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|略名 = 西晋
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|変遷1 = 魏の禅譲により建国
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{{中国の歴史}}
{{中国の歴史}}
'''西晋'''(せいしん、[[拼音]]:Xījìn)は、[[司馬炎]]によって建てられた[[中国]]の統一[[王朝]]([[265年]] - [[316年]])。国号は単に'''[[晋 (王朝)|晋]]'''だが、[[南京市|建康]]に遷都した後の政権([[東晋]])に対して西晋と呼ばれる。
'''西晋'''(せいしん、[[拼音]]:Xījìn)は、[[司馬炎]]によって建てられた[[中国]]の[[王朝]]([[265年]] - [[316年]])。成立期は中国北部と南西部を領する王朝であったが、呉を滅ぼして中国全土を統一し、[[後漢]]末期以降分裂していた中国を100年振りに統一した王朝として君臨した。国号は単に'''[[晋 (王朝)|晋]]'''だが、[[南京市|建康]]に遷都した後の政権([[東晋]])に対して西晋と呼ばれる。


== 歴史 ==
==禅譲までの過程と晋の成立==
=== 司馬氏の台頭 ===
[[後漢]]末期に[[曹操]]に仕えていた[[司馬懿]]は、曹操の死後に[[曹丕]]・[[曹叡]]の信任により、[[魏 (三国)|魏]]の中心人物として権力を拡大し、[[呉_(三国)|呉]]軍を撃退し、[[諸葛亮]]の[[北伐]]を耐えしのぎ、[[公孫淵]]を滅ぼすなどの軍功により、魏の中での存在感は他を圧するものとなった。その伸張を疎まれて一時期閑職に遠ざけられることもあったが、司馬懿は息子の[[司馬師]]・[[司馬昭]]の助けを借りてクーデターを起こし、対抗勢力である[[曹爽]]一派を駆逐し、魏の権力を完全に掌握した。また、曹丕の制定した[[九品官人法]]を大幅に改定し、司馬氏に権力を集中させるなど政治的な面でも実権を握った。
[[Image:SimaYi.jpg|200px|thumb|晋の基礎を築いた司馬懿]]
司馬氏は[[河内郡]]の名族で[[秦]]の滅亡後に[[項羽]]や[[劉邦]]と共に活躍した[[殷]]王[[司馬卭]]の子孫を称し、後漢時代には既に歴代に郡の長官を輩出していた<ref name="中華の崩壊36">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P36</ref>。司馬懿の父[[司馬防]]は後漢末期の争乱から台頭した曹操に接近して関係を持ち<ref name="中華の崩壊36">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P36</ref>、長男の[[司馬朗]]に至っては曹操の重臣として仕えた。次男の[[司馬懿]]は[[208年]]、すなわち[[赤壁の戦い]]が発生した年から曹操に仕え、曹操の参謀、そしてその嫡子[[曹丕]]の世話役として曹操の丞相府で地位を確立していく<ref name="中華の崩壊36">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P36</ref>。[[220年]]に曹操が死去すると司馬懿は丞相府の司馬としてその葬儀を取り仕切り、曹丕を後漢の丞相・魏王に、そして魏皇帝に上り詰めさせる過程で大きな役割を果たしたことから<ref name="中華の崩壊36">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P36</ref>、曹丕(文帝)の信任を得た<ref name="中華の崩壊37">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P37</ref>。[[226年]]に文帝が崩御する直前には皇太子[[曹叡]](明帝)の後事を託される<ref name="中華の崩壊37">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P37</ref>。


曹丕の崩御で政情に不安を抱いた[[孟達]]に[[蜀]]の[[諸葛亮]]から帰順を勧める使者が遣わされて孟達が魏に反逆した際、司馬懿は鮮やかな戦略でこれを鎮圧して蜀の北進を防いだ<ref name="中華の崩壊37">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P37</ref>。やがて魏の軍事最高責任者として諸葛亮の率いる蜀軍と対峙し、敗戦もあったが最終的に[[234年]]には五丈原で諸葛亮の死を受けて蜀の勢威を挫いた<ref name="中華の崩壊37">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P37</ref>。[[238年]]には[[呉_(三国)|呉]]と連動して反魏的行動をとっていた遼東の[[公孫淵]]を討ち、魏における勢威を不動のものとした<ref name="中華の崩壊37">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P37</ref>。直後に明帝も崩御し、その直前に幼い[[曹芳]]を魏宗室の[[曹爽]]と共に託された<ref name="中華の崩壊38">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P38</ref>。しかし曹爽との間に確執が生じ、一時はその実権を奪われた<ref name="中華の崩壊38">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P38</ref>。
[[251年]]に司馬懿は死に、その権力は司馬師が引き継ぐ。司馬師も[[255年]]に死に、司馬昭が権力を引き継いだ。[[257年]]には司馬氏の権力掌握を打破すると称して[[諸葛誕]]の反乱が起きるが、司馬昭はこれを鎮圧して晋公の地位に勧められ、[[263年]]に[[蜀]](蜀漢)へ[[トウ艾|{{lang|zh|鄧艾}}]]・[[鍾会]]らを派遣してこれを滅ぼし([[蜀漢の滅亡]])、晋王となった。


[[249年]]に司馬懿はクーデターを起こし、[[曹爽]]一派を誅滅した<ref name="中華の崩壊38">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P38</ref>。これにより司馬一族は魏の権力を完全に掌握した。2年後の[[251年]]8月、司馬懿は死去した<ref name="中華の崩壊40">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P40</ref>。
[[265年]]に司馬昭が死に、その子の[[司馬炎]]が後を継ぐ。同年12月、司馬炎は魏の[[曹奐|元帝]]より[[禅譲]]を受け王朝を立てた。王朝を立てたのは司馬炎だが、晋の実質的な創立者は司馬炎の祖父の司馬懿である。魏の宗室の[[禁錮]]([[公職追放]])を同月のうちに解き、翌[[266年]]には魏代より続いていた後漢宗室の[[禁錮]]も解除した。


=== 覇権の確立 ===
[[270年]]、[[鮮卑]]の[[禿髪樹機能]]が反乱を起こし、秦州[[刺史]]の[[胡烈]]や[[涼州]]刺史の[[牽弘]]を破った。[[277年]]、[[文鴦]]が禿髪樹機能を降伏させた。[[279年]]、禿髪樹機能は再び反乱を起こし、涼州を制圧したが、西晋の[[馬隆]]に大敗し、部下の[[没骨能]]に殺害された。
[[Image:SimaZhao.jpg|right|thumb|250px|司馬昭 (左は司馬攸)]]
司馬懿の死後、その実権は正妻[[張春華]]との息子である[[司馬師]]が継承した<ref name="中華の崩壊40">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P40</ref>。[[252年]]には[[孫権]]の死に乗じて[[諸葛誕]]を呉に侵攻させるが、[[東興の戦い]]で大敗を喫した<ref name="中華の崩壊40">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P40</ref>。しかし司馬師はこの敗戦で諸将を不問としたため<ref name="中華の崩壊40">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P40</ref>、かえって人心を得ることになった<ref name="中華の崩壊41">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P41</ref>。[[254年]]2月、[[宰相]]の[[李豊]]による反司馬師の密謀が露見し、関係者が処刑され、さらに皇帝曹芳をも皇太后の命令と称して廃位を実行した<ref name="中華の崩壊41">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P41</ref>。新たな皇帝には文帝の孫[[曹髦]]が傀儡として立てられた<ref name="中華の崩壊41">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P41</ref>。しかし255年2月、この強引な廃立に対呉戦線の重鎮にあった[[カン丘倹|毌丘倹]]と[[文欽]]ら宿将らが反発して乱を起こし、司馬師自ら鎮圧に赴く<ref name="中華の崩壊41">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P41</ref>。反乱は鎮圧されたが、司馬師も病状が悪化して死亡した<ref name="中華の崩壊41">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P41</ref>。


司馬師の死後、同母弟の[[司馬昭]]が後継者となり、大将軍・録尚書事に就任した<ref name="中華の崩壊42">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P42</ref>。[[257年]]5月には対呉戦線で強大な勢力を誇っていた諸葛誕を皇帝や皇太后を奉じて[[258年]]2月までに滅ぼした<ref name="中華の崩壊42">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P42</ref>。[[260年]]5月には傀儡曹髦のクーデターを鎮圧して殺害した<ref name="中華の崩壊43">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P43</ref>。
[[280年]]、司馬炎は[[賈充]]・[[杜預]]・[[王濬]]・[[王渾]]らを派遣して、残る[[呉_(三国)|呉]]を[[晋が呉を滅ぼした戦い|滅ぼして晋は中国を統一した]]。


この頃になると諸葛亮亡き後の蜀では退潮の色が濃くなっており<ref name="中華の崩壊43">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P43</ref>、[[263年]]5月に司馬昭は新たな傀儡[[曹奐|元帝]]から蜀征討の詔を出させ、8月に18万の大軍を[[トウ艾|{{lang|zh|鄧艾}}]]・[[鍾会]]らに預けて11月に滅ぼした<ref name="中華の崩壊44">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P44</ref>([[蜀漢の滅亡]])。蜀平定前の10月から司馬昭に対して晋公就任の詔が出され、司馬昭は晋公となった<ref name="中華の崩壊45">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P45</ref>。[[264年]]3月には晋王に進み、5月には司馬懿を晋国の宣王、司馬師に景王を追贈し、10月に嫡子[[司馬炎]]を晋国の世子と定めた<ref name="中華の崩壊45">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P45</ref>。その後も魏臣に対して本領安堵を成すなど、着実な魏から晋への禅譲の準備が進められていくが、[[265年]]8月に司馬昭は急死した<ref name="中華の崩壊45">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P45</ref>。
魏自体、曹操・曹丕によって国家の基盤や制度が確立しており、三国では最も高い国力と軍事力を持っていた。このため、晋は豊富な国力と軍事力を持った魏から禅譲を受けると、これに乗る形となった司馬炎は呉を滅ぼしたが、統一後は政治を顧みず、後宮に1万人という美女を集めて女色にふけった。


=== 晋の成立 ===
こうして、王朝の初期に国家基盤が軽視されたことが、国情の紊乱ひいては政治の停滞へと繋がっていく。
[[Image:Jin Wu Di.jpg|thumb|250px|司馬炎]]
司馬昭の死後は嫡男の司馬炎が継いで晋王・相国となった<ref name="中華の崩壊47">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P47</ref>。そして265年12月には魏の元帝から禅譲を受けて即位し、年号を泰始と改めた<ref name="中華の崩壊47">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P47</ref>。晋王朝を立てたのは司馬炎だが、晋の実質的な創立者は司馬炎(武帝)の祖父の司馬懿である。


[[270年]]、[[鮮卑]]の[[禿髪樹機能]]が反乱を起こし、秦州[[刺史]]の[[胡烈]]や[[涼州]]刺史の[[牽弘]]を破った。[[277年]]、[[文鴦]]が禿髪樹機能を降伏させた。[[279年]]、禿髪樹機能は再び反乱を起こし、涼州を制圧したが、西晋の[[馬隆]]に大敗し部下の[[没骨能]]に殺害された。
== 八王の乱とそれ以降 ==
司馬炎は[[290年]]に死去し、皇太子の司馬衷([[恵帝_(西晋)|恵帝]])が後を継ぐ。しかしこの皇太子は暗愚で知られた人物で、父・司馬昭からも太子を取り替えるべきと、言われていた。その前評判どおり、即位した恵帝は政治を放り出し、実権は皇后の[[賈南風|賈后]]([[賈充]]の娘)が握った。


この頃、三国最後の呉は[[孫皓]]の暴政により乱れていたので、[[279年]]11月に武帝は東西から20万余の大軍を[[賈充]]・[[杜預]]・[[王濬]]・[[王渾]]らを大将にして派兵した<ref name="中華の崩壊50">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P50</ref>。晋軍は[[280年]]2月に[[江陵]]を攻略し、3月には石頭城を落として呉都の[[建業]]に侵攻し、[[晋が呉を滅ぼした戦い|孫皓は降伏して中国は晋によって再び統一された]]<ref name="中華の崩壊50">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P50</ref>。
賈后の専権に反対する趙王[[司馬倫]]は[[300年]]に賈后を殺して首都・[[洛陽]]を制圧し、[[301年]]に恵帝を廃して自ら即位した。これが[[八王の乱]]の始まりであり、これ以後、皇族同士による血を血で洗う争いが続き国内は荒廃した。


=== 乱れた武帝 ===
このような争いに嫌気が差した知識人たちは権力から離れ、隠者になり[[清談]]や詩作にふけるようになった。その中でも有名な者が[[竹林の七賢]]である。
武帝は統一事業を完成させると急に堕落した。それまでの英主が愚君に変貌して女と酒に溺れて朝政を顧みなくなった。また武帝の[[皇太子]]司馬衷が暗愚なため、衆望は武帝の12歳年下の同母弟で優秀だった斉王[[司馬攸]]の後継を期待していた<ref name="中華の崩壊53">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P53</ref>。ところが統一を果たした司馬炎は司馬攸に対して斉への赴任命令を出し、周囲の諫言を封殺した上に司馬攸を支持する派閥を徹底的に粛清して強行した<ref name="中華の崩壊53">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P53</ref>。司馬攸はこの命令に憂憤して発病し、[[283年]]に死去した。これにより晋宗室を支える人材はいなくなり、武帝の晩年には皇后楊氏の父[[楊俊]]が朝政を掌握して、西晋はかつての[[後漢]]と同じように外戚が国を専権する様相が再現された<ref name="中華の崩壊54">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P54</ref>。


=== 八王の乱 ===
八王の乱による混乱を見た[[匈奴]]の大首長[[劉淵]]は[[304年]]に晋より自立して匈奴大単于を称する。この時をもって[[五胡十六国時代]]の始まりとされる。劉淵は更に[[308年]]には皇帝を名乗って国号を漢(のちに趙を名乗り、後世からは[[前趙]]と呼ばれる)とした。また[[四川省|四川]]で[[成漢]]が自立した。
{{Main|八王の乱}}
司馬炎は[[290年]]4月に崩御し、皇太子の司馬衷([[恵帝_(西晋)|恵帝]])が第2代皇帝として即位した<ref name="中華の崩壊57">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P57</ref><ref name="民族大移動47">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P47</ref>。しかしこの皇太子は暗愚で知られた人物で、司馬昭からも太子を取り替えるべきと言われていた。その前評判どおり、即位した恵帝は政治を放り出し、実権は武帝の晩年から朝政を掌握していた楊[[皇太后]]の父楊俊が輔政の形で壟断した<ref name="中華の崩壊57">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P57</ref><ref name="民族大移動47">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P47</ref>。これが後に西晋の根幹を揺るがした[[八王の乱]]の始まりである。


楊俊は2人の弟を要職に就けて一族で専横した<ref name="民族大移動47">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P47</ref>。だが恵帝の皇后の[[賈南風|賈后]]([[賈充]]の娘)は楊氏の専横を憎み、汝南王[[司馬亮]]・楚王[[司馬イ|司馬瑋]]と結託して楊俊を殺害、さらには結託したはずの2人も殺害して実権を掌握した<ref name="中華の崩壊57">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P57</ref><ref name="民族大移動47">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P47</ref>。その後は賈后と甥の[[賈謐]]による10年弱の専横が続くが<ref name="中華の崩壊57">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P57</ref><ref name="民族大移動47">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P47</ref>、政治そのものは名士の[[張華]]らが見たためかろうじて西晋は安定が保たれた<ref name="中華の崩壊58">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P58</ref><ref name="民族大移動48">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P48</ref>。
八王の乱は[[306年]]に終結して、その年に[[司馬越]]により[[懐帝_(西晋)|懐帝]]が擁立される。劉淵は[[310年]]に死去し、後を継いだ[[劉聡]]は翌[[311年]]に洛陽を陥落させ、懐帝は捕らえられる。このことを西晋側から見て異民族の反乱であるとして[[永嘉の乱]]と呼ぶ。


[[299年]]12月、賈后は[[皇太子]][[司馬イツ|司馬遹]]を廃し、300年[[3月]]に殺害し、これにより西晋全土で賈后に対する専横に反発が生まれ、[[300年]]4月に[[趙]]王[[司馬倫]]は賈后とその一派を殺して首都[[洛陽]]を制圧し、[[301年]]1月に恵帝を廃して自ら即位した<ref name="中華の崩壊58">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P58</ref><ref name="民族大移動48">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P48</ref>。厳密にはこれが[[八王の乱]]の始まりである。司馬倫の簒奪は諸王の反発を招き、殺害されてこれ以後、皇族同士による血を血で洗う争いが続き国内は荒廃した<ref name="中華の崩壊58">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P58</ref><ref name="民族大移動48">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P48</ref>。このような争いに嫌気が差した知識人たちは権力から離れ、隠者になり[[清談]]や詩作にふけるようになった。その中でも有名な者が[[竹林の七賢]]である。
懐帝は生かされたものの、劉聡により酒宴で酒を注ぐ役をさせられるという屈辱を与えられ、[[313年]]に処刑される。懐帝が処刑されたことを聞いて[[長安]]にいた司馬鄴([[愍帝_(西晋)|愍帝]])は即位して漢(前趙)に抵抗するが、[[316年]]、長安が陥落して西晋は滅亡。愍帝は懐帝同様の扱いを受けた後、殺される。


八王の乱は最終的に[[306年]][[11月]]に東海王[[司馬越]]によって恵帝の異母弟である[[懐帝_(西晋)|懐帝]]司馬熾が第3代皇帝に擁立される事で終焉した<ref name="中華の崩壊58">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P58</ref><ref name="民族大移動48">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P48</ref>。
皇族のうちただ一人逃げ延びた琅邪王・司馬睿([[元帝_(東晋)|元帝]])は江南に逃れ、愍帝が殺されたことを受けて即位して[[建康 (都城)|建康]]に都して[[東晋]]をたてた。


=== 永嘉の乱と西晋の実質的な滅亡 ===
== 政治 ==
{{Main|永嘉の乱}}
八王の乱による混乱を見た[[匈奴]]の大首長[[劉淵]]は、[[304年]]に晋より自立して匈奴大単于を称する。この時をもって[[五胡十六国時代]]の始まりとされる。劉淵は更に[[308年]]には皇帝を名乗って国号を漢(のちに趙を名乗り、後世からは[[前趙]]と呼ばれる)とした。また[[四川省|四川]]で[[成漢]]が自立するなどした。こうして八王の乱で中央の威令は大きく失墜し、中国には西晋に反抗する諸勢力が各地に割拠する状況に陥った<ref name="中華の崩壊58">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P58</ref>。それでも東海王司馬越の存在により各地に割拠する勢力は辛うじて抑えられていた。

だが、西晋朝廷内部では実権を握っていた司馬越が詔と称して丞相を称するなどして懐帝との対立が発生<ref name="民族大移動48">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P48</ref>。[[311年]]には懐帝が遂に司馬越討伐の勅命を発するに至る。司馬越は逃亡先で間もなく憂憤のうちに病死した。司馬越の死を好機と見て前趙の配下の[[石勒]]はその軍10万余を殺害した<ref name="中華の崩壊58">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P58</ref>。これにより西晋は完全に統治能力と抵抗力を喪失、劉淵はすでに先年死去していたが、その息子[[劉聡]]は[[劉曜]]と[[王弥]]そして石勒に大挙して311年6月に西晋の首都洛陽を攻めさせ、略奪暴行の限りを尽くした<ref name="中華の崩壊58">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P58</ref><ref name="民族大移動48">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P48</ref>。

この一連の動乱は時の年号をとって[[永嘉の乱]]と呼ぶが、西晋側から見て異民族の反乱であり、実質は匈奴後裔国家に敗戦し国が滅ぼされたに等しかった。洛陽は破壊され何万人もが殺害され、懐帝は玉璽と共に前趙の都[[平陽]]に拉致され、さらに懐帝の皇后羊氏に至っては劉曜の妻とされた<ref name="中華の崩壊58">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P58</ref>。懐帝は生かされたものの、劉聡により酒宴で酒を注ぐ役をさせられるという屈辱を与えられ、[[313年]]1月に処刑された<ref name="民族大移動49">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P49</ref>。こうして西晋は事実上滅亡した<ref name="中華の崩壊58">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P58</ref><ref name="民族大移動48">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P48</ref>。

=== 完全な滅亡 ===
懐帝が処刑されたことを聞いて[[長安]]にいた懐帝の甥の司馬鄴([[愍帝_(西晋)|愍帝]])は313年4月に即位して漢(前趙)に抵抗した。しかし長安も前趙の劉曜により攻撃され、晋軍は抵抗するが連敗した。またこの愍帝の政権は華北に残存していた西晋の残党により建てられた極めて脆弱な政権で支配力は長安周辺にしか及ばない関中地域政権でしかなく、その長安は八王の乱で既に荒廃していたために統治力も無く、さらに西晋の諸王も援軍に現れなかったため、[[316年]]に長安が陥落して愍帝は前趙に降伏し、平陽に拉致された<ref name="中華の崩壊58">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P58</ref><ref name="民族大移動49">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P49</ref>。こうして西晋は完全に滅亡した<ref name="民族大移動49">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P49</ref>。

愍帝は生かされたが、懐帝同様の扱いを受けた後の[[317年]]12月に前趙により殺された<ref name="中華の崩壊58">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P58</ref><ref name="民族大移動49">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P49</ref>。

これより先、司馬越の命令で江南の方面軍司令官として安東将軍・都督[[楊州]]諸軍事として統治に当たっていた琅邪王・司馬睿([[元帝_(東晋)|元帝]])は<ref name="中華の崩壊119">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P119</ref>、愍帝が降伏すると317年3月に晋王を称して建武と改元した<ref name="民族大移動49">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P49</ref>。そして殺されたことを受けると、318年3月に即位して[[建康 (都城)|建康]]に都して[[東晋]]を建国した<ref name="中華の崩壊121">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P121</ref><ref name="民族大移動49">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P49</ref>。

== 社会 ==
短命に終わった西晋だが、政治・文化において重要なものが少なくなく、その後の[[魏晋南北朝時代]]の特徴を形作ることになる。
短命に終わった西晋だが、政治・文化において重要なものが少なくなく、その後の[[魏晋南北朝時代]]の特徴を形作ることになる。


=== 軍隊 ===
政治においては前代の魏によって作られた[[九品官人法]]が、司馬懿によって中央へ大きく人事権のウェイトがかかるよう改められ、さらに晋になって血筋が重要視されるようになり、貴族制が形成され始める。この傾向は東晋になってさらに顕著になり、六朝貴族政治へと繋がる。
西晋は曹魏をそのまま乗っ取った形で成立したため、高い軍事力を持っていた。しかしこれは三国時代という戦時体制のために成立していたためであり、統一後は軍備は必要ないとして武帝は若干を例外として州郡に所属していた兵士を帰農させて平時体制に移行し、有事の場合には洛陽など要衝に展開する中央軍を派遣するという形をとった<ref name="中華の崩壊51">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P51</ref>。これは後漢末期に地方における分権的な軍事状況を放置した結果、群雄割拠が成立した事を恐れての処置であったが、このために有事すなわち異民族の反乱が起こると地方は無力で対応できず、逆に永嘉の乱で西晋が滅亡する契機となった。

また八王の乱で東海王司馬越が自軍に鮮卑を、成都王[[司馬頴]]が匈奴など諸王が少数異民族を軍事力として利用したため、小数民族が中国内地に流入する事になった<ref name="民族大移動49">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P49</ref>。

=== 農民 ===
武帝は280年に『戸調式』の発布によって[[占田・課田制]]と呼ばれる全国的な田地制度と徴税制度を推し進めた<ref name="中華の崩壊51">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P51</ref>。占田とは世襲が認められた私有地のことで、課田とは農民に貸し与えられる国有地の事である。農民は国より課田を貸し与えられ、そこからの収穫の一部を税として納めると言うものであり、これは[[均田制]]の前身として歴史家からは大いに注目される。ただ、西晋が短命に終わったためにこの制度の実施期間も短く、その成果がどれほど上がったのかは判然としない。

もともと魏は[[曹操]]時代の[[196年]]に[[許昌]]で[[屯田]]制度を施行し、これはやがて洛陽や長安など主要都市でも展開して<ref name="中華の崩壊51">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P51</ref>、中央の司農卿の管轄下において農産に勤めていた<ref name="中華の崩壊52">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P52</ref>。だがこの制度における収益、すなわち典農部民や屯田客といわれる屯田兵は官牛を給される者が収穫の6割、私牛は5割を国家に納税する事が義務付けられるなど国力充実で大きく貢献したのは事実だが大変厳しいものであったため、この制度は西晋禅譲時に大半が廃止され、残りも呉の滅亡を契機に完全に廃止されて屯田兵は一般州郡に組み入れられて負担も一般民並に軽減された<ref name="中華の崩壊52">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P52</ref>。これも三国時代という戦時体制から統一後の平時体制に移行するために実施された制度であり、西晋から一定の土地を与えられて再生産を保証された農民は戸ごとに国家に対して耕作地から生産される穀物(田租)と絹(調)を納税する事を義務付けられていく事になる<ref name="中華の崩壊52">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P52</ref>。

=== 皇族 ===
魏は文帝の時代に弟の[[曹植]]が皇位継承をめぐって激しい暗闘が起こった事例から、文帝の命令により宗室の人々は官職への就任が許されず、絶えず国家の監視下に置かれていた<ref name="中華の崩壊48">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P48</ref>。だがこの政策は宗室の内紛を抑えたが、かえって皇族の権力を弱体化させて司馬氏の台頭を抑えきれなかったという欠点を持っていた。武帝はこれとは逆に宗室に対して高位高官をはじめとする官職に就任する事を許し、それ以外にも宗室を優遇している<ref name="中華の崩壊48">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P48</ref>。武帝が即位した直後には司馬一族から27人が郡王として封じられるなどして皇族の力が極めて強かったが<ref name="中華の崩壊48">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P48</ref>、これが逆に八王の乱を成した一因にもなったのは事実であった。

=== 制度 ===
政治においては前代の魏によって作られた[[九品官人法]]が、司馬懿によって中央へ大きく人事権のウェイトがかかるよう改められ、さらに晋になって血筋が重要視されるようになり、貴族制が形成され始める。この傾向は東晋になってさらに顕著になり、六朝貴族政治へと繋がる。また統一前の[[264年]]には司馬昭により、新しい法の編纂が命じられ、[[268年]]に完成する。これは当時の[[元号]]・[[泰始_(晋)|泰始]]を取って『[[泰始律令]]』と呼ばれる。これ以前は律令という区分は存在せず、この泰始律令は律と令とを分けた中国史上初めての制度とされる。この律令は魏晋南北朝時代を通じて基本的に踏襲され、[[唐]]律令へと繋がっていく。

ただし武帝自身は極めて寛大であり、魏の宗室の[[禁錮]]([[公職追放]])を265年のうちに解き、[[266年]]には魏代より続いていた後漢宗室の[[禁錮]]も解除した<ref name="中華の崩壊48">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P48</ref>。これにより曹植の遺児[[曹志]]や諸葛亮の子孫が任用されるなど<ref name="中華の崩壊48">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P48</ref>、極めて多くの人材が任用されている。


=== 地方 ===
また統一前の[[264年]]には司馬昭により、新しい法の編纂が命じられ、[[268年]]に完成する。これは当時の[[元号]]・[[泰始_(晋)|泰始]]を取って『[[泰始律令]]』と呼ばれる。これ以前は律令という区分は存在せず、この泰始律令は律と令とを分けた中国史上初めての制度とされる。この律令は魏晋南北朝時代を通じて基本的に踏襲され、[[唐]]律令へと繋がっていく。
華北は武帝の生存時から遊牧騎馬民族の侵入を受けた。またその規模は定かでないが、後漢末から三国時代にかけて起きた大陸の人口減やそれへの対策も兼ねて曹操以来、継続された匈奴等周辺諸民族の華北移住政策も、その構図的な主因を作ったと言える。ただし武帝時代はこれらの騎馬民族に対する対応は何とか機能しており、華北は万全に統治されていた。だが武帝が崩御し八王の乱が起こると、諸王の中には遊牧民族の助力を得る者も現れ、これが結果的に永嘉の乱と異民族による華北での建国、そして西晋の滅亡へとつながり、華北では漢族の殺戮と都市の破壊、飢饉と略奪なども相次いで荒廃した。


四川すなわち三国時代の蜀では、華北の混乱で大量の流民が発生したが、この流民を利用した蛮族の[[李特]]によって[[成都]]が落とされ、その息子[[李雄]]によって[[成漢]]を建国して帝号を自称するなどされた<ref name="中華の崩壊117">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P117</ref>。
もう一つ特筆すべき事が[[280年]]の『戸調式』の発布によって全国的に推し進められた田地制度で、これは[[占田・課田制]]と呼ばれる。占田とは世襲が認められた私有地のことで、課田とは農民に貸し与えられる国有地の事である。農民は国より課田を貸し与えられ、そこからの収穫の一部を税として納めると言うものであり、これは[[均田制]]の前身として歴史家からは大いに注目される。ただ、西晋が短命に終わったためにこの制度の実施期間も短く、その成果がどれほど上がったのかは判然としない。


湖北では蜀で自立した李雄に対抗するために西晋は兵を徴発しようとしたが、民衆はこぞってこれを拒否して西晋に対し反乱を起こした<ref name="中華の崩壊118">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P118</ref>。当時、湖北は八王の乱からの荒廃を免れて豊作であり、華北の難民は蜀の他に湖北に逃れる者も多かった<ref name="中華の崩壊118">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P118</ref>。これを背景にして義陽蛮の[[張昌]]は西晋に対して反乱を起こした<ref name="中華の崩壊118">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P118</ref>。この反乱は呉が滅亡した後は西晋により比較的平穏が保たれていた華南にまで波及し、華南方面の豪族は脅威を抱いた<ref name="中華の崩壊118">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P118</ref>。ただし華南方面の豪族は西晋に反抗はせず、むしろ彼らと手を結んで反乱を平定し、当面の安定を手に入れている<ref name="中華の崩壊118">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P118</ref>。だが、華北で八王の乱と永嘉の乱が激しさを増して華北の難民が華南に流れ込むようになると、華南も動乱に否応なしに巻き込まれた<ref name="中華の崩壊118">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P118</ref>。この混乱の波及を見た西晋の下級官吏の[[陳敏]]は華南で西晋からの離反と自立を目論むも<ref name="中華の崩壊118">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P118</ref>、華南の豪族はこぞって協力を拒否、逆に[[寿春]]に駐屯していた西晋軍と呼応して[[307年]]に陳敏を滅ぼしている<ref name="中華の崩壊119">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P119</ref>。このように華南、特に江南は比較的安定が保たれており、また社会の安定と繁栄を求めて江南の豪族は西晋に忠実であり、これが後に西晋滅亡後の東晋建国へとつながっていく。
西晋が中国を統一した後、司馬炎は軍備を大幅に縮小したが、これは上に書いた皇子達の封建と共に、[[八王の乱]]の拡大や[[永嘉の乱]]などによる西晋の滅亡の一因をなした。またその規模は定かでないが、後漢末から三国時代にかけて起きた大陸の人口減やそれへの対策も兼ねて曹操以来、継続された匈奴等周辺諸民族の華北移住政策も、その構図的な主因を作ったと言えよう。


== 文化 ==
== 文化 ==
前述したように西晋では[[老荘思想]]が流行し、[[竹林の七賢]]と呼ばれる人物たちがいた。ただしこの七賢とは後世の人物が並べただけのことであって、この7人がグループを作っていたわけではない。
前述したように西晋では[[老荘思想]]が流行し、[[竹林の七賢]]と呼ばれる人物たちがいた。ただしこの七賢とは後世の人物が並べただけのことであって、この7人がグループを作っていたわけではない。この七賢のエピソードは[[宋_(南朝)|宋]]期に纏められた『[[世説新語]]』に数多く載っている。「ケチのあまり、果実を売るのに種をくり貫いて売った」などという小話のようなエピソードが多い。また戦乱の時代の中で[[仏教]]が飛躍的にその勢力を伸ばした


== 異民族対策 ==
この七賢のエピソードは[[宋_(南朝)|宋]]期に纏められた『[[世説新語]]』に数多く載っている。「ケチのあまり、果実を売るのに種をくり貫いて売った」などという小話のようなエピソードが多い。
武帝は曹魏の時代に異民族対策のために置かれていた統御官を継承してさらに多くの統御官を設置した<ref name="民族大移動20">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P20</ref>。南蛮校尉([[襄陽]])、南夷校尉([[寧州]])、西戎校尉(長安)、平越中郎将([[広州]])などである<ref name="民族大移動21">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P21</ref>。恵帝の時代になるとこれらの校尉は[[刺史]]を兼任するようになった<ref name="民族大移動21">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P21</ref>。


西晋時代は多くの異民族統御官が新設されているが、これらは少数民族対策に重要な役割を果たす事になり、東晋時代にも受け継がれる事になる<ref name="民族大移動21">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P21</ref>。また西晋の首都洛陽や長安など中心部は山西省に根を張っていた匈奴に近く、あるいはそれまでの動乱期に移民して洛陽付近に居住する少数民族などが根を張っていたため、武帝時代には[[郭欽]]が、恵帝時代には[[江統]]がそれぞれの民族を原住地に帰して防備を厳しくする事を提言したが、いずれも採用されずに逆に少数民族の中国内地移住が進行していくことになった<ref name="民族大移動23">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P23</ref>。
また戦乱の時代の中で[[仏教]]が飛躍的にその勢力を伸ばした。


== 西晋の皇帝 ==
== 西晋の皇帝 ==
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* [[司馬昭]]は、司馬炎によって、太祖文帝と追号された。
* [[司馬昭]]は、司馬炎によって、太祖文帝と追号された。


# 世祖[[司馬炎|武帝]](司馬炎、在位[[265年]] - [[289年]])
# 世祖[[司馬炎|武帝]]司馬炎、在位[[265年]] - [[289年]])司馬昭の長男
# [[恵帝_(西晋)|孝恵帝]](司馬衷、在位[[289年]] - [[306年]])
# [[恵帝_(西晋)|孝恵帝]]司馬衷、在位[[289年]] - [[306年]])先代の次男
# [[懐帝_(西晋)|孝懐帝]](司馬熾、在位[[306年]] - [[311年]])
# [[懐帝_(西晋)|孝懐帝]]司馬熾、在位[[306年]] - [[311年]])先代の異母弟
# [[愍帝_(西晋)|孝愍帝]](司馬鄴、在位[[313年]] - [[316年]])
# [[愍帝_(西晋)|孝愍帝]]司馬鄴、在位[[313年]] - [[316年]])先代の甥


=== 系図 ===
=== 系図 ===
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# [[建興_(晋)|建興]]([[313年]]-[[316年]])
# [[建興_(晋)|建興]]([[313年]]-[[316年]])


== 関連項目 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
*[[魏晋南北朝表]]
<references group="注釈"/>
=== 引用元 ===
<references/>


==外部リンク==
== 参考文献 ==
* [[川本芳昭]]『中国の歴史05、中華の崩壊と拡大。魏晋南北朝』([[講談社]]、[[2005年]][[2月]])
{{Commons|Jin Dynasty (265-420)}}
* [[三崎良章]]『五胡十六国、中国史上の民族大移動』([[東方書店]]、[[2002年]]2月)
*[http://www.hoolulu.com/zh/ 二十五史] (簡体中国語/繁体中国語)


== 関連項目 ==
* [[魏晋南北朝表]]


== 外部リンク ==
{{Commons|Jin Dynasty (265-420)}}
* [http://www.hoolulu.com/zh/ 二十五史] (簡体中国語/繁体中国語)


{{先代次代|[[中国の歴史]]||[[三国時代_(中国)|三国時代]]|[[東晋]]<br />[[五胡十六国時代]]}}
{{先代次代|[[中国の歴史]]||[[三国時代_(中国)|三国時代]]|[[東晋]]<br />[[五胡十六国時代]]}}

2012年9月12日 (水) 18:22時点における版

西晋
魏 (三国) 265年 - 316年 前趙
東晋
西晋の位置
西晋の領域。
公用語 漢語(中国語
首都 洛陽
皇帝
265年 - 289年 武帝
289年 - 306年孝恵帝
306年 - 311年孝懐帝
313年 - 316年孝愍帝
変遷
魏の禅譲により建国 265年
によって滅亡316年
西晋の孫呉攻略。
西晋の領域。
西晋時代の異民族の分布。
中国歴史
中国歴史
先史時代中国語版
中石器時代中国語版
新石器時代
三皇五帝
古国時代
黄河文明
長江文明
遼河文明
西周

東周
春秋時代
戦国時代
前漢
後漢

孫呉

蜀漢

曹魏
西晋
東晋 十六国
劉宋 北魏
南斉

(西魏)

(東魏)

(後梁)

(北周)

(北斉)
 
武周
 
五代十国 契丹

北宋

(西夏)

南宋

(北元)

南明
後金
 
 
中華民国 満洲国
 
中華
民国

台湾
中華人民共和国

西晋(せいしん、拼音:Xījìn)は、司馬炎によって建てられた中国王朝265年 - 316年)。成立期は中国北部と南西部を領する王朝であったが、呉を滅ぼして中国全土を統一し、後漢末期以降分裂していた中国を100年振りに統一した王朝として君臨した。国号は単にだが、建康に遷都した後の政権(東晋)に対して西晋と呼ばれる。

歴史

司馬氏の台頭

晋の基礎を築いた司馬懿

司馬氏は河内郡の名族での滅亡後に項羽劉邦と共に活躍した司馬卭の子孫を称し、後漢時代には既に歴代に郡の長官を輩出していた[1]。司馬懿の父司馬防は後漢末期の争乱から台頭した曹操に接近して関係を持ち[1]、長男の司馬朗に至っては曹操の重臣として仕えた。次男の司馬懿208年、すなわち赤壁の戦いが発生した年から曹操に仕え、曹操の参謀、そしてその嫡子曹丕の世話役として曹操の丞相府で地位を確立していく[1]220年に曹操が死去すると司馬懿は丞相府の司馬としてその葬儀を取り仕切り、曹丕を後漢の丞相・魏王に、そして魏皇帝に上り詰めさせる過程で大きな役割を果たしたことから[1]、曹丕(文帝)の信任を得た[2]226年に文帝が崩御する直前には皇太子曹叡(明帝)の後事を託される[2]

曹丕の崩御で政情に不安を抱いた孟達諸葛亮から帰順を勧める使者が遣わされて孟達が魏に反逆した際、司馬懿は鮮やかな戦略でこれを鎮圧して蜀の北進を防いだ[2]。やがて魏の軍事最高責任者として諸葛亮の率いる蜀軍と対峙し、敗戦もあったが最終的に234年には五丈原で諸葛亮の死を受けて蜀の勢威を挫いた[2]238年にはと連動して反魏的行動をとっていた遼東の公孫淵を討ち、魏における勢威を不動のものとした[2]。直後に明帝も崩御し、その直前に幼い曹芳を魏宗室の曹爽と共に託された[3]。しかし曹爽との間に確執が生じ、一時はその実権を奪われた[3]

249年に司馬懿はクーデターを起こし、曹爽一派を誅滅した[3]。これにより司馬一族は魏の権力を完全に掌握した。2年後の251年8月、司馬懿は死去した[4]

覇権の確立

司馬昭 (左は司馬攸)

司馬懿の死後、その実権は正妻張春華との息子である司馬師が継承した[4]252年には孫権の死に乗じて諸葛誕を呉に侵攻させるが、東興の戦いで大敗を喫した[4]。しかし司馬師はこの敗戦で諸将を不問としたため[4]、かえって人心を得ることになった[5]254年2月、宰相李豊による反司馬師の密謀が露見し、関係者が処刑され、さらに皇帝曹芳をも皇太后の命令と称して廃位を実行した[5]。新たな皇帝には文帝の孫曹髦が傀儡として立てられた[5]。しかし255年2月、この強引な廃立に対呉戦線の重鎮にあった毌丘倹文欽ら宿将らが反発して乱を起こし、司馬師自ら鎮圧に赴く[5]。反乱は鎮圧されたが、司馬師も病状が悪化して死亡した[5]

司馬師の死後、同母弟の司馬昭が後継者となり、大将軍・録尚書事に就任した[6]257年5月には対呉戦線で強大な勢力を誇っていた諸葛誕を皇帝や皇太后を奉じて258年2月までに滅ぼした[6]260年5月には傀儡曹髦のクーデターを鎮圧して殺害した[7]

この頃になると諸葛亮亡き後の蜀では退潮の色が濃くなっており[7]263年5月に司馬昭は新たな傀儡元帝から蜀征討の詔を出させ、8月に18万の大軍を鄧艾鍾会らに預けて11月に滅ぼした[8]蜀漢の滅亡)。蜀平定前の10月から司馬昭に対して晋公就任の詔が出され、司馬昭は晋公となった[9]264年3月には晋王に進み、5月には司馬懿を晋国の宣王、司馬師に景王を追贈し、10月に嫡子司馬炎を晋国の世子と定めた[9]。その後も魏臣に対して本領安堵を成すなど、着実な魏から晋への禅譲の準備が進められていくが、265年8月に司馬昭は急死した[9]

晋の成立

司馬炎

司馬昭の死後は嫡男の司馬炎が継いで晋王・相国となった[10]。そして265年12月には魏の元帝から禅譲を受けて即位し、年号を泰始と改めた[10]。晋王朝を立てたのは司馬炎だが、晋の実質的な創立者は司馬炎(武帝)の祖父の司馬懿である。

270年鮮卑禿髪樹機能が反乱を起こし、秦州刺史胡烈涼州刺史の牽弘を破った。277年文鴦が禿髪樹機能を降伏させた。279年、禿髪樹機能は再び反乱を起こし、涼州を制圧したが、西晋の馬隆に大敗し部下の没骨能に殺害された。

この頃、三国最後の呉は孫皓の暴政により乱れていたので、279年11月に武帝は東西から20万余の大軍を賈充杜預王濬王渾らを大将にして派兵した[11]。晋軍は280年2月に江陵を攻略し、3月には石頭城を落として呉都の建業に侵攻し、孫皓は降伏して中国は晋によって再び統一された[11]

乱れた武帝

武帝は統一事業を完成させると急に堕落した。それまでの英主が愚君に変貌して女と酒に溺れて朝政を顧みなくなった。また武帝の皇太子司馬衷が暗愚なため、衆望は武帝の12歳年下の同母弟で優秀だった斉王司馬攸の後継を期待していた[12]。ところが統一を果たした司馬炎は司馬攸に対して斉への赴任命令を出し、周囲の諫言を封殺した上に司馬攸を支持する派閥を徹底的に粛清して強行した[12]。司馬攸はこの命令に憂憤して発病し、283年に死去した。これにより晋宗室を支える人材はいなくなり、武帝の晩年には皇后楊氏の父楊俊が朝政を掌握して、西晋はかつての後漢と同じように外戚が国を専権する様相が再現された[13]

八王の乱

司馬炎は290年4月に崩御し、皇太子の司馬衷(恵帝)が第2代皇帝として即位した[14][15]。しかしこの皇太子は暗愚で知られた人物で、司馬昭からも太子を取り替えるべきと言われていた。その前評判どおり、即位した恵帝は政治を放り出し、実権は武帝の晩年から朝政を掌握していた楊皇太后の父楊俊が輔政の形で壟断した[14][15]。これが後に西晋の根幹を揺るがした八王の乱の始まりである。

楊俊は2人の弟を要職に就けて一族で専横した[15]。だが恵帝の皇后の賈后賈充の娘)は楊氏の専横を憎み、汝南王司馬亮・楚王司馬瑋と結託して楊俊を殺害、さらには結託したはずの2人も殺害して実権を掌握した[14][15]。その後は賈后と甥の賈謐による10年弱の専横が続くが[14][15]、政治そのものは名士の張華らが見たためかろうじて西晋は安定が保たれた[16][17]

299年12月、賈后は皇太子司馬遹を廃し、300年3月に殺害し、これにより西晋全土で賈后に対する専横に反発が生まれ、300年4月に司馬倫は賈后とその一派を殺して首都洛陽を制圧し、301年1月に恵帝を廃して自ら即位した[16][17]。厳密にはこれが八王の乱の始まりである。司馬倫の簒奪は諸王の反発を招き、殺害されてこれ以後、皇族同士による血を血で洗う争いが続き国内は荒廃した[16][17]。このような争いに嫌気が差した知識人たちは権力から離れ、隠者になり清談や詩作にふけるようになった。その中でも有名な者が竹林の七賢である。

八王の乱は最終的に306年11月に東海王司馬越によって恵帝の異母弟である懐帝司馬熾が第3代皇帝に擁立される事で終焉した[16][17]

永嘉の乱と西晋の実質的な滅亡

八王の乱による混乱を見た匈奴の大首長劉淵は、304年に晋より自立して匈奴大単于を称する。この時をもって五胡十六国時代の始まりとされる。劉淵は更に308年には皇帝を名乗って国号を漢(のちに趙を名乗り、後世からは前趙と呼ばれる)とした。また四川成漢が自立するなどした。こうして八王の乱で中央の威令は大きく失墜し、中国には西晋に反抗する諸勢力が各地に割拠する状況に陥った[16]。それでも東海王司馬越の存在により各地に割拠する勢力は辛うじて抑えられていた。

だが、西晋朝廷内部では実権を握っていた司馬越が詔と称して丞相を称するなどして懐帝との対立が発生[17]311年には懐帝が遂に司馬越討伐の勅命を発するに至る。司馬越は逃亡先で間もなく憂憤のうちに病死した。司馬越の死を好機と見て前趙の配下の石勒はその軍10万余を殺害した[16]。これにより西晋は完全に統治能力と抵抗力を喪失、劉淵はすでに先年死去していたが、その息子劉聡劉曜王弥そして石勒に大挙して311年6月に西晋の首都洛陽を攻めさせ、略奪暴行の限りを尽くした[16][17]

この一連の動乱は時の年号をとって永嘉の乱と呼ぶが、西晋側から見て異民族の反乱であり、実質は匈奴後裔国家に敗戦し国が滅ぼされたに等しかった。洛陽は破壊され何万人もが殺害され、懐帝は玉璽と共に前趙の都平陽に拉致され、さらに懐帝の皇后羊氏に至っては劉曜の妻とされた[16]。懐帝は生かされたものの、劉聡により酒宴で酒を注ぐ役をさせられるという屈辱を与えられ、313年1月に処刑された[18]。こうして西晋は事実上滅亡した[16][17]

完全な滅亡

懐帝が処刑されたことを聞いて長安にいた懐帝の甥の司馬鄴(愍帝)は313年4月に即位して漢(前趙)に抵抗した。しかし長安も前趙の劉曜により攻撃され、晋軍は抵抗するが連敗した。またこの愍帝の政権は華北に残存していた西晋の残党により建てられた極めて脆弱な政権で支配力は長安周辺にしか及ばない関中地域政権でしかなく、その長安は八王の乱で既に荒廃していたために統治力も無く、さらに西晋の諸王も援軍に現れなかったため、316年に長安が陥落して愍帝は前趙に降伏し、平陽に拉致された[16][18]。こうして西晋は完全に滅亡した[18]

愍帝は生かされたが、懐帝同様の扱いを受けた後の317年12月に前趙により殺された[16][18]

これより先、司馬越の命令で江南の方面軍司令官として安東将軍・都督楊州諸軍事として統治に当たっていた琅邪王・司馬睿(元帝)は[19]、愍帝が降伏すると317年3月に晋王を称して建武と改元した[18]。そして殺されたことを受けると、318年3月に即位して建康に都して東晋を建国した[20][18]

社会

短命に終わった西晋だが、政治・文化において重要なものが少なくなく、その後の魏晋南北朝時代の特徴を形作ることになる。

軍隊

西晋は曹魏をそのまま乗っ取った形で成立したため、高い軍事力を持っていた。しかしこれは三国時代という戦時体制のために成立していたためであり、統一後は軍備は必要ないとして武帝は若干を例外として州郡に所属していた兵士を帰農させて平時体制に移行し、有事の場合には洛陽など要衝に展開する中央軍を派遣するという形をとった[21]。これは後漢末期に地方における分権的な軍事状況を放置した結果、群雄割拠が成立した事を恐れての処置であったが、このために有事すなわち異民族の反乱が起こると地方は無力で対応できず、逆に永嘉の乱で西晋が滅亡する契機となった。

また八王の乱で東海王司馬越が自軍に鮮卑を、成都王司馬頴が匈奴など諸王が少数異民族を軍事力として利用したため、小数民族が中国内地に流入する事になった[18]

農民

武帝は280年に『戸調式』の発布によって占田・課田制と呼ばれる全国的な田地制度と徴税制度を推し進めた[21]。占田とは世襲が認められた私有地のことで、課田とは農民に貸し与えられる国有地の事である。農民は国より課田を貸し与えられ、そこからの収穫の一部を税として納めると言うものであり、これは均田制の前身として歴史家からは大いに注目される。ただ、西晋が短命に終わったためにこの制度の実施期間も短く、その成果がどれほど上がったのかは判然としない。

もともと魏は曹操時代の196年許昌屯田制度を施行し、これはやがて洛陽や長安など主要都市でも展開して[21]、中央の司農卿の管轄下において農産に勤めていた[22]。だがこの制度における収益、すなわち典農部民や屯田客といわれる屯田兵は官牛を給される者が収穫の6割、私牛は5割を国家に納税する事が義務付けられるなど国力充実で大きく貢献したのは事実だが大変厳しいものであったため、この制度は西晋禅譲時に大半が廃止され、残りも呉の滅亡を契機に完全に廃止されて屯田兵は一般州郡に組み入れられて負担も一般民並に軽減された[22]。これも三国時代という戦時体制から統一後の平時体制に移行するために実施された制度であり、西晋から一定の土地を与えられて再生産を保証された農民は戸ごとに国家に対して耕作地から生産される穀物(田租)と絹(調)を納税する事を義務付けられていく事になる[22]

皇族

魏は文帝の時代に弟の曹植が皇位継承をめぐって激しい暗闘が起こった事例から、文帝の命令により宗室の人々は官職への就任が許されず、絶えず国家の監視下に置かれていた[23]。だがこの政策は宗室の内紛を抑えたが、かえって皇族の権力を弱体化させて司馬氏の台頭を抑えきれなかったという欠点を持っていた。武帝はこれとは逆に宗室に対して高位高官をはじめとする官職に就任する事を許し、それ以外にも宗室を優遇している[23]。武帝が即位した直後には司馬一族から27人が郡王として封じられるなどして皇族の力が極めて強かったが[23]、これが逆に八王の乱を成した一因にもなったのは事実であった。

制度

政治においては前代の魏によって作られた九品官人法が、司馬懿によって中央へ大きく人事権のウェイトがかかるよう改められ、さらに晋になって血筋が重要視されるようになり、貴族制が形成され始める。この傾向は東晋になってさらに顕著になり、六朝貴族政治へと繋がる。また統一前の264年には司馬昭により、新しい法の編纂が命じられ、268年に完成する。これは当時の元号泰始を取って『泰始律令』と呼ばれる。これ以前は律令という区分は存在せず、この泰始律令は律と令とを分けた中国史上初めての制度とされる。この律令は魏晋南北朝時代を通じて基本的に踏襲され、律令へと繋がっていく。

ただし武帝自身は極めて寛大であり、魏の宗室の禁錮公職追放)を265年のうちに解き、266年には魏代より続いていた後漢宗室の禁錮も解除した[23]。これにより曹植の遺児曹志や諸葛亮の子孫が任用されるなど[23]、極めて多くの人材が任用されている。

地方

華北は武帝の生存時から遊牧騎馬民族の侵入を受けた。またその規模は定かでないが、後漢末から三国時代にかけて起きた大陸の人口減やそれへの対策も兼ねて曹操以来、継続された匈奴等周辺諸民族の華北移住政策も、その構図的な主因を作ったと言える。ただし武帝時代はこれらの騎馬民族に対する対応は何とか機能しており、華北は万全に統治されていた。だが武帝が崩御し八王の乱が起こると、諸王の中には遊牧民族の助力を得る者も現れ、これが結果的に永嘉の乱と異民族による華北での建国、そして西晋の滅亡へとつながり、華北では漢族の殺戮と都市の破壊、飢饉と略奪なども相次いで荒廃した。

四川すなわち三国時代の蜀では、華北の混乱で大量の流民が発生したが、この流民を利用した蛮族の李特によって成都が落とされ、その息子李雄によって成漢を建国して帝号を自称するなどされた[24]

湖北では蜀で自立した李雄に対抗するために西晋は兵を徴発しようとしたが、民衆はこぞってこれを拒否して西晋に対し反乱を起こした[25]。当時、湖北は八王の乱からの荒廃を免れて豊作であり、華北の難民は蜀の他に湖北に逃れる者も多かった[25]。これを背景にして義陽蛮の張昌は西晋に対して反乱を起こした[25]。この反乱は呉が滅亡した後は西晋により比較的平穏が保たれていた華南にまで波及し、華南方面の豪族は脅威を抱いた[25]。ただし華南方面の豪族は西晋に反抗はせず、むしろ彼らと手を結んで反乱を平定し、当面の安定を手に入れている[25]。だが、華北で八王の乱と永嘉の乱が激しさを増して華北の難民が華南に流れ込むようになると、華南も動乱に否応なしに巻き込まれた[25]。この混乱の波及を見た西晋の下級官吏の陳敏は華南で西晋からの離反と自立を目論むも[25]、華南の豪族はこぞって協力を拒否、逆に寿春に駐屯していた西晋軍と呼応して307年に陳敏を滅ぼしている[19]。このように華南、特に江南は比較的安定が保たれており、また社会の安定と繁栄を求めて江南の豪族は西晋に忠実であり、これが後に西晋滅亡後の東晋建国へとつながっていく。

文化

前述したように西晋では老荘思想が流行し、竹林の七賢と呼ばれる人物たちがいた。ただしこの七賢とは後世の人物が並べただけのことであって、この7人がグループを作っていたわけではない。この七賢のエピソードは期に纏められた『世説新語』に数多く載っている。「ケチのあまり、果実を売るのに種をくり貫いて売った」などという小話のようなエピソードが多い。また戦乱の時代の中で仏教が飛躍的にその勢力を伸ばした。

異民族対策

武帝は曹魏の時代に異民族対策のために置かれていた統御官を継承してさらに多くの統御官を設置した[26]。南蛮校尉(襄陽)、南夷校尉(寧州)、西戎校尉(長安)、平越中郎将(広州)などである[27]。恵帝の時代になるとこれらの校尉は刺史を兼任するようになった[27]

西晋時代は多くの異民族統御官が新設されているが、これらは少数民族対策に重要な役割を果たす事になり、東晋時代にも受け継がれる事になる[27]。また西晋の首都洛陽や長安など中心部は山西省に根を張っていた匈奴に近く、あるいはそれまでの動乱期に移民して洛陽付近に居住する少数民族などが根を張っていたため、武帝時代には郭欽が、恵帝時代には江統がそれぞれの民族を原住地に帰して防備を厳しくする事を提言したが、いずれも採用されずに逆に少数民族の中国内地移住が進行していくことになった[28]

西晋の皇帝

晋系図(丸囲み数字は西晋の即位順、ローマ数字は東晋の即位順)
  • 司馬懿は、司馬炎によって、高祖宣帝と追号された。
  • 司馬師は、司馬炎によって、世宗景帝と追号された。
  • 司馬昭は、司馬炎によって、太祖文帝と追号された。
  1. 世祖武帝(司馬炎、在位265年 - 289年)司馬昭の長男
  2. 孝恵帝(司馬衷、在位289年 - 306年)先代の次男
  3. 孝懐帝(司馬熾、在位306年 - 311年)先代の異母弟
  4. 孝愍帝(司馬鄴、在位313年 - 316年)先代の甥

系図

高祖宣帝懿
 
世宗景帝師
 
 
 
 
 
 
 
2恵帝衷
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
太祖文帝昭
 
1世祖武帝炎
 
 
 
呉孝王晏
 
4愍帝業(鄴)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
瑯邪武王伷
 
瑯邪恭王覲
 
 
 
 
3懐帝熾
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
東晋元帝に続く

西晋の元号

  1. 泰始265年-274年
  2. 咸寧275年-280年
  3. 太康280年-289年
  4. 太熙290年
  5. 永熙290年-291年
  6. 永平291年
  7. 元康291年-299年
  8. 永康300年-301年
  9. 永寧301年-302年
  10. 太安302年-303年
  11. 永安304年
  12. 建武304年
  13. 永興304年-306年
  14. 光熙306年
  15. 永嘉307年-313年
  16. 建興313年-316年

脚注

注釈

引用元

  1. ^ a b c d 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P36
  2. ^ a b c d e 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P37
  3. ^ a b c 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P38
  4. ^ a b c d 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P40
  5. ^ a b c d e 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P41
  6. ^ a b 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P42
  7. ^ a b 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P43
  8. ^ 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P44
  9. ^ a b c 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P45
  10. ^ a b 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P47
  11. ^ a b 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P50
  12. ^ a b 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P53
  13. ^ 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P54
  14. ^ a b c d 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P57
  15. ^ a b c d e 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P47
  16. ^ a b c d e f g h i j k 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P58
  17. ^ a b c d e f g 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P48
  18. ^ a b c d e f g 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P49
  19. ^ a b 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P119
  20. ^ 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P121
  21. ^ a b c 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P51
  22. ^ a b c 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P52
  23. ^ a b c d e 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P48
  24. ^ 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P117
  25. ^ a b c d e f g 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P118
  26. ^ 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P20
  27. ^ a b c 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P21
  28. ^ 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P23

参考文献

関連項目

外部リンク

先代
三国時代
中国の歴史
次代
東晋
五胡十六国時代