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「大礼服」の版間の差分

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[[File:Hamaguchi Cabinet.JPG|right|thumb|350px|大礼服姿の[[濱口内閣]]の閣僚たち。[[濱口雄幸]][[内閣総理大臣]](中央)はじめ殆どの閣僚は勅任官大礼服。[[宇垣一成]][[陸軍大臣]](右から二人目)は陸軍の正装、[[外務大臣]]の[[幣原喜重郎]][[男爵]](宇垣の左隣)は有爵者大礼服。]]
[[File:Hamaguchi Cabinet.JPG|right|thumb|350px|大礼服姿の[[濱口内閣]]の閣僚たち。[[濱口雄幸]][[内閣総理大臣]](中央)はじめ殆どの閣僚は勅任官大礼服。[[宇垣一成]][[陸軍大臣]](右から二人目)は陸軍の正装、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]の[[幣原喜重郎]][[男爵]](宇垣の左隣)は有爵者大礼服。]]
'''大礼服'''(たいれいふく)は、[[明治]]初頭に導入され、[[大日本帝国憲法]]発布に至る[[立憲君主制]]確立の過程で整備された服制に於いて定められた[[制服]]の一つであり、[[大日本帝国]]の[[華族]]・[[文官]]・[[武官]]が着用する最上級[[正装]]である。
'''大礼服'''(たいれいふく)は、明治時代から太平洋戦争の終戦まで使用されていた、日本における[[エンパイア・スタイル]]の[[宮廷服]](Court dress)。[[明治]]初頭に導入され、その後[[大日本帝国憲法]]発布に至る[[立憲君主制]]確立の過程で整備された、所謂「[[大日本帝国]]の服制」<ref name="刑部 第5章">[[#刑部|刑部]] 第5章</ref>における最上級[[正装]]である。[[華族]]や[[文官]]用のものは制式が決められていた
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__TOC__
{{-}}
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== 経緯 ==
== 沿革 ==
[[File:MeijiJoukyou.jpg|right|thumb|250px|明治2年の明治天皇東幸]]
[[File:HIH Kitashirakawa Fusako.jpg|right|thumb|200px|マント・ド・クール(女性用大礼服:[[北白川宮]][[成久王妃房子内親王]])]]
[[明治維新]]当初、新政府を構成した人々の服装は江戸時代の身分によって、公家の[[衣冠]]・[[狩衣]]、武家の[[直垂]]・[[裃]]、西洋化された藩兵の洋服と区々であった。そのた維新政府には統一された必要となった<ref name="刑部 p 12-45">[[#刑部|刑部]] p 12-45</ref>
[[明治維新]]当初、新政府を構成した人々の服装は江戸時代の身分によって、公家の[[衣冠]]・[[狩衣]]、武家の[[直垂]]・[[裃]]、西洋化された藩兵の西式軍服とまちまちであった。例えば、明治元年([[1868年]])の[[東幸]]では服装について、出立と入城の際は衣冠で道中は狩衣とすべきと主張する公家の[[中山忠能]]と、狩衣は入城の際のみとして道中は直衣・直垂を任意とすることを希望する同じ議定で武家の[[伊達宗城]]の間で意見が対立した。その結果、道中は狩衣と直垂の着用を任意とされ、入城の際は衣冠の着用も可とされ。しかも衣冠・狩衣・直垂は各自で色や紋が異なるため行列の服装全く統一されず、威厳とは程遠いものだっ。更に、沿道警護の兵は西洋式軍服姿であっが、これも洋の着こなしに慣れていないために統一性を欠いており、[[アーネスト・サトウ]]からは、行列の威厳損なわれたのは「だらしがない兵隊せいである」酷評された。この統一性のない服装の行列は明治2年([[1869年]])の東幸でも変わらった<ref>[[#刑部|刑部]] p 12-24</ref>


そのため、維新政府には統一された新たな服制が必要となり、明治2年5月の官吏公選によって発足した新体制では、[[刑法官知事]]へ就任した[[嵯峨実愛]]が[[岩倉具視]]の意を受けてこの問題を担当することになった。そして、11月2日の[[集議院]]に於いて、岩倉の提議により、嵯峨が[[蜷川式胤]]らの協力により考案した新政府の官員が着用する制服について審議されることとなった。しかし、このとき提案された'''冠服'''は、公家の服装を基にしたものであったため、武家出身者からの反発に遭った。このような混乱を収束するために、[[明治]]4年[[9月4日 (旧暦)|9月4日]]([[1871年]][[10月17日]])、「服制改革内勅」{{#tag:ref|『明治詔勅輯』によれば「侍従一同へ服制更正ノ勅諭」、『稿本詔勅録』によれば「侍従一同ヘノ詔」ともいう<ref>『単行書・稿本詔勅録・巻之一・内部上』、国立公文書館アジア歴史資料センター(JACAR ref.A04017123000)。</ref>。|group=注}}が出された。この内勅は従来の服装に拘る華族に対するもので、衣冠などの服装は軟弱であり、[[神武天皇]]や[[神功皇后]]の頃の姿に戻るべきとしている。この「神武・神功の頃の姿」とは「筒袖・細袴」を意味しており、洋服もまた「筒袖・細袴」である。つまり、「洋服を着用することは日本人本来の姿に戻ることである」という理屈である。<ref>[[#刑部|刑部]] p 24-45</ref>
[[1871年]]([[明治]]4年)[[9月4日]]、「服制改革内勅」が出され、「明治5年11月12日太政官布告第373号」により文官大礼服が定められた。しかし、この布告では細部についての取決めが不充分で、当時の洋服店の技量が未熟だったこともあり、作制者による違いが見られた。そのため、'''明治19年12月4日[[宮内省]]達甲第15号'''による改正では、詳細な服制表や図が官報に掲載され、関係業者には色刷りの見本図<ref>[[#国立公文書館単行書|国立公文書館単行書]]</ref>が配布されて斉一が図られた<ref name="刑部 p 176">[[#刑部|刑部]] p 176</ref>。この改正は[[奏任官|奏]]・[[勅任官]]大礼服の改正であり、判任官の大礼服は対象とされておらず、消滅したものと見なされている<ref name="刑部 p 176"/>。


{{Quotation|「服制改革内勅」<br />朕惟フニ風俗ナル者移換以テ時ノ宜シキニ随ヒ国体ナル者不抜以テ其勢ヲ制ス今衣冠ノ制中古唐制ニ摸倣セシヨリ流テ軟弱ノ風ヲナス朕太タ慨之夫レ神州ノ武ヲ以テ治ムルヤ固ヨリ久シ天子親ラ之カ元帥ト為リ衆庶以テ其風ヲ仰ク神武創業神功征韓ノ如キ決テ今日ノ風姿ニアラス豈一日モ軟弱以テ天下ニ示ス可ケンヤ朕今断然其服制ヲ更メ其風俗ヲ一新シ祖宗以来尚武ノ国体ヲ立ント欲ス汝近臣其レ朕カ意ヲ体セヨ}}
その後、[[明治25年]]12月10日宮内省達甲第8号により改正がなされる。[[1884年]](明治17年)には[[ガウン]]型の宮内官大礼服(侍従職・式部職の勅任官・奏任官)が定められる。その後、[[明治44年]]5月26日皇室令第4号「宮内官制服令」及び昭和3年3月16日皇室令第2号により改正され、[[昭和]]3年改正により燕尾型となる。


の他[[華族|有爵者]]・[[位階|非役有位者]]など大礼服がある。者大礼服官大礼服と異な、胸部の飾章なく、立襟型で、肩章が付く陸海軍軍人これに相当するもは[[軍服|正装]]呼ば。これらの大礼服に対して現代の正装であるホワイトタイの[[燕尾服]]が礼服通常礼服れ、大礼服が制定されていない下級官吏や民間人はこれを正装とした。そして、[[フロックコート]]が通常服とされた。
して翌年は'''明治5年11月12日太政官布告第339号(大礼服及通常礼服ヲ定メ衣冠ヲ祭服ト為ス等ノ件)'''を以って文官と非役大礼服を含む服制が規定され明治5年11月29日太政布告第373号 (大礼服及通常礼服著用日ノ件) によ着用規定定められた大礼服は当時ヨーロッパ宮廷での最上級正装として使用さていた宮廷制服(Court uniform)に倣って新たに定められた第339号布告では、これらの大礼服に対して現代の正装であるホワイトタイの[[燕尾服]]が通常礼服とされた。通常礼服は'''小礼服'''も呼ばれ、民間人等の大礼服が制定されていないはこれを正装とした。そして、通常服は[[フロックコート]]であった。


明治6年([[1873年]])、文官と非役有位に続いて皇族大礼服が制定された(明治6年2月22日太政官布告第64号)。皇族大礼服はその後明治9年([[1876年]])と明治44年([[1911年]])に改正されている。
一方、女子の大礼服は[[マント・ド・クール]]とされ、中礼服は[[ローブ・デコルテ]]、小礼服は[[ローブ・ミーデコルテ]]、通常礼服は[[ローブ・モンタント]]とされた。


[[明治17年]](1884年)、 [[華族令]]の奉勅(明治17年7月7日宮内省達)が公布されたのに伴い、明治17年10月25日宮内省乙第8号達を以って[[華族|有爵者]]大礼服が制定された。続いて、同年10月29日太政官達第91号では[[ガウン]]型の宮内官大礼服(侍従職・式部職の勅任官・奏任官)が定められた。その後、明治21年([[1888年]])から[[明治22年]](1889年)にかけて他の職員の制服が整備され、大礼服も定められた。宮内官の制服はその後[[明治44年]](1911年)と[[[[昭和]]3年]](1928年)に大改正が行われている。
なお、熱帯地域においては、大礼服・燕尾服の着用が困難であるため、明治41年3月2日勅令第15号「外交官及領事官大礼服代用服制」、大正15年9月29日勅令第311号「南洋群島在勤文官礼服代用服制」により簡略化されたものが用いられていた。
[[File:HIH Kitashirakawa Fusako.jpg|right|thumb|200px|マント・ド・クール(女性用大礼服:[[北白川宮]][[成久王妃房子内親王]])]]
明治19年([[1886年]])6月23日、婦人の礼式相当の西洋服装が規定された。女子の大礼服は[[マント・ド・クール]]とされ、中礼服は[[ローブ・デコルテ]]、小礼服は[[ローブ・ミーデコルテ]]、通常礼服は[[ローブ・モンタント]]とされた<ref>[[#刑部|刑部]] p 68-70</ref>。


同年12月4日には文官大礼服の図式が改正されたが、この際[[判任官]]のものは改正されず、その後は下級官吏も小礼服を使用した。大礼服は官員各自が自費で調製するものとされたが、下級官吏には負担が大きかった。[[菊池武夫 (陸軍軍人)|菊池武夫]]が同じ洋服店で三つ揃いの背広と奏任官大礼服を誂えたところ、背広は28円だったのに対し、大礼服は220円かかっている<ref>[[#刑部|刑部]] p 178-179</ref>。
昭和初期まで公的行事で用いられたが、[[第二次世界大戦]]後に廃止された。

明治41年([[1908年]])、熱帯地域又は炎暑酷烈なる地方に勤務する外交官のために「外交官及領事官大礼服代用服制」(明治41年3月2日勅令第15号)を以って大礼服の代用となる服装が制定された。その後、南洋群島に在勤する文官にも大礼服及び小礼服(燕尾服)の代用となる礼服が「南洋群島在勤文官礼服代用服制」(大正15年9月29日勅令第311号)により制定された。これらは何れも白色の[[チュニック]]であった。

陸軍武官で大礼服に相当するものは[[軍服|正装]]と呼ばれた。海軍武官のものは当初は大礼服と呼称していたが、後に正服、更に正装と改称した([[軍服_(大日本帝国海軍)#正装]]参照)。これら武官の正装は大礼服とは違い、私的な冠婚葬祭にも着用できた。

これらの大礼服は昭和初期まで[[宮中]]での公的行事で用いられたが、[[第二次世界大戦]]が激化するに従って着用される機会はなくなった。終戦後、太政官布告は「内閣及び総理府関係法令の整理に関する法律」(昭和29年7月1日法律第203号) により廃止され、関連法令もほとんどが廃止となった。また、廃止について明文規定のないものも実効性喪失とされている。一方、文化出版局の服飾辞典によると、[[ヨーロッパ]]諸王国、[[フランス]]、[[ポルトガル]]、[[南アメリカ]]諸国、[[タイ王国]]などでは、現在でも男性用大礼服に相当するエンパイア・スタイルの宮廷服が使用されている。
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== 大礼服の構成 ==
=== 文官大礼===
== 西洋式御服 ==
[[File:Teenager Meiji Emperor with foreign representatives 1868 1870.jpg|center|thumb|600px|外国の代表と写真に収まる明治天皇。天皇と側近は狩衣。西洋風軍服に丁髷の人物が見られる。]]
[[画像:勅任官大礼服.JPG|thumb|300px|勅任官大礼服 後面および前面]]
[[画像:奏任官大礼服.JPG|thumb|300px|奏任官大礼服 後面および前面]]
[[File:Meiji Emperor 1872.jpg|thumb|right|180px|文官大礼服に似た正服を着た[[明治天皇]]]]
[[明治維新]]により天皇の衣食住も欧米化が進められると、西洋式の'''御服'''(天皇の服)が必要となり、明治5年には同年制定の文官大礼服に似た正服が調製された<ref>[[#刑部|刑部]] p 66</ref>。しかし、[[お雇い外国人]][[アルベール・シャルル・デュ・ブスケ]]からフランス皇帝は武官大将の制服を着用し、文官制服は着用しない旨の助言があったため、その直後には{{#tag:ref|錦織は明治5年の天長節から着用としているが<ref>[[#錦織|錦織]] p 76</ref>、刑部は翌年6月としている<ref>[[#刑部|刑部]] p 67</ref>。|group=注}}軍服風の御服('''御軍服'''<ref>[[#刑部|刑部]] p 67</ref>・'''御大禮服'''<ref>[[#錦織|錦織]] p 76</ref>)が制定されている。この服は、明治13年10月11日太政官布告第55号により陸軍大将の制服に準じた'''陸軍式御服'''が定められるまで使用された。
[[明治]]5年[[11月12日]][[太政官]]布告第373号
<gallery>
File:Meiji Emperor.jpg|軍服風の御大禮服を着た明治天皇
</gallery>
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== 皇族大礼服 ==
皇族大礼服は、明治6年2月22日太政官布告第64号を以って制定された当初、非役有位大礼服の桐紋を菊に置き換えたようなデザインであった。しかし、非役有位との区別がつきにくいことから、明治9年10月12日太政官布告第125号を以って菊唐草模様に改められた<ref>[[#刑部|刑部]] p 106</ref>。

明治44年(1911年)には「皇族服装令」(明治44年5月26日皇室令第3号)が公布され、明治6年及び明治9年の太政官布告は廃止された(同令附則)。服装令では皇族の大礼服と小礼服が定められており(同1条)、大礼服は太政官布告の菊唐草模様が桜唐草模様となり、襟元を詰襟(立襟を最上部まで閉じる)とする旨が明記された。しかし、皇族が官職に就いている場合はその官職の服制に従うとされており(同5条)、親王及び王は特別の事由がない限り陸軍又は海軍の武官に任じられことから(「皇族身位令」(明治43年皇室令第2号)第17条)、その多くは軍服を着用していたため、皇族大礼服を着用する者は少なかった。

戦後「皇室令及附属法令廃止ノ件」(昭和22年5月2日皇室令第12号)により廃止された.

<gallery caption="皇族大礼服" perrow="3">
File:Court uniform for Princes 1873.jpg|明治6年2月22日太政官布告第64号図式
File:Court uniform for Princes 1876.jpg|明治9年10月12日太政官布告第125号図式
File:Court uniform for Princes 1911.jpg|明治44年5月26日皇族服装令図式
</gallery>

== 文官大礼服 ==
文官大礼服は、'''明治5年11月12日太政官布告第339号'''により定められた。しかし、この服制には問題があり、[[法令]]としての書式も未熟なものであった。勅任官の袴(ズボン)は白とされていたが、ヨーロッパでは白ズボンは特別な儀礼の際のみに用いられるものであった。このことは、[[岩倉使節団]]がドイツを訪問した際には[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]にまで指摘されている<ref>[[#刑部|刑部]] p 150-151</ref>。そのため、明治10年9月18日太政官第65号達により上衣と同じ黒羅紗製との併用とされた。

また、この布告では細部についての取決めが不充分で、当時の洋服店の技量が未熟だったこともあり、作制者による違いが見られた。そのため、'''明治19年12月4日[[宮内省]]達甲第15号'''による改正では、詳細な服制表や図が官報に掲載され、関係業者には色刷りの見本図<ref>[[#国立公文書館単行書|国立公文書館単行書]]</ref>が配布されて斉一が図られた<ref name="刑部 p 176">[[#刑部|刑部]] p 176</ref>。

この改正は[[奏任官|奏]]・[[勅任官]]大礼服の改正であり、判任官の大礼服は対象とされておらず、消滅したものと見なされている<ref name="刑部 p 176"/>。その後、明治25年12月10日宮内省達甲第8号の小改正により、奏任官の側章が変更された。また、昭和6年10月付の[[内閣書記官長]][[川崎卓士]]と[[陸軍次官]][[杉山元]]の書簡のやり取り(昭和6年10月6日内閣閣甲第97号及び昭和6年10月15日書記官1第2013号 「文官大礼服制改正ニ関スル件」)からは、宮内官制服令の昭和3年改正に伴い、文官大礼服も改正することが検討されていたことが伺える。

戦後、太政官布告は「内閣及び総理府関係法令の整理に関する法律」(昭和29年7月1日法律第203号) 、宮内省達は「皇室令及附属法令廃止ノ件」(昭和22年5月2日皇室令第12号)により廃止された。

<gallery caption="明治5年太政官布告第339号別冊図式" perrow="3">
File:Court uniform 1872 01.jpg|勅任官
File:Court uniform 1872 02.jpg|奏任官
File:Court uniform 1872 03.jpg|判任官
</gallery>
<gallery caption="明治19年12月4日宮内省達甲第15号別冊図式" perrow="4">
File:Court uniform 1886 01.jpg|勅任官
File:Court uniform 1886 02.jpg|勅任官
File:Court uniform 1886 03.jpg|奏任官
File:Court uniform 1886 04.jpg|奏任官
</gallery>
<gallery caption="明治19年12月4日宮内省達甲第15号弁図式" perrow="2">
File:Court uniform 1886 05.jpg|勅任官
File:Court uniform 1886 06.jpg|奏任官
</gallery>
=== 明治5年制式 ===
<gallery caption="" perrow="">
File:Inoue, K.jpg|[[井上馨]]
File:Inoue Kowashi as Minister of Education.jpg|[[井上毅]]
File:Sanetomi Sanjo formal.jpg|[[三条実美]]
File:Ito Hirobumi2.jpg|[[伊藤博文]]
File:Kato Hiroyuki.jpg|[[加藤弘之]]
File:Eikichi Ishida.JPG|[[石田英吉]]
File:Nakamura Masanao.jpg|[[中村正直]]
File:Namura Taizo.jpg|[[名村泰蔵]]
File:Iken Kojima.jpg|[[児島惟謙]]
File:Hisoka Maejima.jpg|[[前島密]]
File:Date Munenari in uniform.jpg|[[伊達宗城]]
File:Tadakatsu Utsumi.JPG|[[内海忠勝]]
File:宮城浩蔵.jpeg|[[宮城浩蔵]]
</gallery>
<gallery caption="岩倉使節団の大礼服" perrow="3">
File:Iwakura, T 2.jpg|[[岩倉具視]]
File:Ōkubo Toshimichi.jpg|[[大久保利通]]
File:Genichiro Fukuchi 3.jpg|[[福地源一郎]]
</gallery>

==== 構成 ====
; 帽
; 帽
: 勅任・奏任・判任官で共通だが、右側章の繍式飾毛、刺繍、刺繍の密度、釦に差異がある。
: 勅任・奏任・判任官で共通だが、右側章の繍式飾毛、刺繍、刺繍の密度、釦に差異がある。
; 上衣
; 上衣
: 全部各処の飾章について、勅任は五七の桐を用いて、これに桐蕾章を稠密に絡繍する。奏任は五三の桐を用い桐蕾章は勅任に比して疎にする。判任もまた五三の桐を用いるが桐蕾章は奏任に比して疎にする。
: 黒羅紗製のフロック型。全部各処の飾章について、勅任は五七の桐を用いて、これに桐蕾章を稠密に絡繍する。奏任は五三の桐を用い桐蕾章は勅任に比して疎にする。判任もまた五三の桐を用いるが桐蕾章は奏任に比して疎にする。
;上衣飾章の部分
;;上衣飾章の部分
: 勅任は襟・背・胸・袖・側襄・背端にする。奏任は襟・袖側襄・背端のみにする。判任は襟・袖のみにする。飾章及び上衣の周縁に、勅任は雷紋を繍附し、奏任及び判任は無地の単線を用いる。
:: 勅任は襟・背・胸・袖・側襄・背端にする。奏任は襟・袖側襄・背端のみにする。判任は襟・袖のみにする。飾章及び上衣の周縁に、勅任は雷紋を繍附し、奏任及び判任は無地の単線を用いる。
; 等級標条
;; 等級標条
: 両袖飾章に繞繍する。その条線は巾一分として、その中間は八厘とする。勅奏判任共各下等を一条として上等毎に一条を加える。
:: 両袖飾章に繞繍する。その条線は巾一分として、その中間は八厘とする。勅奏判任共各下等を一条として上等毎に一条を加える。
; 釦
;; 釦
: 勅任は金地に五七の桐、奏任は金地に五三の桐、判任は銀地に五三桐を鏤める。そして、上衣に用いるには巾三厘の周縁を凸彫する。また、帽の右側章に附する釦があるが、上衣の釦と同じ。
:: 勅任は金地に五七の桐、奏任は金地に五三の桐、判任は銀地に五三桐を鏤める。そして、上衣に用いるには巾三厘の周縁を凸彫する。また、帽の右側章に附する釦があるが、上衣の釦と同じ。
; 下衣
: 勅任は白、奏任は鼠、判任は紺の羅紗製ベスト。明治10年9月18日太政官第65号達により、勅奏任官用に黒羅紗製のものが追加された。
; 袴
: 勅任は白、奏任は鼠、判任は紺の羅紗製トラウザー。明治10年9月18日太政官第65号達により、勅奏任官用に黒羅紗製のものが追加された。


=== 等外官の服制 ===
==== 等外官の服制 ====
上下一般通常礼服([[黒]]の[[燕尾服]])を用いる。ただし、等外一等より四等に至り各袖端に等級の標條を紆う。
通常礼服([[黒]]の[[燕尾服]])を用いる。し、等外一等より四等に至り各袖端に等級の標條を紆う。
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=== 非役有位 ===
=== 明治19年改正 ===
[[File:Viscount Kikujirō Ishii.jpg|thumb|right|180px|石井菊次郎]]
四位以上の服制は勅任に准じ、五位以下は奏任に准ずる。ただし、飾章は御紋を置くほかに桐蕾の唐草を合繍せず、又背端章は円径二寸の御紋一個を附する。ただし、四位以上の帽の飾毛は黒色を用い、袴の両側章は電紋単章巾五分を用いる。五位以下は同じくして袴の両側章は単線巾五分のものを用いる。
<gallery caption="" perrow="2">
画像:勅任官大礼服.JPG|勅任官大礼服 前面及び後面
画像:奏任官大礼服.JPG|奏任官大礼服 前面及び後面
File:Hiroshi Saitō (ambassador).jpg|奏任官大礼服の[[斎藤博]]
File:Hiroshi Saitō at the diplomatic reception at White House.jpg|勅任官大礼服の斎藤博
</gallery>
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{{-}}

===有爵者大礼服===
== 非役有位大礼服 ==
[[画像:Yoshinobu Tokugawa 2.jpg|thumb|200px|有爵者大礼服([[徳川慶喜]][[公爵]])]]
{{Multiple image
;[[爵位]]
| align = right
|direction = horizontal
| header = 非役有位者大礼(四位以上)
|width = 150
|image1 = Mori Motonori.jpg
|caption1 = 明治5年様式([[毛利元徳]])
|image2 = Yukio Ozaki.jpg
|caption2 =明治19年様式([[尾崎行雄]])
| footer = }}
非役有位者の大礼服は文官大礼服と同じく'''明治5年11月12日太政官布告第339号'''により定められた。非役有位(ひやくゆうい)者とは、勅任官・奏任官等の官職にはないが、[[位階]]を有する者を指す。当初は官職にない華族が主な着用者であったが、爵位制度発足により、華族の[[戸主]]は有爵者大礼服を使用するようになった。

[[四位]]以上の服制は勅任に准じ、[[五位]]以下は奏任に准ずる。但し、飾章は御紋を置くほかに桐蕾の唐草を合繍せず、又背端章は円径二寸の御紋一個を附する。また、明治5年官布告では四位以上も帽の飾毛は黒で、袴の両側章は電紋単章巾五分を用い、五位以下は同じくして袴の両側章は単線巾五分のものを用いるとされていた。 明治10年10月8日太政官第74号達により黒羅紗製の袴が追加され、明治44年5月27日皇室令第5号(非役有位大礼服ノ帽ニ関スル件)により四位以上の帽の飾毛が白に改められた。

戦後、太政官布告は「内閣及び総理府関係法令の整理に関する法律」(昭和29年7月1日法律第203号) 、宮内省達は「皇室令及附属法令廃止ノ件」(昭和22年5月2日皇室令第12号)により廃止された。

<gallery caption="" perrow="2">
File:Court uniform 1872 04.jpg|明治5年太政官布告第339号別冊図式四位以上非役有位大礼服
File:Court uniform 1872 05.jpg|明治5年太政官布告第339号別冊図式五位以下非役有位大礼服
File:MakinoTadayuki.jpg|[[牧野忠恭]]
</gallery>
{{-}}
==有爵者大礼服==
[[画像:Yoshinobu Tokugawa 2.jpg|thumb|right|180px|有爵者大礼服([[徳川慶喜]][[公爵]])]]
明治17年7月7日宮内省達の華族令により五[[爵位]]が制定されたのに伴い、有爵者のための大礼服が明治17年10月25日宮内省乙第8号達を以って制定された。戦後「皇室令及附属法令廃止ノ件」(昭和22年5月2日皇室令第12号)により廃止。

=== 構成 ===
有爵者大礼服は、文官大礼服と異なり、胸部の飾章がなく、立襟型で、肩章が付く。

;[[爵位]]の識別
:上衣の衿章及び袖章並びに帽右側章の地質が、[[公爵]]は[[紫]]、[[侯爵]]は[[スカーレット|緋]]、[[伯爵]]は[[桃色|桃]]、[[子爵]]は[[浅葱色|浅黄]]、[[男爵]]は[[萌黄|萌黄色]]とされた。
:上衣の衿章及び袖章並びに帽右側章の地質が、[[公爵]]は[[紫]]、[[侯爵]]は[[スカーレット|緋]]、[[伯爵]]は[[桃色|桃]]、[[子爵]]は[[浅葱色|浅黄]]、[[男爵]]は[[萌黄|萌黄色]]とされた。
; 帽
; 帽
: 黒色の山形帽。飾毛は白駝鳥羽。
: 黒色の山形帽。飾毛は白駝鳥羽。
; 上衣
; 上衣
: 黒色の燕尾服型。肩にエポレットをつける。
: 黒色の立襟燕尾服型。肩にエポレットをつける。
; 下衣(チョッキ)
; 下衣(チョッキ)
: 白羅紗と黒羅紗と2種あり、白羅紗は特別大礼に用いる。
: 白羅紗と黒羅紗と2種あり、白羅紗は特別大礼に用いる。
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; 剣
; 剣
: 長さは2尺3寸5分。
: 長さは2尺3寸5分。
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== 宮内官制服 ==
[[File:Presentation of Credentials 02.jpg|thumb|right|200px|現在でも[[宮内庁]]車馬課の制服として残る、御者の中礼服。]]
明治17年([[1884年]])に侍従職及び式部職の勅奏任官大礼服が定められ、明治19年([[1886年]])には皇宮警察官、明治21年([[1888年]])には他の宮内官の制服が制定され、大礼服も定められた。また、[[1889年]](明治22年)には東宮職勅奏任官大小礼服(明治22年12月23日宮内省達第26号)、明治24年([[1891年]])には「宮内省高等官供奉常服」が定められた(明治24年11月24日宮内省達甲第3号)。これらの服装規定は明治44年([[1911年]])改正の際にに一本化され、昭和3年([[1928年]])に大改正がされたが、戦後「皇室令及附属法令廃止ノ件」(昭和22年5月2日皇室令第12号)により廃止された。
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=== 明治17年制式 ===
明治17年10月29日太政官達第91号により、侍従職及び式部職の勅奏任官大礼服が定められた。[[ガウン]]型のこの服は[[プロイセン]]の宮廷礼服を参考としており<ref name="刑部 p 173">[[#刑部|刑部]] p 173</ref>、[[山縣有朋]]の献策により制定されたといわれる<ref>[http://www.setsunan.ac.jp/~tosho/daireifuku/daireifuku.htm 大礼服の制定とその推移(摂南大学)]</ref>。
<gallery caption="明治17年10月29日太政官達第91号図式" perrow="3">
File:Court officer uniform 1884 01.jpg|勅任官
File:Court officer uniform 1884 02.jpg|奏任官七等以上
File:Court officer uniform 1884 03.jpg|奏任官八・九等
</gallery>

=== 明治19年制式 ===
明治19年6月26日宮内省達第9号を以って皇宮警察官服制が制定され、大礼服に相当する正服も定められた。この服装はイギリス陸軍将校の服装に倣ったものである<ref>[[#刑部|刑部]] p 201</ref>。

<gallery caption="明治19年制式皇宮警察官正服 明治19年6月26日宮内省達第9号図式" perrow="3">
File:Imperial Guard officer uniform 1886 01.jpg|皇宮警察長・同次長
File:Imperial Guard officer uniform 1886 02.jpg|皇宮警部・同警部補
File:Imperial Guard officer uniform 1928.jpg|皇宮警手
</gallery>

=== 明治21年制式 ===
明治21年([[1888年]])9月24日、宮内省において宮中勤務者の制服について協議が行われた。出席者は宮内大臣[[土方久元]]、式部長官[[鍋島直大]]、大膳太夫[[岩倉具定]]、皇后宮太夫[[香川敬三]]、主馬頭(氏名不明)、そして宮内省顧問の[[お雇い外国人]][[オットマール・フォン・モール]]であった<ref>[[#刑部|刑部]] p 200</ref><ref>[[#フォン・モール|フォン・モール]] p 172</ref>。

その結果、主殿寮勅奏任官服制(明治21年11月2日宮内省達第22号)、主猟局勅奏任官服制(明治21年10月8日宮内省達第19号)、主馬寮中頭権頭助権助車馬監調馬師服制(明治21年12月12日宮内省達第24号)が順次整備され、舎人や御者等の大・中礼服及び通常服も制定された<ref>[[#法規分類大全|法規分類大全]]</ref>。

<gallery>
File:Ottmar Von Mohl.jpg|オットマール・フォン・モール
File:Hijikata Hisamoto 2.jpg|土方久元(明治24年制供奉服を着用)
File:Iwakura Tomosada.jpg|[[岩倉具定]](明治44年制勅任宮内官大礼服を着用)
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=== 明治44年制式 ===
[[File:Hijikata, H.jpg|thumb|right|180px|[[土方久元]]の勅任宮内官大礼服]]
上記明治17年乃至24年の服制が全て廃止され、「宮内官制服令」(明治44年5月26日皇室令第4号)として一本化された。制式の主な改正点としては、勅任官の大礼服にはショルダ-ノッチ型の[[肩章]]が付くようになり、主馬寮高等官の大礼服は[[チュニック]]となった。

一方、明治44年5月9日付けの改正案(皇族服装令、宮内官制服令、奏任待遇宮内職員制服規程及判任待遇等外宮内職員制服規程案)には皇宮警手等の下級職員の服制も含まれていたが、公布された制服令では「宮内大臣ハ奏任待遇判任待遇及等外宮内職員ノ服制ヲ定ムルコトヲ得」とされ(第17条)、以後別途宮内省令により定められるようになった。そして、奏任待遇宮内職員の服制は明治44年5月27日宮内省令第4号、判任待遇及等外宮内職員は同5号を以って改正された。また、奏任待遇以下の宮内職員が職務の必要上着用する服装は、大礼服相当のものも含めて「職服」と称されるようになった。

<gallery caption="明治44年5月27日皇室令第4号図式" perrow="2">
File:Court officer uniform 1911 01.jpg|勅任官
File:Court officer uniform 1911 02.jpg|奏任官
File:Court officer uniform 1911 05.jpg|主馬寮勅任官
File:Court officer uniform 1911 06.jpg|主馬寮奏任官
</gallery>

=== 昭和3年制式 ===
「宮内官制服令」は昭和3年3月16日皇室令第2号を以って改正された。主馬寮以外の高等官大礼服はこれまでのガウン型から燕尾型となり、立襟は上まで閉じるタイプに改められた。戦後、「皇室令及附属法令廃止ノ件」(昭和22年5月2日皇室令第12号)により廃止された.

<gallery caption="昭和3年3月16日皇室令第2号図式" perrow="3">
File:Court officer uniform 1928 01.jpg|勅奏任官
File:Court officer uniform 1928 02.jpg|主馬寮勅奏任官
File:Imperial Guard officer uniform 1928.jpg|皇宮警察官
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== 関連する法令 ==
== 関連する法令 ==
{{Commons|Category:Court uniform of Imperial Japan}}
* [[朝鮮貴族]]タル有爵者大礼服制([[明治]]43年皇室令第22号)
* [[朝鮮貴族]]タル有爵者大礼服制([[明治]]43年皇室令第22号)
* [[皇族]]服装令(明治44年[[皇室]]令第3号)
* [[皇族]]服装令(明治44年[[皇室]]令第3号)
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* [[外交官]]及[[領事官]]大礼服代用服制(明治41年勅令第15号)
* [[外交官]]及[[領事官]]大礼服代用服制(明治41年勅令第15号)
* [[南洋群島]]在勤文官礼服代用服制([[大正]]15年勅令第311号)
* [[南洋群島]]在勤文官礼服代用服制([[大正]]15年勅令第311号)

== 注釈 ==
<references group="注"/>


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 参考資料 ==
== 参考資料 ==
* {{Cite book|和書|author=刑部芳則|year=2010年4月|title=洋服・散髪・脱刀 : 服制の明治維新|publisher=講談社|id=ISBN 978-4-06-258464-7|ref=刑部}}
*{{Cite book|和書|author=刑部芳則|year=2010年4月|title=洋服・散髪・脱刀 : 服制の明治維新|publisher=講談社|id=ISBN 978-4-06-258464-7|ref=刑部}}
* {{Cite book|和書|author=JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A07090081700|others=|year=|title= 改定文官大礼服制表並図・勅奏任官|origyear=明治19年12月4日|format=国立公文書館・単行書|publisher=|id=|ref=国立公文書館単行書}}
*{{Cite book|和書|author=JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A07090081700|others=|year=|title= 改定文官大礼服制表並図・勅奏任官|origyear=明治19年12月4日|format=国立公文書館・単行書|publisher=|id=|ref=国立公文書館単行書}}
*{{Cite book|和書|author=丹野郁|year=2003年9月|title=西洋服飾史|publisher=東京堂出版|id=ISBN 978-4-490-20505-3|volume=図説編|ref=丹野}}
*{{Cite book|和書|author=錦織竹香|others=|year=昭和2年|title= 古今服装の研究|publisher=東洋図書|id=|ref=錦織}}
*{{Cite book|和書
|author=オットマール・フォン・モール|year=1988年4月|title=ドイツ貴族の明治宮廷記|publisher=新人物往来社|translator=金森誠|id=ISBN 978-4-404-01496-2 |ref=フォン・モール}}
*{{Cite book|author=Ottmar von Mohl|year=1904|title=AM J A P A N I S C H E N H O F E - Kammerherr Seiner Majestät des Kaisers und Königs Wirklicher Geheimer Legations-Rat|publisher= Reimer|location=Berlin|id=|ref=フォン・モール(原文)}}
*{{Cite book|和書|author=内閣記録局編「儀制門 服制」|others=|year=1892−1894|title= 法規分類大全 第2編[第6冊]巻6
|publisher=内閣記録局|id=|ref=法規分類大全}}


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2012年2月1日 (水) 11:40時点における版

大礼服姿の濱口内閣の閣僚たち。濱口雄幸内閣総理大臣(中央)はじめ殆どの閣僚は勅任官大礼服。宇垣一成陸軍大臣(右から二人目)は陸軍の正装、外務大臣幣原喜重郎男爵(宇垣の左隣)は有爵者大礼服。

大礼服(たいれいふく)は、明治時代から太平洋戦争の終戦まで使用されていた、日本におけるエンパイア・スタイル宮廷服(Court dress)。明治初頭に導入され、その後大日本帝国憲法発布に至る立憲君主制確立の過程で整備された、所謂「大日本帝国の服制」[1]における最上級の正装である。華族文官用のものは制式が決められていた。

沿革

明治2年の明治天皇東幸

明治維新当初、新政府を構成した人々の服装は江戸時代の身分によって、公家の衣冠狩衣、武家の直垂、西洋化された藩兵の西洋式軍服とまちまちであった。例えば、明治元年(1868年)の東幸では服装について、出立と入城の際は衣冠で道中は狩衣とすべきと主張する公家の中山忠能と、狩衣は入城の際のみとして道中は直衣・直垂を任意とすることを希望する同じ議定で武家の伊達宗城の間で意見が対立した。その結果、道中は狩衣と直垂の着用を任意とされ、入城の際は衣冠の着用も可とされた。しかも、衣冠・狩衣・直垂は各自で色や紋が異なるため行列の服装は全く統一されず、威厳とは程遠いものだった。更に、沿道警護の兵は西洋式軍服姿であったが、これも洋服の着こなしに慣れていないために統一性を欠いており、アーネスト・サトウからは、行列の威厳が損なわれたのは「だらしがない兵隊せいである」と酷評された。この統一性のない服装の行列は明治2年(1869年)の東幸でも変わらなかった。[2]

そのため、維新政府には統一された新たな服制が必要となり、明治2年5月の官吏公選によって発足した新体制では、刑法官知事へ就任した嵯峨実愛岩倉具視の意を受けてこの問題を担当することになった。そして、11月2日の集議院に於いて、岩倉の提議により、嵯峨が蜷川式胤らの協力により考案した新政府の官員が着用する制服について審議されることとなった。しかし、このとき提案された冠服は、公家の服装を基にしたものであったため、武家出身者からの反発に遭った。このような混乱を収束するために、明治4年9月4日1871年10月17日)、「服制改革内勅」[注 1]が出された。この内勅は従来の服装に拘る華族に対するもので、衣冠などの服装は軟弱であり、神武天皇神功皇后の頃の姿に戻るべきとしている。この「神武・神功の頃の姿」とは「筒袖・細袴」を意味しており、洋服もまた「筒袖・細袴」である。つまり、「洋服を着用することは日本人本来の姿に戻ることである」という理屈である。[4]

「服制改革内勅」
朕惟フニ風俗ナル者移換以テ時ノ宜シキニ随ヒ国体ナル者不抜以テ其勢ヲ制ス今衣冠ノ制中古唐制ニ摸倣セシヨリ流テ軟弱ノ風ヲナス朕太タ慨之夫レ神州ノ武ヲ以テ治ムルヤ固ヨリ久シ天子親ラ之カ元帥ト為リ衆庶以テ其風ヲ仰ク神武創業神功征韓ノ如キ決テ今日ノ風姿ニアラス豈一日モ軟弱以テ天下ニ示ス可ケンヤ朕今断然其服制ヲ更メ其風俗ヲ一新シ祖宗以来尚武ノ国体ヲ立ント欲ス汝近臣其レ朕カ意ヲ体セヨ

そして、翌年には明治5年11月12日太政官布告第339号(大礼服及通常礼服ヲ定メ衣冠ヲ祭服ト為ス等ノ件)を以って文官と非役有位者の大礼服を含む服制が規定され、明治5年11月29日太政官布告第373号 (大礼服及通常礼服著用日ノ件) により着用規定が定められた。大礼服は当時ヨーロッパ宮廷での最上級正装として使用されていた宮廷制服(Court uniform)に倣って新たに定められた。第339号布告では、これらの大礼服に対して現代の正装であるホワイトタイの燕尾服が通常礼服とされた。通常礼服は小礼服とも呼ばれ、民間人等の大礼服が制定されていない者はこれを正装とした。そして、通常服はフロックコートであった。

明治6年(1873年)、文官と非役有位に続いて皇族大礼服が制定された(明治6年2月22日太政官布告第64号)。皇族大礼服はその後明治9年(1876年)と明治44年(1911年)に改正されている。

明治17年(1884年)、 華族令の奉勅(明治17年7月7日宮内省達)が公布されたのに伴い、明治17年10月25日宮内省乙第8号達を以って有爵者大礼服が制定された。続いて、同年10月29日太政官達第91号ではガウン型の宮内官大礼服(侍従職・式部職の勅任官・奏任官)が定められた。その後、明治21年(1888年)から明治22年(1889年)にかけて他の職員の制服が整備され、大礼服も定められた。宮内官の制服はその後明治44年(1911年)と[[昭和3年]](1928年)に大改正が行われている。

マント・ド・クール(女性用大礼服:北白川宮成久王妃房子内親王

明治19年(1886年)6月23日、婦人の礼式相当の西洋服装が規定された。女子の大礼服はマント・ド・クールとされ、中礼服はローブ・デコルテ、小礼服はローブ・ミーデコルテ、通常礼服はローブ・モンタントとされた[5]

同年12月4日には文官大礼服の図式が改正されたが、この際判任官のものは改正されず、その後は下級官吏も小礼服を使用した。大礼服は官員各自が自費で調製するものとされたが、下級官吏には負担が大きかった。菊池武夫が同じ洋服店で三つ揃いの背広と奏任官大礼服を誂えたところ、背広は28円だったのに対し、大礼服は220円かかっている[6]

明治41年(1908年)、熱帯地域又は炎暑酷烈なる地方に勤務する外交官のために「外交官及領事官大礼服代用服制」(明治41年3月2日勅令第15号)を以って大礼服の代用となる服装が制定された。その後、南洋群島に在勤する文官にも大礼服及び小礼服(燕尾服)の代用となる礼服が「南洋群島在勤文官礼服代用服制」(大正15年9月29日勅令第311号)により制定された。これらは何れも白色のチュニックであった。

陸軍武官で大礼服に相当するものは正装と呼ばれた。海軍武官のものは当初は大礼服と呼称していたが、後に正服、更に正装と改称した(軍服_(大日本帝国海軍)#正装参照)。これら武官の正装は大礼服とは違い、私的な冠婚葬祭にも着用できた。

これらの大礼服は昭和初期まで宮中での公的行事で用いられたが、第二次世界大戦が激化するに従って着用される機会はなくなった。終戦後、太政官布告は「内閣及び総理府関係法令の整理に関する法律」(昭和29年7月1日法律第203号) により廃止され、関連法令もほとんどが廃止となった。また、廃止について明文規定のないものも実効性喪失とされている。一方、文化出版局の服飾辞典によると、ヨーロッパ諸王国、フランスポルトガル南アメリカ諸国、タイ王国などでは、現在でも男性用大礼服に相当するエンパイア・スタイルの宮廷服が使用されている。

西洋式御服

外国の代表と写真に収まる明治天皇。天皇と側近は狩衣。西洋風軍服に丁髷の人物が見られる。
文官大礼服に似た正服を着た明治天皇

明治維新により天皇の衣食住も欧米化が進められると、西洋式の御服(天皇の服)が必要となり、明治5年には同年制定の文官大礼服に似た正服が調製された[7]。しかし、お雇い外国人アルベール・シャルル・デュ・ブスケからフランス皇帝は武官大将の制服を着用し、文官制服は着用しない旨の助言があったため、その直後には[注 2]軍服風の御服(御軍服[10]御大禮服[11])が制定されている。この服は、明治13年10月11日太政官布告第55号により陸軍大将の制服に準じた陸軍式御服が定められるまで使用された。

皇族大礼服

皇族大礼服は、明治6年2月22日太政官布告第64号を以って制定された当初、非役有位大礼服の桐紋を菊に置き換えたようなデザインであった。しかし、非役有位との区別がつきにくいことから、明治9年10月12日太政官布告第125号を以って菊唐草模様に改められた[12]

明治44年(1911年)には「皇族服装令」(明治44年5月26日皇室令第3号)が公布され、明治6年及び明治9年の太政官布告は廃止された(同令附則)。服装令では皇族の大礼服と小礼服が定められており(同1条)、大礼服は太政官布告の菊唐草模様が桜唐草模様となり、襟元を詰襟(立襟を最上部まで閉じる)とする旨が明記された。しかし、皇族が官職に就いている場合はその官職の服制に従うとされており(同5条)、親王及び王は特別の事由がない限り陸軍又は海軍の武官に任じられことから(「皇族身位令」(明治43年皇室令第2号)第17条)、その多くは軍服を着用していたため、皇族大礼服を着用する者は少なかった。

戦後「皇室令及附属法令廃止ノ件」(昭和22年5月2日皇室令第12号)により廃止された.

文官大礼服

文官大礼服は、明治5年11月12日太政官布告第339号により定められた。しかし、この服制には問題があり、法令としての書式も未熟なものであった。勅任官の袴(ズボン)は白とされていたが、ヨーロッパでは白ズボンは特別な儀礼の際のみに用いられるものであった。このことは、岩倉使節団がドイツを訪問した際にはビスマルクにまで指摘されている[13]。そのため、明治10年9月18日太政官第65号達により上衣と同じ黒羅紗製との併用とされた。

また、この布告では細部についての取決めが不充分で、当時の洋服店の技量が未熟だったこともあり、作制者による違いが見られた。そのため、明治19年12月4日宮内省達甲第15号による改正では、詳細な服制表や図が官報に掲載され、関係業者には色刷りの見本図[14]が配布されて斉一が図られた[15]

この改正は勅任官大礼服の改正であり、判任官の大礼服は対象とされておらず、消滅したものと見なされている[15]。その後、明治25年12月10日宮内省達甲第8号の小改正により、奏任官の側章が変更された。また、昭和6年10月付の内閣書記官長川崎卓士陸軍次官杉山元の書簡のやり取り(昭和6年10月6日内閣閣甲第97号及び昭和6年10月15日書記官1第2013号 「文官大礼服制改正ニ関スル件」)からは、宮内官制服令の昭和3年改正に伴い、文官大礼服も改正することが検討されていたことが伺える。

戦後、太政官布告は「内閣及び総理府関係法令の整理に関する法律」(昭和29年7月1日法律第203号) 、宮内省達は「皇室令及附属法令廃止ノ件」(昭和22年5月2日皇室令第12号)により廃止された。

明治5年制式

構成

勅任・奏任・判任官で共通だが、右側章の繍式飾毛、刺繍、刺繍の密度、釦に差異がある。
上衣
黒羅紗製のフロック型。全部各処の飾章について、勅任は五七の桐を用いて、これに桐蕾章を稠密に絡繍する。奏任は五三の桐を用い桐蕾章は勅任に比して疎にする。判任もまた五三の桐を用いるが桐蕾章は奏任に比して疎にする。
上衣飾章の部分
勅任は襟・背・胸・袖・側襄・背端にする。奏任は襟・袖側襄・背端のみにする。判任は襟・袖のみにする。飾章及び上衣の周縁に、勅任は雷紋を繍附し、奏任及び判任は無地の単線を用いる。
等級標条
両袖飾章に繞繍する。その条線は巾一分として、その中間は八厘とする。勅奏判任共各下等を一条として上等毎に一条を加える。
勅任は金地に五七の桐、奏任は金地に五三の桐、判任は銀地に五三桐を鏤める。そして、上衣に用いるには巾三厘の周縁を凸彫する。また、帽の右側章に附する釦があるが、上衣の釦と同じ。
下衣
勅任は白、奏任は鼠、判任は紺の羅紗製ベスト。明治10年9月18日太政官第65号達により、勅奏任官用に黒羅紗製のものが追加された。
勅任は白、奏任は鼠、判任は紺の羅紗製トラウザー。明治10年9月18日太政官第65号達により、勅奏任官用に黒羅紗製のものが追加された。

等外官の服制

通常礼服(燕尾服)を用いる。但し、等外一等より四等に至り各袖端に等級の標條を紆う。

明治19年改正

石井菊次郎

非役有位大礼服

非役有位者大礼(四位以上)
明治5年様式(毛利元徳
明治19年様式(尾崎行雄

非役有位者の大礼服は文官大礼服と同じく明治5年11月12日太政官布告第339号により定められた。非役有位(ひやくゆうい)者とは、勅任官・奏任官等の官職にはないが、位階を有する者を指す。当初は官職にない華族が主な着用者であったが、爵位制度発足により、華族の戸主は有爵者大礼服を使用するようになった。

四位以上の服制は勅任に准じ、五位以下は奏任に准ずる。但し、飾章は御紋を置くほかに桐蕾の唐草を合繍せず、又背端章は円径二寸の御紋一個を附する。また、明治5年官布告では四位以上も帽の飾毛は黒で、袴の両側章は電紋単章巾五分を用い、五位以下は同じくして袴の両側章は単線巾五分のものを用いるとされていた。 明治10年10月8日太政官第74号達により黒羅紗製の袴が追加され、明治44年5月27日皇室令第5号(非役有位大礼服ノ帽ニ関スル件)により四位以上の帽の飾毛が白に改められた。

戦後、太政官布告は「内閣及び総理府関係法令の整理に関する法律」(昭和29年7月1日法律第203号) 、宮内省達は「皇室令及附属法令廃止ノ件」(昭和22年5月2日皇室令第12号)により廃止された。

有爵者大礼服

有爵者大礼服(徳川慶喜公爵

明治17年7月7日宮内省達の華族令により五爵位が制定されたのに伴い、有爵者のための大礼服が明治17年10月25日宮内省乙第8号達を以って制定された。戦後「皇室令及附属法令廃止ノ件」(昭和22年5月2日皇室令第12号)により廃止。

構成

有爵者大礼服は、文官大礼服と異なり、胸部の飾章がなく、立襟型で、肩章が付く。

爵位の識別
上衣の衿章及び袖章並びに帽右側章の地質が、公爵侯爵伯爵子爵浅黄男爵萌黄色とされた。
黒色の山形帽。飾毛は白駝鳥羽。
上衣
黒色の立襟燕尾服型。肩にエポレットをつける。
下衣(チョッキ)
白羅紗と黒羅紗と2種あり、白羅紗は特別大礼に用いる。
袴(ズボン)
白羅紗と黒羅紗と2種あり,白羅紗は特別大礼に用いる。側章は巾1寸の金線1条。
金地に五七の桐。
長さは2尺3寸5分。

宮内官制服

現在でも宮内庁車馬課の制服として残る、御者の中礼服。

明治17年(1884年)に侍従職及び式部職の勅奏任官大礼服が定められ、明治19年(1886年)には皇宮警察官、明治21年(1888年)には他の宮内官の制服が制定され、大礼服も定められた。また、1889年(明治22年)には東宮職勅奏任官大小礼服(明治22年12月23日宮内省達第26号)、明治24年(1891年)には「宮内省高等官供奉常服」が定められた(明治24年11月24日宮内省達甲第3号)。これらの服装規定は明治44年(1911年)改正の際にに一本化され、昭和3年(1928年)に大改正がされたが、戦後「皇室令及附属法令廃止ノ件」(昭和22年5月2日皇室令第12号)により廃止された。

明治17年制式

明治17年10月29日太政官達第91号により、侍従職及び式部職の勅奏任官大礼服が定められた。ガウン型のこの服はプロイセンの宮廷礼服を参考としており[16]山縣有朋の献策により制定されたといわれる[17]

明治19年制式

明治19年6月26日宮内省達第9号を以って皇宮警察官服制が制定され、大礼服に相当する正服も定められた。この服装はイギリス陸軍将校の服装に倣ったものである[18]

明治21年制式

明治21年(1888年)9月24日、宮内省において宮中勤務者の制服について協議が行われた。出席者は宮内大臣土方久元、式部長官鍋島直大、大膳太夫岩倉具定、皇后宮太夫香川敬三、主馬頭(氏名不明)、そして宮内省顧問のお雇い外国人オットマール・フォン・モールであった[19][20]

その結果、主殿寮勅奏任官服制(明治21年11月2日宮内省達第22号)、主猟局勅奏任官服制(明治21年10月8日宮内省達第19号)、主馬寮中頭権頭助権助車馬監調馬師服制(明治21年12月12日宮内省達第24号)が順次整備され、舎人や御者等の大・中礼服及び通常服も制定された[21]

明治44年制式

土方久元の勅任宮内官大礼服

上記明治17年乃至24年の服制が全て廃止され、「宮内官制服令」(明治44年5月26日皇室令第4号)として一本化された。制式の主な改正点としては、勅任官の大礼服にはショルダ-ノッチ型の肩章が付くようになり、主馬寮高等官の大礼服はチュニックとなった。

一方、明治44年5月9日付けの改正案(皇族服装令、宮内官制服令、奏任待遇宮内職員制服規程及判任待遇等外宮内職員制服規程案)には皇宮警手等の下級職員の服制も含まれていたが、公布された制服令では「宮内大臣ハ奏任待遇判任待遇及等外宮内職員ノ服制ヲ定ムルコトヲ得」とされ(第17条)、以後別途宮内省令により定められるようになった。そして、奏任待遇宮内職員の服制は明治44年5月27日宮内省令第4号、判任待遇及等外宮内職員は同5号を以って改正された。また、奏任待遇以下の宮内職員が職務の必要上着用する服装は、大礼服相当のものも含めて「職服」と称されるようになった。

昭和3年制式

「宮内官制服令」は昭和3年3月16日皇室令第2号を以って改正された。主馬寮以外の高等官大礼服はこれまでのガウン型から燕尾型となり、立襟は上まで閉じるタイプに改められた。戦後、「皇室令及附属法令廃止ノ件」(昭和22年5月2日皇室令第12号)により廃止された.

関連する法令

  • 朝鮮貴族タル有爵者大礼服制(明治43年皇室令第22号)
  • 皇族服装令(明治44年皇室令第3号)
  • 宮内官制服令(明治44年皇室令第4号)
  • 非役有位大礼服ノ帽ニ関スル件(明治44年皇室令第5号)
  • 外交官領事官大礼服代用服制(明治41年勅令第15号)
  • 南洋群島在勤文官礼服代用服制(大正15年勅令第311号)

注釈

  1. ^ 『明治詔勅輯』によれば「侍従一同へ服制更正ノ勅諭」、『稿本詔勅録』によれば「侍従一同ヘノ詔」ともいう[3]
  2. ^ 錦織は明治5年の天長節から着用としているが[8]、刑部は翌年6月としている[9]

脚注

  1. ^ 刑部 第5章
  2. ^ 刑部 p 12-24
  3. ^ 『単行書・稿本詔勅録・巻之一・内部上』、国立公文書館アジア歴史資料センター(JACAR ref.A04017123000)。
  4. ^ 刑部 p 24-45
  5. ^ 刑部 p 68-70
  6. ^ 刑部 p 178-179
  7. ^ 刑部 p 66
  8. ^ 錦織 p 76
  9. ^ 刑部 p 67
  10. ^ 刑部 p 67
  11. ^ 錦織 p 76
  12. ^ 刑部 p 106
  13. ^ 刑部 p 150-151
  14. ^ 国立公文書館単行書
  15. ^ a b 刑部 p 176
  16. ^ 刑部 p 173
  17. ^ 大礼服の制定とその推移(摂南大学)
  18. ^ 刑部 p 201
  19. ^ 刑部 p 200
  20. ^ フォン・モール p 172
  21. ^ 法規分類大全

参考資料

  • 刑部芳則『洋服・散髪・脱刀 : 服制の明治維新』講談社、2010年4月。ISBN 978-4-06-258464-7 
  • JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A07090081700『改定文官大礼服制表並図・勅奏任官』(国立公文書館・単行書)(原著明治19年12月4日)。 
  • 丹野郁『西洋服飾史』 図説編、東京堂出版、2003年9月。ISBN 978-4-490-20505-3 
  • 錦織竹香『古今服装の研究』東洋図書、昭和2年。 
  • オットマール・フォン・モール 著、金森誠 訳『ドイツ貴族の明治宮廷記』新人物往来社、1988年4月。ISBN 978-4-404-01496-2 
  • Ottmar von Mohl (1904). AM J A P A N I S C H E N H O F E - Kammerherr Seiner Majestät des Kaisers und Königs Wirklicher Geheimer Legations-Rat. Berlin: Reimer 
  • 内閣記録局編「儀制門 服制」『法規分類大全 第2編[第6冊]巻6』内閣記録局、1892−1894。