「ヴィシー政権」の版間の差分
(4人の利用者による、間の19版が非表示) | |||
41行目: | 41行目: | ||
'''ヴィシー政権'''(ヴィシーせいけん、[[フランス語|仏]]:Régime de Vichy)は、[[第二次世界大戦]]中の[[フランス]]南部の政権([[1940年]] - [[1944年]])。フランス中部の町、[[ヴィシー]]に[[首都]]を置いたことからそう呼ばれた。「'''ヴィシー政府'''」、「'''ヴィシー・フランス'''」ともいい、この政権下の体制を「'''ヴィシー体制'''」と呼ぶ。正式国名は'''フランス国'''(État français、エタ・フランセ)。 |
'''ヴィシー政権'''(ヴィシーせいけん、[[フランス語|仏]]:Régime de Vichy)は、[[第二次世界大戦]]中の[[フランス]]南部の政権([[1940年]] - [[1944年]])。フランス中部の町、[[ヴィシー]]に[[首都]]を置いたことからそう呼ばれた。「'''ヴィシー政府'''」、「'''ヴィシー・フランス'''」ともいい、この政権下の体制を「'''ヴィシー体制'''」と呼ぶ。正式国名は'''フランス国'''(État français、エタ・フランセ)。 |
||
== |
== 歴史 == |
||
[[ファイル:Vichyfrance.GIF|thumb|200px|黄はドイツ軍の占領地区、橙は「保留地区」、紫は「立ち入り禁止地区」、青がドイツへの割譲地、緑がイタリア軍の占領地、白は「自由地区」ヴィシー政府の支配地域。ヴィシー政府は「自由地区」を統治し、占領地区にも一定の影響力を行使できたが保留地区及び立ち入り禁止地区には及ばなかった。]] |
|||
[[ファイル:VichyFlag.svg|thumb|200px|軍旗]] |
|||
[[ファイル:Philippe Pétain.jpg|thumb|200px|首班のアンリ・フィリップ・ペタン元帥]] |
|||
=== 成立 === |
=== 成立 === |
||
[[1940年]]6月に[[ナチス・ドイツのフランス侵攻]]でフランスは敗北。 |
[[1940年]]6月に[[ナチス・ドイツのフランス侵攻]]でフランスは敗北した。[[ポール・レノー]]首相ら抗戦派にかわって和平派が政権を握り、6月17日に副首相であった[[フィリップ・ペタン]]元帥が首相となった。6月21日、ペタンの政府は[[ドイツ]]と[[イタリア]]に対し休戦を申し入れた。6月22日には[[独仏休戦協定]]が締結され、フランス北部などの地域の占領が決まった。レノーや[[アルベール・ルブラン]]大統領は抗戦継続のためにカサブランカに逃亡しようとしたが身柄を拘束された<ref>大井、770-771p</ref>。一方でレノー政権の国防次官でペタンの部下でもあった[[シャルル・ド・ゴール]]准将はロンドンに亡命し、「[[自由フランス]]」を結成した。 |
||
フランス政府は7月1日に臨時首都に指定していた[[ボルドー]]から中部の都市であるヴィシーに移転した。政府首班兼首相には、[[フランス第三共和政|第三共和政]]最後の首相で[[第一次世界大戦]]の英雄であったペタン元帥が就任し、副首相には[[ピエール・ラヴァル]]が就任した。ラヴァルはヒトラーから好意的な扱いを受けるためには、「堕落した民主主義」を廃して「絶対的権力を持つ権威国家」を樹立する必要があると考え、熱心にロビー活動を行った。6月25日、ラヴァルは次のように演説している。「旧秩序、フリーメーソン的かつ、資本主義的そして国際的妥協の政治制度が現在の立場に我々を導いた。フランスは、もはやそんなものを欲しない。我々は新しい計画、新しい人物を必要とする」<ref>児島、190P</ref>。また、新憲法制定の議会では「全ヨーロッパがフランスを置き去りにして新世界を建設しようとしている(中略)敗北した議会制民主主義は大胆で、権威的・社会的・国家的新制度にその道を譲らねばならぬ。(中略)議会が同意しないなら、ドイツは直ちにフランス全土を占領して(政治改革を)強制するだろう」<ref>児島、193P-194P</ref>と演説している。7月2日、フランス艦隊の編入もしくは無力化を狙ったイギリスは、[[カタパルト作戦]]によるフランス艦隊の接収を図った。このためイギリスとフランスの間で[[メルセルケビール海戦]]が勃発し、政府とフランス国民の間で反英感情が高まった。このことはラヴァルの工作をより容易にした。 |
|||
ドイツ側にとってフランス全土を占領した場合は、海外植民地や海外に駐屯部隊やフランス海軍などの維持等が重い負担になる可能性がある為、親独的中立政権としてのヴィシー政府の存在は好都合だった。 |
|||
後にこの動きを知った[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]は、[[国防軍最高司令部]]長官[[ヴィルヘルム・カイテル|カイテル]]元帥と次のような会話をしている。「フランスが我がナチズムを信奉しているとは知らなかったな」「そうと知ったら攻撃の必要はありませんでした。まるで同士討ちをした想いです。」<ref>児島、194P。ただし、[[ナチズム]]は蔑称であり、原語は「Nationalsozialismus」と見られる。</ref> |
|||
=== 政治 === |
|||
7月10日、ヴィシーで開催された国民議会は第三共和政憲法を圧倒的多数で破棄し、ペタンを国家主席(chef de l'Etat français )にする新憲法を採択した。新たに制定された憲法の内容は「全権力をペタン将軍に委任する」の1条のみであった。また、多くの政策はドイツの意図に沿うもののみが適用された。また、戦争に敗北した[[エドゥアール・ダラディエ]]や[[ポール・レノー]]といった政治家を裁判([[リオム裁判]]([[:en:Riom Trial|en]]))にかけ、ドイツ国内の収容所に送った。 |
|||
7月10日、ヴィシーで開催された国民議会は圧倒的多数で新憲法制定までの憲法的法律を制定した。その内容は「『フランス国(État français)』の新しい憲法を公布することを目的として、ペタン元帥の権威のおよび署名の元にある共和国の政府に全ての権限を与える」というものであった<ref>村田、一、177-178p</ref>。ペタンは強大な権限を持つこととなったが、実際の政治は副首相であるラヴァルが大半を行っていた。 |
|||
これらの「改革」はドイツ側が強制したものではなく、ピエール・ラヴァルらといったフランス側の政治家が主導して行われたものであった。政府発足前の6月25日、ラヴァルは次のように演説している。「旧秩序、フリーメーソン的かつ、資本主義的そして国際的妥協の政治制度が現在の立場に我々を導いた。フランスは、もはやそんなものを欲しない。我々は新しい計画、新しい人物を必要とする」<ref>児島、190P</ref>。また、新憲法制定の議会では「全ヨーロッパがフランスを置き去りにして新世界を建設しようとしている(中略)敗北した議会制民主主義は大胆で、権威的・社会的・国家的新制度にその道を譲らねばならぬ。(中略)議会が同意しないなら、ドイツは直ちにフランス全土を占領して(政治改革を)強制するだろう」<ref>児島、193P-194P</ref>と演説し、改革への同意を取り付けた。後にこの動きを知った[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]は、[[国防軍最高司令部]]長官[[ヴィルヘルム・カイテル|カイテル]]元帥と次のような会話をしている。「フランスが我がナチズムを信奉しているとは知らなかったな」「そうと知ったら攻撃の必要はありませんでした。まるで同士討ちをした想いです。」<ref>児島、194P。ただし、[[ナチズム]]は蔑称であり、原語は「Nationalsozialismus」と見られる。</ref> |
|||
=== モントワール精神 === |
|||
これらの「新秩序」建設の動きは[[フランス国民革命|国民革命]]([[:en:Révolution nationale|en]])と呼ばれ、フランスの国の標語である「[[自由・平等・博愛]]」も「労働・家族・祖国」(Travail, famille, patrie)に置き換えられるなど[[民主主義]]を否定し[[権威主義]]的な体制への変革が図られた。 |
|||
[[File:Bundesarchiv Bild 183-H25217, Henry Philippe Petain und Adolf Hitler.jpg|thumb|250px|1940年10月24日のモントワール駅でのペタンとヒトラー。中央の制服姿の人物は、ヒトラーの通訳官[[パウル・シュミット]]、ヒトラーの後方の制服姿の人物は、ドイツ外相の[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]]] |
|||
成立したヴィシー政府の課題は[[フランス国民革命|国民革命]]([[:en:Révolution nationale|en]])と呼ばれる「新秩序」建設と、ドイツとの協調であった。休戦協定による占領経費負担は莫大なものであり、さらに占領者の権限を使った搾取が横行した。たとえばフランと[[ライヒスマルク|マルク]]の為替レートは12フラン=1マルクが相場であったが、一方的に20フラン=1マルクに決めた取引を押しつけることもあった<ref>村田、二、130-131p</ref>。この苛烈な搾取を緩和しようと、ヴィシー政府はさらなる対独協力姿勢を見せた。10月24日にはペタンとヒトラーが[[ロワール=エ=シェール県]]の[[モントワール]]で会談した([[:fr:Entrevue de Montoire]])。ペタンは会談後にを行い、さらなる誠実な対独協力をするべきであるとラジオ演説を行った。またヒトラーはこの席でヴィシー政府の対英宣戦を求めたが、ペタンはそれには応じなかった。しかし「モントワール精神」はドイツにとってさらなる負担をフランスに求める理由となり、ラヴァルのような親独派の勢力拡大のもととなった<ref>村田、二、131p</ref>。また10月9日にはフランスではじめてのユダヤ人迫害法([[:en:Statute on Jews]])が成立している。 |
|||
国民革命は[[フランス革命]]以前の古いフランスへの復帰を求めるイデオロギーであり、[[アクション・フランセーズ]]の[[シャルル・モーラス]]がイデオローグであった<ref>村田、二、131-133p</ref>。すなわち農業国としてのフランスが求められ、「土地に帰れ」というスローガンが叫ばれた<ref>村田、二、133p</ref>。しかしこの国民革命も、ドイツの利益を優先した者にならざるを得なかった。 |
|||
=== 軍備 === |
|||
=== ダルラン時代 === |
|||
本国の[[陸軍]]は10万人に制限されたが、[[マダガスカル]]や[[仏領インドシナ|インドシナ]]などの植民地軍はこの制限の適用範囲外とされた。これらの体制は、ナチス・ドイツ側にとっても有効であった。しかしヴィシー政府は30万人に及ぶドイツ軍の駐留費用を支払わねばならず、重い負担に苦しんだ。 |
|||
11月には[[アルザス・ロレーヌ]]のドイツへの割譲が決まり、ラヴァルに国民の非難が集まった。12月13日にペタンはラヴァルを解任し、[[ピエール=エティエンヌ・フランダン]]([[:en:Pierre-Étienne Flandin|en]])を副首相とした。また年末には[[スペイン]]の[[マドリード]]に[[ルイ・ルージェ]]教授を派遣し、イギリスとの間で交渉を行っていた。しかし対独抗戦継続を求めるイギリスと、中立を求めるヴィシー政府の溝は埋まらなかった<ref>大井、1071p</ref>。しかしドイツの介入があり、1941年[[2月9日]] に[[フランソワ・ダルラン]]海軍大将が新たな副首相となった。ダルランは「ラヴァルに卵をくれというと卵しかくれなかったが、ダルランはニワトリをくれた」と言われるほど好意的な対独協力を行った<ref name="murata2134">村田、二、134p</ref>。5月21日には独仏軍事協定が結ばれ、親独政権が成立していた[[イラク]]に対して[[フランス委任統治領シリア]]にある軍需物資の4分の3を譲渡する契約が成立した([[:en:Paris Protocols]])。しかしこれは[[シリア・レバノン戦役]]([[:en:Syria-Lebanon Campaign]])によってシリアが連合国の手に落ち、イラクの親独派政権も倒れたため実行はされなかった。また[[北アフリカ戦線]]のドイツ軍が撤退した場合には[[チュニジア]]を避難地として提供することも約束した。これは占領経費の負担軽減やフランス人捕虜の解放を求めたものであったが、ドイツ側は一切譲歩しなかった<ref name="murata2134"/>。 |
|||
一方でダルランは[[警察国家]]化を推し進め、[[保安部隊]]([[:fr:Service d'ordre légionnaire]]、略称SOL)を組織してレジスタンスを弾圧し、[[フランス共産党|共産党]]や[[フリーメーソン]]、ユダヤ人の弾圧も行った<ref name="murata2135">村田、二、135p</ref>。さらに1942年2月19日からは[[エドゥアール・ダラディエ]]や[[ポール・レノー]]といった戦争に敗北した際の政治家を裁判([[リオン裁判]]([[:en:Riom Trial|en]]))にかけ、ドイツ国内の収容所に送った。しかし敗戦責任はペタンにも及ぶ可能性があったため、4月15日に裁判は中止された。こうした強権的な姿勢や積極的な対独協力は、国民革命に対する国民の信頼を失わせる元となり、1941年末にはほとんど支持する者もいなくなった<ref name="murata2135"/>。 |
|||
海軍はドイツ軍とほとんど交戦しなかったため、大部分が存置された。しかしフランス艦隊の編入もしくは無力化を狙ったイギリスは、[[カタパルト作戦]]によるフランス艦隊の接収を図った。このためイギリスとフランスの間で[[メルセルケビール海戦]]が勃発し、政府とフランス国民の間で反英感情が高まった。 |
|||
=== |
=== ラヴァル時代 === |
||
[[File:Bundesarchiv Bild 183-H25719, Paris, Ministerpräsident Pierre Laval.jpg|250px|thumb|ラヴァルと[[カール・オーベルク]][[親衛隊大将]]。1943年5月1日]] |
|||
ヴィシー政府は苛酷な休戦協定を受け入れて対独協力体制を築き上げたが、[[主権国家]]としての体裁は一応維持することができた。「休戦監視軍」の名のもとに一定の軍事力を保有し、[[自由フランス]]側についた[[フランス領赤道アフリカ]]や[[ニューカレドニア]]などを除く大部分のアジア・アフリカに広がる広大な[[フランス植民地帝国|植民地]]はヴィシー政権に引き継がれた。(ただし[[仏領インドシナ連邦]]においては、ヴィシー政権の合意の元にドイツの同盟国である[[日本]]の[[仏印進駐]]を許した)。このため、[[イギリス]]を除く主要国はヴィシー政府を[[国家の承認|承認]]する態度をとった。ただし、ソ連は1941年6月30日に、他の連合国は1942年のドイツ軍による占領以降外交関係を断絶した。 |
|||
この状況でペタンはさらにドイツの歓心を得る必要があると感じ、ダルランを解任してラヴァルを再度起用することにした<ref name="murata2136">村田、二、136p</ref>。1942年4月18日、憲法行為11号によって国家元首と首相の役割が明確化され、首相には強い独裁権力が認められた。これは、首相に就任したラヴァルの要求によるものであり、ペタンは首相を退いて国家元首専任となり、事実上引退状態となった<ref name="murata2136"/>。ラヴァルは6月22日に「ボルシェヴィズム([[共産主義]])」を阻止するためにドイツの勝利を支持する声明を行い、フランス人捕虜1人解放に対してフランス人労働者3人をドイツ国内の工場に送ることとした。 |
|||
11月8日[[トーチ作戦]]が始まり、[[フランス領アルジェリア]]に連合軍が侵攻を開始した。このとき、ヴィシー政府軍総司令官であり、たまたま北アフリカにいたダルラン大将が英米軍と休戦条約を結んで北アフリカのヴィシー政府軍を降伏させたため、11月10日ドイツは自由地区を占領を開始し、政府は完全にドイツの支配下に置かれた([[アントン作戦]])。ドイツの頽勢を悟ったペタン元帥とラヴァル首相は、連合国とドイツの調停を行おうとしたが失敗した<ref>大井、955p</ref>。11月17日にはラヴァルをペタンの後継者とする憲法的法規が成立した<ref name="ooi957">大井、957p</ref>。 |
|||
一方で、国防次官であった[[シャルル・ド・ゴール]]准将は、フランスの休戦に同意せずイギリスに逃れ、[[ロンドン]]に亡命政権の[[自由フランス]]を樹立した。しかし、国際社会での評価は芳しくなく、国内でレジスタンス運動を展開していた一部の勢力からも否定的な評価を受けていた。[[ダンケルクの戦い]]などでイギリスに逃れたフランス軍兵士の大半も当初はド・ゴールに従わず、[[交戦団体]]としてしか扱われなかった。ヴィシー政府は合法的なフランス政府として“脱走兵”のド・ゴールを本人欠席の軍事裁判において重刑に裁いた。 |
|||
ドイツの要求はますます苛烈になり、1943年1月にはさらに25万人の労働者が要求された。ラヴァルは捕虜送還でも譲歩した上にこの要求を達成し、労働力配置総監[[フリッツ・ザウケル]]に「フランスだけがプログラムを100%履行した」といわしめた<ref name="murata2137">村田、二、137p</ref>。しかしこれはフランス国民に強い不満を与え、徴用忌避者による[[マキ (抵抗運動)|マキ]]が組織される元となった。 |
|||
ヴィシー政府は表面上中立を標榜していたが、ドイツの強い影響下にあったことは間違いなく、連合国や自由フランス軍と植民地における戦闘は行っていた。 |
|||
11月、ペタンは廃止した第三共和制議会を再開させようとし、憲法案を制定した。さらに親独派のラヴァルを遠ざけることを考え、11月27日にラヴァルの後継者指定を取り消した<ref name="ooi957"/>。しかしこれらの動きはドイツ側の介入によって失敗した。ペタンの側近数名が逮捕され、ドイツからは「顧問」が送り込まれた上に[[民兵団 (フランス)|ミリス(民兵団)]]の指導者[[ジョゼフ・ダルナン]]らが入閣するなどドイツ支配はさらに強化された<ref>大井、956-957p</ref>。1944年1月にはドイツがさらに労働者100万人を要求し、7月21日までに72万人が送り込まれた<ref>大井、958-959p</ref>。 |
|||
==== 枢軸国との関係 ==== |
|||
=== 崩壊 === |
|||
1944年、連合軍が北フランスに上陸すると、フランスのドイツ軍は次々に駆逐されていった。8月9日にラヴァルは第三共和政議会を招集させてヴィシー政府の合法性を認めさせようとパリに向かったが、徒労に終わった。ペタンも8月11日にド・ゴールに使者を送り、臨時政府に政権を譲って引退することで「政権の継続性」が与えられると交渉したが、受け入れられなかった<ref>大井、965p</ref>。8月25日にパリを守備していたドイツ軍は降伏し、ド・ゴールの[[フランス共和国臨時政府]]が帰国した。8月27日、ド・ゴールはペタンが送った使者と面会も拒絶した<ref>大井、972p</ref>。 |
|||
ヴィシー政府の閣僚はドイツによって拘束され、[[ジグマリンゲン]]([[:en:Sigmaringen|en]])に移された<ref>大井、952p</ref>。ジグマリンゲンではブリノン侯爵[[フェルナン・ド・ブリノン]]([[:fr:Fernand de Brinon]])を代表とし、ダルナンを内相とする[[フランス政府委員会]]([[:fr:Commission gouvernementale de Sigmaringen|fr]])が組織されたが、大きな影響を与える存在にはならなかった。 |
|||
== 国土 == |
|||
[[ファイル:Vichyfrance.GIF|thumb|200px|黄はドイツ軍の占領地域、橙は「保留地域」、紫はベルギー占領軍統治下の「禁止地域」、赤が禁止地域のうち、沿岸防備地域。青がドイツへの割譲地、緑がイタリア軍の占領地、白はヴィシー政府の支配地域である「自由地域」。]] |
|||
かねてからの係争地であった[[アルザス・ロレーヌ]]はドイツへ割譲されたものの、それ以外の地域には一応ヴィシー政府の主権が認められた。しかし[[パリ]]を含む北部と西部はドイツ、[[グルノーブル]]と[[ニース]]を含むイタリア国境から50kmのエリアはイタリアによって占領された。この地域はフランスの主権が認められたものの、占領地域([[:fr:Zone occupée]])として扱われ、政府の施政権は及ばなかった。また、フランシュ・コンテなどアルザス・ロレーヌの隣接区域は「保留地域」(Zone fermée)とされ占領地区とは別に扱われた。また[[北海]]・[[イギリス海峡]]・[[大西洋]]沿岸から数マイルのエリアと、ベルギー国境に近い現在の[[ノール=パ・ド・カレー地域圏]]付近は「禁止地域」([[:fr:Zone interdite]])とされて分離された。沿岸地域にはドイツ軍や[[トート機関]]が「[[大西洋の壁]]」と呼ばれる防御設備を設置した。またベルギー国境付近はベルギーの占領軍の統治下に置かれた。この占領地域の占領コストはフランス側が支払うこととなっており、一日あたり4億フラン<ref>村田、二、130p</ref>という莫大な出費となった。 |
|||
フランス政府が統治できるのは占領地域を除いた[[自由地域]]([[:fr:Zone libre]])と海外[[植民地]]であった。しかし自由地域においてもドイツとイタリアの軍事物資搬送や、ドイツが指定するドイツ人を引き渡す義務を負った。また自由地域と占領地域の間には境界線([[:fr:Ligne de démarcation]])が配置され、検問が行われた。しかし1942年11月のアントン作戦以降は全土が占領下に置かれた。 |
|||
ドイツ側にとってフランス全土を占領した場合は、海外植民地や海外に駐屯部隊やフランス海軍などの維持等が重い負担になる可能性がある為、親独的中立政権としてのヴィシー政府の存在は好都合だった。 |
|||
== 植民地 == |
|||
政権成立当初、[[フランス領赤道アフリカ]]と[[フランス領カメルーン]]([[:fr:Cameroun|fr]])を除く[[フランス植民地帝国|フランス植民地]]はヴィシー政権を承認した。シリアやレバノンなど、ヴィシー政権を支持する植民地には連合国軍が侵攻する場合もあった。戦況の変化に従い、自由フランスにつく植民地や、連合国と独自に交渉を行って中立を維持しようとする植民地も現れた。マダガスカルや[[フランス領アンティル]]のように、連合軍が当初中立を求める予定であったのに、自由フランスの介入によって現地政府が打倒されるというケースもあった([[マダガスカルの戦い]])。1944年までに日本の占領下にあった[[フランス領インドシナ]]以外の植民地政府はおおむねヴィシー政権の影響下から逃れた。 |
|||
== 政治 == |
|||
政府は一応共和国とされたが、ペタンの権威を根拠とする特殊なものであった<ref>村田、一、178p</ref>。この体制は新憲法制定を目的とする建前を取っていたが、ヴィシー政府の四年間の統治の間、憲法制定のための国民会議は一度も招集されなかった<ref name="murata1179">村田、一、179p</ref>。その代わりペタンは「憲法行為」([[:fr:Actes constitutionnels de Vichy|Actes constitutionnels]])という命令を行い、フランスの統治を行った。1940年7月11日には第一号の憲法行為として自らを「国家元首」(chef de l'Etat français)とし、大統領選挙を廃止した。さらに国家元首は立法権、執行権を持つ、独裁的権力者と定義した<ref name="murata1179"/>。しかしドイツの影響から自由にはなれず、ドイツに近いラヴァルも大きな権力を持っていた。1942年4月18日以降は首相が事実上の最高権力者となり、国家元首であるペタンは半引退状態に追い込まれた。 |
|||
またフランスの標語である「[[自由・平等・博愛]]」は「労働・家族・祖国」([[:fr:Travail, Famille, Patrie|Travail, Famille, Patrie]])に置き換えられた。 |
|||
== 軍事 == |
|||
[[ファイル:VichyFlag.svg|thumb|200px|軍旗]] |
|||
動員されていたフランス兵は武装解除され、武器はドイツに引き渡された<ref name="murata1176">村田、一、176p</ref>。また捕虜も解放されず、ドイツ国内に留め置かれた。 |
|||
本国の[[陸軍]]は「国内秩序の維持に必要な」10万人に制限され、武器はドイツ軍とイタリア軍の監視下に置かれた。[[マダガスカル]]や[[仏領インドシナ|インドシナ]]などの植民地軍はこの制限の適用範囲外とされた。一方で1940年8月29日には「[[在郷軍人奉公会]]」(Légion Francaise des Combattant)という[[在郷軍人]]を組織した準軍事組織を作った。この組織からはやがて[[保安部隊]]([[:fr:Service d'ordre légionnaire]]、略称SOL)や[[民兵団 (フランス)|ミリス(民兵団)]]などが生まれた。 |
|||
海軍はドイツ軍とほとんど交戦しなかったが、「植民地の維持に必要な艦船」を除いて武装解除された<ref name="murata1176"/>。 |
|||
== 対外関係 == |
|||
イギリスは1940年6月23日にヴィシー政府を否認する声明を行ったが、その他の主要国はヴィシー政府を[[国家の承認|承認]]する態度をとった。ただし、ソ連は1941年6月30日に、他の連合国は1942年のドイツ軍による占領以降外交関係を断絶した。 |
|||
=== 枢軸国との関係 === |
|||
[[日本]]や[[満州国]]、[[イタリア]]などの[[枢軸国]]各国は、ヴィシー政権率いるフランスを[[国家の承認|承認]]しており、日本はヴィシー政権との協定をもとに、フランス領[[インドシナ]]に進駐([[仏印進駐]])した。その後の[[1944年]]に行われた[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍によるフランス解放ならびに、[[シャルル・ド・ゴール]]によるヴィシー-日本間の協定無効宣言が行われた後、[[1945年]]3月に日本軍によるインドシナ政庁をめぐる[[クーデター]]([[明号作戦]])が起きるまで、インドシナ[[植民地]]におけるフランスの主権は存続した。 |
[[日本]]や[[満州国]]、[[イタリア]]などの[[枢軸国]]各国は、ヴィシー政権率いるフランスを[[国家の承認|承認]]しており、日本はヴィシー政権との協定をもとに、フランス領[[インドシナ]]に進駐([[仏印進駐]])した。その後の[[1944年]]に行われた[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍によるフランス解放ならびに、[[シャルル・ド・ゴール]]によるヴィシー-日本間の協定無効宣言が行われた後、[[1945年]]3月に日本軍によるインドシナ政庁をめぐる[[クーデター]]([[明号作戦]])が起きるまで、インドシナ[[植民地]]におけるフランスの主権は存続した。 |
||
== コラボラシオン(対独協力) == |
|||
== 国内 == |
|||
[[File:Bundesarchiv Bild 101I-720-0318-36, Frankreich, Milizionär bewacht Widerstandskämpfer.jpg|220px|thumb|逮捕したレジスタンスを監視するミリスの隊員。1944年6月21日]] |
|||
=== コラボラシオン(対独協力) === |
|||
多くの[[フランス人]]は、積極的・または消極的にヴィシー政府の統治を受け入れた。一部の人々は積極的な[[コラボラシオン]](対独協力)の姿勢をとり、それ以外の多くの人々はヴィシー政府下の平穏を受け入れて沈黙を続けた。その一方で、少数ながら[[レジスタンス運動]]を始める動きもあったが、本格的なレジスタンス運動が見られるのは戦況がドイツにとって不利になり始めてからである。 |
多くの[[フランス人]]は、積極的・または消極的にヴィシー政府の統治を受け入れた。一部の人々は積極的な[[コラボラシオン]](対独協力)の姿勢をとり、それ以外の多くの人々はヴィシー政府下の平穏を受け入れて沈黙を続けた。その一方で、少数ながら[[レジスタンス運動]]を始める動きもあったが、本格的なレジスタンス運動が見られるのは戦況がドイツにとって不利になり始めてからである。 |
||
ヴィシー政府下での対独協力は、政治・経済・文化面の多岐に及んだ。[[反ユダヤ主義]]が広がる中で「ユダヤ人狩り」が行われ、強制収容所への輸送も担った。ドイツ軍の占領費を支出したほか、安価にフランスの資源をドイツに提供した。ドイツ軍将校の愛人となった[[ココ・シャネル]]など親ドイツ的な文化人も増加し、ヴィシー政府の統治やドイツの占領政策を支えることになった。軍事 |
ヴィシー政府下での対独協力は、政治・経済・文化面の多岐に及んだ。[[反ユダヤ主義]]が広がる中で「ユダヤ人狩り」が行われ、強制収容所への輸送も担った。ドイツ軍の占領費を支出したほか、安価にフランスの資源をドイツに提供した。ドイツ軍将校の愛人となった[[ココ・シャネル]]など親ドイツ的な文化人も増加し、ヴィシー政府の統治やドイツの占領政策を支えることになった。軍事面では首相ラヴァルを指導者とする民兵組織 [[民兵団 (フランス)| ミリス(民兵団)]]がレジスタンス狩りなどに参加し、[[第33SS武装擲弾兵師団]]などに志願する者も現れた。 |
||
一方で[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]や[[フリッツ・ザウケル]]といったドイツ高官はペタンやラヴァルが協力的ではないと見ており、日記や報告で言及している。またヒトラーは「ド・ゴールはラヴァルが策術で得ようとしているものを逆に力のみで得ようとしている」と評した<ref name="ooi1080">大井、1080p</ref>。 |
|||
=== 迫害 === |
|||
ヴィシー政権下では、ナチス・ドイツにおいて行われたような[[ユダヤ人]]、[[ロマ]]、[[同性愛者]]、精神病者への迫害が行われた。1940年10月9日にはフランスではじめてのユダヤ人迫害法([[:en:Statute on Jews]])が成立している。 |
|||
== レジスタンス == |
|||
[[ファイル:Members of the Maquis in La Tresorerie.jpg|thumb|200px|レジスタンスのメンバー]] |
[[ファイル:Members of the Maquis in La Tresorerie.jpg|thumb|200px|レジスタンスのメンバー]] |
||
ヴィシー政府成立後まもなくは、ペタンが戦争の苦難から救ったという考えが広まっており、それほど大きな勢いはなかった。しかし苛烈な対独協力は市民の反感を招き、1940年の秋頃からはデモやレジスタンスの宣伝活動が高まった。1941年春にはパ=ド=カレー炭坑で10万人規模の大ストライキも発生した<ref>村田、三、125-126p</ref>。[[独ソ戦]]開始以降は共産党などの左派もレジスタンスに加わった。しかし1942年11月まではレジスタンスは分派しており、しかも少数派であった<ref>村田、三、127p</ref>。 |
|||
ヴィシー政府成立後まもなくのレジスタンス運動は、限られた一部の運動でしかなかったし、その統率を欠いていた。海外に逃れた勢力や[[植民地]]においても、ロンドンのド・ゴールとアルジェのジローの間には反目がみられたし、国内のレジスタンス運動においても政治的信条をめぐり結束は実現しなかった。国内と海外の結びつきもこの段階では弱かった。いわゆる“レジスタンス”神話は、戦後になってド・ゴール政権が自己の正統性の根拠として過大に作られたものがほとんどであるという意見もある<ref>[http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/report/2-pdf/4_bungaku1/4_16.pdf 対独協力の観点から見た戦後フランスの政治と文化]</ref>。 |
|||
1942年11月のドイツによる全土占領は、それまで残っていたヴィシー政権への幻想を一気に打ち砕いた。1943年1月には南部の三大レジスタンス運動が統合され、共産党が[[自由フランス]]に参加した。また、元首相[[レオン・ブルム]]も[[フランス社会党 (SFIO)|社会党]]の名において自由フランス支持を行った。5月15日にはフランス国内でレジスタンスの統一組織、[[全国抵抗評議会]](CNR)が設立された<ref>村田、三、128p</ref>。 |
|||
こうした状況が変化するのは1943年以降となる。北アフリカ失陥により、ヴィシー政権に対するドイツの締め付けは強化され、住民の反独感情は高まった。 |
|||
一方でいわゆる“レジスタンス”神話は、戦後になってド・ゴール政権が自己の正統性の根拠として過大に作られたものがほとんどであるという意見もある<ref>[http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/report/2-pdf/4_bungaku1/4_16.pdf 対独協力の観点から見た戦後フランスの政治と文化]</ref>。 |
|||
== 崩壊 == |
|||
[[1940年]]9月に[[ダカール沖海戦]]、11月に[[イギリス]]、自由フランス連合軍が[[ガボン]]に侵攻、[[1941年]]7月には[[シリア]]、[[レバノン]]に侵攻、[[1942年]]5月から11月には[[マダガスカルの戦い|マダガスカル]]に侵攻した。1942年11月8日[[トーチ作戦]]が始まり、[[フランス領アルジェリア]]に連合軍が侵攻を開始した。このとき、ヴィシー政府軍総司令官であった[[フランソワ・ダルラン]]([[:en:François Darlan|en]])大将が英米軍と休戦条約を結んだため、11月10日ドイツはヴィシー政権下のフランス全土を占領し、政府は完全にドイツの支配下に置かれた。 |
|||
== 裁判 == |
|||
1944年、連合軍が北フランスに上陸すると、フランスのドイツ軍は次々に駆逐されていった。ヴィシー政府はドイツに亡命したが、大きな影響を与える存在にはならなかった。 |
|||
{{see also|エピュラシオン}} |
|||
ヴィシー政府関係者の裁判はアルジェで国民解放委員会が成立したときから始まっており、終戦によって加速された。 |
|||
ペタンは4月24日にドイツの保護下から離れ、一旦スイスに入ってからフランスに帰国、4月26日に逮捕された。前後してラヴァルをはじめとする閣僚も逮捕された。1944年11月18日には臨時政府によってヴィシー政府高官を裁くための高等法院が設置されたが、裁判官はかつてヴィシー政府によって任命された者達であった。裁判は[[一審制]]であり、欠席裁判で10名に死刑判決が下ったほか、ラヴァル、ダルナン、ブリノンら3名が死刑となったが、ペタンをふくむ5名が終身刑に減刑された。ヴィシー政権関係者の粛清「エピュラシオン」による訴追人数は10万人におよぶと見られ、2071人に死刑判決が下ったが、1303名が減刑された<ref>大井、1034-1035p</ref>。1951年には最初の[[特赦]]法が成立し、収監されていた関係者が釈放され始めた。 |
|||
== 評価 == |
|||
ヴィシー政府は[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]側から「傀儡政権」とされ、連合国側の勝利、自由フランスによる[[フランス共和国臨時政府]]の成立、[[フランス第四共和政|第四共和政]]の樹立とともにそのような評価が一般的となった。このため、フランス第四共和政はヴィシー政府からの[[継承国]]と見なされていない。 |
|||
しかし、ヴィシー時代の対独協力が擬態であったか否かについての議論は継続されており、しばしば政治的問題ともなる。また、第四共和政以降、政治家や[[官僚]]として戦後のフランスの政治を支えた人物の中には、[[フランソワ・ミッテラン]]をはじめ、ヴィシー政権下でそのキャリアの最初を送った者も少なくなく、政権の評価に影響を与えている。 |
|||
=== 歴史家による議論 === |
|||
フランスの歴史家[[ロベール・アロン]]は1954年の著作『ヴィシーの歴史』で、ヴィシー政府が公式にはドイツに同調・協力しているように見せながら、実際には秘密の交渉などで統治を骨抜きにする努力を行い、フランス国民のための盾となっていたとした。しかしアメリカの歴史家[[ロバート・パクストン (歴史家)|ロバート・パクストン]]([[:en:Robert Paxton|en]])は1972年の著書『ヴィシー・フランス、旧勢力と新体制』でアロンの説を否定し、ドイツの占領軍が少数であったことなどを指摘し、戦後の体制がドイツ有利になるとみたヴィシー政府が積極的な対独協力を行っていたとした<ref>大井、1070-1071p</ref>。歴史家の[[ジャン・マルク=ヴァロー]]([[:fr:Jean-Marc Varaut|fr]])はパクストンの批判を現在のイデオロギーから見たものであると批判した<ref>大井、1073p</ref>。またフランスの歴史家[[マルク・フェロー]]は1987年の著書『ペタン』においてペタンが人命と物財守った代わりに国家の名誉を失った犠牲者であるとした<ref name="ooi1076"/>。その後もパクストンは基本的に見方を変えていないが、ヴィシーを理解することは「ますます魅力的な、そして未完の事業」であるとして、将来の議論に期待する旨を記している<ref>大井、1074p</ref>。 |
|||
=== ペタンに対する評価 === |
|||
1951年のペタンの死後、ウェイガン大将の呼びかけで「ペタン元帥の追憶を守るための協会」([[:fr:Association pour défendre la mémoire du maréchal Pétain|fr]])が樹立された。この協会はペタンの名誉回復を求め続けたが、極右的政治勢力の温床にもなった<ref>大井、1074p</ref>。1958年にド・ゴールが大統領になると、「[[第一次世界大戦]]の勝利に貢献した」として、その年11月11日の第一次世界大戦戦勝記念日にあたる[[追憶の日]]([[:fr:Jour du Souvenir|fr]])、ペタンの墓碑へ花輪を贈った。しかしペタン信奉者の一部は不快に思い、ド・ゴールの名のついたリボンを引き裂いた。その後、歴代の大統領はこの慣行を継続したが、1993年に11月8日、ミッテラン大統領は花輪の慣行を取りやめることを声明した。 |
|||
1984年にはヴィシー政府の産業次官[[フランソワ・レイドー]]([[:fr:François Lehideux|fr]])とペタンの弁護人で国会議員を務めた[[ジャック・イゾルニ]]([[:fr:Jacques Isorni|fr]])がペタンを弁護する新聞広告を出した。この広告は政府によって禁止され、二人は控訴したが「犯罪即ち対独協力罪の弁明」として有罪となった。両者は[[ストラスブール]]の[[欧州人権裁判所]]に提訴し、1998年にフランス政府の行為は表現の自由の侵害であるという判決を受けた。原告二人はすでに死亡していたが、遺族が慰謝料を受け取った<ref name="ooi1076">大井、1076p</ref> |
|||
=== ラヴァルに対する評価 === |
|||
チャーチルはその著書「[[第二次世界大戦回顧録]]」でラヴァルを「自分の後の行為と死の恥辱にもかかわらず、明確に遠くを見通していた」と評した。これに対してラヴァルの娘ジョゼはドイツ高官がラヴァルの非協力姿勢を語っていたことを指摘し、ラヴァルもまた偉大な姿勢を取ったのだと手紙で反論した<ref name="ooi1080"/>。 |
|||
ド・ゴールが大統領を辞任した後の1970年、ラヴァル裁判の未公開史料が一部に閲覧を許された。ジョゼの夫で弁護士の[[ルネ・ド・シャンブラン]]([[:fr:René de Chambrun|fr]])はド・ゴール時代から[[ジョルジュ・ポンピドゥー]]大統領と交渉しており、史料の閲覧を行った。この後シャンブランと会談した元首相[[ジョルジュ・ビドー]]は、ラヴァルの裁判は1945年10月の制憲議会選挙までにラヴァルを消す必要があったド・ゴールらの陰謀だと告げた。シャンブランは1983年に『歴史の前のピエール・ラヴァル』を出版し、裁判の無効を要求した。歴史家[[フェルド・クプフェルマン]]([[:fr:Fred Kupferman|fr]])がシャンブランと連絡を取って『ラヴァル』の執筆を始めると、匿名の人物によって「ラヴァル直筆の判決反論書」がシャンブランの元に渡った。このほかにも大量の史料が送られ、その資料によってシャンブランは『ピエール・ラヴァルのための我が闘争』を1990年に出版した。また歴史家[[ジャン=ポール・コワンテ]]([[:fr:Jean-Paul Cointet|fr]])は、ペタンの裁判は真の裁判であったが、ラヴァルの裁判は戯画であったと指摘した上で「敵を欺く事に長けていたと見られていた」ラヴァルが、イギリス人やドイツ人、ペタンにも欺かれていたのではないかと疑問を呈した<ref>大井、1081-1083p</ref>。 |
|||
== 年表 == |
== 年表 == |
||
112行目: | 166行目: | ||
*11月5日、マダガスカル陥落。 |
*11月5日、マダガスカル陥落。 |
||
*11月8日、連合国軍が[[トーチ作戦]]を開始。[[フランス領アルジェリア]]のヴィシー政権軍と交戦開始。 |
*11月8日、連合国軍が[[トーチ作戦]]を開始。[[フランス領アルジェリア]]のヴィシー政権軍と交戦開始。 |
||
*11月10日、アルジェリアにいた海軍大臣兼フランス軍総司令官[[フランソワ・ダルラン]] |
*11月10日、アルジェリアにいた海軍大臣兼フランス軍総司令官[[フランソワ・ダルラン]]が連合国と休戦協定を結ぶ。アルジェリアの政府関係者は逮捕され、20万人のヴィシー将兵が連合国側に降伏。 |
||
**同日、ドイツが[[アントン作戦]] |
**同日、ドイツが[[アントン作戦]]を発動し、ヴィシーフランスの本土全域の占領を開始。 |
||
*11月27日、ドイツ側が[[トゥーロン]]の艦艇を接収しようとしたため、艦船の大部が自沈する([[:en:Scuttling of the French fleet in Toulon]])。 |
*11月27日、ドイツ側が[[トゥーロン]]の艦艇を接収しようとしたため、艦船の大部が自沈する([[:en:Scuttling of the French fleet in Toulon]])。 |
||
*12月7日、ダルランが連合国の承諾を受けて、北アフリカにおけるフランス国家元首兼北フランスにおける陸海空軍部隊総司令官兼北アフリカ総督に就任する。 |
*12月7日、ダルランが連合国の承諾を受けて、北アフリカにおけるフランス国家元首兼北フランスにおける陸海空軍部隊総司令官兼北アフリカ総督に就任する。 |
||
121行目: | 175行目: | ||
*1月14日、[[カサブランカ会談]]。フランスのトップを決めるための調整が行われるが、決裂。 |
*1月14日、[[カサブランカ会談]]。フランスのトップを決めるための調整が行われるが、決裂。 |
||
*5月13日、北アフリカの枢軸軍が降伏、北アフリカ全域が連合国の支配下に落ちる |
*5月13日、北アフリカの枢軸軍が降伏、北アフリカ全域が連合国の支配下に落ちる |
||
*5月15日、フランス国内でレジスタンスの統一組織、[[ |
*5月15日、フランス国内でレジスタンスの統一組織、[[全国抵抗評議会]](CNR)が設立。ド・ゴールをフランスレジスタンスの指導者として認める声明を出す。 |
||
*6月3日、フランス領アルジェリアで[[フランス国民解放委員会]]([[:en:French Committee of National Liberation|en]])が結成される。共同代表はジローとド・ゴール。 |
*6月3日、フランス領アルジェリアで[[フランス国民解放委員会]]([[:en:French Committee of National Liberation|en]])が結成される。共同代表はジローとド・ゴール。 |
||
131行目: | 185行目: | ||
*8月20日、ラヴァルが首相を辞任 |
*8月20日、ラヴァルが首相を辞任 |
||
*8月25日、連合国軍による[[パリの解放]]。 |
*8月25日、連合国軍による[[パリの解放]]。 |
||
*9月7日、ヴィシー政府は南ドイツの[[ジグマリンゲン]]に移る。 |
*9月7日、ヴィシー政府閣僚は南ドイツの[[ジグマリンゲン]]に移る。ブリノンを長とする[[フランス政府委員会]]([[:fr:Commission gouvernementale de Sigmaringen|fr]])が組織される。 |
||
*10月23日、フランス共和国臨時政府がイギリス、アメリカ、ソ連の承認を受ける。 |
*10月23日、フランス共和国臨時政府がイギリス、アメリカ、ソ連の承認を受ける。 |
||
137行目: | 191行目: | ||
*3月9日、日本軍[[第38軍 (日本軍)|第38軍]]、インドシナ総督府をのっとる([[明号作戦]])。その保護国があいついで独立を宣言。 |
*3月9日、日本軍[[第38軍 (日本軍)|第38軍]]、インドシナ総督府をのっとる([[明号作戦]])。その保護国があいついで独立を宣言。 |
||
*4月22日、ジグマリンゲンの亡命政府が連合軍に逮捕される |
*4月22日、ジグマリンゲンの亡命政府が連合軍に逮捕される |
||
*4月26日、ペタンがスイスからフランス国内に入り、逮捕される |
|||
== その後 == |
|||
ヴィシー政府は[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]側から「傀儡政権」とされ、連合国側の勝利、自由フランスによる[[フランス共和国臨時政府]]の成立、[[フランス第四共和政|第四共和政]]の樹立とともにそのような評価が一般的となった。このため、フランス第四共和政はヴィシー政府からの[[継承国]]と見なされていない。 |
|||
しかし、第四共和政以降、政治家や[[官僚]]として戦後のフランスの政治を支えた人物の中には、[[フランソワ・ミッテラン]]をはじめ、ヴィシー政権下でそのキャリアの最初を送った者も少なくない。 |
|||
== 政府の変遷 == |
== 政府の変遷 == |
||
;[[国家主席]]({{lang-fr|Chef de l'État français}}) |
;[[国家主席]]({{lang-fr|Chef de l'État français}}) |
||
*[[フィリップ・ペタン]]([[1940年]][[7月11日]] - [[1944年]][[8月19日]]) |
*[[フィリップ・ペタン]]([[1940年]][[7月11日]] - [[1944年]][[8月19日]]) |
||
=== 第一次ラヴァル政権 === |
|||
;[[首相]] |
|||
[[1940年]][[7月12日]] - [[1940年]][[12月12日]] |
|||
([[:fr:Gouvernement Pierre Laval (5)]]) |
|||
*[[ピエール・ラヴァル]]([[1942年]][[4月18日]] - [[1944年]][[8月20日]]) |
|||
*フィリップ・ペタン - 首相(国家主席兼任)([[1940年]][[7月10日]] - [[1942年]][[4月18日]]) |
|||
;[[副首相]] |
|||
* |
* ピエール・ラヴァル - 副首相、1940年10月28日より外相 |
||
* [[ラファエル・アルバート]]([[:fr:Raphaël Alibert]]) - 国璽尚書兼法務大臣 |
|||
*[[ピエール=エティエンヌ・フランダン]]([[:en:Pierre-Étienne Flandin|en]])([[1940年]][[12月13日]] - [[1941年]][[2月9日]]) |
|||
* [[:fr:Yves Bouthillier]] - 財務大臣 |
|||
*[[フランソワ・ダルラン]]([[1941年]][[2月9日]] - [[1942年]][[4月18日]]) |
|||
* [[ポール・ボードウィン]]([[:fr:Paul Baudouin]]) - 外務大臣(-1940年10月28日) |
|||
* [[ピエール・カジオ]]([[:fr:Pierre Caziot]])- 農業食糧大臣 |
|||
* [[レネ・ブラン]]([[:fr:René Belin|fr]]) - 労働問題担当国務相 |
|||
* [[マキシム・ウェイガン]] - 国防大臣、北アフリカ軍最高司令官(-1941年11月) |
|||
* [[ルイ・コルソン]]([[:fr:Louis Colson|fr]]) - 陸軍大臣(-1940年9月) |
|||
* [[ベルトラン・プジョー]]([[:fr:Bertrand Pujo|fr]]) - 空軍大臣(-1940年9月) |
|||
* [[フランソワ・ダルラン]] - 海軍大臣 |
|||
* [[エイドリアン・マルケ]]([[:fr:Adrien Marquet|fr]]) - 内務大臣(-1940年9月) |
|||
* [[エミール・ミロー]]([[:fr:Émile Mireaux|fr]]) - 文化教育大臣(-1940年9月) |
|||
* [[:fr:Jean Ybarnegaray]] - 家族・青少年問題担当国務相{{訳語疑問点|date=2011年3月}}(-1940年9月) |
|||
* [[フランソワ・ピエトリ]]([[:fr:François Piétri|fr]]) - 官房長官{{訳語疑問点|date=2011年3月}}(-1940年9月) |
|||
* [[アンリ・レムリー]]([[:fr:Henri Lémery|fr]]) - 植民地長官(-1940年9月) |
|||
1940年7月16日に以下の閣僚が追加された。 |
|||
* [[ジョルジュ・デイラス]]([[:fr:Georges Dayras|fr]]) - 法制長官{{訳語疑問点|date=2011年3月}} |
|||
* [[:fr:Henri Deroy]] - 公共金融長官{{訳語疑問点|date=2011年3月}} |
|||
* [[ジャン・フェルネット]]([[:fr:Jean Fernet|fr]]) - 評議会議長事務長官{{訳語疑問点|date=2011年3月}} |
|||
* [[:fr:Olivier_Moreau-Néret]] - 経済問題担当長官 |
|||
* [[モーリス・シュワルツ]]([[:fr:Maurice Schwartz|fr]]) - 運輸長官 |
|||
1940年9月に大幅な改造が行われた。 |
|||
* [[シャルル・ユンツィジェ]]([[:fr:Charles Huntziger|fr]]) - 陸軍大臣(1940年9月-) |
|||
* [[ジャン・ベルジュレ]]([[:fr:Jean Bergeret|fr]]) - 空軍大臣(1940年9月-) |
|||
* [[:fr:Marcel Peyrouton]]) - 内務大臣(1940年9月-) |
|||
* [[エミール・ミロー]]([[:fr:Émile Mireaux|fr]]) - 文化教育大臣(1940年9月-) |
|||
* [[:fr:Georges Lamirand]] - 青少年問題担当長官(1940年9月-) |
|||
* [[ジャン・ベルトラン]]([[:fr:Jean Berthelot|fr]]) - 官房長官(1940年9月-) |
|||
* [[シャルル・プラトン]]([[:fr:Charles Platon|fr]]) - 植民地長官(1940年9月-) |
|||
* [[オーギュスト・ロール]](([[:fr:Auguste Laure|fr]]) - 国務長官{{訳語疑問点|date=2011年3月}}(1940年11月18日-) |
|||
=== フランダン政権 === |
|||
[[1940年]][[12月13日]] - [[1941年]][[2月9日]] |
|||
([[:fr:Gouvernement Pierre-Étienne Flandin (2)]]) |
|||
* フィリップ・ペタン - 首相(国家主席兼任)([[1940年]][[7月10日]] - [[1942年]][[4月18日]]) |
|||
* [[ピエール=エティエンヌ・フランダン]]([[:en:Pierre-Étienne Flandin|en]])- 副首相、1940年12月13日より外務大臣兼務 |
|||
* ポール・ボードウィン - 評議会議長国務大臣 |
|||
* シャルル・ユンツィジェ - 国防大臣、1941年1月まで陸軍大臣兼務 |
|||
* フランソワ・ダルラン - 海軍大臣 |
|||
* Marcel Peyrouton - 内務大臣 |
|||
* Yves Bouthillier - 財務大臣 |
|||
※主要閣僚のみ |
|||
=== ダルラン政権 === |
|||
[[1941年]][[2月9日]] - [[1942年]][[4月18日]] |
|||
([[:fr:Gouvernement François Darlan]]) |
|||
* フィリップ・ペタン - 首相(国家主席兼任)([[1940年]][[7月10日]] - [[1942年]][[4月18日]]) |
|||
* フランソワ・ダルラン- 副首相、海軍大臣、内務大臣兼務 |
|||
* ポール・ボードウィン - 評議会議長国務大臣 |
|||
* シャルル・ユンツィジェ - 国防大臣 |
|||
* Yves Bouthillier - 財務大臣 |
|||
* [[アンリ・ジロー]] - 通信大臣 |
|||
※主要閣僚のみ |
|||
=== 第二次ラヴァル政権 === |
|||
[[1942年]][[4月18日]] - [[1944年]][[8月19日]] |
|||
([[:fr:Gouvernement Pierre Laval (6)]]) |
|||
* ピエール・ラヴァル - 首相、外務大臣、内務大臣、情報大臣兼務 |
|||
* [[ユージン・ブリドー]]([[:fr:Eugène Marie Louis Bridoux|fr]]) - 国防大臣 |
|||
* Yves Bouthillier - 財務大臣 |
|||
* [[:fr:Gabriel Auphan]] - 海洋大臣 |
|||
* [[クサヴィエ・バラ]]([[:fr:Xavier Vallat|fr]]) - ユダヤ人問題担当委員 |
|||
* ジョゼフ・ダルナン - 治安担当長官(1942年12月31日 - 1944年6月13日) |
|||
※主要閣僚のみ |
|||
== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
||
* [[渡辺和行]]『ナチ占領下のフランス <small>沈黙・抵抗・協力</small>』([[講談社]]選書メチエ、1994年) ISBN 4-06-258034-9 |
* [[渡辺和行]]『ナチ占領下のフランス <small>沈黙・抵抗・協力</small>』([[講談社]]選書メチエ、1994年) ISBN 4-06-258034-9 |
||
* [[児島襄]]『誤算の論理』([[文春文庫]]、1990年) ISBN 4-16-714134-5 |
* [[児島襄]]『誤算の論理』([[文春文庫]]、1990年) ISBN 4-16-714134-5 |
||
* [[大井孝]]『欧州の国際関係 1919-1946』( [[たちばな出版]]、 2008年)ISBN 978-4813321811 |
|||
*[[村田尚紀]] |
|||
::『[http://ci.nii.ac.jp/naid/110007620653 戦後フランス憲法前史研究ノート(一)]』 |
|||
::『[http://ci.nii.ac.jp/naid/110007620631 戦後フランス憲法前史研究ノート(二)]』 |
|||
::『[http://ci.nii.ac.jp/naid/110007620609 戦後フランス憲法前史研究ノート(三)]』 |
|||
== 関連書籍 == |
== 関連書籍 == |
||
* ジャン・ドフラーヌ 著\大久保敏彦・松本真一郎 訳『対独協力の歴史』([[白水社]]文庫クセジュ、1990年) ISBN 4-560-05705-2 |
* ジャン・ドフラーヌ 著\大久保敏彦・松本真一郎 訳『対独協力の歴史』([[白水社]]文庫クセジュ、1990年) ISBN 4-560-05705-2 |
||
165行目: | 288行目: | ||
{{commonscat|Vichy France}} |
{{commonscat|Vichy France}} |
||
* [[フランスの歴史]] |
* [[フランスの歴史]] |
||
* [[:en:Foreign relations of Vichy France| |
* [[ヴィシー政権の外交関係]]([[:en:Foreign relations of Vichy France|en]]) |
||
* [[:en:The Vichy 80]] ヴィシー政府発足に反対した80人の国会議員リスト |
* [[:en:The Vichy 80]] ヴィシー政府発足に反対した80人の国会議員リスト |
||
*[[第二次世界大戦下フランスの軍事史]]([[:en:Military history of France during World War II|en]]) |
|||
*[[ナチス・ドイツによるフランス占領]]([[:en:German occupation of France during World War II|en]]) |
|||
*[[イタリア王国によるフランス占領]]([[:en:Italian occupation of France during World War II|en]]) |
|||
*[[エピュラシオン]] ([[:fr:Épuration à la Libération en France]]) |
|||
;関連人物 |
;関連人物 |
||
* [[マキシム・ウェイガン]](降伏時の総司令官。国防相などを歴任) |
|||
* [[カール・オーベルク]](駐フランス[[親衛隊及び警察指導者]]) |
* [[カール・オーベルク]](駐フランス[[親衛隊及び警察指導者]]) |
||
* [[オットー・アベッツ]] (駐フランス大使) |
* [[オットー・アベッツ]] (駐フランス大使) |
||
* [[フランソワ・ダルラン]] |
|||
* [[アンリ・ジロー]] |
|||
* [[ジャン・リュシェール]] |
* [[ジャン・リュシェール]] |
||
;ヴィシー政府協力組織 |
;ヴィシー政府協力組織 |
||
* [[アクション・フランセーズ]] |
* [[アクション・フランセーズ]] |
||
* [[民兵団 (フランス)|ミリス(民兵団)]] |
* [[民兵団 (フランス)|ミリス(民兵団)]] - [[ジョゼフ・ダルナン]] |
||
* [[コラボラトゥール]] |
* [[コラボラトゥール]] |
||
* [[人民党 (フランス)|人民党]] - [[ジャック・ドリオ]] |
* [[人民党 (フランス)|人民党]] - [[ジャック・ドリオ]] |
||
206行目: | 329行目: | ||
[[arz:فرنسا فيشى]] |
[[arz:فرنسا فيشى]] |
||
[[bg:Режим Виши]] |
[[bg:Режим Виши]] |
||
[[br:Stad C'hall]] |
|||
[[ca:Govern de Vichy]] |
[[ca:Govern de Vichy]] |
||
[[cs:Vichystická Francie]] |
[[cs:Vichystická Francie]] |
||
238行目: | 362行目: | ||
[[ro:Regimul de la Vichy]] |
[[ro:Regimul de la Vichy]] |
||
[[ru:Режим Виши]] |
[[ru:Режим Виши]] |
||
[[sh:Višijevska Francuska]] |
|||
[[simple:Vichy France]] |
[[simple:Vichy France]] |
||
[[sk:Francúzsky štát]] |
[[sk:Francúzsky štát]] |
2011年3月26日 (土) 04:03時点における版
- フランス国
- État français
-
← 1940年 - 1944年 → (国旗) (国章) - 国の標語: Travail, famille, patrie
(フランス語:勤労、家族、祖国) -
公用語 フランス語 首都 ヴィシー 通貨 フラン 時間帯 UTC +1(DST: +2)
ヴィシー政権(ヴィシーせいけん、仏:Régime de Vichy)は、第二次世界大戦中のフランス南部の政権(1940年 - 1944年)。フランス中部の町、ヴィシーに首都を置いたことからそう呼ばれた。「ヴィシー政府」、「ヴィシー・フランス」ともいい、この政権下の体制を「ヴィシー体制」と呼ぶ。正式国名はフランス国(État français、エタ・フランセ)。
歴史
成立
1940年6月にナチス・ドイツのフランス侵攻でフランスは敗北した。ポール・レノー首相ら抗戦派にかわって和平派が政権を握り、6月17日に副首相であったフィリップ・ペタン元帥が首相となった。6月21日、ペタンの政府はドイツとイタリアに対し休戦を申し入れた。6月22日には独仏休戦協定が締結され、フランス北部などの地域の占領が決まった。レノーやアルベール・ルブラン大統領は抗戦継続のためにカサブランカに逃亡しようとしたが身柄を拘束された[1]。一方でレノー政権の国防次官でペタンの部下でもあったシャルル・ド・ゴール准将はロンドンに亡命し、「自由フランス」を結成した。
フランス政府は7月1日に臨時首都に指定していたボルドーから中部の都市であるヴィシーに移転した。政府首班兼首相には、第三共和政最後の首相で第一次世界大戦の英雄であったペタン元帥が就任し、副首相にはピエール・ラヴァルが就任した。ラヴァルはヒトラーから好意的な扱いを受けるためには、「堕落した民主主義」を廃して「絶対的権力を持つ権威国家」を樹立する必要があると考え、熱心にロビー活動を行った。6月25日、ラヴァルは次のように演説している。「旧秩序、フリーメーソン的かつ、資本主義的そして国際的妥協の政治制度が現在の立場に我々を導いた。フランスは、もはやそんなものを欲しない。我々は新しい計画、新しい人物を必要とする」[2]。また、新憲法制定の議会では「全ヨーロッパがフランスを置き去りにして新世界を建設しようとしている(中略)敗北した議会制民主主義は大胆で、権威的・社会的・国家的新制度にその道を譲らねばならぬ。(中略)議会が同意しないなら、ドイツは直ちにフランス全土を占領して(政治改革を)強制するだろう」[3]と演説している。7月2日、フランス艦隊の編入もしくは無力化を狙ったイギリスは、カタパルト作戦によるフランス艦隊の接収を図った。このためイギリスとフランスの間でメルセルケビール海戦が勃発し、政府とフランス国民の間で反英感情が高まった。このことはラヴァルの工作をより容易にした。
後にこの動きを知ったヒトラーは、国防軍最高司令部長官カイテル元帥と次のような会話をしている。「フランスが我がナチズムを信奉しているとは知らなかったな」「そうと知ったら攻撃の必要はありませんでした。まるで同士討ちをした想いです。」[4]
7月10日、ヴィシーで開催された国民議会は圧倒的多数で新憲法制定までの憲法的法律を制定した。その内容は「『フランス国(État français)』の新しい憲法を公布することを目的として、ペタン元帥の権威のおよび署名の元にある共和国の政府に全ての権限を与える」というものであった[5]。ペタンは強大な権限を持つこととなったが、実際の政治は副首相であるラヴァルが大半を行っていた。
モントワール精神
成立したヴィシー政府の課題は国民革命(en)と呼ばれる「新秩序」建設と、ドイツとの協調であった。休戦協定による占領経費負担は莫大なものであり、さらに占領者の権限を使った搾取が横行した。たとえばフランとマルクの為替レートは12フラン=1マルクが相場であったが、一方的に20フラン=1マルクに決めた取引を押しつけることもあった[6]。この苛烈な搾取を緩和しようと、ヴィシー政府はさらなる対独協力姿勢を見せた。10月24日にはペタンとヒトラーがロワール=エ=シェール県のモントワールで会談した(fr:Entrevue de Montoire)。ペタンは会談後にを行い、さらなる誠実な対独協力をするべきであるとラジオ演説を行った。またヒトラーはこの席でヴィシー政府の対英宣戦を求めたが、ペタンはそれには応じなかった。しかし「モントワール精神」はドイツにとってさらなる負担をフランスに求める理由となり、ラヴァルのような親独派の勢力拡大のもととなった[7]。また10月9日にはフランスではじめてのユダヤ人迫害法(en:Statute on Jews)が成立している。
国民革命はフランス革命以前の古いフランスへの復帰を求めるイデオロギーであり、アクション・フランセーズのシャルル・モーラスがイデオローグであった[8]。すなわち農業国としてのフランスが求められ、「土地に帰れ」というスローガンが叫ばれた[9]。しかしこの国民革命も、ドイツの利益を優先した者にならざるを得なかった。
ダルラン時代
11月にはアルザス・ロレーヌのドイツへの割譲が決まり、ラヴァルに国民の非難が集まった。12月13日にペタンはラヴァルを解任し、ピエール=エティエンヌ・フランダン(en)を副首相とした。また年末にはスペインのマドリードにルイ・ルージェ教授を派遣し、イギリスとの間で交渉を行っていた。しかし対独抗戦継続を求めるイギリスと、中立を求めるヴィシー政府の溝は埋まらなかった[10]。しかしドイツの介入があり、1941年2月9日 にフランソワ・ダルラン海軍大将が新たな副首相となった。ダルランは「ラヴァルに卵をくれというと卵しかくれなかったが、ダルランはニワトリをくれた」と言われるほど好意的な対独協力を行った[11]。5月21日には独仏軍事協定が結ばれ、親独政権が成立していたイラクに対してフランス委任統治領シリアにある軍需物資の4分の3を譲渡する契約が成立した(en:Paris Protocols)。しかしこれはシリア・レバノン戦役(en:Syria-Lebanon Campaign)によってシリアが連合国の手に落ち、イラクの親独派政権も倒れたため実行はされなかった。また北アフリカ戦線のドイツ軍が撤退した場合にはチュニジアを避難地として提供することも約束した。これは占領経費の負担軽減やフランス人捕虜の解放を求めたものであったが、ドイツ側は一切譲歩しなかった[11]。
一方でダルランは警察国家化を推し進め、保安部隊(fr:Service d'ordre légionnaire、略称SOL)を組織してレジスタンスを弾圧し、共産党やフリーメーソン、ユダヤ人の弾圧も行った[12]。さらに1942年2月19日からはエドゥアール・ダラディエやポール・レノーといった戦争に敗北した際の政治家を裁判(リオン裁判(en))にかけ、ドイツ国内の収容所に送った。しかし敗戦責任はペタンにも及ぶ可能性があったため、4月15日に裁判は中止された。こうした強権的な姿勢や積極的な対独協力は、国民革命に対する国民の信頼を失わせる元となり、1941年末にはほとんど支持する者もいなくなった[12]。
ラヴァル時代
この状況でペタンはさらにドイツの歓心を得る必要があると感じ、ダルランを解任してラヴァルを再度起用することにした[13]。1942年4月18日、憲法行為11号によって国家元首と首相の役割が明確化され、首相には強い独裁権力が認められた。これは、首相に就任したラヴァルの要求によるものであり、ペタンは首相を退いて国家元首専任となり、事実上引退状態となった[13]。ラヴァルは6月22日に「ボルシェヴィズム(共産主義)」を阻止するためにドイツの勝利を支持する声明を行い、フランス人捕虜1人解放に対してフランス人労働者3人をドイツ国内の工場に送ることとした。
11月8日トーチ作戦が始まり、フランス領アルジェリアに連合軍が侵攻を開始した。このとき、ヴィシー政府軍総司令官であり、たまたま北アフリカにいたダルラン大将が英米軍と休戦条約を結んで北アフリカのヴィシー政府軍を降伏させたため、11月10日ドイツは自由地区を占領を開始し、政府は完全にドイツの支配下に置かれた(アントン作戦)。ドイツの頽勢を悟ったペタン元帥とラヴァル首相は、連合国とドイツの調停を行おうとしたが失敗した[14]。11月17日にはラヴァルをペタンの後継者とする憲法的法規が成立した[15]。
ドイツの要求はますます苛烈になり、1943年1月にはさらに25万人の労働者が要求された。ラヴァルは捕虜送還でも譲歩した上にこの要求を達成し、労働力配置総監フリッツ・ザウケルに「フランスだけがプログラムを100%履行した」といわしめた[16]。しかしこれはフランス国民に強い不満を与え、徴用忌避者によるマキが組織される元となった。
11月、ペタンは廃止した第三共和制議会を再開させようとし、憲法案を制定した。さらに親独派のラヴァルを遠ざけることを考え、11月27日にラヴァルの後継者指定を取り消した[15]。しかしこれらの動きはドイツ側の介入によって失敗した。ペタンの側近数名が逮捕され、ドイツからは「顧問」が送り込まれた上にミリス(民兵団)の指導者ジョゼフ・ダルナンらが入閣するなどドイツ支配はさらに強化された[17]。1944年1月にはドイツがさらに労働者100万人を要求し、7月21日までに72万人が送り込まれた[18]。
崩壊
1944年、連合軍が北フランスに上陸すると、フランスのドイツ軍は次々に駆逐されていった。8月9日にラヴァルは第三共和政議会を招集させてヴィシー政府の合法性を認めさせようとパリに向かったが、徒労に終わった。ペタンも8月11日にド・ゴールに使者を送り、臨時政府に政権を譲って引退することで「政権の継続性」が与えられると交渉したが、受け入れられなかった[19]。8月25日にパリを守備していたドイツ軍は降伏し、ド・ゴールのフランス共和国臨時政府が帰国した。8月27日、ド・ゴールはペタンが送った使者と面会も拒絶した[20]。
ヴィシー政府の閣僚はドイツによって拘束され、ジグマリンゲン(en)に移された[21]。ジグマリンゲンではブリノン侯爵フェルナン・ド・ブリノン(fr:Fernand de Brinon)を代表とし、ダルナンを内相とするフランス政府委員会(fr)が組織されたが、大きな影響を与える存在にはならなかった。
国土
かねてからの係争地であったアルザス・ロレーヌはドイツへ割譲されたものの、それ以外の地域には一応ヴィシー政府の主権が認められた。しかしパリを含む北部と西部はドイツ、グルノーブルとニースを含むイタリア国境から50kmのエリアはイタリアによって占領された。この地域はフランスの主権が認められたものの、占領地域(fr:Zone occupée)として扱われ、政府の施政権は及ばなかった。また、フランシュ・コンテなどアルザス・ロレーヌの隣接区域は「保留地域」(Zone fermée)とされ占領地区とは別に扱われた。また北海・イギリス海峡・大西洋沿岸から数マイルのエリアと、ベルギー国境に近い現在のノール=パ・ド・カレー地域圏付近は「禁止地域」(fr:Zone interdite)とされて分離された。沿岸地域にはドイツ軍やトート機関が「大西洋の壁」と呼ばれる防御設備を設置した。またベルギー国境付近はベルギーの占領軍の統治下に置かれた。この占領地域の占領コストはフランス側が支払うこととなっており、一日あたり4億フラン[22]という莫大な出費となった。
フランス政府が統治できるのは占領地域を除いた自由地域(fr:Zone libre)と海外植民地であった。しかし自由地域においてもドイツとイタリアの軍事物資搬送や、ドイツが指定するドイツ人を引き渡す義務を負った。また自由地域と占領地域の間には境界線(fr:Ligne de démarcation)が配置され、検問が行われた。しかし1942年11月のアントン作戦以降は全土が占領下に置かれた。
ドイツ側にとってフランス全土を占領した場合は、海外植民地や海外に駐屯部隊やフランス海軍などの維持等が重い負担になる可能性がある為、親独的中立政権としてのヴィシー政府の存在は好都合だった。
植民地
政権成立当初、フランス領赤道アフリカとフランス領カメルーン(fr)を除くフランス植民地はヴィシー政権を承認した。シリアやレバノンなど、ヴィシー政権を支持する植民地には連合国軍が侵攻する場合もあった。戦況の変化に従い、自由フランスにつく植民地や、連合国と独自に交渉を行って中立を維持しようとする植民地も現れた。マダガスカルやフランス領アンティルのように、連合軍が当初中立を求める予定であったのに、自由フランスの介入によって現地政府が打倒されるというケースもあった(マダガスカルの戦い)。1944年までに日本の占領下にあったフランス領インドシナ以外の植民地政府はおおむねヴィシー政権の影響下から逃れた。
政治
政府は一応共和国とされたが、ペタンの権威を根拠とする特殊なものであった[23]。この体制は新憲法制定を目的とする建前を取っていたが、ヴィシー政府の四年間の統治の間、憲法制定のための国民会議は一度も招集されなかった[24]。その代わりペタンは「憲法行為」(Actes constitutionnels)という命令を行い、フランスの統治を行った。1940年7月11日には第一号の憲法行為として自らを「国家元首」(chef de l'Etat français)とし、大統領選挙を廃止した。さらに国家元首は立法権、執行権を持つ、独裁的権力者と定義した[24]。しかしドイツの影響から自由にはなれず、ドイツに近いラヴァルも大きな権力を持っていた。1942年4月18日以降は首相が事実上の最高権力者となり、国家元首であるペタンは半引退状態に追い込まれた。
またフランスの標語である「自由・平等・博愛」は「労働・家族・祖国」(Travail, Famille, Patrie)に置き換えられた。
軍事
動員されていたフランス兵は武装解除され、武器はドイツに引き渡された[25]。また捕虜も解放されず、ドイツ国内に留め置かれた。
本国の陸軍は「国内秩序の維持に必要な」10万人に制限され、武器はドイツ軍とイタリア軍の監視下に置かれた。マダガスカルやインドシナなどの植民地軍はこの制限の適用範囲外とされた。一方で1940年8月29日には「在郷軍人奉公会」(Légion Francaise des Combattant)という在郷軍人を組織した準軍事組織を作った。この組織からはやがて保安部隊(fr:Service d'ordre légionnaire、略称SOL)やミリス(民兵団)などが生まれた。
海軍はドイツ軍とほとんど交戦しなかったが、「植民地の維持に必要な艦船」を除いて武装解除された[25]。
対外関係
イギリスは1940年6月23日にヴィシー政府を否認する声明を行ったが、その他の主要国はヴィシー政府を承認する態度をとった。ただし、ソ連は1941年6月30日に、他の連合国は1942年のドイツ軍による占領以降外交関係を断絶した。
枢軸国との関係
日本や満州国、イタリアなどの枢軸国各国は、ヴィシー政権率いるフランスを承認しており、日本はヴィシー政権との協定をもとに、フランス領インドシナに進駐(仏印進駐)した。その後の1944年に行われた連合国軍によるフランス解放ならびに、シャルル・ド・ゴールによるヴィシー-日本間の協定無効宣言が行われた後、1945年3月に日本軍によるインドシナ政庁をめぐるクーデター(明号作戦)が起きるまで、インドシナ植民地におけるフランスの主権は存続した。
コラボラシオン(対独協力)
多くのフランス人は、積極的・または消極的にヴィシー政府の統治を受け入れた。一部の人々は積極的なコラボラシオン(対独協力)の姿勢をとり、それ以外の多くの人々はヴィシー政府下の平穏を受け入れて沈黙を続けた。その一方で、少数ながらレジスタンス運動を始める動きもあったが、本格的なレジスタンス運動が見られるのは戦況がドイツにとって不利になり始めてからである。
ヴィシー政府下での対独協力は、政治・経済・文化面の多岐に及んだ。反ユダヤ主義が広がる中で「ユダヤ人狩り」が行われ、強制収容所への輸送も担った。ドイツ軍の占領費を支出したほか、安価にフランスの資源をドイツに提供した。ドイツ軍将校の愛人となったココ・シャネルなど親ドイツ的な文化人も増加し、ヴィシー政府の統治やドイツの占領政策を支えることになった。軍事面では首相ラヴァルを指導者とする民兵組織 ミリス(民兵団)がレジスタンス狩りなどに参加し、第33SS武装擲弾兵師団などに志願する者も現れた。
一方でヨーゼフ・ゲッベルスやフリッツ・ザウケルといったドイツ高官はペタンやラヴァルが協力的ではないと見ており、日記や報告で言及している。またヒトラーは「ド・ゴールはラヴァルが策術で得ようとしているものを逆に力のみで得ようとしている」と評した[26]。
レジスタンス
ヴィシー政府成立後まもなくは、ペタンが戦争の苦難から救ったという考えが広まっており、それほど大きな勢いはなかった。しかし苛烈な対独協力は市民の反感を招き、1940年の秋頃からはデモやレジスタンスの宣伝活動が高まった。1941年春にはパ=ド=カレー炭坑で10万人規模の大ストライキも発生した[27]。独ソ戦開始以降は共産党などの左派もレジスタンスに加わった。しかし1942年11月まではレジスタンスは分派しており、しかも少数派であった[28]。
1942年11月のドイツによる全土占領は、それまで残っていたヴィシー政権への幻想を一気に打ち砕いた。1943年1月には南部の三大レジスタンス運動が統合され、共産党が自由フランスに参加した。また、元首相レオン・ブルムも社会党の名において自由フランス支持を行った。5月15日にはフランス国内でレジスタンスの統一組織、全国抵抗評議会(CNR)が設立された[29]。
一方でいわゆる“レジスタンス”神話は、戦後になってド・ゴール政権が自己の正統性の根拠として過大に作られたものがほとんどであるという意見もある[30]。
裁判
ヴィシー政府関係者の裁判はアルジェで国民解放委員会が成立したときから始まっており、終戦によって加速された。
ペタンは4月24日にドイツの保護下から離れ、一旦スイスに入ってからフランスに帰国、4月26日に逮捕された。前後してラヴァルをはじめとする閣僚も逮捕された。1944年11月18日には臨時政府によってヴィシー政府高官を裁くための高等法院が設置されたが、裁判官はかつてヴィシー政府によって任命された者達であった。裁判は一審制であり、欠席裁判で10名に死刑判決が下ったほか、ラヴァル、ダルナン、ブリノンら3名が死刑となったが、ペタンをふくむ5名が終身刑に減刑された。ヴィシー政権関係者の粛清「エピュラシオン」による訴追人数は10万人におよぶと見られ、2071人に死刑判決が下ったが、1303名が減刑された[31]。1951年には最初の特赦法が成立し、収監されていた関係者が釈放され始めた。
評価
ヴィシー政府は連合国側から「傀儡政権」とされ、連合国側の勝利、自由フランスによるフランス共和国臨時政府の成立、第四共和政の樹立とともにそのような評価が一般的となった。このため、フランス第四共和政はヴィシー政府からの継承国と見なされていない。
しかし、ヴィシー時代の対独協力が擬態であったか否かについての議論は継続されており、しばしば政治的問題ともなる。また、第四共和政以降、政治家や官僚として戦後のフランスの政治を支えた人物の中には、フランソワ・ミッテランをはじめ、ヴィシー政権下でそのキャリアの最初を送った者も少なくなく、政権の評価に影響を与えている。
歴史家による議論
フランスの歴史家ロベール・アロンは1954年の著作『ヴィシーの歴史』で、ヴィシー政府が公式にはドイツに同調・協力しているように見せながら、実際には秘密の交渉などで統治を骨抜きにする努力を行い、フランス国民のための盾となっていたとした。しかしアメリカの歴史家ロバート・パクストン(en)は1972年の著書『ヴィシー・フランス、旧勢力と新体制』でアロンの説を否定し、ドイツの占領軍が少数であったことなどを指摘し、戦後の体制がドイツ有利になるとみたヴィシー政府が積極的な対独協力を行っていたとした[32]。歴史家のジャン・マルク=ヴァロー(fr)はパクストンの批判を現在のイデオロギーから見たものであると批判した[33]。またフランスの歴史家マルク・フェローは1987年の著書『ペタン』においてペタンが人命と物財守った代わりに国家の名誉を失った犠牲者であるとした[34]。その後もパクストンは基本的に見方を変えていないが、ヴィシーを理解することは「ますます魅力的な、そして未完の事業」であるとして、将来の議論に期待する旨を記している[35]。
ペタンに対する評価
1951年のペタンの死後、ウェイガン大将の呼びかけで「ペタン元帥の追憶を守るための協会」(fr)が樹立された。この協会はペタンの名誉回復を求め続けたが、極右的政治勢力の温床にもなった[36]。1958年にド・ゴールが大統領になると、「第一次世界大戦の勝利に貢献した」として、その年11月11日の第一次世界大戦戦勝記念日にあたる追憶の日(fr)、ペタンの墓碑へ花輪を贈った。しかしペタン信奉者の一部は不快に思い、ド・ゴールの名のついたリボンを引き裂いた。その後、歴代の大統領はこの慣行を継続したが、1993年に11月8日、ミッテラン大統領は花輪の慣行を取りやめることを声明した。
1984年にはヴィシー政府の産業次官フランソワ・レイドー(fr)とペタンの弁護人で国会議員を務めたジャック・イゾルニ(fr)がペタンを弁護する新聞広告を出した。この広告は政府によって禁止され、二人は控訴したが「犯罪即ち対独協力罪の弁明」として有罪となった。両者はストラスブールの欧州人権裁判所に提訴し、1998年にフランス政府の行為は表現の自由の侵害であるという判決を受けた。原告二人はすでに死亡していたが、遺族が慰謝料を受け取った[34]
ラヴァルに対する評価
チャーチルはその著書「第二次世界大戦回顧録」でラヴァルを「自分の後の行為と死の恥辱にもかかわらず、明確に遠くを見通していた」と評した。これに対してラヴァルの娘ジョゼはドイツ高官がラヴァルの非協力姿勢を語っていたことを指摘し、ラヴァルもまた偉大な姿勢を取ったのだと手紙で反論した[26]。
ド・ゴールが大統領を辞任した後の1970年、ラヴァル裁判の未公開史料が一部に閲覧を許された。ジョゼの夫で弁護士のルネ・ド・シャンブラン(fr)はド・ゴール時代からジョルジュ・ポンピドゥー大統領と交渉しており、史料の閲覧を行った。この後シャンブランと会談した元首相ジョルジュ・ビドーは、ラヴァルの裁判は1945年10月の制憲議会選挙までにラヴァルを消す必要があったド・ゴールらの陰謀だと告げた。シャンブランは1983年に『歴史の前のピエール・ラヴァル』を出版し、裁判の無効を要求した。歴史家フェルド・クプフェルマン(fr)がシャンブランと連絡を取って『ラヴァル』の執筆を始めると、匿名の人物によって「ラヴァル直筆の判決反論書」がシャンブランの元に渡った。このほかにも大量の史料が送られ、その資料によってシャンブランは『ピエール・ラヴァルのための我が闘争』を1990年に出版した。また歴史家ジャン=ポール・コワンテ(fr)は、ペタンの裁判は真の裁判であったが、ラヴァルの裁判は戯画であったと指摘した上で「敵を欺く事に長けていたと見られていた」ラヴァルが、イギリス人やドイツ人、ペタンにも欺かれていたのではないかと疑問を呈した[37]。
年表
フランスの歴史 | |||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
この記事はシリーズの一部です。 | |||||||||
先史時代
| |||||||||
近世
| |||||||||
現代
| |||||||||
年表 | |||||||||
フランス ポータル |
- 1940年
- 6月22日、独仏休戦協定に調印
- 7月1日、ヴィシーに遷都
- 7月2日、メルセルケビール海戦
- 7月10日、ヴィシー国民議会で第三共和政憲法の破棄と新憲法制定が可決。
- 7月11日、12日、ペタンが国家主席、ラヴァルが副首相となる。
- 9月23日、日本軍第22軍がフランス領インドシナ北部に進駐開始(北部仏印進駐)
- 9月23日~9月25日 ダカール沖海戦
- 10月27日、自由フランス軍とイギリスの攻撃でガボン失陥
- 1941年
- 7月、連合軍のシリア・レバノン作戦(en)により、シリアとレバノンを失陥。
- 7月28日、日本軍がフランス領インドシナ全域に進駐開始(南部仏印進駐)
- 1942年
- 4月18日、ペタンが首相を辞任し、ラヴァルが首相に昇格。
- 5月5日、マダガスカルにおいて、連合国軍とヴィシー政府軍・日本海軍間の戦いが始まる。(マダガスカルの戦い)
- 11月5日、マダガスカル陥落。
- 11月8日、連合国軍がトーチ作戦を開始。フランス領アルジェリアのヴィシー政権軍と交戦開始。
- 11月10日、アルジェリアにいた海軍大臣兼フランス軍総司令官フランソワ・ダルランが連合国と休戦協定を結ぶ。アルジェリアの政府関係者は逮捕され、20万人のヴィシー将兵が連合国側に降伏。
- 同日、ドイツがアントン作戦を発動し、ヴィシーフランスの本土全域の占領を開始。
- 11月27日、ドイツ側がトゥーロンの艦艇を接収しようとしたため、艦船の大部が自沈する(en:Scuttling of the French fleet in Toulon)。
- 12月7日、ダルランが連合国の承諾を受けて、北アフリカにおけるフランス国家元首兼北フランスにおける陸海空軍部隊総司令官兼北アフリカ総督に就任する。
- 12月24日、ダルランが暗殺される。アンリ・ジローがダルランの事実上の後継者となる。
- 1943年
- 1月14日、カサブランカ会談。フランスのトップを決めるための調整が行われるが、決裂。
- 5月13日、北アフリカの枢軸軍が降伏、北アフリカ全域が連合国の支配下に落ちる
- 5月15日、フランス国内でレジスタンスの統一組織、全国抵抗評議会(CNR)が設立。ド・ゴールをフランスレジスタンスの指導者として認める声明を出す。
- 6月3日、フランス領アルジェリアでフランス国民解放委員会(en)が結成される。共同代表はジローとド・ゴール。
- 1944年
- 5月26日、ド・ゴール、「フランス国民解放委員会」を「フランス共和国臨時政府」に改称
- 6月6日、ノルマンディー上陸作戦開始
- 6月17日、コルシカが自由フランス軍によって攻略される。
- 8月19日、ペタンが国家主席を辞任
- 8月20日、ラヴァルが首相を辞任
- 8月25日、連合国軍によるパリの解放。
- 9月7日、ヴィシー政府閣僚は南ドイツのジグマリンゲンに移る。ブリノンを長とするフランス政府委員会(fr)が組織される。
- 10月23日、フランス共和国臨時政府がイギリス、アメリカ、ソ連の承認を受ける。
- 1945
- 3月9日、日本軍第38軍、インドシナ総督府をのっとる(明号作戦)。その保護国があいついで独立を宣言。
- 4月22日、ジグマリンゲンの亡命政府が連合軍に逮捕される
- 4月26日、ペタンがスイスからフランス国内に入り、逮捕される
政府の変遷
第一次ラヴァル政権
1940年7月12日 - 1940年12月12日 (fr:Gouvernement Pierre Laval (5))
- フィリップ・ペタン - 首相(国家主席兼任)(1940年7月10日 - 1942年4月18日)
- ピエール・ラヴァル - 副首相、1940年10月28日より外相
- ラファエル・アルバート(fr:Raphaël Alibert) - 国璽尚書兼法務大臣
- fr:Yves Bouthillier - 財務大臣
- ポール・ボードウィン(fr:Paul Baudouin) - 外務大臣(-1940年10月28日)
- ピエール・カジオ(fr:Pierre Caziot)- 農業食糧大臣
- レネ・ブラン(fr) - 労働問題担当国務相
- マキシム・ウェイガン - 国防大臣、北アフリカ軍最高司令官(-1941年11月)
- ルイ・コルソン(fr) - 陸軍大臣(-1940年9月)
- ベルトラン・プジョー(fr) - 空軍大臣(-1940年9月)
- フランソワ・ダルラン - 海軍大臣
- エイドリアン・マルケ(fr) - 内務大臣(-1940年9月)
- エミール・ミロー(fr) - 文化教育大臣(-1940年9月)
- fr:Jean Ybarnegaray - 家族・青少年問題担当国務相[訳語疑問点](-1940年9月)
- フランソワ・ピエトリ(fr) - 官房長官[訳語疑問点](-1940年9月)
- アンリ・レムリー(fr) - 植民地長官(-1940年9月)
1940年7月16日に以下の閣僚が追加された。
- ジョルジュ・デイラス(fr) - 法制長官[訳語疑問点]
- fr:Henri Deroy - 公共金融長官[訳語疑問点]
- ジャン・フェルネット(fr) - 評議会議長事務長官[訳語疑問点]
- fr:Olivier_Moreau-Néret - 経済問題担当長官
- モーリス・シュワルツ(fr) - 運輸長官
1940年9月に大幅な改造が行われた。
- シャルル・ユンツィジェ(fr) - 陸軍大臣(1940年9月-)
- ジャン・ベルジュレ(fr) - 空軍大臣(1940年9月-)
- fr:Marcel Peyrouton) - 内務大臣(1940年9月-)
- エミール・ミロー(fr) - 文化教育大臣(1940年9月-)
- fr:Georges Lamirand - 青少年問題担当長官(1940年9月-)
- ジャン・ベルトラン(fr) - 官房長官(1940年9月-)
- シャルル・プラトン(fr) - 植民地長官(1940年9月-)
- オーギュスト・ロール((fr) - 国務長官[訳語疑問点](1940年11月18日-)
フランダン政権
1940年12月13日 - 1941年2月9日 (fr:Gouvernement Pierre-Étienne Flandin (2))
- フィリップ・ペタン - 首相(国家主席兼任)(1940年7月10日 - 1942年4月18日)
- ピエール=エティエンヌ・フランダン(en)- 副首相、1940年12月13日より外務大臣兼務
- ポール・ボードウィン - 評議会議長国務大臣
- シャルル・ユンツィジェ - 国防大臣、1941年1月まで陸軍大臣兼務
- フランソワ・ダルラン - 海軍大臣
- Marcel Peyrouton - 内務大臣
- Yves Bouthillier - 財務大臣
※主要閣僚のみ
ダルラン政権
1941年2月9日 - 1942年4月18日 (fr:Gouvernement François Darlan)
- フィリップ・ペタン - 首相(国家主席兼任)(1940年7月10日 - 1942年4月18日)
- フランソワ・ダルラン- 副首相、海軍大臣、内務大臣兼務
- ポール・ボードウィン - 評議会議長国務大臣
- シャルル・ユンツィジェ - 国防大臣
- Yves Bouthillier - 財務大臣
- アンリ・ジロー - 通信大臣
※主要閣僚のみ
第二次ラヴァル政権
1942年4月18日 - 1944年8月19日 (fr:Gouvernement Pierre Laval (6))
- ピエール・ラヴァル - 首相、外務大臣、内務大臣、情報大臣兼務
- ユージン・ブリドー(fr) - 国防大臣
- Yves Bouthillier - 財務大臣
- fr:Gabriel Auphan - 海洋大臣
- クサヴィエ・バラ(fr) - ユダヤ人問題担当委員
- ジョゼフ・ダルナン - 治安担当長官(1942年12月31日 - 1944年6月13日)
※主要閣僚のみ
参考文献
- 渡辺和行『ナチ占領下のフランス 沈黙・抵抗・協力』(講談社選書メチエ、1994年) ISBN 4-06-258034-9
- 児島襄『誤算の論理』(文春文庫、1990年) ISBN 4-16-714134-5
- 大井孝『欧州の国際関係 1919-1946』( たちばな出版、 2008年)ISBN 978-4813321811
- 村田尚紀
関連書籍
- ジャン・ドフラーヌ 著\大久保敏彦・松本真一郎 訳『対独協力の歴史』(白水社文庫クセジュ、1990年) ISBN 4-560-05705-2
- ロバート・O・パクストン 著\渡辺和行・剣持久木 訳『ヴィシー時代のフランス 対独協力と国民革命 1940-1944』(柏書房パルマケイア叢書、2003年) ISBN 4-7601-2571-X
- 長谷川公昭『ナチ占領下のパリ』(草思社、1987年) ISBN 4-7942-0264-4
関連項目
- フランスの歴史
- ヴィシー政権の外交関係(en)
- en:The Vichy 80 ヴィシー政府発足に反対した80人の国会議員リスト
- 第二次世界大戦下フランスの軍事史(en)
- ナチス・ドイツによるフランス占領(en)
- イタリア王国によるフランス占領(en)
- エピュラシオン (fr:Épuration à la Libération en France)
- 関連人物
- カール・オーベルク(駐フランス親衛隊及び警察指導者)
- オットー・アベッツ (駐フランス大使)
- ジャン・リュシェール
- ヴィシー政府協力組織
- 反政府運動
- その他
脚注
- ^ 大井、770-771p
- ^ 児島、190P
- ^ 児島、193P-194P
- ^ 児島、194P。ただし、ナチズムは蔑称であり、原語は「Nationalsozialismus」と見られる。
- ^ 村田、一、177-178p
- ^ 村田、二、130-131p
- ^ 村田、二、131p
- ^ 村田、二、131-133p
- ^ 村田、二、133p
- ^ 大井、1071p
- ^ a b 村田、二、134p
- ^ a b 村田、二、135p
- ^ a b 村田、二、136p
- ^ 大井、955p
- ^ a b 大井、957p
- ^ 村田、二、137p
- ^ 大井、956-957p
- ^ 大井、958-959p
- ^ 大井、965p
- ^ 大井、972p
- ^ 大井、952p
- ^ 村田、二、130p
- ^ 村田、一、178p
- ^ a b 村田、一、179p
- ^ a b 村田、一、176p
- ^ a b 大井、1080p
- ^ 村田、三、125-126p
- ^ 村田、三、127p
- ^ 村田、三、128p
- ^ 対独協力の観点から見た戦後フランスの政治と文化
- ^ 大井、1034-1035p
- ^ 大井、1070-1071p
- ^ 大井、1073p
- ^ a b 大井、1076p
- ^ 大井、1074p
- ^ 大井、1074p
- ^ 大井、1081-1083p