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{{基礎情報 軍人
{{基礎情報 軍人
| 氏名 =陸軍大将 栗林 忠道
| 氏名 = 栗林 忠道
| 各国語表記 =
| 各国語表記 =
| 生年月日 = [[1891年]][[7月7日]]
| 生年月日 = [[1891年]][[7月7日]]
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| 画像 = Tadamichi Kuribayashi1.jpg
| 画像 = Tadamichi Kuribayashi1.jpg
| 画像サイズ = 250px
| 画像サイズ = 250px
| 画像説明 = 留守[[近衛師団|近衛第2師団長]]([[陸軍中将]])時<ref>本写真(原版)の撮影自体は留守近衛第2師団長たる陸軍中将当時であるが、死後に遺影として用いるために[[軍服 (大日本帝国陸軍)#昭和18年制式|襟章]]の加星が施され3連星の陸軍大将(襟章陸軍中将は2連星)とし、また[[着色写真]]化されている。</ref>
| 画像説明 = 留守[[近衛師団|近衛第2師団長]]([[陸軍中将]])の栗林<ref>本写真(原版)の撮影自体は留守近衛第2師団長たる陸軍中将当時(1943年・1944年頃)であるが、死後に遺影として用いるために[[軍服 (大日本帝国陸軍)#昭和18年制式|襟章]]の加星が施され3連星の陸軍大将(陸軍中将は2連星)とし、また[[着色写真]]化されている。</ref>
| 渾名 =
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| 生誕地 = [[長野県]][[埴科郡]]西条村
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| 死没地 = [[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]
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| 所属政体 = {{JPN1947}}
| 所属政体 = {{JPN1947}}
| 所属組織 = {{IJARMY}}
| 所属組織 = {{IJARMY}}
| 軍歴 = [[1914年]] - [[1945年]]
| 軍歴 = [[1914年]] - [[1945年]]
| 最終階級 = [[陸軍大将]]
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| 指揮 = [[第23軍 (日本軍)|第23軍]]参謀長<br />留守近衛第2師団長<br />[[第109師団]]長<br />[[小笠原兵団]]長
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| 戦闘 = [[第二次世界大戦]]
| 戦闘 = [[第二次世界大戦]]
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| 廟 =
| 廟 =
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'''栗林 忠道'''(くりばやし ただみち、{{Jdate|1891|7|7}} ‐ {{Jdate|1945|3|26}})は、[[大日本帝国陸軍]]の[[軍人]]。[[長野県]][[埴科郡]]旧西条村(現:[[長野市]][[松代町 (長野県)|松代町]])出身。最終階級は[[陸軍大将]]。[[位階]][[勲等]]は[[従四位]][[勲一等]]([[旭日章|旭日大綬章]])。[[硫黄島の戦い]]での日本側指揮官として知られる
'''栗林 忠道'''(くりばやし ただみち、{{Jdate|1891|7|7}} ‐ {{Jdate|1945|3|26}})は、[[大日本帝国陸軍]]の[[軍人]]。最終階級は[[陸軍大将]]。[[位階]][[勲等]]は[[従四位]][[勲一等]]([[旭日章|旭日大綬章]])。[[長野県]][[埴科郡]]旧西条村(現:[[長野市]][[松代町 (長野県)|松代町]])出身


[[小笠原兵団]]長(兼[[第109師団]]長)として[[日本軍|陸海軍]][[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]守備隊を総指揮(小笠原方面最高指揮官)、[[硫黄島の戦い]]において激戦ののち[[戦死]]した。
== 生涯 ==
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から続く[[郷士]]の家に生まれる。{{和暦|1911}}旧制長野県立長野中学校(現[[長野県長野高等学校]])を卒業。在学中は文才に秀で、校友誌には美文が残されている。当初[[ジャーナリスト]]を志し[[東亜同文書院大学|東亜同文書院]]を受験し合格していたが、恩師の薦めもあり[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]へ進学。


== 来歴 ==
{{和暦|1914}}、[[陸軍士官学校_(日本)|陸軍士官学校]]卒業(第26期)。席次は125番で、[[騎兵]][[将校]]となる。
{{和暦|1891}}7月7日、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から続く[[郷士]]の家に生まれる。{{和暦|1911}}、旧制長野県立長野中学校(現[[長野県長野高等学校]])を卒業(第11期)。在学中は文才に秀で、校友誌には美文が残されている。当初[[ジャーナリスト]]を志し[[東亜同文書院大学|東亜同文書院]]を受験し合格していたが、恩師の薦めもあり帝国陸軍の[[将校]]を目指し、[[士官候補生]]を経て[[1912年]](大正1年)12月1日に[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校(本科)]]へ入校。


[[陸軍騎兵学校]]を経て、{{和暦|1923}}11月に[[陸軍大学校]]卒業(第35期)次席であったため[[恩賜の軍刀]]を授与される。同年12月、栗林義井(同姓)と結婚。その後、太郎・洋子・たか子の一男二女に恵まれる。
{{和暦|1914}}5月28日に陸士を卒業(第26期、[[兵科]]:[[騎兵]]、席次:125番)、原隊である[[騎兵連隊|騎兵第15連隊]]附[[見習士官]]([[曹長|陸軍騎兵曹長]])となり、同年12月25日に[[少尉|陸軍騎兵少尉]]任官。{{和暦|1918}}7月に[[陸軍騎兵学校]]を経て[[中尉|陸軍騎兵中尉]]に任官、{{和暦|1920}}127日[[陸軍大学校]]へ入校し8月に[[大尉|陸軍騎兵大尉]]任官、{{和暦|1923}}11月29日には陸大を卒業しているが(第35期)、席次が[[次席]]であったため[[恩賜の軍刀|御賜の軍刀]]を授与されている。同年12月、栗林義井(同姓)と結婚。その後、太郎・洋子・たか子の一男二女に恵まれる。


=== 北米駐在・騎兵畑 ===
[[アメリカ合衆国|アメリカ]]と[[カナダ]]に駐在武官として駐在経験があり、[[ハーバード大学]]に学ぶなど、陸軍の中では珍しい米国通だった。国際事情にも明るく対米開戦にも批判的だった。{{和暦|1943}}6月 [[陸軍中将]]に任官。 [[近衛師団|留守近衛第2師団長]]となる。戦況が悪化する中、{{和暦|1944}}[[5月27日]]、[[第109師団]]長となり、[[6月8日]]、[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]に着任。同年[[7月1日]]には[[小笠原兵団]]長も兼任。[[兵団]][[司令部]]を設備の整った従来の[[父島]]から、米軍上陸後には最前線になると考えられた硫黄島に移し、同島守備の指揮を執る。
[[File:Tadamichi Kuribayashi.jpg|thumb|right|200px|陸軍騎兵中佐ないし大佐時代の栗林]]
騎兵第15連隊[[中隊]]長、[[騎兵監|騎兵監部]]員を経て陸軍騎兵大尉当時の{{和暦|1927}}、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に[[駐在武官]]([[大使館]]附)として駐在、帰国後の{{和暦|1930}}3月に[[少佐|陸軍騎兵少佐]]に任官し、4月には[[陸軍省]][[軍務局]]課員を拝命。翌{{和暦|1931}}8月には、再度[[北アメリカ|北米]]の[[カナダ]]に駐在武官([[公使館]]附)として駐在した。そのため、建軍の経緯から[[フランス]]・[[ドイツ]]志向の多い帝国陸軍の中では珍しいアメリカ通であり、また国際事情にも明るくのちの対米開戦にも批判的であっった。


{{和暦|1933}}8月、[[中佐|陸軍騎兵中佐]]任官、同年12月30日に陸軍省軍務局馬政課高級課員となりさらに{{和暦|1936}}8月1日には[[騎兵連隊|騎兵第7連隊]]長に就任する。{{和暦|1937}}8月2日、[[大佐|陸軍騎兵大佐]]に任官し陸軍省[[兵務局]]馬政課長拝命。馬政課長当時の{{和暦|1938}}には[[軍歌]]『[[愛馬進軍歌]]』の選定に携わっている。{{和暦|1940}}3月9日、[[閣下]]たる[[少将|陸軍少将]]([[将軍]])に任官し[[騎兵第2旅団 (日本軍)|騎兵第2旅団]]長、同年12月2日には[[日露戦争]]当時[[秋山好古]]陸軍少将が[[旅団|旅団長]]を務めていたことで知られる、[[騎兵第1旅団 (日本軍)|騎兵第1旅団]]長に就任。
翌{{和暦|1945}}[[2月19日]]からの[[硫黄島の戦い]]の指揮を執る。圧倒的な劣勢の中、[[アメリカ軍|米軍]]の予想を遥かに上回り、粘り強く戦闘を続けるが[[3月16日]]、[[大本営]]に訣別電報を打電。翌17日、大本営よりその功績を認められ、特旨を以て[[陸軍大将]]任官。これは平時とは異なる戦時昇進ではあるが、日本陸海軍中最年少の[[大将]]である。その為、栗林の大将任官は訣別電報を受けての進級ではあるものの、死後進級である[[特進]]では無い。[[3月26日]]、数百名の将兵と共に、自ら指揮を取り米軍陣地に対し最後の攻撃を敢行し、戦死したと推定される<ref>栗林の最期については、後述のように現在でも遺体が発見されていないため、死亡時の状況と原因(戦死か自決か)は判明していない。戦闘で行方不明となったとするのが正確な表現であるが、当時の状況から判断して戦死した可能性が高く、関連の書物でも戦死として扱われている。</ref>。{{没年齢2|1891|7|7|1945|3|26}}。


=== 太平洋戦争 ===
墓所は[[長野市]][[松代]]の[[明徳寺 (長野市)|明徳寺]]。戦後の{{和暦|1967}}になって、[[勲一等]]に叙せられ、[[旭日大綬章]]が授けられた。
[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])開戦目前の{{和暦|1941}}9月19日、緒戦の[[南方作戦]]において[[イギリス]]領[[香港]]の攻略を任務とする[[第23軍 (日本軍)|第23軍]][[参謀長]]に就任した栗林は[[作戦]]立案や指導にあたり、12月8日の開戦後、[[香港の戦い]]において帝国陸軍はわずか18日間で[[イギリス軍]]を撃破し香港を制圧した。{{和暦|1943}}6月10日、[[中将|陸軍中将]]に任官し、同日、第23軍参謀長から転じて[[近衛師団|留守近衛第2師団]]長に就任<ref>なお、部隊名称に冠している「留守(留守部隊)」とは、出征中の「実戦部隊([[近衛師団|近衛第2師団]])」に対し将兵の補充(補充兵)・教育や補給を担当する「予備部隊(留守近衛第2師団)」を意味する(当時、近衛第2師団は[[スマトラ島]]方面に作戦展開中)。</ref>。しかし{{和暦|1944}}4月6日、師団[[厨房]]で起きた失火による火災事故の責任をとり[[師団|師団長]]を辞し、[[東部軍 (日本軍)|東部軍]][[司令部]]附となる<ref>「禁闕守護」「鳳輦供奉」の任を担っている[[近衛兵|近衛]]の部隊において、この事故は問題であった。</ref>。


=== 硫黄島の戦い ===
死後、日米の戦史研究者などからは高い評価を得ていたが、硫黄島の戦いを除くと軍人としては目立ったエピソードも少なく、局地戦で戦死した司令官ということもあり、日本でも一般的な知名度は高くなかった。しかし[[2005年]](平成17年)に硫黄島における栗林に焦点をあてた[[梯久美子]]の著書『散るぞ悲しき』が刊行され話題を呼んだのに続いて、翌[[2006年]](平成18年)、[[クリント・イーストウッド]][[映画監督|監督]]の[[映画]]『[[硫黄島からの手紙]]』が公開され(栗林役を[[渡辺謙]]が演じた)、関連書籍の刊行が相次ぐなどして一躍その名が知られることになった。
[[Image:Pre-invasion bombardment of Iwo Jima.jpg.jpeg|thumb|200px|硫黄島での戦闘(2月17日)]]
{{main|硫黄島の戦い}}


{{和暦|1944}}5月27日、小笠原方面を守備するため[[父島要塞]]守備隊を基幹とする'''第109師団長'''となり、6月8日、硫黄島に着任。同年7月1日には[[大本営]]直轄部隊として[[編成]]された'''小笠原兵団長'''も兼任、[[大日本帝国海軍|海軍]]部隊も指揮下におき小笠原方面最高指揮官となる([[硫黄島の戦い#小笠原兵団の編成と編制]])。[[兵団]]司令部を設備の整った従来の[[父島]]から、アメリカ軍上陸後には最前線になると考えられた硫黄島に移し、同島守備の指揮を執る。もとより敵上陸軍の撃退(勝利)は不可能と考えていた栗林は、堅牢な地下陣地を構築しての長期間の[[持久戦]]・遊撃戦([[ゲリラ]])を計画・着手する。[[水際作戦|水際陣地]]構築および同島の[[飛行場|千鳥飛行場]]確保に固執する[[硫黄島の戦い#地下陣地の構築と海軍の反対|海軍の強硬な反対]]を最後まで抑え、またアメリカ軍[[爆撃機]]の[[空襲]]にも耐え、上陸直前までに全長18kmにわたる坑道および地下陣地を建設した。その一方で隷下将兵に対しては[[陣地]]撤退・[[バンザイ突撃|万歳突撃]]・[[自殺|自決]]を強く戒め、全将兵に配布した『敢闘ノ誓』や『膽兵ノ戦闘心得』に代表されるように、あくまで[[陣地防御]]やゲリラ戦をもっての長期抵抗を徹底させた([[硫黄島の戦い#防衛戦術]])。
また、栗林は幼少の頃に一時的に養子に出ていたことがあり、養子に出ていた当時の記録は長らくの間、不明であったが、近年、生家から少年時代の日記帳や成績表などが発見され、生後まもなく地元の[[士族]]・倉田家へ[[養子縁組|養子]]に出ていた時期など、これまで知られていなかった少年期の詳細が明らかになった。


翌{{和暦|1945}}2月16日、アメリカ軍艦艇・航空機は硫黄島に対し猛烈なる上陸準備砲爆撃を行い、同月19日9時、[[アメリカ海兵隊|海兵隊]]第1波が[[LVT]]や[[上陸用舟艇]]をもって上陸を開始([[硫黄島の戦い#アメリカ軍の上陸]])。上陸準備砲爆撃時に栗林の命令を無視し、応戦砲撃を行った(日本)海軍の[[海岸砲]]により[[擂鉢山]][[火砲]]陣地が露呈し全滅するなど誤算もあったものの、十分にアメリカ軍上陸部隊を内陸部に引き込んだ日本軍守備隊は10時過ぎに一斉攻撃を開始する。圧倒的な劣勢の中、アメリカ軍の予想を遥かに上回り、粘り強く戦闘を続け多大な損害をアメリカに与えるものの、3月7日、最後の戦訓電報となる[[硫黄島の戦い|総括電報「膽参電第三五一号」]]を[[参謀本部]](大本営陸軍部)に対し、16日には訣別電報を大本営に対し栗林は打電([[硫黄島の戦い#組織的戦闘の終結]]・[[#訣別の電文]])。翌17日、大本営よりその功績を認められ、特旨を以て[[陸軍大将]]任官。これは平時とは異なる戦時昇進ではあるが、53歳にして日本陸海軍中最年少の[[大将]]である(そのため、栗林の大将任官は訣別電報を受けての進級ではあるものの、死後進級である[[特進]]では無い)。同日、最後の総攻撃を企図した栗林は残存部隊に対し以下の指令を送った。
=== 年表 ===
* 一、戦局ハ最後ノ関頭ニ直面セリ
* {{和暦|1911}}3月 - 旧制[[長野県長野高等学校|長野県立長野中学校]]第11期卒業。
* 二、兵団ハ本十七日夜、総攻撃ヲ決行シ敵ヲ撃摧セントス
* {{和暦|1914}} - [[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]第26期卒業。陸軍[[騎兵]][[少尉]]となる。
* 三、各部隊ハ本夜正子ヲ期シ各方面ノ敵ヲ攻撃、最後ノ一兵トナルモ飽ク迄決死敢闘スベシ 大君{注:3語不明}テ顧ミルヲ許サズ
* {{和暦|1918}}
* 四、'''予ハ常ニ諸子ノ先頭ニ在リ'''
** 7月 - [[陸軍騎兵学校]]乙種卒業。[[中尉|陸軍騎兵中尉]]に昇進。
* {{和暦|1923}}
** 8月 - [[大尉|陸軍騎兵大尉]]に昇進。同年11月[[陸軍大学校]]35期次席卒業時に[[恩賜の軍刀]]を授与される。
** 12月 - 結婚。騎兵第15連隊中隊長。
* {{和暦|1925}}5月 - [[騎兵監|騎兵監部]]員。
* {{和暦|1927}} - 武官補佐官として[[ワシントンD.C.]]に駐在。軍事研究のため[[ハーバード大学]]に学ぶ。
* {{和暦|1930}}
** 3月 - [[少佐|陸軍騎兵少佐]]に昇進。
** 4月 - [[陸軍省#軍務局|軍務局]]課員。
* {{和暦|1931}}8月 - [[駐在武官|カナダ公使館付武官]]となる。
[[Image:Tadamichi Kuribayashi.jpg|thumb|right|200px|騎兵中佐時代の栗林]]
* {{和暦|1933}}
** 8月 - [[中佐|陸軍騎兵中佐]]に昇進。
** 12月 - 馬政課高級課員。
* {{和暦|1936}}8月 - 騎兵第7連隊長。
* {{和暦|1937}}8月 - [[大佐|陸軍騎兵大佐]]に昇進。陸軍省[[陸軍省#兵務局|兵務局]]馬政課長となる。
* {{和暦|1938}} - [[軍歌]]「[[愛馬進軍歌]]」の選定に関わる。
* {{和暦|1940}}
** 3月 - [[少将|陸軍少将]]に昇進。[[騎兵第2旅団 (日本軍)|騎兵第2旅団]]長。
** 12月 - [[騎兵第1旅団 (日本軍)|騎兵第1旅団]]長。
** 映画「[[暁に祈る]]」および同名の主題歌の制作に関わる。
* {{和暦|1941}}12月 - [[第23軍 (日本軍)|第23軍]][[参謀|参謀長]]として[[香港の戦い]]に参加。
* {{和暦|1943}}6月 - [[中将|陸軍中将]]に昇進。 [[近衛師団|留守近衛第2師団長]]となる。
* {{和暦|1944}}
** 4月 - 師団厨房で起きた失火の責任を取り、留守近衛第2師団長を辞す。[[東部軍 (日本軍)|東部軍]]司令部付。
** [[5月27日]] - [[第109師団 (日本軍)|第109師団]]長となる。
** [[6月8日]] - [[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]に着任。
** [[7月1日]] - [[小笠原兵団]]長兼任。兵団司令部を硫黄島に置き同島守備の指揮を執る。
* {{和暦|1945}}
** [[2月19日]] - [[アメリカ軍]]、硫黄島上陸開始。
** [[2月23日]] - [[摺鉢山 (東京都)|摺鉢山]]独立拠点、アメリカ軍[[占領]]。
** [[3月16日]] - [[大本営]]に訣別電報打電。
** [[3月17日]] - 特旨を以て[[陸軍大将]]に昇進(53歳での大将昇進は日本陸軍史上最年少)。
** [[3月26日]] - 日本軍守備隊最後の組織的総攻撃の指揮を行い、戦死したと推定されている。総攻撃に際し、階級章を外して参加したため、現在でも栗林の遺体は確認・発見されていない。
* {{和暦|1967}}[[12月23日]] - 叙・[[勲等|勲一等]]、授・[[旭日大綬章]]。<!--同日の官報には歿時・勲二等の旨記載あり-->


26日、17日当日および以降は総攻撃の機会が訪れなかったため、以来時機を窺っていた栗林は約400名の将兵とともに、自ら指揮を取り[[アメリカ陸軍航空軍|アメリカ陸空軍]]野営地に対し夜襲を敢行。最後までアメリカ軍に損害を与え戦死した<ref>栗林の最期については、自身が[[軍服 (大日本帝国陸軍)|軍服]]の[[階級章]]などを外して総攻撃の指揮を執ったため、(アメリカ軍による総攻撃後の遺体捜索において)遺体が発見されておらず、詳細な死亡時の状況と原因(戦死か自決か)は判明していない。戦闘で行方不明となったとするのが正確な表現であるが、当時の状況から判断して戦死した可能性が高く、関連の書物でも戦死として扱われている。</ref><ref>なお、[[雑誌|情報誌]]『[[SAPIO]]』2006年10月25日号において[[大野芳]]により、栗林がアメリカ軍に降伏しようとして部下に斬殺されたという異説が唱えられたが、『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』2007年2月号において梯久美子による検証がなされ、ほぼ否定されている。</ref>。{{没年齢2|1891|7|7|1945|3|26}}。
== 硫黄島の戦い ==
[[Image:Pre-invasion bombardment of Iwo Jima.jpg.jpeg|thumb|180px|硫黄島での戦闘(2月17日)]]
{{see also|硫黄島の戦い}}
[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])末期の[[激戦地]]であった、[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]の守備隊総司令官を務めた。


== 戦後 ==
合理主義者で、用意周到な大規模地下陣地を構築し、将兵を事前の[[空襲|爆撃]]・[[艦砲射撃]]に耐えさせ、[[バンザイ突撃|万歳突撃]]による[[玉砕]]を禁じ、徹底的な持久戦を行って出血を強いる作戦に出た。これは本土防衛のための時間稼ぎであると同時に、アメリカ国内の世論が戦闘結果より米軍の死傷者数に敏感なことを意識してのことでもある。その結果、日本軍の死傷率は実に96%を越えるが、物資も豊富で兵力も3倍以上の[[アメリカ軍]]に対して敵・味方も予想し得ぬ長期にわたる善戦をし、大戦末期としては[[ペリリューの戦い]]をも上回る異例の被害を与えた。
墓所は長野市[[松代]]の[[明徳寺 (長野市)|明徳寺]]。戦後{{和暦|1967}}、勲一等に叙せられ旭日大綬章を受勲。


死後、日米の戦史研究者などからは高い評価を得ていたが、硫黄島の戦いを除くと[[軍]]参謀長や留守師団長など軍人としては目立ったエピソードも少なく、局地戦で戦死した[[指揮官]]ということもあり、日本でも一般的な知名度は高くなかった。しかし{{和暦|2005}}に硫黄島における栗林に焦点をあてた[[梯久美子]]の著書『散るぞ悲しき』が刊行され話題を呼んだのに続いて、翌{{和暦|2006}}、[[クリント・イーストウッド]][[映画監督|監督]]の[[映画]]『[[硫黄島からの手紙]]』(『Letters from Iwo Jima』)が公開され(栗林忠道役:[[渡辺謙]])、関連書籍の刊行が相次ぐなどして一躍その名が知られることになった。
[[3月26日]]、アメリカ軍に対して最後の攻撃を行う。この突撃は万歳突撃の形を取らず、隠密に敵陣に近づき敵側の油断を突いた夜襲・[[ゲリラ]]戦に近い戦法を取ったため、予期していなかったアメリカ軍に対して最後の打撃を与えることに成功した。栗林は、この最後の組織的戦闘で戦死したと推定されている。戦闘終結後のアメリカ軍による調査でも栗林の遺体を特定・発見出来なかった<ref>栗林の最期については,雑誌『[[SAPIO]]』[[2006年]]10月25日号において[[大野芳]]によりアメリカ軍に降伏しようとして部下に斬殺されたという異説が唱えられたが、『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』2007年(平成19年)2月号において[[梯久美子]]による検証がなされ、ほぼ否定された。</ref>。なお、陸軍大将自らが敵陣へ突撃し、戦死したのは日本軍の戦史上初めてのことである。

また、栗林は幼少の頃に一時的に[[養子縁組|養子]]に出ていたことがあり、養子に出ていた当時の記録は長らくの間不明であったが、近年、生家から少年時代の日記帳や成績表などが発見され、生後まもなく地元の[[士族]]・倉田家へ養子に出ていた時期など、これまで知られていなかった少年期の詳細が明らかになった。


== 評価 ==
== 評価 ==
アメリカ本国においては、硫黄島の戦いの[[報道]]がリアルタイムでなされていたこともあり、この戦闘の状況と栗林の知名度は高い。特に戦後、[[軍事史]][[研究家]]やアメリカ軍々人に対し、「太平洋戦争における日本軍人で優秀な指揮官は誰であるか」と質問した際、「栗林将軍(General Kuribayashi)」と栗林の名前を挙げる人物が多いといわれている。戦闘自体は結果的に敗北に終わったものの、僅か22[[平方キロメートル|km&sup2;]](東京都[[北区 (東京都)|北区]]程度の面積)にすぎない硫黄島を、日本軍の3倍以上の兵力および絶対的な[[制海権]]・[[制空権]]を持ち、予備兵力・物量・補給線・装備全てにおいて圧倒的に優勢であったアメリカ軍の攻撃に対し、最後まで将兵の士気を低下させずに、アメリカ軍の予想を上回る1ヶ月半も防衛した采配は高く評価されている。
米国においては、硫黄島の戦いの[[報道]]がリアルタイムでなされていた事もあり、この戦闘の状況と栗林の知名度は高い。


特に戦後、[[軍事史]][[研究家]]やアメリカ軍軍人に対し、「太平洋戦争に於ける日本軍人で優秀な指揮官は誰であるか」と質問した際、「クリバヤシ将軍(General Kuribayashi)」と栗林の名前を挙げる人物が多いと云われている。結果的に敗北に終わったものの、僅か22[[平方キロメートル|km&sup2;]](東京都[[北区 (東京都)|北区]]程度)にすぎない硫黄島を、日本軍の3倍以上の兵力、[[制海権]]・[[制空権]]・予備兵力・物量・補給線・装備全てに於いて圧倒的に優勢であったアメリカ軍([[アメリカ海兵隊]])の攻撃に対し、最後まで兵の士気を低下させずに、アメリカ側の予想を上回る一ヶ月半も防衛した采配は高く評価されている。従来の島嶼防衛における水際作戦という基本方針を退け、長大な地下要塞を構築したで、不用意な万歳突撃等による玉砕を厳禁し部下に徹底抗戦を指示した。その結果、軍の死傷者総数が日本守備隊のそれを上回るという成果を上げ、その他、米軍の当時の主力戦車を大量に撃破るといった損害を与えることに成功し、軍幹部をして勝者なき戦いと評価せしめた。{{要出典範囲|地下壕構築などの栗林中将の独創による作戦は、劣勢な自軍をもっていかにして圧倒的な敵軍を迎撃するか、という面でその後の戦術論にも大きな影響を与え、一説によれば{{誰|date=2010年6月}}[[ベトナム戦争]]で[[南ベトナム解放民族戦線]]がとった同様の作戦は、硫黄島の戦史から学んだ結果とも言われている。|date=2010年2月}}
従来の島嶼防衛における水際作戦という基本方針を退け、長大かつ堅牢な地下陣地を構築したうえで、不用意な万歳突撃等による[[玉砕]]を厳禁し部下に徹底抗戦を指示した。その結果、アメリカ軍の死傷者総数が日本守備隊のそれを上回るという成果を上げ、また[[M4中戦車|M4 シャーマン中戦車]]や[[LVT]]等を大量に撃破・擱坐させるといった物的損害を与えることに成功し、のちアメリカ軍幹部をして勝者なき戦いと評価せしめた。{{要出典範囲|地下壕構築などの栗林中将の独創による作戦は、劣勢な自軍をもっていかにして圧倒的な敵軍を迎撃するか、という面でその後の戦術論にも大きな影響を与え、一説によれば{{誰|date=2010年6月}}[[ベトナム戦争]]で[[南ベトナム解放民族戦線]]がとった同様の作戦は、硫黄島の戦史から学んだ結果とも言われている。|date=2010年2月}}


この硫黄島での戦いと同じく地形を利用しアメリカ軍に効果的な攻撃を行って甚大な被害を与えた[[沖縄戦]]での苦戦から、米国上層部ではさらなる被害が予想される[[本土決戦|本土上陸戦]]はできるだけ避けたいと思うようになり、これが連合軍による[[日本の分割統治計画|日本分割]]という形での終戦を避ける事の遠因になったとも言われる。
この硫黄島での戦いと同じく地形を利用し持久戦に引き込みアメリカ軍に効果的な攻撃を行甚大な被害を与えた[[沖縄戦]]での苦戦から、アメリカ上層部ではさらなる被害が予想される[[本土決戦|本土上陸戦]]はできるだけ避けたいと思うようになり、これが連合軍による[[日本の分割統治計画|日本分割]]という形での終戦を避ける事の遠因になったとも言われる。


== 訣別の電文 ==
== 訣別の電文 ==
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然レドモ '''飽クナキ'''敵ノ猛攻ニ相次デ斃レ 為ニ御期待ニ反シ 此ノ要地ヲ敵手ニ委ヌル外ナキニ至リシハ '''小職'''ノ誠ニ恐懼ニ'''堪ヘザル所ニシテ'''幾重ニモ御詫申上グ 今ヤ弾丸尽キ水涸レ '''全員反撃シ''' 最後ノ敢闘ヲ行ハントスルニ方(あた)リ 熟々(つらつら)皇恩ヲ思ヒ 粉骨砕身モ'''亦悔イズ''' 特ニ本島ヲ奪還セザル限リ 皇土永遠ニ安カラザルニ思ヒ至リ 縦ヒ魂魄トナルモ 誓ツテ皇軍ノ捲土重来ノ魁タランコトヲ期ス '''茲(ここ)ニ最後ノ関頭ニ立チ''' '''重ネテ衷情ヲ披瀝スルト共ニ 只管(ひたすら)皇国ノ必勝ト安泰トヲ祈念シツツ '''永ヘニ御別レ申シ上グ</br>
然レドモ '''飽クナキ'''敵ノ猛攻ニ相次デ斃レ 為ニ御期待ニ反シ 此ノ要地ヲ敵手ニ委ヌル外ナキニ至リシハ '''小職'''ノ誠ニ恐懼ニ'''堪ヘザル所ニシテ'''幾重ニモ御詫申上グ 今ヤ弾丸尽キ水涸レ '''全員反撃シ''' 最後ノ敢闘ヲ行ハントスルニ方(あた)リ 熟々(つらつら)皇恩ヲ思ヒ 粉骨砕身モ'''亦悔イズ''' 特ニ本島ヲ奪還セザル限リ 皇土永遠ニ安カラザルニ思ヒ至リ 縦ヒ魂魄トナルモ 誓ツテ皇軍ノ捲土重来ノ魁タランコトヲ期ス '''茲(ここ)ニ最後ノ関頭ニ立チ''' '''重ネテ衷情ヲ披瀝スルト共ニ 只管(ひたすら)皇国ノ必勝ト安泰トヲ祈念シツツ '''永ヘニ御別レ申シ上グ</br>
 
 
'''尚[[父島]][[母島]]等ニ就テハ 同地麾下将兵 如何ナル敵ノ攻撃ヲモ 断固破摧シ得ルヲ確信スルモ 何卒宜シク申上グ'''</br>
'''尚父島母島等ニ就テハ 同地麾下将兵 如何ナル敵ノ攻撃ヲモ 断固破摧シ得ルヲ確信スルモ 何卒宜シク申上グ'''</br>
終リニ左記〔注:原文は縦書き〕駄作御笑覧ニ供ス '''何卒玉斧ヲ乞フ'''</br>
終リニ左記〔注:原文は縦書き〕駄作御笑覧ニ供ス '''何卒玉斧ヲ乞フ'''</br>


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新聞に掲載された原文のまま。斜体は新たに加筆された所}}
新聞に掲載された原文のまま。斜体は新たに加筆された所}}


== 逸話 ==
== 指揮部隊へ最後の指令 ==
* 軍人であると同時に良き家庭人でもあり、北米駐在時代や硫黄島着任以降には、まめに家族に[[手紙]]を書き送っている。アメリカから書かれたものは、最初の子どもである長男・太郎が幼かったため、栗林直筆のイラストを入れた絵手紙になっている。硫黄島から次女(「たこちゃん」と呼んでいた)に送った手紙では、軍人らしさが薄く一人の父親としての面が強く出た内容になっている。硫黄島着任直後に送った手紙には次のようなものがある。
# 戦局ハ最後ノ関頭ニ直面セリ
# 兵団ハ本十七日夜総攻撃ヲ決行シ敵ヲ激摧セントス
# 各部隊ハ本夜正子ヲ期シ各當面ノ敵ヲ攻撃 最後ノ一兵トナルモ飽ク迄決死敢闘スベシ 大君○○○テ顧ミルヲ許サズ
# 予ハ常ニ諸子ノ先頭ニアリ

== 逸話など ==
* 軍人であると同時に良き家庭人でもあり、アメリカ駐在時代や硫黄島守備隊長当時には、まめに家族に[[手紙]]を書き送っている。アメリカから書かれたものは、最初の子どもである長男・太郎が幼かったため、イラストを入れた絵手紙になっている。一方、硫黄島から次女(「たこちゃん」と呼んでいた)に送った手紙では、軍人らしさが薄く一人の父親としての面が強く出た内容になっている。硫黄島着任直後に送った手紙には次のようなものがある。
{{quotation|「お父さんは、お家に帰って、お母さんとたこちゃんを連れて町を歩いている夢などを時々見ますが、それはなかなか出来ない事です。たこちゃん。お父さんはたこちゃんが大きくなって、お母さんの力になれる人になることばかりを思っています。からだを丈夫にし、勉強もし、お母さんの言いつけをよく守り、お父さんに安心させるようにして下さい。戦地のお父さんより」}}
{{quotation|「お父さんは、お家に帰って、お母さんとたこちゃんを連れて町を歩いている夢などを時々見ますが、それはなかなか出来ない事です。たこちゃん。お父さんはたこちゃんが大きくなって、お母さんの力になれる人になることばかりを思っています。からだを丈夫にし、勉強もし、お母さんの言いつけをよく守り、お父さんに安心させるようにして下さい。戦地のお父さんより」}}

* また、妻宛てには、留守宅の心配や生活の注意などが事細かに記され、几帳面で情愛深い人柄が偲ばれる。これらの手紙は後にまとめられて、アメリカ時代のものは「『玉砕総指揮官』の絵手紙」([[小学館]]文庫、[[2002年]])、硫黄島からのものは「栗林忠道 硫黄島からの手紙」(文藝春秋、2006年)として刊行されている。なお、留守宅は[[東京大空襲]]で焼失したが、家族は長野県に[[疎開]]しており難を免れた。
* また、妻宛てには、留守宅の心配や生活の注意などが事細かに記され、几帳面で情愛深い人柄が偲ばれる。これらの手紙はのちにまとめられて、アメリカ時代のものは『「玉砕総指揮官」の絵手紙』([[小学館]]文庫、2002年)、硫黄島からのものは『栗林忠道 硫黄島からの手紙』([[文藝春秋]]、2006年)として刊行されている。なお、留守宅は[[東京大空襲]]で焼失したが、家族は長野県に[[疎開]]しており難を免れている。
* 弟の栗林熊尾が長野中学から[[陸軍士官学校]]へ進学したいと言い出したとき、栗林は陸軍では[[陸軍幼年学校]]出身者が優遇され、中学出身者は[[陸軍大学校]]を出ても主流にはなれないからと、幼年学校が存在しない[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]へ行く様に薦めた<ref>しかし、日本海軍では兵学校の席次([[ハンモックナンバー]])や年功序列が陸軍以上に重視された他、同じ[[士官]]でも[[海軍機関学校|機関学校]]卒の[[士官#機関科|機関]]科将校、[[下士官]]上がりの叩き上げ[[特務士官]](兵科将校・機関科将校の補助者の配置しか与えられず、服装に差別をつけられ、特務大尉より上への進級は事実上不可能)や学徒出身の[[海軍予備員|予備士官]]と、兵学校卒の[[兵科#科 (大日本帝国海軍)|兵科]]将校との間には、兵科将校による横暴な態度や差別といった対立や軋轢、兵科将校の優遇等といった海軍内における出身や学歴による問題も存在した。</ref>。事実、栗林は陸大を次席卒業したが、[[陸軍省]]中枢や[[参謀本部]]などの主流には配属されなかった。熊尾は海軍兵学校の受験に失敗し、兄のあとを追い陸軍士官学校に入校した(陸士30期)。長野中学からのもう一人の陸士同期生は[[今井武夫]]少将である。熊尾は陸士卒業後、肺結核で陸大受験前に夭折し、栗林は弟の死を嘆いた。

* 元々新聞記者志望と言うこともあり、文才のある軍人としても知られていた。軍歌[[愛馬進軍歌]]は自ら選定にあたっている。
* 弟の栗林熊尾が兄(忠道)の後を追って、長野中学から陸軍士官学校へ進学したいと言い出したとき、栗林は陸軍では[[陸軍幼年学校]]出身者が優遇され、中学出身者は陸軍大学校を出ても主流にはなれないからと、幼年学校が存在しない[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]へ行くように薦めている(しかし、海軍では兵学校の席次([[ハンモックナンバー]])や年功序列が陸軍以上に重視された他、同じ[[士官]]でも[[海軍機関学校|機関学校]]卒の[[士官#機関科|機関]]科将校、[[下士官]]上がりの叩き上げ[[特務士官]](兵科将校・機関科将校の補助者の配置しか与えられず、服装に差別をつけられ、特務大尉より上への進級は事実上不可能)や学徒出身の[[海軍予備員|予備士官]]と、兵学校卒の[[兵科#科 (大日本帝国海軍)|兵科]]将校との間には、兵科将校による横暴な態度や差別といった対立や軋轢、兵科将校の優遇等といった海軍内における出身や学歴による問題も存在している。陸軍ではそのよう空気や風潮は比較的薄く、また[[陸軍少尉候補者|少尉候補者]]・[[陸軍士官学校 (日本)#特別志願将校|特別志願将校]]といった柔軟な制度も存在している)。事実、栗林は陸大を次席卒業したが、陸軍省や参謀本部といった中央(「[[大日本帝国陸軍#概要|省部]]」)の要職には就いていない。なお、熊尾は海兵受験に失敗し、兄のあとを追い陸士に入校したが(第30期)<ref>長野中学からのもう一人の陸士同期生は[[今井武夫]]陸軍少将である。</ref>、卒業後に[[肺結核]]で陸大受験前に夭折、栗林は弟の死を嘆いた。
* [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]の[[衆議院議員]]・[[新藤義孝]]は、栗林の孫(次女・たか子の子)に当たる。

* 元々新聞記者志望と言うこともあり、文才のある軍人としても知られていた。軍歌『愛馬進軍歌』は自ら選定にあたっている。

* [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]の[[衆議院議員]]・[[新藤義孝]]は、栗林の孫(次女・たか子の子)にあたる。

== 年譜 ==
* 1911年3月 - 旧制長野県立長野中学校卒業(第11期)
* 1914年 - 陸軍士官学校卒業(第26期)、見習士官
** 12月 - 陸軍騎兵少尉
* 1918年
** 7月 - 陸軍騎兵学校乙種卒業。陸軍騎兵中尉任官
* 1923年
** 8月 - 陸軍騎兵大尉任官
** 11月 - 陸軍大学校卒業(第35期)。次席卒業、御賜の軍刀授与
** 12月 - 結婚。騎兵第15連隊中隊長
* 1925年
** 5月 - 騎兵監部員。
* 1927年 - 武官補佐官として[[ワシントンD.C.]]に駐在。軍事研究のためハーバード大学に学ぶ
* 1930年
** 3月 - 陸軍騎兵少佐任官
** 4月 - 陸軍省軍務局課員
* 1931年
** 8月 - カナダ公使館付武官
* 1933年
** 8月 - 陸軍騎兵中佐任官
** 12月 - 陸軍省軍務局馬政課高級課員
* 1936年
** 8月 - 騎兵第7連隊長
* 1937年
* 8月 - 陸軍騎兵大佐任官、陸軍省兵務局馬政課長
* 1938年 - 軍歌『愛馬進軍歌』の選定に携わる
* 1940年
** 3月 - 陸軍少将任官、騎兵第2旅団長
** 12月 - 騎兵第1旅団長
* 1941年
** 12月 - 第23軍参謀|参謀長として香港の戦いに従軍
* 1943年
** 6月 - 陸軍中将任官、留守近衛第2師団長
* 1944年
** 4月 - 東部軍司令部附
** 5月27日 - 第109師団長
** 7月1日 - 小笠原兵団長兼任
* 1945年
** 2月16日 - 硫黄島の戦い開戦
*** 19日 - アメリカ軍上陸開始
*** 23日 - 摺鉢山独立拠点、アメリカ軍占領。
** 3月16日 - 大本営に訣別電報打電
*** 17日 - 特旨を以て陸軍大将任官
*** 26日 - 日本軍守備隊最後の組織的総攻撃の指揮を行い、戦死と推定
* 1967年
** 12月23日 - 叙勲一等、授旭日大綬章<!--同日の官報には歿時・勲二等の旨記載あり-->


== 関連資料 ==
== 関連資料 ==
156行目: 172行目:
* 『「玉砕総指揮官」の絵手紙』吉田津由子編、小学館、2002年4月、ISBN 4094026762
* 『「玉砕総指揮官」の絵手紙』吉田津由子編、小学館、2002年4月、ISBN 4094026762


====ノンフィクション====
==== ノンフィクション ====
* [[舩坂弘]]『硫黄島――ああ!栗林兵団』講談社、1968年8月
* [[舩坂弘]] 『硫黄島――ああ!栗林兵団』 [[講談社]]、1968年8月
* 陸戦史研究普及会編『陸戦史集15 硫黄島作戦』原書房、1970年
* 陸戦史研究普及会編 『陸戦史集15 硫黄島作戦』 原書房、1970年
* [[児島襄]]『将軍突撃せり――硫黄島戦記』文藝春秋、1970年
* [[児島襄]] 『将軍突撃せり――硫黄島戦記』 文藝春秋、1970年
* 鳥居民『小磯内閣の倒壊――3月20日〜4月4日』草思社、1987年9月、ISBN 4794202865)
* 鳥居民 『小磯内閣の倒壊――3月20日〜4月4日』 草思社、1987年9月、ISBN 4794202865
* 現代タクティクス研究会『第二次世界大戦将軍ガイド』新紀元社、1994年8月、ISBN 4883172341)
* 現代タクティクス研究会 『第二次世界大戦将軍ガイド』 新紀元社、1994年8月、ISBN 4883172341
* 岡田益吉『日本陸軍英傑伝――将軍暁に死す』光人社、1994年8月、ISBN 4769820577、初版1972年刊行
* 岡田益吉 『日本陸軍英傑伝――将軍暁に死す』 [[光人社]]、1994年8月、ISBN 4769820577、初版1972年刊行
* R.F.ニューカム、田中至訳『硫黄島――太平洋戦争死闘記』光人社、1996年2月、ISBN 4769821131、原著1965年刊行
* R.F.ニューカム 、田中至訳 『硫黄島――太平洋戦争死闘記』 光人社、1996年2月、ISBN 4769821131、原著1965年刊行
* 橋本衛ほか『硫黄島決戦』光人社、2001年8月、ISBN 4769823177)
* 橋本衛ほか 『硫黄島決戦』 光人社、2001年8月、ISBN 4769823177
* 堀江芳孝『闘魂 硫黄島――小笠原兵団参謀の回想』([[光人社]]、2005年3月、ISBN 4769824491、初版1965年刊行
* [[堀江芳孝]] 『闘魂 硫黄島――小笠原兵団参謀の回想』 光人社、2005年3月、ISBN 4769824491、初版1965年刊行
* 梯久美子『散るぞ悲しき――硫黄島総指揮官・栗林忠道』新潮社、2005年7月、ISBN 4104774014、新潮文庫、2008年8月
* 梯久美子 『散るぞ悲しき――硫黄島総指揮官・栗林忠道』 新潮社、2005年7月、ISBN 4104774014、新潮文庫、2008年8月
* 田中恒夫ほか編著『戦場の名言――指揮官たちの決断』草思社、2006年6月、ISBN 479421507X)
* 田中恒夫ほか 『戦場の名言――指揮官たちの決断』 草思社、2006年6月、ISBN 479421507X
* 留守晴夫『常に諸子の先頭に在り――陸軍中將栗林忠道と硫黄島戰』[[慧文社]]、2006年7月、ISBN 4905849489)
* 留守晴夫 『常に諸子の先頭に在り――陸軍中將栗林忠道と硫黄島戰』 [[慧文社]]、2006年7月、ISBN 4905849489
* [[柘植久慶]]『栗林忠道――硫黄島の死闘を指揮した名将』(PHP研究所、2006年12月、ISBN 4569667430)
* [[柘植久慶]] 『栗林忠道――硫黄島の死闘を指揮した名将』 [[PHP研究所]]、2006年12月、ISBN 4569667430
* 川相昌一『硫黄島戦記――玉砕の島から生還した一兵士の回想』光人社、2007年1月、ISBN 4769813287)
* 川相昌一 『硫黄島戦記――玉砕の島から生還した一兵士の回想』 光人社、2007年1月、ISBN 4769813287
* [[小室直樹]]『硫黄島栗林忠道大将の教訓』ワック、2007年1月、ISBN 9784898311028)
* [[小室直樹]] 『硫黄島栗林忠道大将の教訓』 ワック、2007年1月、ISBN 9784898311028
* [[別冊宝島]]編集部編 『栗林忠道硫黄島の戦い』 (宝島社文庫、2007年8月
* [[別冊宝島]]編集部 『栗林忠道硫黄島の戦い』 宝島社文庫、2007年8月
* 今井貞夫高橋久志監『幻の日中和平工作 軍人今井武夫の生涯』中央公論事業出版、2007年11月、ISBN 9784895142946)
* 今井貞夫高橋久志監 『幻の日中和平工作 軍人今井武夫の生涯』 中央公論事業出版、2007年11月、ISBN 9784895142946


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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* [[千田貞季]]
* [[千田貞季]]
* [[今井武夫]]
* [[今井武夫]]
* [[新藤義孝]] - 栗林忠道の子、栗林(新藤)たか子の孫にあたる。
* [[硫黄島 (東京都)]]
* [[硫黄島からの手紙]] - [[クリント・イーストウッド]]監督の作品。硫黄島戦を[[日本軍]]側の描写をした。


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2011年8月1日 (月) 21:47時点における版

栗林 忠道
留守近衛第2師団長陸軍中将)当時の栗林[1]
生誕 1891年7月7日
長野県埴科郡西条村
死没 (1945-03-26) 1945年3月26日(53歳没)
東京都小笠原諸島硫黄島村硫黄島
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1914年 - 1945年
最終階級 陸軍大将
指揮 第23軍参謀長
留守近衛第2師団長
第109師団
小笠原兵団
戦闘

第二次世界大戦

テンプレートを表示

栗林 忠道(くりばやし ただみち、1891年明治24年)7月7日1945年昭和20年)3月26日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍大将位階勲等従四位勲一等旭日大綬章)。長野県埴科郡旧西条村(現:長野市松代町)出身。

小笠原兵団長(兼第109師団長)として陸海軍硫黄島守備隊を総指揮(小笠原方面最高指揮官)、硫黄島の戦いにおいて激戦ののち戦死した。

来歴

1891年(明治24年)7月7日、戦国時代から続く郷士の家に生まれる。1911年(明治44年)、旧制長野県立長野中学校(現長野県長野高等学校)を卒業(第11期)。在学中は文才に秀で、校友誌には美文が残されている。当初ジャーナリストを志し東亜同文書院を受験し合格していたが、恩師の薦めもあり帝国陸軍の将校を目指し、士官候補生を経て1912年(大正1年)12月1日に陸軍士官学校(本科)へ入校。

1914年(大正3年)5月28日に陸士を卒業(第26期、兵科騎兵、席次:125番)、原隊である騎兵第15連隊見習士官陸軍騎兵曹長)となり、同年12月25日に陸軍騎兵少尉任官。1918年(大正7年)7月に陸軍騎兵学校を経て陸軍騎兵中尉に任官、1920年(大正9年)12月7日には陸軍大学校へ入校し8月に陸軍騎兵大尉任官、1923年(大正12年)11月29日には陸大を卒業しているが(第35期)、席次が次席であったため御賜の軍刀を授与されている。同年12月、栗林義井(同姓)と結婚。その後、太郎・洋子・たか子の一男二女に恵まれる。

北米駐在・騎兵畑

陸軍騎兵中佐ないし大佐時代の栗林

騎兵第15連隊中隊長、騎兵監部員を経て陸軍騎兵大尉当時の1927年(昭和2年)、アメリカ駐在武官大使館附)として駐在、帰国後の1930年(昭和5年)3月に陸軍騎兵少佐に任官し、4月には陸軍省軍務局課員を拝命。翌1931年(昭和6年)8月には、再度北米カナダに駐在武官(公使館附)として駐在した。そのため、建軍の経緯からフランスドイツ志向の多い帝国陸軍の中では珍しいアメリカ通であり、また国際事情にも明るくのちの対米開戦にも批判的であっった。

1933年(昭和8年)8月、陸軍騎兵中佐任官、同年12月30日に陸軍省軍務局馬政課高級課員となりさらに1936年(昭和11年)8月1日には騎兵第7連隊長に就任する。1937年(昭和12年)8月2日、陸軍騎兵大佐に任官し陸軍省兵務局馬政課長拝命。馬政課長当時の1938年(昭和13年)には軍歌愛馬進軍歌』の選定に携わっている。1940年(昭和15年)3月9日、閣下たる陸軍少将将軍)に任官し騎兵第2旅団長、同年12月2日には日露戦争当時秋山好古陸軍少将が旅団長を務めていたことで知られる、騎兵第1旅団長に就任。

太平洋戦争

太平洋戦争大東亜戦争)開戦目前の1941年(昭和16年)9月19日、緒戦の南方作戦においてイギリス香港の攻略を任務とする第23軍参謀長に就任した栗林は作戦立案や指導にあたり、12月8日の開戦後、香港の戦いにおいて帝国陸軍はわずか18日間でイギリス軍を撃破し香港を制圧した。1943年(昭和18年)6月10日、陸軍中将に任官し、同日、第23軍参謀長から転じて留守近衛第2師団長に就任[2]。しかし1944年(昭和19年)4月6日、師団厨房で起きた失火による火災事故の責任をとり師団長を辞し、東部軍司令部附となる[3]

硫黄島の戦い

硫黄島での戦闘(2月17日)

1944年(昭和19年)5月27日、小笠原方面を守備するため父島要塞守備隊を基幹とする第109師団長となり、6月8日、硫黄島に着任。同年7月1日には大本営直轄部隊として編成された小笠原兵団長も兼任、海軍部隊も指揮下におき小笠原方面最高指揮官となる(硫黄島の戦い#小笠原兵団の編成と編制)。兵団司令部を設備の整った従来の父島から、アメリカ軍上陸後には最前線になると考えられた硫黄島に移し、同島守備の指揮を執る。もとより敵上陸軍の撃退(勝利)は不可能と考えていた栗林は、堅牢な地下陣地を構築しての長期間の持久戦・遊撃戦(ゲリラ)を計画・着手する。水際陣地構築および同島の千鳥飛行場確保に固執する海軍の強硬な反対を最後まで抑え、またアメリカ軍爆撃機空襲にも耐え、上陸直前までに全長18kmにわたる坑道および地下陣地を建設した。その一方で隷下将兵に対しては陣地撤退・万歳突撃自決を強く戒め、全将兵に配布した『敢闘ノ誓』や『膽兵ノ戦闘心得』に代表されるように、あくまで陣地防御やゲリラ戦をもっての長期抵抗を徹底させた(硫黄島の戦い#防衛戦術)。

1945年(昭和20年)2月16日、アメリカ軍艦艇・航空機は硫黄島に対し猛烈なる上陸準備砲爆撃を行い、同月19日9時、海兵隊第1波がLVT上陸用舟艇をもって上陸を開始(硫黄島の戦い#アメリカ軍の上陸)。上陸準備砲爆撃時に栗林の命令を無視し、応戦砲撃を行った(日本)海軍の海岸砲により擂鉢山火砲陣地が露呈し全滅するなど誤算もあったものの、十分にアメリカ軍上陸部隊を内陸部に引き込んだ日本軍守備隊は10時過ぎに一斉攻撃を開始する。圧倒的な劣勢の中、アメリカ軍の予想を遥かに上回り、粘り強く戦闘を続け多大な損害をアメリカに与えるものの、3月7日、最後の戦訓電報となる総括電報「膽参電第三五一号」参謀本部(大本営陸軍部)に対し、16日には訣別電報を大本営に対し栗林は打電(硫黄島の戦い#組織的戦闘の終結#訣別の電文)。翌17日、大本営よりその功績を認められ、特旨を以て陸軍大将任官。これは平時とは異なる戦時昇進ではあるが、53歳にして日本陸海軍中最年少の大将である(そのため、栗林の大将任官は訣別電報を受けての進級ではあるものの、死後進級である特進では無い)。同日、最後の総攻撃を企図した栗林は残存部隊に対し以下の指令を送った。

  • 一、戦局ハ最後ノ関頭ニ直面セリ
  • 二、兵団ハ本十七日夜、総攻撃ヲ決行シ敵ヲ撃摧セントス
  • 三、各部隊ハ本夜正子ヲ期シ各方面ノ敵ヲ攻撃、最後ノ一兵トナルモ飽ク迄決死敢闘スベシ 大君{注:3語不明}テ顧ミルヲ許サズ
  • 四、予ハ常ニ諸子ノ先頭ニ在リ

26日、17日当日および以降は総攻撃の機会が訪れなかったため、以来時機を窺っていた栗林は約400名の将兵とともに、自ら指揮を取りアメリカ陸空軍野営地に対し夜襲を敢行。最後までアメリカ軍に損害を与え戦死した[4][5]。満53歳没。

戦後

墓所は長野市松代明徳寺。戦後1967年(昭和42年)、勲一等に叙せられ旭日大綬章を受勲。

死後、日米の戦史研究者などからは高い評価を得ていたが、硫黄島の戦いを除くと参謀長や留守師団長など軍人としては目立ったエピソードも少なく、局地戦で戦死した指揮官ということもあり、日本でも一般的な知名度は高くなかった。しかし2005年(平成17年)に硫黄島における栗林に焦点をあてた梯久美子の著書『散るぞ悲しき』が刊行され話題を呼んだのに続いて、翌2006年(平成18年)、クリント・イーストウッド監督映画硫黄島からの手紙』(『Letters from Iwo Jima』)が公開され(栗林忠道役:渡辺謙)、関連書籍の刊行が相次ぐなどして一躍その名が知られることになった。

また、栗林は幼少の頃に一時的に養子に出ていたことがあり、養子に出ていた当時の記録は長らくの間不明であったが、近年、生家から少年時代の日記帳や成績表などが発見され、生後まもなく地元の士族・倉田家へ養子に出ていた時期など、これまで知られていなかった少年期の詳細が明らかになった。

評価

アメリカ本国においては、硫黄島の戦いの報道がリアルタイムでなされていたこともあり、この戦闘の状況と栗林の知名度は高い。特に戦後、軍事史研究家やアメリカ軍々人に対し、「太平洋戦争における日本軍人で優秀な指揮官は誰であるか」と質問した際、「栗林将軍(General Kuribayashi)」と栗林の名前を挙げる人物が多いといわれている。戦闘自体は結果的に敗北に終わったものの、僅か22km²(東京都北区程度の面積)にすぎない硫黄島を、日本軍の3倍以上の兵力および絶対的な制海権制空権を持ち、予備兵力・物量・補給線・装備全てにおいて圧倒的に優勢であったアメリカ軍の攻撃に対し、最後まで将兵の士気を低下させずに、アメリカ軍の予想を上回る1ヶ月半も防衛した采配は高く評価されている。

従来の島嶼防衛における水際作戦という基本方針を退け、長大かつ堅牢な地下陣地を構築したうえで、不用意な万歳突撃等による玉砕を厳禁し部下に徹底抗戦を指示した。その結果、アメリカ軍の死傷者総数が日本軍守備隊のそれを上回るという成果を上げ、またM4 シャーマン中戦車LVT等を大量に撃破・擱坐させるといった物的損害を与えることにも成功し、のちにアメリカ軍幹部をして「勝者なき戦い」と評価せしめた。地下壕構築などの栗林中将の独創による作戦は、劣勢な自軍をもっていかにして圧倒的な敵軍を迎撃するか、という面でその後の戦術論にも大きな影響を与え、一説によれば[誰?]ベトナム戦争南ベトナム解放民族戦線がとった同様の作戦は、硫黄島の戦史から学んだ結果とも言われている。[要出典]

この硫黄島での戦いと同じく、地形を利用し持久戦に引き込みアメリカ軍に効果的な攻撃を行い甚大な被害を与えた沖縄戦での苦戦から、アメリカ上層部ではさらなる被害が予想される本土上陸戦はできるだけ避けたいと思うようになり、これが連合軍による日本分割という形での終戦を避ける事の遠因になったとも言われる。

訣別の電文

 戦局最後ノ関頭ニ直面セリ 敵来攻以来 麾下将兵ノ敢闘ハ真ニ鬼神ヲ哭シムルモノアリ 特ニ想像ヲ越エタル量的優勢ヲ以テスル陸海空ヨリノ攻撃ニ対シ 宛然徒手空拳ヲ以テ 克ク健闘ヲ続ケタルハ 小職自ラ聊(いささ)カ悦ビトスル所ナリ

  然レドモ 飽クナキ敵ノ猛攻ニ相次デ斃レ 為ニ御期待ニ反シ 此ノ要地ヲ敵手ニ委ヌル外ナキニ至リシハ 小職ノ誠ニ恐懼ニ堪ヘザル所ニシテ幾重ニモ御詫申上グ 今ヤ弾丸尽キ水涸レ 全員反撃シ 最後ノ敢闘ヲ行ハントスルニ方(あた)リ 熟々(つらつら)皇恩ヲ思ヒ 粉骨砕身モ亦悔イズ 特ニ本島ヲ奪還セザル限リ 皇土永遠ニ安カラザルニ思ヒ至リ 縦ヒ魂魄トナルモ 誓ツテ皇軍ノ捲土重来ノ魁タランコトヲ期ス 茲(ここ)ニ最後ノ関頭ニ立チ 重ネテ衷情ヲ披瀝スルト共ニ 只管(ひたすら)皇国ノ必勝ト安泰トヲ祈念シツツ 永ヘニ御別レ申シ上グ
  尚父島母島等ニ就テハ 同地麾下将兵 如何ナル敵ノ攻撃ヲモ 断固破摧シ得ルヲ確信スルモ 何卒宜シク申上グ
終リニ左記〔注:原文は縦書き〕駄作御笑覧ニ供ス 何卒玉斧ヲ乞フ

  • 国の為 重き努を 果し得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき[6]
  • 仇討たで 野辺には朽ちじ 吾は又 七度生れて 矛を執らむぞ
  • 醜草(しこぐさ)の 島に蔓る 其の時の 皇国の行手 一途に思ふ


    太字は削除及び改竄されたところ
新聞に掲載された、大本営発表の電文

戦局遂に最後の関頭に直面せり
 十七日夜半を期し小官自ら陣頭に立ち、皇国の必勝と安泰とを祈念しつ、全員壮烈なる総攻撃を敢行す

 敵来攻以来想像に余る物量的優勢を以て陸海空よりする敵の攻撃に対し克く健闘を続けた事は小職の聊か自ら悦びとする所にして部下将兵の勇戦は真に鬼神をも哭かしむるものあり

 然れども執拗なる敵の猛攻に将兵相次いで斃れ為に御期待に反し、この要地を敵手に委ねるのやむなきに至れるは誠に恐懼に堪へず、幾重にも御詫び申し上ぐ
 特に本島を奪還せざる限り皇土永遠に安からざるを思ひ、たとひ魂魄となるも誓つて皇軍の捲土重来の魁たらんことを期す、今や弾尽き水涸れ戦い残れる者全員いよく最後の敢闘を行はんとするに方り熟々皇恩の忝さを思ひ粉骨砕身亦悔ゆる所にあらず
 茲に将兵一同と共に謹んで聖寿の万歳を奉唱しつつ永へ御別れ申上ぐ

 終りに左記駄作、御笑覧に供す。


  • 国の為重きつとめを果たし得で 矢弾尽き果て散るぞ 口惜し
  • 仇討たで 野辺には朽ちじ 吾は又 七度生れて 矛を執らむぞ
  • 醜草(しこぐさ)の 島に蔓る 其の時の 皇国の行手 一途に思ふ


新聞に掲載された原文のまま。斜体は新たに加筆された所

逸話

  • 軍人であると同時に良き家庭人でもあり、北米駐在時代や硫黄島着任以降には、まめに家族に手紙を書き送っている。アメリカから書かれたものは、最初の子どもである長男・太郎が幼かったため、栗林直筆のイラストを入れた絵手紙になっている。硫黄島から次女(「たこちゃん」と呼んでいた)に送った手紙では、軍人らしさが薄く一人の父親としての面が強く出た内容になっている。硫黄島着任直後に送った手紙には次のようなものがある。
「お父さんは、お家に帰って、お母さんとたこちゃんを連れて町を歩いている夢などを時々見ますが、それはなかなか出来ない事です。たこちゃん。お父さんはたこちゃんが大きくなって、お母さんの力になれる人になることばかりを思っています。からだを丈夫にし、勉強もし、お母さんの言いつけをよく守り、お父さんに安心させるようにして下さい。戦地のお父さんより」
  • また、妻宛てには、留守宅の心配や生活の注意などが事細かに記され、几帳面で情愛深い人柄が偲ばれる。これらの手紙はのちにまとめられて、アメリカ時代のものは『「玉砕総指揮官」の絵手紙』(小学館文庫、2002年)、硫黄島からのものは『栗林忠道 硫黄島からの手紙』(文藝春秋、2006年)として刊行されている。なお、留守宅は東京大空襲で焼失したが、家族は長野県に疎開しており難を免れている。
  • 弟の栗林熊尾が兄(忠道)の後を追って、長野中学から陸軍士官学校へ進学したいと言い出したとき、栗林は陸軍では陸軍幼年学校出身者が優遇され、中学出身者は陸軍大学校を出ても主流にはなれないからと、幼年学校が存在しない海軍兵学校へ行くように薦めている(しかし、海軍では兵学校の席次(ハンモックナンバー)や年功序列が陸軍以上に重視された他、同じ士官でも機関学校卒の機関科将校、下士官上がりの叩き上げ特務士官(兵科将校・機関科将校の補助者の配置しか与えられず、服装に差別をつけられ、特務大尉より上への進級は事実上不可能)や学徒出身の予備士官と、兵学校卒の兵科将校との間には、兵科将校による横暴な態度や差別といった対立や軋轢、兵科将校の優遇等といった海軍内における出身や学歴による問題も存在している。陸軍ではそのよう空気や風潮は比較的薄く、また少尉候補者特別志願将校といった柔軟な制度も存在している)。事実、栗林は陸大を次席卒業したが、陸軍省や参謀本部といった中央(「省部」)の要職には就いていない。なお、熊尾は海兵受験に失敗し、兄のあとを追い陸士に入校したが(第30期)[7]、卒業後に肺結核で陸大受験前に夭折、栗林は弟の死を嘆いた。
  • 元々新聞記者志望と言うこともあり、文才のある軍人としても知られていた。軍歌『愛馬進軍歌』は自ら選定にあたっている。

年譜

  • 1911年3月 - 旧制長野県立長野中学校卒業(第11期)
  • 1914年 - 陸軍士官学校卒業(第26期)、見習士官
    • 12月 - 陸軍騎兵少尉
  • 1918年
    • 7月 - 陸軍騎兵学校乙種卒業。陸軍騎兵中尉任官
  • 1923年
    • 8月 - 陸軍騎兵大尉任官
    • 11月 - 陸軍大学校卒業(第35期)。次席卒業、御賜の軍刀授与
    • 12月 - 結婚。騎兵第15連隊中隊長
  • 1925年
    • 5月 - 騎兵監部員。
  • 1927年 - 武官補佐官としてワシントンD.C.に駐在。軍事研究のためハーバード大学に学ぶ
  • 1930年
    • 3月 - 陸軍騎兵少佐任官
    • 4月 - 陸軍省軍務局課員
  • 1931年
    • 8月 - カナダ公使館付武官
  • 1933年
    • 8月 - 陸軍騎兵中佐任官
    • 12月 - 陸軍省軍務局馬政課高級課員
  • 1936年
    • 8月 - 騎兵第7連隊長
  • 1937年
  • 8月 - 陸軍騎兵大佐任官、陸軍省兵務局馬政課長
  • 1938年 - 軍歌『愛馬進軍歌』の選定に携わる
  • 1940年
    • 3月 - 陸軍少将任官、騎兵第2旅団長
    • 12月 - 騎兵第1旅団長
  • 1941年
    • 12月 - 第23軍参謀|参謀長として香港の戦いに従軍
  • 1943年
    • 6月 - 陸軍中将任官、留守近衛第2師団長
  • 1944年
    • 4月 - 東部軍司令部附
    • 5月27日 - 第109師団長
    • 7月1日 - 小笠原兵団長兼任
  • 1945年
    • 2月16日 - 硫黄島の戦い開戦
      • 19日 - アメリカ軍上陸開始
      • 23日 - 摺鉢山独立拠点、アメリカ軍占領。
    • 3月16日 - 大本営に訣別電報打電
      • 17日 - 特旨を以て陸軍大将任官
      • 26日 - 日本軍守備隊最後の組織的総攻撃の指揮を行い、戦死と推定
  • 1967年
    • 12月23日 - 叙勲一等、授旭日大綬章

関連資料

著書

  • 『栗林忠道 硫黄島からの手紙』文藝春秋、2006年8月、ISBN 4163683704、文春文庫、2009年8月
  • 『「玉砕総指揮官」の絵手紙』吉田津由子編、小学館、2002年4月、ISBN 4094026762

ノンフィクション

  • 舩坂弘 『硫黄島――ああ!栗林兵団』 講談社、1968年8月
  • 陸戦史研究普及会編 『陸戦史集15 硫黄島作戦』 原書房、1970年
  • 児島襄 『将軍突撃せり――硫黄島戦記』 文藝春秋、1970年
  • 鳥居民 『小磯内閣の倒壊――3月20日〜4月4日』 草思社、1987年9月、ISBN 4794202865
  • 現代タクティクス研究会 『第二次世界大戦将軍ガイド』 新紀元社、1994年8月、ISBN 4883172341
  • 岡田益吉 『日本陸軍英傑伝――将軍暁に死す』 光人社、1994年8月、ISBN 4769820577、初版1972年刊行
  • R.F.ニューカム 、田中至訳 『硫黄島――太平洋戦争死闘記』 光人社、1996年2月、ISBN 4769821131、原著1965年刊行
  • 橋本衛ほか 『硫黄島決戦』 光人社、2001年8月、ISBN 4769823177
  • 堀江芳孝 『闘魂 硫黄島――小笠原兵団参謀の回想』 光人社、2005年3月、ISBN 4769824491、初版1965年刊行
  • 梯久美子 『散るぞ悲しき――硫黄島総指揮官・栗林忠道』 新潮社、2005年7月、ISBN 4104774014、新潮文庫、2008年8月
  • 田中恒夫ほか 『戦場の名言――指揮官たちの決断』 草思社、2006年6月、ISBN 479421507X
  • 留守晴夫 『常に諸子の先頭に在り――陸軍中將栗林忠道と硫黄島戰』 慧文社、2006年7月、ISBN 4905849489
  • 柘植久慶 『栗林忠道――硫黄島の死闘を指揮した名将』 PHP研究所、2006年12月、ISBN 4569667430
  • 川相昌一 『硫黄島戦記――玉砕の島から生還した一兵士の回想』 光人社、2007年1月、ISBN 4769813287
  • 小室直樹 『硫黄島栗林忠道大将の教訓』 ワック、2007年1月、ISBN 9784898311028
  • 別冊宝島編集部 『栗林忠道硫黄島の戦い』 宝島社文庫、2007年8月
  • 今井貞夫、高橋久志監 『幻の日中和平工作 軍人今井武夫の生涯』 中央公論事業出版、2007年11月、ISBN 9784895142946

脚注

  1. ^ 本写真(原版)の撮影自体は留守近衛第2師団長たる陸軍中将当時(1943年・1944年頃)であるが、死後に遺影として用いるために襟章の加星が施され3連星の陸軍大将(陸軍中将は2連星)とし、また着色写真化されている。
  2. ^ なお、部隊名称に冠している「留守(留守部隊)」とは、出征中の「実戦部隊(近衛第2師団)」に対し将兵の補充(補充兵)・教育や補給を担当する「予備部隊(留守近衛第2師団)」を意味する(当時、近衛第2師団はスマトラ島方面に作戦展開中)。
  3. ^ 「禁闕守護」「鳳輦供奉」の任を担っている近衛の部隊において、この事故は問題であった。
  4. ^ 栗林の最期については、自身が軍服階級章などを外して総攻撃の指揮を執ったため、(アメリカ軍による総攻撃後の遺体捜索において)遺体が発見されておらず、詳細な死亡時の状況と原因(戦死か自決か)は判明していない。戦闘で行方不明となったとするのが正確な表現であるが、当時の状況から判断して戦死した可能性が高く、関連の書物でも戦死として扱われている。
  5. ^ なお、情報誌SAPIO』2006年10月25日号において大野芳により、栗林がアメリカ軍に降伏しようとして部下に斬殺されたという異説が唱えられたが、『文藝春秋』2007年2月号において梯久美子による検証がなされ、ほぼ否定されている。
  6. ^ 新聞発表では、「悲しき」の部分を「口惜し」と改竄の上、発表された。
  7. ^ 長野中学からのもう一人の陸士同期生は今井武夫陸軍少将である。

関連項目