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{{Infobox 人物 |
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[[画像:Onisaburo Deguchi 2.jpg|thumb|200px|出口王仁三郎([[1940年]])]] |
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|氏名 = 出口 王仁三郎 |
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'''出口 王仁三郎'''(でぐち おにさぶろう、[[1871年]][[8月27日]]([[明治]]4年[[7月12日 (旧暦)|7月12日]]) - {{和暦|1948}}[[1月19日]])は、新宗教「[[大本]]」の教義を整備し、戦前において日本有数の宗教団体に発展させた実質上の[[教祖]]。大本では'''聖師'''と呼ばれている。 |
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|ふりがな = でぐち おにさぶろう |
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|画像 = Onisaburo Deguchi 2.jpg |
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|画像サイズ = |
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|画像説明 = 1940年撮影 |
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|出生名 = 上田 喜三郎 |
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|生年月日 = [[1871年]][[8月27日]] |
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|生誕地 = [[京都府]][[亀岡市]] |
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|没年月日 = [[1948年]][[1月19日]]満76歳没 |
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|死没地 = |
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|団体 = 昭和神聖会 |
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|肩書き = 大本二代教主輔/聖師 |
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|政治活動 = |
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|取締役会 = |
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|宗教 = 大本 |
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|配偶者 = [[出口澄]] |
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|非婚配偶者 = |
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|子供 = 長女・[[出口直日]](三代教主)<br/>娘婿・[[出口日出麿]] |
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|親 = 義母・[[出口なお]](大本開祖) |
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|親戚 = |
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|補足 = |
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'''出口 王仁三郎'''(でぐち おにさぶろう、[[1871年]][[8月27日]]([[明治]]4年[[7月12日 (旧暦)|7月12日]]) - {{和暦|1948}}[[1月19日]])は、[[新宗教]]「[[大本]]」の二代教主輔。事実上の[[教祖]]。 |
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王仁三郎の読み方について、「わにさぶろう」とされることがあるが「おにさぶろう」が正しい。大本の開祖である[[出口なお]]のお筆先([[自動書記]])で、元の名前である「喜三郎(きさぶろう)」を「おにさぶろう(鬼三郎)」と書かれたことに対し、「鬼」の字を嫌って「王仁」の字を当てたことに由来する。 |
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== 概要 == |
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出口王仁三郎は、大本において'''聖師'''と呼ばれる<ref>[[#宗教の昭和史]]33頁</ref>。強烈な個性と魅力と[[カリスマ]]を持ち、メディアを含め様々な手法を駆使して昭和前期の大本を日本有数の宗教団体に発展させた<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]167頁</ref>。その一方で実像をとらえることが難しく、奔放な言動により敵対者から多くの非難を浴びる<ref>[[#宗教の昭和史]]33頁、[[#帝国時代のカリスマ]]33頁</ref>。[[国家神道]]の権威と相容れない教義を展開したため、大本は危険勢力として[[大日本帝国]]政府の徹底的な弾圧を受け[[大東亜戦争]]直前に壊滅、王仁三郎も7年近く拘束された<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]28.290頁</ref>。[[太平洋戦争]]終結後は教団の再建に尽力するも、まもなく病により死去した。彼の思想と布教方法は戦後の新興宗教に大きな影響を与えた<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]27.67.287頁</ref>。 |
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王仁三郎の読み方について、「わにさぶろう」とされることがあるが「おにさぶろう」が正しい。大本の開祖である[[出口なお]]のお筆先([[自動書記]])で、元の名前である「喜三郎(きさぶろう)」を「おにさぶろう(鬼三郎)」と書かれたことに対し、「鬼」の字を嫌って「王仁」の字を当てたことに由来する<ref>[[#いり豆の花]]529頁、[[#霊界からの警告]]86頁</ref>。ただし「わに」を使用した例もあり<ref>[[#あるカリスマの生涯]]63頁</ref>、[[百済]]から日本に[[漢字]]と[[儒教]]を伝えた学者[[王仁]](わに)との関連を指摘する研究者もいる<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]60頁</ref>。またマスコミが挿絵中で[[ワニ]]の姿で表現した事例もあった<ref>[[#あるカリスマの生涯]]122頁</ref>。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 幼少 === |
=== 幼少 === |
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一般には明治4年7月12日、現在の[[京都府]][[亀岡市]]穴太(あなお)に、農業を営む上田家の長男'''上田 喜三郎'''(うえだ きさぶろう)として生まれた |
出口王仁三郎の前半生は自伝や大本の伝記によるところが大きく、[[空海]]や[[役行者]]のような聖人伝説の影響が見られる<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]34-35頁</ref>。一般には{{和暦|1871}}明治4年8月27日(旧暦7月12日)、現在の[[京都府]][[亀岡市]]穴太(あなお)に、農業を営む上田家五男三女の長男'''上田 喜三郎'''(うえだ きさぶろう)として生まれた<ref>[[#新宗教創始者伝]]78-79頁、[[#あるカリスマの生涯]]21頁</ref>。これより改名するまで『'''喜三郎'''』と表記する。<!-- また、上田家の伝説では七代ごとに偉人が現れるとされていたが、喜三郎は[[円山応挙]]から数えてちょうど七代目にあたる<ref>[[#霊界からの警告]]16頁</ref>。--->祖母・上田宇能は、『日本[[言霊学]]』で有名だった[[中村孝道]]の妹にあたり、伝承や言霊学、[[迷信]]を始めとした知恵を持っていた<ref>[[#あるカリスマの生涯]]22頁、[[#新宗教創始者伝]]80頁</ref>。喜三郎は幼少時は登校さえ出来なかった[[虚弱児|虚弱体質児]]であったため、家で祖母にあれこれと教わり、同年代の子供より老人達と交わることを好んだ<ref>[[#あるカリスマの生涯]]24-25頁、[[#金光と大本]]145-146頁</ref>。また、近所ではその聡明さから「八つ耳」([[直感]]力や理解力に優れた人間の意)、[[神童]]と言われていた<ref name="reinousyaretuden">[[別冊宝島]]1199号 『日本「霊能者」列伝』([[宝島社]] {{和暦|2005}}10月)ISBN 978-4796648066</ref>。少年時代、[[明智光秀]]が築いた[[亀山城 (丹波国)|亀山城]]に登って天下に勇躍することを願ったという<ref>[[#宗教の昭和史]]34頁、[[#あるカリスマの生涯]]29-30頁</ref>。 |
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{{和暦|1883}}、13歳の時に通学する小学校教師と喧嘩沙汰となり退学、校長に見込まれ、その教師の代用教員として採用される<ref>[[#神々の目覚め]]233頁、[[#あるカリスマの生涯]]27-28頁</ref>。2年後、正式な小学校教員が赴任してきた為に辞職(僧侶出身の教員と神道について口論になったとも<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]43頁、[[#新宗教創始者伝]]82頁</ref>)、農業をはじめ様々な職種を体験する<ref>[[#あるカリスマの生涯]]31.36頁、[[#予言・確言]]43頁</ref>。豪農の家に奉公したことで、小作人や小農の格差を自覚したという<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]44頁、[[#新宗教創始者伝]]83頁</ref>。{{和暦|1893}}(23歳)の頃から[[園部町|園部]]の牧場で働きながら獣医を目指すが不合格となり、京都府巡査試験に合格するも拒否<ref>[[#新宗教創始者伝]]86頁</ref>。明治時代の若者として立身出世を目指す喜三郎は、マンガン鉱の探鉱やラムネ製造など幾つかの事業を始めるが失敗した<ref>[[#神々の目覚め]]234頁、[[#帝国時代のカリスマ]]47頁</ref>。結局{{和暦|1896}}(26歳)で独立し「穴太精乳館 上田牧牛場」を開業<ref>[[#あるカリスマの生涯]]39頁</ref>。[[搾乳]]・[[牛乳]]販売業を始めて成功を収めた<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]48頁、[[#金光と大本]]154頁</ref>。当時、園部の南陽寺に滞在していた[[岡田惟平]]から[[古事記]]・[[日本書紀]]の国学的解釈と和歌を学んでいるが、喜三郎と宗教との接点は少なかった<ref>[[#あるカリスマの生涯]]38頁、[[#新宗教創始者伝]]85頁</ref>。24歳の時、歯痛を癒やしてくれた[[妙霊教]](兵庫県の山岳信仰)に入信するが、やがて嫌気がさしてしまった<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]50頁</ref>。 |
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=== 出口なおとの出会い === |
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多芸多趣味の喜三郎は義侠心を持った賑やかな人物であり、侠客の親分から養子の申し込みがあるほど亀岡で人気を博した<ref>[[#あるカリスマの生涯]]40-41頁、[[#帝国時代のカリスマ]]49頁</ref>。だが喧嘩で負傷した事、父の死、祖母の訓戒が重なり、宗教家への道を歩み出す<ref>[[#神々の目覚め]]234頁、[[#あるカリスマの生涯]]42-44頁</ref>。{{和暦|1898}}[[3月1日]]、[[松岡芙蓉]](または「[[天狗]]」と名乗ったとも<ref name="reinousyaretuden"/><ref>[[#あるカリスマの生涯]]45頁、[[#霊界からの警告]]40-41頁</ref>)と名乗る神使に伴われて、亀岡市内の[[霊山]]高熊山に一週間の霊的修業をする<ref>『[[霊界物語]]』第1巻、第37巻、『本教創世記』参照</ref><ref>[[#神々の目覚め]]234-235頁、[[#あるカリスマの生涯]]46-47頁</ref>。続いて精乳館を弟に譲り、静岡県清水の稲荷講社で[[長沢雄楯]]に師事して霊学の修行を行ったのち、鎮魂帰神法と[[審神者|審神学]]を伝授される<ref>[[#神々の目覚め]]236頁、[[#あるカリスマの生涯]]50-51頁</ref>。これによって[[伯家神道]]と[[言霊学]]の知識を得た<ref>[[#伯家神道の聖予言]]81頁</ref>。長沢は喜三郎にかかった神を小松林命([[スサノオ|素戔嗚尊]]の顕現または分霊)と審神した<ref>[[#神々の目覚め]]236頁、[[#帝国時代のカリスマ]]54頁</ref>。自信をつけた喜三郎は稲荷講社に繋がる「霊学会」を設立・会長となり、亀岡の北西に位置する園部で布教をおこなった<ref>[[#宗教の昭和史]]34頁、[[#あるカリスマの生涯]]53頁</ref>。 |
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{{和暦|1898}}10月8日、喜三郎は大本の開祖・'''[[出口なお|出口直(なお)]]'''(以下、『'''直'''』と漢字表記)を京都府[[綾部市|綾部]]に訪ねる<ref>[[#新宗教創始者伝]]75頁、[[#金光と大本]]160頁</ref>。極貧生活を送る無名の老婆だった直は[[祟り神]]と恐れられた『[[金神|艮の金神]]』の[[憑依|神懸かり]]を起こし<ref>[[#いり豆の花]]304-305頁、[[#女性教祖と救済思想]]101-102頁</ref>、[[日清戦争]]の予言や病気治療で「綾部の金神さん」という評判を得ていた<ref>[[#女性教祖と救済思想]]130-132頁</ref>。暫定的に[[金光教]]の傘下で活動していたが徐々に方針の違いが明らかになり、独立を希望すると共に自らに懸かった神の正体を審神する者を待っていたのである<ref>[[#新宗教創始者伝]]69-70頁、[[#女性教祖と救済思想]]186頁</ref>。最初の対面では、直が[[稲荷神|稲荷講社]]所属の喜三郎に不信感を持ち、また金光教由来の信者達も彼を敵視したため、物別れに終わった<ref>[[#神々の目覚め]]237頁、[[#いり豆の花]]477.489頁</ref>。喜三郎は「瑞穂道会」を設立して宣教しつつ、時期を待っていた<ref>[[#いり豆の花]]486頁</ref>。{{和暦|1899}}7月、直は[[啓示|神示]]によって喜三郎こそ待ち人と悟り、再び綾部に招く<ref>[[#あるカリスマの生涯]]60頁、[[#大本襲撃]]103頁</ref>。喜三郎は直に憑依した「艮の金神」を「国武彦命」(後に日本神話の創造神[[国常立尊]]と判明<ref>[[#いり豆の花]]518-519頁</ref>)と審神し、綾部に移住した<ref>[[#あるカリスマの生涯]]61頁、[[#スサノオと王仁三郎]]107頁</ref>。二人の関係は、神秘的な女性と組織的男性がコンビを組んで指導を行うアジア的な[[シャーマニズム]]の型とされる<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]59頁</ref>。彼女の教会(金明会)と自身が率いた霊学会の融合を計って「金明霊学会」を設立、組織づくりを行った<ref>[[#女性教祖と救済思想]]193頁、[[#あるカリスマの生涯]]61頁</ref>。現在の大本の「十曜神紋」も綾部藩主[[九鬼家]]の九曜紋[[家紋]]を引用してこの時に定められた<ref>[[#いり豆の花]]502頁</ref>。 |
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=== 大本の成長 === |
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{{和暦|1900}}1月31日、29歳の喜三郎は出口澄(出口直の五女)と養子結婚して入り婿となり、名前を'''出口 王仁三郎'''に改める<ref>『[[霊界物語]]』第38巻、『本教創世記』</ref><ref>[[#宗教の昭和史]]35頁、[[#いり豆の花]]524頁</ref>。以下『'''王仁三郎'''』と表記する。ただし入籍の手続きが煩雑となり、正式な養子縁組は{{和暦|1910}}12月、婚姻届提出は翌年1月である<ref>[[#あるカリスマの生涯]]62頁、[[#いり豆の花]]529-530.661頁</ref>。二人は六女二男をもうけたが、男子は早世した<ref>[[#大本襲撃]]107頁</ref>。当時、教団は筆先による終末論と王仁三郎が持ち込んだ鎮魂帰神法により、天理教や金光教とも違う独自の教派へ発展しようとしていた<ref>[[#女性教祖と救済思想]]216-217頁</ref>。その一方、公認宗教の傘下に入って布教を合法化しようとする王仁三郎と、[[原理主義]]に陥っていた旧幹部は激しく対立する<ref>[[#宗教の昭和史]]35.42頁、[[#日本の10大新宗教]]61頁</ref>。大本では直を「女子の肉体に男子の霊が宿った変性男子」、王仁三郎を「男子の肉体に女子の霊が宿った変性女子」と定義し、直には[[天照大神]]・王仁三郎には[[スサノオ]]が宿って「火水の戦い」という宗教的な論争を展開した<ref>[[#神々の目覚め]]238頁、[[#予言・確言]]56-66頁、[[#いり豆の花]]508-509.537頁</ref>。さらに幹部達の主導権争いも王仁三郎を苦しめた<ref>[[#新宗教創始者伝]]117-121頁、[[#予言・確言]]49-50頁</ref>。夜討ちをかけられたり、監禁されて原稿を燃やされるなど、忍耐を強いられている<ref>[[#いり豆の花]]534頁、[[#帝国時代のカリスマ]]63頁</ref>。同時期、[[日露戦争]]が日本の勝利に終わる。「日本は完敗し世直しが始まる」という立替熱が冷めたことで離脱する信者が急増し、教団は衰退の一途を辿った<ref>[[#いり豆の花]]646頁、[[#帝国時代のカリスマ]]65頁、[[#女性教祖と救済思想]]259頁</ref>。 |
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{{和暦|1906}}9月、王仁三郎は妻子を残して教団を離れ、教団合法化の道を探るべく遊学する<ref>[[#宗教の昭和史]]53頁、[[#大本襲撃]]110頁</ref>。「[[皇典講究所]]」(現:「[[國學院大學]]」)教育部本科2年に入学<ref>[[#あるカリスマの生涯]]70頁、[[#金光と大本]]162頁</ref>。翌年3月卒業して[[建勲神社]]の主典となるが半年で退職<ref>[[#いり豆の花]]647.651頁、[[#新宗教創始者伝]]122頁</ref>。12月には[[伏見稲荷|伏見稲荷山]][[御嶽教]]西部教庁主事、{{和暦|1908}}3月同教大阪大教会長に抜擢、生玉御嶽大教会詰として奉職する<ref>[[#いり豆の花]]653頁、[[#あるカリスマの生涯]]70頁</ref>。さらに[[大成会]]と交流して[[教派神道]]に接近。御嶽教西部本庁に勤務しながら、困窮していた教団の活性化に手腕を尽くす<ref>[[#宗教の昭和史]]36.53頁、[[#霊界からの警告]]100-101頁</ref>。教団合法化の布石として6月8日に大成教直轄直霊教会を、6月21日に御嶽教大本教会を設立、8月1日に金明霊学会を「大日本修斎会」に改めた<ref>[[#いり豆の花]]654頁、[[#金光と大本]]168頁</ref>。12月末に御嶽教を辞職して綾部の教団発展に専念する<ref>[[#いり豆の花]]655頁</ref>。そして「神道の研究」を団体の目的とし、内務省に管理された公認教派神道に不満を持つ人々の人気を得た<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]75-77頁</ref>。{{和暦|1911}}6月、幹部を引き連れて[[出雲大社]]を参詣し、大社教霊社の分社となることで天照大神(天皇)に対抗する宗教的権威を得て日本宗教界の注目を集めた<ref>[[#いり豆の花]]662頁、[[#帝国時代のカリスマ]]94頁</ref>。{{和暦|1916}}4月、大日本修斎会は「皇道大本」と改称する<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]77頁</ref>。10月、直は王仁三郎こそ「[[弥勒菩薩|みろく神]]」という筆先を得て優位性を認め、これによって筆先を加筆・編集して「大本神論」として発表することが可能になった<ref>[[#予言・確言]]128-129頁、[[#スサノオと王仁三郎]]121-129頁</ref>。直の土着性と王仁三郎の普遍性が上手くかみあったことで、大本は世界宗教への萌芽を持つに至る<ref>[[#神々の目覚め]]241頁</ref>。12月、直と王仁三郎に心酔した英文学者[[浅野和三郎]]が入信して機関誌「神霊会」の主筆兼編集長になる<ref>[[#予言・確言]]157頁、[[#いり豆の花]]706頁</ref>。 |
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{{和暦|1918}}11月7日、開祖・出口直が83歳で死去し、末子の出口澄が二代教主・夫の王仁三郎が教主輔(「補」ではなく特別に「輔」を用いる<ref>[[#新宗教創始者伝]]143頁</ref>)となる<ref>[[#あるカリスマの生涯]]78-79頁、[[#大本襲撃]]117頁</ref>。折りしも浅野和三郎(筆頭幹部)や[[谷口雅春]]らが「大正十年立替説」(明治五十五年の世の立替)という[[終末論]]を大正日新聞や機関誌「神霊会」を通じて宣伝<ref>[[#予言・確言]]173-174.184-190頁、[[#大本襲撃]]120-121頁</ref>、大本は信徒30万人という爆発的な発展を見せるに至る<ref>[[#あるカリスマの生涯]]91-93頁、[[#帝国時代のカリスマ]]134頁</ref>。王仁三郎は肯定も否定もせず、行き過ぎに警告を出している<ref>[[#新宗教創始者伝]]122頁、[[#あるカリスマの生涯]]94.98頁</ref>。既に王仁三郎と急進的な浅野達の間で派閥争いが生じていた<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]133頁</ref>。 |
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{{和暦|1919}}、大本は[[亀山城 (丹波国)|亀山城]]を買収して綾部と並ぶ教団の本拠地「天恩郷」に改修、翌年8月に[[大正日日新聞]]を買収して言論活動に進出するなど活発な布教活動により教勢を伸ばした<ref>[[#新宗教創始者伝]]144頁、[[#予言・確言]]224-227頁</ref>。十九世紀末期から二十世紀初頭にかけて日本を含め世界的に[[心霊主義|スピリチュアリズム]]が活発となり、大本の発展も国際的な心霊主義の勃興と無縁ではない<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]120頁</ref>。王仁三郎は浅野と共に心霊主義的な[[古神道]]の実践を行い、大きな成功を得た<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]120.124.129頁</ref>。こうして知識人だけでなく軍人や貴族までもが次々に入信する<ref>[[#宗教の昭和史]]38.54頁、[[#日本の10大新宗教]]62頁</ref>。特に元[[海軍機関学校|海軍機関学校教官]]・浅野和三郎の布教により[[大日本帝国海軍]]は大本の影響を受けた<ref>[[#大本襲撃]]118頁</ref>。[[香取型戦艦|戦艦]]「[[香取 (戦艦)|香取]]」では軍隊布教が行われ、[[秋山真之]]少将も綾部を訪れて大本を研究している<ref>[[#予言・確言]]163頁、[[#女性教祖と救済思想]]277-278頁</ref>。[[華族]]では、[[昭憲皇太后]]の姪・[[鶴殿ちか子]]が入信して宣伝使(宣教師)となった<ref>[[#あるカリスマの生涯]]97頁</ref>。 |
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=== 第一次大本事件 === |
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日本政府は[[国家神道]]と食い違う神話解釈を行い、メディアを通じて信者数を拡大し、陸海軍や上流階級まで影響力を持つようになった大本に危機感を覚えた<ref>[[#宗教の昭和史]]38頁、[[#宗教ニッポン狂騒曲]]177頁</ref>。さらに浅野達が[[黙示録]]的な予言をメディアで全国に宣伝したため国内は騒然、当局の懸念はますます強くなった<ref>[[#神々の目覚め]]245頁、[[#霊界からの警告]]115-116頁</ref>。内務省が公式に警告を発し、王仁三郎も警察に呼び出されて注意を受けている<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]146頁、[[#大本襲撃]]125-126頁</ref>。[[原敬]]首相も{{和暦|1920}}10月の日記で大本への不快感を記した<ref>[[#あるカリスマの生涯]]102頁、[[#大本襲撃]]128-129頁</ref>。政府上層部だけでなく、多くの文化人・知識人・宗教界・既存メディアも大本を非難<ref>[[#あるカリスマの生涯]]99頁、[[#大本襲撃]]123-124頁</ref>。政府は元信者が大本を「皇室の尊厳を冒涜した」「王仁三郎は陰謀家だ」「日本神話に勝手な解釈を加えた」などと告発したのをきっかけに<ref>[[#加藤確治述]]pp.27-29、[[#あるカリスマの生涯]]107頁</ref>、{{和暦|1921}}2月12日に[[不敬罪]]・新聞紙法違反として弾圧を加えた([[大本事件#第一次大本事件|第一次大本事件]])。80名が検挙されたが、最終的に王仁三郎・浅野・吉田祐定(印刷出版責任者)が京都地裁に起訴された<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]147頁</ref>。開廷(9月16日)から判決(10月5日)まで25日という裁判で、王仁三郎に新聞紙法違反と不敬罪で懲役5年、浅野10ヶ月、吉田3ヶ月という判決が下った<ref>[[#新宗教創始者伝]]152頁、[[#予言・確言]]230頁</ref>。教団の施設破壊こそ行われたが、決定的な打撃とはならなかった<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]148頁</ref>。{{和暦|1925}}7月10日、[[大審院]]で前判決破棄の判決が下り、事実審理からやりなおす<ref>[[#スサノオと王仁三郎]]203頁</ref>。昭和2年5月17日、[[大正天皇]]崩御により控訴審は終結したが、内務省は大本を壊滅させる機会を伺っていた<ref>[[#新宗教創始者伝]]184頁、[[#大本襲撃]]24頁</ref>。 |
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保釈された王仁三郎は、自身の教義と体験の集大成として『[[霊界物語]]』の口述と出版を始めた<ref>[[#宗教の昭和史]]39頁、[[#日本の10大新宗教]]63頁</ref>。400字詰原稿用紙で約300枚の一巻を平均3日で製作した速度は超人的とされる<ref>[[#宗教の昭和史]]39頁、[[#あるカリスマの生涯]]131頁</ref>。1935年の弾圧事件まで81巻83冊が発刊された長編の『霊界物語』では神界・幽界及び現界を通じた創造神である主神(すしん)の教えが、様々な[[たとえ話]]を用いて説かれており、教団内では人類救済の福音としての意味があると位置づけている<ref>[[#予言・確言]]232頁</ref>。第一次大本事件の一因となった予言と終末論による暴走を押さえるべく、直の教義(大本神論)と信奉者を王仁三郎の権威で克服する計画という見解もある<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]149頁</ref>。浅野、谷口、[[友清天行]]をはじめ多くの幹部と信者が教団を去り<ref>[[#新宗教創始者伝]]156頁、[[#予言・確言]]236-238頁</ref>、王仁三郎は娘婿の[[出口日出麿]]と[[出口宇知麿]]を新たな幹部として重用していく<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]151頁</ref>。 |
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この他にも様々な活動を行った。[[日本コロンビア]]は大本の人気を見込んで王仁三郎のアルバムを9枚発売した<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]167頁</ref>。[[柳原白蓮]]([[大正天皇]]の従兄妹)が離婚スキャンダルに巻き込まれた際、王仁三郎は頼ってきた白蓮を綾部にかくまい、[[黒龍会]]の[[内田良平]]と対立している<ref>[[#あるカリスマの生涯]]119-120頁</ref>。{{和暦|1923}}には[[ローマ字]]を取り入れ<ref>[[#出口王仁三郎の示した未来へ]]330頁</ref>、また[[バハーイー教]]や[[ヴァスィリー・エロシェンコ]]との交流を機に国際語[[エスペラント]]の教団活動への導入を試みた<ref>[[#宗教の昭和史]]39.56頁、[[#日本の10大新宗教]]64頁</ref>。教団幹部の大国以都雄(大深浩三)は、{{和暦|1918}}に欧州から帰国した陸軍将校[[秦真次]]が王仁三郎に語ったのが導入のきっかけとしている<ref>[[#反体制エスペラント]]60頁</ref>。後の[[満州国]]建国に際して[[石原莞爾]]と連携し、大本がエスペラントを満州に広めるという計画もあったが実現しなかった<ref>[[#反体制エスペラント]]61-62頁</ref>。 |
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{{和暦|1883}}、時代の混乱期に13歳にして集落の小学校の代用教員として奉職するも、正式な小学校教員が赴任してきた為、2年あまりで辞め農業に戻る。{{和暦|1893}}(23歳)の頃から[[園部町|園部]]の牧場で働きながら牧畜の下積み生活をし、{{和暦|1896}}(26歳)で独立し穴太精乳館を開業。[[搾乳]]・[[牛乳]]販売業を始める。 |
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=== 大本の海外進出 === |
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{{和暦|1923}}9月の[[関東大震災]]では、中国新宗教団体「[[世界紅卍字会]]」(中国版赤十字)が来日して救援活動を行い、同時に王仁三郎と大本に接触した<ref>[[#あるカリスマの生涯]]146頁、[[#帝国時代のカリスマ]]227頁</ref>。同種性を感じた王仁三郎は、信者の日野強(退役陸軍大佐・探検家・作家)の影響も受け、大陸への関心を強めていた<ref>[[#あるカリスマの生涯]]148頁、[[#帝国時代のカリスマ]]218頁</ref>。{{和暦|1924}}2月13日、[[大本事件#第一次大本事件|第一次大本事件]]による責付出獄中に「神の国を建設して失業問題と食料問題を解決する」という構想により[[植芝盛平]]らを連れて日本を出奔し、関係者を仰天させる<ref>[[#宗教の昭和史]]40頁、[[#神々の目覚め]]247頁</ref>。腹心には「錦の土産」なる手記の中で、『東亜の天地を精神的に統一し、次に世界を統一する心算なり、事の成否は天の時なり、煩慮を要せず、王仁三十年の夢今や正に醒めんとす』という目的を明かした<ref>[[#新宗教創始者伝]]161頁、[[#帝国時代のカリスマ]]219頁</ref>。その一方、[[大日本帝国陸軍]]の支援があった可能性が高い<ref>[[#あるカリスマの生涯]]150頁</ref>。[[モンゴル]]地方に到着すると、[[盧占魁]](ろせんかい)という[[馬賊]]の頭領とともに活動する<ref>[[#神々の目覚め]]247頁</ref>。[[張作霖]]から内外蒙古の匪賊討伐委任状を貰い受けた上で「神軍」を率いると<ref>[[#あるカリスマの生涯]]152-153頁</ref>、[[ダライ・ラマ]]の分身と称し<ref>[[#霊界からの警告]]140頁</ref>、[[チンギス・ハーン]]になぞらえ[[エルサレム]]を目指して進軍した<ref>『霊界物語』特別篇、『王仁蒙古入記』</ref><ref>[[#帝国時代のカリスマ]]210頁</ref>。だが張は、王仁三郎達が全モンゴルの統一と独立を目指していることを知って怒り、討伐軍を派遣すると日本領事館に対応を求めた<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]222頁、[[#神々の目覚め]]248頁</ref>。6月20日、パインタラ(現在の[[通遼市]])にて王仁三郎一行と慮は捕虜となる<ref>[[#新宗教創始者伝]]163頁、[[#あるカリスマの生涯]]156-158頁</ref>。慮は処刑され、王仁三郎も銃殺されそうになり、覚悟を決め辞世の歌を詠む(パインタラの法難)<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]223頁、[[#金光と大本]]187頁</ref>。処刑直前に日本領事館(日本軍)の介入で解放され、植芝らと共に帰国することが出来た<ref>[[#王仁三郎入蒙事件]]p.13、[[#外報3(1)]]p.2</ref>。入蒙の目的が布教目的だったことは認められたが、治安を乱す恐れがあるとして3年間の在留禁止処分が下った<ref>[[#王仁三郎入蒙事件]]p.13、[[#帝国時代のカリスマ]]224頁</ref>。 |
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やがて、宗教や霊能に関心を持つようになり、{{和暦|1898}}[[3月1日]]、[[松岡芙蓉]](または「[[天狗]]」と名乗ったとも<ref name="reinousyaretuden"/>)と名乗る神使に伴われて、亀岡市内の[[霊山]]・[[高熊山]]に一週間の霊的修業をする(『[[霊界物語]]』第1巻、第37巻、『本教創世記』参照)。その年の10月に一度、大本の開祖・[[出口なお]]を京都府[[綾部市|綾部]]に訪ねている。翌年の7月に、なおの[[啓示|神示]]により招かれて再度綾部に行き教団を改善させ、後に戦前の巨大教団であった「大本」を形作る。 |
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{{和暦|1924}}7月下旬に[[下関]]に到着すると逮捕されるが、3ヶ月で釈放された<ref>[[#あるカリスマの生涯]]162頁、[[#新宗教創始者伝]]164頁</ref>。彼の冒険談は[[関東大震災]]後の鬱屈した人々に快哉をもって迎えられた<ref>[[#宗教の昭和史]]40頁、[[#霊界からの警告]]141頁、[[#帝国時代のカリスマ]]224頁</ref>。{{和暦|1929}}10月、澄と共に世界紅卍会の協力を得て朝鮮・満州の布教に努めた<ref>[[#宗教の昭和史]]57頁</ref>。抗日運動が激しさを増していたが、夫妻は熱烈な歓迎を受けたと伝えられる<ref>[[#あるカリスマの生涯]]173頁</ref>。国内での活動が制限される中、王仁三郎はアジアでの活動を重視して中国の軍閥や日本の右翼[[頭山満]]や[[内田良平]]と関係を結び、[[北京]]に「世界宗教連合会」を設立した<ref>[[#日本の10大新宗教]]65頁、[[#あるカリスマの生涯]]166頁</ref>。続いて「人類愛善会」を発起、これらの動きは第一大本事件と満蒙での失敗から、実際の権力ではなく思想・信仰における改革への方針転換とされる<ref>[[#あるカリスマの生涯]]166-167頁、[[#帝国時代のカリスマ]]240頁</ref>。また中国大陸だけでなく、教団内に「大本開栄社」を設立して、日本の[[委任統治領]]となった南洋諸島への布教を行った<ref>[[#あるカリスマの生涯]]176頁</ref>。宗教活動が制限された[[ソビエト連邦]]にも働きかけを行っている<ref>[[#布教関係雑件]]p.4</ref>。大本と王仁三郎は民族主義と世界宗教性の振れ幅が大きく<ref>[[#あるカリスマの生涯]]216頁</ref>、対応に苦慮した日本政府は警戒を強めていく<ref>[[#神々の目覚め]]249頁、[[#布教関係雑件]]pp.2-3</ref>。 |
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{{和暦|1900}}なおの末娘・[[出口澄]]と養子結婚し 入り婿となり、名前を自ら'''出口 王仁三郎'''に改める<ref>『[[霊界物語]]』第38巻、『本教創世記』</ref>。 |
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=== 第二次大本事件 === |
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{{和暦|1906}}(36歳)、「[[皇典講究所]]」(現:「[[國學院大學]]」)教育部本科2年に入学。翌年卒業し、[[建勲神社]]の主典となり短期間奉職する。その後、[[亀山城 (丹波国)|亀山城]]を買収して綾部と並ぶ教団の本拠地にし、[[大正日日新聞]]を買収して言論活動に進出するなど教勢を伸ばすが、{{和暦|1921}}、[[大本事件#第一次大本事件|第一次大本事件]]で検挙。同年より[[『霊界物語』]]の口述と出版を始める。 |
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1930年代初頭は[[満州事変]]が勃発して中国大陸への軍事進出が本格化、[[世界大恐慌]]による大不況、[[国際連盟]]の脱退、国内では[[五・一五事件]]や右翼団体の蜂起が相次いで発生するなど、不安定な時代だった<ref>[[#大本襲撃]]37-38頁</ref>。大本は{{和暦|1930}}3月8日-5月6日まで京都岡崎公園で開催された大宗教博覧会に参加、大成功を収める<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]176-187頁</ref>。さらに日本全国・沖縄朝鮮半島・台湾で作品展と講演会を行い、大本のイメージ向上に成功した<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]188-191頁</ref>。一方で、国民の愛国意識のたかまりを背景に大本の右翼化・愛国化を進める<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]256-257頁</ref>。{{和暦|1934}}7月22日、王仁三郎は[[九段会館]]において社会運動団体「[[昭和神聖会]]」を結成し、政治運動に乗り出していった<ref>[[#宗教の昭和史]]41頁、[[#日本の10大新宗教]]66頁</ref>。神聖会の発会式には[[後藤文雄]]内務大臣、文部大臣、農林大臣、衆議院議長、陸海軍高級将校、大学教授など政財界の指導者層が参加した<ref>[[#新宗教創始者伝]]182頁、[[#帝国時代のカリスマ]]265頁</ref>。この他、[[石原莞爾]]や[[板垣征四郎]]といった急進派の陸軍将校も王仁三郎の信奉者だった<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]260頁</ref>。王仁三郎は大本の指導を日出麿に委任すると、神聖会を指揮するため東京・[[四谷]]に移った<ref>[[#新宗教創始者伝]]183頁、[[#帝国時代のカリスマ]]266頁</ref>。国内外の問題について政府の対応を批判。さらに「尋仁」と称して軍服を着用、[[東京駅]]から[[皇居]]まで900人を従えて軍事訓練を行うなど、天皇制を模倣した行動を取る<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]268頁</ref>。彼は『わが道は 野火のもえたる 如くなり 風吹くたびにひろがりて行く』と詠った<ref>[[#宗教の昭和史]]41頁</ref>。国家権力を意図的に挑発するような王仁三郎の行動は現代でも解釈が難しく、真意は今もって不明である<ref>[[#金光と大本]]190頁、[[#予言・確言]]301.312頁、[[#大本襲撃]]311-312頁、[[#日本ばちかん巡り]]94頁</ref>。逮捕直前、大規模弾圧を予期したかのような指示を周囲に与えた<ref>[[#予言・確言]]254頁、[[#大本襲撃]]345頁</ref>。王仁三郎の肩書きは、大本教主輔、昭和神聖会統管、昭和青年会、昭和坤生会、更始会、明光会、人類愛善会、大日本武道宣揚会、エスペラント普及会、ローマ字普及会、それぞれの総裁であった<ref>[[#新宗教創始者伝]]188頁</ref>。 |
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81巻83冊にも及ぶ長編の『[[霊界物語]]』では神界・幽界及び現界を通じた創造神である主神(すしん)の教えが、様々な[[たとえ話]]を用いて説かれており、教団内では人類救済の福音としての意味があると位置づけている。{{和暦|1923}}には国際語[[エスペラント]]の教団活動への導入を試みる。 |
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{{和暦|1935}}1月に、昭和神聖会は皇族を主班とする皇族内閣の創設を天皇に直接請願する署名を集める<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]269頁</ref>。革命の気運に恐怖した日本政府は王仁三郎と母体である大本を[[治安維持法]]によって徹底排除することを意図した<ref>[[#新宗教創始者伝]]185頁、[[#帝国時代のカリスマ]]271頁</ref>。同年12月8日、政府は[[大本事件#第二次大本事件|第二次大本事件]]によって苛烈な攻撃を加えた<ref>[[#神々の目覚め]]250頁、[[#あるカリスマの生涯]]192頁</ref>。[[唐沢俊樹]]内務省警保局長は大本を地上から抹殺する方針である事を各方面に指令している<ref>[[#新宗教創始者伝]]193頁、[[#大本襲撃]]146頁</ref>。王仁三郎は[[松江市]]島根別院で拘束された<ref>[[#新宗教創始者伝]]192頁、[[#予言・確言]]257頁</ref>。夫妻以下幹部達は治安維持法違反と不敬罪で逮捕され、[[毎日新聞]]や[[朝日新聞]]などの大手マスコミも大本を「邪教」と断定する<ref>[[#宗教の昭和史]]42頁、[[#大本襲撃]]147頁</ref>。大本に好意的だった高級軍人や昭和神聖会も王仁三郎達を見捨てた<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]273頁</ref>。裁判前にも関わらず、政府は神殿を[[ダイナマイト]]で爆破し、地方の施設も全て破壊、財産も安価で処分した<ref>[[#金光と大本]]191頁、[[#帝国時代のカリスマ]]274頁</ref>。出版物も全て発行禁止処分となっている<ref>[[#出版警察報]]p.10</ref>。孤立無援の王仁三郎は「[[道教]]以来の逆賊」と糾弾されて[[特別高等警察]]により[[拷問]]めいた取調べを受けたが<ref>[[#予言・確言]]259-260頁、[[#あるカリスマの生涯]]198-199頁</ref>、裁判では悠然と反論し、時に裁判長を唸らせることもあった<ref>[[#宗教の昭和史]]42頁</ref>。また[[満州国]]指導者層は鈴木検事(大本事件担当)が「紅卍会と大本は極めて密接。満州国の大本教勢力は侮りがたい」と報告したように王仁三郎に同情的であり、支援の手をさしのべている<ref>[[#霊界からの警告]]260-261頁</ref>。だが王仁三郎の後継者と目された[[出口日出麿]]は拷問により廃人同然となり、起訴61名中16名が死亡した<ref>[[#新宗教創始者伝]]209頁、[[#予言・確言]]262.265.275頁、[[#大本襲撃]]184-185頁</ref>。{{和暦|1940}}2月29日の第一審は幹部全員が有罪で、王仁三郎は無期懲役という判決だった<ref>[[#宗教の昭和史]]59頁、[[#あるカリスマの生涯]]201頁</ref>。{{和暦|1942}}7月31日の第二審判決では重大な意味を持つ治安維持法違反について無罪となり、不敬罪で懲役5年(最高刑)、6年8ヶ月ぶりに71歳で[[保釈]]出所となった<ref>[[#宗教の昭和史]]42.59頁、[[#神々の目覚め]]253頁</ref>。不敬罪については大審院まで持ち込まれたが、{{和暦|1945}}10月17日、敗戦による大赦令で無効になった<ref>[[#予言・確言]]300頁、[[#大本襲撃]]237頁</ref>。{{和暦|1947}}10月に刑法が改正され、不敬罪は消滅した。 |
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=== 出国、そして帰国 === |
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{{和暦|1924}}2月、[[大本事件#第一次大本事件|第一次大本事件]]による[[責付出獄]]中に日本を脱出して、[[モンゴル]]地方へ行き[[盧占魁]](ろせんかい)という馬賊の頭領とともに活動する<ref>『霊界物語』特別篇、『王仁蒙古入記』</ref>が、同年6月パインタラ(現在の[[通遼市]])にて[[張作霖]]の策謀により落命寸前の危機となる(パインタラの法難)も、王仁三郎とともに活動した[[植芝盛平]]を始め、日本人6人は無事難を逃れ、翌月帰国する。 |
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保釈後、王仁三郎は弁護士に『大事な神の経綸なのじゃ。この大本は、今度の戦争にぜんぜん関係がなかったという証拠を神がお残し下さったのじゃ。戦争の時には戦争に協力し、平和の時には平和を説くというような矛盾した宗教団体では、世界平和の礎にはならん。しかし、日本が戦争している時に、日本の土地に生まれた者が戦争に強力せぬでは、国家も社会も承知せぬ。それでは世界恒久平和という神の目的がつぶれますから、戦争に協力できぬ処へお引き上げになったのが、今度の大本事件の一番多いな意義だ。これは大事なことだよ』(原文まま)と語っている<ref>[[#予言・確言]]314-315頁</ref>。戦後には、朝日新聞の記者に「日本の上層部はわれよしで、自分達が一番正しく、えらいと思うから戦争がおきた。諸外国もわれよしを改めぬ限り戦争は絶えない」と述べている<ref>[[#新宗教創始者伝]]245頁</ref>。 |
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以後、{{和暦|1934}}7月22日、[[九段会館]]において、社会運動の団体「[[昭和神聖会]]」を結成し賛同者は800万人を超えるなど、幅広く様々な活動を展開するが、{{和暦|1935}}[[大本事件#第二次大本事件|第二次大本事件]]により再び投獄された。 |
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しかし第二審判決では重大な意味を持つ治安維持法違反について無罪となった。不敬罪については大審院まで持ち込まれたが、{{和暦|1945}}10月17日には、敗戦による大赦令で無効になった。なお、{{和暦|1947}}10月に刑法が改正され、不敬罪は消滅した。 |
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{{和暦|1942}}に[[保釈]]出所し、{{和暦|1946}}2月、教団活動を「愛善苑」として新発足させている。 |
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=== 晩年 === |
=== 晩年 === |
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1942年8月7日に保釈されると、亀岡の農場に戻って家族と共に暮らした<ref name="reinousyaretuden"/><ref>[[#宗教の昭和史]]42.61頁、[[#神々の目覚め]]253頁</ref>。{{和暦|1944}}12月、京都府清水の[[窯元]]佐々木松楽の亀岡疎開を知って尋ね、陶芸をはじめた<ref>[[#新宗教創始者伝]]213頁、[[#予言・確言]]364頁</ref>。祝詞を唱えながら体調を損ねるほど没頭するなど、宗教的情熱に満ちた芸術活動だった<ref>[[#新宗教創始者伝]]214.230頁、[[#あるカリスマの生涯]]212頁</ref>。控訴審には「神界の方ではもう事件は済んだ」として関心を持たなかったという<ref>[[#大本襲撃]]238頁</ref>。相談する信者には、反戦平和と日本の敗戦を予言している<ref>[[#宗教の昭和史]]42頁、[[#帝国時代のカリスマ]]277頁</ref>。和歌では「天地に神あることをつゆ知らぬ 醜のしれもの世を乱すなり」「荒れ果てし神の御苑に停ずみて 偲ぶは神国の前途なりけり」と権力者達を批判した<ref>[[#宗教の昭和史]]47頁</ref>。敗戦後の{{和暦|1946}}2月、教団活動を「愛善宛」として新発足させた<ref>[[#宗教の昭和史]]42.61頁</ref>。教団経営や各地への巡教、返還された綾部・亀岡の再建に尽力したが、8月に脳出血で倒れた<ref>[[#新宗教創始者伝]]219頁、[[#あるカリスマの生涯]]218頁</ref>。以後健康を取り戻すことなく、{{和暦|1948}}[[1月19日]]午前7時55分に逝去した<ref>[[#新宗教創始者伝]]220頁、[[#予言・確言]]369頁、[[#大本襲撃]]250頁</ref>。{{没年齢2|1871|8|27|1948|1|19}}。綾部の天王平に歴代教主と共に埋葬されている。 |
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戦後は綾部において、[[陶器]]を作ったり、絵を描いたり[[芸術]]に没頭した<ref name="reinousyaretuden"/>。{{和暦|1948}}[[1月19日]]、その生涯を閉じた。{{没年齢2|1871|8|27|1948|1|19}}。綾部の天王平に埋葬されている。 |
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== |
== 評価 == |
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=== 宗教家として === |
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{{和暦|1949}}[[2月6日]]、[[陶芸家]]・[[金重陶陽]]を訪ねた[[日本美術工芸社]]主幹・[[加藤義一郎]]がその日見た王仁三郎の茶碗に感銘を受けて「耀琓(ようわん)」と名づけ、日本美術工芸誌三月号と八月号に発表した。それをきっかけに書画なども[[北大路魯山人]]ら斯界の第一人者から評価を受けることになる。 |
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出口王仁三郎は系譜的に[[古神道]]に属し、出口直が唱えた「艮の金神」を霊学・神道の知識で体系化<ref>[[#神々の目覚め]]頁</ref>。地方民間宗教にすぎなかった教団を国家規模の大宗教に育てたカリスマ的組織者である<ref>[[#宗教の昭和史]]43頁</ref>。メディアを活用した布教方法と、信仰と政治が結びついた活動方針は、[[創価学会]]などの新宗教にも影響を与えた<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]279-281頁</ref>。雑誌『別冊歴史読本』が1993年に出版した「日本史を変えた人物200人」の中で、近代宗教家の中で[[大谷光瑞]]と共に2人だけ選ばれているが、その大谷も王仁三郎を高く評価している<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]32頁</ref>。反面、意図的に言動や態度をはぐらかすことも多く、常識では計り知れない人物である<ref>[[#新宗教創始者伝]]224頁、[[#宗教の昭和史]]43頁、[[#日本の10大新宗教]]55頁</ref>。戦前の影響力は凄まじく、国会議員や陸海軍将校への影響力を危険視されて第二次大本事件を招いた<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]347頁</ref>。この事件における第二審裁判では、裁判長に対し『人虎孔裡に堕つ』(人間が虎の穴に落ちた時どうすべきか。逃げても、立ち向っても、じっとしていても、虎に食われ所詮助からぬ。しかし、一つだけ生きる道がある。食われるのではなく、こちらから食わせてやる。食われれば何も残らぬが、食わせれば愛と誇りが残る)という禅問答を残している<ref>[[#大本襲撃]]217-218頁、[[#あるカリスマの生涯]]203頁、[[#金光と大本]]194-196頁</ref>。宗教家・王仁三郎の力量と真髄を象徴する逸話とされる<ref>[[#神々の目覚め]]252-253頁</ref>。 |
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=== 芸術評価 === |
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王仁三郎は「芸術は宗教の母なり」として宗教・芸術一元論を提唱した<ref>[[#大本襲撃]]273頁、[[#帝国時代のカリスマ]]169頁</ref>。当人も絵画・陶芸・短歌に通じ「芸術の 趣味を悟らぬ人々は 地上天国夢にも来らず」と詠う<ref>[[#新宗教創始者伝]]246-247頁</ref>。さらに膨大な「霊界物語」を著すなど、多種多彩な才能を持っていた<ref>[[#宗教の昭和史]]43-44頁</ref>。{{和暦|1930}}に[[前田夕暮]]のサークルに入り、ついで[[アララギ]]・[[あけび]]など50余の短歌結社に参加して、月に1000首を詠んだ<ref>[[#あるカリスマの生涯]]210頁</ref>。60歳のとき受けた[[大宅壮一]]のインタビューにおいて、1日に2、3百首の[[短歌]]を詠み、これまで5-60万首詠んだと語ったという<ref name="reinousyaretuden"/>。歌風に型がなく玉石混合であったが、{{和暦|1931}}刊行の第一歌集『花明山』の序文で前田は「現代の[[スフィンクス]]」と評した<ref>[[#新宗教創始者伝]]179頁、[[#あるカリスマの生涯]]211頁</ref>。芸術家[[フレデリック・フランク]]は王仁三郎を『芸術家の原型』と評し、「生涯にわたり、自らの衝動と思考の一つ一つに、形相と形態と実体を与え続けずにはいられなかったのだ」と述べた<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]170頁</ref>。 |
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王仁三郎は第二次大本事件拘留中の構想を元に、1945年元旦から翌年3月にかけて、36回の窯・3000個の茶碗をつくった<ref>[[#新宗教創始者伝]]231頁、[[#予言・確言]]365頁</ref>。{{和暦|1949}}[[2月6日]]、[[陶芸家]]・[[金重陶陽]]を訪ねた[[日本美術工芸社]]主幹・[[加藤義一郎]]がその日見た王仁三郎の茶碗に感銘を受けて「耀琓(ようわん)」と名づけ、日本美術工芸誌三月号と八月号に発表した<ref>[[#あるカリスマの生涯]]213頁、[[#帝国時代のカリスマ]]173頁</ref>。それをきっかけに書画なども[[北大路魯山人]]ら斯界の第一人者から評価を受けることになる。 |
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== 思想 == |
== 思想 == |
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* 人は天地経綸の主体なり |
* 人は天地経綸の3主体なり |
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* 万教同根 |
* 万教同根 |
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* 芸術は宗教の母である(森羅万象が神の偉大な作品である故に、自然の美に心を動かされ宗教心が芽生える)<ref>[[#神の活哲学]]126-127頁</ref> |
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* 芸術は宗教の母である |
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* 一神即多神即汎神 |
* 一神即多神即汎神 |
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* 宗教の無くなる世の中がミロクの世である |
* 宗教の無くなる世の中がミロクの世である |
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* 言向け和わす |
* 言向け和わす |
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* 「[[霊界]]」で起きたことは現実でも起きる |
* 「[[霊界]]」で起きたことは現実でも起きる |
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* 大本教は世界の「型」である。大本に起きた事は、のちに日本や世界で実際に起きる<ref>[[#伯家神道の聖予言]]69頁、[[#大本襲撃]]99頁</ref> |
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== エピソード == |
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=== 逸話 === |
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* 長女で大本三代教主[[出口直日]]は、小学校入学時の父親職業欄に「世界改造業者」と記入した<ref>[[#予言・確言]]106頁</ref>。 |
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* 予備校講師の[[出口汪]]や光氏([[メキキの会]]会長)は曾孫にあたる。 |
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* 青年時代に「安閑坊喜楽」と号して冠句を残すなど、多芸多趣味であけ広げで気の置けない人柄であり、どんな時でもユーモアを忘れなかった<ref>[[#宗教の昭和史]]44頁、[[#あるカリスマの生涯]]123.128頁</ref>。第二次大本弾圧の裁判時、検察側の主張を煙にまいて法廷内に笑いが起きたほどである<ref>[[#宗教の昭和史]]45頁</ref>。反面、気が弱い一面もあり、大胆で豪放、繊細で緻密、気が強く情に脆いという複雑な性格といえる<ref>[[#あるカリスマの生涯]]124頁</ref>。親交を結んだ内田良平や頭山満は[[西郷隆盛]]を念頭に「丹波に鐘のような男がいる」と評した<ref>[[#あるカリスマの生涯]]129-130頁</ref>。 |
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* 出口直の三女・福島久は、母の啓示に従って京都府船井郡八木町に小さな茶店を出した<ref>[[#いり豆の花]]472頁、[[#予言・確言]]40頁</ref>。{{和暦|1898}}8月16日、王仁三郎(当時は上田喜三郎)は偶然この茶店に立ち寄り、久から直の「筆先」を見せられて綾部行きを決意した<ref>[[#いり豆の花]]475頁、[[#霊界からの警告]]80頁</ref>。 |
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* 出口家に婿入りしてから、王仁三郎と直は「火水の戦い」と呼ばれる対立を起こし、お互いに懸かる神を悪神と攻撃した<ref name="予言確言88">[[#予言・確言]]88-89頁</ref>。とうとう我慢できなくなった王仁三郎は「わしは養子だから裸で帰る。だが子供はつれて行く」と長女・直日を全裸の背中に括りつけて飛び出そうとした<ref name="予言確言88"/>。すると妻・澄が下半身を露出させて「先生、ここに未練はござへんかい」と諌め、王仁三郎は妻を[[アメノウズメ]]に例えて笑い冷静になった<ref name="予言確言88"/>。 |
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* 出口直は「大本では男子は育たぬ」と予言していた<ref name="いり豆花666">[[#いり豆の花]]666-667頁</ref>。王仁三郎は多くの予言を的中させたが、妻・澄の初妊娠がわかった際に王仁三郎は男子を希望し、直は啓示に従って女子と断言する<ref>[[#いり豆の花]]533頁、[[#大本襲撃]]106頁</ref>。誕生したのは長女・直日だった。{{和暦|1913}}8月29日に長男・六合大(くにひろ)が誕生するが、生後220日で急死した<ref name="いり豆花666"/>。王仁三郎は体を転がせて慟哭し、今度は女子として生まれ変わるよう遺骸に告げた<ref name="いり豆花666"/>。五女・尚江が産まれると、どこから見ても瓜二つと喜んでいる<ref>[[#いり豆の花]]682頁</ref>。 |
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* 出口直が[[自動書記]]によって残した「筆先」を偽作したという攻撃が執拗になされた。例えば、大本幹部で「霊界物語」の口述筆記に当たった[[谷口雅春]]は、原文と王仁三郎の文章を比較対比して予言の食い違いや啓示に疑問を感じ、後に脱退して[[生長の家]]を設立した<ref>[[#日本の10大新宗教]]71-72頁</ref>。これは「筆先」の中に「王仁三郎を使え」と命じる文があり、直は筆先の編集を王仁三郎に委託<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]88頁</ref>。彼は[[言霊]]を用いて筆先を大幅に修正した<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]88頁</ref>。それを『大本教神論』として機関誌「神霊界」公表したものである<ref>[[#あるカリスマの生涯]]82頁</ref>。教義上、直(変性男子/女体男霊)と王仁三郎(変性女子/男体女霊)は切り離せない存在であり、当人も解釈は当然と割り切っていた<ref>[[#宗教の昭和史]]47頁</ref>。また筆先の原文には神の支配と同時に君主権力の廃絶(天皇の退陣)を求める文面もあり、文章の整理と編集をしなければ戦前の日本で発行できなかったという側面もある<ref>[[#女性教祖と救済思想]]237-238.280頁、[[#大本襲撃]]112-113頁</ref>。 |
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* [[東条英機]]陸軍大将と[[築地]]の料亭で会い「軍部があまり強く出ては国をつぶす。軍部の考えは十年以上早すぎる」と告げたが、東条は宗教家に諭されたことで立腹しただけだった<ref>[[#予言・確言]]294頁</ref>。 |
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* [[大本事件#第二次大本事件|第二次大本事件]]の際に、「出口はどこだ」と押し入ってきた警官に対して、信者が「出口はこっちです」と部屋の『出口』に誘導した<ref>『宗教弾圧を語る』(岩波新書、1978年)p.9 徳重高嶺のインタビューから。<!--本当の話だと強調していた--></ref>。 |
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* 第二次大本事件直前の12月6日、[[二・二六事件]]の首謀者・[[北一輝]]は王仁三郎に会って[[クーデター]]の資金提供を求めた<ref>[[#予言・確言]]261頁</ref>。王仁三郎に一蹴された北は暗殺を示唆したが、12月8日に王仁三郎が松江で逮捕されて空振りに終わった<ref>[[#予言・確言]]261頁</ref>。後に王仁三郎は「警察に保護されたも同然。北一輝らはさぞ地団太踏んでいただろう」と語っている<ref>[[#予言・確言]]261頁</ref>。 |
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* 第二次大本事件裁判の第一審判決で無期懲役が言い渡された際、王仁三郎は傍聴席を向いて舌を出し関係者を驚かせている<ref>[[#あるカリスマの生涯]]201頁、[[#大本襲撃]]211頁</ref>。また裁判中に澄が[[憑依|神懸かり状態]]となって激昂した際には、「これこれ」と言って妻を宥めた<ref>[[#予言・確言]]281頁、[[#証拠調関係書類]]pp.67-68</ref>。 |
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* 敗戦後、[[林逸郎]]弁護士が大本事件における賠償請求を検討していたところ、「今度の事件は神さまの摂理」として賠償請求の権利を放棄した<ref>[[#神々の目覚め]]254-255頁、[[#あるカリスマの生涯]]217頁</ref>。そして「大きな御用のために東京に帰りなさい」と告げる<ref>[[#予言・確言]]299頁</ref>。林を待っていたのは[[東京裁判]]の弁護人という仕事であった<ref>[[#霊界からの警告]]287頁</ref>。 |
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* [[出口日出麿]]の友人に[[岡本天明]]がおり、大本機関誌「人類愛善新聞」の編集長を務めた<ref>[[#伯家神道の聖予言]]90頁</ref>。第二次大本事件に於いて岡本は逮捕を免れ、鳩守八幡神社の留守神主となる<ref>[[#伯家神道の聖予言]]91頁</ref>。太平洋戦争中、岡本は神示を受けて「[[日月神示]]」を著す。戦後、岡本は王仁三郎を訪問したが反応は芳しくなく、大本もこの神示を正統なものとは認めていない<ref>[[#伯家神道の聖予言]]93-94頁</ref>。 |
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* 自身を象徴する星は[[オリオン座]]と語り<ref>[[#予言・確言]]249頁</ref>、亀岡城の跡地に建てられた神殿「天恩郷」の月宮殿はオリオン座を地球にうつしたものだとされる<ref>[[#予言・確言]]254頁、[[#あるカリスマの生涯]]165頁</ref>。この星座に関する和歌も大量に詠んでいる<ref>[[#スサノオと王仁三郎]]162-169頁</ref>。 |
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* 大本は、出口直、王仁三郎、澄の関係を「扇」に喩え、直は骨・王仁三郎は紙・澄は要と定義した<ref>[[#大本襲撃]]289-290頁</ref>。 |
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=== 有栖川宮熾仁親王落胤説 === |
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出生に纏わる秘話に[[有栖川宮熾仁親王]]の御落胤説があり、広く噂されていた<ref>[[#霊界からの警告]]311頁</ref>。王仁三郎は暗号めいた和歌を大量に詠んだが<ref>[[#霊界からの警告]]312-314頁</ref>、直接的には否定も肯定もしていない<ref>[[#宗教の昭和史]]49頁</ref>。第二次大本事件における検察も、[[不敬罪]]に関わるこの問題について微妙な態度をとっている<ref>[[#霊界からの警告]]315-316頁</ref>。戦後では、孫の出口和明が主張している<ref>[[#いり豆の花]]515頁</ref>。王仁三郎が綾部入りした際[[お歯黒]]をつけ打裂羽織を着用していたのも、そのためだとしている<ref>[[#いり豆の花]]516頁、[[#霊界からの警告]]315頁</ref>。昭和3年7月頃の和歌や、昭和15年12月11日の第二次大本事件裁判でも示唆されているという<ref>[[#予言・確言]]374-375.377-380頁</ref>。大本に対する弾圧の背景には[[大正天皇]]の皇位継承を危うくしかねないこの有栖川御落胤説を封印する目的があったという説もある<ref name="reinousyaretuden"/>。出口和明は、明治天皇皇后[[昭憲皇太后]]の姪である[[鶴殿ちか子]]が大本に入信した理由について、王仁三郎と親王の血縁を確信したためと解釈した<ref>[[#予言・確言]]382頁</ref>。[[出口なお]]の明治31年九9月24日<ref>[[#霊界からの警告]]326頁</ref>、明治35年旧12月1日の筆先にも示唆する文面がある<ref>[[#予言・確言]]383頁</ref>。 |
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== 予言 == |
=== 予言 === |
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王仁三郎は鎮魂帰法を広めた霊能力者である。同時に[[言霊学]]の権威であり<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]82-84頁</ref>、[[言霊]]を利用して度々予言を行った<ref>[[#伯家神道の聖予言]]85-87頁</ref>。明治末期 - 大正初期の「いろは歌」「大本神歌」に[[アメリカ合衆国]]との総力戦([[太平洋戦争]])や[[B-29 (航空機)|B-29爆撃機]]による空襲を示唆する予言がある<ref>[[#予言・確言]]182-183頁、[[#あるカリスマの生涯]]74頁、[[#霊界からの警告]]144頁</ref>。{{和暦|1921}}の[[原敬]]首相暗殺、[[関東大震災]]も予言した<ref>[[#あるカリスマの生涯]]135-137頁、[[#霊界からの警告]]126-130頁</ref>。特に関東大震災は、直の筆先に「東京は焼け野が原になるぞよ」との文章があり、相乗して王仁三郎と大本への熱狂的支持に転化した<ref>[[#あるカリスマの生涯]]138頁、[[#霊界からの警告]]131頁</ref>。{{和暦|1931}}9月8日、「10日後に事件が起こり神界の経綸が実現の緒につく」と述べ9月15日に[[柳条湖事件]]が勃発、さらに「西暦1931=皇紀2591はイクサハジメ・ジゴクハジメ」と述べていたため、大きな反響を呼んだ<ref>[[#予言・確言]]190頁、[[#帝国時代のカリスマ]]254頁</ref>。王仁三郎は日本軍・右翼団体・中国宗教界と親交が深く、事前に情報を得ていた可能性がある<ref>[[#あるカリスマの生涯]]181頁、[[#霊界からの警告]]256-257頁</ref>。 |
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「[[関東大震災]]」、「[[大東亜戦争]]」とその敗戦などを予言したと言われている<ref name="reinousyaretuden"/>。 |
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王仁三郎は度々警察に拘留されたが、第一次大本事件や蒙古遭難事件では126日間拘束されている<ref>[[#予言・確言]]243頁</ref>。大正10年2月12日に拘束され、蒙古事件後の7月26日に収監されるまで1260日であり、このため大本事件を[[ヨハネの黙示録]]になぞらえる珍説もある<ref>[[#予言・確言]]241-242頁、[[#霊界からの警告]]305-306頁</ref>。ただし王仁三郎も[[霊界物語]]第36巻余白歌で「千二百六十日の間月汚す六百六十六匹のけもの」と詠い、別の著作でも[[獣の数字]]について言及した<ref>[[#スサノオと王仁三郎]]222-223頁。水鏡『六百六十六の獣』</ref>。1942年8月7日に仮釈放された際、「わたしが出た日から日本の負け始めや」と家族に語った<ref>[[#予言・確言]]333頁、[[#あるカリスマの生涯]]207-208頁</ref>。同日、米軍は[[ガダルカナル島]]に上陸、[[ガダルカナル島の戦い]]が始まる<ref>[[#スサノオと王仁三郎]]188頁</ref>。尋ねてくる者に様々な予言を行った<ref>[[#予言・確言]]290頁</ref>。早くから日本の敗戦を予言し「大本は日本の雛型、日本は世界の雛型。日本がやられて武装解除されれば、いずれ世界も武装解除される」と述べる<ref>[[#あるカリスマの生涯]]208頁</ref>。[[広島市への原爆投下]]やソ連軍の満州侵攻、[[千島列島]]や[[台湾]]の領土喪失も警告<ref>[[#霊界からの警告]]159-164頁</ref>、[[鈴木貫太郎]]総理大臣について「日本は鈴木野(すすきの)になる」「日本はなごうは鈴(つづ)木貫太郎(かんだろう)」と冗談にした<ref>[[#新宗教創始者伝]]210-212頁、[[#予言・確言]]293-296頁</ref>。予言が的中したことに感嘆する者も多かったが、弟子に「ワシは、神さんの予言が中らぬよう中らぬようと努めてきたのやが……」と嘆息している<ref>[[#新宗教創始者伝]]215頁</ref>。本当の火の雨はこれからとも語る<ref>[[#霊界からの警告]]189頁</ref>。大阪朝日新聞昭和20年12月30日号での談話では「大和民族は絶対に亡びない。ただ敗戦の苦しみは寅年の昭和25年まで続く」と述べた<ref>[[#金光と大本]]200-201頁、[[#あるカリスマの生涯]]216頁</ref>。また戦争に関するものだけでなく、[[携帯電話]]や[[リニアモーターカー]]など未来技術についても言及している<ref>[[#予言・確言]]359頁、[[#霊界からの警告]]192-200頁</ref>。予言は多くの人を惹きつけたが、同時に詐欺師や邪教という非難の要因ともなった<ref>[[#あるカリスマの生涯]]76頁</ref>。 |
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* {{和暦|1942}}に仮釈放された際、「わたしが出た日から日本の負け始めや」と声高に叫んだという<ref name="reinousyaretuden"/>。 |
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* {{和暦|1944}}、「広島は最後にひどい目に遭う。広島在住の者は[[疎開]]しなさい」と警告したという<ref name="reinousyaretuden"/>。 |
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== 著 |
== 著書 == |
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主な著書に『[[霊界物語]]』(全81巻83冊)、『道の栞』、『[[霊の礎]]』、『本教創世記』、『出口王仁三郎全集』、『[[道の大本]]』など多数があり、歌集としては、『花明山』、『彗星』、『故山の夢』、『東の光』、『霧の海』、『愛善の道』などがある。また、日記的な著作物として『東北日記』、『ふたな日記』、『壬申日記』、『日月日記』などもある。 |
主な著書に『[[霊界物語]]』(全81巻83冊)、『道の栞』、『[[霊の礎]]』、『本教創世記』、『出口王仁三郎全集』、『[[道の大本]]』など多数があり、歌集としては、『花明山』、『彗星』、『故山の夢』、『東の光』、『霧の海』、『愛善の道』などがある。また、日記的な著作物として『東北日記』、『ふたな日記』、『壬申日記』、『日月日記』などもある。 |
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;没後 |
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== エピソード == |
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*霊界物語 全81巻 大本教典刊行会 1967-1971 |
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* [[大本事件#第二次大本事件|第二次大本事件]]の際に、「出口はどこだ」と押し入ってきた警官に対して、信者が「出口はこっちです」と部屋の『出口』に誘導した<ref>『宗教弾圧を語る』(岩波新書、1978年)p.9 徳重高嶺のインタビューから。<!--本当の話だと強調していた--></ref>。 |
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*耀碗 出口王仁三郎楽茶碗名品 講談社 1971 |
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* 予備校講師の[[出口汪]]や光氏([[メキキの会]]会長)は曾孫にあたる。 |
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*'''出口王仁三郎著作集''' 全6巻 読売新聞社 1972 |
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* 後年にいわれた出生に纏わる秘話に[[有栖川宮熾仁親王]]の御落胤説があり、大本に対する弾圧の背景には[[大正天皇]]の皇位継承問題を危うくしかねないこの有栖川御落胤説を封印する目的があったという説もある<ref name="reinousyaretuden"/>。 |
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* 60歳のとき受けた[[大宅壮一]]のインタビューにおいて、1日に2、3百首の[[短歌]]を詠み、これまで5、60万首詠んだと語ったという<ref name="reinousyaretuden"/>。 |
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== 国会図書館所蔵の発禁本 == |
=== 国会図書館所蔵の発禁本 === |
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以下は[[内務省 (日本)|内務省]][[警保局]]図書課に[[検閲]]のために納本したものが[[発禁|発売頒布禁止処分]]となって保管されていたもの、および、警保局が大本研究用に集めていたものが戦後にGHQに押収され、さらに国会図書館に送られたものである。内務省の検閲や研究の痕跡が残っているものを含んでいる。なお、大本関係の著書は大本を擁護したものも含めてほとんどが[[発禁]]となっており、その全体像は未だに解明されていない。またこれらは戦後には再版・復刻などがなされている。 |
以下は[[内務省 (日本)|内務省]][[警保局]]図書課に[[検閲]]のために納本したものが[[発禁|発売頒布禁止処分]]となって保管されていたもの、および、警保局が大本研究用に集めていたものが戦後にGHQに押収され、さらに国会図書館に送られたものである。内務省の検閲や研究の痕跡が残っているものを含んでいる。なお、大本関係の著書は大本を擁護したものも含めてほとんどが[[発禁]]となっており、その全体像は未だに解明されていない。またこれらは戦後には再版・復刻などがなされている。 |
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==著書== |
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*大本教開祖御伝記 大日本修斎会本部 1913 |
*大本教開祖御伝記 大日本修斎会本部 1913 |
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*皇道我観 第一天声社 1920 |
*皇道我観 第一天声社 1920 |
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*惟神の道 天声社 {{和暦|1935}}12月 |
*惟神の道 天声社 {{和暦|1935}}12月 |
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*玉鏡 加藤明子編 天声社 {{和暦|1935}}3月 |
*玉鏡 加藤明子編 天声社 {{和暦|1935}}3月 |
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;没後 |
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*霊界物語 全81巻 大本教典刊行会 1967-1971 |
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*耀碗 出口王仁三郎楽茶碗名品 講談社 1971 |
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*'''出口王仁三郎著作集''' 全6巻 読売新聞社 1972 |
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== 年譜 == |
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* {{和暦|1871}}8月 - 京都府亀岡市で上田喜三郎として誕生。 |
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* [[伊藤栄蔵]]著 『大本教祖伝 出口なお・出口王仁三郎の生涯』 ISBN 9784887560765 |
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* {{和暦|1896}} - 穴太精乳館・上田牧牛場を開業。 |
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* {{和暦|1898}} |
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** 4月 - 静岡県稲荷講社に長沢雄楯を尋ね、霊学と鎮魂帰神法を学ぶ。 |
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** 10月 - 京都府綾部の出口直を尋ねる。初対面は不調に終わる。 |
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* {{和暦|1899}} |
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**7月 - 再び綾部を訪れ、出口直に憑依した「艮の金神」の審神を行う。 |
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**8月 - 金明霊学会を組織する。大本の原型。 |
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* {{和暦|1900}}1月 - 出口直の五女・出口澄と結婚。養子婿となり出口王仁三郎と改名。 |
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* {{和暦|1902}} - 大阪天王寺に一万坪の大阪本部設置計画を建てるも、幹部の妨害で頓挫。 |
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* {{和暦|1906}}9月 - 教団を離れ、皇典講究所教育部本科2年生に入学。 |
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* {{和暦|1907}} |
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** 3月 - 建勲神社の主典となる。 |
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** 12月 - 伏見稲荷山御嶽教西部教庁主事に就任。 |
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* {{和暦|1908}} |
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** 3月 - 御嶽教大阪大教会長に抜擢。 |
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** 8月 - 金明霊学会を大日本修斎会に改名。 |
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** 12月 - 御嶽教を辞職。 |
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* {{和暦|1916}} |
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** 4月 - 金明霊学会を皇道大本に改名。 |
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** 12月 - 浅野和三郎が入信。 |
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* {{和暦|1918}}11月 - 開祖・出口直が逝去。大本二代教主輔となる。 |
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* {{和暦|1921}} |
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** 2月 - 第一次大本事件。不敬罪、新聞紙法違反で逮捕・検挙される。 |
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** 10月 - 京都地方裁判所で懲役5年判決。控訴する。 |
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* {{和暦|1924}} |
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** 2月 - モンゴルに出国。馬賊と共にモンゴル独立を目指して活動する。 |
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** 6月 - 張作霖により処刑されかけるが、日本領事館の介入で救出される。 |
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** 7月 - 日本に帰国。京都府拘置所に移送される。 |
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** 10月 - 釈放される。 |
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* {{和暦|1928}}3月3日 - 56歳7ヶ月で「みろく大祭」を実施。 |
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* {{和暦|1929}}10月 - 朝鮮・満州を布教旅行する。 |
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* {{和暦|1934}}7月 - 昭和神聖会を結成。総帥となる。 |
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* {{和暦|1935}}12月8日 - 第二次大本事件。治安維持法違反等で逮捕され、徹底弾圧を受ける。 |
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* {{和暦|1940}}2月 - 京都地方裁判所にて無期懲役判決。 |
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* {{和暦|1942}} |
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** 7月31日 - 第二審で不敬罪により懲役5年判決。治安維持法違反は無罪。 |
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** 8月7日 - 保釈される。京都府亀岡の長女宅に戻る。 |
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* {{和暦|1945}} |
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** 9月 - 不敬罪の控訴審棄却される。 |
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** 10月 - 敗戦による大赦令により不敬罪消滅。 |
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* {{和暦|1948}}1月19日 - 死去。 |
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== 文献 == |
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=== 主要文献 === |
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* [[出口京太郎]]著 『巨人出口王仁三郎』 ISBN 4887560451 |
* [[出口京太郎]]著 『巨人出口王仁三郎』 ISBN 4887560451 |
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* [[上田正昭]]監修 『みろくの世 ―出口王仁三郎の世界―』 ISBN 4887560680 |
* [[上田正昭]]監修 『みろくの世 ―出口王仁三郎の世界―』 ISBN 4887560680 |
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* [[出口和明]]著 『大地の母』 |
* [[出口和明]]著 『大地の母』 |
||
*{{Cite book|和書|author=[[出口和明]]|year=1979|month=9|title=出口なお 王仁三郎の予言・確言|publisher=[[光書房]]|isbn=|ref=}} |
|||
* [[前坂俊之]]著『ニッポン[[奇人]]伝』 [[社会思想社]] 1996年(ISBN 9784390115827) |
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**{{Cite book|和書|author=[[出口和明]]|year=2005|month=3|title=出口なお 王仁三郎の予言・確言|publisher=[[みいづ舎]]|isbn=4-900441-72-4|ref=予言・確言}} 光書房版を復刻。 |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[伊藤栄蔵]]|year=1984|month=4|title=出口なお・出口王仁三郎の生涯 {{small|新宗教創始者伝・大本}}|publisher=[[講談社]]|isbn=4-06-201171-9|ref=新宗教創始者伝}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[十和田龍]]|year=1986|month=12|title={{small|出口王仁三郎の}}神の活哲学 {{small|血肉となって魂を活かし人生に光}}|publisher=[[御茶の水書房]]|isbn=4-275-00721-2|ref=神の活哲学}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[長谷邦夫]]|year=1992|month=1|title={{small|コミック 世紀の巨人}} 出口王仁三郎 {{small|“軍国日本”を震撼させた土俗の超能力者}}|publisher=[[ダイヤモンド社]]|isbn=4-478-30040-2|ref=}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[武田崇元]]|year=1993|month=2|title={{small|出口王仁三郎の}}霊界からの警告 {{small|発禁「予言書」に示された、破局と再生の大真相}}|publisher=[[光文社|光文社文庫]]|isbn=4-334-71661-x|ref=霊界からの警告}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[出口和明]]|year=1995|month=9|title=スサノオと出口王仁三郎|publisher=[[八幡書店]]|isbn=4-89350-181-x|ref=スサノオと王仁三郎}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[百瀬明治]]|year=1995|month=10|title=出口王仁三郎 {{small|あるカリスマの生涯}}|publisher=PHP文庫|isbn=4-569-56810-6|ref=あるカリスマの生涯}} |
|||
**{{Cite book|和書|author=[[百瀬明治]]|year=2001|month=5|title={{small|大本教大成者}} 巨人出口王仁三郎の生涯|publisher=[[勁文社]]|isbn=4-7669-3762-7|ref=}} PHP文庫版を再録。 |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[出口京太郎]]編著|year=2002|month=8|title=出口王仁三郎の示した未来へ|publisher=[[天声社]]|isbn=4-888756-053-2|ref=出口王仁三郎の示した未来へ}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[早瀬圭一]]|year=2007|month=5|title=大本襲撃 {{small|出口すみとその時代}}|publisher=毎日新聞社|isbn=978-4-620-31814-1|ref=大本襲撃}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[ナンシー・K・ストーカー]]著|coauthors=[[井上順孝]]監修、[[岩坂彰]]翻訳|year=2009|month=6|title=出口王仁三郎 {{small|帝国の時代のカリスマ}}|publisher=[[原書房]]|isbn=978-4-562-04292-0|ref=帝国時代のカリスマ}} |
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=== 参考文献 === |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[村上重良]]|year=1985|month=11|title=宗教の昭和史|publisher=[[三嶺社]]|isbn=4-914906-35-X|ref=宗教の昭和史}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[丸山照雄]]|year=1986|month=7|title=現代人の宗教3 金光と大本 {{small|教典その心と読み方}}|publisher=[[御茶の水書房]]|isbn=4-275-00686-0|ref=金光と大本}} |
|||
**[[出口栄二]]『お筆先と霊界物語 {{small|その心と読み方}}』 |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[大島義夫]]・[[宮本正男]]|year=1987|month=7|title=反体制エスペラント運動史|publisher=[[三省堂]]|isbn=4-385-35310-7|ref=反体制エスペラント}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[吉田司]]|year=1990|month=9|title=宗教ニッポン狂騒曲|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=4-16-344650-8|ref=宗教ニッポン狂騒曲}} |
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* [[田々宮英太郎]] 『検索![[二・二六事件]] - 現代史の虚実に挑む』 [[雄山閣出版]] 1993年「[[北一輝]]と出口王仁三郎 – 隠された巨頭会談」 |
* [[田々宮英太郎]] 『検索![[二・二六事件]] - 現代史の虚実に挑む』 [[雄山閣出版]] 1993年「[[北一輝]]と出口王仁三郎 – 隠された巨頭会談」 |
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*{{Cite book|和書|author=[[丸山照雄]]|year=1995|month=6|title=日本人にとって宗教とは何か|publisher=[[藤原書店]]|isbn=4-89434-018-6|ref=日本人にとって宗教とは何か}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[出口和明]]|year=1995|month=7|title=いり豆の花 {{small|大本開祖出口なおの生涯}}|publisher=[[八幡書店]]|isbn=4-89350-180-1|ref=いり豆の花}} |
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* [[前坂俊之]]著『ニッポン[[奇人]]伝』 [[社会思想社]] 1996年(ISBN 9784390115827) |
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*{{Cite book|和書|author=[[羽仁礼]]|year=1996|month=3|title=伯家神道の聖予言 {{small|宮中祭祀を司った名家に伝わる秘録が今明らかになる!}}|publisher=[[たま出版]]|isbn=4-88481-447-9|ref=伯家神道の聖予言}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[小滝透]]|year=1997|month=7|title=神々の目覚め {{small|近代日本の宗教革命}}|publisher=春秋社|isbn=4-393-29124-7|ref=神々の目覚め}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[山口文憲]]|year=2002|month=2|title=日本ばちかん巡り|publisher=[[新潮社]]|isbn=4-10-451601-5|ref=日本ばちかん巡り}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[島田祐巳]]|year=2007|month=11|title=日本の10大新宗教|publisher=幻冬舎新書|isbn=978-4-344-98060-0|ref=日本の10大新宗教}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[安丸良夫]]|year=2009|month=5|title=出口なお {{small|女性教祖と救済思想}}|publisher=[[洋泉社]]MC新書|isbn=978-4-86248-377-5|ref=女性教祖と救済思想}} |
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* [http://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)] |
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== 関連項目 == |
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2012年3月3日 (土) 17:18時点における版
でぐち おにさぶろう 出口 王仁三郎 | |
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1940年撮影 | |
生誕 |
上田 喜三郎 1871年8月27日 京都府亀岡市 |
死没 | 1948年1月19日満76歳没 |
団体 | 昭和神聖会 |
肩書き | 大本二代教主輔/聖師 |
宗教 | 大本 |
配偶者 | 出口澄 |
子供 |
長女・出口直日(三代教主) 娘婿・出口日出麿 |
親 | 義母・出口なお(大本開祖) |
出口 王仁三郎(でぐち おにさぶろう、1871年8月27日(明治4年7月12日) - 1948年(昭和23年)1月19日)は、新宗教「大本」の二代教主輔。事実上の教祖。
概要
出口王仁三郎は、大本において聖師と呼ばれる[1]。強烈な個性と魅力とカリスマを持ち、メディアを含め様々な手法を駆使して昭和前期の大本を日本有数の宗教団体に発展させた[2]。その一方で実像をとらえることが難しく、奔放な言動により敵対者から多くの非難を浴びる[3]。国家神道の権威と相容れない教義を展開したため、大本は危険勢力として大日本帝国政府の徹底的な弾圧を受け大東亜戦争直前に壊滅、王仁三郎も7年近く拘束された[4]。太平洋戦争終結後は教団の再建に尽力するも、まもなく病により死去した。彼の思想と布教方法は戦後の新興宗教に大きな影響を与えた[5]。
王仁三郎の読み方について、「わにさぶろう」とされることがあるが「おにさぶろう」が正しい。大本の開祖である出口なおのお筆先(自動書記)で、元の名前である「喜三郎(きさぶろう)」を「おにさぶろう(鬼三郎)」と書かれたことに対し、「鬼」の字を嫌って「王仁」の字を当てたことに由来する[6]。ただし「わに」を使用した例もあり[7]、百済から日本に漢字と儒教を伝えた学者王仁(わに)との関連を指摘する研究者もいる[8]。またマスコミが挿絵中でワニの姿で表現した事例もあった[9]。
生涯
幼少
出口王仁三郎の前半生は自伝や大本の伝記によるところが大きく、空海や役行者のような聖人伝説の影響が見られる[10]。一般には1871年(明治4年)明治4年8月27日(旧暦7月12日)、現在の京都府亀岡市穴太(あなお)に、農業を営む上田家五男三女の長男上田 喜三郎(うえだ きさぶろう)として生まれた[11]。これより改名するまで『喜三郎』と表記する。祖母・上田宇能は、『日本言霊学』で有名だった中村孝道の妹にあたり、伝承や言霊学、迷信を始めとした知恵を持っていた[12]。喜三郎は幼少時は登校さえ出来なかった虚弱体質児であったため、家で祖母にあれこれと教わり、同年代の子供より老人達と交わることを好んだ[13]。また、近所ではその聡明さから「八つ耳」(直感力や理解力に優れた人間の意)、神童と言われていた[14]。少年時代、明智光秀が築いた亀山城に登って天下に勇躍することを願ったという[15]。
1883年(明治16年)、13歳の時に通学する小学校教師と喧嘩沙汰となり退学、校長に見込まれ、その教師の代用教員として採用される[16]。2年後、正式な小学校教員が赴任してきた為に辞職(僧侶出身の教員と神道について口論になったとも[17])、農業をはじめ様々な職種を体験する[18]。豪農の家に奉公したことで、小作人や小農の格差を自覚したという[19]。1893年(明治26年)(23歳)の頃から園部の牧場で働きながら獣医を目指すが不合格となり、京都府巡査試験に合格するも拒否[20]。明治時代の若者として立身出世を目指す喜三郎は、マンガン鉱の探鉱やラムネ製造など幾つかの事業を始めるが失敗した[21]。結局1896年(明治29年)(26歳)で独立し「穴太精乳館 上田牧牛場」を開業[22]。搾乳・牛乳販売業を始めて成功を収めた[23]。当時、園部の南陽寺に滞在していた岡田惟平から古事記・日本書紀の国学的解釈と和歌を学んでいるが、喜三郎と宗教との接点は少なかった[24]。24歳の時、歯痛を癒やしてくれた妙霊教(兵庫県の山岳信仰)に入信するが、やがて嫌気がさしてしまった[25]。
出口なおとの出会い
多芸多趣味の喜三郎は義侠心を持った賑やかな人物であり、侠客の親分から養子の申し込みがあるほど亀岡で人気を博した[26]。だが喧嘩で負傷した事、父の死、祖母の訓戒が重なり、宗教家への道を歩み出す[27]。1898年(明治31年)3月1日、松岡芙蓉(または「天狗」と名乗ったとも[14][28])と名乗る神使に伴われて、亀岡市内の霊山高熊山に一週間の霊的修業をする[29][30]。続いて精乳館を弟に譲り、静岡県清水の稲荷講社で長沢雄楯に師事して霊学の修行を行ったのち、鎮魂帰神法と審神学を伝授される[31]。これによって伯家神道と言霊学の知識を得た[32]。長沢は喜三郎にかかった神を小松林命(素戔嗚尊の顕現または分霊)と審神した[33]。自信をつけた喜三郎は稲荷講社に繋がる「霊学会」を設立・会長となり、亀岡の北西に位置する園部で布教をおこなった[34]。
1898年(明治31年)10月8日、喜三郎は大本の開祖・出口直(なお)(以下、『直』と漢字表記)を京都府綾部に訪ねる[35]。極貧生活を送る無名の老婆だった直は祟り神と恐れられた『艮の金神』の神懸かりを起こし[36]、日清戦争の予言や病気治療で「綾部の金神さん」という評判を得ていた[37]。暫定的に金光教の傘下で活動していたが徐々に方針の違いが明らかになり、独立を希望すると共に自らに懸かった神の正体を審神する者を待っていたのである[38]。最初の対面では、直が稲荷講社所属の喜三郎に不信感を持ち、また金光教由来の信者達も彼を敵視したため、物別れに終わった[39]。喜三郎は「瑞穂道会」を設立して宣教しつつ、時期を待っていた[40]。1899年(明治32年)7月、直は神示によって喜三郎こそ待ち人と悟り、再び綾部に招く[41]。喜三郎は直に憑依した「艮の金神」を「国武彦命」(後に日本神話の創造神国常立尊と判明[42])と審神し、綾部に移住した[43]。二人の関係は、神秘的な女性と組織的男性がコンビを組んで指導を行うアジア的なシャーマニズムの型とされる[44]。彼女の教会(金明会)と自身が率いた霊学会の融合を計って「金明霊学会」を設立、組織づくりを行った[45]。現在の大本の「十曜神紋」も綾部藩主九鬼家の九曜紋家紋を引用してこの時に定められた[46]。
大本の成長
1900年(明治33年)1月31日、29歳の喜三郎は出口澄(出口直の五女)と養子結婚して入り婿となり、名前を出口 王仁三郎に改める[47][48]。以下『王仁三郎』と表記する。ただし入籍の手続きが煩雑となり、正式な養子縁組は1910年(明治43年)12月、婚姻届提出は翌年1月である[49]。二人は六女二男をもうけたが、男子は早世した[50]。当時、教団は筆先による終末論と王仁三郎が持ち込んだ鎮魂帰神法により、天理教や金光教とも違う独自の教派へ発展しようとしていた[51]。その一方、公認宗教の傘下に入って布教を合法化しようとする王仁三郎と、原理主義に陥っていた旧幹部は激しく対立する[52]。大本では直を「女子の肉体に男子の霊が宿った変性男子」、王仁三郎を「男子の肉体に女子の霊が宿った変性女子」と定義し、直には天照大神・王仁三郎にはスサノオが宿って「火水の戦い」という宗教的な論争を展開した[53]。さらに幹部達の主導権争いも王仁三郎を苦しめた[54]。夜討ちをかけられたり、監禁されて原稿を燃やされるなど、忍耐を強いられている[55]。同時期、日露戦争が日本の勝利に終わる。「日本は完敗し世直しが始まる」という立替熱が冷めたことで離脱する信者が急増し、教団は衰退の一途を辿った[56]。
1906年(明治39年)9月、王仁三郎は妻子を残して教団を離れ、教団合法化の道を探るべく遊学する[57]。「皇典講究所」(現:「國學院大學」)教育部本科2年に入学[58]。翌年3月卒業して建勲神社の主典となるが半年で退職[59]。12月には伏見稲荷山御嶽教西部教庁主事、1908年(明治41年)3月同教大阪大教会長に抜擢、生玉御嶽大教会詰として奉職する[60]。さらに大成会と交流して教派神道に接近。御嶽教西部本庁に勤務しながら、困窮していた教団の活性化に手腕を尽くす[61]。教団合法化の布石として6月8日に大成教直轄直霊教会を、6月21日に御嶽教大本教会を設立、8月1日に金明霊学会を「大日本修斎会」に改めた[62]。12月末に御嶽教を辞職して綾部の教団発展に専念する[63]。そして「神道の研究」を団体の目的とし、内務省に管理された公認教派神道に不満を持つ人々の人気を得た[64]。1911年(明治44年)6月、幹部を引き連れて出雲大社を参詣し、大社教霊社の分社となることで天照大神(天皇)に対抗する宗教的権威を得て日本宗教界の注目を集めた[65]。1916年(大正5年)4月、大日本修斎会は「皇道大本」と改称する[66]。10月、直は王仁三郎こそ「みろく神」という筆先を得て優位性を認め、これによって筆先を加筆・編集して「大本神論」として発表することが可能になった[67]。直の土着性と王仁三郎の普遍性が上手くかみあったことで、大本は世界宗教への萌芽を持つに至る[68]。12月、直と王仁三郎に心酔した英文学者浅野和三郎が入信して機関誌「神霊会」の主筆兼編集長になる[69]。
1918年(大正7年)11月7日、開祖・出口直が83歳で死去し、末子の出口澄が二代教主・夫の王仁三郎が教主輔(「補」ではなく特別に「輔」を用いる[70])となる[71]。折りしも浅野和三郎(筆頭幹部)や谷口雅春らが「大正十年立替説」(明治五十五年の世の立替)という終末論を大正日新聞や機関誌「神霊会」を通じて宣伝[72]、大本は信徒30万人という爆発的な発展を見せるに至る[73]。王仁三郎は肯定も否定もせず、行き過ぎに警告を出している[74]。既に王仁三郎と急進的な浅野達の間で派閥争いが生じていた[75]。
1919年(大正8年)、大本は亀山城を買収して綾部と並ぶ教団の本拠地「天恩郷」に改修、翌年8月に大正日日新聞を買収して言論活動に進出するなど活発な布教活動により教勢を伸ばした[76]。十九世紀末期から二十世紀初頭にかけて日本を含め世界的にスピリチュアリズムが活発となり、大本の発展も国際的な心霊主義の勃興と無縁ではない[77]。王仁三郎は浅野と共に心霊主義的な古神道の実践を行い、大きな成功を得た[78]。こうして知識人だけでなく軍人や貴族までもが次々に入信する[79]。特に元海軍機関学校教官・浅野和三郎の布教により大日本帝国海軍は大本の影響を受けた[80]。戦艦「香取」では軍隊布教が行われ、秋山真之少将も綾部を訪れて大本を研究している[81]。華族では、昭憲皇太后の姪・鶴殿ちか子が入信して宣伝使(宣教師)となった[82]。
第一次大本事件
日本政府は国家神道と食い違う神話解釈を行い、メディアを通じて信者数を拡大し、陸海軍や上流階級まで影響力を持つようになった大本に危機感を覚えた[83]。さらに浅野達が黙示録的な予言をメディアで全国に宣伝したため国内は騒然、当局の懸念はますます強くなった[84]。内務省が公式に警告を発し、王仁三郎も警察に呼び出されて注意を受けている[85]。原敬首相も1920年(大正9年)10月の日記で大本への不快感を記した[86]。政府上層部だけでなく、多くの文化人・知識人・宗教界・既存メディアも大本を非難[87]。政府は元信者が大本を「皇室の尊厳を冒涜した」「王仁三郎は陰謀家だ」「日本神話に勝手な解釈を加えた」などと告発したのをきっかけに[88]、1921年(大正10年)2月12日に不敬罪・新聞紙法違反として弾圧を加えた(第一次大本事件)。80名が検挙されたが、最終的に王仁三郎・浅野・吉田祐定(印刷出版責任者)が京都地裁に起訴された[89]。開廷(9月16日)から判決(10月5日)まで25日という裁判で、王仁三郎に新聞紙法違反と不敬罪で懲役5年、浅野10ヶ月、吉田3ヶ月という判決が下った[90]。教団の施設破壊こそ行われたが、決定的な打撃とはならなかった[91]。1925年(大正14年)7月10日、大審院で前判決破棄の判決が下り、事実審理からやりなおす[92]。昭和2年5月17日、大正天皇崩御により控訴審は終結したが、内務省は大本を壊滅させる機会を伺っていた[93]。
保釈された王仁三郎は、自身の教義と体験の集大成として『霊界物語』の口述と出版を始めた[94]。400字詰原稿用紙で約300枚の一巻を平均3日で製作した速度は超人的とされる[95]。1935年の弾圧事件まで81巻83冊が発刊された長編の『霊界物語』では神界・幽界及び現界を通じた創造神である主神(すしん)の教えが、様々なたとえ話を用いて説かれており、教団内では人類救済の福音としての意味があると位置づけている[96]。第一次大本事件の一因となった予言と終末論による暴走を押さえるべく、直の教義(大本神論)と信奉者を王仁三郎の権威で克服する計画という見解もある[97]。浅野、谷口、友清天行をはじめ多くの幹部と信者が教団を去り[98]、王仁三郎は娘婿の出口日出麿と出口宇知麿を新たな幹部として重用していく[99]。
この他にも様々な活動を行った。日本コロンビアは大本の人気を見込んで王仁三郎のアルバムを9枚発売した[100]。柳原白蓮(大正天皇の従兄妹)が離婚スキャンダルに巻き込まれた際、王仁三郎は頼ってきた白蓮を綾部にかくまい、黒龍会の内田良平と対立している[101]。1923年(大正12年)にはローマ字を取り入れ[102]、またバハーイー教やヴァスィリー・エロシェンコとの交流を機に国際語エスペラントの教団活動への導入を試みた[103]。教団幹部の大国以都雄(大深浩三)は、1918年(大正7年)に欧州から帰国した陸軍将校秦真次が王仁三郎に語ったのが導入のきっかけとしている[104]。後の満州国建国に際して石原莞爾と連携し、大本がエスペラントを満州に広めるという計画もあったが実現しなかった[105]。
大本の海外進出
1923年(大正12年)9月の関東大震災では、中国新宗教団体「世界紅卍字会」(中国版赤十字)が来日して救援活動を行い、同時に王仁三郎と大本に接触した[106]。同種性を感じた王仁三郎は、信者の日野強(退役陸軍大佐・探検家・作家)の影響も受け、大陸への関心を強めていた[107]。1924年(大正13年)2月13日、第一次大本事件による責付出獄中に「神の国を建設して失業問題と食料問題を解決する」という構想により植芝盛平らを連れて日本を出奔し、関係者を仰天させる[108]。腹心には「錦の土産」なる手記の中で、『東亜の天地を精神的に統一し、次に世界を統一する心算なり、事の成否は天の時なり、煩慮を要せず、王仁三十年の夢今や正に醒めんとす』という目的を明かした[109]。その一方、大日本帝国陸軍の支援があった可能性が高い[110]。モンゴル地方に到着すると、盧占魁(ろせんかい)という馬賊の頭領とともに活動する[111]。張作霖から内外蒙古の匪賊討伐委任状を貰い受けた上で「神軍」を率いると[112]、ダライ・ラマの分身と称し[113]、チンギス・ハーンになぞらえエルサレムを目指して進軍した[114][115]。だが張は、王仁三郎達が全モンゴルの統一と独立を目指していることを知って怒り、討伐軍を派遣すると日本領事館に対応を求めた[116]。6月20日、パインタラ(現在の通遼市)にて王仁三郎一行と慮は捕虜となる[117]。慮は処刑され、王仁三郎も銃殺されそうになり、覚悟を決め辞世の歌を詠む(パインタラの法難)[118]。処刑直前に日本領事館(日本軍)の介入で解放され、植芝らと共に帰国することが出来た[119]。入蒙の目的が布教目的だったことは認められたが、治安を乱す恐れがあるとして3年間の在留禁止処分が下った[120]。
1924年(大正13年)7月下旬に下関に到着すると逮捕されるが、3ヶ月で釈放された[121]。彼の冒険談は関東大震災後の鬱屈した人々に快哉をもって迎えられた[122]。1929年(昭和4年)10月、澄と共に世界紅卍会の協力を得て朝鮮・満州の布教に努めた[123]。抗日運動が激しさを増していたが、夫妻は熱烈な歓迎を受けたと伝えられる[124]。国内での活動が制限される中、王仁三郎はアジアでの活動を重視して中国の軍閥や日本の右翼頭山満や内田良平と関係を結び、北京に「世界宗教連合会」を設立した[125]。続いて「人類愛善会」を発起、これらの動きは第一大本事件と満蒙での失敗から、実際の権力ではなく思想・信仰における改革への方針転換とされる[126]。また中国大陸だけでなく、教団内に「大本開栄社」を設立して、日本の委任統治領となった南洋諸島への布教を行った[127]。宗教活動が制限されたソビエト連邦にも働きかけを行っている[128]。大本と王仁三郎は民族主義と世界宗教性の振れ幅が大きく[129]、対応に苦慮した日本政府は警戒を強めていく[130]。
第二次大本事件
1930年代初頭は満州事変が勃発して中国大陸への軍事進出が本格化、世界大恐慌による大不況、国際連盟の脱退、国内では五・一五事件や右翼団体の蜂起が相次いで発生するなど、不安定な時代だった[131]。大本は1930年(昭和5年)3月8日-5月6日まで京都岡崎公園で開催された大宗教博覧会に参加、大成功を収める[132]。さらに日本全国・沖縄朝鮮半島・台湾で作品展と講演会を行い、大本のイメージ向上に成功した[133]。一方で、国民の愛国意識のたかまりを背景に大本の右翼化・愛国化を進める[134]。1934年(昭和9年)7月22日、王仁三郎は九段会館において社会運動団体「昭和神聖会」を結成し、政治運動に乗り出していった[135]。神聖会の発会式には後藤文雄内務大臣、文部大臣、農林大臣、衆議院議長、陸海軍高級将校、大学教授など政財界の指導者層が参加した[136]。この他、石原莞爾や板垣征四郎といった急進派の陸軍将校も王仁三郎の信奉者だった[137]。王仁三郎は大本の指導を日出麿に委任すると、神聖会を指揮するため東京・四谷に移った[138]。国内外の問題について政府の対応を批判。さらに「尋仁」と称して軍服を着用、東京駅から皇居まで900人を従えて軍事訓練を行うなど、天皇制を模倣した行動を取る[139]。彼は『わが道は 野火のもえたる 如くなり 風吹くたびにひろがりて行く』と詠った[140]。国家権力を意図的に挑発するような王仁三郎の行動は現代でも解釈が難しく、真意は今もって不明である[141]。逮捕直前、大規模弾圧を予期したかのような指示を周囲に与えた[142]。王仁三郎の肩書きは、大本教主輔、昭和神聖会統管、昭和青年会、昭和坤生会、更始会、明光会、人類愛善会、大日本武道宣揚会、エスペラント普及会、ローマ字普及会、それぞれの総裁であった[143]。
1935年(昭和10年)1月に、昭和神聖会は皇族を主班とする皇族内閣の創設を天皇に直接請願する署名を集める[144]。革命の気運に恐怖した日本政府は王仁三郎と母体である大本を治安維持法によって徹底排除することを意図した[145]。同年12月8日、政府は第二次大本事件によって苛烈な攻撃を加えた[146]。唐沢俊樹内務省警保局長は大本を地上から抹殺する方針である事を各方面に指令している[147]。王仁三郎は松江市島根別院で拘束された[148]。夫妻以下幹部達は治安維持法違反と不敬罪で逮捕され、毎日新聞や朝日新聞などの大手マスコミも大本を「邪教」と断定する[149]。大本に好意的だった高級軍人や昭和神聖会も王仁三郎達を見捨てた[150]。裁判前にも関わらず、政府は神殿をダイナマイトで爆破し、地方の施設も全て破壊、財産も安価で処分した[151]。出版物も全て発行禁止処分となっている[152]。孤立無援の王仁三郎は「道教以来の逆賊」と糾弾されて特別高等警察により拷問めいた取調べを受けたが[153]、裁判では悠然と反論し、時に裁判長を唸らせることもあった[154]。また満州国指導者層は鈴木検事(大本事件担当)が「紅卍会と大本は極めて密接。満州国の大本教勢力は侮りがたい」と報告したように王仁三郎に同情的であり、支援の手をさしのべている[155]。だが王仁三郎の後継者と目された出口日出麿は拷問により廃人同然となり、起訴61名中16名が死亡した[156]。1940年(昭和15年)2月29日の第一審は幹部全員が有罪で、王仁三郎は無期懲役という判決だった[157]。1942年(昭和17年)7月31日の第二審判決では重大な意味を持つ治安維持法違反について無罪となり、不敬罪で懲役5年(最高刑)、6年8ヶ月ぶりに71歳で保釈出所となった[158]。不敬罪については大審院まで持ち込まれたが、1945年(昭和20年)10月17日、敗戦による大赦令で無効になった[159]。1947年(昭和22年)10月に刑法が改正され、不敬罪は消滅した。
保釈後、王仁三郎は弁護士に『大事な神の経綸なのじゃ。この大本は、今度の戦争にぜんぜん関係がなかったという証拠を神がお残し下さったのじゃ。戦争の時には戦争に協力し、平和の時には平和を説くというような矛盾した宗教団体では、世界平和の礎にはならん。しかし、日本が戦争している時に、日本の土地に生まれた者が戦争に強力せぬでは、国家も社会も承知せぬ。それでは世界恒久平和という神の目的がつぶれますから、戦争に協力できぬ処へお引き上げになったのが、今度の大本事件の一番多いな意義だ。これは大事なことだよ』(原文まま)と語っている[160]。戦後には、朝日新聞の記者に「日本の上層部はわれよしで、自分達が一番正しく、えらいと思うから戦争がおきた。諸外国もわれよしを改めぬ限り戦争は絶えない」と述べている[161]。
晩年
1942年8月7日に保釈されると、亀岡の農場に戻って家族と共に暮らした[14][162]。1944年(昭和19年)12月、京都府清水の窯元佐々木松楽の亀岡疎開を知って尋ね、陶芸をはじめた[163]。祝詞を唱えながら体調を損ねるほど没頭するなど、宗教的情熱に満ちた芸術活動だった[164]。控訴審には「神界の方ではもう事件は済んだ」として関心を持たなかったという[165]。相談する信者には、反戦平和と日本の敗戦を予言している[166]。和歌では「天地に神あることをつゆ知らぬ 醜のしれもの世を乱すなり」「荒れ果てし神の御苑に停ずみて 偲ぶは神国の前途なりけり」と権力者達を批判した[167]。敗戦後の1946年(昭和21年)2月、教団活動を「愛善宛」として新発足させた[168]。教団経営や各地への巡教、返還された綾部・亀岡の再建に尽力したが、8月に脳出血で倒れた[169]。以後健康を取り戻すことなく、1948年(昭和23年)1月19日午前7時55分に逝去した[170]。満76歳没。綾部の天王平に歴代教主と共に埋葬されている。
評価
宗教家として
出口王仁三郎は系譜的に古神道に属し、出口直が唱えた「艮の金神」を霊学・神道の知識で体系化[171]。地方民間宗教にすぎなかった教団を国家規模の大宗教に育てたカリスマ的組織者である[172]。メディアを活用した布教方法と、信仰と政治が結びついた活動方針は、創価学会などの新宗教にも影響を与えた[173]。雑誌『別冊歴史読本』が1993年に出版した「日本史を変えた人物200人」の中で、近代宗教家の中で大谷光瑞と共に2人だけ選ばれているが、その大谷も王仁三郎を高く評価している[174]。反面、意図的に言動や態度をはぐらかすことも多く、常識では計り知れない人物である[175]。戦前の影響力は凄まじく、国会議員や陸海軍将校への影響力を危険視されて第二次大本事件を招いた[176]。この事件における第二審裁判では、裁判長に対し『人虎孔裡に堕つ』(人間が虎の穴に落ちた時どうすべきか。逃げても、立ち向っても、じっとしていても、虎に食われ所詮助からぬ。しかし、一つだけ生きる道がある。食われるのではなく、こちらから食わせてやる。食われれば何も残らぬが、食わせれば愛と誇りが残る)という禅問答を残している[177]。宗教家・王仁三郎の力量と真髄を象徴する逸話とされる[178]。
芸術評価
王仁三郎は「芸術は宗教の母なり」として宗教・芸術一元論を提唱した[179]。当人も絵画・陶芸・短歌に通じ「芸術の 趣味を悟らぬ人々は 地上天国夢にも来らず」と詠う[180]。さらに膨大な「霊界物語」を著すなど、多種多彩な才能を持っていた[181]。1930年(昭和5年)に前田夕暮のサークルに入り、ついでアララギ・あけびなど50余の短歌結社に参加して、月に1000首を詠んだ[182]。60歳のとき受けた大宅壮一のインタビューにおいて、1日に2、3百首の短歌を詠み、これまで5-60万首詠んだと語ったという[14]。歌風に型がなく玉石混合であったが、1931年(昭和6年)刊行の第一歌集『花明山』の序文で前田は「現代のスフィンクス」と評した[183]。芸術家フレデリック・フランクは王仁三郎を『芸術家の原型』と評し、「生涯にわたり、自らの衝動と思考の一つ一つに、形相と形態と実体を与え続けずにはいられなかったのだ」と述べた[184]。
王仁三郎は第二次大本事件拘留中の構想を元に、1945年元旦から翌年3月にかけて、36回の窯・3000個の茶碗をつくった[185]。1949年(昭和24年)2月6日、陶芸家・金重陶陽を訪ねた日本美術工芸社主幹・加藤義一郎がその日見た王仁三郎の茶碗に感銘を受けて「耀琓(ようわん)」と名づけ、日本美術工芸誌三月号と八月号に発表した[186]。それをきっかけに書画なども北大路魯山人ら斯界の第一人者から評価を受けることになる。
思想
- 人は天地経綸の3主体なり
- 万教同根
- 芸術は宗教の母である(森羅万象が神の偉大な作品である故に、自然の美に心を動かされ宗教心が芽生える)[187]
- 一神即多神即汎神
- 宗教の無くなる世の中がミロクの世である
- 言向け和わす
- 「霊界」で起きたことは現実でも起きる
- 大本教は世界の「型」である。大本に起きた事は、のちに日本や世界で実際に起きる[188]
エピソード
逸話
- 長女で大本三代教主出口直日は、小学校入学時の父親職業欄に「世界改造業者」と記入した[189]。
- 予備校講師の出口汪や光氏(メキキの会会長)は曾孫にあたる。
- 青年時代に「安閑坊喜楽」と号して冠句を残すなど、多芸多趣味であけ広げで気の置けない人柄であり、どんな時でもユーモアを忘れなかった[190]。第二次大本弾圧の裁判時、検察側の主張を煙にまいて法廷内に笑いが起きたほどである[191]。反面、気が弱い一面もあり、大胆で豪放、繊細で緻密、気が強く情に脆いという複雑な性格といえる[192]。親交を結んだ内田良平や頭山満は西郷隆盛を念頭に「丹波に鐘のような男がいる」と評した[193]。
- 出口直の三女・福島久は、母の啓示に従って京都府船井郡八木町に小さな茶店を出した[194]。1898年(明治31年)8月16日、王仁三郎(当時は上田喜三郎)は偶然この茶店に立ち寄り、久から直の「筆先」を見せられて綾部行きを決意した[195]。
- 出口家に婿入りしてから、王仁三郎と直は「火水の戦い」と呼ばれる対立を起こし、お互いに懸かる神を悪神と攻撃した[196]。とうとう我慢できなくなった王仁三郎は「わしは養子だから裸で帰る。だが子供はつれて行く」と長女・直日を全裸の背中に括りつけて飛び出そうとした[196]。すると妻・澄が下半身を露出させて「先生、ここに未練はござへんかい」と諌め、王仁三郎は妻をアメノウズメに例えて笑い冷静になった[196]。
- 出口直は「大本では男子は育たぬ」と予言していた[197]。王仁三郎は多くの予言を的中させたが、妻・澄の初妊娠がわかった際に王仁三郎は男子を希望し、直は啓示に従って女子と断言する[198]。誕生したのは長女・直日だった。1913年(大正2年)8月29日に長男・六合大(くにひろ)が誕生するが、生後220日で急死した[197]。王仁三郎は体を転がせて慟哭し、今度は女子として生まれ変わるよう遺骸に告げた[197]。五女・尚江が産まれると、どこから見ても瓜二つと喜んでいる[199]。
- 出口直が自動書記によって残した「筆先」を偽作したという攻撃が執拗になされた。例えば、大本幹部で「霊界物語」の口述筆記に当たった谷口雅春は、原文と王仁三郎の文章を比較対比して予言の食い違いや啓示に疑問を感じ、後に脱退して生長の家を設立した[200]。これは「筆先」の中に「王仁三郎を使え」と命じる文があり、直は筆先の編集を王仁三郎に委託[201]。彼は言霊を用いて筆先を大幅に修正した[202]。それを『大本教神論』として機関誌「神霊界」公表したものである[203]。教義上、直(変性男子/女体男霊)と王仁三郎(変性女子/男体女霊)は切り離せない存在であり、当人も解釈は当然と割り切っていた[204]。また筆先の原文には神の支配と同時に君主権力の廃絶(天皇の退陣)を求める文面もあり、文章の整理と編集をしなければ戦前の日本で発行できなかったという側面もある[205]。
- 東条英機陸軍大将と築地の料亭で会い「軍部があまり強く出ては国をつぶす。軍部の考えは十年以上早すぎる」と告げたが、東条は宗教家に諭されたことで立腹しただけだった[206]。
- 第二次大本事件の際に、「出口はどこだ」と押し入ってきた警官に対して、信者が「出口はこっちです」と部屋の『出口』に誘導した[207]。
- 第二次大本事件直前の12月6日、二・二六事件の首謀者・北一輝は王仁三郎に会ってクーデターの資金提供を求めた[208]。王仁三郎に一蹴された北は暗殺を示唆したが、12月8日に王仁三郎が松江で逮捕されて空振りに終わった[209]。後に王仁三郎は「警察に保護されたも同然。北一輝らはさぞ地団太踏んでいただろう」と語っている[210]。
- 第二次大本事件裁判の第一審判決で無期懲役が言い渡された際、王仁三郎は傍聴席を向いて舌を出し関係者を驚かせている[211]。また裁判中に澄が神懸かり状態となって激昂した際には、「これこれ」と言って妻を宥めた[212]。
- 敗戦後、林逸郎弁護士が大本事件における賠償請求を検討していたところ、「今度の事件は神さまの摂理」として賠償請求の権利を放棄した[213]。そして「大きな御用のために東京に帰りなさい」と告げる[214]。林を待っていたのは東京裁判の弁護人という仕事であった[215]。
- 出口日出麿の友人に岡本天明がおり、大本機関誌「人類愛善新聞」の編集長を務めた[216]。第二次大本事件に於いて岡本は逮捕を免れ、鳩守八幡神社の留守神主となる[217]。太平洋戦争中、岡本は神示を受けて「日月神示」を著す。戦後、岡本は王仁三郎を訪問したが反応は芳しくなく、大本もこの神示を正統なものとは認めていない[218]。
- 自身を象徴する星はオリオン座と語り[219]、亀岡城の跡地に建てられた神殿「天恩郷」の月宮殿はオリオン座を地球にうつしたものだとされる[220]。この星座に関する和歌も大量に詠んでいる[221]。
- 大本は、出口直、王仁三郎、澄の関係を「扇」に喩え、直は骨・王仁三郎は紙・澄は要と定義した[222]。
有栖川宮熾仁親王落胤説
出生に纏わる秘話に有栖川宮熾仁親王の御落胤説があり、広く噂されていた[223]。王仁三郎は暗号めいた和歌を大量に詠んだが[224]、直接的には否定も肯定もしていない[225]。第二次大本事件における検察も、不敬罪に関わるこの問題について微妙な態度をとっている[226]。戦後では、孫の出口和明が主張している[227]。王仁三郎が綾部入りした際お歯黒をつけ打裂羽織を着用していたのも、そのためだとしている[228]。昭和3年7月頃の和歌や、昭和15年12月11日の第二次大本事件裁判でも示唆されているという[229]。大本に対する弾圧の背景には大正天皇の皇位継承を危うくしかねないこの有栖川御落胤説を封印する目的があったという説もある[14]。出口和明は、明治天皇皇后昭憲皇太后の姪である鶴殿ちか子が大本に入信した理由について、王仁三郎と親王の血縁を確信したためと解釈した[230]。出口なおの明治31年九9月24日[231]、明治35年旧12月1日の筆先にも示唆する文面がある[232]。
予言
王仁三郎は鎮魂帰法を広めた霊能力者である。同時に言霊学の権威であり[233]、言霊を利用して度々予言を行った[234]。明治末期 - 大正初期の「いろは歌」「大本神歌」にアメリカ合衆国との総力戦(太平洋戦争)やB-29爆撃機による空襲を示唆する予言がある[235]。1921年(大正10年)の原敬首相暗殺、関東大震災も予言した[236]。特に関東大震災は、直の筆先に「東京は焼け野が原になるぞよ」との文章があり、相乗して王仁三郎と大本への熱狂的支持に転化した[237]。1931年(昭和6年)9月8日、「10日後に事件が起こり神界の経綸が実現の緒につく」と述べ9月15日に柳条湖事件が勃発、さらに「西暦1931=皇紀2591はイクサハジメ・ジゴクハジメ」と述べていたため、大きな反響を呼んだ[238]。王仁三郎は日本軍・右翼団体・中国宗教界と親交が深く、事前に情報を得ていた可能性がある[239]。
王仁三郎は度々警察に拘留されたが、第一次大本事件や蒙古遭難事件では126日間拘束されている[240]。大正10年2月12日に拘束され、蒙古事件後の7月26日に収監されるまで1260日であり、このため大本事件をヨハネの黙示録になぞらえる珍説もある[241]。ただし王仁三郎も霊界物語第36巻余白歌で「千二百六十日の間月汚す六百六十六匹のけもの」と詠い、別の著作でも獣の数字について言及した[242]。1942年8月7日に仮釈放された際、「わたしが出た日から日本の負け始めや」と家族に語った[243]。同日、米軍はガダルカナル島に上陸、ガダルカナル島の戦いが始まる[244]。尋ねてくる者に様々な予言を行った[245]。早くから日本の敗戦を予言し「大本は日本の雛型、日本は世界の雛型。日本がやられて武装解除されれば、いずれ世界も武装解除される」と述べる[246]。広島市への原爆投下やソ連軍の満州侵攻、千島列島や台湾の領土喪失も警告[247]、鈴木貫太郎総理大臣について「日本は鈴木野(すすきの)になる」「日本はなごうは鈴(つづ)木貫太郎(かんだろう)」と冗談にした[248]。予言が的中したことに感嘆する者も多かったが、弟子に「ワシは、神さんの予言が中らぬよう中らぬようと努めてきたのやが……」と嘆息している[249]。本当の火の雨はこれからとも語る[250]。大阪朝日新聞昭和20年12月30日号での談話では「大和民族は絶対に亡びない。ただ敗戦の苦しみは寅年の昭和25年まで続く」と述べた[251]。また戦争に関するものだけでなく、携帯電話やリニアモーターカーなど未来技術についても言及している[252]。予言は多くの人を惹きつけたが、同時に詐欺師や邪教という非難の要因ともなった[253]。
著書
主な著書に『霊界物語』(全81巻83冊)、『道の栞』、『霊の礎』、『本教創世記』、『出口王仁三郎全集』、『道の大本』など多数があり、歌集としては、『花明山』、『彗星』、『故山の夢』、『東の光』、『霧の海』、『愛善の道』などがある。また、日記的な著作物として『東北日記』、『ふたな日記』、『壬申日記』、『日月日記』などもある。
- 没後
- 霊界物語 全81巻 大本教典刊行会 1967-1971
- 耀碗 出口王仁三郎楽茶碗名品 講談社 1971
- 出口王仁三郎著作集 全6巻 読売新聞社 1972
国会図書館所蔵の発禁本
以下は内務省警保局図書課に検閲のために納本したものが発売頒布禁止処分となって保管されていたもの、および、警保局が大本研究用に集めていたものが戦後にGHQに押収され、さらに国会図書館に送られたものである。内務省の検閲や研究の痕跡が残っているものを含んでいる。なお、大本関係の著書は大本を擁護したものも含めてほとんどが発禁となっており、その全体像は未だに解明されていない。またこれらは戦後には再版・復刻などがなされている。
- 大本教開祖御伝記 大日本修斎会本部 1913
- 皇道我観 第一天声社 1920
- 記紀真解 皇道大本大日本修斎会 1921年(大正10年) (王仁文庫)
- 記紀真釈 皇道大本大日本修斎会 1921年 (王仁文庫)
- 瑞能神歌 第一天声社 1921
- 八面鋒 大日本修斎会 1921年 (王仁文庫 第8篇)
- 道之大原 大本皇道大日本修斎会 1921年 (王仁文庫 第5篇)
- 霊界物語 1-72 出口瑞月 天声社 1923-1929
- 大本三美歌 瑞月 天声社 1923年(大正12年)
- エス和作歌辞典 記憶便法 出口瑞月 天声社、1924
- 霊の礎 出口瑞月 天声社、1924
- 道の栞 出口瑞月 天声社 1925 (玉の柱 第1篇)
- 大本讃美歌 天声社 1925
- 祝詞略解 出口瑞月 天声社 1927
- 水鏡 如是我聞 加藤明子編 第二天声社 1928年11月
- 大本概要 第二天声社 1930年(昭和5年)1月
- 月鏡 如是我聞 加藤明子編 第二天声社 1930年11月
- 花明山 第一歌集 第二天声社 1931年5月
- 慧星 第2歌集 明光社 1931年7月
- 故山の夢 第3歌集 第二天声社 1931年8月
- 霞の奥 第4歌集 第二天声社 1931年(昭和6年)9月
- 東の光 第5歌集 第二天声社 1931年12月
- 霧の海 第6歌集 天声社 1932年(昭和7年)3月
- 皇道大意 出口瑞月 天声社 1932年12月 (王仁文庫)
- 随感録 天声社 1932年6月 (王仁文庫)
- 白童子 第七歌集 天声社 1932年5月
- 青嵐 第8歌集 天声社 1932年7月
- 公孫樹 第九歌集 天声社 1933年(昭和8年)2月
- 浪の音 第10歌集 天声社 1933年3月
- 山と海 第11歌集 天声社 1933年6月
- 記紀解説 / 出口瑞月 天声社 1933年10月
- 出口王仁三郎全集 全8巻 万有社・高木鉄男、1934-1935
- 皇道維新と経綸 天声社 1934年(昭和9年)10月
- 統管随筆 天声社 1934年
- 惟神の道 天声社 1935年(昭和10年)12月
- 玉鏡 加藤明子編 天声社 1935年(昭和10年)3月
年譜
- 1871年(明治4年)8月 - 京都府亀岡市で上田喜三郎として誕生。
- 1896年(明治29年) - 穴太精乳館・上田牧牛場を開業。
- 1898年(明治31年)
- 4月 - 静岡県稲荷講社に長沢雄楯を尋ね、霊学と鎮魂帰神法を学ぶ。
- 10月 - 京都府綾部の出口直を尋ねる。初対面は不調に終わる。
- 1899年(明治32年)
- 7月 - 再び綾部を訪れ、出口直に憑依した「艮の金神」の審神を行う。
- 8月 - 金明霊学会を組織する。大本の原型。
- 1900年(明治33年)1月 - 出口直の五女・出口澄と結婚。養子婿となり出口王仁三郎と改名。
- 1902年(明治35年) - 大阪天王寺に一万坪の大阪本部設置計画を建てるも、幹部の妨害で頓挫。
- 1906年(明治39年)9月 - 教団を離れ、皇典講究所教育部本科2年生に入学。
- 1907年(明治40年)
- 3月 - 建勲神社の主典となる。
- 12月 - 伏見稲荷山御嶽教西部教庁主事に就任。
- 1908年(明治41年)
- 3月 - 御嶽教大阪大教会長に抜擢。
- 8月 - 金明霊学会を大日本修斎会に改名。
- 12月 - 御嶽教を辞職。
- 1916年(大正5年)
- 4月 - 金明霊学会を皇道大本に改名。
- 12月 - 浅野和三郎が入信。
- 1918年(大正7年)11月 - 開祖・出口直が逝去。大本二代教主輔となる。
- 1921年(大正10年)
- 2月 - 第一次大本事件。不敬罪、新聞紙法違反で逮捕・検挙される。
- 10月 - 京都地方裁判所で懲役5年判決。控訴する。
- 1924年(大正13年)
- 2月 - モンゴルに出国。馬賊と共にモンゴル独立を目指して活動する。
- 6月 - 張作霖により処刑されかけるが、日本領事館の介入で救出される。
- 7月 - 日本に帰国。京都府拘置所に移送される。
- 10月 - 釈放される。
- 1928年(昭和3年)3月3日 - 56歳7ヶ月で「みろく大祭」を実施。
- 1929年(昭和4年)10月 - 朝鮮・満州を布教旅行する。
- 1934年(昭和9年)7月 - 昭和神聖会を結成。総帥となる。
- 1935年(昭和10年)12月8日 - 第二次大本事件。治安維持法違反等で逮捕され、徹底弾圧を受ける。
- 1940年(昭和15年)2月 - 京都地方裁判所にて無期懲役判決。
- 1942年(昭和17年)
- 7月31日 - 第二審で不敬罪により懲役5年判決。治安維持法違反は無罪。
- 8月7日 - 保釈される。京都府亀岡の長女宅に戻る。
- 1945年(昭和20年)
- 9月 - 不敬罪の控訴審棄却される。
- 10月 - 敗戦による大赦令により不敬罪消滅。
- 1948年(昭和23年)1月19日 - 死去。
文献
主要文献
- 出口京太郎著 『巨人出口王仁三郎』 ISBN 4887560451
- 上田正昭監修 『みろくの世 ―出口王仁三郎の世界―』 ISBN 4887560680
- 出口和明著 『大地の母』
- 出口和明『出口なお 王仁三郎の予言・確言』光書房、1979年9月。
- 出口和明『出口なお 王仁三郎の予言・確言』みいづ舎、2005年3月。ISBN 4-900441-72-4。 光書房版を復刻。
- 伊藤栄蔵『出口なお・出口王仁三郎の生涯 新宗教創始者伝・大本』講談社、1984年4月。ISBN 4-06-201171-9。
- 十和田龍『出口王仁三郎の神の活哲学 血肉となって魂を活かし人生に光』御茶の水書房、1986年12月。ISBN 4-275-00721-2。
- 長谷邦夫『コミック 世紀の巨人 出口王仁三郎 “軍国日本”を震撼させた土俗の超能力者』ダイヤモンド社、1992年1月。ISBN 4-478-30040-2。
- 武田崇元『出口王仁三郎の霊界からの警告 発禁「予言書」に示された、破局と再生の大真相』光文社文庫、1993年2月。ISBN 4-334-71661-x{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。。
- 出口和明『スサノオと出口王仁三郎』八幡書店、1995年9月。ISBN 4-89350-181-x{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。。
- 百瀬明治『出口王仁三郎 あるカリスマの生涯』PHP文庫、1995年10月。ISBN 4-569-56810-6。
- 百瀬明治『大本教大成者 巨人出口王仁三郎の生涯』勁文社、2001年5月。ISBN 4-7669-3762-7。 PHP文庫版を再録。
- 出口京太郎編著『出口王仁三郎の示した未来へ』天声社、2002年8月。ISBN 4-888756-053-2{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。。
- 早瀬圭一『大本襲撃 出口すみとその時代』毎日新聞社、2007年5月。ISBN 978-4-620-31814-1。
- ナンシー・K・ストーカー著、井上順孝監修、岩坂彰翻訳『出口王仁三郎 帝国の時代のカリスマ』原書房、2009年6月。ISBN 978-4-562-04292-0。
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- 丸山照雄『日本人にとって宗教とは何か』藤原書店、1995年6月。ISBN 4-89434-018-6。
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- 前坂俊之著『ニッポン奇人伝』 社会思想社 1996年(ISBN 9784390115827)
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- 山口文憲『日本ばちかん巡り』新潮社、2002年2月。ISBN 4-10-451601-5。
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ウェブサイト
- アジア歴史資料センター(公式)
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脚注
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- ^ 『霊界物語』第1巻、第37巻、『本教創世記』参照
- ^ #神々の目覚め234-235頁、#あるカリスマの生涯46-47頁
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- ^ #予言・確言241-242頁、#霊界からの警告305-306頁
- ^ #スサノオと王仁三郎222-223頁。水鏡『六百六十六の獣』
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