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「パリ講和会議」の版間の差分

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[[Image:Council of Four Versailles.jpg|thumb|240px|right|パリ講和会議における各国首脳の一部、写真左から[[ロイド・ジョージ]](イギリス)、[[ジョルジュ・クレマンソー]](フランス)、[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]](イタリア)、[[ウッドロウ・ウィルソン]](アメリカ)]]
[[Image:Council of Four Versailles.jpg|thumb|240px|right|パリ講和会議における各国首脳の一部、写真左から[[デビッド・ロイド・ジョージ]](イギリス)、[[ジョルジュ・クレマンソー]](フランス)、[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]](イタリア)、[[ウッドロウ・ウィルソン]](アメリカ)]]
'''パリ講和会議'''(パリこうわかいぎ、Paris Peace Conference)は、[[1919年]]1月18日に開会され、[[第一次世界大戦]]における[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]が[[三国同盟 (1882年)|同盟国]]の講和条件について討議した会議である。なお、[[ヴェルサイユ宮殿]]で講和条約の調印式が行われたことから、'''ヴェルサイユ会議'''とも呼ばれているが、実際の討議のほとんどは[[パリ]]の[[フランス外務省]]内で行われており、正しい呼称とは言えない(なお、調印式だけをヴェルサイユ宮殿で行った事の理由については、[[ヴェルサイユ条約]]を参照のこと)。
'''パリ講和会議'''(パリこうわかいぎ、Paris Peace Conference)は、[[1919年]]1月18日に開会され、[[第一次世界大戦]]における[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]が[[中央同盟国]]の講和条件について討議した会議。世界各国の首脳が集まり、単な講和問題だけではなく、重要な国際問題も討議された。なお、[[ヴェルサイユ宮殿]]で[[ヴェルサイユ条約]]の調印式が行われたことから、'''ヴェルサイユ会議'''とも呼ばれているが、実際の討議のほとんどは[[パリ]]の[[フランス外務省]]内で行われており、正しい呼称とは言えない(なお、調印式だけをヴェルサイユ宮殿で行った事の理由については、[[ヴェルサイユ条約]]を参照のこと)。


== 概要 ==
== 会議設置の前提 ==
{{see also|ウッドロウ・ウィルソン}}
第一次世界大戦は、[[1918年]][[11月]]に[[ウッドロウ・ウィルソン|ウィルソン]][[アメリカ合衆国大統領]]の14か条を[[ドイツ]]が受け入れたことで、休戦が成立した。本会議はそれを受けて上記の通り開かれたものである。この会議で締結された諸々の条約および[[国際連盟]]については、それぞれの関連項目を参照のこと。
[[ウッドロウ・ウィルソン]][[アメリカ合衆国大統領]]は[[アメリカ]]の参戦前にも「勝利なき講和」({{lang-en|Peace without victory}})を訴え、参戦後は「和解の平和」を唱えた。ウィルソンは懲罰的賠償や[[秘密外交]]を基本とするとする欧州の「旧外交」が今次の大戦を招いたと考え、その払拭を訴えた。これがいわゆる[[理想主義]]的なウィルソンの「[[新外交]]」と呼ばれるものである<ref>吉川宏、1、292p</ref>。


秘密外交に対する批判に答えた[[イギリス]]の[[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相は、戦争遂行のために「会議による外交」({{lang-en|diplomacy by conference}})を唱えた。「私は外交官を必要としない」「自分の国を代表する者として語る権限のない者達に(重要な問題を)論じさせることは単に時間の浪費である。」と語った<ref>吉川宏、1、305-306p</ref>大衆的政治家であったロイド・ジョージは、全面戦争という状況には国民世論の支持が不可欠と考えていたためである。[[1918年イギリス総選挙]]では講和条件自体が選挙の争点となり、ドイツに対する賠償要求世論が高まった。
この会議では、戦勝国である[[日本]]や[[大英帝国|イギリス]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[フランス]]、[[イタリア王国|イタリア]]のいわゆる「5大国」による「十人会議」が会議のほとんどを支配した。中でも主要な参戦国であったイギリスとアメリカ、フランスが主導権を握り、敗戦国は会議から除外された。アメリカの[[ウッドロウ・ウィルソン]]大統領は、[[十四か条の平和原則]]を主張したが、これはイギリスとフランスによってほぼ無視された。


[[1918年]][[1月8日]]、ウィルソンは議会で「秘密外交の撤廃」「[[民族自決]]」などを含めた[[十四か条の平和原則]]を公表した。以降2月11日には「4原則」、9月25日には5原則を提示しこれを補強している。11月5日、アメリカ政府は十四か条と、それ以降の和平演説、さらに二つの留保事項を加えた和平勧告をドイツに行った(ランシング通牒)<ref>吉川宏、1、287p</ref>。ドイツ首相[[マクシミリアン・フォン・バーデン|バーデン公]]はこれを受け入れ、ドイツと連合国間で休戦協定が結ばれた。しかしイギリスはウィルソンの原則に同意しておらず、14か条が講和の原則でないとドイツに伝達することを考えていた<ref>吉川宏、1、288p</ref>。しかし折からの[[ドイツ革命]]の進展で、ドイツに[[共産主義]]政権が成立することを危惧したイギリスは、早急な講和のために不服ながらウィルソンの方針に同意した<ref>吉川宏、1、288-289p</ref>。
== 日本の対応 ==

== 会議の構成 ==
会議には世界から33ヶ国(イギリス自治領含む)70人の全権<ref>5大国は5人、ベルギー、ブラジル、セルブ・クロアート・スロヴェーンは3名、他の国は2名から1名</ref>と1000人以上の随員が集まったが、連合国側での協議を優先するべきと言うイギリスやフランスの意見や、中央やロシアでは政治的混乱が続いていたこともあり、敗戦国やロシアの代表は招請されなかった{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.148-151}}。

最重要問題については五大国([[大英帝国|イギリス]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[フランス]]、[[イタリア王国|イタリア]]、[[日本]])の全権で構成された十人委員会(The Council of Ten)で行われることになった。しかし3月頃にロイド・ジョージの発言が外部に漏洩する事件が起きたため、3月25日から三大国の首脳とイタリアの[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]首相、通訳官の[[ポール・マントゥー]]([[:fr:Paul Mantoux]])で構成された四人会議(The Council of Four)で重要事項は討議されることになった。また三首脳が必要に応じて開催した少人数の秘密会でも協議されるようになった<ref>吉川宏、1、346p</ref>。四人会議は正式な会議ではないとされたが、協議の詳細な内容はウィルソン以外のアメリカ代表団にすら伝えられなかっった{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.148}}。その他の重要な問題については、小国の代表も参加した5つの分野別委員会(国際連盟、労働立法、戦争責任、運輸(港湾・水路・鉄道)、賠償)によって討議された{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.148}}。

== 参加国 ==
;主要国(代表五名)
{{flagicon2|イギリス}} [[イギリス帝国]] {{Flag2|フランス}} {{Flag2|イタリア王国}} {{Flag2|日本}} {{USA}}
;代表三名
{{Flag2|ベルギー}} {{Flag2|ユーゴスラビア王国}}(セルブ・クロアート・スロヴェーン王国) {{Flag2|ブラジル}}
;代表二名
{{flagicon2|中華民国|1912}} [[北京政府|中華民国]] {{Flag2|ギリシャ|old}} {{Flag2|ポルトガル}} {{Flag2|ルーマニア王国}} {{Flag2|タイ}}

[[File:Flag of Hejaz 1917.svg|border|25px]] [[ヒジャーズ王国]] {{Flag2|ポーランド}} {{Flag2|チェコスロバキア}}

{{flagicon2|インド|British}} [[インド帝国]] {{Flag2|カナダ|1868}} {{Flag2|オーストラリア}} {{flagicon2|南アフリカ共和国|1912}} [[南アフリカ連邦]]
;代表一名
{{Flag2|キューバ}} {{Flag2|ニカラグア}} {{Flag2|パナマ}} {{Flag2|ボリビア}} {{Flag2|エクアドル}}

{{Flag2|グアテマラ}} {{Flag2|ハイチ}} {{Flag2|ホンジュラス}} {{Flag2|リベリア}} {{Flag2|ペルー}}

{{Flag2|ウルグアイ}} {{Flag2|アルメニア}} {{Flag2|ニュージーランド}}

=== その他 ===
*[[ファイル:Cs-cg rs.PNG|border|25px]] [[モンテネグロ王国]] - 連合国の一つであったが、セルビアによる併合により実体としては消滅。これを認めない王国亡命政府首相{{仮リンク|アント・グヴォズデノヴィッチ|en|Anto Gvozdenović}}将軍が3月6日に十人委員会に出席した。この時にセルビアに抗議し、モンテネグロの主権が残っているとする国王[[ニコラ1世 (モンテネグロ王)|ニコラ1世]]の書簡を読み上げている<ref>[http://www.montenet.org/2001/jk.html General Gvozdenovic statement on Paris Peace Conference]</ref>。

== 主要な出席者 ==
=== 三巨頭 ===
*{{USA}} - [[ウッドロウ・ウィルソン]]大統領
*{{GBR}} - [[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相
*{{FRA}} - [[ジョルジュ・クレマンソー]]首相

=== その他の首脳 ===
*{{ITA}} - [[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]首相
*{{JPN}} - [[西園寺公望]]元首相、[[牧野伸顕]]元外相、[[珍田捨巳]]駐英大使
*{{USA}} - [[ロバート・ランシング]]国務長官、[[ニュートン・ディール・ベイカー]]陸軍長官、[[エドワード・ハウス]]([[:en:Edward M. House]])名誉大佐
*{{GBR}} - [[アーサー・バルフォア]]外相、[[アンドルー・ボナー・ロー]]国璽尚書、[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]元封鎖相
**{{AUS}} - [[ビリー・ヒューズ]]首相
**{{ZAF1912}} - [[ルイス・ボータ]]首相、[[ヤン・スマッツ]]国防大臣
**{{NZL}} - [[ウィリアム・マッセー]]首相・労働相
*{{FRA}} - [[ステファン・ピション]]外相、[[フェルディナン・フォッシュ]]連合軍最高司令官、陸軍総司令官
*{{GRC}} - [[エレフテリオス・ヴェニゼロス]]内閣議長
*{{POL}} - [[イグナツィ・パデレフスキ]]首相
*{{PRT}} - [[アフォンソ・コスタ]]([[:en:Afonso Costa]])前内閣議長
*{{ROM1881}} - [[ペトレ・カプ]]([[:en:Petre P. Carp]])前首相
*{{YUG1918}} - [[ニコラ・パシッチ]]([[:en:Nikola Pašić]])前内閣議長
*{{CSK}} - [[カレル・クラマーシュ]]([[:en:Karel Kramář]])内閣議長、[[エドヴァルド・ベネシュ]]外相
*{{ROC}} - [[陸徴祥]]外交総長、[[王正廷]]外交次長、[[顧維鈞]]駐米公使

=== 中央同盟国代表 ===
*{{DEU1919}} - [[ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ=ランツァウ]]外相<ref>条約受諾に反対して辞任</ref>、[[ヘルマン・ミュラー]]外相

=== 著名な関係者 ===
* [[ジョン・メイナード・ケインズ]] - 賠償委員会の委員
* [[近衛文麿]]、[[吉田茂]]、[[芦田均]] - 代表の随員、後の首相
*[[ホー・チ・ミン|グエン・アイ・クオック(阮愛國)]] - [[安南愛国者協会]]代表として出席。後の[[ベトナム民主共和国]]国家主席ホー・チ・ミン
*[[トーマス・エドワード・ロレンス]]、[[ガートルード・ベル]] - [[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル1世]]の代表として出席。
*[[マックス・ウェーバー]] - 講和条約手交後に、ドイツ側の抗議文書「教授意見書」を提出している。

== 会議の流れ ==
開催後の会議でまず検討されたのは会議の形式であった。ウィルソンは会議を公開し、会議内容の自由な報道を許すよう主張した。しかし過去の秘密外交の暴露や世論に左右されることを恐れたロイド・ジョージやフランスの[[ステファン・ピション]]外相の猛反対にあった。このため会議公開は断念され、旧来の秘密会議形式が取られることになった<ref>吉川宏、1、330-331p</ref>。ま2月中旬から3月中旬まではロイド・ジョージとウィルソンが帰国しており、さらにクレマンソー襲撃事件が発生して不在であったため、外相達が会議を取り仕切った<ref>吉川宏、2、510p</ref>。三月中旬になってようやく平和条約の具体内容が討議の中心となった<ref>吉川宏、1、348p</ref>。

フランスが最も強く要求したのは[[ザール地方]]の領有、戦費と賠償金の全面的な履行、ライン川左岸の永久占領であった。この3案は四人会議を紛糾させる最大の争点となった<ref>吉川宏、2、520p</ref>。これらの「一種の心理的な飢餓状態」「戦争性精神異常」と評された<ref>吉川宏、2、525p</ref>フランス側の対独警戒心を緩和するため、イギリスはフランスが侵攻された際に援助する保障条約の締結でこれに代えようとしたが、合意は見られなかった。

3月25日、ロイド・ジョージは「フォンテーヌブロー覚書」を発表し、「新しい戦闘を挑発することのない講和」を目指すために、ドイツに過度の屈辱を与えず、履行可能な講和条件を与えるべきとした<ref>吉川宏、2、537-539p</ref>。この覚書はアメリカに賛意を持って迎えられたが、フランス首脳達は激怒した。フランスと英米の間隙はより大きくなり、4月2日にはフォッシュが「一週間以内に平和会議は潰れる」と予言し、4月7日にはウィルソンが帰国準備を命令する事態となった<ref>吉川宏、2、543p</ref>。

しかしロイド・ジョージが一時帰国した隙に、クレマンソーは側近のハウス大佐を通じてウィルソンを説得し、連合国軍による15年のライン川右岸とザールの占領を行うという妥協案に合意させた。イギリスは抵抗したが4月22日に三国の合意が成立した<ref name="yoshikawa543544">吉川宏、2、543-544p</ref>。この合意を受けて4月20日に米仏間、5月6日に英仏間での軍事保障条約が締結された。

=== 会議の終了 ===
4月18日、ドイツ側代表の招請状がドイツに到着した{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.179}}。5月7日にドイツ代表が講和条約案を受け取り、5月29日に反対提案を行った{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.192}}。ロイド・ジョージはいくつかの点で修正に応じようとしたが、クレマンソーやウィルソンは断固として修正を拒否した{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.197-198}}。6月3日、7日、10日には賠償問題をめぐって最後の四人会議が開催されたが、賠償総額についての結論は出なかった{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.201-202}}。連合国側の回答期限当日の6月23日にドイツは条約受諾を発表し、6月28日に[[ヴェルサイユ条約]]の調印が行われた{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.221}}。7月にウィルソンが帰国し、講和会議自体は終了した。


== 戦争責任問題 ==
中央同盟国の戦争責任問題については[[ロバート・ランシング]]を議長とする{{仮リンク|戦争責任委員会|en|Commission of Responsibilities}}が検討を行い、3月19日に報告書を提出した<ref>清水正義、2003、144p</ref>。この中で戦争責任は第一にドイツとオーストリア=ハンガリー帝国、第二にトルコとブルガリアにあるとした上で、「戦争の法と慣習ならびに人道の法に違反した」元首を含むすべての国民が訴追の可能性があるとしたが、戦争を引き起こした責任については訴追を断念した<ref>清水正義、2003、145p</ref>。

この会議の最中から、ヴェルサイユ条約によって第一の戦犯とされながら、中立国オランダに亡命していた[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の身柄引き渡し交渉が続けられていた。しかしオランダ政府は国内法に違反していないとして拒否し、連合国も重ねて要求を行ったり、欠席裁判を行うこともなかった<ref>清水正義、2003、151p</ref>。

== 国際連盟問題 ==
{{節スタブ}}
{{see also|国際連盟}}
ウィルソンは新外交の中心と位置づけた国際連盟を平和条約と不可分であると考えており、熱心な主導者となっていた。国際連盟創設自体はイギリスも戦争目的の一つとしていた<ref>吉川宏、2、461p</ref>が、[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]や[[ウィンストン・チャーチル]]のようにその構想を非現実的と見なす政治家が多く存在していた。イギリスは連盟を大国間の継続的共働を保障する骨組みとして考え、フランスはドイツの加入を出来るだけ遅らせるなど、現状維持の道具として考えていた<ref>吉川宏、2、473p</ref>。

ウィルソンは連盟の協議を十人委員会で行おうとしたが、ロイド・ジョージやクレマンソーは分科会であり、小国も加えた連盟委員会で協議することを求めた。ウィルソンは小国の協議参加に難色を示したが、結局はロイド・ジョージらの案が通った。ロイド・ジョージらの意図は実質的な講和協議を十人委員会で進めることにあったが、ウィルソンが自ら連盟委員会アメリカ代表となったことでその目論見は外れた<ref>。吉川宏、2、474-475p</ref>。

=== 委任統治問題 ===
ウィルソンが原則として「無併合」を唱えていたが、ドイツ旧植民地や[[オスマン帝国]]領が独立国としてやっていけるとは考えていなかった。「[[委任統治]]」はそのために考え出されたシステムであり、国際連盟からの委任を受けた国が、その地域を統治するというものであった<ref>。吉川宏、2、476-477p</ref>。しかしフランスやオーストラリア、ニュージーランドは旧植民地の併合を強く要求した。委員会は紛糾し、裏面での交渉が活発に行われた。

1月30日の十人委員会でロイド・ジョージは八項目からなる決議案を提出した。東アフリカのドイツ植民地は潜水艦基地となったため、ドイツ統治継続は世界平和に有害であるために没収が定められ、旧トルコ領の[[アルメニア]]、[[シリア]]、[[メソポタミア]]、[[パレスチナ]]、[[アラビア半島]]はトルコの悪政から切り離す必要があるとされた。2月になってこの方針で妥協が成立し、ドイツの植民地全面放棄とシリアのフランス委任統治領化、パレスチナ、イラク、トランスヨルダンのイギリス委任統治領化が決定した。こうして[[サイクス・ピコ協定]]は実質的に承認された<ref>吉川宏、2、481-482p</ref>。

== 軍縮問題 ==
ロイド・ジョージは国際連盟と、ヨーロッパにおける軍縮を平和構想の柱として考えており、1918年12月11日にはヨーロッパ大陸における徴兵軍廃止を平和会議のテーマとしてあげた<ref>吉川宏、2、490-491p</ref>。元々イギリスは志願軍制が伝統であり、徴兵制廃止については多くの賛同が得られていた。しかしロイド・ジョージはイギリスによる海上の覇権を渡すつもりはなく「イギリスはアメリカあるいは他の強国の海軍より優越した海軍を維持するために最後の1[[ギニー]]まで費す」つもりであった<ref>吉川宏、2、493p</ref>。1月21日、イギリスのバルフォア外相は軍縮委員会の設置を十人委員会に提議した。

軍縮委員会は軍縮の前提となるドイツの武装解除と動員解除を扱うことになったが、最初の案は受け入れられず、2月12日に連合軍最高司令官[[フェルディナン・フォッシュ]]元帥を委員長とする新たな軍縮専門委員会が設置された。フォッシュは[[ラインラント]]への永久的な駐兵と、[[ロシア内戦]]における白軍への援助を主張したが、ドイツ軍武装解除には積極的ではなく、ロイド・ジョージの唱える軍縮には否定的であった<ref>吉川宏、2、498p</ref>。フォッシュ委員会はドイツに20万人の陸軍兵力保持と、徴兵制を認める草案を提出した。ロイド・ジョージはこの案に猛反発し、バルフォア外相と[[ヘンリー・ウィルソン (イギリスの軍人)|ウィルソン陸軍参謀総長]]([[:en:Sir_Henry_Wilson,_1st_Baronet]])の同意を得た、陸海空を含めた全兵力20万人で志願軍制とする案を提出した。十人委員会でこの案は反対もなく採用されたが、軍縮委員会の軍人達は猛反発した。そこでフランス陸軍参謀本部がドイツ兵力を10万人に制限する案を策定し、フォッシュがこの案を3月10日の十人委員会に提出した。さらにドイツが軍備を調達する際には事前通告が必須であるという案も付属させた。イギリスはこれらの案があまりにドイツを無力化しすぎるとして反発したが、フランスは強硬であった。

== ザール帰属問題 ==
フランスは1814年に領有を認められていたが、その後の[[ウィーン会議]]で[[プロイセン王国]]の一部となったザール地方の領有を主張した。フランスは歴史的に根拠があり、住民もフランスへの統合を望んでいると主張し、さらにザール地方の炭鉱は賠償やフランス工業の再建のためにも重要であると主張した<ref>吉川宏、2、518-519p</ref>。ロイド・ジョージは民族自決の概念に反すると併合には反対したが、ザールに自治国を建設して、炭鉱を賠償としてフランスに譲渡する折衷案を提案した<ref>吉川宏、2、526-527p</ref>。しかしフランスの強硬姿勢に反発し、「フォンテーヌブロー覚書」発表後にこの意見を撤回した<ref>吉川宏、2、542p</ref>。会議決裂寸前の状況でフランスはザールを15年占領するという妥協案を出すことでアメリカと合意した。イギリス反対したが、4月22日に合意が成立した<ref name="yoshikawa543544"/>。

== ラインラント問題 ==
[[ライン川]]左岸占領は安全保障の観点からフランスの切実な要望であった。フォッシュは1918年11月、ライン左岸に複数の相独立国を建国し、フランス・ベルギー・ルクセンブルクと同盟を組ませてドイツに対抗するという案をイギリスに提示していた。1919年1月10日には10人委員会に「ライン川をドイツ国境とし、ドイツ軍にライン川への接近を禁じた上で連合国軍がライン川各橋梁を永久占領する」という安全保障案を提示した<ref>吉川宏、2、519-520p</ref>。

3月14日、ロイド・ジョージとウィルソンはライン左岸の永久占領には応じられず、ドイツの侵略があった場合には英米が即座に軍事的保障を行う旨を伝達した。フランス政府はこれを協議したが、あくまで従来の主張を貫くことにした<ref>吉川宏、2、536p</ref>。「フォンテーヌブロー覚書」発表後にフランスは保障案を受け入れてラインラント分離案を撤回したものの、占領期間を賠償支払い完了までとするなど長期占領を主張したため、会議は決裂寸前となった。しかしフランスはウィルソンを抱き込み、ライン左岸を5年から15年占領するという妥協案で合意した。イギリスはなおも反対したが、4月22日に合意が成立した<ref name="yoshikawa543544"/>。後にロイド・ジョージはこの占領承認を平和条約の誤りの一つであったと回顧している<ref>吉川宏、2、545p</ref>。一方でフォッシュにとってもこの譲歩は不服であり、クレマンソーとの対立の原因にもなった<ref>吉川宏、2、550p</ref>。

== ロシア問題 ==
{{see also|10月革命|シベリア出兵|ロシア内戦}}
会議開催中も、革命後のロシアに対する連合国軍の干渉はなお続いていた。連合国は[[共産主義]]に対する警戒だけではなく、帝政時代の外債不払い宣言を行ったこともあり、[[ボリシェヴィキ]]政府を容認できなかった。クレマンソーやフォッシュ、チャーチルやイギリス軍首脳はその急先鋒であり、軍事力でボリシェヴィキを打倒する方針を支持した。一方でロイド・ジョージとウィルソンは軍事干渉に反対し、ボリシェヴィキ政府、つまり[[ソビエト連邦|ソビエト政権]]との交渉も考慮に入れていた。

1月16日、ロイド・ジョージはロシアに成立した各政府に休戦を行わせ、代表をパリに招聘する提案を行った<ref>吉川宏、3、78p</ref>。この提案はウィルソンの同意もあり、[[プリンキポ島]]に各政府代表を招集することが合意されたが、ボリシェヴィキ以外のロシア政府は招聘を拒否した<ref>吉川宏、3、84p</ref>。この会議失敗は強硬派を勢いづかせたが、大戦で疲弊した英仏に強力な軍事干渉能力は無かった。ロイド・ジョージは秘密裏にボリシェヴィキ政府と連絡を取り、[[ウラジーミル・レーニン]]も連合国との休戦を望んでいたが、四人会議でそのことが話題になることはなかった<ref>吉川宏、3、98p</ref>。おりしも[[ハンガリー]]で革命政権([[ハンガリー評議会共和国]])が成立したこともあり、共産主義への警戒心を高めた連合国はポーランドとルーマニアに援助を行って共産主義の防壁となるよう働きかけた。またイギリスの新聞もロイド・ジョージをボリシェヴィキ寄りであると攻撃しはじめ、ロシアへの介入を主張するようになった<ref>吉川宏、3、101p</ref>。

5月になると[[アレクサンドル・コルチャーク]]の[[白軍]]が一時的な軍事的成功を見せた。5月26日に連合国は白軍への援助とロシアに対する干渉継続を決定した。

== 賠償問題 ==
{{main|第一次世界大戦の賠償}}

== 未回収のイタリア問題 ==
{{節スタブ}}
{{see also|未回収のイタリア}}
イタリアは参戦当時の首相[[アントーニオ・サランドラ]] ([[:en:Antonio Salandra]])が 外交目的を「神聖なるエゴイズム」と称するように、[[イタリア統一運動]]で統一されなかったイタリア人居住地、すなわち「[[未回収のイタリア]]」の獲得のみを目標としていた<ref>岡俊孝、1965、548-550p</ref>。イタリアはこの目的のために英仏露と交渉し、1915年4月26日に[[ロンドン条約 (1915年)|ロンドン秘密条約]]を締結した。これによりイタリアは連合国側に立って参戦する代償として、オーストリア=ハンガリーから[[トレンティーノ=アルト・アディジェ州|トレンティーノ=アルト・アディジェ]]、[[ヴェネツィア・ジュリア]]、北部[[ダルマチア]]と付近の島嶼、[[ヴェローナ]]を獲得し、さらに[[アルバニア]]を[[保護国]]とすることが決められた。またイタリア人が多く居住していた[[フィウーメ]]に関しては[[クロアチア]]、[[セルビア]]、[[モンテネグロ]]に与えることになった<ref>岡俊孝、1965、550-551p</ref>。しかしイタリア議会では参戦反対派が圧倒的優勢であり<ref>岡俊孝、1967、525p</ref>、サランドラは[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]や新聞を扇動して参戦世論を高めさせ、「未回収のイタリアのための民族戦争」と位置づけることでようやく参戦にこぎつけた<ref>岡俊孝、1967、525-529p</ref>。

イタリアのオルランド首相は4人会議の一人を占める扱いを受けたが、イタリアの要求は全てが通ったわけではなかった。秘密外交を排斥するウィルソンはロンドン秘密条約を認めず、フィウーメのイタリア領有を拒否した。オルランドは抗議のため4月24日に帰国し、5月5日まで会議に出席しなかった。この結果に激怒したダンヌンツィオは9月12日にフィウーメを武力占領し、一時独立国を建設した([[:en:Italian Regency of Carnaro]])。

== 山東問題 ==
{{main|山東問題|膠州湾租借地}}
中華民国を「姉妹共和国」としていち早く承認したウィルソンは、外交団や米国人宣教師の影響で中国に強い関心を持っていたが、日本にはほとんど興味や知識を持っていなかった<ref>中谷直司、2004、251-252p</ref>。 1914年10月31日に日本は大戦中にドイツの[[膠州湾租借地|山東省青島基地]]を攻撃([[青島の戦い]])した後、中華民国に対して[[対華21カ条要求|21か条の要求]]を突きつけ、ドイツ権益の譲渡を認めさせた。この後1915年に山東権益の譲渡に関して、日独間で条約が締結された場合には中華民国が無条件で承認する条約、1917年には山東鉄道経営の日中合弁化を定めた条約を締結した<ref name="nakatani260">中谷直司、2004、260p</ref>。また[[本野一郎]]外相の主導でこの後に英仏と秘密条約を締結し、この権益譲渡は連合国の承認事項となった。アメリカはこの21か条要求が明らかになると強硬に抗議し、日中条約についても不承認の姿勢を取った。さらに[[シベリア出兵]]における日本の独走は、ウィルソンに決定的な悪印象を与えた<ref>中谷直司、2004、253p</ref>。

原敬首相時代に設置された臨時外交調査会は、本野外相の病死によって英仏との秘密条約の規定が不明になったこともあり、大隈首相が山東占領以前に主張していたとおり、山東権益の対中還付を提案した。原首相も同意し、一部の経済権益を残して還付することが決定された。しかしその方法については一度ドイツから権益の譲渡を受けた後に中国に返還する方式をとることになり、講和条約にはドイツから日本側への権益譲渡のみを明記させる方針となった<ref name="nakatani260"/>。一方ウィルソンは、対日強硬派であり中華民国への援助を強調する駐華公使[[ポール・ラインシュ]]の意見を重視しており、日本の外交姿勢を自らの「新外交」を阻害する要因と考え、原内閣の外交転換を表面的な物としか受け取っていなかった<ref>中谷直司、2004、262-263p</ref>。またランシング国務長官もシベリア出兵以降、対日強硬派の立場を強めていた。こうしたこともあり「すこぶる反日的」と評されたウィルソンらの姿勢は、日本との妥協を行う姿勢にはなかった<ref>中谷直司、2004、265p</ref>。また中華民国側はウィルソンの14か条の原則を緩用して、中国に課せられた勢力範囲や[[治外法権]]等の撤廃を求める方針であった。このため駐米公使[[顧維鈞]]をはじめとする中華民国外交団は、積極的な広報活動を行って、アメリカにおける中国支持の風潮を高めさせた。1918年11月26日に顧維鈞と会談したウィルソンは、中華民国全権との協調を約束した<ref>中谷直司、2004、264-265p</ref>。この状況を見た日本の[[内田康哉]]外相は、12月に[[陸徴祥]]外交部長と会談し、中国の不平等状態の改善への協力と、講和会議での日中協調行動を合意した<ref>中谷直司、2004、266-267p</ref>。

1919年1月17日、日本は十人委員会で大戦中の日中条約などを根拠として山東権益の無条件譲渡を主張した。翌1月18日、中華民国全権の顧維鈞は日本の山東奪還には謝意を示したものの、日中条約が苦境の際に結ばれたとしてその無効を主張し、ドイツから中華民国への直接還付を主張した。この顧維鈞の主張に驚いた日本側は中華民国政府に抗議を行ったが、この動きはかえってマスコミによって日本が中華民国政府を脅迫しているという報道をかき立てた。さらにアメリカにも日本に不利な報告が相次ぎ、日本政府への抗議や中華民国全権に毅然とした対応を取るよう助言を行った<ref>中谷直司、2004、269-271p</ref>。牧野は日本への譲渡を講和条約に記載させる必要はないと考えていたが、原首相や外交調査会は絶対に譲れないと考えていた。また日中条約には[[満州]]の利権に関する規定も含まれており、同条約の無効化は日本の中国利権を根底から喪失させかねないものであった。このため「同島(青島)は我武力によりて占領し、また日支条約は支那が参戦前に締結したるものなるに因りて、絶対に我が要求を貫徹せしめざるべからず」という考えのもと、「帝国政府の最終の決定にして、何等の変更を許さざる次第に付」、もし容れられない場合には国際連盟への参加を蹴ってでも要求を貫徹するよう訓令した<ref>中谷直司、2004、274-275p</ref>。

4月10日、アメリカ全権団は山東権益の直接還付を支持する方針を決定した。ところが1915年の条約を前提とした1918年の日中条約において中華民国が日本側から金銭を受け取っていたため、条約が無効であるとみるのは困難となっていた。そのためランシング国務長官は山東権益を米英仏伊日の五ヶ国の管理委員会に移し、しかる後に処理を決定するという案を提案し、ウィルソンもこれに同意した<ref>中谷直司、2004、276p</ref>。4月18日、四人会議でウィルソンが日本側にこの提案を説明することが合意された。ウィルソンは日本の牧野・珍田両全権と会談し、山東権益を連合国全体に渡すという案を提示したが、日本側は中国側の強力なプロパガンダにより、山東問題が極東における一大政治問題と化したため、譲歩は不可能であると述べ、「条約に調印することが不可能になるかもしれない」と強硬に拒否した<ref>中谷直司、2004、278p</ref>。一方で日本の外交姿勢が変化していることも説明し、中国における勢力範囲の撤廃にも協力する旨を伝えた<ref>中谷直司、2004、279p</ref>。

4月22日の四人会議に日本の牧野・珍田両全権が招待され、山東問題の協議が行われることになった。ロイド・ジョージは英仏秘密条約をもとに日本支持姿勢をほのめかしたが、講和条約に山東権益譲渡を明記すれば、イギリス帝国内の自治領も同様な提案を行って会議が混乱するとして、日本の理解を求めた。日本全権はこれを拒否し、日中条約にある「中国への義務」が認められなければ、条約に署名できないと明言した。この会談中にウィルソンはかつての管理案を提示することもなく、日本側の山東権益の説明を聞くのみであった<ref>中谷直司、2004、280-281p</ref>。同日午後には中華民国全権を招いた四人会議が開催された。中華民国全権は日中条約の無効と直接還付を再度訴えた。しかしウィルソンの態度は変化しており、条約の神聖性を説き、中国の待遇改善は国際連盟で行うと告げた。ロイド・ジョージも残された対応は旧ドイツ権益のみを譲渡するか、日中条約による権益譲渡を行うかしかないと告げた。中華民国全権は「中国はドイツの野望の対象ではなかった」とまで主張したが、ウィルソンはドイツの野望は疑いもなく東洋支配を含んでいたと、この見解を却下した<ref>中谷直司、2004、280-281p</ref>。

ウィルソンはフィウーメ問題での自らの対応との違いを嘆いたが、これ以降ウィルソンは日本への無条件譲渡を認めた動きを展開していくことになった。このウィルソンの変化は、英仏との秘密条約の強固さと、日本の強硬姿勢に抗しきれなかったためであるとする見方が一般的である<ref>中谷直司、2004、286-287p</ref>。ただし、ウィルソンはその後も日中条約を承認せず、日本全権との会談ではその有効性に疑義を呈する発言を行っている<ref>中谷直司、2004、287p</ref>。ウィルソンの変化を見たランシングらアメリカ全権内の有力者は日本の調印拒否は「ブラフ」であるとして「目先の利益のために中国を見捨て、極東におけるアメリカの威信を投げ出すよりは、日本を連盟の外に置いた方がいい」と強硬姿勢の貫徹を主張した<ref>中谷直司、2004、284p</ref>。

4月29日と30日に、四人会議における山東問題の最終協議が行われ、日中条約との関係を薄くする形で間接還付を行う方針が決定された。5月4日、日本全権は日中条約に言及しない形で山東の全権益を中国に還付する旨の声明を行い、ヴェルサイユ条約には山東権益の日本への譲渡が明記されることになった<ref>中谷直司、2004、296-297p</ref>。山東問題での譲歩は、ウィルソンに対する不信感を起こすこととなり、議会でのウィルソン攻撃の材料となるとともに、代表団の一部がウィルソン支持から撤退した。このためアメリカ上院で条約に対する支持も得られず、条約批准失敗につながる一因ともなった<ref>中谷直司、2004、299-300p</ref>。この結果に中国では激しい反発が起き([[五・四運動]])、中華民国代表もヴェルサイユ条約に調印は行わなかったが、[[サン=ジェルマン条約]]に署名したことで国際連盟に参加することになった<ref>申春野、2005、204p</ref>。

講和会議後、二国間での還付交渉を求める日本側に対し、中華民国は国際会議での解決を望み、拒否し続けた。これにはアメリカがヴェルサイユ条約の批准を行わなかった事に対する過度な期待があり、顧維鈞などの海外公使の意見は悲観的であった<ref>申春野、2005、205-206p</ref>。結局山東問題の解決は1922年の[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]まで持ち越されることになる。

== トルコ問題 ==
{{節スタブ}}

== 人種差別撤廃案 ==
{{main|人種的差別撤廃提案}}
当時アメリカ・カナダ・オーストラリアでは日本人[[移民]]、及び[[日系アメリカ人]]に対する排斥運動が起こっていたこともあり(のちに[[排日移民法]]までもが成立)、国際連盟構想が明らかになると日本のマスコミや[[黒龍会]]等の団体が[[人種差別]]撤廃を講和条件に盛り込むよう強く主張するようになった<ref>船尾章子、1995、26-27p</ref>。ただしこの意見が政治家を動かしたということはなく、政府が人種差別撤廃提案を取り入れることになった経緯はいまだに明確になっていない<ref>永田幸久、2003、200p</ref>。当時の外務省には[[石井菊次郎]]駐米大使のように国際正義が主張される講和会議で移民排斥不当を「表明」すること自体に意味があるという考えと、[[小村欣一]]アジア課長のように人種平等の提案を成すことで、国際組織で平等の立場を勝ち取り、日本の印象を平和的なものとし、対中融和をスムーズに行うという考えもあった。最終的に外務省がまとめた案では、人種平等の要求明確化よりも、国際的時流に乗ることを重要とする物となっていた<ref>船尾章子、1995、33p</ref>。

日本代表団はまずアメリカに働きかけることとし、ランシング国務長官とウィルソン側近のハウス大佐に、連盟規約に挿入する人種差別撤廃条項として甲案と乙案の二案を提示した。ランシングは乙案に賛意を示し、ハウス大佐の感触も上々であった<ref>永田幸久、2003、203-204p</ref>。次に接触したイギリスでは、オーストラリア、ニュージーランドの自治領、特に[[白豪主義]]を国是とし、労働問題を抱えるオーストラリアが強硬に反発したため、合意は得られなかった<ref>永田幸久、2003、204p</ref>。その後イギリスのセシル元封鎖相やバルフォア外相とも協議を行ったが、本国の諒解が得られないとして消極的であった。会議の状況を聞いた原首相も「この事元来成功するや否や覚束なき事柄」と、提案の成功には悲観的であった<ref>永田幸久、2003、213p</ref>。

日本は2月13日に国際連盟委員会で「各国均等の主義は国際連盟の基本的綱領なるに依り(中略)、連盟員たる一切の外国人に対し均等公正の待遇を与え人種或は国籍如何に依り法律上或いは事実上何等差別を設けざることを約す」という条文を、宗教の平等を唱えた連盟規約21条に付け加えるよう提案した<ref>永田幸久、2003、205p</ref>。この日の提案ではチェコスロバキア、ルーマニア、ブラジルのみが賛成であり、さらに宗教規定自体が取り除かれることが多数決で決まり、人種差別撤廃提案は別の形で提出することとなった<ref>永田幸久、2003、205-206p</ref>。

この提案が報道されると、日本では提案に対する期待が高まり、アメリカでは内政干渉であるとして反発が高まった。アメリカ上院は人種差別撤廃提案が採用されれば条約を批准しないという決議を行い、ウィルソンもこれに従わざるを得なくなった<ref>永田幸久、2003、207p</ref>。オーストラリアのヒューズ首相も会議中に退席するほど強硬であり、日本の主張が入れられれば署名を拒否して帰国すると発言した。ヒューズの態度は[[イギリス連邦]]の首脳からも「狂人と評するほかない」<ref>南アフリカのボータ首相が、ヒューズを評して牧野に告げた言葉。八丁由比、2011、19p</ref>と評されるほどであった。イギリス、カナダ、ニュージーランドは牧野の接触で日本支持に傾きつつあったが、ヒューズの強硬姿勢をみて反対の立場に戻っていった<ref>永田幸久、2003、208p</ref>。イギリスは英連邦内の団結を維持する必要があり、総選挙を控えて譲歩ができないヒューズの強硬姿勢に従わざるを得なかった<ref>八丁由比、2011、17p</ref>。日本政府も提案成立は困難であると見るようになり、[[犬養毅]]や[[伊東巳代治]]のように連盟脱退を唱える者も現れた。

4月11日、日本は再度提案を行い、連盟規約前文に「各国民の平等及びその国民に対する公正待遇の主義を是認する」という一文を挿入するように求めた。イギリス、オーストラリアが反対する中、議長ウィルソンは「本件は平静に取り扱うべき問題」であるとして、提案自体の撤回を求めた。牧野は採決を求め、イギリス、アメリカ、ポーランド、ブラジル、ルーマニアが反対したものの、フランス、イタリア、ギリシャ、中華民国、ポルトガル、チェコスロバキアが賛成に回り、出席者16名中11名の賛成多数を得た。しかしウィルソンは「全会一致でない」としてこの採決を不採択とした。牧野は「会議の問題につきては多数決に依りて決定したことあり」として、多数決による採択を求めたが、ウィルソンは「本件の如き重大なる事件の決定については、従来とも全会一致、少なくとも反対者なきことを要するの趣旨によりて議事を取り扱い来たれる」と重大案件は全会一致で行ってきたと反論し、牧野もこれを受け入れた。牧野は議案を撤回するかわりに、提案を行ったという事実と採決記録を議事録に残すことを要請し、受け入れられた<ref>永田幸久、2003、211-212p</ref>。

日本国内では失望の意見や連盟脱退を叫ぶ声が高まり、伊東ら強硬派は牧野の欧米協調的な言動を軟弱であると非難した。また山東問題の解決と人種差別撤廃提案の撤回が同時期であったため、各国から「人種差別撤廃提案を取引材料に使った」「そもそも提案自体が煙幕であった」という非難もあびることになった<ref>永田幸久、2003、220p</ref>。しかし原首相は牧野を擁護し、日本は国際連盟参加、講和会議成立の協調路線を維持することになった<ref>永田幸久、2003、213-214p</ref>。一方で欧米に対する不信感は[[大川周明]]などの[[国家主義]]者や[[アジア主義]]者に根付き、対米協調に反発する政治団体が多数生まれることとなった<ref>永田幸久、2003、229-230p</ref>。随員の一人であった[[近衛文麿]]も「英米本位の平和主義を排す」という論文を発表し、注目を集めることになった。

== その他の問題 ==
{{節スタブ}}
=== ハンガリー問題 ===
{{see also|ハンガリー評議会共和国|ハンガリー・ルーマニア戦争|トリアノン条約}}
1918年10月にハンガリーでは反オーストリア暴動が起こり、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]皇帝[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]もハンガリーに対する支配権を放棄した<ref>矢田俊隆、1977、3p</ref>。その後ハンガリーには[[カーロイ・ミハーイ]]を首相とする共和政府が樹立されたが、旧ロシア帝国軍の捕虜となり、収容所で訓練を受けた共産主義者達が帰国したため、急速に左傾化を強めていた。カーロイ首相は親連合国感情の持ち主であったが、連合国は3月20日にルーマニアに[[トランシルヴァニア]]全土の占領を認める旨を通告した。この通告をうけたカーロイは辞職して新たな政権作りを模索したが、政権内の一部が共産党と連合し、3月21日に共産主義政権、[[ハンガリー評議会共和国]]が成立した<ref>矢田俊隆、1977、4p</ref>。革命の動きがハンガリーからオーストリア、南ドイツに波及することを恐れた連合国首脳は、[[ヤン・スマッツ]][[南アフリカ]]国防相をブダペスト・ウィーン・プラハに派遣して革命政権を牽制した。4月からは評議会政権とルーマニア・チェコスロバキアは戦争状態に陥り、8月に評議会政権は崩壊した。このためハンガリーとの講和は1920年まで遅れることになった。

=== チェシン問題 ===
チェコスロバキア・ポーランド間にあった{{仮リンク|チェシン・シレジア|en|Cieszyn Silesia}}(現在の{{仮リンク|チェシン|en|Cieszyn}}と[[チェスキー・チェシーン]])は、両国から領有権主張があり({{仮リンク|ポーランドとチェコスロバキアの国境紛争|en|Polish–Czechoslovak border conflicts}})、1919年1月には両国間で戦闘が発生している({{仮リンク|ポーランド・チェコスロバキア戦争|en|Polish–Czechoslovak War}})。両国は十人委員会に裁定を求めたが、両国間で決着するべきと回答された。7月の両国間協議でポーランドは住民投票を提案したが、チェコスロバキア側は拒否した。十人委員会は住民投票を命令したが、現地は暴動状態となり、投票は中止された。1920年7月の{{仮リンク|スパ会議|en|Spa Conference}}後の7月28日に行われた合意により、チェシン中央部を流れる川を境界にチェシンを分割することで妥協が成立した。

=== 独立要求 ===
ウィルソンの「民族自決」論は、当時他国の統治下にあった諸民族や分離主義者に独立への希望を抱かせた。ベトナムの[[安南愛国者協会]]([[ホー・チ・ミン]])、[[朝鮮]]の[[新韓青年党]]([[金奎植]])、ラインラント共和国、[[アイルランド共和国暫定政府]]([[ショーン・オケリー]]、[[マイケル・コリンズ (政治家)|マイケル・コリンズ]])、[[ウクライナ人民共和国]]などは独自に代表を送ったが、多くの場合独立は達成されなかった。

== 主要国家の姿勢と対応 ==
===イギリス ===
ロイド・ジョージは1918年12月20日に選挙の最終綱領として、カイザー([[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]])の裁判、残虐行為責任者の処罰、ドイツからの最も完全な償金、戦争で破壊されたものの再建を訴えた<ref>吉川宏、1、341p</ref>。また、裏面では海上におけるイギリスの優位確保のため、ドイツ艦隊の解体とドイツ植民地獲得を希望していた。さらに伝統的な勢力均衡政策に基づき、ドイツ・オーストリア=ハンガリー、ロシアの三帝国崩壊により均衡を失った欧州でフランスの覇権が確立するのを防ぐため、過度なドイツ制裁には反対していた<ref>吉川宏、1、343-345p</ref>。

=== フランス ===
クレマンソー首相の唯一の関心はフランスの安全保障であり、「武力は失敗である」とするウィルソンの理想主義とは全く相容れないものであった<ref>吉川宏、1、351p</ref>。特にフランスはドイツと地続きであり、イギリスやアメリカとは対独警戒心に大きな開きがあった。フランスは安全保障の目的のため次の数点を強く要求していた<ref>吉川宏、2、517-518p</ref>。
* フランスによる[[ラインラント]]の軍事管理
* この管理を維持するための大国間の永久同盟
* ドイツを牽制する東部における小国同盟
* ドイツの領土縮小
* ドイツ政治組織の弱体化
* ドイツのみの軍縮
* 履行不能な賠償金
* ドイツ経済資源の収奪
* フランスに有利でドイツに不利な経済協定の締結

=== 日本 ===
[[Image:Restoration of World WarⅠJapanesen stamp of 3sen.jpg|thumb|180px|right|日本が「平和記念」として発行した3銭切手]]
[[Image:Restoration of World WarⅠJapanesen stamp of 3sen.jpg|thumb|180px|right|日本が「平和記念」として発行した3銭切手]]
===「5大国」1国===
====日本講和準備====
日本政府は参戦間もない1914年10月から講和に対する準備を開始した。この委員会ではドイツからの権益獲得、賠償金など日本に実利のあることについては検討が加えられたが、利害のないことに口を出せば、列強による極東への介入を招く危険があるため、「容喙せざること」が基本方針であり、手続き論については大勢に順応するという方針であった<ref>船尾章子、1995、28p</ref>。この方針は政府にそのまま採用され、その後の連合国会議でも蹈襲されたが、1918年のウィルソンの14か条発表とそれを元にした休戦発表は、日本政府と外務省の検討・研究不足をあらわにした。特に国際連盟については「皆目分からず、多いに手を焼いた」状況であった<ref>船尾章子、1995、29p</ref>。このため[[原敬]]首相は11月13日に[[臨時外交調査会]]を設置し、国際連盟などについて研究と討議を開始した。

国際連盟案については[[伊東巳代治]][[枢密顧問官]]、[[平田東助]]枢密顧問官は懐疑的であり、牧野伸顕前外相のみ積極的であった。原首相は牧野案に理解を示したが、特に強い関心を示したわけではなかった<ref>船尾章子、1995、31-32p</ref>。対中強硬策をとってきた[[大隈重信]]・[[寺内正毅]]内閣と異なり、原首相は対米融和を志向しており、牧野や外務省も同様であった。また当時の日本では陸軍出先機関が独走し、[[袁世凱]]打倒工作や実業家[[西原亀三]]を利用した工作を外務省の頭越しに行うという二重外交問題が発生しており、ウィルソンの「新外交」は外交一元化を唱える外務省にも有利であった<ref>中谷直司、2004、255-257p</ref>。12月22日に外交調査会は[[山東省|山東]]および[[南洋諸島]]のドイツ権益獲得を核心問題とし、その他の問題には「大勢の帰向を省察し、なるべく連合与国(大国)と歩調を一にする」という最終的な講和方針を確定した<ref>船尾章子、1995、32p</ref>。

「5大国」の日本以外の4カ国は距離的、歴史的に関係が深いだけでなく、主な戦場となったヨーロッパ戦線で戦い、大戦中から戦略会議を開いていたという関係があり、ここに距離的に遠い上にヨーロッパ戦線において地上戦を戦わなかった日本を加える予定はなかったが、アジア太平洋地域における地上戦やヨーロッパ戦線における海戦での貢献が認められたことや、[[珍田捨巳]]駐イギリス[[特命全権大使]]他の根回しで日本代表も含むこととなった。
「5大国」の日本以外の4カ国は距離的、歴史的に関係が深いだけでなく、主な戦場となったヨーロッパ戦線で戦い、大戦中から戦略会議を開いていたという関係があり、ここに距離的に遠い上にヨーロッパ戦線において地上戦を戦わなかった日本を加える予定はなかったが、アジア太平洋地域における地上戦やヨーロッパ戦線における海戦での貢献が認められたことや、[[珍田捨巳]]駐イギリス[[特命全権大使]]他の根回しで日本代表も含むこととなった。


日本の全権は政権[[与党]]である[[立憲政友会]]前総裁で元[[首相]]、[[元老]]でもある[[西園寺公望]][[侯爵]](個人的にも[[ジョルジュ・クレマンソー|クレマンソー]]フランス首相とは親友であった<ref>クレマンソーは日本代表による日本語訛りの演説に際し、まわりに聞こえるような声で「あのちびは何をいっているのか」といったとも伝えられる。マイケル・ブレーカー『根まわし かきまわし あとまわし』サイマル出版会p.2、及び小熊英二『単一民族新神話の起源』新曜社、p.214</ref>)及び[[牧野伸顕]][[男爵]]らが任命され64人の代表団を送ったが、会議では日本が「5大国」と称されながら実際の発言数が少なく、影響力が低かった事で日本国内で批判を浴びた。 
日本の全権は政権[[与党]]である[[立憲政友会]]前総裁で元[[首相]]、[[元老]]でもある[[西園寺公望]][[侯爵]](個人的にも[[ジョルジュ・クレマンソー|クレマンソー]]フランス首相とは親友であった<ref>クレマンソーは日本代表による日本語訛りの演説に際し、まわりに聞こえるような声で「あのちびは何をいっているのか」といったとも伝えられる。マイケル・ブレーカー『根まわし かきまわし あとまわし』サイマル出版会p.2、及び小熊英二『単一民族新神話の起源』新曜社、p.214</ref>)及び牧野伸顕元外相らが任命され64人の代表団を送った。


日本代表は五大国のひとつとして十人委員会のメンバーとなったが、日本代表は山東問題など利害が関係しない案件では発言数が少なく、国際協調に消極的な「サイレント・パートナー」と揶揄された。さらに現役首脳を派遣できなかったために会議で直接賛否を著わすことが出来ず、採決では留保した後に本国に問い合わせる有様であった<ref>永田幸久、2003、199p</ref>。 
=== 山東問題 ===
日本は第一次世界大戦への参戦に際して、[[山東半島]]の旧ドイツ権益を獲得した。日本は同大戦中の[[1915年]](大正4年)1月中国政府に所謂[[対華21ヶ条要求]]を通じて、[[中華民国]]の[[袁世凱]]政権に対し、同権益の日本の継承を認めさせた。この要求は、満蒙や山東省の権益を独占し、さらに中国政府をも日本の勢力下におこうとするものであった<ref>遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 7ページ</ref>。


== 影響 ==
一方、袁世凱政権自身も、幾分か名目的なものではあるものの、連合国の勝色が濃厚となった段階で同盟国側に対して宣戦布告をしており、この会議にあたっては中国代表として[[顧維鈞]]を派遣し、戦勝国としての待遇を求め、山東半島権益の返還を求めていた。そして[[門戸開放政策]]を主張するアメリカも日本による権益の独占に反対しており、会議における争点の一つとなった。
{{節スタブ}}
{{see also|第一次世界大戦の影響|ヴェルサイユ条約#影響}}
この会議で制定された一連の講和条約が結ばれ第一次世界大戦は終戦することになる。これ以降[[ヨーロッパ]]においては「ヴェルサイユ体制」と呼ばれる秩序が、[[ロカルノ条約]]で修正されながらも、[[世界恐慌]]期後の[[ファシズム]]勢力台頭まで続くことになる。また講和会議の結果成立した国際連盟や[[国際労働機関]]の設立、[[国際河川]]制度の確立などの国際協力の動きは現代にも大きな影響を与えている。


また会議で提起された軍縮問題は、[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]等で協議されたが、日本とその他の国の軋轢を生むことになる。
結果としては[[ヴェルサイユ条約]]において日本は山東半島の旧ドイツ権益の継承は認められたものの、中華民国では1919年(大正8年)年5月4日に[[五四運動]]が起こり、中華民国はこれを不満として調印しなかった。また権益を得られなかったアメリカでも対日感情が悪化し、日系[[移民]]排斥にいっそう拍車がかかることになる。


===アメリカ===
=== 日本の人種差別撤廃案 ===
講和会議の中でウィルソンとランシング、{{仮リンク|エドワード・ハウス|en|Edward M. House}}といった閣僚・側近との溝は広がり、条約批准という山場を迎える中ウィルソンは孤立を深めていくこととなった。
当時アメリカでは日本人[[移民]]、及び[[日系アメリカ人]]に対する排斥運動が起こっていたこともあり(のちに[[排日移民法]]までもが成立)、日本の代表団は[[国際連盟]]の規約に[[人種的差別撤廃提案|人種差別撤廃条項]]を加えるよう提案した。これは「人種あるいは国籍如何により法律上あるいは事実上何ら差別を設けざることを約す」というもので、国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初である。


国際連盟規約10条には加盟国が侵略を受けた際、アメリカを含む国際連盟理事会が問題解決に義務を負うと言う規定が存在し、[[アメリカ合衆国上院]]の外交問題委員会はこの条項に留保条件を付けることを主張した。しかしウィルソンは妥協に応じず、上院での批准は成立しなかった{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.251-252}}。さらにウィルソンが脳梗塞で病身となったこともあり、[[1920年アメリカ合衆国大統領選挙]]では[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の[[ウォレン・ハーディング]]が[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[ジェイムズ・コックス]]を大差で破った。ハーディングは国際連盟不加盟を決め、独自の講和条約(1921年8月11日の{{仮リンク|米独平和条約|en|U.S.–German Peace Treaty (1921)}}、8月24日に{{仮リンク|米墺平和条約|en|US–Austrian Peace Treaty (1921)}}、8月29日に{{仮リンク|米洪平和条約|en|US–Hungarian Peace Treaty (1921)}})を結んだアメリカは再び[[モンロー主義]]に回帰していくことになる。
人種差別主義国であるイギリスや[[オーストラリア]]などが反対する中、出席者16名中11名の賛成多数を得たが、議長国でありながら[[ジム・クロウ法|人種差別が法律で認められていた]]アメリカは突如として全会一致を主張、多数決を無視して本提案を退けた。この拒絶を受け、日本は特にアメリカに対する不信感を強める事になる。両国の対立感情はその後の[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])への呼び水となった。


陸軍・海軍・国務省では、山東問題や南洋諸島を獲得した日本への警戒が増加し、1920~1921年の建鑑競争を招くこととなった<ref>中谷直司、2004、300p</ref>。
{{main|人種的差別撤廃提案}}


== 結果 ==
=== イギリス ===
戦争に勝利したものの、膨大な戦費によってイギリス経済は深刻な不況を迎えることになる。また膨大な人員を提供したイギリス帝国内の自治領の発言力が増大し、帝国は緩やかな連合である[[イギリス連邦]]へと変化していくこととなった。
この会議によって一連の関連条約が結ばれ第一次世界大戦は終戦することになる。これ以降[[ヨーロッパ]]においては「ヴェルサイユ体制」と呼ばれる秩序が、[[第二次世界大戦]]前まで続くことになる。


=== ヴェルサイユ体制 ===
=== フランス===
講和条約の結果、フランスはドイツの賠償支払いの大半を手に入れることとなったが、ドイツの支払いはスムーズに行われず、また賠償として流入するドイツの産品が帰ってフランス国内の産業を圧迫することに繋がった。またパリ講和会議で一応成立したフランスの安全保障構想は、アメリカの連盟不参加により、早くも見直しを迫られることとなった。フランスはポーランドやルーマニア・チェコスロバキア・ユーゴスラビア間の連合[[小協商]]に接近し、東からドイツを牽制した。
この体制の維持には、ワシントン体制の維持と同様に[[社会システム論]]に基づく[[蝶番国家]]であるアメリカの経済が順調であることが必要条件であった。具体的にはアメリカは、


=== ドイツ ===
* ドイツに対して財政面、物資面での援助を行い、それを元にドイツは連合国に対して賠償金を支払い、アメリカが連合国からの戦債を回収する。またドイツの再軍備を制限する。
{{main|ヴェルサイユ条約#ドイツへの影響}}


=== イタリア ===
* 軍事費に苦しむ日本に対して、融資を行うとともに軍備削減を要求する。
フィウーメを得られなかったイタリアでは、講和に対する反感が次第に強まった。1919年9月12日、愛国派詩人[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]らのグループがフィウーメを占拠し、イタリアへの併合を訴えた。国際関係悪化を恐れたイタリア政府は投降を求めたが、ダンヌンツィオらはフィウーメの独立を宣言した({{仮リンク|自由都市フィウーメ|en|Free State of Fiume}})。この動きは[[ベニート・ムッソリーニ]]らの[[ファシズム]]運動にも影響を与え、イタリアとユーゴスラビア間での領土問題はこの地域の不安定要因となった。


=== ポーランド ===
というものである。
パリ講和会議の結果、100年ぶりの独立を回復したポーランドだったが、住民投票で帰属を決定する地域ではドイツとの間で熾烈なプロパガンダ合戦や、武力抗争が頻発した([[シレジア蜂起]])。住民投票の結果、ポーランドは[[シレジア]]の工業地帯を手に入れ、ドイツにおける領土回復運動の目標となった。


=== 旧オーストリア=ハンガリー帝国 ===
その後「ヴェルサイユ・ワシントン体制」は[[1929年]]のアメリカ発の世界的な金融恐慌を機に崩壊していくことになる。また莫大な賠償金の支払いに苦しんだドイツは経済が破綻し、後の[[ナチス党]]の勃興を招くこととなった。
膨大な領土を失ったオーストリアは、深刻な経済不況に見舞われた。このため国際連盟による援助がいち早く行われ、賠償も免除されている。講和会議終了後の8月になってハンガリー・ルーマニア戦争は終結し、トランシルヴァニアの帰属はルーマニアに確定した。1920年3月に成立した[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー王国]]では失地回復を願う声が高まり、政権の右傾化が強まった。


独立を果たしたチェコスロバキアであったが、ドイツ・オーストリアとの[[ズデーテン地方]]問題、ポーランドとのチェシン問題は後々まで紛争の原因となり、[[チェコスロバキア併合|チェコスロバキア解体]]の遠因となった。
=== 国際連盟の設立 ===
アメリカのウィルソン大統領は秘密外交の廃止、無併合、無賠償、民族自決の原則などの「14か条」によって提案し、また恒久平和維持の機関として国際連盟設置を提唱し、この[[ヴェルサイユ条約|ベルサイユ講和会議]]で成立した。世界の人々からこの会議の結果に大きな期待が寄せられた。しかしアメリカ合衆国自身は、議会(上院)の反対により国際連盟に参加しなかったので国際紛争の解決に充分生かせるものでなかった。


=== バルカン半島 ===
{{main|国際連盟}}
[[セルビア王国]]主導の[[ユーゴスラビア王国]]樹立は列強によって事実上承認され、[[汎スラヴ主義]]者の念願が達成された。しかし[[クロアチア]]、[[モンテネグロ]]、[[マケドニア]]等ではセルビア人と王家[[カラジョルジェヴィチ家]]への反感が高まり、反政府蜂起や暗殺事件が頻発した。この地域の民族問題は第二次世界大戦とその後の不安定要因となり、[[ユーゴスラビア紛争]]が終結する21世紀まで尾を引くこととなった。

=== 旧ロシア帝国 ===
{{see also|干渉戦争|シベリア出兵}}
内戦が続くロシアに対する列強の足並みはそろわず、[[シベリア出兵]]が行われたものの、ボリシェヴィキ政権の[[ソビエト連邦]]成立を防ぐことは出来なかった。また旧[[ロシア帝国]]からの[[アルメニア民主共和国]]、[[フィンランド]]、[[バルト三国]]の独立は承認されたものの、連合国がこれらに積極的な支援をすることはなく、アルメニアやバルト三国はソビエト連邦の圧迫を受け、独立を失うこととなった。

=== トルコ・中東 ===
{{see also|トルコ革命}}
敗戦によって[[統一と進歩委員会]]政権は瓦解し、[[スルタン]][[メフメト6世]]は連合国軍を利用して皇帝専制の復活を目論んだ。しかし[[ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]らは1920年4月23日、[[アンカラ]]に[[トルコ大国民議会|大国民議会]]を設置し、帝国政府に対抗した。帝国政府は8月10日にパリ講和会議の結果をふまえた[[セーヴル条約]]を締結したが、この過酷な内容は講和条約を受諾した皇帝に対するトルコ国内の反発を招いた。

1921年1月6日、[[コンスタンティノス1世 (ギリシャ王)|コンスタンティノス1世]]率いる[[ギリシャ軍]]は、さらなる領土を狙って進軍を開始した([[希土戦争 (1919年-1922年)]])。ムスタファ・ケマルらの大国民議会軍はギリシャ軍を圧倒し、1922年11月1日にはスルタン制が廃止され、[[トルコ共和国]]が成立した。連合国は新たな講和条約締結する必要に迫られ、1923年7月24日に[[ローザンヌ条約]]を締結した。トルコはセーヴル条約で失った領土の内東[[トラキア]]を回復し、ギリシャとの住民交換を行われ、民族問題が緩和された({{仮リンク|ギリシャとトルコ間での住民交換|en|Population exchange between Greece and Turkey}})。

またオスマン帝国の支配地であったシリア・レバノン・メソポタミアは[[サイクス・ピコ協定]]通り英仏に分割され、その治下で民族主義者が新たな政権樹立をめぐって争うこととなる。

=== 日本 ===
パリ講和会議の結果、日本は正式な[[列強]]の一つと数えられるようになった。しかし山東問題での対応は、アメリカと中華民国の警戒を招くことになった。ワシントン会議ではアメリカの主張で日英同盟は廃止され、国際連盟での協調にも失敗した日本は孤立化の道を歩むことになる。

=== 中華民国 ===
中華民国は山東問題の扱いを不服としてヴェルサイユ条約を調印せず、1922年5月15日に{{仮リンク|中独平和回復協定|en|Agreement Regarding the Restoration of the State of Peace between Germany and China (1921)}}を締結してドイツと講和した。またヴェルサイユ条約を不服とする民衆が大規模な抗議運動([[五四運動]])を起こし、[[日貨排斥]]を訴える動きが広がった。対日感情は山東還付の後も改善されず、二国間関係は悪化の一途をたどることになる。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{reflist}}
{{reflist|3}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
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* [[下斗米伸夫]]・[[五百旗頭真]] 編『二十世紀世界の誕生 <small>両大戦間の巨人たち</small>』(情報文化研究所、2000年) ISBN 4-7952-8238-2
* [[下斗米伸夫]]・[[五百旗頭真]] 編『二十世紀世界の誕生 <small>両大戦間の巨人たち</small>』(情報文化研究所、2000年) ISBN 4-7952-8238-2
* [[イアン・ニッシュ]] 著\[[関静雄]] 訳『戦間期の日本外交 <small>パリ講和会議から[[大東亜会議]]まで</small>』([[ミネルヴァ書房]]日本史ライブラリー、2004年) ISBN 4-623-04074-7
* [[イアン・ニッシュ]] 著\[[関静雄]] 訳『戦間期の日本外交 <small>パリ講和会議から[[大東亜会議]]まで</small>』([[ミネルヴァ書房]]日本史ライブラリー、2004年) ISBN 4-623-04074-7
*{{Cite book|和書|author=牧野雅彦|year=2009|title = ヴェルサイユ条約 マックス・ウェーバーとドイツの講和|publisher = 中央公論新社|isbn= 978-4121019806|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=吉川宏 |title=ロイド・ジョージとヨーロッパの再建-1- |date=1963-01 |publisher=北海道大学法学部 = The University of Hokkaido, Faculty of Law |journal=北大法学論集 |volume=13 |number=2 |naid=120000973657 |pages=282-359 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=吉川宏 |title=ロイド・ジョージとヨーロッパの再建-2- |date=1963-03 |publisher=北海道大学法学部 |journal=北大法学論集 |volume=13 |number=3 |naid=120000953565 |pages=459-551 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=吉川宏 |title=ロイド・ジョージとヨーロッパの再建-3- |date=1963-08 |publisher=北海道大学法学部 |journal=北大法学論集 |volume=14 |number=1 |naid=120000963326 |pages=66-157 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=吉川宏 |title=ロイド・ジョージとヨーロッパの再建-4(完)- |date=1963-12 |publisher=北海道大学法学部 |journal=北大法学論集 |volume=14 |number=2 |naid=120000964210 |pages=203-234 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=船尾章子 |title=大正期日本の国際連盟観 : パリ講和会議における人種平等提案の形成過程が示唆するもの |date=1995|publisher=中部大学 |journal=国際関係学部紀要 |volume=14 |naid=110000466104 |pages=21-38 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=永田幸久 |title=第一次世界大戦後における戦後構想と外交展開 : パリ講和会議における人種差別撤廃案を中心として|date=2003|publisher=中京大学 |journal=中京大学大学院生法学研究論集 |volume=23 |naid=110006201180 |pages=157-256 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=岡俊孝 |title=<論説>パリ平和会議におけるイタリアの要求と米国 : イタリア・イレデンタとウィルソン (1)|date=1965|publisher=関西学院大学 |journal=法と政治 |volume=16|number=4|naid=110000213262 |pages=525-559 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=岡俊孝 |title=<論説>パリ平和会議におけるイタリアの要求と米国 : イタリア・イレデンタとウィルソン (2)|date=1967|publisher=関西学院大学 |journal=法と政治 |volume=18|number=3|naid=110000213367|pages=511-537 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=中谷直司 |title=ウィルソンと日本 -パリ講和会議における山東問題―|date=2004|publisher=同志社法學會 |journal=同志社法學 |volume=56|number=2|naid=110001045060|pages=79-166 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=申春野 |title=「山東問題」の直接交渉をめぐる日中関係の展開|date=2005|publisher=大阪大学大学院国際公共政策研究科 |journal=国際公共政策研究 |volume=10|number=1|naid=110001045060|pages=197-215|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=矢田俊隆 |title=1919年のオーストリア社会民主党とハンガリー・ソヴェト共和国の関係|date=1977|publisher=北海道大学法学部 |journal=北大法学論集 |volume=27|number=3-4|pages=1-46|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=八丁由比 |title=国際連盟規約と幻の人種平等原則-実現しなかった原因は何か-|date=2011|publisher=北海道大学法学部 |journal=九州工業大学研究報告.人文・社会科学|naid=120002925798 |volume=59,|pages=13-19|ref=harv}}
*{{Cite journal|和書|author=清水正義|title=第一次世界大戦後の前ドイツ皇帝訴追問題|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/110001161262|format=PDF|journal= 白鴎法學|publisher=白鴎大学|date=2003|issue= 21|pages=pp.133-155|ref=清水(2003)}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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** [[トリアノン条約]] - 対[[ハンガリー王国]](オーストリア・ハンガリー帝国)
** [[トリアノン条約]] - 対[[ハンガリー王国]](オーストリア・ハンガリー帝国)
** [[セーヴル条約]] - 対[[オスマン帝国]]
** [[セーヴル条約]] - 対[[オスマン帝国]]
** [[国際連盟]]
* [[国際連盟]]
* [[国際労働機関]]
*{{仮リンク|少数民族保護条約|en|Minority Treaties}}

* [[ヨーロッパにおける民族自決 (1920年)]]
* [[ヨーロッパにおける民族自決 (1920年)]]


==外部リンク==
{{commonscat|Paris Peace Conference, 1919}}
*[http://www.ritsumei.ac.jp/acd/mr/lib/lib/j/collection/gid-j.html パリ講和会議資料データベース] - [[立命館大学図書館]]
* {{Cite web|和書|author=牧野伸顕関係文書 |url=http://www.ndl.go.jp/modern/img_r/055/055-001r.html|accessdate=2012.4.12|title=講和ニ関スル方針|publisher=[[国立国会図書館]]|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=森ありさ |title=公式戦争画家ウィリアム・オルペンによる第一次世界大戦の記録--ヴェルサイユ宮殿に描かれた'無名の兵士たち'|date=2006|publisher=日本大学文理学部人文科学研究所 |naid=40015162968 |url=http://www.chs.nihon-u.ac.jp/institute/human/kiyou/72/1.pdf|journal=研究紀要 |volume=72|pages=1-16|ref=harv}}
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[[sr:Париска мировна конференција 1919.]]
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[[th:การประชุมสันติภาพปารีส ค.ศ. 1919]]
[[tr:Paris Barış Konferansı]]
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[[uk:Паризька мирна конференція 1919—1920]]
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2012年5月25日 (金) 10:19時点における版

パリ講和会議における各国首脳の一部、写真左からデビッド・ロイド・ジョージ(イギリス)、ジョルジュ・クレマンソー(フランス)、ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド(イタリア)、ウッドロウ・ウィルソン(アメリカ)

パリ講和会議(パリこうわかいぎ、Paris Peace Conference)は、1919年1月18日に開会され、第一次世界大戦における連合国中央同盟国の講和条件について討議した会議。世界各国の首脳が集まり、単なる講和問題だけではなく、重要な国際問題も討議された。なお、ヴェルサイユ宮殿ヴェルサイユ条約の調印式が行われたことから、ヴェルサイユ会議とも呼ばれているが、実際の討議のほとんどはパリフランス外務省内で行われており、正しい呼称とは言えない(なお、調印式だけをヴェルサイユ宮殿で行った事の理由については、ヴェルサイユ条約を参照のこと)。

会議設置の前提

ウッドロウ・ウィルソンアメリカ合衆国大統領アメリカの参戦前にも「勝利なき講和」(英語: Peace without victory)を訴え、参戦後は「和解の平和」を唱えた。ウィルソンは懲罰的賠償や秘密外交を基本とするとする欧州の「旧外交」が今次の大戦を招いたと考え、その払拭を訴えた。これがいわゆる理想主義的なウィルソンの「新外交」と呼ばれるものである[1]

秘密外交に対する批判に答えたイギリスデビッド・ロイド・ジョージ首相は、戦争遂行のために「会議による外交」(英語: diplomacy by conference)を唱えた。「私は外交官を必要としない」「自分の国を代表する者として語る権限のない者達に(重要な問題を)論じさせることは単に時間の浪費である。」と語った[2]大衆的政治家であったロイド・ジョージは、全面戦争という状況には国民世論の支持が不可欠と考えていたためである。1918年イギリス総選挙では講和条件自体が選挙の争点となり、ドイツに対する賠償要求世論が高まった。

1918年1月8日、ウィルソンは議会で「秘密外交の撤廃」「民族自決」などを含めた十四か条の平和原則を公表した。以降2月11日には「4原則」、9月25日には5原則を提示しこれを補強している。11月5日、アメリカ政府は十四か条と、それ以降の和平演説、さらに二つの留保事項を加えた和平勧告をドイツに行った(ランシング通牒)[3]。ドイツ首相バーデン公はこれを受け入れ、ドイツと連合国間で休戦協定が結ばれた。しかしイギリスはウィルソンの原則に同意しておらず、14か条が講和の原則でないとドイツに伝達することを考えていた[4]。しかし折からのドイツ革命の進展で、ドイツに共産主義政権が成立することを危惧したイギリスは、早急な講和のために不服ながらウィルソンの方針に同意した[5]

会議の構成

会議には世界から33ヶ国(イギリス自治領含む)70人の全権[6]と1000人以上の随員が集まったが、連合国側での協議を優先するべきと言うイギリスやフランスの意見や、中央やロシアでは政治的混乱が続いていたこともあり、敗戦国やロシアの代表は招請されなかった[7]

最重要問題については五大国(イギリスアメリカフランスイタリア日本)の全権で構成された十人委員会(The Council of Ten)で行われることになった。しかし3月頃にロイド・ジョージの発言が外部に漏洩する事件が起きたため、3月25日から三大国の首脳とイタリアのヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド首相、通訳官のポール・マントゥーfr:Paul Mantoux)で構成された四人会議(The Council of Four)で重要事項は討議されることになった。また三首脳が必要に応じて開催した少人数の秘密会でも協議されるようになった[8]。四人会議は正式な会議ではないとされたが、協議の詳細な内容はウィルソン以外のアメリカ代表団にすら伝えられなかっった[9]。その他の重要な問題については、小国の代表も参加した5つの分野別委員会(国際連盟、労働立法、戦争責任、運輸(港湾・水路・鉄道)、賠償)によって討議された[9]

参加国

主要国(代表五名)

イギリス イギリス帝国  フランス  イタリア王国  日本 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国

代表三名

 ベルギー  ユーゴスラビア王国(セルブ・クロアート・スロヴェーン王国)  ブラジル

代表二名

中華民国 中華民国  ギリシャ  ポルトガル  ルーマニア王国  タイ

ヒジャーズ王国  ポーランド  チェコスロバキア

インド インド帝国  カナダ  オーストラリア 南アフリカ共和国 南アフリカ連邦

代表一名

 キューバ  ニカラグア  パナマ  ボリビア  エクアドル

 グアテマラ  ハイチ  ホンジュラス  リベリア  ペルー

 ウルグアイ  アルメニア  ニュージーランド

その他

主要な出席者

三巨頭

その他の首脳

中央同盟国代表

著名な関係者

会議の流れ

開催後の会議でまず検討されたのは会議の形式であった。ウィルソンは会議を公開し、会議内容の自由な報道を許すよう主張した。しかし過去の秘密外交の暴露や世論に左右されることを恐れたロイド・ジョージやフランスのステファン・ピション外相の猛反対にあった。このため会議公開は断念され、旧来の秘密会議形式が取られることになった[12]。ま2月中旬から3月中旬まではロイド・ジョージとウィルソンが帰国しており、さらにクレマンソー襲撃事件が発生して不在であったため、外相達が会議を取り仕切った[13]。三月中旬になってようやく平和条約の具体内容が討議の中心となった[14]

フランスが最も強く要求したのはザール地方の領有、戦費と賠償金の全面的な履行、ライン川左岸の永久占領であった。この3案は四人会議を紛糾させる最大の争点となった[15]。これらの「一種の心理的な飢餓状態」「戦争性精神異常」と評された[16]フランス側の対独警戒心を緩和するため、イギリスはフランスが侵攻された際に援助する保障条約の締結でこれに代えようとしたが、合意は見られなかった。

3月25日、ロイド・ジョージは「フォンテーヌブロー覚書」を発表し、「新しい戦闘を挑発することのない講和」を目指すために、ドイツに過度の屈辱を与えず、履行可能な講和条件を与えるべきとした[17]。この覚書はアメリカに賛意を持って迎えられたが、フランス首脳達は激怒した。フランスと英米の間隙はより大きくなり、4月2日にはフォッシュが「一週間以内に平和会議は潰れる」と予言し、4月7日にはウィルソンが帰国準備を命令する事態となった[18]

しかしロイド・ジョージが一時帰国した隙に、クレマンソーは側近のハウス大佐を通じてウィルソンを説得し、連合国軍による15年のライン川右岸とザールの占領を行うという妥協案に合意させた。イギリスは抵抗したが4月22日に三国の合意が成立した[19]。この合意を受けて4月20日に米仏間、5月6日に英仏間での軍事保障条約が締結された。

会議の終了

4月18日、ドイツ側代表の招請状がドイツに到着した[20]。5月7日にドイツ代表が講和条約案を受け取り、5月29日に反対提案を行った[21]。ロイド・ジョージはいくつかの点で修正に応じようとしたが、クレマンソーやウィルソンは断固として修正を拒否した[22]。6月3日、7日、10日には賠償問題をめぐって最後の四人会議が開催されたが、賠償総額についての結論は出なかった[23]。連合国側の回答期限当日の6月23日にドイツは条約受諾を発表し、6月28日にヴェルサイユ条約の調印が行われた[24]。7月にウィルソンが帰国し、講和会議自体は終了した。


戦争責任問題

中央同盟国の戦争責任問題についてはロバート・ランシングを議長とする戦争責任委員会英語版が検討を行い、3月19日に報告書を提出した[25]。この中で戦争責任は第一にドイツとオーストリア=ハンガリー帝国、第二にトルコとブルガリアにあるとした上で、「戦争の法と慣習ならびに人道の法に違反した」元首を含むすべての国民が訴追の可能性があるとしたが、戦争を引き起こした責任については訴追を断念した[26]

この会議の最中から、ヴェルサイユ条約によって第一の戦犯とされながら、中立国オランダに亡命していたヴィルヘルム2世の身柄引き渡し交渉が続けられていた。しかしオランダ政府は国内法に違反していないとして拒否し、連合国も重ねて要求を行ったり、欠席裁判を行うこともなかった[27]

国際連盟問題

ウィルソンは新外交の中心と位置づけた国際連盟を平和条約と不可分であると考えており、熱心な主導者となっていた。国際連盟創設自体はイギリスも戦争目的の一つとしていた[28]が、ロバート・セシルウィンストン・チャーチルのようにその構想を非現実的と見なす政治家が多く存在していた。イギリスは連盟を大国間の継続的共働を保障する骨組みとして考え、フランスはドイツの加入を出来るだけ遅らせるなど、現状維持の道具として考えていた[29]

ウィルソンは連盟の協議を十人委員会で行おうとしたが、ロイド・ジョージやクレマンソーは分科会であり、小国も加えた連盟委員会で協議することを求めた。ウィルソンは小国の協議参加に難色を示したが、結局はロイド・ジョージらの案が通った。ロイド・ジョージらの意図は実質的な講和協議を十人委員会で進めることにあったが、ウィルソンが自ら連盟委員会アメリカ代表となったことでその目論見は外れた[30]

委任統治問題

ウィルソンが原則として「無併合」を唱えていたが、ドイツ旧植民地やオスマン帝国領が独立国としてやっていけるとは考えていなかった。「委任統治」はそのために考え出されたシステムであり、国際連盟からの委任を受けた国が、その地域を統治するというものであった[31]。しかしフランスやオーストラリア、ニュージーランドは旧植民地の併合を強く要求した。委員会は紛糾し、裏面での交渉が活発に行われた。

1月30日の十人委員会でロイド・ジョージは八項目からなる決議案を提出した。東アフリカのドイツ植民地は潜水艦基地となったため、ドイツ統治継続は世界平和に有害であるために没収が定められ、旧トルコ領のアルメニアシリアメソポタミアパレスチナアラビア半島はトルコの悪政から切り離す必要があるとされた。2月になってこの方針で妥協が成立し、ドイツの植民地全面放棄とシリアのフランス委任統治領化、パレスチナ、イラク、トランスヨルダンのイギリス委任統治領化が決定した。こうしてサイクス・ピコ協定は実質的に承認された[32]

軍縮問題

ロイド・ジョージは国際連盟と、ヨーロッパにおける軍縮を平和構想の柱として考えており、1918年12月11日にはヨーロッパ大陸における徴兵軍廃止を平和会議のテーマとしてあげた[33]。元々イギリスは志願軍制が伝統であり、徴兵制廃止については多くの賛同が得られていた。しかしロイド・ジョージはイギリスによる海上の覇権を渡すつもりはなく「イギリスはアメリカあるいは他の強国の海軍より優越した海軍を維持するために最後の1ギニーまで費す」つもりであった[34]。1月21日、イギリスのバルフォア外相は軍縮委員会の設置を十人委員会に提議した。

軍縮委員会は軍縮の前提となるドイツの武装解除と動員解除を扱うことになったが、最初の案は受け入れられず、2月12日に連合軍最高司令官フェルディナン・フォッシュ元帥を委員長とする新たな軍縮専門委員会が設置された。フォッシュはラインラントへの永久的な駐兵と、ロシア内戦における白軍への援助を主張したが、ドイツ軍武装解除には積極的ではなく、ロイド・ジョージの唱える軍縮には否定的であった[35]。フォッシュ委員会はドイツに20万人の陸軍兵力保持と、徴兵制を認める草案を提出した。ロイド・ジョージはこの案に猛反発し、バルフォア外相とウィルソン陸軍参謀総長en:Sir_Henry_Wilson,_1st_Baronet)の同意を得た、陸海空を含めた全兵力20万人で志願軍制とする案を提出した。十人委員会でこの案は反対もなく採用されたが、軍縮委員会の軍人達は猛反発した。そこでフランス陸軍参謀本部がドイツ兵力を10万人に制限する案を策定し、フォッシュがこの案を3月10日の十人委員会に提出した。さらにドイツが軍備を調達する際には事前通告が必須であるという案も付属させた。イギリスはこれらの案があまりにドイツを無力化しすぎるとして反発したが、フランスは強硬であった。

ザール帰属問題

フランスは1814年に領有を認められていたが、その後のウィーン会議プロイセン王国の一部となったザール地方の領有を主張した。フランスは歴史的に根拠があり、住民もフランスへの統合を望んでいると主張し、さらにザール地方の炭鉱は賠償やフランス工業の再建のためにも重要であると主張した[36]。ロイド・ジョージは民族自決の概念に反すると併合には反対したが、ザールに自治国を建設して、炭鉱を賠償としてフランスに譲渡する折衷案を提案した[37]。しかしフランスの強硬姿勢に反発し、「フォンテーヌブロー覚書」発表後にこの意見を撤回した[38]。会議決裂寸前の状況でフランスはザールを15年占領するという妥協案を出すことでアメリカと合意した。イギリス反対したが、4月22日に合意が成立した[19]

ラインラント問題

ライン川左岸占領は安全保障の観点からフランスの切実な要望であった。フォッシュは1918年11月、ライン左岸に複数の相独立国を建国し、フランス・ベルギー・ルクセンブルクと同盟を組ませてドイツに対抗するという案をイギリスに提示していた。1919年1月10日には10人委員会に「ライン川をドイツ国境とし、ドイツ軍にライン川への接近を禁じた上で連合国軍がライン川各橋梁を永久占領する」という安全保障案を提示した[39]

3月14日、ロイド・ジョージとウィルソンはライン左岸の永久占領には応じられず、ドイツの侵略があった場合には英米が即座に軍事的保障を行う旨を伝達した。フランス政府はこれを協議したが、あくまで従来の主張を貫くことにした[40]。「フォンテーヌブロー覚書」発表後にフランスは保障案を受け入れてラインラント分離案を撤回したものの、占領期間を賠償支払い完了までとするなど長期占領を主張したため、会議は決裂寸前となった。しかしフランスはウィルソンを抱き込み、ライン左岸を5年から15年占領するという妥協案で合意した。イギリスはなおも反対したが、4月22日に合意が成立した[19]。後にロイド・ジョージはこの占領承認を平和条約の誤りの一つであったと回顧している[41]。一方でフォッシュにとってもこの譲歩は不服であり、クレマンソーとの対立の原因にもなった[42]

ロシア問題

会議開催中も、革命後のロシアに対する連合国軍の干渉はなお続いていた。連合国は共産主義に対する警戒だけではなく、帝政時代の外債不払い宣言を行ったこともあり、ボリシェヴィキ政府を容認できなかった。クレマンソーやフォッシュ、チャーチルやイギリス軍首脳はその急先鋒であり、軍事力でボリシェヴィキを打倒する方針を支持した。一方でロイド・ジョージとウィルソンは軍事干渉に反対し、ボリシェヴィキ政府、つまりソビエト政権との交渉も考慮に入れていた。

1月16日、ロイド・ジョージはロシアに成立した各政府に休戦を行わせ、代表をパリに招聘する提案を行った[43]。この提案はウィルソンの同意もあり、プリンキポ島に各政府代表を招集することが合意されたが、ボリシェヴィキ以外のロシア政府は招聘を拒否した[44]。この会議失敗は強硬派を勢いづかせたが、大戦で疲弊した英仏に強力な軍事干渉能力は無かった。ロイド・ジョージは秘密裏にボリシェヴィキ政府と連絡を取り、ウラジーミル・レーニンも連合国との休戦を望んでいたが、四人会議でそのことが話題になることはなかった[45]。おりしもハンガリーで革命政権(ハンガリー評議会共和国)が成立したこともあり、共産主義への警戒心を高めた連合国はポーランドとルーマニアに援助を行って共産主義の防壁となるよう働きかけた。またイギリスの新聞もロイド・ジョージをボリシェヴィキ寄りであると攻撃しはじめ、ロシアへの介入を主張するようになった[46]

5月になるとアレクサンドル・コルチャーク白軍が一時的な軍事的成功を見せた。5月26日に連合国は白軍への援助とロシアに対する干渉継続を決定した。

賠償問題

未回収のイタリア問題

イタリアは参戦当時の首相アントーニオ・サランドラ (en:Antonio Salandra)が 外交目的を「神聖なるエゴイズム」と称するように、イタリア統一運動で統一されなかったイタリア人居住地、すなわち「未回収のイタリア」の獲得のみを目標としていた[47]。イタリアはこの目的のために英仏露と交渉し、1915年4月26日にロンドン秘密条約を締結した。これによりイタリアは連合国側に立って参戦する代償として、オーストリア=ハンガリーからトレンティーノ=アルト・アディジェヴェネツィア・ジュリア、北部ダルマチアと付近の島嶼、ヴェローナを獲得し、さらにアルバニア保護国とすることが決められた。またイタリア人が多く居住していたフィウーメに関してはクロアチアセルビアモンテネグロに与えることになった[48]。しかしイタリア議会では参戦反対派が圧倒的優勢であり[49]、サランドラはガブリエーレ・ダンヌンツィオや新聞を扇動して参戦世論を高めさせ、「未回収のイタリアのための民族戦争」と位置づけることでようやく参戦にこぎつけた[50]

イタリアのオルランド首相は4人会議の一人を占める扱いを受けたが、イタリアの要求は全てが通ったわけではなかった。秘密外交を排斥するウィルソンはロンドン秘密条約を認めず、フィウーメのイタリア領有を拒否した。オルランドは抗議のため4月24日に帰国し、5月5日まで会議に出席しなかった。この結果に激怒したダンヌンツィオは9月12日にフィウーメを武力占領し、一時独立国を建設した(en:Italian Regency of Carnaro)。

山東問題

中華民国を「姉妹共和国」としていち早く承認したウィルソンは、外交団や米国人宣教師の影響で中国に強い関心を持っていたが、日本にはほとんど興味や知識を持っていなかった[51]。 1914年10月31日に日本は大戦中にドイツの山東省青島基地を攻撃(青島の戦い)した後、中華民国に対して21か条の要求を突きつけ、ドイツ権益の譲渡を認めさせた。この後1915年に山東権益の譲渡に関して、日独間で条約が締結された場合には中華民国が無条件で承認する条約、1917年には山東鉄道経営の日中合弁化を定めた条約を締結した[52]。また本野一郎外相の主導でこの後に英仏と秘密条約を締結し、この権益譲渡は連合国の承認事項となった。アメリカはこの21か条要求が明らかになると強硬に抗議し、日中条約についても不承認の姿勢を取った。さらにシベリア出兵における日本の独走は、ウィルソンに決定的な悪印象を与えた[53]

原敬首相時代に設置された臨時外交調査会は、本野外相の病死によって英仏との秘密条約の規定が不明になったこともあり、大隈首相が山東占領以前に主張していたとおり、山東権益の対中還付を提案した。原首相も同意し、一部の経済権益を残して還付することが決定された。しかしその方法については一度ドイツから権益の譲渡を受けた後に中国に返還する方式をとることになり、講和条約にはドイツから日本側への権益譲渡のみを明記させる方針となった[52]。一方ウィルソンは、対日強硬派であり中華民国への援助を強調する駐華公使ポール・ラインシュの意見を重視しており、日本の外交姿勢を自らの「新外交」を阻害する要因と考え、原内閣の外交転換を表面的な物としか受け取っていなかった[54]。またランシング国務長官もシベリア出兵以降、対日強硬派の立場を強めていた。こうしたこともあり「すこぶる反日的」と評されたウィルソンらの姿勢は、日本との妥協を行う姿勢にはなかった[55]。また中華民国側はウィルソンの14か条の原則を緩用して、中国に課せられた勢力範囲や治外法権等の撤廃を求める方針であった。このため駐米公使顧維鈞をはじめとする中華民国外交団は、積極的な広報活動を行って、アメリカにおける中国支持の風潮を高めさせた。1918年11月26日に顧維鈞と会談したウィルソンは、中華民国全権との協調を約束した[56]。この状況を見た日本の内田康哉外相は、12月に陸徴祥外交部長と会談し、中国の不平等状態の改善への協力と、講和会議での日中協調行動を合意した[57]

1919年1月17日、日本は十人委員会で大戦中の日中条約などを根拠として山東権益の無条件譲渡を主張した。翌1月18日、中華民国全権の顧維鈞は日本の山東奪還には謝意を示したものの、日中条約が苦境の際に結ばれたとしてその無効を主張し、ドイツから中華民国への直接還付を主張した。この顧維鈞の主張に驚いた日本側は中華民国政府に抗議を行ったが、この動きはかえってマスコミによって日本が中華民国政府を脅迫しているという報道をかき立てた。さらにアメリカにも日本に不利な報告が相次ぎ、日本政府への抗議や中華民国全権に毅然とした対応を取るよう助言を行った[58]。牧野は日本への譲渡を講和条約に記載させる必要はないと考えていたが、原首相や外交調査会は絶対に譲れないと考えていた。また日中条約には満州の利権に関する規定も含まれており、同条約の無効化は日本の中国利権を根底から喪失させかねないものであった。このため「同島(青島)は我武力によりて占領し、また日支条約は支那が参戦前に締結したるものなるに因りて、絶対に我が要求を貫徹せしめざるべからず」という考えのもと、「帝国政府の最終の決定にして、何等の変更を許さざる次第に付」、もし容れられない場合には国際連盟への参加を蹴ってでも要求を貫徹するよう訓令した[59]

4月10日、アメリカ全権団は山東権益の直接還付を支持する方針を決定した。ところが1915年の条約を前提とした1918年の日中条約において中華民国が日本側から金銭を受け取っていたため、条約が無効であるとみるのは困難となっていた。そのためランシング国務長官は山東権益を米英仏伊日の五ヶ国の管理委員会に移し、しかる後に処理を決定するという案を提案し、ウィルソンもこれに同意した[60]。4月18日、四人会議でウィルソンが日本側にこの提案を説明することが合意された。ウィルソンは日本の牧野・珍田両全権と会談し、山東権益を連合国全体に渡すという案を提示したが、日本側は中国側の強力なプロパガンダにより、山東問題が極東における一大政治問題と化したため、譲歩は不可能であると述べ、「条約に調印することが不可能になるかもしれない」と強硬に拒否した[61]。一方で日本の外交姿勢が変化していることも説明し、中国における勢力範囲の撤廃にも協力する旨を伝えた[62]

4月22日の四人会議に日本の牧野・珍田両全権が招待され、山東問題の協議が行われることになった。ロイド・ジョージは英仏秘密条約をもとに日本支持姿勢をほのめかしたが、講和条約に山東権益譲渡を明記すれば、イギリス帝国内の自治領も同様な提案を行って会議が混乱するとして、日本の理解を求めた。日本全権はこれを拒否し、日中条約にある「中国への義務」が認められなければ、条約に署名できないと明言した。この会談中にウィルソンはかつての管理案を提示することもなく、日本側の山東権益の説明を聞くのみであった[63]。同日午後には中華民国全権を招いた四人会議が開催された。中華民国全権は日中条約の無効と直接還付を再度訴えた。しかしウィルソンの態度は変化しており、条約の神聖性を説き、中国の待遇改善は国際連盟で行うと告げた。ロイド・ジョージも残された対応は旧ドイツ権益のみを譲渡するか、日中条約による権益譲渡を行うかしかないと告げた。中華民国全権は「中国はドイツの野望の対象ではなかった」とまで主張したが、ウィルソンはドイツの野望は疑いもなく東洋支配を含んでいたと、この見解を却下した[64]

ウィルソンはフィウーメ問題での自らの対応との違いを嘆いたが、これ以降ウィルソンは日本への無条件譲渡を認めた動きを展開していくことになった。このウィルソンの変化は、英仏との秘密条約の強固さと、日本の強硬姿勢に抗しきれなかったためであるとする見方が一般的である[65]。ただし、ウィルソンはその後も日中条約を承認せず、日本全権との会談ではその有効性に疑義を呈する発言を行っている[66]。ウィルソンの変化を見たランシングらアメリカ全権内の有力者は日本の調印拒否は「ブラフ」であるとして「目先の利益のために中国を見捨て、極東におけるアメリカの威信を投げ出すよりは、日本を連盟の外に置いた方がいい」と強硬姿勢の貫徹を主張した[67]

4月29日と30日に、四人会議における山東問題の最終協議が行われ、日中条約との関係を薄くする形で間接還付を行う方針が決定された。5月4日、日本全権は日中条約に言及しない形で山東の全権益を中国に還付する旨の声明を行い、ヴェルサイユ条約には山東権益の日本への譲渡が明記されることになった[68]。山東問題での譲歩は、ウィルソンに対する不信感を起こすこととなり、議会でのウィルソン攻撃の材料となるとともに、代表団の一部がウィルソン支持から撤退した。このためアメリカ上院で条約に対する支持も得られず、条約批准失敗につながる一因ともなった[69]。この結果に中国では激しい反発が起き(五・四運動)、中華民国代表もヴェルサイユ条約に調印は行わなかったが、サン=ジェルマン条約に署名したことで国際連盟に参加することになった[70]

講和会議後、二国間での還付交渉を求める日本側に対し、中華民国は国際会議での解決を望み、拒否し続けた。これにはアメリカがヴェルサイユ条約の批准を行わなかった事に対する過度な期待があり、顧維鈞などの海外公使の意見は悲観的であった[71]。結局山東問題の解決は1922年のワシントン会議まで持ち越されることになる。

トルコ問題

人種差別撤廃案

当時アメリカ・カナダ・オーストラリアでは日本人移民、及び日系アメリカ人に対する排斥運動が起こっていたこともあり(のちに排日移民法までもが成立)、国際連盟構想が明らかになると日本のマスコミや黒龍会等の団体が人種差別撤廃を講和条件に盛り込むよう強く主張するようになった[72]。ただしこの意見が政治家を動かしたということはなく、政府が人種差別撤廃提案を取り入れることになった経緯はいまだに明確になっていない[73]。当時の外務省には石井菊次郎駐米大使のように国際正義が主張される講和会議で移民排斥不当を「表明」すること自体に意味があるという考えと、小村欣一アジア課長のように人種平等の提案を成すことで、国際組織で平等の立場を勝ち取り、日本の印象を平和的なものとし、対中融和をスムーズに行うという考えもあった。最終的に外務省がまとめた案では、人種平等の要求明確化よりも、国際的時流に乗ることを重要とする物となっていた[74]

日本代表団はまずアメリカに働きかけることとし、ランシング国務長官とウィルソン側近のハウス大佐に、連盟規約に挿入する人種差別撤廃条項として甲案と乙案の二案を提示した。ランシングは乙案に賛意を示し、ハウス大佐の感触も上々であった[75]。次に接触したイギリスでは、オーストラリア、ニュージーランドの自治領、特に白豪主義を国是とし、労働問題を抱えるオーストラリアが強硬に反発したため、合意は得られなかった[76]。その後イギリスのセシル元封鎖相やバルフォア外相とも協議を行ったが、本国の諒解が得られないとして消極的であった。会議の状況を聞いた原首相も「この事元来成功するや否や覚束なき事柄」と、提案の成功には悲観的であった[77]

日本は2月13日に国際連盟委員会で「各国均等の主義は国際連盟の基本的綱領なるに依り(中略)、連盟員たる一切の外国人に対し均等公正の待遇を与え人種或は国籍如何に依り法律上或いは事実上何等差別を設けざることを約す」という条文を、宗教の平等を唱えた連盟規約21条に付け加えるよう提案した[78]。この日の提案ではチェコスロバキア、ルーマニア、ブラジルのみが賛成であり、さらに宗教規定自体が取り除かれることが多数決で決まり、人種差別撤廃提案は別の形で提出することとなった[79]

この提案が報道されると、日本では提案に対する期待が高まり、アメリカでは内政干渉であるとして反発が高まった。アメリカ上院は人種差別撤廃提案が採用されれば条約を批准しないという決議を行い、ウィルソンもこれに従わざるを得なくなった[80]。オーストラリアのヒューズ首相も会議中に退席するほど強硬であり、日本の主張が入れられれば署名を拒否して帰国すると発言した。ヒューズの態度はイギリス連邦の首脳からも「狂人と評するほかない」[81]と評されるほどであった。イギリス、カナダ、ニュージーランドは牧野の接触で日本支持に傾きつつあったが、ヒューズの強硬姿勢をみて反対の立場に戻っていった[82]。イギリスは英連邦内の団結を維持する必要があり、総選挙を控えて譲歩ができないヒューズの強硬姿勢に従わざるを得なかった[83]。日本政府も提案成立は困難であると見るようになり、犬養毅伊東巳代治のように連盟脱退を唱える者も現れた。

4月11日、日本は再度提案を行い、連盟規約前文に「各国民の平等及びその国民に対する公正待遇の主義を是認する」という一文を挿入するように求めた。イギリス、オーストラリアが反対する中、議長ウィルソンは「本件は平静に取り扱うべき問題」であるとして、提案自体の撤回を求めた。牧野は採決を求め、イギリス、アメリカ、ポーランド、ブラジル、ルーマニアが反対したものの、フランス、イタリア、ギリシャ、中華民国、ポルトガル、チェコスロバキアが賛成に回り、出席者16名中11名の賛成多数を得た。しかしウィルソンは「全会一致でない」としてこの採決を不採択とした。牧野は「会議の問題につきては多数決に依りて決定したことあり」として、多数決による採択を求めたが、ウィルソンは「本件の如き重大なる事件の決定については、従来とも全会一致、少なくとも反対者なきことを要するの趣旨によりて議事を取り扱い来たれる」と重大案件は全会一致で行ってきたと反論し、牧野もこれを受け入れた。牧野は議案を撤回するかわりに、提案を行ったという事実と採決記録を議事録に残すことを要請し、受け入れられた[84]

日本国内では失望の意見や連盟脱退を叫ぶ声が高まり、伊東ら強硬派は牧野の欧米協調的な言動を軟弱であると非難した。また山東問題の解決と人種差別撤廃提案の撤回が同時期であったため、各国から「人種差別撤廃提案を取引材料に使った」「そもそも提案自体が煙幕であった」という非難もあびることになった[85]。しかし原首相は牧野を擁護し、日本は国際連盟参加、講和会議成立の協調路線を維持することになった[86]。一方で欧米に対する不信感は大川周明などの国家主義者やアジア主義者に根付き、対米協調に反発する政治団体が多数生まれることとなった[87]。随員の一人であった近衛文麿も「英米本位の平和主義を排す」という論文を発表し、注目を集めることになった。

その他の問題

ハンガリー問題

1918年10月にハンガリーでは反オーストリア暴動が起こり、オーストリア=ハンガリー帝国皇帝カール1世もハンガリーに対する支配権を放棄した[88]。その後ハンガリーにはカーロイ・ミハーイを首相とする共和政府が樹立されたが、旧ロシア帝国軍の捕虜となり、収容所で訓練を受けた共産主義者達が帰国したため、急速に左傾化を強めていた。カーロイ首相は親連合国感情の持ち主であったが、連合国は3月20日にルーマニアにトランシルヴァニア全土の占領を認める旨を通告した。この通告をうけたカーロイは辞職して新たな政権作りを模索したが、政権内の一部が共産党と連合し、3月21日に共産主義政権、ハンガリー評議会共和国が成立した[89]。革命の動きがハンガリーからオーストリア、南ドイツに波及することを恐れた連合国首脳は、ヤン・スマッツ南アフリカ国防相をブダペスト・ウィーン・プラハに派遣して革命政権を牽制した。4月からは評議会政権とルーマニア・チェコスロバキアは戦争状態に陥り、8月に評議会政権は崩壊した。このためハンガリーとの講和は1920年まで遅れることになった。

チェシン問題

チェコスロバキア・ポーランド間にあったチェシン・シレジア英語版(現在のチェシンチェスキー・チェシーン)は、両国から領有権主張があり(ポーランドとチェコスロバキアの国境紛争英語版)、1919年1月には両国間で戦闘が発生している(ポーランド・チェコスロバキア戦争英語版)。両国は十人委員会に裁定を求めたが、両国間で決着するべきと回答された。7月の両国間協議でポーランドは住民投票を提案したが、チェコスロバキア側は拒否した。十人委員会は住民投票を命令したが、現地は暴動状態となり、投票は中止された。1920年7月のスパ会議英語版後の7月28日に行われた合意により、チェシン中央部を流れる川を境界にチェシンを分割することで妥協が成立した。

独立要求

ウィルソンの「民族自決」論は、当時他国の統治下にあった諸民族や分離主義者に独立への希望を抱かせた。ベトナムの安南愛国者協会ホー・チ・ミン)、朝鮮新韓青年党金奎植)、ラインラント共和国、アイルランド共和国暫定政府ショーン・オケリーマイケル・コリンズ)、ウクライナ人民共和国などは独自に代表を送ったが、多くの場合独立は達成されなかった。

主要国家の姿勢と対応

イギリス

ロイド・ジョージは1918年12月20日に選挙の最終綱領として、カイザー(ヴィルヘルム2世)の裁判、残虐行為責任者の処罰、ドイツからの最も完全な償金、戦争で破壊されたものの再建を訴えた[90]。また、裏面では海上におけるイギリスの優位確保のため、ドイツ艦隊の解体とドイツ植民地獲得を希望していた。さらに伝統的な勢力均衡政策に基づき、ドイツ・オーストリア=ハンガリー、ロシアの三帝国崩壊により均衡を失った欧州でフランスの覇権が確立するのを防ぐため、過度なドイツ制裁には反対していた[91]

フランス

クレマンソー首相の唯一の関心はフランスの安全保障であり、「武力は失敗である」とするウィルソンの理想主義とは全く相容れないものであった[92]。特にフランスはドイツと地続きであり、イギリスやアメリカとは対独警戒心に大きな開きがあった。フランスは安全保障の目的のため次の数点を強く要求していた[93]

  • フランスによるラインラントの軍事管理
  • この管理を維持するための大国間の永久同盟
  • ドイツを牽制する東部における小国同盟
  • ドイツの領土縮小
  • ドイツ政治組織の弱体化
  • ドイツのみの軍縮
  • 履行不能な賠償金
  • ドイツ経済資源の収奪
  • フランスに有利でドイツに不利な経済協定の締結

日本

日本が「平和記念」として発行した3銭切手

日本の講和準備

日本政府は参戦間もない1914年10月から講和に対する準備を開始した。この委員会ではドイツからの権益獲得、賠償金など日本に実利のあることについては検討が加えられたが、利害のないことに口を出せば、列強による極東への介入を招く危険があるため、「容喙せざること」が基本方針であり、手続き論については大勢に順応するという方針であった[94]。この方針は政府にそのまま採用され、その後の連合国会議でも蹈襲されたが、1918年のウィルソンの14か条発表とそれを元にした休戦発表は、日本政府と外務省の検討・研究不足をあらわにした。特に国際連盟については「皆目分からず、多いに手を焼いた」状況であった[95]。このため原敬首相は11月13日に臨時外交調査会を設置し、国際連盟などについて研究と討議を開始した。

国際連盟案については伊東巳代治枢密顧問官平田東助枢密顧問官は懐疑的であり、牧野伸顕前外相のみ積極的であった。原首相は牧野案に理解を示したが、特に強い関心を示したわけではなかった[96]。対中強硬策をとってきた大隈重信寺内正毅内閣と異なり、原首相は対米融和を志向しており、牧野や外務省も同様であった。また当時の日本では陸軍出先機関が独走し、袁世凱打倒工作や実業家西原亀三を利用した工作を外務省の頭越しに行うという二重外交問題が発生しており、ウィルソンの「新外交」は外交一元化を唱える外務省にも有利であった[97]。12月22日に外交調査会は山東および南洋諸島のドイツ権益獲得を核心問題とし、その他の問題には「大勢の帰向を省察し、なるべく連合与国(大国)と歩調を一にする」という最終的な講和方針を確定した[98]

「5大国」の日本以外の4カ国は距離的、歴史的に関係が深いだけでなく、主な戦場となったヨーロッパ戦線で戦い、大戦中から戦略会議を開いていたという関係があり、ここに距離的に遠い上にヨーロッパ戦線において地上戦を戦わなかった日本を加える予定はなかったが、アジア太平洋地域における地上戦やヨーロッパ戦線における海戦での貢献が認められたことや、珍田捨巳駐イギリス特命全権大使他の根回しで日本代表も含むこととなった。

日本の全権は政権与党である立憲政友会前総裁で元首相元老でもある西園寺公望侯爵(個人的にもクレマンソーフランス首相とは親友であった[99])及び牧野伸顕元外相らが任命され64人の代表団を送った。

日本代表は五大国のひとつとして十人委員会のメンバーとなったが、日本代表は山東問題など利害が関係しない案件では発言数が少なく、国際協調に消極的な「サイレント・パートナー」と揶揄された。さらに現役首脳を派遣できなかったために会議で直接賛否を著わすことが出来ず、採決では留保した後に本国に問い合わせる有様であった[100]。 

影響

この会議で制定された一連の講和条約が結ばれ第一次世界大戦は終戦することになる。これ以降ヨーロッパにおいては「ヴェルサイユ体制」と呼ばれる秩序が、ロカルノ条約で修正されながらも、世界恐慌期後のファシズム勢力台頭まで続くことになる。また講和会議の結果成立した国際連盟や国際労働機関の設立、国際河川制度の確立などの国際協力の動きは現代にも大きな影響を与えている。

また会議で提起された軍縮問題は、ワシントン会議等で協議されたが、日本とその他の国の軋轢を生むことになる。

アメリカ

講和会議の中でウィルソンとランシング、エドワード・ハウスといった閣僚・側近との溝は広がり、条約批准という山場を迎える中ウィルソンは孤立を深めていくこととなった。

国際連盟規約10条には加盟国が侵略を受けた際、アメリカを含む国際連盟理事会が問題解決に義務を負うと言う規定が存在し、アメリカ合衆国上院の外交問題委員会はこの条項に留保条件を付けることを主張した。しかしウィルソンは妥協に応じず、上院での批准は成立しなかった[101]。さらにウィルソンが脳梗塞で病身となったこともあり、1920年アメリカ合衆国大統領選挙では共和党ウォレン・ハーディング民主党ジェイムズ・コックスを大差で破った。ハーディングは国際連盟不加盟を決め、独自の講和条約(1921年8月11日の米独平和条約、8月24日に米墺平和条約、8月29日に米洪平和条約)を結んだアメリカは再びモンロー主義に回帰していくことになる。

陸軍・海軍・国務省では、山東問題や南洋諸島を獲得した日本への警戒が増加し、1920~1921年の建鑑競争を招くこととなった[102]

イギリス

戦争に勝利したものの、膨大な戦費によってイギリス経済は深刻な不況を迎えることになる。また膨大な人員を提供したイギリス帝国内の自治領の発言力が増大し、帝国は緩やかな連合であるイギリス連邦へと変化していくこととなった。

フランス

講和条約の結果、フランスはドイツの賠償支払いの大半を手に入れることとなったが、ドイツの支払いはスムーズに行われず、また賠償として流入するドイツの産品が帰ってフランス国内の産業を圧迫することに繋がった。またパリ講和会議で一応成立したフランスの安全保障構想は、アメリカの連盟不参加により、早くも見直しを迫られることとなった。フランスはポーランドやルーマニア・チェコスロバキア・ユーゴスラビア間の連合小協商に接近し、東からドイツを牽制した。

ドイツ

イタリア

フィウーメを得られなかったイタリアでは、講和に対する反感が次第に強まった。1919年9月12日、愛国派詩人ガブリエーレ・ダンヌンツィオらのグループがフィウーメを占拠し、イタリアへの併合を訴えた。国際関係悪化を恐れたイタリア政府は投降を求めたが、ダンヌンツィオらはフィウーメの独立を宣言した(自由都市フィウーメ)。この動きはベニート・ムッソリーニらのファシズム運動にも影響を与え、イタリアとユーゴスラビア間での領土問題はこの地域の不安定要因となった。

ポーランド

パリ講和会議の結果、100年ぶりの独立を回復したポーランドだったが、住民投票で帰属を決定する地域ではドイツとの間で熾烈なプロパガンダ合戦や、武力抗争が頻発した(シレジア蜂起)。住民投票の結果、ポーランドはシレジアの工業地帯を手に入れ、ドイツにおける領土回復運動の目標となった。

旧オーストリア=ハンガリー帝国

膨大な領土を失ったオーストリアは、深刻な経済不況に見舞われた。このため国際連盟による援助がいち早く行われ、賠償も免除されている。講和会議終了後の8月になってハンガリー・ルーマニア戦争は終結し、トランシルヴァニアの帰属はルーマニアに確定した。1920年3月に成立したハンガリー王国では失地回復を願う声が高まり、政権の右傾化が強まった。

独立を果たしたチェコスロバキアであったが、ドイツ・オーストリアとのズデーテン地方問題、ポーランドとのチェシン問題は後々まで紛争の原因となり、チェコスロバキア解体の遠因となった。

バルカン半島

セルビア王国主導のユーゴスラビア王国樹立は列強によって事実上承認され、汎スラヴ主義者の念願が達成された。しかしクロアチアモンテネグロマケドニア等ではセルビア人と王家カラジョルジェヴィチ家への反感が高まり、反政府蜂起や暗殺事件が頻発した。この地域の民族問題は第二次世界大戦とその後の不安定要因となり、ユーゴスラビア紛争が終結する21世紀まで尾を引くこととなった。

旧ロシア帝国

内戦が続くロシアに対する列強の足並みはそろわず、シベリア出兵が行われたものの、ボリシェヴィキ政権のソビエト連邦成立を防ぐことは出来なかった。また旧ロシア帝国からのアルメニア民主共和国フィンランドバルト三国の独立は承認されたものの、連合国がこれらに積極的な支援をすることはなく、アルメニアやバルト三国はソビエト連邦の圧迫を受け、独立を失うこととなった。

トルコ・中東

敗戦によって統一と進歩委員会政権は瓦解し、スルタンメフメト6世は連合国軍を利用して皇帝専制の復活を目論んだ。しかしムスタファ・ケマルらは1920年4月23日、アンカラ大国民議会を設置し、帝国政府に対抗した。帝国政府は8月10日にパリ講和会議の結果をふまえたセーヴル条約を締結したが、この過酷な内容は講和条約を受諾した皇帝に対するトルコ国内の反発を招いた。

1921年1月6日、コンスタンティノス1世率いるギリシャ軍は、さらなる領土を狙って進軍を開始した(希土戦争 (1919年-1922年))。ムスタファ・ケマルらの大国民議会軍はギリシャ軍を圧倒し、1922年11月1日にはスルタン制が廃止され、トルコ共和国が成立した。連合国は新たな講和条約締結する必要に迫られ、1923年7月24日にローザンヌ条約を締結した。トルコはセーヴル条約で失った領土の内東トラキアを回復し、ギリシャとの住民交換を行われ、民族問題が緩和された(ギリシャとトルコ間での住民交換)。

またオスマン帝国の支配地であったシリア・レバノン・メソポタミアはサイクス・ピコ協定通り英仏に分割され、その治下で民族主義者が新たな政権樹立をめぐって争うこととなる。

日本

パリ講和会議の結果、日本は正式な列強の一つと数えられるようになった。しかし山東問題での対応は、アメリカと中華民国の警戒を招くことになった。ワシントン会議ではアメリカの主張で日英同盟は廃止され、国際連盟での協調にも失敗した日本は孤立化の道を歩むことになる。

中華民国

中華民国は山東問題の扱いを不服としてヴェルサイユ条約を調印せず、1922年5月15日に中独平和回復協定を締結してドイツと講和した。またヴェルサイユ条約を不服とする民衆が大規模な抗議運動(五四運動)を起こし、日貨排斥を訴える動きが広がった。対日感情は山東還付の後も改善されず、二国間関係は悪化の一途をたどることになる。

脚注

  1. ^ 吉川宏、1、292p
  2. ^ 吉川宏、1、305-306p
  3. ^ 吉川宏、1、287p
  4. ^ 吉川宏、1、288p
  5. ^ 吉川宏、1、288-289p
  6. ^ 5大国は5人、ベルギー、ブラジル、セルブ・クロアート・スロヴェーンは3名、他の国は2名から1名
  7. ^ 牧野雅彦, 2009 & p.148-151.
  8. ^ 吉川宏、1、346p
  9. ^ a b 牧野雅彦, 2009 & p.148.
  10. ^ General Gvozdenovic statement on Paris Peace Conference
  11. ^ 条約受諾に反対して辞任
  12. ^ 吉川宏、1、330-331p
  13. ^ 吉川宏、2、510p
  14. ^ 吉川宏、1、348p
  15. ^ 吉川宏、2、520p
  16. ^ 吉川宏、2、525p
  17. ^ 吉川宏、2、537-539p
  18. ^ 吉川宏、2、543p
  19. ^ a b c 吉川宏、2、543-544p
  20. ^ 牧野雅彦, 2009 & p.179.
  21. ^ 牧野雅彦, 2009 & p.192.
  22. ^ 牧野雅彦, 2009 & p.197-198.
  23. ^ 牧野雅彦, 2009 & p.201-202.
  24. ^ 牧野雅彦, 2009 & p.221.
  25. ^ 清水正義、2003、144p
  26. ^ 清水正義、2003、145p
  27. ^ 清水正義、2003、151p
  28. ^ 吉川宏、2、461p
  29. ^ 吉川宏、2、473p
  30. ^ 。吉川宏、2、474-475p
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関連項目

外部リンク