「アブル=ハイル・ハン (シャイバーニー朝)」の版間の差分
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2011年3月22日 (火) 16:46時点における版
アブール=ハイル・ハーン(Abū'l-Khayr Khān、1412年 - 1468年)は、遊牧集団ウズベクの指導者であり、ウズベク・ハン国(ウズベク・ウルス)の初代ハーン(在位:1428年 - 1468年)。チンギス・カンの長男ジョチの第5子であるシバンの一族であるが、テュルク系ムスリムである。
生涯
1412年、シバン家のダウラト・シャイフの息子として生まれる。
遊牧集団ウズベクの統一後、モンゴル時代から名の知れたブルクト部の支援を受けてハーンに即位し、シバン家の反対勢力を倒して宗主であったサライ政権(ジョチ・ウルス)からの独立を果たした。
1430年/1431年、アブル・ハイル・ハーンはティムール朝領ホラズムに遠征して略奪をおこない、1446年にはキプチャク草原東部(旧オルダ・ウルス)の統一に成功した。同年、アブル・ハイル・ハーンはシル川中流域のオアシス都市スグナク,サウラン,ウズゲンドを占領して政治的・軍事的拠点とするとともに経済的基盤を固めた。しかし、もともとシル川中流域を拠点としていた連中がトカ・テムル家のケレイとジャニベクを擁してアブル・ハイル・ハーンに背き、モグーリスタンの辺境に移住した(これをカザフと呼ぶ)。
1451年、アブル・ハイル・ハーンはティムール朝のアブー・サイード(在位:1451年 - 1469年)の救援要請に応じ、サマルカンド奪取を援助した。しかし、アブー・サイードはアブル・ハイルを恐れて場外に留め、莫大な贈り物と、ウルグ・ベクの娘であるラビア・スルタン・ベギムを贈って引き揚げさせた。
1456年、アブル・ハイル・ハーンは中央アジアに進出したカルマク(オイラト)軍と戦って敗れたため、その権威が失墜したものの、しばしばティムール朝の内紛でその王子たちからの救援要請を受けた。
1468年、ティムール朝ヘラート政権のスルタン・フサイン(在位:1470年 - 1506年)は一週間におよぶ酒宴でも酩酊しなかったため、ようやくアブル・ハイル・ハーンから援軍の約束を取りつけたが、その年にアブル・ハイル・ハーンが没したため、約束は実現しなかった。
アブル・ハイル・ハーンの死後はウズベクのウルスが分裂状態に陥り、その多くはケレイ・ハーンとジャニベク・ハーンの支配するカザフ・ハン国に流れた。
妻子
- 妻
- 子
- シャー・ブダグ…ムハンマド・シャイバーニー・ハーンの父
- ホージャ・ムハンマド…ピール・ムハンマド1世の祖父
- シャイフ・ハイダル
- クチュクンジ…シャイバーニー朝第2代ハーン
- セヴィンチ・ホージャ…ナウルーズ・アフマド・ハーンの父
参考資料
- 小松久男『世界各国史4 中央ユーラシア史』(山川出版社、2005年、ISBN 463441340X)
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