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| 画像サイズ = 200px
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| 画像説明 = 1942年
| 画像説明 = 1942年
| 渾名 = 砂漠の狐
| 渾名 = 砂漠の狐<br>([[ドイツ語|独]]:Wüstenfuchs, [[英語|英]]:Desert Fox)
| 生誕地 = {{DEU1871}}[[ヴュルテンベルク王国]]ハイデンハイム
| 生誕地 = {{DEU1871}}<br>[[ファイル:Flagge Königreich Württemberg.svg|25px]] [[ヴュルテンベルク王国]]<br>[[ハイデンハイム]]
| 死没地 = {{DEU1935}}南部、ヘルリンゲン
| 死没地 = {{DEU1935}}南部、ヘルリンゲン
| 所属政体 = {{DEU1871}}<br>[[ファイル:Flagge Königreich Württemberg.svg|25px]] [[ヴュルテンベルク王国]]<br />[[画像:Flag of Germany.svg|25px]] [[ヴァイマル共和政|ヴァイマル共和国]]<br>[[画像:Flag of Germany 1933.svg|25px]] [[ナチス・ドイツ]]
| 所属政体 = {{DEU1871}}( - 1918)<br />{{DEU}}→{{DEU1935}}
| 所属組織 = [[画像:War Ensign of Germany 1903-1918.svg|20px]] [[ドイツ帝国軍|ドイツ帝国陸軍]]<br/>(Kaiserliche Armee)<br/>[[画像:Flag of Weimar Republic (war).svg|20px]] [[ヴァイマル共和国軍|ヴァイマル共和国軍陸軍]]<br/>(Reichsheer)<br/>[[画像:Balkenkreuz.svg|20px]] [[ドイツ国防軍|ナチス・ドイツ国防軍陸軍]]<br/>(heer)<br/>
| 所属組織 = [[ドイツ陸軍]]
| 軍歴 = 1911 - 1944
| 軍歴 = 1911 - 1944
| 最終階級 = [[元帥 (ドイツ)|陸軍元帥]]
| 最終階級 = [[元帥 (ドイツ)|陸軍元帥]]
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| 署名 = [[ファイル:Erwin Rommel Signature.svg|200px]]
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'''エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメル'''(Erwin Johannes Eugen Rommel、[[1891年]][[11月15日]] - [[1944年]][[10月14日]])は[[ドイツ陸軍]]([[ドイツ国防軍]])の[[軍人]]である。[[第二次世界大戦]]におけるフランス、北アフリカにおける驚異的な活躍で「砂漠の狐」として知られる。
'''エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメル'''{{#tag:ref|ファーストネームのErwinは日本では「エルウィン」「エルヴィン」と表記される事が多い。より実際の発音に近く「エアヴィン」、英語読みで「アーウィン」とカタカナ表記されることもある。姓のRommelは、実際の発音は「ロメル」に近い。|group=#}}(Erwin Johannes Eugen Rommel、[[1891年]][[11月15日]] - [[1944年]][[10月14日]])は[[ドイツ陸軍]]([[ドイツ国防軍]])の[[軍人]]である。[[第二次世界大戦]]におけるフランス、北アフリカにおける驚異的な活躍で「砂漠の狐」として知られる。


砂漠のアフリカ戦線において、巧みな[[戦略]]・[[戦術]]によって戦力的に圧倒的優勢な[[イギリス軍]]をたびたび壊滅させ、英首相[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]に「[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]以来の戦術家」とまで評された。[[貴族]]ではない、中産階級出身者初の[[元帥 (ドイツ)|陸軍元帥]]でもある。
砂漠のアフリカ戦線において、巧みな[[戦略]]・[[戦術]]によって戦力的に圧倒的優勢な[[イギリス軍]]をたびたび壊滅させ、英首相[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]に「[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]以来の戦術家」とまで評された。[[貴族]]ではない、中産階級出身者初の[[元帥 (ドイツ)|陸軍元帥]]でもある。
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== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
=== 生 ===
エルヴィン・ロンメルは、[[1891年]][[11月15日]]の[[日曜日]]の正午、[[ドイツ帝国]]領邦[[ヴュルテンベルク王国]]の[[ハイデンハイム・アン・デア・ブレンツ]]([[:de:Heidenheim an der Brenz|de]])において生まれた<ref name="クノップ24">[[#クノップ|クノップ、p.24]]</ref><ref name="ピムロット11">[[#ピムロット|ピムロット、p.11]]</ref><ref name="山崎24">[[#山崎|山崎、p.24]]</ref><ref name="ヤング34">[[#ヤング|ヤング、p.34]]</ref>。この町は[[ウルム]]郊外の町である<ref name="ピムロット11"/><ref name="ヤング34"/><ref name="ヴィストリヒ326">[[#ヴィストリヒ|ヴィストリヒ、p.326]]</ref>。
エルヴィン・ロンメルはドイツ南部の[[バーデン=ヴュルテンベルク州|バーデン=ヴュルテンベルク州]]の[[ウルム]]から約50kmほど離れた小さな町、ハイデンハイムで[[プロテスタント]]系の高等学校長のエルヴィン・ロンメル・シニアとヘレーネ・フォン・ルツの次男として生まれた。


父はハイデンハイムの実科[[ギムナジウム]](Realgymnasium)の数学教師エルヴィン・ロンメル(ロンメルは父の名前をそのまま与えられた)<ref name="ピムロット11"/><ref name="ヤング34"/><ref name="山崎26">[[#山崎|山崎、p.26]]</ref>。その父(ロンメルの祖父)も教師だった<ref name="ヤング34"/><ref name="アーヴィング上37">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.37]]</ref>。父も祖父も多少だが数学者として名の知れた人物であり<ref name="ピムロット11"/><ref name="ヤング34"/>、地元ハイデンハイムではかなり尊敬されていた人物であった<ref name="ヤング35">[[#ヤング|ヤング、p.35]]</ref>。
エルヴィン・ロンメルにはカールとゲアハルトの2人の兄弟と、妹・ヘレンがいた。大人しい少年で家族からは「白熊ちゃん」とあだ名されていた。ロンメルは後に「私の幼少時は非常に幸福だった」と述懐している。ロンメルはエンジニア志望だったが父親に教師か陸軍士官になれと選択を迫られ[[1910年]]に[[ヴュルテンベルク王国]]の第124歩兵連隊に入営、プロイセン王国の[[ダンツィヒ]]王立[[士官学校]]に進んだ。


母はヘレーネ・ロンメル。ヴュルテンべルク王国政府の行政区長官で地元の名士であるカール・フォン・ルッツの娘である<ref name="ピムロット11"/><ref name="山崎26"/><ref name="アーヴィング上37"/><ref name="ヤング35"/>。
ロンメルは[[ダンツィヒ]]の[[陸軍士官学校]]時代の[[1911年]]にルーツィア・マリア・モリン(Lucia Maria Mollin)に出会い、[[1916年]]に結婚した。[[1928年]]に息子の[[マンフレート・ロンメル|マンフレート]]が生まれ、彼は戦後[[シュトゥットガルト]]の市長を長年務めている<ref>「マンフレート・ロンメル」伊藤光彦『ドイツとの対話』毎日新聞社、[[1981年]]、135~138ページ。</ref>。


父母ともに[[プロテスタント]]だった<ref name="アーヴィング上39">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.39]]</ref>。
1911年11月、ロンメルは士官学校を卒業し[[1912年]]1月に[[少尉]]に任官した。後年、歴史家のジョン・ビーアマンとコリン・スミスは、ロンメルが1912年にヴァルブルガ・シュテマー(Walburga Stemmer)との間にゲルトルートという名の娘をもうけたという研究を発表している。


兄にマンフレート、姉にヘレーネ、弟にカールとゲルハルトがいた<ref name="ピムロット11"/><ref name="山崎26"/><ref name="ヤング35"/><ref name="アーヴィング上38">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.38]]</ref>。兄のマンフレートは幼いころに死去した<ref name="ピムロット11"/><ref name="山崎26"/><ref name="ヤング35"/>。

父は若いころに砲兵隊にいたことがあるが、それ以外にはロンメル家は軍隊とほとんど関係がなかった。軍部への有力な縁故も皆無だった<ref name="ヤング37">[[#ヤング|ヤング、p.37]]</ref>。また教養市民階級出身という彼の出自は貴族主義的な[[ドイツ陸軍]]において有利なスタート地点であったとはいえない<ref name="クノップ25">[[#クノップ|クノップ、p.25]]</ref>。

=== 幼少・少年期 ===
子供の頃のロンメルは病気勝ちでおとなしかったという<ref name="ピムロット11"/><ref name="ヤング36">[[#ヤング|ヤング、p.36]]</ref>。姉ヘレーネによるとロンメルは色白で髪の色も薄かったので、家族から「白熊ちゃん」とあだ名されていたという<ref name="ピムロット11"/><ref name="ヤング35"/>。しかしロンメル本人は人事記録の中に挟んだ覚書の中で「幼い頃、自分の庭や大きな庭園で走り回って遊ぶことができたので、とても幸せだった」と述懐している<ref name="アーヴィング上39"/>。

[[1898年]]に父が[[アーレン (バーデン=ヴュルテンベルク)|アーレン]]の実科ギムナジウムの校長となる<ref name="ヤング35"/><ref name="ピムロット12">[[#ピムロット|ピムロット、p.12]]</ref><ref name="山崎27">[[#山崎|山崎、p.27]]</ref>。一家はアーレンに引っ越したが、アーレンには小学校(Volksschule)がなかったため、ギムナジウムに入学するまで家庭教師から授業を受けていた<ref name="ピムロット12"/>。[[1900年]]に父親が校長を務める実科ギムナジウムに入学した<ref name="ピムロット12"/>。はじめギムナウジムでは劣等生だった<ref name="ヤング36"/><ref name="ピムロット12"/>。怠け者で注意散漫だったという<ref name="ヤング36"/><ref name="ピムロット12"/>{{#tag:ref|勉学に不熱心だったロンメルに勉強させるため、教師が「書き取りテストで間違いしなければ楽隊と一緒に遠足に出かけよう」と彼に言うと、彼はこれを真に受けて必死に書き取りの勉強をしてテストで間違いをしなかったという。しかし約束の遠足につれて行ってもらえなかったのでまた勉強をしない生徒に戻ってしまったという<ref name="ヤング36"/><ref name="ピムロット12"/>。|group=#}}。読書にも運動にも興味がない子供だったが、10代になると突然活発になった<ref name="ヤング36"/><ref name="ピムロット12"/>。数学の成績が良くなり、スポーツにも関心を持つようになった<ref name="ピムロット12"/><ref>[[#山崎|山崎、p.27-28]]</ref><ref>[[#ヤング|ヤング、p.36-37]]</ref>。また飛行機の研究に夢中になり、14歳のころには親友と二人で実物大の[[グライダー]]を作成した<ref name="アーヴィング上37"/><ref name="ヤング37">[[#ヤング|ヤング、p.37]]</ref><ref name="ピムロット12"/><ref name="山崎28"/>。結局まともには飛ばなかったが、[[1906年]]に[[ヨーロッパ]]で初めて動力を備えた飛行機が飛行したばかりだということを考えると大したものだった<ref name="アーヴィング上37"/>。

ロンメルは航空機関連のエンジニアになることを希望していたが、父親が反対し、ヴュルテンべルク王国軍に入隊することになった<ref name="アーヴィング上37"/><ref>[[#ピムロット|ピムロット、p.12-13]]</ref>。軍に入ることについて本人はあまり乗り気でなかったらしい<ref name="アーヴィング上38"/><ref name="山崎28">[[#山崎|山崎、p.28]]</ref>。

=== 軍人に ===
[[1910年]][[7月19日]]に[[ヴァインガルテン]]([[:de:Weingarten, Württemberg|de]])に駐留する[[ドイツ帝国陸軍第124歩兵連隊|ヴュルテンベルク王国陸軍第6歩兵連隊「ケーニヒ(国王)・ヴィルヘルム1世」(ドイツ帝国陸軍第124歩兵連隊)]]([[:de:Infanterie-Regiment „König Wilhelm I.“ (6. Württembergisches) Nr. 124|de]])に下級士官候補生(Fahnenjunker)として入隊<ref name="アーヴィング上38"/><ref name="クノップ25"/><ref name="Dagger">[http://www.germandaggers.info/rommel.htm German Daggers Info]</ref><ref name="ピムロット13">[[#ピムロット|ピムロット、p.13]]</ref><ref name="山崎30">[[#山崎|山崎、p.30]]</ref><ref name="ヤング38">[[#ヤング|ヤング、p.38]]</ref>。下士官として半年の部隊勤務{{#tag:ref|当時のドイツ帝国軍では士官候補生をいきなり士官学校には入れず、まず野戦部隊に配属して下士官や兵士と一緒に寝起きを共にさせていた。[[ナポレオン戦争]]の時に露呈したプロイセン軍の将校と下士官・兵士の相互不信の問題を解消するためである。この部隊勤務に馴染んだ者のみ士官学校へ進むことが許可された<ref>[[#山崎|山崎、p.30-31]]</ref>。|group=#}}を経た後、1911年3月に[[プロイセン王国]][[ダンツィヒ]]の王立[[士官学校]]に進んだ<ref name="ヤング38"/><ref name="山崎31">[[#山崎|山崎、p.31]]</ref>。士官学校在学中に後に妻となるダンツィヒに語学の勉強に来ていたルーツィエ・マリア・モーリン(Lucia Maria Mollin)と出会った<ref name="クノップ25"/><ref name="ヤング38"/><ref name="山崎31"/><ref name="アーヴィング上40">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.40]]</ref>。士官学校卒業後もルーツィエと手紙で連絡を取り合い、二人は[[1916年]]に結婚した<ref name="ピムロット15">[[#ピムロット|ピムロット、p.15]]</ref>。[[1928年]]に息子の[[マンフレート・ロンメル|マンフレート]]が生まれ、彼は戦後[[シュトゥットガルト]]の市長を長年務めている<ref>「マンフレート・ロンメル」伊藤光彦『ドイツとの対話』毎日新聞社、[[1981年]]、135~138ページ。</ref>。

[[1912年]][[1月27日]]に[[少尉]](Leutnant)に任官し、第124歩兵連隊に戻った<ref name="クノップ25"/><ref name="Dagger"/><ref name="アーヴィング上40"/><ref name="ピムロット14">[[#ピムロット|ピムロット、p.14]]</ref><ref name="ヤング39">[[#ヤング|ヤング、p.39]]</ref>。ロンメルは新兵の訓練を担当した<ref name="クノップ25"/><ref name="ピムロット15"/>。

1913年にヴァルブルガ・シュテマー(Walburga Stemmer)との間に[[私生児]]の娘ゲルトルートをもうけた。生活費を送る代わりに表沙汰にしないことで合意した<ref name="山崎33">[[#山崎|山崎、p.33]]</ref>。のちにロンメルは妻のルーツィエにこの「過ち」の許しを乞うた<ref name="山崎33"/>。

1914年3月に第124歩兵連隊と同じく第27歩兵師団の指揮下である[[ウルム]]駐留の[[ドイツ帝国陸軍第49野戦砲兵連隊|ヴュルテンブルク王国陸軍第3野戦砲兵連隊(ドイツ帝国陸軍第49野戦砲兵連隊)]]に転属となった<ref name="クノップ25"/><ref name="アーヴィング上41">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.41]]</ref><ref name="山崎34">[[#山崎|山崎、p.34]]</ref>。しかし第一次世界大戦の開戦により第124歩兵連隊に復帰し、同歩兵連隊隷下の第2大隊第7中隊に所属する小隊の小隊長に就任した<ref>[[#山崎|山崎、p.40・54]]</ref>。

=== 第一次世界大戦 ===
==== 初めての実戦、ブレド村での戦闘 ====
1914年7月末から8月初めにかけて[[第一次世界大戦]]となる各国の戦闘が続々と勃発した。ドイツ軍とフランス軍は1918年8月3日に開戦した<ref name="阿部29">[[#阿部|阿部、p.29]]</ref>。ロンメル少尉の所属する第124歩兵連隊は、第5軍(司令官[[ヴィルヘルム・フォン・プロイセン (1882-1951)|ヴィルヘルム皇太子]])隷下の第13軍団隷下の第27歩兵師団隷下として、対フランス戦に動員された<ref name="山崎43">[[#山崎|山崎、p.43]]</ref>。

ロンメルがはじめて実戦に参加したのは8月22日午前5時頃、[[ベルギー]]南部のフランス国境付近の村[[ブレド]]([[:fr:Bleid|fr]])だった<ref name="ピムロット20">[[#ピムロット|ピムロット、p.20]]</ref><ref name="ヤング41">[[#ヤング|ヤング、p.41]]</ref>。この時のロンメルは前日に一日中偵察をさせられるなど疲労困憊状態で、しかも脂っこいものとパンの食い過ぎが原因で胃痛を起こしていた<ref name="ピムロット20"/><ref name="ヤング41"/><ref>[[#山崎|山崎、p.43-47]]</ref>。しかし実戦を前に前線から逃げ出そうとしている卑怯者と思われるのが嫌で上官には黙っていた<ref name="山崎43"/>。

銃弾が飛び交う霧の中、ロンメル率いる小隊はブレド村へ進み、ロンメル含めて4人だけで村の中に偵察に入り、フランス兵15名から20名ほどを発見した。「奇襲効果」を優先して小隊の部下を呼び集めることなく、その場にいる4人だけで攻撃を仕掛けた<ref name="ヤング42">[[#ヤング|ヤング、p.42]]</ref><ref name="山崎49">[[#山崎|山崎、p.49]]</ref>。フランス兵たちは四散し、建物や物陰に隠れて応戦してきた<ref name="ヤング42"/><ref name="山崎49"/>。そのうちの一発はロンメルの耳元をかすめた<ref name="山崎49"/>。結局4人だけでは歯が立たず、ロンメルたちは退却し、村の外で待機していた小隊の部下たちと合流した<ref name="山崎49"/>。ロンメルは応援を待たず、自分の小隊を二つに分けてすぐに再攻撃を行った<ref name="山崎51">[[#山崎|山崎、p.51]]</ref>。一隊がフランス兵が隠れた建物の正面から攻撃をかけ、もう一隊は建物側面から攻撃をかけて最初の建物を制圧した<ref name="山崎51"/>。続いてフランス兵の立て篭もった他の建物に次々と火を放っていった<ref name="ヤング42"/><ref name="山崎51"/>。

しかしフランス軍の抵抗も強く、ロンメルの小隊から負傷者が多数出た。またロンメルが作戦中に疲労と胃痛で数回にわたって意識を失ったので副官の軍曹が代わりに小隊の指揮を執ることがしばしばあった<ref name="山崎51"/>。その後、同じ第2大隊に所属する別の小隊が応援に到着し、加えてブレド村北東325高地がドイツ軍によって占領されたことで一気に有利となり、ブレド村のフランス軍は投降した<ref name="ピムロット23">[[#ピムロット|ピムロット、p.23]]</ref><ref name="山崎52">[[#山崎|山崎、p.52]]</ref>。

戦闘が終わった後のブレド村は兵士達や巻き込まれた民間人、牛馬の死体があちこちに転がり、悲惨な状態になった。ロンメルの戦友も数人戦死し、彼はずいぶん落胆したという<ref>[[#ピムロット|ピムロット、p.24-25]]</ref>。

==== フランス領での激戦と負傷 ====
ロンメルはその後も胃痛が治まらなかったが、上官に体調の不良は訴えなかった<ref name="ヤング42"/><ref name="山崎53">[[#山崎|山崎、p.53]]</ref>。

第124歩兵連隊は国境を超えてフランス領へ侵攻し、[[ムーズ川]]ほとりの町[[デュン]]([[:fr:Dun-sur-Meuse|fr]])に到着([[ヴェルダン]]から北28キロほど)。ムーズ川[[渓谷]]での激戦に参加した<ref name="山崎53"/>。ムーズ川は天然の要塞であり、フランス軍砲兵部隊の激しい砲火が降り注ぎ、突破するのは極めて困難だった。ロンメルの小隊が属する第7中隊の中隊長も負傷し、一時的にロンメルが中隊長代理に就任して指揮権を引き継いでいる<ref name="山崎54">[[#山崎|山崎、p.54]]</ref>。ロンメル率いる第7中隊はフランス軍砲兵陣地への攻撃に失敗して東へ逃れ、第2大隊主力を発見して合流した<ref name="山崎56">[[#山崎|山崎、p.56]]</ref>。新しい第7中隊長が決まるとロンメルは小隊長に戻った<ref name="山崎56"/>。

この頃、第124歩兵連隊への補給が途絶え、道端の草を食って飢えを凌いでいた兵士たちの中に腹痛を起こす者が続出し、連隊の戦力は大きく低下した。続いて9月12日の[[ヴェルダン]]の敵拠点への攻撃に失敗したことで連隊は大きな損害をだした<ref name="山崎56"/>。同日に連隊は回復のため後方に下げられた<ref name="山崎56"/>。その日の午後、ロンメルは疲れ切って第2大隊司令部で大隊長副官として勤務中に居眠りしてしまい、同僚や上官が起こそうとしても起きずに眠り続けたので、翌13日に目を覚ました時には上官にこっぴどく叱られたという<ref name="山崎57">[[#山崎|山崎、p.57]]</ref>。

9月22日から第124歩兵連隊は[[モンブランヴィル]]([[:fr:Montblainville|fr]])での戦闘に参加した。9月22日の戦闘では大隊長副官ロンメルの補佐により第2大隊は大きな戦果をあげた。しかし9月24日の[[ヴァレンヌ=アン=アルゴンヌ]]付近の戦闘では、[[銃剣]]術に覚えのあったロンメルはフランス兵3名に弾の入ってない銃剣で立ち向かおうとし、片足の[[腿|上腿部]]を撃ち抜かれて負傷してしまった<ref name="ヤング42"/><ref name="ピムロット27">[[#ピムロット|ピムロット、p.27]]</ref><ref name="山崎58">[[#山崎|山崎、p.58]]</ref><ref name="アーヴィング上43">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.43]]</ref>。[[カシ|樫]]の木の後ろに隠れたロンメルは、部下たちに救助されて簡易な野戦病院へと運ばれた<ref name="山崎58"/><ref name="ピムロット28">[[#ピムロット|ピムロット、p.28]]</ref>。さらに翌朝には[[ストゥネ]]([[:fr:Stenay|fr]])の将校野戦病院へ移送された<ref name="ピムロット28"/><ref name="山崎59">[[#山崎|山崎、p.59]]</ref>。9月30日に病院で[[二級鉄十字章]]の受章を受けた<ref name="Dagger"/><ref name="ピムロット28"/><ref name="山崎59"/>。

==== フランスで塹壕戦 ====
[[File:Bundesarchiv Bild 183-R33723, Frankreich, Argonnerwald, Vorgehen von Infanterie.jpg|thumb|right|250px|1915年9月、[[アルゴンヌの森]]。フランス軍塹壕へ突撃を仕掛けようと身を低くして進むドイツ軍歩兵。]]
1915年1月13日に第124歩兵連隊に復帰<ref name="アーヴィング上43"/>。この頃、ドイツ軍もフランス軍も攻撃するより攻撃してきたところを返り討ちにする方が打撃を与えやすいと判断して大規模な攻撃には出なくなり、[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]は[[塹壕戦]]による[[消耗戦]]の様相を呈していた<ref name="ピムロット36">[[#ピムロット|ピムロット、p.36]]</ref><ref name="山崎61">[[#山崎|山崎、p.61]]</ref>。第124歩兵連隊も[[アルゴンヌの森]]([[:fr:Argonne (région)|fr]])の西部で塹壕戦を展開していた<ref name="アーヴィング上43"/>。ロンメルは第2大隊隷下の第9中隊長に任じられた<ref name="山崎61"/>。

ロンメルは中隊を率いて[[匍匐]]前進しながらフランス軍の築いた[[有刺鉄線]]の[[鉄条網]]を隙間を通り抜けて進み、フランス軍主陣地に突入し、[[掩蔽部]]4か所を占領した<ref name="アーヴィング上43"/><ref name="ヤング43">[[#ヤング|ヤング、p.43]]</ref>。取り戻そうと襲撃してきたフランス軍の反撃を退けたが、結局新しい攻撃を受けるのを避けるため自軍の陣地に後退するのを余儀なくされた<ref name="アーヴィング上43"/><ref name="ヤング43"/>。しかしこの際の勇戦ぶりを評価されて1915年3月22日に[[一級鉄十字章]]を授与された<ref name="Dagger"/><ref name="アーヴィング上43"/>。第124歩兵連隊の中尉・少尉階級の者の中では初めての受章だった<ref name="アーヴィング上43"/>。

その後も第124歩兵連隊はアルゴンヌに留まったままフランス軍と消耗戦を続けた<ref name="ピムロット33">[[#ピムロット|ピムロット、p.33]]</ref><ref name="山崎65">[[#山崎|山崎、p.65]]</ref>。7月にロンメルは二度目の負傷をした。[[向こう脛]]に砲弾の破片を受けたのである<ref name="アーヴィング上43"/>。1915年9月に[[中尉]]に昇進するとともに、新たに編成される「[[ヴュルテンベルク山岳兵大隊]]」(Württembergischen Gebirgsbataillon)ヘの転属を命じられた<ref name="Dagger"/><ref name="アーヴィング上43"/><ref name="ヤング43"/><ref name="山崎65">[[#山崎|山崎、p.65]]</ref>。

==== 山岳兵大隊 ====
10月4日付けで正式に「ヴュルテンベルク山岳兵大隊」へ転属<ref name="山崎67">[[#山崎|山崎、p.67]]</ref>。同大隊の中隊長となった<ref name="クノップ25"/><ref name="アーヴィング上43"/>。これまでドイツ帝国のいずれの[[領邦]]も本格的な山岳部隊は持っておらず、急遽ドイツ帝国南部に位置する[[バイエルン王国]]と[[ヴュルテンベルク王国]]が山岳兵部隊を編成することになったのであった<ref name="山崎66">[[#山崎|山崎、p.66]]</ref>。ヴュルテンベルク山岳兵大隊は同盟国の[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の[[アルプス山脈]]で[[スキー]]訓練など受けた後、1915年12月31日に[[ヴォージュ山脈]][[ヒルツェン丘陵]]でフランス軍と戦ったが、ここはそれほど戦闘は激しくなく、ロンメルは比較的のんびりと1年ほど戦った<ref name="山崎70">[[#山崎|山崎、p.70]]</ref><ref name="ヤング44">[[#ヤング|ヤング、p.44]]</ref>。

==== ルーマニア戦線 ====
1916年10月末、山岳兵大隊は[[ルーマニア戦線]]に転戦した<ref name="アーヴィング上43"/><ref name="ヤング44"/>。同大隊は11月11日に[[レスルイ山]]の戦闘でルーマニア軍の守備隊を撃破した<ref name="山崎73">[[#山崎|山崎、p.73]]</ref>。この後、ロンメルは一時休暇をもらって大隊を離れ、1916年11月27日に[[ダンツィヒ]]においてルーツィエと簡易な結婚式をあげた<ref name="ヤング44"/><ref name="山崎73"/>。[[ハネムーン]]などはせず、すぐにルーマニア戦線に復帰した<ref name="山崎73"/>。1917年1月7日にロンメルが率いる中隊は[[ガジェシュチ]]村([[:ro:Găgești, Vaslui|ro]])で大戦果をあげ、360人ものルーマニア兵を捕虜にした<ref>[[#山崎|山崎、p.73-74]]</ref>。

1917年1月中旬に山岳兵大隊はルーマニア戦線からヒルツェン丘陵へ戻り、フランス軍と戦った。しかし7月末には再びルーマニア戦線に送られた<ref name="アーヴィング上44">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.44]]</ref><ref name="山崎75">[[#山崎|山崎、p.75]]</ref>。[[コスナ山]](mt.Cosna)に強固な要塞を作っていたルーマニア軍と激闘になった。8月10日には弾丸が左腕を貫通するという三度目の負傷をした。しかし彼は構わず戦闘に参加し続けた<ref name="アーヴィング上44"/><ref>[[#山崎|山崎、p.76-78]]</ref>。傷口を放置したせいで高熱にうなされたが、彼はベッドの中から命令を発し続けたという<ref name="山崎79">[[#山崎|山崎、p.79]]</ref>。ロンメル初め山岳兵大隊は奮戦したが、コスナ山を占領することはできず、8月25日に山岳兵大隊は第11予備歩兵連隊と交替することとなり、後方に下げられた<ref name="山崎79">[[#山崎|山崎、p.79]]</ref>。

負傷した腕の傷のために一月ほど休養に入り、妻ルーツィエと楽しい時間を過ごした<ref name="山崎80">[[#山崎|山崎、p.80]]</ref>。

===== イタリア戦線 =====
[[ファイル:Pour le mérite Neilebock.jpg|thumb|right|140px|プール・ル・メリット勲章]]
[[ファイル:Pour le mérite Neilebock.jpg|thumb|right|140px|プール・ル・メリット勲章]]
ヴュルテンベルク山岳兵大隊は1917年9月26日に北部[[イタリア戦線 (第一次世界大戦)|イタリア戦線]]に動員された<ref name="アーヴィング上44">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.44]]</ref>。ロンメルは1917年10月上旬にイタリアで戦う山岳兵大隊に復帰し<ref name="山崎81">[[#山崎|山崎、p.81]]</ref>、山岳三個中隊と機関銃一個中隊からなる任務部隊司令官に任じられた<ref name="山崎82">[[#山崎|山崎、p.82]]</ref>。
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-1987-0313-503, Goslar, Hitler schreitet Ehrenkompanie ab.jpg|thumb|180px|[[1934年]][[9月30日]]、中央左がロンメル]]
[[第一次世界大戦]]中、ロンメルはルーマニア、イタリア、フランスの各戦線に従軍し3度の負傷で一級および二級[[鉄十字|鉄十字章]]を受章した。さらに彼はイタリア北東部の[[カポレットの戦い]]で3000名のイタリア軍捕虜を得る著しい功績を挙げ[[1917年]]12月に最高位の[[プール・ル・メリット勲章]]を受章し、その年の最年少受章者となった。[[1915年]]に彼は[[中尉]]に昇進した。彼は身体強壮で優秀な士官であったが、「自らができるからという理由で、誰にでもそれを要求する」ことはしなかった。


[[カポレットの戦い]]の戦いにおいてドイツ第14軍司令官[[オットー・フォン・ベロウ]]は戦略的要衝である1114高地と[[マタイユール山]]([[:it:Matajur|it]])を最初に占領した部隊の指揮官には[[プール・ル・メリット勲章]]を与えると布告した<ref name="山崎86">[[#山崎|山崎、p.86]]</ref>。これは1667年制定の由緒ある戦功勲章でドイツ帝国一般軍人の事実上の最高武勲であった。これにより各部隊の指揮官の競争が凄まじいことになった<ref name="アーヴィング上45">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.45]]</ref>。ロンメルは自分の名誉欲で部下を犠牲にするような男ではなかったが、名誉に関心がないわけでもなかった<ref name="山崎86"/>。ロンメルはマタイユール山の攻略を狙い、ついにここを占領することに成功した<ref name="山崎87">[[#山崎|山崎、p.87]]</ref>。イタリア兵が異常に無気力だったこともあって、500人のロンメルの任務部隊は、9,000人のイタリア兵を捕虜とした<ref name="山崎88">[[#山崎|山崎、p.88]]</ref>。ところがマタイユール山と間違えて別の山を占領した[[ヴァルター・シュニーバー]]中尉が「マタイユール山を占領した」と第14軍司令部に報告していたため、ベロウ将軍は[[ドイツ皇帝|カイザー]]・[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]にシュニーバー中尉を推挙し、結果彼がマタイユール山占領の功績でプール・ル・メリット勲章を受章することになった<ref name="山崎88">[[#山崎|山崎、p.88]]</ref>。ロンメルはこれに激怒して正式に上官に抗議したが、決定は覆せないと認められなかったという<ref name="アーヴィング上47">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.47]]</ref><ref name="山崎88"/>。
第一次大戦後、[[ヴェルサイユ条約]]により10万人に限定された陸軍に選ばれ、残留したエルヴィンは[[ドレスデン]]歩兵学校([[1929年]] - [[1933年]])、[[ポツダム]]歩兵学校([[1935年]] - [[1938年]])の教官を務めた。


しかしまだイタリアとの戦争は続いており、チャンスはあった。ロンメルは退却するイタリア軍の追撃戦で活躍し、[[ロンガローネ]]のイタリア軍基地への攻撃において勇戦し、やはり無気力なイタリア兵を8000名も捕虜にした<ref name="アーヴィング上50">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.50]]</ref>。この結果、1917年12月13日にヴィルヘルム2世はついにロンメルにたいして[[プール・ル・メリット勲章]]の受章を認めた。受章理由にはマタイユール山奪取とロンガローネの戦いの勇戦、どちらもあげられていた。しかしロンメルはマタイユール山奪取の功績でプール・ル・メリット勲章を手に入れたと主張していた<ref name="アーヴィング上50">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.50]]</ref>。
[[プール・ル・メリット勲章]]を受章した山岳戦の経験を著した『歩兵攻撃(''Infanterie greift an'')ISBN 978-1-85367-707-6』は[[1937年]]に出版され、50万部を売り切るベストセラーとなる。[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]はそれを高く評価した。


==== 一次大戦末期 ====
[[1938年]]には大佐に昇進、[[ウィーン]]郊外の[[マリア・テレジア]]女王の名を冠する[[陸軍士官学校]]校長に任命された。[[1939年]]には総統警護大隊(Führer-Begleitbataillon、FHQ)の指揮官に任命されて、[[ポーランド侵攻]]では前線近くに停められた総統専用列車「アメリカ」の警備にあたった。ロンメルは[[ポーランド侵攻]]前の[[8月1日]]に遡及して[[少将]]に昇進した。
その後1918年2月に西部戦線へ転戦したが、まもなく幹部候補の一人として第64軍団司令部に参謀として配属されることとなった<ref name="クノップ27">[[#クノップ|クノップ、p.27]]</ref><ref name="山崎90">[[#山崎|山崎、p.90]]</ref>。以降一次大戦中は敗戦まで前線に戻る事はなかった。1918年10月18日に[[大尉]]に昇進した<ref name="クノップ27"/><ref name="山崎90"/>。


1918年11月初めに[[キール]]の水兵の反乱を機にドイツ全土に反乱が広がり([[ドイツ革命]])、カイザー・ヴィルヘルム2世は11月10日に[[オランダ]]へ亡命、翌11日には[[ドイツ社会民主党]]の主導する新ドイツ共和国政府が[[パリ]]の[[コンピエーニュの森]]で連合国と休戦協定の調印を行った<ref>[[#阿部|阿部、p.43-44]]</ref>。第一次世界大戦はここに終結した。
ポーランド戦の最中、ロンメルはヒトラーに前線勤務を志願した。ヒトラーはそれを受け入れ、ポーランド戦後に新編成された第7装甲師団の師団長に任命される。

=== ヴァイマル共和政期 ===
ロンメルは、1918年12月21日に古巣の第124歩兵連隊に再配属された<ref name="山崎96">[[#山崎|山崎、p.96]]</ref><ref name="ヤング62">[[#ヤング|ヤング、p.62]]</ref>。1919年3月には[[フリードリヒスハーフェン]]の第32国内保安中隊の指揮官に就任。この部隊には革命派の兵士が多く、彼らは上官ロンメルの命令を平気で無視し、プール・ル・メリット勲章にもまるで敬意を払おうとしなかったというが、ロンメルの人格によってまとめ上げられ、部隊は規律を回復したという<ref name="ヤング62"/><ref name="ピムロット54">[[#ピムロット|ピムロット、p.54]]</ref><ref>[[#山崎|山崎、p.96-97]]</ref>。

敗戦国ドイツへの責任追及は過酷を極めた。1919年6月28日にドイツと連合国の間に締結された[[ヴェルサイユ条約]]によって1320億マルク(現在の日本の金銭価値で約40兆円)という天文学的賠償金(また加えて1年ごとに20億マルクの利子と26%の輸出税)が課せられた。またドイツの国境付近の領土は次々と周辺国に奪われ、ドイツの領土は大きく縮小した。ドイツ軍については陸軍兵力を小国並みの10万人(将校4000人)に限定され、戦車、潜水艦、軍用航空機など近代兵器の保有も全て禁止された<ref name="阿部57">[[#阿部|阿部、p.57]]</ref><ref name="山崎95">[[#山崎|山崎、p.95]]</ref><ref name="ヤング64">[[#ヤング|ヤング、p.64]]</ref>。1919年7月31日には[[ヴァイマル]]で開かれた[[国会 (ドイツ)|国会]]で[[ヴァイマル憲法]]が採択され、ドイツは民主国家となった。所謂「[[ヴァイマル共和国]]」の時代が始まった。

ちなみに将校4000人という制限は、軍に残る事を希望するドイツ帝国将校6人のうち1人だけが[[ヴァイマル共和国軍|ヴァイマル共和国陸軍]]に残れるという倍率をもたらした<ref name="山崎97">[[#山崎|山崎、p.97]]</ref>。そしてロンメルはヴァイマル共和国陸軍将校に選び残された者の一人であった<ref name="ピムロット53">[[#ピムロット|ピムロット、p.53]]</ref>。

この後、9年ほど[[シュトゥットガルト]]の第13歩兵連隊に所属し、1924年からは同連隊の機関銃中隊長となった<ref name="アーヴィング上53">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.53]]</ref><ref name="クノップ29">[[#クノップ|クノップ、p.29]]</ref><ref name="山崎98">[[#山崎|山崎、p.98]]</ref>。この間、特筆すべきことはほとんどないが、1928年12月には長男の[[マンフレート・ロンメル|マンフレート]]が生まれている<ref name="山崎98"/><ref name="アーヴィング上54">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.54]]</ref><ref name="ヤング68">[[#ヤング|ヤング、p.68]]</ref>。

1929年10月1日に[[ドレスデン]]歩兵学校の教官に任じられた<ref name="アーヴィング上54"/><ref name="ヤング69">[[#ヤング|ヤング、p.69]]</ref>。数多くの実戦経験を持つロンメルの講義は生徒たちに人気があったという<ref name="アーヴィング上55">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.55]]</ref><ref name="ピムロット56">[[#ピムロット|ピムロット、p.56]]</ref><ref name="山崎101">[[#山崎|山崎、p.101]]</ref>。

=== ナチ党政権下 ===
[[1933年]][[1月30日]]に[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)[[党首]][[アドルフ・ヒトラー]]が[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]][[ドイツの大統領 (ヴァイマル共和政)|大統領]]より[[ドイツ国首相]]に任命された<ref name="阿部213">[[#阿部|阿部、p.213]]</ref>。ロンメルはこれまで政治にはほとんど関わらなかったが<ref name="ヤング70">[[#ヤング|ヤング、p.70]]</ref><ref name="山崎104">[[#山崎|山崎、p.104]]</ref>、他の多くのドイツ軍人達と同様にヒトラーの登場には熱狂し、彼の[[反共主義]]と[[軍拡]]の[[イデオロギー]]を歓迎した<ref name="クノップ31">[[#クノップ|クノップ、p.31]]</ref><ref name="ピムロット60">[[#ピムロット|ピムロット、p.60]]</ref><ref>[[#山崎|山崎、p.104-105]]</ref><ref name="ヤング71">[[#ヤング|ヤング、p.71]]</ref>。

[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-1987-0313-503, Goslar, Hitler schreitet Ehrenkompanie ab.jpg|thumb|250px|[[1934年]][[9月30日]]、収穫祭で[[ゴスラー]]を訪れたヒトラーがロンメル少佐の大隊を閲兵する。中央左がロンメル。二人はこの時に初めてであった。]]
1933年[[10月10日]]に[[少佐]]に昇進するとともに[[ゴスラー]]に駐屯する第17歩兵連隊の第3大隊長に任じられた<ref name="Dagger"/><ref name="ヤング69"/><ref name="クノップ30">[[#クノップ|クノップ、p.30]]</ref><ref name="ピムロット57">[[#ピムロット|ピムロット、p.57]]</ref>。1934年[[9月30日]]に収穫祭のためにヒトラーがゴスラーを訪問した<ref name="アーヴィング上58">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.58]]</ref>。この時にロンメルの大隊はヒトラーを出迎える[[儀仗兵]]の任につき、ロンメルとヒトラーが初めて対面することとなった<ref name="アーヴィング上58">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.58]]</ref><ref name="ピムロット58">[[#ピムロット|ピムロット、p.58]]</ref>。もっともこの時にロンメルが公的な関係以上に何か特別に扱われたという形跡はない<ref name="ピムロット58"/>。またロンメルがヒトラーについてどう感じたかを示す証拠もない<ref name="アーヴィング上58"/>。ただこの閲兵式の直前にロンメルは、警護問題をめぐって[[親衛隊 (ナチス)|SS]]と言い争ったという{{#tag:ref|「閲兵式においても警護のため[[親衛隊 (ナチス)|SS]]部隊が最前列になるべきである」と主張したSS隊員にロンメルは激怒して、「ならば私の大隊は閲兵式には出席しない」と言い返して騒ぎになり、ヒトラーに随伴していた[[親衛隊全国指導者]][[ハインリヒ・ヒムラー]]から直接に「部下の非礼を詫びたい」と謝罪を受けたという<ref name="山崎104"/><ref name="クノップ30"/>。|group=#}}。

1935年3月1日に[[中佐]]に昇進した<ref name="Dagger"/>。1935年10月15日に新設された[[ポツダム]]歩兵学校の教官に任じられた<ref name="アーヴィング上59">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.59]]</ref><ref name="山崎106">[[#山崎|山崎、p.106]]</ref><ref name="ヤング73">[[#ヤング|ヤング、p.73]]</ref>。この学校でもロンメルは非常に好感をもたれる教官であったという<ref name="アーヴィング上59">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.59]]</ref>。

1936年9月の[[ニュルンベルク党大会]]でヒトラーの護衛部隊(Führer-Begleitbataillon、FHQ)の指揮官に任じられた<ref name="ピムロット58"/><ref name="アーヴィング上63">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.63]]</ref>。この時にロンメルは「私の後ろについてくる車は6台に限定せよ」という総統命令を厳守し、ヒトラーに随伴しようと押し寄せてくる党幹部の車を押し止めた。この件でヒトラーはロンメルに注目するようになったという<ref name="アーヴィング上63">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.63]]</ref>。

しかしヒトラーがロンメルを決定的に評価するようになったのは、1937年初期にロンメルが[[フォッゲンライター出版社]]から『歩兵攻撃(''Infanterie greift an'')ISBN 978-1-85367-707-6』を出版したことだった<ref name="アーヴィング上63"/><ref name="山崎109">[[#山崎|山崎、p.109]]</ref>。これはロンメルが教官として行った講義をまとめた物であり、ロンメルの一次大戦での経験が分かりやすい文章と挿絵付きで書かれていた<ref name="ヤング69"/><ref name="山崎109"/>。この本は50万部を売り切る[[ベストセラー]]となり<ref name="山崎109"/><ref name="クノップ32">[[#クノップ|クノップ、p.32]]</ref>、各方面からの高評価を受け、一次大戦で歩兵だったヒトラーも自分の経験に照らし合わせてこの本を激賞した<ref name="アーヴィング上63"/><ref name="クノップ32"/><ref name="山崎117">[[#山崎|山崎、p.117]]</ref><ref name="ヤング80">[[#ヤング|ヤング、p.80]]</ref>。なおロンメルはこの本の[[印税]]に関してフォッゲンライター出版社と結託して[[脱税]]をした{{#tag:ref|ロンメルは『歩兵攻撃』によって巨額の[[印税]]を得ていたが、この際にロンメルはフォッゲンライター出版社と結託して、1年間の生活に必要な1万5000[[ライヒスマルク]]だけを自分に支払わせ、残りは[[銀行]][[預金]]にして寝かせ、税務署への所得申告において軍から支給されている給料以外の所得を1万5000ライヒスマルクと偽って申告した<ref name="アーヴィング上64">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.64]]</ref><ref name="山崎110">[[#山崎|山崎、p.110]]</ref>。|group=#}}。

1937年2月にロンメルはナチ党の[[ヒトラー・ユーゲント]]に国防省連絡将校として派遣された<ref name="ピムロット58">[[#ピムロット|ピムロット、p.58]]</ref><ref name="山崎111">[[#山崎|山崎、p.111]]</ref>。ロンメルは[[ドイツ国防軍|国防軍]]の下級将校の指導による軍事教練をユーゲント団員に施すことを企図し、全国青少年指導者[[バルトゥール・フォン・シーラッハ]]との折衝にあたったが、ユーゲントの指導権を軍に奪われることを恐れるシーラッハはこれに反対し続けた<ref name="ピムロット59">[[#ピムロット|ピムロット、p.59]]</ref><ref name="山崎112">[[#山崎|山崎、p.112]]</ref>。ロンメルとシーラッハの関係は悪くなる一方で二人は劇場での席次など些細なことでも争う様になった<ref name="山崎112"/><ref name="アーヴィング上66">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.66]]</ref>。1937年8月1日には大佐に昇進した<ref name="山崎112"/>。

シーラッハとの衝突にも関わらず、ヒトラーのロンメルへの信任は失せなかった。1938年9月に[[ズデーテン併合]]にあたってヒトラーはロンメルを再び総統護衛部隊隊長に任じ、自らの護衛を任せた<ref name="ピムロット59"/><ref name="アーヴィング上66"/><ref name="山崎113">[[#山崎|山崎、p.113]]</ref>。この頃にはロンメルは完全なヒトラー支持者になっていた<ref name="アーヴィング上66"/><ref name="山崎114">[[#山崎|山崎、p.114]]</ref>。彼の妻への手紙もヒトラー讃美がどんどんエスカレートしている。「(ヒトラーは)ドイツ国民を太陽の下へ導きあげるべく、神、あるいは天の摂理によって定められている」と書いている<ref name="クノップ32"/>。彼は友人への個人的な手紙にさえ文末に「[[ハイル・ヒトラー]]、敬具、E・ロンメル」と記すようになっていた<ref name="アーヴィング上66"/><ref name="山崎114"/><ref name="山崎120"/><ref name="クノップ33">[[#クノップ|クノップ、p.33]]</ref>。ヒトラーにとってもロンメルはお気に入りの将校だった<ref name="山崎117">[[#山崎|山崎、p.117]]</ref>。ロンメルは貴族階級出身の将校ではなく、そうした貴族将校たち特有の平民出のヒトラーを見下したような態度がなかったこともヒトラーの好感につながったと思われる<ref name="ピムロット62">[[#ピムロット|ピムロット、p.62]]</ref><ref name="ヤング92">[[#ヤング|ヤング、p.92]]</ref>。

1938年11月10日には[[ウィーン]]郊外の[[ヴィーナー・ノイシュタット]]の士官学校の校長に任じられた<ref name="ピムロット59"/><ref name="山崎114"/><ref name="アーヴィング上67">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.67]]</ref><ref name="ヤング79">[[#ヤング|ヤング、p.79]]</ref>。ロンメルはこの学校をドイツ、そしてヨーロッパでもっとも近代化されている士官学校にしようと張り切っていたが、ヒトラーの警護隊長にしばしば任じられたため、彼はあまりこの学校にいなかった<ref name="アーヴィング上67"/><ref>[[#クノップ|クノップ、p.32-33]]</ref>。

[[1939年]]3月15日に[[チェコスロバキア併合]]があると、ヒトラーは再びロンメルを総統警護部隊の指揮官に任じて、自分の警護にあたらせた<ref name="アーヴィング上67">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.67]]</ref>。チェコはオーストリアやズデーテンと違い、ドイツ系が少ないため、ヒトラーが出向いても歓迎されるとは思えなかった。暗殺の危険も大きかった。ヒトラーがロンメルに「大佐、貴官が私の立場なら、どうするかね?」と聞くと、ロンメルは「オープンカーに搭乗し、重武装の護衛無しで[[プラハ城]]まで乗り込み、ドイツのチェコスロバキア統治が始まったことを内外に向けて示します」と答えた<ref name="山崎117">[[#山崎|山崎、p.117]]</ref><ref name="ヤング83">[[#ヤング|ヤング、p.83]]</ref>。ヒトラーは、他の者たちの反対を押し切って、ロンメルの意見を容れ、ロンメルたちを護衛に付けたのみで無事にプラハ城に乗り込んでいる<ref name="クノップ33"/><ref name="ヤング83"/><ref name="山崎118">[[#山崎|山崎、p.118]]</ref>。続く3月23日の[[メーメル返還]]でヒトラーが[[メーメル]]へ向かった時にもロンメルは総統警護大隊の隊長を務めた<ref name="アーヴィング上67"/><ref name="山崎120">[[#山崎|山崎、p.120]]</ref>。

1939年8月1日に[[少将]]に昇進した。6月1日に遡及しての昇進である事を認められた<ref name="山崎120"/><ref name="アーヴィング上70">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.70]]</ref>。これはロンメルを寵愛するヒトラーの特別な決定によるものである<ref name="山崎120"/><ref name="アーヴィング上70"/>。ロンメルは妻への手紙で「私が聞き知ったところによると先の昇進はひとえに総統のおかげだ。私がどれほど喜んでいるか、お前にも分かるだろう。私の行動とふるまいを総統に承認していただく事が私の最高の望みなのだ。」と書いている<ref name="クノップ33">[[#クノップ|クノップ、p.33]]</ref>。

ヒトラーの寵愛は続いた。1939年8月22日を以ってヴィーナー・ノイシュタットの士官学校の校長職を辞し、8月25日に「[[総統大本営]]管理部長」に任じられた<ref name="アーヴィング上70"/>。これまでのような期間限定の警護隊長ではなく、常時ヒトラーの警護を行うこととなった<ref name="山崎120"/>。


=== 第二次世界大戦 ===
=== 第二次世界大戦 ===
==== ポーランド侵攻 ====
[[File:Bundesarchiv Bild 101I-013-0064-35, Polen, Bormann, Hitler, Rommel, v. Reichenau.jpg|thumb|250px|1939年9月、対ポーランド戦中のヒトラーの前線視察。ヒトラーに警護責任者として同伴するロンメル少将(ヒトラーの右)。]]
1939年9月1日にドイツ軍の[[ポーランド侵攻]]、続く英仏のドイツへの宣戦布告をもって[[第二次世界大戦]]が開戦した。ロンメルは熱狂をもって戦争を迎えた。妻に「君は9月1日のこと、つまりヒトラーの(ポーランドとの開戦を発表する国会での)演説をどう思うかな?我々がこのような人物を持っている事は実にすばらしいではないか。」と書き送っている<ref name="アーヴィング上72">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.72]]</ref>。彼は一次大戦の敗戦でポーランドに奪われた[[ポーランド回廊]]と[[自由都市ダンツィヒ|国連の管理下に置かれたダンツィヒ]]をドイツの手に取り戻す必要性を感じていた<ref name="ヤング85">[[#ヤング|ヤング、p.85]]</ref>。

総統大本営管理部長としてヒトラーの警護に責任を負うロンメルは、総統専用列車「アメリカ」に乗って前線視察に出たヒトラーに同伴してポーランドへ向かった。ヒトラーはポーランド戦中、3週間も前線視察に出ていた<ref name="アーヴィング上72"/>。なおヒトラーがポーランドの港町[[グディニャ]]を訪れた際にロンメルは[[マルティン・ボルマン]]と揉めたという{{#tag:ref|総統大本営管理部長としてヒトラーの警護に責任を負うロンメルは、ヒトラーの[[グディニャ]]視察の際に急な下りで幅が狭い街路に通りかかると「総統の車と警護の車一車両のみが下るものとする!他はここで待て!」と指示した。しかし総統の側近である[[マルティン・ボルマン]]はヒトラーと切り離されることに激怒し、ロンメルに抗議を行ったが、ロンメルは「私は総統大本営管理部長だ。これ遠足じゃない。貴方も私の指示に従っていただく!」と言い返してボルマンの車を通過させる事を拒否したという。ボルマンはこの事を執念深く覚えており、5年後にロンメルに復讐することになる<ref name="アーヴィング上74">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.74]]</ref>。|group=#}}。

1939年10月5日に[[ワルシャワ]]でヒトラー出席のドイツ軍の戦勝祝賀式典が行われることになり、ロンメルは10月2日にワルシャワに入り、会場とその周辺に警備上の問題がないかの視察を行った<ref name="山崎126">[[#山崎|山崎、p.126]]</ref>。10月5日の戦勝祝賀式典ではヒトラーの隣に立つロンメルの姿が映像に残っている<ref name="アーヴィング上75">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.75]]</ref>。

ヒトラーもロンメルもポーランドを落とせば英仏は講和を申し出てくると思っていた([[まやかし戦争|実際に英仏は宣戦布告してきただけでポーランド戦中、ドイツに攻撃を行ってくる様子はほとんどなかった]])<ref name="アーヴィング上73">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.73]]</ref>。しかし英仏はポーランドが陥落してもドイツの呼びかけに歩み寄る姿勢は全く見せなかった。軍部は軍事力の上で圧倒的にドイツに勝っている英仏と戦火を交えることを嫌がっていたが<ref name="アーヴィング上75">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.75]]</ref>、ヒトラーはこうした反対を退けて[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|フランス侵攻]]を決意した<ref name="アーヴィング上76">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.76]]</ref>。

ポーランド戦後、[[ベルリン]]で退屈な日々を送ることになっていたロンメルは<ref name="アーヴィング上75"/>、来るフランス戦では前線勤務をしたいと志願した<ref name="山崎128">[[#山崎|山崎、p.128]]</ref>。陸軍人事部長は一次大戦での彼の経験に基づき山岳師団師団長をロンメルに提示したが、ロンメルはヒトラーに装甲師団の指揮を取りたいと求めた。陸軍人事部長は歩兵科のロンメルに装甲師団を任せることに反対していたが、ヒトラーの介入で装甲師団の指揮を許可された<ref name="アーヴィング上77">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.77]]</ref>。

こうして1940年2月15日にロンメルは新編成された第7装甲師団の師団長に任命されることとなった<ref name="ピムロット62"/><ref name="ヤング92">[[#ヤング|ヤング、p.92]]</ref>。

==== フランス侵攻 ====
==== フランス侵攻 ====
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 146-1970-076-43, Paris, Erwin Rommel bei Siegesparade.jpg|thumb|180px|1940年6月、[[パリ]]にて]]
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[[ファイル:Rommel with his aides.jpg|thumb|180px|[[制帽]]の上にゴーグルを着用したロンメル]]
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[[ファイル:LeicaIIIC.jpg|thumb|180px|ロンメルが使用したライカIII c型]]
[[ファイル:LeicaIIIC.jpg|thumb|180px|ロンメルが使用したライカIII c型]]
*小学生のころ勉学に不熱心だった彼に教師が「ロンメルが書き取りで満点をとったら、楽隊と一緒に遠足をしよう」と言ったのを真に受けて満点を取ったが、約束が果たされないと元の不熱心な子供に戻ったという。
*「歩兵攻撃」の印税は、版元と共謀して架空名義の銀行口座に移して脱税していた(山崎雅弘「ロンメル戦記」)
*ロンメルは北アフリカ戦線のリビアでの戦いの際に捕獲した英軍の[[ゴーグル]]を好んで着用し、これは彼のトレードマークとなった。しばしばゴーグル自体が防塵用であるかのように言われるが、正確には英軍の[[ガスマスク]]の付属品である「''Anti-Gas Eye Shield “Mk II"''」という防毒ゴーグルである。このゴーグルは、ロンメルが戦場から持ってきた最初で最後の戦利品であった。
*ロンメルは北アフリカ戦線のリビアでの戦いの際に捕獲した英軍の[[ゴーグル]]を好んで着用し、これは彼のトレードマークとなった。しばしばゴーグル自体が防塵用であるかのように言われるが、正確には英軍の[[ガスマスク]]の付属品である「''Anti-Gas Eye Shield “Mk II"''」という防毒ゴーグルである。このゴーグルは、ロンメルが戦場から持ってきた最初で最後の戦利品であった。
*戦時中においても妻と手紙による交流を欠かさず、週に毎日手紙を交わす時もあった。内容は日常的なものから戦況や同盟軍に対する不満まで書き綴っていた。その手紙は現在でも保管されている。
*戦時中においても妻と手紙による交流を欠かさず、週に毎日手紙を交わす時もあった。内容は日常的なものから戦況や同盟軍に対する不満まで書き綴っていた。その手紙は現在でも保管されている。
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
{{参照方法}}
{{参照方法}}
*{{Cite book|和書|author=[[ディヴィッド・アーヴィング]]|translator=[[小城正]]|year=[[1984年]]|title=狐の足跡〈上〉―ロンメル将軍の実像|publisher=[[早川書房]]|asin=B000J77A3E|ref=アーヴィング上}}
=== 回想録 ===
*{{Cite book|和書|author=ディヴィッド・アーヴィング|translator=小城正|year=1984年|title=狐の足跡〈下〉―ロンメル将軍の実像|publisher=早川書房|asin=B000J77G74|ref=アーヴィング下}}
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*{{Cite book|和書|author=マーチン・ファン・クレフェルト|translator=[[佐藤佐三郎]]|year=[[2006年]]|title=補給戦―何が勝敗を決定するのか|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=978-4122046900|ref=クレフェルト}}
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**{{Cite book|和書|author=ヴァルター・ゲルリッツ|translator=守屋純|year=2000年|title=ドイツ参謀本部興亡史 下(上記の文庫版)|publisher=[[学研M文庫]]|isbn=978-4059010180|ref=ゲルリッツ文庫下}}
*{{Cite book|和書|editor=[[リデル・ハート]]|translator=[[小城正]]|year=[[1971年]]|title=ドキュメント ロンメル戦記|publisher=[[読売新聞社]]|asin=B000J9FKG6|ref=ハート}}
*{{Cite book|和書|author=[[ジョン ピムロット]]|translator=[[岩崎俊夫]]|year=[[2000年]]|title=ロンメル語録―諦めなかった将軍|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=978-4120029912|ref=ピムロット}}
*{{Cite book|和書|author=[[アラン・ムーアヘッド]]|translator=[[平井イサク]]|year=[[1968年]]|title=砂漠の戦争―北アフリカ戦線1940-1943|publisher=[[早川書房]]|asin=B000JA4XMM|ref=ムーアヘッド}}
**{{Cite book|和書|author=[[アラン・ムーアヘッド]]|translator=[[平井イサク]]|year=[[1977年]]|title=砂漠の戦争(上記の文庫版)|publisher=[[ハヤカワ文庫]]|isbn=978-4150500085|ref=ムーアヘッド文庫}}
*{{Cite book|和書|author=[[F.W.フォン・メレンティン]]|translator=[[矢嶋由哉]]・[[光藤亘]]|year=[[1981年]]|title=ドイツ戦車軍団全史:フォン・メレンティン回想録|publisher=[[朝日ソノラマ]]|asin=B000J82VAA|ref=メレンティン}}
*{{Cite book|和書|author=[[山崎雅弘]]|year=[[2009年]]|title=ロンメル戦記|publisher=[[学研M文庫]]|isbn=978-4059012481|ref=山崎}}
*{{Cite book|和書|author=[[デズモント・ヤング]]|translator=[[清水政二]]|year=[[1969年]]|title=ロンメル将軍|publisher=[[月刊ペン社]]|asin=B000J9H39I|ref=ヤング}}
**{{Cite book|和書|author=デズモント・ヤング|translator=清水政二|year=[[1978年]]|title=ロンメル将軍(上記の文庫版)|publisher=[[ハヤカワ文庫]]|asin=B000J8NYIS|ref=ヤング文庫}}
*{{Cite book|和書|author=[[フリートリッヒ・ルーゲ]]|translator=[[加登川幸太郎]]|year=[[1985年]]|title=ノルマンディーのロンメル|publisher=[[朝日ソノラマ]]|isbn=978-4257170648|ref=ルーゲ}}


=== 戦史研究者 ===
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
*[[パウル・カレル]](著)、[[松谷健二]](訳)、『砂漠のキツネ』、[[フジ出版社]]、1969年、[[中央公論新社]]、1998年、ISBN 4120028291
{{Reflist|group=#}}
*リデル・ハート(編)、小城正(訳)、『ロンメル戦記(原題:The Rommel Papers)』、[[読売新聞社]]、1971年
*Warren Tute(著)、''The North African War'', Sidewick & Jackson, ISBN 0-283-98240-3, 1976
*[[アラン・ムーアヘッド]](著)、[[平井イサク]](訳)、『砂漠の戦争』、[[早川書房]]、1977年、ISBN 4-15-050008-8
*[[デイヴィット・アーヴィング]](著)、[[小城正]](訳)、『狐の足跡-ロンメル将軍の実像-(上)(下)』、早川書房、1984年
*[[マーチン・ファン・クレフェルト]](著)、[[佐藤佐三郎]](訳)、『補給戦-何が勝敗を決定するのか』(「ロンメルは名将だったか」p.301-335)、[[中央公論新社]]、[[2006年]]、ISBN 4-12-204690-4
*A.J.Barker(著)、''Afrika Korps'', Bison Books, ISBN 0-89196-017-1, 1978
*Volkmar Kühn(著)、''Mit Rommel in der Wüste'', Motorbuch Verlag, ISBN 3-87943-369-0, 1984
*Dal McGuirk(著)、''Rommel's Army in Africa'', Motorbooks International, ISBN 0-87938-835-8, 1993
*山崎 雅弘(著)、"ロンメル戦記" (学研M文庫)ISBN 978-4-05-901248-1
* Cornelius Ryan(著)、''The Longest Day: The Classic Epic of D-Day'', Simon & Schuster, 1994, ISBN 0-671-89091-3
* Antony Beevor(著)、''D-Day: The Battle for Normandy'', Viking Adult, 2009, ISBN 0-670-02119-9


=== 写真集 ===
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
*Bruce Quarrie(著)、''Panzers in the Desert'', Patrick Stephens, 1978 ISBN 0-85059-338-7

== 名前について ==
ファーストネームのErwinは日本では「エルウィン」「エルヴィン」と表記される事が多い。より実際の発音に近く「エアヴィン」、英語読みで「アーウィン」とカタカナ表記されることもある。

姓のRommelは、実際の発音は「ロメル」に近い。

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}<div class="references-small"><references/></div>


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2010年12月15日 (水) 10:11時点における版

エルヴィン・ロンメル
Erwin Johannes Eugen Rommel
1942年
渾名 砂漠の狐
:Wüstenfuchs, :Desert Fox)
生誕 (1891-11-15) 1891年11月15日
ドイツの旗 ドイツ帝国
ヴュルテンベルク王国
ハイデンハイム
死没 (1944-10-14) 1944年10月14日(52歳没)
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国南部、ヘルリンゲン
所属組織  ドイツ帝国陸軍
(Kaiserliche Armee)
 ヴァイマル共和国軍陸軍
(Reichsheer)
 ナチス・ドイツ国防軍陸軍
(heer)
軍歴 1911 - 1944
最終階級 陸軍元帥
指揮 第7装甲師団
ドイツアフリカ軍団
戦闘 第一次世界大戦
第二次世界大戦
フランス侵攻電撃戦
北アフリカ戦線
クルセーダー作戦
ガザラの戦い
エル・アラメインの戦い
署名
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エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメル[# 1](Erwin Johannes Eugen Rommel、1891年11月15日 - 1944年10月14日)はドイツ陸軍ドイツ国防軍)の軍人である。第二次世界大戦におけるフランス、北アフリカにおける驚異的な活躍で「砂漠の狐」として知られる。

砂漠のアフリカ戦線において、巧みな戦略戦術によって戦力的に圧倒的優勢なイギリス軍をたびたび壊滅させ、英首相チャーチルに「ナポレオン以来の戦術家」とまで評された。貴族ではない、中産階級出身者初の陸軍元帥でもある。

数々の戦功だけでなく騎士道精神に溢れた行動・多才な人柄・SS(親衛隊)ではなく国防軍であったことなどから、当時のみならず現在でも各国での評価・人気が高い将帥の一人である。

生涯

誕生

エルヴィン・ロンメルは、1891年11月15日日曜日の正午、ドイツ帝国領邦ヴュルテンベルク王国ハイデンハイム・アン・デア・ブレンツ(de)において生まれた[1][2][3][4]。この町はウルム郊外の町である[2][4][5]

父はハイデンハイムの実科ギムナジウム(Realgymnasium)の数学教師エルヴィン・ロンメル(ロンメルは父の名前をそのまま与えられた)[2][4][6]。その父(ロンメルの祖父)も教師だった[4][7]。父も祖父も多少だが数学者として名の知れた人物であり[2][4]、地元ハイデンハイムではかなり尊敬されていた人物であった[8]

母はヘレーネ・ロンメル。ヴュルテンべルク王国政府の行政区長官で地元の名士であるカール・フォン・ルッツの娘である[2][6][7][8]

父母ともにプロテスタントだった[9]

兄にマンフレート、姉にヘレーネ、弟にカールとゲルハルトがいた[2][6][8][10]。兄のマンフレートは幼いころに死去した[2][6][8]

父は若いころに砲兵隊にいたことがあるが、それ以外にはロンメル家は軍隊とほとんど関係がなかった。軍部への有力な縁故も皆無だった[11]。また教養市民階級出身という彼の出自は貴族主義的なドイツ陸軍において有利なスタート地点であったとはいえない[12]

幼少・少年期

子供の頃のロンメルは病気勝ちでおとなしかったという[2][13]。姉ヘレーネによるとロンメルは色白で髪の色も薄かったので、家族から「白熊ちゃん」とあだ名されていたという[2][8]。しかしロンメル本人は人事記録の中に挟んだ覚書の中で「幼い頃、自分の庭や大きな庭園で走り回って遊ぶことができたので、とても幸せだった」と述懐している[9]

1898年に父がアーレンの実科ギムナジウムの校長となる[8][14][15]。一家はアーレンに引っ越したが、アーレンには小学校(Volksschule)がなかったため、ギムナジウムに入学するまで家庭教師から授業を受けていた[14]1900年に父親が校長を務める実科ギムナジウムに入学した[14]。はじめギムナウジムでは劣等生だった[13][14]。怠け者で注意散漫だったという[13][14][# 2]。読書にも運動にも興味がない子供だったが、10代になると突然活発になった[13][14]。数学の成績が良くなり、スポーツにも関心を持つようになった[14][16][17]。また飛行機の研究に夢中になり、14歳のころには親友と二人で実物大のグライダーを作成した[7][11][14][18]。結局まともには飛ばなかったが、1906年ヨーロッパで初めて動力を備えた飛行機が飛行したばかりだということを考えると大したものだった[7]

ロンメルは航空機関連のエンジニアになることを希望していたが、父親が反対し、ヴュルテンべルク王国軍に入隊することになった[7][19]。軍に入ることについて本人はあまり乗り気でなかったらしい[10][18]

軍人に

1910年7月19日ヴァインガルテン(de)に駐留するヴュルテンベルク王国陸軍第6歩兵連隊「ケーニヒ(国王)・ヴィルヘルム1世」(ドイツ帝国陸軍第124歩兵連隊)(de)に下級士官候補生(Fahnenjunker)として入隊[10][12][20][21][22][23]。下士官として半年の部隊勤務[# 3]を経た後、1911年3月にプロイセン王国ダンツィヒの王立士官学校に進んだ[23][25]。士官学校在学中に後に妻となるダンツィヒに語学の勉強に来ていたルーツィエ・マリア・モーリン(Lucia Maria Mollin)と出会った[12][23][25][26]。士官学校卒業後もルーツィエと手紙で連絡を取り合い、二人は1916年に結婚した[27]1928年に息子のマンフレートが生まれ、彼は戦後シュトゥットガルトの市長を長年務めている[28]

1912年1月27日少尉(Leutnant)に任官し、第124歩兵連隊に戻った[12][20][26][29][30]。ロンメルは新兵の訓練を担当した[12][27]

1913年にヴァルブルガ・シュテマー(Walburga Stemmer)との間に私生児の娘ゲルトルートをもうけた。生活費を送る代わりに表沙汰にしないことで合意した[31]。のちにロンメルは妻のルーツィエにこの「過ち」の許しを乞うた[31]

1914年3月に第124歩兵連隊と同じく第27歩兵師団の指揮下であるウルム駐留のヴュルテンブルク王国陸軍第3野戦砲兵連隊(ドイツ帝国陸軍第49野戦砲兵連隊)に転属となった[12][32][33]。しかし第一次世界大戦の開戦により第124歩兵連隊に復帰し、同歩兵連隊隷下の第2大隊第7中隊に所属する小隊の小隊長に就任した[34]

第一次世界大戦

初めての実戦、ブレド村での戦闘

1914年7月末から8月初めにかけて第一次世界大戦となる各国の戦闘が続々と勃発した。ドイツ軍とフランス軍は1918年8月3日に開戦した[35]。ロンメル少尉の所属する第124歩兵連隊は、第5軍(司令官ヴィルヘルム皇太子)隷下の第13軍団隷下の第27歩兵師団隷下として、対フランス戦に動員された[36]

ロンメルがはじめて実戦に参加したのは8月22日午前5時頃、ベルギー南部のフランス国境付近の村ブレド(fr)だった[37][38]。この時のロンメルは前日に一日中偵察をさせられるなど疲労困憊状態で、しかも脂っこいものとパンの食い過ぎが原因で胃痛を起こしていた[37][38][39]。しかし実戦を前に前線から逃げ出そうとしている卑怯者と思われるのが嫌で上官には黙っていた[36]

銃弾が飛び交う霧の中、ロンメル率いる小隊はブレド村へ進み、ロンメル含めて4人だけで村の中に偵察に入り、フランス兵15名から20名ほどを発見した。「奇襲効果」を優先して小隊の部下を呼び集めることなく、その場にいる4人だけで攻撃を仕掛けた[40][41]。フランス兵たちは四散し、建物や物陰に隠れて応戦してきた[40][41]。そのうちの一発はロンメルの耳元をかすめた[41]。結局4人だけでは歯が立たず、ロンメルたちは退却し、村の外で待機していた小隊の部下たちと合流した[41]。ロンメルは応援を待たず、自分の小隊を二つに分けてすぐに再攻撃を行った[42]。一隊がフランス兵が隠れた建物の正面から攻撃をかけ、もう一隊は建物側面から攻撃をかけて最初の建物を制圧した[42]。続いてフランス兵の立て篭もった他の建物に次々と火を放っていった[40][42]

しかしフランス軍の抵抗も強く、ロンメルの小隊から負傷者が多数出た。またロンメルが作戦中に疲労と胃痛で数回にわたって意識を失ったので副官の軍曹が代わりに小隊の指揮を執ることがしばしばあった[42]。その後、同じ第2大隊に所属する別の小隊が応援に到着し、加えてブレド村北東325高地がドイツ軍によって占領されたことで一気に有利となり、ブレド村のフランス軍は投降した[43][44]

戦闘が終わった後のブレド村は兵士達や巻き込まれた民間人、牛馬の死体があちこちに転がり、悲惨な状態になった。ロンメルの戦友も数人戦死し、彼はずいぶん落胆したという[45]

フランス領での激戦と負傷

ロンメルはその後も胃痛が治まらなかったが、上官に体調の不良は訴えなかった[40][46]

第124歩兵連隊は国境を超えてフランス領へ侵攻し、ムーズ川ほとりの町デュン(fr)に到着(ヴェルダンから北28キロほど)。ムーズ川渓谷での激戦に参加した[46]。ムーズ川は天然の要塞であり、フランス軍砲兵部隊の激しい砲火が降り注ぎ、突破するのは極めて困難だった。ロンメルの小隊が属する第7中隊の中隊長も負傷し、一時的にロンメルが中隊長代理に就任して指揮権を引き継いでいる[47]。ロンメル率いる第7中隊はフランス軍砲兵陣地への攻撃に失敗して東へ逃れ、第2大隊主力を発見して合流した[48]。新しい第7中隊長が決まるとロンメルは小隊長に戻った[48]

この頃、第124歩兵連隊への補給が途絶え、道端の草を食って飢えを凌いでいた兵士たちの中に腹痛を起こす者が続出し、連隊の戦力は大きく低下した。続いて9月12日のヴェルダンの敵拠点への攻撃に失敗したことで連隊は大きな損害をだした[48]。同日に連隊は回復のため後方に下げられた[48]。その日の午後、ロンメルは疲れ切って第2大隊司令部で大隊長副官として勤務中に居眠りしてしまい、同僚や上官が起こそうとしても起きずに眠り続けたので、翌13日に目を覚ました時には上官にこっぴどく叱られたという[49]

9月22日から第124歩兵連隊はモンブランヴィル(fr)での戦闘に参加した。9月22日の戦闘では大隊長副官ロンメルの補佐により第2大隊は大きな戦果をあげた。しかし9月24日のヴァレンヌ=アン=アルゴンヌ付近の戦闘では、銃剣術に覚えのあったロンメルはフランス兵3名に弾の入ってない銃剣で立ち向かおうとし、片足の上腿部を撃ち抜かれて負傷してしまった[40][50][51][52]の木の後ろに隠れたロンメルは、部下たちに救助されて簡易な野戦病院へと運ばれた[51][53]。さらに翌朝にはストゥネ(fr)の将校野戦病院へ移送された[53][54]。9月30日に病院で二級鉄十字章の受章を受けた[20][53][54]

フランスで塹壕戦

1915年9月、アルゴンヌの森。フランス軍塹壕へ突撃を仕掛けようと身を低くして進むドイツ軍歩兵。

1915年1月13日に第124歩兵連隊に復帰[52]。この頃、ドイツ軍もフランス軍も攻撃するより攻撃してきたところを返り討ちにする方が打撃を与えやすいと判断して大規模な攻撃には出なくなり、西部戦線塹壕戦による消耗戦の様相を呈していた[55][56]。第124歩兵連隊もアルゴンヌの森(fr)の西部で塹壕戦を展開していた[52]。ロンメルは第2大隊隷下の第9中隊長に任じられた[56]

ロンメルは中隊を率いて匍匐前進しながらフランス軍の築いた有刺鉄線鉄条網を隙間を通り抜けて進み、フランス軍主陣地に突入し、掩蔽部4か所を占領した[52][57]。取り戻そうと襲撃してきたフランス軍の反撃を退けたが、結局新しい攻撃を受けるのを避けるため自軍の陣地に後退するのを余儀なくされた[52][57]。しかしこの際の勇戦ぶりを評価されて1915年3月22日に一級鉄十字章を授与された[20][52]。第124歩兵連隊の中尉・少尉階級の者の中では初めての受章だった[52]

その後も第124歩兵連隊はアルゴンヌに留まったままフランス軍と消耗戦を続けた[58][59]。7月にロンメルは二度目の負傷をした。向こう脛に砲弾の破片を受けたのである[52]。1915年9月に中尉に昇進するとともに、新たに編成される「ヴュルテンベルク山岳兵大隊」(Württembergischen Gebirgsbataillon)ヘの転属を命じられた[20][52][57][59]

山岳兵大隊

10月4日付けで正式に「ヴュルテンベルク山岳兵大隊」へ転属[60]。同大隊の中隊長となった[12][52]。これまでドイツ帝国のいずれの領邦も本格的な山岳部隊は持っておらず、急遽ドイツ帝国南部に位置するバイエルン王国ヴュルテンベルク王国が山岳兵部隊を編成することになったのであった[61]。ヴュルテンベルク山岳兵大隊は同盟国のオーストリア=ハンガリー帝国アルプス山脈スキー訓練など受けた後、1915年12月31日にヴォージュ山脈ヒルツェン丘陵でフランス軍と戦ったが、ここはそれほど戦闘は激しくなく、ロンメルは比較的のんびりと1年ほど戦った[62][63]

ルーマニア戦線

1916年10月末、山岳兵大隊はルーマニア戦線に転戦した[52][63]。同大隊は11月11日にレスルイ山の戦闘でルーマニア軍の守備隊を撃破した[64]。この後、ロンメルは一時休暇をもらって大隊を離れ、1916年11月27日にダンツィヒにおいてルーツィエと簡易な結婚式をあげた[63][64]ハネムーンなどはせず、すぐにルーマニア戦線に復帰した[64]。1917年1月7日にロンメルが率いる中隊はガジェシュチ村(ro)で大戦果をあげ、360人ものルーマニア兵を捕虜にした[65]

1917年1月中旬に山岳兵大隊はルーマニア戦線からヒルツェン丘陵へ戻り、フランス軍と戦った。しかし7月末には再びルーマニア戦線に送られた[66][67]コスナ山(mt.Cosna)に強固な要塞を作っていたルーマニア軍と激闘になった。8月10日には弾丸が左腕を貫通するという三度目の負傷をした。しかし彼は構わず戦闘に参加し続けた[66][68]。傷口を放置したせいで高熱にうなされたが、彼はベッドの中から命令を発し続けたという[69]。ロンメル初め山岳兵大隊は奮戦したが、コスナ山を占領することはできず、8月25日に山岳兵大隊は第11予備歩兵連隊と交替することとなり、後方に下げられた[69]

負傷した腕の傷のために一月ほど休養に入り、妻ルーツィエと楽しい時間を過ごした[70]

イタリア戦線
プール・ル・メリット勲章

ヴュルテンベルク山岳兵大隊は1917年9月26日に北部イタリア戦線に動員された[66]。ロンメルは1917年10月上旬にイタリアで戦う山岳兵大隊に復帰し[71]、山岳三個中隊と機関銃一個中隊からなる任務部隊司令官に任じられた[72]

カポレットの戦いの戦いにおいてドイツ第14軍司令官オットー・フォン・ベロウは戦略的要衝である1114高地とマタイユール山(it)を最初に占領した部隊の指揮官にはプール・ル・メリット勲章を与えると布告した[73]。これは1667年制定の由緒ある戦功勲章でドイツ帝国一般軍人の事実上の最高武勲であった。これにより各部隊の指揮官の競争が凄まじいことになった[74]。ロンメルは自分の名誉欲で部下を犠牲にするような男ではなかったが、名誉に関心がないわけでもなかった[73]。ロンメルはマタイユール山の攻略を狙い、ついにここを占領することに成功した[75]。イタリア兵が異常に無気力だったこともあって、500人のロンメルの任務部隊は、9,000人のイタリア兵を捕虜とした[76]。ところがマタイユール山と間違えて別の山を占領したヴァルター・シュニーバー中尉が「マタイユール山を占領した」と第14軍司令部に報告していたため、ベロウ将軍はカイザーヴィルヘルム2世にシュニーバー中尉を推挙し、結果彼がマタイユール山占領の功績でプール・ル・メリット勲章を受章することになった[76]。ロンメルはこれに激怒して正式に上官に抗議したが、決定は覆せないと認められなかったという[77][76]

しかしまだイタリアとの戦争は続いており、チャンスはあった。ロンメルは退却するイタリア軍の追撃戦で活躍し、ロンガローネのイタリア軍基地への攻撃において勇戦し、やはり無気力なイタリア兵を8000名も捕虜にした[78]。この結果、1917年12月13日にヴィルヘルム2世はついにロンメルにたいしてプール・ル・メリット勲章の受章を認めた。受章理由にはマタイユール山奪取とロンガローネの戦いの勇戦、どちらもあげられていた。しかしロンメルはマタイユール山奪取の功績でプール・ル・メリット勲章を手に入れたと主張していた[78]

一次大戦末期

その後1918年2月に西部戦線へ転戦したが、まもなく幹部候補の一人として第64軍団司令部に参謀として配属されることとなった[79][80]。以降一次大戦中は敗戦まで前線に戻る事はなかった。1918年10月18日に大尉に昇進した[79][80]

1918年11月初めにキールの水兵の反乱を機にドイツ全土に反乱が広がり(ドイツ革命)、カイザー・ヴィルヘルム2世は11月10日にオランダへ亡命、翌11日にはドイツ社会民主党の主導する新ドイツ共和国政府がパリコンピエーニュの森で連合国と休戦協定の調印を行った[81]。第一次世界大戦はここに終結した。

ヴァイマル共和政期

ロンメルは、1918年12月21日に古巣の第124歩兵連隊に再配属された[82][83]。1919年3月にはフリードリヒスハーフェンの第32国内保安中隊の指揮官に就任。この部隊には革命派の兵士が多く、彼らは上官ロンメルの命令を平気で無視し、プール・ル・メリット勲章にもまるで敬意を払おうとしなかったというが、ロンメルの人格によってまとめ上げられ、部隊は規律を回復したという[83][84][85]

敗戦国ドイツへの責任追及は過酷を極めた。1919年6月28日にドイツと連合国の間に締結されたヴェルサイユ条約によって1320億マルク(現在の日本の金銭価値で約40兆円)という天文学的賠償金(また加えて1年ごとに20億マルクの利子と26%の輸出税)が課せられた。またドイツの国境付近の領土は次々と周辺国に奪われ、ドイツの領土は大きく縮小した。ドイツ軍については陸軍兵力を小国並みの10万人(将校4000人)に限定され、戦車、潜水艦、軍用航空機など近代兵器の保有も全て禁止された[86][87][88]。1919年7月31日にはヴァイマルで開かれた国会ヴァイマル憲法が採択され、ドイツは民主国家となった。所謂「ヴァイマル共和国」の時代が始まった。

ちなみに将校4000人という制限は、軍に残る事を希望するドイツ帝国将校6人のうち1人だけがヴァイマル共和国陸軍に残れるという倍率をもたらした[89]。そしてロンメルはヴァイマル共和国陸軍将校に選び残された者の一人であった[90]

この後、9年ほどシュトゥットガルトの第13歩兵連隊に所属し、1924年からは同連隊の機関銃中隊長となった[91][92][93]。この間、特筆すべきことはほとんどないが、1928年12月には長男のマンフレートが生まれている[93][94][95]

1929年10月1日にドレスデン歩兵学校の教官に任じられた[94][96]。数多くの実戦経験を持つロンメルの講義は生徒たちに人気があったという[97][98][99]

ナチ党政権下

1933年1月30日国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)党首アドルフ・ヒトラーパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領よりドイツ国首相に任命された[100]。ロンメルはこれまで政治にはほとんど関わらなかったが[101][102]、他の多くのドイツ軍人達と同様にヒトラーの登場には熱狂し、彼の反共主義軍拡イデオロギーを歓迎した[103][104][105][106]

1934年9月30日、収穫祭でゴスラーを訪れたヒトラーがロンメル少佐の大隊を閲兵する。中央左がロンメル。二人はこの時に初めてであった。

1933年10月10日少佐に昇進するとともにゴスラーに駐屯する第17歩兵連隊の第3大隊長に任じられた[20][96][107][108]。1934年9月30日に収穫祭のためにヒトラーがゴスラーを訪問した[109]。この時にロンメルの大隊はヒトラーを出迎える儀仗兵の任につき、ロンメルとヒトラーが初めて対面することとなった[109][110]。もっともこの時にロンメルが公的な関係以上に何か特別に扱われたという形跡はない[110]。またロンメルがヒトラーについてどう感じたかを示す証拠もない[109]。ただこの閲兵式の直前にロンメルは、警護問題をめぐってSSと言い争ったという[# 4]

1935年3月1日に中佐に昇進した[20]。1935年10月15日に新設されたポツダム歩兵学校の教官に任じられた[111][112][113]。この学校でもロンメルは非常に好感をもたれる教官であったという[111]

1936年9月のニュルンベルク党大会でヒトラーの護衛部隊(Führer-Begleitbataillon、FHQ)の指揮官に任じられた[110][114]。この時にロンメルは「私の後ろについてくる車は6台に限定せよ」という総統命令を厳守し、ヒトラーに随伴しようと押し寄せてくる党幹部の車を押し止めた。この件でヒトラーはロンメルに注目するようになったという[114]

しかしヒトラーがロンメルを決定的に評価するようになったのは、1937年初期にロンメルがフォッゲンライター出版社から『歩兵攻撃(Infanterie greift anISBN 978-1-85367-707-6』を出版したことだった[114][115]。これはロンメルが教官として行った講義をまとめた物であり、ロンメルの一次大戦での経験が分かりやすい文章と挿絵付きで書かれていた[96][115]。この本は50万部を売り切るベストセラーとなり[115][116]、各方面からの高評価を受け、一次大戦で歩兵だったヒトラーも自分の経験に照らし合わせてこの本を激賞した[114][116][117][118]。なおロンメルはこの本の印税に関してフォッゲンライター出版社と結託して脱税をした[# 5]

1937年2月にロンメルはナチ党のヒトラー・ユーゲントに国防省連絡将校として派遣された[110][121]。ロンメルは国防軍の下級将校の指導による軍事教練をユーゲント団員に施すことを企図し、全国青少年指導者バルトゥール・フォン・シーラッハとの折衝にあたったが、ユーゲントの指導権を軍に奪われることを恐れるシーラッハはこれに反対し続けた[122][123]。ロンメルとシーラッハの関係は悪くなる一方で二人は劇場での席次など些細なことでも争う様になった[123][124]。1937年8月1日には大佐に昇進した[123]

シーラッハとの衝突にも関わらず、ヒトラーのロンメルへの信任は失せなかった。1938年9月にズデーテン併合にあたってヒトラーはロンメルを再び総統護衛部隊隊長に任じ、自らの護衛を任せた[122][124][125]。この頃にはロンメルは完全なヒトラー支持者になっていた[124][126]。彼の妻への手紙もヒトラー讃美がどんどんエスカレートしている。「(ヒトラーは)ドイツ国民を太陽の下へ導きあげるべく、神、あるいは天の摂理によって定められている」と書いている[116]。彼は友人への個人的な手紙にさえ文末に「ハイル・ヒトラー、敬具、E・ロンメル」と記すようになっていた[124][126][127][128]。ヒトラーにとってもロンメルはお気に入りの将校だった[117]。ロンメルは貴族階級出身の将校ではなく、そうした貴族将校たち特有の平民出のヒトラーを見下したような態度がなかったこともヒトラーの好感につながったと思われる[129][130]

1938年11月10日にはウィーン郊外のヴィーナー・ノイシュタットの士官学校の校長に任じられた[122][126][131][132]。ロンメルはこの学校をドイツ、そしてヨーロッパでもっとも近代化されている士官学校にしようと張り切っていたが、ヒトラーの警護隊長にしばしば任じられたため、彼はあまりこの学校にいなかった[131][133]

1939年3月15日にチェコスロバキア併合があると、ヒトラーは再びロンメルを総統警護部隊の指揮官に任じて、自分の警護にあたらせた[131]。チェコはオーストリアやズデーテンと違い、ドイツ系が少ないため、ヒトラーが出向いても歓迎されるとは思えなかった。暗殺の危険も大きかった。ヒトラーがロンメルに「大佐、貴官が私の立場なら、どうするかね?」と聞くと、ロンメルは「オープンカーに搭乗し、重武装の護衛無しでプラハ城まで乗り込み、ドイツのチェコスロバキア統治が始まったことを内外に向けて示します」と答えた[117][134]。ヒトラーは、他の者たちの反対を押し切って、ロンメルの意見を容れ、ロンメルたちを護衛に付けたのみで無事にプラハ城に乗り込んでいる[128][134][135]。続く3月23日のメーメル返還でヒトラーがメーメルへ向かった時にもロンメルは総統警護大隊の隊長を務めた[131][127]

1939年8月1日に少将に昇進した。6月1日に遡及しての昇進である事を認められた[127][136]。これはロンメルを寵愛するヒトラーの特別な決定によるものである[127][136]。ロンメルは妻への手紙で「私が聞き知ったところによると先の昇進はひとえに総統のおかげだ。私がどれほど喜んでいるか、お前にも分かるだろう。私の行動とふるまいを総統に承認していただく事が私の最高の望みなのだ。」と書いている[128]

ヒトラーの寵愛は続いた。1939年8月22日を以ってヴィーナー・ノイシュタットの士官学校の校長職を辞し、8月25日に「総統大本営管理部長」に任じられた[136]。これまでのような期間限定の警護隊長ではなく、常時ヒトラーの警護を行うこととなった[127]

第二次世界大戦

ポーランド侵攻

1939年9月、対ポーランド戦中のヒトラーの前線視察。ヒトラーに警護責任者として同伴するロンメル少将(ヒトラーの右)。

1939年9月1日にドイツ軍のポーランド侵攻、続く英仏のドイツへの宣戦布告をもって第二次世界大戦が開戦した。ロンメルは熱狂をもって戦争を迎えた。妻に「君は9月1日のこと、つまりヒトラーの(ポーランドとの開戦を発表する国会での)演説をどう思うかな?我々がこのような人物を持っている事は実にすばらしいではないか。」と書き送っている[137]。彼は一次大戦の敗戦でポーランドに奪われたポーランド回廊国連の管理下に置かれたダンツィヒをドイツの手に取り戻す必要性を感じていた[138]

総統大本営管理部長としてヒトラーの警護に責任を負うロンメルは、総統専用列車「アメリカ」に乗って前線視察に出たヒトラーに同伴してポーランドへ向かった。ヒトラーはポーランド戦中、3週間も前線視察に出ていた[137]。なおヒトラーがポーランドの港町グディニャを訪れた際にロンメルはマルティン・ボルマンと揉めたという[# 6]

1939年10月5日にワルシャワでヒトラー出席のドイツ軍の戦勝祝賀式典が行われることになり、ロンメルは10月2日にワルシャワに入り、会場とその周辺に警備上の問題がないかの視察を行った[140]。10月5日の戦勝祝賀式典ではヒトラーの隣に立つロンメルの姿が映像に残っている[141]

ヒトラーもロンメルもポーランドを落とせば英仏は講和を申し出てくると思っていた(実際に英仏は宣戦布告してきただけでポーランド戦中、ドイツに攻撃を行ってくる様子はほとんどなかった[142]。しかし英仏はポーランドが陥落してもドイツの呼びかけに歩み寄る姿勢は全く見せなかった。軍部は軍事力の上で圧倒的にドイツに勝っている英仏と戦火を交えることを嫌がっていたが[141]、ヒトラーはこうした反対を退けてフランス侵攻を決意した[143]

ポーランド戦後、ベルリンで退屈な日々を送ることになっていたロンメルは[141]、来るフランス戦では前線勤務をしたいと志願した[144]。陸軍人事部長は一次大戦での彼の経験に基づき山岳師団師団長をロンメルに提示したが、ロンメルはヒトラーに装甲師団の指揮を取りたいと求めた。陸軍人事部長は歩兵科のロンメルに装甲師団を任せることに反対していたが、ヒトラーの介入で装甲師団の指揮を許可された[145]

こうして1940年2月15日にロンメルは新編成された第7装甲師団の師団長に任命されることとなった[129][130]

フランス侵攻

1940年6月、パリにて

1940年5月に開始されたフランス・ベネルックス諸国への西方電撃戦では第7装甲師団長を務めた。真っ先にムーズ川(ミューズ川)を渡り英仏軍をフランス本国から切り離す一番槍をつけアラスシャルル・ド・ゴール大佐らが率いる英仏戦車隊の反撃を撃退するなど、連合軍に幽霊師団とあだ名される神出鬼没の働きで勇名をはせ中将に昇進した。自ら偵察機や指揮装甲車に搭乗して最前線で指揮を執り兵士と苦楽を共にする彼の用兵術はドイツ軍人精神の模範とされ、兵士に実力以上の能力を発揮させた。また戦車砲を走行しながら発射させて大きな戦果を挙げるなど、兵員の士気を重んじた。最終的にロンメルの指揮する第7装甲師団は9万人の捕虜を獲得した[146]

ダンケルクの戦いではロンメルの軍団含むドイツは敗走する連合軍40万をフランスのダンケルクまで追い詰めた。ロンメルは英国の本格的な反撃が始まる前にこれを殲滅し英本土に上陸すべきだと主張したが、空軍元帥のゲーリングの失態により連合軍の撤退をみすみす許してしまった[146]。また、ドイツ海軍には英仏海峡を渡らせる手段がなかった。

車上のエルヴィン・ロンメル(1942年6月)
戦況を話し合う。バイエルライン大佐・ビスマルク少佐らと(1942年6月)

1940年末、枢軸国のイタリアがアフリカで大敗を喫する。要請を受けたドイツは、ロンメルを北アフリカへ派遣した。

ロンメルは北アフリカをヨーロッパ要塞のやわらかな下腹としてこの戦線を重要視し、さらにエジプト侵攻を果たして東部戦線へと合流するという構想をたてた。ロンメルと同様、イギリス軍は北アフリカ戦線を戦局を左右する重要な戦場とみなし多くの海軍兵力と度重なる地上戦力の増派を行ったがヒトラーはソ連を短期間で降伏させたのち、本格的に対英戦を行えばよいとして派遣時の北アフリカは二次的な戦線とみなしていた。常に優位に立つイギリス軍に比べ海軍力で劣りマルタ島からの爆撃で海上補給路を脅かされ、更には良好な港湾施設を持たないロンメル軍団は常に補給の危機に晒されていた。加えてロンメルの保有するドイツの機甲師団は僅かに2個師団のみで残りの戦力の大半は豆戦車や軽戦車しか持たず、旧式装備のみで機械化されていないイタリア軍部隊で構成されていた。またそれらを含めても軍団は4個師団で、これはイギリス軍の兵力を大きく下回っていた。こうした極めて劣悪な条件にも拘らず、ロンメルは歩兵が防御している間に装甲師団が敵を迂回包囲する「一翼包囲攻撃」などの巧みな戦術で連合軍を次々に撃破した。補給が十分に行われない点は、敵の戦車や補給所を鹵獲する事で解決した。

1941年2月12日、ロンメルは専用機で北アフリカに到着。主力であるドイツアフリカ軍団Deutsches Afrikakorps、略称DAK)を率いて3月に反攻を開始する。リビアの都市ベンガジを奪回し、トブルク包囲戦を開始した。包囲を突破しようと侵攻してきた連合軍の増援を「バトルアクス作戦」で撃破し、ガザラの戦いでは2倍以上の兵力を用いて反攻してきたイギリス軍を壊滅させた。

ロンメルは、アフリカでの戦果が評価され1941年に装甲兵大将に昇進。1942年10月にはドイツ軍史上最年少で元帥に昇進した。元帥昇格は、ベルリンのスタジアムの盛大なナチ党集会の中で行われた。このときロンメルは栄光の絶頂にあった[146]

1942年、ロンメルはトブルク攻略に成功した。連合軍最後の主要拠点であるエル・アラメインに迫った。この地を落とせば北アフリカの大規模な軍港はすべて陥落した事になり、カイロ侵攻により事実上連合軍を北アフリカから追い出すことが可能となった。だが、ロンメル率いる軍団の戦力は旧式イタリア戦車や鹵獲戦車を含めた300両、それに燃料や弾薬の欠乏という悪条件が重なった。対する連合軍は、アメリカが本格的に参戦した事で米国からの大増援を受け、300両以上の新型戦車含めた合計戦車1,100両と2倍以上の航空機を保有していた。

この頃東部戦線ではスターリングラード攻防戦が勃発し、ドイツはソ連軍170万との攻防を繰り広げており、北アフリカへの増援どころではない状態にあった。度重なる激戦にロンメルは身体を病み一時帰国するが、現場の要請を受けロンメルはアフリカへ再び戻る。ロンメルは軍団への増援は不可能としても弾薬・燃料等の物資を空輸するよう空軍司令のアルベルト・ケッセルリンクに依頼したが、ケッセルリンクは聞く耳をもたなかった上に、「ロンメルは神経疲労で頭がおかしくなっている」とヒトラーに報告したとされる[146]。そのような中、連合軍の反攻が開始され、さすがのロンメルも追い詰められ敗北し、ようやく手中にしたトブルクも放棄せざるを得ずに大きな撤退を余儀なくされた。この後連合軍は「トーチ作戦」で大攻勢に出るが、ロンメルは劣悪な戦力にもかかわらず183両の戦車、600両以上の車輌、200両以上の野戦砲を破壊し、連合軍に大きな損害を与えた。

連合軍はその後も攻勢に出るが、ロンメルの戦術によって幾度となく進軍を阻まれた。そこで、連合軍は大量の航空機をもって補給路を断絶した。いかに「名将」と言われるロンメルであっても、補給が断たれた上に圧倒的な物量で東西から迫る連合軍を食い止めることはできず、ドイツアフリカ軍団は1943年の1月にはチュニジア周辺に押し込まれてしまう。ロンメルは「砂漠の戦いは海の戦いと同じで、戦力の撃滅が主体で占領地の確保は二次的なもの」と考えた。戦力を一旦一部分でも喪失してまえば、戦線は維持できない。北アフリカが絶望的になった今、余裕のあるうちの速やかな北アフリカからの撤退をラステンブルクのヒトラーに要請したが、ヒトラーは逆に占領した地域は何が何でも確保し続けなければいけないと信じており、返ってきた総統命令は「勝利か死か」であった。こうして優秀な残存兵力を撤退させることができずに劣勢の中の消耗戦に再びロンメルは身体を病み、ヒトラーの命令で3月9日にチュニジアから本国へ送還された。ドイツアフリカ軍団の指揮はハンス=ユルゲン・フォン・アルニム上級大将が引き継ぎ、彼らの戦いはその後も続いたが圧倒的な連合軍の物量に抗する術は無く次々と主要な拠点や港を失い、5月13日に降伏した。わずかに脱出に成功した残存戦力は車両抜きで西部戦線へと移動した。

連合軍上陸をめぐって

ルントシュテット元帥(中)、ガウス大将(右)との作戦会議(1943年12月19日パリ

3月にドイツ本国に送還されてからしばらくロンメルは療養生活を送っていたが健康が回復したせいもあり、6月にはギリシャの防衛を担当していたE軍集団の指揮官に任命された。これは英軍によるギリシャ上陸を警戒しての人事であったが結局ギリシャに連合軍が上陸を仕掛けることは無く、その年の8月ロンメルは北イタリアを防衛するために新設されたB軍集団の指揮官に転属された。しかし11月にヒトラーがイタリア戦線全般の指揮権をケッセルリンクに与えたため、B軍集団の担当地区は北イタリアから北フランスに変更された。ロンメルはB軍集団とともに北フランスに移動し、ルントシュテット元帥率いるドイツ西方総軍の指揮下に入った。

ロンメルは着任早々難攻不落だと大々的に宣伝されていた「大西洋の壁」を視察し、この宣伝が本当に宣伝だけであった現実を見て愕然とする。連合軍の上陸が予想されていたカレー方面ですら工事の進捗具合は80%、自分の部隊が展開していたノルマンディー地方では20%と言う悲惨な状況でありとても難攻不落とは言い難かった。その日よりロンメルは精力的に活動し、未完成の「大西洋の壁」を少しでも完成に近づけるために全力を傾注した。ロンメルは北アフリカでの経験から連合軍が圧倒的な航空優勢のもとで攻撃を仕掛けてくるという事が分かっており、その圧倒的航空優勢下では反撃のために大規模な部隊展開を行う事が事実上不可能であると知っていた。そのためロンメルはもし連合軍が攻撃を仕掛けてきた場合は上陸時に水際で迎撃する事を主張。上陸第一日が防衛軍にとって「最も長い一日(Der längste Tag)になる」と訴えた[147]

しかし、西方軍総司令官のルントシュテット元帥は英米の航空戦力の脅威を正確に評価せず、連合軍を上陸させた後に装甲師団で叩く戦術を主張し対立した。ルントシュテットは敵航空戦力が弱体な東部戦線の経験しか持たないが、ロンメルはエル・アラメインでの敗北により、航空兵力が戦況の鍵を握る事を知っていたのである[146]。結局ロンメルは水際での攻撃を主張したため装甲師団は前線の近くに配置されるべきだと主張し、対するルントシュテットは連合軍による空爆による被害を避けるためにもより後方に配置されるべきだと主張し、両者とも譲らなかった。

こうした将軍同士の対立の中で準備が進められた。ロンメルは自分でデザインしたロンメルのアスパラガスを空挺部隊の落下が予想される地域に設置したり、地雷を山ほど埋設して連合軍の上陸に備えたが6月の時点ではまだまだ十分ではないと考えていた。そして、D-Dayこと1944年6月6日、連合軍のノルマンディー上陸作戦が敢行される。航空部隊の支援が制限される雨季に上陸する可能性は極めて低いと考えられていたため、不覚にもロンメルは妻の誕生日を祝うために[148]ベルリンで休暇を取っていた[147]。このためロンメルは軍団を指揮することが出来ず、ルントシュテットの作戦により連合軍の制空権下で味方の装甲師団の昼間行動は大きく制約され、有効な反撃が出来なかった。

ヒトラー暗殺未遂事件と自殺

ロンメルの遺体を載せた車(1944年10月18日
ブラウシュタイン市ヘルリンゲンにあるロンメルの墓

1944年7月17日、ノルマンディーの前線近くを走行中のエルヴィンの乗用車が英空軍の第602戦闘機中隊(602 Squadron)のスピットファイアによって機銃掃射され、ロンメルは頭部に重傷を負って入院した。

同年7月20日シュタウフェンベルク大佐主導のヒトラー暗殺未遂事件が発生。暗殺は偶然が重なって失敗に終わるもB軍集団参謀長のハンス・シュパイデル中将が反ナチ派だったこと、パリ軍政長官のシュテュルプナーゲルが自決を図って失敗した際にうわ言のように「ロンメル」と口にしたこと、シュテュルプナーゲルの副官ホーファッカー中佐がゲシュタポによる取調べでロンメルが「私を当てにしてよろしい」と語っていたと供述したことからロンメルも計画への関与を疑われた。ゲッベルスもその一人であり、さらにボルマンはロンメルの関与を確信していた。

開戦当初は、ロンメルはヒトラーのお気に入りの将軍であった。しかしドイツが劣勢となったこの時期には、実績・人気とも極めて高いロンメルを脅威とさえ感じるようになっていた。

10月14日、ヒトラーの使者として療養先の自宅を訪れた2人の将軍(ヴィルヘルム・ブルクドルフエルンスト・マイゼル)はロンメルに「反逆罪で裁判を受けるか名誉を守って自殺するか」の選択を迫った。裁判を受けても死刑は免れず粛清によって家族の身も危うくなることを恐れたロンメルは「私は軍人であり、最高司令官の命令に従う」と言い、暗殺事件への関与に関して一切弁明せずに服毒自殺を遂げた。その自宅周囲には抵抗に備えて、SS部隊が配置されていたという(手持ちの兵での強行突破を進言する副官に自分ひとりではないからと拒否している)。圧倒的な戦功で知られたロンメルの死は「戦傷によるもの」として発表され、祖国の英雄としてウルムで盛大な国葬が営まれた。しかし、ヒトラーは会葬していない。またロンメル夫人はこの葬儀でゲーリングの敬礼を無視し、夫を「殺した」マイゼル将軍の握手を拒んだという。

ロンメルの暗殺計画への関与は不明である。戦後、夫人は「エルヴィンはヒトラー暗殺計画に反対していた」と主張した。彼女や長男・マンフレートによると、ロンメルはドイツ国民に「この戦争も誰かの裏切りのせいで負けた」という印象を残すことを非常に恐れていたらしい[149]。第一次世界大戦にドイツが負けたのはドイツ革命による「背後からの一撃」のせいだと思っていた人が多く、それがナチスの台頭を招いたからだとされる。しかしその反面、その時点ではロンメルは自分の反ナチ的態度を特に隠そうとしてすらおらず[150]、暗殺には反対していたもののヒトラーを逮捕する事には賛成だったとする説もある[151]

戦後、残した軍命令書、戦況報告書、日記等を戦史家リデル・ハートが編集してThe Rommel Papersとして出版された。

評価

バイエルラインによれば、「ロンメルは基本的に歩兵で、機甲師団を指揮していてもその戦術は歩兵のものであった」という。常に楽天的で作戦にもそれが現れていた。

戦中の行為、また敗戦国である事からナチス指導者やほかの多くのドイツ軍人が非難される中、ロンメルだけはドイツのみならず敵国だったイギリスやフランスでも智将として、あるいは人格者として肯定的に評価される事が多くアフリカ北部でロンメルの手痛い打撃にさらされたチャーチル首相は「ロンメルは神に愛されている」と皮肉にも似た賞賛を残している。

またエジプトシワ・オアシスの町ではロンメルが訪れた際、丁重なもてなしへの謝礼として紅茶を渡すなどした事があり戦後からエルヴィンの写真が飾られている。これはイギリスがエジプトにおいて文化的遺産を略奪していた事への反発も含まれているが、軍人としての規律と誇りを貫いたこともあり人気が高い。

人物像

英雄として

ドイツアフリカ軍団時代の彼は「砂漠の狐」(独:Wüstenfuchs、英:Desert Fox)と渾名され、英中東軍司令官のクルード・オーキンレック将軍は「我等が敵ロンメルは巧みな戦術家ではあるが、人間である。あたかも彼が超自然的能力を持っているかのように評価するのは危険であり、戒めねばならない」、「アフリカの枢軸軍を指すときはドイツ軍や敵軍と呼ぶべきで、ロンメルという名前は用いない事が好ましい」と異例の布告を出した。

一方、ドイツ国内では英雄視され"ゲルマン人らしい"[152]端正な風貌からも宣伝に大いに利用された。しかしロンメル自身は華やいだ場が苦手だったらしく、ある日妻にせがまれて渋々ナチスの舞踏会に参加した時は着飾った女性たちに囲まれて身動きができなくなったという[146]

軍人として

部下に鉄十字勲章を授与するロンメル

騎士道溢れる軍人でもあり、火力で敵を押し込むハード・キルより相手を撹乱する事で降伏に追い込むソフト・キルを好んだ。捕虜には国際法を遵守して非常に丁重に扱った。1941年にロンメル暗殺を企図してドイツ軍施設を奇襲攻撃した英国コマンド部隊の死者を丁重に扱っている。以後も英コマンド部隊員を捕虜にせず殺害せよと命じたヒトラーの命令を無視していた。ある戦いでユダヤ人部隊を捕虜にした際、ベルリンの司令部から全員を虐殺せよとの命令が下ったが、ロンメルはその命令書を焼き捨てた。彼は最後までナチス党に入党する事はなく、あくまで1人の軍人として戦い続けた[146]

また大隊長である第一次世界大戦の頃から自ら進んで前線に出て兵士に語りかけ、兵士の心情を理解する事に努めた。本来、通信手段が発達した近代戦では高級将校は前線に出ず後方で全般的な指揮を行った。しかし、ロンメルは瞬時に変遷する電撃戦では「前線で何が起きているか、兵士にさえわからない」と陣頭指揮を旨とした。このためロンメル自身も幾度となく危険に晒されており、最高司令官の所在が不明となることがよくあった。北アフリカ戦線においてイタリア軍は度々ドイツ軍の足を引っ張ったが、ロンメルはイタリアの兵士を労わった。規律に厳しく兵員を直接に叱責することもあったが、兵士からは「Unser Vater(我らが親父)」と慕われていた[146]。 ただし、陣頭にばかり立つあまり、後方の事務や補給などの裏方には疎くなっていたと言われている。

大衆文化への影響

音楽

前述のようにロンメルは国民的英雄として人気があったため1941年には『Unser Rommel』(我らがロンメル)が作られ、アフリカ軍団の歌として愛唱された。

映画

逸話

制帽の上にゴーグルを着用したロンメル
ロンメルが使用したライカIII c型
  • ロンメルは北アフリカ戦線のリビアでの戦いの際に捕獲した英軍のゴーグルを好んで着用し、これは彼のトレードマークとなった。しばしばゴーグル自体が防塵用であるかのように言われるが、正確には英軍のガスマスクの付属品である「Anti-Gas Eye Shield “Mk II"」という防毒ゴーグルである。このゴーグルは、ロンメルが戦場から持ってきた最初で最後の戦利品であった。
  • 戦時中においても妻と手紙による交流を欠かさず、週に毎日手紙を交わす時もあった。内容は日常的なものから戦況や同盟軍に対する不満まで書き綴っていた。その手紙は現在でも保管されている。
  • 幼年時代に航空機技術者になる夢を持っていたせいか機械に対する興味が旺盛で、気軽に軽飛行機に搭乗して偵察を行ったり宣伝大臣のゲッベルスからプレゼントされたカメラを愛用して欧州やアフリカで数千枚の戦場写真を残したりした。子息のマンフレートによると元々写真撮影が好きだったというが、同僚からは写真家将軍と揶揄されていた。ロンメル自身が指揮装甲車の屋根からカメラを構えている姿を撮った写真も残っている。アフリカ軍団が危機的状況に陥った1943年2月にはエルンスト・ライツ社からライカIII c型を送られている。このカメラは現存し、ロンメルからの感謝状も同社に残っている。
  • 息子マンフレート・ロンメルアーリア民族の人種的優越の話をしているのを聞くと、「私の前でそういう馬鹿げたことをしゃべるな!」と言ったといわれる。

参考文献

脚注

注釈

  1. ^ ファーストネームのErwinは日本では「エルウィン」「エルヴィン」と表記される事が多い。より実際の発音に近く「エアヴィン」、英語読みで「アーウィン」とカタカナ表記されることもある。姓のRommelは、実際の発音は「ロメル」に近い。
  2. ^ 勉学に不熱心だったロンメルに勉強させるため、教師が「書き取りテストで間違いしなければ楽隊と一緒に遠足に出かけよう」と彼に言うと、彼はこれを真に受けて必死に書き取りの勉強をしてテストで間違いをしなかったという。しかし約束の遠足につれて行ってもらえなかったのでまた勉強をしない生徒に戻ってしまったという[13][14]
  3. ^ 当時のドイツ帝国軍では士官候補生をいきなり士官学校には入れず、まず野戦部隊に配属して下士官や兵士と一緒に寝起きを共にさせていた。ナポレオン戦争の時に露呈したプロイセン軍の将校と下士官・兵士の相互不信の問題を解消するためである。この部隊勤務に馴染んだ者のみ士官学校へ進むことが許可された[24]
  4. ^ 「閲兵式においても警護のためSS部隊が最前列になるべきである」と主張したSS隊員にロンメルは激怒して、「ならば私の大隊は閲兵式には出席しない」と言い返して騒ぎになり、ヒトラーに随伴していた親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーから直接に「部下の非礼を詫びたい」と謝罪を受けたという[102][107]
  5. ^ ロンメルは『歩兵攻撃』によって巨額の印税を得ていたが、この際にロンメルはフォッゲンライター出版社と結託して、1年間の生活に必要な1万5000ライヒスマルクだけを自分に支払わせ、残りは銀行預金にして寝かせ、税務署への所得申告において軍から支給されている給料以外の所得を1万5000ライヒスマルクと偽って申告した[119][120]
  6. ^ 総統大本営管理部長としてヒトラーの警護に責任を負うロンメルは、ヒトラーのグディニャ視察の際に急な下りで幅が狭い街路に通りかかると「総統の車と警護の車一車両のみが下るものとする!他はここで待て!」と指示した。しかし総統の側近であるマルティン・ボルマンはヒトラーと切り離されることに激怒し、ロンメルに抗議を行ったが、ロンメルは「私は総統大本営管理部長だ。これ遠足じゃない。貴方も私の指示に従っていただく!」と言い返してボルマンの車を通過させる事を拒否したという。ボルマンはこの事を執念深く覚えており、5年後にロンメルに復讐することになる[139]

出典

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  148. ^ また、前線の防備施設や配置兵力を強化するためヒトラーに直談判する予定でもあった。
  149. ^ Hans Speidel (1950). Invasion 1944. Henry Regnery. ISBN 978-0446638128 
  150. ^ 暗殺計画が失敗したあとのヒトラーの言動を聞き、その行動を見て「どうやら本当に気が狂ったようだ」とシュパイデルに漏らしたりしており、フランスのナチ高官はロンメルが常々ナチスの犯罪や無能さを批判していたとゲシュタポに証言している。
  151. ^ William Shirer (1990). The Rise and Fall of the Third Reich. Simon & Schuster. ISBN 978-0671728687 
  152. ^ 人種民族は異なる物であるが、ナチズムは「民族の人種的優越」を掲げていた。アーリアン学説なども参照されたい。

関連項目

外部リンク

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