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「マイケル・ファラデー」の版間の差分

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{{Infobox Scientist
[[ファイル:Michael-faraday3.jpg|thumb|right|マイケル・ファラデー]]
|name = マイケル・ファラデー

|image = Michael Faraday 001.jpg
'''マイケル・ファラデー'''('''Michael Faraday''', [[1791年]][[9月22日]] - [[1867年]][[8月25日]])は、[[電磁気学]]における[[ファラデーの電気分解の法則|電気分解の法則]]や[[ファラデーの電磁誘導の法則|電磁誘導の法則]]の発見、[[ブンゼンバーナー]]の発明などの数々の業績で知られる[[イギリス]]の[[化学者]]・[[物理学者]]。
|image_size = 200px
|caption = Thomas Phillips による肖像画(1841-1842)<ref>See [http://www.npg.org.uk/live/search/portrait.asp?mkey=mw02170 National Portrait gallery NPG 269]</ref>
|birth_date = {{Birth date|df=yes|1791|9|22}}
|birth_place = {{Flagicon|ENG}} [[サリー (イングランド)|サリー州]] ニューイントン・バッツ
|death_date = {{Death date and age|df=yes|1867|8|25|1791|9|22}}
|death_place = {{Flagicon|ENG}} サリー州 [[ハンプトン・コート宮殿|ハンプトン・コート]]
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|fields = [[物理学]]、[[化学]]
|workplaces = [[王立研究所]]
|known_for = [[ファラデーの電磁誘導の法則]]</br>[[電気化学]]</br>[[ファラデー効果]]</br>[[ファラデーケージ]]</br>[[ファラデー定数]]</br>[[ファラデーカップ]]</br>[[ファラデーの電気分解の法則]]</br>[[電気力線]]
|influences = [[ハンフリー・デービー]]</br>[[:en:William Thomas Brande|William Thomas Brande]]
|awards = [[ロイヤル・メダル]] (1835 & 1846)</br>[[コプリ・メダル]] (1832 & 1838)</br>[[ランフォード・メダル]] (1846)
|signature = Michael Faraday signature.svg
}}
'''マイケル・ファラデー'''('''Michael Faraday''', [[1791年]][[9月22日]] - [[1867年]][[8月25日]])は、[[イングランド人]]の[[化学者]]・[[物理学者]](あるいは当時の呼称では[[自然哲学]]者)で、[[電磁気学]]および[[電気化学]]の分野での貢献で知られている。


== 概要 ==
== 概要 ==
[[直流]][[電流]]を流した[[電気伝導体]]の周囲の[[磁場]]を研究し、物理学における電磁場の基礎理論を確立。それを後に[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]]が発展させた。同様に[[ファラデーの電磁誘導の法則|電磁誘導の法則]]、[[反磁性]]、[[ファラデーの電気分解の法則|電気分解の法則]]などを発見。[[磁性]]が[[光線]]に影響を与えること、2つの現象が根底で関連していることを明らかにした<ref name="EncBrit">[http://www.1911encyclopedia.org/Michael_Faraday Michael Faraday] entry at the 1911 Encyclopaedia Britannica hosted by LovetoKnow Retrieved January 2007.</ref><ref name="IEEUK">[http://www.theiet.org/about/libarc/archives/biographies/faraday.cfm "Archives Biographies: Michael Faraday", The Institution of Engineering and Technology.]</ref>。電磁気を利用して回転する装置([[電動機]])を[[発明]]し、その後の電動機技術の基礎を築いた。それだけでなく[[電気]]を使った[[テクノロジー]]全般が彼の業績から発展したものである。
ファラデーは[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]時代の1791年に、鍛冶職人の3番目の息子としてロンドン近郊で生まれた。一家は全部で10人もの子供をかかえ、非常に貧しかったといわれている。このためファラデーは小学校しか卒業できず、13歳のときに製本工場で見習いとして働きはじめた。


化学者としては、[[ベンゼン]]を発見し、塩素の[[包接水和物]]を研究し、原始的な形の[[ブンゼンバーナー]]を発明し、[[酸化数]]の体系を提案した。[[アノード]]、[[カソード]]、[[電極]] (electrode)、[[イオン]]といった用語はファラデーが一般化させた。
製本屋で様々な本に出会ったファラデーは特に科学系の本に興味をもち、夢中で読んだという。{{要出典範囲|date=2010年9月|またファラデーと同じく見習いで働いていた画家の卵[[マスケリエ]]はファラデーにデッサンを教えた。そのためファラデーは絵が非常に上手く、科学系の本にある実験装置などを正確に書き写したといわれている}}。


ファラデーは高等教育を受けておらず、高度な数学もほとんど知らなかったが、史上最も影響を及ぼした[[科学者]]の1人とされている。科学史家<ref>{{Cite book| last =Russell | first = Colin | authorlink = | coauthors = | title= Michael Faraday: Physics and Faith | publisher=Oxford University Press | year=2000 | location=New York | pages= | url = | doi = | id = }}</ref>は彼を科学史上最高の実験主義者と呼んでいる<ref>[http://www.bath.ac.uk/news/2006/10/25/gulp-ford251006.html "best [[:en:experimentalist|experimentalist]] in the history of science."] Quoting Dr Peter Ford, from the University of Bath’s Department of Physics. Accessed January 2007.</ref>。[[静電容量]]の[[国際単位系|SI]]単位「[[ファラッド]] (F)」はファラデーに因んでいる。また、1[[モル]]の[[電子]]の電荷に相当する[[ファラデー定数]]にも名を残している。[[ファラデーの電磁誘導の法則]]は、磁束の変化の割合と誘導[[起電力]]は比例するという法則である。
ある日ファラデーのノートに感銘を受けた客が、ある科学講演の入場券を譲ってくれた。その講演は、当時の大化学者であり、後にファラデーの師となる[[ハンフリー・デービー]]の講演であった。ファラデーはデービーの科学講演を巧みにデッサンし、それを見て感心したデービーと言葉を交わすことができた。ファラデーが科学の道を歩みたいと言ったところ「科学は苦労の連続である。今は何の仕事もない。もしあったら連絡する」といわれ、ファラデーは落胆した。


ファラデーは[[王立研究所]]の初代フラー教授職 ([[:en:Fullerian Professor of Chemistry|en]]) であり、亡くなるまでその職を務めた。
その後、デービーが実験中に左目を痛め、治るまでの間、ファラデーを実験助手に雇ったことで、ようやく科学への道が開けた。当時の階級社会で彼は紳士とは考えられてはおらず、裕福な家の出だったデービー夫人はファラデーを低く扱い、一緒に社交に出ることを拒んだと言われている。ただしファラデー自身は上流階級になろうという意欲は薄く、後に[[ナイト]]に叙せられる話があった時も断ったとされる。


[[アルベルト・アインシュタイン]]は壁にファラデー、[[アイザック・ニュートン|ニュートン]]、[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル|マクスウェル]]の絵を貼っていたという<ref>"Einstein's Heroes: Imagining the World through the Language of Mathematics", by Robyn Arianrhod
その後のファラデーの業績は素晴らしいものであった。[[塩素の液化]](1823年)、[[ベンゼン]](1825年)、[[金コロイド]](1857年)などを次々と発見していき、[[1831年]]には[[電磁誘導]]現象を発見し、さらに[[ファラデーの電磁誘導の法則|電磁誘導の法則]]、有名な[[ファラデーの電気分解の法則|電気分解の法則]](1833年)を発見するなど、超人的な科学者として活躍した。
UQP, reviewed by Jane Gleeson-White, 10 November 2003, The Sydney Morning Herald.</ref>。


ファラデーは信心深い人物で、1730年に創設された[[キリスト教徒]]の一派であるサンデマン派に属していた。伝記作者は「神と自然の強い一体感がファラデーの生涯と仕事に影響している」と記している<ref>{{Cite journal| author = Baggott, Jim | title = The myth of Michael Faraday: Michael Faraday was not just one of Britain's greatest experimenters. A closer look at the man and his work reveals that he was also a clever theoretician | journal = New Scientist | date = 2 September 1991 | pages = | url = http://www.newscientist.com/article/mg13117874.600-the-myth-of-michael-faraday-michael-faraday-was-not-justone-of-britains-greatest-experimenters-a-closer-look-at-the-man-and-hiswork-reveals-that-he-was-also-a-clever-theoretician-.html | accessdate = 2008-09-06 }}</ref>。
この頃、デービーはファラデーが[[王立協会]]の会員になることを猛烈に反対し、自分が見出したファラデーの頭角に嫉妬を抱き始めていた。しかし、ファラデーの友人の推薦により、協会員に選ばれた。また、デービーはウィリアム・ウラストン自身が否定しているに関わらず、ファラデーを「ウラストンの研究を盗んだ」と非難したりもした。もっとも、デービーは「私の最大の発見はファラデーである」という言葉を残している。小学校しか卒業してない製本屋の見習いが19世紀最大の科学者と言われるようになったことを考えると、この言葉は正鵠を射ているといえる。


== 前半生 ==
中でも[[電磁気学]]の研究は素晴らしく、他の科学者たちが電磁気現象を[[力学]]における[[遠隔力]]と考えていたのに対してファラデーは空間における[[電気力線]]・[[磁力線]]という[[近接作用]]的概念から研究しており、後の[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル|マクスウェル]]による[[マクスウェルの方程式|電磁方程式]]の確立に多大な影響を与えた。デービーの後をついでファラデーは英国王立実験所長を歴任。他にも1857年に王立学会会長に推されたが、世俗の栄達を好まないファラデーは固辞した。
[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]時代の1791年に、ニューイントン・バッツ<ref name=ODNB/>で生まれる。現在のサザク・[[ロンドンの特別区|ロンドン特別区]]の一部だが、当時は[[サリー (イングランド)|サリー]]の一部で[[ロンドン橋]]から南に1マイルほどの場所だった<ref>ファラデーの幼少期を含む生涯の簡潔な説明として次がある。<br/>EVERY SATURDAY: A JOURNAL OF CHOICE READING, Vol III published at Cambridge in 1873 by Osgood & Co., pp.175-83</ref>。一家は決して順調ではなかった。父ジェームズはサンデマン派信者で、妻と2人の子をかかえて1791年にウェストモーランド(現在の[[カンブリア (イングランド)|カンブリア]])のアスギルという小さな村からロンドンに出てきた。その村では鍛冶屋の見習いをしていた<ref>これの意味するところは、ジェームズがサンデマン派信者のつながりから職を得たということである。ジェームズは1791年2月20日にロンドンのサンデマン派の集会に参加し、その後すぐに住居を見つけて引っ越している。詳しくは {{Harvnb|Cantor|1991|pp=57-8}}</ref>。マイケルが生まれたのはその年の秋である。マイケルは4人兄弟の3番目で、学校にはほとんど通っていない<ref>"Michael Faraday." History of Science and Technology. Houghton Mifflin Company, 2004. [http://www.answers.com/topic/michael-faraday Answers.com 4 June 2007]</ref>。14歳のとき、近所で製本業と書店を営んでいた [[:en:George Riebau|George Riebau]] のところに年季奉公に入った<ref>[http://openplaques.org/plaques/19 Plaque#19] on Open Plaques</ref>。7年間の奉公の間に多数の本を読んだ。中には[[アイザック・ウォッツ]]の ''The Improvement of the Mind'' もあり、彼はその中に書かれていた主義と提案を熱心に実践した。多数の本を読むうちに科学への興味が強まり、特に電気に興味を持つようになった。特に影響された本として[[ジェーン・マーセット]]の ''Conversations on Chemistry'' があった<ref>{{cite episode|transcripturl= http://www.uh.edu/engines/epi744.htm|title=Jane Marcet's Books |credits=John H. Lienhard|series=The Engines of Our Ingenuity|serieslink= |airdate=1992 |number=744 |network=NPR|station=KUHF-FM Houston|accessdate=2007-10-02}}</ref>。{{要出典範囲|date=2010年9月|またファラデーと同じく見習いで働いていた画家の卵[[マスケリエ]]はファラデーにデッサンを教えた。そのためファラデーは絵が非常に上手く、科学系の本にある実験装置などを正確に書き写したといわれている}}。


1812年、20歳となり年季奉公の最後の年となったファラデーは、[[:en:John Tatum (scientist)|John Tatum]] の創設した City Philosophical Society の会合で勉強するようになった。また、当時のイギリスで有名だった化学者[[ハンフリー・デービー]]の講演を何度も聴講した。その入場券は[[ロイヤル・フィルハーモニック協会]]の創設者の1人 [[:en:William Dance|William Dance]] がファラデーに与えたものだった。ファラデーは300ページにもなったデービーの講演の際につけたノートをデービーに送った。それを見て感心したデービーは、すぐさま好意的な返事をした。ファラデーが科学の道を歩みたいと言ったところ「科学は苦労の連続である。今は何の仕事もない。もしあったら連絡する」といわれ、ファラデーは落胆した。しかしその後、デービーは[[塩化窒素]]の実験中の事故で目を負傷し、ファラデーを秘書として雇うことにした。王立研究所の助手の1人が解雇されると、ハンフリー・デービーは代わりを捜すよう依頼され、1813年3月1日、ファラデーは王立研究所の化学助手となった<ref name="EncBrit"/>。
ファラデーは一般向けの講演も多く行った。世界の優秀な科学者たちを集めた[[金曜講演]](1825年より開始)、少年少女向きの[[クリスマス・レクチャー]]、有名な[[ロウソクの科学]]などであり、今日まで続いているものも多い。


当時の階級社会で彼は紳士とはみなされなかった。デービーが1813年から1815年まで長いヨーロッパ旅行に出かけることになったが、彼の従者は一緒に行くことを拒んだ。ファラデーは実験助手として同行し、パリで従者の代わりを見つけるまでは従者の役も果たすことを依頼された。結局ファラデーは旅行が終わるまで助手兼従者として働くことになった。裕福な家の出だったデービー夫人はファラデーを低く扱い、一緒に社交に出ることを拒んだと言われている(馬車の御車席に座らせ、食事も使用人と一緒)。この扱いにファラデーは落胆し、イギリスに戻ったら科学の道をあきらめようと考えたという。ただしファラデー自身は上流階級になろうという意欲は薄く、後に[[ナイト]]に叙せられる話があった時も断ったとされる。この旅行でファラデーはヨーロッパの有名な科学者らと出会い、アイデアを刺激された<ref name="EncBrit"/>。
[[クリミア戦争]]の際に政府から化学兵器を作ってもらえないかという要望がきたとき、彼は机をたたいてこう言ったという。「作ることは容易だ。しかし絶対に手を貸さない!」ファラデーが強い平和主義者だったことも伺える。1867年自宅で椅子にもたれたまま、眠るようにして死去した。


ファラデーは敬虔なキリスト教徒だった。彼の属するサンデマン派は[[スコットランド国教会]]の分派である。結婚後しばらくして[[輔祭]]を務めるようになり、若いころ過ごした集会所の[[長老 (キリスト教)|長老]]を2期務めた。その集会所は1862年に[[イズリントン・ロンドン特別区|イズリントン]]に移転しており、2期目はこちらで務めた<ref>{{Harvnb|Cantor|1991|pp=41-43, 60-4, 277-80}}</ref>。
[[静電容量]]の単位[[ファラド]]、物理定数[[ファラデー定数]]にその名を残す。[[1991年]]から[[2001年]]にかけて用いられた20[[UKポンド]][[紙幣]]に肖像が描かれている。


1821年6月12日、サラ・バーナード (1800–1879) と結婚したが<ref>{{Harvnb|Cantor|1991|p=59}}</ref>、子供はできなかった<ref name=ODNB>Frank A. J. L. James, ‘Faraday, Michael (1791–1867)’, [[:en:Oxford Dictionary of National Biography|Oxford Dictionary of National Biography]], [[オックスフォード大学出版局|Oxford University Press]], Sept 2004; online edn, Jan 2008 [http://www.oxforddnb.com/view/article/9153 accessed 3 March 2009]</ref>。2人はサンデマン派の教会で家族を介して知り合った。
{{commons|Michael Faraday}}

== 業績 ==
=== 化学 ===
[[ファイル:M Faraday Lab H Moore.jpg|thumb|250px|right|1850年ごろの研究室で作業中のファラデー。作者の [[:en:Harriet Jane Moore|Harriet Jane Moore]] はファラデーの生活を水彩画で描いた。]]
[[ファイル:Tetrachloroethylene-3D-vdW.png|thumb|100px|left|[[テトラクロロエチレン]]分子]]
ファラデーの初期の化学の業績は、[[ハンフリー・デービー]]の助手としてのものだった。特に[[塩素]]を研究し、2種類の新たな[[炭素]]塩化物を発見した。また、[[ジョン・ドルトン]]が指摘した現象である気体の拡散に関する初期の実験も行ったが、その物理的重要性をより完全に明確化したのは[[トーマス・グレアム]]と[[ヨハン・ロシュミット]]である。いくつかの気体の[[液化]]に成功した。また、[[鋼]]合金を調べたり、光学向けの新たなガラスを作ったりしている。後にそれらのガラスは、磁場中に置くと通過する光の偏光面を回転させるという発見に役立ったこと、および磁石の極と反発する[[反磁性]]体だと判明したことで歴史的に重要となった。また、化学の一般的手法の確立にも貢献している。

ファラデーはまた、後に[[ブンゼンバーナー]]と呼ばれ実験用に広く使われるようになった熱源装置の原型を発明した<ref>{{Cite journal| last =Jensen | first =William B. | authorlink = | coauthors = | title =The Origin of the Bunsen Burner | journal = Journal of Chemical Education | volume = 82 | issue = 4 | pages = | publisher = | year =2005 | url = http://pubs.acs.org/doi/abs/10.1021/ed082p518|format=PDF}}</ref><ref>{{Harvnb|Faraday|1827|p=127}}</ref>。ファラデーは化学の幅広い分野で活動し、1823年に塩素の液化に成功し、1825年には[[ベンゼン]]を発見している。気体の液化は気体が単に沸点の低い液体の蒸気に過ぎないという認識の確立に役立ち、分子凝集の概念により確かな基盤を与えることになった。1820年、ファラデーは炭素と塩素で構成される化学物質 [[六塩化エタン|C<sub>2</sub>Cl<sub>6</sub>]] と [[テトラクロロエチレン|C<sub>2</sub>Cl<sub>4</sub>]] を初めて合成したことを報告し<ref>{{Cite journal| author = Faraday, Michael | title = On two new Compounds of Chlorine and Carbon, and on a new Compound of Iodine, Carbon, and Hydrogen | journal = Philosophical Transactions | year = 1821 | volume = 111| pages = 47 | doi = 10.1098/rstl.1821.0007 }}</ref><ref>{{Harvnb|Faraday|1859|pp=33-53}}</ref><ref>{{Harvnb|Pearce|1965|pp=122-123}}</ref>、翌年公表している。また、ハンフリー・デービーが1810年に発見した塩素の[[包接水和物]]の構成を特定した<ref>{{Cite journal| author = Faraday, Michael | title = On Hydrate of Chlorine | journal = Quartly Journal of Science | year = 1823 | volume = 15| pages = 71 }}</ref><ref>{{Harvnb|Faraday|1859|pp=81-84}}</ref>。

1833年、[[ファラデーの電気分解の法則|電気分解の法則]]を発見し、[[アノード]]、[[カソード]]、[[電極]] (electrode)、[[イオン]]といった用語を定着させた。これらの用語の多くは[[ウィリアム・ヒューウェル]]が考案したものである。

また、後に金属[[ナノ粒子]]と呼ばれることになるものについて初めて報告している。1847年、金[[コロイド]]の光学特性が金塊のそれと異なることを発見した。これは[[量子]]サイズの現象の最初の観察報告と見られ、[[ナノテクノロジー|ナノ科学]]の誕生と言えなくもない<ref>{{Cite web|url= http://www.nanogallery.info/nanogallery/?ipg=126 |title=The Birth of Nanotechnology |accessdate=2007-07-25 |last=|first= |authorlink= |coauthors= |date= |year=2006 |month= |format= |work= |publisher=Nanogallery.info |pages= |language= |archiveurl= |archivedate= |quote="Faraday made some attempt to explain what was causing the vivid coloration in his gold mixtures, saying that known phenomena seemed to indicate that a mere variation in the size of gold particles gave rise to a variety of resultant colors." }}</ref>。

=== 電気と磁気 ===

中でも[[電磁気学]]の研究は素晴らしく、後の[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル|マクスウェル]]による[[マクスウェルの方程式|電磁方程式]]の確立に多大な影響を与えた。

ファラデーは特に電気と磁気の研究でよく知られている。彼が記録している最初の実験は、7枚の半ペニー貨と7枚の亜鉛シートに6枚の塩水を浸した紙を挟んで積み上げた[[ボルタ電池]]を作ったことだった。この電池を使って[[硫酸マグネシウム]]を電気分解している(1812年7月12日付けのAbbottへの手紙に記述がある)。

[[ファイル:VoltaBattery.JPG|thumb|upright|[[ボルタ電池]]]]
[[ファイル:Faraday magnetic rotation.jpg|thumb|upright|left|電磁力による回転実験(1821年ごろ)<ref>{{Harvnb|Faraday|1839, 1844|loc= vol ii, plate 4}}</ref>]]
[[ファイル:VFPt_Solenoid_correct2.svg|thumb|upright|[[ソレノイド]]]]

デンマークの科学者[[ハンス・クリスティアン・エルステッド]]が電気と磁気の関係を示す現象を発見すると、1821年にデービーと[[ウイリアム・ウォラストン]]が[[電動機]]を作ろうとしたが失敗した<ref name="IEEUK"/>。ファラデーは2人とその問題について話し合い、電磁回転 (electromagnetic rotation) と名付けた動きを生じる2つの装置を作り上げた。1つは[[水銀]]を入れた皿の中央に磁石を立て、上から水銀に浸るように針金をたらし、その針金と水銀を通るように電流を流すと、電流によって生じた磁場が磁石の磁場と反発して針金が磁石の周囲を回転し続けるというものである。もう1つは[[単極電動機]]と呼ばれるもので、逆に磁石側が針金の周りを回るようになっていた。それらの実験と発明が現代の電磁技術の基礎を築いた。この成果に興奮したファラデーはデービーやウォラストンの許可を得ずに、それを公表した。

これに怒ったデービーとファラデーの関係が悪化し、デービーは電磁気以外の研究をファラデーに押し付け、数年間電磁気研究から遠ざけたと見られている<ref>{{Harvnb|Hamilton|2004|pp=165-71, 183, 187-90}}</ref><ref>{{Harvnb|Cantor|1991|pp=231-3}}</ref>。デービーはファラデーが[[王立協会]]の会員になることを猛烈に反対し、自分が見出したファラデーの頭角に嫉妬を抱き始めていた。しかし、ファラデーの友人の推薦により、協会員に選ばれた。また、デービーはウィリアム・ウォラストン自身が否定しているに関わらず、ファラデーを「ウォラストンの研究を盗んだ」と非難したりもした。もっとも、デービーは「私の最大の発見はファラデーである」という言葉を残している。小学校しか卒業してない製本屋の見習いが19世紀最大の科学者と言われるようになったことを考えると、この言葉は正鵠を射ているといえる。

1824年、ファラデーは導線を流れる電流を外部の磁場によって調節可能かどうかを研究すべく簡単な回路を製作したが、そのような現象は見つけられなかった<ref>{{Harvnb|Thompson|1901|p=95}}</ref>。3年前、同じ実験室で光が磁場に影響されるかを実験しており、そのときも何も見つけられなかった<ref>{{Harvnb|Thompson|1901|p=91}}</ref><ref>{{Harvnb|Cantor|1991|p=233}}</ref>。その後7年間は光学用ガラス(鉛を加えた[[ホウケイ酸ガラス]])の製法を完成させることに費やし<ref>{{Harvnb|Thompson|1901|pp=95-98}}</ref>、後の研究でそれが光と磁気の関係の研究に役立つことになった<ref>{{Harvnb|Thompson|1901|p=100}}</ref>。光学の仕事以外の時間を使って電磁気を含む実験の論文を書いて公表し、デービーとのヨーロッパ旅行で出会った海外の科学者とも文通した<ref>{{Harvnb|Cantor|1991|pp=235-44}} 日記でわかるように、ファラデーはアンペール、アラゴ、エルステッドらの研究の進行状況に大きく影響されている。</ref>。デービーの死から2年後の1831年、ファラデーは一連の重要な実験を行い、[[電磁誘導]]を発見した。わずか数カ月前に[[ジョゼフ・ヘンリー]]も発見しているが、2人に先行してイタリアの[[フランセスコ・ツァンテデシ]]が1829年と1830年に同様の論文を発表していた<ref>{{Cite web|url= http://en.wikisource.org/wiki/Catholic_Encyclopedia_%281913%29/Francesco_Zantedeschi |title=Francesco Zantedeschi article at the Catholic Encyclopedia|accessdate=2007-06-16 |last=Brother Potamian |first= |authorlink= |coauthors= |date= |year=1913 |month= |format= |work= |publisher=Wikisource |pages= |language= |archiveurl= |archivedate= |quote= }}</ref>。

[[ファイル:Faraday-Daniell.PNG|thumb|left|200px|電気化学の祖とされるイギリスの化学者[[ジョン・フレデリック・ダニエル|ジョン・ダニエル]](左)とファラデー(右)]]

他の科学者たちが電磁気現象を[[力学]]における[[遠隔力]]と考えていたのに対して、ファラデーは空間における[[電気力線]]・[[磁力線]]という[[近接作用]]的概念から研究している。ファラデーの突破口は、鉄の環に絶縁された導線を巻きつけて[[コイル]]を2つ作ったことであり、一方のコイルに電流を流すともう一方のコイルに瞬間的に電流が流れることを発見した<ref name="IEEUK"/>。この現象を[[相互誘導]]と呼ぶ。この鉄の環のコイルは今も王立研究所に展示されている。その後の実験で、空芯のコイルの中で磁石を動かしても電流が流れることを発見した。また、磁石を固定して導線の方を動かしても電流が流れることを発見。これらの実験で、磁場の変化によって電場が生ずることが明らかとなった。この[[ファラデーの電磁誘導の法則]]は後に[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]]が数理モデル化し、4つの[[マクスウェルの方程式]]の1つとなった。そして、さらに一般化され[[場の理論]]となっている。

ファラデーは後にこの原理を使って原始的な[[発電機]]を製作している。

1839年、電気の基本的性質を明らかにする一連の研究を完成させた。ファラデーは「[[静電気学|静電気]]」、[[電池]]、「動物電気」を使い、静電気による誘引現象、[[電気分解]]、[[電磁気学]]などの現象を生み出した。彼は、当時の科学界で常識だったこれらの電気の種類の違いは存在しないと結論付けた。そして電気は一種類だとし、強さや量(電圧と電流)の違いが様々な現象を引き起こすとした<ref name="IEEUK"/>。

後年ファラデーは電磁力が電気伝導体の周囲の空間に及んでいるという説を提案した。しかし他の科学者はその考え方を拒絶し、ファラデーの存命中は認められなかった。ファラデーの帯電した物体や磁石から[[磁力線]]が出ているという概念は、電磁場の視覚化手段を提供した。このモデルは19世紀後半の産業を支配した電気機械式装置の開発にとってきわめて重要となった。

=== 反磁性 ===
[[ファイル:Faraday photograph ii.jpg|thumb|upright|right|1845年の実験で使ったガラス棒を手にしたファラデー。その実験で[[誘電体]]中の光が磁場の影響を受けることを示した。<ref>1857年ごろ撮影された写真をベースとした版画。詳しくは [http://www.npg.org.uk/collections/search/portrait/mw41581/Michael-Faraday?LinkID=mp01529&role=sit&rNo=18 National Portrait Gallery, UK]</ref>]]
1845年、ファラデーは多くの物質が磁場に対して弱く反発することを発見し、その現象を[[反磁性]] (diamagnetism) と名付けた。

また、光の進む方向にそって印加された電磁場によって直線[[偏光]]の偏光面が回転することを発見。これを[[ファラデー効果]]と呼ぶ。ファラデーのノートには「私はついに磁気の曲線または「[[電気力線|力の線]]」を解明し、[[光線]]を磁化することに成功した」と記してある。

晩年(1862年)、磁場によって光のスペクトルが変化するのではないかと考え、[[分光器]]を使って実験している。しかしファラデーが使っていた機器ではスペクトルの変化を捉えることはできなかった。同じ現象を後に[[ピーター・ゼーマン]]が改良された機器で研究し、1897年に公表、1902年に[[ノーベル物理学賞]]を受賞することになった。1897年の論文でも<ref>{{Cite journal| title = The Effect of Magnetisation on the Nature of Light Emitted by a Substance | journal = Nature | year = 1897 | volume = 55 | pages = 347 | author = Zeeman, Pieter | doi = 10.1038/055347a0}}</ref>、ノーベル賞講演でも<ref>{{Cite web| title = Pieter Zeeman, Nobel Lecture | url = http://nobelprize.org/nobel_prizes/physics/laureates/1902/zeeman-lecture.html | accessdate = 2008-05-29}}</ref>、ゼーマンはファラデーの業績に言及している。

=== ファラデーケージ ===
[[ファイル:Faraday cage.gif|left|thumb|300px|外部の電場が電荷の配置を変化させ、それによって電場が打ち消される。]]
静電気を研究する中で、ファラデーは帯電した導体では電荷がその表面にしかないことを示し、それら電荷は導体内部の空間には何も影響を及ぼさないことを証明した。これは電荷が内部の電場を打ち消すように分布するためである。この電場を遮蔽する効果を使ったものを[[ファラデーケージ]]と呼ぶ。

ファラデーは優秀な実験主義者であり、明快かつ簡潔な言葉で考えを伝えた。しかし、数学の知識は乏しかった。そのため電磁誘導の法則を自分で定式化できず、[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]]らが定式化することになった。またファラデーの[[電気力線]]の使用についてマクスウェルは、ファラデーが高水準の数学者にも匹敵する思考の持ち主であり、将来の数学者はファラデーの業績から様々な貴重な方法を引き出すことができるだろうと述べている<ref name="MaxwellSciPapVol1">[http://books.google.com/books?id=RaqhIhxqLiwC&pg=PA360&lpg=PA360&dq=%22to+have+been+in+reality+a+mathematician%22&source=web&ots=CUK1Be_o6H&sig=R8OycQBKt7eOLEgWVt328XdHqv8&hl=en The Scientific Papers of James Clerk Maxwell Volume 1] page 360; Courier Dover 2003, ISBN 0486495604</ref>。

== 王立研究所と研究以外の業績 ==
[[ファイル:FaradayFatherThames.jpg|thumb|right|200px|upright|テムズ川の主と出会ったファラデー(1855年7月21日の[[パンチ (雑誌)|パンチ]]誌の風刺画)]]
[[ファイル:Lighthouse lantern room with Fresnel lens.png|thumb|left|1800年代中ごろの灯台の灯室]]
1824年には[[王立協会]]フェローに選ばれ<ref name=ODNB/>、1825年にはデービーの後をついで英国王立実験所長となった。1933年、ファラデーは[[王立研究所]]の初代[[フラー教授職]]に就任した。[[:en:John 'Mad Jack' Fuller|John 'Mad Jack' Fuller]] の後援によって創設された化学の教授職であり、名誉職であって講義を行う義務はない。

王立研究所での化学や電磁気学の研究以外に、ファラデーは民間企業やイギリス政府に依頼された仕事に時間を割いた。例えば、炭鉱での爆発事故の調査、法廷での専門家証人、高品質な光学ガラスの成分検討などである。1846年、ハスウェルの炭鉱で95人が死亡した爆発事故を調査し、[[チャールズ・ライエル]]と共に詳細な報告書を提出した。その報告書は[[法科学]]的にしっかりしており、石炭の粉塵が爆発の威力を増加させたとしていた。しかし、炭塵爆発への対策は1913年に別の炭鉱で大事故が発生するまでなされなかった。

海洋国家でもあるイギリスの有名な科学者として、ファラデーは[[灯台]]建設や運用、船底の[[腐食]]を防止するプロジェクトなどにも時間を割いた。

ファラデーは今では[[環境学]]と呼ばれる分野でも活躍した。[[スウォンジ]]での工場による汚染を調査し、造幣所での大気汚染について助言したりしている。1855年7月、[[タイムズ]]誌に[[テムズ川]]の汚染問題について手紙を送り、[[パンチ (雑誌)|パンチ]]誌に風刺画が掲載されることになった。

1851年、ロンドンで開催された[[ロンドン万国博覧会 (1851年)|万国博覧会]]では、計画立案と評価に参加した。また、[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]でのコレクションのクリーニングと保護についても助言し、1857年には同ギャラリー運営委員会の委員も務めた。

教育にも関与している。1854年、王立研究所で教育について講演し、1862年にはイギリスの教育政策についての持論を伝えるために公立学校委員会に出席した。また当時一般大衆の間で流行っていたこっくりさんや催眠術や降霊会には否定的立場で参加しており、教育に関しては政府に対しても大衆に対しても厳しかった<ref>See ''The Illustrated London News'', July 1853, for Faraday's comments.</ref>。

ファラデーは一般向けの講演も多く行った。世界の優秀な科学者たちを集めた[[金曜講演]](1825年より開始)、少年少女向きの[[クリスマス・レクチャー]]、有名な[[ロウソクの科学]]などであり、今日まで続いているものも多い。ファラデーは1827年から1860年まで19回のクリスマス・レクチャーを行った。

== 晩年 ==
[[ファイル:Faraday Michael old age.jpg|thumb|upright|left|150px|晩年のファラデー]]
[[ファイル:Faraday Michael Christmas lecture detail.jpg|thumb|200px|right|ファラデーのクリスマス・レクチャー (1856)]]
1832年6月、[[オックスフォード大学]]はファラデーに名誉博士号を授与した。ファラデーは終生[[ナイト]]の名誉を辞退し続け、[[王立協会]]会長職も2回辞退している。1838年、[[スウェーデン王立科学アカデミー]]の外国人会員に選ばれ、1844年にはフランス[[科学アカデミー (フランス)|科学アカデミー]]の8人の外国人会員の1人に選ばれた<ref>{{Harvnb|Gladstone|1872|p=53}}</ref>。

1848年、[[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|アルバート王配殿下]]の申し出により[[サリー (イングランド)|サリー]]の[[ハンプトン・コート宮殿]]に無料で住めるようになった。1858年に引退したファラデーは晩年をそこで過ごした<ref>[http://www.twickenham-museum.org.uk/detail.asp?ContentID=197 Twickenham Museum on Faraday and Faraday House], Accessed June 2006</ref>。

[[クリミア戦争]] (1853–1856) の際に政府から化学兵器を作ってもらえないかという要望がきたとき、倫理的な理由からこれを断わった<ref name="Croddy">{{Cite book|last=Croddy|first=Eric |coauthors=Wirtz, James J. |title=Weapons of Mass Destruction: An Encyclopedia of Worldwide Policy, Technology, and History|publisher=ABC-CLIO|url = http://books.google.com/?id=ZzlNgS70OHAC&pg=PA86&lpg=PA86&dq=Faraday++chemical+weapons+Crimean+War|year=2005|pages=Page 86|isbn=1851094903}}</ref>。彼は机をたたいてこう言ったという。「作ることは容易だ。しかし絶対に手を貸さない!」ファラデーが強い平和主義者だったことも伺える。

1867年8月25日、[[ハンプトン・コート宮殿]]内の自宅で椅子にもたれたまま、眠るようにして死去した<ref>[http://openplaques.org/plaques/2429 Plaque#2429] on Open Plaques</ref>。

生前[[ウェストミンスター寺院]]への埋葬を拒否していたが、[[アイザック・ニュートン]]の墓のそばに記念銘板が設置された。遺体は[[ハイゲイト墓地]]の非国教徒向けの区域に埋葬された。

== 記念 ==
[[ファイル:Michael Faraday statue AB.jpg|thumb|right|upright|150px|ロンドンのサボイ・プレイスにあるファラデー像(作 [[:en:John Henry Foley|John Henry Foley]]]]

ロンドンの[[IET]]本部のそばのサボイ・プレイスにファラデーの像がある。同じくロンドンのエレファント・アンド・キャッスルのロータリーの中央には[[ブルータリズム]]の建築家 [[:en:Rodney Gordon|Rodney Gordon]] が設計し1961年に完成したマイケル・ファラデー記念館 ([[:en:Michael Faraday Memorial|en]]) がある。ファラデーが生まれたニューイントン・バッツの近くである。同じく生誕地に近いウォルワースにはファラデーの名を冠した小さな公園がある。

[[ラフバラー]]のラフバラー大学には1960年にファラデーの名を冠したホールが建てられた。その食堂の入口付近に青銅製の[[変圧器]]の像があり、中にはファラデーの肖像がある。[[エディンバラ大学]]の理工系キャンパスにはファラデーの名を冠した5階建ての建物がある。[[ブルネル大学]]や[[スウォンジー大学]]にもファラデーの名を冠した建物がある。また、イギリスはかつて [http://www.antarctica.ac.uk/about_bas/our_history/stations_and_refuges/faraday.php Faraday Station] という南極基地を運営していた。

ファラデーの名を冠した通りはイギリス各地(ロンドン、[[ファイフ]]、[[スウィンドン]]、[[ノッティンガム]]など)にあり、フランス(パリ)やドイツ、カナダ、アメリカにもある。

[[1991年]]から[[2001年]]にかけて用いられた20[[UKポンド]][[紙幣]]に肖像が描かれている。王立研究所で電磁スパーク装置を使った講演中の様子が描かれている<ref name="bankofengland">{{Cite web|url= http://www.bankofengland.co.uk/banknotes/denom_guide/index.htm|title=Withdrawn banknotes reference guide|publisher=Bank of England|accessdate=2008-10-17}}</ref>。

== 著作 ==
''Chemical Manipulation'' 以外のファラデーの本は学術論文や講義録を集めたものである<ref>{{Harvnb|Hamilton|2004|p=220}}</ref>。死後、ファラデーの日記、大量の書簡、1813年から1815年のデービーとの旅行の記録も出版された。

* {{Citation|last=Faraday |first=Michael |title = Chemical Manipulation, Being Instructions to Students in Chemistry |publisher = John Murray | year = 1827}} [http://www.archive.org/details/chemicalmanipula00fararich 2nd ed. 1830], [http://books.google.com/books?id=apjfZ3P8GdQC&pg=PA1&dq=chemical+manipulation#PPP9,M1 3rd ed. 1842]
* {{Citation|last=Faraday |first=Michael |title = Experimental Researches in Electricity, vols. i. and ii. |year = 1839, 1844 |publisher = Richard and John Edward Taylor |url = http://www.archive.org/details/experimentalrese00faraiala }}; vol. iii. Richard Taylor and William Francis, 1855 - [http://rack1.ul.cs.cmu.edu/is/faraday/doc.scn?fr=0&rp=http%3A%2F%2Frack1.ul.cs.cmu.edu%2Fis%2Ffaraday%2F&pg=4 オリジナルをスキャンしたもの]
* {{Citation|last=Faraday |first=Michael |title = Experimental Researches in Chemistry and Physics |year = 1859 publisher = Taylor and Francis |url = http://www.archive.org/details/experimentalrese00fararich}}
* {{Cite book| author = Faraday, Michael | title = A Course of Six Lectures on [[ロウソクの科学|the Chemical History of a Candle]] | editor = W. Crookes | year = 1861 | publisher = Griffin, Bohn & Co. | url = http://www.archive.org/details/chemicalhistoryo00faraiala}}
** マイケル・ファラデー 著, 山形浩生 訳, 『[[ロウソクの科学]]』, [[プロジェクト杉田玄白]]. [http://www.genpaku.org/candle01/]
* {{Cite book| author = Faraday, Michael | title = On the Various Forces in Nature | year = 1873 | publisher = Chatto and Windus | location = | url = http://www.archive.org/details/onvariousforceso00farauoft | editor = W. Crookes}}
* {{Cite book| author = Faraday, Michael | title = Diary | editor = T. Martin | year = 1932–1936 }} - ファラデーの日記(全8巻)
* {{Cite book| author = Faraday, Michael | title = Curiosity Perfectly Satisfyed: Faraday's Travels in Europe 1813-1815 | editor = B. Bowers and L. Symons | publisher = Institution of Electrical Engineers | year = 1991}}
* {{Cite book| author = Faraday, Michael | title = The Correspondence of Michael Faraday | year = 1991 | volume = 1 | publisher = INSPEC, Inc. | location = | url = | editor = F. A. J. L. James}} - volume 2, 1993; volume 3, 1996; volume 4, 1999
* {{Cite book| author = Faraday, Michael | title = Michael Faraday's Mental Exercises: An Artisan Essay Circle in Regency London | editor = Alice Jenkins | publisher = Liverpool University Press | location = Liverpool, UK | year = 2008}}
* [http://www.archive.org/details/courseofsixlectu00fararich Course of six lectures on the various forces of matter, and their relations to each other] London ; Glasgow : R. Griffin, 1860.
* [http://www.archive.org/details/liquefactionofga00fararich The liquefaction of gases] Edinburgh: W. F. Clay, 1896.
* {{Citation |last=Faraday |first=Michael |last2=Schoenbein |first2=Christian Friedrich |title=The letters of Faraday and 1836-1862. With notes, comments and references to contemporary letters |publisher=Williams & Norgate |place= London |year=1899 |url= http://www.archive.org/details/lettersoffaraday00fararich }}

== 語録 ==
* 「自然の法則が一貫しているなら、これほど素晴らしいことはない。そんな中で実験はそのような一貫性を調べる最良の手段だ」<ref>ファラデーの日記の1849年3月19日の記述</ref>
* 「働きなさい。完成させなさい。出版しなさい」 — 若かりし[[ウィリアム・クルックス]]への助言
* [[来世]]について聞かれたときの言葉「憶測? 私には全くない。私は確信している」
* 「次の日曜日で70歳になるのだから、記憶力が衰えても不思議ではない。この70年間私は幸せだった。そして希望と満足感がある今も幸せだ」<ref>{{Harvnb|Faraday|Schoenbein|1899|p=349}} Christian Friedrich Schönbein への1861年9月19日付けの手紙。</ref>
* 「さらに試行せよ。何が可能かを知るために」ペンシルベニアの [[:en:Ursinus College|Ursinus College]] の理学部のホール玄関に刻まれているファラデーの名言とされる言葉<ref>See [http://www.flickr.com/photos/monyca/17917765/in/pool-ursinus/ ''but still try'']</ref>。
* 「あなたが科学者の説を認めるならば、あなたは科学に大きな貢献をすることになるだろう。あなたがそれに対して『はい』とか『いいえ』と言うだけでも、将来の進歩を助けることになる。一部の人は自分の考えに固執して口にするのをためらうに違いない」<ref>{{Harvnb|Jones|1870|loc=2:389}}</ref>

[[ファイル:Faraday Michael grave.jpg|thumb|upright|right|150px|[[ハイゲイト墓地]]にあるファラデーの墓]]

== 脚注・出典 ==
{{Reflist}}

== 参考文献 ==
* {{Citation|last=Jones |first=Henry Bence |title = The Life and Letters of Faraday|year = 1870 |publisher = J. B. Lippincott and Company | place = Philadelphia | url = http://books.google.com/?id=YzuCdNmu5soC&printsec=frontcover&dq=Faraday }}
* {{Citation| last= Cantor |first=Geoffrey | title = Michael Faraday, Sandemanian and Scientist | year = 1991 | publisher = Macmillian | isbn = 0-333-55077}}
* {{Citation|last= Gladstone |first=J. H. |title = Michael Faraday |year = 1872 |publisher = Macmillan |place = London | url = http://books.google.com/?id=pbs4AAAAMAAJ&printsec=frontcover&dq=Faraday}}
* {{Citation|last= Hamilton |first=James |title = Faraday: The Life |year = 2002 |place = London |publisher = Harper Collins |isbn = 0-00-716376-2}}
* {{Citation| last= Hamilton |fisrt=James | title = A Life of Discovery: Michael Faraday, Giant of the Scientific Revolution | year = 2004 | place = New York| publisher = Random House | isbn = 1-4000-6016-8 }}
* {{Citation|last= Hirshfeld |first=Alan W. |title = The Electric Life of Michael Faraday |year = 2006 |publisher = Walker and Company |isbn = 978-0802714701 }}
* {{Citation|last=Thompson |first=Silvanus |title = Michael Faraday, His Life and Work |year = 1901 |publisher = Cassell and Company |place = London |isbn = 1-4179-7036-7 | url = http://books.google.com/?id=HKf5g3qYYz8C&printsec=frontcover&dq=Silvanus+Thompson+faraday }}
* {{Citation|last=Tyndall |first=John |title = Faraday as a Discoverer |year = 1868 |publisher = Longmans, Green, and Company |place= London | edition = |url = http://www.archive.org/details/faradayasdiscove00tyndrich}}
* {{Citation|fisrt= Williams, L. |last=Pearce |title = Michael Faraday: A Biography |year = 1965 |publisher = Basic Books |place = New York }}
* The British Electrical and Allied Manufacturers Association (1931). ''Faraday''. R. & R. Clark, Ltd., Edinburgh, 1931.
* {{Citation|last= Agassi |first=Joseph |title = Faraday as a Natural Philosopher |year = 1971 |publisher = [[シカゴ大学出版局|University of Chicago Press]] | place = Chicago | isbn = }}
* {{Citation|last= Ames |first=Joseph Sweetman (Ed.) |title = The Discovery of Induced Electric Currents |volume = 2 |year = c1900 |publisher = American Book Company |place = New York | isbn = }}
* {{Citation|last= Gooding |first=David (Ed.) |title = Faraday Rediscovered: Essays on the Life and Work of Michael Faraday, 1791-1867 |year = 1985 |publisher = Macmillan/Stockton |place = London/New York | isbn = }}
* {{Citation|last= Thomas |first=John Meurig |title = Michael Faraday and the Royal Institution: The Genius of Man and Place |year = 1991 | publisher = Hilger|place = Bristol |isbn = 0-7503-0145-7}}
* {{Citation|last=Russell |first= Colin A. (Ed. Owen Gingerich) |title = Michael Faraday: Physics and Faith (Oxford Portraits in Science Series) |year = 2000 |publisher = [[オックスフォード大学出版局|Oxford University Press]] |place = New York |isbn = 0-19-511763-8}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[電磁誘導]]
* [[電磁誘導]]
*[[ファラデーの電磁誘導の法則]]
* [[ファラデーの電磁誘導の法則]]
*[[ファラデーの電気分解の法則]]
* [[ファラデーの電気分解の法則]]
*[[ファラデー定数]]
* [[ファラデー定数]]
*[[ファラデー効果]]
* [[ファラデー効果]]
*[[ファラデーケージ]]
* [[ファラデーケージ]]
*[[]]
* [[ファラド]]
* [[電気力線]]
* [[ゼーマン効果]]
* [[場]]
* [[ハンス・クリスティアン・エルステッド]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{wikisource author|Michael Faraday}}
* Michael Faraday, ''The Chemical History of a Candle'', [[プロジェクト・グーテンベルク]]. [http://www.gutenberg.org/etext/14474]
{{Commons|Michael Faraday}}
* マイケル・ファラデー 著, 山形浩生 訳, 『ロウソクの科学』, [[プロジェクト杉田玄白]]. [http://www.genpaku.org/candle01/]

=== 伝記 ===
* [http://www.rigb.org/rimain/heritage/faradaypage.jsp Biography at The Royal Institution of Great Britain]
* [http://www.gutenberg.org/etext/1225 Faraday as a Discoverer by John Tyndall, Project Gutenberg] (downloads)
* [http://www.asa3.org/ASA/PSCF/1991/PSCF6-91Eichman.html The Christian Character of Michael Faraday]
* [http://www-personal.umich.edu/~jbourj/money1.htm Michael Faraday on the British twenty-pound banknote]
* [http://www.archive.org/details/lifediscoverieso00crowrich The Life and Discoveries of Michael Faraday] by J. A. Crowther, London: Society for Promoting Christian Knowledge, 1920

=== その他 ===
* [http://journals.lww.com/anesthesiology/Abstract/1992/10000/Michael_Faraday_and_His_Contribution_to_Anesthesia.27.aspx Michael Faraday and His Contribution to Anesthesia] - 麻酔剤としてのエーテルの発表(1818年)
* [http://www.magnet.fsu.edu/education/tutorials/java/faradaymotor/index.html Interactive Java Tutorial on Faraday's 1821 Motor] National High Magnetic Field Laboratory
* [http://www.magnet.fsu.edu/education/tutorials/java/faradaypail/index.html Interactive Java Tutorial on Faraday's Ice Pail Experiment] National High Magnetic Field Laboratory
* [http://www.1911encyclopedia.org/Michael_Faraday "Faraday"] at LoveToKnow 1911 Britannica Online Encyclopedia
* {{gutenberg author | id=Michael_Faraday | name=Michael Faraday}} (downloads)

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2010年10月29日 (金) 23:53時点における版

マイケル・ファラデー
Thomas Phillips による肖像画(1841-1842)[1]
生誕 (1791-09-22) 1791年9月22日
イングランドの旗 サリー州 ニューイントン・バッツ
死没 1867年8月25日(1867-08-25)(75歳没)
イングランドの旗 サリー州 ハンプトン・コート
居住 イングランドの旗 イングランド
国籍 イギリスの旗 イギリス
研究分野 物理学化学
研究機関 王立研究所
主な業績 ファラデーの電磁誘導の法則
電気化学
ファラデー効果
ファラデーケージ
ファラデー定数
ファラデーカップ
ファラデーの電気分解の法則
電気力線
影響を
受けた人物
ハンフリー・デービー
William Thomas Brande
主な受賞歴 ロイヤル・メダル (1835 & 1846)
コプリ・メダル (1832 & 1838)
ランフォード・メダル (1846)
署名
プロジェクト:人物伝
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マイケル・ファラデーMichael Faraday, 1791年9月22日 - 1867年8月25日)は、イングランド人化学者物理学者(あるいは当時の呼称では自然哲学者)で、電磁気学および電気化学の分野での貢献で知られている。

概要

直流電流を流した電気伝導体の周囲の磁場を研究し、物理学における電磁場の基礎理論を確立。それを後にジェームズ・クラーク・マクスウェルが発展させた。同様に電磁誘導の法則反磁性電気分解の法則などを発見。磁性光線に影響を与えること、2つの現象が根底で関連していることを明らかにした[2][3]。電磁気を利用して回転する装置(電動機)を発明し、その後の電動機技術の基礎を築いた。それだけでなく電気を使ったテクノロジー全般が彼の業績から発展したものである。

化学者としては、ベンゼンを発見し、塩素の包接水和物を研究し、原始的な形のブンゼンバーナーを発明し、酸化数の体系を提案した。アノードカソード電極 (electrode)、イオンといった用語はファラデーが一般化させた。

ファラデーは高等教育を受けておらず、高度な数学もほとんど知らなかったが、史上最も影響を及ぼした科学者の1人とされている。科学史家[4]は彼を科学史上最高の実験主義者と呼んでいる[5]静電容量SI単位「ファラッド (F)」はファラデーに因んでいる。また、1モル電子の電荷に相当するファラデー定数にも名を残している。ファラデーの電磁誘導の法則は、磁束の変化の割合と誘導起電力は比例するという法則である。

ファラデーは王立研究所の初代フラー教授職 (en) であり、亡くなるまでその職を務めた。

アルベルト・アインシュタインは壁にファラデー、ニュートンマクスウェルの絵を貼っていたという[6]

ファラデーは信心深い人物で、1730年に創設されたキリスト教徒の一派であるサンデマン派に属していた。伝記作者は「神と自然の強い一体感がファラデーの生涯と仕事に影響している」と記している[7]

前半生

ジョージ3世時代の1791年に、ニューイントン・バッツ[8]で生まれる。現在のサザク・ロンドン特別区の一部だが、当時はサリーの一部でロンドン橋から南に1マイルほどの場所だった[9]。一家は決して順調ではなかった。父ジェームズはサンデマン派信者で、妻と2人の子をかかえて1791年にウェストモーランド(現在のカンブリア)のアスギルという小さな村からロンドンに出てきた。その村では鍛冶屋の見習いをしていた[10]。マイケルが生まれたのはその年の秋である。マイケルは4人兄弟の3番目で、学校にはほとんど通っていない[11]。14歳のとき、近所で製本業と書店を営んでいた George Riebau のところに年季奉公に入った[12]。7年間の奉公の間に多数の本を読んだ。中にはアイザック・ウォッツThe Improvement of the Mind もあり、彼はその中に書かれていた主義と提案を熱心に実践した。多数の本を読むうちに科学への興味が強まり、特に電気に興味を持つようになった。特に影響された本としてジェーン・マーセットConversations on Chemistry があった[13]またファラデーと同じく見習いで働いていた画家の卵マスケリエはファラデーにデッサンを教えた。そのためファラデーは絵が非常に上手く、科学系の本にある実験装置などを正確に書き写したといわれている[要出典]

1812年、20歳となり年季奉公の最後の年となったファラデーは、John Tatum の創設した City Philosophical Society の会合で勉強するようになった。また、当時のイギリスで有名だった化学者ハンフリー・デービーの講演を何度も聴講した。その入場券はロイヤル・フィルハーモニック協会の創設者の1人 William Dance がファラデーに与えたものだった。ファラデーは300ページにもなったデービーの講演の際につけたノートをデービーに送った。それを見て感心したデービーは、すぐさま好意的な返事をした。ファラデーが科学の道を歩みたいと言ったところ「科学は苦労の連続である。今は何の仕事もない。もしあったら連絡する」といわれ、ファラデーは落胆した。しかしその後、デービーは塩化窒素の実験中の事故で目を負傷し、ファラデーを秘書として雇うことにした。王立研究所の助手の1人が解雇されると、ハンフリー・デービーは代わりを捜すよう依頼され、1813年3月1日、ファラデーは王立研究所の化学助手となった[2]

当時の階級社会で彼は紳士とはみなされなかった。デービーが1813年から1815年まで長いヨーロッパ旅行に出かけることになったが、彼の従者は一緒に行くことを拒んだ。ファラデーは実験助手として同行し、パリで従者の代わりを見つけるまでは従者の役も果たすことを依頼された。結局ファラデーは旅行が終わるまで助手兼従者として働くことになった。裕福な家の出だったデービー夫人はファラデーを低く扱い、一緒に社交に出ることを拒んだと言われている(馬車の御車席に座らせ、食事も使用人と一緒)。この扱いにファラデーは落胆し、イギリスに戻ったら科学の道をあきらめようと考えたという。ただしファラデー自身は上流階級になろうという意欲は薄く、後にナイトに叙せられる話があった時も断ったとされる。この旅行でファラデーはヨーロッパの有名な科学者らと出会い、アイデアを刺激された[2]

ファラデーは敬虔なキリスト教徒だった。彼の属するサンデマン派はスコットランド国教会の分派である。結婚後しばらくして輔祭を務めるようになり、若いころ過ごした集会所の長老を2期務めた。その集会所は1862年にイズリントンに移転しており、2期目はこちらで務めた[14]

1821年6月12日、サラ・バーナード (1800–1879) と結婚したが[15]、子供はできなかった[8]。2人はサンデマン派の教会で家族を介して知り合った。

業績

化学

1850年ごろの研究室で作業中のファラデー。作者の Harriet Jane Moore はファラデーの生活を水彩画で描いた。
テトラクロロエチレン分子

ファラデーの初期の化学の業績は、ハンフリー・デービーの助手としてのものだった。特に塩素を研究し、2種類の新たな炭素塩化物を発見した。また、ジョン・ドルトンが指摘した現象である気体の拡散に関する初期の実験も行ったが、その物理的重要性をより完全に明確化したのはトーマス・グレアムヨハン・ロシュミットである。いくつかの気体の液化に成功した。また、合金を調べたり、光学向けの新たなガラスを作ったりしている。後にそれらのガラスは、磁場中に置くと通過する光の偏光面を回転させるという発見に役立ったこと、および磁石の極と反発する反磁性体だと判明したことで歴史的に重要となった。また、化学の一般的手法の確立にも貢献している。

ファラデーはまた、後にブンゼンバーナーと呼ばれ実験用に広く使われるようになった熱源装置の原型を発明した[16][17]。ファラデーは化学の幅広い分野で活動し、1823年に塩素の液化に成功し、1825年にはベンゼンを発見している。気体の液化は気体が単に沸点の低い液体の蒸気に過ぎないという認識の確立に役立ち、分子凝集の概念により確かな基盤を与えることになった。1820年、ファラデーは炭素と塩素で構成される化学物質 C2Cl6C2Cl4 を初めて合成したことを報告し[18][19][20]、翌年公表している。また、ハンフリー・デービーが1810年に発見した塩素の包接水和物の構成を特定した[21][22]

1833年、電気分解の法則を発見し、アノードカソード電極 (electrode)、イオンといった用語を定着させた。これらの用語の多くはウィリアム・ヒューウェルが考案したものである。

また、後に金属ナノ粒子と呼ばれることになるものについて初めて報告している。1847年、金コロイドの光学特性が金塊のそれと異なることを発見した。これは量子サイズの現象の最初の観察報告と見られ、ナノ科学の誕生と言えなくもない[23]

電気と磁気

中でも電磁気学の研究は素晴らしく、後のマクスウェルによる電磁方程式の確立に多大な影響を与えた。

ファラデーは特に電気と磁気の研究でよく知られている。彼が記録している最初の実験は、7枚の半ペニー貨と7枚の亜鉛シートに6枚の塩水を浸した紙を挟んで積み上げたボルタ電池を作ったことだった。この電池を使って硫酸マグネシウムを電気分解している(1812年7月12日付けのAbbottへの手紙に記述がある)。

ボルタ電池
電磁力による回転実験(1821年ごろ)[24]
ソレノイド

デンマークの科学者ハンス・クリスティアン・エルステッドが電気と磁気の関係を示す現象を発見すると、1821年にデービーとウイリアム・ウォラストン電動機を作ろうとしたが失敗した[3]。ファラデーは2人とその問題について話し合い、電磁回転 (electromagnetic rotation) と名付けた動きを生じる2つの装置を作り上げた。1つは水銀を入れた皿の中央に磁石を立て、上から水銀に浸るように針金をたらし、その針金と水銀を通るように電流を流すと、電流によって生じた磁場が磁石の磁場と反発して針金が磁石の周囲を回転し続けるというものである。もう1つは単極電動機と呼ばれるもので、逆に磁石側が針金の周りを回るようになっていた。それらの実験と発明が現代の電磁技術の基礎を築いた。この成果に興奮したファラデーはデービーやウォラストンの許可を得ずに、それを公表した。

これに怒ったデービーとファラデーの関係が悪化し、デービーは電磁気以外の研究をファラデーに押し付け、数年間電磁気研究から遠ざけたと見られている[25][26]。デービーはファラデーが王立協会の会員になることを猛烈に反対し、自分が見出したファラデーの頭角に嫉妬を抱き始めていた。しかし、ファラデーの友人の推薦により、協会員に選ばれた。また、デービーはウィリアム・ウォラストン自身が否定しているに関わらず、ファラデーを「ウォラストンの研究を盗んだ」と非難したりもした。もっとも、デービーは「私の最大の発見はファラデーである」という言葉を残している。小学校しか卒業してない製本屋の見習いが19世紀最大の科学者と言われるようになったことを考えると、この言葉は正鵠を射ているといえる。

1824年、ファラデーは導線を流れる電流を外部の磁場によって調節可能かどうかを研究すべく簡単な回路を製作したが、そのような現象は見つけられなかった[27]。3年前、同じ実験室で光が磁場に影響されるかを実験しており、そのときも何も見つけられなかった[28][29]。その後7年間は光学用ガラス(鉛を加えたホウケイ酸ガラス)の製法を完成させることに費やし[30]、後の研究でそれが光と磁気の関係の研究に役立つことになった[31]。光学の仕事以外の時間を使って電磁気を含む実験の論文を書いて公表し、デービーとのヨーロッパ旅行で出会った海外の科学者とも文通した[32]。デービーの死から2年後の1831年、ファラデーは一連の重要な実験を行い、電磁誘導を発見した。わずか数カ月前にジョゼフ・ヘンリーも発見しているが、2人に先行してイタリアのフランセスコ・ツァンテデシが1829年と1830年に同様の論文を発表していた[33]

電気化学の祖とされるイギリスの化学者ジョン・ダニエル(左)とファラデー(右)

他の科学者たちが電磁気現象を力学における遠隔力と考えていたのに対して、ファラデーは空間における電気力線磁力線という近接作用的概念から研究している。ファラデーの突破口は、鉄の環に絶縁された導線を巻きつけてコイルを2つ作ったことであり、一方のコイルに電流を流すともう一方のコイルに瞬間的に電流が流れることを発見した[3]。この現象を相互誘導と呼ぶ。この鉄の環のコイルは今も王立研究所に展示されている。その後の実験で、空芯のコイルの中で磁石を動かしても電流が流れることを発見した。また、磁石を固定して導線の方を動かしても電流が流れることを発見。これらの実験で、磁場の変化によって電場が生ずることが明らかとなった。このファラデーの電磁誘導の法則は後にジェームズ・クラーク・マクスウェルが数理モデル化し、4つのマクスウェルの方程式の1つとなった。そして、さらに一般化され場の理論となっている。

ファラデーは後にこの原理を使って原始的な発電機を製作している。

1839年、電気の基本的性質を明らかにする一連の研究を完成させた。ファラデーは「静電気」、電池、「動物電気」を使い、静電気による誘引現象、電気分解電磁気学などの現象を生み出した。彼は、当時の科学界で常識だったこれらの電気の種類の違いは存在しないと結論付けた。そして電気は一種類だとし、強さや量(電圧と電流)の違いが様々な現象を引き起こすとした[3]

後年ファラデーは電磁力が電気伝導体の周囲の空間に及んでいるという説を提案した。しかし他の科学者はその考え方を拒絶し、ファラデーの存命中は認められなかった。ファラデーの帯電した物体や磁石から磁力線が出ているという概念は、電磁場の視覚化手段を提供した。このモデルは19世紀後半の産業を支配した電気機械式装置の開発にとってきわめて重要となった。

反磁性

1845年の実験で使ったガラス棒を手にしたファラデー。その実験で誘電体中の光が磁場の影響を受けることを示した。[34]

1845年、ファラデーは多くの物質が磁場に対して弱く反発することを発見し、その現象を反磁性 (diamagnetism) と名付けた。

また、光の進む方向にそって印加された電磁場によって直線偏光の偏光面が回転することを発見。これをファラデー効果と呼ぶ。ファラデーのノートには「私はついに磁気の曲線または「力の線」を解明し、光線を磁化することに成功した」と記してある。

晩年(1862年)、磁場によって光のスペクトルが変化するのではないかと考え、分光器を使って実験している。しかしファラデーが使っていた機器ではスペクトルの変化を捉えることはできなかった。同じ現象を後にピーター・ゼーマンが改良された機器で研究し、1897年に公表、1902年にノーベル物理学賞を受賞することになった。1897年の論文でも[35]、ノーベル賞講演でも[36]、ゼーマンはファラデーの業績に言及している。

ファラデーケージ

外部の電場が電荷の配置を変化させ、それによって電場が打ち消される。

静電気を研究する中で、ファラデーは帯電した導体では電荷がその表面にしかないことを示し、それら電荷は導体内部の空間には何も影響を及ぼさないことを証明した。これは電荷が内部の電場を打ち消すように分布するためである。この電場を遮蔽する効果を使ったものをファラデーケージと呼ぶ。

ファラデーは優秀な実験主義者であり、明快かつ簡潔な言葉で考えを伝えた。しかし、数学の知識は乏しかった。そのため電磁誘導の法則を自分で定式化できず、ジェームズ・クラーク・マクスウェルらが定式化することになった。またファラデーの電気力線の使用についてマクスウェルは、ファラデーが高水準の数学者にも匹敵する思考の持ち主であり、将来の数学者はファラデーの業績から様々な貴重な方法を引き出すことができるだろうと述べている[37]

王立研究所と研究以外の業績

テムズ川の主と出会ったファラデー(1855年7月21日のパンチ誌の風刺画)
1800年代中ごろの灯台の灯室

1824年には王立協会フェローに選ばれ[8]、1825年にはデービーの後をついで英国王立実験所長となった。1933年、ファラデーは王立研究所の初代フラー教授職に就任した。John 'Mad Jack' Fuller の後援によって創設された化学の教授職であり、名誉職であって講義を行う義務はない。

王立研究所での化学や電磁気学の研究以外に、ファラデーは民間企業やイギリス政府に依頼された仕事に時間を割いた。例えば、炭鉱での爆発事故の調査、法廷での専門家証人、高品質な光学ガラスの成分検討などである。1846年、ハスウェルの炭鉱で95人が死亡した爆発事故を調査し、チャールズ・ライエルと共に詳細な報告書を提出した。その報告書は法科学的にしっかりしており、石炭の粉塵が爆発の威力を増加させたとしていた。しかし、炭塵爆発への対策は1913年に別の炭鉱で大事故が発生するまでなされなかった。

海洋国家でもあるイギリスの有名な科学者として、ファラデーは灯台建設や運用、船底の腐食を防止するプロジェクトなどにも時間を割いた。

ファラデーは今では環境学と呼ばれる分野でも活躍した。スウォンジでの工場による汚染を調査し、造幣所での大気汚染について助言したりしている。1855年7月、タイムズ誌にテムズ川の汚染問題について手紙を送り、パンチ誌に風刺画が掲載されることになった。

1851年、ロンドンで開催された万国博覧会では、計画立案と評価に参加した。また、ナショナル・ギャラリーでのコレクションのクリーニングと保護についても助言し、1857年には同ギャラリー運営委員会の委員も務めた。

教育にも関与している。1854年、王立研究所で教育について講演し、1862年にはイギリスの教育政策についての持論を伝えるために公立学校委員会に出席した。また当時一般大衆の間で流行っていたこっくりさんや催眠術や降霊会には否定的立場で参加しており、教育に関しては政府に対しても大衆に対しても厳しかった[38]

ファラデーは一般向けの講演も多く行った。世界の優秀な科学者たちを集めた金曜講演(1825年より開始)、少年少女向きのクリスマス・レクチャー、有名なロウソクの科学などであり、今日まで続いているものも多い。ファラデーは1827年から1860年まで19回のクリスマス・レクチャーを行った。

晩年

晩年のファラデー
ファラデーのクリスマス・レクチャー (1856)

1832年6月、オックスフォード大学はファラデーに名誉博士号を授与した。ファラデーは終生ナイトの名誉を辞退し続け、王立協会会長職も2回辞退している。1838年、スウェーデン王立科学アカデミーの外国人会員に選ばれ、1844年にはフランス科学アカデミーの8人の外国人会員の1人に選ばれた[39]

1848年、アルバート王配殿下の申し出によりサリーハンプトン・コート宮殿に無料で住めるようになった。1858年に引退したファラデーは晩年をそこで過ごした[40]

クリミア戦争 (1853–1856) の際に政府から化学兵器を作ってもらえないかという要望がきたとき、倫理的な理由からこれを断わった[41]。彼は机をたたいてこう言ったという。「作ることは容易だ。しかし絶対に手を貸さない!」ファラデーが強い平和主義者だったことも伺える。

1867年8月25日、ハンプトン・コート宮殿内の自宅で椅子にもたれたまま、眠るようにして死去した[42]

生前ウェストミンスター寺院への埋葬を拒否していたが、アイザック・ニュートンの墓のそばに記念銘板が設置された。遺体はハイゲイト墓地の非国教徒向けの区域に埋葬された。

記念

ロンドンのサボイ・プレイスにあるファラデー像(作 John Henry Foley

ロンドンのIET本部のそばのサボイ・プレイスにファラデーの像がある。同じくロンドンのエレファント・アンド・キャッスルのロータリーの中央にはブルータリズムの建築家 Rodney Gordon が設計し1961年に完成したマイケル・ファラデー記念館 (en) がある。ファラデーが生まれたニューイントン・バッツの近くである。同じく生誕地に近いウォルワースにはファラデーの名を冠した小さな公園がある。

ラフバラーのラフバラー大学には1960年にファラデーの名を冠したホールが建てられた。その食堂の入口付近に青銅製の変圧器の像があり、中にはファラデーの肖像がある。エディンバラ大学の理工系キャンパスにはファラデーの名を冠した5階建ての建物がある。ブルネル大学スウォンジー大学にもファラデーの名を冠した建物がある。また、イギリスはかつて Faraday Station という南極基地を運営していた。

ファラデーの名を冠した通りはイギリス各地(ロンドン、ファイフスウィンドンノッティンガムなど)にあり、フランス(パリ)やドイツ、カナダ、アメリカにもある。

1991年から2001年にかけて用いられた20UKポンド紙幣に肖像が描かれている。王立研究所で電磁スパーク装置を使った講演中の様子が描かれている[43]

著作

Chemical Manipulation 以外のファラデーの本は学術論文や講義録を集めたものである[44]。死後、ファラデーの日記、大量の書簡、1813年から1815年のデービーとの旅行の記録も出版された。

語録

  • 「自然の法則が一貫しているなら、これほど素晴らしいことはない。そんな中で実験はそのような一貫性を調べる最良の手段だ」[45]
  • 「働きなさい。完成させなさい。出版しなさい」 — 若かりしウィリアム・クルックスへの助言
  • 来世について聞かれたときの言葉「憶測? 私には全くない。私は確信している」
  • 「次の日曜日で70歳になるのだから、記憶力が衰えても不思議ではない。この70年間私は幸せだった。そして希望と満足感がある今も幸せだ」[46]
  • 「さらに試行せよ。何が可能かを知るために」ペンシルベニアの Ursinus College の理学部のホール玄関に刻まれているファラデーの名言とされる言葉[47]
  • 「あなたが科学者の説を認めるならば、あなたは科学に大きな貢献をすることになるだろう。あなたがそれに対して『はい』とか『いいえ』と言うだけでも、将来の進歩を助けることになる。一部の人は自分の考えに固執して口にするのをためらうに違いない」[48]
ハイゲイト墓地にあるファラデーの墓

脚注・出典

  1. ^ See National Portrait gallery NPG 269
  2. ^ a b c Michael Faraday entry at the 1911 Encyclopaedia Britannica hosted by LovetoKnow Retrieved January 2007.
  3. ^ a b c d "Archives Biographies: Michael Faraday", The Institution of Engineering and Technology.
  4. ^ Russell, Colin (2000). Michael Faraday: Physics and Faith. New York: Oxford University Press 
  5. ^ "best experimentalist in the history of science." Quoting Dr Peter Ford, from the University of Bath’s Department of Physics. Accessed January 2007.
  6. ^ "Einstein's Heroes: Imagining the World through the Language of Mathematics", by Robyn Arianrhod UQP, reviewed by Jane Gleeson-White, 10 November 2003, The Sydney Morning Herald.
  7. ^ Baggott, Jim (2 September 1991). “The myth of Michael Faraday: Michael Faraday was not just one of Britain's greatest experimenters. A closer look at the man and his work reveals that he was also a clever theoretician”. New Scientist. http://www.newscientist.com/article/mg13117874.600-the-myth-of-michael-faraday-michael-faraday-was-not-justone-of-britains-greatest-experimenters-a-closer-look-at-the-man-and-hiswork-reveals-that-he-was-also-a-clever-theoretician-.html 2008年9月6日閲覧。. 
  8. ^ a b c Frank A. J. L. James, ‘Faraday, Michael (1791–1867)’, Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, Sept 2004; online edn, Jan 2008 accessed 3 March 2009
  9. ^ ファラデーの幼少期を含む生涯の簡潔な説明として次がある。
    EVERY SATURDAY: A JOURNAL OF CHOICE READING, Vol III published at Cambridge in 1873 by Osgood & Co., pp.175-83
  10. ^ これの意味するところは、ジェームズがサンデマン派信者のつながりから職を得たということである。ジェームズは1791年2月20日にロンドンのサンデマン派の集会に参加し、その後すぐに住居を見つけて引っ越している。詳しくは Cantor 1991, pp. 57–8
  11. ^ "Michael Faraday." History of Science and Technology. Houghton Mifflin Company, 2004. Answers.com 4 June 2007
  12. ^ Plaque#19 on Open Plaques
  13. ^ John H. Lienhard (1992). "Jane Marcet's Books". The Engines of Our Ingenuity. Episode 744. NPR. KUHF-FM Houstonhttp://www.uh.edu/engines/epi744.htm {{cite episode}}: |access-date=を指定する場合、|url=も指定してください。 (説明); |transcripturl=に対応するタイトル引数を入力してください。 (説明)
  14. ^ Cantor 1991, pp. 41–43, 60–4, 277–80
  15. ^ Cantor 1991, p. 59
  16. ^ Jensen, William B. (2005). “The Origin of the Bunsen Burner” (PDF). Journal of Chemical Education 82 (4). http://pubs.acs.org/doi/abs/10.1021/ed082p518. 
  17. ^ Faraday 1827, p. 127
  18. ^ Faraday, Michael (1821). “On two new Compounds of Chlorine and Carbon, and on a new Compound of Iodine, Carbon, and Hydrogen”. Philosophical Transactions 111: 47. doi:10.1098/rstl.1821.0007. 
  19. ^ Faraday 1859, pp. 33–53
  20. ^ Pearce 1965, pp. 122–123
  21. ^ Faraday, Michael (1823). “On Hydrate of Chlorine”. Quartly Journal of Science 15: 71. 
  22. ^ Faraday 1859, pp. 81–84
  23. ^ The Birth of Nanotechnology”. Nanogallery.info (2006年). 2007年7月25日閲覧。 “"Faraday made some attempt to explain what was causing the vivid coloration in his gold mixtures, saying that known phenomena seemed to indicate that a mere variation in the size of gold particles gave rise to a variety of resultant colors."”
  24. ^ Faraday & 1839, 1844, vol ii, plate 4
  25. ^ Hamilton 2004, pp. 165–71, 183, 187–90
  26. ^ Cantor 1991, pp. 231–3
  27. ^ Thompson 1901, p. 95
  28. ^ Thompson 1901, p. 91
  29. ^ Cantor 1991, p. 233
  30. ^ Thompson 1901, pp. 95–98
  31. ^ Thompson 1901, p. 100
  32. ^ Cantor 1991, pp. 235–44 日記でわかるように、ファラデーはアンペール、アラゴ、エルステッドらの研究の進行状況に大きく影響されている。
  33. ^ Brother Potamian (1913年). “Francesco Zantedeschi article at the Catholic Encyclopedia”. Wikisource. 2007年6月16日閲覧。
  34. ^ 1857年ごろ撮影された写真をベースとした版画。詳しくは National Portrait Gallery, UK
  35. ^ Zeeman, Pieter (1897). “The Effect of Magnetisation on the Nature of Light Emitted by a Substance”. Nature 55: 347. doi:10.1038/055347a0. 
  36. ^ Pieter Zeeman, Nobel Lecture”. 2008年5月29日閲覧。
  37. ^ The Scientific Papers of James Clerk Maxwell Volume 1 page 360; Courier Dover 2003, ISBN 0486495604
  38. ^ See The Illustrated London News, July 1853, for Faraday's comments.
  39. ^ Gladstone 1872, p. 53
  40. ^ Twickenham Museum on Faraday and Faraday House, Accessed June 2006
  41. ^ Croddy, Eric; Wirtz, James J. (2005). Weapons of Mass Destruction: An Encyclopedia of Worldwide Policy, Technology, and History. ABC-CLIO. pp. Page 86. ISBN 1851094903. http://books.google.com/?id=ZzlNgS70OHAC&pg=PA86&lpg=PA86&dq=Faraday++chemical+weapons+Crimean+War 
  42. ^ Plaque#2429 on Open Plaques
  43. ^ Withdrawn banknotes reference guide”. Bank of England. 2008年10月17日閲覧。
  44. ^ Hamilton 2004, p. 220
  45. ^ ファラデーの日記の1849年3月19日の記述
  46. ^ Faraday & Schoenbein 1899, p. 349 Christian Friedrich Schönbein への1861年9月19日付けの手紙。
  47. ^ See but still try
  48. ^ Jones 1870, 2:389

参考文献

関連項目

外部リンク

伝記

その他

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