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「比治山」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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張本勲
 
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{{Infobox Settlement
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|image_caption = 1988年<ref>{{国土航空写真}}</ref> 。山全体が比治山公園、山の北端付近が比治山町の北端、この写真では見切れているが西側京橋川と南側国道2号の交点が比治山本町の南西端。
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}}
'''比治山'''(ひじやま)は、[[広島県]][[広島市]][[南区 (広島市)|南区]]に位置する[[標高]]71.1[[メートル|m]]の小高い[[丘]]である。この項目では比治山を中心とした公園、およびその周辺に位置する「比治山」を町名に冠する地区についても併せて述べる。

== 概要 ==
;名前の由来
比治山の名前の由来は諸説あり、比治某という人物が住んでいたためとも、山の姿が肘を横にした形に似ているためとも、言われている<ref name="bunka464">{{Cite web|和書|publisher=広島県|url=http://www.hiroshima-bunka.jp/modules/newdb/detail.php?id=464|title=寒山落木|accessdate=2014-04-05}}</ref>。

また[[虎]]が伏せている様に見て「臥虎山」(がこさん)とも呼ばれていた<ref name="ndl947802">{{Cite book|和書|publisher = 吉田直次郎|title = 広島案内記|url = {{NDLDC|947802}}|date =1913|accessdate = 2014-06-20}}</ref><ref>{{CRD|1000061846|比治山は昔臥虎山と呼ばれていたが,なんと読むのか知りたい。『広島県の地名事典』比治山の項に表記は出ているが,読みはない。|広島県立図書館}} 2014年6月20日閲覧</ref>。

;地理
{{Vertical_images_list
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|幅= 250px
| 1=Gaikan Hiroshima-shishi map-01.jpg
| 2=広島の新開地発展図(『概観広島市史』1955年) / 築上当時は比治山南側が海岸線で、宝暦3年(1753年)以降の開発により周辺が形成された。現在の段原3丁目付近が「比治村」と表記されている。
}}
太田川水系支流の[[猿猴川]]と[[京橋川]]に挟まれた土地に位置し、その2つの川の分岐点の南にある。住居表示は、比治山全体が比治山公園、山と京橋川に挟まれた北側が比治山町で南側が比治山本町となる。

比治山公園は、市中心部における市民の憩いの場の一つである。市内有数の桜の花見のスポットとして開花時期には多くの人で賑わい、ぼんぼりが飾られ夜桜を見ることもできる。

江戸時代から戦後までの比治村あるいは比治山地区の地区分割上における範囲は、比治山の北東から真東の範囲で現在の南段原/段原中/段原山崎/上東雲/東雲町1から3丁目/東雲本町1から3丁目/段原新町の一部であり(右地図参照){{Sfn|原爆戦災誌|p=403}}、現在の比治山町および比治山公園は[[段原|段原地区]]で比治山本町は[[皆実町 (広島市)|皆実地区]]に含まれていた。

;住居表示
* [[比治山町]]
* [[比治山本町]]
* 比治山公園

;隣接地区
* 北側:南区稲荷町、[[金屋町 (広島市)|金屋町]]、段原。
* 南側:南区[[皆実町 (広島市)|皆実町]]、[[出汐 (広島市)|出汐]]。
* 西側:京橋川を挟んで [[中区 (広島市)|中区]]東平塚町、鶴見町。
* 東側:南区段原、霞。

== 歴史 ==
{{Vertical_images_list
|寄せ=右
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| 1=Hiroshima Castle Town 1644.jpg
| 2=安芸国広島城所絵図(1644年頃)。右下が比治山にあたりこのころには干拓により海辺近くになっていたとわかる。右上が二葉山。
| 3=Hiroshima map circa 1930.PNG
| 4=[[1930年]]頃の[[広島市|廣島市]]の地図。比治山は中心やや右にある。比治山の北部には[[比治山神社]]、南部には陸軍墓地が記載されている。
| 5=Hiroshima - Extend Of Fire & Limits Of Blast Damage.jpg
| 6=原爆被害分布図。赤色の「Extend of Fire」(焼失範囲)が示す通り比治山を境に被害の差が出ている。
}}
=== 近代まで ===
[[縄文時代]]草創期、比治山自体は孤島であったが、縄文晩期になると[[太田川]]が上流から運んだ土砂が堆積し周辺を遠浅の海あるいは干潟を形成した<ref name="kumano">{{Cite web|和書|publisher=熊野町立図書館|url=http://www.lib.town.kumano.hiroshima.jp/kyoudo/pdf/1987-10-kumano-cho-si-tuusi-hen/tuusi-hen2-gensi-kodai-kouko/2-2.pdf|format=PDF|title=熊野町史 通史編 第2章第2節 縄文時代|accessdate=2014-04-05}}</ref>。比治山にはこの頃から人類が住んでいた<ref name="kumano" />。[[古代]]、比治山の北にある二葉山の麓まで海で、[[菅原道真]]は[[大宰府]]に左遷される際に休憩のため二葉山に船で寄せている<ref>{{Cite web|和書|publisher=広島県|url=https://web.archive.org/web/20140407090310/http://www.kankou.pref.hiroshima.jp/sys/data?page-id=3839|title=尾長天満宮|accessdate=2014-04-05}}</ref>。

中世、1400年代には太田川下流域の[[三角州]]の頂部付近(現在の白島)が発達し、1500年代後半には現在の[[平和大通り]]付近まで陸地が形成されている<ref name="mlit">{{Cite web|和書|publisher=国土交通省|url=https://www.cgr.mlit.go.jp/ootagawa/plan2/planpdf/02plan.pdf|format=PDF|title=太田川水系河川整備基本方針 2.太田川水系の概要|accessdate=2014-04-05}}</ref>ことから、ここが[[本州]]と完全に陸続きになったのはこの頃である。

[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、[[毛利元就]]がこの地を支配したことが転機となる。元就は拠点をこの地に移すことを考え始め<ref>{{Cite web|和書|publisher=広島城公式|url=http://www.rijo-castle.jp/rijo/sub4a.html|title=築城前の広島|accessdate=2014-04-05}}</ref>、一説には比治山が候補地となっていたとされている<ref>{{Cite web|和書|publisher=ひろしま通マップ|url=http://ww7.enjoy.ne.jp/~hiroshima2.2/newpage2-2.html|title=毛利氏の広島城築城と当時の町割り|accessdate=2014-04-05}}</ref>。

[[広島城]]築城以降、この地は発達した。比治山の北側には[[西国街道]]が通り商業地として発達し{{Sfn|原爆戦災誌|p=390}}、比治山の東側の猿猴川沿いに「比治村」ができる。また山の南側は宝暦3年(1753年)の[[干拓]]により土地形成され明治以降も続いた<ref name="mlit" />。

比治山自体は、江戸時代は藩有林で明治末期まで[[日本の国有林|国有林]]であった<ref name="sirouya16">{{Cite web|和書|publisher=広島城|url=http://www.rijo-castle.jp/rijo/pdf/sirouya16.pdf|format=PDF|title=しろうや!広島城 No.16|accessdate=2014-04-05}}</ref><ref name="pref71588">{{Cite web|和書|publisher=広島県立文書館|url=http://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/76355.pdf|format=PDF|title=広島の歴史的風景|accessdate=2014-04-05}}</ref>。

=== 近代以降 ===
1872年(明治5年)に、[[大日本帝国陸軍|旧日本陸軍]]が[[比治山陸軍墓地|陸軍墓地]]の整備を決定<ref name="city">{{PDFlink|[http://www.city.hiroshima.lg.jp/minami/gaido/fudoki/hudoki2009-08/no_8/P_02.pdf 陸軍墓地を守り六十年]}} - 広島市</ref>。1898年(明治31年)、比治山は[[江波山公園|江波山]]とともに公園として整備することが許可され、そのころから比治山公園と呼ばれるようになった<ref name="gansu_133">『がんす横丁』 - 133ページ</ref>。1908年(明治41年)から広島市が公園として整備しだした<ref>{{Cite web|和書|publisher=広島市|url=https://archive.is/qSUH|title=広島平和記念都市建設計画における分野別の計画|accessdate=2014-04-05}}</ref><ref name="pref71588" />。戦前から市内有数の桜の名所であった<ref name="pref71588" />。また、当時はツツジの名所でもあった<ref name="gasdenki_16">[{{NDLDC|1020556/16}} 広島瓦斯電軌株式会社経営電車沿線案内(6ページ)] - 広島瓦斯電軌</ref>。1909年(明治42年)に[[御便殿 (広島市)|御便殿]]が移設<ref name="gasdenki_16">[{{NDLDC|1020556/16}} 広島瓦斯電軌株式会社経営電車沿線案内(6ページ)] - 広島瓦斯電軌</ref>。陸軍墓地と御便殿は2大名所となった<ref name="gasdenki_16"/>。

戦前には[[船舶司令部|船舶砲兵団司令部]]([[陸軍船舶兵]])や電信第2連隊が駐屯していた{{Sfn|原爆戦災誌|p=19}}。
[[1921年]](大正9年)[[8月8日]]、陸軍第5倉庫で火災が発生、無数の小銃弾が飛散する事故となった。死者7人、重軽傷者21人<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=24 |isbn=9784816922749}}</ref>。

1945年(昭和20年)8月6日、[[広島市への原子爆弾投下]]により被爆。ここは[[爆心地]]から約1.8キロメートル離れたところに位置した。爆心地側である西側は壊滅したものの、東側は逆に比治山が爆風を遮ったことから影響が少なく火災も広がらなかった等、比治山によって対照的な被災状況となった{{Sfn|原爆戦災誌|p=390}}。被爆当日は[[多聞院 (広島市)|多聞院]]が臨時の[[広島県庁]]として機能した。市内中心部の被爆者はここに多数逃げ込んでいる{{Sfn|原爆戦災誌|p=390}}。

戦後も比治山は引き続き公園として整備された{{Sfn|原爆戦災誌|p=390}}。1949年(昭和24年)[[原爆傷害調査委員会]](ABCC)が開所している{{Sfn|原爆戦災誌|p=390}}。

なお、戦前から1986年(昭和61年)まで東側に[[宇品線]]が通り、戦後1966年(昭和41年)から南側に[[新広島バイパス]]([[国道2号]])が通っている。

1980年(昭和55年)、広島市が[[政令指定都市]]になったことを記念して「芸術公園」として整備が決定し、公園内にモニュメントが置かれた。あわせて博物館建設構想が上がり、[[広島市現代美術館]]や[[広島市立まんが図書館|比治山公園青空図書館(現・広島市立まんが図書館)]]が建設された<ref>{{Cite web|和書|publisher=広島市|url=https://archive.is/G8oL|title=南区を歩こう(比治山)|accessdate=2014-04-05}}</ref>。

1990年代には、山を貫通する[[比治山トンネル]]が整備され、広島市中心部と[[段原|段原地区]]とのアクセスが改善された。

== 比治山公園 ==
{{Infobox 山
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|名称 = 比治山<!--以下の値は四等[[三角点]]「比治山」のもの-->
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|画像 = [[ファイル:GazouBoshu.png]]
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{{公園
[[画像:hiroshima sky.jpg|thumb|right|300px|比治山から広島市内を望む]]
|名称 = 比治山公園
'''比治山'''(ひじやま)は、[[広島県]][[広島市]][[南区 (広島市)|南区]]に位置する[[標高]]約70[[メートル|m]]の小高い[[丘]]。市中心部における市民の憩いの場の一つである。
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|国 = {{JPN}}
|都市 = [[広島県]][[広島市]][[南区 (広島市)|南区]]比治山公園
| 緯度度 = |緯度分 = |緯度秒 =
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|告示 = 1902年
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|事務所所在地 =
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}}
;地理
比治山は、比治山トンネル付近で南北に二分される。南側に頂上がある。頂部は比較的平坦に整地されているがその周りは急斜面になっている。周辺の土地開発により、元の山形は留めていない{{Sfn|原爆戦災誌|p=390}}。


;地質
丘全体が比治山公園であり、園内には[[広島市現代美術館]]、全国初の公立の漫画[[図書館]]である[[広島市立まんが図書館]]、[[展望台]]などがある。他に比治山陸軍墓地を始め、戦時の軍需拠点だった歴史を物語るように山のあちこちに[[戦没者]]を弔う[[石碑]]がある。
太田川下流域の特徴である、広島[[花崗岩]]類とそれが[[風化]]して堆積した「[[真砂土|マサ土]]」で形成されている<ref name="mlit" />。ここの花崗岩は、[[毛利輝元]]による広島城築上の際に石垣として採用されている<ref name="sirouya07">{{Cite web|和書|publisher=広島城|url=http://www.rijo-castle.jp/rijo/pdf/sirouya07.pdf|format=PDF|title=しろうや!広島城 No.7|accessdate=2014-04-05}}</ref>。


;生態系
1300本の[[サクラ|桜]]が咲く季節には、[[平和記念公園]]などとともに花見のスポットとして多くの人でにぎわう。開花時期にはぼんぼりが飾られ夜桜を見ることもできる。
市中心部では[[黄金山]]とともに自然豊かな場所である。


中世から渡り鳥の休憩地として著名で<ref name="sirouya16" /><ref name="hiroshima24691">{{Cite web|和書|publisher=広島県保健環境センター|url=http://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/24691.pdf|format=PDF|title=広島県における感染症媒体蚊の生息状況|accessdate=2014-04-05}}</ref>、江戸時代には[[ソデグロヅル]]が飛来していた<ref name="sirouya07" />。現在[[鶴見橋 (広島市)|鶴見橋]]がある付近に広島藩による鶴の飼育場が設けられていて、これが鶴見橋の名前の由来となっている<ref name="sirouya07" />。現在は鶴は見られないが、[[マミチャジナイ]]や[[キビタキ]]の渡り鳥が確認されている<ref name="hiroshima24691" />。
== 歴史 ==
広島が五箇庄といわれていた寒村の頃には、現在の太田川デルタはほぼ海中であり、現在丘の部分がデルタに点在していた島々であった。
具体的には現在の[[中区 (広島市)|中区]][[白島 (広島市)|白島(はくしま)]]が箱島(はこしま)、中区[[江波 (広島市)|江波(えば)]]の[[江波山公園|江波山]]及び[[江波皿山公園|江波皿山]]は江波島(えばじま)、南区[[黄金山 (広島市)|黄金山(おうごんざん)]]が[[仁保島村|仁保島]](にほじま)、そして比治山は日地島(肘山・ひじやま)と呼ばれていた。


また江戸時代ここは藩有林で伐開や狩猟禁止であったことから多くの生物が存在し、[[ハヤブサ]]や[[イノシシ]]などが生息していた<ref name="sirouya07" /><ref name="sirouya16" />。当時領内でイノシシ被害にあった記録が残っている<ref name="sirouya16" />。
[[File:Hiroshima map circa 1930.PNG|300px|thumb|[[1930年]]頃の[[広島市|廣島市]]の地図。比治山は中心やや右にある。比治山の北部には[[比治山神社]]、南部には陸軍墓地が記載されている。]]
山の北側、現在広島市立まんが図書館がある広場は、通称・御便殿跡(ごべんでんあと)と呼ばれる。ここは[[1894年]](明治27年)の[[日清戦争]]時に[[大本営]]とともに[[基町]]の[[広島城]]内に併設された[[明治天皇]]の行在所(御便殿)を[[1909年]](明治42年)にこの地に移したもの。[[昭和天皇]]も[[即位]]直前の[[1925年]]([[大正]]15年)[[5月26日]]に、祖父の明治天皇ゆかりの地であるここに立ち寄って市内展望を行っている。それを記念して建てられた「皇太子殿下御展望記念碑」が現在もある。[[1945年]]([[昭和]]20年)[[8月6日]]の[[原爆]]で広場の北側にあった建物は無くなったが、基礎の石垣部分は1980年半ば頃まで残っていた。その石垣の南側には1970年頃まで、動物小屋が幾つかあり小動物が飼われてミニ[[動物園]]のようになっていた。[[広島市安佐動物公園]]開園でそこへ動物は引き取られ小屋は撤去され、御便殿の石垣ともども現在は無い。


上記の通り、市内有数の桜の名所であり、1300本の[[サクラ|桜]]が咲く季節には[[平和記念公園]]などとともに花見のスポットとして多くの人でにぎわう。
1990年代には、山を貫通する[[比治山トンネル]]が整備され、広島市中心部と[[段原|段原地区]]とのアクセスが改善された。


=== アクセス ===
敷地内には、第二次世界大戦前には[[加藤友三郎]]と[[早速整爾]]の銅像があったが、金属類回収令により現在は台座部分のみ残っている。
<gallery>
ファイル:HijiyamaPark 20120819-1.JPG|比治山下電停近くの入口。
ファイル:HijiyamaPark 20120819-2.JPG|比治山スカイウォーク
</gallery>
山へのアクセスは、旧来からある[[広島電鉄皆実線|5号線]][[比治山下停留場|比治山下電停]]近くの入口と、1990年代に整備された[[比治山スカイウォーク]]が一般的なアクセスになる。


== 施設 ==
* [[広島市現代美術館]]
* [[広島市立まんが図書館]]
* [[放射線影響研究所]] (旧[[原爆傷害調査委員会|ABCC]])
* NHK広島比治山テレビ・FM放送所→[[広島親局送信所]]
* 比治山陸軍墓地(比治山南広場)
* 展望台・トイレ・自動販売機
* 比治山貝塚
* [[多聞院 (広島市)|多聞院]]
* [[山陽文徳殿]]

== アクセス ==
比治山内には駐車場120台(比治山への車の乗り入れは夜23時-翌5時まで禁止)整備されている。山のふもとの[[広島イースト]](旧・広島サティ)3階から、[[比治山スカイウォーク]]の動く歩道と[[エスカレーター]]で山頂まで行くことができる。広島イーストの駐車場も利用する事が出来る。
比治山内には駐車場120台(比治山への車の乗り入れは夜23時-翌5時まで禁止)整備されている。山のふもとの[[広島イースト]](旧・広島サティ)3階から、[[比治山スカイウォーク]]の動く歩道と[[エスカレーター]]で山頂まで行くことができる。広島イーストの駐車場も利用する事が出来る。


* [[JR]][[広島駅]]から[[広島電鉄]](市内電車)[[広島電鉄皆実線|5号線]][[比治山下|比治山下]]経由[[広島港|広島港]]行き約10分、「[[比治山下|比治山下]]」電停下車、徒歩10分
* [[JR]][[広島駅]]から[[広島電鉄]](市内電車)[[広島電鉄皆実線|5号線]][[比治山下停留場|比治山下]]経由[[広島港停留場|広島港]]行き約10分、「[[比治山下停留場|比治山下]]」電停下車、徒歩10分
* [[JR]][[広島駅]]からバス約10分、「[[段原|段原中央]]」下車、スカイウォーク経由徒歩10分
* [[JR]][[広島駅]]からバス約10分、「[[段原|段原中央]]」下車、スカイウォーク経由徒歩10分

=== 施設 ===
<gallery widths="200px" heights="200px">
ファイル:広島市現代美術館01.jpg|[[広島市現代美術館]]
ファイル:広島市立まんが図書館01.jpg|[[広島市まんが図書館]]
ファイル:Radiation Effects Research Foundation Hiroshima.jpg|[[放射線影響研究所]] (旧[[原爆傷害調査委員会|ABCC]])
ファイル:Hijiyama kaiduka.JPG|[[比治山貝塚]]
ファイル:Hijiyama 140426.JPG|[[御便殿 (広島市)|御便殿跡広場]]
ファイル:Hijiyama Army Cemetery 140503-1.JPG|[[比治山陸軍墓地]]
</gallery>

;その他
* [[広島親局送信所#比治山|NHK比治山テレビ放送所]] - アナログテレビの[[広島親局送信所]]の一つ。1950年、[[NHK広島放送局]]の「比治山テレビ放送所」として開所した。当時は[[流川 (広島市)|流川]]にあった本局で映像を編集後、[[タクシー]]でここまで持ち込んで放送という形が取られており、17人の常勤技術者が滞在していた。1971年より無人化<ref>{{Cite web|和書|publisher=NHK広島放送局|url=http://www.nhk.or.jp/hiroshima/hijiyama/nenpyo.html|title=比治山放送所と放送の歴史|accessdate=2014-04-05}}</ref>。地上デジタルテレビの送信所は設置されず、現在はNHK-FMのみ比治山から送信している。
* [[加藤友三郎]]および[[早速整爾]]銅像台座 - 太平洋戦争前に建てられたが[[金属類回収令]]により現在は台座部分のみ残っている。
* [[正岡子規]]句碑「鶯の 口のさきなり 三萬戸」 - [[日清戦争]]時に従軍記者として広島に訪れた際に幾つか詠んだ句の一つであり、句集「寒山落木」の中の一句が刻まれた石碑がある<ref name="bunka464" />。
* 原爆被災説明板 - 比治山から被爆後の市内を撮影した写真とともに被災状況を説明している<ref>{{Cite web|和書|publisher=広島市|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/0000000000000/1111544105281/index.html|title=32廃墟と化した広島市街地(比治山公園内)|accessdate=2014-04-05}}</ref>。
* 雲霓橋 - 1929年(昭和4年)、広島市主催の「昭和産業博覧会」が開催された際にかけられた橋。元々は[[吊り橋]]だった<ref>{{Cite web|和書|publisher=広島市|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/minami/gaido/map/eki/9/4.html|title=雲霓(うんげい)橋|accessdate=2014-04-05}}</ref>。
* 展望台・トイレ・自動販売機
<gallery>
ファイル:P1100065.jpg|加藤友三郎銅像台座
ファイル:Kato Tomosaburo old sekihi 02.JPG|加藤友三郎銅像建設由来碑。碑文の部分が抜かれている。
ファイル:Hayami Seiji sekihi.JPG|早速整爾銅像台座
</gallery>

== 比治山町/比治山本町 ==
上記の通り、元々は比治山町が段原地区で比治山本町が皆実地区であったが戦後の住居表示変更により現在のものに改められた。
=== 施設 ===
<gallery widths="200px" heights="200px">
ファイル:Tamon-in temple at Hiroshima.jpg|[[多聞院 (広島市)|多聞院]](比治山町)
ファイル:比治山神社01.JPG|[[比治山神社]](比治山町)
ファイル:Sanyo Buntokuden 01.JPG|[[山陽文徳殿]](比治山町)
</gallery>
==== 公共施設 ====
{{Vertical_images_list
|寄せ=右
|幅= 200px
| 1=広島県立広島産業会館 西館01.JPG
| 2=広島県立広島産業会館西館。
}}
* [[広島県立広島産業会館]](比治山本町)
** 広島産業文化センター
** [[広島市立南区図書館]]
* [[広島県庁]]西部建設事務所建設業課(比治山本町)
* 比治山下公園(比治山本町)
* 比治山本町郵便局(比治山本町)

==== 教育機関 ====
* 比治山幼稚園(比治山本町)
* 比治山小学校は地区内には所在しない([[東雲 (広島市)|上東雲町]]に所在)。

==== かつて所在していた施設 ====
* [[広島師範学校|広島県師範学校]](現・比治山本町) - [[1911年]]から[[1941年]]まで、現在の[[広島電鉄皆実線|広電皆実線]]の東側で比治山本町南西部(ただしこの当時は[[皆実町 (広島市)|皆実町1丁目]]の町域内)から皆実町1丁目の北部に至るまでの区域を校地としていた。1941年に[[東雲 (広島市)|東雲町]]に移転し、跡地は[[1945年]]春に開校した[[広島医科大学|広島県立医学専門学校]]の校地に転用されたが、原爆により全壊したため校地としては廃止された。跡地には[[広島市立南区図書館|南区図書館]]などが立地しているが、[[国道2号|国道2号線]]など戦後新たに道路が敷設されたため、校地の跡は分かりにくくなっている。
* [[陸軍電信第二連隊]](現・比治山本町) - [[1922年]]の創設以来、比治山の南麓から皆実町1丁目の北部(現在の[[進徳女子高等学校]]校地)に至るまでの区域に駐屯していたが、敗戦により廃止された。跡地には食品工業試験所・産業文化センター・[[広島県立広島産業会館|産業会館]]などが立地している。上記と同様、国道2号線が横断しているため跡地は分かりにくくなっている。
* [[御便殿 (広島市)|御便殿]](現・比治山公園) - [[日清戦争]]中、広島に滞在していた[[明治天皇]]の臨時の行在所として[[1894年]]に基町に建築されたものを[[1909年]]に比治山公園内に移設した。[[1945年]]、[[広島市への原子爆弾投下|原爆]]により倒壊したのち戦後は長らく礎石の石垣のみが残っていたが、[[1982年]]以降撤去され跡地には壁泉が設置された。

== 交通 ==
地区の南側を[[国道2号]]([[新広島バイパス]])が、西寄りに[[広島県道37号広島三次線]]および[[広島電鉄皆実線]](比治山線とも)が通る。
=== 主要道路 ===
* 国道2号
* 広島県道37号広島三次線
* [[広島市道比治山東雲線]]
;付帯施設
* [[比治山トンネル]]
* [[鶴見橋 (広島市)|鶴見橋]]
* [[比治山橋]]
* [[平野橋 (広島市)|平野橋]]

=== 鉄道 ===
* 広島電鉄皆実線
** [[比治山下停留場]]
** [[比治山橋停留場]]
** [[南区役所前停留場]]

== パノラマ ==
{{wide image|Hijiyama Hiroshima 1955.jpg|800px|比治山から広島市内を望む。1955年頃。}}
{{wide image|hiroshima sky.jpg|800px|比治山から広島市内を望む。この山沿いが比治山町/比治山本町となる。}}

== 出身・ゆかりのある人物 ==
* 金桝増太郎([[家主]])<ref name = "shinshi44">[{{NDLDC|2127298/952}} 『日本紳士録 第44版』]広島カ、キの部8、キ、クの部9、タ、チ、ツ、テの部16頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年6月2日閲覧。</ref>
* 川原米次郎(家主)<ref name="shinshi44"/>
* [[岸田文雄]](政治家) - 自民党衆議院議員。[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]を経て[[内閣総理大臣]]。
* 久保井孝次([[呉服]]商)<ref name="shinshi44"/>
* [[鈴川貫一]](実業家) - 中国配電(現[[中国電力]])社長。
* 武田達道(広寂寺[[住職]])<ref name="shinshi44"/>
* [[張本勲]](プロ野球選手) - 比治山の麓に位置する自宅で被曝<ref>{{Cite web |url=https://www.iza.ne.jp/article/20241201-VURC4VT7LFOQTJGX5EZ63GEGVI/ |title=被爆者として、ノーベル平和賞への思い 覆いかぶさってくれた母、背中にガラスの破片や血 話の肖像画 元プロ野球選手・張本勲<1> |access-date=2024-12-05 |publisher=株式会社産経デジタル}}</ref>。

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}

== 参考文献 ==
* [http://a-bombdb.pcf.city.hiroshima.jp/pdbj/search/col_book 広島原爆戦災誌] - 広島平和記念資料館平和データベース。広島原爆戦災誌のpdfファイルが閲覧できる。
* 交詢社編『日本紳士録 第44版』交詢社、1940年。
* 段原公民館郷土誌クラブ『比治山をめぐる郷土誌』、1985年。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[原爆傷害調査委員会]] (ABCC) - 比治山山頂にあり
* [[江波山公園|江波山]]・[[江波皿山公園|皿山]]・[[黄金山 (広島市)|黄金山]] - 広島城下成立以前からの広島湾頭の島嶼で現在は周囲が埋め立てられ山になっているもの
* [[江波山公園|江波山]]・[[江波皿山公園|皿山]]・[[黄金山 (広島市)|黄金山]] - 広島城下成立以前からの広島湾頭の島嶼で現在は周囲が埋め立てられ山になっているもの
* [[宇品|元宇品]] - 広島城下成立以前からの広島湾頭の島嶼
* [[宇品|元宇品]] - 広島城下成立以前からの広島湾頭の島嶼
* 学校法人比治山学園 - 比治山に近いことから命名された
* [[広島親局送信所]]
** [[比治山大学]] - 牛田にある
** [[比治山大学短期大学部]] - 牛田にある
** [[比治山女子中学校・高等学校]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* [http://www.hcmca.cf.city.hiroshima.jp/ 広島市現代美術館]
* [https://www.hiroshima-kankou.com/spot/12185 比治山] - 広島県観光
* [http://www.library.city.hiroshima.jp/library/manga/index.html 広島市立図書館&gt;まんが図書館]
* [https://www.hiroshima-kankou.com/spot/12135 比治山公園] - 広島県観光
* [https://www.city.hiroshima.lg.jp/site/hijiyamakoen-heiwanooka/12352.html 比治山公園] - 広島市
* [http://maps.google.co.jp/maps?f=q&source=embed&hl=ja&geocode=&q=%E6%AF%94%E6%B2%BB%E5%B1%B1%E5%85%AC%E5%9C%92&aq=&sll=34.385975,132.472721&sspn=0.001647,0.00261&brcurrent=3,0x355aa1fc2f17fc59:0xa497565de773e985,0&ie=UTF8&hq=&hnear=%E5%BA%83%E5%B3%B6%E7%9C%8C%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%B8%82%E5%8D%97%E5%8C%BA%E6%AF%94%E6%B2%BB%E5%B1%B1%E5%85%AC%E5%9C%92&layer=c&cbll=34.387447,132.474164&panoid=_C8OOA-zNxL77PRJeQuSyQ&cbp=12,32.98,,0,2.13&ll=34.387522,132.474164&spn=0.0068,0.011705&z=14&utm_campaign=en&utm_medium=et&utm_source=en-et-na-us-gns-svn 比治山公園ストリートビュー]
* [http://www.tobunken-archives.jp/DigitalArchives/search/?lang=&m=1&t=0&pager.offset=0&len=20&orderBy=recordId&order=ASC&title=&keyword=%E6%AF%94%E6%B2%BB%E5%B1%B1&submit=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&x=0&y=0&area1=0&area2=0&area3=0&area4=0&theme1=0&theme2=0 戦前の絵葉書アーカイブ]{{リンク切れ|date=2018-04}} - 東北芸術工科大学。比治山関連の絵葉書が2枚ある。
* [http://yo-koda.sakura.tv/genbaku/rikugunboti.htm 比治山] - 広島の原爆遺跡と碑
* {{YouTube|nuZ7NylIeNw|100年以上の歴史がある広島市最古の公園「比治山公園」}}(朝日新聞社提供、2018年4月7日公開)


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[[Category:広島の公園]]
[[Category:南区 (広島市)]]
[[Category:比治山 (広島市)|*]]
[[Category:かつての島]]

[[Category:桜に関する場所]]
[[zh:比治山]]

2024年12月5日 (木) 05:40時点における最新版

日本の山 > 比治山
比治山
比治山町・比治山本町・比治山公園
1988年[1] 。山全体が比治山公園、山の北端付近が比治山町の北端、この写真では見切れているが西側京橋川と南側国道2号の交点が比治山本町の南西端。
1988年[1] 。山全体が比治山公園、山の北端付近が比治山町の北端、この写真では見切れているが西側京橋川と南側国道2号の交点が比治山本町の南西端。
比治山の位置(広島市旧市内内)
比治山
比治山
比治山の位置(広島県内)
比治山
比治山
北緯34度22分58.8709秒 東経132度28分23.3281秒 / 北緯34.383019694度 東経132.473146694度 / 34.383019694; 132.473146694
日本
都道府県 広島県
市町村 広島市
南区
等時帯 UTC+9 (JST)
郵便番号
732-0817・732-0816・732-0815
市外局番 082
ナンバープレート 広島

比治山(ひじやま)は、広島県広島市南区に位置する標高71.1mの小高いである。この項目では比治山を中心とした公園、およびその周辺に位置する「比治山」を町名に冠する地区についても併せて述べる。

概要

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名前の由来

比治山の名前の由来は諸説あり、比治某という人物が住んでいたためとも、山の姿が肘を横にした形に似ているためとも、言われている[2]

またが伏せている様に見て「臥虎山」(がこさん)とも呼ばれていた[3][4]

地理
広島の新開地発展図(『概観広島市史』1955年) / 築上当時は比治山南側が海岸線で、宝暦3年(1753年)以降の開発により周辺が形成された。現在の段原3丁目付近が「比治村」と表記されている。
広島の新開地発展図(『概観広島市史』1955年) / 築上当時は比治山南側が海岸線で、宝暦3年(1753年)以降の開発により周辺が形成された。現在の段原3丁目付近が「比治村」と表記されている。

太田川水系支流の猿猴川京橋川に挟まれた土地に位置し、その2つの川の分岐点の南にある。住居表示は、比治山全体が比治山公園、山と京橋川に挟まれた北側が比治山町で南側が比治山本町となる。

比治山公園は、市中心部における市民の憩いの場の一つである。市内有数の桜の花見のスポットとして開花時期には多くの人で賑わい、ぼんぼりが飾られ夜桜を見ることもできる。

江戸時代から戦後までの比治村あるいは比治山地区の地区分割上における範囲は、比治山の北東から真東の範囲で現在の南段原/段原中/段原山崎/上東雲/東雲町1から3丁目/東雲本町1から3丁目/段原新町の一部であり(右地図参照)[5]、現在の比治山町および比治山公園は段原地区で比治山本町は皆実地区に含まれていた。

住居表示
隣接地区
  • 北側:南区稲荷町、金屋町、段原。
  • 南側:南区皆実町出汐
  • 西側:京橋川を挟んで 中区東平塚町、鶴見町。
  • 東側:南区段原、霞。

歴史

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安芸国広島城所絵図(1644年頃)。右下が比治山にあたりこのころには干拓により海辺近くになっていたとわかる。右上が二葉山。
安芸国広島城所絵図(1644年頃)。右下が比治山にあたりこのころには干拓により海辺近くになっていたとわかる。右上が二葉山。
1930年頃の廣島市の地図。比治山は中心やや右にある。比治山の北部には比治山神社、南部には陸軍墓地が記載されている。
1930年頃の廣島市の地図。比治山は中心やや右にある。比治山の北部には比治山神社、南部には陸軍墓地が記載されている。
原爆被害分布図。赤色の「Extend of Fire」(焼失範囲)が示す通り比治山を境に被害の差が出ている。
原爆被害分布図。赤色の「Extend of Fire」(焼失範囲)が示す通り比治山を境に被害の差が出ている。

近代まで

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縄文時代草創期、比治山自体は孤島であったが、縄文晩期になると太田川が上流から運んだ土砂が堆積し周辺を遠浅の海あるいは干潟を形成した[6]。比治山にはこの頃から人類が住んでいた[6]古代、比治山の北にある二葉山の麓まで海で、菅原道真大宰府に左遷される際に休憩のため二葉山に船で寄せている[7]

中世、1400年代には太田川下流域の三角州の頂部付近(現在の白島)が発達し、1500年代後半には現在の平和大通り付近まで陸地が形成されている[8]ことから、ここが本州と完全に陸続きになったのはこの頃である。

戦国時代毛利元就がこの地を支配したことが転機となる。元就は拠点をこの地に移すことを考え始め[9]、一説には比治山が候補地となっていたとされている[10]

広島城築城以降、この地は発達した。比治山の北側には西国街道が通り商業地として発達し[11]、比治山の東側の猿猴川沿いに「比治村」ができる。また山の南側は宝暦3年(1753年)の干拓により土地形成され明治以降も続いた[8]

比治山自体は、江戸時代は藩有林で明治末期まで国有林であった[12][13]

近代以降

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1872年(明治5年)に、旧日本陸軍陸軍墓地の整備を決定[14]。1898年(明治31年)、比治山は江波山とともに公園として整備することが許可され、そのころから比治山公園と呼ばれるようになった[15]。1908年(明治41年)から広島市が公園として整備しだした[16][13]。戦前から市内有数の桜の名所であった[13]。また、当時はツツジの名所でもあった[17]。1909年(明治42年)に御便殿が移設[17]。陸軍墓地と御便殿は2大名所となった[17]

戦前には船舶砲兵団司令部陸軍船舶兵)や電信第2連隊が駐屯していた[18]1921年(大正9年)8月8日、陸軍第5倉庫で火災が発生、無数の小銃弾が飛散する事故となった。死者7人、重軽傷者21人[19]

1945年(昭和20年)8月6日、広島市への原子爆弾投下により被爆。ここは爆心地から約1.8キロメートル離れたところに位置した。爆心地側である西側は壊滅したものの、東側は逆に比治山が爆風を遮ったことから影響が少なく火災も広がらなかった等、比治山によって対照的な被災状況となった[11]。被爆当日は多聞院が臨時の広島県庁として機能した。市内中心部の被爆者はここに多数逃げ込んでいる[11]

戦後も比治山は引き続き公園として整備された[11]。1949年(昭和24年)原爆傷害調査委員会(ABCC)が開所している[11]

なお、戦前から1986年(昭和61年)まで東側に宇品線が通り、戦後1966年(昭和41年)から南側に新広島バイパス国道2号)が通っている。

1980年(昭和55年)、広島市が政令指定都市になったことを記念して「芸術公園」として整備が決定し、公園内にモニュメントが置かれた。あわせて博物館建設構想が上がり、広島市現代美術館比治山公園青空図書館(現・広島市立まんが図書館)が建設された[20]

1990年代には、山を貫通する比治山トンネルが整備され、広島市中心部と段原地区とのアクセスが改善された。

比治山公園

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比治山
標高 70.88 m
所在地 広島県広島市南区比治山公園5番(官有無地番)
位置
比治山の位置(日本内)
比治山
北緯34度22分58.8709秒 東経132度28分23.3281秒 / 北緯34.383019694度 東経132.473146694度 / 34.383019694; 132.473146694座標: 北緯34度22分58.8709秒 東経132度28分23.3281秒 / 北緯34.383019694度 東経132.473146694度 / 34.383019694; 132.473146694
プロジェクト 山
テンプレートを表示
比治山公園
分類 都市公園(総合公園)[21]
所在地
運営者 広島市(南区維持管理課)
駐車場 125台(大型バス可)
告示 1902年
テンプレートを表示
地理

比治山は、比治山トンネル付近で南北に二分される。南側に頂上がある。頂部は比較的平坦に整地されているがその周りは急斜面になっている。周辺の土地開発により、元の山形は留めていない[11]

地質

太田川下流域の特徴である、広島花崗岩類とそれが風化して堆積した「マサ土」で形成されている[8]。ここの花崗岩は、毛利輝元による広島城築上の際に石垣として採用されている[22]

生態系

市中心部では黄金山とともに自然豊かな場所である。

中世から渡り鳥の休憩地として著名で[12][23]、江戸時代にはソデグロヅルが飛来していた[22]。現在鶴見橋がある付近に広島藩による鶴の飼育場が設けられていて、これが鶴見橋の名前の由来となっている[22]。現在は鶴は見られないが、マミチャジナイキビタキの渡り鳥が確認されている[23]

また江戸時代ここは藩有林で伐開や狩猟禁止であったことから多くの生物が存在し、ハヤブサイノシシなどが生息していた[22][12]。当時領内でイノシシ被害にあった記録が残っている[12]

上記の通り、市内有数の桜の名所であり、1300本のが咲く季節には平和記念公園などとともに花見のスポットとして多くの人でにぎわう。

アクセス

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山へのアクセスは、旧来からある5号線比治山下電停近くの入口と、1990年代に整備された比治山スカイウォークが一般的なアクセスになる。

比治山内には駐車場120台(比治山への車の乗り入れは夜23時-翌5時まで禁止)整備されている。山のふもとの広島イースト(旧・広島サティ)3階から、比治山スカイウォークの動く歩道とエスカレーターで山頂まで行くことができる。広島イーストの駐車場も利用する事が出来る。

施設

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その他
  • NHK比治山テレビ放送所 - アナログテレビの広島親局送信所の一つ。1950年、NHK広島放送局の「比治山テレビ放送所」として開所した。当時は流川にあった本局で映像を編集後、タクシーでここまで持ち込んで放送という形が取られており、17人の常勤技術者が滞在していた。1971年より無人化[24]。地上デジタルテレビの送信所は設置されず、現在はNHK-FMのみ比治山から送信している。
  • 加藤友三郎および早速整爾銅像台座 - 太平洋戦争前に建てられたが金属類回収令により現在は台座部分のみ残っている。
  • 正岡子規句碑「鶯の 口のさきなり 三萬戸」 - 日清戦争時に従軍記者として広島に訪れた際に幾つか詠んだ句の一つであり、句集「寒山落木」の中の一句が刻まれた石碑がある[2]
  • 原爆被災説明板 - 比治山から被爆後の市内を撮影した写真とともに被災状況を説明している[25]
  • 雲霓橋 - 1929年(昭和4年)、広島市主催の「昭和産業博覧会」が開催された際にかけられた橋。元々は吊り橋だった[26]
  • 展望台・トイレ・自動販売機

比治山町/比治山本町

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上記の通り、元々は比治山町が段原地区で比治山本町が皆実地区であったが戦後の住居表示変更により現在のものに改められた。

施設

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公共施設

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広島県立広島産業会館西館。
広島県立広島産業会館西館。

教育機関

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  • 比治山幼稚園(比治山本町)
  • 比治山小学校は地区内には所在しない(上東雲町に所在)。

かつて所在していた施設

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  • 広島県師範学校(現・比治山本町) - 1911年から1941年まで、現在の広電皆実線の東側で比治山本町南西部(ただしこの当時は皆実町1丁目の町域内)から皆実町1丁目の北部に至るまでの区域を校地としていた。1941年に東雲町に移転し、跡地は1945年春に開校した広島県立医学専門学校の校地に転用されたが、原爆により全壊したため校地としては廃止された。跡地には南区図書館などが立地しているが、国道2号線など戦後新たに道路が敷設されたため、校地の跡は分かりにくくなっている。
  • 陸軍電信第二連隊(現・比治山本町) - 1922年の創設以来、比治山の南麓から皆実町1丁目の北部(現在の進徳女子高等学校校地)に至るまでの区域に駐屯していたが、敗戦により廃止された。跡地には食品工業試験所・産業文化センター・産業会館などが立地している。上記と同様、国道2号線が横断しているため跡地は分かりにくくなっている。
  • 御便殿(現・比治山公園) - 日清戦争中、広島に滞在していた明治天皇の臨時の行在所として1894年に基町に建築されたものを1909年に比治山公園内に移設した。1945年原爆により倒壊したのち戦後は長らく礎石の石垣のみが残っていたが、1982年以降撤去され跡地には壁泉が設置された。

交通

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地区の南側を国道2号新広島バイパス)が、西寄りに広島県道37号広島三次線および広島電鉄皆実線(比治山線とも)が通る。

主要道路

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付帯施設

鉄道

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パノラマ

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比治山から広島市内を望む。1955年頃。
比治山から広島市内を望む。この山沿いが比治山町/比治山本町となる。

出身・ゆかりのある人物

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脚注

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  1. ^ 国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
  2. ^ a b 寒山落木”. 広島県. 2014年4月5日閲覧。
  3. ^ 広島案内記』吉田直次郎、1913年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9478022014年6月20日閲覧 
  4. ^ 「比治山は昔臥虎山と呼ばれていたが,なんと読むのか知りたい。『広島県の地名事典』比治山の項に表記は出ているが,読みはない。」(広島県立図書館) - レファレンス協同データベース 2014年6月20日閲覧
  5. ^ 原爆戦災誌, p. 403.
  6. ^ a b 熊野町史 通史編 第2章第2節 縄文時代” (PDF). 熊野町立図書館. 2014年4月5日閲覧。
  7. ^ 尾長天満宮”. 広島県. 2014年4月5日閲覧。
  8. ^ a b c 太田川水系河川整備基本方針 2.太田川水系の概要” (PDF). 国土交通省. 2014年4月5日閲覧。
  9. ^ 築城前の広島”. 広島城公式. 2014年4月5日閲覧。
  10. ^ 毛利氏の広島城築城と当時の町割り”. ひろしま通マップ. 2014年4月5日閲覧。
  11. ^ a b c d e f 原爆戦災誌, p. 390.
  12. ^ a b c d しろうや!広島城 No.16” (PDF). 広島城. 2014年4月5日閲覧。
  13. ^ a b c 広島の歴史的風景” (PDF). 広島県立文書館. 2014年4月5日閲覧。
  14. ^ 陸軍墓地を守り六十年 (PDF) - 広島市
  15. ^ 『がんす横丁』 - 133ページ
  16. ^ 広島平和記念都市建設計画における分野別の計画”. 広島市. 2014年4月5日閲覧。
  17. ^ a b c 広島瓦斯電軌株式会社経営電車沿線案内(6ページ) - 広島瓦斯電軌
  18. ^ 原爆戦災誌, p. 19.
  19. ^ 日外アソシエーツ編集部 編『日本災害史事典 1868-2009』日外アソシエーツ、2010年9月27日、24頁。ISBN 9784816922749 
  20. ^ 南区を歩こう(比治山)”. 広島市. 2014年4月5日閲覧。
  21. ^ ひろしま地図ナビ
  22. ^ a b c d しろうや!広島城 No.7” (PDF). 広島城. 2014年4月5日閲覧。
  23. ^ a b 広島県における感染症媒体蚊の生息状況” (PDF). 広島県保健環境センター. 2014年4月5日閲覧。
  24. ^ 比治山放送所と放送の歴史”. NHK広島放送局. 2014年4月5日閲覧。
  25. ^ 32廃墟と化した広島市街地(比治山公園内)”. 広島市. 2014年4月5日閲覧。
  26. ^ 雲霓(うんげい)橋”. 広島市. 2014年4月5日閲覧。
  27. ^ a b c d 『日本紳士録 第44版』広島カ、キの部8、キ、クの部9、タ、チ、ツ、テの部16頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年6月2日閲覧。
  28. ^ 被爆者として、ノーベル平和賞への思い 覆いかぶさってくれた母、背中にガラスの破片や血 話の肖像画 元プロ野球選手・張本勲<1>”. 株式会社産経デジタル. 2024年12月5日閲覧。

参考文献

[編集]
  • 広島原爆戦災誌 - 広島平和記念資料館平和データベース。広島原爆戦災誌のpdfファイルが閲覧できる。
  • 交詢社編『日本紳士録 第44版』交詢社、1940年。
  • 段原公民館郷土誌クラブ『比治山をめぐる郷土誌』、1985年。

関連項目

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外部リンク

[編集]