林榴岡
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林 榴岡(はやし りゅうこう、天和元年(1681年) - 宝暦8年11月11日(1758年12月11日))は、江戸時代中期の朱子学派儒学者。林鳳岡の子、林家の4代目。榴岡は号で、名は怤、諱は信充(のぶみつ)。字は士厚。通称は七三郎。別号に復軒、快堂など。妻は畠山義玄の娘。子に林鳳池、林鳳谷(林家5代)など。
略歴
[編集]享保8年(1723年)、大学頭となり、翌年林家4代を継ぐ。寛保3年(1743年)、徳川家治の侍講となった。
江戸麹町の八重洲河岸に屋敷を構えていたが、宝暦6年(1756年)11月23日、自邸より出火、大名小路・数奇屋町・木挽町まで焼失、さらに築地より出火、西本願寺地内十五ヵ寺・小田原町まで焼失、さらに青山権太原六道の辻より出火、三田あたりまで焼失、最初に出火したのが信充であったことから大学火事と呼ばれた。
系譜
[編集]編著書
[編集]- 「馴象編」
- 「武州豊島群城南麻布邑多聞山天現寺毘沙門天王縁起」天現寺所蔵
- 「詩法蠡測(れいそく)」
- 「本朝世説」
- 「御撰大坂軍記」(編著)
など。