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乾燥した[[サヘル]]地帯を貫流しており、特に中流域に当たるマリ・ニジェール両国では重要な水の供給源となっている。また、[[ギニア湾]]沿岸地域と[[北アフリカ]]を結ぶ[[サハラ交易]]の重要な拠点でもあり、流域では[[ガーナ王国]]・[[マリ王国]]・[[ソンガイ王国]]といった国家が興亡を繰り返した。
乾燥した[[サヘル]]地帯を貫流しており、特に中流域に当たるマリ・ニジェール両国では重要な水の供給源となっている。また、[[ギニア湾]]沿岸地域と[[北アフリカ]]を結ぶ[[サハラ交易]]の重要な拠点でもあり、流域では[[ガーナ王国]]・[[マリ王国]]・[[ソンガイ王国]]といった国家が興亡を繰り返した。


== 地理 ==
中流域では雨季にはマリ共和国の[[クリコロ]]から[[ガオ (都市)|ガオ]]まで大型船が航行することができ、流域の重要な交通手段となっている。
ニジェール川本流の水源は、[[ギニア]]中部に広がる[[フータ・ジャロン]]高地の中部、[[シエラレオネ]]との国境に近い地域である。この地域は年間降水量が1500mmから2000mm以上にも達し、ニジェール川の長大な流れを満たすだけの水を供給している。水源はギニア湾から300kmほどしか離れていないが、ニジェール川は内陸部を大きく迂回するため、全長は4,180kmにも達する。ニジェール川は北東に流れながらフータ・ジャロン東麓を流れるミロ川などの河川を集め、[[シギリ]]でティンキソ川を合わせて水量を増し、シギリの50km北東で[[マリ]]領内に入る。

ニジェール川はマリ領の中部をほぼ東西に貫流し、マリの国土は東部の[[セネガル川]]水系を除くほぼすべてがニジェール川の水系に属する。マリ中部は乾燥したステップ気候帯であり、ニジェール川は主要な水源となっている。流れは緩やかであるが、首都[[バマコ]]を通過し、[[クリコロ]]の北郊周辺からはさらに高低差が少なくなり、1000kmで数メートルの高低差しかなくなる。このため、上流で雨季となると増えた水は川から溢れ出し、さらに川自体も網の目のような複雑な流路を取るようになって、内陸デルタを形成する。このデルタはクリコロからセグ、[[モプティ]]を含む広大なものであり、増水期である7月から1月までの間には54000平方キロメートルの広大な湿原ができる<ref>ミリオーネ全世界事典 第11巻 アフリカⅡ p46-47(学習研究社、1980年11月1日)</ref>。モプティではコートジボワール北部から流れてきたバニ川を合わせる。デルタを抜け、[[トンブクトゥ]]の外港であるカバラ周辺で川は北東から東へと向きを変え、[[ガオ]]の北西で南東へと向きを変える。ガオの南東でニジェール領内へと入り、首都[[ニアメ]]を通ったあとベナンとの国境をなしながらナイジェリア領内へと入る。

ナイジェリアの領内に入るとニジェール川は高度を下げていき、その過程でいくつかの急流が現れる。ナイジェリア西部のカインジにはカインジ・ダムが作られ、広大なダム湖ができている。カインジを過ぎ、河口から900kmのあたりから流れは再び緩やかになり、さらに降水量も大幅に増える。ナイジェリアの水系は[[ラゴス]]周辺と[[チャド湖]]周辺を除くかなりの部分がニジェール川水系に属している。ナイジェリア中部、河口から550kmの地点にあるロコジャで東から流れてきたニジェール川最大の支流である[[ベヌエ川]]をあわせ水量を増す<ref>田辺 裕、島田 周平、柴田 匡平、1998年、『世界地理大百科事典2 アフリカ』、朝倉書店 ISBN 4254166621 p416</ref>が、ギニア湾に注ぐ100km手前あたりから広大な河口デルタを形成し、多数の支流を分岐させながらギニア湾へと流れ込む。

== 歴史 ==
ニジェール川流域、特に中流域は、[[紀元前2000年]]ごろから[[サハラ]]の乾燥化が進むに連れてオアシスとしての機能を果たすようになり、砂漠化する北部からの流入者が集住するようになった。このころから農耕が始まり、この地域では[[グラベリマ稲]]や[[フォニオ]]、[[シコクビエ]]、[[ソルガム]]や[[トウジンビエ]]などが栽培化され、世界の農耕文化の起源地の一つとなっている。一方下流域においては、ジョス高原において[[紀元前35世紀]]ごろから[[ノク文化]]が栄えた。ノク文化は、[[土偶]]や[[土器]]で知られ、のちのイフェ王国やベニン王国の彫刻造形に影響を与えた。また、[[紀元前5世紀]]ごろからは製鉄がはじまり、この技術は[[バントゥー]]の拡散とともに全アフリカへと広まった。

[[3世紀]]には北アフリカで[[ラクダ]]が家畜化され、これによってそれまで細々とした交流しかなかった北アフリカとニジェール川流域の間に交易ルートが開かれた。交易は富を生み、やがて[[8世紀]]頃よりこの地域には[[サハラ交易]]と農耕を経済基盤とした王国が成立するようになる。

この地域で最も古い王国は、[[790年]]ごろに建国され[[クンビサレー]]に都を置いた[[ガーナ王国]]である。ガーナ王国はニジェール川本流の北岸周辺までを領域とし、[[黄金]]と[[塩]]の交易によって栄えた。この地域に[[イスラム教]]が伝来したのもこの時期である。ガーナ王国は[[1076年]]に[[ムラービト朝]]の[[聖戦]]によって首都を占領され、以後衰退の道をたどった。ガーナ王国衰退後、この地域は小国が乱立する時代を迎えたが、やがて[[1230年]]ごろにニジェール川上流のニアニで建国された[[マリ王国]]が勢力を伸ばし、[[1235年]]にはガーナ王国の領域を支配下に置き、[[14世紀]]には[[マンサ・ムーサ]]のもとで最盛期を迎えた。マリ王国の時代にイスラム教がこの地域に浸透し、また王国は支配下に収めた河港都市ジェンネやモプティ、トンブクトゥで経済に力を入れ学芸を保護したため、トンブクトゥはイスラム学芸の中心地となった。17世紀にはマリ王国は衰微したが、代わって東部のガオに都を置く[[ソンガイ帝国]]が力をつけ、[[1468年]]にはトンブクトゥを支配下に収めて流域に覇を唱え、[[16世紀]]初頭にはアスキア・ムハンマド王の下で最盛期を迎えた。しかし、[[1591年]]に[[モロッコ]]の[[サアド朝]]の遠征軍によってソンガイ王国は滅亡した。

ソンガイ王国滅亡後、この地域に流域を束ねる巨大帝国が出現することはなかった。サアド朝はトンブクトゥやガオなど主要都市に代官を置いて統治したものの、まもなく本国モロッコで内乱が起き、サアド朝の統治権は名ばかりのものとなった。駐留軍のモロッコ人は土着化しつつ[[1833年]]までガオ、トンブクトゥ、ジェンネといった重要都市の支配権を握り続けた<ref>「新書アフリカ史」第8版(宮本正興・松田素二編)、2003年2月20日(講談社現代新書)p200</ref>ものの、流域全体に支配権を及ぼす力はなく、それ以外の地域には群小国家が乱立することとなった。政情の不安定化と大勢力の消滅は交易の拠点の東遷を招き、サハラ交易のメインルートは東の[[ハウサ諸王国]]や、さらに東の[[カネム・ボルヌ帝国]]へと移っていった。

このころ下流域においては、デルタ周辺に15世紀ごろには[[ベニン王国]]が栄えていた。ベニンは[[ヨルバ]]諸王国と緊密な関係を持ち、[[オヨ王国]]からは独立していたものの[[イフェ]]を中心とする聖界秩序に組み込まれていた。[[1483年]]、ベニンに[[ポルトガル人]]が来航し、以後海岸部はヨーロッパ人による[[大西洋]]の貿易システムに組み込まれるようになった。これにより内陸部の交易は勢いを失い、この衰退がニジェール川中流域の大帝国の消失をもたらした一因ともなった。この地域から移出される商品で最も重要なものは[[奴隷]]であり、この地域では奴隷狩りが横行するようになった。ベニンはこの流れの中で衰退していく。ベニンの東に居住していた[[イボ人]]たちは無頭性社会を築いており、人口は多かったものの王国を建設することはついになかった。

[[18世紀]]に入ると、流域の牧畜民である[[フラニ人]]が[[聖戦]]を宣して各地にイスラーム国家を建設するようになった。[[1726年]]にフータ・ジャロンにイスラム国家が建設され、[[1804年]]にはハウサ諸王国を打倒して[[ソコト帝国]]が、[[1818年]]には内陸デルタにマーシナ王国が、[[1853年]]には上中流域を支配下に収めたトゥクロール帝国が建国された<ref>「新書アフリカ史」第8版(宮本正興・松田素二編)、2003年2月20日(講談社現代新書)p204-205</ref>。

[[19世紀]]末になると、上中流域には[[フランス]]が、下流域には[[イギリス]]が勢力を伸ばし、[[サモリ・トゥーレ]]の[[サモリ帝国]]などの抵抗を撃破してこの地方を植民地化した。その後、[[1957年]]に上流域がギニアの領域として独立したのを皮切りに、[[1960年]]に下流域はナイジェリア、中流域はニジェール及びマリの領域として独立した。

== 探険史 ==
アフリカ大陸内陸部にニジェール川という川が流れていることは、古くからアフリカ以外の人々にも知られていた。[[イブン・バットゥータ]]などのように、[[アラブ人]]の中にはこの地域まで足を伸ばすものもいた。しかし、彼らが行くことができたのは中流域のみで、その川がどこに流れ込んでいるのかは、外部の誰にも知られていなかった。大航海時代が到来すると、ヨーロッパ人たちが海岸部に拠点を作るようになるが、彼らも[[レオ・アフリカヌス]]やアラブ圏のから書物の知識によってニジェール川の存在は知っていたものの、流路については謎のままだった。[[ナイル川]]、[[セネガル川]]、[[コンゴ川]]などとつながっていると考えるものも多かった。また、当時はヨーロッパの勢力は海岸部に限定されており、内陸部に行くことも難しかった。そんな中、[[1788年]]に[[ロンドン]]においてアフリカ協会が設立され、アフリカ内陸部の探険に力が入れられるようになった。

ヨーロッパ人で最初にニジェール川流域にたどりついたのは[[ムンゴ・パーク]]である。[[1795年]]に出発した彼は、[[ガンビア川]]をさかのぼって東へ向かい、ニジェール内陸デルタの端のセグまで到達した。[[1805年]]、2度目の探険に彼は出発し、中流を制覇してニジェール川の河口まで残り3分の1の地点までたどりついたが、現在のカインジ・ダム付近にあるブサで現地住民に襲撃され死亡した。この探険によってニジェール川の情報はかなり蓄積されたが、下流の流路および河口は未だ不明であった。

[[1822年]]にはデンハムとクラッパートンがサハラの北にある[[リビア]]の[[トリポリ]]から出発し、[[フェザーン]]や[[チャド湖]]を通って[[カノ]]へ、さらに[[ソコト帝国]]の首都[[ソコト]]までたどりついたが、そこから南下することはできなかった。一方、[[1824年]]にはフランス人の[[ルネ・カイエ]]が[[セネガル川]]から東へ向かい、ニジェール本流から外れているためパークが発見できなかったトンブクトゥにたどりついた。[[1825年]]には[[ヒュー・クラッパートン]]が2度目の探険にベニン湾から北上し、パークの死んだ地を確認した。ここでクラッパートンは熱病にかかり死去したものの、彼の従者であった[[リチャード・ランダー]]がそこからニジェール川を下り、[[スペイン]]領フェルナンド・ポー島(現[[ビオコ島]])にたどりついたことで、ニジェール川はギニア湾のニジェール・デルタへと注いでいることが確認された。

== 経済 ==
流域では工業はあまり発達していないが、乾燥地域における貴重な水源であり、特にマリやニジェールにおいて農業面で非常に重要な役割を果たしている。内陸デルタにおいては[[稲]]が主要な穀物であり、また[[綿花]]や[[粟]]、[[ソルガム]]も流域で多く栽培される。また内水面漁業も重要であり、ニジェール川でとれる魚は特に1960年代、綿花と牛に次ぐ第三位の輸出量を持つマリの重要な輸出品のひとつとなっていた<ref>「アフリカ入門」川田順造編 p198(新書館、1999年5月10日)</ref>。河口部のニジェール・デルタにおいては[[石油]]が大量に埋蔵されており、その採掘のためデルタには無数の油井が掘られ、ナイジェリア経済を支えている。一方で石油会社と地元住民の間には環境や経済面から対立が絶えず、地域の不安定要因となっている。

== 交通 ==
河川の長大さに比して、水運はさかんとは言いがたい。理由としては、上流・中流域のほとんどが[[ステップ気候]]や[[サバナ気候]]に属し、[[雨季]]と[[乾季]]が明瞭に分かれているため、渇水期には水量が大きく減少し、船舶の航行が不可能になるためである。さらに、中流域と下流域の間には急流が何ヶ所か存在し、船舶の航行を阻んでいて、水運での外洋連絡が不可能である。マリの首都バマコも、59km下流のクリコロとの間に急流が存在するため通年航行不能で、両都市間は[[鉄道]]によって結ばれている。それでも、流域においては交通インフラが整備されていないため、増水期の間には船が運航され、流域の重要な交通手段となっている。中流域では、7月から1月の増水期にはマリ共和国の[[クリコロ]]から[[ガオ (都市)|ガオ]]まで大型船が航行することができ、両都市や途中のセグ・モプティ・ジェンネ・トンブクトゥの外港カバラといった街々を結ぶ動脈となっている。また、増水期にはモプティから支流のバニ川をサンの街まで224km航行することが可能である<ref>田辺 裕、島田 周平、柴田 匡平、1998年、『世界地理大百科事典2 アフリカ』、朝倉書店 ISBN 4254166621 p533</ref>。下流域においては水量の問題はかなり軽減され、河口から[[オニチャ]]までは船舶が、ニジェール川とベヌエ川の合流点であるロコジャまでは[[艀]]で通年航行が可能であり、増水期にはニジェール川でもより上流まで、ベヌエ川においてはカメルーン領内の[[ガルア]]まで航行が可能となる。

== 環境 ==
流域中央部で砂漠化が進行しており、環境に大きな影響が出ている。セグからトンブクトゥにかけての内陸デルタは[[1980年代]]から乾燥化が進行し、面積が大幅に縮小している。また、流域の漁民が近代的な漁具を用いた漁業をおこなうようになったため乱獲となり、漁業資源が減少している。ニジェール川中流域は乾燥地域内の巨大な[[オアシス]]を形成しているため、渡り鳥の越冬地ともなっている。


== 支流 ==
== 支流 ==
*[[ベヌエ川]] - ニジェール川最大の支流。
*[[ベヌエ川]] - ニジェール川最大の支流。

== 脚注 ==
<references/>


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[W国立公園]] - 流域にある[[世界遺産]]。
* [[W国立公園]] - 流域にある[[世界遺産]]。
* [[ニジェール川流域機構]]
* [[ニジェール川流域機構]]
* [[ケネディ橋 (ニジェール)]]
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2011年8月29日 (月) 11:47時点における版

ニジェール川(クリコロ
流域は9カ国に跨がる
ニジェール川(クリコロ)
流域のデボ湖の景観

ニジェール川(ニジェールがわ)は、西アフリカを流れギニア湾に注ぐ河川である。全長4,180km。流域面積は209万2,000平方キロある。ギニアの山地から北東に流れてマリ共和国に入り、南東に転じてニジェールナイジェリアを流れる。河口大デルタ地帯を形成しギニア湾に注ぐ。マリのセグからトンブクトゥ間に内陸デルタを形成している。

乾燥したサヘル地帯を貫流しており、特に中流域に当たるマリ・ニジェール両国では重要な水の供給源となっている。また、ギニア湾沿岸地域と北アフリカを結ぶサハラ交易の重要な拠点でもあり、流域ではガーナ王国マリ王国ソンガイ王国といった国家が興亡を繰り返した。

地理

ニジェール川本流の水源は、ギニア中部に広がるフータ・ジャロン高地の中部、シエラレオネとの国境に近い地域である。この地域は年間降水量が1500mmから2000mm以上にも達し、ニジェール川の長大な流れを満たすだけの水を供給している。水源はギニア湾から300kmほどしか離れていないが、ニジェール川は内陸部を大きく迂回するため、全長は4,180kmにも達する。ニジェール川は北東に流れながらフータ・ジャロン東麓を流れるミロ川などの河川を集め、シギリでティンキソ川を合わせて水量を増し、シギリの50km北東でマリ領内に入る。

ニジェール川はマリ領の中部をほぼ東西に貫流し、マリの国土は東部のセネガル川水系を除くほぼすべてがニジェール川の水系に属する。マリ中部は乾燥したステップ気候帯であり、ニジェール川は主要な水源となっている。流れは緩やかであるが、首都バマコを通過し、クリコロの北郊周辺からはさらに高低差が少なくなり、1000kmで数メートルの高低差しかなくなる。このため、上流で雨季となると増えた水は川から溢れ出し、さらに川自体も網の目のような複雑な流路を取るようになって、内陸デルタを形成する。このデルタはクリコロからセグ、モプティを含む広大なものであり、増水期である7月から1月までの間には54000平方キロメートルの広大な湿原ができる[1]。モプティではコートジボワール北部から流れてきたバニ川を合わせる。デルタを抜け、トンブクトゥの外港であるカバラ周辺で川は北東から東へと向きを変え、ガオの北西で南東へと向きを変える。ガオの南東でニジェール領内へと入り、首都ニアメを通ったあとベナンとの国境をなしながらナイジェリア領内へと入る。

ナイジェリアの領内に入るとニジェール川は高度を下げていき、その過程でいくつかの急流が現れる。ナイジェリア西部のカインジにはカインジ・ダムが作られ、広大なダム湖ができている。カインジを過ぎ、河口から900kmのあたりから流れは再び緩やかになり、さらに降水量も大幅に増える。ナイジェリアの水系はラゴス周辺とチャド湖周辺を除くかなりの部分がニジェール川水系に属している。ナイジェリア中部、河口から550kmの地点にあるロコジャで東から流れてきたニジェール川最大の支流であるベヌエ川をあわせ水量を増す[2]が、ギニア湾に注ぐ100km手前あたりから広大な河口デルタを形成し、多数の支流を分岐させながらギニア湾へと流れ込む。

歴史

ニジェール川流域、特に中流域は、紀元前2000年ごろからサハラの乾燥化が進むに連れてオアシスとしての機能を果たすようになり、砂漠化する北部からの流入者が集住するようになった。このころから農耕が始まり、この地域ではグラベリマ稲フォニオシコクビエソルガムトウジンビエなどが栽培化され、世界の農耕文化の起源地の一つとなっている。一方下流域においては、ジョス高原において紀元前35世紀ごろからノク文化が栄えた。ノク文化は、土偶土器で知られ、のちのイフェ王国やベニン王国の彫刻造形に影響を与えた。また、紀元前5世紀ごろからは製鉄がはじまり、この技術はバントゥーの拡散とともに全アフリカへと広まった。

3世紀には北アフリカでラクダが家畜化され、これによってそれまで細々とした交流しかなかった北アフリカとニジェール川流域の間に交易ルートが開かれた。交易は富を生み、やがて8世紀頃よりこの地域にはサハラ交易と農耕を経済基盤とした王国が成立するようになる。

この地域で最も古い王国は、790年ごろに建国されクンビサレーに都を置いたガーナ王国である。ガーナ王国はニジェール川本流の北岸周辺までを領域とし、黄金の交易によって栄えた。この地域にイスラム教が伝来したのもこの時期である。ガーナ王国は1076年ムラービト朝聖戦によって首都を占領され、以後衰退の道をたどった。ガーナ王国衰退後、この地域は小国が乱立する時代を迎えたが、やがて1230年ごろにニジェール川上流のニアニで建国されたマリ王国が勢力を伸ばし、1235年にはガーナ王国の領域を支配下に置き、14世紀にはマンサ・ムーサのもとで最盛期を迎えた。マリ王国の時代にイスラム教がこの地域に浸透し、また王国は支配下に収めた河港都市ジェンネやモプティ、トンブクトゥで経済に力を入れ学芸を保護したため、トンブクトゥはイスラム学芸の中心地となった。17世紀にはマリ王国は衰微したが、代わって東部のガオに都を置くソンガイ帝国が力をつけ、1468年にはトンブクトゥを支配下に収めて流域に覇を唱え、16世紀初頭にはアスキア・ムハンマド王の下で最盛期を迎えた。しかし、1591年モロッコサアド朝の遠征軍によってソンガイ王国は滅亡した。

ソンガイ王国滅亡後、この地域に流域を束ねる巨大帝国が出現することはなかった。サアド朝はトンブクトゥやガオなど主要都市に代官を置いて統治したものの、まもなく本国モロッコで内乱が起き、サアド朝の統治権は名ばかりのものとなった。駐留軍のモロッコ人は土着化しつつ1833年までガオ、トンブクトゥ、ジェンネといった重要都市の支配権を握り続けた[3]ものの、流域全体に支配権を及ぼす力はなく、それ以外の地域には群小国家が乱立することとなった。政情の不安定化と大勢力の消滅は交易の拠点の東遷を招き、サハラ交易のメインルートは東のハウサ諸王国や、さらに東のカネム・ボルヌ帝国へと移っていった。

このころ下流域においては、デルタ周辺に15世紀ごろにはベニン王国が栄えていた。ベニンはヨルバ諸王国と緊密な関係を持ち、オヨ王国からは独立していたもののイフェを中心とする聖界秩序に組み込まれていた。1483年、ベニンにポルトガル人が来航し、以後海岸部はヨーロッパ人による大西洋の貿易システムに組み込まれるようになった。これにより内陸部の交易は勢いを失い、この衰退がニジェール川中流域の大帝国の消失をもたらした一因ともなった。この地域から移出される商品で最も重要なものは奴隷であり、この地域では奴隷狩りが横行するようになった。ベニンはこの流れの中で衰退していく。ベニンの東に居住していたイボ人たちは無頭性社会を築いており、人口は多かったものの王国を建設することはついになかった。

18世紀に入ると、流域の牧畜民であるフラニ人聖戦を宣して各地にイスラーム国家を建設するようになった。1726年にフータ・ジャロンにイスラム国家が建設され、1804年にはハウサ諸王国を打倒してソコト帝国が、1818年には内陸デルタにマーシナ王国が、1853年には上中流域を支配下に収めたトゥクロール帝国が建国された[4]

19世紀末になると、上中流域にはフランスが、下流域にはイギリスが勢力を伸ばし、サモリ・トゥーレサモリ帝国などの抵抗を撃破してこの地方を植民地化した。その後、1957年に上流域がギニアの領域として独立したのを皮切りに、1960年に下流域はナイジェリア、中流域はニジェール及びマリの領域として独立した。

探険史

アフリカ大陸内陸部にニジェール川という川が流れていることは、古くからアフリカ以外の人々にも知られていた。イブン・バットゥータなどのように、アラブ人の中にはこの地域まで足を伸ばすものもいた。しかし、彼らが行くことができたのは中流域のみで、その川がどこに流れ込んでいるのかは、外部の誰にも知られていなかった。大航海時代が到来すると、ヨーロッパ人たちが海岸部に拠点を作るようになるが、彼らもレオ・アフリカヌスやアラブ圏のから書物の知識によってニジェール川の存在は知っていたものの、流路については謎のままだった。ナイル川セネガル川コンゴ川などとつながっていると考えるものも多かった。また、当時はヨーロッパの勢力は海岸部に限定されており、内陸部に行くことも難しかった。そんな中、1788年ロンドンにおいてアフリカ協会が設立され、アフリカ内陸部の探険に力が入れられるようになった。

ヨーロッパ人で最初にニジェール川流域にたどりついたのはムンゴ・パークである。1795年に出発した彼は、ガンビア川をさかのぼって東へ向かい、ニジェール内陸デルタの端のセグまで到達した。1805年、2度目の探険に彼は出発し、中流を制覇してニジェール川の河口まで残り3分の1の地点までたどりついたが、現在のカインジ・ダム付近にあるブサで現地住民に襲撃され死亡した。この探険によってニジェール川の情報はかなり蓄積されたが、下流の流路および河口は未だ不明であった。

1822年にはデンハムとクラッパートンがサハラの北にあるリビアトリポリから出発し、フェザーンチャド湖を通ってカノへ、さらにソコト帝国の首都ソコトまでたどりついたが、そこから南下することはできなかった。一方、1824年にはフランス人のルネ・カイエセネガル川から東へ向かい、ニジェール本流から外れているためパークが発見できなかったトンブクトゥにたどりついた。1825年にはヒュー・クラッパートンが2度目の探険にベニン湾から北上し、パークの死んだ地を確認した。ここでクラッパートンは熱病にかかり死去したものの、彼の従者であったリチャード・ランダーがそこからニジェール川を下り、スペイン領フェルナンド・ポー島(現ビオコ島)にたどりついたことで、ニジェール川はギニア湾のニジェール・デルタへと注いでいることが確認された。

経済

流域では工業はあまり発達していないが、乾燥地域における貴重な水源であり、特にマリやニジェールにおいて農業面で非常に重要な役割を果たしている。内陸デルタにおいてはが主要な穀物であり、また綿花ソルガムも流域で多く栽培される。また内水面漁業も重要であり、ニジェール川でとれる魚は特に1960年代、綿花と牛に次ぐ第三位の輸出量を持つマリの重要な輸出品のひとつとなっていた[5]。河口部のニジェール・デルタにおいては石油が大量に埋蔵されており、その採掘のためデルタには無数の油井が掘られ、ナイジェリア経済を支えている。一方で石油会社と地元住民の間には環境や経済面から対立が絶えず、地域の不安定要因となっている。

交通

河川の長大さに比して、水運はさかんとは言いがたい。理由としては、上流・中流域のほとんどがステップ気候サバナ気候に属し、雨季乾季が明瞭に分かれているため、渇水期には水量が大きく減少し、船舶の航行が不可能になるためである。さらに、中流域と下流域の間には急流が何ヶ所か存在し、船舶の航行を阻んでいて、水運での外洋連絡が不可能である。マリの首都バマコも、59km下流のクリコロとの間に急流が存在するため通年航行不能で、両都市間は鉄道によって結ばれている。それでも、流域においては交通インフラが整備されていないため、増水期の間には船が運航され、流域の重要な交通手段となっている。中流域では、7月から1月の増水期にはマリ共和国のクリコロからガオまで大型船が航行することができ、両都市や途中のセグ・モプティ・ジェンネ・トンブクトゥの外港カバラといった街々を結ぶ動脈となっている。また、増水期にはモプティから支流のバニ川をサンの街まで224km航行することが可能である[6]。下流域においては水量の問題はかなり軽減され、河口からオニチャまでは船舶が、ニジェール川とベヌエ川の合流点であるロコジャまではで通年航行が可能であり、増水期にはニジェール川でもより上流まで、ベヌエ川においてはカメルーン領内のガルアまで航行が可能となる。

環境

流域中央部で砂漠化が進行しており、環境に大きな影響が出ている。セグからトンブクトゥにかけての内陸デルタは1980年代から乾燥化が進行し、面積が大幅に縮小している。また、流域の漁民が近代的な漁具を用いた漁業をおこなうようになったため乱獲となり、漁業資源が減少している。ニジェール川中流域は乾燥地域内の巨大なオアシスを形成しているため、渡り鳥の越冬地ともなっている。

支流

脚注

  1. ^ ミリオーネ全世界事典 第11巻 アフリカⅡ p46-47(学習研究社、1980年11月1日)
  2. ^ 田辺 裕、島田 周平、柴田 匡平、1998年、『世界地理大百科事典2 アフリカ』、朝倉書店 ISBN 4254166621 p416
  3. ^ 「新書アフリカ史」第8版(宮本正興・松田素二編)、2003年2月20日(講談社現代新書)p200
  4. ^ 「新書アフリカ史」第8版(宮本正興・松田素二編)、2003年2月20日(講談社現代新書)p204-205
  5. ^ 「アフリカ入門」川田順造編 p198(新書館、1999年5月10日)
  6. ^ 田辺 裕、島田 周平、柴田 匡平、1998年、『世界地理大百科事典2 アフリカ』、朝倉書店 ISBN 4254166621 p533

関連項目


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