「スペイン継承戦争」の版間の差分
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| commander1 = [[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg|25px]][[オイゲン・フォン・ザヴォイエン|プリンツ・オイゲン]]<br />[[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg|25px]][[ルートヴィヒ・ヴィルヘルム (バーデン=バーデン辺境伯)|バーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルム]]<br />[[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg|25px]][[ジョージ1世 (イギリス王)|ハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒ]]<br />[[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg|25px]][[グイード・フォン・シュターレンベルク]]<br />[[ファイル:Union flag 1606 (Kings Colors).svg|25px]][[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|マールバラ公ジョン・チャーチル]]<br />[[ファイル:Union flag 1606 (Kings Colors).svg|25px]][[ヘンリー・デ・マシュー (ゴールウェイ伯)|ゴールウェイ伯ヘンリー・デ・マシュー]]<br />[[ファイル:Prinsenvlag.svg|25px]][[ヘンドリック・ファン・ナッサウ=アウウェルケルク|アウウェルケルク卿ヘンドリック・デ・ナッサウ]]<br />[[ファイル:Flag Portugal (1707).svg|25px]]第2代ミナス侯アントニオ・ルイス・デ・ソーサ<br />[[ファイル:Savoie flag.svg|25px]][[ヴィットーリオ・アメデーオ2世]] |
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[[ファイル:Bandera Navarra.svg|25px]][[ナバラ王国|ナバラ]]<br />[[ファイル:Flag of the Basque Country.svg|25px]][[バスク地方|バスク]]<br />[[ファイル:Flag of Bavaria (lozengy).svg|25px]][[バイエルン選帝侯領|バイエルン選帝侯国]]<br />[[ラーコーツィの独立戦争|ハンガリー人反乱者]] |
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| commander2 = [[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボン|ヴァンドーム公ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボン]]<br />[[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[クロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラール|ヴィラール公クロード・ルイ・ド・ヴィラール]]<br />[[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[ルイ・フランソワ・ド・ブーフレール|ブーフレール公ルイ・フランソワ]]<br />[[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[フランソワ・ド・ヌフヴィル (ヴィルロワ公)|ヴィルロワ公フランソワ・ド・ヌフヴィル]]<br />[[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[ルネ・ド・フルーレ (テッセ伯)|テッセ伯ルネ・ド・フルーレ]]<br />[[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[ジェームズ・フィッツジェームズ (初代ベリック公)|ベリック公ジェームズ・フィッツジェームズ]]<br />[[ファイル:Flag of Bavaria (lozengy).svg|25px]][[マクシミリアン2世エマヌエル (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン2世エマヌエル]]<br />[[ラーコーツィ・フェレンツ2世]] |
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| commander1 = [[File:Flag of the Habsburg Monarchy.svg|25px]][[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール大公]]<br />[[File:Flag of the Habsburg Monarchy.svg|25px]][[オイゲン・フォン・ザヴォイエン|プリンツ・オイゲン]]<br />[[File:Flag of the Habsburg Monarchy.svg|25px]][[グイード・フォン・シュターレンベルク]]<br />[[File:Flag of the Habsburg Monarchy.svg|25px]][[ヴィリッヒ・フィリップ・ロレンツ・フォン・ダウン|ヴィリッヒ・フォン・ダウン]]<br />[[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg|25px]][[ルートヴィヒ・ヴィルヘルム (バーデン=バーデン辺境伯)|バーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルム]]<br />[[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg|25px]][[ジョージ1世 (イギリス王)|ハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒ]]<br />[[ファイル:Union flag 1606 (Kings Colors).svg|25px]][[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|マールバラ公ジョン・チャーチル]]<br />[[ファイル:Union flag 1606 (Kings Colors).svg|25px]][[ヘンリー・デ・マシュー (ゴールウェイ伯)|ゴールウェイ伯ヘンリー・デ・マシュー]]<br />[[ファイル:Union flag 1606 (Kings Colors).svg|25px]][[チャールズ・モードント (第3代ピーターバラ伯)|ピーターバラ伯チャールズ・モードント]]<br />[[ファイル:Union flag 1606 (Kings Colors).svg|25px]][[ジェームズ・スタンホープ (初代スタンホープ伯)|ジェームズ・スタンホープ]]<br />[[ファイル:Union flag 1606 (Kings Colors).svg|25px]][[ジェームズ・バトラー (第2代オーモンド公)|オーモンド公ジェームズ・バトラー]]<br />[[ファイル:Union flag 1606 (Kings Colors).svg|25px]][[ジョージ・ルーク]]<br />[[ファイル:Prinsenvlag.svg|25px]][[ヘンドリック・ファン・ナッサウ=アウウェルケルク|アウウェルケルク卿ヘンドリック・ファン・ナッサウ]]<br />[[ファイル:Prinsenvlag.svg|25px]][[アーノルド・ヴァン・ケッペル (初代アルベマール伯)|アルベマール伯アーノルド・ヴァン・ケッペル]]<br />[[ファイル:Flag of the Kingdom of Prussia (1701-1750).svg|25px]][[レオポルト1世 (アンハルト=デッサウ侯)|アンハルト=デッサウ侯レオポルト1世]]<br />[[ファイル:Flag Portugal (1707).svg|25px]][[アントニオ・ルイス・デ・ソーサ|第2代ミナス侯アントニオ・ルイス・デ・ソーサ]]<br />[[ファイル:Savoie flag.svg|25px]][[ヴィットーリオ・アメデーオ2世]] |
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| commander2 = [[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボン|ヴァンドーム公ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボン]]<br />[[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[クロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラール|ヴィラール公クロード・ルイ・ド・ヴィラール]]<br />[[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[ルイ・フランソワ・ド・ブーフレール|ブーフレール公ルイ・フランソワ]]<br />[[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[フランソワ・ド・ヌフヴィル (ヴィルロワ公)|ヴィルロワ公フランソワ・ド・ヌフヴィル]]<br />[[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[ニコラ・カティナ]]<br />[[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[カミーユ・ドスタン (タラール公)|タラール伯カミーユ・ドスタン]]<br />[[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[フェルディナン・ド・マルサン]]<br />[[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[ルネ・ド・フルーレ (テッセ伯)|テッセ伯ルネ・ド・フルーレ]]<br />[[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[ジェームズ・フィッツジェームズ (初代ベリック公)|ベリック公ジェームズ・フィッツジェームズ]]<br />[[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[ルイ (ブルゴーニュ公)|ブルゴーニュ公ルイ]]<br />[[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[フィリップ2世 (オルレアン公)|オルレアン公フィリップ2世]]<br />[[ファイル:Flag of Cross of Burgundy.svg|25px|border]][[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]<br />[[ファイル:Flag of Bavaria (lozengy).svg|25px]][[マクシミリアン2世エマヌエル (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン2世エマヌエル]]<br />[[ラーコーツィ・フェレンツ2世]] |
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| strength1 = 232,000 |
| strength1 = 232,000 |
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| strength2 = フランス 255,000<br />スペイン<br />歩兵13,000<br />騎兵50,000 |
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| casualties2 = |
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'''スペイン継承戦争'''(スペインけいしょうせんそう、{{lang-es| |
'''スペイン継承戦争'''(スペインけいしょうせんそう、{{lang-es|guerra de sucesión española}})は、[[18世紀]]初めに[[スペイン帝国|スペイン]][[スペイン君主一覧|王位]]の継承者を巡って[[ヨーロッパ]]諸国間で行われた戦争([[1701年]] - [[1714年]])。また、この戦争において[[北アメリカ大陸]]で行われた局地戦は[[アン女王戦争]]と呼ばれる。 |
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この戦争に参戦した一国である[[イングランド王国]]は、戦争期間中に「[[グレートブリテン王国]]」へと変わっているが、本記事では王位と国制に関わる箇所を除いて「[[イギリス]]」に統一している。 |
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== 原因 == |
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[[ファイル:King Charles II of Spain.jpg|left|thumb|150px|スペイン・ハプスブルク家最後の王カルロス2世]] |
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[[スペイン・ハプスブルク朝|スペイン・ハプスブルク家]]の[[カルロス2世 (スペイン王)|カルロス2世]]は生来虚弱体質で、子孫が生まれることを望めなかった。このため、[[フェリペ4世 (スペイン王)|フェリペ4世]]の娘でカルロス2世の姉マリア・テレサ(フランス名[[マリー・テレーズ・ドートリッシュ|マリー・テレーズ]]、[[1683年]]死去。自身はフランス王家に嫁ぐ際にスペイン王位継承権を放棄)と[[フランス君主一覧|フランス王]][[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]([[フェリペ3世 (スペイン王)|フェリペ3世]]の娘アナ([[アンヌ・ドートリッシュ|アンヌ]])の子でもある)の子である[[ドーファン|フランス王太子]][[ルイ (グラン・ドーファン)|ルイ]](グラン・ドーファン、後の[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]の祖父)が後継候補とされた。しかしフランス王位継承者が[[スペイン君主一覧|スペイン王]]となれば[[フランス王国|フランス]]と[[スペイン帝国|スペイン]]が将来[[同君連合]]となってしまうため反対が多く、フランス側からもルイ14世の孫で王太子の次男(後のルイ15世の叔父)アンジュー公フィリップを後継者に推した。 |
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== 背景 == |
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これに対して、スペイン王家とは同族で、[[フェリペ3世 (スペイン王)|フェリペ3世]]の娘[[マリア・アナ・デ・アウストリア|マリア・アンナ(マリア・アナ)]]の子である[[オーストリア・ハプスブルク家]]の[[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト1世]]も候補になったが、これもスペインと[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]の合邦を招くため、レオポルト1世は末子の[[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール大公]]を候補者に推していた。 |
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=== フランスの野心 === |
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[[フランス王国|フランス王]][[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]は領土拡大を目論み、たびたび戦争を起こしたが([[ネーデルラント継承戦争]]、[[仏蘭戦争]]、[[大同盟戦争]])、[[イングランド王国|イングランド王]]兼[[オランダ総督]][[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]を中心とする周辺諸国の反発を招き、小規模な目的しか達成出来ずにいた。 |
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[[1697年]]に大同盟戦争を終結させた[[レイスウェイク条約]]で、フランスは領土をほとんど手に入れられなかったばかりか、相手側の要求を認めたため実質的な敗戦となったが、ルイ14世は姻戚関係にあるスペイン王位に目をつけていたため妥協した結果であった。 |
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各国の思惑が交錯する中、スペイン王カルロス2世は[[1700年]][[11月]]に突如崩御したが、その遺言書にはフランス王孫フィリップに位を譲る旨が記されていた。これはルイ14世の画策によるものであったという。 |
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=== スペイン王家の断絶直前 === |
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ここにおいて、[[ブルボン朝|フランス・ブルボン家]]のアンジュー公フィリップがスペイン王[[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]として即位したため、オーストリアはフランスの勢力拡大を恐れる[[グレートブリテン王国|イギリス]]、[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]と対フランス大同盟を結び、フェリペの即位に反対してフランス、スペインに[[宣戦布告]]した。 |
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[[ファイル:King Charles II of Spain.jpg|left|thumb|150px|[[スペイン・ハプスブルク朝|スペイン・ハプスブルク家]]最後の王[[カルロス2世 (スペイン王)|カルロス2世]]]] |
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[[スペイン・ハプスブルク朝|スペイン・ハプスブルク家]]最後の王[[カルロス2世 (スペイン王)|カルロス2世]]は、先天的に虚弱かつ心身に異常が見られ、後継者を望めそうになかった。したがって、近い将来のスペイン王家の断絶は、カルロス2世の生存中から確実視されていた。 |
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スペイン王家とは同族であり、フェリペ3世の娘でアンヌの妹[[マリア・アンナ・フォン・シュパーニエン|マリア・アンナ]](マリア・アナ)の子である[[ハプスブルク帝国|オーストリア・ハプスブルク家]]の[[神聖ローマ皇帝]][[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト1世]]が候補になったが、スペインと[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]の合邦を招くため、忌避された<ref name="kanazawa1966-96">[[#金澤 1966|金澤 1966]] p.96</ref>。 |
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最初は、スペインの辺境を我がものにせんとするフランスと、それを押しとどめようとするヨーロッパ各国との戦争の様相であったが、次第にスペインの国内事情がからみ『スペインの内戦』の一面を持つようになった。スペイン国内が一丸となってフェリペ5世即位を支持したわけではなかったのである。政治の中心である[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]に対し、古くから君主との協約主義を掲げ自治の発達した[[カタルーニャ君主国|カタルーニャ]]及び[[アラゴン王国|アラゴン]]・[[バレンシア王国|バレンシア]]は中央政権に対抗心を持っていた。[[ナバラ王国|ナバーラ]]及び[[バスク国 (歴史的な領域)|バスク]]はブルボン家支持を表明した。 |
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次いで有力だったのが、[[ブルボン家]]のフランス王ルイ14世だった。彼は[[フェリペ3世 (スペイン王)|フェリペ3世]]の娘[[アンヌ・ドートリッシュ|アンヌ]]の子であり、王妃はカルロス2世の異母姉[[マリー・テレーズ・ドートリッシュ|マリア・テレサ]]だったが、母后も王妃もスペインの王位継承権を放棄しており、レオポルド同様、最適任ではなかった<ref name="kanazawa1966-96"/>。 |
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== 経過 == |
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戦争はまずオーストリアがスペイン領[[ミラノ公国|ミラノ]]奪還を目指して[[オイゲン・フォン・ザヴォイエン|オイゲン公]]率いる軍を北イタリアに進撃させたことで始まった。イギリスは新たに即位した[[アン (イギリス女王)|アン]]女王のもとで、女王の女官[[サラ・ジェニングス]]の夫である[[マールバラ公]][[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|ジョン・チャーチル]]が司令官に任命されて大陸に派遣され、イギリス軍はオランダ軍と連合して[[フランドル]]に迫った。 |
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第3の有力者は、カルロス2世の同母姉[[マルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャ|マルガリータ・テレサ]]の孫[[ヨーゼフ・フェルディナント (アストゥリアス公)|ホセ・フェルナンド]]だった<ref name="kanazawa1966-96"/>。 |
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[[ポルトガル王国|ポルトガル]]や[[ドイツ]]の諸[[領邦]]国家も同盟に加わったため、フランスは孤立無援に陥ったが、[[バイエルン大公|バイエルン選帝侯]][[マクシミリアン2世エマヌエル (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン2世エマヌエル]]の同盟を得て[[アルザス]]を占領、南ドイツに軍を派遣してオーストリアを脅かした。しかしこれに対してイギリスのマールバラ公が長駆南ドイツに至り、オイゲン公のオーストリア軍と連合して[[ブレンハイムの戦い]]でフランスを破った([[1704年]])。 |
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=== スペインの分割案 === |
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フランスは反撃をはかり、オーストリア側についた[[サヴォイア公国]]の首都[[トリノ]]を攻囲したが、[[1706年]]にオイゲン公率いるオーストリア軍に敗れ、北イタリアを制圧された([[トリノの戦い]])。また[[南ネーデルラント|スペイン領ネーデルランド]](現[[ベルギー]])では、マールバラ公率いるイギリス軍に[[ラミイの戦い]]で敗れた。 |
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イングランド王[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]は、1698年、ルイ14世に対して打開策を提案し、ハーグで'''[[ハーグ条約 (1698年)|第一次分割条約]]'''に合意した<ref name="kanazawa1966-97">[[#金澤 1966|金澤 1966]] p.97</ref>。2人は、ホセ・フェルナンドを後継者とするが、[[ナポリ王国|ナポリ]]と[[シチリア王国|シチリア]]はルイ14世の息子[[ルイ (グラン・ドーファン)|ルイ]][[ドーファン|王太子]](グラン・ドーファン)へ、[[ミラノ公国]]はレオポルト1世の次男'''[[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール大公]]'''へ、それぞれ割譲される内容だった<ref name="kanazawa1966-97"/>。 |
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スペインもホセ・フェルナンドを後継者とすることに合意し、[[アストゥリアス公]]に叙爵したが、領土の割譲は拒絶した<ref>[[#金澤 1966|金澤 1966]] p.97-98</ref>。しかし、そのホセ・フェルナンドが1699年2月に6歳で夭逝してしまう。この直後から、ルイ14世はスペイン問題に熱心に介入し、'''[[ロンドン条約 (1700年)|第二次分割条約]]'''として、カール大公にスペイン本国を継承させる代わりに、ルイ王太子にナポリ、シチリア、トスカーナ、[[ギプスコア県|ギプスコア]]、[[ロレーヌ公国|ロレーヌ]]を割譲することで、[[イギリス]]や[[ネーデルラント連邦共和国]]の同意を得た<ref name="kanazawa1966-98">[[#金澤 1966|金澤 1966]] p.98</ref>。当のスペイン王国及び皇帝レオポルト1世は反発し、両者はスペイン所領の一括相続では一致したものの、カルロス2世の体調悪化は深刻であり、後継者を巡る各国の策謀の中、カルロス2世はルイ王太子の次男'''アンジュー公[[フェリペ5世 (スペイン王)|フィリップ]]'''を遺言で後継者に指名して、1700年11月1日に崩御する<ref name="kanazawa1966-98"/>。 |
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スペインも、[[1707年]]に[[イタリア半島]]を南下したオーストリア軍にスペイン領の[[ナポリ王国]]を占領された。さらにスペイン国内ではオーストリアの推す国王候補カール大公を支持して[[バレンシア王国|バレンシア]]と[[カタルーニャ君主国|カタルーニャ]]がスペイン王室に反旗を翻したので、イギリス軍が[[ジブラルタル]]を占領して、これを支援した。スペイン軍はジブラルタルを長期間包囲したが、イギリス軍は執拗に持ちこたえた。 |
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カルロス2世の遺言では、スペイン領の一括相続を前提としてアンジュー公フィリップに王位が継承されるが、これをルイ14世が拒否した場合は、カール大公が相続すると定められていた<ref name="kanazawa1966-99">[[#金澤 1966|金澤 1966]] p.99</ref>。ルイ14世は、スペインの分割ではなく、カール大公のスペイン継承に伴いフランスがハプスブルク家に挟撃されることを回避するため、同年11月9日カルロス2世の遺言の支持を表明し<ref name="kanazawa1966-99"/>、アンジュー公フィリップがスペイン王[[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]として即位した。 |
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[[1707年]]、フランス軍はフランドルに軍を集めてイギリス・オランダ軍に対する反抗を開始した。マールバラ公はこれに対してイギリス・オランダ・オーストリアの連合軍を結集し、[[アウデナールデの戦い]]でフランス軍を破った。翌[[1708年]]、ルイ14世は和平を提案したが、フェリペのスペイン王位継承をはじめとして連合国の認められない要求が含まれていたため戦争は再開され、マールバラ公は[[パリ]]進撃を目指してフランス領フランドルに侵入した。連合軍とフランス軍は[[マルプラケの戦い]]で激突し、連合軍はフランス軍を敗走させたものの、死傷者数万人の大損害を被り、戦線はフランドルで膠着した。 |
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フィリップへの王位継承は、スペイン宮廷にフランス支持者を増やしたルイ14世の画策によるものであったとされる。カルロス2世は一括相続して戦争が起こる場合を見越して、フランスが諸国に対抗出来るだろうとの期待から選んだものであった。仏西の合同を脅威と感じていたにもかかわらず、ウィリアム3世はフェリペ5世の即位を容認した<ref name="kanazawa1966-100">[[#金澤 1966|金澤 1966]] p.100</ref>。 |
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この頃までに、オランダやドイツ諸邦は既に戦争の継続に倦んでおり、またイギリス国内でも和平を望む声が高まっていた。[[1710年]]、自身がイギリスの戦争推進派の中心でもあるマールバラ公がアン女王の信任を失うと、イギリス政府も和平に傾き始めた。 |
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=== 王位継承候補者の系図 === |
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ヨーロッパで戦争が繰り広げられている間、アメリカ大陸ではイギリスとフランスの間で植民地を巡るアン女王戦争が開始された。イギリスは[[フランス領カナダ]]の[[ケベック]]を狙い、フランスは[[ニューイングランド]]の英国植民地を狙ったが、いずれも成功しなかった。ただイギリスは、フランス領[[アカディア]]の占領に成功している。 |
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候補者(緑背景)とスペイン王家(赤背景)との関連性のみを抜粋する。詳細な系図は、[[#系図]]の節を参照。 |
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{{Quotation| |
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;[[スペイン・ハプスブルク朝|スペイン・ハプスブルク家]]の王位継承に関する系図 |
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{{familytree|||||||||||||PH3|||||||||||||PH3=[[フェリペ3世 (スペイン王)|フェリペ3世]]|boxstyle_PH3 =background-color: #fdd;}} |
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|}} |
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<gallery> |
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File:Vivien - Philip V of Spain - New Castle Schleißheim.jpg|[[アンジュー公]][[フェリペ5世 (スペイン王)|フィリップ]] |
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File:Kneller - Emperor Charles VI when Archduke.jpg|[[オーストリア大公]][[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール]] |
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</gallery> |
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=== カルロス2世崩御と対立の表面化 === |
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スペインを事実上獲得したルイ14世は、フェリペ5世のフランス王位継承権を保留し、将来の仏西両国の合同を暗示させた<ref name="kanazawa1966-100"/>。[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]への牽制として[[南ネーデルラント|スペイン領ネーデルランド]](現[[ベルギー]]ならびに[[ルクセンブルク]]など)の総督でフェリペ5世の母方の叔父でもある[[バイエルン選帝侯領|バイエルン選帝侯]][[マクシミリアン2世エマヌエル (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン2世エマヌエル]]の承認を得てフランス軍を駐屯させ、スペインの貿易特権をフランスの貿易会社に譲らせた上、イングランド王位僭称者[[ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート|ジェームズ3世]]を支持する[[ジャコバイト]]の支援も行った<ref name="kanazawa1966-100"/>。 |
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これら一連の行動はイギリスを戦争へと傾かせ、ウィリアム3世は、1701年9月7日に[[デン・ハーグ|ハーグ]]でフランスの勢力拡大を恐れるオーストリア、オランダと'''[[ハーグ条約 (1701年)|対フランス大同盟(ハーグ条約)]]'''を結び、フェリペ5世の即位に反対した<ref>[[#金澤 1966|金澤 1966]] p.100-101</ref><ref>[[#友清 2007|友清 2007]] p.11-26,47-56</ref><ref>[[#マッケイ 2010|マッケイ 2010]] p.61-67</ref>。 |
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最初はスペインの辺境を我が物にせんとするフランスと、それを押しとどめようとするヨーロッパ各国との戦争の様相であったが、次第にスペインの国内事情がからみ『スペインの内戦』の一面を持つようになった。スペイン国内が一丸となってフェリペ5世即位を支持したわけではなく、政治の中心である[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]に対し、古くから君主との協約主義を掲げ自治の発達した[[カタルーニャ君主国|カタルーニャ]]及び[[アラゴン王国|アラゴン]]・[[バレンシア王国|バレンシア]]は中央政権に対抗心を持っていたのである。[[ナバラ王国|ナバラ]]と[[バスク地方|バスク]]はブルボン家支持を表明した。 |
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== 全般の経過 == |
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[[File:Prinz Eugene of Savoy.PNG|thumb|180px|[[オイゲン・フォン・ザヴォイエン|プリンツ・オイゲン]]]] |
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[[File:John Churchill, 1st Duke of Marlborough.png|thumb|180px|[[マールバラ公]][[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|ジョン・チャーチル]]]] |
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戦争はまず、オーストリアがスペイン領[[ミラノ公国|ミラノ]]奪還を目指して、1701年に[[オイゲン・フォン・ザヴォイエン|プリンツ・オイゲン]]率いる軍を北イタリアに進撃させたことで始まった<ref>[[#金澤 1966|金澤 1966]] p.102</ref>。 |
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イギリスは[[1702年]]にウィリアム3世が崩御。新たに即位した義妹の[[アン (イギリス女王)|アン女王]]の下で[[シドニー・ゴドルフィン (初代ゴドルフィン伯)|シドニー・ゴドルフィン]]を中心とした政権が成立、女王の親友でもある女官[[サラ・ジェニングス]]の夫である[[マールバラ公]][[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|ジョン・チャーチル]]が司令官に任命された。1702年夏、マールバラ公は4万の兵力を率いて大陸に派遣される<ref>[[#金澤 1966|金澤 1966]] p.101</ref>。イギリス軍はオランダ軍と連合して[[フランドル]]に迫った。ここでマールバラ公はオランダに接近したフランス軍を威嚇しながら占領地域を解放、[[1703年]]にはフランス軍をネーデルラントへ後退させた。また、マールバラ公はケルン選帝侯領経由で南下し、バイエルンを視野に入れた<ref name="kanazawa1966-103">[[#金澤 1966|金澤 1966]] p.103</ref>。フランスは同年8月、[[クロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラール|ヴィラール]]を抜擢して、オイゲン公不在の間隙に、ハプスブルク家の本拠地[[ウィーン]]を攻撃する<ref name="kanazawa1966-103"/>。 |
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[[ポルトガル王国|ポルトガル]]やブランデンブルク=プロイセン・ハノーファーを始めとするドイツの諸領邦国家も同盟に加わったため、フランスは孤立無援に陥った。しかし[[1704年]]春、バイエルン選帝侯[[マクシミリアン2世エマヌエル (バイエルン選帝侯) |マクシミリアン2世]]の同盟を得て[[アルザス地域圏|アルザス]]を占領、南ドイツに軍を派遣してオーストリアを脅かした。これに対して、オイゲン公がイタリアから急遽帰還、加えてマールバラ公率いるイギリス軍と[[ハイルブロン]]で合流し、[[8月13日]]の[[ブレンハイムの戦い]]でフランスを破った。結果、バイエルンは同盟国に占拠されたため、フランス軍はアルザスまで後退した<ref name="kanazawa1966-107">[[#金澤 1966|金澤 1966]] p.107</ref>。バイエルン選帝侯マクシミリアン2世はネーデルラントへ亡命し<ref name="kanazawa1966-107"/>、オーストリアの危機は去った。 |
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ポルトガルはイギリスと単独講和していたことから、イギリスの地中海進出は容易となった<ref name="kanazawa1966-108">[[#金澤 1966|金澤 1966]] p.108</ref>。1704年、アン女王はカール大公の要望に沿って輸送船を貸与してオーストリア軍のスペイン上陸を支援し、他方[[ジョージ・ルーク]]率いるイギリス軍が[[ジブラルタル]]を占領した([[ジブラルタルの占領]])。ジブラルタル陥落から6週間後、カール大公は彼を支持するカタルーニャへ上陸。翌1705年、フランス軍はジブラルタルを長期間包囲したが、イギリス海軍は執拗に持ちこたえた([[マラガの海戦]])<ref name="kanazawa1966-109">[[#金澤 1966|金澤 1966]] p.109</ref>。カール大公はイギリス軍や地元義勇軍に支援されて、さらにバルセロナを陥落させ([[バルセロナ包囲戦 (1705年)]])、1706年にはマドリッドに入城する<ref name="kanazawa1966-110">[[#金澤 1966|金澤 1966]] p.110</ref>。しかし、アン女王の異母弟でジャコバイトの[[ジェームズ・フィッツジェームズ (初代ベリック公)|ベリック公ジェームズ]]がフランス軍を率いて、オーストリア軍を破ってマドリードを奪還する。<!--<ref>[[#友清 2007|友清 2007]] p.56-70,85-126,161-173</ref><ref>[[#マッケイ 2010|マッケイ 2010]] p.68-130。</ref>。※出典部分要確認--> |
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フランスは反撃を図り、オーストリア側に就いた[[サヴォイア公国]]の首都[[トリノ]]を攻囲したが、[[1706年]]にオイゲン率いるオーストリア軍に敗れ、北イタリアを制圧された([[トリノの戦い]])。またスペイン領ネーデルランドでは、マールバラ公率いるイギリス軍に[[ラミイの戦い]]で敗れ、ネーデルラントを失った。 |
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1707年、フランス軍はフランドルに軍を集めてイギリス・オランダ軍に対する反抗を開始した。マールバラ公はこれに対してイギリス・オランダ・オーストリアの連合軍を結集し、[[1708年]]に[[アウデナールデの戦い]]でフランス軍を破った。翌[[1709年]]、ルイ14世は和平を提案したが、フェリペ5世のスペイン王位継承をはじめとして連合国の認められない要求が含まれていたため、戦争は再開され、マールバラ公は[[パリ]]進撃を目指して[[フランス領フランドル]]に侵入した。連合軍とフランス軍は[[マルプラケの戦い]]で激突し、連合軍はフランス軍を敗走させたものの、死傷者数万人の大損害を被り、戦線はフランドルで膠着した。 |
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この頃までに、オランダやドイツ諸邦は既に戦争の継続に倦んでおり、イギリス国内でも和平を望む声が高まっていた。やがて、和平派のアン女王は戦争推進派のサラを疎ましく思うようになる。[[1710年]]、自身がイギリスの戦争推進派の中心でもあるマールバラ公は、妻のサラ共々アン女王の信任を失う。政府も和平に傾き始め、ゴドルフィンがアン女王に更迭され、与党の[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]が総選挙で敗れると、[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]の指導者[[ロバート・ハーレー (初代オックスフォード=モーティマー伯)|ロバート・ハーレー]]と[[ヘンリー・シンジョン (初代ボリングブルック子爵)|ヘンリー・シンジョン]]らが和平に動き出した。 |
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ヨーロッパで戦争が繰り広げられている間、アメリカ大陸ではイギリスとフランスの間で植民地を巡るアン女王戦争が開始された。イギリスは[[フランス領カナダ]]の[[ケベック]]を狙い、フランスは[[ニューイングランド]]の英国植民地を狙った。いずれも成功しなかったが、イギリスはフランス領[[アカディア]]の占領に成功した<ref>[[#金澤 1966|金澤 1966]] p.111</ref>。また、戦争中の1707年にイングランドと[[スコットランド王国|スコットランド]]の[[合同法 (1707年)|合同条約]]が批准され、[[グレートブリテン王国]]が成立している<ref>[[#友清 2007|友清 2007]] p.181-194,220-241,249-263,307-309</ref><ref>[[#マッケイ 2010|マッケイ 2010]] p.137-164。</ref>。 |
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== 和平 == |
== 和平 == |
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[[ファイル:Western Europe Utrecht Treaty.jpg|thumb|right|300px|スペイン継承戦争後の各国の領土。茶色はイギリス、青はフランス、黄色はスペイン、緑はオーストリア、橙はサヴォイア、深緑はブランデンブルク=プロイセン]] |
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[[1711年]]、イギリスのマールバラ公は軍資金横領が発覚して失脚し、また同年にオーストリアのレオポルト1世の後を継いでいた[[ヨーゼフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ1世]]が死去し、弟でスペイン国王候補であったカール大公が[[オーストリア大公]]・神聖ローマ皇帝[[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]として即位すると、イギリスはカールのスペイン王位継承でハプスブルク家の大帝国が再現することを恐れ、フェリペ5世のスペイン王退位要求に消極的となった。 |
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[[1711年]]、イギリスのマールバラ公は軍資金横領が発覚して失脚。同年[[4月17日]]にはオーストリアのレオポルト1世の後を継いでいた皇帝[[ヨーゼフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ1世]]が崩御し、弟であるカール大公は『皇帝[[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]』として即位する。その結果、イギリスはカール6世のスペイン王位継承でハプスブルク家の大帝国が再現<ref group=注釈>16世紀、神聖ローマ皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]はスペイン王カルロス1世でもあり、[[新大陸]]を含む広大な領土を統治した。</ref>することを恐れ、フェリペ5世のスペイン王退位要求に消極的となった。 |
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[[1712年]]、イギリスとフランスとの間で和平交渉が開始され、フェリペ5世は将来のフランスとスペインの一体化の懸念を払拭するために、フランス王位継承権を放棄することを宣言した。同年、散発的に続いていたオーストリアとフランスとの戦闘でフランスが勝利([[ドゥナの戦い]])を収めたことにより、全面的な和平の機運が高まった。これにより、スペイン王家に反逆したバレンシアとカタルーニャは反フランス同盟側から見捨てられ、フランス・スペイン軍に蹂躙された。 |
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[[1713年]]、各国は'''[[ユトレヒト条約]]'''を結び、長年に及んだ戦争を終結させた。この条約でスペインはオーストリアにスペイン領ネーデルラント、ナポリ王国、ミラノ公国を、サヴォイア公国に[[シチリア王国]](後に[[サルデーニャ島|サルデーニャ]]島と交換)を割譲、イギリスはジブラルタルと[[メノルカ島|ミノルカ島]]及び北アメリカの[[ハドソン湾]]、アカディアを獲得し、反フランス同盟は代償としてフェリペ5世のスペイン王即位を承認した。そして翌1714年にフランス王国とオーストリアとの間で'''[[ラシュタット条約]]'''が結ばれた<ref>[[#友清 2007|友清 2007]] p.P303-304,332-366</ref><ref>[[#マッケイ 2010|マッケイ 2010]] p.165-192</ref>。 |
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戦争終結の同年にアンが没し、[[ステュアート朝]]は断絶。[[はとこ|又従兄]]の[[ハノーファー君主一覧|ハノーファー選帝侯]][[ジョージ1世 (イギリス王)|ゲオルク・ルートヴィヒ]]がグレートブリテン王ジョージ1世として即位して[[ハノーヴァー朝]]が成立すると、ホイッグ党がジョージ1世の信任を背景に復帰、対するトーリー党は王位継承問題に伴う内部分裂と、和睦交渉で大陸の同盟国を見捨てて単独交渉に走ったことが仇となり、中心人物のハーレー・シンジョンらは失脚しホイッグ党が復権、ジャコバイト蜂起も鎮圧されホイッグ党の政権は磐石となり、マールバラ公も名誉回復を果たした。1715年にルイ14世も死去して曾孫の[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]が即位、政権交代したイギリスとフランスは協調関係を築いていった<ref>[[#友清 2007|友清 2007]] p.367-394</ref>。 |
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スペイン継承戦争は、マールバラ公やオイゲンの活躍によりフランスは各地で敗戦を重ねたが、反フランス同盟は足並みの不一致から全面的な勝利を収めることができなかった。特にオランダは、フランスの軍事的な強大化を恐れる一方で、貿易立国としてフランスとの経済関係が重視されていたので、フランスを完全に敗北させることを望んでいなかった。その結果、反フランス同盟の最大の目的であったフェリペ5世のスペイン王位継承は阻止することができなかったが、この戦争で[[17世紀]]の[[西ヨーロッパ]]で最強を誇ったルイ14世のフランス軍のヘゲモニーは抑制され、ヨーロッパの国際関係は新時代を迎えることになった。 |
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== 各戦線の攻防 == |
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=== ネーデルラント方面 === |
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フランス軍は、ルイ14世がマクシミリアン2世と弟の[[ケルン大司教|ケルン選帝侯]]兼[[リエージュ司教領|リエージュ司教]][[ヨーゼフ・クレメンス・フォン・バイエルン]]と結んでいたため、簡単にオランダ侵攻が出来る最前線にまで駐屯が可能となり、[[ルイ・フランソワ・ド・ブーフレール]]が率いるフランス軍はケルン選帝侯領でオランダを伺っていた。しかし、マールバラ公はフランス軍を上回る機動力でフランス軍の補給地点を脅かしたり、[[マース川]]流域とケルン選帝侯領を占領したため、フランス軍はネーデルラントへ撤退、居場所を無くしたヨーゼフ・クレメンスはフランスへ亡命した。1703年にヴィルロワ公[[フランソワ・ド・ヌフヴィル (ヴィルロワ公)|フランソワ・ド・ヌフヴィル]]がフランス軍の指揮権を引き継いだが、マールバラ公に牽制され、[[アントウェルペン]]から[[ナミュール]]までの防衛線確保に手一杯だった<ref>[[#友清 2007|友清 2007]] p.24-26,56-70</ref>。 |
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[[1704年]]には、ドイツでフランス・バイエルン連合軍がオーストリアに接近したとの報告を受けたマールバラ公がドイツ遠征を決意したが、前線のフランス軍を残したまま南下することを恐れたオランダに反対されることが分かっていたため、フランス軍とオランダを騙して南下するという賭けに出た。オランダにはアウウェルケルク卿[[ヘンドリック・ファン・ナッサウ=アウウェルケルク|ヘンドリック・ファン・ナッサウ]]を残してバイエルンへ向かい、同じく南下したヴィルロワに対しては途中の[[ライン川]]を渡河して交戦すると見せかけて牽制、400kmも進みドイツ南部でイタリアから赴任したオイゲンと[[バーデン (領邦)|バーデン辺境伯]][[ルートヴィヒ・ヴィルヘルム (バーデン=バーデン辺境伯)|ルートヴィヒ・ヴィルヘルム]]と合流した。そして[[ドナウ川]]流域を占領しつつバイエルンを荒らし回り、ブレンハイムの戦いでフランス・バイエルン連合軍に大勝し、ドナウ川の脅威を取り除いてイギリスへ帰国した。この戦いの恩賞としてマールバラ公はアンから[[ブレナム宮殿]]を与えられている<ref>[[#友清 2007|友清 2007]] p.97-122</ref><ref>[[#マッケイ 2010|マッケイ 2010]] p.94-110</ref>。 |
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マールバラ公は[[1705年]]にも南下を目論んだが、ドイツから[[クロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラール]]が妨害したためネーデルラントへ引き上げ、ネーデルラントでも戦果を上げられなかった。しかし翌1706年にヴィルロワがルイ14世の命令で東進した所を迎え討ち、ラミイの戦いで大勝、余勢を駆ってネーデルラントを占領した。1707年にフランスのイタリア方面司令官だったヴァンドーム公[[ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボン]]がヴィルロワの代わりにネーデルラントへ向かうと戦線は停滞、1708年にルイ14世の孫でフェリペ5世の兄でもある[[ブルゴーニュ公一覧|ブルゴーニュ公]][[ルイ (ブルゴーニュ公)|ルイ]]の指揮下に入ったヴァンドームにネーデルラント西部を占領されるが、イタリアから北上したオイゲンと合流してアウデナールデの戦いで勝利、西部を奪還して北フランスの要塞都市[[リール (フランス)|リール]]も落としてフランスに脅威を与えた([[リール包囲戦 (1708年)|リール包囲戦]])<ref>[[#友清 2007|友清 2007]] p.137-143,161-173,206,220-241</ref><ref>[[#マッケイ 2010|マッケイ 2010]] p.137-151</ref>。 |
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1709年に和睦交渉が決裂したため、マールバラ公・オイゲンは北フランスへ進撃、ブルゴーニュ公・ヴァンドームから交代したヴィラール率いるフランス軍が構築した防衛線を崩す戦略を取り、ヴィラールは防衛線堅持の方向で迎え討った。両者はマルプラケの戦いで激突、連合軍は勝利したがフランス軍の倍の大損害を受けたため、[[トゥルネー]]と[[モンス]]の陥落だけに終わった。また、長期化に伴いイギリスの厭戦気分が高まり、1710年にゴドルフィンが更迭、総選挙でホイッグ党に代わって政権を握ったハーレーとシンジョンらトーリー党政権は、和睦とマールバラ公の罷免に動き出した<ref>[[#友清 2007|友清 2007]] p.249-264,269-288</ref><ref>[[#マッケイ 2010|マッケイ 2010]] p.152-168</ref>。 |
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マールバラ公ら同盟軍は1710年から1711年にかけてフランス防衛線を徐々に崩していったが、1711年にマールバラ公はトーリー党に罷免され、後任のオーモンド公[[ジェームズ・バトラー (第2代オーモンド公)|ジェームズ・バトラー]]はフランス外相の[[ジャン=バティスト・コルベール (トルシー侯)|トルシー侯]]と和睦交渉していたハーレーらの命令でフランス軍と戦わず、翌1712年にシンジョンとトルシーが単独講和を結んだため、イギリス軍を引き連れて帰国した。イギリス軍の離脱で同盟軍の戦力は低下、オイゲンとアルベマール伯[[アーノルド・ヴァン・ケッペル (初代アルベマール伯)|アーノルド・ヴァン・ケッペル]]は同盟軍を率いて戦争を続けたが、ドゥナの戦いで敗北してアルベマールは捕らえられ、ヴィラールが戦線を持ち直したため交戦を断念、ユトレヒト条約とラシュタット条約の締結で終戦となった<ref>[[#友清 2007|友清 2007]] p.309-314,317-333,340-352,355-365</ref>。 |
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=== ドイツ方面 === |
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フランスはドイツにも軍を送り、アルザスを拠点としてライン川流域([[ラインラント]])で東進を狙っていた。これに対して、バーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルムが対岸で[[ストラスブール]]から[[シュトルホーフェン]]に及ぶ防衛線を構築、フランス軍を待ち構えていた。1702年にヴィラールは、バイエルンで挙兵したマクシミリアン2世に呼応してライン川の渡河を決意、ライン川を南下して南岸の[[フリートリンゲンの戦い]]で皇帝軍に勝利したが、一旦ストラスブールへ引き上げ、翌1703年に再度南下してライン川を渡河、バイエルン軍に合流してオーストリアの首都[[ウィーン]]に迫る勢いだった。 |
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しかし、方針を巡ってヴィラールとマクシミリアン2世が対立、ヴィラールはフランスへ召還され、タラール伯[[カミーユ・ドスタン (タラール公)|カミーユ・ドスタン]]と[[フェルディナン・ド・マルサン]]がヴィラールの後任としてドイツ方面を受け持ったが、1704年にブレンハイムの戦いでマールバラ公・オイゲン率いる同盟軍に大敗して、タラールは捕虜となり、マルサンはライン川へ後退してマクシミリアン2世はネーデルラントへ亡命、ドナウ川のフランス軍は消滅してライン川戦線も劣勢になった。1705年にライン川方面軍に復帰したヴィラールはマールバラ公の南下を阻止、ライン川戦線を立て直した<ref>[[#友清 2007|友清 2007]] p.88-95,100-122,137-139</ref>。 |
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ヴィラールは翌1707年にルートヴィヒ・ヴィルヘルムが死去して、ライン川司令官となった[[バイロイト侯領|バイロイト辺境伯]][[クリスティアン・エルンスト (ブランデンブルク=バイロイト辺境伯)|クリスティアン・エルンスト]]が守るシュトルホーフェンを攻撃、クリスティアン・エルンストが放棄したシュトルホーフェン防衛線を突破、バーデン・[[ヴュルテンベルク]]を略奪して回り大戦果を上げた。失態を演じたクリスティアン・エルンストは罷免され、ハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒ(後のイギリス王ジョージ1世)がライン川に向かうと、ヴィラールはアルザスへ引き上げた。 |
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1708年、ヴィラールとライン川方面に向かったマクシミリアン2世が再度対立したため、ヴィラールは南フランスへ左遷され、スペイン方面で活躍していたベリック公[[ジェームズ・フィッツジェームズ (初代ベリック公)|ジェームズ・フィッツジェームズ]]がスペインからライン川に転任してマクシミリアン2世の補佐を務めた後、ライン川北岸の[[コブレンツ]]で兵を集めネーデルラントへ向かったオイゲンの後を追って北上、ネーデルラントでブルゴーニュ公・ヴァンドームと合流、アウデナールデの戦いで損害を受けたフランス軍の立て直しと同盟軍の迎撃に当たった。以後、ライン川戦線は進展が無いまま終戦を迎えることになる<ref>[[#友清 2007|友清 2007]] p.199-203,222,232-233,266,292,314</ref>。 |
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=== イタリア・南フランス方面 === |
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イタリアでは早くも1701年から戦闘が始まり、オイゲンを司令官とするオーストリア軍がイタリアへ向かった。対するフランスの将軍[[ニコラ・カティナ]]は、北イタリアの守備を固めオーストリアに至る道路を封鎖していたが、オイゲンは[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]を通りイタリアへ進出、[[カルピの戦い]]でフランス軍を破り、戦線を西へ後退させた。カティナは降格され、ヴィルロワが司令官となったが[[キアーリの戦い]]で大損害を受け、1702年の[[クレモナの戦い]]で捕らえられるなど惨憺たる結果に終わり、ヴィルロワは解放された後はネーデルラントへ転任、カティナはライン川方面司令官を短期間務めた後に引退(後任はヴィラール)、ヴァンドームがイタリア方面を担当することになった。 |
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オイゲンは[[ルッザーラの戦い]]でヴァンドームに勝利して戦線を膠着させたが、オーストリアから援助を受けられないことと、ドイツがバイエルンの挙兵で危機に立たされたことから、1703年にオーストリアへ向かい軍事権を掌握した後に、ドイツでマールバラ公と共に戦った。オイゲン不在のオーストリア軍は[[グイード・フォン・シュターレンベルク]]が指揮を執ったがヴァンドームの前に苦戦、サヴォイアの大半を制圧された。1705年にオイゲンはイタリアへ戻ったが、ヴァンドームに[[カッサーノの戦い]]で敗北、戦局を覆せないままに終わった<ref>[[#友清 2007|友清 2007]] p.85-88,94-106,144-145</ref><ref>[[#マッケイ 2010|マッケイ 2010]] p.68-98,111-117</ref>。 |
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翌1706年、オイゲンがオーストリアへの援助を求めてウィーンに滞在して不在の隙を突いたヴァンドームにより、オーストリア軍は[[カルチナートの戦い]]で連敗、トリノがフランス軍に包囲されるまでになったが、サヴォイア公[[ヴィットーリオ・アメデーオ2世]]とオーストリアの将軍[[ヴィリッヒ・フィリップ・ロレンツ・フォン・ダウン|ヴィリッヒ・フォン・ダウン]]が抵抗して持ちこたえていた。オイゲンはトリノ救援に向かいイタリアを西進、フランス軍はラミイの戦いで大敗して更迭されたヴィルロワと交代してネーデルラントへ向かったヴァンドームに代わりマルサンと[[オルレアン公]][[フィリップ2世 (オルレアン公)|フィリップ2世]]が指揮官として派遣されたが、2人はオーストリア軍を迎え討つ方針を巡って対立、オイゲンは包囲軍の不備を突いてトリノの戦いで勝利、マルサンは戦死してフィリップ2世はフランスへ敗走、トリノ救援とミラノ奪還を果たした<ref>[[#友清 2007|友清 2007]] p.161,175-177</ref><ref>[[#マッケイ 2010|マッケイ 2010]] p.123-128</ref>。 |
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1707年にオイゲンはミラノを完全に平定、ナポリもダウンが制圧して、イタリアはオーストリアの手に入った。次にオイゲンとヴィットーリオ・アメデーオ2世はフランス南部の港湾都市[[トゥーロン]]を包囲したが、フランスの将軍テッセ伯[[ルネ・ド・フルーレ (テッセ伯)|ルネ・ド・フルーレ]]の防衛と包囲側の不備から奪取の見込みが無くなり撤退、包囲は失敗に終わった([[トゥーロン包囲戦 (1707年)|トゥーロン包囲戦]])。その後、南フランスは一進一退となり、オイゲンは1708年にイタリアからネーデルラントへ向かい、ダウンがイタリア担当となり、ヴィットーリオ・アメデーオ2世とダウンがフランス占領下のサヴォイアに攻め入ってはヴィラールやベリックに撃退されるという状況が終戦まで繰り返されていった<ref>[[#友清 2007|友清 2007]] p.195,204-205,244,266,292,314,353</ref><ref>[[#マッケイ 2010|マッケイ 2010]] p.128-136</ref>。 |
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=== スペイン方面 === |
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[[File:Retrat de Carles III davant el port de Barcelona, Frans van Stampart.jpg|thumb|200px|[[バルセロナ伯]]としてのカール]] |
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スペインでフェリペ5世はカスティーリャ・ナバラ・バスクに支持され、カタルーニャ・アラゴン・バレンシアから反感を抱かれていたことから、スペインでも内戦が避けられなかった。同盟軍とスペイン・フランス軍の交戦は[[1702年8月の海戦]]、[[カディスの戦い]]と[[ビーゴ湾の海戦]]など、当初は海戦が主流だったが、1703年にポルトガル・サヴォイアが同盟国に加わり、カール大公がイギリス艦隊の支援でポルトガルに上陸すると状況が一変、陸でも同盟軍とスペイン・フランス連合軍が衝突した。 |
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ポルトガルにはイギリスの将軍ションバーグ公[[メイナード・ションバーグ (第3代ションバーグ公爵)|メイナード・ションバーグ]]が着任していたが、1704年にゴールウェイ伯[[ヘンリー・デ・マシュー (ゴールウェイ伯)|ヘンリー・デ・マシュー]]に交代、翌1705年にはイギリス軍から遠征軍が送られ、ピーターバラ伯[[チャールズ・モードント (第3代ピーターバラ伯)|チャールズ・モードント]]は[[バルセロナ包囲戦 (1705年)|第1次バルセロナ包囲戦]]でカタルーニャの首都[[バルセロナ]]を占拠、カタルーニャにはカール大公が、バレンシアにはピーターバラが駐屯することになった。ポルトガル国境付近ではベリックが戦いを優勢に進めていたが、ジブラルタル奪回を主張したフェリペ5世とルイ14世の方針を拒否したため1704年にフランスへ召還、テッセがスペイン方面軍司令官に就任した。 |
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1706年にフェリペ5世とテッセがバルセロナに攻めかかったが、バレンシアのピーターバラとジブラルタルのイギリス艦隊の救援で撤退([[バルセロナ包囲戦 (1706年)|第2次バルセロナ包囲戦]])、同盟軍は反撃してポルトガル・カタルーニャ・バレンシアの3方面から[[マドリード]]へ向かい、ゴールウェイはマドリードを奪いピーターバラ・カール大公と合流、フェリペ5世とベリックはマドリードを明け渡し[[ブルゴス]]へ後退した。しかし、同盟軍はマドリードの住民から反感を抱かれていたことと、それぞれの連携が不十分だったことからマドリードを奪回され、戦局は遠征前の状態に戻された。戦後テッセはスペインからトゥーロン守備に回され、ベリックがスペイン・フランス軍の指揮を執ることになった<ref>[[#友清 2007|友清 2007]] p.73-76,123-126,153-159,177-180</ref>。 |
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1707年にゴールウェイがスペイン遠征軍の司令官となり、ピーターバラは不祥事からイギリスへ召還されることが決まり、ゴールウェイはイギリス・ポルトガル連合軍を率いて西進した。しかし、ベリックはイギリス軍より多くの軍勢を引き連れて待ち構えていたため、[[アルマンサの戦い]]で大敗した上、イタリア戦線から派遣されたオルレアン公フィリップ2世とベリックがアラゴン・バレンシアを占領して、一気にブルボン家が有利となった。1708年にベリックはライン川方面、次いでネーデルラントへ転任、同盟軍の司令官はゴールウェイからシュターレンベルクに交代、イギリス軍の指揮権は[[ジェームズ・スタンホープ (初代スタンホープ伯)|ジェームズ・スタンホープ]]に移った。同盟軍は1708年のスペインではブルボン家に押されていたが、代わりにミノルカ島を占領してジブラルタルに並ぶイギリス領に変えていった([[ミノルカ島の占領]])。 |
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1709年になると、同盟国との和睦に傾いたルイ14世がスペインからフランス軍を撤退させ、1710年にスタンホープがカタルーニャから進軍してアラゴンとカタルーニャ国境付近でスペイン軍を破り([[アルメナラの戦い]]・[[サラゴサの戦い]])、そのままマドリードを占領した。 |
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しかし、1706年の時と同じく住民の協力を得られず飢餓に苦しみ、同盟国の交渉決裂からルイ14世がヴァンドーム率いるフランス軍をスペインへ派遣、ヴァンドームにポルトガルとの連絡と補給を絶たれ、マドリードを再度放棄した。ヴァンドームは同盟軍を追跡して交戦、スタンホープは[[ブリウエガの戦い]]で敗れて捕らえられ、シュターレンベルクは[[ビリャビシオーサの戦い]]でヴァンドームを撤退させたが、1711年にはスペイン軍がカタルーニャを侵略して回るまでになり、カール大公の勢力圏はもはやバルセロナ周辺しか無かった。 |
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[[1712年]]、イギリスとフランスとの間で和平交渉が開始され、フェリペ5世は将来のフランスとスペインの一体化の懸念を払拭するために、フランス王位継承権を放棄することを宣言した。同年、散発的に続いていたオーストリアとフランスとの戦闘でフランスが勝利([[ドゥナの戦い]])を収めたことにより、全面的な和平の機運が高まった。これによりスペイン王家に反逆したバレンシアとカタルーニャは反フランス同盟側から見捨てられ、フランス・スペイン軍に蹂躙された。 |
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[[1711年]][[4月17日]]、ヨーゼフ1世帝の崩御により、カール大公が皇帝『カール6世』に即位すべくドイツへ戻ったこともスペイン王位の挫折に繋がった。スタンホープの後を受けてイギリス軍司令官となったアーガイル公[[ジョン・キャンベル (第2代アーガイル公爵)|ジョン・キャンベル]]も本国からオーモンドと同様和平政策で同盟軍の支援を禁じられていたため、身動きが取れなかった<ref>[[#友清 2007|友清 2007]] p.197-199,242-244,267,292-294,314-315</ref>。 |
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[[1713年]]、各国は[[ユトレヒト条約]]を結び、長年に及んだ戦争を終結させた。この条約でスペインはオーストリアにスペイン領ネーデルラント、ナポリ王国、ミラノを、サヴォイア公国に[[シチリア]](後に[[サルデーニャ島|サルデーニャ]]と交換)を割譲、イギリスは[[ジブラルタル]]と[[メノルカ島]]及び北アメリカの[[ハドソン湾]]、アカディアを獲得し、反フランス同盟は代償としてフェリペ5世のスペイン王即位を承認した。そして翌[[1714年]]にフランス王国とオーストリアとの間で[[ラシュタット条約]]が結ばれた。 |
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1712年にフェリペ5世がフランス王位継承権を放棄して、イギリスとフランスが和平を結び、スペインとポルトガルのイギリス軍は解散、シュターレンベルクや残りの同盟軍も1713年に帰国、1714年にラシュタット条約が締結され、オーストリアとフランスも和睦した。ただし残されたバルセロナは、同盟国が離脱した後もスペインへの降伏を拒絶、単独でフェリペ5世と戦うことを選んだため、スペインの完全平定はベリックがフランスから派遣され、バルセロナを陥落させる1714年までかかることになる([[バルセロナ包囲戦 (1713年-1714年)|第3次バルセロナ包囲戦]])<ref>[[#友清 2007|友清 2007]] p.353,362-366</ref>。 |
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スペイン継承戦争は、マールバラ公やオイゲン公の活躍によりフランスは各地で敗戦を重ねたが、反フランス同盟は足並みの不一致から全面的な勝利を収めることができなかった。特にオランダは、フランスの軍事的な強大化を恐れる一方で、貿易立国としてフランスとの経済関係が重視されていたので、フランスを完全に敗北させることを望んでいなかった。その結果、反フランス同盟の最大の目的であったフェリペ5世のスペイン王位継承は阻止することができなかったが、この戦争で[[17世紀]]の[[西ヨーロッパ]]で最強を誇ったルイ14世のフランス軍のヘゲモニーは抑制され、ヨーロッパの国際関係は新時代を迎えることになった。 |
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== 系図 == |
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* {{Legend|#dfd|[[ヴィッテルスバッハ家]]([[バイエルン大公|バイエルン系]])の人物}} |
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== その他 == |
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スペイン継承戦争が始まる前、イングランドでは1701年に[[1701年王位継承法|王位継承法]]が制定された。それにより、同君連合に抵抗のあったスペインとは対照的に、[[ステュアート朝]]断絶後は[[ドイツ]]([[神聖ローマ帝国]])の[[領邦]]で[[選帝侯]]の一員でもある[[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領|ブラウンシュヴァイク=リューネブルク]]から新たに国王を迎え入れることを決定した。 |
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同じく選帝侯の[[ブランデンブルク辺境伯]]兼[[プロシア公領|プロイセン公]][[フリードリヒ1世 (プロイセン王)|フリードリヒ3世]]も、戦争支援の約束と引き換えにレオポルト1世から王号を許され「[[プロイセンの王]]」フリードリヒ1世として即位、[[プロイセン王国]]が成立した。 |
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ハノーファーとプロイセンは戦後に列強の一員となり、ヨーロッパの勢力を変えることになる<ref>[[#友清 2007|友清 2007]] p.30-39</ref>。 |
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== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* {{Cite book |和書|author=[[金澤誠]] |title=スペイン継承戦争 |date=1966-11-18 |publisher=[[新人物往来社|人物往来社]] |series=世界の戦史 6 |pages=73-111 |asin=B000JBHB7A|ref=金澤 1966}} |
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* [[友清理士]]『スペイン継承戦争 {{smaller|マールバラ公戦記とイギリス・ハノーヴァー朝誕生史}}』([[彩流社]]、[[2007年]]) ISBN 978-4-7791-1239-3 |
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{{参照方法|date=2019年5月|section=1}}<!--多数のページを挙げる出典の示し方が、非常に不正確です--> |
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* {{Cite book |和書 |author=友清理士|authorlink=友清理士 |title=スペイン継承戦争 {{smaller|マールバラ公戦記とイギリス・ハノーヴァー朝誕生史}} |publisher=[[彩流社]] |date=2007-03 |isbn=978-4779112393 |ref=友清 2007}} |
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* {{Cite book |和書 |author=デレック・マッケイ|authorlink=デレック・マッケイ |translator=[[瀬原義生]]|title=プリンツ・オイゲン・フォン・サヴォア{{smaller|-興隆期ハプスブルク帝国を支えた男-}} |publisher=[[文理閣]] |date=2010-05 |isbn=978-4892596193 |ref=マッケイ 2010}} |
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== 関連作品 == |
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== 関連項目 == |
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* [[ヨーゼフ・フェルディナント (アストゥリアス公)]] |
* [[ヨーゼフ・フェルディナント (アストゥリアス公)]] |
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* [[ラーコーツィの独立戦争]] |
* [[ラーコーツィの独立戦争]] |
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* [[大北方戦争]] |
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* [[四 |
* [[四国同盟戦争]] |
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* [[カミザールの乱]] |
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* [[第2次百年戦争]] |
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== 外部リンク == |
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* {{Wayback|url=http://www.h4.dion.ne.jp/~room4me/docs/index.htm |title=歴史文書邦訳プロジェクト |date=20031214053717}} |
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[[sr:Рат за шпанско наслеђе]] |
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[[th:สงครามสืบราชบัลลังก์สเปน]] |
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[[uk:Війна за іспанську спадщину]] |
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[[vi:Chiến tranh Kế vị Tây Ban Nha]] |
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[[vls:Spoansche Successieoorlog]] |
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[[zh:西班牙王位繼承戰爭]] |
2024年6月10日 (月) 04:51時点における最新版
スペイン継承戦争(スペインけいしょうせんそう、スペイン語: guerra de sucesión española)は、18世紀初めにスペイン王位の継承者を巡ってヨーロッパ諸国間で行われた戦争(1701年 - 1714年)。また、この戦争において北アメリカ大陸で行われた局地戦はアン女王戦争と呼ばれる。
この戦争に参戦した一国であるイングランド王国は、戦争期間中に「グレートブリテン王国」へと変わっているが、本記事では王位と国制に関わる箇所を除いて「イギリス」に統一している。
背景
[編集]フランスの野心
[編集]フランス王ルイ14世は領土拡大を目論み、たびたび戦争を起こしたが(ネーデルラント継承戦争、仏蘭戦争、大同盟戦争)、イングランド王兼オランダ総督ウィリアム3世を中心とする周辺諸国の反発を招き、小規模な目的しか達成出来ずにいた。
1697年に大同盟戦争を終結させたレイスウェイク条約で、フランスは領土をほとんど手に入れられなかったばかりか、相手側の要求を認めたため実質的な敗戦となったが、ルイ14世は姻戚関係にあるスペイン王位に目をつけていたため妥協した結果であった。
スペイン王家の断絶直前
[編集]スペイン・ハプスブルク家最後の王カルロス2世は、先天的に虚弱かつ心身に異常が見られ、後継者を望めそうになかった。したがって、近い将来のスペイン王家の断絶は、カルロス2世の生存中から確実視されていた。
スペイン王家とは同族であり、フェリペ3世の娘でアンヌの妹マリア・アンナ(マリア・アナ)の子であるオーストリア・ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝レオポルト1世が候補になったが、スペインとオーストリアの合邦を招くため、忌避された[1]。
次いで有力だったのが、ブルボン家のフランス王ルイ14世だった。彼はフェリペ3世の娘アンヌの子であり、王妃はカルロス2世の異母姉マリア・テレサだったが、母后も王妃もスペインの王位継承権を放棄しており、レオポルド同様、最適任ではなかった[1]。
第3の有力者は、カルロス2世の同母姉マルガリータ・テレサの孫ホセ・フェルナンドだった[1]。
スペインの分割案
[編集]イングランド王ウィリアム3世は、1698年、ルイ14世に対して打開策を提案し、ハーグで第一次分割条約に合意した[2]。2人は、ホセ・フェルナンドを後継者とするが、ナポリとシチリアはルイ14世の息子ルイ王太子(グラン・ドーファン)へ、ミラノ公国はレオポルト1世の次男カール大公へ、それぞれ割譲される内容だった[2]。
スペインもホセ・フェルナンドを後継者とすることに合意し、アストゥリアス公に叙爵したが、領土の割譲は拒絶した[3]。しかし、そのホセ・フェルナンドが1699年2月に6歳で夭逝してしまう。この直後から、ルイ14世はスペイン問題に熱心に介入し、第二次分割条約として、カール大公にスペイン本国を継承させる代わりに、ルイ王太子にナポリ、シチリア、トスカーナ、ギプスコア、ロレーヌを割譲することで、イギリスやネーデルラント連邦共和国の同意を得た[4]。当のスペイン王国及び皇帝レオポルト1世は反発し、両者はスペイン所領の一括相続では一致したものの、カルロス2世の体調悪化は深刻であり、後継者を巡る各国の策謀の中、カルロス2世はルイ王太子の次男アンジュー公フィリップを遺言で後継者に指名して、1700年11月1日に崩御する[4]。
カルロス2世の遺言では、スペイン領の一括相続を前提としてアンジュー公フィリップに王位が継承されるが、これをルイ14世が拒否した場合は、カール大公が相続すると定められていた[5]。ルイ14世は、スペインの分割ではなく、カール大公のスペイン継承に伴いフランスがハプスブルク家に挟撃されることを回避するため、同年11月9日カルロス2世の遺言の支持を表明し[5]、アンジュー公フィリップがスペイン王フェリペ5世として即位した。
フィリップへの王位継承は、スペイン宮廷にフランス支持者を増やしたルイ14世の画策によるものであったとされる。カルロス2世は一括相続して戦争が起こる場合を見越して、フランスが諸国に対抗出来るだろうとの期待から選んだものであった。仏西の合同を脅威と感じていたにもかかわらず、ウィリアム3世はフェリペ5世の即位を容認した[6]。
王位継承候補者の系図
[編集]候補者(緑背景)とスペイン王家(赤背景)との関連性のみを抜粋する。詳細な系図は、#系図の節を参照。
カルロス2世崩御と対立の表面化
[編集]スペインを事実上獲得したルイ14世は、フェリペ5世のフランス王位継承権を保留し、将来の仏西両国の合同を暗示させた[6]。オランダへの牽制としてスペイン領ネーデルランド(現ベルギーならびにルクセンブルクなど)の総督でフェリペ5世の母方の叔父でもあるバイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエルの承認を得てフランス軍を駐屯させ、スペインの貿易特権をフランスの貿易会社に譲らせた上、イングランド王位僭称者ジェームズ3世を支持するジャコバイトの支援も行った[6]。
これら一連の行動はイギリスを戦争へと傾かせ、ウィリアム3世は、1701年9月7日にハーグでフランスの勢力拡大を恐れるオーストリア、オランダと対フランス大同盟(ハーグ条約)を結び、フェリペ5世の即位に反対した[7][8][9]。
最初はスペインの辺境を我が物にせんとするフランスと、それを押しとどめようとするヨーロッパ各国との戦争の様相であったが、次第にスペインの国内事情がからみ『スペインの内戦』の一面を持つようになった。スペイン国内が一丸となってフェリペ5世即位を支持したわけではなく、政治の中心であるカスティーリャに対し、古くから君主との協約主義を掲げ自治の発達したカタルーニャ及びアラゴン・バレンシアは中央政権に対抗心を持っていたのである。ナバラとバスクはブルボン家支持を表明した。
全般の経過
[編集]戦争はまず、オーストリアがスペイン領ミラノ奪還を目指して、1701年にプリンツ・オイゲン率いる軍を北イタリアに進撃させたことで始まった[10]。
イギリスは1702年にウィリアム3世が崩御。新たに即位した義妹のアン女王の下でシドニー・ゴドルフィンを中心とした政権が成立、女王の親友でもある女官サラ・ジェニングスの夫であるマールバラ公ジョン・チャーチルが司令官に任命された。1702年夏、マールバラ公は4万の兵力を率いて大陸に派遣される[11]。イギリス軍はオランダ軍と連合してフランドルに迫った。ここでマールバラ公はオランダに接近したフランス軍を威嚇しながら占領地域を解放、1703年にはフランス軍をネーデルラントへ後退させた。また、マールバラ公はケルン選帝侯領経由で南下し、バイエルンを視野に入れた[12]。フランスは同年8月、ヴィラールを抜擢して、オイゲン公不在の間隙に、ハプスブルク家の本拠地ウィーンを攻撃する[12]。
ポルトガルやブランデンブルク=プロイセン・ハノーファーを始めとするドイツの諸領邦国家も同盟に加わったため、フランスは孤立無援に陥った。しかし1704年春、バイエルン選帝侯マクシミリアン2世の同盟を得てアルザスを占領、南ドイツに軍を派遣してオーストリアを脅かした。これに対して、オイゲン公がイタリアから急遽帰還、加えてマールバラ公率いるイギリス軍とハイルブロンで合流し、8月13日のブレンハイムの戦いでフランスを破った。結果、バイエルンは同盟国に占拠されたため、フランス軍はアルザスまで後退した[13]。バイエルン選帝侯マクシミリアン2世はネーデルラントへ亡命し[13]、オーストリアの危機は去った。
ポルトガルはイギリスと単独講和していたことから、イギリスの地中海進出は容易となった[14]。1704年、アン女王はカール大公の要望に沿って輸送船を貸与してオーストリア軍のスペイン上陸を支援し、他方ジョージ・ルーク率いるイギリス軍がジブラルタルを占領した(ジブラルタルの占領)。ジブラルタル陥落から6週間後、カール大公は彼を支持するカタルーニャへ上陸。翌1705年、フランス軍はジブラルタルを長期間包囲したが、イギリス海軍は執拗に持ちこたえた(マラガの海戦)[15]。カール大公はイギリス軍や地元義勇軍に支援されて、さらにバルセロナを陥落させ(バルセロナ包囲戦 (1705年))、1706年にはマドリッドに入城する[16]。しかし、アン女王の異母弟でジャコバイトのベリック公ジェームズがフランス軍を率いて、オーストリア軍を破ってマドリードを奪還する。
フランスは反撃を図り、オーストリア側に就いたサヴォイア公国の首都トリノを攻囲したが、1706年にオイゲン率いるオーストリア軍に敗れ、北イタリアを制圧された(トリノの戦い)。またスペイン領ネーデルランドでは、マールバラ公率いるイギリス軍にラミイの戦いで敗れ、ネーデルラントを失った。
1707年、フランス軍はフランドルに軍を集めてイギリス・オランダ軍に対する反抗を開始した。マールバラ公はこれに対してイギリス・オランダ・オーストリアの連合軍を結集し、1708年にアウデナールデの戦いでフランス軍を破った。翌1709年、ルイ14世は和平を提案したが、フェリペ5世のスペイン王位継承をはじめとして連合国の認められない要求が含まれていたため、戦争は再開され、マールバラ公はパリ進撃を目指してフランス領フランドルに侵入した。連合軍とフランス軍はマルプラケの戦いで激突し、連合軍はフランス軍を敗走させたものの、死傷者数万人の大損害を被り、戦線はフランドルで膠着した。
この頃までに、オランダやドイツ諸邦は既に戦争の継続に倦んでおり、イギリス国内でも和平を望む声が高まっていた。やがて、和平派のアン女王は戦争推進派のサラを疎ましく思うようになる。1710年、自身がイギリスの戦争推進派の中心でもあるマールバラ公は、妻のサラ共々アン女王の信任を失う。政府も和平に傾き始め、ゴドルフィンがアン女王に更迭され、与党のホイッグ党が総選挙で敗れると、トーリー党の指導者ロバート・ハーレーとヘンリー・シンジョンらが和平に動き出した。
ヨーロッパで戦争が繰り広げられている間、アメリカ大陸ではイギリスとフランスの間で植民地を巡るアン女王戦争が開始された。イギリスはフランス領カナダのケベックを狙い、フランスはニューイングランドの英国植民地を狙った。いずれも成功しなかったが、イギリスはフランス領アカディアの占領に成功した[17]。また、戦争中の1707年にイングランドとスコットランドの合同条約が批准され、グレートブリテン王国が成立している[18][19]。
和平
[編集]1711年、イギリスのマールバラ公は軍資金横領が発覚して失脚。同年4月17日にはオーストリアのレオポルト1世の後を継いでいた皇帝ヨーゼフ1世が崩御し、弟であるカール大公は『皇帝カール6世』として即位する。その結果、イギリスはカール6世のスペイン王位継承でハプスブルク家の大帝国が再現[注釈 1]することを恐れ、フェリペ5世のスペイン王退位要求に消極的となった。
1712年、イギリスとフランスとの間で和平交渉が開始され、フェリペ5世は将来のフランスとスペインの一体化の懸念を払拭するために、フランス王位継承権を放棄することを宣言した。同年、散発的に続いていたオーストリアとフランスとの戦闘でフランスが勝利(ドゥナの戦い)を収めたことにより、全面的な和平の機運が高まった。これにより、スペイン王家に反逆したバレンシアとカタルーニャは反フランス同盟側から見捨てられ、フランス・スペイン軍に蹂躙された。
1713年、各国はユトレヒト条約を結び、長年に及んだ戦争を終結させた。この条約でスペインはオーストリアにスペイン領ネーデルラント、ナポリ王国、ミラノ公国を、サヴォイア公国にシチリア王国(後にサルデーニャ島と交換)を割譲、イギリスはジブラルタルとミノルカ島及び北アメリカのハドソン湾、アカディアを獲得し、反フランス同盟は代償としてフェリペ5世のスペイン王即位を承認した。そして翌1714年にフランス王国とオーストリアとの間でラシュタット条約が結ばれた[20][21]。
戦争終結の同年にアンが没し、ステュアート朝は断絶。又従兄のハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒがグレートブリテン王ジョージ1世として即位してハノーヴァー朝が成立すると、ホイッグ党がジョージ1世の信任を背景に復帰、対するトーリー党は王位継承問題に伴う内部分裂と、和睦交渉で大陸の同盟国を見捨てて単独交渉に走ったことが仇となり、中心人物のハーレー・シンジョンらは失脚しホイッグ党が復権、ジャコバイト蜂起も鎮圧されホイッグ党の政権は磐石となり、マールバラ公も名誉回復を果たした。1715年にルイ14世も死去して曾孫のルイ15世が即位、政権交代したイギリスとフランスは協調関係を築いていった[22]。
スペイン継承戦争は、マールバラ公やオイゲンの活躍によりフランスは各地で敗戦を重ねたが、反フランス同盟は足並みの不一致から全面的な勝利を収めることができなかった。特にオランダは、フランスの軍事的な強大化を恐れる一方で、貿易立国としてフランスとの経済関係が重視されていたので、フランスを完全に敗北させることを望んでいなかった。その結果、反フランス同盟の最大の目的であったフェリペ5世のスペイン王位継承は阻止することができなかったが、この戦争で17世紀の西ヨーロッパで最強を誇ったルイ14世のフランス軍のヘゲモニーは抑制され、ヨーロッパの国際関係は新時代を迎えることになった。
各戦線の攻防
[編集]ネーデルラント方面
[編集]フランス軍は、ルイ14世がマクシミリアン2世と弟のケルン選帝侯兼リエージュ司教ヨーゼフ・クレメンス・フォン・バイエルンと結んでいたため、簡単にオランダ侵攻が出来る最前線にまで駐屯が可能となり、ルイ・フランソワ・ド・ブーフレールが率いるフランス軍はケルン選帝侯領でオランダを伺っていた。しかし、マールバラ公はフランス軍を上回る機動力でフランス軍の補給地点を脅かしたり、マース川流域とケルン選帝侯領を占領したため、フランス軍はネーデルラントへ撤退、居場所を無くしたヨーゼフ・クレメンスはフランスへ亡命した。1703年にヴィルロワ公フランソワ・ド・ヌフヴィルがフランス軍の指揮権を引き継いだが、マールバラ公に牽制され、アントウェルペンからナミュールまでの防衛線確保に手一杯だった[23]。
1704年には、ドイツでフランス・バイエルン連合軍がオーストリアに接近したとの報告を受けたマールバラ公がドイツ遠征を決意したが、前線のフランス軍を残したまま南下することを恐れたオランダに反対されることが分かっていたため、フランス軍とオランダを騙して南下するという賭けに出た。オランダにはアウウェルケルク卿ヘンドリック・ファン・ナッサウを残してバイエルンへ向かい、同じく南下したヴィルロワに対しては途中のライン川を渡河して交戦すると見せかけて牽制、400kmも進みドイツ南部でイタリアから赴任したオイゲンとバーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルムと合流した。そしてドナウ川流域を占領しつつバイエルンを荒らし回り、ブレンハイムの戦いでフランス・バイエルン連合軍に大勝し、ドナウ川の脅威を取り除いてイギリスへ帰国した。この戦いの恩賞としてマールバラ公はアンからブレナム宮殿を与えられている[24][25]。
マールバラ公は1705年にも南下を目論んだが、ドイツからクロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラールが妨害したためネーデルラントへ引き上げ、ネーデルラントでも戦果を上げられなかった。しかし翌1706年にヴィルロワがルイ14世の命令で東進した所を迎え討ち、ラミイの戦いで大勝、余勢を駆ってネーデルラントを占領した。1707年にフランスのイタリア方面司令官だったヴァンドーム公ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボンがヴィルロワの代わりにネーデルラントへ向かうと戦線は停滞、1708年にルイ14世の孫でフェリペ5世の兄でもあるブルゴーニュ公ルイの指揮下に入ったヴァンドームにネーデルラント西部を占領されるが、イタリアから北上したオイゲンと合流してアウデナールデの戦いで勝利、西部を奪還して北フランスの要塞都市リールも落としてフランスに脅威を与えた(リール包囲戦)[26][27]。
1709年に和睦交渉が決裂したため、マールバラ公・オイゲンは北フランスへ進撃、ブルゴーニュ公・ヴァンドームから交代したヴィラール率いるフランス軍が構築した防衛線を崩す戦略を取り、ヴィラールは防衛線堅持の方向で迎え討った。両者はマルプラケの戦いで激突、連合軍は勝利したがフランス軍の倍の大損害を受けたため、トゥルネーとモンスの陥落だけに終わった。また、長期化に伴いイギリスの厭戦気分が高まり、1710年にゴドルフィンが更迭、総選挙でホイッグ党に代わって政権を握ったハーレーとシンジョンらトーリー党政権は、和睦とマールバラ公の罷免に動き出した[28][29]。
マールバラ公ら同盟軍は1710年から1711年にかけてフランス防衛線を徐々に崩していったが、1711年にマールバラ公はトーリー党に罷免され、後任のオーモンド公ジェームズ・バトラーはフランス外相のトルシー侯と和睦交渉していたハーレーらの命令でフランス軍と戦わず、翌1712年にシンジョンとトルシーが単独講和を結んだため、イギリス軍を引き連れて帰国した。イギリス軍の離脱で同盟軍の戦力は低下、オイゲンとアルベマール伯アーノルド・ヴァン・ケッペルは同盟軍を率いて戦争を続けたが、ドゥナの戦いで敗北してアルベマールは捕らえられ、ヴィラールが戦線を持ち直したため交戦を断念、ユトレヒト条約とラシュタット条約の締結で終戦となった[30]。
ドイツ方面
[編集]フランスはドイツにも軍を送り、アルザスを拠点としてライン川流域(ラインラント)で東進を狙っていた。これに対して、バーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルムが対岸でストラスブールからシュトルホーフェンに及ぶ防衛線を構築、フランス軍を待ち構えていた。1702年にヴィラールは、バイエルンで挙兵したマクシミリアン2世に呼応してライン川の渡河を決意、ライン川を南下して南岸のフリートリンゲンの戦いで皇帝軍に勝利したが、一旦ストラスブールへ引き上げ、翌1703年に再度南下してライン川を渡河、バイエルン軍に合流してオーストリアの首都ウィーンに迫る勢いだった。
しかし、方針を巡ってヴィラールとマクシミリアン2世が対立、ヴィラールはフランスへ召還され、タラール伯カミーユ・ドスタンとフェルディナン・ド・マルサンがヴィラールの後任としてドイツ方面を受け持ったが、1704年にブレンハイムの戦いでマールバラ公・オイゲン率いる同盟軍に大敗して、タラールは捕虜となり、マルサンはライン川へ後退してマクシミリアン2世はネーデルラントへ亡命、ドナウ川のフランス軍は消滅してライン川戦線も劣勢になった。1705年にライン川方面軍に復帰したヴィラールはマールバラ公の南下を阻止、ライン川戦線を立て直した[31]。
ヴィラールは翌1707年にルートヴィヒ・ヴィルヘルムが死去して、ライン川司令官となったバイロイト辺境伯クリスティアン・エルンストが守るシュトルホーフェンを攻撃、クリスティアン・エルンストが放棄したシュトルホーフェン防衛線を突破、バーデン・ヴュルテンベルクを略奪して回り大戦果を上げた。失態を演じたクリスティアン・エルンストは罷免され、ハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒ(後のイギリス王ジョージ1世)がライン川に向かうと、ヴィラールはアルザスへ引き上げた。
1708年、ヴィラールとライン川方面に向かったマクシミリアン2世が再度対立したため、ヴィラールは南フランスへ左遷され、スペイン方面で活躍していたベリック公ジェームズ・フィッツジェームズがスペインからライン川に転任してマクシミリアン2世の補佐を務めた後、ライン川北岸のコブレンツで兵を集めネーデルラントへ向かったオイゲンの後を追って北上、ネーデルラントでブルゴーニュ公・ヴァンドームと合流、アウデナールデの戦いで損害を受けたフランス軍の立て直しと同盟軍の迎撃に当たった。以後、ライン川戦線は進展が無いまま終戦を迎えることになる[32]。
イタリア・南フランス方面
[編集]イタリアでは早くも1701年から戦闘が始まり、オイゲンを司令官とするオーストリア軍がイタリアへ向かった。対するフランスの将軍ニコラ・カティナは、北イタリアの守備を固めオーストリアに至る道路を封鎖していたが、オイゲンはヴェネツィアを通りイタリアへ進出、カルピの戦いでフランス軍を破り、戦線を西へ後退させた。カティナは降格され、ヴィルロワが司令官となったがキアーリの戦いで大損害を受け、1702年のクレモナの戦いで捕らえられるなど惨憺たる結果に終わり、ヴィルロワは解放された後はネーデルラントへ転任、カティナはライン川方面司令官を短期間務めた後に引退(後任はヴィラール)、ヴァンドームがイタリア方面を担当することになった。
オイゲンはルッザーラの戦いでヴァンドームに勝利して戦線を膠着させたが、オーストリアから援助を受けられないことと、ドイツがバイエルンの挙兵で危機に立たされたことから、1703年にオーストリアへ向かい軍事権を掌握した後に、ドイツでマールバラ公と共に戦った。オイゲン不在のオーストリア軍はグイード・フォン・シュターレンベルクが指揮を執ったがヴァンドームの前に苦戦、サヴォイアの大半を制圧された。1705年にオイゲンはイタリアへ戻ったが、ヴァンドームにカッサーノの戦いで敗北、戦局を覆せないままに終わった[33][34]。
翌1706年、オイゲンがオーストリアへの援助を求めてウィーンに滞在して不在の隙を突いたヴァンドームにより、オーストリア軍はカルチナートの戦いで連敗、トリノがフランス軍に包囲されるまでになったが、サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世とオーストリアの将軍ヴィリッヒ・フォン・ダウンが抵抗して持ちこたえていた。オイゲンはトリノ救援に向かいイタリアを西進、フランス軍はラミイの戦いで大敗して更迭されたヴィルロワと交代してネーデルラントへ向かったヴァンドームに代わりマルサンとオルレアン公フィリップ2世が指揮官として派遣されたが、2人はオーストリア軍を迎え討つ方針を巡って対立、オイゲンは包囲軍の不備を突いてトリノの戦いで勝利、マルサンは戦死してフィリップ2世はフランスへ敗走、トリノ救援とミラノ奪還を果たした[35][36]。
1707年にオイゲンはミラノを完全に平定、ナポリもダウンが制圧して、イタリアはオーストリアの手に入った。次にオイゲンとヴィットーリオ・アメデーオ2世はフランス南部の港湾都市トゥーロンを包囲したが、フランスの将軍テッセ伯ルネ・ド・フルーレの防衛と包囲側の不備から奪取の見込みが無くなり撤退、包囲は失敗に終わった(トゥーロン包囲戦)。その後、南フランスは一進一退となり、オイゲンは1708年にイタリアからネーデルラントへ向かい、ダウンがイタリア担当となり、ヴィットーリオ・アメデーオ2世とダウンがフランス占領下のサヴォイアに攻め入ってはヴィラールやベリックに撃退されるという状況が終戦まで繰り返されていった[37][38]。
スペイン方面
[編集]スペインでフェリペ5世はカスティーリャ・ナバラ・バスクに支持され、カタルーニャ・アラゴン・バレンシアから反感を抱かれていたことから、スペインでも内戦が避けられなかった。同盟軍とスペイン・フランス軍の交戦は1702年8月の海戦、カディスの戦いとビーゴ湾の海戦など、当初は海戦が主流だったが、1703年にポルトガル・サヴォイアが同盟国に加わり、カール大公がイギリス艦隊の支援でポルトガルに上陸すると状況が一変、陸でも同盟軍とスペイン・フランス連合軍が衝突した。
ポルトガルにはイギリスの将軍ションバーグ公メイナード・ションバーグが着任していたが、1704年にゴールウェイ伯ヘンリー・デ・マシューに交代、翌1705年にはイギリス軍から遠征軍が送られ、ピーターバラ伯チャールズ・モードントは第1次バルセロナ包囲戦でカタルーニャの首都バルセロナを占拠、カタルーニャにはカール大公が、バレンシアにはピーターバラが駐屯することになった。ポルトガル国境付近ではベリックが戦いを優勢に進めていたが、ジブラルタル奪回を主張したフェリペ5世とルイ14世の方針を拒否したため1704年にフランスへ召還、テッセがスペイン方面軍司令官に就任した。
1706年にフェリペ5世とテッセがバルセロナに攻めかかったが、バレンシアのピーターバラとジブラルタルのイギリス艦隊の救援で撤退(第2次バルセロナ包囲戦)、同盟軍は反撃してポルトガル・カタルーニャ・バレンシアの3方面からマドリードへ向かい、ゴールウェイはマドリードを奪いピーターバラ・カール大公と合流、フェリペ5世とベリックはマドリードを明け渡しブルゴスへ後退した。しかし、同盟軍はマドリードの住民から反感を抱かれていたことと、それぞれの連携が不十分だったことからマドリードを奪回され、戦局は遠征前の状態に戻された。戦後テッセはスペインからトゥーロン守備に回され、ベリックがスペイン・フランス軍の指揮を執ることになった[39]。
1707年にゴールウェイがスペイン遠征軍の司令官となり、ピーターバラは不祥事からイギリスへ召還されることが決まり、ゴールウェイはイギリス・ポルトガル連合軍を率いて西進した。しかし、ベリックはイギリス軍より多くの軍勢を引き連れて待ち構えていたため、アルマンサの戦いで大敗した上、イタリア戦線から派遣されたオルレアン公フィリップ2世とベリックがアラゴン・バレンシアを占領して、一気にブルボン家が有利となった。1708年にベリックはライン川方面、次いでネーデルラントへ転任、同盟軍の司令官はゴールウェイからシュターレンベルクに交代、イギリス軍の指揮権はジェームズ・スタンホープに移った。同盟軍は1708年のスペインではブルボン家に押されていたが、代わりにミノルカ島を占領してジブラルタルに並ぶイギリス領に変えていった(ミノルカ島の占領)。
1709年になると、同盟国との和睦に傾いたルイ14世がスペインからフランス軍を撤退させ、1710年にスタンホープがカタルーニャから進軍してアラゴンとカタルーニャ国境付近でスペイン軍を破り(アルメナラの戦い・サラゴサの戦い)、そのままマドリードを占領した。
しかし、1706年の時と同じく住民の協力を得られず飢餓に苦しみ、同盟国の交渉決裂からルイ14世がヴァンドーム率いるフランス軍をスペインへ派遣、ヴァンドームにポルトガルとの連絡と補給を絶たれ、マドリードを再度放棄した。ヴァンドームは同盟軍を追跡して交戦、スタンホープはブリウエガの戦いで敗れて捕らえられ、シュターレンベルクはビリャビシオーサの戦いでヴァンドームを撤退させたが、1711年にはスペイン軍がカタルーニャを侵略して回るまでになり、カール大公の勢力圏はもはやバルセロナ周辺しか無かった。
1711年4月17日、ヨーゼフ1世帝の崩御により、カール大公が皇帝『カール6世』に即位すべくドイツへ戻ったこともスペイン王位の挫折に繋がった。スタンホープの後を受けてイギリス軍司令官となったアーガイル公ジョン・キャンベルも本国からオーモンドと同様和平政策で同盟軍の支援を禁じられていたため、身動きが取れなかった[40]。
1712年にフェリペ5世がフランス王位継承権を放棄して、イギリスとフランスが和平を結び、スペインとポルトガルのイギリス軍は解散、シュターレンベルクや残りの同盟軍も1713年に帰国、1714年にラシュタット条約が締結され、オーストリアとフランスも和睦した。ただし残されたバルセロナは、同盟国が離脱した後もスペインへの降伏を拒絶、単独でフェリペ5世と戦うことを選んだため、スペインの完全平定はベリックがフランスから派遣され、バルセロナを陥落させる1714年までかかることになる(第3次バルセロナ包囲戦)[41]。
系図
[編集]アンリ4世 フランス王 | マリー・ド・メディシス | フェリペ3世 スペイン王 | マルガリータ | フェルディナント2世 神聖ローマ皇帝 | マリア・アンナ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルイ13世 フランス王 | アナ | イサベル | フェリペ4世 スペイン王 | マリア・アナ | フェルディナント3世 神聖ローマ皇帝 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルイ14世 フランス王 | マリア・テレサ | フィリップ1世 オルレアン公 | マリアナ | フィリップ・ヴィルヘルム プファルツ選帝侯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フェルディナント・マリア バイエルン選帝侯 | マリア・ルイサ | カルロス2世 スペイン王 | マリアナ | マルガリータ・テレサ | レオポルト1世 神聖ローマ皇帝 | エレオノーレ・マグダレーネ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルイ (グラン・ドーファン) | マリア・アンナ | マクシミリアン2世エマヌエル バイエルン選帝侯 | マリア・アントニア | ヨーゼフ1世 神聖ローマ皇帝 | カール6世 神聖ローマ皇帝 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルイ ブルゴーニュ公 (プチ・ドーファン) | フェリペ5世 スペイン王 | ヨーゼフ・フェルディナント アストゥリアス公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
- 凡例
- スペイン・ハプスブルク家の人物
その他
[編集]スペイン継承戦争が始まる前、イングランドでは1701年に王位継承法が制定された。それにより、同君連合に抵抗のあったスペインとは対照的に、ステュアート朝断絶後はドイツ(神聖ローマ帝国)の領邦で選帝侯の一員でもあるブラウンシュヴァイク=リューネブルクから新たに国王を迎え入れることを決定した。
同じく選帝侯のブランデンブルク辺境伯兼プロイセン公フリードリヒ3世も、戦争支援の約束と引き換えにレオポルト1世から王号を許され「プロイセンの王」フリードリヒ1世として即位、プロイセン王国が成立した。
ハノーファーとプロイセンは戦後に列強の一員となり、ヨーロッパの勢力を変えることになる[42]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c 金澤 1966 p.96
- ^ a b 金澤 1966 p.97
- ^ 金澤 1966 p.97-98
- ^ a b 金澤 1966 p.98
- ^ a b 金澤 1966 p.99
- ^ a b c 金澤 1966 p.100
- ^ 金澤 1966 p.100-101
- ^ 友清 2007 p.11-26,47-56
- ^ マッケイ 2010 p.61-67
- ^ 金澤 1966 p.102
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- ^ a b 金澤 1966 p.103
- ^ a b 金澤 1966 p.107
- ^ 金澤 1966 p.108
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- ^ 友清 2007 p.161,175-177
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- ^ 友清 2007 p.195,204-205,244,266,292,314,353
- ^ マッケイ 2010 p.128-136
- ^ 友清 2007 p.73-76,123-126,153-159,177-180
- ^ 友清 2007 p.197-199,242-244,267,292-294,314-315
- ^ 友清 2007 p.353,362-366
- ^ 友清 2007 p.30-39
参考文献
[編集]- 金澤誠『スペイン継承戦争』人物往来社〈世界の戦史 6〉、1966年11月18日、73-111頁。ASIN B000JBHB7A。
- 友清理士『スペイン継承戦争 マールバラ公戦記とイギリス・ハノーヴァー朝誕生史』彩流社、2007年3月。ISBN 978-4779112393。
- デレック・マッケイ 著、瀬原義生 訳『プリンツ・オイゲン・フォン・サヴォア-興隆期ハプスブルク帝国を支えた男-』文理閣、2010年5月。ISBN 978-4892596193。
関連作品
[編集]- Joseph Miranda"Marlborough",Strategy & Tactics No.238,Decision Games,2006
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 歴史文書邦訳プロジェクト - ウェイバックマシン(2003年12月14日アーカイブ分)