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{{政治家 |
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{{大統領 | 人名=フランツ・フォン・パーペン |
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|各国語表記 = Franz von Papen |
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|画像 = Bundesarchiv Bild 183-1988-0113-500, Franz v. Papen.jpg |
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|画像説明 = パーペンの肖像写真 (1933年) |
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| 代数=第13 |
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|国略称 ={{DEU1935}} |
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| 職名=首相 |
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|生年月日 ={{生年月日と年齢|1879|10|29|死去}} |
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| 国名=[[Image:Flag_of_Germany_(3-2_aspect_ratio).svg|20px]][[ドイツ国]] |
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|出生地 ={{DEU1871}}<br />{{PRU1803}}<br />[[File:Flagge Preußen - Provinz Westfalen.svg|border|25px]] {{仮リンク|ヴェストファーレン州|de|Provinz Westfalen}}<br />[[ヴェルル]] |
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| 副大統領職=なし |
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|没年月日 ={{死亡年月日と没年齢|1879|10|29|1969|5|2}} |
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| 副大統領= |
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|死没地 = {{BRD}}<br>[[File:Flag of Baden-Württemberg.svg|border|25px]] [[バーデン=ヴュルテンベルク州]]、<br>{{仮リンク|ザースバッハ|de|Sasbach}} |
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| 就任日=[[1932年]][[6月1日]] |
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|出身校 = 陸軍幼年学校 |
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| 退任日=[[1932年]][[12月3日]] |
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|前職 = 陸軍軍人 (陸軍中佐) |
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| 出生日=[[1879年]][[10月29日]] |
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|現職 = |
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| 生地={{DEU1871}}・ヴェルル |
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|所属政党 = [[File:Flag of Deutsche Zentrumspartei.svg|border|25px]] [[中央党 (ドイツ)|中央党]]<br />(1932年除名)<br />[[File:Flag of Germany (1867–1918).svg|border|25px]] [[戦線 黒白赤|「黒・白・赤」戦線]] (1933年)<br />[[File:NSDAP-Logo.svg|20px]] [[国家社会主義ドイツ労働者党]]<br />(1938年入党) |
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| 生死=死去 |
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|称号・勲章 = [[男爵]](Baron)<br />[[File:D-PRU EK 1914 1 Klasse BAR.svg|38px]] [[一級鉄十字章]]<br />[[File:Ribbon of War Merit Cross.png|38px]] 戦功十字章 |
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| 死亡日=[[1969年]][[5月2日]] |
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|親族(政治家) = |
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| 没地={{GER}}・オーバーザースバッハ |
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|配偶者 = マルタ・フォン・ボッホ=ガルハウ |
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|サイン = Franz von Papen signature.svg |
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| 政党=なし([[中央党 (ドイツ)|中央党]]を離党) |
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|ウェブサイト = |
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|サイトタイトル = |
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|国旗 = DEU1935 |
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|職名 = [[ナチス・ドイツ|ドイツ国]]駐[[トルコ]]大使 |
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|内閣 = [[ヒトラー内閣]] |
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|就任日 = [[1939年]][[4月18日]] |
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|退任日 = [[1944年]][[8月5日]] |
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|元首職 = [[総統]] |
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|元首 = [[アドルフ・ヒトラー]] |
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|国旗2 = DEU1935 |
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|職名2 = [[ナチス・ドイツ|ドイツ国]]駐[[第一共和国 (オーストリア)|オーストリア]]大使 |
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|内閣2 = [[ヒトラー内閣]] |
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|就任日2 = [[1936年]][[7月25日]] |
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|退任日2 = [[1938年]][[3月13日]] |
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|元首職2 = [[総統]] |
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|元首2 = [[アドルフ・ヒトラー]] |
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|国旗3 = DEU1935 |
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|職名3 = [[ナチス・ドイツ|ドイツ国]]駐[[ウィーン]]公使 |
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|内閣3 = [[ヒトラー内閣]] |
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|就任日3 = [[1934年]][[7月26日]] |
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|退任日3 = [[1936年]][[7月25日]] |
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|元首職3 = [[ドイツ国大統領|大統領]]<br />[[総統]] |
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|元首3 = [[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]<br />[[アドルフ・ヒトラー]] |
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|国旗4 = DEU1933 |
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|職名4 = [[ナチス・ドイツ|ドイツ国]]<br />第12代副首相 |
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|内閣4 = [[ヒトラー内閣]] |
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|就任日4 = [[1933年]][[1月30日]] |
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|退任日4 = [[1934年]][[7月26日]] |
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|元首職4 = [[ドイツ国大統領|大統領]] |
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|元首4 = [[パウル・フォン・ヒンデンブルク]] |
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|国旗5 = DEU1919 |
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|職名5 = [[ヴァイマル共和国|ドイツ国]]<br />第13代[[ドイツの首相|首相]] |
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|内閣5 = [[パーペン内閣|フォン・パーペン内閣]] |
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|就任日5 = [[1932年]][[6月1日]] |
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|退任日5 = [[1932年]][[12月3日]] |
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|元首職5 = [[ドイツ国大統領|大統領]] |
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|元首5 = [[パウル・フォン・ヒンデンブルク]] |
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|国旗6 = |
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|その他職歴1 = [[File:Flag of Prussia (1918–1933).svg|border|25px]] [[プロイセン自由州]]<br />初代・第3代[[国家弁務官|総督 (国家弁務官)]] |
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|就任日6 = [[1932年]][[7月20日]] |
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|退任日6 = [[1932年]][[12月3日]] {{efn|[[1933年]][[1月30日]]に再任し、[[1933年]][[4月7日]]に辞任。}} |
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}} |
}} |
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{{Infobox 軍人 |
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{{基礎情報 軍人 |
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|name=フランツ・フォン・パーペン |
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|氏名 = 軍歴 |
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|lived= |
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|各国語表記 = |
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|placeofbirth= |
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|箱サイズ = |
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|placeofdeath= |
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|生年月日 = |
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|image= |
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|没年月日 = |
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|caption= |
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|画像 = Enemy Activities - Officials - Captain Franz von Papen - NARA - 31479988 (cropped).jpg |
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|nickname= |
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|画像サイズ = |
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|allegiance=帝政ドイツ陸軍<br>オスマン帝国陸軍 |
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|画像説明 = 陸軍大尉時代のパーペン (1915年) |
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|serviceyears=1900~1919 |
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|渾名 = |
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|rank=陸軍[[中佐]] |
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|生誕地 = |
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|commands= |
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|死没地 = |
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|unit=オスマン帝国第4軍 |
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|所属国 = [[File:Flag of Germany (1867–1918).svg|border|25px]] [[ドイツ帝国]] |
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|battles=[[第一次世界大戦]] |
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|所属組織 = [[File:War Ensign of Germany (1903-1918).svg|border|25px]] [[ドイツ帝国陸軍]]<br />[[File:War Ensign of Prussia (1816).svg|border|25px]] [[プロイセン陸軍|プロイセン王国陸軍]]<br />[[File:Fictitious Ottoman flag 8.svg|border|25px]] [[オスマン帝国軍|オスマン帝国陸軍]] |
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|results= |
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|軍歴 = [[1898年]] – [[1919年]] |
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|awards=[[鉄十字|騎士鉄十字章]] |
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|最終階級 = [[File:Oberstleutnant (Hessen).gif|25px]] 陸軍中佐<br />(ドイツ帝国陸軍)<br /> |
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|laterwork=[[政治家]] |
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[[File:Ottoman-Army-OF-5.svg|25px]] 陸軍大佐<br />(オスマン帝国陸軍) |
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|Mausoleum= |
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|除隊後 = 政治家、外交官 |
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|墓所 = |
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|署名 = |
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}} |
}} |
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'''フランツ |
'''フランツ・ヨーゼフ・ヘルマン・ミヒャエル・マリア・フォン・パーペン'''({{lang-de|Franz Joseph Hermann Michael Maria von Papen {{Audio|Franz Joseph Hermann Michael Maria von Papen.ogg|音声}}, Erbsälzer zu Werl und Neuwerk}}, [[1879年]][[10月29日]] - [[1969年]][[5月2日]])は、[[ドイツ]]の[[貴族]]、[[ドイツ帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]、[[政治家]]、[[外交官]]。[[爵位]]は[[男爵]]。軍人としての階級は陸軍中佐。第13代[[ドイツ国首相]]、第12代副首相を務めた。 |
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== 概要 == |
|||
[[ヴァイマル共和政]]末期の1932年に[[クルト・フォン・シュライヒャー]]に擁立されて[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]大統領の[[大統領内閣]]の首相を務めたが、[[パーペン内閣]]は半年ほどでシュライヒャーに見限られて瓦解した後、シュライヒャーとの政争で[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)党首[[アドルフ・ヒトラー]]と接近し、彼が首相になれるよう尽力するなど[[ナチ党の権力掌握]]に大きな役割を果たした。1933年の[[ヒトラー内閣]]成立でヒトラーに次ぐ副首相兼[[プロイセン州]]首相の座に就いた。しかし、「[[長いナイフの夜]]」事件で失脚し、その後は[[第一共和国 (オーストリア)|オーストリア]]や[[トルコ]]でドイツ大使を務めた。[[第二次世界大戦]]後、[[ニュルンベルク裁判]]で主要戦争犯罪人として起訴されたが、無罪とされた。 |
|||
== 経歴 == |
== 経歴 == |
||
=== 軍人 === |
=== 帝国軍人として === |
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[[ヴェストファーレン |
[[ドイツ帝国]]の[[領邦]]である[[プロイセン王国]]・{{仮リンク|ヴェストファーレン州|de|Provinz Westfalen}}・[[ヴェルル]]に、製塩業で富をなした{{仮リンク|エルプゼルツァー|de|Erbsälzer}}(世襲の塩屋、の意味)と呼ばれる諸名家のうちのひとつに生まれる。両親の希望で陸軍幼年学校に入学し、軍人への道を進む。[[ドイツ皇帝]]の側近くに仕えたのち、第5[[槍騎兵]]連隊付きを経て[[プロイセン参謀本部|参謀本部]]に入り、[[1913年]]に[[大尉]]に昇進。そこで[[クルト・フォン・シュライヒャー]]と知り合う。当時パーペンは巧みな[[馬術]]で名声を得ていた。1905年に[[窯業|製陶業]]で有名な[[ビレロイ&ボッホ]]社の創業家の娘と結婚して[[工場]]の一つを相続し(現存)、巨大な経済力を得た<ref name="阿部197">[[#阿部|阿部、p.197]]</ref><ref name="アイク182">[[#アイク|アイク、p.182]]</ref>。[[財界]]とも太いパイプを持つようになった<ref name="ヴィストリヒ184">[[#ヴィストリヒ|ヴィストリヒ、p.184]]</ref>。一女をもうける。 |
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皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の学友だった父のコネもあり、[[第一次世界大戦]]中の[[1915年]]まで[[アメリカ合衆国|アメリカ]][[駐在武官|大使館付き武官]]。[[フランクリン・ルーズベルト]]や[[ダグラス・マッカーサー]]といった、後年の[[アメリカ合衆国]]指導者の知遇を得た。[[武官]]としてアメリカ国内でさまざまな[[諜報活動]]に従事し、また兼轄国である[[メキシコ]]をドイツ寄りにすることに努めた。結局[[1916年]]に[[破壊活動|サボタージュ]]活動や破壊工作活動に関与しているとされてアメリカ政府から国外追放処分を受けた<ref name="ヴィストリヒ184"/><ref name="アイク182">[[#アイク|アイク、p.182]]</ref><ref name="フェスト上434">[[#フェスト上|フェスト、上巻p.434]]</ref>。帰国の際不用意に別送した荷物が[[イギリス海軍]]の[[臨検]]を受け、パーペンがアメリカ国内に構築したドイツの諜報網が暴露された<ref name="フェスト上434"/>。 |
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[[画像:Papen attaché0001.jpg|150px|left|thumb|駐在武官時代のパーペン]] |
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皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の学友だった父のコネもあり、[[第一次世界大戦]]中の[[1915年]]まで[[アメリカ合衆国|アメリカ]]大使館付き武官。[[フランクリン・ルーズベルト]]や[[ダグラス・マッカーサー]]といった、後年の[[アメリカ合衆国]]指導者の知遇を得た。武官としてアメリカ国内でさまざまな諜報活動に従事し、また兼轄国である[[メキシコ]]をドイツ寄りにすることに努めた。結局[[1916年]]に国外退去を命じられドイツに帰国する(翌年アメリカはドイツに宣戦)。帰国の際不用意に別送した荷物が[[イギリス海軍]]の臨検を受け、パーペンがアメリカ国内に構築したドイツの諜報網が暴露された。 |
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ドイツ帰国後に皇帝から[[鉄十字章]]を授与され、[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]で大隊長に転じる。その後参謀本部に戻り[[オスマン帝国 |
ドイツ帰国後に[[ドイツ皇帝|皇帝]]から[[鉄十字章]]を授与され、[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]で大隊長に転じる。その後参謀本部に戻り[[オスマン帝国]]に派遣され、[[オスマン帝国軍]][[大佐]]となる。[[パレスチナ]]戦線のオスマン第4軍で司令官[[エーリッヒ・フォン・ファルケンハイン]]の参謀長となり、そこで[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]と知り合う。のちに[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)の[[アドルフ・ヒトラー]]が、リッベントロップの説得によって[[カトリック教会|カトリック]]教徒や[[貴族]]層への敵愾心を抑えてパーペンと手打ちし政権を握ることを思えば、この出会いは運命的なものであった。ドイツへの帰路では、のちに[[ドイツ国大統領|ドイツ大統領]]となる[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]元帥とも同道して知遇を得ている。 |
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=== 大戦後、政治家へ転身 === |
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第一次世界大戦の敗北後、[[ドイツ革命]]により成立した[[ヴァイマル共和政]]の[[ヴァイマル共和国軍|国軍]]で働くことを潔しとせず、[[1919年]]に[[中佐]]を最後に退役。貴族階級の社交クラブ「ヘレンクルプ (Herrenklub)」に参加した<ref name="ヴィストリヒ184"/>。クラブの中では馬術の達人として名の知られた人物だった<ref name="阿部197"/>。 |
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相前後して[[中央党 (ドイツ)|中央党]](カトリック系中道政党)に入党し、[[1920年]]にカトリック系[[労働組合]]の委員長に就任。[[保守]]系の[[農民組合]]の指導者であった。[[1921年]]に[[プロイセン州]]議会議員に当選するも、[[与党]]に属するにもかかわらず[[ドイツ社会民主党|社会民主党]](SPD)首班の[[オットー・ブラウン]]政権を支持せず不信任案提出を繰り返し、世間の注目を集めるとともに、保守派との親交を重ねる。[[1925年]]の大統領選挙でも、自党の[[ヴィルヘルム・マルクス]]ではなくヒンデンブルクを公然と支持した。このため党執行部はパーペンを除名しようとしたものの、党[[機関紙]]「ゲルマニア」の大株主で監査役に就任していたため<ref name="モスゼン394">[[#モムゼン|モムゼン、p.394]]</ref><ref name="アイク183">[[#アイク|アイク、p.183]]</ref>除名に至らなかった。その後も一貫して中央党と社民党の同盟関係を解消し代わりに[[ドイツ国家人民党]]との連立を主張<ref>[[#モムゼン|モムゼン、p.393-394]]</ref>していたが、[[1928年]]に一旦プロイセン州議会議員を辞職、その後暫く社交クラブや紳士クラブでの活動を経て[[1930年]]に政界復帰を果たす。1932年4月に十字架と鷲同盟(1933年にはカトリック的ドイツ人活動団と改称)を結成した<ref>[[河島幸夫]]『[http://www.seinan-gu.ac.jp/jura/home04/pdf/3404/3404kawashima.pdf ドイツ政治史とカトリシズム]』</ref>。 |
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=== 首相就任 === |
=== 首相就任 === |
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[[1932年]]5月30日、[[ハインリヒ・ブリューニング]]内閣が瓦解すると、ヒンデンブルク大統領の側近の[[クルト・フォン・シュライヒャー]]は、パーペンを後継の首相に推薦した。当時ほとんど無名だったパーペンが推薦されたのは無経験で外見ばかり気にする彼が、シュライヒャーにとって操り人形にし易しと判断されたからという。「パーペンは人の上に立つ器ではない」という周囲の反対に対してシュライヒャーは「彼に人の上になど立たれては困るな。彼は[[帽子]]みたいなもんだ」と語ったという<ref name="フェスト上434"/>。シュライヒャーの推薦を受けてヒンデンブルク大統領はパーペンに[[ドイツの首相|首相]]就任を打診した<ref name="モムゼン393">[[#モムゼン|モムゼン、p.393]]</ref>。 |
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第一次世界大戦の敗北後、[[ドイツ革命]]により成立した[[ヴァイマル共和政]]の軍隊で働くことを潔しとせず、[[1919年]]に中佐を最後に退役する。同年[[中央党 (ドイツ)|中央党]](カトリック系)に入党。[[1920年]]にカトリック系[[労働組合]]の委員長に就任。保守系の農民組合の指導者であった。[[1921年]]に[[プロイセン州]]議会議員に当選するも、与党に属するにも関わらず[[ドイツ社会民主党|社会民主党]](SPD)首班の[[オットー・ブラウン]]政権を支持せず不信任案提出を繰り返し、世間の注目を集めるとともに、保守派との親交を重ねる。[[1925年]]の大統領選挙でも、自党の[[ヴィルヘルム・マルクス]]ではなくヒンデンブルクを公然と支持した。中央党執行部は彼を除名したがったが、パーペンは党機関紙「ゲルマニア」の大株主で監査役に就任していたため、出来なかった。[[1928年]]にいったんプロイセン州議会議員を辞したのち、[[1930年]]に復帰。中央党とSPDの[[大連立]]に反対し、[[ドイツ国家人民党]]との連立を主張した。 |
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[[画像:Bundesarchiv Bild 183-R1230-505, Reichkabinett von Papen.jpg|right|thumb|200px|組閣した日のパーペンと閣僚(1932年6月1日)<BR><SMALL>後列一番右に[[クルト・フォン・シュライヒャー|シュライヒャー]]</SMALL>]] |
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パーペンは一度は、中央党の党首[[ルートヴィヒ・カース]][[司祭]]に組閣要請を受けないことを約束したが、後になってヒンデンブルクと面会してカースとの約束を反故にして首相職に飛びついた<ref name="モムゼン394">[[#モムゼン|モムゼン、p.394]]</ref><ref name="アイク186">[[#アイク|アイク、p.186]]</ref>。パーペンは6月1日にヒンデンブルクより首相に任じられた<ref name="阿部196">[[#阿部|阿部、p.196]]</ref>。これによりパーペンは中央党から除名された<ref name="阿部197">[[#阿部|阿部、p.197]]</ref>。 |
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{| class="wikitable" |
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|- |
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!colspan="5"| パーペン内閣<br />1932年6月1日 - 12月3日 |
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|- |
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| [[ドイツ国首相|首相]] |
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| [[画像:Bundesarchiv Bild 183-1988-0113-500, Franz v. Papen (cropped).jpg|frameless|center|100px|]] |
|||
| フランツ・フォン・パーペン |
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| rowspan="2" style="background:#F0F0F0" | |
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| 無所属 |
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|- |
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| [[外務大臣]] |
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| [[画像:KonstantinVonNeurath1933.jpeg|frameless|center|100px|]] |
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| [[コンスタンティン・フォン・ノイラート]]<br />{{Small|(1932年6月2日 -)}} |
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| 無所属 |
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|- |
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| [[内務大臣 (ドイツ)|内務大臣]] |
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| [[画像:Wilhelm Freiherr von Gayl.JPG|frameless|center|100px|]] |
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| [[ヴィルヘルム・フライヘル・フォン・ガイル]] |
|||
|style="background:#009EE9"| |
|||
| [[ドイツ国家人民党]] |
|||
|- |
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| [[財務大臣]] |
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| [[画像:Ludwig Schwerin von Krosigk.jpg|frameless|center|100px|]] |
|||
| [[ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク]]<br />{{Small|(1932年6月2日 -)}} |
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| rowspan="4" style="background:#F0F0F0" | |
|||
| 無所属 |
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|- |
|||
| [[経済大臣]] |
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| rowspan="2" |[[File:Bundesarchiv Bild 183-R1230-505, Hermann Warmbold (cropped).jpg|frameless|center|100px]] |
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| {{仮リンク|ヘルマン・ヴァルムボルト|de|Hermann Warmbold}} |
|||
| rowspan="2" | 無所属 |
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|- |
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|rowspan="2"| [[労働大臣]] |
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| ヘルマン・ヴァルムボルト<br />{{Small|(事務取扱)}} |
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|- |
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| |
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| {{仮リンク|フーゴ・シェーファー|de|Hugo Schäffer}}<br />{{Small|(1932年6月6日 -)}} |
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| 無所属 |
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|- |
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| [[法務大臣]] |
|||
| [[画像:Bundesarchiv Bild 183-H13466, Franz Gürtner.jpg|frameless|center|100px|]] |
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| [[フランツ・ギュルトナー]]<br />{{Small|(1932年6月2日 -)}} |
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|style="background:#009EE9"| |
|||
| ドイツ国家人民党 |
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|- |
|||
| [[国防大臣]] |
|||
| [[画像:SchleicherEn1933.jpeg|frameless|center|100px|]] |
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| [[クルト・フォン・シュライヒャー]] |
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| rowspan="2" style="background:#F0F0F0" | |
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| 無所属 |
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|- |
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| 運輸大臣兼郵政大臣 |
|||
| [[画像:Bundesarchiv Bild 183-2005-0119-500, Paul Eltz v. Rübenach.jpg|frameless|center|100px|]] |
|||
| [[パウル・フォン・エルツ=リューベナッハ]] |
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| 無所属 |
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|- |
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| 食糧・農業大臣 |
|||
|[[画像:Bundesarchiv Bild 183-R1230-505, Reichkabinett von Papen (cropped).jpg|frameless|center|100px|]] |
|||
| {{仮リンク|マグヌス・フォン・ブラウン|de|Magnus von Braun (Politiker)}} |
|||
|style="background:#009EE9"| |
|||
| ドイツ国家人民党 |
|||
|- |
|||
| 無任所大臣 |
|||
| [[画像:Bundesarchiv Bild 183-2007-1009-501, Franz Bracht.jpg|frameless|center|100px|]] |
|||
| {{仮リンク|フランツ・ブラハト|de|Franz Bracht}}<br />{{Small|(1932年10月29日 -)}} |
|||
| rowspan="2" style="background:#F0F0F0" | |
|||
| 無所属 |
|||
|- |
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| 無任所大臣 |
|||
| [[画像:Bundesarchiv Bild 183-H27728, Johannes Popitz.jpg|frameless|center|100px|]] |
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| [[ヨハネス・ポーピッツ]]<br />{{Small|(1932年10月29日 -)}} |
|||
| 無所属 |
|||
|} |
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[[画像:Bundesarchiv Bild 183-R1230-505, Reichkabinett von Papen.jpg|thumb|250px|パーペン内閣(1932年6月1日)。<br><SUB>前列左から農業食糧相{{仮リンク|マグヌス・フォン・ブラウン|de|Magnus von Braun (Politiker)}}、内相[[ヴィルヘルム・フライヘル・フォン・ガイル]]、首相フォン・パーペン、外相[[コンスタンティン・フォン・ノイラート|フォン・ノイラート]]。<br>後列左から法相[[フランツ・ギュルトナー|ギュルトナー]]、経済相{{仮リンク|ヘルマン・ヴァルムボルト|de|Hermann Warmbold}}、国防相[[クルト・フォン・シュライヒャー|フォン・シュライヒャー]]。<br>ここにはいないが他に蔵相[[ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク|フォン・クロージク]]と運輸郵政相[[パウル・フォン・エルツ=リューベナッハ|フォン・エルツ=リューベナッハ]]がいる。</SUB>]] |
|||
パーペン内閣は閣僚9人のうち7人が貴族出身者であった。農相マグヌス・フォン・ブラウン男爵の回顧録によるとこの内閣は貴族出身者が多い他に[[騎兵|騎兵隊]]出身者が多い特徴もあったという<ref name="アイク188">アイク、188頁</ref>。特に内閣で大きな力を持っていたのは、首相フランツ・フォン・パーペン、国防相クルト・フォン・シュライヒャー、内相ヴィルヘルム・フォン・ガイル男爵の三人だった。そのため[[三頭政治]]と呼ばれた<ref name="モムゼン403">[[#モムゼン|モムゼン、p.403]]</ref>。 |
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こうした前時代的な人選から国民の支持はほとんどなく、'''男爵内閣'''と渾名された<ref name="阿部197">[[#阿部|阿部、p.197]]</ref><ref name="アイク189">[[#アイク|アイク、p.189]]</ref><ref name="フェスト上435">[[#フェスト上|フェスト、上巻p.435]]</ref>。内閣の極端な不人気に各党の反応は冷たく、主要政党でパーペン内閣を支持する政党は一つもなかった。[[ドイツ社民党|社民党]]や[[ドイツ共産党|共産党]]のような[[左翼]]政党は言うに及ばず、[[中央党 (ドイツ)|中央党]]も反党行為によって成立したパーペン内閣を徹底的に攻撃した。保守政党の[[ドイツ国家人民党|国家人民党]]ですらパーペン内閣と自分達は何の関わりもないとまで言明した<ref name="モスゼン396">[[#モムゼン|モムゼン、p.396]]</ref>。唯一[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)のみが[[突撃隊]]の禁止命令の解除と国会解散の約束を守ってもらうためにパーペン批判を控えていたが、これはナチ党内でも党員や支持者から大きな反発を招いた<ref name="フェスト上435"/>。同党[[全国宣伝指導部|宣伝担当]][[ヨーゼフ・ゲッベルス]]の日記も「この[[ブルジョワジー|ブルジョア]]的な与太者との厄介な隣人関係からすぐに逃げ出さないと我が党は取り返しのつかないことになる」と危機感を露わにしている<ref name="フェスト上435"/>。同党党首[[アドルフ・ヒトラー]]はシュライヒャーを通じて受けたパーペン内閣への協力要請を拒否している<ref name="阿部197"/>。 |
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[[File:Bundesarchiv Bild 102-13708, Franz von Papen.jpg|thumb|250px|left|1932年7月、ベルリンの首相官邸。]] |
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したがってパーペン内閣はもっぱらヒンデンブルク大統領の権威と国軍の権力にのみ頼った内閣だった<ref name="フェスト上435"/>。 |
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6月2日に行った首相就任宣誓でパーペンは国会解散を求めた<ref name="モスゼン397">[[#モムゼン|モムゼン、p.397]]</ref>。6月4日にヒンデンブルク大統領は議会に解散を命じ、総選挙が行われることになった。また6月にはブリューニング内閣により行われたナチス[[突撃隊]]・[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]の禁止命令と[[制服 (ナチ党)|ナチ党制服]]の禁止命令を新しい命令で取り消した<ref name="阿部197"/>。諸州はこの決定に反発し、独自にナチス制服禁止命令を出そうとしたが、パーペンは諸州には個々の事例について公共の秩序に対する危険防止を超える権限は認められていないとして再度命令を出してナチ党制服禁止を解除した<ref name="モムゼン398">[[#モムゼン|モムゼン、p.398]]</ref>。 |
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一方、6月16日からドイツの賠償問題に関する[[ローザンヌ会議]]が[[イギリスの首相|イギリス首相]][[ラムゼイ・マクドナルド]]を議長として行われ、これが内閣にとっての初の外交舞台へのお披露目となった。パーペンは、外相[[コンスタンティン・フォン・ノイラート]]男爵や蔵相[[ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク]]伯爵、経済相ヘルマン・ヴァルムボルトらとともに出席<ref name="阿部199">[[#阿部|阿部、p.199]]</ref>。その結果、7月9日に締結されたローザンヌ協定によってドイツは賠償金額をだいぶ減らされたが、なお30億マルクの支払いを要求された<ref name="阿部199"/><ref name="モムゼン412">[[#モムゼン|モムゼン、p.412]]</ref>。このことは、国民に外交下手との評価を下す結果となった<ref name="モムゼン412"/>。 |
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「[[ボルシェヴィキ]]に死を」を標語にしていたパーペンは、[[フランス]]に対して[[共産主義]]([[ソビエト連邦]])の脅威に対抗する独仏同盟を秘密裏にもちかけたが、フランス側は拒絶しソ連政府に通知された。内政では議会の支持を全く得ていなかったので、大統領権限による緊急立法のみで政権を維持する有様だったが、高い[[失業率]]への対策として雇用創出策を始めており、効果が見え始めたところであった。大規模な[[アウトバーン]]建設や[[徴兵制度]]といったより大規模な失業対策はヴェルサイユ条約の取り決めにより見送られたが、のちにヒトラーがヴェルサイユ条約を破棄してこの政策を実現し、失業問題が劇的に解決されることになる。 |
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=== プロイセン・クーデター === |
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[[画像:PapenSchleicher0001.jpg|thumb|200px|競馬観戦するパーペン(左)とシュライヒャー(1932年、ベルリン・カールスホルスト競馬場)]] |
[[画像:PapenSchleicher0001.jpg|thumb|200px|競馬観戦するパーペン(左)とシュライヒャー(1932年、ベルリン・カールスホルスト競馬場)]] |
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就任前の1932年4月、プロイセン自由州の州議会選挙で社会民主党を中心とする[[オットー・ブラウン]]の連立政権は敗北していたが、暫定内閣として存続していた。パーペン、ガイル、シュライヒャーの三頭政治はプロイセン社民党政府の息の根を止めることを企んでいた<ref name="モムゼン403">[[#モムゼン|モムゼン、p.403]]</ref>。特に[[東プロイセン]]の大農場主の利益を代弁するガイルは社民党と天敵の関係だった<ref name="モムゼン395">[[#モムゼン|モムゼン、p.395]]</ref>。またプロイセン社民党政府を潰すことによって同政府と長く対立してきたナチ党を自分たちに引き込もうという目論見もあった<ref name="フェスト上436">[[#フェスト上|フェスト、上巻p.436]]</ref>。 |
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[[1932年]]6月1日、[[ハインリヒ・ブリューニング]]内閣が瓦解すると、ヒンデンブルク大統領側近であった[[クルト・フォン・シュライヒャー]]の推薦を得て[[ドイツ国首相|首相]]となる。パーペン内閣はドイツ国家人民党に近い無所属右派の官僚や専門家から構成され、貴族出身者が多かったことから「男爵内閣」と渾名された。直ちに中央党はハーペンの除名を決定するが、その直前の6月3日に自ら中央党を離党。翌日ヒンデンブルク大統領は議会に解散を命じ、総選挙が行われることになった。また6月16日にはブリューニング内閣により行われたナチス[[突撃隊]]・[[親衛隊]]の非合法化を取り消した。同月行われたローザンヌ会議で、ドイツは[[ヴェルサイユ条約]]で定められた[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]への賠償金支払い義務を事実上停止された。 |
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7月14日、パーペンと[[クルト・フォン・シュライヒャー|シュライヒャー国防相]]は、[[パウル・フォン・ヒンデンブルク|ヒンデンブルク大統領]]が生活する{{仮リンク|ノイデック|en|Ogrodzieniec, Warmian-Masurian Voivodeship}}{{Efn|[[東プロイセン]]にあった町。ここにはヒンデンブルク家の領地があったが、その後は人手に渡っていた<ref name="hayashi159">[[#林共和国|林、p.159.]]</ref>。ヒンデンブルクを利用しようとする右翼政治家たちが歓心を買うため、工業家たちに金を出させて買戻し、[[1927年]]の誕生日にヒンデンブルクに贈った<ref name="hayashi159"/>。以後、ヒンデンブルクはこの地で暮らすことが多くなった<ref name="hayashi159"/>。}}に赴き、大統領緊急令([[ヴァイマル憲法]]第48条〈いわゆる、[[緊急事態条項]]の1つ〉に基づく大統領令)発動の許可を得て、プロイセン自由州への介入を実行する準備を整えていた<ref name="hayashi186">[[#林共和国|林、p.186.]]</ref>。 |
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就任前の1932年4月、プロイセン州の州議会選挙で社会民主党を中心とする[[オットー・ブラウン]]の連立政権は敗北していたが、暫定内閣として存続していた。プロイセンに中道右派政権樹立を目論んだパーペンはナチスとの共闘を探ったが、ナチス側は自らの完全な政権獲得を主張し協議は不調に終わった。そのためパーペンは7月14日にヒンデンブルクの了承を得て、「治安維持の危機に対処するため」国防軍を出動させてプロイセン州政府を解体し、自らプロイセン総督([[国家弁務官]]、Reichskommissar)を兼任した<ref>国法上は非合法なので、諸資料では1933年3月25日までオットー・ブラウン内閣が続いていることになっている。実際にはブラウンはその時既に[[スイス]]に亡命していた</ref>。このやり方は後のナチスの強引なやり口の前例、あるいは「相対化」させたものとして非難されている。 |
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この直後の7月17日に[[ハンブルク=アルトナ|アルトナ]] ([[ハンブルク]]の隣町) で起こったナチ党の[[突撃隊]]と[[ドイツ共産党|共産党]]の武力団体「赤色戦線」との間で市街地抗争(死者17名。重傷者多数。「{{仮リンク|アルトナ血の日曜日事件|de|Altonaer Blutsonntag}}」と呼ばれた)を利用して「プロイセン自由州には公共の安全と秩序を維持する事は出来ない」として介入を開始した<ref name="モムゼン406">[[#モムゼン|モムゼン、p.406]]</ref><ref name="阿部200">[[#阿部|阿部、p.200]]</ref><ref name="hayashi186"/>。 |
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=== ナチスの台頭と退陣 === |
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7月31日に投票が行われた総選挙では、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]が第一党に躍り出て、ナチスの[[ヘルマン・ゲーリング]]が国会議長に選出される事態になった。パーペンは議会で所信表明演説をしようとしたが、[[ドイツ共産党]]が内閣不信任決議を提出、ゲーリング議長はパーペンを登壇させず先に不信任決議案の採択を行った。決議は可決されたが、パーペン側は選出されたばかりの議会を解散させることで対抗した。11月に行われた総選挙でナチスは議席を減らしたものの、依然として第一党にとどまった。 |
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7月20日にパーペンはプロイセン自由州閣僚を招集し、大統領緊急命令なる物を読み上げてプロイセン州首相ブラウンとプロイセン州内相[[カール・ゼーヴェリング]]に解任を申し渡した。さらに[[ベルリン]]と{{仮リンク|ブランデンブルク州 (プロイセン)|de|Provinz Brandenburg|label=ブランデンブルク州}}を戒厳体制下に置き、第3軍司令官[[ゲルト・フォン・ルントシュテット]][[将軍]]に全権を委任して、ベルリン警視総監{{仮リンク|アルベルト・クシェジンスキ|de|Albert Grzesinski}}<ref>{{IPA-de|kʃeˈzɪnski}} ({{Cite book | title = Das Aussprachewörterbuch | publisher = Duden | edition = 6 | page = 379 | isbn =978-3-411-04066-7}})</ref>、ベルリン副警視総監[[ベルンハルト・ヴァイス]]、ベルリン{{仮リンク|シュッツポリツァイ|de|Schutzpolizei}}司令官{{仮リンク|マグヌス・ハイマンスベルク|de|Magnus Heimannsberg}}などを続々と逮捕させた<ref name="モムゼン407">[[#モムゼン|モムゼン、p.407]]</ref>。このパーペンによるプロイセン自由州政府転覆を[[プロイセン・クーデター]]と呼ぶ。 |
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この結果に失望したパーペンはヒンデンブルク大統領に、国防軍を出動させて議会を半年間停止し、その間に改憲を行って大統領権限を強化する、つまりは[[クーデター]]を提案し、ヒンデンブルクも賛成した。ところが国防軍のトップでありパーペンの旧友であるシュライヒャー国防相は、むしろナチスの一部を取り込んで分裂を誘うべきと主張してこの案に従わなかった。こうして12月1日にヒンデンブルクのお気に入りだったパーペン内閣は更迭され、シュライヒャーが後継首相となった。 |
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パーペンは同日夕方のラジオ放送で「プロイセン自由州政府は共産党テロ集団に対抗する用意がない」としてこのクーデタを正当化した<ref name="モムゼン408">[[#モムゼン|モムゼン、p.408]]</ref>。パーペンはプロイセン自由州首相を兼務するとともにプロイセン総督([[国家弁務官]]、Reichskommissar)に就任した{{efn|国法上は非合法なので、諸資料では1933年3月25日までオットー・ブラウン内閣が続いていることになっている。実際にはブラウンはその時既に[[スイス]]に亡命していた。}}。このやり方は後のナチスの強引な地方政府掌握([[強制的同質化]])の前例、あるいは「相対化」させたものとして非難されている。 |
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半年の首相在任中、「[[ボルシェヴィキ]]に死を」を標語にしていたパーペンは、[[フランス]]に対して[[共産主義]]([[ソビエト連邦]])の脅威に対抗する独仏同盟を秘密裏にもちかけたが、フランス側は拒絶しソ連政府に通知された。内政では議会の支持を全く得ていなかったので、大統領権限による緊急立法のみで政権を維持する有様だったが、高い[[失業率]]への対策として雇用創出策を始めており、効果が見え始めたところであった。大規模な[[アウトバーン]]建設や[[徴兵制度]]といったより大規模な失業対策はヴェルサイユ条約の取り決めにより見送られたが、のちにヒトラーがヴェルサイユ条約を破棄してこの政策を実現し、失業問題が劇的に解決されることになる。 |
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=== ナチスの台頭 === |
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[[File:Bundesarchiv Bild 102-13743, Berlin, Verfassungsfeier.jpg|thumb|200px|1932年8月11日、国会。フォン・パーペン首相と[[オットー・マイスナー]]大統領府長官、[[ヴィルヘルム・フライヘル・フォン・ガイル|フォン・ガイル]]内相、[[マグヌス・フォン・ブラウン|フォン・ブラウン]]農相。]] |
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[[画像:Bundesarchiv Bild 183-H28422, Reichskabinett Adolf Hitler.jpg|right|thumb|300px|ヒトラー内閣の閣僚とともに。前列右端がパーペン。1933年1月30日]] |
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[[1932年7月ドイツ国会選挙|1932年7月31日に投票が行われた総選挙]]では、ナチ党が37.4%の得票率を得て230議席(改選前107議席)を獲得し、第一党に躍り出た<ref name="阿部200">[[#阿部|阿部、p.200]]</ref>。社民党は21.6%の得票率で133議席(改選前143議席)に減らした。国家人民党も37議席(改選前41議席)に減らした。中央党は激しいパーペン攻撃の成果で76議席(改選前68議席)に伸ばした。共産党も89議席(前回77議席)を獲得して躍進した<ref>[[#阿部|阿部、p.169・200・201]]</ref><ref name="モムゼン415">[[#モムゼン|モムゼン、p.415]]</ref>。 |
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[[1933年]]1月4日と1月22日、パーペンはヒトラーと密談してナチスの政権参加について協議する。シュライヒャーへの報復のため、[[アドルフ・ヒトラー]]と組んでヒトラー=パーペン政権樹立を図ろうとし、ヒンデンブルクの承認も得た。[[ヒトラー内閣]]が成立すると、パーペンは副首相に就任。彼は「二ヶ月もすればヒトラーは内閣の端でわめくだけになる」と考えていたといわれる。しかし非ナチの民族派の支持を得ればヒトラー勢力を抑えられるというこの見込みは外れることになる。1933年7月、ドイツ全権代表として[[ローマ教皇庁]]との[[政教条約]]に調印している<ref>この条約は現在も有効である</ref>。 |
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シュライヒャーは8月5日にパーペンに独断でヒトラーと面会し、パーペン内閣に副首相として入閣するよう求めたが、ヒトラーは首相の地位を要求した<ref name="フェスト上438">[[#フェスト上|フェスト、上巻p.438]]</ref><ref name="モムゼン416">[[#モムゼン|モムゼン、p.416]]</ref><ref name="阿部201">[[#阿部|阿部、p.201]]</ref>。シュライヒャーはヒトラーを首相にするようヒンデンブルクに取り計らう様になったが、ヒンデンブルクもパーペンもその意思はなかった。ヒンデンブルクはヒトラーを毛嫌いしていたし、パーペンはいくつかの閣僚職を提供することでナチ党を取りこむことができると未だに考えていた<ref>モムゼン、417-418頁</ref>。 |
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パーペンは秘書に[[保守革命]]の代表的な思想家である[[エドガー・ユリウス・ユング]]を起用するなど、思想的にナチスと一線を画しており、次第にヒトラーとの溝は深まりつつあった。この頃ヒンデンブルク大統領は瀕死の重病であり、この後の事態は予断を許さなかった。パーペンはナチスに対抗する手段として帝政復活を考えており、ヒンデンブルクに帝政復活を希望する遺言状を書かせ、彼の死後に帝政復帰を実現する計画を建てていた。 |
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8月13日午前にヒトラーは、国会議長[[ヘルマン・ゲーリング|ゲーリング]]と突撃隊幕僚長[[エルンスト・レーム|レーム]]を伴ってパーペンとシュライヒャーとの会談を長時間にわたって行った<ref name="フェスト上439">[[#フェスト上|フェスト、上巻p.439]]</ref>。パーペンはヒトラーに副首相として自分の内閣に入閣することを求め、さらにヒトラーが副首相として実りある協力をしてくれたなら、その後に首相の地位を譲ると持ちかけたが、ヒトラーはその話には乗らず、今すぐ無条件に自分を首相にすることを求めた<ref name="フェスト上439"/>。続いて同日午後にはヒンデンブルクとヒトラーの会談が行われ、ヒンデンブルクがヒトラーに副首相になるよう説諭したが、ヒトラーは相変わらず首相職を要求したため、最終的にナチ党と政府は決裂した<ref name="フェスト上439"/><ref name="阿部201">[[#阿部|阿部、p.201]]</ref><ref name="モムゼン420">[[#モムゼン|モムゼン、p.420]]</ref>。 |
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[[1934年]]6月17日に[[マールブルク大学]]で過激ナチスおよび[[突撃隊|SA]]などを批判する講演を行った。この演説原稿は秘書ユングともう一人の秘書[[ヘルベルト・フォン・ボーゼ]]([[:de:Herbert von Bose]])、交通省海事局長[[エーリヒ・クラウゼナー]]([[:de:Erich Klausener]])の協力を得て執筆されたものだった。これを受けたヒトラーらは激怒し、宣伝相[[ヨーゼフ・ゲッベルス|ゲッベルス]]は講演録の発表や予定されていたラジオ放送を禁止する措置をとった。しかしパーペンは事前に原稿を外国人記者や外交官に渡しており、内容は広く知られることになった。20日、パーペンはヒトラーに対し、演説の発表ができない場合は辞職すると抗議した。ヒトラーは善処を約束して慰留している。 |
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この会談の決裂で[[突撃隊]]を中心にナチ党内で武装蜂起を求める声は強まった。8月22日に[[ビトム|ボイテン]]の裁判所が{{仮リンク|ポテンパ|de|Potępa}}村の共産党員を殺害({{仮リンク|ポテンパ村殺人事件|de|Mord von Potempa}})した突撃隊員5人に[[死刑]]判決を下したのを機に、ヒトラーはかつてないほど突撃隊を使っての政府脅迫を行った。これに怯えたパーペンはヒンデンブルクに奏上して9月2日にこの突撃隊員5名を[[終身刑]]に減刑させた<ref name="阿部202">[[#阿部|阿部、p.202]]</ref><ref name="フェスト上440">[[#フェスト上|フェスト、上巻p.440]]</ref>。 |
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6月30日、ヒトラーによる突撃隊の粛清である「[[長いナイフの夜]]」事件が発生した。粛清を知らされていなかったパーペンはゲーリングに抗議したが入れられず、自宅に戻らされ軟禁された。その頃「マールブルク演説」に関係した秘書ユング、ボーゼは副首相官邸で[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]により射殺された。またクラウゼナー海事局長も[[ゲシュタポ]]本部で殺害されている。パーペンはその後自宅に軟禁されつづけ、外部との連絡を絶たれたが、ヒンデンブルク大統領の個人的な信任が厚かったため、殺害はされなかった。 |
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[[File:Bundesarchiv Bild 102-13851, Franz von Papen.jpg|thumb|200px|left|1932年9月12日、国会に登院するパーペン首相。]] |
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=== 外交官 === |
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9月12日に国会が召集され、パーペンは所信表明演説をしようとしたが、共産党議員がパーペン内閣不信任の緊急動議を提出した<ref>[[#阿部|阿部、p.202-203]]</ref>。一時休会した後、ナチ党議員団はヒトラーからの指示でこの共産党の動議に賛成することになった<ref name="モムゼン426">[[#モムゼン|モムゼン、p.426]]</ref>。パーペンは休会中に大統領の解散命令書を急遽取りに行かせた<ref name="モムゼン426"/>。再開後、ゲーリング議長はパーペンを登壇させず先に不信任決議案の採択を行い、512対42で可決される<ref name="モムゼン426"/><ref name="阿部203">[[#阿部|阿部、p.203]]</ref><ref name="トーランド上311">[[#トーランド上|トーランド、上巻p.311]]</ref><ref name="フェスト上443">[[#フェスト上|フェスト、上巻p.443]]</ref>。パーペンはこの大差の不信任の屈辱を受けた後に大統領命令を提出して議会を解散させた。選出されたばかりの議会がただちに解散されることとなった<ref name="阿部203"/><ref name="フェスト上443"/>。 |
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[[Image:Bundesarchiv Bild 183-S00017, Franz von Papen.jpg|200px|thumb|大使時代のパーペン。1936年]] |
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[[Image:Benzenhofen.jpg|200px|thumb|パーペンが晩年を過ごしたベンツェンホーフェン城]] |
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1934年7月25日、[[オーストリア]]首相[[エンゲルベルト・ドルフース]]が[[オーストリア・ナチス党]]によって暗殺された。この暗殺は[[ハインリヒ・ヒムラー|ヒムラー]]の部下が[[クーデター]]を計画して行ったものだったが、クーデター自体は失敗に終わった。ドルフースはイタリアの[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]首相と親しく、オーストリアの独立はイタリアにとって重要であったため、事態が明らかになると独伊関係が崩壊するおそれがあった。ムッソリーニはイタリア軍四個師団を伊墺国境に配備し、介入の姿勢を見せた。 |
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=== シュライヒャーにより退陣させられる === |
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26日午前2時、ヒトラーはパーペンに連絡を取り、[[ウィーン]][[公使]]就任の要請を行った。翌日ヒトラーと面会したパーペンは要請を受諾したが、オーストリア側の[[外交官#条件|アグレマン]]が得られず、ウィーンには向かえなかった。その間の8月2日にヒンデンブルク大統領は死去。ヒンデンブルクは公式の遺言状に帝政復活の希望を記しておらず、ヒトラーが「国家元首兼首相」([[総統]])としてドイツを支配する独裁体制が完成し、パーペンの企図した帝政復活計画は潰えた。8月7日、オーストリア政府からアグレマンが行われ、パーペンは副首相を辞任して正式にウィーン公使となった。パーペンは8月15日にウィーンに赴任し、ヒトラー関与の隠蔽と事態の収拾に努めた<ref> 京大西洋史辞典編纂会編, “新編西洋史辞典,” 改訂増補, 東京創元社, 1993.</ref>。 |
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ナチ党は共産党の起こした[[ストライキ]]への参加やブルジョア的なパーペン内閣への激しい攻撃などにより財界やナチ党員がかなり離反し、選挙資金を確保できなかった。結果、[[1932年11月ドイツ国会選挙|11月6日に行われた総選挙]]では、ナチ党は第一党は確保したものの得票率33.1%、196議席に後退した<ref name="阿部205">[[#阿部|阿部、p.205]]</ref><ref name="トーランド上313">[[#トーランド上|トーランド、上巻p.313]]</ref><ref name="フェスト上447">[[#フェスト上|フェスト、上巻p.447]]</ref><ref>[[#モムゼン|モムゼン、p.436-437]]</ref>。社民党も得票率20.4%、121議席に後退した<ref name="モムゼン437">[[#モムゼン|モムゼン、p.437]]</ref>。しかしパーペンが最も嫌う共産党が100議席に伸ばしてしまった<ref name="阿部205"/>。 |
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ナチ党が議席を落としたことでヒトラーが要求を下げるかもしれないという望みをかけてパーペンは、11月9日にヒトラーに副首相就任を再度要請したが、ヒトラーは拒否した。11月15日にも再度副首相就任要請の手紙をヒトラーに送ったが、翌16日の返信でヒトラーはこれを拒否した<ref name="阿部205">[[#阿部|阿部、p.205]]</ref>。パーペンを見限ったシュライヒャーは、政党間交渉をしやすくするためとして後の交渉はヒンデンブルクに任せ、パーペンに内閣総辞職を求めた。11月17日にパーペン内閣は形式的に内閣総辞職して暫定事務処理内閣に移行した。しかしパーペンはいずれヒンデンブルクから再度組閣の命令が来ると信じていた<ref name="阿部205"/><ref>[[#モムゼン|モムゼン、p.438-439]]</ref><ref name="フェスト上448">[[#フェスト上|フェスト、上巻p.448]]</ref>。11月18日から24日にかけてヒンデンブルクやマイスナーなど大統領府とヒトラーの交渉が行われたが、やはり平行線に終わった<ref>[[#阿部|阿部、p.205-206]]</ref>。 |
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[[1936年]]からは駐オーストリア大使に任じられ、[[アンシュルス|オーストリア併合]]に暗躍した。後にパーペンは、回想録で全ヨーロッパ紛争の回避のためと弁明している<ref> ロベルト・S.ヴィストリヒ 編, 滝川義人 訳, “ナチス時代ドイツ人名事典,” 原題:Who's who in Nazi Germany, 東洋書林, 2002.</ref>。[[1939年]]からは[[トルコ]]駐在大使を務め、[[第二次世界大戦]]で中立を保つトルコを[[中央同盟]]時代のようにドイツ側にする工作に従事、ソ連のエージェントによる暗殺未遂事件にも遭遇する。[[1941年]]にはドイツ・トルコ相互不可侵条約が締結されたもののトルコは中立を維持し続け、[[1944年]]にドイツとの外交関係を断絶しパーペンは帰国した。ローマ教皇庁への大使起用が検討されたが、ベルリン司教の反対で実現しなかった。同年7月の[[ヒトラー暗殺計画|ヒトラー暗殺未遂事件]]で友人知己が逮捕され助命に努力したが、成功しなかった。以降、ドイツに[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍が迫る中も[[ゲシュタポ]]の監視を受けていた。 |
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12月1日午後6時、ヒンデンブルク大統領はパーペンとシュライヒャーを招集した。パーペンは数か月前から立てていた憲法違反のクーデタ計画をヒンデンブルクに提案した。国軍を出動させて議会を半年間停止し、その間に改憲を行って大統領権限を強化する計画であった。しかしパーペンを失脚させたがっていたシュライヒャーはこの計画に反対した。シュライヒャーは自分が首相に就任し、ナチ党の一部を取り込んで分裂を誘うべきと主張した<ref name="トーランド上317">[[#トーランド上|トーランド、上巻p.317]]</ref>。ヒンデンブルクはパーペンを支持したが、シュライヒャーは頑として国軍のクーデタへの参加を拒否した<ref>[[#フェスト上|フェスト、上巻p.440-441]]</ref>。 |
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パーペンは娘婿である[[マックス・フォン・シュトックハウゼン]]伯爵が[[メシェンデ]]に所有する城に隠棲していたが、[[1945年]]4月には[[アメリカ軍]]がメシェンデを占領。彼は狩猟小屋に隠れているところを逮捕された。[[1946年]]10月の[[ニュルンベルク裁判]]では無罪。[[1947年]]2月の非ナチ化裁判で労働刑8年を宣告されたが、上告及び恩赦の結果[[1949年]]釈放。その後[[西ドイツ]]の政界に進出しようとしたが成功しなかった。[[1959年]]7月24日には、[[ローマ教皇|教皇]][[ヨハネ23世 (ローマ教皇)|ヨハネ23世]]と[[アンカラ]]駐在時代に親交があったため、教皇によって[[教皇侍従]]([[:en:Papal Gentlemen|Papal Chamberlains]])に叙せられた。また、[[マルタ騎士団]]のメンバーにもなっている。1969年、[[バーデン=ヴュルテンベルク州]]の隠棲先で死去。 |
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つづいて翌12月2日の閣議でシュライヒャーは「パーペンの下で政府を作ろうといういかなる試みも国を混乱に陥れるだけ。ナチスが内乱を起こせば国軍にそれを鎮圧することは不可能」としてパーペンに退陣を求めた<ref name="トーランド上318">[[#トーランド上|トーランド、上巻p.318]]</ref>。閣僚はほとんどシュライヒャーを支持した<ref>[[#モムゼン|モムゼン、p.440-441]]</ref>。パーペンは大統領府へ逃げ込み、ヒンデンブルクの支持を得ようとしたが、「ことここにいたってはシュライヒャーに任せよう」と言われたという<ref name="トーランド上318"/><ref name="フェスト上451">[[#フェスト上|フェスト、上巻p.451]]</ref><ref name="モムゼン441">[[#モムゼン|モムゼン、p.441]]</ref>。こうして12月2日にクルト・フォン・シュライヒャーが首相に就任することになり、パーペン内閣は退陣することになった<ref name="阿部206">[[#阿部|阿部、p.206]]</ref>。 |
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==脚注== |
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しかしヒンデンブルクから気に入られていたパーペンは、大統領仮官邸(大統領官邸は当時改修中だった)の近くに宿を取って暮らし、辞職後も足繁く大統領の下に通った<ref name="アイク312">[[#アイク|アイク、p.312]]</ref><ref name="トーランド上325">[[#トーランド上|トーランド、上巻p.325]]</ref>。 |
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== 参考資料 == |
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* [[児島襄]] 『第二次世界大戦・ヒトラーの戦い』[[文春文庫]] |
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=== ヒトラー内閣実現に努力 === |
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シュライヒャーへの復讐心に燃えるパーペンは、シュライヒャーとナチ党組織全国指導者[[グレゴール・シュトラッサー]]が秘密会談しているのを聞きつけると、その情報をヒトラーに流した<ref name="トーランド上319">[[#トーランド上|トーランド、上巻p.319]]</ref>。結果、シュトラッサーは党役職の辞職に追い込まれ、シュライヒャーのナチス左派取り込みの目論見は失敗に終わった。1932年12月16日の紳士クラブでの演説でパーペンは、シュライヒャーの退陣とヒトラーの入閣は不可欠であると述べ、シュライヒャーへの敵意をむき出しにした<ref name="モムゼン461">[[#モムゼン|モムゼン、p.461]]</ref>。 |
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さらに[[ケルン]]の銀行家{{仮リンク|クルト・フォン・シュレーダー|de|Kurt Freiherr von Schröder}}を通じてヒトラーに接近を図った。[[1933年]][[1月4日]]にシュレーダーの自宅でヒトラーとパーペンの会談が行われた<ref name="トーランド上323">[[#トーランド上|トーランド、上巻p.323]]</ref><ref name="フェスト上458">[[#フェスト上|フェスト、上巻p.458]]</ref>。両者はシュライヒャー政権打倒、それに代わるヒトラー=パーペン政権の樹立、社民党員・共産党員・ユダヤ人の国家中枢からの排除で合意した<ref name="トーランド上324">[[#トーランド上|トーランド、上巻p.324]]</ref>。ヒトラーとパーペンの会談を知ったシュライヒャーは激怒し、大統領官邸を訪れてヒンデンブルクに対して自分が同席しない限り前首相とは会わないよう釘を刺した。しかしパーペンをいまだ信用しているヒンデンブルクはこれを無視し、パーペンに独自にヒトラーと接触することを許し、また[[オットー・マイスナー]]ら側近に対してパーペンとヒトラーの接触があったと分かった時でもシュライヒャーにはそれを伝えないよう命じた<ref name="アイク313">[[#アイク|アイク、p.313]]</ref><ref name="トーランド上324">[[#トーランド上|トーランド、上巻p.324]]</ref>。 |
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1月18日と1月22日にも[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]の自宅でヒトラーとパーペンは会談した<ref name="阿部212">[[#阿部|阿部、p.212]]</ref>。特に1月22日の会談は大統領官邸長官[[オットー・マイスナー]]やヒンデンブルク大統領の息子[[オスカー・フォン・ヒンデンブルク]]も同席し、ヒトラーが首相に任命される上で重要な会談となった(無論シュライヒャーには内密の会談)<ref name="阿部212"/><ref>[[#トーランド上|トーランド、上巻p.325-327]]</ref>。 |
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1月26日にはパーペンは国家人民党党首[[アルフレート・フーゲンベルク]]、[[鉄兜団]]団長[[フランツ・ゼルテ]]、[[テオドール・デュスターベルク]]と会談し、ヒトラー内閣への入閣交渉を行った。デュスターベルクを除く三者はヒトラー内閣に参加することを表明した<ref name="アイク324">[[#アイク|アイク、p.324]]</ref><ref name="阿部212">[[#阿部|阿部、p.212]]</ref>。1月28日にパーペンはヒンデンブルクから「政局説明担当」特別職に任じられた。パーペンは、オスカーやマイスナーと共にヒンデンブルクにヒトラーを首相に指名しても全く問題なしとヒンデンブルクに説明した<ref name="アイク331">[[#アイク|アイク、p.331]]</ref><ref name="阿部213">[[#阿部|阿部、p.213]]</ref><ref name="トーランド上328">[[#トーランド上|トーランド、上巻p.328]]</ref>。ヒトラーを「ボヘミア人伍長」と呼んで軽蔑していたヒンデンブルクもついにヒトラーの首相任命を承諾した<ref name="トーランド上328"/>。 |
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一方シュライヒャーは憎きパーペンが中枢となって活躍する政権だけは阻止しようと図り、1月29日に陸軍総司令官[[クルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルト]]をヒトラーの下へ派遣して、ヒトラーに協力したい旨を申し出たが、パーペンと組んで政権を作る気であったヒトラーは曖昧に対応した<ref name="阿部213"/>。同日にパーペンはヒトラーと会談を行い、政権掌握後には総選挙を行い、選挙後に[[全権委任法]]を可決して[[独裁政治|独裁体制]]を樹立することを求めた<ref name="阿部213"/>。ところが国家人民党のフーゲンベルクは自党の影響力の低下を恐れて総選挙を嫌がり、内閣成立が危ぶまれる空気になった。パーペンはヒトラー内閣成立の直前にフーゲンベルクに電話して組閣に時間を食うとシュライヒャーとハンマーシュタインがクーデタを起こす恐れがあるので組閣を急がねばならないと主張して説き伏せ、ヒトラー内閣成立にこぎつけた<ref name="阿部213"/><ref name="トーランド上329">[[#トーランド上|トーランド、上巻p.329]]</ref><ref name="モムゼン476">[[#モムゼン|モムゼン、p.476]]</ref>。 |
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=== ナチ政権の副首相時代 === |
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[[ファイル:Bundesarchiv Bild 102-15348, Reichskabinett Adolf Hitler.jpg|right|thumb|250px|1933年1月30日、ヒトラー内閣閣僚とともに。ヒトラーと話している人物がパーペン。]] |
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1933年1月30日11時15分頃に[[ヒトラー内閣]]が成立した<ref name="阿部213"/>。パーペンは副首相兼プロイセン州首相に就任した<ref name="阿部213"/>。ナチ党からの入閣は首相ヒトラー、内相[[ヴィルヘルム・フリック]]、無任所相・プロイセン州内相[[ヘルマン・ゲーリング]]の三人のみであり、その他の閣僚はヒンデンブルク大統領自らが選んだ国防相[[ヴェルナー・フォン・ブロンベルク]]を除き、パーペンが選んだ<ref name="モムゼン477">[[#モムゼン|モムゼン、p.477]]</ref>。パーペンは「われわれは彼を雇ったのさ」「わたしはヒンデンブルクに信頼されている。二ヶ月もしないうちにヒトラーは隅っこのほうに追いやられてきいきい泣いているだろう」と語り<ref>[[エヴァルト・フォン・クライスト=シュメンツィン]] ([[:en:Ewald_von_Kleist-Schmenzin|en]])「Die letzte Möglichkeit」よりの引用、トーランド、124p</ref>、自らのヒンデンブルクへの影響力でもってヒトラーを操り人形にできるという幻想に浸っていた<ref name="モムゼン478">[[#モムゼン|モムゼン、p.478]]</ref>。 |
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ヒトラーは2月1日の国民へのラジオ放送で「二つの偉大な四カ年計画」を宣言し、第一次[[四カ年計画]]を発表した。しかし大の反共主義者であったパーペンは「あまりに[[スターリン主義]]的用語が多い」とヒトラーに抗議した<ref name="モムゼン481">[[#モムゼン|モムゼン、p.481]]</ref>。2月6日にパーペンとマイスナーの助言によって明らかに違憲な大統領緊急命令「プロイセンにおける正常な統治関係確立のための緊急令」が発令された。パーペンは自らがプロイセンで独裁権力を握るつもりで発令させたのだが、結局ヒトラーの要求でプロイセン州の内相に就任させていた[[ヘルマン・ゲーリング]]がプロイセンにおいて巨大な権限を握ってパーペンはプロイセン州首相の職をゲーリングに譲り渡すこととなった<ref name="阿部217">[[#阿部|阿部、p.217]]</ref><ref name="トーランド上337">[[#トーランド上|トーランド、上巻p.337]]</ref><ref name="モムゼン482">[[#モムゼン|モムゼン、p.482]]</ref>。 |
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ヒトラーの首相就任の二日後の2月1日に国会は解散され、選挙戦に突入した<ref name="阿部215">[[#阿部|阿部、p.215]]</ref>。2月11日にパーペンは国家人民党と鉄兜団に統合を薦め、「黒・白・赤」を結成させた<ref name="モムゼン482"/>。3月5日に総選挙が行われたが、ナチ党が得票率43.9%を得て、288議席を獲得した<ref name="阿部222">[[#阿部|阿部、p.222]]</ref>。この選挙で、自身も「黒・白・赤」から出馬して国会議員に初当選した。 |
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3月23日にヒトラー内閣に憲法を除く全ての法律を自由に公布できる権限を認める[[全権委任法]]が可決された<ref name="阿部226">[[#阿部|阿部、p.226]]</ref>。パーペンは政府を国会から独立させるために全権委任法を可決させることには当初から賛成だった<ref name="モムゼン489">[[#モムゼン|モムゼン、p.489]]</ref>。しかしこの全権委任法によって大統領の存在も形骸化し、大統領の信任を背景にしたパーペンの権力も形骸化することになった。パーペンはそこまで考えが及ばなかったようである<ref name="モムゼン489"/>。 |
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[[File:Bundesarchiv Bild 183-R24391, Konkordatsunterzeichnung in Rom.jpg|left|thumb|250px|1933年7月20日、[[ライヒスコンコルダート]]の締結が合意された[[バチカン]]の[[ローマ教皇庁]]。左から[[ルートヴィヒ・カース]]、パーペン、一人おいて[[ピウス12世 (ローマ教皇)|エウジェニオ・パチェッリ(後の教皇ピウス12世)]][[枢機卿国務長官]](中央)。]] |
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1933年7月にパーペンはヒトラーの代理で[[バチカン]]を訪れた。[[ローマ教皇]][[ピウス11世 (ローマ教皇)|ピウス11世]]は「ドイツ政府がその指導者として共産主義とロシアに断固反対する指導者を持つに至った事は大変に喜ばしい」と述べた<ref name="トーランド上359">[[#トーランド上|トーランド、上巻p.359]]</ref>。そしてドイツとバチカンの間で[[政教条約]]が締結された。この「[[ライヒスコンコルダート]]」により純宗教活動としてのカトリック教会や学校、宣教活動をナチス政権が承認し、また政治的カトリック(中央党やカトリック労働組合)の解散をローマ教皇庁が承認した。またローマ教皇庁はドイツ国内のカトリック神父に対してナチス政権に忠誠を誓うよう命じた<ref name="トーランド上359"/><ref name="阿部244">[[#阿部|阿部、p.244]]</ref>。カトリックの反体制運動に頭を悩ませていたヒトラーは「カトリックは今後ナチス体制に全面的に支持することであろう」と期待感を表明した<ref name="阿部244"/>。 |
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パーペンは秘書に[[保守革命]]の代表的な思想家である{{仮リンク|エドガー・ユリウス・ユング|de|Edgar Julius Jung}}を起用するなど、思想的にナチスと一線を画しており、次第にヒトラーとの溝は深まりつつあった。この頃ヒンデンブルク大統領は瀕死の重病であり、この後の事態は予断を許さなかった。パーペンはナチスに対抗する手段として帝政復活を考えており、ヒンデンブルクに帝政復活を希望する遺言状を書かせ、彼の死後に帝政復帰を実現する計画を建てていた。 |
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[[1934年]]6月17日に[[フィリップ大学マールブルク|マールブルク大学]]で過激ナチスおよび[[突撃隊|SA]]などを批判する講演、いわゆる「{{仮リンク|マールブルク演説|de|Marburger Rede}}」を行った。この演説原稿は秘書ユングともう一人の秘書{{仮リンク|ヘルベルト・フォン・ボーゼ|de|Herbert von Bose}}、交通省海事局長[[エーリヒ・クラウゼナー]]の協力を得て執筆されたものだった。これを受けたヒトラーらは激怒し、宣伝相[[ヨーゼフ・ゲッベルス|ゲッベルス]]は講演録の発表や予定されていたラジオ放送を禁止する措置をとった。しかしパーペンは事前に原稿を外国人記者や外交官に渡しており、内容は広く知られることになった。20日、パーペンはヒトラーに対し、演説の発表ができない場合は辞職すると抗議した。ヒトラーは善処を約束して慰留している。 |
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6月30日、ヒトラーによる突撃隊の粛清である「[[長いナイフの夜]]」事件が発生した。粛清を知らされていなかったパーペンはゲーリングに抗議に行ったが、この際に[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]に帰り道をふさがれて命を狙われた。しかしゲーリングの庇護で命だけは助かった<ref name="ヴィストリヒ185">ヴィストリヒ、185頁</ref>。しかし、「マールブルク演説」に関係した秘書ユング、ボーゼは副首相官邸で親衛隊により射殺された。またクラウゼナー海事局長も[[ゲシュタポ]]本部で殺害されている。パーペンはその後自宅に軟禁されつづけ、外部との連絡を絶たれたが、ヒンデンブルク大統領の個人的な信任が厚かったため、殺害はされなかった。 |
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=== ナチ支配の確立後、大使に === |
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[[Image:Bundesarchiv Bild 183-S00017, Franz von Papen.jpg|150px|thumb|大使時代のパーペン。1936年]] |
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1934年7月25日、[[第一共和国 (オーストリア)|オーストリア]]首相[[エンゲルベルト・ドルフース]]が{{仮リンク|オーストリア国家社会主義ドイツ労働者党-ヒトラー運動|de|Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei Österreichs – Hitlerbewegung|label=オーストリア・ナチス}}によって暗殺された。この暗殺は[[ハインリヒ・ヒムラー|ヒムラー]]の部下が[[クーデター]]を計画して行ったものだったが、クーデター自体は失敗に終わった。ドルフースは[[イタリア王国|イタリア]]の[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]首相と親しく、オーストリアの独立はイタリアにとって重要であったため、かつてバチカンを訪問した際にもパーペンはムッソリーニにドルフースを支持しないよう説得するも失敗しており<ref>Weinberg, Gerhard (1970). The Foreign Policy of Hitler's Germany: Diplomatic Revolution in Europe. Chicago, IL: University of Chicago Press. p.90</ref>、事態が明らかになると独伊関係が崩壊するおそれがあった。ムッソリーニは[[イタリア軍]]四個師団を伊墺国境に配備し、介入の姿勢を見せた。 |
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26日午前2時、ヒトラーはパーペンに連絡を取り、[[ウィーン]][[公使]]就任の要請を行った。翌日ヒトラーと面会したパーペンは要請を受諾したが、オーストリア側の[[アグレマン]]が得られず、ウィーンには向かえなかった。その間の8月2日にヒンデンブルク大統領は死去。ヒンデンブルクは公式の遺言状に帝政復活の希望を記しておらず、ヒトラーが「国家元首兼首相」([[総統]])としてドイツを支配する独裁体制が完成し、パーペンの企図した帝政復活計画は潰えた。8月7日、オーストリア政府からアグレマンが行われ、パーペンは副首相を辞任して正式にウィーン公使となった。パーペンは8月15日にウィーンに赴任し、ヒトラー関与の隠蔽と事態の収拾に努めた<ref> 京大西洋史辞典編纂会編, “新編西洋史辞典,” 改訂増補, 東京創元社, 1993.</ref>。 |
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[[1936年]]からは駐オーストリア大使に任じられ、[[アンシュルス|オーストリア併合]]に暗躍した。1937年にムッソリーニがドイツを訪問した際はイタリアと協議するオーストリアの問題をめぐるヒトラーの顧問を務めた<ref>Weinberg, Gerhard (1980). The Foreign Policy of Hitler's Germany: Starting World War II. Chicago: University of Chicago Press. p.236.</ref>。後にパーペンは、この時期の自らの活動は回想録で全ヨーロッパ紛争の回避のためと弁明している<ref name="ヴィストリヒ185">ヴィストリヒ、185頁</ref>。[[1938年]][[8月13日]]に[[黄金ナチ党員バッジ]]を授与され、同時にナチ党に入党した(党員番号5,501,100)。[[1939年]]からは[[トルコ]]駐在大使を務め、[[第二次世界大戦]]で中立を保つトルコを[[中央同盟国]]時代のようにドイツ側にする工作に従事し、[[1941年]]にはドイツ・トルコ相互不可侵条約が締結された。しかしトルコは中立を維持し続け、ソ連のエージェントによる暗殺未遂事件にも遭遇する。[[ノルマンディー上陸作戦]]前にはキケロと呼ばれる[[スパイ]]([[エリエサ・バズナ]])からイギリス大使館の情報を収集したが、これは連合軍の[[欺瞞作戦]]{{仮リンク|ボディガード作戦|en|Operation Bodyguard}}によるものであり、結果としてドイツに誤情報をもたらすこととなった。[[1944年]]にトルコはドイツとの外交関係を断絶しパーペンは帰国した。ローマ教皇庁への大使起用が検討されたが、ベルリン司教の反対で実現しなかった。同年7月の[[ヒトラー暗殺計画|ヒトラー暗殺未遂事件]]で友人知己が逮捕され助命に努力したが、成功しなかった。以降、ドイツに[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍が迫る中も[[ゲシュタポ]]の監視を受けていた。 |
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=== ニュルンベルク裁判 === |
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[[File:Defendants Nuremberg-War-Crimes-Tribunal 1945-11-27.jpg|200px|thumb|[[1945年]][[11月27日]]、[[ニュルンベルク裁判]]。<br>{{Small|後列左から[[アルフレート・ヨードル|ヨードル]]、パーペン、[[アルトゥル・ザイス=インクヴァルト|ザイス=インクヴァルト]]、[[アルベルト・シュペーア|シュペーア]]、[[ヒャルマル・シャハト|シャハト]]}}]] |
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パーペンは娘婿である{{仮リンク|マックス・フォン・シュトックハウゼン|de|Max von Stockhausen}}伯爵が[[メシェデ]]に所有する城に隠棲していたが、[[1945年]]4月には[[アメリカ軍]]がメシェンデを占領。彼は狩猟小屋に隠れているところを逮捕された。[[ヘルマン・ゲーリング]]、[[カール・デーニッツ]]、[[アルベルト・シュペーア]]、[[ヴィルヘルム・カイテル]]など大物捕虜を集めた[[ルクセンブルク]]・{{仮リンク|バート・モンドルフ|de|Bad Mondorf}}の収容所に収容された<ref name="マーザー76">マーザー、76頁</ref>。 |
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[[ニュルンベルク裁判]]にかけるために1945年9月に他の被告人達とともにニュルンベルク刑務所へ移送された。パーペンはナチ党を政権につけた者、また[[オーストリア併合]]に関与した者として第一起訴事項「[[共同謀議]]」と第二起訴事項「[[平和に対する罪]]」で起訴された<ref name="パーシコ下208">[[#パーシコ下|パーシコ、下巻p.208]]</ref>。 |
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パーペンは1946年6月14日に検察側反対尋問で証言台に立った。パーペンは、自分がヒトラー政権誕生に大きな役割を果たしたことを否定した。さらに「全被告のうちヒトラーに辞職を願い出、また実際に辞職したのは私だけだ」などと主張した。イギリス首席検事[[デーヴィット・マクスウェル=ファイフ]]卿はこれに対して「そうだ。そして貴方は11日後に別の仕事を得た。オーストリアを殺害した政府を代表する仕事を…。」と切り返した<ref>[[#時事|『ニュルンベルグ裁判記録』、p.181-182]]</ref>。 |
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1946年10月1日に他の被告人とともに判決を受けた。パーペンの判決文は「ヒトラーを首相に任命することを援助した」「証拠は、パーペンがオーストリア公使としてオーストリア併合のために[[クルト・シュシュニック|シュシュニク]]政権を転覆させ、[[オーストリア・ナチス]]を強化したことに一切の疑問をおかない。この計画のために彼は策謀と脅迫を行った。」としつつ、「憲章は政治論理に反するかかる悪行を、いかにそれがあくどいやり方であっても、犯罪とはしていない。」として彼を第1項と第2項の起訴事項の両方において無罪とした<ref>[[#時事|『ニュルンベルグ裁判記録』、p.292-295]]</ref>。ソ連主席裁判官[[イオナ・ニキチェンコ]]のみ「ヒトラー体制の犯罪責任の大半はパーペンである」と主張し、有罪を求めていたが、西側裁判官により彼は無罪となった<ref name="プシビルスキ55">[[#プシビルスキ|プシビルスキ、p.55]]</ref>。 |
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ニュルンベルク裁判で無罪となった被告はパーペンを含めて三人だけである(他の二人は[[ハンス・フリッチェ]]と[[ヒャルマル・シャハト]])。 |
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=== 戦後 === |
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[[Image:Benzenhofen.jpg|200px|thumb|パーペンが晩年を過ごした{{仮リンク|ベンツェンホーフェン城|de|Schloss Benzenhofen}}]] |
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[[1947年]]2月の非ナチ化裁判で労働刑8年と財産没収を宣告されたが、上告及び恩赦の結果、[[1949年]]に釈放された。その後[[西ドイツ]]の政界に進出しようとしたが成功しなかった。 |
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1952年には回顧録『路地の真実』([[:de:Der Wahrheit eine Gasse|Der Wahrheit eine Gasse]]) を出版。歴史学者[[ロベルト・S. ヴィストリヒ]]から「飽くなき自惚れと驚くばかりの自己満足が露わなだけの内容」と酷評されている<ref name="ヴィストリヒ186">ヴィストリヒ、186頁</ref>。 |
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[[1959年]]7月24日には、[[ローマ教皇|教皇]][[ヨハネ23世 (ローマ教皇)|ヨハネ23世]]と[[アンカラ]]駐在時代に親交があったため、教皇によって[[教皇侍従]] ([[:en:Papal Gentlemen|Papal Chamberlains]]) に叙せられた。また、[[マルタ騎士団]]のメンバーにもなっている。1969年、隠棲先の[[バーデン=ヴュルテンベルク州]]{{仮リンク|ザースバッハ|de|Sasbach}}で死去。 |
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== 人物 == |
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米軍の拘留記録によると身長は175センチである<ref>[http://collections1.yadvashem.org/notebook.asp?lang=ENG&dlang=ENG&module=search&page=next_list&rsvr=8@8¶m=%3Cdlang%3EENG%3C/%3E%3Cnob%3E20%3C/%3E%3Cstart_entry%3E1%3C/%3E%3Crsvr_id%3E8%3C/%3E%3Clang_id%3EENG%3C/%3E%3Cquantity%3E15%3C/%3E%3Cvalue%3EPapen%20Franz%20von%3C/%3E%3Cindex_name%3EINX_TERM%3C/%3E%3Ccollector%3E0%3C/%3E%3Clif%3E!35;994%3C/%3E%3Crsvr_ser%3E@@8@@7%3C/%3E%3Cdispq%3Ez1zSubject%20-%20Thesaurus%20terms:%20z3zPapen%20Franz%20von,%20Literal%20%20z1zDatabanks:%20z3zDocuments%20Archive,%20Photos%20Archive%3C/%3E%3Cquery_name%3Ejaguar50_4268_969620%3C/%3E%3Cnum_of_items%3E0%3C/%3E%3Cquery_index%3EINX_TERM@994%3C/%3E%3Cthumb%3E0%3C/%3E%3Csmode%3Edts%3C/%3E%3Cbook_id%3E61191%3C/%3E%3Cview%3Erecords%3C/%3E%3Cchecktab%3E0%3C/%3E%3Cnum_page%3Emain%3C/%3E%3Cbblink%3E0%3C/%3E%3Cmainimage%3E/arch_srika/1001-1500/1211-1409/1216_4.JPG%3C/%3E%3Clast_item%3E1%3C/%3E¶m2=&site=sapir 米軍の拘留記録(ヤド・ヴァシェムサイト)]</ref>。 |
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ニュルンベルク刑務所付心理分析官[[グスタフ・ギルバート]]大尉が、開廷前に被告人全員に対して行った[[ウェクスラー成人知能検査|ウェクスラー・ベルビュー成人知能検査]]によると、パーペンの[[知能指数]]は134で、[[エーリヒ・レーダー]]と並んで全被告人中第5位の知能の高さであった(ただパーペンは高齢であることを考慮されて実際の素点の知能指数より15から20多く出されている)<ref>[[レナード・モズレー]]著、[[伊藤哲]]訳、『第三帝国の演出者 ヘルマン・ゲーリング伝 下』、[[1977年]]、[[早川書房]] 166頁</ref>。 |
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ニュルンベルク裁判で拘禁されている時に受けたインタビューの中でヒトラーを首相にした理由について次のように語った。 |
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{{Quotation|私が政権の座に就いた時、ナチ党は230議席を占めていた。従って彼らがいなければ私は国会で多数派を形成することができなかった。首相の立法行為を有効にするためには国会の過半数を獲得しなければならないからだ。問題はいかにナチ党と折り合っていくかだった。<br />ヒトラーは常に社会問題は[[マルクス主義|マルキシズム]]や[[ボルシェヴィキ|ボルシェヴィズム]]によっては解決できないが、ある程度の社会主義を含んだ資本主義によって解決できる点を強調した。あらゆる経済活動によって得られる利益は社会が共有すべき物であって個人が独占すべきではないと言うのだ。私にはそれも一理あるように思えた。ナチ党のスローガンの一つは『全ての利益を何より先に社会に還元しよう』だった。ナチ党が援用するタイプの社会主義と共産主義の差は、ナチ党は共産主義国と違って私人の所有権を抑制しない点にあった。それは妥当な主義に思えた。ナチ党による政権樹立は私の率いる保守派には不愉快な事態ではなかった。私はカトリックなので[[レオ13世 (ローマ教皇)|教皇レオ13世]]が[[レールム・ノヴァールム|有名な回勅]]の中で同様の主張をしているのを思い出したのだ。<br />初めて話した頃のヒトラーは宗教について私と同じ意見であり、ドイツに宗教抜きで統治できる州はひとつもないと明言していた。彼は『我が闘争』の中でも人民の宗教生活を破壊する者こそは愚者であると述べている。さらにヒトラーは政治改革は宗教改革であってはならないとも言った。他の多くの事柄のようにヒトラーが前言を翻したのは私の責任ではない。ヒトラーは権力の階段を上る過程でころころと考えを変えていった。だが政権掌握当初はそうではなかった。現に私は宗教については宥和的な姿勢で臨むというのが彼の心からの願いなのだと思っていた。1933年3月の国会の演説の中で彼はキリスト教の根本原理を尊重しているし、それを擁護するためには何でもすると言った。演説の中でこの点に触れるようヒトラーに頼んだのは私だった。|{{sfn|ゴールデンソーン|2005|p=15-18}}}} |
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同インタビューの中でヒトラーの人柄については「彼はとても興味深い人間で話題も豊富だった。芸術、建築、政治、軍事、音楽など、様々なことに関心を寄せていた。実に非凡な人間だったが、暗殺未遂事件の後は人が変わってしまった」と語った{{sfn|ゴールデンソーン|2005|p=13}}。 |
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ユダヤ人迫害については次のように語った。{{Quotation|ヒトラーの言うユダヤ人問題の解決は常識に沿った穏当な手段でなされる物と思っていた。当初はあれほど過激な手段でユダヤ人問題を解決しようとしていると思わなかったのだ。ヒトラーがユダヤ人の影響力を排除する最初の法律を作った時、私はそれに制限を加え、1914年からドイツに在住しているユダヤ人はすべて国内に留まれるようにした。1918年の敗戦後、ドイツには東方からユダヤ人が大量に流入した。この過剰流入はドイツでは常軌を逸していたが、それが起こったのは[[ドイツ革命|1918年の革命]]後の一度きりだった。流入したユダヤ人は相当の数に上った。我々はこの状況をなんとかすべきだと考えたのだ。|{{sfn|ゴールデンソーン|2005|p=19}}}} |
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== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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{{Notelist}} |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|3}} |
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== 参考文献 == |
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*{{Cite book|和書|author=エーリッヒ・アイク(de)|authorlink=:de:Erich Eyck|translator=[[救仁郷繁]]|year=1989|title=ワイマル共和国史 4 1931~1933|publisher=[[ぺりかん社]]|isbn=978-4831504500|ref=アイク}} |
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*{{Cite book|和書|author=阿部良男|authorlink=阿部良男|year=2001|title=ヒトラー全記録 : 1889-1945 20645日の軌跡|publisher=[[柏書房]]|isbn=978-4760120581|ref=阿部}} |
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*{{Cite book|和書|author=ロベルト・ヴィストリヒ(en)|authorlink=:en:Robert S. Wistrich|translator=[[滝川義人]]|year=2002|title=ナチス時代 ドイツ人名事典|publisher=[[東洋書林]]|isbn=978-4887215733|ref=ヴィストリヒ}} |
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*{{Cite book|和書||last=ゴールデンソーン| first=レオン|translator=[[小林等]]・[[高橋早苗]]・[[浅岡政子]]|editor=ロバート・ジェラトリー|editor-link=:en:Robert Gellately|year=2005|title=ニュルンベルク・インタビュー 下|publisher=河井書房新書|isbn=978-4309224411|ref=harv}} |
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*{{Cite book|和書|author=ジョン・トーランド|authorlink=ジョン・トーランド|translator=[[永井淳]]|year=1979|title=アドルフ・ヒトラー 上|publisher=[[集英社]]|ref=トーランド上}} |
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**{{Cite book|和書|author=ジョン・トーランド|translator=永井淳|year=1990|title=アドルフ・ヒトラー 1(上記の文庫版)|publisher=[[集英社文庫]]|isbn=978-4087601800|ref=トーランド文庫1}} |
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**{{Cite book|和書|author=ジョン・トーランド|translator=永井淳|year=1990|title=アドルフ・ヒトラー 2(上記の文庫版)|publisher=集英社文庫|isbn=978-4087601817|ref=トーランド文庫2}} |
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*{{Cite book|和書|author=ジョン・トーランド|translator=永井淳|year=1979|title=アドルフ・ヒトラー 下|publisher=集英社|ref=トーランド下}} |
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**{{Cite book|和書|author=ジョン・トーランド|translator=永井淳|year=1990|title=アドルフ・ヒトラー 3(上記の文庫版)|publisher=集英社文庫|isbn=978-4087601824|ref=トーランド文庫3}} |
|||
**{{Cite book|和書|author=ジョン・トーランド|translator=永井淳|year=1990|title=アドルフ・ヒトラー 4(上記の文庫版)|publisher=集英社文庫|isbn=978-4087601831|ref=トーランド文庫4}} |
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*{{Cite book|和書|author=ジョゼフ・E・パーシコ(en)|authorlink=:en:Joseph E. Persico|translator=[[白幡憲之]]|year=1996|title=ニュルンベルク軍事裁判〈上〉|publisher=[[原書房]]|isbn=978-4562028641|ref=パーシコ上}} |
|||
**{{Cite book|和書|author=ジョゼフ・E・パーシコ|translator=白幡憲之|year=2003|title=ニュルンベルク軍事裁判〈上〉(上記の新装版)|publisher=原書房|isbn=978-4562036523|ref=パーシコ新装版上}} |
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*{{Cite book|和書|author=ジョゼフ・E・パーシコ|translator=白幡憲之|year=1996|title=ニュルンベルク軍事裁判〈下〉|publisher=原書房|isbn=978-4562028658|ref=パーシコ下}} |
|||
**{{Cite book|和書|author=ジョゼフ・E・パーシコ|translator=白幡憲之|year=2003|title=ニュルンベルク軍事裁判〈下〉(上記の新装版)|publisher=原書房|isbn=978-4562036530|ref=パーシコ新装版下}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=林健太郎|authorlink=林健太郎_(歴史学者)|title=ワイマル共和国 ヒトラーを出現させたもの|publisher=中央公論社〈中公新書〉|year=1963|isbn=4-12-100027-7|ref=林共和国}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=ヨアヒム・フェスト|authorlink=ヨアヒム・フェスト|translator=[[赤羽竜夫]]|year=1975|title=ヒトラー〈上〉|publisher=[[河出書房新社]]|asin=B000J9D51I|ref=フェスト上}} |
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*{{Cite book|和書|author=ヨアヒム・フェスト|translator=赤羽竜夫|year=1975|title=ヒトラー〈下〉|publisher=河出書房新社|asin=B000J9D518|ref=フェスト下}} |
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*{{Cite book|和書|author=ペーター・プシビルスキ|authorlink=ペーター・プシビルスキ|translator=[[宮野悦義]]、[[稲野強]]|year=1981|title=裁かれざるナチス―ニュルンベルク裁判とその後|publisher=[[大月書店]]|asin=B000J7Z7SE|ref=プシビルスキ}} |
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*{{Cite book|和書|author=ウェルナー・マーザー|authorlink=ウェルナー・マーザー|translator=[[西義之]]|year=1979|title=ニュルンベルク裁判:ナチス戦犯はいかにして裁かれたか|publisher=[[TBSブリタニカ]]|ref=マーザー}} |
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*{{Cite book|和書|author=ハンス・モムゼン(de)|authorlink=:de:Hans Mommsen|translator=[[関口宏道]]|year=2001|title=ヴァイマール共和国史―民主主義の崩壊とナチスの台頭|publisher=[[水声社]]|isbn=978-4891764494|ref=モムゼン}} |
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*{{Cite book|和書|year=1947|title=ニュルンベルグ裁判記録|publisher=[[時事通信社]]|ref=時事}} |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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{{commonscat|Franz von Papen}} |
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* http://www.us-israel.org/jsource/Holocaust/Papen.html |
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* http://www.infoplease.com/ce6/people/A0837533.html |
* http://www.infoplease.com/ce6/people/A0837533.html |
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* [http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/PapenFranz/index.html ドイツ歴史博物館]経歴紹介(ドイツ語) |
* [http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/PapenFranz/index.html ドイツ歴史博物館]経歴紹介(ドイツ語) |
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{{先代次代|[[ドイツの首相|ドイツ国首相]]|第13代:[[1932年]]|[[ハインリヒ・ブリューニング]]|[[クルト・フォン・シュライヒャー]]}} |
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{{先代次代|[[プロイセン州]]総督|[[1932年]]<br/>[[1933年]]|[[オットー・ブラウン]](州首相)<br/>クルト・フォン・シュライヒャー|[[クルト・フォン・シュライヒャー]]<br/>[[ヘルマン・ゲーリング]]}} |
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| title = {{flagicon|DEU1933}} ドイツ国副首相 |
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| afternote = (西ドイツ副首相、1949年) |
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[[zh:弗朗茨·馮·帕彭]] |
2024年9月25日 (水) 04:31時点における最新版
フランツ・フォン・パーペン Franz von Papen | |
---|---|
パーペンの肖像写真 (1933年) | |
生年月日 | 1879年10月29日 |
出生地 |
ドイツ帝国 プロイセン王国 ヴェストファーレン州 ヴェルル |
没年月日 | 1969年5月2日(89歳没) |
死没地 |
西ドイツ バーデン=ヴュルテンベルク州、 ザースバッハ |
出身校 | 陸軍幼年学校 |
前職 | 陸軍軍人 (陸軍中佐) |
所属政党 |
中央党 (1932年除名) 「黒・白・赤」戦線 (1933年) 国家社会主義ドイツ労働者党 (1938年入党) |
称号 |
男爵(Baron) 一級鉄十字章 戦功十字章 |
配偶者 | マルタ・フォン・ボッホ=ガルハウ |
サイン | |
内閣 | ヒトラー内閣 |
在任期間 | 1939年4月18日 - 1944年8月5日 |
総統 | アドルフ・ヒトラー |
内閣 | ヒトラー内閣 |
在任期間 | 1936年7月25日 - 1938年3月13日 |
総統 | アドルフ・ヒトラー |
内閣 | ヒトラー内閣 |
在任期間 | 1934年7月26日 - 1936年7月25日 |
大統領 総統 |
パウル・フォン・ヒンデンブルク アドルフ・ヒトラー |
内閣 | ヒトラー内閣 |
在任期間 | 1933年1月30日 - 1934年7月26日 |
大統領 | パウル・フォン・ヒンデンブルク |
内閣 | フォン・パーペン内閣 |
在任期間 | 1932年6月1日 - 1932年12月3日 |
大統領 | パウル・フォン・ヒンデンブルク |
その他の職歴 | |
プロイセン自由州 初代・第3代総督 (国家弁務官) (1932年7月20日 - 1932年12月3日 [注釈 1]) |
軍歴 | |
---|---|
陸軍大尉時代のパーペン (1915年) | |
所属組織 |
ドイツ帝国陸軍 プロイセン王国陸軍 オスマン帝国陸軍 |
軍歴 | 1898年 – 1919年 |
最終階級 |
陸軍大佐 (オスマン帝国陸軍) |
除隊後 | 政治家、外交官 |
フランツ・ヨーゼフ・ヘルマン・ミヒャエル・マリア・フォン・パーペン(ドイツ語: Franz Joseph Hermann Michael Maria von Papen 音声 , Erbsälzer zu Werl und Neuwerk, 1879年10月29日 - 1969年5月2日)は、ドイツの貴族、陸軍軍人、政治家、外交官。爵位は男爵。軍人としての階級は陸軍中佐。第13代ドイツ国首相、第12代副首相を務めた。
概要
[編集]ヴァイマル共和政末期の1932年にクルト・フォン・シュライヒャーに擁立されてパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領の大統領内閣の首相を務めたが、パーペン内閣は半年ほどでシュライヒャーに見限られて瓦解した後、シュライヒャーとの政争で国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)党首アドルフ・ヒトラーと接近し、彼が首相になれるよう尽力するなどナチ党の権力掌握に大きな役割を果たした。1933年のヒトラー内閣成立でヒトラーに次ぐ副首相兼プロイセン州首相の座に就いた。しかし、「長いナイフの夜」事件で失脚し、その後はオーストリアやトルコでドイツ大使を務めた。第二次世界大戦後、ニュルンベルク裁判で主要戦争犯罪人として起訴されたが、無罪とされた。
経歴
[編集]帝国軍人として
[編集]ドイツ帝国の領邦であるプロイセン王国・ヴェストファーレン州・ヴェルルに、製塩業で富をなしたエルプゼルツァー(世襲の塩屋、の意味)と呼ばれる諸名家のうちのひとつに生まれる。両親の希望で陸軍幼年学校に入学し、軍人への道を進む。ドイツ皇帝の側近くに仕えたのち、第5槍騎兵連隊付きを経て参謀本部に入り、1913年に大尉に昇進。そこでクルト・フォン・シュライヒャーと知り合う。当時パーペンは巧みな馬術で名声を得ていた。1905年に製陶業で有名なビレロイ&ボッホ社の創業家の娘と結婚して工場の一つを相続し(現存)、巨大な経済力を得た[1][2]。財界とも太いパイプを持つようになった[3]。一女をもうける。
皇帝ヴィルヘルム2世の学友だった父のコネもあり、第一次世界大戦中の1915年までアメリカ大使館付き武官。フランクリン・ルーズベルトやダグラス・マッカーサーといった、後年のアメリカ合衆国指導者の知遇を得た。武官としてアメリカ国内でさまざまな諜報活動に従事し、また兼轄国であるメキシコをドイツ寄りにすることに努めた。結局1916年にサボタージュ活動や破壊工作活動に関与しているとされてアメリカ政府から国外追放処分を受けた[3][2][4]。帰国の際不用意に別送した荷物がイギリス海軍の臨検を受け、パーペンがアメリカ国内に構築したドイツの諜報網が暴露された[4]。
ドイツ帰国後に皇帝から鉄十字章を授与され、西部戦線で大隊長に転じる。その後参謀本部に戻りオスマン帝国に派遣され、オスマン帝国軍大佐となる。パレスチナ戦線のオスマン第4軍で司令官エーリッヒ・フォン・ファルケンハインの参謀長となり、そこでヨアヒム・フォン・リッベントロップと知り合う。のちに国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)のアドルフ・ヒトラーが、リッベントロップの説得によってカトリック教徒や貴族層への敵愾心を抑えてパーペンと手打ちし政権を握ることを思えば、この出会いは運命的なものであった。ドイツへの帰路では、のちにドイツ大統領となるパウル・フォン・ヒンデンブルク元帥とも同道して知遇を得ている。
大戦後、政治家へ転身
[編集]第一次世界大戦の敗北後、ドイツ革命により成立したヴァイマル共和政の国軍で働くことを潔しとせず、1919年に中佐を最後に退役。貴族階級の社交クラブ「ヘレンクルプ (Herrenklub)」に参加した[3]。クラブの中では馬術の達人として名の知られた人物だった[1]。
相前後して中央党(カトリック系中道政党)に入党し、1920年にカトリック系労働組合の委員長に就任。保守系の農民組合の指導者であった。1921年にプロイセン州議会議員に当選するも、与党に属するにもかかわらず社会民主党(SPD)首班のオットー・ブラウン政権を支持せず不信任案提出を繰り返し、世間の注目を集めるとともに、保守派との親交を重ねる。1925年の大統領選挙でも、自党のヴィルヘルム・マルクスではなくヒンデンブルクを公然と支持した。このため党執行部はパーペンを除名しようとしたものの、党機関紙「ゲルマニア」の大株主で監査役に就任していたため[5][6]除名に至らなかった。その後も一貫して中央党と社民党の同盟関係を解消し代わりにドイツ国家人民党との連立を主張[7]していたが、1928年に一旦プロイセン州議会議員を辞職、その後暫く社交クラブや紳士クラブでの活動を経て1930年に政界復帰を果たす。1932年4月に十字架と鷲同盟(1933年にはカトリック的ドイツ人活動団と改称)を結成した[8]。
首相就任
[編集]1932年5月30日、ハインリヒ・ブリューニング内閣が瓦解すると、ヒンデンブルク大統領の側近のクルト・フォン・シュライヒャーは、パーペンを後継の首相に推薦した。当時ほとんど無名だったパーペンが推薦されたのは無経験で外見ばかり気にする彼が、シュライヒャーにとって操り人形にし易しと判断されたからという。「パーペンは人の上に立つ器ではない」という周囲の反対に対してシュライヒャーは「彼に人の上になど立たれては困るな。彼は帽子みたいなもんだ」と語ったという[4]。シュライヒャーの推薦を受けてヒンデンブルク大統領はパーペンに首相就任を打診した[9]。
パーペンは一度は、中央党の党首ルートヴィヒ・カース司祭に組閣要請を受けないことを約束したが、後になってヒンデンブルクと面会してカースとの約束を反故にして首相職に飛びついた[10][11]。パーペンは6月1日にヒンデンブルクより首相に任じられた[12]。これによりパーペンは中央党から除名された[1]。
パーペン内閣 1932年6月1日 - 12月3日 | ||||
---|---|---|---|---|
首相 | フランツ・フォン・パーペン | 無所属 | ||
外務大臣 | コンスタンティン・フォン・ノイラート (1932年6月2日 -) |
無所属 | ||
内務大臣 | ヴィルヘルム・フライヘル・フォン・ガイル | ドイツ国家人民党 | ||
財務大臣 | ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク (1932年6月2日 -) |
無所属 | ||
経済大臣 | ヘルマン・ヴァルムボルト | 無所属 | ||
労働大臣 | ヘルマン・ヴァルムボルト (事務取扱) | |||
フーゴ・シェーファー (1932年6月6日 -) |
無所属 | |||
法務大臣 | フランツ・ギュルトナー (1932年6月2日 -) |
ドイツ国家人民党 | ||
国防大臣 | クルト・フォン・シュライヒャー | 無所属 | ||
運輸大臣兼郵政大臣 | パウル・フォン・エルツ=リューベナッハ | 無所属 | ||
食糧・農業大臣 | マグヌス・フォン・ブラウン | ドイツ国家人民党 | ||
無任所大臣 | フランツ・ブラハト (1932年10月29日 -) |
無所属 | ||
無任所大臣 | ヨハネス・ポーピッツ (1932年10月29日 -) |
無所属 |
パーペン内閣は閣僚9人のうち7人が貴族出身者であった。農相マグヌス・フォン・ブラウン男爵の回顧録によるとこの内閣は貴族出身者が多い他に騎兵隊出身者が多い特徴もあったという[13]。特に内閣で大きな力を持っていたのは、首相フランツ・フォン・パーペン、国防相クルト・フォン・シュライヒャー、内相ヴィルヘルム・フォン・ガイル男爵の三人だった。そのため三頭政治と呼ばれた[14]。
こうした前時代的な人選から国民の支持はほとんどなく、男爵内閣と渾名された[1][15][16]。内閣の極端な不人気に各党の反応は冷たく、主要政党でパーペン内閣を支持する政党は一つもなかった。社民党や共産党のような左翼政党は言うに及ばず、中央党も反党行為によって成立したパーペン内閣を徹底的に攻撃した。保守政党の国家人民党ですらパーペン内閣と自分達は何の関わりもないとまで言明した[17]。唯一国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)のみが突撃隊の禁止命令の解除と国会解散の約束を守ってもらうためにパーペン批判を控えていたが、これはナチ党内でも党員や支持者から大きな反発を招いた[16]。同党宣伝担当ヨーゼフ・ゲッベルスの日記も「このブルジョア的な与太者との厄介な隣人関係からすぐに逃げ出さないと我が党は取り返しのつかないことになる」と危機感を露わにしている[16]。同党党首アドルフ・ヒトラーはシュライヒャーを通じて受けたパーペン内閣への協力要請を拒否している[1]。
したがってパーペン内閣はもっぱらヒンデンブルク大統領の権威と国軍の権力にのみ頼った内閣だった[16]。
6月2日に行った首相就任宣誓でパーペンは国会解散を求めた[18]。6月4日にヒンデンブルク大統領は議会に解散を命じ、総選挙が行われることになった。また6月にはブリューニング内閣により行われたナチス突撃隊・親衛隊の禁止命令とナチ党制服の禁止命令を新しい命令で取り消した[1]。諸州はこの決定に反発し、独自にナチス制服禁止命令を出そうとしたが、パーペンは諸州には個々の事例について公共の秩序に対する危険防止を超える権限は認められていないとして再度命令を出してナチ党制服禁止を解除した[19]。
一方、6月16日からドイツの賠償問題に関するローザンヌ会議がイギリス首相ラムゼイ・マクドナルドを議長として行われ、これが内閣にとっての初の外交舞台へのお披露目となった。パーペンは、外相コンスタンティン・フォン・ノイラート男爵や蔵相ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク伯爵、経済相ヘルマン・ヴァルムボルトらとともに出席[20]。その結果、7月9日に締結されたローザンヌ協定によってドイツは賠償金額をだいぶ減らされたが、なお30億マルクの支払いを要求された[20][21]。このことは、国民に外交下手との評価を下す結果となった[21]。
「ボルシェヴィキに死を」を標語にしていたパーペンは、フランスに対して共産主義(ソビエト連邦)の脅威に対抗する独仏同盟を秘密裏にもちかけたが、フランス側は拒絶しソ連政府に通知された。内政では議会の支持を全く得ていなかったので、大統領権限による緊急立法のみで政権を維持する有様だったが、高い失業率への対策として雇用創出策を始めており、効果が見え始めたところであった。大規模なアウトバーン建設や徴兵制度といったより大規模な失業対策はヴェルサイユ条約の取り決めにより見送られたが、のちにヒトラーがヴェルサイユ条約を破棄してこの政策を実現し、失業問題が劇的に解決されることになる。
プロイセン・クーデター
[編集]就任前の1932年4月、プロイセン自由州の州議会選挙で社会民主党を中心とするオットー・ブラウンの連立政権は敗北していたが、暫定内閣として存続していた。パーペン、ガイル、シュライヒャーの三頭政治はプロイセン社民党政府の息の根を止めることを企んでいた[14]。特に東プロイセンの大農場主の利益を代弁するガイルは社民党と天敵の関係だった[22]。またプロイセン社民党政府を潰すことによって同政府と長く対立してきたナチ党を自分たちに引き込もうという目論見もあった[23]。
7月14日、パーペンとシュライヒャー国防相は、ヒンデンブルク大統領が生活するノイデック[注釈 2]に赴き、大統領緊急令(ヴァイマル憲法第48条〈いわゆる、緊急事態条項の1つ〉に基づく大統領令)発動の許可を得て、プロイセン自由州への介入を実行する準備を整えていた[25]。
この直後の7月17日にアルトナ (ハンブルクの隣町) で起こったナチ党の突撃隊と共産党の武力団体「赤色戦線」との間で市街地抗争(死者17名。重傷者多数。「アルトナ血の日曜日事件」と呼ばれた)を利用して「プロイセン自由州には公共の安全と秩序を維持する事は出来ない」として介入を開始した[26][27][25]。
7月20日にパーペンはプロイセン自由州閣僚を招集し、大統領緊急命令なる物を読み上げてプロイセン州首相ブラウンとプロイセン州内相カール・ゼーヴェリングに解任を申し渡した。さらにベルリンとブランデンブルク州を戒厳体制下に置き、第3軍司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット将軍に全権を委任して、ベルリン警視総監アルベルト・クシェジンスキ[28]、ベルリン副警視総監ベルンハルト・ヴァイス、ベルリンシュッツポリツァイ司令官マグヌス・ハイマンスベルクなどを続々と逮捕させた[29]。このパーペンによるプロイセン自由州政府転覆をプロイセン・クーデターと呼ぶ。
パーペンは同日夕方のラジオ放送で「プロイセン自由州政府は共産党テロ集団に対抗する用意がない」としてこのクーデタを正当化した[30]。パーペンはプロイセン自由州首相を兼務するとともにプロイセン総督(国家弁務官、Reichskommissar)に就任した[注釈 3]。このやり方は後のナチスの強引な地方政府掌握(強制的同質化)の前例、あるいは「相対化」させたものとして非難されている。
ナチスの台頭
[編集]1932年7月31日に投票が行われた総選挙では、ナチ党が37.4%の得票率を得て230議席(改選前107議席)を獲得し、第一党に躍り出た[27]。社民党は21.6%の得票率で133議席(改選前143議席)に減らした。国家人民党も37議席(改選前41議席)に減らした。中央党は激しいパーペン攻撃の成果で76議席(改選前68議席)に伸ばした。共産党も89議席(前回77議席)を獲得して躍進した[31][32]。
シュライヒャーは8月5日にパーペンに独断でヒトラーと面会し、パーペン内閣に副首相として入閣するよう求めたが、ヒトラーは首相の地位を要求した[33][34][35]。シュライヒャーはヒトラーを首相にするようヒンデンブルクに取り計らう様になったが、ヒンデンブルクもパーペンもその意思はなかった。ヒンデンブルクはヒトラーを毛嫌いしていたし、パーペンはいくつかの閣僚職を提供することでナチ党を取りこむことができると未だに考えていた[36]。
8月13日午前にヒトラーは、国会議長ゲーリングと突撃隊幕僚長レームを伴ってパーペンとシュライヒャーとの会談を長時間にわたって行った[37]。パーペンはヒトラーに副首相として自分の内閣に入閣することを求め、さらにヒトラーが副首相として実りある協力をしてくれたなら、その後に首相の地位を譲ると持ちかけたが、ヒトラーはその話には乗らず、今すぐ無条件に自分を首相にすることを求めた[37]。続いて同日午後にはヒンデンブルクとヒトラーの会談が行われ、ヒンデンブルクがヒトラーに副首相になるよう説諭したが、ヒトラーは相変わらず首相職を要求したため、最終的にナチ党と政府は決裂した[37][35][38]。
この会談の決裂で突撃隊を中心にナチ党内で武装蜂起を求める声は強まった。8月22日にボイテンの裁判所がポテンパ村の共産党員を殺害(ポテンパ村殺人事件)した突撃隊員5人に死刑判決を下したのを機に、ヒトラーはかつてないほど突撃隊を使っての政府脅迫を行った。これに怯えたパーペンはヒンデンブルクに奏上して9月2日にこの突撃隊員5名を終身刑に減刑させた[39][40]。
9月12日に国会が召集され、パーペンは所信表明演説をしようとしたが、共産党議員がパーペン内閣不信任の緊急動議を提出した[41]。一時休会した後、ナチ党議員団はヒトラーからの指示でこの共産党の動議に賛成することになった[42]。パーペンは休会中に大統領の解散命令書を急遽取りに行かせた[42]。再開後、ゲーリング議長はパーペンを登壇させず先に不信任決議案の採択を行い、512対42で可決される[42][43][44][45]。パーペンはこの大差の不信任の屈辱を受けた後に大統領命令を提出して議会を解散させた。選出されたばかりの議会がただちに解散されることとなった[43][45]。
シュライヒャーにより退陣させられる
[編集]ナチ党は共産党の起こしたストライキへの参加やブルジョア的なパーペン内閣への激しい攻撃などにより財界やナチ党員がかなり離反し、選挙資金を確保できなかった。結果、11月6日に行われた総選挙では、ナチ党は第一党は確保したものの得票率33.1%、196議席に後退した[46][47][48][49]。社民党も得票率20.4%、121議席に後退した[50]。しかしパーペンが最も嫌う共産党が100議席に伸ばしてしまった[46]。
ナチ党が議席を落としたことでヒトラーが要求を下げるかもしれないという望みをかけてパーペンは、11月9日にヒトラーに副首相就任を再度要請したが、ヒトラーは拒否した。11月15日にも再度副首相就任要請の手紙をヒトラーに送ったが、翌16日の返信でヒトラーはこれを拒否した[46]。パーペンを見限ったシュライヒャーは、政党間交渉をしやすくするためとして後の交渉はヒンデンブルクに任せ、パーペンに内閣総辞職を求めた。11月17日にパーペン内閣は形式的に内閣総辞職して暫定事務処理内閣に移行した。しかしパーペンはいずれヒンデンブルクから再度組閣の命令が来ると信じていた[46][51][52]。11月18日から24日にかけてヒンデンブルクやマイスナーなど大統領府とヒトラーの交渉が行われたが、やはり平行線に終わった[53]。
12月1日午後6時、ヒンデンブルク大統領はパーペンとシュライヒャーを招集した。パーペンは数か月前から立てていた憲法違反のクーデタ計画をヒンデンブルクに提案した。国軍を出動させて議会を半年間停止し、その間に改憲を行って大統領権限を強化する計画であった。しかしパーペンを失脚させたがっていたシュライヒャーはこの計画に反対した。シュライヒャーは自分が首相に就任し、ナチ党の一部を取り込んで分裂を誘うべきと主張した[54]。ヒンデンブルクはパーペンを支持したが、シュライヒャーは頑として国軍のクーデタへの参加を拒否した[55]。
つづいて翌12月2日の閣議でシュライヒャーは「パーペンの下で政府を作ろうといういかなる試みも国を混乱に陥れるだけ。ナチスが内乱を起こせば国軍にそれを鎮圧することは不可能」としてパーペンに退陣を求めた[56]。閣僚はほとんどシュライヒャーを支持した[57]。パーペンは大統領府へ逃げ込み、ヒンデンブルクの支持を得ようとしたが、「ことここにいたってはシュライヒャーに任せよう」と言われたという[56][58][59]。こうして12月2日にクルト・フォン・シュライヒャーが首相に就任することになり、パーペン内閣は退陣することになった[60]。
しかしヒンデンブルクから気に入られていたパーペンは、大統領仮官邸(大統領官邸は当時改修中だった)の近くに宿を取って暮らし、辞職後も足繁く大統領の下に通った[61][62]。
ヒトラー内閣実現に努力
[編集]シュライヒャーへの復讐心に燃えるパーペンは、シュライヒャーとナチ党組織全国指導者グレゴール・シュトラッサーが秘密会談しているのを聞きつけると、その情報をヒトラーに流した[63]。結果、シュトラッサーは党役職の辞職に追い込まれ、シュライヒャーのナチス左派取り込みの目論見は失敗に終わった。1932年12月16日の紳士クラブでの演説でパーペンは、シュライヒャーの退陣とヒトラーの入閣は不可欠であると述べ、シュライヒャーへの敵意をむき出しにした[64]。
さらにケルンの銀行家クルト・フォン・シュレーダーを通じてヒトラーに接近を図った。1933年1月4日にシュレーダーの自宅でヒトラーとパーペンの会談が行われた[65][66]。両者はシュライヒャー政権打倒、それに代わるヒトラー=パーペン政権の樹立、社民党員・共産党員・ユダヤ人の国家中枢からの排除で合意した[67]。ヒトラーとパーペンの会談を知ったシュライヒャーは激怒し、大統領官邸を訪れてヒンデンブルクに対して自分が同席しない限り前首相とは会わないよう釘を刺した。しかしパーペンをいまだ信用しているヒンデンブルクはこれを無視し、パーペンに独自にヒトラーと接触することを許し、またオットー・マイスナーら側近に対してパーペンとヒトラーの接触があったと分かった時でもシュライヒャーにはそれを伝えないよう命じた[68][67]。
1月18日と1月22日にもヨアヒム・フォン・リッベントロップの自宅でヒトラーとパーペンは会談した[69]。特に1月22日の会談は大統領官邸長官オットー・マイスナーやヒンデンブルク大統領の息子オスカー・フォン・ヒンデンブルクも同席し、ヒトラーが首相に任命される上で重要な会談となった(無論シュライヒャーには内密の会談)[69][70]。
1月26日にはパーペンは国家人民党党首アルフレート・フーゲンベルク、鉄兜団団長フランツ・ゼルテ、テオドール・デュスターベルクと会談し、ヒトラー内閣への入閣交渉を行った。デュスターベルクを除く三者はヒトラー内閣に参加することを表明した[71][69]。1月28日にパーペンはヒンデンブルクから「政局説明担当」特別職に任じられた。パーペンは、オスカーやマイスナーと共にヒンデンブルクにヒトラーを首相に指名しても全く問題なしとヒンデンブルクに説明した[72][73][74]。ヒトラーを「ボヘミア人伍長」と呼んで軽蔑していたヒンデンブルクもついにヒトラーの首相任命を承諾した[74]。
一方シュライヒャーは憎きパーペンが中枢となって活躍する政権だけは阻止しようと図り、1月29日に陸軍総司令官クルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルトをヒトラーの下へ派遣して、ヒトラーに協力したい旨を申し出たが、パーペンと組んで政権を作る気であったヒトラーは曖昧に対応した[73]。同日にパーペンはヒトラーと会談を行い、政権掌握後には総選挙を行い、選挙後に全権委任法を可決して独裁体制を樹立することを求めた[73]。ところが国家人民党のフーゲンベルクは自党の影響力の低下を恐れて総選挙を嫌がり、内閣成立が危ぶまれる空気になった。パーペンはヒトラー内閣成立の直前にフーゲンベルクに電話して組閣に時間を食うとシュライヒャーとハンマーシュタインがクーデタを起こす恐れがあるので組閣を急がねばならないと主張して説き伏せ、ヒトラー内閣成立にこぎつけた[73][75][76]。
ナチ政権の副首相時代
[編集]1933年1月30日11時15分頃にヒトラー内閣が成立した[73]。パーペンは副首相兼プロイセン州首相に就任した[73]。ナチ党からの入閣は首相ヒトラー、内相ヴィルヘルム・フリック、無任所相・プロイセン州内相ヘルマン・ゲーリングの三人のみであり、その他の閣僚はヒンデンブルク大統領自らが選んだ国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルクを除き、パーペンが選んだ[77]。パーペンは「われわれは彼を雇ったのさ」「わたしはヒンデンブルクに信頼されている。二ヶ月もしないうちにヒトラーは隅っこのほうに追いやられてきいきい泣いているだろう」と語り[78]、自らのヒンデンブルクへの影響力でもってヒトラーを操り人形にできるという幻想に浸っていた[79]。
ヒトラーは2月1日の国民へのラジオ放送で「二つの偉大な四カ年計画」を宣言し、第一次四カ年計画を発表した。しかし大の反共主義者であったパーペンは「あまりにスターリン主義的用語が多い」とヒトラーに抗議した[80]。2月6日にパーペンとマイスナーの助言によって明らかに違憲な大統領緊急命令「プロイセンにおける正常な統治関係確立のための緊急令」が発令された。パーペンは自らがプロイセンで独裁権力を握るつもりで発令させたのだが、結局ヒトラーの要求でプロイセン州の内相に就任させていたヘルマン・ゲーリングがプロイセンにおいて巨大な権限を握ってパーペンはプロイセン州首相の職をゲーリングに譲り渡すこととなった[81][82][83]。
ヒトラーの首相就任の二日後の2月1日に国会は解散され、選挙戦に突入した[84]。2月11日にパーペンは国家人民党と鉄兜団に統合を薦め、「黒・白・赤」を結成させた[83]。3月5日に総選挙が行われたが、ナチ党が得票率43.9%を得て、288議席を獲得した[85]。この選挙で、自身も「黒・白・赤」から出馬して国会議員に初当選した。
3月23日にヒトラー内閣に憲法を除く全ての法律を自由に公布できる権限を認める全権委任法が可決された[86]。パーペンは政府を国会から独立させるために全権委任法を可決させることには当初から賛成だった[87]。しかしこの全権委任法によって大統領の存在も形骸化し、大統領の信任を背景にしたパーペンの権力も形骸化することになった。パーペンはそこまで考えが及ばなかったようである[87]。
1933年7月にパーペンはヒトラーの代理でバチカンを訪れた。ローマ教皇ピウス11世は「ドイツ政府がその指導者として共産主義とロシアに断固反対する指導者を持つに至った事は大変に喜ばしい」と述べた[88]。そしてドイツとバチカンの間で政教条約が締結された。この「ライヒスコンコルダート」により純宗教活動としてのカトリック教会や学校、宣教活動をナチス政権が承認し、また政治的カトリック(中央党やカトリック労働組合)の解散をローマ教皇庁が承認した。またローマ教皇庁はドイツ国内のカトリック神父に対してナチス政権に忠誠を誓うよう命じた[88][89]。カトリックの反体制運動に頭を悩ませていたヒトラーは「カトリックは今後ナチス体制に全面的に支持することであろう」と期待感を表明した[89]。
パーペンは秘書に保守革命の代表的な思想家であるエドガー・ユリウス・ユングを起用するなど、思想的にナチスと一線を画しており、次第にヒトラーとの溝は深まりつつあった。この頃ヒンデンブルク大統領は瀕死の重病であり、この後の事態は予断を許さなかった。パーペンはナチスに対抗する手段として帝政復活を考えており、ヒンデンブルクに帝政復活を希望する遺言状を書かせ、彼の死後に帝政復帰を実現する計画を建てていた。
1934年6月17日にマールブルク大学で過激ナチスおよびSAなどを批判する講演、いわゆる「マールブルク演説」を行った。この演説原稿は秘書ユングともう一人の秘書ヘルベルト・フォン・ボーゼ、交通省海事局長エーリヒ・クラウゼナーの協力を得て執筆されたものだった。これを受けたヒトラーらは激怒し、宣伝相ゲッベルスは講演録の発表や予定されていたラジオ放送を禁止する措置をとった。しかしパーペンは事前に原稿を外国人記者や外交官に渡しており、内容は広く知られることになった。20日、パーペンはヒトラーに対し、演説の発表ができない場合は辞職すると抗議した。ヒトラーは善処を約束して慰留している。
6月30日、ヒトラーによる突撃隊の粛清である「長いナイフの夜」事件が発生した。粛清を知らされていなかったパーペンはゲーリングに抗議に行ったが、この際に親衛隊に帰り道をふさがれて命を狙われた。しかしゲーリングの庇護で命だけは助かった[90]。しかし、「マールブルク演説」に関係した秘書ユング、ボーゼは副首相官邸で親衛隊により射殺された。またクラウゼナー海事局長もゲシュタポ本部で殺害されている。パーペンはその後自宅に軟禁されつづけ、外部との連絡を絶たれたが、ヒンデンブルク大統領の個人的な信任が厚かったため、殺害はされなかった。
ナチ支配の確立後、大使に
[編集]1934年7月25日、オーストリア首相エンゲルベルト・ドルフースがオーストリア・ナチスによって暗殺された。この暗殺はヒムラーの部下がクーデターを計画して行ったものだったが、クーデター自体は失敗に終わった。ドルフースはイタリアのムッソリーニ首相と親しく、オーストリアの独立はイタリアにとって重要であったため、かつてバチカンを訪問した際にもパーペンはムッソリーニにドルフースを支持しないよう説得するも失敗しており[91]、事態が明らかになると独伊関係が崩壊するおそれがあった。ムッソリーニはイタリア軍四個師団を伊墺国境に配備し、介入の姿勢を見せた。
26日午前2時、ヒトラーはパーペンに連絡を取り、ウィーン公使就任の要請を行った。翌日ヒトラーと面会したパーペンは要請を受諾したが、オーストリア側のアグレマンが得られず、ウィーンには向かえなかった。その間の8月2日にヒンデンブルク大統領は死去。ヒンデンブルクは公式の遺言状に帝政復活の希望を記しておらず、ヒトラーが「国家元首兼首相」(総統)としてドイツを支配する独裁体制が完成し、パーペンの企図した帝政復活計画は潰えた。8月7日、オーストリア政府からアグレマンが行われ、パーペンは副首相を辞任して正式にウィーン公使となった。パーペンは8月15日にウィーンに赴任し、ヒトラー関与の隠蔽と事態の収拾に努めた[92]。
1936年からは駐オーストリア大使に任じられ、オーストリア併合に暗躍した。1937年にムッソリーニがドイツを訪問した際はイタリアと協議するオーストリアの問題をめぐるヒトラーの顧問を務めた[93]。後にパーペンは、この時期の自らの活動は回想録で全ヨーロッパ紛争の回避のためと弁明している[90]。1938年8月13日に黄金ナチ党員バッジを授与され、同時にナチ党に入党した(党員番号5,501,100)。1939年からはトルコ駐在大使を務め、第二次世界大戦で中立を保つトルコを中央同盟国時代のようにドイツ側にする工作に従事し、1941年にはドイツ・トルコ相互不可侵条約が締結された。しかしトルコは中立を維持し続け、ソ連のエージェントによる暗殺未遂事件にも遭遇する。ノルマンディー上陸作戦前にはキケロと呼ばれるスパイ(エリエサ・バズナ)からイギリス大使館の情報を収集したが、これは連合軍の欺瞞作戦ボディガード作戦によるものであり、結果としてドイツに誤情報をもたらすこととなった。1944年にトルコはドイツとの外交関係を断絶しパーペンは帰国した。ローマ教皇庁への大使起用が検討されたが、ベルリン司教の反対で実現しなかった。同年7月のヒトラー暗殺未遂事件で友人知己が逮捕され助命に努力したが、成功しなかった。以降、ドイツに連合国軍が迫る中もゲシュタポの監視を受けていた。
ニュルンベルク裁判
[編集]パーペンは娘婿であるマックス・フォン・シュトックハウゼン伯爵がメシェデに所有する城に隠棲していたが、1945年4月にはアメリカ軍がメシェンデを占領。彼は狩猟小屋に隠れているところを逮捕された。ヘルマン・ゲーリング、カール・デーニッツ、アルベルト・シュペーア、ヴィルヘルム・カイテルなど大物捕虜を集めたルクセンブルク・バート・モンドルフの収容所に収容された[94]。
ニュルンベルク裁判にかけるために1945年9月に他の被告人達とともにニュルンベルク刑務所へ移送された。パーペンはナチ党を政権につけた者、またオーストリア併合に関与した者として第一起訴事項「共同謀議」と第二起訴事項「平和に対する罪」で起訴された[95]。
パーペンは1946年6月14日に検察側反対尋問で証言台に立った。パーペンは、自分がヒトラー政権誕生に大きな役割を果たしたことを否定した。さらに「全被告のうちヒトラーに辞職を願い出、また実際に辞職したのは私だけだ」などと主張した。イギリス首席検事デーヴィット・マクスウェル=ファイフ卿はこれに対して「そうだ。そして貴方は11日後に別の仕事を得た。オーストリアを殺害した政府を代表する仕事を…。」と切り返した[96]。
1946年10月1日に他の被告人とともに判決を受けた。パーペンの判決文は「ヒトラーを首相に任命することを援助した」「証拠は、パーペンがオーストリア公使としてオーストリア併合のためにシュシュニク政権を転覆させ、オーストリア・ナチスを強化したことに一切の疑問をおかない。この計画のために彼は策謀と脅迫を行った。」としつつ、「憲章は政治論理に反するかかる悪行を、いかにそれがあくどいやり方であっても、犯罪とはしていない。」として彼を第1項と第2項の起訴事項の両方において無罪とした[97]。ソ連主席裁判官イオナ・ニキチェンコのみ「ヒトラー体制の犯罪責任の大半はパーペンである」と主張し、有罪を求めていたが、西側裁判官により彼は無罪となった[98]。
ニュルンベルク裁判で無罪となった被告はパーペンを含めて三人だけである(他の二人はハンス・フリッチェとヒャルマル・シャハト)。
戦後
[編集]1947年2月の非ナチ化裁判で労働刑8年と財産没収を宣告されたが、上告及び恩赦の結果、1949年に釈放された。その後西ドイツの政界に進出しようとしたが成功しなかった。
1952年には回顧録『路地の真実』(Der Wahrheit eine Gasse) を出版。歴史学者ロベルト・S. ヴィストリヒから「飽くなき自惚れと驚くばかりの自己満足が露わなだけの内容」と酷評されている[99]。
1959年7月24日には、教皇ヨハネ23世とアンカラ駐在時代に親交があったため、教皇によって教皇侍従 (Papal Chamberlains) に叙せられた。また、マルタ騎士団のメンバーにもなっている。1969年、隠棲先のバーデン=ヴュルテンベルク州ザースバッハで死去。
人物
[編集]米軍の拘留記録によると身長は175センチである[100]。
ニュルンベルク刑務所付心理分析官グスタフ・ギルバート大尉が、開廷前に被告人全員に対して行ったウェクスラー・ベルビュー成人知能検査によると、パーペンの知能指数は134で、エーリヒ・レーダーと並んで全被告人中第5位の知能の高さであった(ただパーペンは高齢であることを考慮されて実際の素点の知能指数より15から20多く出されている)[101]。
ニュルンベルク裁判で拘禁されている時に受けたインタビューの中でヒトラーを首相にした理由について次のように語った。
私が政権の座に就いた時、ナチ党は230議席を占めていた。従って彼らがいなければ私は国会で多数派を形成することができなかった。首相の立法行為を有効にするためには国会の過半数を獲得しなければならないからだ。問題はいかにナチ党と折り合っていくかだった。
ヒトラーは常に社会問題はマルキシズムやボルシェヴィズムによっては解決できないが、ある程度の社会主義を含んだ資本主義によって解決できる点を強調した。あらゆる経済活動によって得られる利益は社会が共有すべき物であって個人が独占すべきではないと言うのだ。私にはそれも一理あるように思えた。ナチ党のスローガンの一つは『全ての利益を何より先に社会に還元しよう』だった。ナチ党が援用するタイプの社会主義と共産主義の差は、ナチ党は共産主義国と違って私人の所有権を抑制しない点にあった。それは妥当な主義に思えた。ナチ党による政権樹立は私の率いる保守派には不愉快な事態ではなかった。私はカトリックなので教皇レオ13世が有名な回勅の中で同様の主張をしているのを思い出したのだ。
初めて話した頃のヒトラーは宗教について私と同じ意見であり、ドイツに宗教抜きで統治できる州はひとつもないと明言していた。彼は『我が闘争』の中でも人民の宗教生活を破壊する者こそは愚者であると述べている。さらにヒトラーは政治改革は宗教改革であってはならないとも言った。他の多くの事柄のようにヒトラーが前言を翻したのは私の責任ではない。ヒトラーは権力の階段を上る過程でころころと考えを変えていった。だが政権掌握当初はそうではなかった。現に私は宗教については宥和的な姿勢で臨むというのが彼の心からの願いなのだと思っていた。1933年3月の国会の演説の中で彼はキリスト教の根本原理を尊重しているし、それを擁護するためには何でもすると言った。演説の中でこの点に触れるようヒトラーに頼んだのは私だった。 — [102]
同インタビューの中でヒトラーの人柄については「彼はとても興味深い人間で話題も豊富だった。芸術、建築、政治、軍事、音楽など、様々なことに関心を寄せていた。実に非凡な人間だったが、暗殺未遂事件の後は人が変わってしまった」と語った[103]。
ユダヤ人迫害については次のように語った。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f 阿部、p.197
- ^ a b アイク、p.182
- ^ a b c ヴィストリヒ、p.184
- ^ a b c フェスト、上巻p.434
- ^ モムゼン、p.394
- ^ アイク、p.183
- ^ モムゼン、p.393-394
- ^ 河島幸夫『ドイツ政治史とカトリシズム』
- ^ モムゼン、p.393
- ^ モムゼン、p.394
- ^ アイク、p.186
- ^ 阿部、p.196
- ^ アイク、188頁
- ^ a b モムゼン、p.403
- ^ アイク、p.189
- ^ a b c d フェスト、上巻p.435
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- ^ a b 阿部、p.199
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- ^ モムゼン、p.406
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- ^ ドイツ語発音: [kʃeˈzɪnski] ( Das Aussprachewörterbuch (6 ed.). Duden. p. 379. ISBN 978-3-411-04066-7)
- ^ モムゼン、p.407
- ^ モムゼン、p.408
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- ^ フェスト、上巻p.438
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- ^ a b c フェスト、上巻p.439
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- ^ レナード・モズレー著、伊藤哲訳、『第三帝国の演出者 ヘルマン・ゲーリング伝 下』、1977年、早川書房 166頁
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参考文献
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- ジョン・トーランド 著、永井淳 訳『アドルフ・ヒトラー 1(上記の文庫版)』集英社文庫、1990年。ISBN 978-4087601800。
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- ジョゼフ・E・パーシコ 著、白幡憲之 訳『ニュルンベルク軍事裁判〈上〉(上記の新装版)』原書房、2003年。ISBN 978-4562036523。
- ジョゼフ・E・パーシコ 著、白幡憲之 訳『ニュルンベルク軍事裁判〈下〉』原書房、1996年。ISBN 978-4562028658。
- ジョゼフ・E・パーシコ 著、白幡憲之 訳『ニュルンベルク軍事裁判〈下〉(上記の新装版)』原書房、2003年。ISBN 978-4562036530。
- 林健太郎『ワイマル共和国 ヒトラーを出現させたもの』中央公論社〈中公新書〉、1963年。ISBN 4-12-100027-7。
- ヨアヒム・フェスト 著、赤羽竜夫 訳『ヒトラー〈上〉』河出書房新社、1975年。ASIN B000J9D51I。
- ヨアヒム・フェスト 著、赤羽竜夫 訳『ヒトラー〈下〉』河出書房新社、1975年。ASIN B000J9D518。
- ペーター・プシビルスキ 著、宮野悦義、稲野強 訳『裁かれざるナチス―ニュルンベルク裁判とその後』大月書店、1981年。ASIN B000J7Z7SE。
- ウェルナー・マーザー 著、西義之 訳『ニュルンベルク裁判:ナチス戦犯はいかにして裁かれたか』TBSブリタニカ、1979年。
- ハンス・モムゼン(de) 著、関口宏道 訳『ヴァイマール共和国史―民主主義の崩壊とナチスの台頭』水声社、2001年。ISBN 978-4891764494。
- 『ニュルンベルグ裁判記録』時事通信社、1947年。
外部リンク
[編集]公職 | ||
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先代 ヘルマン・ディートリッヒ |
ドイツ国副首相 1933年 - 1934年 |
次代 フランツ・ブリュッヒャー (西ドイツ副首相、1949年) |
先代 オットー・ブラウン プロイセン自由州首相 |
プロイセン自由州総督 1932年 |
次代 クルト・フォン・シュライヒャー |
先代 クルト・フォン・シュライヒャー |
プロイセン自由州総督 1933年 |
次代 ヘルマン・ゲーリング |
先代 ハインリヒ・ブリューニング |
ドイツ国首相 第13代:1932年 |
次代 クルト・フォン・シュライヒャー |