度も高まったのである<ref>[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.19-20</ref>{{#tag:ref|ただパーネルは翌[[1890年]]に[[不倫]]スキャンダルを起こし、急速に世論の支持を失った。自由党の支持勢力の中核である[[非国教徒 (イギリス)|非国教徒]]の反発も激しく、自由党とパーネルと連携するのは難しい情勢となった。アイルランド国民党は{{仮リンク|ジャスティン・マッカーシー|en|Justin McCarthy (1830–1912)}}率いる多数派とパーネル率いる少数派に分裂し、多数派が自由党と連携を深めた。一方パーネル派はパーネルの離婚でさらに支持者を失い、1892年にはパーネルも死去して弱小派閥となった<ref>[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.417-419</ref>。|group=注釈}}。

この件がきっかけとなり、アスキスの弁護士としての仕事も急激に増え、1890年春には{{仮リンク|勅選弁護士|en|Queen's Counsel}}に勅任されるほどイギリス有数の弁護士となっていた<ref name="中村(1978)20">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.20</ref>。
{{-}}

=== 第4次グラッドストン内閣内務大臣 ===
[[File:Gladstone.jpg|180px|thumb|自由党の首相[[ウィリアム・グラッドストン]]。]]
[[1892年]]6月の{{仮リンク|1892年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1892}}は自由党の辛勝に終わった。アスキスもイースト・ファイフ選挙区で再選を果たす<ref name="中村(1978)21">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.21</ref>。

保守党の首相[[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ソールズベリー侯爵]]は総選挙の敗北にもかかわらず、なかなか辞職しようとしなかったため、自由党党首グラッドストンは内閣不信任案を提出することを決定し、その動議をアスキスに任せた。アスキスは8月8日に内閣不信任案を提出し、雄弁な演説を行った。アスキス提出の内閣不信任案は3日にして可決されている<ref name="中村(1978)21">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.21</ref>。

こうして第4次グラッドストン内閣が発足する運びとなった。グラッドストンはアスキスの働きを評価し、彼を{{仮リンク|内務大臣 (イギリス)|label=内務大臣|en|Home Secretary}}に抜擢した。グラッドストンは政務次官を経ていない者をいきなり閣内大臣に任命するような抜擢人事を嫌う人だったので、極めて異例の抜擢だったといえる<ref name="中村(1978)21">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.21</ref>。

新内務大臣アスキスは8月28日に[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]から陪食を許されたが、女王はその日の日記の中でアスキスについて「気持ちよく素直にして分別がある人物と見える」と書いている<ref name="中村(1978)21">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.21</ref>。

内相就任早々に[[トラファルガー広場]]で予定されていた左翼集会を許可するか否かの問題にぶつかった。前保守党政権はこの集会を禁止する方針だったが、アスキスはこの方針を変更し、土曜日の午後、日曜日、銀行休業日の日中であり、かつ事前に日時と行進ルートを警視庁に申し出ておけば自由にデモをしてよいという方針を定めた。この方針は現在のイギリスにも受け継がれている<ref name="中村(1978)22">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.22</ref>。

また工場法改正に着手し、検査制度の強化、女性の検査官就任を認める改正を主導した<ref name="中村(1978)26">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.26</ref>。

[[1893年]]初頭にはアイルランド国民党パーネル派がアイルランド独立運動家の爆破テロリストたちを釈放するよう内務大臣アスキスに要請してきたが、アスキスは「政治犯と個人犯罪の間に差別は認められない」としてその要求を拒否した。自由党内では友党アイルランド国民党に対して遠慮する者が多かったが、アスキスの法の執行者としての毅然たる態度はそうした政治的配慮で揺らぐことはなかった<ref name="中村(1978)22">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.22</ref>。

1893年秋には{{仮リンク|フェザーストーン|en|Featherstone}}で労使対立が深刻化し、暴動が発生したが、アスキスは現地警察の要請に応じて、その鎮圧のために軍隊を投入するのに主導的役割を果たした。このアスキスの対応には批判もあったが、アスキスは「現地のことは現地警察が一番よく分かっているはずであり、それより情報が少ない内務大臣が現地警察の要請を無碍に断るべきではない」と反論した<ref name="中村(1978)22">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.22</ref>。
{{-}}

=== ローズベリー伯爵内閣内務大臣 ===
[[File:RoseberyMillais.gif|180px|thumb|自由党の首相[[アーチボルド・プリムローズ (第5代ローズベリー伯)|ローズベリー伯爵]]。党内ではアスキスの属する自由帝国主義派の領袖だった。]]
[[1894年]]3月にグラッドストンが引退し、ヴィクトリア女王の独断の叡慮により[[アーチボルド・プリムローズ (第5代ローズベリー伯)|ローズベリー伯爵]]が後任として大命降下を受けた<ref>[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.23-24</ref>。

ローズベリー伯爵の内閣でもアスキスは引き続き内務大臣に留任した。またこの頃、死別した妻に代わって資産家{{仮リンク|サー・チャールズ・テナント (初代准男爵)|label=サー・チャールズ・テナント准男爵|en|Sir Charles Tennant, 1st Baronet}}の娘{{仮リンク|マーゴット・アスキス (オックスフォード及びアスキス伯爵夫人)|label=マーゴット・テナント|en|Margot Asquith, Countess of Oxford and Asquith}}と再婚した。彼女は大変な才女で社交界の花であり、自由党のみならず保守党の政治家たちからも評判が良かった<ref name="中村(1978)24">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.24</ref>。

ローズベリー伯爵内閣は首相・{{仮リンク|貴族院院内総務|en|Leader of the House of Lords}}であるローズベリー伯爵と大蔵大臣・[[庶民院院内総務]]である{{仮リンク|ウィリアム・バーノン・ハーコート|en|William Vernon Harcourt (politician)}}の内紛が激しい内閣だった。アスキスはローズベリー伯爵派だったが、なるべくこの対立に巻き込まれないようにしようと内務大臣の職務に集中した<ref>[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.24-25</ref>。

[[1895年]]にはウェールズ教会を国教会から解放する法案に取り組んだが、野党保守党からの反発は根強く、[[デビッド・ロイド・ジョージ]]ら[[ウェールズ]]出身の自由党議員も法案の不十分さを指摘して反対した<ref name="中村(1978)25">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.25</ref>。

アスキスがその説得にあたっている間、{{仮リンク|戦争大臣 (イギリス)|label=戦争大臣|en|Secretary of State for War}}[[ヘンリー・キャンベル=バナマン]]は陸軍予算に関する法案に敗れ、陸軍大臣職を辞職した。首相ローズベリー伯爵はこれを機に総辞職することを決定した。ここで辞職しなくてもその後アスキスが取り組んでいるウェールズ教会問題で敗北を喫する可能性が高かったのでその前に早々に総辞職した形だった<ref name="中村(1978)27">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.27</ref>。

アスキスはウェールズ教会法案敗北に直面するのを回避できてこの総辞職に内心安堵していたという。一方でロイド・ジョージらウェールズ出身者に不満を持つようにもなったという<ref name="中村(1978)26">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.26</ref>。
{{-}}

=== 二度目の野党期 ===
==== ローズベリー伯爵派として ====
ローズベリー伯爵内閣総辞職後、1905年まで保守党と自由統一党の合同政党の統一党の政権が続き、アスキスら自由党は野党として過ごした。自由党は引き続きローズベリー伯爵が党首、ハーコートが{{仮リンク|自由党庶民院院内総務|en|Liberal Party (UK)#Liberal leaders 1859–1988}}を務めていた<ref name="中村(1978)28">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.28</ref>。

1895年末から[[1896年]]初頭にかけて[[南アフリカ]]・[[トランスヴァール共和国]]で[[セシル・ローズ]]の部下たちが侵入するも失敗して捕虜になるという{{仮リンク|ジェームソン侵入事件|en|Jameson Raid}}が発生した。この事件以降統一党政権は植民地大臣[[ジョゼフ・チェンバレン]]のもと、トランスヴァールへの野心を本格化させ、反トランスヴァール世論を煽るようになった。こうした情勢の中で自由党内は党首ローズベリー伯爵やアスキスら「自由帝国主義派」とキャンベル=バナマンやハーコートら「小英国主義派」の内紛が深まっていった<ref name="中村(1978)29">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.29</ref>。

1896年10月にはローズベリー伯爵が自由党党首職から退いた。この際の辞任演説の中でローズベリー伯爵は「私の目に狂いがなければ、情理を備えたアスキス氏が将来国家を指導する地位につくことになろう」と予言した<ref name="中村(1978)29">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.29</ref>。

後任の自由党党首はアスキスかキャンベル・バナマンのどちらかだろうという下馬評だったが、アスキスの方が16歳若年であったし、また金持ちのキャンベル=バナマンと違い、アスキスはいまだ弁護士をして生計を立てなければならない身だったため、アスキス自ら辞退し、キャンベル=バナマンが自由党党首を引き受けることになった<ref name="中村(1978)29">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.29</ref>。

==== ボーア戦争をめぐって ====
[[1899年]]にイギリスとトランスヴァールが開戦して[[ボーア戦争#第二次ボーア戦争|第二次ボーア戦争]]が勃発した。この戦争の勃発で自由党議員は主に3つの立場に別れた。政府の戦争遂行を支持するローズベリー伯爵やアスキスら「自由帝国主義派」、反戦を訴える[[デビッド・ロイド・ジョージ]]ら「親ボーア派」、「今度の戦争は避けられた戦争だが、戦争が始まった以上政府を支持する。ただし早期に講和約を結ぶべし」とする党首キャンベル=バナマンら「中立派」である<ref name="高橋(1985)153">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.153</ref><ref name="中村(1978)30">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.30</ref>。1900年7月25日に行われたボーア戦争の是非の採決では自由党のその分裂状態が露わとなり、31名の自由党議員が戦争に反対、40名の自由党議員が戦争に賛成、36名の自由党議員が投票を棄権している<ref name="坂井(1967)338">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.338</ref>。

トランスヴァール共和国首都[[プレトリア]]が占領された後の[[1900年]]10月に行われた{{仮リンク|1900年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1900}}では自由党とアイルランド国民党は与党に134議席の大差を付けられた<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.199-200</ref>。

この敗北により当分野党生活が続くことが確定した自由党はさらに結束が乱れ、党内対立が激化した。[[1901年]]にキャンベル=バナマンがイギリス軍による[[焦土作戦]]を批判して世論の反発を買うとローズベリー伯爵やアスキスも激しいキャンベル=バナマン批判を展開した<ref name="中村(1978)31">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.31</ref>。[[1902年]]初頭にはローズベリー伯爵がアスキスやグレイら自由帝国主義派を糾合して「自由連盟(Liberal League)」を結成した。この組織は自由党内に自由帝国主義を広げることを目的としていた<ref name="坂井(1967)337">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.337</ref>。これによって自由党は一時は分裂寸前の状態にまで陥ったが、ボーア戦争が終結に向かう中で党の対立も収束に向かっていった。アスキスの立場も調停役に転じていった<ref name="中村(1978)31">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.31</ref>。

==== バルフォア教育法への反対 ====
1902年に国家的中等教育の確立を目指した「バルフォア教育法」が制定された。しかし同法は[[非国教徒 (イギリス)|非国教徒]]が地盤とする学務委員会を廃止して教育委員会を新設し、さらに[[イングランド国教会|国教徒]]や[[カトリック]]系の学校にはそのままの運営を認めて、税金まで投入する内容だったため、非国教徒が強く反対した<ref name="村岡(1991)229-230">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.229-230</ref><ref name="中村(1978)32">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.32</ref>。

非国教徒は自由党支持層の中核であった<ref name="神川(2011)416-417">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.416-417</ref>。そのため非国教徒のバルフォア教育法への反対運動は分裂状態の自由党を統一させる効果があった<ref name="村岡(1991)230">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.230</ref>。

アスキスもバルフォア教育法に強く反対し、「この教育制度は現在の教育制度を根底から覆し、革命を企図するものだ」と批判した<ref name="中村(1978)32">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.32</ref>。

==== チェンバレンの保護貿易論への反対 ====
[[File:Joseph Chamberlain in colour.jpg|180px|thumb|統一党政権で植民地大臣を務めていた[[ジョゼフ・チェンバレン]]]]
ボーア戦争後の財政赤字の中で、植民地大臣[[ジョゼフ・チェンバレン]]は[[大英帝国]]内自由貿易を推進しつつ、帝国外に対しては[[関税]]を再導入する「関税改革」を行うべきと主張するようになった<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.205-207</ref>。しかし自由貿易主義者の閣僚から強い反対を受け、閣内では支持を得られそうにないと判断したチェンバレンは、1903年9月に閣僚職を辞した。その後、演説で保護貿易の世論を喚起することを狙って工業都市各地の遊説を開始した<ref name="坂井(1967)214">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.214</ref>{{#tag:ref|産業資本家のうち工業資本家は廉価なドイツ工業製品の流入を恐れ、保護貿易主義を支持する傾向が強かった<ref name="坂井(1967)211">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.211</ref>。|group=注釈}}。

自由貿易主義の政党である自由党はチェンバレンの保護貿易主義に強く反発し、アスキスもチェンバレンが演説した場所を追跡して遊説し、チェンバレンの保護貿易論を徹底的に批判した。アスキスは「チェンバレンは第一に国内貿易を完全に無視しており、第二にイギリスの輸出額をもって貿易額を推定し、貿易外勘定を入れていない」と主張した<ref name="坂井(1967)217">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.217</ref>。

この一連のアスキスの遊説は国民の支持を集めた。一般の国民はパンの値上がりを警戒して保護貿易主義を嫌っていたためである<ref name="坂井(1967)216-217">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.216-217</ref>。アスキスが後に自由党党首となりえた声望はこの遊説によって獲得されたと言われる<ref name="坂井(1967)217">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.217</ref>。

[[1905年]]11月に開催された{{仮リンク|保守党立憲協会全国連盟|en|National Union of Conservative and Constitutional Associations}}の[[ニューカッスル]]大会ではチェンバレン派が主導権を握って保護貿易主義の決議を採択させたことでバルフォア首相とチェンバレンの関係は緊張し、保守統一党政権は分裂の一歩手前にまで陥った<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.217-218</ref><ref name="中村(1978)34">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.34</ref>。

一方、自由党も党首キャンベル=バナマンが1905年11月23日の[[スターリング]]での演説においてアイルランド自治法案に前向きな発言をしたことをローズベリー伯爵が批判していた<ref name="中村(1978)34-35">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.34-35</ref>。これを見た首相バルフォアは今辞職すれば政治の焦点を関税問題からアイルランド問題に移し、自由党を分裂させられると踏んで1905年12月4日に内閣総辞職した<ref name="坂井(1967)219">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.219</ref><ref name="中村(1978)35">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.35</ref>。

しかしチェンバレンとの対決姿勢を明確にしないローズベリー伯爵は、アスキスら自由帝国主義派からも離反されつつあり、自由帝国主義派と急進派は自由貿易を共通点にして結びつきを強めていた<ref name="坂井(1967)331">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.331</ref>。そのためローズベリー伯爵に続く者はなく、自由党が分裂することはなかった<ref name="中村(1978)35">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.35</ref>。
{{-}}

=== キャンベル=バナマン内閣大蔵大臣 ===
[[File:Campbell-bannerman.jpg|180px|thumb|自由党の首相[[ヘンリー・キャンベル=バナマン]]。小英国主義者であった。]]
[[1905年]][[12月4日]]のバルフォアの辞職で自由党政権が発足する見通しとなると、アスキスは自分が首相の座を就こうと、キャンベル=バナマンに貴族院議員になることを勧めたが、彼はこれを撥ね退けている<ref name="坂井(1967)331">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.331</ref>。

キャンベル=バナマンは自分が首相に就任する野心は捨てなかったものの、自由帝国主義派にも重要閣僚ポストを与えることで党内一致を図ろうとした。アスキスには大蔵大臣、ホールデンには戦争大臣、グレイには外務大臣の地位をそれぞれ提示した。アスキスも党内融和を重んじていたので、ホールデンとグレイを説得して3人そろってキャンベル=バナマン内閣に入閣することにした<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.331-332</ref>。

首相としてのキャンベル=バナマンは「邪悪な帝国主義に反対するが、常識に基づく帝国主義には賛成する」という折衷的立場をとり、実際には「大英帝国本国民が帝国を支配するための資質を育成する」と称して帝国の拡大よりも社会改良政策に力を入れた。このキャンベル=バナマンの方針によりアスキス、グレイ、ホールデンら自由帝国主義派とロイド・ジョージら急進派をともに内閣に取り込み続けることができたのである<ref name="坂井(1967)333-334">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.333-334</ref>。

[[1906年]]の{{仮リンク|1906年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1906}}では、チェンバレンの保護貿易論の是非、膨大な数の中国人労働者が[[清]]から英領南アフリカに輸出されてくることへの是非が主な争点となった。自由党はその両方に反対して選挙戦を有利に展開し、377議席を獲得するという地すべり的大勝利を得た<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.340/348-349</ref><ref name="中村(1978)36">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.36</ref>。
{{-}}

=== 首相として ===
[[File:H H Asquith 1908.jpg|180px|thumb|1908年のアスキス首相]]
[[1908年]]2月に[[心臓発作]]を起こしたキャンベル=バナマンは、医者の勧めに従って同年4月1日に首相職を辞した<ref name="中村(1978)40">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.40</ref>。大蔵大臣にして、庶民院で庶民院院内総務キャンベル=バナマンの代理を務めるアスキスが首相となることに党内からの異論はほとんどなかった<ref name="中村(1978)40"/>。4月8日に国王[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]は滞在中のフランス・[[ビアリッツ]]において55歳のアスキスに大命降下した<ref>[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.40/45</ref>。

この任命式が終わるとアスキスはすぐにイギリスに帰国し、組閣を開始した<ref name="中村(1978)46">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.46</ref>。こうして成立した{{仮リンク|第1次アスキス内閣|en|Liberal Government 1905-1915}}には[[デビッド・ロイド・ジョージ]]が大蔵大臣、[[ウィンストン・チャーチル]]が{{仮リンク|ビジネス・イノベーション・職業技能大臣|label=通商大臣|en|President of the Board of Trade}}として入閣していた。この二人の入閣で改革機運は高まった<ref>[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.234-235</ref>。

==== 老齢年金法 ====
就任間もない1908年5月にアスキスは急進派や[[労働党 (イギリス)|労働党]]が求めていた無拠出の老齢年金制度を定めると宣言した<ref name="坂井(1967)379">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.379</ref>。老齢年金制度はドイツで1893年以来運用されていた制度であった<ref name="坂井(1967)399">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.399</ref>。

大蔵大臣ロイド・ジョージが老齢年金法案を議会に提出した。この法案は野党統一党から財源の裏付けがないと批判されたが、ロイド・ジョージは軍事費を削減したので拠出が可能と反論し、財源不安を払しょくした<ref name="坂井(1967)379">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.379</ref>。

またアスキスや野党統一党にとってこの法案は、労働党や「{{仮リンク|救貧法及び貧困の救済に関する王立委員会|en|Royal Commission on the Poor Laws and Relief of Distress 1905-09}}」が主張する[[救貧法]]廃止と「労働権」の確立の論議{{#tag:ref|これは救貧法を廃止することで労働能力の無い貧困者への給付を労働能力のある貧困者に対する給付と切り離し、労働能力の無い貧困者は「老齢者、児童、病人、精神障害者」という4つの分類ごとに置かれた委員会から給付を受けられるようにし、一方労働能力のある貧困者には労働権を与えて、失業の撲滅を図ることで貧困から解消しようという主張である<ref name="坂井(1967)381">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.381</ref>。|group=注釈}}が労働者層の支持を集める前に「先手」を打つという保守的な意味があった<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.380-383</ref><ref name="村岡(1991)235">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.235</ref>。

そのような背景もあって、最終的に老齢年金法案は1908年7月に野党統一党の支持も得て可決されている<ref name="坂井(1967)383">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.383</ref>。

この{{仮リンク|1908年老齢年金法 (イギリス)|label=老齢年金法|en|Old-Age Pensions Act 1908}}によって70歳以上の高齢者には年金が支給されるようになった<ref name="村岡(1991)235"/>。

==== 職業紹介所設置法 ====
さらに[[1909年]]には商務大臣チャーチルの主導で{{仮リンク|1909年職業紹介所設置法 (イギリス)|label=職業紹介所設置法|en|Labour Exchanges Act 1909}}が可決成立した<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.383-385</ref>。

これにより、これまで地方公共団体が設置運営していた職業紹介所は中央政府が直接に設置運営することになり、職業紹介所をイギリス全国に大幅に増やすことが可能となった<ref name="坂井(1967)387">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.387</ref><ref name="村岡(1991)235">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.235</ref>。この法律は失業にあえいでいた当時のイギリス国民からは歓迎され、アスキス内閣の基盤の強化に資した<ref name="坂井(1967)387">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.387</ref>。

だが、この法律も隠された保守的な意図があった。職業紹介所の設置で労働の市場化を押し進め、資本家が「最適の労働者」を見つけやすくしたのである。労働組合もこれを予見しており、「労働組合の規定で定める賃金以下で労働者がかき集められる危険性がある」としてこの法律に反対した<ref name="坂井(1967)387">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.387</ref>。労働党も「失業保険制度もない、失業対策事業もしない、労働者の再教育もしない、ただ職業紹介所を置くだけというこの法律では、労働権が確立したなどとは到底言えない」と批判した<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.387-388</ref>。

結果、労働党の労働権確立を求める運動は弱まるどころかますます強まったのであった<ref name="坂井(1967)388">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.388</ref>。

==== ドイツとの建艦競争 ====
イギリスの国際的地位は1870年代以降、後発資本主義国の発展に押されて下がり続けていた。後発資本主義国の中でもとりわけイギリスに急追していたのが[[ドイツ帝国]]だった。ドイツ資本主義の急速な発展を背景にして、ドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]は1890年代後半から「世界政策(Weltpolitik)」を掲げて海軍力を増強して帝国主義外交に乗り出し、世界中でイギリス資本主義を脅かすようになった<ref name="坂井(1967)394">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.394</ref>。

これに対抗したイギリスの海軍増強は統一党政権時代から進められており、1905年12月に成立した自由党政権キャンベル=バナマン内閣もはじめこの海軍増強路線を継承しようとしたが、社会保障の財源確保のため、統一党政権時代に立てられた海軍増強計画を縮小し、海軍の小増強(大型軍艦3艦建艦)を目指した<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.393-396</ref>。

しかし1908年2月にドイツ帝国議会が可決させた海軍法修正法により、ドイツ海軍は毎年[[弩級戦艦]]を3艦、巡洋艦を1艦ずつ建艦していき、1917年までに弩級戦艦と大型巡洋艦を計58艦保有することを目標とした<ref name="坂井(1967)397">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.397</ref>。これを受けてイギリスでも野党統一党やイギリス海軍軍部を中心として海軍増強が叫ばれるようになった<ref name="坂井(1967)397-398">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.397-398</ref>。

こうした中の1908年4月に発足したアスキス内閣は、組閣後直ちに自由帝国主義派と急進派の閣僚で意見対立が起こった<ref name="坂井(1967)393">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.393</ref>。{{仮リンク|海軍大臣 (イギリス)|label=海軍大臣|en|First Lord of the Admiralty}}{{仮リンク|レジナルド・マッケナ|en|Reginald McKenna}}や外務大臣グレイら自由帝国主義閣僚は最低でも弩級戦艦4艦、情勢次第では最大6艦の建艦を主張した。対して大蔵大臣ロイド・ジョージや通商大臣チャーチルら急進派閣僚はドイツの脅威を否定し、海軍増強より老齢年金など急進派政策の財源確保を優先させるべきと主張した<ref name="坂井(1967)397-398"/>。しかしグレイ外相が海軍増強が受け入れられないなら辞職すると脅迫したことで、最終的には急進派閣僚が折れることになり、ロイド・ジョージもチャーチルも1909年から1910年の間に4艦の弩級戦艦を建艦することを認め、対立は一時収束した<ref name="坂井(1967)398">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.398</ref>。

しかし[[1909年]]1月から2月の閣議でマッケナ海軍大臣ら自由帝国主義派閣僚が6艦の建艦を要求し、4艦の建艦に固執するロイド・ジョージやチャーチルら急進派閣僚と再び対立を深めた<ref name="坂井(1967)403-404">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.403-404</ref>。アスキスは自由帝国主義派を支持しており、この頃妻に「ロイド・ジョージとウィンストンは共謀して自由党系新聞を味方に付けている。陰険にも辞職をちらつかせて私を脅迫している。私は彼らをただちに放逐したいと思う時がある」と漏らしている<ref name="坂井(1967)404">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.404</ref>。

結局アスキスは1909年2月24日の閣議で自由帝国主義派が主張する6艦案と急進派の4艦案の折衷案として、まず1909年の財政年度に4艦、情勢次第で[[1910年]]にはさらに4艦の弩級戦艦を建艦するという計画を示した。これにより自由帝国主義派と急進派の両方に一定の満足を与えて閣内対立をひとまず収束させることができた<ref name="坂井(1967)407">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.407</ref>。

しかし野党統一党はまったく不十分な建艦計画であると批判していた。統一党党首バルフォアは「もっと急速に建艦しないと弩級戦艦の保有数は[[1912年]]にはドイツの方が多くなるであろう」と主張した<ref name="坂井(1967)407">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.407</ref>。1909年3月の{{仮リンク|クロイドン選挙区|en|Croydon (UK Parliament constituency)}}の補欠選挙では統一党候補が「We want eight and we won't wait(我々は8艦を求める。我々には待っている余裕はない)」というダジャレのスローガンを掲げて選挙戦を戦い、自由党候補に大差をつけて勝利した。これにより海軍増強の機運が更に高まった<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.408-409</ref>。

アスキスはこの統一党の急速な海軍増強路線にも警戒感を持っており、海軍拡張主義にこれ以上妥協はしないという姿勢を露骨に示すことで統一党を内閣不信任案提出に誘導し、これを庶民院で否決させることで海軍増強主義に一定の歯止めをかけた<ref name="坂井(1967)409">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.409</ref>。

==== 「人民予算」をめぐる貴族院との衝突 ====
大蔵大臣ロイド・ジョージは1909年4月に「貧困と悲惨を根絶するための戦争の戦費」と称して「{{仮リンク|人民予算|en|People's Budget}}」を議会に提出した。この予算はドイツとの建艦競争や老齢年金などの社会保障費によって財政支出が膨大になったため、財政の均衡を図るために提出されたものだった<ref name="村岡(1991)238">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.238</ref>。

人民予算には[[所得税率]]の引き上げ、[[相続税]]の引き上げと[[累進課税]]性の強化、そして土地課税制度導入が盛り込まれていた<ref name="村岡(1991)239">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.239</ref><ref name="坂井(1967)414">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.414</ref>。

この予算はイギリス政界や世論を二分した。チャーチルらは人民予算を支持して「予算賛成同盟(Budget League)」を結成、対して統一党の{{仮リンク|ウォルター・ロング|en|Walter Long, 1st Viscount Long}}らは「{{仮リンク|予算反対同盟|en|Budget Protest League}}」を結成してこれに対抗し、両組織とも激しい大衆取り込み・動員を行った<ref name="村岡(1991)239">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.239</ref><ref name="坂井(1967)421">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.421</ref>。庶民院や国民からの支持は「予算賛成同盟」の方が強かったので、人民予算は庶民院を通過したが、貴族院からは「社会主義予算」「アカの予算」と徹底的な攻撃を受けた<ref name="村岡(1991)240">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.240</ref>。とりわけ土地課税は地主貴族たちを刺激し、「土地の[[国有化]]を狙うもの」という批判が噴出した<ref name="坂井(1967)427">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.427</ref>。結局貴族院は11月30日に人民予算を圧倒的大差でもって否決した<ref name="坂井(1967)428">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.428</ref><ref name="村岡(1991)240">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.240</ref>。

これを受けてアスキスは「国民から人民予算の承認を得る」として12月3日に議会を解散し、総選挙に打って出た<ref name="坂井(1967)428"/><ref name="村岡(1991)240"/>。
選挙戦では自由党は貴族院の権限縮小、人民予算擁護、関税反対、社会改良実施、ウェールズ国教会廃止、アイルランド自治法案提出を公約に掲げて戦った<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.429/432</ref>。対する統一党は貴族院権限縮小反対、人民予算反対、海軍拡張をスローガンに掲げた<ref name="坂井(1967)429">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.429</ref>。国民のムードとしては人民予算については自由党支持派が多かったが、海軍拡張では統一党を支持する者が多かった<ref name="坂井(1967)433">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.433</ref>。

そのため1910年1月に行われた{{仮リンク|1910年1月イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, January 1910}}は接戦となり、自由党は275議席、統一党は273議席、アイルランド国民党は82議席、労働党は40議席を獲得した。大勝した前回選挙と比べると自由党は104議席を喪失した<ref name="坂井(1967)434">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.434</ref>。

とはいえ自由党はアイルランド自治法案提出を公約に掲げていたのでアイルランド国民党から人民予算支持を取り付けることができた。また労働党も人民予算を支持する立場を表明した。そのため人民予算は1910年4月20日に再び議会に提出され、庶民院を可決し、貴族院も無投票で通過し、4月28日に国王エドワード7世の裁可を得て成立した<ref name="坂井(1967)435">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.435</ref><ref name="坂井(1967)446">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.447</ref>。

ただこの選挙によって国民が海軍増強を求めていることも明白となった。これによりアスキス内閣は改めて海軍増強路線に舵を切り、またロイド・ジョージら急進派閣僚も自由帝国主義化を強めていくことになる<ref name="坂井(1967)435">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.435</ref>。

==== 議会法 ====
[[File:British Workman Its no use trying to hide it, guvner. We are going to vote for Tariff Reform....jpg|thumb|180px|1910年12月の{{仮リンク|1910年12月イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, December 1910}}で国民の注目を集める「関税改革」を無理やり「貴族打倒」に貼りかえるアスキスの風刺画。]]
アイルランド国民党はアイルランド自治法案の妨げになっている貴族院の拒否権を縮小する法案を人民予算より優先して可決させてほしいと自由党に要請していた。庶民院の[[キャスティング・ボート]]はアイルランド国民党が握っているからこの要請に応じなければ自由党が政権を維持できないのは自明だった<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.443-444</ref>。

アスキスは早急に貴族院改革に乗り出す必要に迫られ、[[1910年]][[4月14日]]に「議会法案」を議会に提出した。これは財政法案に関する貴族院の拒否権を廃止し、また財政法案以外の法案についても貴族院が反対したとしても庶民院が3回可決させた場合は法律となるという内容だった<ref name="坂井(1967)447">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.447</ref>。

議会法をめぐる審議の中の5月6日に国王エドワード7世が崩御し、[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]が国王に即位した<ref name="村岡(1991)241">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.241</ref>。政界や世論には「新王をいきなり政治的危機に晒してはいけない」という空気が強まり、これがきっかけで一時的に自由党と統一党の対立関係が緩み、自由党、統一党双方の代表者4人からなる「8人会議」が創設され、さらに6月から11月にかけて「憲法会議」と呼ばれる会合が開かれ、貴族院改革についての話し合いが行われるようになった<ref name="村岡(1991)241">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.241</ref><ref name="坂井(1967)448">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.448</ref>。

だが結局これらの会議で自由党と統一党の妥協はならなかった。アスキスは国王ジョージ5世から「貴族院改革を問う解散総選挙を行って政府が勝利した暁には国王は大権を行使して貴族院改革に賛成する新貴族院議員を任命する」との確約を得たのち、1910年11月16日に議会を解散した<ref name="村岡(1991)241">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.241</ref><ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.452-453</ref>。

この年二度目の総選挙だった。選挙戦で自由党は「貴族が統治するか、国民が統治するか」をスローガンにして貴族院改革を公約に掲げた。対する統一党は関税改革を訴えて戦った(この頃には関税改革に興味や理解を示す国民も増えつつあった)<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.453-454</ref>。{{仮リンク|1910年12月イギリス総選挙|label=総選挙|en|United Kingdom general election, December 1910}}の結果は自由党272議席、統一党272議席、アイルランド国民党84議席、労働党42議席と前回総選挙とほとんど変わらなかった<ref name="坂井(1967)455">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.455</ref>。得票率で見ると自由党は統一党に敗れていた<ref name="村岡(1991)241">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.241</ref>。

しかしアスキスは[[1911年]][[2月21日]]の新議会で自党と友党アイルランド国民党があわせて過半数を制したので貴族院改革の国民のコンセンサスは得たと力説し、議会法を再度議会に提出した<ref name="坂井(1967)455">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.455</ref>。法案は5月15日に庶民院を通過したが、貴族院は断固反対の姿勢を示した。これを見たアスキスは、もし貴族院がこの法案を通過させないなら国王大権によって貴族院改革に賛成する新貴族院議員を任命する方針とそれについて国王の承諾を得ている旨を7月20日にバルフォアら統一党執行部に付きつけた<ref name="坂井(1967)456">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.456</ref>。

これを受けてバルフォアら統一党執行部の面々は議会法阻止をあきらめた<ref name="坂井(1967)457">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.457</ref>。しかし貴族院議員の中にはそれでもなお頑強に抵抗しようという者も少なくなく、予断を許さない状況だったが、最終的には8月10日の貴族院の採決で賛成131、反対114で法案は可決され、ついに[[議会法]]が成立した<ref name="坂井(1967)460">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.460</ref><ref name="村岡(1991)242">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.242</ref>。

==== ドイツとの戦争準備 ====
1911年7月にフランスが植民地化を推し進めている[[モロッコ]]の[[アガディール]]港にドイツ軍艦が派遣されるという[[第二次モロッコ事件]]が勃発し、独仏戦争の危機が発生した。アスキス内閣のグレイ外相はドイツがこの港を獲得したら英国本国と英領南アフリカや南米との通商海路が危険に晒されるとしてドイツの行動に断固反対の立場をとった。アスキスもこの事件を機に自由帝国主義体制の確立と対独戦争準備を一層急がせるようになった<ref name="坂井(1967)466">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.466</ref>。

この頃イギリスは、海軍の貯蔵庫や火薬庫の警備の強化したり、英仏参謀本部間でイギリス軍4~6個師団を大陸に上陸させる計画を立案したり、[[日本]]との[[日英同盟|同盟]]の10年更新したり、植民地軍との連携を強化するなど戦争体制構築を急ピッチに進めていた<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.467-468</ref>。10月23日にはチャーチルを急進派から引き離す意味で、彼を海軍大臣にすえている<ref name="坂井(1967)469">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.469</ref>。

アスキスによるこうした戦争準備はドイツ側にも洩れており、11月4日にドイツはフランスとの間に協定を締結し、モロッコをフランス保護国と認めつつ、{{仮リンク|フランス領コンゴ|en|French Congo}}の一部をドイツに割譲させた。これによってモロッコ事件自体は収束した<ref name="坂井(1967)468">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.468</ref>。

しかし英独の緊張関係は収束するどころか、1912年に入ると一層緊張した。アスキスは建艦競争の緩和を目指して、1912年1月に{{仮リンク|リチャード・ホールデン (ホールデン子爵)|label=リチャード・ホールデン|en|Richard Haldane, 1st Viscount Haldane}}を使者としてドイツに派遣し、「イギリス海軍の優位をドイツは認めるべき、ドイツはこれ以上海軍増強を行ってはならない、代わりにイギリスはドイツが植民地拡大するのを邪魔しない」という交渉をもちかけた({{仮リンク|ホールデン使節|en|Haldane Mission}})<ref name="坂井(1967)491">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.491</ref>。だがこのホールデン訪独中にチャーチルが「イギリスにとって海軍は必需品、しかしドイツにとって海軍は贅沢品である。イギリスにとって海軍は不可欠なものだが、ドイツにとっては膨張を意味する」という問題発言を行ったため、ヴィルヘルム2世は心証を悪くし、ホールデンの提案もドイツの海軍力を一方的に封じ込めようというイギリスの陰謀であるとして拒絶された<ref name="坂井(1967)491">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.491</ref>。

ホールデン使節の失敗後、アスキスはドイツとの対決は不可避となったと見て、ドイツ海軍に対抗する英仏両国の海軍連携を深めていった<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.492-493</ref>。また戦争に備えた行政機関の整備、陸軍と予備軍の迅速な動員準備、平和のため努力を続けているという民衆向けのポーズ{{#tag:ref|アスキスにはすでに戦争回避の意思はなかったが、平和的解決に努力したと国民にアピールしておくことで、戦争となった際に「やむをえない」と民衆を納得させ、挙国一致体制を構築しようと考えていた<ref name="坂井(1967)493">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.493</ref>。|group=注釈}}に励んだ<ref name="坂井(1967)493">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.493</ref>。

==== アイルランド問題 ====
友党アイルランド国民党の要請を受けて、1912年4月11日にアイルランド自治法案を議会に提出した<ref>[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.248-249</ref><ref name="坂井(1967)495">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.495</ref>。アスキスにとっては、この法案はアイルランド問題に片を付けて挙国一致体制を作るという意味もあった<ref name="坂井(1967)494">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.494</ref>。

この頃[[アイルランド]]では内戦が勃発しかねない状態だった。自治法案提出の前年の1911年、北部アイルランド・[[アルスター]]地方の[[プロテスタント]]によって構成されるアルスター統一党協議会が本国の統一党の支持も得て、「アルスター地方が[[ダブリン]]に作られる議会に支配されることは拒否する」と声明し、アルスター義勇軍を結成しはじめた。これに対抗してカトリックが大多数の南アイルランドもアイルランド義勇軍を結成し、両軍が睨みあう状態になっていたのである<ref>[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.248-249</ref><ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.497-499</ref>{{#tag:ref|アイルランドにはカトリックが多い。彼らはアイルランド自治を求める者が多いが、北部アイルランドの[[アルスター]]は複雑だった。アルスターは9つの州からなるが、[[プロテスタント]]が多数な州とカトリックが多数派な州、両方が混在している州があったのである<ref name="坂井(1967)494">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.494</ref>。またアルスターはイングランド本国と経済的に結びつきが強く、アイルランドの中では唯一[[産業革命]]を経た地域であった。アイルランド自治にあたってここを失うことはカトリック・アイルランド自治派にとってもプロテスタント・イギリス派にとっても耐えがたいことだった<ref name="村岡(1991)250">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.250</ref>。したがってアルスター問題はアイルランド問題において重要だった。|group=注釈}}。

アイルランド自治法案の審議中、統一党は議会内でも公然と「内乱を起こす」と言ってアスキス内閣を脅迫していたが、アスキス内閣はアルスター義勇軍や統一党幹部を反逆罪で逮捕することは行わなかった。友党アイルランド国民党も統一党の連中を逮捕してもどうせ証拠不十分で無罪になり、かえって厄介な状況になると考えて、逮捕を求めなかった<ref name="坂井(1967)500">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.500</ref>。結局アイルランド自治法案は1913年7月までに議会に2回提出されるもどちらも統一党が多数を占める貴族院で否決された<ref name="坂井(1967)501">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.501</ref>。

1913年9月にはチャーチルが統一党の[[アンドルー・ボナー・ロー|ボナ―・ロー]]と会談し、続く10月にもアスキス自身がボナ―・ローと会談し、アイルランド自治法案について協議した。これらの会談でボナー・ローはアルスターを除くならばアイルランド自治法案を支持するという妥協案を示した<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.501/503</ref>。アスキスはこの妥協案を11月12日の閣議にかけた。ロイド・ジョージは5年から6年ほどアルスターをアイルランド自治の対象から除外し(ただし除外されるか否かの選択権をアルスター各州に委ねる)、その期間経過後にはアイルランド自治の対象とするという提案を行い、これが内閣の方針となった<ref name="坂井(1967)503">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.503</ref>。

しかしこの提案はアイルランド国民党からも統一党からも拒否されてしまった<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.504-505</ref>。アスキスは1914年3月にも「アルスターを6年間アイルランド自治の対象から外し、その後アイルランド自治に組み入れる。ただしその選択はアルスター各州の住民投票による」という新妥協案をアイルランド国民党と統一党に提示したが、結局失敗に終わった<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.504-505</ref><ref name="村岡(1991)250">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.250</ref>。

その間にもアルスター義勇軍とアイルランド義勇軍の緊張は高まっていった。1914年3月19日には海軍大臣チャーチルが独断で艦隊を[[アラン島 (スコットランド)|アラン島]]に出動させてアルスター義勇軍を牽制した。さらにアスキス自らもアイルランド駐留陸軍に命令を出して出動準備をさせようとしたが、陸軍軍人はアルスター義勇軍に共感をもっている者が多く、命令を拒否して将校らが続々と辞表を提出する騒ぎとなった(「{{仮リンク|カラ事件|en|Curragh incident}}」)<ref name="坂井(1967)509">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.509</ref>。

アイルランド問題が激化しすぎてシビリアン・コントロールも崩壊しつつある中、アスキスは陸軍の統制を自らが強固に握るため、{{仮リンク|戦争大臣 (イギリス)|label=戦争大臣|en|Secretary of State for War}}を兼務した<ref name="坂井(1967)511">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.511</ref>。

1914年5月26日にアイルランド自治法案が庶民院を通過した。3度目の可決となるので、議会法に基づき、貴族院の賛否を問わず同法案は可決されることになった。しかし内乱誘発を恐れたアスキスは、アルスターを6年間自治の対象から除外する修正案も提出した。その修正案について各方面との交渉中に第一次世界大戦が勃発し、ボナー・ローとの交渉の結果、アイルランド自治法案は棚上げすることになったのだった<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.512-513</ref>。

==== 第一次世界大戦 ====
[[File:Cluysenaar Asquith.jpg|thumb|180px|1915年頃のアスキスを描いた肖像画]]
1914年6月に[[サラエボ]]で[[オーストリア=ハンガリー帝国]]皇太子がセルビア人に殺害されたことをきっかけとして、7月28日にオーストリアは[[セルビア王国]]に宣戦布告した。オーストリアの後ろ盾であるドイツ帝国、またセルビアの後ろ盾であるロシア帝国も参戦し、8月3日にはロシアの同盟国フランスも対ドイツで参戦。8月4日にドイツ軍が[[ベルギー]]へ侵攻したことを理由としてイギリスもドイツに宣戦布告した。ここにドイツ、オーストリア、(のちにトルコ、ブルガリアも)対ロシア、フランス、イギリスの[[第一次世界大戦]]が勃発した<ref>[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.252/257</ref>

戦争初期には鉄道が国の管理下に入ったこと以外にはイギリス社会に大きな変化はなかった。アスキスも戦争大臣の職位を職業軍人[[ホレイショ・キッチナー]]に譲ったこと以外には特別な戦時内閣を作ろうとはしなかった。この戦争は1914年のうちに終わるだろうというのが一般的な見解だったためである<ref name="村岡(1991)258">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.258</ref>。

だが1915年春になると戦線は膠着状態になり、戦争が長引く可能性が高まった。同年5月には弾薬不足の問題で政府を批判する動議が議会で可決され、また同時期[[第一海軍卿]][[ジョン・アーバスノット・フィッシャー]]と海軍大臣チャーチルが[[ガリポリの戦い]]の失敗をめぐって対立を深め、フィッシャーが辞職する事件があった。これによりアスキス内閣は辞職せざるを得なくなり、戦時に政治的空白が生じるという危険事態となった<ref name="村岡(1991)259">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.259</ref>。

事態を憂慮した統一党のボナー・ローはアスキスやロイド・ジョージと会見し、[[大連立]]を承諾した。アスキスは渡りに舟とこれを受け入れ、1915年5月17日にも大連立内閣の第2次アスキス内閣を組閣した<ref name="中村(1978)110">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.110</ref>。統一党からは[[アーサー・バルフォア]]が海軍大臣、オースティン・チェンバレンがインド担当大臣、ボナー・ローが植民地大臣として入閣した<ref name="中村(1978)112">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.112</ref>。

なおもガリポリからの撤退に反対するランカスター公領担当大臣チャーチルらを退けて、1915年12月にはガリポリからイギリス軍を無事撤退させた<ref name="中村(1978)114">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.114</ref>。1916年1月には議会が任期切れしたが、戦時の特別措置で選挙は戦争後まで延期された(地方議会も同様)<ref name="中村(1978)114">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.114</ref>。

一方アイルランドでは第一次世界大戦開戦以来、アルスター義勇軍とアイルランド義勇軍がともに矛を収めて、政府の戦争遂行に協力するという立場をとっていたが、過激なアイルランド独立派の中には今こそアイルランド独立の好機と見て、ドイツと内通する者が出るようになった。1916年4月にはとうとうダブリンでアイルランド独立派とイギリス軍の市街戦が勃発した。捕らえられたアイルランド独立派のうち、15人が銃殺刑、160人が禁固、1800人がイングランド収監にされた<ref name="中村(1978)117">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.117</ref>。

1916年5月31日には[[ユトランド沖海戦]]があった。イギリスの[[制海権]]は守られたものの、イギリス海軍も大きな損害を出し、海軍を誇りにしていたイギリス国民の士気は低下した<ref name="中村(1978)118">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.118</ref>。陸上戦闘でも[[ヴェルダンの戦い]]、[[ソンムの戦い]]と悲惨な消耗戦が続いていた<ref name="中村(1978)119">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.119</ref>。9月15日にはアスキスの長男{{仮リンク|レイモンド・アスキス|label=レイモンド|en|Raymond Asquith}}もソンムの戦いで戦死している。これは年老いたアスキスにはだいぶ堪えたという<ref name="中村(1978)134">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.134</ref>。

イギリスでは徴兵制は嫌われており、イギリス政府も開戦から2年間は募兵制度で凌いできたが、激しい消耗戦で兵員は枯渇し、1916年1月には徴兵制の導入を決定せざるを得なくなった<ref name="村岡(1991)260">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.260</ref><ref name="中村(1978)114-115">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.114-115</ref>。

ロイド・ジョージはアスキスによる[[総力戦]]体制構築は手ぬるいと感じていた。統一党内からもその要請は強まっていた。そのため彼は、1916年11月末に自らを議長とする少数の閣僚による戦争指導委員会を設置し、ここに全権を集中させることをアスキス首相に提案した。アスキスは少数閣僚による指導体制の構築には賛成したが、首相である自分が議長になるべきと主張した。しかしロイド・ジョージは辞職をちらつかせてでもこれを拒否し、彼が議長となることにこだわった<ref name="村岡(1991)261">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.261</ref><ref name="高橋(1985)184-185">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.184-185</ref>。ボナー・ローら統一党閣僚たちがロイド・ジョージを支持した結果、アスキスは名目上の首相にされるより辞職することを決意した<ref>[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.182-183</ref><ref name="高橋(1985)185">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.185</ref>。

こうしてロイド・ジョージが首相となり、大戦後半戦と戦後処理は彼が指導することとなる。

=== 首相退任後 ===
[[File:Asquith's tomb, All Saints church, Sutton Courtenay - geograph.org.uk - 362223.jpg|thumb|180px|{{仮リンク|サットン・コートネイ|en|Sutton Courtenay}}のオール・セインツ教会にあるアスキスの墓。]]
アスキスが首相職を追われた後、自由党はロイド・ジョージ派とアスキス派に分裂した<ref name="世界伝記大事典(1980,1)67">[[#世界伝記大事典(1980,1)|世界伝記大事典(1980,1)]] p.67</ref>。

終戦が近付くにつれ、ロイド・ジョージ首相は戦後のことを考えねばならなくなった。道は2つあった。アスキスのもとに合流して自由党を一つに戻すか、さもなくば保守党との大連立を維持するかである。だが、すでにロイド・ジョージ派とアスキス派の亀裂は深まり過ぎていたので、彼は大連立維持を選ぶことになった<ref name="高橋(1985)188-189">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.188-189</ref>。

そして終戦間もない1918年12月に勝利の余韻を利用して[[1918年イギリス総選挙|解散総選挙]]に打って出た。この選挙でロイド・ジョージは、自由党・保守党内の大連立派に公認状を出した。アスキスはこの公認状を[[クーポン]]と呼んで批判し、世に「クーポン選挙」と呼ばれた<ref name="河合(1998)178">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.178</ref>。選挙は大連立派(特に保守党)の圧勝に終わり、アスキス派自由党は29議席にまで激減した。アスキス本人もこの選挙で落選している<ref name="河合(1998)179">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.179</ref>。だが1920年の{{仮リンク|1920年ペイズリー選挙区補欠選挙|label=補欠選挙|en|Paisley by-election, 1920}}で庶民院議員に再選を果たしている。

ロイド・ジョージ政権が保守党の造反で倒閣された後に樹立されたボナー・ロー保守党政権下で行われた[[1922年イギリス総選挙|1922年の総選挙]]では保守党が345議席を獲得し、単独政権樹立可能となった<ref name="高橋(1985)200">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.200</ref>。一方労働党は142議席で野党第一党となり、自由党は党の分裂状態が尾を引いてアスキス派が54議席、ロイド・ジョージ派が62議席と、両派を合わせても労働党の議席に及ばなかった<ref name="河合(1998)196">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.196</ref>。

ここでようやく危機感からアスキス派とロイド・ジョージ派に和解の空気が生まれるも、アスキス派のロイド・ジョージへの個人的恨みは深く、またロイド・ジョージもアスキス派を「古い自由主義にすがって改革できない人々」と軽蔑していたため、両派の再統合は容易ではなかった。1923年末、病で辞職したボナー・ロー首相の後を受けて首相・保守党党首となった[[ボールドウィン]]が議会を解散、選挙が目前に迫ったことでようやく自由党両派はアスキスのもとで選挙戦を戦うことで合意した<ref name="高橋(1985)201">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.201</ref>。この選挙で自由党は159議席に回復したものの、労働党が191議席、保守党が258議席を獲得し、自由党の第三党状態はすっかり定着してしまった<ref name="高橋(1985)201">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.201</ref>。

だが保守党ももはや単独政権を維持できない状況の中、[[キャスティング・ボート]]を握ったのは自由党だった。この中でアスキスは保守党とは組まず、労働党に協力して労働党政権を誕生させるという賭けに出た。このアスキスの決断によって1924年1月に史上初の労働党政権、第1次[[ラムゼイ・マクドナルド]]内閣が発足する運びとなった(ちなみにチャーチルは反社会主義の信条からこれに反発して自由党を離党している)<ref name="河合(1998)201">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.201</ref>。もっとも同政権は同年の[[1924年イギリス総選挙|解散総選挙]]に敗れてすぐに退陣し、アスキスもこの選挙で再度落選した<ref name="世界伝記大事典(1980,1)67"/>。

1925年にオックスフォード及びアスキス伯爵の爵位を与えられた<ref name="世界伝記大事典(1980,1)67"/>。1926年末に政界を引退すると宣言して自由党党首職を退いた。ロイド・ジョージが代わって自由党党首となったが、彼に対する旧アスキス派の反発は強く、党内対立が再燃していった<ref name="高橋(1985)206">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.206</ref>。


アスキスは1928年2月15日に死去している<ref name="世界伝記大事典(1980,1)67"/>。
[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]改革時の首相としても知られる。ドイツの艦隊増強策に対抗するための軍事費と社会保障費を確保するため、富裕層に税負担させる税制改正を含む予算案を議会に提出した([[w:People's Budget|人民予算]])。この予算案は[[庶民院]]で可決されたが、貴族院では否決された。アスキスは庶民院を解散、1910年1月の総選挙で自由党は過半数は取れなかったが、第一党の座を確保し(670議席中274議席)、保守党は272議席とわずかに及ばなかった。貴族院はやむを得ず予算を可決した。
{{-}}


== 人物・評価 ==
だが、対決はさらに続いた。政府は同年12月に再び総選挙に打って出て、自由党は再び第一党の座を確保し(272/670)、保守党は271とまたわずかに1議席及ばなかった。アスキスは貴族院の権限縮小を求める議会法案を提出した。貴族院は権限を確保するように大幅修正して可決したが、今度は庶民院が貴族院修正案を否決した。アスキス首相は、意図する法案を貴族院で可決するため、国王に必要な数の貴族(貴族院議員)の創設を働きかけた。もし大量の新貴族の創設が実現すると、貴族の値打ちが大幅に低下するため、貴族院が折れて、1911年に[[議会法]]が成立した。これによって、貴族院は予算関連法案を否決、修正する権限を事実上失い、庶民院の優位が確定した。
[[File:Herbert Henry Asquith, 1st Earl of Oxford and Asquith by Sir James Guthrie.jpg|180px|thumb|アスキスの肖像画(サー・ジェイムズ・ガスリー画)]]
アスキス内閣外相[[エドワード・グレイ]]は「アスキスは自分の保身や名誉に心を配る事はなかった。順境の時は同僚に花を持たせてやり、逆境の時は自らが前面に立ってその責任を代わりに負う人だった。彼の内閣では事件を起こした閣僚は全面的に首相の後援を期待できた」と評している<ref name="中村(1978)131">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.131</ref>。1912年に発生した政治汚職事件「マルコニ事件」{{#tag:ref|1911年の議会の決議で防衛体制強化のため無線電信網を張り巡らせることになったが、その公共事業を請け負ったマルコニ社の株をロイド・ジョージが大蔵大臣の職を利用して[[内部者取引|インサイダー取引]]したのでは、という疑惑を持たれた事件<ref name="中村(1978)82">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.82</ref>。|group=注釈}}はその典型であり、ロイド・ジョージがこの事件で政治生命を失いかけていた際にはアスキスが彼を救ったのだった<ref name="中村(1978)131">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.131</ref>。ただアスキスは株取引は嫌いであり、内心ではロイド・ジョージを批判的に見ていたという<ref name="中村(1978)84">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.84</ref>


統一党の[[オースティン・チェンバレン]]は、1916年にロイド・ジョージを支持してアスキスを失脚に追いやった者の一人だが、オースティンがアスキスに手紙を送っても、アスキスは恨み事を返すことなく、むしろオースティンの功績の称賛と感謝、また彼の一層の国への忠勤を願う返信を送った。オースティンはこの返信に非常に感心し、回顧録の中で「このような人物だからこそ、幾多の俊才がこの人の下に甘んじて仕えたのだ」と絶賛した<ref name="中村(1978)131">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.131</ref>。
アスキスは第一次世界大戦開戦時の首相であり、1914年8月4日、[[ドイツ帝国|ドイツ]]による[[ベルギー]]の中立侵犯を理由にイギリスの参戦を決定した。1910年の2回の総選挙の結果、自由党は単独で過半数を得ることが出来ず、内閣は[[労働党 (イギリス)|労働党]]と[[w:Irish Parliamentary Party|アイルランド議会党]]の[[閣外協力]]を得て存在していた。前記2回の総選挙で両党はそれぞれ、40、42議席(労働党)、71、74議席(アイルランド議会党)を獲得していた。大戦の勃発を理由として[[アイルランド統治法 (1914年)|アイルランド統治法]]の施行が凍結されたので、アイルランド議会党は不満を示し、内閣は不安定化した。そこで1915年に[[保守党 (イギリス)|保守党]]と労働党の主戦派を閣内に引き入れて、[[挙国一致内閣]]を成立させた。


アスキスに敵対したロイド・ジョージも回顧録の中で「私は彼の明瞭で論理的な言論に驚嘆してきた。言葉を自由に操り、鉄槌のように下す。同僚として知り合い、また閣僚として仕えるにいたって、ますますその巨大さを感じた。彼の偉大にして秩序ある知力は機械のように正確であった」と評している<ref name="中村(1978)132">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.132</ref>。
しかし、同年の[[ガリポリの戦い]]の失敗を期に、政府内からも責任論が噴出するようになった。[[1916年]][[12月]]、政争により挙国一致内閣の維持が難しくなり、[[デビッド・ロイド・ジョージ]]が自派を率いて保守党、労働党主戦派との内閣を維持し、アスキスを首相の座から引きずり落とした。ここに至って自由党はロイド・ジョージ派とアスキス派に分裂し、休戦日直後、1918年12月に[[1918年イギリス総選挙|総選挙]]を戦うことになった。この選挙はロイド・ジョージ率いる戦時連立を維持したグループの勝利(クーポン選挙が成功)、アスキス派の大敗に終わり、アスキス自身も落選した。1920年に補欠選挙で返り咲くが、1924年には再度落選、自由党も凋落する。


一方批判的な人物評もある。アスキスは「wait and see(静観しよう)」という言葉をよく使用したが、ロイド・ジョージはこれについて「首相のwait and seeは戦時には通用しない。平時には静観することで良い結果が出る時もあるが、戦時の場合は惨敗につながる危険の方が高い。」と批判している<ref name="中村(1978)133">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.133</ref>。
<!-- 以下の役職名などはかなり適当なので修正すること! -->


またオースティン・チェンバレンも「アスキスは推進力として欠けている。議長が決定を下すよう努力をしなければ、戦時内閣だろうが軍事委員会だろうが、ただの座談会で終わってしまうというのに。アスキスは自分の使命を理解していないらしく、他人を待っているばかりだ。このやり方で彼が摩擦を避けてきたことも事実だが、一言も発しないことが多すぎる」と批判している<ref name="中村(1978)133">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.133</ref>。
== 第1次政府 1908年4月 - 1915年5月 ==
* [[w:Earl of Oxford and Asquith|オックスフォード及アスキス伯爵]](1925年受爵)H. H. アスキス - 首相 兼 [[下院院内総務]]
*[[初世ローレバーン伯ロバート・リード]] - [[大法官]]
*[[2世トィードマウス男エドワード・マーチバンクス]] - [[枢密院|枢密院議長]]
*[[初世リポン侯ジョージ・ロビンソン]] - [[王璽尚書]] 兼 [[上院院内総務]]
*[[デビッド・ロイド・ジョージ|初世ドワィフォー伯デビッド・ロイド・ジョージ]] - [[大蔵大臣]]
*[[初世グラッドストン子ハーバート・ジョン・グラッドストン]] - [[内務大臣]]
*[[エドワード・グレイ|初世ファラドン子エドワード・グレイ]] - [[外務大臣]]
*[[初世クルー侯ロバート・クルー=ミルズ]] - [[植民地大臣]]
*[[初世ホールデーン子リチャード・バードン・ホールデーン]] - [[陸軍大臣]]
*[[初世ブラックバーン子ジョン・モーリー]] - [[インド大臣]]
*[[レジナルド・マッケナ]] - [[アドミラルティー]]
*[[初世ウォールヴァーハントン子ヘンリー・ハートリー・ファウラー]] - [[ランカスター公領大臣]]
*[[ウィンストン・チャーチル|ウィンストン・レオナルド・スペンサー=チャーチル]] - [[通商産業大臣]]
*[[初世ペントランド男ジョン・シンクレア]] - [[スコットランド大臣]]
*[[オーガスティン・ビレル]] - [[アイルランド大臣長]]
*[[ヨハネ・バーンズ]] - [[地方行政院理事長]]
*[[初世リンカンシア侯ロバート・ウィン・キャリントン]] - [[農漁食糧大臣]]
*[[初世ドクスフォアード子ウォルター・ランキィマン]] - [[教育技術大臣]]
*[[初世バクストン伯シドニー・バクストン]] - [[郵政長官]]
*[[初世ハーコート子ルイス・ヴァーノン・ハーコート]] - [[土木工事第一コミッショナー]]


アスキス内閣通商大臣(のち海軍大臣、ランカスター公領担当大臣)[[ウィンストン・チャーチル]]は「アスキスの頭脳は機械のように正確だが、世界や自然、人間は機械のようには動かない。現代の政治家の判断には柔軟性がいるが、アスキスはそれが下手だった。成り行きに任せるしかないという段になるとアスキスはいかにも情けない顔をして残念そうだった」と回顧している<ref name="中村(1978)132">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.132</ref>。
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== 脚注 ==
== 第2次政府 1915年5月 - 1916年12月 ==
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=== 注釈 ===
{{reflist|group=注釈|1}}
=== 出典 ===
<div class="references-small"><!-- references/ -->{{reflist|3}}</div>


== 参考文献 ==
{{先代次代|[[イギリスの首相]]|1908年 - 1916年|[[ヘンリー・キャンベル=バナマン|キャンベル=バナマン]]|[[デビッド・ロイド・ジョージ]]}}
*{{Cite book|和書|author=[[神川信彦]]、[[君塚直隆]]|date=2011年(平成13年)|title=グラッドストン 政治における使命感|publisher=[[吉田書店]]|isbn=978-4905497028|ref=神川(2011)}}
*{{Cite book|和書|author=[[河合秀和]]|date=1998年(平成10年)|title=チャーチル イギリス現代史を転換させた一人の政治家 増補版|series= [[中公新書]]530|publisher=[[中央公論社]]|isbn=978-4121905307|ref=河合(1998)}}
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*{{Cite book|和書|author=[[中村祐吉]]|date=1978年(昭和53年)|title=イギリス政変記 アスキス内閣の悲劇|publisher=[[集英社]]|asin=B000J8P5LC|ref=中村(1978)}}
*{{Cite book|和書|author= |translator=|editor=[[村岡健次]]、[[木畑洋一]]編|date=1991年(平成3年)|title=イギリス史〈3〉近現代|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634460300|ref=村岡(1991)}}
*{{Cite book|和書|date=2001年(平成13年)|title=世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000|editor=[[秦郁彦]]編|publisher=[[東京大学出版会]]|isbn=978-4130301220|ref=秦(2001)}}
*{{Cite book|和書|date=1980年(昭和55年)|title=世界伝記大事典〈世界編 1〉アーウア|publisher=[[ほるぷ出版]]|asin=B000J7VF62|ref=世界伝記大事典(1980,1)}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Herbert Henry Asquith, 1st Earl of Oxford and Asquith}}
*[[イギリスの首相の一覧]]
*[[自由党 (イギリス)|自由党]]


{{start box}}
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{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} [[イギリスの首相|首相]]| years = [[1908年]]-[[1916年]]| before = [[ヘンリー・キャンベル=バナマン|サー・ヘンリー・キャンベル=バナマン]]| after = [[デビッド・ロイド・ジョージ]]}}
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{{succession box | title=初代{{仮リンク|オックスフォード及びアスキス伯爵|en|Earl of Oxford and Asquith}}| years=[[1925年]] - [[1928年]] | before=創設| after={{仮リンク|ジュリアン・アスキス (第2代オックスフォード及びアスキス伯爵)|label=ジュリアン|en|Julian Asquith, 2nd Earl of Oxford and Asquith}}}}
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2013年2月28日 (木) 13:32時点における版

初代オックスフォード及びアスキス伯
ハーバート・ヘンリー・アスキス
Herbert Henry Asquith
1st Earl of Oxford and Asquith
生年月日 1852年9月12日
出生地 イギリスイングランドウェスト・ヨークシャー州モーリー英語版
没年月日 (1928-02-15) 1928年2月15日(75歳没)
死没地 イギリス、イングランド、オックスフォードシャー州サットン・コートニー英語版
出身校 オックスフォード大学ベリオール・カレッジ
前職 弁護士
所属政党 自由党
称号 ガーター勲章オックスフォード及びアスキス伯爵英語版勅選弁護士英語版
配偶者 ヘレン・メルランド
マーゴット・テナント英語版
サイン

在任期間 1908年4月5日 - 1916年12月5日[1]
国王 エドワード7世
ジョージ5世

内閣 アスキス内閣(兼任)
在任期間 1914年3月31日 - 1914年8月6日[2]

内閣 キャンベル=バナマン内閣
在任期間 1905年12月10日 - 1908年4月6日[2]

内閣 第4次グラッドストン内閣
ローズベリー伯爵内閣
在任期間 1892年8月16日 - 1895年6月24日

イギリスの旗 庶民院議員
選挙区 イースト・ファイフ選挙区英語版[3]
ペイズリー選挙区英語版[3]
在任期間 1886年7月1日 - 1924年10月29日[3]
テンプレートを表示

初代オックスフォード及びアスキス伯爵ハーバート・ヘンリー・アスキスHerbert Henry Asquith, 1st Earl of Oxford and Asquith, KG, PC, KC, 1852年9月12日 - 1928年2月15日)は、イギリス政治家貴族

ヘンリー・キャンベル=バナマンの引退後、代わって自由党党首・首相となった(在職1908年-1916年)。さまざまな内政改革を行いつつ、外交では自由帝国主義者として海軍増強に力を入れ、ドイツ帝国との建艦競争を行い、最終的には第一次世界大戦を招いた。

子に映画監督のアンソニー・アスキス、曾孫に女優のヘレナ・ボナム=カーターがいる。

概要

1852年生まれ。幼い頃に父を亡くし、いろいろな家を転々とする半孤児的な少年時代を送る。学業優秀だったため、奨学金を得てオックスフォード大学ベリオール・カレッジに入学。

大学卒業後、弁護士となる。1886年の総選挙に自由党候補として出馬して初当選する。自由党内ではローズベリー伯爵の自由帝国主義派の派閥に属した。1889年アイルランド国民党英語版党首パーネルの冤罪を晴らしたことで政治家、弁護士として名をあげる。

1892年発足の第4次グラッドストン内閣に内務大臣として入閣。続くローズベリー伯爵内閣でも留任した。1895年から1905年までの自由党野党時代にはジョゼフ・チェンバレンの保護貿易論を批判する運動で活躍し、後に自由党党首となりうる声望を得た。1905年に発足した自由党政権ヘンリー・キャンベル=バナマン内閣に大蔵大臣として入閣した。

キャンベル=バナマンの政界引退で1908年に後継の首相に就任した。1908年には70歳以上の高齢者に年金を支給する老齢年金法を制定、1910年には富裕層に税負担させる税制改正を含む「人民予算」を可決させた。1911年には貴族院の拒否権を制限し、庶民院の優越を確立した議会法を制定した。人民予算と議会法は貴族院と鋭く衝突することになり、1910年に2度解散総選挙が行われる事態となった。しかし二度とも自由党は単独で過半数を得ることが出来ず、内閣は労働党とアイルランド国民党の閣外協力を基盤とするようになった。

外交面では自由帝国主義外交を行い、海軍増強に力を入れ、大英帝国の植民地支配を脅かすドイツ帝国建艦競争を行った。ドイツとの緊張は高まっていき、最終的に1914年の第一次世界大戦を招いた。

1914年8月4日、ドイツによるベルギーの中立侵犯を理由にイギリスの第一次世界大戦参戦を決定した。1915年に保守党と労働党の主戦派を閣内に引き入れて、挙国一致内閣を成立させた。

戦争は泥沼化していく中、アスキスの総力戦体制構築が手ぬるいと感じていたデビッド・ロイド・ジョージにより1916年12月に首相職から引きづり降ろされた。以降自由党はロイド・ジョージ派とアスキス派に分裂した。

1925年にはオックスフォード及びアスキス伯爵の爵位を与えられるも1928年に死去した。

生涯

生い立ち

1852年9月12日ウェスト・ヨークシャーモーリー英語版で生まれる[4]

父は羊毛業者のジョゼフ。母はその妻エミリー。兄にウィリアム、妹にエベリンがいる[4]1860年に父が死んだため、母の実家に身を寄せた。兄とともにリーズ郊外のフルネックにあるモラヴィア兄弟団系の寄宿学校に入学する[5]

1862年には祖父の死で母が実家を出ることになり、アスキスと兄はロンドンの伯父に引き取られたが、伯父の引っ越しに伴いイズリントンの医者のところへ預けられ、シティ・オブ・ロンドン・スクール英語版に入学した[5]

古典で優秀な成績を残したため、古典奨学金を獲得でき、オックスフォード大学ベリオール・カレッジに入学できた[6]。大学では常に首席の成績であった。学生クラブ活動にも熱心だった[6]

弁護士

1875年に大学を卒業した後、ロンドンに上京。リンカーン法曹院で学びつつ、オックスフォード大学の先輩である弁護士チャールズ・ボウエン英語版の助手を務めた。ボウエンからコモン・ローについて教えを受けた[7]

わずか9か月ほどで弁護士として独立開業することに成功するも法曹界に人脈が無さ過ぎて、事務所の経営は厳しかった。1876年には医者の娘ヘレン・メランドと結婚している。彼女には幾らか収入の当てがあったので、質素な生活を営むぐらいはできた[7]。彼女との間には3人の男子と1人の女子を儲けている[8]

1881年自由党左派が前年に作った「80年クラブ」に入会している[9]

1883年頃にボウエンの縁で司法長官ヘンリー・ジェームズ英語版に注目されるようになってから、弁護士業が軌道に乗るようになった[9]

庶民院議員に当選、最初の野党時代

1891年8月1日の『ヴァニティ・フェアー英語版』誌のアスキスの戯画

1885年に発足した自由党政権の第3次ウィリアム・グラッドストン内閣はアイルランド自治法案を議会に提出したが、ジョゼフ・チェンバレンらが自由党を割って反対票を投じた結果、法案は否決された。これを受けてグラッドストンは1886年7月に解散総選挙英語版に打って出た。

この選挙でアスキスはイースト・ファイフ選挙区英語版から自由党候補として出馬した。この選挙区はこれまで出馬していた自由党候補がチェンバレンとともに自由党を離党したため、自由党の候補が空きになっていた選挙区だった[10]。自由党の地盤の選挙区であり、グラッドストン支持を訴えるアスキスが当選を果たした(ただし総選挙全体の結果は自由党の敗北であり、第3次グラッドストン内閣は退陣することになった)[11]

保守党政権下の1887年3月24日に処女演説を行い、アイルランド担当大臣アーサー・バルフォアが制定したアイルランド強圧法に反対する演説を行った。自由統一党のジョゼフ・チェンバレンはアスキスの処女演説を褒めている[12]

自由党内ではローズベリー伯爵エドワード・グレイリチャード・ホールデン英語版らとともに「自由帝国主義」派の派閥に属していた[13]

アスキスが名をあげたのは、1889年アイルランド国民党英語版党首パーネルがアイルランド担当相フレデリック・キャヴェンディッシュ卿の暗殺に関与したことを示唆する『タイムズ』紙の記事が捏造であることを証明したことだった。アスキスはパーネルから依頼を受けてこの件の調査にあたった。記事を書いた者は追及を苦にして自殺してしまったが、アスキスは諦めることなく、『タイムズ』紙支配人を追及し、とうとう『タイムズ』紙がたいした調査もせずにこの捏造記事を載せたことを証明した。これによりパーネル人気は絶大なものになり、アスキスの知名度も高まったのである[14][注釈 1]

この件がきっかけとなり、アスキスの弁護士としての仕事も急激に増え、1890年春には勅選弁護士英語版に勅任されるほどイギリス有数の弁護士となっていた[16]

第4次グラッドストン内閣内務大臣

自由党の首相ウィリアム・グラッドストン

1892年6月の解散総選挙英語版は自由党の辛勝に終わった。アスキスもイースト・ファイフ選挙区で再選を果たす[17]

保守党の首相ソールズベリー侯爵は総選挙の敗北にもかかわらず、なかなか辞職しようとしなかったため、自由党党首グラッドストンは内閣不信任案を提出することを決定し、その動議をアスキスに任せた。アスキスは8月8日に内閣不信任案を提出し、雄弁な演説を行った。アスキス提出の内閣不信任案は3日にして可決されている[17]

こうして第4次グラッドストン内閣が発足する運びとなった。グラッドストンはアスキスの働きを評価し、彼を内務大臣に抜擢した。グラッドストンは政務次官を経ていない者をいきなり閣内大臣に任命するような抜擢人事を嫌う人だったので、極めて異例の抜擢だったといえる[17]

新内務大臣アスキスは8月28日にヴィクトリア女王から陪食を許されたが、女王はその日の日記の中でアスキスについて「気持ちよく素直にして分別がある人物と見える」と書いている[17]

内相就任早々にトラファルガー広場で予定されていた左翼集会を許可するか否かの問題にぶつかった。前保守党政権はこの集会を禁止する方針だったが、アスキスはこの方針を変更し、土曜日の午後、日曜日、銀行休業日の日中であり、かつ事前に日時と行進ルートを警視庁に申し出ておけば自由にデモをしてよいという方針を定めた。この方針は現在のイギリスにも受け継がれている[18]

また工場法改正に着手し、検査制度の強化、女性の検査官就任を認める改正を主導した[19]

1893年初頭にはアイルランド国民党パーネル派がアイルランド独立運動家の爆破テロリストたちを釈放するよう内務大臣アスキスに要請してきたが、アスキスは「政治犯と個人犯罪の間に差別は認められない」としてその要求を拒否した。自由党内では友党アイルランド国民党に対して遠慮する者が多かったが、アスキスの法の執行者としての毅然たる態度はそうした政治的配慮で揺らぐことはなかった[18]

1893年秋にはフェザーストーン英語版で労使対立が深刻化し、暴動が発生したが、アスキスは現地警察の要請に応じて、その鎮圧のために軍隊を投入するのに主導的役割を果たした。このアスキスの対応には批判もあったが、アスキスは「現地のことは現地警察が一番よく分かっているはずであり、それより情報が少ない内務大臣が現地警察の要請を無碍に断るべきではない」と反論した[18]

ローズベリー伯爵内閣内務大臣

自由党の首相ローズベリー伯爵。党内ではアスキスの属する自由帝国主義派の領袖だった。

1894年3月にグラッドストンが引退し、ヴィクトリア女王の独断の叡慮によりローズベリー伯爵が後任として大命降下を受けた[20]

ローズベリー伯爵の内閣でもアスキスは引き続き内務大臣に留任した。またこの頃、死別した妻に代わって資産家サー・チャールズ・テナント准男爵英語版の娘マーゴット・テナント英語版と再婚した。彼女は大変な才女で社交界の花であり、自由党のみならず保守党の政治家たちからも評判が良かった[21]

ローズベリー伯爵内閣は首相・貴族院院内総務であるローズベリー伯爵と大蔵大臣・庶民院院内総務であるウィリアム・バーノン・ハーコートの内紛が激しい内閣だった。アスキスはローズベリー伯爵派だったが、なるべくこの対立に巻き込まれないようにしようと内務大臣の職務に集中した[22]

1895年にはウェールズ教会を国教会から解放する法案に取り組んだが、野党保守党からの反発は根強く、デビッド・ロイド・ジョージウェールズ出身の自由党議員も法案の不十分さを指摘して反対した[23]

アスキスがその説得にあたっている間、戦争大臣ヘンリー・キャンベル=バナマンは陸軍予算に関する法案に敗れ、陸軍大臣職を辞職した。首相ローズベリー伯爵はこれを機に総辞職することを決定した。ここで辞職しなくてもその後アスキスが取り組んでいるウェールズ教会問題で敗北を喫する可能性が高かったのでその前に早々に総辞職した形だった[24]

アスキスはウェールズ教会法案敗北に直面するのを回避できてこの総辞職に内心安堵していたという。一方でロイド・ジョージらウェールズ出身者に不満を持つようにもなったという[19]

二度目の野党期

ローズベリー伯爵派として

ローズベリー伯爵内閣総辞職後、1905年まで保守党と自由統一党の合同政党の統一党の政権が続き、アスキスら自由党は野党として過ごした。自由党は引き続きローズベリー伯爵が党首、ハーコートが自由党庶民院院内総務を務めていた[25]

1895年末から1896年初頭にかけて南アフリカトランスヴァール共和国セシル・ローズの部下たちが侵入するも失敗して捕虜になるというジェームソン侵入事件英語版が発生した。この事件以降統一党政権は植民地大臣ジョゼフ・チェンバレンのもと、トランスヴァールへの野心を本格化させ、反トランスヴァール世論を煽るようになった。こうした情勢の中で自由党内は党首ローズベリー伯爵やアスキスら「自由帝国主義派」とキャンベル=バナマンやハーコートら「小英国主義派」の内紛が深まっていった[26]

1896年10月にはローズベリー伯爵が自由党党首職から退いた。この際の辞任演説の中でローズベリー伯爵は「私の目に狂いがなければ、情理を備えたアスキス氏が将来国家を指導する地位につくことになろう」と予言した[26]

後任の自由党党首はアスキスかキャンベル・バナマンのどちらかだろうという下馬評だったが、アスキスの方が16歳若年であったし、また金持ちのキャンベル=バナマンと違い、アスキスはいまだ弁護士をして生計を立てなければならない身だったため、アスキス自ら辞退し、キャンベル=バナマンが自由党党首を引き受けることになった[26]

ボーア戦争をめぐって

1899年にイギリスとトランスヴァールが開戦して第二次ボーア戦争が勃発した。この戦争の勃発で自由党議員は主に3つの立場に別れた。政府の戦争遂行を支持するローズベリー伯爵やアスキスら「自由帝国主義派」、反戦を訴えるデビッド・ロイド・ジョージら「親ボーア派」、「今度の戦争は避けられた戦争だが、戦争が始まった以上政府を支持する。ただし早期に講和約を結ぶべし」とする党首キャンベル=バナマンら「中立派」である[27][28]。1900年7月25日に行われたボーア戦争の是非の採決では自由党のその分裂状態が露わとなり、31名の自由党議員が戦争に反対、40名の自由党議員が戦争に賛成、36名の自由党議員が投票を棄権している[29]

トランスヴァール共和国首都プレトリアが占領された後の1900年10月に行われた解散総選挙英語版では自由党とアイルランド国民党は与党に134議席の大差を付けられた[30]

この敗北により当分野党生活が続くことが確定した自由党はさらに結束が乱れ、党内対立が激化した。1901年にキャンベル=バナマンがイギリス軍による焦土作戦を批判して世論の反発を買うとローズベリー伯爵やアスキスも激しいキャンベル=バナマン批判を展開した[31]1902年初頭にはローズベリー伯爵がアスキスやグレイら自由帝国主義派を糾合して「自由連盟(Liberal League)」を結成した。この組織は自由党内に自由帝国主義を広げることを目的としていた[32]。これによって自由党は一時は分裂寸前の状態にまで陥ったが、ボーア戦争が終結に向かう中で党の対立も収束に向かっていった。アスキスの立場も調停役に転じていった[31]

バルフォア教育法への反対

1902年に国家的中等教育の確立を目指した「バルフォア教育法」が制定された。しかし同法は非国教徒が地盤とする学務委員会を廃止して教育委員会を新設し、さらに国教徒カトリック系の学校にはそのままの運営を認めて、税金まで投入する内容だったため、非国教徒が強く反対した[33][34]

非国教徒は自由党支持層の中核であった[35]。そのため非国教徒のバルフォア教育法への反対運動は分裂状態の自由党を統一させる効果があった[36]

アスキスもバルフォア教育法に強く反対し、「この教育制度は現在の教育制度を根底から覆し、革命を企図するものだ」と批判した[34]

チェンバレンの保護貿易論への反対

統一党政権で植民地大臣を務めていたジョゼフ・チェンバレン

ボーア戦争後の財政赤字の中で、植民地大臣ジョゼフ・チェンバレン大英帝国内自由貿易を推進しつつ、帝国外に対しては関税を再導入する「関税改革」を行うべきと主張するようになった[37]。しかし自由貿易主義者の閣僚から強い反対を受け、閣内では支持を得られそうにないと判断したチェンバレンは、1903年9月に閣僚職を辞した。その後、演説で保護貿易の世論を喚起することを狙って工業都市各地の遊説を開始した[38][注釈 2]

自由貿易主義の政党である自由党はチェンバレンの保護貿易主義に強く反発し、アスキスもチェンバレンが演説した場所を追跡して遊説し、チェンバレンの保護貿易論を徹底的に批判した。アスキスは「チェンバレンは第一に国内貿易を完全に無視しており、第二にイギリスの輸出額をもって貿易額を推定し、貿易外勘定を入れていない」と主張した[40]

この一連のアスキスの遊説は国民の支持を集めた。一般の国民はパンの値上がりを警戒して保護貿易主義を嫌っていたためである[41]。アスキスが後に自由党党首となりえた声望はこの遊説によって獲得されたと言われる[40]

1905年11月に開催された保守党立憲協会全国連盟英語版ニューカッスル大会ではチェンバレン派が主導権を握って保護貿易主義の決議を採択させたことでバルフォア首相とチェンバレンの関係は緊張し、保守統一党政権は分裂の一歩手前にまで陥った[42][43]

一方、自由党も党首キャンベル=バナマンが1905年11月23日のスターリングでの演説においてアイルランド自治法案に前向きな発言をしたことをローズベリー伯爵が批判していた[44]。これを見た首相バルフォアは今辞職すれば政治の焦点を関税問題からアイルランド問題に移し、自由党を分裂させられると踏んで1905年12月4日に内閣総辞職した[45][46]

しかしチェンバレンとの対決姿勢を明確にしないローズベリー伯爵は、アスキスら自由帝国主義派からも離反されつつあり、自由帝国主義派と急進派は自由貿易を共通点にして結びつきを強めていた[47]。そのためローズベリー伯爵に続く者はなく、自由党が分裂することはなかった[46]

キャンベル=バナマン内閣大蔵大臣

自由党の首相ヘンリー・キャンベル=バナマン。小英国主義者であった。

1905年12月4日のバルフォアの辞職で自由党政権が発足する見通しとなると、アスキスは自分が首相の座を就こうと、キャンベル=バナマンに貴族院議員になることを勧めたが、彼はこれを撥ね退けている[47]

キャンベル=バナマンは自分が首相に就任する野心は捨てなかったものの、自由帝国主義派にも重要閣僚ポストを与えることで党内一致を図ろうとした。アスキスには大蔵大臣、ホールデンには戦争大臣、グレイには外務大臣の地位をそれぞれ提示した。アスキスも党内融和を重んじていたので、ホールデンとグレイを説得して3人そろってキャンベル=バナマン内閣に入閣することにした[48]

首相としてのキャンベル=バナマンは「邪悪な帝国主義に反対するが、常識に基づく帝国主義には賛成する」という折衷的立場をとり、実際には「大英帝国本国民が帝国を支配するための資質を育成する」と称して帝国の拡大よりも社会改良政策に力を入れた。このキャンベル=バナマンの方針によりアスキス、グレイ、ホールデンら自由帝国主義派とロイド・ジョージら急進派をともに内閣に取り込み続けることができたのである[49]

1906年解散総選挙では、チェンバレンの保護貿易論の是非、膨大な数の中国人労働者がから英領南アフリカに輸出されてくることへの是非が主な争点となった。自由党はその両方に反対して選挙戦を有利に展開し、377議席を獲得するという地すべり的大勝利を得た[50][51]

首相として

1908年のアスキス首相

1908年2月に心臓発作を起こしたキャンベル=バナマンは、医者の勧めに従って同年4月1日に首相職を辞した[52]。大蔵大臣にして、庶民院で庶民院院内総務キャンベル=バナマンの代理を務めるアスキスが首相となることに党内からの異論はほとんどなかった[52]。4月8日に国王エドワード7世は滞在中のフランス・ビアリッツにおいて55歳のアスキスに大命降下した[53]

この任命式が終わるとアスキスはすぐにイギリスに帰国し、組閣を開始した[54]。こうして成立した第1次アスキス内閣英語版にはデビッド・ロイド・ジョージが大蔵大臣、ウィンストン・チャーチル通商大臣英語版として入閣していた。この二人の入閣で改革機運は高まった[55]

老齢年金法

就任間もない1908年5月にアスキスは急進派や労働党が求めていた無拠出の老齢年金制度を定めると宣言した[56]。老齢年金制度はドイツで1893年以来運用されていた制度であった[57]

大蔵大臣ロイド・ジョージが老齢年金法案を議会に提出した。この法案は野党統一党から財源の裏付けがないと批判されたが、ロイド・ジョージは軍事費を削減したので拠出が可能と反論し、財源不安を払しょくした[56]

またアスキスや野党統一党にとってこの法案は、労働党や「救貧法及び貧困の救済に関する王立委員会英語版」が主張する救貧法廃止と「労働権」の確立の論議[注釈 3]が労働者層の支持を集める前に「先手」を打つという保守的な意味があった[59][60]

そのような背景もあって、最終的に老齢年金法案は1908年7月に野党統一党の支持も得て可決されている[61]

この老齢年金法英語版によって70歳以上の高齢者には年金が支給されるようになった[60]

職業紹介所設置法

さらに1909年には商務大臣チャーチルの主導で職業紹介所設置法英語版が可決成立した[62]

これにより、これまで地方公共団体が設置運営していた職業紹介所は中央政府が直接に設置運営することになり、職業紹介所をイギリス全国に大幅に増やすことが可能となった[63][60]。この法律は失業にあえいでいた当時のイギリス国民からは歓迎され、アスキス内閣の基盤の強化に資した[63]

だが、この法律も隠された保守的な意図があった。職業紹介所の設置で労働の市場化を押し進め、資本家が「最適の労働者」を見つけやすくしたのである。労働組合もこれを予見しており、「労働組合の規定で定める賃金以下で労働者がかき集められる危険性がある」としてこの法律に反対した[63]。労働党も「失業保険制度もない、失業対策事業もしない、労働者の再教育もしない、ただ職業紹介所を置くだけというこの法律では、労働権が確立したなどとは到底言えない」と批判した[64]

結果、労働党の労働権確立を求める運動は弱まるどころかますます強まったのであった[65]

ドイツとの建艦競争

イギリスの国際的地位は1870年代以降、後発資本主義国の発展に押されて下がり続けていた。後発資本主義国の中でもとりわけイギリスに急追していたのがドイツ帝国だった。ドイツ資本主義の急速な発展を背景にして、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は1890年代後半から「世界政策(Weltpolitik)」を掲げて海軍力を増強して帝国主義外交に乗り出し、世界中でイギリス資本主義を脅かすようになった[66]

これに対抗したイギリスの海軍増強は統一党政権時代から進められており、1905年12月に成立した自由党政権キャンベル=バナマン内閣もはじめこの海軍増強路線を継承しようとしたが、社会保障の財源確保のため、統一党政権時代に立てられた海軍増強計画を縮小し、海軍の小増強(大型軍艦3艦建艦)を目指した[67]

しかし1908年2月にドイツ帝国議会が可決させた海軍法修正法により、ドイツ海軍は毎年弩級戦艦を3艦、巡洋艦を1艦ずつ建艦していき、1917年までに弩級戦艦と大型巡洋艦を計58艦保有することを目標とした[68]。これを受けてイギリスでも野党統一党やイギリス海軍軍部を中心として海軍増強が叫ばれるようになった[69]

こうした中の1908年4月に発足したアスキス内閣は、組閣後直ちに自由帝国主義派と急進派の閣僚で意見対立が起こった[70]海軍大臣英語版レジナルド・マッケナや外務大臣グレイら自由帝国主義閣僚は最低でも弩級戦艦4艦、情勢次第では最大6艦の建艦を主張した。対して大蔵大臣ロイド・ジョージや通商大臣チャーチルら急進派閣僚はドイツの脅威を否定し、海軍増強より老齢年金など急進派政策の財源確保を優先させるべきと主張した[69]。しかしグレイ外相が海軍増強が受け入れられないなら辞職すると脅迫したことで、最終的には急進派閣僚が折れることになり、ロイド・ジョージもチャーチルも1909年から1910年の間に4艦の弩級戦艦を建艦することを認め、対立は一時収束した[71]

しかし1909年1月から2月の閣議でマッケナ海軍大臣ら自由帝国主義派閣僚が6艦の建艦を要求し、4艦の建艦に固執するロイド・ジョージやチャーチルら急進派閣僚と再び対立を深めた[72]。アスキスは自由帝国主義派を支持しており、この頃妻に「ロイド・ジョージとウィンストンは共謀して自由党系新聞を味方に付けている。陰険にも辞職をちらつかせて私を脅迫している。私は彼らをただちに放逐したいと思う時がある」と漏らしている[73]

結局アスキスは1909年2月24日の閣議で自由帝国主義派が主張する6艦案と急進派の4艦案の折衷案として、まず1909年の財政年度に4艦、情勢次第で1910年にはさらに4艦の弩級戦艦を建艦するという計画を示した。これにより自由帝国主義派と急進派の両方に一定の満足を与えて閣内対立をひとまず収束させることができた[74]

しかし野党統一党はまったく不十分な建艦計画であると批判していた。統一党党首バルフォアは「もっと急速に建艦しないと弩級戦艦の保有数は1912年にはドイツの方が多くなるであろう」と主張した[74]。1909年3月のクロイドン選挙区英語版の補欠選挙では統一党候補が「We want eight and we won't wait(我々は8艦を求める。我々には待っている余裕はない)」というダジャレのスローガンを掲げて選挙戦を戦い、自由党候補に大差をつけて勝利した。これにより海軍増強の機運が更に高まった[75]

アスキスはこの統一党の急速な海軍増強路線にも警戒感を持っており、海軍拡張主義にこれ以上妥協はしないという姿勢を露骨に示すことで統一党を内閣不信任案提出に誘導し、これを庶民院で否決させることで海軍増強主義に一定の歯止めをかけた[76]

「人民予算」をめぐる貴族院との衝突

大蔵大臣ロイド・ジョージは1909年4月に「貧困と悲惨を根絶するための戦争の戦費」と称して「人民予算英語版」を議会に提出した。この予算はドイツとの建艦競争や老齢年金などの社会保障費によって財政支出が膨大になったため、財政の均衡を図るために提出されたものだった[77]

人民予算には所得税率の引き上げ、相続税の引き上げと累進課税性の強化、そして土地課税制度導入が盛り込まれていた[78][79]

この予算はイギリス政界や世論を二分した。チャーチルらは人民予算を支持して「予算賛成同盟(Budget League)」を結成、対して統一党のウォルター・ロング英語版らは「予算反対同盟英語版」を結成してこれに対抗し、両組織とも激しい大衆取り込み・動員を行った[78][80]。庶民院や国民からの支持は「予算賛成同盟」の方が強かったので、人民予算は庶民院を通過したが、貴族院からは「社会主義予算」「アカの予算」と徹底的な攻撃を受けた[81]。とりわけ土地課税は地主貴族たちを刺激し、「土地の国有化を狙うもの」という批判が噴出した[82]。結局貴族院は11月30日に人民予算を圧倒的大差でもって否決した[83][81]

これを受けてアスキスは「国民から人民予算の承認を得る」として12月3日に議会を解散し、総選挙に打って出た[83][81]。 選挙戦では自由党は貴族院の権限縮小、人民予算擁護、関税反対、社会改良実施、ウェールズ国教会廃止、アイルランド自治法案提出を公約に掲げて戦った[84]。対する統一党は貴族院権限縮小反対、人民予算反対、海軍拡張をスローガンに掲げた[85]。国民のムードとしては人民予算については自由党支持派が多かったが、海軍拡張では統一党を支持する者が多かった[86]

そのため1910年1月に行われた解散総選挙英語版は接戦となり、自由党は275議席、統一党は273議席、アイルランド国民党は82議席、労働党は40議席を獲得した。大勝した前回選挙と比べると自由党は104議席を喪失した[87]

とはいえ自由党はアイルランド自治法案提出を公約に掲げていたのでアイルランド国民党から人民予算支持を取り付けることができた。また労働党も人民予算を支持する立場を表明した。そのため人民予算は1910年4月20日に再び議会に提出され、庶民院を可決し、貴族院も無投票で通過し、4月28日に国王エドワード7世の裁可を得て成立した[88][89]

ただこの選挙によって国民が海軍増強を求めていることも明白となった。これによりアスキス内閣は改めて海軍増強路線に舵を切り、またロイド・ジョージら急進派閣僚も自由帝国主義化を強めていくことになる[88]

議会法

1910年12月の解散総選挙英語版で国民の注目を集める「関税改革」を無理やり「貴族打倒」に貼りかえるアスキスの風刺画。

アイルランド国民党はアイルランド自治法案の妨げになっている貴族院の拒否権を縮小する法案を人民予算より優先して可決させてほしいと自由党に要請していた。庶民院のキャスティング・ボートはアイルランド国民党が握っているからこの要請に応じなければ自由党が政権を維持できないのは自明だった[90]

アスキスは早急に貴族院改革に乗り出す必要に迫られ、1910年4月14日に「議会法案」を議会に提出した。これは財政法案に関する貴族院の拒否権を廃止し、また財政法案以外の法案についても貴族院が反対したとしても庶民院が3回可決させた場合は法律となるという内容だった[91]

議会法をめぐる審議の中の5月6日に国王エドワード7世が崩御し、ジョージ5世が国王に即位した[92]。政界や世論には「新王をいきなり政治的危機に晒してはいけない」という空気が強まり、これがきっかけで一時的に自由党と統一党の対立関係が緩み、自由党、統一党双方の代表者4人からなる「8人会議」が創設され、さらに6月から11月にかけて「憲法会議」と呼ばれる会合が開かれ、貴族院改革についての話し合いが行われるようになった[92][93]

だが結局これらの会議で自由党と統一党の妥協はならなかった。アスキスは国王ジョージ5世から「貴族院改革を問う解散総選挙を行って政府が勝利した暁には国王は大権を行使して貴族院改革に賛成する新貴族院議員を任命する」との確約を得たのち、1910年11月16日に議会を解散した[92][94]

この年二度目の総選挙だった。選挙戦で自由党は「貴族が統治するか、国民が統治するか」をスローガンにして貴族院改革を公約に掲げた。対する統一党は関税改革を訴えて戦った(この頃には関税改革に興味や理解を示す国民も増えつつあった)[95]総選挙英語版の結果は自由党272議席、統一党272議席、アイルランド国民党84議席、労働党42議席と前回総選挙とほとんど変わらなかった[96]。得票率で見ると自由党は統一党に敗れていた[92]

しかしアスキスは1911年2月21日の新議会で自党と友党アイルランド国民党があわせて過半数を制したので貴族院改革の国民のコンセンサスは得たと力説し、議会法を再度議会に提出した[96]。法案は5月15日に庶民院を通過したが、貴族院は断固反対の姿勢を示した。これを見たアスキスは、もし貴族院がこの法案を通過させないなら国王大権によって貴族院改革に賛成する新貴族院議員を任命する方針とそれについて国王の承諾を得ている旨を7月20日にバルフォアら統一党執行部に付きつけた[97]

これを受けてバルフォアら統一党執行部の面々は議会法阻止をあきらめた[98]。しかし貴族院議員の中にはそれでもなお頑強に抵抗しようという者も少なくなく、予断を許さない状況だったが、最終的には8月10日の貴族院の採決で賛成131、反対114で法案は可決され、ついに議会法が成立した[99][100]

ドイツとの戦争準備

1911年7月にフランスが植民地化を推し進めているモロッコアガディール港にドイツ軍艦が派遣されるという第二次モロッコ事件が勃発し、独仏戦争の危機が発生した。アスキス内閣のグレイ外相はドイツがこの港を獲得したら英国本国と英領南アフリカや南米との通商海路が危険に晒されるとしてドイツの行動に断固反対の立場をとった。アスキスもこの事件を機に自由帝国主義体制の確立と対独戦争準備を一層急がせるようになった[101]

この頃イギリスは、海軍の貯蔵庫や火薬庫の警備の強化したり、英仏参謀本部間でイギリス軍4~6個師団を大陸に上陸させる計画を立案したり、日本との同盟の10年更新したり、植民地軍との連携を強化するなど戦争体制構築を急ピッチに進めていた[102]。10月23日にはチャーチルを急進派から引き離す意味で、彼を海軍大臣にすえている[103]

アスキスによるこうした戦争準備はドイツ側にも洩れており、11月4日にドイツはフランスとの間に協定を締結し、モロッコをフランス保護国と認めつつ、フランス領コンゴの一部をドイツに割譲させた。これによってモロッコ事件自体は収束した[104]

しかし英独の緊張関係は収束するどころか、1912年に入ると一層緊張した。アスキスは建艦競争の緩和を目指して、1912年1月にリチャード・ホールデン英語版を使者としてドイツに派遣し、「イギリス海軍の優位をドイツは認めるべき、ドイツはこれ以上海軍増強を行ってはならない、代わりにイギリスはドイツが植民地拡大するのを邪魔しない」という交渉をもちかけた(ホールデン使節英語版[105]。だがこのホールデン訪独中にチャーチルが「イギリスにとって海軍は必需品、しかしドイツにとって海軍は贅沢品である。イギリスにとって海軍は不可欠なものだが、ドイツにとっては膨張を意味する」という問題発言を行ったため、ヴィルヘルム2世は心証を悪くし、ホールデンの提案もドイツの海軍力を一方的に封じ込めようというイギリスの陰謀であるとして拒絶された[105]

ホールデン使節の失敗後、アスキスはドイツとの対決は不可避となったと見て、ドイツ海軍に対抗する英仏両国の海軍連携を深めていった[106]。また戦争に備えた行政機関の整備、陸軍と予備軍の迅速な動員準備、平和のため努力を続けているという民衆向けのポーズ[注釈 4]に励んだ[107]

アイルランド問題

友党アイルランド国民党の要請を受けて、1912年4月11日にアイルランド自治法案を議会に提出した[108][109]。アスキスにとっては、この法案はアイルランド問題に片を付けて挙国一致体制を作るという意味もあった[110]

この頃アイルランドでは内戦が勃発しかねない状態だった。自治法案提出の前年の1911年、北部アイルランド・アルスター地方のプロテスタントによって構成されるアルスター統一党協議会が本国の統一党の支持も得て、「アルスター地方がダブリンに作られる議会に支配されることは拒否する」と声明し、アルスター義勇軍を結成しはじめた。これに対抗してカトリックが大多数の南アイルランドもアイルランド義勇軍を結成し、両軍が睨みあう状態になっていたのである[111][112][注釈 5]

アイルランド自治法案の審議中、統一党は議会内でも公然と「内乱を起こす」と言ってアスキス内閣を脅迫していたが、アスキス内閣はアルスター義勇軍や統一党幹部を反逆罪で逮捕することは行わなかった。友党アイルランド国民党も統一党の連中を逮捕してもどうせ証拠不十分で無罪になり、かえって厄介な状況になると考えて、逮捕を求めなかった[114]。結局アイルランド自治法案は1913年7月までに議会に2回提出されるもどちらも統一党が多数を占める貴族院で否決された[115]

1913年9月にはチャーチルが統一党のボナ―・ローと会談し、続く10月にもアスキス自身がボナ―・ローと会談し、アイルランド自治法案について協議した。これらの会談でボナー・ローはアルスターを除くならばアイルランド自治法案を支持するという妥協案を示した[116]。アスキスはこの妥協案を11月12日の閣議にかけた。ロイド・ジョージは5年から6年ほどアルスターをアイルランド自治の対象から除外し(ただし除外されるか否かの選択権をアルスター各州に委ねる)、その期間経過後にはアイルランド自治の対象とするという提案を行い、これが内閣の方針となった[117]

しかしこの提案はアイルランド国民党からも統一党からも拒否されてしまった[118]。アスキスは1914年3月にも「アルスターを6年間アイルランド自治の対象から外し、その後アイルランド自治に組み入れる。ただしその選択はアルスター各州の住民投票による」という新妥協案をアイルランド国民党と統一党に提示したが、結局失敗に終わった[119][113]

その間にもアルスター義勇軍とアイルランド義勇軍の緊張は高まっていった。1914年3月19日には海軍大臣チャーチルが独断で艦隊をアラン島に出動させてアルスター義勇軍を牽制した。さらにアスキス自らもアイルランド駐留陸軍に命令を出して出動準備をさせようとしたが、陸軍軍人はアルスター義勇軍に共感をもっている者が多く、命令を拒否して将校らが続々と辞表を提出する騒ぎとなった(「カラ事件英語版」)[120]

アイルランド問題が激化しすぎてシビリアン・コントロールも崩壊しつつある中、アスキスは陸軍の統制を自らが強固に握るため、戦争大臣を兼務した[121]

1914年5月26日にアイルランド自治法案が庶民院を通過した。3度目の可決となるので、議会法に基づき、貴族院の賛否を問わず同法案は可決されることになった。しかし内乱誘発を恐れたアスキスは、アルスターを6年間自治の対象から除外する修正案も提出した。その修正案について各方面との交渉中に第一次世界大戦が勃発し、ボナー・ローとの交渉の結果、アイルランド自治法案は棚上げすることになったのだった[122]

第一次世界大戦

1915年頃のアスキスを描いた肖像画

1914年6月にサラエボオーストリア=ハンガリー帝国皇太子がセルビア人に殺害されたことをきっかけとして、7月28日にオーストリアはセルビア王国に宣戦布告した。オーストリアの後ろ盾であるドイツ帝国、またセルビアの後ろ盾であるロシア帝国も参戦し、8月3日にはロシアの同盟国フランスも対ドイツで参戦。8月4日にドイツ軍がベルギーへ侵攻したことを理由としてイギリスもドイツに宣戦布告した。ここにドイツ、オーストリア、(のちにトルコ、ブルガリアも)対ロシア、フランス、イギリスの第一次世界大戦が勃発した[123]

戦争初期には鉄道が国の管理下に入ったこと以外にはイギリス社会に大きな変化はなかった。アスキスも戦争大臣の職位を職業軍人ホレイショ・キッチナーに譲ったこと以外には特別な戦時内閣を作ろうとはしなかった。この戦争は1914年のうちに終わるだろうというのが一般的な見解だったためである[124]

だが1915年春になると戦線は膠着状態になり、戦争が長引く可能性が高まった。同年5月には弾薬不足の問題で政府を批判する動議が議会で可決され、また同時期第一海軍卿ジョン・アーバスノット・フィッシャーと海軍大臣チャーチルがガリポリの戦いの失敗をめぐって対立を深め、フィッシャーが辞職する事件があった。これによりアスキス内閣は辞職せざるを得なくなり、戦時に政治的空白が生じるという危険事態となった[125]

事態を憂慮した統一党のボナー・ローはアスキスやロイド・ジョージと会見し、大連立を承諾した。アスキスは渡りに舟とこれを受け入れ、1915年5月17日にも大連立内閣の第2次アスキス内閣を組閣した[126]。統一党からはアーサー・バルフォアが海軍大臣、オースティン・チェンバレンがインド担当大臣、ボナー・ローが植民地大臣として入閣した[127]

なおもガリポリからの撤退に反対するランカスター公領担当大臣チャーチルらを退けて、1915年12月にはガリポリからイギリス軍を無事撤退させた[128]。1916年1月には議会が任期切れしたが、戦時の特別措置で選挙は戦争後まで延期された(地方議会も同様)[128]

一方アイルランドでは第一次世界大戦開戦以来、アルスター義勇軍とアイルランド義勇軍がともに矛を収めて、政府の戦争遂行に協力するという立場をとっていたが、過激なアイルランド独立派の中には今こそアイルランド独立の好機と見て、ドイツと内通する者が出るようになった。1916年4月にはとうとうダブリンでアイルランド独立派とイギリス軍の市街戦が勃発した。捕らえられたアイルランド独立派のうち、15人が銃殺刑、160人が禁固、1800人がイングランド収監にされた[129]

1916年5月31日にはユトランド沖海戦があった。イギリスの制海権は守られたものの、イギリス海軍も大きな損害を出し、海軍を誇りにしていたイギリス国民の士気は低下した[130]。陸上戦闘でもヴェルダンの戦いソンムの戦いと悲惨な消耗戦が続いていた[131]。9月15日にはアスキスの長男レイモンド英語版もソンムの戦いで戦死している。これは年老いたアスキスにはだいぶ堪えたという[132]

イギリスでは徴兵制は嫌われており、イギリス政府も開戦から2年間は募兵制度で凌いできたが、激しい消耗戦で兵員は枯渇し、1916年1月には徴兵制の導入を決定せざるを得なくなった[133][134]

ロイド・ジョージはアスキスによる総力戦体制構築は手ぬるいと感じていた。統一党内からもその要請は強まっていた。そのため彼は、1916年11月末に自らを議長とする少数の閣僚による戦争指導委員会を設置し、ここに全権を集中させることをアスキス首相に提案した。アスキスは少数閣僚による指導体制の構築には賛成したが、首相である自分が議長になるべきと主張した。しかしロイド・ジョージは辞職をちらつかせてでもこれを拒否し、彼が議長となることにこだわった[135][136]。ボナー・ローら統一党閣僚たちがロイド・ジョージを支持した結果、アスキスは名目上の首相にされるより辞職することを決意した[137][138]

こうしてロイド・ジョージが首相となり、大戦後半戦と戦後処理は彼が指導することとなる。

首相退任後

サットン・コートネイ英語版のオール・セインツ教会にあるアスキスの墓。

アスキスが首相職を追われた後、自由党はロイド・ジョージ派とアスキス派に分裂した[139]

終戦が近付くにつれ、ロイド・ジョージ首相は戦後のことを考えねばならなくなった。道は2つあった。アスキスのもとに合流して自由党を一つに戻すか、さもなくば保守党との大連立を維持するかである。だが、すでにロイド・ジョージ派とアスキス派の亀裂は深まり過ぎていたので、彼は大連立維持を選ぶことになった[140]

そして終戦間もない1918年12月に勝利の余韻を利用して解散総選挙に打って出た。この選挙でロイド・ジョージは、自由党・保守党内の大連立派に公認状を出した。アスキスはこの公認状をクーポンと呼んで批判し、世に「クーポン選挙」と呼ばれた[141]。選挙は大連立派(特に保守党)の圧勝に終わり、アスキス派自由党は29議席にまで激減した。アスキス本人もこの選挙で落選している[142]。だが1920年の補欠選挙英語版で庶民院議員に再選を果たしている。

ロイド・ジョージ政権が保守党の造反で倒閣された後に樹立されたボナー・ロー保守党政権下で行われた1922年の総選挙では保守党が345議席を獲得し、単独政権樹立可能となった[143]。一方労働党は142議席で野党第一党となり、自由党は党の分裂状態が尾を引いてアスキス派が54議席、ロイド・ジョージ派が62議席と、両派を合わせても労働党の議席に及ばなかった[144]

ここでようやく危機感からアスキス派とロイド・ジョージ派に和解の空気が生まれるも、アスキス派のロイド・ジョージへの個人的恨みは深く、またロイド・ジョージもアスキス派を「古い自由主義にすがって改革できない人々」と軽蔑していたため、両派の再統合は容易ではなかった。1923年末、病で辞職したボナー・ロー首相の後を受けて首相・保守党党首となったボールドウィンが議会を解散、選挙が目前に迫ったことでようやく自由党両派はアスキスのもとで選挙戦を戦うことで合意した[145]。この選挙で自由党は159議席に回復したものの、労働党が191議席、保守党が258議席を獲得し、自由党の第三党状態はすっかり定着してしまった[145]

だが保守党ももはや単独政権を維持できない状況の中、キャスティング・ボートを握ったのは自由党だった。この中でアスキスは保守党とは組まず、労働党に協力して労働党政権を誕生させるという賭けに出た。このアスキスの決断によって1924年1月に史上初の労働党政権、第1次ラムゼイ・マクドナルド内閣が発足する運びとなった(ちなみにチャーチルは反社会主義の信条からこれに反発して自由党を離党している)[146]。もっとも同政権は同年の解散総選挙に敗れてすぐに退陣し、アスキスもこの選挙で再度落選した[139]

1925年にオックスフォード及びアスキス伯爵の爵位を与えられた[139]。1926年末に政界を引退すると宣言して自由党党首職を退いた。ロイド・ジョージが代わって自由党党首となったが、彼に対する旧アスキス派の反発は強く、党内対立が再燃していった[147]

アスキスは1928年2月15日に死去している[139]

人物・評価

アスキスの肖像画(サー・ジェイムズ・ガスリー画)

アスキス内閣外相エドワード・グレイは「アスキスは自分の保身や名誉に心を配る事はなかった。順境の時は同僚に花を持たせてやり、逆境の時は自らが前面に立ってその責任を代わりに負う人だった。彼の内閣では事件を起こした閣僚は全面的に首相の後援を期待できた」と評している[148]。1912年に発生した政治汚職事件「マルコニ事件」[注釈 6]はその典型であり、ロイド・ジョージがこの事件で政治生命を失いかけていた際にはアスキスが彼を救ったのだった[148]。ただアスキスは株取引は嫌いであり、内心ではロイド・ジョージを批判的に見ていたという[150]

統一党のオースティン・チェンバレンは、1916年にロイド・ジョージを支持してアスキスを失脚に追いやった者の一人だが、オースティンがアスキスに手紙を送っても、アスキスは恨み事を返すことなく、むしろオースティンの功績の称賛と感謝、また彼の一層の国への忠勤を願う返信を送った。オースティンはこの返信に非常に感心し、回顧録の中で「このような人物だからこそ、幾多の俊才がこの人の下に甘んじて仕えたのだ」と絶賛した[148]

アスキスに敵対したロイド・ジョージも回顧録の中で「私は彼の明瞭で論理的な言論に驚嘆してきた。言葉を自由に操り、鉄槌のように下す。同僚として知り合い、また閣僚として仕えるにいたって、ますますその巨大さを感じた。彼の偉大にして秩序ある知力は機械のように正確であった」と評している[151]

一方批判的な人物評もある。アスキスは「wait and see(静観しよう)」という言葉をよく使用したが、ロイド・ジョージはこれについて「首相のwait and seeは戦時には通用しない。平時には静観することで良い結果が出る時もあるが、戦時の場合は惨敗につながる危険の方が高い。」と批判している[152]

またオースティン・チェンバレンも「アスキスは推進力として欠けている。議長が決定を下すよう努力をしなければ、戦時内閣だろうが軍事委員会だろうが、ただの座談会で終わってしまうというのに。アスキスは自分の使命を理解していないらしく、他人を待っているばかりだ。このやり方で彼が摩擦を避けてきたことも事実だが、一言も発しないことが多すぎる」と批判している[152]

アスキス内閣通商大臣(のち海軍大臣、ランカスター公領担当大臣)ウィンストン・チャーチルは「アスキスの頭脳は機械のように正確だが、世界や自然、人間は機械のようには動かない。現代の政治家の判断には柔軟性がいるが、アスキスはそれが下手だった。成り行きに任せるしかないという段になるとアスキスはいかにも情けない顔をして残念そうだった」と回顧している[151]

脚注

注釈

  1. ^ ただパーネルは翌1890年不倫スキャンダルを起こし、急速に世論の支持を失った。自由党の支持勢力の中核である非国教徒の反発も激しく、自由党とパーネルと連携するのは難しい情勢となった。アイルランド国民党はジャスティン・マッカーシー英語版率いる多数派とパーネル率いる少数派に分裂し、多数派が自由党と連携を深めた。一方パーネル派はパーネルの離婚でさらに支持者を失い、1892年にはパーネルも死去して弱小派閥となった[15]
  2. ^ 産業資本家のうち工業資本家は廉価なドイツ工業製品の流入を恐れ、保護貿易主義を支持する傾向が強かった[39]
  3. ^ これは救貧法を廃止することで労働能力の無い貧困者への給付を労働能力のある貧困者に対する給付と切り離し、労働能力の無い貧困者は「老齢者、児童、病人、精神障害者」という4つの分類ごとに置かれた委員会から給付を受けられるようにし、一方労働能力のある貧困者には労働権を与えて、失業の撲滅を図ることで貧困から解消しようという主張である[58]
  4. ^ アスキスにはすでに戦争回避の意思はなかったが、平和的解決に努力したと国民にアピールしておくことで、戦争となった際に「やむをえない」と民衆を納得させ、挙国一致体制を構築しようと考えていた[107]
  5. ^ アイルランドにはカトリックが多い。彼らはアイルランド自治を求める者が多いが、北部アイルランドのアルスターは複雑だった。アルスターは9つの州からなるが、プロテスタントが多数な州とカトリックが多数派な州、両方が混在している州があったのである[110]。またアルスターはイングランド本国と経済的に結びつきが強く、アイルランドの中では唯一産業革命を経た地域であった。アイルランド自治にあたってここを失うことはカトリック・アイルランド自治派にとってもプロテスタント・イギリス派にとっても耐えがたいことだった[113]。したがってアルスター問題はアイルランド問題において重要だった。
  6. ^ 1911年の議会の決議で防衛体制強化のため無線電信網を張り巡らせることになったが、その公共事業を請け負ったマルコニ社の株をロイド・ジョージが大蔵大臣の職を利用してインサイダー取引したのでは、という疑惑を持たれた事件[149]

出典

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参考文献

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  • 村岡健次木畑洋一編 編『イギリス史〈3〉近現代』山川出版社〈世界歴史大系〉、1991年(平成3年)。ISBN 978-4634460300 
  • 秦郁彦編 編『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』東京大学出版会、2001年(平成13年)。ISBN 978-4130301220 
  • 『世界伝記大事典〈世界編 1〉アーウア』ほるぷ出版、1980年(昭和55年)。ASIN B000J7VF62 

関連項目

公職
先代
サー・ヘンリー・キャンベル=バナマン
イギリスの旗 首相
1908年-1916年
次代
デビッド・ロイド・ジョージ
先代
ジョン・エドワード・バーナード・シーリー英語版
イギリスの旗 戦争大臣
1914年
次代
キッチナー伯爵
先代
オースティン・チェンバレン
イギリスの旗 大蔵大臣
1905年-1908年
次代
デビッド・ロイド・ジョージ
先代
ヘンリー・マシューズ
イギリスの旗 内務大臣
1892年-1895年
次代
サー・マシュー・ホワイト・リドリー准男爵英語版
党職
先代
サー・ヘンリー・キャンベル=バナマン
イギリス自由党党首
1908年-1926年
次代
デビッド・ロイド・ジョージ
先代
サー・ヘンリー・キャンベル=バナマン
自由党庶民院院内総務
1908年-1916年
次代
自由党党首職に吸収
イギリスの爵位
先代
創設
初代オックスフォード及びアスキス伯爵英語版
1925年 - 1928年
次代
ジュリアン英語版