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[[Image:Spartacus1.jpg|thumb|200px|スパルタクス像<br>{{仮リンク|ドニ・フォヤティエ|en|Denis Foyatier}}作<br>1830年、[[ルーヴル美術館]]]] |
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'''スパルタクス'''('''{{lang-la|Spartacus}}'''、[[紀元前109年]]頃 - [[紀元前71年]])は、[[共和政ローマ]]期の[[剣闘士]]で、「スパルタクスの反乱」と称される[[第三次奴隷戦争]]の首謀者として知られる人物。 |
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'''スパルタクス'''('''{{lang-la|Spartacus}}'''、生年不詳<ref>{{cite web|title=スパルタクス- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%B9%E3%83%91%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%AF%E3%82%B9/|author=土井正興|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2012年11月10日}}</ref> - [[紀元前71年]])は、[[共和政ローマ]]期の[[剣闘士]]で、「'''スパルタクスの反乱'''」と称される[[第三次奴隷戦争]]の指導者。 |
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== 概要 == |
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スパルタクスは[[トラキア]]のマエディ族(メディ族、[[:en:Maedi|en]])の出身と伝わる。その名前から稀に間違われることがあるが、[[スパルタ]]人ではない。 |
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紀元前73年に仲間の剣闘士とともに[[南イタリア]]の[[カプア]]の剣闘士養成所を脱走して[[ヴェズーヴィオ|ヴェスヴィウス山]]に立て籠もり、討伐隊を撃退した。近隣の[[奴隷]]たちが反乱に加わって数万から十数万人の軍衆に膨れ上がり、紀元前72年には[[執政官]]の率いる[[ローマ軍団]]を数度にわたって打ち破って[[イタリア半島]]を席巻した。紀元前71年になると[[マルクス・リキニウス・クラッスス|クラッスス]]の率いる軍団によってイタリア半島南端部に封じ込められ、クラッススとの決戦に敗れた奴隷反乱軍は敗れて全滅し、スパルタクスも戦死した。近現代になると再評価され、[[カール・マルクス]]は「古代[[プロレタリアート]]の真の代表者」と評した<ref>[[#土井 1977|土井 1977]],p.49;[[#土井 1973|土井 1973]],pp.195-196.</ref>。 |
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マエディ族は[[ミトリダテス戦争]]において[[ポントス王国]]側の傭兵として参戦していたことから、この過程でローマの奴隷となったと考えられる。その後、[[カンパニア]]の[[カプア]]にあるレントゥルス・バティアトゥス ([[:en:Lentulus Batiatus|Lentulus Batiatus]]) なる人物が所有する[[剣闘士]]養成所に属した。 |
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== 生涯 == |
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紀元前73年、クリクスス ([[:en:Crixus|Crixus]]) らと共に養成所からの脱走を計画して、78名の同志と共に計画を成功させた。逃亡中に武器を奪って武装化し、近隣の[[奴隷]]や剣闘士もスパルタクスらの反乱軍に加わり、その規模は拡大していった。 |
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=== 出自と人物 === |
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{{see also|剣闘士}} |
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|<div style="position: relative">[[File:Rhodopen Balkan topo de.jpg|thumb|350px|center|トラキア地方。黄色の太線はロドピ山脈。]] |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:56px;top:138px"><span style="background-color: #FFFFFF;border:2px solid"> メディ族<span style="color:#FFFFFF">a</span></span></div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:120px;top:105px"><span style="background-color: #FFFFFF;border:2px solid"> ベッシ族<span style="color:#FFFFFF">a</span></span></div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:238px;top:155px"><span style="background-color: #FFFFFF;border:2px solid"> オデュルサエ族<span style="color:#FFFFFF">a</span></span></div> |
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1世紀の歴史家[[プルタルコス]]はスパルタクスの出自を[[トラキア]]の遊牧種族とし、勇気と力があるだけでなく、知恵があり温和な性格で出身民族よりも[[ギリシャ人]]に似ていたと伝えている<ref name=Plutarchus18>[[プルタルコス]],p.18.</ref>。2世紀の歴史家[[アッピアヌス]]はトラキアに生まれ、ローマ軍の兵士となるが捕虜となり、[[剣闘士]]に売られたと記し<ref name=doi199452>[[#土井 1994|土井 1994]],p.52.</ref>、同じ2世紀の{{仮リンク|フロルス|en|Publius Annius Florus}}はやや詳細にトラキア人傭兵から兵士となり、逃亡して盗賊になり、そしてその強さから剣闘士となったと述べている<ref name=doi199452/>。 |
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プルタルコスはスパルタクスの出身を''tū Maidikiū genūs''と記しており従来は「遊牧種族」の意味と捉えられており、碑文や出土品にスパルティコ、スパルトコスといった似た名前の人物がいる[[ロドピ山脈|ロドピ山麓]]のベッシ族とする説が有力だったが、ドイツの歴史学者{{仮リンク|コンラート・ツィーグラー|label=ツィーグラー|de|Konrat Ziegler}}が当時のトラキアには遊牧民は存在せず、これはトラキアの部族名のマイドイ族([[メディ族]]:''[[:en:Maedi|Maedi]]'')の意味であると主張して有力になった<ref>[[#土井 1994|土井 1994]],pp.53-55;[[プルタルコス]],p.19.</ref>。一方で、これを史料の改竄として批判する意見も出されており、歴史学者トドロフはローマの兵士となったとのアッピアヌスの記述を元に当時ローマに頑強に抵抗していたメディ族出身はありえず、同盟関係にあったオデュルサエ族出身説を提起した<ref>[[#土井 1994|土井 1994]],pp.54-55.</ref>。 |
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ローマ軍は[[プラエトル]](法務官)職の率いた鎮圧軍を送ったが、スパルタクスはこれを相次いで撃退。続けて、紀元前72年の[[執政官]](コンスル)2人が率いるローマの精鋭軍が派遣され、クリクスス率いる反乱軍は殲滅されたが、スパルタクスは速攻を見せて、これら2人の率いるローマ軍を撃破した。 |
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19世紀のドイツの歴史家[[テオドール・モムゼン|モムゼン]]は[[ボスポラス王国]]のスパルトキダイ家にスパルタクスと類似した名前が存在することから王族の子孫であるとする説を唱え、ツィーグラーもその資質から指導者階級の出で騎士的伝統を身につけていたと推測した<ref name=doi19941977>[[#土井 1994|土井 1994]],p.53;[[#土井 1977|土井 1977]],pp.163-164.</ref>。この説に対してはローマを苦しめた指導者が卑賤な出身であって欲しくないという心情がら出たもので、名前が似ているだけで論証がなにもないとの批判を受けている<ref name=doi19941977/>。 |
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[[マルクス・リキニウス・クラッスス]]率いるローマ軍も一度は撃破したが、当初目論んだ[[アルプス山脈|アルプス]]以北への逃亡は反乱軍内部からの反対に遭って断念、2度の[[奴隷戦争]]の舞台となった[[シキリア属州|シキリア]]の制圧を目論み、[[キリキア]]に本拠を置く[[海賊]]に渉りを付けてシキリアへの渡航契約が成立したものの、海賊はスパルタクスから贈物だけをせしめて、約束の日に姿を現すことはなかった。 |
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[[File:Greek pottery 2.jpg|thumb|left|150px|重装闘士(左)と'''トラキア闘士'''(右)の試合。ギリシアの陶器。]] |
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ベッシ族出自説を採る研究者は[[ミトリダテス戦争]]において[[ポントス王国]]側の傭兵として参戦し、この過程でローマ側の捕虜となって補助兵として仕えたが逃亡したとしている<ref>[[#土井 1994|土井 1994]],p.62.</ref>。オデュルサエ族出自説の場合はこの部族がローマとの同盟関係にあったとことから補助兵となったことは容易に説明がつき、その後に何らかの理由で逃亡し盗賊(または反ローマ闘争)になったことになる<ref>[[#土井 1994|土井 1994]],pp.62-63.</ref>。メディ族出自説の場合はメディ族もミトリダテス側だったのでスパルタクスもポントス王国側の傭兵となって戦い、その後の講和の成立によってローマ軍の補助兵となったが逃亡して反ローマ闘争を続け、敗れて捕虜になり剣闘士に売られたことになる<ref>[[#土井 1994|土井 1994]],pp.65-67.</ref>。 |
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ローマの[[奴隷]]となったスパルタクスは南イタリアの[[カンパニア]]地方の[[カプア]]にある{{仮リンク|レントゥルス・バティアトゥス|en|Lentulus Batiatus}}なる興行師(ラニスタ)が所有する剣闘士養成所に属した。トラキア出身のスパルタクスは幾つかある剣闘士の種類の内の{{仮リンク|トラキア闘士|en|Thraex}}と呼ばれるスタイルの剣闘士だったと推測されるが、彼の剣闘士としての戦歴について古典史料は何も語っていない<ref>[[#本村 2011|本村 2011]],p.153.</ref>。 |
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ローマは徐々にスパルタクス軍の包囲網を狭めており、スパルタクスはクラッスス率いるローマ軍との戦闘に臨んだが、壊滅的な敗北を喫して、スパルタクスは戦死した。なお、戦闘終了後にローマ軍はスパルタクスの死体を捜したものの、余りにもズタズタに切り刻まれたため、発見できなかったと伝わっている。 |
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スパルタクスの生年についても不明だが、研究者たちはその指導力や行動から反乱を起こした時には35歳から40歳程度であったと推測している<ref>[[#土井 1994|土井 1994]],p.67.</ref>。一方で、当時の剣闘士は20代前半がほとんどで30代になるまでに木剣拝受者となって引退するか闘技場で死んでいるので、スパルタクスも20代の青年であったとする見方もある<ref>[[#ウィズダム 2002|ウィズダム 2002]],p.128.</ref>。 |
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第三次奴隷戦争の鎮圧後、[[古代ローマ]]時代に2度と大規模な奴隷による反乱が起こることはなかった。スパルタクス軍の捕虜全員を[[アッピア街道]]に[[磔刑]]としたこともその一因と考えられる。 |
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プルタルコスはスパルタクスと同族の女予言者の話を伝えており、[[ディオニューソス]]の秘儀によって霊感を受けた彼女はスパルタクスが偉大な恐るべき勢力となるが、やがては不幸な結末を迎えると予言したという<ref name=Plutarchus18/>。この女予言者は蜂起開始の際にスパルタクスと同じ建物にいて、伴に剣闘士養成所を脱走しており、現代の研究者の中にはこの女性は実在し、スパルタクスの妻であったと主張する者もいる<ref>[[#土井 1994|土井 1994]],p.290.</ref>。 |
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=== 蜂起 === |
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{{main|第三次奴隷戦争}} |
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[[File:Pompei und Vesuv.JPG|thumb|250px|left|ポンペイ遺跡から見たヴェスヴィウス山]] |
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バティアトゥス養成所には[[ガリア人]]とトラキア人の剣闘士が多く所属していたが、興行師は邪な考えを持って彼らをひとつ所に押し込めていた<ref name=Plutarchus18/>。紀元前73年、約200人の剣闘士たちが脱走を計画したが、密告によって露見してしまい、この内のおよそ70人が養成所を脱走し、武器を奪って武装化して[[ヴェズーヴィオ|ヴェスヴィウス山]]に立て籠もった。剣闘士たちはガリア人の{{仮リンク|クリクスス|en|Crixus}}と{{仮リンク|オエノマウス|en|Oenomaus (rebel slave)}}そしてスパルタクスを彼らの指導者に選んだ<ref>古代の歴史家{{仮リンク|フロルス|en|Publius Annius Florus}}と{{仮リンク|オロシウス|en|Orosius}}によればクリクススとオエノマウスはガリア人である。[[#Fields 2009|Fields 2009]],p.30.</ref>。 古代の歴史家アッピアヌスはスパルタクスが指導者であり、他の二人はその部下であるとしているが、[[ティトゥス・リウィウス|リウィウス]]や{{仮リンク|オロシウス|en|Orosius}}は三人は同等の指導者であったことを示唆している<ref>[[#Fields 2009|Fields 2009]],p.30.</ref>。近隣の[[奴隷]]もスパルタクスらの反乱軍に加わり、その規模は拡大していった。 |
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[[File:Marcus Licinius Crassus Louvre.jpg|thumb|150px|マルクス・リキニウス・クラッスス]] |
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[[元老院 (ローマ)|元老院]]は[[プラエトル|法務官]]の[[ガイウス・クラウディウス・グラベル|グラベル]]次いで{{仮リンク|プブリウス・ウァリニウス|label=ウァリニウス|en|Publius Varinius}}を討伐に派遣するが、スパルタクスはこれを相次いで撃退した。数万人に膨れ上がった反乱軍は南イタリアの幾つかの都市を略奪・占領して冬を越し、紀元前72年に北上を開始した。プルタルコスは[[アルプス山脈|アルプス]]を越えて奴隷たちを故郷へ帰すことが反乱軍の目的であったとし<ref name=Plutarchus22/>、一方、アッピアヌスやフロルスはローマ進軍が彼らの目的であったとしている<ref>Appian, ''Civil Wars'', [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Appian/Civil_Wars/1*.html#117 1:117]; Florus, ''Epitome'', [[:en:Wikisource:Epitome of Roman History/Book 2#8|2.8]].</ref>。アッピアヌスは反乱軍の軍紀が厳正であったことを伝えており、スパルタクスは略奪品を平等に分配し、金銀の個人的な所有を禁じていた<ref>[[#土井 1977|土井 1977]],p.140.</ref>。また、サッルスティウスに拠れば、スパルタクスは無用な暴行と略奪といった逸脱行為を禁じたという<ref>[[#土井 1977|土井 1977]],p.141.</ref>。 |
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この年の2人の[[執政官]]{{仮リンク|グナエウス・コルネリウス・レントゥルス・クロディアヌス|label=レントゥルス|en|Gnaeus Cornelius Lentulus Clodianus}}と{{仮リンク|ルキウス・ゲッリウス・プブリコラ|label=ゲッリウス|en|Lucius Gellius Publicola (consul 72 BC)}}が率いる正規の[[ローマ軍団]]が差し向けられ、クリクススの率いる別動隊3万人が殲滅されたが、スパルタクスはこれら2人の率いるローマ軍団を撃破した。スパルタクスは戦死したクリクススの霊を弔うためにローマ兵の捕虜300人に剣闘士試合をさせ犠牲に捧げた<ref>[[#土井 1973|土井 1973]],p.123</ref>。スパルタクスの率いる反乱軍は北イタリアに到達したが、何らかの理由によって彼らはアルプス越えを行わず、軍を反転させて再び南イタリアへと向かった<ref>反乱軍の再南下の理由について古典史料は言及しておらず、研究者の間でも諸説ある。「再南下問題」の諸説については次を参照せよ。[[#土井 1994|土井 1994]],pp.137-165.</ref>。 |
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元老院はレントゥルスとゲッリウスから軍権を剥奪して、新たに法務官に選出された[[マルクス・リキニウス・クラッスス|クラッスス]]に反乱鎮圧を委ねた。紀元前71年、スパルタクスの反乱軍は一度はクラッススの軍団を撃破したが、やがてイタリア半島最南端の[[カラブリア]]地方の都市レギウム(現在の[[レッジョ・ディ・カラブリア]])にまで追い込まれてしまう。過去2度の[[奴隷戦争]]の舞台となった[[シキリア属州|シキリア]]への奴隷反乱の拡大を企図して兵の派遣を目論み、[[キリキア]][[海賊]]に渉りを付けてシキリアへの渡航契約が成立したものの、海賊はスパルタクスから贈物だけをせしめて、約束の日に姿を現すことはなかった<ref name=Plutarchus22>[[#プルタルコス|プルタルコス]],p.22.</ref>。 |
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クラッススは包囲網を狭めており、陸峡にまたがる[[長城]]を建設して反乱軍の補給を絶ち、奴隷たちは飢えに苦しめられた。元老院が[[ヒスパニア]]から帰還した[[グナエウス・ポンペイウス|ポンペイウス]]の軍団を反乱鎮圧に差し向けることを決定すると、スパルタクスは長城を強行突破して脱出を図った。ガンニクスとカストゥスの別動隊がクラッススの軍団に捕捉殲滅されたが、スパルタクスは兵の向きを変えて追撃してきたローマ軍の騎兵集団を撃破する。だが、この勝利によって兵たちが思い上がり、ローマ軍と戦うことを指揮官たちに強制しようとした<ref name=Plutarchus24>[[#プルタルコス|プルタルコス]],p.24.</ref>。さらにスパルタクスの故郷のトラキアでの反ローマ闘争が鎮圧され、[[マケドニア属州|マケドニア]]から{{仮リンク|マルクス・テレンティウス・ウァッロ・ルクッルス|label=ルクッルス|en|Marcus Terentius Varro Lucullus}}の軍団がブルンディシウムに到着したと知ったスパルタクスはあらゆることに絶望し、クラッススの軍団との決戦を決めた<ref>[[#土井 1994|土井 1994]],p.172.</ref>。 |
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=== 最期 === |
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[[ファイル:Tod des Spartacus by Hermann Vogel.jpg|thumb|250px|スパルタクスの最期。<br>Hermann Vogel画。1882年]] |
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現存する古典史料はスパルタクスとクラッススとの最後の戦場の場所を明確にしておらず、その断片的な記述から[[ルカニア]]、[[アプリア]]そしてブルッテイウム(現在の[[カラブリア]])のいずれかの場所と推定され<ref>[[#土井 1994|土井 1994]],pp.175-176.</ref>、オロシウスの「スパルタクス軍はシラルス川の水源に陣営を張った」<ref>[[#土井 1994|土井 1994]],p.173.</ref>との記述によって{{仮リンク|シラルス川の戦い|en|Battle of the Siler River}}と呼ばれている。 |
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プルタルコスの伝えるところによれば、スパルタクスは決戦を前に自らの馬を引き出させて斬り捨て、「勝てば馬は幾らでも手に入る。負ければもう必要ない」と言い放って歩兵として戦いに加わったという<ref name=Plutarchus24/>。スパルタクスはクラッススをめがけて押し進んだが叶わず、小隊長二人を殺し、仲間たちが逃げ惑う中も戦場に踏みとどまり、多くのローマ兵に取り囲まれて遂に斃れた<ref name=Plutarchus24/>。 |
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アッピアヌスは「敵に包囲され槍で突かれて腿に傷を負い跪きながらも楯を前に掲げて戦い続けた」と伝えており、この戦場描写はポンペイ遺跡から発掘されたこの戦いを描いた壁画とも一致している<ref>[[#土井 1994|土井 1994]],p.189.</ref>。{{仮リンク|フロルス|en|Publius Annius Florus}}は「スパルタクスは将軍になったかのように勇敢に前線で戦った」と述べている<ref>[[#土井 1977|土井 1977]],p.8</ref>。スパルタクスの死体は発見できなかった<ref name=Appian1.120/>。 |
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リウィウスによればこの戦いで反乱軍側は6万人が殺されたという<ref>[[#Fields 2009|Fields 2009]],p.75.</ref>。クラッススは捕虜6千人をローマからカプアに至る[[アッピア街道]]沿いに[[磔刑|十字架に磔にした]]<ref name=Appian1.120>Appian, ''Civil Wars'', [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Appian/Civil_Wars/1*.html#120 1.120].</ref>。第三次奴隷戦争の鎮圧後、[[古代ローマ]]時代に2度と大規模な奴隷による反乱が起こることはなかった。 |
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== 評価 == |
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1世紀の文人[[ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス|プリニウス]]はローマ社会の退廃を嘆く文章の中でスパルタクスが軍中の金銀の私有を禁じた話を想起して「逃亡奴隷にして、その心情の偉大さに顔色なからしむる」と述べた<ref name=doi19775/>。ローマ貴族[[セクストゥス・ユリウス・フロンティヌス|フロンティヌス]]は著作の『{{仮リンク|戦術論 (フロンティヌス)|label=戦術論|en|Stratagems (book)}}』でスパルタクスを窮乏と困難に耐える人物で、その戦術は彼の知る全ての将軍に勝ると評価している<ref name=doi19775>[[#土井 1977|土井 1977]],p.5.</ref>。 |
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スパルタクスは古代ローマ人からは「'''ローマの敵'''」と見なされ語り継がれ<ref>[[#土井 1977|土井 1977]],pp.3-9,15-21.</ref>、中世には忘却されたが<ref>[[#土井 1977|土井 1977]],pp.22-23.</ref>、18世紀の[[啓蒙主義]]時代以降に再評価され<ref>[[#土井 1977|土井 1977]],pp.25-27.</ref>、とりわけ[[カール・マルクス]]をはじめとする[[社会主義者]]・[[共産主義者]]から高く評価されるようになり、抑圧からの解放を求める労働者階級の偶像となった<ref>[[#Fields 2009|Fields 2009]],pp.5-6.</ref><ref>{{cite web|title=スパルタクスの蜂起- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%B9%E3%83%91%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%81%AE%E8%9C%82%E8%B5%B7/|author=土井正興|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2012年10月24日}}</ref>。スパルタクスの歴史的評価の詳細に関しては[[第三次奴隷戦争#評価]]を参照せよ。 |
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== 作品 == |
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*『[[スパルタクス (バレエ)|スパルタクス]]』(原題 ''Спартак''、バレエ、[[1956年]])-作曲[[アラム・ハチャトゥリアン]] |
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*『[[スパルタカス (映画)|スパルタカス]]』(原題 ''Spartacus''、映画、[[1960年]]) - 監督:[[スタンリー・キューブリック]]、主演:[[カーク・ダグラス]] |
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*『[[スパルタカス (2004年のテレビドラマ)|スパルタカス]]』(原題 ''Spartacus''、テレビドラマ、[[2004年]]) - 主演:[[ゴラン・ヴィシュニック]] |
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*『[[スパルタカス (2010年のテレビドラマ)|スパルタカス]]』(原題 ''Spartacus: Blood and Sand''、テレビドラマ、[[2010年]]) - 主演:[[アンディ・ホイットフィールド]] |
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*『{{仮リンク|スパルタカス序章 ゴッド・オブ・アリーナ|en|Spartacus: Gods of the Arena}}』(原題 ''Spartacus: Gods of the Arena''、テレビドラマ、[[2011年]]) - 主演:{{仮リンク|ダスティン・クレア|en|Dustin Clare}}(ガンニクス役)、[[ジョン・ハナー]]({{仮リンク|レントゥルス・バティアトゥス|label=バティアトゥス|en|Lentulus Batiatus}}役) |
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::2010年テレビドラマの前日譚、スパルタカス役のアンディ・ホイットフィールドは最終回に声のみ出演し、2011年9月に死去。 |
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*『{{仮リンク|スパルタカスII|en|Spartacus: Vengeance}}』(原題 ''Spartacus: Vengeance''、テレビドラマ、[[2012年]]) - 主演:{{仮リンク|リアム・マッキンタイア|en|Liam McIntyre}} |
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::2010年テレビドラマの続編。 |
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*"''Spartacus: War of the Damned''"(邦題未定、テレビドラマ、[[2013年]]予定)- 主演:リアム・マッキンタイア |
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== 脚注 == |
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{{Reflist}} |
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==参考文献== |
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*{{Cite book|和書|author=[[プルタルコス]]|translator=[[村川堅太郎]]|editor=|year=1996|chapter=|title=[[対比列伝|プルタルコス英雄伝]](下)|series=|publisher=[[筑摩書房]]|isbn=978-4480083234|ref=プルタルコス}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=土井正興|translator=|editor=|year=1973|chapter=|title=スパルタクスの蜂起 古代ローマの奴隷戦争|series=|publisher=青木書店|isbn=|ref=土井 1973}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=土井正興|translator=|editor=|year=1977|chapter=|title=スパルタクス反乱論序説|series=|publisher=[[法政大学]]出版局|isbn=|ref=土井 1977}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=土井正興|translator=|editor=|year=1994|chapter=|title=スパルタクスとイタリア奴隷戦争|series=|publisher=[[法政大学]]出版局|isbn=978-4588250439|ref=土井 1994}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=本村凌二|translator=|editor=|year=2011|chapter=|title=帝国を魅せる剣闘士―血と汗のローマ社会史|series=歴史のフロンティア|publisher=[[山川出版社]] |isbn=978-4634482210 |ref=本村 2011}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=ステファン・ウィズダム|translator=斎藤潤子|editor=|year=2002|chapter=|title=グラディエイター―古代ローマ剣闘士の世界|series=オスプレイ戦史シリーズ|publisher=[[新紀元社]]|isbn= 978-4775300909|ref=ウィズダム 2002}} |
|||
*{{cite book | last=Fields| first =Nic| title =Spartacus and the Slave War 73-71 BC: A gladiator rebels against Rome | authorlink=|publisher =Osprey Publishing |location = | year =2009 |isbn=978-1846033537 |ref=Fields 2009}} |
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==関連項目== |
==関連項目== |
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{{Commonscat|Spartacus}} |
{{Commonscat|Spartacus}} |
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*[[剣闘士]] |
*[[剣闘士]] |
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*[[奴隷戦争]] |
*[[第三次奴隷戦争]] |
||
*[[内乱の一世紀]] - [[共和政ローマ]]末期における[[内戦]]。 |
*[[内乱の一世紀]] - [[共和政ローマ]]末期における[[内戦]]。 |
||
*[[トゥーサン・ルーヴェルチュール]] - [[ハイチ革命]]の指導者であり、「黒きスパルタクス」と呼ばれた。 |
*[[トゥーサン・ルーヴェルチュール]] - [[ハイチ革命]]の指導者であり、「黒きスパルタクス」と呼ばれた。 |
||
*[[スパルタクス団]] - [[ドイツ共産党]]の前身。 |
*[[スパルタクス団]] - [[ドイツ共産党]]の前身。 |
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{{Normdaten|TYP=p|GND=118615947|LCCN=n/50/21231|VIAF=88953294}} |
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==参考文献== |
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*[[プルタルコス]]著、村川堅太郎編集『[[対比列伝|プルタルコス英雄伝]]〈下〉』、[[ちくま学芸文庫]] |
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2012年11月21日 (水) 09:12時点における版
スパルタクス(ラテン語: Spartacus、生年不詳[1] - 紀元前71年)は、共和政ローマ期の剣闘士で、「スパルタクスの反乱」と称される第三次奴隷戦争の指導者。
紀元前73年に仲間の剣闘士とともに南イタリアのカプアの剣闘士養成所を脱走してヴェスヴィウス山に立て籠もり、討伐隊を撃退した。近隣の奴隷たちが反乱に加わって数万から十数万人の軍衆に膨れ上がり、紀元前72年には執政官の率いるローマ軍団を数度にわたって打ち破ってイタリア半島を席巻した。紀元前71年になるとクラッススの率いる軍団によってイタリア半島南端部に封じ込められ、クラッススとの決戦に敗れた奴隷反乱軍は敗れて全滅し、スパルタクスも戦死した。近現代になると再評価され、カール・マルクスは「古代プロレタリアートの真の代表者」と評した[2]。
生涯
出自と人物
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1世紀の歴史家プルタルコスはスパルタクスの出自をトラキアの遊牧種族とし、勇気と力があるだけでなく、知恵があり温和な性格で出身民族よりもギリシャ人に似ていたと伝えている[3]。2世紀の歴史家アッピアヌスはトラキアに生まれ、ローマ軍の兵士となるが捕虜となり、剣闘士に売られたと記し[4]、同じ2世紀のフロルスはやや詳細にトラキア人傭兵から兵士となり、逃亡して盗賊になり、そしてその強さから剣闘士となったと述べている[4]。
プルタルコスはスパルタクスの出身をtū Maidikiū genūsと記しており従来は「遊牧種族」の意味と捉えられており、碑文や出土品にスパルティコ、スパルトコスといった似た名前の人物がいるロドピ山麓のベッシ族とする説が有力だったが、ドイツの歴史学者ツィーグラーが当時のトラキアには遊牧民は存在せず、これはトラキアの部族名のマイドイ族(メディ族:Maedi)の意味であると主張して有力になった[5]。一方で、これを史料の改竄として批判する意見も出されており、歴史学者トドロフはローマの兵士となったとのアッピアヌスの記述を元に当時ローマに頑強に抵抗していたメディ族出身はありえず、同盟関係にあったオデュルサエ族出身説を提起した[6]。
19世紀のドイツの歴史家モムゼンはボスポラス王国のスパルトキダイ家にスパルタクスと類似した名前が存在することから王族の子孫であるとする説を唱え、ツィーグラーもその資質から指導者階級の出で騎士的伝統を身につけていたと推測した[7]。この説に対してはローマを苦しめた指導者が卑賤な出身であって欲しくないという心情がら出たもので、名前が似ているだけで論証がなにもないとの批判を受けている[7]。
ベッシ族出自説を採る研究者はミトリダテス戦争においてポントス王国側の傭兵として参戦し、この過程でローマ側の捕虜となって補助兵として仕えたが逃亡したとしている[8]。オデュルサエ族出自説の場合はこの部族がローマとの同盟関係にあったとことから補助兵となったことは容易に説明がつき、その後に何らかの理由で逃亡し盗賊(または反ローマ闘争)になったことになる[9]。メディ族出自説の場合はメディ族もミトリダテス側だったのでスパルタクスもポントス王国側の傭兵となって戦い、その後の講和の成立によってローマ軍の補助兵となったが逃亡して反ローマ闘争を続け、敗れて捕虜になり剣闘士に売られたことになる[10]。
ローマの奴隷となったスパルタクスは南イタリアのカンパニア地方のカプアにあるレントゥルス・バティアトゥスなる興行師(ラニスタ)が所有する剣闘士養成所に属した。トラキア出身のスパルタクスは幾つかある剣闘士の種類の内のトラキア闘士と呼ばれるスタイルの剣闘士だったと推測されるが、彼の剣闘士としての戦歴について古典史料は何も語っていない[11]。
スパルタクスの生年についても不明だが、研究者たちはその指導力や行動から反乱を起こした時には35歳から40歳程度であったと推測している[12]。一方で、当時の剣闘士は20代前半がほとんどで30代になるまでに木剣拝受者となって引退するか闘技場で死んでいるので、スパルタクスも20代の青年であったとする見方もある[13]。
プルタルコスはスパルタクスと同族の女予言者の話を伝えており、ディオニューソスの秘儀によって霊感を受けた彼女はスパルタクスが偉大な恐るべき勢力となるが、やがては不幸な結末を迎えると予言したという[3]。この女予言者は蜂起開始の際にスパルタクスと同じ建物にいて、伴に剣闘士養成所を脱走しており、現代の研究者の中にはこの女性は実在し、スパルタクスの妻であったと主張する者もいる[14]。
蜂起
バティアトゥス養成所にはガリア人とトラキア人の剣闘士が多く所属していたが、興行師は邪な考えを持って彼らをひとつ所に押し込めていた[3]。紀元前73年、約200人の剣闘士たちが脱走を計画したが、密告によって露見してしまい、この内のおよそ70人が養成所を脱走し、武器を奪って武装化してヴェスヴィウス山に立て籠もった。剣闘士たちはガリア人のクリクススとオエノマウスそしてスパルタクスを彼らの指導者に選んだ[15]。 古代の歴史家アッピアヌスはスパルタクスが指導者であり、他の二人はその部下であるとしているが、リウィウスやオロシウスは三人は同等の指導者であったことを示唆している[16]。近隣の奴隷もスパルタクスらの反乱軍に加わり、その規模は拡大していった。
元老院は法務官のグラベル次いでウァリニウスを討伐に派遣するが、スパルタクスはこれを相次いで撃退した。数万人に膨れ上がった反乱軍は南イタリアの幾つかの都市を略奪・占領して冬を越し、紀元前72年に北上を開始した。プルタルコスはアルプスを越えて奴隷たちを故郷へ帰すことが反乱軍の目的であったとし[17]、一方、アッピアヌスやフロルスはローマ進軍が彼らの目的であったとしている[18]。アッピアヌスは反乱軍の軍紀が厳正であったことを伝えており、スパルタクスは略奪品を平等に分配し、金銀の個人的な所有を禁じていた[19]。また、サッルスティウスに拠れば、スパルタクスは無用な暴行と略奪といった逸脱行為を禁じたという[20]。
この年の2人の執政官レントゥルスとゲッリウスが率いる正規のローマ軍団が差し向けられ、クリクススの率いる別動隊3万人が殲滅されたが、スパルタクスはこれら2人の率いるローマ軍団を撃破した。スパルタクスは戦死したクリクススの霊を弔うためにローマ兵の捕虜300人に剣闘士試合をさせ犠牲に捧げた[21]。スパルタクスの率いる反乱軍は北イタリアに到達したが、何らかの理由によって彼らはアルプス越えを行わず、軍を反転させて再び南イタリアへと向かった[22]。
元老院はレントゥルスとゲッリウスから軍権を剥奪して、新たに法務官に選出されたクラッススに反乱鎮圧を委ねた。紀元前71年、スパルタクスの反乱軍は一度はクラッススの軍団を撃破したが、やがてイタリア半島最南端のカラブリア地方の都市レギウム(現在のレッジョ・ディ・カラブリア)にまで追い込まれてしまう。過去2度の奴隷戦争の舞台となったシキリアへの奴隷反乱の拡大を企図して兵の派遣を目論み、キリキア海賊に渉りを付けてシキリアへの渡航契約が成立したものの、海賊はスパルタクスから贈物だけをせしめて、約束の日に姿を現すことはなかった[17]。
クラッススは包囲網を狭めており、陸峡にまたがる長城を建設して反乱軍の補給を絶ち、奴隷たちは飢えに苦しめられた。元老院がヒスパニアから帰還したポンペイウスの軍団を反乱鎮圧に差し向けることを決定すると、スパルタクスは長城を強行突破して脱出を図った。ガンニクスとカストゥスの別動隊がクラッススの軍団に捕捉殲滅されたが、スパルタクスは兵の向きを変えて追撃してきたローマ軍の騎兵集団を撃破する。だが、この勝利によって兵たちが思い上がり、ローマ軍と戦うことを指揮官たちに強制しようとした[23]。さらにスパルタクスの故郷のトラキアでの反ローマ闘争が鎮圧され、マケドニアからルクッルスの軍団がブルンディシウムに到着したと知ったスパルタクスはあらゆることに絶望し、クラッススの軍団との決戦を決めた[24]。
最期
現存する古典史料はスパルタクスとクラッススとの最後の戦場の場所を明確にしておらず、その断片的な記述からルカニア、アプリアそしてブルッテイウム(現在のカラブリア)のいずれかの場所と推定され[25]、オロシウスの「スパルタクス軍はシラルス川の水源に陣営を張った」[26]との記述によってシラルス川の戦いと呼ばれている。
プルタルコスの伝えるところによれば、スパルタクスは決戦を前に自らの馬を引き出させて斬り捨て、「勝てば馬は幾らでも手に入る。負ければもう必要ない」と言い放って歩兵として戦いに加わったという[23]。スパルタクスはクラッススをめがけて押し進んだが叶わず、小隊長二人を殺し、仲間たちが逃げ惑う中も戦場に踏みとどまり、多くのローマ兵に取り囲まれて遂に斃れた[23]。
アッピアヌスは「敵に包囲され槍で突かれて腿に傷を負い跪きながらも楯を前に掲げて戦い続けた」と伝えており、この戦場描写はポンペイ遺跡から発掘されたこの戦いを描いた壁画とも一致している[27]。フロルスは「スパルタクスは将軍になったかのように勇敢に前線で戦った」と述べている[28]。スパルタクスの死体は発見できなかった[29]。
リウィウスによればこの戦いで反乱軍側は6万人が殺されたという[30]。クラッススは捕虜6千人をローマからカプアに至るアッピア街道沿いに十字架に磔にした[29]。第三次奴隷戦争の鎮圧後、古代ローマ時代に2度と大規模な奴隷による反乱が起こることはなかった。
評価
1世紀の文人プリニウスはローマ社会の退廃を嘆く文章の中でスパルタクスが軍中の金銀の私有を禁じた話を想起して「逃亡奴隷にして、その心情の偉大さに顔色なからしむる」と述べた[31]。ローマ貴族フロンティヌスは著作の『戦術論』でスパルタクスを窮乏と困難に耐える人物で、その戦術は彼の知る全ての将軍に勝ると評価している[31]。
スパルタクスは古代ローマ人からは「ローマの敵」と見なされ語り継がれ[32]、中世には忘却されたが[33]、18世紀の啓蒙主義時代以降に再評価され[34]、とりわけカール・マルクスをはじめとする社会主義者・共産主義者から高く評価されるようになり、抑圧からの解放を求める労働者階級の偶像となった[35][36]。スパルタクスの歴史的評価の詳細に関しては第三次奴隷戦争#評価を参照せよ。
作品
- 『スパルタクス』(原題 Спартак、バレエ、1956年)-作曲アラム・ハチャトゥリアン
- 『スパルタカス』(原題 Spartacus、映画、1960年) - 監督:スタンリー・キューブリック、主演:カーク・ダグラス
- 『スパルタカス』(原題 Spartacus、テレビドラマ、2004年) - 主演:ゴラン・ヴィシュニック
- 『スパルタカス』(原題 Spartacus: Blood and Sand、テレビドラマ、2010年) - 主演:アンディ・ホイットフィールド
- 『スパルタカス序章 ゴッド・オブ・アリーナ』(原題 Spartacus: Gods of the Arena、テレビドラマ、2011年) - 主演:ダスティン・クレア(ガンニクス役)、ジョン・ハナー(バティアトゥス役)
- 2010年テレビドラマの前日譚、スパルタカス役のアンディ・ホイットフィールドは最終回に声のみ出演し、2011年9月に死去。
- 『スパルタカスII』(原題 Spartacus: Vengeance、テレビドラマ、2012年) - 主演:リアム・マッキンタイア
- 2010年テレビドラマの続編。
- "Spartacus: War of the Damned"(邦題未定、テレビドラマ、2013年予定)- 主演:リアム・マッキンタイア
脚注
- ^ 土井正興. “スパルタクス- Yahoo!百科事典”. 日本大百科全書(小学館). 2012年11月10日閲覧。
- ^ 土井 1977,p.49;土井 1973,pp.195-196.
- ^ a b c プルタルコス,p.18.
- ^ a b 土井 1994,p.52.
- ^ 土井 1994,pp.53-55;プルタルコス,p.19.
- ^ 土井 1994,pp.54-55.
- ^ a b 土井 1994,p.53;土井 1977,pp.163-164.
- ^ 土井 1994,p.62.
- ^ 土井 1994,pp.62-63.
- ^ 土井 1994,pp.65-67.
- ^ 本村 2011,p.153.
- ^ 土井 1994,p.67.
- ^ ウィズダム 2002,p.128.
- ^ 土井 1994,p.290.
- ^ 古代の歴史家フロルスとオロシウスによればクリクススとオエノマウスはガリア人である。Fields 2009,p.30.
- ^ Fields 2009,p.30.
- ^ a b プルタルコス,p.22.
- ^ Appian, Civil Wars, 1:117; Florus, Epitome, 2.8.
- ^ 土井 1977,p.140.
- ^ 土井 1977,p.141.
- ^ 土井 1973,p.123
- ^ 反乱軍の再南下の理由について古典史料は言及しておらず、研究者の間でも諸説ある。「再南下問題」の諸説については次を参照せよ。土井 1994,pp.137-165.
- ^ a b c プルタルコス,p.24.
- ^ 土井 1994,p.172.
- ^ 土井 1994,pp.175-176.
- ^ 土井 1994,p.173.
- ^ 土井 1994,p.189.
- ^ 土井 1977,p.8
- ^ a b Appian, Civil Wars, 1.120.
- ^ Fields 2009,p.75.
- ^ a b 土井 1977,p.5.
- ^ 土井 1977,pp.3-9,15-21.
- ^ 土井 1977,pp.22-23.
- ^ 土井 1977,pp.25-27.
- ^ Fields 2009,pp.5-6.
- ^ 土井正興. “スパルタクスの蜂起- Yahoo!百科事典”. 日本大百科全書(小学館). 2012年10月24日閲覧。
参考文献
- プルタルコス 著、村川堅太郎 訳『プルタルコス英雄伝(下)』筑摩書房、1996年。ISBN 978-4480083234。
- 土井正興『スパルタクスの蜂起 古代ローマの奴隷戦争』青木書店、1973年。
- 土井正興『スパルタクス反乱論序説』法政大学出版局、1977年。
- 土井正興『スパルタクスとイタリア奴隷戦争』法政大学出版局、1994年。ISBN 978-4588250439。
- 本村凌二『帝国を魅せる剣闘士―血と汗のローマ社会史』山川出版社〈歴史のフロンティア〉、2011年。ISBN 978-4634482210。
- ステファン・ウィズダム 著、斎藤潤子 訳『グラディエイター―古代ローマ剣闘士の世界』新紀元社〈オスプレイ戦史シリーズ〉、2002年。ISBN 978-4775300909。
- Fields, Nic (2009). Spartacus and the Slave War 73-71 BC: A gladiator rebels against Rome. Osprey Publishing. ISBN 978-1846033537