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「ニシュ」の版間の差分

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'''ニシュ'''({{lang-sr|Niš/Ниш}})は[[セルビア]]の都市で、セルビア南部では最大の都市である。セルビアでは首都[[ベオグラード]]、[[ノヴィ・サド]]に次いで3番目に大きな都市で、2011年の国勢調査による人口は市街地で192,208人<ref name="Serbian 2011 census">{{cite web |url=http://webrzs.stat.gov.rs/WebSite/repository/documents/00/00/49/86/Prvi_rezultati_Konferencija.pps |title=Попис становништва, домаћинстава и станова 2011. године у Републици Србији |year=2011 |language=Serbian |publisher=Statistical Office of Serbia|accessdate=不明}}</ref>、郊外を含めた全域では257,867人であった。ニシュの面積は597km2で、市街地の4つの自治体と郊外の[[ニシュカ・バニャ]]を含めた計5つの自治体で構成され郊外は68の地区に分かれている。ニシュは[[ニシャヴァ郡]]の行政的な中心都市である。
'''ニシュ'''({{lang|sr|Ниш}}/{{lang|sr|Niš}})は、[[セルビア]]第三の都市。{{ウィキ座標|43|19|0|N|21|54|0|E||北緯43°19'東経21°54'}}に位置し、ニシュ市街、ニシュカ・バニャ、ほか68の郊外地区からなる、ニシャヴァ(Nišava)地区の統括地域である。ニシュは、[[バルカン半島]]最古の都市に数えられる街のひとつで、古くからヨーロッパとアジア(ギリシャ・トルコなど)への入り口と考えられてきた。また、大学の町でもあり、ニシュ大学には13学部28,000人の学生が在籍している。電気産業、機械、繊維産業、タバコ産業が盛ん。


バルカン半島やヨーロッパでもニシュはもっとも古い都市のうちの一つで、古代からオリエントと西側の世界を結ぶ玄関口であった。<ref>http://www.metimes.com/storyview.php?StoryID=20070515-082637-6667r</ref> 古代のバルカンで[[トラキア人]]が[[鉄器時代]]に最初にこの地域一帯に居住し始め、トラキア人の部族であるトリバッリがケルト人がバルカンにやって来る前まで住んでいた。紀元前279年頃にケルト人がやって来ると、ケルトの一部族[[スコルディスキ]]が地域を治めるようになる。紀元前75年には今日のニシュ市街を含む周辺部は[[ローマ人]]により征服された。古代ローマは1世紀になると[[ミリタリア街道]]を建設し、ナイッスス(Naissus)と呼ばれた当時のニシュの町は重要な町の一つとなった。ニシュはまた[[コンスタンティノープル]]を創建した最初のキリスト教徒の[[ローマ皇帝]][[コンスタンティヌス1世]]の生誕地として有名で<ref>[http://www.newadvent.org/cathen/04295c.htm New Advent Catholic encyclopedia: Constantine the Great]</ref>、[[コンスタンティヌス3世]]や[[ユスティヌス1世]]の生誕地でもある。セルビアでももっとも古いものの一つである4世紀に遡る教会が郊外の[[メディアナ]]にある。
人口299,724人(2002年統計)、面積597平方キロメートル。

現代のニシュはセルビアではもっとも重要な産業や教育の中心の一つで、電気産業や機械エンジニアリング、織物、タバコ産業の中心である。2013年にニシュでは[[ミラノ勅令]]から1,700年を記念した催しが行われる。<ref>{{cite web| url=http://ipsnews.net/news.asp?idnews=50174 |title=Moderate Patriarch Sets New Course for Serb Church| publisher= IPS News| date=2010-02-01|accessdate=不明}}</ref>

== 地勢 ==
ニシュはニシュヴァ川流域の東側に位置し、[[南モラヴァ川]]との合流点近くに位置する。市街地中心部の海抜は市の中央広場付近で194mある。市内の最高地点は[[スヴァ山]]のソコロヴ・カメン(隼岩)で海抜1,523m、最低地点はニシュヴァ川合流地点の海抜173mである。

ニシュは[[大陸性気候]]の地域に含まれる。年平均気温は11.2℃で、最暖月の7月の平均気温は21.2℃、最寒月の1月の平均気温は0.2℃である。年平均降水量は567.25mmで、年間123日は降水があり45日間は積雪で覆われる。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 古代 ===
[[ファイル:Nis.jpg|thumb|left|220px|ニシュの風景]]
考古学的な発見から[[新石器時代]]住居の跡も見られる。ニシュやその周辺地域は[[紀元前5000年]]から[[紀元前2000年]]に遡るが、その中でもフムスカ・チュカ(''Humska Čuka'')注目される遺跡である。<ref>Stone Pages, [http://www.stonepages.com/news/archives/002763.html 002763]</ref>
古代ローマにおいては、ナイスス(Naissus)と称された。[[ローマ帝国]]の衰退にともない荒廃したが、6世紀に[[ユスティニアヌス1世|ユスティニアヌス]]のもとで再興された。その後は[[ブルガール人]]、[[マジャル人]]、[[セルビア人]]などの支配を受け、14世紀後半より[[オスマン帝国]]領となった。1878年、[[サン・ステファノ条約]]と[[ベルリン条約 (1878年)|ベルリン条約]]で[[セルビア公国 (近代)|セルビア公国]]の独立が認められると、ニシュもセルビア領となった。
[[トラキア人]]の出現は鉄器時代頃である。ローマ以前の中心となる町は現在のべラ・パランカにあったダキア人の町[[アイアダヴァ]]で後のローマの[[レメシアナ]]である。トラキア人の部族[[トリバッリ]]はニシュ周辺に居住し、紀元前424年早期に言及されている。紀元前279年頃にケルト人がバルカン半島に侵入するとケルト系の[[スコルディスキ]]はトリバッリを征服し、居住したが当時の都市はナヴィッソス '''Navissos'''の名で知られていた。<ref>[http://www.britannica.com/EBchecked/topic/415944/Nis Nis,Britanica]</ref>


== 空港 ==
=== ローマ時代 ===
[[File:Липадаријум 10.jpg|thumb|left|150px|ナイススのラピダリウム]]
[[コンスタンティヌス大帝空港]]{{enlink|Niš Constantine the Great Airport}}(国際空港:INI)(セルビア語:{{lang|sr|Аеродром Константин Велики}}、英語:Niš Constantine the Great Airport)
バルカン半島がローマにより征服された紀元前175-168年、ナイッソス''Naissos''(ナイスス,Naissus)は作戦の基地として使われた。ナイススが最初にローマの文書に記録されたのは2世紀が始まった頃で、[[クラウディオス・プトレマイオス]]は''Geography'' で注目に値する場所と考えていた。ローマによって支配された町はダルダニアン戦争(73-75年)の期間に軍団が組織された。<ref name=RB>[http://books.google.com/books?id=D5IxWxCgFFwC&pg=PA207 The provincial at Rome: and, Rome and the Balkans 80BC-AD14]</ref> 町は初期ローマに関連した避難地を意味するレフュジアや勝ったなどを意味する''vici''と呼ばれ、戦略的に重要な場所で[[モエシア]]・スペリオルの駐屯地や市場町であった。<ref name=BVIII2006>http://www.balkaninstitut.com/pdf/izdanja/balcanica/Balcanica%20XXXVII%20(2006).pdf</ref>
[[古代ローマ]]は[[ミリタリス街道]]を1世紀初期に建設し、ナイススは重要な町の一つとなった。{{仮リンク|リスッス|en|Lezhë}}、[[ソフィア (ブルガリア)|セルディカ]]、{{仮リンク|シギディニウム|en|Singidunum}}、{{仮リンク|ラティアリア|en|Ratiaria}}、[[テッサロニキ|テッサロニカ]]({{仮リンク|スクーピ|en|Scupi}}経由)5つの街道がナイススで交差していた。<ref name=RB/>

[[File:Byzantinischer Mosaizist um 1000 002.jpg|thumb|upright|180px|[[アヤソフィア]]の[[コンスタンティヌス1世]]のモザイクc. 1000]]
[[3世紀の危機]]にあった268年、皇帝はいずれも短命に終わり[[ゴート族]]の大規模な侵入も起こった。ゴート族の連合により[[トラキア]]や[[マケドニア属州|マケドニア]]、[[モエシア]]、[[パンノニア]]は蹂躙された。その後、[[クラウディウス・ゴティクス]]が皇帝に就くと、3世紀の戦いの中でも血なまぐさい戦いの一つである[[ナイススの戦い]]でゴート族の連合軍を打ち破っている。ゴート族の連合軍は3万から5万人がこの地で戦死している。272年になると後の皇帝となるコンスタンティヌス1世がナイススで生誕した。コンスタンティヌスはダキア・メディテッラネア州を制定し、ナイススを首府としている。

[[File:Medijana mozaik.jpg|thumb|left|upright|メディアナのモザイク]]
皇帝の邸宅跡がニシュ郊外の{{仮リンク|メディアナ|en|Mediana}}にあり、重要な遺跡になっている。コンスタンティヌスも一時期、居住していた。364年、メディアナは[[ウァレンティニアヌス1世]]とその弟である[[ウァレンス]]に帝国の分割による共同皇帝に選ばれた。<ref>http://www.sacred-texts.com/cla/gibbon/02/daf02049.htm</ref>
[[フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス|ユリアヌス]]の皇帝在位中、城壁は強化されナイススは大いに繁栄した。443年になるとフン族の王[[アッティラ]]により標的とされ破壊されナイススは攻略されると蹂躙された。フン族に支配された後のナイススの市民は虐殺されている。何年かは市外の河岸にはフン族に蹂躙され虐殺された市民の遺骸で覆われていたとされる。[[ユスティニアヌス王朝]]の創始者である[[ユスティヌス1世]]が450年にナイススで生誕し、甥の[[ユスティニアヌス1世]]はナイススの町を良く復興させたが、町は4世紀再び回復することはなかった。ユスティヌスはユスティヌス主教座を設けた。[[プロコピオス]]には'''Naissopolis'''と言及されている。<ref>[http://books.google.com/?id=3J96wSxMaeYC&pg=PA238 p. 238]</ref>

=== 中世 ===
[[File:Nis 1096.jpg|thumb|240px|[[第1回十字軍]]中の1096年のニシュ包囲]]
6世紀後半になると最初の大規模なスラヴ人やアヴァールの民族移動が見られた。6世紀から7世紀の間、スラヴ人の部族は8度にわたってニシュへの攻略を試みた。551年にスラヴ人はニシュを横切り、最初にテッサロニキに向かったがダルマチアで終わっている。<ref>BG III 40</ref><ref>http://www.rastko.rs/arheologija/delo/13047</ref>580年代、[[南スラヴ人]]の一部族[[スクラヴェニ]]はセルビアやギリシャ北部を征服した。<ref>The New Cambridge Medieval History: c. 500-c. 700, p. 539</ref>最後の攻撃は615年中に起こり、スラヴ人は町を掌握しローマ人やローマ化されたトラキア人やダキア人は、逃れるかあるいは滅びるか同化された。スラヴ人のスクラヴェニの独立はいくらかの期間残り、785年[[コンスタンティノス6世]]により征服される。842年に[[テオフィロス]]の死去によりこの地域は[[ブルガール人]]が支配するようになる。<ref>''Encyclopædia Britannica: a new survey of universal knowledge, Volume [http://books.google.com/?id=Jh9GAQAAIAAJ 20]'', p. 341: "the eastern provinces (Branichevo, Morava, Timok, Vardar, Podrimlye) were occupied by the Bulgars."</ref>

1018年に[[バシレイオス2世]]はシルミウム・テマを成立させ、ブルガリアやセルビアを攻略しニシュは3つの公式都市のうちの1つとなった。コンスタンティヌス・ボディンは1072年にマケドニアでブルガリアが反乱を起こしビザンティン帝国に抵抗するためブルガリア帝国の王冠を戴いた。ボディンはニシュを攻略したが、後に捕らえている。<ref>''Byzantium's Balkan frontier'', p. 142</ref>
[[民衆十字軍]]期の1096年7月3日、[[隠者ピエール]]はビザンティンの軍隊とニシュで衝突し自らの4分の1の勢力を失ったが、[[コンスタンティノープル]]までの行軍は導いている。<ref>''The great migrations in the East and South East of Europe from the ninth to the thirteenth century'', p. 146, [http://books.google.com/?id=9tZoAAAAMAAJ Google Books link]</ref>

1155年、デサ公がニシュを従属地として受け取っている。<ref name=LB4>''The Late Medieval Balkans'', p. 4</ref>1162年、ビザンティン皇帝[[マヌエル1世コムネノス]]はニシュで[[ステファン・ネマニャ]]に会っており、ビザンティンへの勝利から[[レスコヴァツ]]とニシュで構成されたドゥボツィツァ(Dubočica)を得る。<ref name=LB4/>1188年、ニシュはステファン・ネマニャのセルビア王国の首都になり<ref>''The Late Medieval Balkans'', p. 7</ref>、1189年7月22日にネマニャは神聖ローマ皇帝[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]よりニシュに10万人の十字軍戦士を受け入れている。<ref>''The Late Medieval Balkans'', p. 24</ref>1202年は{{仮リンク|ヴカン2世|en|Vukan Nemanjić of Serbia}}の統治の時代で、ニシュには特別な地位があったことが言及されている。<ref>''The Late Medieval Balkans'', p. 48</ref>1203年、[[カロヤン・アセン]]はニシュを併合するが<ref>''The Late Medieval Balkans'', p. 54</ref>後に{{仮リンク|ステファン・ネマニッチ|en|Stefan Nemanjić}}は再びこの地域を支配下に置いている。
1375年、25日間の包囲の後初めてオスマン帝国の支配下に置かれた。この出来事はセルビアの陥落だけでなく、ニシュの運命も決めていた。後の1389年の[[コソボの戦い]]でセルビアの力は弱まり、70年間は半独立の国のような存在となりコンスタンティノープル-ウィーン間の街道の成長は見限られた。
1443年にニシュはルダニン(Ludanjin)のものとなり、町自体はセルビアに戻っている。ニシュの近くでは1443年にハンガリー王国の[[フニャディ・ヤーノシュ]]とセルビアの君主{{仮リンク|ジョルジュ・ブランコヴィッチ|en|Đurađ Branković}}軍とオスマンとの間で{{仮リンク|ニシュの戦い|en|Battle of Niš}}がありこれによってオスマンを撃退している。その後、再びオスマンに攻略されるまではニシュは自由都市として存続した。

=== 近世 ===
[[File:Tvrdjava grad nis.jpg|thumb|left|ニシュ要塞]]
ニシュは1448年、再びオスマン帝国に屈服し以来241年にわたってその支配下にあった。オスマンの時代、ニシュは{{仮リンク|ニシュ・サンジャク|en|Sanjak of Niš}}や{{仮リンク|ニシュ州|en|Niš Eyalet}}の首府が置かれ<ref>{{cite book|title=Godišnjak grada Beograda|year=1977|publisher=Museum of the Belgrade|url=http://books.google.com/books?id=OE_jAAAAMAAJ&q=%22%D0%9D%D0%B8%D1%88%D0%BA%D0%B8+%D1%81%D0%B0%D0%BD%D1%9F%D0%B0%D0%BA%22&dq=%22%D0%9D%D0%B8%D1%88%D0%BA%D0%B8+%D1%81%D0%B0%D0%BD%D1%9F%D0%B0%D0%BA%22&hl=en&ei=6MgaTq6QF8_2sgbnv_S4Dw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CCcQ6AEwADgK|accessdate=11 July 2011|page=116}}</ref>
{{仮リンク|ニシュ要塞|en|Niš Fortress}}はオスマン期に築城され現在でもその姿を見ることが出来、バルカン半島でも良く保存された要塞の一つである。1689年にオーストリアの軍とオスマンとの間で{{仮リンク|ニシュの戦い (1689年)|en|Battle of Niš (1689)}}が起こり、翌年オスマンからニシュは奪い返された。1737年にニシュは{{仮リンク|露土戦争 (1735年-1739年)|en|Russo-Austrian-Turkish War (1735–1739)}}によりオーストリアが攻略するが、1739年に戦いが終わると再びオスマンの支配下となった。

=== 19世紀から第二次世界大戦まで ===
[[File:Skull Tower detail.jpg|thumb|upright|チェレ・クラ Ćele Kula]]
[[File:Aeroplane Niš 1912.jpg|thumb|right|ニシュに最初に飛来した[[ブレリオ XI]] 1912年]]
[[File:Niš 1930s.jpg|thumb|right|1930年代のヴォジュドヴァ通り]]
[[File:Monument du Mont Cegar.jpg|thumb|left|upright|チャガル丘のモニュメント]]
[[File:Bubanj-Pesnice sa amfiteatra 2.jpg|thumb|left|Bubanj Memorial Park|ブバニ第二次世界大戦記念公園]]
{{仮リンク|第一次セルビア蜂起|en|First Serbian Uprising}}の時にニシュの解放が1809年に企てられチェガル(''Čegar'')の戦いが起こる。その後、セルビアの解放勢力はニシュのオスマンの司令官の命令によって斬首され警告のため塔にさらされた。この塔は今日、頭蓋骨の塔[[チェレ・クラ]]として知られている。

ニシュは最終的にセルボ-トルコ戦争によって解放された。ニシュの解放への戦いは1877年12月29日に始まり、セルビアの軍がニシュに1878年1月11日に入りセルビアの一部となった。この解放後、ニシュの急速な近代化が進む。

1879年にニシュには図書館が設立され最初の図書館員は{{仮リンク|ステヴァン・スレマツ|en|Đurađ Branković}}である。最初のホテルである''Europe''は1879年に建てられ、1881年には病院の運用が始まった。市庁舎は1882年から1887年にかけ建築され、印刷所''Kosta Čendaš''は1883年に設立されている。1884年には最初の新聞である''Niški Vesnik''が創刊され、1884年にはヨヴァン・アペル''Jovan Apel''によってビール醸造所が建てられた。鉄道がニシュに建設されたのは1884年のことで駅も設けられ、1884年8月8日には最初の列車がベオグラードから到着した。1885年以来、ニシュは[[オリエントエクスプレス]]の終着駅で1888年にブルガリアの[[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]]まで鉄道が開業するまで続いた。1887年にミハイロ・ディミツ''Mihailo Dimić''によりニシュ国立劇場が設立されている。1897年にはミタ・リスティツにより織物工場''Nitex''が設立された。1905年には''Nadežda Petrović''によりアートコロニーが設けられる。最初の映写は1897年で常設の映画館の開館は1905年である。ニシュヴァ川に水力発電所が建設されたのは1908年で当時、セルビアでは最大のものであった。1912年には飛行場がトルパレフィールドに建設され、1912年12月29日に最初の飛行機が着陸した。1913年には市の博物館が開館し考古学や民俗学に関連したものや芸術作品を収蔵している。

[[第一次バルカン戦争]]時、ニシュはセルビア軍のオスマン帝国に対する軍事作戦の司令部が置かれていた。第一次世界大戦時、ニシュには戦時首都が置かれ政府機関や議会があり1915年11月にセルビアが[[中央同盟国]]に征服されるまで続いた。{{仮リンク|テッサロニキ戦線|en|Macedonian front (World War I)}}の展開によりセルビア軍の元帥[[ペータル・ボヨヴィッチ]]によりニシュは1918年10月12日に解放されている。
最初の数年間はニシュは戦争からの復興に費やされ、1930年11月には路面電車(市電)の運行が開始されている。国営航空の{{仮リンク|アエロプト|en|Aeroput}}が[[ベオグラード]]-'''ニシュ'''-[[スコピエ]]-[[テッサロニキ]]の間で1930年に運航を開始した。

第二次世界大戦時にはドイツが町を占領し、ユーゴスラビアでは最初のナチスの強制収容所がニシュに置かれ30,000人もの人が収容され10,000人がブバニ(Bubanj)の丘で射殺されている。1942年2月12日には147人の収容者の大脱走の現場になった。1944年には連合国の激しい爆撃を受けている。<ref>[http://www.danas.rs/20040417/vikend3.html Serbs were not specially chosen as targets], [[Danas]]</ref>
1944年10月にニシュは[[パルチザン (ユーゴスラビア)|パルチザン]]とソ連軍により解放されている。

=== 現代 ===
1996年、ニシュはセルビアでは最初の[[スロボダン・ミロシェヴィッチ]]支配に対し抵抗する都市となった。同年にニシュで行われた地元選挙で勝利したセルビアとともにと呼ばれる民主的な野党連合は88日間にわたり通りでミロシェヴィッチの政党が権力を引き渡すまで抵抗した。ニシュの最初の民主的な市長はゾラン・ジヴコヴィッチ''Zoran Živković''である。1999年5月7日に[[NATO]]による空爆により14名の市民が犠牲になっている。
{{wide image|Niš, panorama náměstí.jpg|900px|現代のニシュ中心部のミラン王広場}}

== 経済 ==
ニシュはユーゴスラビア時代から開発が進んでいた都市で、1981年のGDPはユーゴスラビア平均の110%であった。<ref>{{cite book | title=Atlas svijeta: Novi pogled na Zemlju | year=1984 | edition=3rd | publisher=Sveučilišna naklada Liber | location=Zagreb | language=Croatian | editor1-first=Radovan | editor1-last=Radovinović | editor2-first=Ivan | editor2-last=Bertić}}</ref>行政的な中心であると共、ニシュはセルビア南部の交通網の重要な要衝で、これは古代以来からのものである。現在でもセルビアの産業の重要な中心地で、タバコ産業は良く知られた存在である他、電気機械産業や建設、機械エンジニアリング、織物、貴金属、食品産業、皮革など多様な産業を有する。ニシュのタバコ工場は1930年に創業が始まり、市内の[[ツルヴェニ・クルスト]]に立地し、タバコや巻きタバコ、タバコ器具、フィルターなどタバコに関連した製品を製造する。1995年には研究所も設置され、新製品などの開発は行われている。民営化の過程でニシュタバコ工場は2003年8月に[[フィリップモリス]]に買収された。フィリップモリスは5億8000万ユーロを投資したが、これは一つの案件として外国企業がセルビアに行った投資の中では2003年では最大のものであった。

== 交通 ==
[[File:Niš railway station 2.JPG|thumb|left|ニシュ駅]]
[[File:Bus station niš.jpg|thumb|ニシュバスステーション]]

ニシュは[[モラヴァ川]]流域北部と[[ヴァルダル川]]流域南部の重要な位置にあり、[[ギリシャ]]と[[中央ヨーロッパ]]を結ぶ主要交通回廊の途中に位置する。ニシュ地域にはニシュバ川流域により自然に形成された、ソフィアやイスタンブルとを結ぶ回廊も通る。都市の立地条件から歴史的に地域にとって大変重要な位置を占めてきた。最初に立地の良さが活用されたのは、ローマ帝国によりミリタリア街道が敷かれ、北方向のシンギドゥヌム(現代のベオグラード)や南東方向のコンスタンティノープル(現代のイスタンブル)と結ばれたことである。

今日ではニシュは[[欧州自動車道路]][[E75号線]]によって北方向の[[ベオグラード]]や[[中央ヨーロッパ]]、南方向の[[スコピエ]]、[[テッサロニキ]]、[[アテネ]]と結ばれている。[[E80号線]]はニシュとソフィアやイスタンブル、さらに遠くのアナトリアや中東方面に伸び、プリスティナやモンテネグロ、アドリア海などの西方向にも伸びている。E771号線は[[ザイェチャル]]、[[クラドヴォ]]、[[ルーマニア]]の[[ドロベタ=トゥルヌ・セヴェリン]]へ伸びている。鉄道もまた道路と同様にニシュでは要衝になっている。[[コンスタンティヌス大帝空港]]{{enlink|Niš Constantine the Great Airport}}(国際空港:INI)(セルビア語:{{lang|sr|Аеродром Константин Велики}}、英語:Niš Constantine the Great Airport)はセルビアにとり2番目に重要な空港で1910年に最初の飛行場として建設された。

市内の公共交通機関は13のバス路線により構成されている。ニシュにはトラムの路線が1930年から1958年にかけて存在した。<ref>[http://www.arhivnis.co.rs/cirilica/idelatnost/br%201/cpksaobsrbije.htm arhivnis.co.rs]</ref>

== 行政区域 ==
{| border=0 cellpadding=2 cellspacing=3 class="wikitable"
|-
| colspan="5"| <center>[[File:Nis Municipalities.png|300px]]
ニシュ市は5つの基礎自治体で構成されている。4つの自治体はニシュの都市的地域にあり、ニシュカ・バニャは郊外の自治体である。2002年以前のニシュは2つの基礎自治体で構成され、1つはニシュでもう一つはニシュカ・バニャと呼称されていた。
ニシュの自治体の下はさらに街区に分かれている。
|- valign=top style="font-weight:bold"
! '''[[メディヤナ]]'''(Medijana)&nbsp;&nbsp;&nbsp;
! '''[[パリルラ]]'''(Palilula, Niš)&nbsp;&nbsp;&nbsp;
! '''[[パンテレイ]]'''(Pantelej)&nbsp;&nbsp;&nbsp;
! '''[[クルヴェニ・クルスト]]'''(Crveni Krst)&nbsp;&nbsp;&nbsp;
! '''[[ニシュカ・バニャ]]'''(Niška Banja)&nbsp;&nbsp;&nbsp;
|- valign=top
| Center
| Palilula
| Pantelej
| Crveni Krst
| Niška Banja
|- valign=top
| Marger
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== スポーツ ==
== スポーツ ==
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* [[ドラガン・ストイコビッチ]] 1965年ニシュに生まれたサッカー選手。代表としての[[キャップ数]]{{enlink|Cap (sport)|Caps}}84で15ゴール。ユーロ84, 90, 2000、ワールドカップ90, 98に出場。長く代表の主将を務めたほか、クラブチームでは[[レッドスター・ベオグラード]]、[[オリンピック・マルセイユ]]、[[名古屋グランパス]]などで活躍。引退後、[[ユーゴスラビアサッカー協会]]{{enlink|Football Association of Yugoslavia|FSJ}}会長を経て、2005年から[[レッドスター・ベオグラード]]会長。2008年からは名古屋グランパス監督。
* [[ドラガン・ストイコビッチ]] 1965年ニシュに生まれたサッカー選手。代表としての[[キャップ数]]{{enlink|Cap (sport)|Caps}}84で15ゴール。ユーロ84, 90, 2000、ワールドカップ90, 98に出場。長く代表の主将を務めたほか、クラブチームでは[[レッドスター・ベオグラード]]、[[オリンピック・マルセイユ]]、[[名古屋グランパス]]などで活躍。引退後、[[ユーゴスラビアサッカー協会]]{{enlink|Football Association of Yugoslavia|FSJ}}会長を経て、2005年から[[レッドスター・ベオグラード]]会長。2008年からは名古屋グランパス監督。
* [[デヤン・ペトコビッチ]] 1988-1991まで、[[ラドニツキ・ニシュ]]に在籍した。[[レアル・マドリード]]などを経て、2004年、2005年に、ブラジル国内リーグで、シルバーボール受賞。
* [[デヤン・ペトコビッチ]] 1988-1991まで、[[ラドニツキ・ニシュ]]に在籍した。[[レアル・マドリード]]などを経て、2004年、2005年に、ブラジル国内リーグで、シルバーボール受賞。
* [[ユスティヌス1世]] -ビザンティン・[[ユスティニアヌス王朝]]初代皇帝

== 国際関係 ==
=== 姉妹都市 ===
ニシュは市庁の公式サイトによれば以下の都市と[[姉妹都市]]の関係にある。<ref name="twin">{{cite web|url=http://www.ni.rs/news/brat-e.html|title=Twinnings|publisher=Niš City Hall|accessdate=2008-04-17}} {{Dead link|date=November 2010|bot=H3llBot}}</ref>
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* {{flagicon|Macedonia}} [[スコピエ]], [[マケドニア共和国]]
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* {{flagicon|Slovakia}} [[コシツェ]], [[スロバキア]]<ref name="twin" /><ref name="Košice">{{cite web|url=http://www.kosice.sk/clanok.asp?file=gov_s_c-00.html|publisher=[[copyright|©]] 2007-2009 [http://www.kosice.sk/ City of Košice] Magistrát mesta Košice, Tr. SNP 48/A, 040 11 Košice|title=Partnership towns of the City of Košice|language=Slovak|accessdate=2009-07-12}}</ref>
* {{flagicon|Russia}} [[クルスク]], [[ロシア]]<ref name="twin" />
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* {{flagicon|Norway}} [[サルトダル]], [[ノルウェー]]<ref name="twin" />
* {{flagicon|Germany}} [[バート・ホンブルク]], [[ドイツ]]<ref name="twin" />
* {{flagicon|Poland}} [[クラクフ]], [[ポーランド]]<ref name="twin" />
|}

=== 他の協力関係、友好都市 ===
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* {{flagicon|Austria}} [[ウィーン]], [[オーストリア]]<ref name="twin" />
* {{flagicon|Austria}} [[グラーツ]], [[オーストリア]]<ref name="twin" />
* {{flagicon|Spain}} [[バルセロナ]], [[スペイン]]<ref name="twin" />
* {{flagicon|United States of America}} [[コロンバス (オハイオ州)|コロンバス]], [[アメリカ]]<ref name="twin" />
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== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
{{CommonsN|Nis}}
* [[ナイススの戦い]]
* [[ナイススの戦い]]

== 外部リンク ==
{{commons category|Niš}}
* '''[http://www.ni.rs/ ニシュ市公式サイト]'''
* [http://www.rpknis.rs/ ニシュ商工会議所公式サイト]



[[Category:セルビアの都市|にしゆ]]
[[Category:セルビアの都市|にしゆ]]
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[[ast:Nix]]
[[ast:Nix]]

2012年7月11日 (水) 10:47時点における版

ニシュ

Niš
Ниш
ニシュの市旗 ニシュの市章
基礎自治体 基礎自治体
愛称 : 皇帝の街[1]
位置
セルビアでのニシュの位置の位置図
セルビアでのニシュの位置
座標 : 北緯43度19分09秒 東経21度53分46秒 / 北緯43.31917度 東経21.89611度 / 43.31917; 21.89611
行政
セルビアの旗 セルビア
  ニシャヴァ郡
  5自治体で構成
 基礎自治体 ニシュ
地理
面積  
  基礎自治体 597 km2 (230.5 mi2)
標高 195 m (640 ft)
人口
人口 (2011年現在)
  基礎自治体 257,867人
  市街地 192,208人
  備考 [2]
その他
等時帯 CET (UTC+1)
夏時間 CEST (UTC+2)
郵便番号 18000
市外局番 +381 18
ナンバープレート NI
公式ウェブサイト : http://www.nis.org.yu/

ニシュセルビア語: Niš/Ниш)はセルビアの都市で、セルビア南部では最大の都市である。セルビアでは首都ベオグラードノヴィ・サドに次いで3番目に大きな都市で、2011年の国勢調査による人口は市街地で192,208人[2]、郊外を含めた全域では257,867人であった。ニシュの面積は597km2で、市街地の4つの自治体と郊外のニシュカ・バニャを含めた計5つの自治体で構成され郊外は68の地区に分かれている。ニシュはニシャヴァ郡の行政的な中心都市である。

バルカン半島やヨーロッパでもニシュはもっとも古い都市のうちの一つで、古代からオリエントと西側の世界を結ぶ玄関口であった。[3] 古代のバルカンでトラキア人鉄器時代に最初にこの地域一帯に居住し始め、トラキア人の部族であるトリバッリがケルト人がバルカンにやって来る前まで住んでいた。紀元前279年頃にケルト人がやって来ると、ケルトの一部族スコルディスキが地域を治めるようになる。紀元前75年には今日のニシュ市街を含む周辺部はローマ人により征服された。古代ローマは1世紀になるとミリタリア街道を建設し、ナイッスス(Naissus)と呼ばれた当時のニシュの町は重要な町の一つとなった。ニシュはまたコンスタンティノープルを創建した最初のキリスト教徒のローマ皇帝コンスタンティヌス1世の生誕地として有名で[4]コンスタンティヌス3世ユスティヌス1世の生誕地でもある。セルビアでももっとも古いものの一つである4世紀に遡る教会が郊外のメディアナにある。

現代のニシュはセルビアではもっとも重要な産業や教育の中心の一つで、電気産業や機械エンジニアリング、織物、タバコ産業の中心である。2013年にニシュではミラノ勅令から1,700年を記念した催しが行われる。[5]

地勢

ニシュはニシュヴァ川流域の東側に位置し、南モラヴァ川との合流点近くに位置する。市街地中心部の海抜は市の中央広場付近で194mある。市内の最高地点はスヴァ山のソコロヴ・カメン(隼岩)で海抜1,523m、最低地点はニシュヴァ川合流地点の海抜173mである。

ニシュは大陸性気候の地域に含まれる。年平均気温は11.2℃で、最暖月の7月の平均気温は21.2℃、最寒月の1月の平均気温は0.2℃である。年平均降水量は567.25mmで、年間123日は降水があり45日間は積雪で覆われる。

歴史

古代

考古学的な発見から新石器時代住居の跡も見られる。ニシュやその周辺地域は紀元前5000年から紀元前2000年に遡るが、その中でもフムスカ・チュカ(Humska Čuka)注目される遺跡である。[6] トラキア人の出現は鉄器時代頃である。ローマ以前の中心となる町は現在のべラ・パランカにあったダキア人の町アイアダヴァで後のローマのレメシアナである。トラキア人の部族トリバッリはニシュ周辺に居住し、紀元前424年早期に言及されている。紀元前279年頃にケルト人がバルカン半島に侵入するとケルト系のスコルディスキはトリバッリを征服し、居住したが当時の都市はナヴィッソス Navissosの名で知られていた。[7]

ローマ時代

ナイススのラピダリウム

バルカン半島がローマにより征服された紀元前175-168年、ナイッソスNaissos(ナイスス,Naissus)は作戦の基地として使われた。ナイススが最初にローマの文書に記録されたのは2世紀が始まった頃で、クラウディオス・プトレマイオスGeography で注目に値する場所と考えていた。ローマによって支配された町はダルダニアン戦争(73-75年)の期間に軍団が組織された。[8] 町は初期ローマに関連した避難地を意味するレフュジアや勝ったなどを意味するviciと呼ばれ、戦略的に重要な場所でモエシア・スペリオルの駐屯地や市場町であった。[9] 古代ローマミリタリス街道を1世紀初期に建設し、ナイススは重要な町の一つとなった。リスッス英語版セルディカシギディニウム英語版ラティアリア英語版テッサロニカスクーピ英語版経由)5つの街道がナイススで交差していた。[8]

アヤソフィアコンスタンティヌス1世のモザイクc. 1000

3世紀の危機にあった268年、皇帝はいずれも短命に終わりゴート族の大規模な侵入も起こった。ゴート族の連合によりトラキアマケドニアモエシアパンノニアは蹂躙された。その後、クラウディウス・ゴティクスが皇帝に就くと、3世紀の戦いの中でも血なまぐさい戦いの一つであるナイススの戦いでゴート族の連合軍を打ち破っている。ゴート族の連合軍は3万から5万人がこの地で戦死している。272年になると後の皇帝となるコンスタンティヌス1世がナイススで生誕した。コンスタンティヌスはダキア・メディテッラネア州を制定し、ナイススを首府としている。

メディアナのモザイク

皇帝の邸宅跡がニシュ郊外のメディアナ英語版にあり、重要な遺跡になっている。コンスタンティヌスも一時期、居住していた。364年、メディアナはウァレンティニアヌス1世とその弟であるウァレンスに帝国の分割による共同皇帝に選ばれた。[10] ユリアヌスの皇帝在位中、城壁は強化されナイススは大いに繁栄した。443年になるとフン族の王アッティラにより標的とされ破壊されナイススは攻略されると蹂躙された。フン族に支配された後のナイススの市民は虐殺されている。何年かは市外の河岸にはフン族に蹂躙され虐殺された市民の遺骸で覆われていたとされる。ユスティニアヌス王朝の創始者であるユスティヌス1世が450年にナイススで生誕し、甥のユスティニアヌス1世はナイススの町を良く復興させたが、町は4世紀再び回復することはなかった。ユスティヌスはユスティヌス主教座を設けた。プロコピオスにはNaissopolisと言及されている。[11]

中世

第1回十字軍中の1096年のニシュ包囲

6世紀後半になると最初の大規模なスラヴ人やアヴァールの民族移動が見られた。6世紀から7世紀の間、スラヴ人の部族は8度にわたってニシュへの攻略を試みた。551年にスラヴ人はニシュを横切り、最初にテッサロニキに向かったがダルマチアで終わっている。[12][13]580年代、南スラヴ人の一部族スクラヴェニはセルビアやギリシャ北部を征服した。[14]最後の攻撃は615年中に起こり、スラヴ人は町を掌握しローマ人やローマ化されたトラキア人やダキア人は、逃れるかあるいは滅びるか同化された。スラヴ人のスクラヴェニの独立はいくらかの期間残り、785年コンスタンティノス6世により征服される。842年にテオフィロスの死去によりこの地域はブルガール人が支配するようになる。[15]

1018年にバシレイオス2世はシルミウム・テマを成立させ、ブルガリアやセルビアを攻略しニシュは3つの公式都市のうちの1つとなった。コンスタンティヌス・ボディンは1072年にマケドニアでブルガリアが反乱を起こしビザンティン帝国に抵抗するためブルガリア帝国の王冠を戴いた。ボディンはニシュを攻略したが、後に捕らえている。[16] 民衆十字軍期の1096年7月3日、隠者ピエールはビザンティンの軍隊とニシュで衝突し自らの4分の1の勢力を失ったが、コンスタンティノープルまでの行軍は導いている。[17]

1155年、デサ公がニシュを従属地として受け取っている。[18]1162年、ビザンティン皇帝マヌエル1世コムネノスはニシュでステファン・ネマニャに会っており、ビザンティンへの勝利からレスコヴァツとニシュで構成されたドゥボツィツァ(Dubočica)を得る。[18]1188年、ニシュはステファン・ネマニャのセルビア王国の首都になり[19]、1189年7月22日にネマニャは神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世よりニシュに10万人の十字軍戦士を受け入れている。[20]1202年はヴカン2世英語版の統治の時代で、ニシュには特別な地位があったことが言及されている。[21]1203年、カロヤン・アセンはニシュを併合するが[22]後にステファン・ネマニッチは再びこの地域を支配下に置いている。

1375年、25日間の包囲の後初めてオスマン帝国の支配下に置かれた。この出来事はセルビアの陥落だけでなく、ニシュの運命も決めていた。後の1389年のコソボの戦いでセルビアの力は弱まり、70年間は半独立の国のような存在となりコンスタンティノープル-ウィーン間の街道の成長は見限られた。

1443年にニシュはルダニン(Ludanjin)のものとなり、町自体はセルビアに戻っている。ニシュの近くでは1443年にハンガリー王国のフニャディ・ヤーノシュとセルビアの君主ジョルジュ・ブランコヴィッチ英語版軍とオスマンとの間でニシュの戦い英語版がありこれによってオスマンを撃退している。その後、再びオスマンに攻略されるまではニシュは自由都市として存続した。

近世

ファイル:Tvrdjava grad nis.jpg
ニシュ要塞

ニシュは1448年、再びオスマン帝国に屈服し以来241年にわたってその支配下にあった。オスマンの時代、ニシュはニシュ・サンジャク英語版ニシュ州英語版の首府が置かれ[23] ニシュ要塞英語版はオスマン期に築城され現在でもその姿を見ることが出来、バルカン半島でも良く保存された要塞の一つである。1689年にオーストリアの軍とオスマンとの間でニシュの戦い (1689年)英語版が起こり、翌年オスマンからニシュは奪い返された。1737年にニシュは露土戦争 (1735年-1739年)によりオーストリアが攻略するが、1739年に戦いが終わると再びオスマンの支配下となった。

19世紀から第二次世界大戦まで

チェレ・クラ Ćele Kula
ニシュに最初に飛来したブレリオ XI 1912年
ファイル:Niš 1930s.jpg
1930年代のヴォジュドヴァ通り
チャガル丘のモニュメント
ブバニ第二次世界大戦記念公園

第一次セルビア蜂起の時にニシュの解放が1809年に企てられチェガル(Čegar)の戦いが起こる。その後、セルビアの解放勢力はニシュのオスマンの司令官の命令によって斬首され警告のため塔にさらされた。この塔は今日、頭蓋骨の塔チェレ・クラとして知られている。

ニシュは最終的にセルボ-トルコ戦争によって解放された。ニシュの解放への戦いは1877年12月29日に始まり、セルビアの軍がニシュに1878年1月11日に入りセルビアの一部となった。この解放後、ニシュの急速な近代化が進む。

1879年にニシュには図書館が設立され最初の図書館員はステヴァン・スレマツ英語版である。最初のホテルであるEuropeは1879年に建てられ、1881年には病院の運用が始まった。市庁舎は1882年から1887年にかけ建築され、印刷所Kosta Čendašは1883年に設立されている。1884年には最初の新聞であるNiški Vesnikが創刊され、1884年にはヨヴァン・アペルJovan Apelによってビール醸造所が建てられた。鉄道がニシュに建設されたのは1884年のことで駅も設けられ、1884年8月8日には最初の列車がベオグラードから到着した。1885年以来、ニシュはオリエントエクスプレスの終着駅で1888年にブルガリアのソフィアまで鉄道が開業するまで続いた。1887年にミハイロ・ディミツMihailo Dimićによりニシュ国立劇場が設立されている。1897年にはミタ・リスティツにより織物工場Nitexが設立された。1905年にはNadežda Petrovićによりアートコロニーが設けられる。最初の映写は1897年で常設の映画館の開館は1905年である。ニシュヴァ川に水力発電所が建設されたのは1908年で当時、セルビアでは最大のものであった。1912年には飛行場がトルパレフィールドに建設され、1912年12月29日に最初の飛行機が着陸した。1913年には市の博物館が開館し考古学や民俗学に関連したものや芸術作品を収蔵している。

第一次バルカン戦争時、ニシュはセルビア軍のオスマン帝国に対する軍事作戦の司令部が置かれていた。第一次世界大戦時、ニシュには戦時首都が置かれ政府機関や議会があり1915年11月にセルビアが中央同盟国に征服されるまで続いた。テッサロニキ戦線英語版の展開によりセルビア軍の元帥ペータル・ボヨヴィッチによりニシュは1918年10月12日に解放されている。 最初の数年間はニシュは戦争からの復興に費やされ、1930年11月には路面電車(市電)の運行が開始されている。国営航空のアエロプト英語版ベオグラード-ニシュ-スコピエ-テッサロニキの間で1930年に運航を開始した。

第二次世界大戦時にはドイツが町を占領し、ユーゴスラビアでは最初のナチスの強制収容所がニシュに置かれ30,000人もの人が収容され10,000人がブバニ(Bubanj)の丘で射殺されている。1942年2月12日には147人の収容者の大脱走の現場になった。1944年には連合国の激しい爆撃を受けている。[24] 1944年10月にニシュはパルチザンとソ連軍により解放されている。

現代

1996年、ニシュはセルビアでは最初のスロボダン・ミロシェヴィッチ支配に対し抵抗する都市となった。同年にニシュで行われた地元選挙で勝利したセルビアとともにと呼ばれる民主的な野党連合は88日間にわたり通りでミロシェヴィッチの政党が権力を引き渡すまで抵抗した。ニシュの最初の民主的な市長はゾラン・ジヴコヴィッチZoran Živkovićである。1999年5月7日にNATOによる空爆により14名の市民が犠牲になっている。

現代のニシュ中心部のミラン王広場

経済

ニシュはユーゴスラビア時代から開発が進んでいた都市で、1981年のGDPはユーゴスラビア平均の110%であった。[25]行政的な中心であると共、ニシュはセルビア南部の交通網の重要な要衝で、これは古代以来からのものである。現在でもセルビアの産業の重要な中心地で、タバコ産業は良く知られた存在である他、電気機械産業や建設、機械エンジニアリング、織物、貴金属、食品産業、皮革など多様な産業を有する。ニシュのタバコ工場は1930年に創業が始まり、市内のツルヴェニ・クルストに立地し、タバコや巻きタバコ、タバコ器具、フィルターなどタバコに関連した製品を製造する。1995年には研究所も設置され、新製品などの開発は行われている。民営化の過程でニシュタバコ工場は2003年8月にフィリップモリスに買収された。フィリップモリスは5億8000万ユーロを投資したが、これは一つの案件として外国企業がセルビアに行った投資の中では2003年では最大のものであった。

交通

ニシュ駅
ニシュバスステーション

ニシュはモラヴァ川流域北部とヴァルダル川流域南部の重要な位置にあり、ギリシャ中央ヨーロッパを結ぶ主要交通回廊の途中に位置する。ニシュ地域にはニシュバ川流域により自然に形成された、ソフィアやイスタンブルとを結ぶ回廊も通る。都市の立地条件から歴史的に地域にとって大変重要な位置を占めてきた。最初に立地の良さが活用されたのは、ローマ帝国によりミリタリア街道が敷かれ、北方向のシンギドゥヌム(現代のベオグラード)や南東方向のコンスタンティノープル(現代のイスタンブル)と結ばれたことである。

今日ではニシュは欧州自動車道路E75号線によって北方向のベオグラード中央ヨーロッパ、南方向のスコピエテッサロニキアテネと結ばれている。E80号線はニシュとソフィアやイスタンブル、さらに遠くのアナトリアや中東方面に伸び、プリスティナやモンテネグロ、アドリア海などの西方向にも伸びている。E771号線はザイェチャルクラドヴォルーマニアドロベタ=トゥルヌ・セヴェリンへ伸びている。鉄道もまた道路と同様にニシュでは要衝になっている。コンスタンティヌス大帝空港 (Niš Constantine the Great Airport(国際空港:INI)(セルビア語:Аеродром Константин Велики、英語:Niš Constantine the Great Airport)はセルビアにとり2番目に重要な空港で1910年に最初の飛行場として建設された。

市内の公共交通機関は13のバス路線により構成されている。ニシュにはトラムの路線が1930年から1958年にかけて存在した。[26]

行政区域

ニシュ市は5つの基礎自治体で構成されている。4つの自治体はニシュの都市的地域にあり、ニシュカ・バニャは郊外の自治体である。2002年以前のニシュは2つの基礎自治体で構成され、1つはニシュでもう一つはニシュカ・バニャと呼称されていた。 ニシュの自治体の下はさらに街区に分かれている。

メディヤナ(Medijana)    パリルラ(Palilula, Niš)    パンテレイ(Pantelej)    クルヴェニ・クルスト(Crveni Krst)    ニシュカ・バニャ(Niška Banja)   
Center Palilula Pantelej Crveni Krst Niška Banja
Marger Staro Groblje Jagodin Mala (一部) Beograd Mala nas. Nikola Tesla (broj 6)
Trg Kralja Aleksandra Crni put Durlan Jagodin Mala (一部) Jelašnica
Kičevo Bubanj Komren (一部) Komren (殆ど) Sićevo
Čair Ledena Stena Čalije Šljaka Ostrovica
Bulevar Nemanjica Suvi Do Somborska Medosevac Prva Kutina
Bulevar Djindjica Apelovac Vrežina   Radikina Bara
Medijana Kovanluk     Prosek
Trošarina Tutunović Podrum     Čukljenik
Duvanište Kalač Brdo     Donja i gornja Studena
Brzi Brod Gabrovačka reka      

スポーツ

サッカー

クラブチームには、全国リーグに在籍するラドニツキ・ニシュ (FK Radnički Nišがあるが、2002 - 2003シーズンの結果により、トップリーグを陥落した。ラドニツキ・ニシュ出身の有名選手に、ドラガン・ストイコビッチオリンピック・マルセイユ名古屋など)、デヤン・ペトコビッチレアル・マドリードフラメンゴなど)などがいる。

有名人・重要人物

国際関係

姉妹都市

ニシュは市庁の公式サイトによれば以下の都市と姉妹都市の関係にある。[27]

他の協力関係、友好都市


脚注

  1. ^ City of Nis, www.ni.rs
  2. ^ a b Попис становништва, домаћинстава и станова 2011. године у Републици Србији” (Serbian). Statistical Office of Serbia (2011年). accessdate引数が正しくありません。
  3. ^ http://www.metimes.com/storyview.php?StoryID=20070515-082637-6667r
  4. ^ New Advent Catholic encyclopedia: Constantine the Great
  5. ^ Moderate Patriarch Sets New Course for Serb Church”. IPS News (2010年2月1日). accessdate引数が正しくありません。
  6. ^ Stone Pages, 002763
  7. ^ Nis,Britanica
  8. ^ a b The provincial at Rome: and, Rome and the Balkans 80BC-AD14
  9. ^ http://www.balkaninstitut.com/pdf/izdanja/balcanica/Balcanica%20XXXVII%20(2006).pdf
  10. ^ http://www.sacred-texts.com/cla/gibbon/02/daf02049.htm
  11. ^ p. 238
  12. ^ BG III 40
  13. ^ http://www.rastko.rs/arheologija/delo/13047
  14. ^ The New Cambridge Medieval History: c. 500-c. 700, p. 539
  15. ^ Encyclopædia Britannica: a new survey of universal knowledge, Volume 20, p. 341: "the eastern provinces (Branichevo, Morava, Timok, Vardar, Podrimlye) were occupied by the Bulgars."
  16. ^ Byzantium's Balkan frontier, p. 142
  17. ^ The great migrations in the East and South East of Europe from the ninth to the thirteenth century, p. 146, Google Books link
  18. ^ a b The Late Medieval Balkans, p. 4
  19. ^ The Late Medieval Balkans, p. 7
  20. ^ The Late Medieval Balkans, p. 24
  21. ^ The Late Medieval Balkans, p. 48
  22. ^ The Late Medieval Balkans, p. 54
  23. ^ Godišnjak grada Beograda. Museum of the Belgrade. (1977). p. 116. http://books.google.com/books?id=OE_jAAAAMAAJ&q=%22%D0%9D%D0%B8%D1%88%D0%BA%D0%B8+%D1%81%D0%B0%D0%BD%D1%9F%D0%B0%D0%BA%22&dq=%22%D0%9D%D0%B8%D1%88%D0%BA%D0%B8+%D1%81%D0%B0%D0%BD%D1%9F%D0%B0%D0%BA%22&hl=en&ei=6MgaTq6QF8_2sgbnv_S4Dw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CCcQ6AEwADgK 11 July 2011閲覧。 
  24. ^ Serbs were not specially chosen as targets, Danas
  25. ^ Radovinović, Radovan; Bertić, Ivan, eds (1984) (Croatian). Atlas svijeta: Novi pogled na Zemlju (3rd ed.). Zagreb: Sveučilišna naklada Liber 
  26. ^ arhivnis.co.rs
  27. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p Twinnings”. Niš City Hall. 2008年4月17日閲覧。 [リンク切れ]
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関連項目

外部リンク

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