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「フィリップ4世 (フランス王)」の版間の差分

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{{基礎情報 君主
{{Otheruses|フランス王のフィリップ4世|ブルゴーニュ公のフィリップ4世|フェリペ1世 (カスティーリャ王)}}
| 人名 = フィリップ4世
{{出典の明記|date=2009年8月13日 (木) 02:14 (UTC)|ソートキー=人1314年没}}
| 各国語表記 = {{Lang|fr|Philippe IV}}
[[ファイル:Philippe IV Le Bel.jpg|right|thumb|フィリップ4世]]
| 君主号 = [[フランス君主一覧|フランス国王]]<br>[[ナバラ君主一覧|ナバラ国王]]
'''フィリップ4世'''(Philipe IV、[[1268年]] - [[1314年]][[11月29日]])は、[[フランス王国|フランス]][[フランス君主一覧|王]](在位:[[1285年]] - 1314年)。[[フィリップ3世 (フランス王)|フィリップ3世]]と最初の王妃[[イザベル・ダラゴン]]の子。整った顔立ちのため「'''端麗王'''」(le Bel、ル・ベル)と称される。
| 画像 = Bézard - Philippe IV le bel.jpg
| 画像サイズ =
| 画像説明 = フィリップ4世
| 在位 = フランス王:[[1285年]] – [[1314年]][[11月29日]]<br />ナバラ王:[[1284年]] – [[1314年]][[11月29日]]<br />シャンパーニュ伯[[1284年]] – [[1305年]]
| 戴冠日 =
| 別号 = [[ナバラ君主一覧|ナバラ国王]]、[[シャンパーニュ伯]]
| 全名 =
| 出生日 = [[1268年]]4月/6月
| 生地 = [[File:Flag of France (XII-XIII).svg|border|25x20px]] [[フランス王国]]、[[フォンテーヌブロー]]、[[フォンテーヌブロー宮殿]]
| 死亡日 = [[1314年]][[11月29日]](46歳没)
| 没地 = [[File:Flag of France (XII-XIII).svg|border|25x20px]] [[フランス王国]]、[[フォンテーヌブロー]]、[[フォンテーヌブロー宮殿]]
| 埋葬日 = [[File:Flag of France (XII-XIII).svg|border|25x20px]] [[フランス王国]]、[[サン=ドニ大聖堂]]
| 埋葬地 =
| 配偶者1 = [[フアナ1世 (ナバラ女王)|ナバラ女王フアナ1世]]
| 子女 = {{Collapsible list|title=一覧参照|マルグリット<br />[[ルイ10世 (フランス王)|ルイ10世]]<br />[[フィリップ5世 (フランス王)|フィリップ5世]]<br />[[イザベラ・オブ・フランス]]<br />[[シャルル4世 (フランス王)|シャルル4世]]<br />ロベール}}
| 王家 = [[カペー家]]
| 王朝 = [[カペー朝]]
| 父親 = [[フィリップ3世 (フランス王)|フィリップ3世]]
| 母親 = [[イザベル・ダラゴン]]
| 宗教 = [[キリスト教]][[カトリック教会]]
| サイン =
}}
{{Commonscat|Philip IV of France|フィリップ4世}}
'''フィリップ4世'''({{Lang-fr|Philippe IV}}、[[1268年]]4月/6月 - [[1314年]][[11月29日]])は、[[フランス王国|フランス]][[フランス君主一覧|王]](在位:[[1285年]] - 1314年)、および[[ナバラ王国|ナバラ]]王としては'''フェリペ1世'''({{Lang-eu|Filipe I.a}}、在位:1284年 - 1305年)。整った顔立ちのため「'''端麗王'''」(le Bel、ル・ベル)と称される<ref name=fujita>[[#藤田|藤田(1995)pp.106-109]]</ref>。


官僚制度の強化に努め、[[絶対王政]]への端緒にた。対外的には豊か[[フランドル]]の支配を目指し、フランドル都市市民と激しく争った。また、[[ローマ教皇]]と激しく対立し、フランス国内の支持を得て[[アナーニ事件]]を起こし、最終的に教皇権を従え[[教皇庁]]をアヴィニョンに移し教皇の[[アヴィニョン捕囚]])[[テンプル騎士団]]を異端として弾圧・解体たため、後世悪評を得ることなった。
官僚制度の強化に努め、やがて[[絶対王政]]へとつがる[[中央集権]]化の第一歩を踏み出した。対外的には、[[毛織物]]業で栄え経済的に豊かであった[[フランドル|フランドル地方]]の支配を目指し、フランドル都市市民と激しく争った。[[教皇|ローマ教皇]]と対立し、フランス国内の支持を得て[[アナーニ事件]]を起こし、最終的には[[教皇|教皇権]]王権に従え[[教皇庁]]を[[アヴィニョン]]に移し([[アヴィニョン捕囚]]、または「教皇のバビロン捕囚」、ま[[テンプル騎士団]]を[[異端]]として弾圧し、解散に追い込み、後世「教皇を憤死させた王」として一部より悪評を得ることなった<ref name=fujita/>。これらはそれぞれ、教会の徴税権に対する権益拡大と騎士団財産の没収を意味した。また、フィリップは[[パリ高等法院]]を創設して売官できるようにしたり、[[三部会]]を設置して市中からも資金を吸い上げたりした。フィリップは[[封建社会|封建関係]]の頂点に立ち、国家の防衛や国益のために従来の慣習を超えて行動した<ref name=fujita/>


== 結婚・即位 ==
== 生涯 ==
=== 生い立ち・結婚 ===
[[ファイル:Philippe IV le Bel.jpg|thumb|right|180px|フィリップ4世]]
[[1284年]]に[[ナバラ王国|ナバラ]]女王ジャンヌ([[フアナ1世 (ナバラ女王)|フアナ1世]])と結婚し、ナバラ王国と[[シャンパーニュ伯]]領を支配下におさめた。シャンパーニュ伯領は本領である[[イル=ド=フランス]]と隣接しているため、これらの統合を図ることにより王の直轄領は非常に強化されることになった。
1268年、[[フィリップ3世 (フランス王)|フィリップ3世]]と最初の王妃[[イザベル・ダラゴン]]の子として生まれる。[[1276年]]に兄のルイが薨去したため、幼少時より次期フランス王として育てられた<ref name=fujita/>。[[1284年]]に[[ナバラ王国|ナバラ]]女王ジャンヌ([[フアナ1世 (ナバラ女王)|フアナ1世]])と結婚し、ナバラ王国と[[シャンパーニュ伯]]領を支配下にめた。シャンパーニュ伯領は本領である[[イル=ド=フランス]]と隣接しているため、両者の統合を図ることにより王の直轄領は非常に強化されることになった。


[[1285年]]に、[[アラゴン王国|アラゴン]]遠征の帰りに病没した父[[フィリップ3世 (フランス王)|フィリップ3世]]の後を継いで即位した。
[[1285年]]に、[[アラゴン王国|アラゴン]][[十字軍]]の遠征の帰りに病没した父[[フィリップ3世 (フランス王)|フィリップ3世]]の後を継いで即位した<ref name=fujita/>。なお、アラゴンとの争いは[[ナポリ王国|ナポリ]]王[[カルロ2世 (ナポリ王)|カルロ2世]]に対する義理立てであり、[[1291年]]に条約を結んで終結している


=== 治世 ===
従来の聖職者に代えて世俗の法曹家を官僚に採用するなど、官僚制度の強化に努め、中央集権化を進めて[[絶対王政]]への端緒になった。
フィリップ4世の治世は中世ヨーロッパ王権における一つの転換期となっており、それまで普遍性を主張してきたローマ教皇や[[神聖ローマ皇帝]]の権威が相次いで衰退した時期にあたる<ref name=fujita/>。フィリップ4世はこれらに代わって君主権の強化をはかり、従来の聖職者に代えて「レジスト」と称される世俗の法曹家を官僚に採用するなど官僚制度の強化に努め、中央集権化を進めて近代的な国家形成の先がけとした<ref name=fujita/>。


教皇のアヴィニョン捕囚(教皇のバビロン捕囚)やテンプル騎士団の解散など従来の教会権力に対し、強大なフランス王権の存在を誇示したが、最晩年には国王に対する[[封建領主|封建諸侯]]の反動が起こり、[[イングランド王国|イングランド]]王との領土問題も未解決のまま残され、後代に課題を残した<ref name=fujita/>。
アラゴンとの争いは、[[ナポリ王国|ナポリ]]王[[カルロ2世 (ナポリ王)|カルロ2世]]への義理立てであり、[[1291年]]に条約を結んで終結している。


=== イングランド王・フランドル市民との戦い ===
[[1294年]]から[[1299年]]まで[[アキテーヌ|ギエンヌ]]において[[イングランド王国|イングランド]]王[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]と争ったが、エドワード1世の関心は[[スコットランド王国|スコットランド]]にあり、フランスでの戦争は望んでいなかったため、フランス王への臣従と[[ガスコーニュ]]の確保で和睦した。
[[1294年]]、フィリップ4世はフランス南西部[[ガスコーニュ]]や北東の[[フランドル]]に勢力を伸ばそうとして、イングランド王[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]を相手に戦争を開始した<ref name=fujita/>。


1294年から[[1299年]]まで続いたギュイエンヌ([[アキテーヌ]])の戦いでは、エドワード1世の関心が[[スコットランド王国|スコットランド]]に向けられ、フランスでの戦争は望んでいなかったため、アキテーヌ公としてフランス王に臣従することとガスコーニュの確保で和睦した。
== フランドルの争い ==
フィリップ4世の関心は経済的に豊かだった[[フランドル]]にあり、[[1297年]]からフランドルの都市市民やそれを支援するイングランド王と激しく争った。フランドルは羊毛製品の生産によりヨーロッパ経済の中心の一つとなっていたが、羊毛をイングランドから輸入しているためイングランドとの関係が深かった。


フィリップ4世の関心は、経済的に豊かだったフランドルにあった。[[1297年]]からは、フランドルの都市市民やそれを支援するイングランド王と激しく争った。フランドルは毛織物生産によりヨーロッパ経済の中心の一つとなっていたが、原料である羊毛をイングランドから輸入していたため、イングランド王との関係が深かったのである。
[[フランドル伯]]は元々フランスの封建臣下であるが、しばしば対立しており、当時のフランドル伯ギーは娘をイングランド王太子エドワード([[エドワード2世 (イングランド王)|エドワード2世]])と結婚させようと密かに動いており、フィリップ4世はこれを破談にするようギーに強要したが、ギーは最終的にこれを拒否し、イングランド王と結んで反抗した。[[1300年]]に和解交渉中に捕らえられ、以降、幽閉されたが、フランドルの諸都市は同盟を組んでフランス王に抵抗した。[[1302年]]のコルトレイクにおける「[[金拍車の戦い]]」では、騎士団を中心とする優勢なフランス王軍は、市民の歩兵が中心のフランドル軍に敗れているが、[[1305年]]のリール近辺のMons-en-Peveleの戦いでは微妙ながら優勢であり、その後も両者の抗争は和睦と戦闘を繰り返しながら、フィリップ4世の死没の[[1314年]]まで続いた。これらの戦役では王弟[[シャルル (ヴァロワ伯)|ヴァロワ伯シャルル]]が指揮官として活躍した。


[[フランドル伯]]は元々フランスの封建臣下であるが、しばしば対立しており、当時のフランドル伯[[ギー (フランドル伯)|ギー・ド・ダンピエール]]は娘をイングランド王太子エドワード([[エドワード2世 (イングランド王)|エドワード2世]])と結婚させようと密かに動いており、フィリップ4世はこれを破談にするようギーに強要したが、ギーは最終的にこれを拒否し、イングランド王と結んで反抗した。[[1300年]]に和解交渉中に捕らえられ、その後幽閉されたが、フランドルの諸都市は同盟を組んでフランス王に抵抗した。[[1302年]]の[[コルトレイク]]における「[[金拍車の戦い]]」では、騎士団を中心とする優勢なフランス王軍は市民の歩兵が中心のフランドル軍に敗れているが、[[1305年]]の[[リール (フランス)|リール]]近辺のモン=アン=ペヴェルの戦いでは微妙ながら優勢であり、その後も両者の抗争は和睦と戦闘を繰り返しながら、フィリップ4世が崩御する[[1314年]]まで続いた。これらの戦役では王弟の[[シャルル (ヴァロワ伯)|ヴァロワ伯シャルル]]が指揮官として活躍した。
== 教皇との対立 ==
また、これらの戦費の調達のために教会の課税などを行い、[[教皇至上主義]]を掲げる[[教皇|ローマ教皇]][[ボニファティウス8世 (ローマ教皇)|ボニファティウス8世]]と激しく対立した。


この戦争で必要となった膨大な戦費を調達するために、フィリップ4世はフランスで初めて全国的課税を実施し、税は[[キリスト教会]]にも課せられた<ref name=fujita/>。
1302年に、国内の支持を得るために聖職者・貴族・市民の3身分からなる「[[三部会]]」と呼ばれる議会を創設している。これによって国民意識を高め、汎ヨーロッパ的な価値観を強要する教皇に対する世論の支持を得たフィリップ4世は、ついには[[ギヨーム・ド・ノガレ]]に命じ教皇の捕縛を計った([[アナーニ事件]])。これには失敗しているが、[[1305年]]にフランス出身の教皇[[クレメンス5世 (ローマ教皇)|クレメンス5世]]を立て、[[1308年]]に教皇庁を[[アヴィニョン]]に移しフランスの傀儡としている([[アヴィニョン捕囚]])。


=== 教皇ボニファティウス8世との対立 ===
== テンプル騎士団解体 ==
戦費調達のための教会課税は、[[教皇至上主義]]を掲げるローマ教皇[[ボニファティウス8世 (ローマ教皇)|ボニファティウス8世]]との激しい対立をもたらした<ref name=fujita/>。敬虔なキリスト教国フランスは教皇庁にとって収入源として重要な地位を占めていたため、教会課税は教皇にとって大きな痛手だったのである<ref name=tsuru62>[[#鶴岡|鶴岡(2012)pp.62-64]]</ref>。そのためボニファティウス8世は、[[1300年]]を「[[聖年]]」に定めて盛大な祭典を挙行し、全聖職者の[[ローマ]][[巡礼]]を強制して死後の天国行きを確約した<ref name=tsuru62/><ref group="注釈">聖年を定めたのは、1300年のボニファティウス8世が最初である。</ref>。そのため、ローマは何万という巡礼者であふれかえった。さらにボニファティウス8世は、[[1302年]]に「ウナム・サンクタム(唯一聖なる)」という[[教皇勅書|教皇回勅]]を発し、教皇の権威は他のあらゆる地上の権力に優越すると宣し、さらにフィリップ4世に対し教皇の命に従うよう促した<ref name=tsuru62/>。
[[1307年]][[10月13日]]に、フランスに呼び出した[[テンプル騎士団]]総長[[ジャック・ド・モレー]]を含むフランスにおけるテンプル騎士団のメンバーを一斉に逮捕した。拷問による[[異端審問]]を行った後、教皇クレメンス5世に働きかけテンプル騎士団を解散させ、フランス国内の資産を没収した。[[1314年]]にジャック・ド・モレーら騎士団の最高幹部を異端として火刑にした。


1302年、フィリップ4世は国内の支持を得るために、聖職者・貴族・市民の3身分からなる「[[三部会]]」と呼ばれる[[議会]]を[[パリ]]の[[ノートルダム大聖堂 (パリ)|ノートルダム大聖堂]]に設け、フランスの国益を宣伝して支持を求めた<ref name=fujita/>。人びとのフランス人意識は高まり、フィリップ4世は汎ヨーロッパ的な価値観を強要する教皇に対して、国内世論を味方につけた<ref name=tsuru62/>。これに対し、怒ったボニファティウス8世はフィリップ4世を[[破門]]し、フィリップ側も悪徳教皇[[弾劾]]の[[公会議]]を開くよう求めて、両者は決裂した<ref name=tsuru62/>。[[1303年]]、フィリップ4世は、腹心のレジスト(法曹官僚)[[ギヨーム・ド・ノガレ]]に命じ、教皇の捕縛を謀った<ref name=ikegami258>[[#池上|佐藤&池上(1997)pp.258-259]]</ref>。ノガレの両親はかつて[[異端裁判|異端審問裁判]]で[[火刑]]に処せられていたため復讐に燃えており、教皇の政敵で財産没収と国外追放の刑を受けていた[[コロンナ家]]の一族と結託して、ローマ市南東方の教皇離宮所在地の[[アナーニ]]を襲撃した([[アナーニ事件]])<ref name=tsuru62/>。ノガレとシアラ・コロンナは、教皇御座所に侵入し、ボニファティウス8世を「異端者」と面罵して退位を迫り、弾劾の公会議に出席するよう求めた<ref name=tsuru62/>。教皇捕縛には失敗したが、辱められたボニファティウス8世は憤死し、[[1305年]]、フィリップ4世は次の教皇にフランス出身の[[クレメンス5世 (ローマ教皇)|クレメンス5世]]を擁立した<ref name=ikegami258/>。
テンプル騎士団の解体は、フランスなど各地に広大な所領を持つ汎ヨーロッパ的な騎士団の存在が、中央集権を目指す王権の邪魔だったほか、騎士団の資産とその金融システムの獲得が目的だったとも言われる。火刑の際、ジャック・ド・モレーはフィリップ4世と教皇クレメンス5世に呪いの言葉を発したといわれ、同年中にフィリップ4世もクレメンス5世も亡くなっている。


=== クレメンス5世と「アヴィニョン捕囚」 ===
== 性格 ==
[[ボルドー]]の[[大司教]]であった新教皇クレメンス5世は、当初からフィリップ4世の強い影響下にあり、その登位もフィリップが臨席した上で[[リヨン]]において行われた<ref name=roberts162>[[#ロバーツ|ロバーツ(2003)pp.162-163]]</ref>。クレメンス5世は、一度もローマに入ることなく[[1309年]]、ローマ教皇庁をフランス南東部の[[アヴィニョン]]に遷した([[アヴィニョン教皇庁]])<ref name=roberts162/>。アヴィニョンは当時[[ナポリ王国]]の所有する都市であったが、フランスの強い影響下にあり、これを歴史上「[[アヴィニョン捕囚]]」と呼んでいる<ref name=roberts162/>。以後、約70年間、教皇庁はアヴィニョンにあって、教皇権はフランス王の強い影響の下に置かれることとなった<ref name=roberts162/><ref group="注釈">そのことに反発した神聖ローマ皇帝やイングランド王は、反教皇(庁)的な政策を次々に打ち出した。[[#ロバーツ|ロバーツ(2003)p.163]]</ref>。
性格は、合理的だが貪欲で酷薄であると評されている。ナバラ王国とシャンパーニュ伯領を確保するために妻のジャンヌを毒殺したという噂もあった。

=== テンプル騎士団解体、そして崩御 ===
[[1307年]][[10月13日]]に、フランスに呼び出した[[テンプル騎士団]]総長[[ジャック・ド・モレー]]を含むフランスにおけるテンプル騎士団のメンバーを一斉に逮捕した。拷問による[[異端審問]]を行った後、教皇クレメンス5世に働きかけ、テンプル騎士団を解散させ、フランス国内の資産を没収した。[[1314年]]にはモレーら騎士団の最高幹部を[[異端]]として火刑にした。

テンプル騎士団の解体は、フランスなど各地に広大な所領と権力を持つ汎ヨーロッパ的な騎士団の存在が中央集権を目指す王権の障害になっていたほか、騎士団の資産とその金融システムの獲得が目的だったといわれる<ref name=roberts226>[[#ロバーツ|ロバーツ(2003)p.226]]</ref>。

火刑の際、モレーはフィリップ4世と教皇クレメンス5世に呪いの言葉を発したといわれる。同年、フィリップ4世は狩りの最中に[[脳梗塞]]で倒れ、数週間後に生誕地のフォンテーヌブロー宮殿で崩御した。同年にはクレメンス5世も世を去っている。

遺体は[[サン=ドニ大聖堂]]に埋葬されている。

== 性格・人物評価 ==

しばしば、合理的だが貪欲で酷薄な人柄であるとの評価がくだされる。ナバラ王国とシャンパーニュ伯領を確保するために妃のジャンヌを毒殺したのではないかという噂が流れたこともあった。

その一方で、王としては、[[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世]]や[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]とともに中世フランスの名君という評価がある<ref>[[#鶴岡|鶴岡(2012)p.38]]</ref>。フランスでは、聖なる「聖油入れ」「ユリの花」「王旗」が神聖ローマ皇帝に対する対抗の象徴であり、フィリップ2世、ルイ9世のみならずフィリップ4世もまた、一貫して「いとも敬虔なる王」たることを主張して、自己の王権を権威づけたのである<ref name=ikegami328>[[#池上|佐藤&池上(1997)pp.328-329]]</ref>。

=== 寡黙な王 ===
[[パミエ]]の[[司教]]ベルナール・セッセの人物評は「[[ワシミミズク]]のような人物。このうえもなく美しいが、とりえのない鳥である。ただ黙って人を見つめるだけなのだから」というものである<ref name=fujita/>。フィリップ4世が控えめで寡黙な王であったことは、同時代の残した記録によっても裏づけられる<ref name=fujita/>。1307年、フィリップ4世はテンプル騎士団への対応をめぐって、ポワティエでクレメンス5世で会談をもったことがあった。教皇は騎士団の解体に慎重で、フィリップ4世から詳細な説明を受けるものと思っていたが、実際は部屋を横切るほんの少しのあいだ話しただけで、主要な協議はすべて教皇と顧問官のあいだで行われた<ref name=fujita/>。上述のとおり、フィリップ4世の治世には時代の転換を告げる画期的な事件が次々に起こったが、王の寡黙さゆえに詳細が明らかになっていない側面がある<ref name=fujita/>。また、フィリップ4世の役割についても、国王は何ら積極的にかかわらず、すべてはレジストたちが案出したことであるという見解と、国王は表面に出ることを極力抑えながらも背後ですべてを統括していたという見解とに分かれ、議論の対象となっている<ref name=fujita/>。

=== 敬虔な王 ===
ボニファティウス8世との確執やテンプル騎士団の解散をめぐる醜聞から、目的のためには手段を選ばない合理主義者のように見なされがちであるが、個人的にはきわめて敬虔なキリスト教徒であり、祖父[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]の[[列聖]]に尽力し、[[十字軍]]による聖地奪回を夢見ていた<ref name=fujita/>。晩年になって王妃ジャンヌが死去したのちは巡礼におもむき、断食の苦行をおこない、また、[[修道院]]をいくつも建立している<ref name=fujita/>。

フィリップ4世にあっては、稀に見る傲慢さと稀に見る敬虔さとが同居している<ref name=fujita/>。一見互いに矛盾しているようにみえる2つの性格は、フランスこそがキリスト教圏の中心に位置し、フランス王こそがヨーロッパ諸王のなかで最も敬虔なキリスト者であるという確信によって結びついていた<ref name=fujita/>。このような論理に立脚すれば、フランスに奉仕すること、王に忠勤を尽くすことが、とりもなおさず[[カトリック教会]]を守り、キリスト教を守護していくことにほかならない<ref name=fujita/>。そのためには、たとえ相手がローマ教皇であろうと戦うことをためらわない。ボニファティウス8世は、前任のローマ教皇[[ケレスティヌス5世 (ローマ教皇)|ケレスティヌス5世]]を暗殺したとも一部で伝えられており、その正統性には疑問がもたれていたのである<ref name=fujita/>。


== 家系 ==
== 家系 ==
王妃ジャンヌ(ナバラ女王フアナ)との間に5人の子を儲けた。
王妃ジャンヌ(ナバラ女王フアナ)との間に7人の子を儲けた。ジャンヌと死別した当時フィリップ4世はまだ37歳と若かったが、再婚はせず、妻との思い出に生きた。
#[[ルイ10世 (フランス王)|ルイ10世]]([[1289年]][[10月4日]] - [[1316年]][[7月5日]]) - フランス王
# マルグリット(1288年 - 1300年)
# マルグリット([[1290年]] - [[1294年]])-没年の1294年、3-4歳で後の[[カスティーリャ王]][[フェルナンド4世 (カスティーリャ王)|フェルナンド4世]]と婚約していた。
#[[ルイ10世 (フランス王)|ルイ10世]]([[1289年]][[10月4日]] - [[1316年]][[7月5日]])
#[[フィリップ5世 (フランス王)|フィリップ5世]]([[1291年]] - [[1322年]][[1月3日]])
#ブランシュ ([[1291年]]-[[1294年]])
#[[フィリップ5世 (フランス王)|フィリップ5世]]([[1291年]] - [[1322年]][[1月3日]]) - フランス王
#[[イザベラ・オブ・フランス|イザベル]]([[1292年]] - [[1358]][[8月23日]])
#[[シャルル4世 (フランス王)|シャル4世]]([[1294年]] - [[1328年]]) - カペー朝最後のフランス王
# [[イザベラ・オブ・フランス|イザベル]]([[1292年|1295年]]頃 - [[1358年]][[8月23日]]) - [[イングランド王国|イングランド]]王[[エドワード2世 (イングランド王)|エドワード2世]]と結婚
#[[シャルル4世 (フランス王)|シャルル4世]]([[1294年]] - [[1328年]])
#ロベール(1297年 - 1308年)
# ロベール([[1297]] - [[1308年]]


成人に達しえた息子3人はみな相次いでフランス王となったが、男系は途絶えた。また娘イザベルはイングランド王[[エドワード2世 (イングランド王)|エドワード2世]]の王妃となり、のちにイングランド王家がフランス王位を請求する[[百年戦争]]の遠因となった。ナラ王位はルイ10世(ナラ王イス1娘ジャヌ([[フアナ2世 (ナバ王)|フアナ2世]]よって継承れた。
成人に達しえた息子3人はみな相次いでフランス王となったが、彼らの子供の大半、特に男子が全員夭折したため男系は途絶え、最終的にカペー朝は断絶する(特にシャルル4世は死後に生まれ末娘ブランシュ以外、全員が夭折する有様だった)。また娘イザベルはイングランド王[[エドワード2世 (イングランド王)|エドワード2世]]の王妃となり、にイングランド王家がフランス王位を請求する[[百年戦争]]の遠因となった<ref name=roberts182>[[#ローツ|ローツ(2003)p.182]]</ref>。1328年に男子なくシャル4世が死去したとき、フィリップ4世の子女のうちイザベルだけが存命であったため、女子相続を認めないフラスの慣習からすれば、イザベルの子[[エドワード3世 (イングンド王)|エドワード3世]]にフランス王位継承権が移ると考えられたためであった<ref name=ikegami338>[[#池上|佐藤&池上(1997)pp.338-339]]</ref><ref group="注釈">[[池上俊一]]は、この、いわば「正当な要求」がフランスで退けられた理由について、当時のフランス人のあいだに一定の「国民意識」ないし「国家意識」と称すべき観念がすでに存在していたためではないか、と指摘している。[[#池上|佐藤&池上(1997)pp.338-339]]</ref>


ナバラ王位はルイ10世(ナバラ王ルイス1世)の娘ジャンヌ([[フアナ2世 (ナバラ女王)|フアナ2世]])によって継承された。
{{Commonscat|Philip IV of France}}

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}

== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=藤田朋久|authorlink=藤田朋久|chapter=フィリップ4世|editor=|year=1995|month=5|title=人物世界史1 西洋編(古代~17世紀)|publisher=[[山川出版社]]|series=|isbn=4-634-64300-6
|ref=藤田}}
* {{Cite book|和書|author1=佐藤彰一|authorlink1=佐藤彰一|author2=池上俊一|authorlink2=池上俊一|chapter=|editor=|year=1997|month=5|title=世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成|publisher=[[中央公論社]]|series=|isbn=4-12-403410-5|ref=池上}}
* {{Cite book|和書|author=J.M.ロバーツ(en)|authorlink=:en:John Roberts (historian)|translator=月森左知・高橋宏|chapter=|editor=池上俊一(日本語版監修)|editor-link=池上俊一|year=2003|month=5|title=世界の歴史5 東アジアと中世ヨーロッパ|publisher=[[創元社]]|series=図説世界の歴史|isbn=4-422-20245-6|ref=ロバーツ}}
* {{Cite book|和書|author=鶴岡聡|authorlink=鶴岡聡 (予備校講師)|chapter=|editor=|year=2012|month=8|title=教科書では学べない世界史のディープな人々|publisher=[[中経出版]]|series=|isbn=978-4-8061-4429-8|ref=鶴岡}}

==関連項目==
*[[フランコ・マリア・マルファッティ]]
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フィリップ4世
Philippe IV
フランス国王
ナバラ国王
フィリップ4世
在位 フランス王:1285年1314年11月29日
ナバラ王:1284年1314年11月29日
シャンパーニュ伯1284年1305年
別号 ナバラ国王シャンパーニュ伯

出生 1268年4月/6月
フランス王国フォンテーヌブローフォンテーヌブロー宮殿
死去 1314年11月29日(46歳没)
フランス王国フォンテーヌブローフォンテーヌブロー宮殿
埋葬 フランス王国サン=ドニ大聖堂
配偶者 ナバラ女王フアナ1世
子女
家名 カペー家
王朝 カペー朝
父親 フィリップ3世
母親 イザベル・ダラゴン
宗教 キリスト教カトリック教会
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フィリップ4世フランス語: Philippe IV1268年4月/6月 - 1314年11月29日)は、フランス(在位:1285年 - 1314年)、およびナバラ王としてはフェリペ1世バスク語: Filipe I.a、在位:1284年 - 1305年)。整った顔立ちのため「端麗王」(le Bel、ル・ベル)と称される[1]

官僚制度の強化に努め、やがて絶対王政へとつながる中央集権化の第一歩を踏み出した。対外的には、毛織物業で栄え経済的に豊かであったフランドル地方の支配を目指し、フランドル諸都市の市民と激しく争った。ローマ教皇とも対立し、フランス国内の支持を得てアナーニ事件を起こし、最終的には教皇権を王権に従えて教皇庁アヴィニョンに移し(アヴィニョン捕囚、または「教皇のバビロン捕囚」)、また、テンプル騎士団異端として弾圧し、解散に追い込み、後世「教皇を憤死させた王」として一部より悪評を得ることとなった[1]。これらはそれぞれ、教会の徴税権に対する権益拡大と騎士団財産の没収を意味した。また、フィリップはパリ高等法院を創設して売官できるようにしたり、三部会を設置して市中からも資金を吸い上げたりした。フィリップは封建関係の頂点に立ち、国家の防衛や国益のために従来の慣習を超えて行動した[1]

生涯

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生い立ち・結婚

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1268年、フィリップ3世と最初の王妃イザベル・ダラゴンの子として生まれる。1276年に兄のルイが薨去したため、幼少時より次期フランス王として育てられた[1]1284年ナバラ女王ジャンヌ(フアナ1世)と結婚し、ナバラ王国とシャンパーニュ伯領を支配下に収めた。シャンパーニュ伯領は本領であるイル=ド=フランスと隣接しているため、両者の統合を図ることにより王の直轄領は非常に強化されることになった。

1285年に、アラゴン十字軍の遠征の帰りに病没した父フィリップ3世の後を継いで即位した[1]。なお、アラゴンとの争いはナポリカルロ2世に対する義理立てであり、1291年に条約を結んで終結している。

治世

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フィリップ4世の治世は中世ヨーロッパ王権における一つの転換期となっており、それまで普遍性を主張してきたローマ教皇や神聖ローマ皇帝の権威が相次いで衰退した時期にあたる[1]。フィリップ4世はこれらに代わって君主権の強化をはかり、従来の聖職者に代えて「レジスト」と称される世俗の法曹家を官僚に採用するなど官僚制度の強化に努め、中央集権化を進めて近代的な国家形成の先がけとした[1]

教皇のアヴィニョン捕囚(教皇のバビロン捕囚)やテンプル騎士団の解散など従来の教会権力に対し、強大なフランス王権の存在を誇示したが、最晩年には国王に対する封建諸侯の反動が起こり、イングランド王との領土問題も未解決のまま残され、後代に課題を残した[1]

イングランド王・フランドル市民との戦い

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1294年、フィリップ4世はフランス南西部ガスコーニュや北東のフランドルに勢力を伸ばそうとして、イングランド王エドワード1世を相手に戦争を開始した[1]

1294年から1299年まで続いたギュイエンヌ(アキテーヌ)の戦いでは、エドワード1世の関心がスコットランドに向けられ、フランスでの戦争は望んでいなかったため、アキテーヌ公としてフランス王に臣従することとガスコーニュの確保で和睦した。

フィリップ4世の関心は、経済的に豊かだったフランドルにあった。1297年からは、フランドルの都市市民やそれを支援するイングランド王と激しく争った。フランドルは毛織物生産によりヨーロッパ経済の中心の一つとなっていたが、原料である羊毛をイングランドから輸入していたため、イングランド王との関係が深かったのである。

フランドル伯は元々フランスの封建臣下であるが、しばしば対立しており、当時のフランドル伯ギー・ド・ダンピエールは娘をイングランド王太子エドワード(エドワード2世)と結婚させようと密かに動いており、フィリップ4世はこれを破談にするようギーに強要したが、ギーは最終的にこれを拒否し、イングランド王と結んで反抗した。1300年に和解交渉中に捕らえられ、その後幽閉されたが、フランドルの諸都市は同盟を組んでフランス王に抵抗した。1302年コルトレイクにおける「金拍車の戦い」では、騎士団を中心とする優勢なフランス王軍は市民の歩兵が中心のフランドル軍に敗れているが、1305年リール近辺のモン=アン=ペヴェルの戦いでは微妙ながら優勢であり、その後も両者の抗争は和睦と戦闘を繰り返しながら、フィリップ4世が崩御する1314年まで続いた。これらの戦役では王弟のヴァロワ伯シャルルが指揮官として活躍した。

この戦争で必要となった膨大な戦費を調達するために、フィリップ4世はフランスで初めて全国的課税を実施し、税はキリスト教会にも課せられた[1]

教皇ボニファティウス8世との対立

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戦費調達のための教会課税は、教皇至上主義を掲げるローマ教皇ボニファティウス8世との激しい対立をもたらした[1]。敬虔なキリスト教国フランスは教皇庁にとって収入源として重要な地位を占めていたため、教会課税は教皇にとって大きな痛手だったのである[2]。そのためボニファティウス8世は、1300年を「聖年」に定めて盛大な祭典を挙行し、全聖職者のローマ巡礼を強制して死後の天国行きを確約した[2][注釈 1]。そのため、ローマは何万という巡礼者であふれかえった。さらにボニファティウス8世は、1302年に「ウナム・サンクタム(唯一聖なる)」という教皇回勅を発し、教皇の権威は他のあらゆる地上の権力に優越すると宣し、さらにフィリップ4世に対し教皇の命に従うよう促した[2]

1302年、フィリップ4世は国内の支持を得るために、聖職者・貴族・市民の3身分からなる「三部会」と呼ばれる議会パリノートルダム大聖堂に設け、フランスの国益を宣伝して支持を求めた[1]。人びとのフランス人意識は高まり、フィリップ4世は汎ヨーロッパ的な価値観を強要する教皇に対して、国内世論を味方につけた[2]。これに対し、怒ったボニファティウス8世はフィリップ4世を破門し、フィリップ側も悪徳教皇弾劾公会議を開くよう求めて、両者は決裂した[2]1303年、フィリップ4世は、腹心のレジスト(法曹官僚)ギヨーム・ド・ノガレに命じ、教皇の捕縛を謀った[3]。ノガレの両親はかつて異端審問裁判火刑に処せられていたため復讐に燃えており、教皇の政敵で財産没収と国外追放の刑を受けていたコロンナ家の一族と結託して、ローマ市南東方の教皇離宮所在地のアナーニを襲撃した(アナーニ事件[2]。ノガレとシアラ・コロンナは、教皇御座所に侵入し、ボニファティウス8世を「異端者」と面罵して退位を迫り、弾劾の公会議に出席するよう求めた[2]。教皇捕縛には失敗したが、辱められたボニファティウス8世は憤死し、1305年、フィリップ4世は次の教皇にフランス出身のクレメンス5世を擁立した[3]

クレメンス5世と「アヴィニョン捕囚」

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ボルドー大司教であった新教皇クレメンス5世は、当初からフィリップ4世の強い影響下にあり、その登位もフィリップが臨席した上でリヨンにおいて行われた[4]。クレメンス5世は、一度もローマに入ることなく1309年、ローマ教皇庁をフランス南東部のアヴィニョンに遷した(アヴィニョン教皇庁[4]。アヴィニョンは当時ナポリ王国の所有する都市であったが、フランスの強い影響下にあり、これを歴史上「アヴィニョン捕囚」と呼んでいる[4]。以後、約70年間、教皇庁はアヴィニョンにあって、教皇権はフランス王の強い影響の下に置かれることとなった[4][注釈 2]

テンプル騎士団解体、そして崩御

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1307年10月13日に、フランスに呼び出したテンプル騎士団総長ジャック・ド・モレーを含むフランスにおけるテンプル騎士団のメンバーを一斉に逮捕した。拷問による異端審問を行った後、教皇クレメンス5世に働きかけ、テンプル騎士団を解散させ、フランス国内の資産を没収した。1314年にはモレーら騎士団の最高幹部を異端として火刑にした。

テンプル騎士団の解体は、フランスなど各地に広大な所領と権力を持つ汎ヨーロッパ的な騎士団の存在が中央集権を目指す王権の障害になっていたほか、騎士団の資産とその金融システムの獲得が目的だったといわれる[5]

火刑の際、モレーはフィリップ4世と教皇クレメンス5世に呪いの言葉を発したといわれる。同年、フィリップ4世は狩りの最中に脳梗塞で倒れ、数週間後に生誕地のフォンテーヌブロー宮殿で崩御した。同年にはクレメンス5世も世を去っている。

遺体はサン=ドニ大聖堂に埋葬されている。

性格・人物評価

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しばしば、合理的だが貪欲で酷薄な人柄であるとの評価がくだされる。ナバラ王国とシャンパーニュ伯領を確保するために妃のジャンヌを毒殺したのではないかという噂が流れたこともあった。

その一方で、王としては、フィリップ2世ルイ9世とともに中世フランスの名君という評価がある[6]。フランスでは、聖なる「聖油入れ」「ユリの花」「王旗」が神聖ローマ皇帝に対する対抗の象徴であり、フィリップ2世、ルイ9世のみならずフィリップ4世もまた、一貫して「いとも敬虔なる王」たることを主張して、自己の王権を権威づけたのである[7]

寡黙な王

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パミエ司教ベルナール・セッセの人物評は「ワシミミズクのような人物。このうえもなく美しいが、とりえのない鳥である。ただ黙って人を見つめるだけなのだから」というものである[1]。フィリップ4世が控えめで寡黙な王であったことは、同時代の残した記録によっても裏づけられる[1]。1307年、フィリップ4世はテンプル騎士団への対応をめぐって、ポワティエでクレメンス5世で会談をもったことがあった。教皇は騎士団の解体に慎重で、フィリップ4世から詳細な説明を受けるものと思っていたが、実際は部屋を横切るほんの少しのあいだ話しただけで、主要な協議はすべて教皇と顧問官のあいだで行われた[1]。上述のとおり、フィリップ4世の治世には時代の転換を告げる画期的な事件が次々に起こったが、王の寡黙さゆえに詳細が明らかになっていない側面がある[1]。また、フィリップ4世の役割についても、国王は何ら積極的にかかわらず、すべてはレジストたちが案出したことであるという見解と、国王は表面に出ることを極力抑えながらも背後ですべてを統括していたという見解とに分かれ、議論の対象となっている[1]

敬虔な王

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ボニファティウス8世との確執やテンプル騎士団の解散をめぐる醜聞から、目的のためには手段を選ばない合理主義者のように見なされがちであるが、個人的にはきわめて敬虔なキリスト教徒であり、祖父ルイ9世列聖に尽力し、十字軍による聖地奪回を夢見ていた[1]。晩年になって王妃ジャンヌが死去したのちは巡礼におもむき、断食の苦行をおこない、また、修道院をいくつも建立している[1]

フィリップ4世にあっては、稀に見る傲慢さと稀に見る敬虔さとが同居している[1]。一見互いに矛盾しているようにみえる2つの性格は、フランスこそがキリスト教圏の中心に位置し、フランス王こそがヨーロッパ諸王のなかで最も敬虔なキリスト者であるという確信によって結びついていた[1]。このような論理に立脚すれば、フランスに奉仕すること、王に忠勤を尽くすことが、とりもなおさずカトリック教会を守り、キリスト教を守護していくことにほかならない[1]。そのためには、たとえ相手がローマ教皇であろうと戦うことをためらわない。ボニファティウス8世は、前任のローマ教皇ケレスティヌス5世を暗殺したとも一部で伝えられており、その正統性には疑問がもたれていたのである[1]

家系

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王妃ジャンヌ(ナバラ女王フアナ)との間に7人の子を儲けた。ジャンヌと死別した当時フィリップ4世はまだ37歳と若かったが、再婚はせず、妻との思い出に生きた。

  1. ルイ10世1289年10月4日 - 1316年7月5日) - フランス王
  2. マルグリット(1290年 - 1294年)-没年の1294年、3-4歳で後のカスティーリャ王フェルナンド4世と婚約していた。
  3. ブランシュ (1291年-1294年)
  4. フィリップ5世1291年 - 1322年1月3日) - フランス王
  5. シャルル4世1294年 - 1328年) - カペー朝最後のフランス王
  6. イザベル1295年頃 - 1358年8月23日) - イングランドエドワード2世と結婚
  7. ロベール(1297年 - 1308年

成人に達しえた息子3人はみな相次いでフランス王となったが、彼らの子供の大半、特に男子が全員夭折したため男系は途絶え、最終的にカペー朝は断絶する(特にシャルル4世は死後に生まれた末娘ブランシュ以外、全員が夭折する有様だった)。また娘イザベルはイングランド王エドワード2世の王妃となり、後にイングランド王家がフランス王位を請求する百年戦争の遠因となった[8]。1328年に男子なくシャルル4世が死去したとき、フィリップ4世の子女のうちイザベルだけが存命であったため、女子相続を認めないフランスの慣習からすれば、イザベルの子エドワード3世にフランス王位継承権が移ると考えられたためであった[9][注釈 3]

ナバラ王位はルイ10世(ナバラ王ルイス1世)の娘ジャンヌ(フアナ2世)によって継承された。

脚注

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注釈

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  1. ^ 聖年を定めたのは、1300年のボニファティウス8世が最初である。
  2. ^ そのことに反発した神聖ローマ皇帝やイングランド王は、反教皇(庁)的な政策を次々に打ち出した。ロバーツ(2003)p.163
  3. ^ 池上俊一は、この、いわば「正当な要求」がフランスで退けられた理由について、当時のフランス人のあいだに一定の「国民意識」ないし「国家意識」と称すべき観念がすでに存在していたためではないか、と指摘している。佐藤&池上(1997)pp.338-339

出典

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参考文献

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  • 藤田朋久「フィリップ4世」『人物世界史1 西洋編(古代~17世紀)』山川出版社、1995年5月。ISBN 4-634-64300-6 
  • 佐藤彰一池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論社、1997年5月。ISBN 4-12-403410-5 
  • J.M.ロバーツ(en) 著、月森左知・高橋宏 訳、池上俊一(日本語版監修) 編『世界の歴史5 東アジアと中世ヨーロッパ』創元社〈図説世界の歴史〉、2003年5月。ISBN 4-422-20245-6 
  • 鶴岡聡『教科書では学べない世界史のディープな人々』中経出版、2012年8月。ISBN 978-4-8061-4429-8 

関連項目

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先代
フィリップ3世
フランス国王
1285年 - 1314年
次代
ルイ10世
先代
アンリ3世
シャンパーニュ伯
1284年 - 1305年
ジャンヌと共同統治
次代
ルイ