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[[天正]]11年([[1583年]])、[[京都]]において生まれたが、ほどなく伯父のもとに養子に出された。幼少の頃から秀才として謳われ、[[文禄]]4年([[1595年]])、京都[[建仁寺]]で[[仏教]]を学んだが、僧籍に入ること([[出家]])は拒否して[[慶長]]2年([[1597年]])家に戻った。家に帰ってからはもっぱら儒書に親しみ、南宋の[[朱熹]](朱子)の章句、[[集注]]([[四書]]の注釈)を研究した<ref name=ishida/>。 |
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独学を進めるうちに[[朱子学]]に熱中していき、 |
独学を進めるうちに、いっそう[[朱子学]](宋学)に熱中していき、慶長9年([[1604年]])に[[藤原惺窩]](せいか)と出会う。それにより、精神的、学問的に大きく惺窩の影響を受けることになり、師のもとで儒学ことに朱子学を学んだ。惺窩も羅山の英明さに驚き、翌慶長10年([[1605年]])には[[徳川家康]]に会わせる。羅山が家康に謁見したのは京都[[二条城]]においてであった<ref name=seigo>[http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1090.html 松岡正剛の千夜千冊『徳川イデオロギー』ヘルマン・オームス]</ref>。家康は、惺窩の勧めもあり、こののち羅山を手元に置いていくこととした<ref name=ishida>石田(2004)</ref>。羅山は家康にその才を認められ、23歳の若さで家康のブレーンの一人となったのである。 |
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[[ファイル:Hokoji-BellDetail-M1767.jpg|180px|right|thumb|方広寺の鐘銘]] |
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慶長11年([[1606年]])には[[イエズス会]]の日本人[[修道士]]、[[イルマン・ハビアン]]と「[[地球]]論争」を行っている。この時林羅山は[[地動説]]と[[地球球体説]]を断固として受け入れず、地球方形説と[[天動説]]を主張した。この論争は林羅山がハビアンを論破する形で終わり、その後ハビアンは信仰に動揺を来たし、後の棄教につながっていく。 |
慶長11年([[1606年]])には[[イエズス会]]の日本人[[修道士]]、[[イルマン・ハビアン]]と「[[地球]]論争」を行っている。この時林羅山は[[地動説]]と[[地球球体説]]を断固として受け入れず、地球方形説と[[天動説]]を主張した。この論争は林羅山がハビアンを論破する形で終わり、その後ハビアンは信仰に動揺を来たし、後の棄教につながっていく。 |
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慶長12年([[1607年]])、家康の命により僧形となり、道春と称して仕えた。また、この年、[[江戸]]に赴き2代将軍[[徳川秀忠]](家康の3男)に講書をおこなっている。また、[[大坂の役]]に際しては[[方広寺]]の[[梵鐘]]に刻された京都[[南禅寺]]の禅僧[[文英清韓]]による銘文中の「国家安康」「君臣豊楽」の文言の件([[大坂の陣#方広寺鐘銘事件|方広寺鐘銘事件]])で、家康に追従して、これを[[徳川氏|徳川家]]を呪詛するものとして問題視する意見を献じた<ref name=tsuji210>辻(1974)pp.210-211</ref>。さらに羅山は「右僕射源朝臣家康」(右僕射は右大臣の唐名)を「家康を射る」ものであると無理にこじつけた見解を表明した<ref name=tsuji210/>。 |
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慶長12年([[1607年]])には、[[江戸]]に赴き2代将軍[[徳川秀忠]](家康の3男)に講書を行った。[[寛永]]元年([[1624年]])3代将軍・[[徳川家光]](秀忠の長男)の侍講になり、以後幕府政治にも関わっていくことになる。寛永12年([[1635年]])[[武家諸法度]]の起草にあたり、翌13年([[1636年]])には[[伊勢神宮]]参拝典礼にもあたった。 |
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[[寛永]]元年([[1624年]])、3代将軍[[徳川家光]](秀忠の長男)の侍講となり、さらに幕府政治に深く関与していくことになる。その活躍は、『[[寛永諸家系図伝]]』『[[本朝通鑑]]』などの[[伝記]]・歴史の編纂・[[校訂]]、古書・古記録の採集、「[[武家諸法度]]」「[[諸士法度]]」などの撰定、外交文書の起草、[[朝鮮通信使]]の応接など多岐にわたっている<ref name=seigo> [http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1090.html 松岡正剛の千夜千冊『徳川イデオロギー』ヘルマン・オームス]</ref><ref group="注釈">しかし家康自身は、羅山よりも[[金地院崇伝]]や[[天台宗]]の僧侶[[天海]]を政治的助言者として重用し、儒学者をことさら特別視したわけではなかった。</ref>。寛永12年([[1635年]])には武家諸法度を起草し、翌13年([[1636年]])には[[伊勢神宮]]参拝典礼にあたっている。 |
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なお寛永9年([[1632年]])上野忍が岡に、学問所を与えられ先聖殿と称した。後に[[忍岡聖堂]]と呼ばれる施設である。 |
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寛永7年([[1630年]])、将軍家光から[[江戸]][[上野]]忍岡に土地を与えられ、寛永9年([[1632年]])、羅山は江戸上野忍岡に私塾(学問所)・文庫と[[孔子廟]]を建てて「先聖殿」と称した。のちに[[忍岡聖堂]]と呼ばれる施設である(これらはのちに神田の昌平坂に移されることとなる)。この私塾からは、多くの門人が輩出し、後世の[[昌平坂学問所]]の基礎となった。また、[[尾張藩]]初代[[藩主]]の[[徳川義直]]は、羅山が羅山の私邸の一角において[[孔子]]を祀る略式の[[釈奠]]を執り行うことについて援助しており<ref name=seigo/>、晩年は幕府より910石を給せられた<ref name=iwaki>岩城(1979)p.108</ref>。 |
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林羅山は、朱子学者として、万物は「理」と「気」から成るとする[[理気二元論]]を説き、理法が諸現象を支配するのと同様に理性が情欲を支配することを理想とした。また、[[上下定分の理]]を説いて[[士農工商]]の[[身分制度]]を正当化した。 |
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幕府による羅山の登用は、儒学者の社会的地位の向上に大きな役割を果たした。 |
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== 羅山の学問と思想 == |
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*[[本朝通鑑]] |
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=== 儒学者羅山 === |
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*[[本朝編年録]] |
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林羅山の学問は、漢唐の旧注から[[陸象山]]・[[王陽明]]の学におよび、[[諸子百家]]から日本の[[古典]]にも通じたが、南宋の朱熹([[朱子]])の学問([[朱子学]])がその中心であり、特に師の藤原惺窩の没後は明確に朱熹の理気論(太極理気の論)の立場に立った<ref name=ishida/><ref name=iwaki/>。羅山は、朱子学者として、万物は「理」と「気」から成るとする[[理気二元論]]を説き、理法が諸現象を支配するのと同様に理性が情欲を支配することを理想とした(『[[三徳抄]]』)。そして[[天]](理気未分の[[太極]])を自然・人文のいっさいの事物に内在化し、かつ、天は[[気]]によって万象を創造し、[[理]]によって万象を主宰するとして、この天のはたらき、すなわち「[[天道]]」をたすけることこそが[[人道]]であって、この人道の実践・履行が「格物」より始まると説いた<ref name=ishida/>。 |
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また、万象を貫く道徳的属性を考える立場に立って[[幕藩体制]]下の身分秩序とそこにおける実践道徳を[[形而上学]]的に基礎づけた<ref name=iwaki/>。『[[春鑑抄]]』においては、[[上下定分の理]]を説いて[[士農工商]]の[[身分制度]]を正当化したが、これは、幕藩体制の根幹をなす身分秩序絶対化の理論であった<ref name=shira>白取(2005)p.88-89</ref>。羅山は、同書で、国をよく治めるためには「序」(秩序・序列)を保つため、「[[敬]]」(つつしみあざむかない心)と、その具体的な現れである「[[礼]]」([[礼儀]]・[[法度]])が重要視されるべきことを説き、持敬(心のなかに「敬」を持ち続けること)を強調している。 |
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羅山の朱子学は中国から直輸入したものではなく、[[豊臣秀吉]]の[[朝鮮出兵]]を契機に流入した朝鮮朱子学を自覚的、選択的に摂取したものであるとされている<ref>深谷(1993)pp.259-262</ref>。なお、「羅山」の号も、朝鮮本の『[[延平問答]]』に由来するものである<ref>深谷(1993)p.262</ref>。 |
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=== 「百科全書派」羅山 === |
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羅山は多くの作文・賦詩をのこしており<ref name=iwaki/>、むしろ羅山は「徳川時代の最初のエンサイクロペディスト」であったという評価がある<ref name=seigo/>。『[[神道伝授]]』や『[[本朝神社考]]』においては[[朱子]]の唱えた鬼神論にもとづいて古代以来の日本の[[神仏習合]]を批判した。中国の[[本草学]]の紹介書『[[多識編]]』、[[兵学]]の注釈書である『[[孫子諺解]]』『[[三略諺解]]』『[[六韜諺解]]』、さらに中国の[[怪奇小説]]の案内書『[[怪談全書]]』を著すなど、その関心と学識は多方面にわたっている<ref group="注釈">羅山は手広く自らの学術宗教を喧伝したため、後世、[[中江藤樹]]や[[山崎闇斎]]からの批判を受けている。</ref>。[[日本史]]にも造詣が深く、日本の国祖としての[[太伯]]説に関心を寄せている<ref name=iwaki/>。 |
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いまひとつは、神儒合一論である。羅山は、[[神道]]、[[王道]]、[[儒教|儒道]]、[[人道]]の根本は同一なのであり、神は心・理であるとして[[理当心地神道]]を説き、[[日本神話]]中の「[[三種の神器]]」を儒教的な[[智]]・[[仁]]・[[勇気|勇]]の「[[三徳 (儒学)|三徳]]の[[象徴]]」と見なした<ref name=iwaki/><ref group="注釈">岩城隆利は、これを中世末期の[[伊勢神道]]の流れを汲む発想であろうとしている。岩城(1979)p.108</ref>。理当心地神道は、[[近世]]の儒学神道の先がけとなった<ref name=ishida/>。 |
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編著書は、150余りにおよび<ref name=iwaki/>、上述した |
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*『[[本朝通鑑]]』(『本朝編年録』) |
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*『神道伝授』 |
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*『羅山文集』 |
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*『羅山詩集』 |
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*『性理字義諺解』 |
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*『神道秘伝折中俗解』 |
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== 家族 == |
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羅山には4人の男子があり、長男と二男は夭逝した。[[元和 (日本)|元和]]4年([[1618年]])に三男春勝、寛永元年([[1624年]])に四男守勝がいずれも京都に生まれており、春勝は[[林鵞峰|鵞峰]]、守勝は[[林読耕斎|読耕斎]](とくこうさい)と号した。鵞峰は父の後継者として幕府に仕えて大学頭と称することを許され、読耕斎も幕府に召し抱えられた<ref name=ishida/>。 |
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== エピソード == |
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*[[江戸城]]に出仕した[[大名]]がそれぞれ自分の持参した弁当を食していた際、[[毛利秀元]]の弁当のなかに[[鮭]]の切り身が入っていた。このとき羅山は、[[武蔵国|武蔵]][[岩槻藩]]の[[藩主]][[阿部重次]]らとともに「珍しい」と言って鮭の切り身を少しずつわけてもらったという<ref>辻(1974)p.132</ref>。 |
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*羅山は、[[慶安]]4年([[1651年]])に[[後水尾上皇]]が突然[[出家]]して法名を円浄と称した際、そのことを「ああ驕子の父にしたがわざる。これをいかんともするなし。他年武門これを愛惜せんと欲するも、いずくんぞ得べけんや」と評している<ref>辻(1974)pp.386-387</ref>。 |
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*明暦2年(1656年)、妻を亡くした際には、その死を悼む詩を26首詠むなど[[愛妻家]]であった。 |
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*明暦3年(1657年)[[1月18日 (旧暦)|1月18日]]から三日三晩におよぶ明暦の大火(通称「振袖火事」)では、羅山は周囲の騒擾をよそに[[読書]]に余念がなかったが、[[神田]]の自宅に火がせまったため、[[1月19日 (旧暦)|1月19日]]、読みかけの本1冊だけをもって[[上野]]方面に逃げたが、自宅が焼失し、書庫に納められていた蔵書もすべて焼亡したと聞いて発病したといわれる<ref>深谷(1993)p.170</ref>。 |
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== 脚注 == |
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== 林羅山を演じた俳優 == |
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*[[山鹿素行]] - 羅山の弟子 |
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== 参考文献 == |
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* [[辻達也]]『日本の歴史13 江戸開府』[[中央公論社]]<[[中公文庫]]>、1974年4月。 |
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* [[岩城隆利]]「林羅山」日本歴史大辞典編集委員会『日本歴史大辞典第8巻 は-ま』[[河出書房新社]]、1979年11月。 |
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* [[深谷克己]]『大系日本の歴史9 士農工商の世』[[小学館]]<[[小学館ライブラリー]]>、1993年4月。ISBN 4-09-461009-X |
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* [[石田一良]]「林羅山」[[小学館]]編『日本大百科全書』(スーパーニッポニカProfessional Win版)小学館、2004年2月。ISBN 4099067459 |
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* [[白取春彦]]『「東洋哲学」は図で考えると面白い』[[青春出版社]]、2005年3月。ISBN 4-413-00771-9 |
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== 外部リンク == |
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* [http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1090.html 松岡正剛の千夜千冊『徳川イデオロギー』ヘルマン・オームス]([http://www.honza.jp/ ISIS本座]) |
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2011年7月26日 (火) 13:27時点における版
林 羅山(はやし らざん、天正11年(1583年) - 明暦3年1月23日(1657年3月7日))は、江戸時代初期の朱子学派儒学者。林家の祖。羅山は号で、諱は信勝(のぶかつ)。字は子信。通称又三郎。出家した後の号、道春(どうしゅん)の名でも知られる。
略歴
天正11年(1583年)、京都において生まれたが、ほどなく伯父のもとに養子に出された。幼少の頃から秀才として謳われ、文禄4年(1595年)、京都建仁寺で仏教を学んだが、僧籍に入ること(出家)は拒否して慶長2年(1597年)家に戻った。家に帰ってからはもっぱら儒書に親しみ、南宋の朱熹(朱子)の章句、集注(四書の注釈)を研究した[1]。
独学を進めるうちに、いっそう朱子学(宋学)に熱中していき、慶長9年(1604年)に藤原惺窩(せいか)と出会う。それにより、精神的、学問的に大きく惺窩の影響を受けることになり、師のもとで儒学ことに朱子学を学んだ。惺窩も羅山の英明さに驚き、翌慶長10年(1605年)には徳川家康に会わせる。羅山が家康に謁見したのは京都二条城においてであった[2]。家康は、惺窩の勧めもあり、こののち羅山を手元に置いていくこととした[1]。羅山は家康にその才を認められ、23歳の若さで家康のブレーンの一人となったのである。
慶長11年(1606年)にはイエズス会の日本人修道士、イルマン・ハビアンと「地球論争」を行っている。この時林羅山は地動説と地球球体説を断固として受け入れず、地球方形説と天動説を主張した。この論争は林羅山がハビアンを論破する形で終わり、その後ハビアンは信仰に動揺を来たし、後の棄教につながっていく。
慶長12年(1607年)、家康の命により僧形となり、道春と称して仕えた。また、この年、江戸に赴き2代将軍徳川秀忠(家康の3男)に講書をおこなっている。また、大坂の役に際しては方広寺の梵鐘に刻された京都南禅寺の禅僧文英清韓による銘文中の「国家安康」「君臣豊楽」の文言の件(方広寺鐘銘事件)で、家康に追従して、これを徳川家を呪詛するものとして問題視する意見を献じた[3]。さらに羅山は「右僕射源朝臣家康」(右僕射は右大臣の唐名)を「家康を射る」ものであると無理にこじつけた見解を表明した[3]。
寛永元年(1624年)、3代将軍徳川家光(秀忠の長男)の侍講となり、さらに幕府政治に深く関与していくことになる。その活躍は、『寛永諸家系図伝』『本朝通鑑』などの伝記・歴史の編纂・校訂、古書・古記録の採集、「武家諸法度」「諸士法度」などの撰定、外交文書の起草、朝鮮通信使の応接など多岐にわたっている[2][注釈 1]。寛永12年(1635年)には武家諸法度を起草し、翌13年(1636年)には伊勢神宮参拝典礼にあたっている。
寛永7年(1630年)、将軍家光から江戸上野忍岡に土地を与えられ、寛永9年(1632年)、羅山は江戸上野忍岡に私塾(学問所)・文庫と孔子廟を建てて「先聖殿」と称した。のちに忍岡聖堂と呼ばれる施設である(これらはのちに神田の昌平坂に移されることとなる)。この私塾からは、多くの門人が輩出し、後世の昌平坂学問所の基礎となった。また、尾張藩初代藩主の徳川義直は、羅山が羅山の私邸の一角において孔子を祀る略式の釈奠を執り行うことについて援助しており[2]、晩年は幕府より910石を給せられた[4]。
徳川家の家康・秀忠・家光・家綱の将軍4代に仕えた羅山は、初期の江戸幕府の土台作りに大きく関わり、様々な制度、儀礼などのルールを定めていった[1]。学問上では、儒学・神道以外の全てを排し、朱子学の発展、儒学の官学化に貢献した。博識で学問だけでなく紀行書を著すなど多彩な面がある[2]。また、羅山は幕府に対しては僧侶の資格で仕えながら、仏教批判をおこなっている[2]。
なお、林家当代の主が大学頭(だいがくのかみ)と称したのは羅山の孫の3代林鳳岡の代からであり、以後林家は代々幕府の教学の責任者としての役割を担い、駿河文庫の管理もおこなった。
明暦2年(1656年)には最愛の妻を亡くている。翌1657年、明暦の大火によって邸宅と書庫を焼失し、その4日後に死去した。書庫が焼失した衝撃と落胆で命を縮めたともいわれている。墓は東京都新宿区市谷山伏町にある。
幕府による羅山の登用は、儒学者の社会的地位の向上に大きな役割を果たした。
羅山の学問と思想
儒学者羅山
林羅山の学問は、漢唐の旧注から陸象山・王陽明の学におよび、諸子百家から日本の古典にも通じたが、南宋の朱熹(朱子)の学問(朱子学)がその中心であり、特に師の藤原惺窩の没後は明確に朱熹の理気論(太極理気の論)の立場に立った[1][4]。羅山は、朱子学者として、万物は「理」と「気」から成るとする理気二元論を説き、理法が諸現象を支配するのと同様に理性が情欲を支配することを理想とした(『三徳抄』)。そして天(理気未分の太極)を自然・人文のいっさいの事物に内在化し、かつ、天は気によって万象を創造し、理によって万象を主宰するとして、この天のはたらき、すなわち「天道」をたすけることこそが人道であって、この人道の実践・履行が「格物」より始まると説いた[1]。
また、万象を貫く道徳的属性を考える立場に立って幕藩体制下の身分秩序とそこにおける実践道徳を形而上学的に基礎づけた[4]。『春鑑抄』においては、上下定分の理を説いて士農工商の身分制度を正当化したが、これは、幕藩体制の根幹をなす身分秩序絶対化の理論であった[5]。羅山は、同書で、国をよく治めるためには「序」(秩序・序列)を保つため、「敬」(つつしみあざむかない心)と、その具体的な現れである「礼」(礼儀・法度)が重要視されるべきことを説き、持敬(心のなかに「敬」を持ち続けること)を強調している。
羅山の朱子学は中国から直輸入したものではなく、豊臣秀吉の朝鮮出兵を契機に流入した朝鮮朱子学を自覚的、選択的に摂取したものであるとされている[6]。なお、「羅山」の号も、朝鮮本の『延平問答』に由来するものである[7]。
「百科全書派」羅山
羅山は多くの作文・賦詩をのこしており[4]、むしろ羅山は「徳川時代の最初のエンサイクロペディスト」であったという評価がある[2]。『神道伝授』や『本朝神社考』においては朱子の唱えた鬼神論にもとづいて古代以来の日本の神仏習合を批判した。中国の本草学の紹介書『多識編』、兵学の注釈書である『孫子諺解』『三略諺解』『六韜諺解』、さらに中国の怪奇小説の案内書『怪談全書』を著すなど、その関心と学識は多方面にわたっている[注釈 2]。日本史にも造詣が深く、日本の国祖としての太伯説に関心を寄せている[4]。
羅山の思想
羅山の思想は、総じて儒教的な現世主義・道徳主義、および、一種の合理主義を特徴としている[4]。
とくに際だった主張のひとつに仏教の排斥があり、仏教が彼岸主義に立って現世の人間社会における問題を避け、来世を説いて虚妄を述べると批判し、その道徳無視や仏僧にみえる不道徳・罪悪などを追及している[4]。
いまひとつは、神儒合一論である。羅山は、神道、王道、儒道、人道の根本は同一なのであり、神は心・理であるとして理当心地神道を説き、日本神話中の「三種の神器」を儒教的な智・仁・勇の「三徳の象徴」と見なした[4][注釈 3]。理当心地神道は、近世の儒学神道の先がけとなった[1]。
編著書
編著書は、150余りにおよび[4]、上述した
などのほか、
- 『羅山文集』
- 『羅山詩集』
- 『丙辰紀行』
- 『性理字義諺解』
- 『神道秘伝折中俗解』
がある。
家族
羅山には4人の男子があり、長男と二男は夭逝した。元和4年(1618年)に三男春勝、寛永元年(1624年)に四男守勝がいずれも京都に生まれており、春勝は鵞峰、守勝は読耕斎(とくこうさい)と号した。鵞峰は父の後継者として幕府に仕えて大学頭と称することを許され、読耕斎も幕府に召し抱えられた[1]。
エピソード
- 江戸城に出仕した大名がそれぞれ自分の持参した弁当を食していた際、毛利秀元の弁当のなかに鮭の切り身が入っていた。このとき羅山は、武蔵岩槻藩の藩主阿部重次らとともに「珍しい」と言って鮭の切り身を少しずつわけてもらったという[8]。
- 羅山は、慶安4年(1651年)に後水尾上皇が突然出家して法名を円浄と称した際、そのことを「ああ驕子の父にしたがわざる。これをいかんともするなし。他年武門これを愛惜せんと欲するも、いずくんぞ得べけんや」と評している[9]。
- 明暦2年(1656年)、妻を亡くした際には、その死を悼む詩を26首詠むなど愛妻家であった。
- 明暦3年(1657年)1月18日から三日三晩におよぶ明暦の大火(通称「振袖火事」)では、羅山は周囲の騒擾をよそに読書に余念がなかったが、神田の自宅に火がせまったため、1月19日、読みかけの本1冊だけをもって上野方面に逃げたが、自宅が焼失し、書庫に納められていた蔵書もすべて焼亡したと聞いて発病したといわれる[10]。
脚注
注釈
参照
林羅山を演じた俳優
- 成田三樹夫(ZIPANG、1990年)
関連項目
参考文献
- 辻達也『日本の歴史13 江戸開府』中央公論社<中公文庫>、1974年4月。
- 岩城隆利「林羅山」日本歴史大辞典編集委員会『日本歴史大辞典第8巻 は-ま』河出書房新社、1979年11月。
- 深谷克己『大系日本の歴史9 士農工商の世』小学館<小学館ライブラリー>、1993年4月。ISBN 4-09-461009-X
- 石田一良「林羅山」小学館編『日本大百科全書』(スーパーニッポニカProfessional Win版)小学館、2004年2月。ISBN 4099067459
- 白取春彦『「東洋哲学」は図で考えると面白い』青春出版社、2005年3月。ISBN 4-413-00771-9
外部リンク