「ヨーゼフ・ディートリヒ」の版間の差分
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{{基礎情報 軍人 |
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| 氏名 = ヨーゼフ・ディートリッヒ |
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| 各国語表記 = Josef Dietrich |
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|lived=[[1892年]][[5月28日]]‐[[1966年]][[4月]] |
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| 生年月日 = [[1892年]][[5月28日]] |
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|placeofbirth=[[画像:Flag of the German Empire.svg|20px]] [[ドイツ帝国]]<br>[[画像:Flag of Bavaria (striped).svg|20px]] [[バイエルン王国]]<br>[[アレガウ]]地方 |
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| 没年月日 = [[1966年]][[4月22日]] |
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|placeofdeath=[[画像:Flag of Germany.svg|20px]] [[ドイツ|ドイツ連邦共和国]]<br>[[画像:Flag of Baden-Württemberg.svg|20px]] [[バーデン=ヴュルテンベルク州]]<br>[[ルートヴィヒスブルク]] |
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| 画像 = Bundesarchiv Bild 183-J06632, Sepp Dietrich.jpg |
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| 画像サイズ = 270px |
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|caption=ヨーゼフ・"ゼップ"・ディートリッヒ |
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| 画像説明 = |
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|nickname= |
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| 渾名 = |
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|allegiance=[[image:War Ensign of Germany 1903-1918.svg|20px]] ドイツ帝国陸軍<br>[[image:Flag Schutzstaffel.svg|20px]] [[ナチス・ドイツ]][[武装親衛隊]] |
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| 生誕地 = [[画像:Flag of Bavaria (striped).svg|20px]] [[バイエルン王国]]<br>[[ハヴァンゲン]]([[:de:Hawangen|de]]) |
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|serviceyears=1911~1918、1933~1945 |
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| 死没地 = [[画像:Flag of Baden-Württemberg.svg|20px]] [[バーデン=ヴュルテンベルク州]]<br>[[ルートヴィヒスブルク]] |
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|rank=[[親衛隊上級大将]] |
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| 所属組織 = [[画像:Flag of Bavaria (striped).svg|20px]] バイエルン陸軍 |
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|commands= |
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|battles= |
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[[ファイル:Flag Schutzstaffel.svg|20px]] [[親衛隊特務部隊]] |
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|results= |
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[[ファイル:Flag Schutzstaffel.svg|20px]] [[武装親衛隊]] |
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|laterwork= |
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| 軍歴 = 1911、1914-1918、1934-1945 |
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|Mausoleum= |
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| 最終階級 = [[曹長]](バイエルン陸軍)<br>[[親衛隊上級大将]]及び武装親衛隊上級大将(親衛隊) |
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| 除隊後 = |
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'''ヨーゼフ・ディートリッヒ'''('''Josef Dietrich''' 、[[1892年]][[5月28日]] - [[1966年]]4月)は、[[ |
'''ヨーゼフ・ディートリッヒ'''('''Josef Dietrich''' 、[[1892年]][[5月28日]] - [[1966年]][[4月22日]])は、[[ドイツ]]の政党[[国家社会主義ドイツ労働者党]](以下ナチ党)の武装組織[[武装親衛隊]]の将軍。最終階級は[[親衛隊上級大将]]及び武装親衛隊上級大将(SS-Oberstgruppenführer und Generaloberst der Waffen-SS)。[[騎士鉄十字章#柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章|柏・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章]]受章者。愛称はゼップ(Sepp)。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 少年・青年期 === |
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1892年5月28日、[[ドイツ帝国]][[領邦]][[バイエルン王国]][[シュヴァーベン]]地方[[ハヴァンゲン]]([[:de:Hawangen|de]])に生まれる<ref name="ヴィストリヒ(2002)142">[[#ヴィストリヒ(2002)|ヴィストリヒ(2002)p.142]]</ref><ref name="広田(2010)80">[[#広田(2010)|広田(2010)、p80]]</ref><ref name="山崎(2009)526">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p526]]</ref><ref name="Miller(2006)248">[[#Miller(2006)|Miller(2006), p.248]]</ref>。父は荷造り人夫頭ペルギウス・ディートリヒ(Pelagius Dietrich)。母はその妻クラスツェンチア(Kreszentia)<ref name="Miller(2006)258">[[#Miller(2006)|Miller(2006), p.258]]</ref>。6人兄弟であり、ディートリヒは長男だった<ref name="ゴールデンソーン(2005)370">[[#ゴールデンソーン(2005)|ゴールデンソーン(2005)、p370]]</ref>。弟二人は[[第一次世界大戦]]で戦死した<ref name="ゴールデンソーン(2005)369">[[#ゴールデンソーン(2005)|ゴールデンソーン(2005)、p369]]</ref>。 |
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1892年5月28日、荷造り人夫頭ペルギウス・ディートリヒ(Pelagius Dietrich)とその妻クラスツェンチア(Kreszentia)の息子として[[ドイツ帝国]][[バイエルン王国]]の[[アレガウ]]地方に生まれる。[[小学校]]を卒業すると肉屋や[[スイス]]・[[チューリヒ]]のホテルで見習いとして働くようになった。スイスではホテルマンの資格を取得している。 |
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ハヴァンゲンに近い[[メミンゲン]]の[[小学校]](Volksschule)に通っていたが、[[1900年]]に一家は[[ケンプテン]]([[:de:Kempten (Allgäu)|de]])に移住し、ディートリヒも同地の小学校に転校した<ref name="広田(2010)80"/><ref name="Miller(2006)249">[[#Miller(2006)|Miller(2006), p.249]]</ref>。[[1906年]]に小学校を卒業すると[[トラクター]]運転手として働くようになったが<ref name="山崎(2009)526"/><ref name="Miller(2006)249"/>、まもなく[[ワンダーフォーゲル]]の活動で近隣諸国を旅しながらそれらの国々のホテルで働くようになった<ref name="広田(2010)80"/><ref name="Miller(2006)249"/>。[[スイス]]・[[チューリヒ]]ではホテルマンの資格を取得している<ref name="学研1,144">[[#学研1|『武装SS全史I』、p.144]]</ref>。 |
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[[1911年]]、[[徴兵]]でバイエルン砲兵連隊に入隊し、[[第一次世界大戦]]では[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]に従軍、[[一級鉄十字章]]と[[二級鉄十字章]]に叙勲した。第一次世界大戦の後期には新しく導入されたばかりの戦車部隊に配属され、[[戦車戦闘バッジ銀章]]を受章した。[[曹長]]まで昇進した。 |
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その後、バイエルンに帰国し、首都[[ミュンヘン]]の[[肉屋]]で見習いとして働くようになるが<ref name="Miller(2006)249"/>、1911年10月18日には[[バイエルン陸軍]]([[:de:Bayerische Armee|de]])[[バイエルン第4野戦砲兵連隊|第4野戦砲兵連隊「ケーニヒ」]](Bayerisches feldartillerie Regiment "König" Nr. 4)に志願して入営した<ref name="Miller(2006)249"/>。しかし落馬で負傷したため同年11月27日には早くも除隊することになった<ref name="広田(2010)80"/<ref name="山崎(2009)526"/><ref name="Miller(2006)249"/>。その後は[[第一次世界大戦]]の開戦までケンプテンのパン屋に使いっ走りとして奉公した<ref name="Miller(2006)249"/>。 |
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大戦末期から戦後にかけて[[ドイツ革命]]が発生し、ドイツは[[ヴァイマル共和政|共和制]]へ移行した。ディートリヒはすぐに[[ドイツ義勇軍|反革命義勇軍(フライコール)]]に参加して[[社会主義者]]が作った[[ミュンヘン]]・[[レーテ共和国]]の打倒に参加した。その後、[[ポーランド]]の上[[シレジア]]占拠を阻止するための義勇軍闘争にも参加した。1919年10月に[[バイエルン州]]警察の[[警察官]]となり、1927年まで勤務して[[警部]]([[警察大尉]])(Hauptmann)まで昇進した。 |
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=== 第一次世界大戦 === |
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[[1914年]]7月末に[[第一次世界大戦]]が開戦。ディートリヒは[[8月6日]]に[[バイエルン第7野戦砲兵連隊|バイエルン第7野戦砲兵連隊「プリンツリージェント・ルイトポルト」]]([[:de:Königlich Bayerisches Feldartillerie-Regiment „Prinzregent Luitpold“ Nr. 7|de]])に入隊した<ref name="Miller(2006)249"/>。10月には[[バイエルン第6野戦砲兵連隊|バイエルン第6野戦砲兵連隊「プリンツ・フェルディナント・フォン・ブルボン、ヘルツォーク・フォン・カラブリア」]]に転属となり、[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]の[[ベルギー]]・[[フランダース]]や[[イープル]]で戦ったが<ref name="広田(2010)80"/>、11月には砲弾の破片を受けて右足を負傷した<ref name="Miller(2006)249"/>。 |
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彼が最初に[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]に入党した正確な日時は判明していないが、[[1923年]]の[[ミュンヘン一揆]]には参加している。一揆後、ナチス党が解散されたが、1928年5月1日に再びナチス党に入党した。その四日後に[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊(SS)]]に参加した。当時の親衛隊はまだ[[ハインリヒ・ヒムラー]]が[[親衛隊全国指導者]]になっておらず、隊員数は二百数十名ほどの弱小組織であった。そのため急速に昇進することが可能となり、入隊後ただちにミュンヘンの親衛隊第1突撃部隊(SS-sturm I)の隊長、ついで親衛隊第一連隊(SS-Standarte I)の隊長に任じられた。さらに1929年9月から1930年7月にかけては親衛隊旅団「バイエルン」(SS-Brigade "Bayern" )の旅団長となる。1930年7月からは第1[[親衛隊地区]](SS-Abschnitt I)([[ミュンヘン]]地域)や[[親衛隊集団]]「南方」(SS-gruppe "Süd")の司令官に任じられた。これらの地位に基づきディートリヒはナチ党の本拠地[[ミュンヘン]]を中心にしたドイツ南方の親衛隊を管轄下におさめることとなった。この間、ヒムラーによって親衛隊は拡張を続け、1932年末までには隊員数5万2,000人を数えていた。ディートリヒはナチス党の一大組織の重鎮となっていた。 |
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[[1915年]]1月中には[[ゾントホーフェン]]([[:de:Sonthofen|de]])の砲兵学校において下士官の訓練を受ける<ref name="Miller(2006)249"/>。2月に第7野戦砲兵連隊に復帰して再び西部戦線に出たが、春には[[ソンム]]において破片を頭部に受けるという激しい負傷をした<ref name="広田(2010)80"/><ref name="Miller(2006)249"/>。戦傷から回復すると突撃大隊(第3軍第2突撃大隊)に配属された<ref name="Miller(2006)249"/><ref name="広田(2010)81">[[#広田(2010)|広田(2010)、p81]]</ref>。この部隊は塹壕戦の膠着状態の打開を狙って創設された部隊であり、特に優秀な兵士が選抜され、階級に関係なく全員が寝食を共にして士気を高めていた。この部隊での経験は後のディートリヒのライプシュタンダルテの運営に影響を与えたという<ref name="広田(2010)81"/>。[[1917年]][[11月17日]]には[[二級鉄十字章]]を受章した<ref name="Miller(2006)256">[[#Miller(2006)|Miller(2006), p.256]]</ref>。 |
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1932年10月から1933年4月にかけて[[親衛隊集団]]「北方」(SS-gruppe "Nord")の司令官に転じ、さらに1933年4月から1939年11月まで首都[[ベルリン]]を中心にドイツ東部の親衛隊を監督する親衛隊集団「東方」(SS-gruppe "Ost")の司令官を務めている。 |
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[[1918年]][[2月19日]]に英軍から鹵獲した戦車11両から成るバイエルン突撃戦車分遣隊(Bayerische Sturmpanzerkampfwagen-Abteilung)に配属された<ref name="広田(2010)81"/>。ディートリヒは[[マークIV戦車]]([[:en:Mark IV tank|en]])「モーリッツ」号に機銃手として搭乗した<ref name="Miller(2006)249"/><ref name="山崎(2009)526"/>。3月21日に[[サン=カンタン]]で戦車戦初陣をかざった。[[5月31日]]にはフランス軍に鹵獲されるのを避けるため「モーリッツ」号を爆破せざるを得なくなったが<ref name="Miller(2006)249"/>、この脱出の際にディートリヒは[[蒸留酒]]を持ち帰り、隊員たちから称賛されたという<ref name="広田(2010)82">[[#広田(2010)|広田(2010)、p82]]</ref>。6月に[[一級鉄十字章]]を受章した<ref name="Miller(2006)256"/>。[[7月18日]]には[[ヴィレ=コトレ]]([[:fr:Villers-Cotterêts|fr]])近くではじめて英国戦車を破壊することに成功した<ref name="Miller(2006)249"/>。11月1日の[[ヴァランシエンヌ]]での戦闘が一次大戦における彼の最後の戦闘となった<ref name="広田(2010)82"/>。 |
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[[ファイル:Bundesarchiv Bild 146II-728, Berlin, Olympiade, Hitler, v. Witzleben, Dietrich.jpg|thumb|280px|左から[[アドルフ・ヒトラー]]総統、ベルリン駐留軍司令官[[エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン]]陸軍元帥、LAH司令官ディートリヒ親衛隊大将、[[ベルリンオリンピック]]の最中の1936年8月5日の[[ベルリン]]]] |
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=== LAH司令官 === |
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親衛隊集団「東方」司令官を務めている間の1933年9月に[[アドルフ・ヒトラー]]の親衛隊兼儀仗兵部隊(ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー、略号:LAH)が創設され、その初代司令官にはディートリヒが任命された。この親衛隊部隊は後に[[第1SS装甲師団]]ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラーに成長する。ディートリヒはこの部隊をヒトラーだけに責任を負い、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーから独立した存在にしたがっており、そのため発足時から部隊の指揮権をめぐってヒムラーと争いがあった<ref>「欧州戦史シリーズVol.17 武装SS全史1」出版学研 144ページ</ref>。 |
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[[ドイツ革命]]の最中の[[1918年]][[11月9日]]には第13突撃戦車分遣隊の[[労兵評議会|兵士評議会]]([[:de:Arbeiter- und Soldatenrat|Soldatenrat]])議長に就任している<ref name="Miller(2006)249"/>。[[11月20日]]にはバイエルン第7野戦砲兵連隊に復帰したが、翌[[1919年]][[3月26日]]には退役した<ref name="Miller(2006)249"/>。軍での最終階級は[[曹長]](Vizewachtmeister)だった<ref name="広田(2010)82"/><ref name="学研1,144"/><ref name="Miller(2006)248"/>。 |
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1934年6月30日の[[長いナイフの夜事件]]でディートリヒはLAHの部隊員を率いてミュンヘンへ赴き粛清に参加した。LAHはディートリヒの指揮の下、ミュンヘンで突撃隊幹部達を逮捕し、シュターデルハイム監獄で銃殺を執行した。またベルリンのLAH隊員たちもベルリン地区の突撃隊指導者を逮捕してリヒターフェルデ士官学校で銃殺を行っている。粛清対象者の決定をしたのは[[プロイセン州]]内相[[ヘルマン・ゲーリング]]、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラー、[[SD (ナチス)|親衛隊情報部(SD)]]司令官[[ラインハルト・ハイドリヒ]]らであったが、そのリストに基づいて粛清を実行した者はディートリヒらLAHであった。この功績でディートリヒは、1934年7月1日に[[ルドルフ・ヘス]]に次ぐ二人目の[[親衛隊大将]](SS-Obergruppenführer)に昇進している。ヘスは[[親衛隊名誉指導者|名誉大将]]であるので親衛隊内ではディートリヒがヒムラーに次ぐ存在となった。 |
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=== 一次大戦後 === |
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その後、LAHは[[親衛隊特務部隊]]の連隊の一つとなり、1936年10月にはヒムラーが[[パウル・ハウサー]]を[[親衛隊特務部隊]](SS-VT)の総司令官に任じたが、ディートリヒは相変わらずLAHの指揮権の独立を目指し続け、ハウサーとも争っていた<ref>「欧州戦史シリーズVol.17 武装SS全史1」出版学研 145ページ</ref>。一方、ヒトラーからのディートリヒへの個人的信任によって1939年の開戦までにLAHは優先的に機械化を受けることができた。 |
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1919年4月にバイエルンの[[ミュンヘン]]に戻り<ref name="Miller(2006)249"/>、10月1日にバイエルン地方警察(Bayerische Landespolizei)に入隊した<ref name="山崎(2009)527">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p527]]</ref><ref name="Miller(2006)249"/><ref name="Yerger(1997)144">[[#Yerger(1997)|Yerger(1997), p.144]]</ref>。 |
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[[1920年]]には在郷[[右翼]][[ドイツ義勇軍|義勇軍]]の[[オーバーラント義勇軍]]([[:de:Freikorps Oberland|de]])にも入隊<ref name="ヴィストリヒ(2002)142"/><ref name="学研1,144"/><ref name="Miller(2006)249-250">[[#Miller(2006)|Miller(2006), p.249-250]]</ref>。警察を欠勤して義勇軍活動に励んだ<ref name="Miller(2006)249-250"/>。[[1921年]]5月から10月にかけては[[ポーランド軍]]の上[[シレジア|シュレージエン]]侵攻に抗する戦いに参加した<ref name="Miller(2006)250">[[#Miller(2006)|Miller(2006), p.250]]</ref>。その後警察の仕事に戻り<ref name="広田(2010)83">[[#広田(2010)|広田(2010)、p83]]</ref>、[[1924年]]に警察[[大尉]](Hauptmann)に昇進したが<ref name="Yerger(1997)144"/>、[[1927年]]には警察を退官した<ref name="Miller(2006)249"/><ref name="Yerger(1997)144"/>。その後はナチ党に入党するまで[[たばこ]]会社や[[ガソリンスタンド]]などで働いた<ref name="Miller(2006)250"/><ref name="広田(2010)83"/>。 |
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[[ファイル:Bundesarchiv Bild 101III-Weill-057-37, Metz, Sepp Dietrich.jpg|thumb|280px|1940年9月のヨーゼフ・ディートリヒ親衛隊大将]] |
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=== ナチス親衛隊 === |
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[[1923年]]11月の[[ミュンヘン一揆]]にはオーバーラント義勇軍のメンバーとして参加している<ref name="山崎(2009)527"/><ref name="Miller(2006)250"/>。彼がナチ党に入党したのは[[1928年]][[5月1日]]である<ref name="広田(2010)83"/><ref name="山崎(2009)527"/><ref name="Miller(2006)250"/><ref name="Yerger(1997)144"/>(党員番号89,015<ref name="Miller(2006)248"/>)。 |
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入党から四日後の[[5月5日]]に[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊(SS)]]に入隊した<ref name="Miller(2006)250"/><ref name="Yerger(1997)144"/>(隊員番号1,177<ref name="Miller(2006)248"/>)。1928年当時の親衛隊はまだ[[ハインリヒ・ヒムラー]]が[[親衛隊全国指導者]]になっておらず、隊員数は280人ほどしかいなかった<ref name="ヘーネ(1981)33">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.33]]</ref>。党幹部の護衛や党集会の警備などが当時の親衛隊の主要任務であり、警察官の経歴を持つディートリヒは入隊とともに急速に昇進する<ref name="山崎(2009)527"/>。 |
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ミュンヘンに本拠を置く親衛隊第1中隊(SS-Sturm I)に配属され、入隊から一カ月足らずで同中隊の指導者(Führer)に任じられた<ref name="Miller(2006)250"/>。ついで1928年8月にはその上部部隊である第1親衛隊連隊「ミュンヘン」(SS-Standarte I "München")が編成され、その指導者となる<ref name="Yerger(1997)169">[[#Yerger(1997)|Yerger(1997), p.169]]</ref>。さらに[[1929年]]9月には第1親衛隊連隊の上部部隊である親衛隊旅団「バイエルン」(SS-Brigade "Bayern" )が編成され、その指導者に昇格する<ref name="Miller(2006)250"/>。[[1930年]]7月には後に第1[[親衛隊地区]](SS-Abschnitt I)に改組される親衛隊上級指導者地区「南方」(SS-Oberführer Abschnitt "Süd")の上級指導者(SS-Oberführer "Süd")に就任<ref name="Miller(2006)250"/><ref name="Yerger(1997)117">[[#Yerger(1997)|Yerger(1997), p.117]]</ref>。ディートリヒは最初にこの肩書を得た者であった<ref name="Miller(2006)251">[[#Miller(2006)|Miller(2006), p.251]]</ref>。しかし当時のナチ党は活動資金に枯渇していたので1929年から1930年にかけてディートリヒは生活のために[[マックス・アマン]]の運営する出版社で働いて収入を得なければならなかった<ref name="Miller(2006)250"/><ref name="広田(2010)83"/>。 |
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1930年[[10月12日]]には[[バイエルン州]]選出のナチ党の[[国会 (ドイツ)|国会]]議員となる<ref name="広田(2010)83"/><ref name="Miller(2006)251"/>。1931年7月中には[[ブラウンシュヴァイク]]に本部を置く第4親衛隊地区が創設され、短期間だがその初代指導者に就任した<ref name="Miller(2006)251"/><ref name="Yerger(1997)144"/>。さらに[[1932年]]7月にはミュンヘンを中心に[[バイエルン州]]、[[ヴュルテンベルク州]]([[:de:Freier Volksstaat Württemberg|de]])、[[バーデン州]]([[:de:Republik Baden|de]])などドイツ南部の親衛隊を管轄する[[親衛隊集団]]「南方」(SS-gruppe "Süd")が編成され、その指導者に昇格する<ref name="Miller(2006)251"/>。 |
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1932年2月には[[アドルフ・ヒトラー]]の護衛部隊である'''親衛隊護衛コマンド「デア・フューラー」'''(SS-Begleit-Kommando "Der Führer" )の指導者に就任した<ref name="Miller(2006)251"/>。 |
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1932年10月から1933年4月にかけては[[ハンブルク]]を本拠にドイツ北部の親衛隊を管轄する親衛隊集団「北方」(SS-gruppe "Nord")の指導者に転じ、さらに[[1933年]]4月から首都[[ベルリン]]を中心にドイツ東部の親衛隊を監督する親衛隊集団「東方」(SS-gruppe "Ost")指導者を務める。親衛隊集団「東方」は1933年11月に[[親衛隊上級地区]]「東方」(SS-Oberabschnitt "Ost")に改組され、さらに[[1939年]][[11月14日]]には親衛隊上級地区「シュプレー」(SS-Oberabschnitt "Spree")に改組されるが、ディートリヒはその指導者を[[1945年]]5月まで務め続けた<ref name="Yerger(1997)105">[[#Yerger(1997)|Yerger(1997), p.105]]</ref>。 |
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=== ライプシュタンダルテ創設 === |
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[[File:Bundesarchiv Bild 146-1988-001-25, Berlin-Lichterfelde, Leibstandarte-SS Adolf Hitler.jpg|thumb|280px|1933年、[[ベルリン]]・[[リヒターフェルデ]]兵営。整列したライプシュタンダルテ。]] |
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ナチ党の政権掌握後の[[1933年]][[3月17日]]にヒトラーはディートリヒに120名の選抜された親衛隊員から成る護衛部隊、'''親衛隊司令部衛兵隊「ベルリン」'''(SS-Stabswache "Berlin")」の創設を命じた<ref>[[#芝(1995)|芝(1995)、p.26-27]]</ref><ref name="ヘーネ(1981)427">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.427]]</ref><ref name="山崎(2009)528">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p528]]</ref>。同部隊はディートリヒが指揮する親衛隊護衛コマンド「デア・フューラー」を改組して創設された<ref name="Miller(2006)251"/>。 |
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同部隊は二個中隊に増員されると[[リヒターフェルデ]]([[:de:Berlin-Lichterfelde|de]])にあった旧士官学校を兵営として定められ、ここで三個親衛隊中隊が加えられて大隊編成となり、[[ポツダム]]の[[ドイツ国防軍|国防軍]]から訓練を受けた<ref>[[#広田(2010)|広田(2010)、p83-84]]</ref>。給料や待遇も軍と同等とされた<ref name="山下(2010)170">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.170]]</ref>。 |
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さらに[[ツォッセン]]や[[ユッターボク]]の親衛隊大隊と合流して連隊編成となり<ref name="山下(2010)163"/><ref name="広田(2010)84">[[#広田(2010)|広田(2010)、p84]]</ref>、9月3日の[[ニュルンベルク党大会]]において'''アドルフ・ヒトラー連隊'''(Adolf Hitler-Standarte)の名前を与えられた<ref name="山崎(2009)528"/><ref name="山下(2010)170"/><ref name="Miller(2006)252">[[#Miller(2006)|Miller(2006), p.252]]</ref>。 |
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ついで1934年4月13日には'''ライプシュタンダルテ(親衛旗)・SS・アドルフ・ヒトラー'''(Leibstandarte SS Adolf Hitler, 略称LAH)の名称を与えられた<ref name="山崎(2009)528"/><ref name="Miller(2006)252"/><ref name="キーガン(1972)62">[[#キーガン(1972)|キーガン(1972)、p.62]]</ref><ref name="スティン(2001)41">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.41]]</ref><ref name="ヘーネ(1981)428">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.428]]</ref><ref name="山下(2010)163">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.163]]</ref>。 |
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初期のライプシュタンダルテには身長180センチ以上などの厳しい入隊条件があった<ref name="山下(2010)170">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.170]]</ref>。また[[パウル・フォン・ヒンデンブルク|ヒンデンブルク]]の死後に国防軍がヒトラーに対して行った[[忠誠宣誓]]よりもっと強い忠誠宣誓をヒトラーに対して行った<ref name="キーガン(1972)62">[[#キーガン(1972)|キーガン(1972)、p.62]]</ref>。そのためライプシュタンダルテには一貫してエリート部隊という印象があった<ref name="山下(2010)171">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.171]]</ref>。 |
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ライプシュタンダルテは実質的に[[親衛隊全国指導者]][[ハインリヒ・ヒムラー]]から独立した存在であり、ヒトラーに対してのみ責任を負う個人的護衛部隊であった<ref name="スティン(2001)42">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.42]]</ref>。そのため発足時から部隊の指揮権をめぐってディートリヒとヒムラーの間に争いがあった<ref name="学研1,144"/>。 |
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=== 長いナイフの夜 === |
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[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-C05557, Berlin, Sepp Dietrich, Hitler, Heinrich Himmler.jpg|thumb|200px|1937年、[[ベルリン]]。左からディートリヒ、[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]、[[ハインリヒ・ヒムラー|ヒムラー]]。]] |
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[[長いナイフの夜事件]]においてライプシュタンダルテは[[突撃隊]]幹部粛清の実行部隊になることが予定され、国防軍から事前に武器の供給を受けて武装強化が進められていた<ref name="ヘーネ(1981)112">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.112]]</ref>。 |
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粛清開始前日の1934年6月29日にディートリヒはヒトラーの命令でミュンヘンへ急行した<ref name="ヘーネ(1981)118">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.118]]</ref>。ヒトラーの命令を待って[[カウフェリンク]]でライプシュタンダルテの二個中隊と合流して[[エルンスト・レーム]]以下突撃隊幹部が集められていた[[バート・ヴィースゼー]]([[:de:Bad Wiessee|de]])に向かうはずだったが、ぬかるみで国防軍トラックが動かなくなり、バート・ヴィースゼーに参じるのが間に合わなかった<ref name="ヘーネ(1981)123">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.123]]</ref>。 |
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6月30日午前6時半頃、結局ヒトラーはディートリヒ達の到着を待たずに手勢の親衛隊員だけでバート・ヴィースゼーの突撃隊幹部の宿所に突入し、レーム達を逮捕した<ref name="ヘーネ(1981)120">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.120]]</ref>。ディートリヒは昼過ぎになってようやくミュンヘンのナチ党本部にいたヒトラーの前に姿を見せた<ref name="ヘーネ(1981)123"/>。ヒトラーは到着の遅れを叱責しつつ、逮捕した突撃隊幹部のうち6人の銃殺をディートリヒに任せた<ref>[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.123-124]]</ref>。ディートリヒは午後6時に突撃隊幹部が収容されていたミュンヘンの[[シュターデルハイム刑務所]]([[:de:Justizvollzugsanstalt München|de]])に到着し、6人の処刑を開始した<ref>[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.124-125]]</ref>。この時に処刑された突撃隊幹部の一人[[アウグスト・シュナイトフーバー]]は「ゼップ!どうしたというのだ!我々は無実だ!」と叫んだが、ディートリヒは「貴官らは総統により死刑を宣告された。ハイル・ヒトラー!」とだけ答えたという<ref name="ヘーネ(1981)125">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.125]]</ref>。ディートリヒは銃殺を最後まで見ることなく途中で退席した。後に彼はこの時のことについて「シュナイトフーバーの順番が回ってくる前に私は退散した。もうたくさんだった」と語った<ref name="ヘーネ(1981)125"/>。 |
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一方ベルリンに留まっていたライプシュタンダルテの隊員たちは、[[プロイセン州]]内相[[ヘルマン・ゲーリング]]、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラー、[[SD (ナチス)|親衛隊情報部(SD)]]司令官[[ラインハルト・ハイドリヒ]]らの決定した粛清対象者をリヒターフェルデ士官学校において銃殺した<ref name="学研1,144"/>。7月1日にはディートリヒがベルリンへ戻り、ベルリンでの銃殺隊の組織にあたった<ref name="Miller(2006)252"/>。1934年[[7月1日]]にディートリヒは粛清の恩賞で[[親衛隊大将]]に昇進した<ref name="ヴィストリヒ(2002)142"/><ref name="山崎(2009)528"/><ref name="Miller(2006)248"/>。 |
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=== 特務部隊ライプシュタンダルテ連隊長 === |
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[[ファイル:Bundesarchiv Bild 102-17312, Berlin-Lichterfelde, Hitler bei Leibstandarte.jpg|thumb|280px|[[1935年]]12月、[[ベルリン]]・リヒターフェルデ兵営。ライプシュタンダルテを閲兵する[[アドルフ・ヒトラー]]とディートリヒ。]] |
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1934年[[12月14日]]にはライプシュタンダルテと[[親衛隊政治予備隊]](SS-Politische Bereitschaft)でもって[[親衛隊特務部隊]](SS-Verfügungstruppe,略称SS-VT)が編成された<ref name="ヘーネ(1981)430">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.430]]</ref>。ディートリヒは形式的には特務部隊のライプシュタンダルテ連隊の連隊長という立場になった。 |
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[[1936年]]3月の[[ラインラント進駐]]に際してはライプシュタンダルテが親衛隊で唯一従軍した。ライプシュタンダルテは真っ先に[[ザールブリュッケン]]に入った部隊であった<ref name="スティン(2001)45">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.45]]</ref>。 |
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1936年[[10月1日]]には元国防軍中将[[パウル・ハウサー]]が特務部隊総監に就任したが、ディートリヒはハウサーより階級が上だったこともあり、引き続きヒトラーだけに責任を負う独立的な部隊として維持しようと図り、なかなかハウサーの指揮権に服そうとしなかった<ref>[[#キーガン(1972)|キーガン(1972)、p.65-66]]</ref><ref name="スティン(2001)47">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.47]]</ref><ref name="ヘーネ(1981)431">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.431]]</ref><ref name="学研1,145">[[#学研1|『武装SS全史I』、p.145]]</ref>。ヒムラーが特務部隊総監府の指揮に服するようディートリヒに手紙を出して諌めたこともあったほどである<ref name="ヘーネ(1981)432">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.432]]</ref>。とはいえ他の特務部隊とライプシュタンダルテの練度の差が広がってくるとディートリヒもライプシュタンダルテが未熟であることを認めざるを得なくなり、ハウサーにライプシュタンダルテ隊員の訓練を任せるしかなくなっていく<ref name="ヘーネ(1981)432">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.432]]</ref>。 |
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[[1938年]][[3月11日]]の[[オーストリア併合]]の際の進駐にもライプシュタンダルテが親衛隊として唯一従軍した。ディートリヒ率いる1個自動車大隊が[[オーストリア]]への進駐に活躍した<ref name="スティン(2001)58">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.58]]</ref><ref name="ビショップ(2008)13">[[#ビショップ(2008)|ビショップ(2008)、p.13]]</ref>。1938年10月の[[ズデーテンラント併合]]の進駐にも参加。この進駐にはライプシュタンダルテ以外の特務部隊の連隊、「ゲルマニア」連隊や「ドイッチュラント」連隊も参加している<ref name="スティン(2001)64">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.64]]</ref>。 |
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ライプシュタンダルテは優先的に機械化(自動車化)を受け、1939年9月の[[ポーランド侵攻]]の際には親衛隊特務部隊の中で唯一自動車化された部隊になっていた<ref name="広田(2010)308">[[#広田(2010)|広田(2010)、p308]]</ref>。 |
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=== 第二次世界大戦 === |
=== 第二次世界大戦 === |
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==== ポーランド戦 ==== |
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[[1939年]]に[[第二次世界大戦]]が勃発するとディートリッヒはLAH連隊を率いて[[ポーランド侵攻]]に参加し、翌年の[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|フランス侵攻]]でも機械化されたLAH連隊は[[電撃戦]]に適合していたこともあり大きな戦功をあげた。なお、この対フランス戦においてディートリヒは総統命令を無視して[[ダンケルク]]へ進撃しているが、それにも関わらず戦功著しかった彼は[[騎士十字章]]を授与されている。 |
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[[1939年]]9月1日から始まるポーランド侵攻においてはライプシュタンダルテは[[南方軍集団]]([[ゲルト・フォン・ルントシュテット]]上級大将)隷下の[[第10軍 (ドイツ軍)|第10軍]](司令官[[ヴァルター・フォン・ライヒェナウ]]大将)に属して参戦した<ref name="ビショップ(2008)14">[[#ビショップ(2008)|ビショップ(2008)、p.14]]</ref><ref name="広田(2010)272">[[#広田(2010)|広田(2010)、p272]]</ref>。 |
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ライプシュタンダルテは国防軍に過酷な任務を押し付けられながらも勇戦した<ref name="広田(2010)308">[[#広田(2010)|広田(2010)、p308]]</ref>。特に[[ブズラの戦い]]([[:de:Schlacht an der Bzura|de]])では[[ポーランド回廊]]から南下してくるポーランド軍を身体を張って阻止し、大きな損害を出しながらも首都[[ワルシャワ]]への突破を許さなかった<ref name="学研1,44">[[#学研1|『武装SS全史I』、p.44]]</ref>。ディートリヒはポーランド戦において1939年版の[[二級鉄十字章]]と[[一級鉄十字章]]の略章を受章した<ref name="広田(2010)309">[[#広田(2010)|広田(2010)、p309]]</ref><ref name="Miller(2006)256">[[#Miller(2006)|Miller(2006), p.256]]</ref>。 |
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続いて参加した[[1941年]]の[[バルカン半島の戦い]]では、[[ドイツ国防軍]]部隊をしのぐ進撃を見せ、これも独断でギリシア軍部隊の降伏を受理している。この戦功によりディートリヒは柏葉付騎士十字章を授与される。 |
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しかし国防軍からの評価は低かった。[[ヨハネス・ブラスコヴィッツ]]大将からは「ライプシュタンダルテは月並みな部隊である。まだ経験不足であり秀でたところは無い」と評された<ref name="クノップ(2003)285">[[#クノップ(2003)|クノップ(2003)、p.285]]</ref>。またポーランド戦で南方軍集団参謀長を務めていた[[エーリヒ・フォン・マンシュタイン]]はディートリヒと初めて会った時、彼の軍事教養の無さに呆れたという<ref name="クノップ(2003)286">[[#クノップ(2003)|クノップ(2003)、p.286]]</ref>。また別の陸軍将軍からは「ディートリヒの部隊は進軍途中にむやみやたらに銃を撃ち、決まり事のようにポーランドの村々を焼き討ちにする」と苦言を呈されている<ref name="クノップ(2003)285"/>。 |
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同年に発動された[[バルバロッサ作戦]]では[[南方軍集団]]に所属し転戦、[[1943年]]の[[ハリコフ攻防戦]]においては[[パウル・ハウサー]]親衛隊大将の指揮のもとで[[ソビエト軍]]を壊滅状態に追込みハリコフを奪回する大活躍を見せる。また、この戦功により剣付柏葉騎士十字章を授与される。 |
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==== 西方電撃戦 ==== |
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[[クルスクの戦い]]に参加した後、ディートリヒは西部戦線に転属。親衛隊上級大将に昇進し、第1SS装甲軍団を指揮して[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍の大陸反攻作戦(いわゆる[[ノルマンディー上陸作戦]])を迎え撃つが、敵の上陸阻止に失敗する。しかもこの時の作戦指導は稚拙を極め、部下の将軍から「地図も読めない」と酷評されるほどであった。にも関わらず、ヒトラーのお気に入りであったせいか、その「敢闘」に対する褒賞として、ダイヤモンド剣付柏葉騎士十字章が授与される。 |
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[[File:Bundesarchiv Bild 101III-Lerche Stereo-046-03, Metz, Sepp Dietrich bei Ordensverleihung.jpg|thumb|250px|1940年6月21日、[[フランス]]・[[メス (フランス)|メス]]。兵に勲章を授与するディートリヒ。]] |
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1940年5月から開始された[[西方電撃戦]]では[[B軍集団]]([[フェードア・フォン・ボック]]上級大将)[[第18軍 (ドイツ軍)|第18軍]]([[ゲオルク・フォン・キュヒラー]]大将)隷下に配属され、オランダ侵攻部隊に加わったが、再び国防軍の露払い部隊にされた<ref name="学研1,47">[[#学研1|『武装SS全史I』、p.47]]</ref>。 |
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5月10日の開戦と共にライプシュタンダルテは[[オランダ]]領を急ピッチで進軍し、[[アイセル川]]を渡河して、[[ホーエン]]を占領。ついで[[ハーグ]]へ進軍した<ref>[[#広田(2010)|広田(2010)、p279-282]]</ref>。[[ロッテルダム]]でオランダ軍に包囲されていた空挺部隊と合流した<ref name="ビショップ(2008)14"/><ref name="広田(2010)282">[[#広田(2010)|広田(2010)、p282]]</ref>。 |
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更に[[1944年]][[9月]]には、新たに編成された[[第6SS装甲軍]]の指揮官に任命され、年末に開始されたラインの守り作戦に参加する。後に[[バルジの戦い]]と呼ばれるこの戦闘で第6SS装甲軍は[[ヨアヒム・パイパー]][[親衛隊中佐]]率いるパイパー戦闘団を先頭に激戦を展開したが、作戦は失敗した。 |
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オランダ降伏後には第19装甲軍団([[ハインツ・グデーリアン]]大将)に所属して北フランスの[[ダンケルクの戦い]]に転戦した<ref name="学研1,49">[[#学研1|『武装SS全史I』、p.49]]</ref>。このときドイツ軍はヒトラーによってダンケルク進軍停止を命じられたが、ディートリヒは総統命令を無視して前進し[[アー運河]]を渡河して[[ワッテン高地]]を占領した(グデーリアンも進軍停止命令を不適当と考えていたのでディートリヒの独断行動を黙認した)<ref name="スティン(2001)118">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.118]]</ref><ref name="広田(2010)283">[[#広田(2010)|広田(2010)、p283]]</ref><ref name="ヘーネ(1981)448">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.448]]</ref><ref name="学研1,50">[[#学研1|『武装SS全史I』、p.50]]</ref>。 |
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西部戦線でのドイツ軍の劣勢が動かしがたくなると、ヒトラーはディートリヒと第6SS装甲軍をハンガリーに転出させ、迫り来るソ連軍を相手に大規模攻勢を指示する。いわゆる[[春の目覚め作戦]]であるが、これも失敗する。絶望的な状況の中でディートリヒはまたも総統命令を無視して第6SS装甲軍を[[オーストリア]]方面へと転進させる。第6SS装甲軍は追撃してくるソ連軍を振切って[[アメリカ軍]]の前線に到達、1945年5月9日ディートリヒは米軍に対し降伏を申し入れ、最後まで総統命令に反抗しながらも結果として多くの部下を救った。このことは戦後も非常に高い評価を受けている。 |
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その後の南フランスへの進撃ではライプシュタンダルテは[[エヴァルト・フォン・クライスト (軍人)|エヴァルト・フォン・クライスト]]大将の装甲集団の前衛部隊として国防軍部隊を遠く後方に残したまま[[サン=テティエンヌ]]まで急進軍した<ref name="スティン(2001)136">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.136]]</ref><ref name="ビショップ(2008)15">[[#ビショップ(2008)|ビショップ(2008)、p.15]]</ref><ref name="ヘーネ(1981)449">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.449]]</ref>。ライプシュタンダルテが最も内陸部まで進攻した部隊となった<ref name="広田(2010)287">[[#広田(2010)|広田(2010)、p287]]</ref>。 |
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=== 戦後 === |
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降伏後、戦犯としてアメリカ軍による裁判にかけられ、死刑は避けられないと見られていたが、[[ゲルト・フォン・ルントシュテット]]元帥や[[ハインツ・グデーリアン]]上級大将といった国防軍将校の弁護もあって、25年の刑が言い渡され、10年で釈放される。さらに、[[1957年]]に突撃隊粛清に関して[[西ドイツ]]による裁判を受けるが、1年半の入獄で済んだ。出所の後は[[パウル・ハウサー]]元親衛隊上級大将と共に[[旧武装親衛隊員相互扶助協会]]の活動に従事。[[1966年]]4月(日付は21日、22日、24日など諸説ある)に[[ルートヴィヒスブルク]]にて死去。その葬儀は旧部下7000名の参列のもとで旧国防軍の様式に従い盛大に行われた。 |
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西方作戦での功績によりディートリヒは1940年7月5日に[[騎士鉄十字章]]を授与された<ref name="Miller(2006)256"/>。また同年8月にはライプシュタンダルテはヒトラーから「私の名を冠した君たちの部隊が全ドイツ軍の先陣を切った」と称えられ、[[旅団]]編成を認められた<ref name="ビショップ(2008)15"/><ref name="広田(2010)287">[[#広田(2010)|広田(2010)、p287]]</ref>。「ドイッチュラント」連隊などから兵員の増強を受けて旅団を編成した<ref name="学研1,53">[[#学研1|『武装SS全史I』、p.53]]</ref>。 |
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==== バルカン半島戦 ==== |
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[[File:Bundesarchiv Bild 101I-163-0337-09A, Griechenland, Josef (Sepp) Dietrich.jpg|thumb|280px|left|1941年4月、ギリシャ軍と降伏交渉を行うディートリヒ(右)。]] |
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[[1941年]]4月の[[バルカン半島の戦い]]にライプシュタンダルテは[[第12軍 (ドイツ軍)|第12軍]]([[ヴィルヘルム・リスト]]大将)隷下で参加<ref name="広田(2010)288">[[#広田(2010)|広田(2010)、p288]]</ref>。 |
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フランス・メスから[[ブルガリア]]の[[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]]に移された後、1941年4月6日に[[ユーゴスラヴィア]]南部へ侵攻を開始し、[[スコピエ]]や[[ビトラ]]といった要衝を陥落させて4月10日には[[ギリシャ]]へと進攻した<ref name="ビショップ(2008)16">[[#ビショップ(2008)|ビショップ(2008)、p.16]]</ref><ref name="学研1,55">[[#学研1|『武装SS全史I』、p.55]]</ref>。 |
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クリディ峠でオーストリア軍やニュージーランド軍、クリスラ峠でギリシャ軍から激しい反攻を受けたが、[[クルト・マイヤー]]などの優秀な部下たちの活躍もあってライプシュタンダルテは凄まじいスピードでギリシャを席巻した<ref>[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.167-168]]</ref>。4月23日にはギリシャが降伏文書に署名し、英軍は[[クレタ島]]へ逃れた<ref name="学研1,55"/><ref name="スティン(2001)169">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.169]]</ref><ref name="ビショップ(2008)17">[[#ビショップ(2008)|ビショップ(2008)、p.17]]</ref><ref name="広田(2010)289">[[#広田(2010)|広田(2010)、p289]]</ref>。 |
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ギリシャ全軍の降伏の3日前の4月20日にディートリヒは16個師団から成るギリシャ・エピルス軍(ディートリヒの部隊によって退路を断たれていた)の降伏の申し出を独断で受理している<ref name="学研1,146">[[#学研1|『武装SS全史I』、p.146]]</ref><ref>[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.168-169]]</ref>。その際にギリシャ軍兵士たちを[[捕虜]]とはせずに直ちに[[復員]]させている<ref name="学研1,146">[[#学研1|『武装SS全史I』、p.146]]</ref>。こうしたこともあってギリシャ戦ではライプシュタンダルテは「勇猛だがフェアな部隊」という高評価を得た<ref name="ビショップ(2008)17">[[#ビショップ(2008)|ビショップ(2008)、p.17]]</ref>。 |
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ライプシュタンダルテは[[アテネ]]で先勝パレードを行った後、[[プラハ]]に戻され、そこで師団編成を受けた<ref name="ビショップ(2008)17"/><ref name="スティン(2001)169">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.169]]</ref><ref name="広田(2010)289">[[#広田(2010)|広田(2010)、p289]]</ref>。 |
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==== 独ソ戦 ==== |
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[[File:Bundesarchiv Bild 101III-Gayk-006-07A, Russland, Sepp Dietrich mit Männern der LSSAH.jpg|thumb|280px|1942年3月、ロシア。ディートリヒ(中央)とライプシュタンダルテ将校たち]] |
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1941年6月末に発動された[[バルバロッサ作戦]]では[[南方軍集団]]([[ゲルト・フォン・ルントシュテット]]元帥)に所属して転戦。スターリン・ラインを突破して[[キエフ]]方面へ進軍し、ウマンでの包囲戦で10万のソ連兵を捕虜にする事に貢献した<ref name="広田(2010)292">[[#広田(2010)|広田(2010)、p292]]</ref><ref name="山崎(2009)529">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p529]]</ref>。8月には港町[[ニコライェフ]]を占領し、9月には短期間ながらマンシュタインの[[第11軍 (ドイツ軍)|第11軍]]の隷下で[[クリミア半島]]戦に参加した<ref name="山崎(2009)529"/>。10月には港町[[ロストフ]]への攻撃を開始し、11月には一時的に同市を占領したが、まもなく赤軍の反撃で取り戻され、ライプシュタンダルテは大きな打撃を受けた<ref name="ビショップ(2008)19">[[#ビショップ(2008)|ビショップ(2008)、p.19]]</ref><ref name="山崎(2009)529">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p529]]</ref>。1941年12月31日に[[騎士鉄十字章#柏葉付騎士鉄十字章|柏葉付騎士鉄十字章]]を受章した<ref name="Miller(2006)256"/>。その後ライプシュタンダルテはドニェツ地方で防衛線を維持し続けたが、消耗が激しくなり、1942年春になるとスタリーノ地区に移され、さらに同年6月には占領地フランスに戻されて兵員休養と補充を受けた<ref name="広田(2010)295">[[#広田(2010)|広田(2010)、p295]]</ref><ref name="山崎(2009)530">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p530]]</ref>。 |
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東部戦線でのライプシュタンダルテの戦いぶりは陸軍からも高く評価されたが、反面、東部戦線では彼らの残虐性が目立つようになった。1942年4月には6人の仲間を殺されたことへの報復で4000人のソ連兵捕虜を虐殺する事件を起こした<ref name="ビショップ(2008)19">[[#ビショップ(2008)|ビショップ(2008)、p.19]]</ref>。 |
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[[1943年]]1月にライプシュタンダルテが東部戦線に復帰したが、[[スターリングラードの戦い]]でのドイツ第6軍の敗北によりソ連軍が大反撃に打って出てくると予想されたので、これに対抗するため親衛隊装甲軍団([[パウル・ハウサー]]親衛隊大将)が編成され、ライプシュタンダルテもその隷下となった<ref name="広田(2010)295"/>。親衛隊装甲軍団は1943年2月の[[ハリコフ攻防戦]]に投入された。ハウサーの名指揮、クルト・マイヤーや[[テオドール・ヴィッシュ]]などの優秀な部下たちの勇戦にも支えられてソ連軍52個師団を壊滅させることに成功し、ハリコフを奪還した<ref name="広田(2010)297">[[#広田(2010)|広田(2010)、p297]]</ref>。ヒトラーはハウサーとディートリヒを称賛し、ディートリヒについて「この男はヒロイズムの真の偉業を成し遂げた」と評したという<ref name="ビショップ(2008)20">[[#ビショップ(2008)|ビショップ(2008)、p.20]]</ref>。この戦功によりディートリヒは1943年3月14日に[[騎士鉄十字章#柏柏葉・剣付騎士鉄十字章|柏葉・剣付騎士鉄十字章]]を授与される<ref name="Miller(2006)256"/>。 |
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1943年7月から[[クルスクの戦い]]に参加したが、ソ連軍の激しい抵抗により阻まれた<ref name="ビショップ(2008)21">[[#ビショップ(2008)|ビショップ(2008)、p.21]]</ref>。直後にライプシュタンダルテ師団長職を離職し、二つ目のSS装甲軍団として編成された第1SS装甲軍団の軍団長に任じられた<ref name="山崎(2009)530">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p530]]</ref>。8月から9月にかけてはドイツ軍が占領した北イタリアに派遣され、イタリア軍の武装解除の監督にあたった<ref name="山崎(2009)530"/>。 |
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==== 西部戦線 ==== |
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[[File:Bundesarchiv Bild 146-1994-035-18, Frankreich, Sepp Dietrich.jpg|thumb|200px|left|1944年、フランスで。]] |
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1943年10月からディートリヒの第1SS装甲軍団は西欧に移され、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の上陸に備えた。1944年6月に連合軍の大陸反攻作戦(いわゆる[[ノルマンディー上陸作戦]])が開始されるが、上陸阻止に失敗した<ref name="広田(2010)312">[[#広田(2010)|広田(2010)、p312]]</ref>。ついで[[カーン]]周辺で英軍と激戦し、8月まで英軍の進撃を食い止めた<ref name="山崎(2009)530"/>。この功績で8月1日に親衛隊上級大将に昇進し、また8月6日には[[騎士鉄十字章#柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章|柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章]]を受章した<ref name="Miller(2006)256"/>。 |
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更に[[1944年]][[9月]]には、新たに編成された[[第6SS装甲軍]]の指揮官に任命され、年末に開始されたラインの守り作戦([[アルデンヌ攻勢]])に参加する。後に[[バルジの戦い]]と呼ばれるこの戦闘でディートリヒの第6SS装甲軍は[[第5装甲軍 (ドイツ軍)|第5装甲軍]]や[[第7軍 (ドイツ軍)|第7軍]]とともに攻勢主力を担った<ref name="山崎(2009)531">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p531]]</ref><ref name="学研1,147">[[#学研1|『武装SS全史I』、p.147]]</ref>。[[ヨアヒム・パイパー]][[親衛隊中佐]]率いるパイパー戦闘団を先頭に激戦を展開したが、燃料不足や兵力配置の不備などが原因で作戦は失敗した<ref name="山崎(2009)531"/>。 |
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なおこの作戦の過程で第6SS装甲軍隷下のライプシュタンダルテ師団が[[マルメディー]]において米兵捕虜射殺事件を起こした。これは戦後アメリカによって追及されることとなり、ディートリヒの戦後の運命にも影響する<ref name="学研1,147"/>。 |
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==== ハンガリーでの戦い ==== |
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西部戦線でのドイツ軍の劣勢が動かしがたくなると、ヒトラーはディートリヒと第6SS装甲軍をハンガリーに転出させ、迫り来るソ連軍を相手に大規模攻勢を指示する。いわゆる[[春の目覚め作戦]]である。第6SSS装甲軍が主力であったが、すでに戦力はすっかり消耗しており、20キロ進軍しただけでソ連軍の反撃にあい、作戦はとん挫した<ref name="クノップ(2003)343">[[#クノップ(2003)|クノップ(2003)、p343]]</ref><ref name="学研1,147">[[#学研1|『武装SS全史I』、p.147]]</ref>。ソ連軍に[[ブダペスト]]を占領され、ソ連軍はドイツ領[[ウィーン]]への侵攻を窺うようになった<ref name="学研1,147"/>。 |
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ヒトラーはディートリヒと第6SS装甲軍の不甲斐なさに激怒し、1945年3月27日に師団名の入った袖章の剥奪を命じた<ref name="クノップ(2003)343">[[#クノップ(2003)|クノップ(2003)、p343]]</ref><ref name="学研1,147">[[#学研1|『武装SS全史I』、p.147]]</ref>。ディートリヒはこれに激怒し、側近の将校たちに「勲章をみんな小便壺に放り込んで[[第17SS装甲擲弾兵師団|『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』師団]]の袖章を巻きつけろ」と悪態を付いたという<ref name="ヘーネ(1981)553">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.553]]</ref>。総統命令を無視して第6SS装甲軍を[[オーストリア]]方面へと転進させる。第6SS装甲軍は追撃してくるソ連軍を振切って[[アメリカ軍]]の前線に到達、1945年5月9日ディートリヒは米軍第36歩兵師団に対し降伏を申し入れ、最後まで総統命令に反抗しながらも結果として多くの部下を救った。このことは戦後も非常に高い評価を受けている。 |
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=== 戦後 === |
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[[ファイル:Sepp Dietrich.png|thumb|連合軍に逮捕されたディートリッヒ]] |
[[ファイル:Sepp Dietrich.png|thumb|連合軍に逮捕されたディートリッヒ]] |
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戦後、ソ連からは欠席裁判で死刑を宣告されたディートリヒだったが、アメリカがソ連に彼の身柄を引き渡すことはなかった<ref name="学研1,147">[[#学研1|『武装SS全史I』、p.147]]</ref>。 |
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1946年初頭、ディートリヒは[[ヨアヒム・パイパー]]など72名の武装親衛隊員と共にマルメディーで米兵捕虜を虐殺した廉で[[ダッハウ]]のアメリカ軍軍事法廷に起訴された<ref name="クノップ(2003)347">[[#クノップ(2003)|クノップ(2003)、p347]]</ref><ref name="芝(1995)240">[[#芝(1995)|芝(1995)、p.240]]</ref>。ルントシュテットやグデーリアンなどがディートリヒの弁護のために証言台に立った結果、ディートリヒは死刑判決を免れて[[終身刑]]判決を受けた<ref name="学研1,147">[[#学研1|『武装SS全史I』、p.147]]</ref>。さらに[[1951年]]には25年に減刑された<ref name="芝(1995)241">[[#芝(1995)|芝(1995)、p.241]]</ref>。さらに1955年10月22日には[[執行猶予]]つきで[[ランツベルク刑務所]]から釈放された<ref name="ヴィストリヒ(2002)143">[[#ヴィストリヒ(2002)|ヴィストリヒ(2002)p.143]]</ref><ref name="学研1,147"/>。 |
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=== 逸話と評価 === |
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*大戦末期、[[元帥]]位を欲したディートリヒに応えてヒトラーが[[元帥 (ドイツ)#民族元帥|民族元帥]]の新設を指示。バルジの戦いに勝利した場合、ディートリヒは民族元帥に昇進するはずであった。しかしこの戦いはドイツの敗北に終わり、民族元帥位も計画のみに終わった。 |
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しかし1956年8月に長いナイフの夜の際の突撃隊幹部6名の粛清が[[殺人幇助]](正犯はヒトラー)にあたるとして[[西ドイツ]]のミュンヘンの裁判所に起訴された<ref name="ヴィストリヒ(2002)143"/>。18か月の懲役刑を受けたが<ref name="芝(1995)241"/>、1959年2月には健康状態を理由として釈放される<ref name="ヴィストリヒ(2002)143"/>。 |
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その後は[[ルートヴィヒスブルク]]で余生を送った<ref name="芝(1995)241"/>。[[パウル・ハウサー]]元親衛隊上級大将と共に[[旧武装親衛隊員相互扶助協会]]の活動に従事<ref name="学研1,147"/>。[[1966年]]4月にルートヴィヒスブルクにて死去。74歳であった<ref name="学研1,147"/> |
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彼の葬儀についてルートヴィヒスブルク市は公共施設を貸すことを拒否したが<ref name="芝(1995)241"/>、7000人もの人々が参列した盛大な葬儀となった<ref name="Miller(2006)259">[[#Miller(2006)|Miller(2006), p.259]]</ref>。その中にはドイツ、オーストリア、[[オランダ]]、[[フィンランド]]などから駆け付けてきた元武装親衛隊員たち4000人も含まれていた<ref name="芝(1995)241"/>。 |
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== 人物 == |
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*ディートリヒの身長は158センチしかなかった。彼が護衛すべき主人ヒトラーは173センチであり、アンバランスが目立った<ref name="山下(2010)170">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.170]]</ref>。 |
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*捕虜になったディートリヒを尋問したアメリカ軍将校ロバート・E・メリアムによるとディートリヒは彼の部隊が遂行したアルデンヌ作戦についてほとんど何も知らず、極めて一般的な知識さえ無かったという<ref name="クノップ(2003)334">[[#クノップ(2003)|クノップ(2003)、p334]]</ref>。 |
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*大戦末期、[[元帥 (ドイツ)|元帥]]位を欲したディートリヒに応えてヒトラーが[[元帥 (ドイツ)#民族元帥|民族元帥]](Volksmarschall)の新設を指示。バルジの戦いに勝利した場合、ディートリヒは民族元帥に昇進するはずであった。しかしこの戦いはドイツの敗北に終わり、民族元帥位も計画のみに終わった<ref name="山下(2010)174">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.174]]</ref>。 |
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*ディートリヒの信仰は[[カトリック]]であった<ref name="Miller(2006)258"/>。 |
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*ヒトラーの個人的な信頼を得ていたせいか、度々その指示を無視したが、処罰されるどころか受章・昇進を受け続けた人物である。 |
*ヒトラーの個人的な信頼を得ていたせいか、度々その指示を無視したが、処罰されるどころか受章・昇進を受け続けた人物である。 |
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*制服を規定どおりに着用しない癖があり、勝手に制服を改造していたという。国防軍の将官を模して(あくまで俗説であり、詳細は不明)規定では銀モール刺繍である親衛隊の国家徽章を、国防軍将官の規定である金モールで刺繍して使用していた。 |
*制服を規定どおりに着用しない癖があり、勝手に制服を改造していたという。国防軍の将官を模して(あくまで俗説であり、詳細は不明)規定では銀モール刺繍である親衛隊の国家徽章を、国防軍将官の規定である金モールで刺繍して使用していた。 |
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*[[ラインハルト・ハイドリヒ]]が暗殺された際には「やれやれ。あの雌豚もついにくたばったか。」と述べたという<ref name="ヘーネ(1981)172">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.172]]</ref> |
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*[[ヒトラー暗殺未遂事件]]後、[[国家保安本部]]に圧力をかけて逮捕された[[ハンス・シュパイデル]]中将の釈放に尽力している<ref name="ヘーネ(1981)516">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.516]]</ref> |
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*戦後、米国の精神科医から受けたインタビューの中でユダヤ人虐殺について「考えうる限り最大の愚行だ。ユダヤ人にいてほしくないならそう言えば良かったのだ。そうすれば彼らは出て行けたはずだ。私自身は反ユダヤ主義者であったことは一度もない。子供の頃、私はユダヤ人の家の隣で暮らしていたのだが、そのことを知りもしなかった。」「1943年にギリシャにいた妻からの手紙でユダヤ人が駆り集められている事を知った。ヒムラーの所へ行ってそのことを訊くと、真実ではないと言われた。ユダヤ人はあまり働かないから集めて働かせるなどと言っていた。しかし実際にはその時にはユダヤ人はもう生きていなかったわけだ。私は戦後までそうしたことは知らなかった。」と語っている。また[[ユリウス・シュトライヒャー]]の新聞については「読んだこともない」、[[アルフレート・ローゼンベルク]]の本については「全く理解できなかった。難しすぎて」と語っている<ref name="ゴールデンソーン(2005)375">[[#ゴールデンソーン(2005)|ゴールデンソーン(2005)、p375]]</ref>。 |
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*上記のインタビューにおいてヒトラーについて「私的な会話を交わすほどヒトラーと親しくなることは誰にもできなかった」「彼は厳格な父親のような存在だった」「暗殺未遂事件の後、彼はどんどん衰弱して病んでいた。なんらかの傷を負っていたはずであり、20年にわたる緊張にも蝕まれたのだろう。どんな強靭な人間でもそんなことは耐えられない。(略)我々は状態が分からないほど愚かではなかったが、どうすることもできなかったのだ」と語っている<ref>[[#ゴールデンソーン(2005)|ゴールデンソーン(2005)、p372-373]]</ref>。 |
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== 評価 == |
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*高級将校としての教育を受けていないこともあって作戦指導能力はあまり評価されていない。 |
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*ヒトラーの評価によるとディートリッヒはドイツの名将である「[[ゲオルク・フォン・フルンツベルク|フルンツベルク]]、[[ハンス・ヨアヒム・フォン・ツィーテン|ツィーテン]]、[[フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ザイトリッツ|ザイトリッツ]]」に匹敵する人物とのことである。 |
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*将兵から絶大な人気があり、「パパ・ゼップ」の愛称で親しまれていた。 |
*将兵から絶大な人気があり、「パパ・ゼップ」の愛称で親しまれていた。 |
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*戦後も旧部下から絶大な支持を受け続け、戦友の集会では大変な人気を誇った。 |
*戦後も旧部下から絶大な支持を受け続け、戦友の集会では大変な人気を誇った。 |
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*ヒトラーの評価によるとディートリッヒはドイツの名将である「[[ゲオルク・フォン・フルンツベルク|フルンツベルク]]、[[ハンス・ヨアヒム・フォン・ツィーテン|ツィーテン]]、[[フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ザイトリッツ|ザイトリッツ]]」に匹敵する人物とのことである。 |
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== 家族 == |
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*末期の惨状を「なぜ第6SS装甲軍って言うかって? それは戦車が6両しかないからさ」と表現した自嘲的・自虐的なジョークは有名。 |
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[[1921年]][[2月17日]]にバルバラ・"ベッティ"・ザイドル(Barbara "Betti" Seidl)と結婚したが、子供には恵まれず、1937年4月には離婚している<ref name="Miller(2006)258"/>。ディートリヒ本人が語ったところによると「うまくやっていけなかった」という<ref name="ゴールデンソーン(2005)369">[[#ゴールデンソーン(2005)|ゴールデンソーン(2005)、p369]]</ref>。この年から友人である[[カールスルーエ]]の醸造業者[[ハインリヒ・モニンガー]]大佐の娘ウルスラ・モニンガー(Ursula Moninger)と付き合うようになった<ref name="Miller(2006)258"/>。彼女は当時22歳で[[カール=ハインリヒ・ブレンナー]]([[:en:Karl-Heinrich Brenner|en]])SS中将と結婚していたが、1939年にはディートリヒとの間に息子(ヴォルフ=ディーター・ディートリヒ)を儲けてしまった<ref name="Miller(2006)258"/>。結局[[1942年]][[1月19日]]にディートリヒとウルスラは結婚した<ref name="Miller(2006)258"/>。夫妻はさらに二人の息子、ルッツとゲーツを儲けた<ref name="Miller(2006)258"/>。 |
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*高級将校としての教育を受けていないこともあって作戦指導能力はあまり評価されていない。 |
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*[[ラインハルト・ハイドリヒ]]が暗殺された際には「やれやれ。あの雌豚もついにくたばったか。」と述べたという<ref name="SSの歴史284">ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(講談社学術文庫)284 - 285</ref>。 |
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== キャリア == |
== キャリア == |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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*{{Cite book|和書|author=[[ロベルト・ヴィストリヒ]]|translator=[[滝川義人]]|year=[[2002年]]|title=ナチス時代 ドイツ人名事典|publisher=[[東洋書林]]|isbn=978-4887215733|ref=ヴィストリヒ(2002)}} |
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*「欧州戦史シリーズVol.17 武装SS全史1」出版学研。(日本語)ISBN 4056026424、 ISBN 978-4056026429 |
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*{{Cite book|和書|author=[[ジョン・キーガン]]著|translator=[[芳地昌三]]|year=1972|title=ナチ武装親衛隊 <small>ヒトラーの鉄血師団</small>|publisher=[[サンケイ新聞社]]出版局|series=第二次世界大戦ブックス35|asin=B000J9H4WO|ref=キーガン(1972)}} |
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*Mark C. Yerger 著 「Allgemeine-SS」出版Schiffer Pub Ltd。(英語)ISBN 0764301454 ISBN 978-0764301452 |
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**{{Cite book|和書|author=ジョン・キーガン著|translator=芳地昌三|year=1985|title=ナチ武装親衛隊 <small>ヒトラーの鉄血師団</small>(上記文庫版)|publisher=[[サンケイ出版]]|series=第二次世界大戦文庫24|isbn=978-4383024280|ref=キーガン(1985)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[グイド・クノップ]]|translator=高木玲|year=2003年|title=ヒトラーの親衛隊|publisher=原書房|isbn=978-4562036776|ref=クノップ(2003)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[レオン・ゴールデンソーン]]([[:en:Leon Goldensohn|en]])著|translator=[[小林等]]・[[高橋早苗]]・[[浅岡政子]]|editor=[[ロバート・ジェラトリー]]([[:en:Robert Gellately|en]])編|year=[[2005年]]|title=ニュルンベルク・インタビュー 上|publisher=[[河出書房新社]]|isbn=978-4309224404|ref=ゴールデンソーン(2005)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[芝健介]]|year=[[1995年]]|title=武装SS <small>ナチスもう一つの暴力装置</small>|publisher=[[講談社選書メチエ]]|isbn=978-4062580397|ref=芝(1995)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[ジョージ・H・スティン]]([[:en:George H. Stein|en]])|translator=[[吉本貴美子]]|others=[[吉本隆昭]]監修|year=[[2001年]]|title=詳解 武装SS興亡史 <small>ヒトラーのエリート護衛部隊の実像 1939‐45</small>|publisher=[[学研]]|series=WW selection|isbn=978-4054013186|ref=スティン(2001)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[クリス・ビショップ]]|translator=[[鈴木晃]]、[[月島ふみ]]|year=[[2008年]]|title=WAFFEN‐SS DIVISIONS <small>1939‐45 武装親衛隊<small/>|publisher=[[リイド社]]|isbn=978-4845835492|ref=ビショップ(2008)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[広田厚司]]|year=[[2010年]]|title=武装親衛隊 <small>ドイツ軍の異色兵力を徹底研究</small>|publisher=[[光人社]]|isbn=978-4769826569|ref=広田(2010)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[ハインツ・ヘーネ]]著|translator=[[森亮一]]|year=1981|title=SSの歴史 <small>髑髏の結社</small>|publisher=[[フジ出版社]]|isbn=978-4892260506|ref=ヘーネ(1981)}} |
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**{{Cite book|和書|author=ハインツ・ヘーネ著|translator=森亮一|year=2001|title=SSの歴史 <small>髑髏の結社</small> 上|publisher=[[講談社学術文庫]]|isbn=978-4061594937|ref=ヘーネ(2001)上}} |
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**{{Cite book|和書|author=ハインツ・ヘーネ著|translator=森亮一|year=2001|title=SSの歴史 <small>髑髏の結社</small> 下|publisher=講談社学術文庫|isbn=978-4061594944|ref=ヘーネ(2001)下}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[山崎雅弘]]|year=2009|title=ドイツ軍名将列伝:鉄十字の将官300人の肖像|publisher=[[学研M文庫]]|isbn=978-4059012351|ref=山崎(2009)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[山下英一郎]]|year=[[2010年]]|title=制服の帝国 <small>ナチスSSの組織と軍装</small>|publisher=彩流社|isbn=978-4779114977|ref=山下(2010)}} |
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*{{Cite book|和書|year=[[2001年]]|title=武装SS全史I|series=欧州戦史シリーズVol.17|publisher=[[学研]]|isbn=978-4056026429|ref=学研1}} |
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*{{Cite book|和書|year=2001|title=武装SS全史II|publisher=学研|series=欧州戦史シリーズVol.18|isbn=978-4056026436|ref=学研2}} |
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*{{Cite book|year=2006|author=Michael D. Miller|title=Leaders of the SS & German Police, Volume I|publisher=Bender Publishing|language=[[英語]]|isbn=9329700373|ref=Miller(2006)}} |
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*{{Cite book|year=1997|author=Mark C. Yerger|title=Allgemeine-SS|publisher=Bender Publishing|language=[[英語]]|isbn=978-0764301452|ref=Yerger(1997)}} |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|3}} |
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<references /> |
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{{commonscat|Sepp Dietrich}} |
{{commonscat|Sepp Dietrich}} |
2011年5月25日 (水) 12:29時点における版
ヨーゼフ・ディートリッヒ Josef Dietrich | |
---|---|
生誕 |
1892年5月28日 バイエルン王国 ハヴァンゲン(de) |
死没 |
1966年4月22日 バーデン=ヴュルテンベルク州 ルートヴィヒスブルク |
所属組織 | 武装親衛隊 |
軍歴 | 1911、1914-1918、1934-1945 |
最終階級 |
曹長(バイエルン陸軍) 親衛隊上級大将及び武装親衛隊上級大将(親衛隊) |
ヨーゼフ・ディートリッヒ(Josef Dietrich 、1892年5月28日 - 1966年4月22日)は、ドイツの政党国家社会主義ドイツ労働者党(以下ナチ党)の武装組織武装親衛隊の将軍。最終階級は親衛隊上級大将及び武装親衛隊上級大将(SS-Oberstgruppenführer und Generaloberst der Waffen-SS)。柏・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章受章者。愛称はゼップ(Sepp)。
生涯
少年・青年期
1892年5月28日、ドイツ帝国領邦バイエルン王国シュヴァーベン地方ハヴァンゲン(de)に生まれる[1][2][3][4]。父は荷造り人夫頭ペルギウス・ディートリヒ(Pelagius Dietrich)。母はその妻クラスツェンチア(Kreszentia)[5]。6人兄弟であり、ディートリヒは長男だった[6]。弟二人は第一次世界大戦で戦死した[7]。
ハヴァンゲンに近いメミンゲンの小学校(Volksschule)に通っていたが、1900年に一家はケンプテン(de)に移住し、ディートリヒも同地の小学校に転校した[2][8]。1906年に小学校を卒業するとトラクター運転手として働くようになったが[3][8]、まもなくワンダーフォーゲルの活動で近隣諸国を旅しながらそれらの国々のホテルで働くようになった[2][8]。スイス・チューリヒではホテルマンの資格を取得している[9]。
その後、バイエルンに帰国し、首都ミュンヘンの肉屋で見習いとして働くようになるが[8]、1911年10月18日にはバイエルン陸軍(de)第4野戦砲兵連隊「ケーニヒ」(Bayerisches feldartillerie Regiment "König" Nr. 4)に志願して入営した[8]。しかし落馬で負傷したため同年11月27日には早くも除隊することになった[3][8]。その後は第一次世界大戦の開戦までケンプテンのパン屋に使いっ走りとして奉公した[8]。
第一次世界大戦
1914年7月末に第一次世界大戦が開戦。ディートリヒは8月6日にバイエルン第7野戦砲兵連隊「プリンツリージェント・ルイトポルト」(de)に入隊した[8]。10月にはバイエルン第6野戦砲兵連隊「プリンツ・フェルディナント・フォン・ブルボン、ヘルツォーク・フォン・カラブリア」に転属となり、西部戦線のベルギー・フランダースやイープルで戦ったが[2]、11月には砲弾の破片を受けて右足を負傷した[8]。
1915年1月中にはゾントホーフェン(de)の砲兵学校において下士官の訓練を受ける[8]。2月に第7野戦砲兵連隊に復帰して再び西部戦線に出たが、春にはソンムにおいて破片を頭部に受けるという激しい負傷をした[2][8]。戦傷から回復すると突撃大隊(第3軍第2突撃大隊)に配属された[8][10]。この部隊は塹壕戦の膠着状態の打開を狙って創設された部隊であり、特に優秀な兵士が選抜され、階級に関係なく全員が寝食を共にして士気を高めていた。この部隊での経験は後のディートリヒのライプシュタンダルテの運営に影響を与えたという[10]。1917年11月17日には二級鉄十字章を受章した[11]。
1918年2月19日に英軍から鹵獲した戦車11両から成るバイエルン突撃戦車分遣隊(Bayerische Sturmpanzerkampfwagen-Abteilung)に配属された[10]。ディートリヒはマークIV戦車(en)「モーリッツ」号に機銃手として搭乗した[8][3]。3月21日にサン=カンタンで戦車戦初陣をかざった。5月31日にはフランス軍に鹵獲されるのを避けるため「モーリッツ」号を爆破せざるを得なくなったが[8]、この脱出の際にディートリヒは蒸留酒を持ち帰り、隊員たちから称賛されたという[12]。6月に一級鉄十字章を受章した[11]。7月18日にはヴィレ=コトレ(fr)近くではじめて英国戦車を破壊することに成功した[8]。11月1日のヴァランシエンヌでの戦闘が一次大戦における彼の最後の戦闘となった[12]。
ドイツ革命の最中の1918年11月9日には第13突撃戦車分遣隊の兵士評議会(Soldatenrat)議長に就任している[8]。11月20日にはバイエルン第7野戦砲兵連隊に復帰したが、翌1919年3月26日には退役した[8]。軍での最終階級は曹長(Vizewachtmeister)だった[12][9][4]。
一次大戦後
1919年4月にバイエルンのミュンヘンに戻り[8]、10月1日にバイエルン地方警察(Bayerische Landespolizei)に入隊した[13][8][14]。
1920年には在郷右翼義勇軍のオーバーラント義勇軍(de)にも入隊[1][9][15]。警察を欠勤して義勇軍活動に励んだ[15]。1921年5月から10月にかけてはポーランド軍の上シュレージエン侵攻に抗する戦いに参加した[16]。その後警察の仕事に戻り[17]、1924年に警察大尉(Hauptmann)に昇進したが[14]、1927年には警察を退官した[8][14]。その後はナチ党に入党するまでたばこ会社やガソリンスタンドなどで働いた[16][17]。
ナチス親衛隊
1923年11月のミュンヘン一揆にはオーバーラント義勇軍のメンバーとして参加している[13][16]。彼がナチ党に入党したのは1928年5月1日である[17][13][16][14](党員番号89,015[4])。
入党から四日後の5月5日に親衛隊(SS)に入隊した[16][14](隊員番号1,177[4])。1928年当時の親衛隊はまだハインリヒ・ヒムラーが親衛隊全国指導者になっておらず、隊員数は280人ほどしかいなかった[18]。党幹部の護衛や党集会の警備などが当時の親衛隊の主要任務であり、警察官の経歴を持つディートリヒは入隊とともに急速に昇進する[13]。
ミュンヘンに本拠を置く親衛隊第1中隊(SS-Sturm I)に配属され、入隊から一カ月足らずで同中隊の指導者(Führer)に任じられた[16]。ついで1928年8月にはその上部部隊である第1親衛隊連隊「ミュンヘン」(SS-Standarte I "München")が編成され、その指導者となる[19]。さらに1929年9月には第1親衛隊連隊の上部部隊である親衛隊旅団「バイエルン」(SS-Brigade "Bayern" )が編成され、その指導者に昇格する[16]。1930年7月には後に第1親衛隊地区(SS-Abschnitt I)に改組される親衛隊上級指導者地区「南方」(SS-Oberführer Abschnitt "Süd")の上級指導者(SS-Oberführer "Süd")に就任[16][20]。ディートリヒは最初にこの肩書を得た者であった[21]。しかし当時のナチ党は活動資金に枯渇していたので1929年から1930年にかけてディートリヒは生活のためにマックス・アマンの運営する出版社で働いて収入を得なければならなかった[16][17]。
1930年10月12日にはバイエルン州選出のナチ党の国会議員となる[17][21]。1931年7月中にはブラウンシュヴァイクに本部を置く第4親衛隊地区が創設され、短期間だがその初代指導者に就任した[21][14]。さらに1932年7月にはミュンヘンを中心にバイエルン州、ヴュルテンベルク州(de)、バーデン州(de)などドイツ南部の親衛隊を管轄する親衛隊集団「南方」(SS-gruppe "Süd")が編成され、その指導者に昇格する[21]。
1932年2月にはアドルフ・ヒトラーの護衛部隊である親衛隊護衛コマンド「デア・フューラー」(SS-Begleit-Kommando "Der Führer" )の指導者に就任した[21]。
1932年10月から1933年4月にかけてはハンブルクを本拠にドイツ北部の親衛隊を管轄する親衛隊集団「北方」(SS-gruppe "Nord")の指導者に転じ、さらに1933年4月から首都ベルリンを中心にドイツ東部の親衛隊を監督する親衛隊集団「東方」(SS-gruppe "Ost")指導者を務める。親衛隊集団「東方」は1933年11月に親衛隊上級地区「東方」(SS-Oberabschnitt "Ost")に改組され、さらに1939年11月14日には親衛隊上級地区「シュプレー」(SS-Oberabschnitt "Spree")に改組されるが、ディートリヒはその指導者を1945年5月まで務め続けた[22]。
ライプシュタンダルテ創設
ナチ党の政権掌握後の1933年3月17日にヒトラーはディートリヒに120名の選抜された親衛隊員から成る護衛部隊、親衛隊司令部衛兵隊「ベルリン」(SS-Stabswache "Berlin")」の創設を命じた[23][24][25]。同部隊はディートリヒが指揮する親衛隊護衛コマンド「デア・フューラー」を改組して創設された[21]。
同部隊は二個中隊に増員されるとリヒターフェルデ(de)にあった旧士官学校を兵営として定められ、ここで三個親衛隊中隊が加えられて大隊編成となり、ポツダムの国防軍から訓練を受けた[26]。給料や待遇も軍と同等とされた[27]。
さらにツォッセンやユッターボクの親衛隊大隊と合流して連隊編成となり[28][29]、9月3日のニュルンベルク党大会においてアドルフ・ヒトラー連隊(Adolf Hitler-Standarte)の名前を与えられた[25][27][30]。
ついで1934年4月13日にはライプシュタンダルテ(親衛旗)・SS・アドルフ・ヒトラー(Leibstandarte SS Adolf Hitler, 略称LAH)の名称を与えられた[25][30][31][32][33][28]。
初期のライプシュタンダルテには身長180センチ以上などの厳しい入隊条件があった[27]。またヒンデンブルクの死後に国防軍がヒトラーに対して行った忠誠宣誓よりもっと強い忠誠宣誓をヒトラーに対して行った[31]。そのためライプシュタンダルテには一貫してエリート部隊という印象があった[34]。
ライプシュタンダルテは実質的に親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーから独立した存在であり、ヒトラーに対してのみ責任を負う個人的護衛部隊であった[35]。そのため発足時から部隊の指揮権をめぐってディートリヒとヒムラーの間に争いがあった[9]。
長いナイフの夜
長いナイフの夜事件においてライプシュタンダルテは突撃隊幹部粛清の実行部隊になることが予定され、国防軍から事前に武器の供給を受けて武装強化が進められていた[36]。
粛清開始前日の1934年6月29日にディートリヒはヒトラーの命令でミュンヘンへ急行した[37]。ヒトラーの命令を待ってカウフェリンクでライプシュタンダルテの二個中隊と合流してエルンスト・レーム以下突撃隊幹部が集められていたバート・ヴィースゼー(de)に向かうはずだったが、ぬかるみで国防軍トラックが動かなくなり、バート・ヴィースゼーに参じるのが間に合わなかった[38]。
6月30日午前6時半頃、結局ヒトラーはディートリヒ達の到着を待たずに手勢の親衛隊員だけでバート・ヴィースゼーの突撃隊幹部の宿所に突入し、レーム達を逮捕した[39]。ディートリヒは昼過ぎになってようやくミュンヘンのナチ党本部にいたヒトラーの前に姿を見せた[38]。ヒトラーは到着の遅れを叱責しつつ、逮捕した突撃隊幹部のうち6人の銃殺をディートリヒに任せた[40]。ディートリヒは午後6時に突撃隊幹部が収容されていたミュンヘンのシュターデルハイム刑務所(de)に到着し、6人の処刑を開始した[41]。この時に処刑された突撃隊幹部の一人アウグスト・シュナイトフーバーは「ゼップ!どうしたというのだ!我々は無実だ!」と叫んだが、ディートリヒは「貴官らは総統により死刑を宣告された。ハイル・ヒトラー!」とだけ答えたという[42]。ディートリヒは銃殺を最後まで見ることなく途中で退席した。後に彼はこの時のことについて「シュナイトフーバーの順番が回ってくる前に私は退散した。もうたくさんだった」と語った[42]。
一方ベルリンに留まっていたライプシュタンダルテの隊員たちは、プロイセン州内相ヘルマン・ゲーリング、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラー、親衛隊情報部(SD)司令官ラインハルト・ハイドリヒらの決定した粛清対象者をリヒターフェルデ士官学校において銃殺した[9]。7月1日にはディートリヒがベルリンへ戻り、ベルリンでの銃殺隊の組織にあたった[30]。1934年7月1日にディートリヒは粛清の恩賞で親衛隊大将に昇進した[1][25][4]。
特務部隊ライプシュタンダルテ連隊長
1934年12月14日にはライプシュタンダルテと親衛隊政治予備隊(SS-Politische Bereitschaft)でもって親衛隊特務部隊(SS-Verfügungstruppe,略称SS-VT)が編成された[43]。ディートリヒは形式的には特務部隊のライプシュタンダルテ連隊の連隊長という立場になった。
1936年3月のラインラント進駐に際してはライプシュタンダルテが親衛隊で唯一従軍した。ライプシュタンダルテは真っ先にザールブリュッケンに入った部隊であった[44]。
1936年10月1日には元国防軍中将パウル・ハウサーが特務部隊総監に就任したが、ディートリヒはハウサーより階級が上だったこともあり、引き続きヒトラーだけに責任を負う独立的な部隊として維持しようと図り、なかなかハウサーの指揮権に服そうとしなかった[45][46][47][48]。ヒムラーが特務部隊総監府の指揮に服するようディートリヒに手紙を出して諌めたこともあったほどである[49]。とはいえ他の特務部隊とライプシュタンダルテの練度の差が広がってくるとディートリヒもライプシュタンダルテが未熟であることを認めざるを得なくなり、ハウサーにライプシュタンダルテ隊員の訓練を任せるしかなくなっていく[49]。
1938年3月11日のオーストリア併合の際の進駐にもライプシュタンダルテが親衛隊として唯一従軍した。ディートリヒ率いる1個自動車大隊がオーストリアへの進駐に活躍した[50][51]。1938年10月のズデーテンラント併合の進駐にも参加。この進駐にはライプシュタンダルテ以外の特務部隊の連隊、「ゲルマニア」連隊や「ドイッチュラント」連隊も参加している[52]。
ライプシュタンダルテは優先的に機械化(自動車化)を受け、1939年9月のポーランド侵攻の際には親衛隊特務部隊の中で唯一自動車化された部隊になっていた[53]。
第二次世界大戦
ポーランド戦
1939年9月1日から始まるポーランド侵攻においてはライプシュタンダルテは南方軍集団(ゲルト・フォン・ルントシュテット上級大将)隷下の第10軍(司令官ヴァルター・フォン・ライヒェナウ大将)に属して参戦した[54][55]。
ライプシュタンダルテは国防軍に過酷な任務を押し付けられながらも勇戦した[53]。特にブズラの戦い(de)ではポーランド回廊から南下してくるポーランド軍を身体を張って阻止し、大きな損害を出しながらも首都ワルシャワへの突破を許さなかった[56]。ディートリヒはポーランド戦において1939年版の二級鉄十字章と一級鉄十字章の略章を受章した[57][11]。
しかし国防軍からの評価は低かった。ヨハネス・ブラスコヴィッツ大将からは「ライプシュタンダルテは月並みな部隊である。まだ経験不足であり秀でたところは無い」と評された[58]。またポーランド戦で南方軍集団参謀長を務めていたエーリヒ・フォン・マンシュタインはディートリヒと初めて会った時、彼の軍事教養の無さに呆れたという[59]。また別の陸軍将軍からは「ディートリヒの部隊は進軍途中にむやみやたらに銃を撃ち、決まり事のようにポーランドの村々を焼き討ちにする」と苦言を呈されている[58]。
西方電撃戦
1940年5月から開始された西方電撃戦ではB軍集団(フェードア・フォン・ボック上級大将)第18軍(ゲオルク・フォン・キュヒラー大将)隷下に配属され、オランダ侵攻部隊に加わったが、再び国防軍の露払い部隊にされた[60]。
5月10日の開戦と共にライプシュタンダルテはオランダ領を急ピッチで進軍し、アイセル川を渡河して、ホーエンを占領。ついでハーグへ進軍した[61]。ロッテルダムでオランダ軍に包囲されていた空挺部隊と合流した[54][62]。
オランダ降伏後には第19装甲軍団(ハインツ・グデーリアン大将)に所属して北フランスのダンケルクの戦いに転戦した[63]。このときドイツ軍はヒトラーによってダンケルク進軍停止を命じられたが、ディートリヒは総統命令を無視して前進しアー運河を渡河してワッテン高地を占領した(グデーリアンも進軍停止命令を不適当と考えていたのでディートリヒの独断行動を黙認した)[64][65][66][67]。
その後の南フランスへの進撃ではライプシュタンダルテはエヴァルト・フォン・クライスト大将の装甲集団の前衛部隊として国防軍部隊を遠く後方に残したままサン=テティエンヌまで急進軍した[68][69][70]。ライプシュタンダルテが最も内陸部まで進攻した部隊となった[71]。
西方作戦での功績によりディートリヒは1940年7月5日に騎士鉄十字章を授与された[11]。また同年8月にはライプシュタンダルテはヒトラーから「私の名を冠した君たちの部隊が全ドイツ軍の先陣を切った」と称えられ、旅団編成を認められた[69][71]。「ドイッチュラント」連隊などから兵員の増強を受けて旅団を編成した[72]。
バルカン半島戦
1941年4月のバルカン半島の戦いにライプシュタンダルテは第12軍(ヴィルヘルム・リスト大将)隷下で参加[73]。
フランス・メスからブルガリアのソフィアに移された後、1941年4月6日にユーゴスラヴィア南部へ侵攻を開始し、スコピエやビトラといった要衝を陥落させて4月10日にはギリシャへと進攻した[74][75]。
クリディ峠でオーストリア軍やニュージーランド軍、クリスラ峠でギリシャ軍から激しい反攻を受けたが、クルト・マイヤーなどの優秀な部下たちの活躍もあってライプシュタンダルテは凄まじいスピードでギリシャを席巻した[76]。4月23日にはギリシャが降伏文書に署名し、英軍はクレタ島へ逃れた[75][77][78][79]。
ギリシャ全軍の降伏の3日前の4月20日にディートリヒは16個師団から成るギリシャ・エピルス軍(ディートリヒの部隊によって退路を断たれていた)の降伏の申し出を独断で受理している[80][81]。その際にギリシャ軍兵士たちを捕虜とはせずに直ちに復員させている[80]。こうしたこともあってギリシャ戦ではライプシュタンダルテは「勇猛だがフェアな部隊」という高評価を得た[78]。
ライプシュタンダルテはアテネで先勝パレードを行った後、プラハに戻され、そこで師団編成を受けた[78][77][79]。
独ソ戦
1941年6月末に発動されたバルバロッサ作戦では南方軍集団(ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥)に所属して転戦。スターリン・ラインを突破してキエフ方面へ進軍し、ウマンでの包囲戦で10万のソ連兵を捕虜にする事に貢献した[82][83]。8月には港町ニコライェフを占領し、9月には短期間ながらマンシュタインの第11軍の隷下でクリミア半島戦に参加した[83]。10月には港町ロストフへの攻撃を開始し、11月には一時的に同市を占領したが、まもなく赤軍の反撃で取り戻され、ライプシュタンダルテは大きな打撃を受けた[84][83]。1941年12月31日に柏葉付騎士鉄十字章を受章した[11]。その後ライプシュタンダルテはドニェツ地方で防衛線を維持し続けたが、消耗が激しくなり、1942年春になるとスタリーノ地区に移され、さらに同年6月には占領地フランスに戻されて兵員休養と補充を受けた[85][86]。
東部戦線でのライプシュタンダルテの戦いぶりは陸軍からも高く評価されたが、反面、東部戦線では彼らの残虐性が目立つようになった。1942年4月には6人の仲間を殺されたことへの報復で4000人のソ連兵捕虜を虐殺する事件を起こした[84]。
1943年1月にライプシュタンダルテが東部戦線に復帰したが、スターリングラードの戦いでのドイツ第6軍の敗北によりソ連軍が大反撃に打って出てくると予想されたので、これに対抗するため親衛隊装甲軍団(パウル・ハウサー親衛隊大将)が編成され、ライプシュタンダルテもその隷下となった[85]。親衛隊装甲軍団は1943年2月のハリコフ攻防戦に投入された。ハウサーの名指揮、クルト・マイヤーやテオドール・ヴィッシュなどの優秀な部下たちの勇戦にも支えられてソ連軍52個師団を壊滅させることに成功し、ハリコフを奪還した[87]。ヒトラーはハウサーとディートリヒを称賛し、ディートリヒについて「この男はヒロイズムの真の偉業を成し遂げた」と評したという[88]。この戦功によりディートリヒは1943年3月14日に柏葉・剣付騎士鉄十字章を授与される[11]。
1943年7月からクルスクの戦いに参加したが、ソ連軍の激しい抵抗により阻まれた[89]。直後にライプシュタンダルテ師団長職を離職し、二つ目のSS装甲軍団として編成された第1SS装甲軍団の軍団長に任じられた[86]。8月から9月にかけてはドイツ軍が占領した北イタリアに派遣され、イタリア軍の武装解除の監督にあたった[86]。
西部戦線
1943年10月からディートリヒの第1SS装甲軍団は西欧に移され、連合国の上陸に備えた。1944年6月に連合軍の大陸反攻作戦(いわゆるノルマンディー上陸作戦)が開始されるが、上陸阻止に失敗した[90]。ついでカーン周辺で英軍と激戦し、8月まで英軍の進撃を食い止めた[86]。この功績で8月1日に親衛隊上級大将に昇進し、また8月6日には柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章を受章した[11]。
更に1944年9月には、新たに編成された第6SS装甲軍の指揮官に任命され、年末に開始されたラインの守り作戦(アルデンヌ攻勢)に参加する。後にバルジの戦いと呼ばれるこの戦闘でディートリヒの第6SS装甲軍は第5装甲軍や第7軍とともに攻勢主力を担った[91][92]。ヨアヒム・パイパー親衛隊中佐率いるパイパー戦闘団を先頭に激戦を展開したが、燃料不足や兵力配置の不備などが原因で作戦は失敗した[91]。
なおこの作戦の過程で第6SS装甲軍隷下のライプシュタンダルテ師団がマルメディーにおいて米兵捕虜射殺事件を起こした。これは戦後アメリカによって追及されることとなり、ディートリヒの戦後の運命にも影響する[92]。
ハンガリーでの戦い
西部戦線でのドイツ軍の劣勢が動かしがたくなると、ヒトラーはディートリヒと第6SS装甲軍をハンガリーに転出させ、迫り来るソ連軍を相手に大規模攻勢を指示する。いわゆる春の目覚め作戦である。第6SSS装甲軍が主力であったが、すでに戦力はすっかり消耗しており、20キロ進軍しただけでソ連軍の反撃にあい、作戦はとん挫した[93][92]。ソ連軍にブダペストを占領され、ソ連軍はドイツ領ウィーンへの侵攻を窺うようになった[92]。
ヒトラーはディートリヒと第6SS装甲軍の不甲斐なさに激怒し、1945年3月27日に師団名の入った袖章の剥奪を命じた[93][92]。ディートリヒはこれに激怒し、側近の将校たちに「勲章をみんな小便壺に放り込んで『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』師団の袖章を巻きつけろ」と悪態を付いたという[94]。総統命令を無視して第6SS装甲軍をオーストリア方面へと転進させる。第6SS装甲軍は追撃してくるソ連軍を振切ってアメリカ軍の前線に到達、1945年5月9日ディートリヒは米軍第36歩兵師団に対し降伏を申し入れ、最後まで総統命令に反抗しながらも結果として多くの部下を救った。このことは戦後も非常に高い評価を受けている。
戦後
戦後、ソ連からは欠席裁判で死刑を宣告されたディートリヒだったが、アメリカがソ連に彼の身柄を引き渡すことはなかった[92]。
1946年初頭、ディートリヒはヨアヒム・パイパーなど72名の武装親衛隊員と共にマルメディーで米兵捕虜を虐殺した廉でダッハウのアメリカ軍軍事法廷に起訴された[95][96]。ルントシュテットやグデーリアンなどがディートリヒの弁護のために証言台に立った結果、ディートリヒは死刑判決を免れて終身刑判決を受けた[92]。さらに1951年には25年に減刑された[97]。さらに1955年10月22日には執行猶予つきでランツベルク刑務所から釈放された[98][92]。
しかし1956年8月に長いナイフの夜の際の突撃隊幹部6名の粛清が殺人幇助(正犯はヒトラー)にあたるとして西ドイツのミュンヘンの裁判所に起訴された[98]。18か月の懲役刑を受けたが[97]、1959年2月には健康状態を理由として釈放される[98]。
その後はルートヴィヒスブルクで余生を送った[97]。パウル・ハウサー元親衛隊上級大将と共に旧武装親衛隊員相互扶助協会の活動に従事[92]。1966年4月にルートヴィヒスブルクにて死去。74歳であった[92]
彼の葬儀についてルートヴィヒスブルク市は公共施設を貸すことを拒否したが[97]、7000人もの人々が参列した盛大な葬儀となった[99]。その中にはドイツ、オーストリア、オランダ、フィンランドなどから駆け付けてきた元武装親衛隊員たち4000人も含まれていた[97]。
人物
- ディートリヒの身長は158センチしかなかった。彼が護衛すべき主人ヒトラーは173センチであり、アンバランスが目立った[27]。
- 捕虜になったディートリヒを尋問したアメリカ軍将校ロバート・E・メリアムによるとディートリヒは彼の部隊が遂行したアルデンヌ作戦についてほとんど何も知らず、極めて一般的な知識さえ無かったという[100]。
- 大戦末期、元帥位を欲したディートリヒに応えてヒトラーが民族元帥(Volksmarschall)の新設を指示。バルジの戦いに勝利した場合、ディートリヒは民族元帥に昇進するはずであった。しかしこの戦いはドイツの敗北に終わり、民族元帥位も計画のみに終わった[101]。
- ディートリヒの信仰はカトリックであった[5]。
- ヒトラーの個人的な信頼を得ていたせいか、度々その指示を無視したが、処罰されるどころか受章・昇進を受け続けた人物である。
- 制服を規定どおりに着用しない癖があり、勝手に制服を改造していたという。国防軍の将官を模して(あくまで俗説であり、詳細は不明)規定では銀モール刺繍である親衛隊の国家徽章を、国防軍将官の規定である金モールで刺繍して使用していた。
- ラインハルト・ハイドリヒが暗殺された際には「やれやれ。あの雌豚もついにくたばったか。」と述べたという[102]
- ヒトラー暗殺未遂事件後、国家保安本部に圧力をかけて逮捕されたハンス・シュパイデル中将の釈放に尽力している[103]
- 戦後、米国の精神科医から受けたインタビューの中でユダヤ人虐殺について「考えうる限り最大の愚行だ。ユダヤ人にいてほしくないならそう言えば良かったのだ。そうすれば彼らは出て行けたはずだ。私自身は反ユダヤ主義者であったことは一度もない。子供の頃、私はユダヤ人の家の隣で暮らしていたのだが、そのことを知りもしなかった。」「1943年にギリシャにいた妻からの手紙でユダヤ人が駆り集められている事を知った。ヒムラーの所へ行ってそのことを訊くと、真実ではないと言われた。ユダヤ人はあまり働かないから集めて働かせるなどと言っていた。しかし実際にはその時にはユダヤ人はもう生きていなかったわけだ。私は戦後までそうしたことは知らなかった。」と語っている。またユリウス・シュトライヒャーの新聞については「読んだこともない」、アルフレート・ローゼンベルクの本については「全く理解できなかった。難しすぎて」と語っている[104]。
- 上記のインタビューにおいてヒトラーについて「私的な会話を交わすほどヒトラーと親しくなることは誰にもできなかった」「彼は厳格な父親のような存在だった」「暗殺未遂事件の後、彼はどんどん衰弱して病んでいた。なんらかの傷を負っていたはずであり、20年にわたる緊張にも蝕まれたのだろう。どんな強靭な人間でもそんなことは耐えられない。(略)我々は状態が分からないほど愚かではなかったが、どうすることもできなかったのだ」と語っている[105]。
評価
- 高級将校としての教育を受けていないこともあって作戦指導能力はあまり評価されていない。
- ヒトラーの評価によるとディートリッヒはドイツの名将である「フルンツベルク、ツィーテン、ザイトリッツ」に匹敵する人物とのことである。
- 将兵から絶大な人気があり、「パパ・ゼップ」の愛称で親しまれていた。
- 戦後も旧部下から絶大な支持を受け続け、戦友の集会では大変な人気を誇った。
家族
1921年2月17日にバルバラ・"ベッティ"・ザイドル(Barbara "Betti" Seidl)と結婚したが、子供には恵まれず、1937年4月には離婚している[5]。ディートリヒ本人が語ったところによると「うまくやっていけなかった」という[7]。この年から友人であるカールスルーエの醸造業者ハインリヒ・モニンガー大佐の娘ウルスラ・モニンガー(Ursula Moninger)と付き合うようになった[5]。彼女は当時22歳でカール=ハインリヒ・ブレンナー(en)SS中将と結婚していたが、1939年にはディートリヒとの間に息子(ヴォルフ=ディーター・ディートリヒ)を儲けてしまった[5]。結局1942年1月19日にディートリヒとウルスラは結婚した[5]。夫妻はさらに二人の息子、ルッツとゲーツを儲けた[5]。
キャリア
親衛隊階級
- 1928年6月1日、親衛隊少尉(SS-Sturmführer)
- 1928年8月1日、親衛隊少佐(SS-Sturmbannführer)
- 1929年9月18日、親衛隊大佐(SS-Standartenführer)
- 1930年10月10日、親衛隊上級大佐(SS-Oberführer)
- 1931年12月18日、親衛隊中将(SS-Gruppenführer)
- 1934年7月1日、親衛隊大将(SS-Obergruppenführer)
- 1940年11月19日、武装親衛隊大将(General der Waffen-SS)
- 1944年8月1日、親衛隊上級大将及び武装親衛隊上級大将(SS-Oberstgruppenführer und Panzer-Generaloberst der Waffen-SS)
受章歴
- 二級鉄十字章及び一級鉄十字章1914年章
- 戦車バッジ銀章(de:Panzerkampfabzeichen)
- バイエルン戦功勲章(de:Militärverdienstorden)
- シレジア鷲章(de:Schlesischer Adler)
- 黄金ナチ党員バッジ
- 親衛隊名誉リング
- 1923年11月9日記念メダル
- 1938年3月13日記念メダル
- 1938年10月1日記念メダル及び1938年10月1日記念メダルプラハ城略章
- 二級鉄十字章及び一級鉄十字章1939年章
- 騎士鉄十字章
- 1940年7月4日、騎士鉄十字章
- 1941年12月31日、柏葉付
- 1943年3月14日、柏葉・剣付
- 1944年8月6日、柏葉・剣・ダイヤモンド付
- 1941年/1942年東部戦線冬季従軍メダル(de:Medaille Winterschlacht im Osten 1941/42)
- 戦傷章
- パイロット兼観測員章金章及びダイヤモンド章(de:Flugzeugführer- und Beobachterabzeichen)
- クリミアシールド(Krimschild)
参考文献
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