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'''丹下 健三'''(たんげ けんぞう、[[1913年]][[9月4日]] - [[2005年]][[3月22日]])は[[日本]]の[[建築家]]、[[都市計画家]]、[[大阪府]]出身。「世界の丹下」と言われ、[[日本人]]建築家として最も早く国外でも活躍し、認知された一人。[[第二次世界大戦]]復興後から[[高度経済成長期]]にかけて、多くの国家プロジェクトを手がける。
'''丹下 健三'''(たんげ けんぞう、[[1913年]][[9月4日]] - [[2005年]][[3月22日]])は[[日本]]の[[建築家]]、[[都市計画家]]、[[大阪府]]出身。「世界のタンゲ」と言われ、[[日本人]]建築家として最も早く日本国外でも活躍し、認知された一人。[[第二次世界大戦]]復興後から[[高度経済成長期]]にかけて、多くの国家プロジェクトを手がける。
また[[磯崎新]]、[[黒川紀章]]、[[槇文彦]]、[[谷口吉生]]などの世界的建築家を育成した。[[従三位]][[勲等|勲一等]][[瑞宝章]]、[[文化勲章]]受章。フランス政府より[[レジオンドヌール勲章]]受章。[[カトリック教会|カトリック]]教徒(洗礼名:ヨセフ)。
また[[磯崎新]]、[[黒川紀章]]、[[槇文彦]]、[[谷口吉生]]などの世界的建築家を育成した。[[従三位]][[勲等|勲一等]][[瑞宝章]]、[[文化勲章]]受章。フランス政府より[[レジオンドヌール勲章]]受章。[[カトリック教会|カトリック]]教徒(洗礼名:ヨセフ)。


== 年譜 ==
== 年譜 ==
*[[1913年]] [[大阪府]][[堺市]]に生まれる。[[住友銀行]]社員であった父の転勤によって生後まもなく[[中国]]の[[漢口]]へ、数年後さらに[[上海市|上海]]の[[イギリス]][[租界]]に移り住む。
*[[1913年]] 丹下辰世(ときよ)、テイ(禎・禎子)の三男<ref group="注">先妻との間に2男1女があり、先妻の病没後に後添えとして入って2男2女をもうけたテイにとっては、第2子にして初めての男子にあたる。</ref>[[大阪府]][[堺市]]に生まれる。[[住友銀行]]社員であった父の転勤によって生後まもなく[[中国]]の[[漢口]]へ、数年後さらに[[上海市|上海]]の[[イギリス]][[租界]]に移り住む。
*[[1918年]] 上海日本人・尋常小学校入学。
*[[1918年]] 上海日本人・尋常小学校入学。
*[[1920年]] 父の出身地である[[愛媛県]][[今治市]]に家族で帰郷し、今治の第二尋常小学校に編入。
*[[1920年]] 父の出身地である[[愛媛県]][[今治市]]に家族で帰郷し、今治の第二尋常小学校に編入。
*[[1926年]] 旧制今治中学(現[[愛媛県立今治西高等学校|今治西高校]])入学。
*[[1926年]] 旧制今治中学(現[[愛媛県立今治西高等学校|今治西高校]])入学。
*[[1930年]] 今治中学四年修了([[飛び級]])で[[広島高等学校 (旧制)|旧制広島高校]](現[[広島大学]])理科甲類に進学。同校図書室で見た[[ル・コルビュジエ]]の著書に感銘を受け建築家を志す。ル・コルビュジエを通して一時傾倒していた[[マルクス主義]]から[[実存主義]]に転向する。
*[[1930年]] 今治中学四年修了([[飛び級]])で[[広島高等学校 (旧制)|旧制広島高校]](現[[広島大学]])理科甲類に進学。同校図書室で見た[[ル・コルビュジエ]]の外国雑誌記事に感銘を受け建築家を志す。ル・コルビュジエを通して一時傾倒していた[[マルクス主義]]から[[実存主義]]に転向する。
*[[1935年]] [[東京大学|東京帝国大学]](現[[東京大学]])工学部建築科に入学。[[内田祥三]]、[[岸田日出刀]]、[[武藤清]]に師事。1学年上に[[立原道造]]が在籍していた。
*[[1935年]] [[東京大学|東京帝国大学]](現[[東京大学]])工学部建築科に入学。[[内田祥三]]、[[岸田日出刀]]、[[武藤清]]に師事。1学年上に[[立原道造]]が在籍していた。
*[[1938年]] 東京帝国大学工学部建築科卒業後、[[前川國男]]建築事務所に入所。当時の担当作品に岸記念体育館があるが現存しない。
*[[1938年]] 東京帝国大学工学部建築科より辰野賞を受賞。東京帝国大学工学部建築科卒業後、[[前川國男]]建築事務所に入所。当時の担当作品に岸記念体育館があるが現存しない。
*[[1941年]] 東京帝国大学大学院に入学。
*[[1941年]] 東京帝国大学大学院に入学。
*[[1942年]] 大東亜建設記念造営計画設計競技に1等入選。
*[[1942年]] 大東亜建設記念造営計画設計競技に1等入選。
*[[1946年]] 東京帝国大学大学院修了後、同大学建築科助教授に就任。いわゆる「丹下研究室」を作る。
*[[1946年]] 東京帝国大学大学院修了後、同大学建築科助教授に就任。いわゆる「丹下研究室」を作る。
*[[1951年]] [[CIAM|CIAM(国際近代建築会議)]]に招かれ、[[ロンドン]]で[[広島平和記念公園|広島計画]]を発表。初めての海外旅行となる。
*[[1951年]] [[CIAM|CIAM(国際近代建築会議)]]に招かれ、[[ロンドン]]で[[広島平和記念公園|広島計画]]を発表。初めての海外旅行となる。
*[[1954年]] 日本建築学会作品賞(愛媛県民館)。以後同賞受賞がつづく([[1955年]]図書印刷原町工場、[[1958年]]倉吉市庁舎)。
*[[1958年]] アメリカ建築家協会(AIA)第1回汎太平洋賞受賞。
*[[1959年]] 東京大学より工学博士の学位を受ける。博士論文は「大都市の地域構造と建築形態」。
*[[1963年]] 新設された[[東京大学工学部]][[都市工学科]]教授に就任。
*[[1963年]] 新設された[[東京大学工学部]][[都市工学科]]教授に就任。
*[[1965年]] 日本建築学会特別賞(国立屋内総合競技場)。
*[[1965年]] [[RIBAゴールドメダル]]受賞。
*[[1966年]] [[AIAゴールドメダル]]受賞。
*[[1966年]] [[AIAゴールドメダル]]受賞。
*[[1970年]] ローマ法王庁聖グレゴリオ大勲章受章。
*[[1974年]] 東京大学を定年退官、名誉教授となる。
*[[1974年]] 東京大学を定年退官、名誉教授となる。
*[[1980年]] [[文化勲章]]受章。
*[[1980年]] [[文化勲章]]受章。
*[[1986年]] 日本建築学会大賞(日本における現代建築の確立と国際的発展への貢献)。
*[[1987年]] [[プリツカー賞]]受賞。
*[[1987年]] [[プリツカー賞]]受賞。
*[[1993年]] [[高松宮殿下記念世界文化賞]]建築部門受賞。
*[[1993年]] [[高松宮殿下記念世界文化賞]]建築部門受賞。
*[[1994年]] [[勲一等]][[瑞宝章]]受章。
*[[1994年]] [[勲一等]][[瑞宝章]]受章。
*[[1996年]] [[レジオンドヌール勲章]]受章。
*[[2005年]] 3月22日死去。享年91。[[従三位]]。
*[[2005年]] 3月22日死去。享年91。[[従三位]]。


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<!--掲載画像のサイズは200pxに統一、1955-1969年までの建築された順番で掲載-->
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|画像1=Hiroshima Peace Memorial Museum 2008 02.JPG
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|説明1=広島平和記念資料館 1955
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|説明4=山梨文化会館 1967
|説明4=山梨文化会館 1967
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|説明5=東京都庁舎第一本庁舎 1991
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[[1939年]]、丹下は雑誌『現代建築』に論文「[[ミケランジェロ]]頌 ― ル・コルビュジエ論への序説として 」を発表し、つづく[[1941年]]に前川国男建築設計事務所で岸記念体育会館<ref>[[岸記念体育会館|代々木にある同名の建物]]とは別物であり、現存しない。</ref>の設計を担当するも、その名が一躍世に知られるようになったのは、[[1942年]]の大東亜建設記念営造計画<ref>大東亜建設記念営造計画は誤って「造営」と表記される事も多いが、正しくは「営造」である。'''像情報:外部リンク参照'''</ref>[[建築設計競技|コンペ]]と、それに立て続いて一等入選を果たした、1943年の在盤谷日本文化会館計画コンペによってであった。
[[1939年]]、丹下は雑誌『現代建築』に論文「[[ミケランジェロ]]頌-ル・コルビュジエ論への序説として-」<ref group="注">正確なタイトル名は「MICHELANGERO頌-Le Corbusier論への序説として-である。</ref>を発表し、つづく[[1941年]]に前川国男建築設計事務所で岸記念体育会館<ref group="注">[[岸記念体育会館|代々木にある同名の建物]]とは別物であり、現存しない。正確には、岸田日出刀設計顧問、前川國男建築設計事務所設計監理であるが、実際に設計を担当したのは丹下健三である。[[#丹下健三・藤森照信2002|丹下健三・藤森照信 2002]]、67頁。事実、発表に当たって前川と共に丹下の名前も並記されている。[[#Casa BRUTUS 2009|Casa BRUTUS 2009]]、84頁。</ref>の設計を担当するも、その名が一躍世に知られるようになったのは、[[1942年]]の大東亜建設記念営造計画<ref group="注">大東亜建設記念営造計画は誤って「造営」と表記される事も多いが、正しくは「営造」である。なお大東亜建設記念営造計案と広島計画との比較はこちらを参照されたい。→[http://blogs.yahoo.co.jp/ekusnnok/22516404.html] [http://wave.ap.teacup.com/yumoku/3.html]</ref>[http://artstudy.exblog.jp/3582481/][[建築設計競技|コンペ]]と、それに立て続いて一等入選を果たした、[[1943年]]の在盤谷日本文化会館計画コンペによってであった。


特に大東亜建設記念営造物コンペの丹下案「大東亜道路を主軸としたる記念営造計画 ― 主として大東亜建設忠霊神域計画」は、[[横山大観]]風の日本画を想わせるパースペクティブ(透視図)ともあいまって、建築学会の若手を対象にした懸賞行事で、本来実施案となり得ないこの地味なコンペをして、人々の記憶に後世まで留められることとなった。
特に大東亜建設記念営造物コンペの丹下案「大東亜道路を主軸としたる記念営造計画-主として大東亜建設忠霊神域計画-」は、[[横山大観]]風の日本画を想わせるその[[パースペクティブ]](透視図)ともあいまって、本来建築学会の若手を対象にした懸賞行事でありそれゆえ到底実施案となり得ないこの地味なコンペをして、後世まで人々の記憶に留めさせることとなった<ref>[[#井上章一2006|井上章一2006]]、289-292頁。</ref>


同時期の大学院時代から戦後しばらくにかけては、主に[[都市計画]]の研究・業務に従事。人口密度や交通現象、都市デザイン等の研究を続け、それらの成果を戦後に建築学会で発表。[[1959年]]に学位論文「都市の地域構造と建築形態」まとめ上げる。また、1946年8月に東京大学助教授就任すると、[[福島市]]の依頼による福島地区都市計画(1947年)や[[立川基地]]跡地の文化都市計画、[[北海道]][[稚内市]]の都市計画(1950年から1952年まで)などを手がけていく。その間1948年には「建築をめぐる諸問題」、また二年後の1950年には、[[経済安定本部]]資源調査会事務局地域計画班の依頼による「地域計画の理論」という2つの計画関連の研究小論文を執筆しているほか、戦災復興事業の一環で行われた東京都都市計画コンペや文教都市計画、1947年から[[戦災復興院]](後の[[建設省]]。現[[国土交通省]])による各地の[[戦災復興都市計画]]に参加していく。当初は群馬県前橋市と伊勢崎市を担当した。
同時期の大学院時代から戦後しばらくにかけては、主に[[都市計画]]の研究・業務に従事。人口密度や交通現象、都市デザイン等の研究を続け、それらの成果を戦後に建築学会で発表。のちに[[1959年]]に学位論文「都市の地域構造と建築形態」としてまとめ上げる。また、[[1946年]]8月に東京大学助教授就任すると、[[福島市]]の依頼による福島地区都市計画([[1947]])や[[立川基地]]跡地の文化都市計画、[[北海道]][[稚内市]]の都市計画([[1950]]から[[1952年]]まで)などを手がけていく。その間[[1948年]]には「建築をめぐる諸問題」、また二年後の[[1950年]]には、[[経済安定本部]]資源調査会事務局地域計画班の依頼による「地域計画の理論」という2つの計画関連の研究小論文を執筆しているほか、戦災復興事業の一環で行われた東京都都市計画コンペや文教都市計画、[[1947年]]から[[戦災復興院]](後の[[建設省]]。現[[国土交通省]])による各地の[[戦災復興都市計画]]に参加していく。当初は群馬県前橋市と伊勢崎市を担当した。


父危篤の知らせにより帰郷の途にあり、今治の空襲で母った[[1945年]][[8月6日]]丁度その日に、外国雑誌で[[ル・コルビュジエ]]の[[ソビエト・パレス]][http://www.arth.upenn.edu/spr01/282/w6c2i29.htm]計画案出逢い、建築家を志した想い出の地でもある[[広島]]が原爆の被災で壊滅的被害を受ける。その復興計画が[[戦災復興院]]で俎上にのぼっていることを知るに及んだ丹下は、残留放射能の危険性を心配される向きがあるにもかかわらず、志願して担当を申し出た[[1946年]]、[[浅田孝]]、[[大谷幸夫]]ら東大の研究室のスタッフとともに広島入りし、[[都市計画]]業務に従事した。その成果は、広島市主催の[[広島平和記念公園]]のコンペに参加した際、見事一位で入選という形で結実することとなった
広島に原爆が投下された[[1945年]][[8月6日]]には、父危篤の知らせを受けて帰郷の途にあり[[尾道]]にいたが焼け野原となって跡形無くなてい実家に到着した翌日、父はすでに2日に他界しており<ref group="注">[[#丹下健三1997|丹下健三1997]]、41頁には「郷里から『チチシス』の電報が届いた。」との記述があるが、[[#丹下健三・藤森照信2002|丹下健三・藤森照信 2002]]、112頁の丹下のインタビューの言葉「8月の2かな、親父が今治で危篤だという知らせを受けまして」に従った。</ref>、また[[広島市への原爆投下|ヒロシマ]]と同じ6日の日に行なわれた[[今治市|今治]]への空襲によって、最愛の母をも同時に失っていたことを知らされる。壊滅的被害を受けた[[広島]]は、外国雑誌で[[ル・コルビュジエ]]の[[ソビエト・パレス]][http://www.arth.upenn.edu/spr01/282/w6c2i29.htm]計画案出逢い、建築家を志した想い出の地でもあった。その広島の復興計画が[[戦災復興院]]で俎上にのぼっていることを知るに及ん、残留放射能の危険性を心配されるにもかかわらず、丹下は志願して担当を申し出た<ref>[[#丹下健三1997|丹下健三1997]]、62頁。</ref>。[[浅田孝]]、[[大谷幸夫]]ら東大の研究室のスタッフとともに[[1946年]]の夏に広島入りし、[[都市計画]]業務に従事した。その成果は、広島市主催の[[広島平和記念公園]]のコンペに参加した際、見事一位で入選という形で結実する。


この平和記念公園のコンペでは、他の計画案が公園内のみを視野に入れた設計案にとどまったのに対して、丹下は広島市を東西に貫く[[平和大通り]]と直交する軸線上に慰霊碑と[[原爆ドーム]]を配したことが高評価理由である。広島の復興計画において、この市街地を貫く都市軸を通したで、戦後の広島市の骨格を作ったのは丹下であると言える。また、当時は単なる一廃墟に過ぎなかった原爆ドームを、ボル遺跡として発見したのは、丹下であると。事実、[[1966年]](昭和41年)7月の[[広島市議会]]において満場一致でその永久保存が決まるまで、「原爆による惨禍の証人として保存する」意見と「危険物であり、被爆の惨事を思い出したくないので取壊す」との意見の対立があった
他の計画案が公園内のみを視野に入れた設計案にとどまったのに対して、丹下は広島市を東西に貫く[[平和大通り]](幅員100m、長さ4Kmにわたる通称100メートル道路)と直交する南北軸線上に慰霊碑と[[原爆ドーム]]を配し、その計画案の都市的スケール、コンペで評価された理由である<ref>[[#丹下健三・藤森照信2002|丹下健三・藤森照信2002]]、139-143頁。</ref>。広島の復興計画において、この市街地を十字型に貫く都市軸を通したことで、戦後の広島市の骨格を作ったのは丹下であると言える<ref>[[#丹下健三・藤森照信2002|丹下健三・藤森照信2002]]、142-143頁。</ref>。またこれにより、当時は単なる一廃墟に過ぎなかった原爆ドームにスポットライト当て中心性を持った都市空間として広島を再建する上での、[[ラドマーク]]としての「原爆ドーム」を発見したのは、事実上、丹下であると言うことが出来<ref>[[#井上章一2006|井上章一2006]]、297-298頁。</ref>


実際、[[1966年|1966年(昭和41年)]]7月の[[広島市議会]]において、満場一致でその永久保存が決まるまで、「原爆による惨禍の証人として保存する」意見と、「危険物であり、被爆の惨事を思い出したくないので取壊す」との意見の対立があったのである<ref>[[#ヒロシマ・ナガサキ|ヒロシマ・ナガサキ]]、86頁。</ref>。しかしながら現在に至ってみれば、[[日清戦争]]当時[[大本営]]がおかれて臨時首都となり、明治以来、[[広島城]]を戴く広大な西練兵場を都心部に抱えた軍都として発展して来た[[廣島市]]<ref>[[#東琢磨2007|東琢磨2007]]、33-36頁。</ref>が、平和都市広島に生まれ変わるためには、広島城に代わる新たなシンボリックな遺構をそこに設定する必然性が確かにあり<ref>[[#濵井信三2006|濵井信三2006]]、57-64頁。</ref>(原爆で倒壊焼失した広島城が再建されるのは、[[1958年]]〈昭和33年〉のことである<ref>[[#ヒロシマの記録|ヒロシマの記録]]、137頁。</ref>)、それを見抜いた丹下の方に、都市計画家としての先見性があったと評価出来る<ref>[[#丹下健三1997|丹下健三1997]]、64-65頁。</ref>。<!-- 「利用者:58.190.85.75」さんが修正された箇所は、出典を明記した上で元の記述内容に差し戻させて頂きました。「利用者:茶々」-->
同時期、戦後初の日本最大級のコンペであった[[世界平和記念聖堂]]の建築競技設計でも衆目を集めたが、施主である[[カトリック教会]]が丹下案と類似する[[オスカー・ニーマイヤー]]設計のパンプーリャの聖フランシス教会に見られる放物線シェル構造に関して、非宗教伝統的な形体と音響の悪さを嫌って、丹下案は不採用(一等なしの二等当選)となった。後にその実施は、コンペの審査委員の一人で、[[コルビュジエ]]派である丹下案を酷評した[[表現主義|表現派]]の[[村野藤吾]]が担当することになり、建築界の一大スキャンダル<ref>日本的かつカトリック的な近代キリスト教会建築という建築設計競技のコンセプトに対する解答者としては、結果的に見て丹下より村野の方が適任であったと言える。また村野本人は設計料を受け取ることを辞退した。</ref>となる。


同時期、戦後建築界の幕開けを告げる当時最大級のコンペであった[[世界平和記念聖堂]]の建築競技設計でも衆目を集めるが、施主である[[カトリック教会]]が、丹下案と類似する[[オスカー・ニーマイヤー]]設計のパンプーリャの聖フランシス教会に見られる[[放物線]]状の[[シェル構造]]が持つ、その非宗教伝統的な形体と音響の悪さを嫌って、丹下案は不採用(一等なしの二等当選)となった。後にその実施は、コンペの審査委員の一人で、[[コルビュジエ]]派である丹下案を酷評した[[表現主義|表現派]]の[[村野藤吾]]が担当することになり、建築界の一大スキャンダル<ref group="注">日本的かつカトリック的な近代キリスト教会建築という建築設計競技のコンセプトに対する解答者としては、結果的に見て丹下より村野の方が適任であったと言える。また村野本人は設計料を受け取ることを辞退した。</ref>となる。
そのような経緯もあって、若年期を資材の払底した戦中戦後に過ごさざるを得なかった丹下健三の事実上のデビュー作となった[[広島平和記念資料館]]は、コルビュジエの影響だけでなく、[[法隆寺]]や[[厳島神社]]の伽藍配置、また[[正倉院]]、[[伊勢神宮]]、[[桂離宮]]などの日本建築の精華にデザインソースを求めた<ref>広島ピースセンター設計にあたり、法隆寺や伊勢神宮や桂離宮を参照したとは丹下自身の言であるが、桂の影響は言わずもがな、伊勢の影響は平和記念資料館本館(コンペ時は原爆災害資料陳列館)のピロティ柱に見て取る事が出来る。資料館の原イメージとして当初意識していた正倉院の高床式校倉造りでは、原爆被災からの復興という「力強さ」に欠けると丹下が直感したからである。ヒューマンスケールと明確に隔絶する都市的スケールで持ち上げられたピロティの空隙を「中心性の空虚」と捉え直せば、左右非対称のマッス(量塊)を両翼に展開させたその構成を、法隆寺における日本独自の伽藍配置からの影響と見て取ることも可能である。現在のピースセンターは、一見オーソドックスなシンメトリーな配置に見えるが、コンペ段階で西ウィングに計画されていたのは、台形状のボリュームを持つ集会場(後の公会堂。現・国際会議場)であり、東ウィングの現・平和記念資料館東館(コンペ時は平和会館。後の平和記念館)と対になるようにそれを模して改装された今となっては、その横幅の違いに法隆寺のアシンメトリーな伽藍配置の影響の名残を見出すことが出来る。しかしながらランドスケープを素直に読み解けば、大鳥居をシンボライズした厳島神社の伽藍配置とコルビュジエのソビエト・パレス案からの影響とするのが妥当であろう。'''画像情報:外部リンク参照'''</ref>その端正なプロポーションを都市的スケールの[[ピロティ]]で軽々と大地から持ち上げ、広島の焦土からの復興を力強く印象づけて、戦後の日本建築はここから始まったと言われるほどの記念碑的な作品となった。これら一連の広島ピースセンターの建築によって、西洋起源のモダニズムと日本建築の伝統様式は初めて記念碑的レヴェルで結晶し、丹下はこの広島計画をもって勇躍、[[CIAM|CIAM(Congrès International d'Architecture Moderne・シアム・ 近代建築国際会議)]]に参加し、その名を日本国外に知らしめた。


そのような経緯もあって、[[広島平和記念資料館]]は、若年期を資材の払底した戦中戦後に過ごさざるを得なかった丹下健三の事実上のデビュー作となった。端正なプロポーションを都市的スケールの[[ピロティ]]で軽々と大地から持ち上げることによって、広島の焦土からの復興を力強く印象づけ、戦後の日本建築はここから始まったと言われるほどの記念碑的な作品となった。コルビュジエの[[スイス学生会館]]や[[ソビエト・パレス]]、また[[ユニテ・ダビタシオン]]の影響だけでなく、[[法隆寺]]や[[厳島神社]]の伽藍配置、また[[正倉院]]、[[伊勢神宮]]、[[桂離宮]]などの日本建築の精華にデザインソースを求めた<ref group="注">広島ピースセンター設計にあたり、法隆寺や伊勢神宮や桂離宮を参照したとは丹下自身の言であるが、桂の影響は言わずもがな、伊勢の影響は平和記念資料館本館(コンペ時は原爆災害資料陳列館)のピロティ柱に見て取る事が出来る。資料館の原イメージとして当初意識していた正倉院の高床式校倉造りでは、原爆被災からの復興という「力強さ」に欠けると丹下が直感したからである。ヒューマンスケールと明確に隔絶する都市的スケールで持ち上げられたピロティの空隙を「中心性の空虚」と捉え直せば、左右非対称のマッス(量塊)を両翼に展開させたその構成を、法隆寺における日本独自の伽藍配置からの影響と見て取ることも可能である。現在のピースセンターは、一見オーソドックスなシンメトリーな配置に見えるが、コンペ段階で西ウィングに計画されていたのは、台形状のボリュームを持つ集会場(後の公会堂。現・国際会議場)であり、東ウィングの現・平和記念資料館東館(コンペ時は平和会館。後の平和記念館)と対になるようにそれを模して改装された今となっては、その横幅の違いに法隆寺のアシンメトリーな伽藍配置の影響の名残を見出すことが出来る。しかしながらランドスケープを素直に読み解けば、大鳥居をシンボライズした厳島神社の伽藍配置とコルビュジエのソビエト・パレス案からの影響とするのが妥当であろう。</ref>これら一連の広島ピースセンターの建築によって、西洋起源のモダニズムと日本建築の伝統様式は初めて記念碑的レヴェルで結晶し、丹下はこの広島計画[http://www.arch-hiroshima.net/arch-hiroshima/arch/delta_center/p-museum.html]をもって、[[CIAM|CIAM(シアム・ 近代建築国際会議)]]に参加し、その名を日本国外に知らしめた。
また、丹下はこの事業に[[イサム・ノグチ]]を強く推して参加させたが、当時建設省の広島平和記念都市建設専門委員会委員長であり、また丹下の恩師でもあった[[岸田日出刀]]の「原爆を落とした当のアメリカ人の手になるもので、爆死者の慰霊になるのか」との強い反対意見によって、慰霊碑はノグチのデザインが却下され、丹下自身が担当することになった。


丹下は、岸田らの介入に対する不快感とノグチへの申し訳なさら、あえてノグチのデザインをほぼそのまま流用し埴輪の家の屋根形の慰霊碑から原爆ドームが覗く様にデザインしたが計画開始当初より単なる慰霊施設ではなく、平和を祈念し「平和をすための工場」であるべきだと丹下の建設理念<ref>この丹下の考えのベースにあったのは1949(昭和24)年8月6日に公布された広島平和記念都市建設法(法律第219号)である。この法律の目的は「恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設すること」であり、広島市を他の戦災都市と同じように単に復興するだけでなく、恒久平和を象徴する平和記念都市として建設しようということであった。丹下は広島市の復興都市計画策定の初期から関わっており、その理念を可視化することが彼に与えられた使命であった。</ref>は一貫していた。そこから後にこれらの施設がピースセンターと呼ばれることにもなる。
また、丹下はこの事業に[[イサム・ノグチ]]を強く推して参加させたが、当時建設省の広島平和記念都市建設専門委員会委員長であり、また丹下の恩師でもあった[[岸田日出刀]]の「原爆を落とした当のアメリカ人の手になるもので、爆死者の慰霊になるのか」という強い反対意見により、慰霊碑はノグチのデザインが却下され、丹下自身が担当することになった。丹下は、岸田らの介入に対する不快感とノグチへの申し訳なさもあって<ref group="注">[[#検証ヒロシマ|検証ヒロシマ]]、36-37頁には「(委員の中に)『原爆を落とした国の人間がつくった慰霊碑なんて』という人がいたんです。丹下さんはその板挟みになり最後はイサムに『自分の力ではどうにも…』と手をついて兄イサムに謝った」という記述がある。また[[#平松剛2008|平松剛2008]]、263頁には「丹下は広島市長と問題解決のために奔走し、時にはノグチ本人も加わって建設大臣にまで訴えたけれど、決定はどうしても覆なかった。」という記述もある。</ref>、あえてノグチのデザインをほぼそのまま流用し埴輪の家の屋根形にデザインしたが、結果的にそれが慰霊際、ノグチの手になるモニュメンタル性の強いオブジェ[http://987.blog.so-net.ne.jp/2006-06-10]を拝む形になるのではなく、人々が慰霊碑に相対したとき、視線の先に原爆ドームが自然に垣間見える様になって平和公園は単なる慰霊施設ではなく、平和を祈念し「平和をすための工場」であるべきだという丹下の建設理念<ref group="注">この丹下の考えのベースにあったのは[[1949年|1949年(昭和24)]][[8月6日]]に公布された広島平和記念都市建設法(法律第219号)である。この法律の目的は「恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設すること」であり、広島市を他の戦災都市と同じように単に復興するだけでなく、恒久平和を象徴する平和記念都市として建設しようということであった。丹下は広島市の復興都市計画策定の初期から関わっており、その理念を可視化することが彼に与えられた使命であった。</ref>は、より明確となった。そこから後にこれらの施設がピースセンターと呼ばれることにもなる。


その後、スチール製グリッドのシャープなエッジを見せた旧東京都庁舎や、日本伝統木造建築の[[木割り]]をコンクリートで稠密に再現した[[香川県庁舎]]などを設計した。中でも香川県庁舎は戦後の全国の地方自治体庁舎のモデルとなり、それによって丹下は現在までで唯一の[[ビルディング・タイプ]]を創出した日本の建築家となった。そして、[[1964年]][[東京カテドラル聖マリア大聖堂]]と [[国代々木競技場|東京オリンピック国立屋内総合競技場]](国立代々木競技場)いて、自身の建築歴の頂点極めることになる。
その後、スチール製グリッドのシャープなエッジを見せた旧東京都庁舎や、日本伝統木造建築の[[木割り]](日本の伝統的な木造建築において、各部分の大きさや寸法を規定する規範または原理。西洋建築における[[オーダー]]にあたる)をコンクリートで稠密に再現した[[香川県庁舎]]などの、いわゆる広島ピースセンターと合わせて初期三部作と呼ばれる傑作を設計した。とりわけ香川県庁舎は戦後の全国の地方自治体庁舎のモデルとなり、数多い丹下建築の中唯一の[[ビルディング・タイプ]]となった建築である<ref>[[#丹下健三・藤森照信2002|丹下健三・藤森照信 2002]]、184頁。</ref>。[[1961年]]に'''丹下健三・都市・建築設計研究所'''を設。同年発表された海上都市計画「東京計画1960」は、日本発の都市計画の嚆矢として世界的も評価が高。丹下は生涯にわたっ建築家としてトータルに都市デザインすること情熱を持ち続たが、それが都市的観点から構想された数々の総合的建築計画となって現われ、その点が他の同世代の巨匠建築家と比較して、違いが際立っていところである<ref>[[#Casa BRUTUS 2009|Casa BRUTUS 2009]]、84頁。</ref>


東京カテドラル聖マリア大聖堂では[[HPシェル]]構造を用い、国立屋内総合競技場では吊り構造を用いた。作品ともに当時の最先端の構造技術を用いて、構造と形態を高度な次元で融合させ、かつ至高性をも表現することに成功したモダンデザインの傑作である。前者は現代キリスト教会建築の中でも屈指のものであり、後者はコルビュジエのソビエト・パレス案から、[[マシュー・ノヴィッキー]]のノースカロライナ・アリーナ(ローリー競技場)を経て、[[エーロ・サーリネン]]の[[イェール大学]]アイスホッケーリンクに至る流れの中で、吊り構造の決定打にして完成作とも評され、世界に衝撃を与えた。
壮年期の丹下は、[[シェル構造]]や[[折板構造]]などの海外からもたらされる様々な新技術や新思潮を精力的に消化しながら、[[1964年]]の[[東京カテドラル聖マリア大聖堂]]と [[国立代々木競技場|東京オリンピック国立屋内総合競技場]](正式名称:国立代々木屋内総合競技場)において、自身の建築歴の頂点を極めることになる。両作品ともに当時の最先端の構造技術を咀嚼しながらも独自の発展を見せ、東京カテドラル聖マリア大聖堂では[[シェル構造|HPシェル]]構造を用い、国立屋内総合競技場では[[吊り構造]]を用いて、ともに構造と形態を高度な次元で融合させながら、かつ至高性をも表現することに成功したモダンデザインの傑作である。前者は現代キリスト教会建築の中でも屈指のものであり、後者はコルビュジエのソビエト・パレス案から、[[マシュー・ノヴィッキー]]のノースカロライナ・アリーナ(ローリー競技場)を経て、[[エーロ・サーリネン]]の[[イェール大学]]アイスホッケーリンクに至る流れの中で、吊り構造の決定打にして完成作とも評され、世界に衝撃を与えた<ref>[[#Casa BRUTUS 2009|Casa BRUTUS 2009]]、146頁。</ref>


特に[[東京オリンピック]]プールの評判<ref>現在、幾度にも渡る改修を経てプール施設は半恒久的に体育フロアとして仮構され、汚れの目立ったコンクリート打ち放し面が塗装されたほか、特にインテリアにおいて内部空間を引き締めていた飛び込み台が撤去されるなど、往時の持っていた至高性が著しく失われたと評る向きがあり、建築界からも建設当時の趣きを保存し再現せよとの声は多い。</ref>は素晴らしく、アメリカ水泳選手団の団長は感激のあまり「将来自分の骨を飛び込み台の根元に埋めてくれ」と申し出たと伝えられる程であった。[[IOC|IOC(国際オリンピック委員会)]]は、東京都日本オリンピック組織委員会とともに丹下健三を特別功労者として表彰した。ここに、ひとりの建築家<ref>もちろん丹下ひとりの力ではなく、神谷宏治、構造担当の[[坪井善勝]]、[[川口衞]]、設備担当の[[井上宇市]]、[[尾島俊雄]]ほか、多くのスタッフの協同の賜物であることは言うまでもない。特に1953年の「広島子供の家」よりコンビを組んで来た[[構造家]]坪井善勝の力は大きく、構造設計のスタッフの中には「あれは、我々がデザインした」と言い切る者さえいるという。</ref>が建築表現の持つ力によって社会に与える影響の大きさにおいて、主催者である行政や組織と比肩しうるものであることを全世界に実証したのである。により丹下健三の名は世界の人々に広く知られるところとなり、日本国外のビッグプロジェクトにも多く携わることにな
特に東京オリンピックプールの評判<ref group="注">幾度にも渡る改修を経てプール施設は半恒久的に体育フロアとして仮構され、汚れの目立ったコンクリート打ち放し面が塗装されたほか、特にインテリアにおいて内部空間を引き締めていた飛び込み台が撤去されるなど、往時の持っていた至高性が著しく失われたと評される向きがあり、建築界からも建設当時の趣きを保存し再現せよとの声がある。→[[#新建築2005-5|新建築2005-5]]「至高の空間」[[槙文彦]]、24頁。</ref>は素晴らしく、アメリカ水泳選手団の団長は感激のあまり「将来自分の骨を飛び込み台の根元に埋めてくれ」と申し出たと伝えられる程であった<ref name="fujimori-p.326">[[#丹下健三・藤森照信2002|丹下健三・藤森照信 2002]]、326頁</ref>。大会後、[[IOC|IOC(国際オリンピック委員会)]]は、東京都ならびに日本オリンピック組織委員会とともに丹下健三を特別功労者として表彰した。ここに、ひとりの建築家<ref group="注">もちろん丹下ひとりの力ではなく、[[神谷宏治]]、構造担当の[[坪井善勝]]、[[川口衞]]、設備担当の[[井上宇市]]、[[尾島俊雄]]ほか、多くのスタッフの協同の賜物であることは言うまでもない。特に[[1953年]]の「広島子供の家」よりコンビを組んで来た[[構造家]]坪井善勝の力は大きく、構造設計のスタッフの中には「あれは、我々がデザインした」と言い切る者が何人もいるという。[[#新建築2005-5|新建築2005-5]]、23頁。</ref>が建築表現の持つ力により、その社会に与える影響の大きさにおいて、主催者である行政や組織と比肩しうるものであることを全世界に実証したのである<ref name="fujimori-p.326"/>以降、丹下健三の名は世界の人々に広く知られるところとなり、日本国外のビッグプロジェクトにも多く携わることになった


[[1970年]]の[[日本万国博覧会|大阪万博]]では、京都大学教授の[[西山卯三|西山夘三]]と共に総合プロデューサーをつとめ、その中心施設であるお祭り広場の設計も手がけた。大屋根をジャッキによる先駆的なリフトアップ工法で持ち上げ、それを[[太陽の塔]]が突き破ってそそり立つという[[岡本太郎]]とのコラボレーションは、今日に至るまでの語り草になっている。
[[1961年]]に'''丹下健三・都市・建築設計研究所'''を設立。同年発表された海上都市計画「東京計画1960」は、日本発の都市計画の嚆矢として世界的にも評価が高い。丹下は生涯にわたって「建築家としてトータルに都市をデザインすること」に情熱を持ち続け、都市計画と共にある建築計画として結実し、その点が他の同世代の巨匠建築家と比較して違いが際立っている。


建築のスタイルは本来[[モダニズム]]系統であり、当初は[[ポストモダン建築]]を単なる意匠だと批判していたが、晩年には[[ポストモダン]]の傾向も取り入れた東京都庁や日光東照宮客殿・新社務所などの作品もある。最後の大作である[[東京都庁舎|東京都新庁舎]]は、[[ゴシック建築]]である[[ノートルダム大聖堂]]([[パリ]])の双塔の形態を引用するとともに、外壁面を複雑に凹凸させて陰影を深くし、さらに外壁[[プレストレスト・コンクリート|PC板]]に濃淡二種類の[[花崗岩]]を打ち込むことによって、フェイクではあるが一見窓のようにも見せ、実際の窓枠よりもさらに細かく割るデザイン処理によって重厚さ<ref group="注">同時期の丹下設計による同形のデザインである[[OUBセンター|シンガポールOUBプラザ]]の('''主な作品・外観画像'''を参照のこと)間延びした感じと比較対照すると、公共建築でありながらコストが掛かり過ぎるとの批判にもかかわらず、記念碑性を欲した丹下が[[花崗岩]]打ち込みにこだわったデザイン意図が理解出来よう。</ref>を演出した。丹下自身の言によれば、格子戸を思わせるデザインで和風を感じさせると同時に、情報化時代を[[集積回路|IC]](集積回路)のグリッドパターンで象徴させた所にポストモダン性があるとしている<ref>[[#日経BP 2005|日経BP 2005]]、118頁。</ref>。
[[1970年]]の[[日本万国博覧会|大阪万博]]では、京都大学教授の[[西山卯三|西山夘三]]と共に総合プロデューサーをつとめ、その中心施設であるお祭り広場の設計も手がけた。お祭り広場では、ジャッキによる先駆的なリフトアップ工法で大屋根を持ち上げ、それを突き破ってそそり立つ[[岡本太郎]]の[[太陽の塔]]とのコラボレーションは、今日に至るまでの語り草になっている。

建築のスタイルは本来[[モダニズム]]系統であり、当初は[[ポストモダン建築]]を単なる意匠だと批判していたが、晩年には[[ポストモダン]]の傾向も取り入れた東京都庁や日光東照宮客殿・新社務所などの作品も手がけた。
最後の大作[[東京都庁舎|東京都新庁舎]]は、[[ゴシック建築]]である[[ノートルダム寺院]]([[パリ]])の双塔の形態を引用するとともに、外壁面を複雑に凹凸させて陰影を深くし、さらに外壁[[プレストレスト・コンクリート|PC板]]に濃淡二種類の花崗岩を打ち込むことによって、フェイクではあるが一見窓のようにも見せ、実際の窓枠よりもさらに細かく割ることによって重厚さ<ref>同時期の丹下設計による同形のデザインであるシンガポールUOBプラザ(「主な作品・外観画像」参照)の間延びした感じと比較対照すると、公共建築でありながらコストが掛かり過ぎるとの批判にもかかわらず、象徴性を欲した丹下が花崗岩打ち込みにこだわったデザイン意図が理解出来よう。</ref>を演出した。丹下自身の言によれば、格子戸を思わせるデザインで和風を感じさせると同時に、情報化時代を[[集積回路|IC]](集積回路)のグリッドパターンで象徴させた所にポストモダン性があるとしている。


== 評価 ==
== 評価 ==
日本の近代建築は、丹下の[[東京オリンピック]]国立内総合競技場(代々木体育館)によって初めて世界のトップレベルに引き上げられたと言ってよい{{要出典}}。以後、日本建築界が非西洋諸国の枠を超え、質・量ともに世界の建築界の中でも傑出した地位を築く道を後進へと開いたと言える。戦後の日本建築界の重鎮であり、昭和という時代の国家的プロジェクトを背負い続けた建築家であるが、高度成長が終わり開発が一段落した大阪万博以後、その活躍の場は必然的に[[中東]]や[[アフリカ]]、また[[東南アジア]]の[[開発途上国|発展途上国]]に移っていった。唯一とも言える例外は[[イタリア]]である。
日本の近代建築は、戦前においても西洋先進諸国と遜色ないレヴェルに達していたが、丹下の東京オリンピック国立内総合競技場(代々木体育館)によって初めて世界のトップレベルに引き上げられたと言ってよい<!-- {{要出典}}を外す。理由はノートページ当該箇所で -->。以後、日本建築界が非西洋諸国の枠を超え、質・量ともに世界の建築界の中でも傑出した地位を築く道を後進へと開いたと言える。戦後の日本建築界の重鎮であり、昭和という時代の国家的プロジェクトを背負い続けた建築家であるが、高度成長が終わり開発が一段落した大阪万博以後、その活躍の場は必然的に[[中東]]や[[アフリカ]]、また[[東南アジア]]の[[開発途上国|発展途上国]]に移っていった。唯一とも言える例外は[[イタリア]]である。

自らがアイデアを出しそれを単にスタッフに図面化させるのではなく、建築設計のオーケストレーションとも言えるプロダクション制を導入し、協同で設計する手法を確立した<ref>[[#平松剛2008|平松剛2008]]、170-172頁。</ref>それにより後年、[[大谷幸夫]]、[[浅田孝]]、[[沖種郎]]、[[槇文彦]]、[[神谷宏治]]、[[磯崎新]]、[[黒川紀章]]、[[谷口吉生]]らの多くの優れた人材を輩出することになったが、反面、特に[[1980年]]以降の作品において独創性が犠牲にされたとの批判もある<ref>[[#平松剛2008|平松剛2008]]、283-284頁。</ref>。

[[東京都庁舎]](新都庁舎、[[1991年]]竣工)では[[新都庁舎コンペ|指名コンペ]]が行われたが、[[鈴木俊一 (東京都知事)|鈴木俊一]]都知事との強いつながりを持つ丹下案が大方の予想通り当選し、「出来レース」とも評された<ref>[[#平松剛2008|平松剛2008]]、351-359頁。</ref><ref>[[#五十嵐太郎2006|五十嵐太郎2006]]、222頁。</ref>。鈴木俊一とのつながり<ref group="注">鈴木自身の回想によれば、丹下とは東京オリンピック以前に既に知り合いであり、電力業界の大物・[[松永安左エ門]]が[[1956年|1956年(昭和31年)]]に組織した民間のシンクタンク「[[産業計画会議]]」で関わりがあったと言う。そこでの議題のひとつに東京臨海部の開発計画があり、丹下は当時住宅公団総裁だった[[加納久朗]]とともに、東京湾に巨大人工島を造る計画を提案しており、これが後に「東京計画1960」に繋がって行くことになる。[[#平松剛2008|平松剛2008]]、275-276頁。</ref>は、鈴木が[[東京オリンピック]]の準備のため地方自治庁(後の[[自治省]]。現[[総務省]])から東京都副知事に出向したことにさかのぼり、その後鈴木が[[大阪万博]]の事務局長に就任したこともあって、のちに丹下は鈴木の都知事選初出馬の際、その後援団体「マイタウンと呼べる東京をつくる会」の会長をつとめている。建築関係者からは「自身のスタイル・信条であったはずの[[モダニズム]]を捨て、かつて出口なしとまで批判した[[ポストモダニズム]]にすり寄り、大衆に媚を売ってまで[[建築設計競技|コンペ]]に勝ちたかったのか」とか「すでにある[[新宿]]の[[超高層ビル]]群に最も高いビルを加えただけであり、目新しいアイデアがない」などの厳しい批判を受けた<ref>[[#平松剛2008|平松剛2008]]、25-29、452頁。</ref><ref>[[#建築三粋人1997|建築三粋人1997]]、75頁。</ref><ref>[[#宮内嘉久2005|宮内嘉久2005]]、171-172頁。</ref>。


一方、出来レースとの批判が予想される中、重鎮となってなおその批判をはね除けるに足る圧倒的なパフォーマンスでコンペを勝ち抜く図太さや老獪さ、また成功した過去の自分のスタイルに拘泥しない柔軟さや、記念碑性を含めたデザイン意図の的確さといった点を評価する者もある<ref>[[#平松剛2008|平松剛2008]]、338-345、351-359頁。</ref><ref name="igarasi-pp.221-224">[[#五十嵐太郎2006|五十嵐太郎2006]]、221-224頁。</ref>。建築の専門家ほど酷評する傾向にあるが、一般には受けが良いようであり、完成以来[[観光名所]]となって[[新宿副都心]]のランドマークとして認知されている<ref>[[#平松剛2008|平松剛2008]]、457頁。</ref><ref name="igarasi-pp.221-224"/>。
自らがアイデアを出しそれを単にスタッフに図面化させるのではなく、建築設計のオーケストレーションとも言えるプロダクション制を導入し、協同で設計する手法を確立した。それにより後年、[[大谷幸夫]]、[[浅田孝]]、沖種郎、[[槇文彦]]、神谷宏治、[[磯崎新]]、[[黒川紀章]]、[[谷口吉生]]らの多くの優れた人材を輩出することになったが、反面、特に1980年以降の作品において独創性が犠牲にされたとの批判もある。


かつて、ソビエト・パレスとの出会いが、大学受験間際になって志望を[[建築学科]]に変えさせたように、丹下に対するコルビュジエの強い影響は、[[卒業制作|卒業設計]]においても鮮明に出ている。そのことは、後年自らの作品に、コルビュジエ由来のデザインを数多く引用していることでも明きらかであるが、そのコルビュジエの計画案のひとつであるソビエト・パレスの圧倒的な影響のもとに、一対のマッス(量塊)と直交する軸線上の先にアイストップ(視線がとまる対象物)を配置するというプランは構想され、大東亜建設記念営造計画から、[[広島平和記念公園]]、[[ナイジェリア]]の新首都[[アブジャ|新首都アブジャ都心計画]]に至るまでたびたび用いられて、丹下の十八番となった。
[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]に心酔し、[[ランドスケープ]]において軸線を通すということや、広場にモニュメンタルな象徴性を持たせるということをミケランジェロからの影響と見て取ることが出来るが、一方で丹下の[[卒業制作|卒業設計]]には、コルビュジエの影響が鮮明に出ている。
そのコルビュジエの計画案のひとつであるソビエト・パレスとの出会いが、大学受験間際になって志望を[[建築学科]]に変えることになったと後年丹下自身が証言しているように、その圧倒的な影響のもと、鼓状の一対のマッス(量塊)と直交する軸線上の先にアイストップを配置するプランは構想され、大東亜建設記念営造計画から、[[広島平和記念公園]]、[[ナイジェリア]]の[[アブジャ|新首都アブジャ都心計画]]に至るまでたびたび引用された。


一方で、[[ランドスケープ]]において対称軸を通すということや、広場にモニュメンタルな象徴性を持たせるということを、[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]の[[カンピドリオ広場]]からの影響と見て取ることも出来る。丹下自身は晩年に至って、古今東西の建築家のなかで誰が一番かと問われると、コルビュジエよりもミケランジェロの方が上だと言い、そのことは、出世論文のタイトル「MICHELANGERO頌」(「頌」とは誉め讃えるの意)においても明確に示されている。丹下はその論文の中で[[ハイデガー]]の[[ヘルダーリン]]論を援用し、[[グロピウス]]流の四角四面な建築幾何学から離れて、建築が自由な創造行為に昇華される過程で聖性(至高性・精神性)をも獲得し、社会的要請が建築を作るのではなく、建築家が建築行為を通じて世界を再創造していくという論旨を展開し、[[コペルニクス]]的転回によって建築と歴史との関係性を逆転させている<ref>[[#丹下健三・藤森照信2002|丹下健三・藤森照信 2002]]、57、62-65頁。</ref>。
[[東京都庁舎]](新都庁舎、[[1991年]]竣工)では[[新都庁舎コンペ|指名コンペ]]が行われたが、[[鈴木俊一 (東京都知事)|鈴木俊一]]都知事との強いつながりを持つ丹下案が大方の予想通り当選し、「出来レース」とも評された。
鈴木俊一とのつながり<ref>鈴木自身の回想によれば、丹下とは東京オリンピック以前に既に知り合いであり、電力業界の大物・[[松永安左エ門]]が1956年(昭和31年)に組織した民間のシンクタンク「[[産業計画会議]]」で関わりがあったと言う。そこでの議題のひとつに東京臨海部の開発計画があり、丹下は当時住宅公団総裁だった[[加納久朗]]とともに、東京湾に巨大人工島を造る計画を提案しており、これが後に「東京計画1960」に繋がって行くことになる。</ref>は、鈴木が[[東京オリンピック]]の準備のため地方自治庁(後の[[自治省]]。現[[総務省]])から東京都副知事に出向したことにさかのぼり、その後鈴木が[[大阪万博]]の事務局長に就任したこともあって、のちに丹下は鈴木の都知事選初出馬の際、その後援団体「マイタウンと呼べる東京をつくる会」の会長をつとめている。建築関係者からは「自身のスタイル・信条であったはずの[[モダニズム]]を捨て、かつて出口なしとまで批判した[[ポストモダニズム]]にすり寄り、大衆に媚を売ってまで[[建築設計競技|コンペ]]に勝ちたかったのか」とか「すでにある[[新宿]]の[[超高層ビル]]群に最も高いビルを加えただけであり、目新しいアイデアがない」などの厳しい批判を受けた。


つまり、丹下はコルビュジエの近代建築の語法を用いながら、近代建築にミケランジェロの芸術の持つ宗教的な記念碑的超越性をもたらせることをめざしているのである。そのことが個人生活においては、建築するという行為への献身的な専心となって表れ、建築設計においては都市計画への強い関心となって現れた。かつてミケランジェロが[[ルネサンス]]において、[[サンピエトロ大聖堂]]大改築の主任設計士として中世を超克しようとしたように、あるいは[[マニエリスム]]の自由な芸術表現によって[[ルネサンス建築|ルネサンス様式]]そのものを超克しようとしたように、精神史の上でコルビュジエがいうところの「[[建築をめざして]]」、近代を建築の力によって超克することを丹下はめざしたのである<ref>[[#ル・コルビュジエと日本|ル・コルビュジエと日本]]、200-203頁。</ref>。そしてそのことを、目論見の成否は別にして、若き頃傾倒した[[マルクス主義]]に対する挫折からの脱却をめざした「大東亜記念営造計画」から、[[日本の降伏|敗戦]]の挫折においては、焦土からの脱却を「広島ピースセンター」で、同じく名誉的には三等国から一等国への国際的復帰を「代々木オリンピックプール」で、さらには実質的な面においては経済大国への脱皮を「大阪万国博覧会」の総合プロデュースによって、また大阪万博以降、力の振るいどころがなくなった日本国内への帰還をめざした「新都庁」に至るまで、生涯一貫して追求し続けていたと総括することが出来る<ref>論拠を[[#丹下健三・藤森照信|丹下健三・藤森照信2002]]の詳解な立論に負う。とくにその「第2章 学生時代」「第3章 修業時代-前川事務所にて-」を参照。</ref>。
一方、出来レースとの批判が予想される中、重鎮となってなおその批判をはね除けるに足る圧倒的なパフォーマンスでコンペを勝ち抜く図太さ・老獪さ、成功した過去の自分のスタイルに拘泥しない柔軟さ、象徴性等を含めたデザインの狙いの的確さといった点を評価する者も多い。建築の専門家ほど酷評する傾向にあるが、一般には受けが良いようであり、完成以来[[観光名所]]となって[[新宿副都心]]のランドマークとして認知されている。


建築史家の[[藤森照信]]によれば、丹下健三ほど純粋な建築家はなく、建築以外の分野にも、また自身の過去にも興味がなかったという。事実、これだけの巨匠でありながら、生前[[ニューヨーク近代美術館|MoMA(ニューヨーク近代美術館)]]に請われながらでさえ、過去一度も回顧展の類いが催されることがなかった。なお、丹下自身は東京オリンピック国立内総合競技場(代々木体育館)と山梨文化会館を代表作だとしている。
建築史家の[[藤森照信]]によれば、丹下健三ほど純粋な建築家はなく、建築以外の分野にも、また自身の過去にも興味がなかったという<ref>[[#Casa BRUTUS2005-6|Casa BRUTUS2005-6]]、45頁。</ref>。事実、これだけの巨匠でありながら、生前[[ニューヨーク近代美術館|MoMA(ニューヨーク近代美術館)]]に請われながらでさえ、過去一度も回顧展の類いが催されることがなかった<ref name="sinkentiku-p.20">[[#新建築2005-5|新建築2005-5]]、20頁。</ref>。なお、丹下自身は東京オリンピック国立内総合競技場(代々木体育館)と山梨文化会館を代表作だとしている<ref>[[#越後島研一2003|越後島研一2003]]、88頁。</ref>


[[2005年]][[3月22日]]、[[心不全]]のため91歳で死去した際には、自ら設計した東京カテドラル聖マリア大聖堂で葬儀が行われた。葬儀では[[磯崎新]]が弔辞を読んだ。生前カトリックの受洗に与っており、洗礼名は[[聖母マリア]]の夫であり大工でもあった[[ナザレのヨセフ|ヨセフ]]であったことが、その時人々に知られた。
[[2005年]][[3月22日]]、[[心不全]]のため91歳で死去した際には、自ら設計した東京カテドラル聖マリア大聖堂で葬儀が行われた。葬儀では[[磯崎新]]が時折涙で声を詰まらせながら弔辞<ref group="注">本来ならば一個人の弔辞であるが、期せず簡にして要を得た優れた「丹下論」になっているので、参照されたい。→[http://d.hatena.ne.jp/ssshumpei/20090611]</ref>を読んだ<ref name="sinkentiku-p.20"/>。生前カトリックの受洗に与っており、洗礼名は[[聖母マリア]]の夫であり大工でもあった[[ナザレのヨセフ|ヨセフ]]であったことが、その時人々に知られた<ref name="sinkentiku-p.20"/>


[[2006年]]4月、[[広島平和記念資料館]]([[1955年]]、広島市[[中区 (広島市)|中区]]中島町)が、[[村野藤吾]]の[[世界平和記念聖堂]]([[1953年]]、広島市中区幟町)とともに、戦後建築としては初めての[[重要文化財]](建造物)指定となっている。
[[2006年]]4月、[[広島平和記念資料館]]([[1955年]]、広島市[[中区 (広島市)|中区]]中島町)が、[[村野藤吾]]の[[世界平和記念聖堂]]([[1953年]]、広島市中区幟町)とともに、戦後建築としては初めての[[重要文化財]](建造物)指定となっている。
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<small>丹下健三・都市・建築研究所名義のものも含む</small>
<small>丹下健三・都市・建築研究所名義のものも含む</small>
<!--インラインフレームタグを採用。1970年以降の建築された順番で掲載-->
<!--インラインフレームタグを採用。1970年以降の建築された順番で掲載-->
<!--現存・非現存の資料的根拠を2005年9月発行CASA BRUTUS 丹下健三・特別号の藤森照信監修記事p110~におく。現在日時での正確性は不明-->
<!--現存・非現存の資料的根拠を「丹下建築100選『CASA BRUTAS 丹下健三DNA』藤森照信監修、マガジンハウス、2005年9月発行、pp.109-132」および「丹下建築100選『CASA BRUTUS 丹下健三を知っていますか?』藤森照信監修、マガジンハウス、2009年6月発行、pp.83-106」におく。現在日時での正確性は不明-->
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*[[1958年]] [[今治市]]庁舎・公会堂
*[[1958年]] [[今治市]]庁舎・公会堂
*[[1958年]] 旧草月会館 <small>現存しない</small>
*[[1958年]] 旧草月会館 <small>現存しない</small>
*[[1960年]] WHO(世界保健機構)本部計画 <small>実現せず</small>
*[[1958年]] [[トロント]]市庁舎計画 <small>実現せず</small>
*[[1960年]] [[WHO]](世界保健機構)本部計画 <small>実現せず</small>
*[[1960年]] [[倉敷市]]市庁舎 (現・[[倉敷市立美術館]])
*[[1960年]] [[倉敷市]]市庁舎 (現・[[倉敷市立美術館]])
*[[1960年]] [[立教大学]]図書館
*[[1960年]] [[立教大学]]図書館
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*[[1968年]] 東京聖心インターナショナル・スクール
*[[1968年]] 東京聖心インターナショナル・スクール
*[[1970年]] [[静岡新聞]]・[[静岡放送]]本社ビル(静岡新聞放送会館)
*[[1970年]] [[静岡新聞]]・[[静岡放送]]本社ビル(静岡新聞放送会館)
*[[1970年]] [[日本万国博覧会]]会場基幹施設計画・お祭り広場
*[[1970年]] [[日本万国博覧会]]会場基幹施設計画・お祭り広場<small>現存しない</small>
*[[1970年]] [[駐日クウェート大使館]]
*[[1970年]] [[駐日クウェート大使館]]
*[[1971年]] [[アルジェリア]]・オラン総合大学・病院および寮
*[[1971年]] [[アルジェリア]]・オラン総合大学・病院および寮
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*[[1977年]] 草月会館
*[[1977年]] 草月会館
*[[1978年]] [[森英恵|ハナエ・モリ]]ビル
*[[1978年]] [[森英恵|ハナエ・モリ]]ビル
*[[1979年]] [[東京大学]]本部庁舎・理学部校舎
*[[1979年]] [[クウェート国際空港]]
*[[1979年]] [[クウェート国際空港]]
*[[1981年]] [[ダマスカス]]国民宮殿(現[[シリア]]・大統領官邸)
*[[1981年]] [[ダマスカス]]国民宮殿(現[[シリア]]・大統領官邸)
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*[[1995年]] [[日光東照宮]]客殿・新社務所(日光)
*[[1995年]] [[日光東照宮]]客殿・新社務所(日光)
*[[1995年]] [[シンガポール]]・[[UOBプラザ]]
*[[1995年]] [[シンガポール]]・[[UOBプラザ]]
*[[1996年]] [[フジテレビジョン|FCGビル]](フジテレビ本社ビル)
*[[1996年]] [[FCGビル]](フジテレビ本社ビル)
*[[1996年]] [[山口県立萩美術館・浦上記念館]]
*[[1996年]] [[山口県立萩美術館・浦上記念館]]
*[[1998年]] [[WHO健康開発総合研究センター|WHO神戸センター]]
*[[1998年]] [[WHO健康開発総合研究センター|WHO神戸センター]]
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*[[2000年]] ベアズパウ・ジャパン・カントリークラブクラブハウス
*[[2000年]] ベアズパウ・ジャパン・カントリークラブクラブハウス
*[[2000年]] [[東京ドームホテル]]
*[[2000年]] [[東京ドームホテル]]
*[[2002年]] 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
*[[2003年]] サルヴァトーレ・フェラガモ・フラッグシップショップ
*[[2003年]] 南アルプス芦安山岳館
*[[2003年]] [[ルクセンブルグ]]大使館
*[[2004年]] スナム・オフィスタワー・プロジェクト
*[[2005年]] 上海銀行本社ビル
*[[2005年]] 統一台北本社ビル
*[[2005年]] 東京プリンスホテルパークタワー(現・ザ・プリンス・パークタワー東京)
*[[2005年]] 財団法人癌研究会有明病院
*[[2005年]] 新光人壽信義サービスアパートメント
*[[2005年]] 上海宏國ヘッドクォーターズ・ビル
*[[2006年]] 御茶ノ水NKビル
*[[2006年]] キャセイ複合施設再開発プロジェクト
*[[2007年]] リニア・コンドミニアム
*[[2008年]] ロメオ・ホテル

<!--丹下事務所の仕事でどこまでを丹下作品として取り上げるのかは難しいところですが、マガジンハウス2005年9月特別号『Casa BRUTUS-丹下健三DNA-』および、マガジンハウス・ムック2009年『Casa BRUTUS-丹下健三を知っていますか?-』の「藤森照信監修・丹下建築100選」(両リストに若干の違いがある)に依拠してリストアップしています。-->


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|画像1=Tatsuoka Gate & Administration Bureau Bldg of Tokyo University 2009.jpg
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|説明1=東京大学本部庁舎 1979
|説明1=グランドプリンスホテル赤坂 1982
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|説明2=グランドプリンスホテル赤坂 1982
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|説明3=兵庫県立歴史博物館 1983
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|説明6=横浜美術館 1989
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|説明8=パリ13区イタリア広場 <br />グラン・テクラン 1992
|説明8=新宿パークタワー 1994
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|説明5=東京ドームホテル 2000
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<!--丹下事務所の仕事でどこまでを丹下作品として取り上げるのかは難しいところですが、一応切りのいい20世紀で打ち止めということにしました。作品の風情からも妥当ではないかと...by 茶々-->
<!--丹下事務所の仕事でどこまでを丹下作品として取り上げるのかは難しいところですが、マガジンハウス2005年9月特別号『Casa BRUTUS-丹下健三DNA-』および、マガジンハウス・ムック2009年『Casa BRUTUS-丹下健三を知っていますか?-』の「藤森照信監修・丹下建築100選」(両リストに若干の違いがある)に依拠してリストアップしています。-->
<span style="clear:both;"></span>
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*[[1997年]] [[フィリピン]]・スービックベイ中心地区都市計画
*[[1997年]] [[フィリピン]]・スービックベイ中心地区都市計画


== 主要文献 ==
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書
* 『一本の鉛筆から』(丹下健三、日本経済新聞社、1985年、日本図書センター 1997年)
* 『丹下健三』(丹下健三・藤森照信、新建築社、2002年)
|author = 丹下健三・藤森照信
|year = 2002
* 『丹下健三 時代を映した“多面体の巨人”』(日経アーキテクチュア、日経BP社、2005年)
|title = 丹下健三
*『丹下健三 現代の建築家』<SD編集部編・全4巻> [[鹿島出版会]]、ほか多数
|publisher = 新建築社
|isbn = 4-7869-0169-5
|ref = 丹下健三・藤森照信2002
}}

* {{Cite book|和書
|author = 丹下健三
|year = 1997
|title = 丹下健三 - 一本の鉛筆から -
|publisher = 日本図書センター
|isbn = 4-8205-4300-8
|ref = 丹下健三1997
}}

* {{Cite book|和書
|editor = 日経アーキテクチュア
|year = 2005
|title = 丹下健三 - 時代を映した“多面体の巨人”-
|publisher = 日経BP社
|isbn = 4-8222-0476-6
|ref = 日経BP 2005
}}

* {{Cite book|和書
|editor = SD編集部
|year = 1980
|title = 丹下健三1
|series = 現代の建築家
|publisher = 鹿島出版会
|isbn = 4-306-04115-8
|ref = 鹿島1980
}}

* {{Cite book|和書
|editor = SD編集部
|year = 1984
|title = 丹下健三2
|series = 現代の建築家
|publisher = 鹿島出版会
|isbn = 4-306-04166-2
|ref = 鹿島1984
}}

* {{Cite book|和書
|editor = SD編集部
|year = 1988
|title = 丹下健三3
|series = 現代の建築家
|publisher = 鹿島出版会
|isbn = 4-306-04237-5
|ref = 鹿島1988
}}

* {{Cite book|和書
|editor = SD編集部
|year = 1991
|title = 丹下健三4
|series = 現代の建築家
|publisher = 鹿島出版会
|isbn = 4-306-04310-x
|ref = 鹿島1991
}}

* {{Cite book|和書
|series = ムック
|year = 2009
|title = 丹下健三を知っていますか?
|publisher = マガジンハウス
|isbn = 4-8387-8558-2
|ref = Casa BRUTUS 2009
}}

* {{Cite journal|和書
|year = 2005
|month = 6
|journal = Casa BRUTUS
|volume = 6
|issue = 6
|title = 追悼・丹下健三
|publisher = マガジンハウス
|ref = Casa BRUTUS2005-6
}}

* {{Cite journal|和書
|year = 2005
|month = 5
|journal = 新建築
|volume = 80
|issue = 5
|title = 追悼・丹下健三
|publisher = 新建築社
|issn = 1342-5447
|ref = 新建築2005-5
}}

* {{Cite book|和書
|author = 磯崎新
|year = 1990
|title = 見立ての手法
|publisher = 鹿島出版会
|isbn = 4-306-09315-8
|ref = 磯崎新1990
}}

* {{Cite book|和書
|author = 磯崎新
|year = 2003
|title = 建築における「日本的なもの」
|publisher = 新潮社
|isbn = 4-10-458701-x
|ref = 磯崎新2003
}}

* {{Cite book|和書
|author = 磯崎新
|year = 2005
|title = 磯崎新の思考力
|publisher = 王国社
|isbn = 4-86073-030-5
|ref = 磯崎新2005
}}

* {{Cite book|和書
|author = 平松剛
|year = 2008
|title = 磯崎新の「都庁」- 戦後日本最大のコンペ -
|publisher = 文芸春秋
|isbn = 4-16-370290-2
|ref = 平松剛2008
}}

* {{Cite book|和書
|author = 井上章一
|year = 2006
|title = 夢と魅惑の全体主義
|publisher = 文芸春秋
|series = 文春新書
|isbn = 4-16-660526-7
|ref = 井上章一2006
}}

* {{Cite book|和書
|author = 飯島洋一
|year = 1996
|title = 王の身体都市 - 昭和天皇の時代と建築
|publisher = 青土社
|isbn = 4-7917-5450-6
|ref = 飯島洋一1996
}}

*{{Cite book|和書
|author = 五十嵐太郎
|title = 美しい都市・醜い都市
|year = 2006
|publisher = 中央公論新社
|series = 中公新書ラクレ228
|isbn = 4-12-150228-0
|ref = 五十嵐太郎2006
}}

*{{Cite book|和書
|author = 越後島研一
|title = 現代建築の冒険-「形」で考える-日本1930~2000
|year = 2003
|publisher = 中央公論新社
|series = 中公新書1724
|isbn = 4-12-101724-2
|ref = 越後島研一2003
}}

* {{Cite book|和書
|editor = 高階秀爾・鈴木博之・三宅理一・太田泰人
|title = ル・コルビュジエと日本
|year = 1999
|publisher = 鹿島出版会
|isbn = 4-306-04381-9
|ref = ル・コルビュジエと日本
}}

*{{Cite book|和書
|author = 宮内嘉久
|title = 前川國男 賊軍の将
|year = 2005
|publisher = 晶文社
|isbn = 4-7949-6683-0
|ref = 宮内嘉久2005
}}

*{{Cite book|和書
|author = 建築三粋人
|title = 東京現代建築ほめ殺し
|year = 1997
|publisher = 洋泉社
|isbn = 4-89691-254-3
|ref = 建築三粋人1997
}}

* {{Cite book|和書
|author = 桐敷真次郎
|year = 2001
|title = 近代建築史
|publisher = 共立出版
|isbn = 4-320-07662-1
|ref = 桐敷真次郎2001
}}

* {{Cite book|和書
|author = 桐敷真次郎
|year = 2001
|title = 西洋建築史
|publisher = 共立出版
|isbn = 4-320-07660-5
|ref = 桐敷真次郎2001
}}

* {{Cite book|和書
|author = ケネス・フランプトン
|translator = 中村敏男
|year = 2002
|title = 現代建築史
|publisher = 青土社
|isbn = 4-7917-6014-x
|ref = ケネス・フランプトン2003
}}

* {{Cite book|和書
|author = マンフレッド・タフーリ&フランチェスコ・ダル・コ
|translator = 片木篤
|series = 図説世界建築史16
|year = 2003
|title = 近代建築[2]
|publisher = 本の友社
|isbn = 4-89439-448-0
|ref = タフーリ&ダルコ・コ2003
}}

* {{Cite book|和書
|author = 濵井信三
|year = 2006
|title = 原爆市長
|publisher = 濵井順三・濵井文子・藤田加代子
|edition = 非売品(図書館で閲覧出来ます)/ 浜井信三『原爆市長-ヒロシマとともに二十年』朝日新聞社、1967年の復刻版
|asin = B000JA71I0
|ref = 濵井信三2006
}}

* {{Cite book|和書
|author = 東琢磨
|year = 2007
|title = ヒロシマ独立論
|publisher = 青土社
|isbn = 4-7917-6345-0
|ref = 東琢磨2007
}}

* {{Cite book|和書
|others = 立命館大学国際平和ミュージアム
|editor = 安斎育郎
|year = 2007
|title = ヒロシマ・ナガサキ
|publisher = 岩波書店
|isbn = 4-00-130157-1
|ref = ヒロシマ・ナガサキ
}}

* {{Cite book|和書
|author = 中国新聞社メディア開発局出版部
|year = 1995
|title = 被爆50年写真集 ヒロシマの記録
|publisher = 中国新聞社
|isbn = 4-88517-219-5
|ref = ヒロシマの記録
}}

* {{Cite book|和書
|author = 中国新聞ヒロシマ50年取材班
|year = 1995
|title = 検証ヒロシマ1945-1995
|publisher = 中国新聞社
|isbn = 4-88517-224-1
|ref = 検証ヒロシマ
}}


== 丹下事務所・丹下研究室出身の建築家 ==
== 丹下事務所・丹下研究室出身の建築家 ==
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*[[古市徹雄]]
*[[古市徹雄]]
*[[アーキテクトファイブ]]
*[[アーキテクトファイブ]]
*[[堀越英嗣]]
*[[鈴木エドワード]]
*[[鈴木エドワード]]
*[[松井龍哉]] - ロボットデザイナー
*[[松井龍哉]] - ロボットデザイナー


== 注 ==
== 注 ==
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<small><references /></small>
=== 注釈 ===
{{Reflist|2|group=注}}
=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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[[Category:2005年没]]
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2010年10月26日 (火) 10:28時点における版

丹下健三
生誕 1913年9月4日
大阪府堺市
死没 2005年3月22日
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京帝国大学
職業 建築家
受賞 文化勲章(1980年)
プリツカー賞(1987年)
所属 丹下都市建築設計
建築物 広島平和記念公園
代々木第一体育館
東京都庁舎
代々木第一体育館 1964

丹下 健三(たんげ けんぞう、1913年9月4日 - 2005年3月22日)は日本建築家都市計画家大阪府出身。「世界のタンゲ」と言われ、日本人建築家として最も早く日本国外でも活躍し、認知された一人。第二次世界大戦復興後から高度経済成長期にかけて、多くの国家プロジェクトを手がける。 また磯崎新黒川紀章槇文彦谷口吉生などの世界的建築家を育成した。従三位勲一等瑞宝章文化勲章受章。フランス政府よりレジオンドヌール勲章受章。カトリック教徒(洗礼名:ヨセフ)。

年譜

業績

広島平和記念資料館 1955
広島平和記念資料館 1955
香川県庁舎(現・東館) 1958
東京カテドラル聖マリア大聖堂 1964
東京カテドラル聖マリア大聖堂 1964
山梨文化会館 1967
山梨文化会館 1967
東京都庁舎第一本庁舎 1991
東京都庁舎第一本庁舎 1991

1939年、丹下は雑誌『現代建築』に論文「ミケランジェロ頌-ル・コルビュジエ論への序説として-」[注 2]を発表し、つづく1941年に前川国男建築設計事務所で岸記念体育会館[注 3]の設計を担当するも、その名が一躍世に知られるようになったのは、1942年の大東亜建設記念営造計画[注 4][4]コンペと、それに立て続いて一等入選を果たした、1943年の在盤谷日本文化会館計画コンペによってであった。

特に大東亜建設記念営造物コンペの丹下案「大東亜道路を主軸としたる記念営造計画-主として大東亜建設忠霊神域計画-」は、横山大観風の日本画を想わせるそのパースペクティブ(透視図)ともあいまって、本来建築学会の若手を対象にした懸賞行事であり、それゆえ到底実施案となり得ないこの地味なコンペをして、後世まで人々の記憶に留めさせることとなった[1]

同時期の大学院時代から戦後しばらくにかけては、主に都市計画の研究・業務に従事。人口密度や交通現象、都市デザイン等の研究を続け、それらの成果を戦後に建築学会で発表。のちに1959年に学位論文「都市の地域構造と建築形態」としてまとめ上げる。また、1946年8月に東京大学助教授就任すると、福島市の依頼による福島地区都市計画(1947年)や立川基地跡地の文化都市計画、北海道稚内市の都市計画(1950年から1952年まで)などを手がけていく。その間1948年には「建築をめぐる諸問題」、また二年後の1950年には、経済安定本部資源調査会事務局地域計画班の依頼による「地域計画の理論」という2つの計画関連の研究小論文を執筆しているほか、戦災復興事業の一環で行われた東京都都市計画コンペや文教都市計画、1947年から戦災復興院(後の建設省。現国土交通省)による各地の戦災復興都市計画に参加していく。当初は群馬県前橋市と伊勢崎市を担当した。

広島に原爆が投下された1945年8月6日には、父危篤の知らせを受けて帰郷の途にあり尾道にいたが、焼け野原となって跡形も無くなっていた実家に到着した翌日、父はすでに2日に他界しており[注 5]、またヒロシマと同じ6日の日に行なわれた今治への空襲によって、最愛の母をも同時に失っていたことを知らされる。壊滅的被害を受けた広島は、外国の雑誌でル・コルビュジエソビエト・パレス[5]計画案と出逢い、建築家を志した想い出の地でもあった。その広島の復興計画が戦災復興院で俎上にのぼっていることを知るに及んで、残留放射能の危険性を心配されるたにもかかわらず、丹下は志願して担当を申し出た[2]浅田孝大谷幸夫ら東大の研究室のスタッフとともに1946年の夏に広島入りし、都市計画業務に従事した。その成果は、広島市主催の広島平和記念公園のコンペに参加した際、見事一位で入選という形で結実する。

他の計画案が公園内のみを視野に入れた設計案にとどまったのに対して、丹下は広島市を東西に貫く平和大通り(幅員100m、長さ4Kmにわたる通称100メートル道路)と直交する南北軸線上に慰霊碑と原爆ドームを配し、その計画案の都市的スケールが、コンペで高く評価された理由である[3]。広島の復興計画において、この市街地を十字型に貫く都市軸を通したことで、戦後の広島市の骨格を作ったのは丹下であると言える[4]。またこれにより、当時は単なる一廃墟に過ぎなかった原爆ドームにスポットライトを当て、中心性を持った都市空間として広島を再建する上での、ランドマークとしての「原爆ドーム」を発見したのは、事実上、丹下であると言うことが出来る[5]

実際、1966年(昭和41年)7月の広島市議会において、満場一致でその永久保存が決まるまで、「原爆による惨禍の証人として保存する」意見と、「危険物であり、被爆の惨事を思い出したくないので取壊す」との意見の対立があったのである[6]。しかしながら現在に至ってみれば、日清戦争当時大本営がおかれて臨時首都となり、明治以来、広島城を戴く広大な西練兵場を都心部に抱えた軍都として発展して来た廣島市[7]が、平和都市広島に生まれ変わるためには、広島城に代わる新たなシンボリックな遺構をそこに設定する必然性が確かにあり[8](原爆で倒壊焼失した広島城が再建されるのは、1958年〈昭和33年〉のことである[9])、それを見抜いた丹下の方に、都市計画家としての先見性があったと評価出来る[10]

同時期、戦後建築界の幕開けを告げる当時最大級のコンペであった世界平和記念聖堂の建築競技設計でも衆目を集めるが、施主であるカトリック教会が、丹下案と類似するオスカー・ニーマイヤー設計のパンプーリャの聖フランシス教会に見られる放物線状のシェル構造が持つ、その非宗教伝統的な形体と音響の悪さを嫌って、丹下案は不採用(一等なしの二等当選)となった。後にその実施は、コンペの審査委員の一人で、コルビュジエ派である丹下案を酷評した表現派村野藤吾が担当することになり、建築界の一大スキャンダル[注 6]となる。

そのような経緯もあって、広島平和記念資料館は、若年期を資材の払底した戦中戦後に過ごさざるを得なかった丹下健三の事実上のデビュー作となった。端正なプロポーションを都市的スケールのピロティで軽々と大地から持ち上げることによって、広島の焦土からの復興を力強く印象づけ、戦後の日本建築はここから始まったと言われるほどの記念碑的な作品となった。コルビュジエのスイス学生会館ソビエト・パレス、またユニテ・ダビタシオンの影響だけでなく、法隆寺厳島神社の伽藍配置、また正倉院伊勢神宮桂離宮などの日本建築の精華にデザインソースを求めた[注 7]これら一連の広島ピースセンターの建築によって、西洋起源のモダニズムと日本建築の伝統様式は初めて記念碑的レヴェルで結晶し、丹下はこの広島計画[6]をもって、CIAM(シアム・ 近代建築国際会議)に参加し、その名を日本国外に知らしめた。

また、丹下はこの事業にイサム・ノグチを強く推して参加させたが、当時建設省の広島平和記念都市建設専門委員会委員長であり、また丹下の恩師でもあった岸田日出刀の「原爆を落とした当のアメリカ人の手になるもので、爆死者の慰霊になるのか」という強い反対意見により、慰霊碑はノグチのデザインが却下され、丹下自身が担当することになった。丹下は、岸田らの介入に対する不快感とノグチへの申し訳なさもあって[注 8]、あえてノグチのデザインをほぼそのまま流用して埴輪の家の屋根形にデザインしたが、結果的にそれが慰霊の際、ノグチの手になるモニュメンタル性の強いオブジェ[7]を拝む形になるのではなく、人々が慰霊碑に相対したとき、視線の先に原爆ドームが自然に垣間見える様になって、平和公園は単なる慰霊施設ではなく、平和を祈念し「平和を創り出すための工場」であるべきだという丹下の建設理念[注 9]は、より明確となった。そこから、後にこれらの施設がピースセンターと呼ばれることにもなる。

その後、スチール製グリッドのシャープなエッジを見せた旧東京都庁舎や、日本伝統木造建築の木割り(日本の伝統的な木造建築において、各部分の大きさや寸法を規定する規範または原理。西洋建築におけるオーダーにあたる)をコンクリートで稠密に再現した香川県庁舎などの、いわゆる広島ピースセンターと合わせて初期三部作と呼ばれる傑作を設計した。とりわけ香川県庁舎は戦後の全国の地方自治体庁舎のモデルともなり、数多い丹下建築の中でも唯一のビルディング・タイプとなった建築である[11]1961年丹下健三・都市・建築設計研究所を設立。同年発表された海上都市計画「東京計画1960」は、日本発の都市計画の嚆矢として世界的にも評価が高い。丹下は生涯にわたって「建築家としてトータルに都市をデザインすること」に情熱を持ち続たが、それが都市的観点から構想された数々の総合的な建築計画となって現われ、その点が他の同世代の巨匠建築家と比較して、違いが際立っているところである[12]

壮年期の丹下は、シェル構造折板構造などの海外からもたらされる様々な新技術や新思潮を精力的に消化しながら、1964年東京カテドラル聖マリア大聖堂東京オリンピック国立屋内総合競技場(正式名称:国立代々木屋内総合競技場)において、自身の建築歴の頂点を極めることになる。両作品ともに当時の最先端の構造技術を咀嚼しながらも独自の発展を見せ、東京カテドラル聖マリア大聖堂ではHPシェル構造を用い、国立屋内総合競技場では吊り構造を用いて、両者ともに構造と形態を高度な次元で融合させながら、かつ至高性をも表現することに成功したモダンデザインの傑作である。前者は現代キリスト教会建築の中でも屈指のものであり、後者はコルビュジエのソビエト・パレス案から、マシュー・ノヴィッキーのノースカロライナ・アリーナ(ローリー競技場)を経て、エーロ・サーリネンイェール大学アイスホッケーリンクに至る流れの中で、吊り構造の決定打にして完成作とも評され、世界に衝撃を与えた[13]

特に東京オリンピックプールの評判[注 10]は素晴らしく、アメリカ水泳選手団の団長は感激のあまり「将来自分の骨を飛び込み台の根元に埋めてくれ」と申し出たと伝えられる程であった[14]。大会後、IOC(国際オリンピック委員会)は、東京都ならびに日本オリンピック組織委員会とともに、丹下健三を特別功労者として表彰した。ここに、ひとりの建築家[注 11]が建築表現の持つ力により、その社会に与える影響の大きさにおいて、主催者である行政や組織と比肩しうるものであることを全世界に実証したのである[14]。それ以降、丹下健三の名は世界の人々に広く知られるところとなり、日本国外のビッグプロジェクトにも多く携わることになった。

1970年大阪万博では、京都大学教授の西山夘三と共に総合プロデューサーをつとめ、その中心施設であるお祭り広場の設計も手がけた。大屋根をジャッキによる先駆的なリフトアップ工法で持ち上げ、それを太陽の塔が突き破ってそそり立つという岡本太郎とのコラボレーションは、今日に至るまでの語り草になっている。

建築のスタイルは本来モダニズム系統であり、当初はポストモダン建築を単なる意匠だと批判していたが、晩年にはポストモダンの傾向も取り入れた東京都庁や日光東照宮客殿・新社務所などの作品もある。最後の大作である東京都新庁舎は、ゴシック建築であるノートルダム大聖堂パリ)の双塔の形態を引用するとともに、外壁面を複雑に凹凸させて陰影を深くし、さらに外壁PC板に濃淡二種類の花崗岩を打ち込むことによって、フェイクではあるが一見窓のようにも見せ、実際の窓枠よりもさらに細かく割るデザイン処理によって重厚さ[注 12]を演出した。丹下自身の言によれば、格子戸を思わせるデザインで和風を感じさせると同時に、情報化時代をIC(集積回路)のグリッドパターンで象徴させた所にポストモダン性があるとしている[15]

評価

日本の近代建築は、戦前においても西洋先進諸国と遜色ないレヴェルに達していたが、丹下の東京オリンピック国立屋内総合競技場(代々木体育館)によって初めて世界のトップレベルに引き上げられたと言ってよい。以後、日本建築界が非西洋諸国の枠を超え、質・量ともに世界の建築界の中でも傑出した地位を築く道を後進へと開いたと言える。戦後の日本建築界の重鎮であり、昭和という時代の国家的プロジェクトを背負い続けた建築家であるが、高度成長が終わり開発が一段落した大阪万博以後、その活躍の場は必然的に中東アフリカ、また東南アジア発展途上国に移っていった。唯一とも言える例外はイタリアである。

自らがアイデアを出しそれを単にスタッフに図面化させるのではなく、建築設計のオーケストレーションとも言えるプロダクション制を導入し、協同で設計する手法を確立した[16]それにより後年、大谷幸夫浅田孝沖種郎槇文彦神谷宏治磯崎新黒川紀章谷口吉生らの多くの優れた人材を輩出することになったが、反面、特に1980年以降の作品において独創性が犠牲にされたとの批判もある[17]

東京都庁舎(新都庁舎、1991年竣工)では指名コンペが行われたが、鈴木俊一都知事との強いつながりを持つ丹下案が大方の予想通り当選し、「出来レース」とも評された[18][19]。鈴木俊一とのつながり[注 13]は、鈴木が東京オリンピックの準備のため地方自治庁(後の自治省。現総務省)から東京都副知事に出向したことにさかのぼり、その後鈴木が大阪万博の事務局長に就任したこともあって、のちに丹下は鈴木の都知事選初出馬の際、その後援団体「マイタウンと呼べる東京をつくる会」の会長をつとめている。建築関係者からは「自身のスタイル・信条であったはずのモダニズムを捨て、かつて出口なしとまで批判したポストモダニズムにすり寄り、大衆に媚を売ってまでコンペに勝ちたかったのか」とか「すでにある新宿超高層ビル群に最も高いビルを加えただけであり、目新しいアイデアがない」などの厳しい批判を受けた[20][21][22]

一方、出来レースとの批判が予想される中、重鎮となってなおその批判をはね除けるに足る圧倒的なパフォーマンスでコンペを勝ち抜く図太さや老獪さ、また成功した過去の自分のスタイルに拘泥しない柔軟さや、記念碑性を含めたデザイン意図の的確さといった点を評価する者もある[23][24]。建築の専門家ほど酷評する傾向にあるが、一般には受けが良いようであり、完成以来観光名所となって新宿副都心のランドマークとして認知されている[25][24]

かつて、ソビエト・パレスとの出会いが、大学受験間際になって志望を建築学科に変えさせたように、丹下に対するコルビュジエの強い影響は、卒業設計においても鮮明に出ている。そのことは、後年自らの作品に、コルビュジエ由来のデザインを数多く引用していることでも明きらかであるが、そのコルビュジエの計画案のひとつであるソビエト・パレスの圧倒的な影響のもとに、一対のマッス(量塊)と直交する軸線上の先にアイストップ(視線がとまる対象物)を配置するというプランは構想され、大東亜建設記念営造計画から、広島平和記念公園ナイジェリアの新首都新首都アブジャ都心計画に至るまでたびたび用いられて、丹下の十八番となった。

一方で、ランドスケープにおいて対称軸を通すということや、広場にモニュメンタルな象徴性を持たせるということを、ミケランジェロカンピドリオ広場からの影響と見て取ることも出来る。丹下自身は晩年に至って、古今東西の建築家のなかで誰が一番かと問われると、コルビュジエよりもミケランジェロの方が上だと言い、そのことは、出世論文のタイトル「MICHELANGERO頌」(「頌」とは誉め讃えるの意)においても明確に示されている。丹下はその論文の中でハイデガーヘルダーリン論を援用し、グロピウス流の四角四面な建築幾何学から離れて、建築が自由な創造行為に昇華される過程で聖性(至高性・精神性)をも獲得し、社会的要請が建築を作るのではなく、建築家が建築行為を通じて世界を再創造していくという論旨を展開し、コペルニクス的転回によって建築と歴史との関係性を逆転させている[26]

つまり、丹下はコルビュジエの近代建築の語法を用いながら、近代建築にミケランジェロの芸術の持つ宗教的な記念碑的超越性をもたらせることをめざしているのである。そのことが個人生活においては、建築するという行為への献身的な専心となって表れ、建築設計においては都市計画への強い関心となって現れた。かつてミケランジェロがルネサンスにおいて、サンピエトロ大聖堂大改築の主任設計士として中世を超克しようとしたように、あるいはマニエリスムの自由な芸術表現によってルネサンス様式そのものを超克しようとしたように、精神史の上でコルビュジエがいうところの「建築をめざして」、近代を建築の力によって超克することを丹下はめざしたのである[27]。そしてそのことを、目論見の成否は別にして、若き頃傾倒したマルクス主義に対する挫折からの脱却をめざした「大東亜記念営造計画」から、敗戦の挫折においては、焦土からの脱却を「広島ピースセンター」で、同じく名誉的には三等国から一等国への国際的復帰を「代々木オリンピックプール」で、さらには実質的な面においては経済大国への脱皮を「大阪万国博覧会」の総合プロデュースによって、また大阪万博以降、力の振るいどころがなくなった日本国内への帰還をめざした「新都庁」に至るまで、生涯一貫して追求し続けていたと総括することが出来る[28]

建築史家の藤森照信によれば、丹下健三ほど純粋な建築家はなく、建築以外の分野にも、また自身の過去にも興味がなかったという[29]。事実、これだけの巨匠でありながら、生前MoMA(ニューヨーク近代美術館)に請われながらでさえ、過去一度も回顧展の類いが催されることがなかった[30]。なお、丹下自身は東京オリンピック国立屋内総合競技場(代々木体育館)と山梨文化会館を代表作だとしている[31]

2005年3月22日心不全のため91歳で死去した際には、自ら設計した東京カテドラル聖マリア大聖堂で葬儀が行われた。葬儀では、磯崎新が時折涙で声を詰まらせながら弔辞[注 14]を読んだ[30]。生前カトリックの受洗に与っており、洗礼名は聖母マリアの夫であり大工でもあったヨセフであったことが、その時人々に知られた[30]

2006年4月、広島平和記念資料館1955年、広島市中区中島町)が、村野藤吾世界平和記念聖堂1953年、広島市中区幟町)とともに、戦後建築としては初めての重要文化財(建造物)指定となっている。

主要作品

建築作品

丹下健三・都市・建築研究所名義のものも含む

都市計画・都市構想

丹下健三・都市・建築研究所名義のものも含む

参考文献

  • 丹下健三・藤森照信『丹下健三』新建築社、2002年。ISBN 4-7869-0169-5 
  • 丹下健三『丹下健三 - 一本の鉛筆から -』日本図書センター、1997年。ISBN 4-8205-4300-8 
  • 日経アーキテクチュア 編『丹下健三 - 時代を映した“多面体の巨人”-』日経BP社、2005年。ISBN 4-8222-0476-6 
  • SD編集部 編『丹下健三1』鹿島出版会〈現代の建築家〉、1980年。ISBN 4-306-04115-8 
  • SD編集部 編『丹下健三2』鹿島出版会〈現代の建築家〉、1984年。ISBN 4-306-04166-2 
  • SD編集部 編『丹下健三3』鹿島出版会〈現代の建築家〉、1988年。ISBN 4-306-04237-5 
  • SD編集部 編『丹下健三4』鹿島出版会〈現代の建築家〉、1991年。ISBN 4-306-04310-x{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 
  • 『丹下健三を知っていますか?』マガジンハウス〈ムック〉、2009年。ISBN 4-8387-8558-2{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 
  • 「追悼・丹下健三」『Casa BRUTUS』第6巻第6号、マガジンハウス、2005年6月。 
  • 「追悼・丹下健三」『新建築』第80巻第5号、新建築社、2005年5月、ISSN 1342-5447 
  • 磯崎新『見立ての手法』鹿島出版会、1990年。ISBN 4-306-09315-8 
  • 磯崎新『建築における「日本的なもの」』新潮社、2003年。ISBN 4-10-458701-x{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 
  • 平松剛『磯崎新の「都庁」- 戦後日本最大のコンペ -』文芸春秋、2008年。ISBN 4-16-370290-2{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 
  • 井上章一『夢と魅惑の全体主義』文芸春秋〈文春新書〉、2006年。ISBN 4-16-660526-7 
  • 飯島洋一『王の身体都市 - 昭和天皇の時代と建築』青土社、1996年。ISBN 4-7917-5450-6 
  • 五十嵐太郎『美しい都市・醜い都市』中央公論新社〈中公新書ラクレ228〉、2006年。ISBN 4-12-150228-0 
  • 越後島研一『現代建築の冒険-「形」で考える-日本1930~2000』中央公論新社〈中公新書1724〉、2003年。ISBN 4-12-101724-2 
  • 高階秀爾・鈴木博之・三宅理一・太田泰人 編『ル・コルビュジエと日本』鹿島出版会、1999年。ISBN 4-306-04381-9 
  • 宮内嘉久『前川國男 賊軍の将』晶文社、2005年。ISBN 4-7949-6683-0 
  • 建築三粋人『東京現代建築ほめ殺し』洋泉社、1997年。ISBN 4-89691-254-3 
  • 桐敷真次郎『近代建築史』共立出版、2001年。ISBN 4-320-07662-1 
  • 桐敷真次郎『西洋建築史』共立出版、2001年。ISBN 4-320-07660-5 
  • ケネス・フランプトン 著、中村敏男 訳『現代建築史』青土社、2002年。ISBN 4-7917-6014-x{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 
  • マンフレッド・タフーリ&フランチェスコ・ダル・コ 著、片木篤 訳『近代建築[2]』本の友社〈図説世界建築史16〉、2003年。ISBN 4-89439-448-0 
  • 濵井信三『原爆市長』(非売品(図書館で閲覧出来ます)/ 浜井信三『原爆市長-ヒロシマとともに二十年』朝日新聞社、1967年の復刻版)濵井順三・濵井文子・藤田加代子、2006年。ASIN B000JA71I0 
  • 東琢磨『ヒロシマ独立論』青土社、2007年。ISBN 4-7917-6345-0{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 
  • 安斎育郎 編『ヒロシマ・ナガサキ』立命館大学国際平和ミュージアム、岩波書店、2007年。ISBN 4-00-130157-1 
  • 中国新聞社メディア開発局出版部『被爆50年写真集 ヒロシマの記録』中国新聞社、1995年。ISBN 4-88517-219-5 
  • 中国新聞ヒロシマ50年取材班『検証ヒロシマ1945-1995』中国新聞社、1995年。ISBN 4-88517-224-1 

丹下事務所・丹下研究室出身の建築家

脚注

注釈

  1. ^ 先妻との間に2男1女があり、先妻の病没後に後添えとして入って2男2女をもうけたテイにとっては、第2子にして初めての男子にあたる。
  2. ^ 正確なタイトル名は「MICHELANGERO頌-Le Corbusier論への序説として-」である。
  3. ^ 代々木にある同名の建物とは別物であり、現存しない。正確には、岸田日出刀設計顧問、前川國男建築設計事務所設計監理であるが、実際に設計を担当したのは丹下健三である。丹下健三・藤森照信 2002、67頁。事実、発表に当たって前川と共に丹下の名前も並記されている。Casa BRUTUS 2009、84頁。
  4. ^ 大東亜建設記念営造計画は誤って「造営」と表記される事も多いが、正しくは「営造」である。なお大東亜建設記念営造計画案と広島計画との比較はこちらを参照されたい。→[1] [2]
  5. ^ 丹下健三1997、41頁には「郷里から『チチシス』の電報が届いた。」との記述があるが、丹下健三・藤森照信 2002、112頁の丹下のインタビューの言葉「8月の2日かな、親父が今治で危篤だという知らせを受けまして」に従った。
  6. ^ 日本的かつカトリック的な近代キリスト教会建築という建築設計競技のコンセプトに対する解答者としては、結果的に見て丹下より村野の方が適任であったと言える。また村野本人は設計料を受け取ることを辞退した。
  7. ^ 広島ピースセンター設計にあたり、法隆寺や伊勢神宮や桂離宮を参照したとは丹下自身の言であるが、桂の影響は言わずもがな、伊勢の影響は平和記念資料館本館(コンペ時は原爆災害資料陳列館)のピロティ柱に見て取る事が出来る。資料館の原イメージとして当初意識していた正倉院の高床式校倉造りでは、原爆被災からの復興という「力強さ」に欠けると丹下が直感したからである。ヒューマンスケールと明確に隔絶する都市的スケールで持ち上げられたピロティの空隙を「中心性の空虚」と捉え直せば、左右非対称のマッス(量塊)を両翼に展開させたその構成を、法隆寺における日本独自の伽藍配置からの影響と見て取ることも可能である。現在のピースセンターは、一見オーソドックスなシンメトリーな配置に見えるが、コンペ段階で西ウィングに計画されていたのは、台形状のボリュームを持つ集会場(後の公会堂。現・国際会議場)であり、東ウィングの現・平和記念資料館東館(コンペ時は平和会館。後の平和記念館)と対になるようにそれを模して改装された今となっては、その横幅の違いに法隆寺のアシンメトリーな伽藍配置の影響の名残を見出すことが出来る。しかしながらランドスケープを素直に読み解けば、大鳥居をシンボライズした厳島神社の伽藍配置とコルビュジエのソビエト・パレス案からの影響とするのが妥当であろう。
  8. ^ 検証ヒロシマ、36-37頁には「(委員の中に)『原爆を落とした国の人間がつくった慰霊碑なんて』という人がいたんです。丹下さんはその板挟みになり最後はイサムに『自分の力ではどうにも…』と手をついて兄イサムに謝った」という記述がある。また平松剛2008、263頁には「丹下は広島市長と問題解決のために奔走し、時にはノグチ本人も加わって建設大臣にまで訴えたけれど、決定はどうしても覆らなかった。」という記述もある。
  9. ^ この丹下の考えのベースにあったのは1949年(昭和24年)8月6日に公布された広島平和記念都市建設法(法律第219号)である。この法律の目的は「恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設すること」であり、広島市を他の戦災都市と同じように単に復興するだけでなく、恒久平和を象徴する平和記念都市として建設しようということであった。丹下は広島市の復興都市計画策定の初期から関わっており、その理念を可視化することが彼に与えられた使命であった。
  10. ^ 幾度にも渡る改修を経てプール施設は半恒久的に体育フロアとして仮構され、汚れの目立ったコンクリート打ち放し面が塗装されたほか、特にインテリアにおいて内部空間を引き締めていた飛び込み台が撤去されるなど、往時の持っていた至高性が著しく失われたと評される向きがあり、建築界からも建設当時の趣きを保存し再現せよとの声がある。→新建築2005-5「至高の空間」槙文彦、24頁。
  11. ^ もちろん丹下ひとりの力ではなく、神谷宏治、構造担当の坪井善勝川口衞、設備担当の井上宇市尾島俊雄ほか、多くのスタッフの協同の賜物であることは言うまでもない。特に1953年の「広島子供の家」よりコンビを組んで来た構造家坪井善勝の力は大きく、構造設計のスタッフの中には「あれは、我々がデザインした」と言い切る者が何人もいるという。新建築2005-5、23頁。
  12. ^ 同時期の丹下設計による同形のデザインであるシンガポールOUBプラザの(主な作品・外観画像を参照のこと)間延びした感じと比較対照すると、公共建築でありながらコストが掛かり過ぎるとの批判にもかかわらず、記念碑性を欲した丹下が花崗岩打ち込みにこだわったデザイン意図が理解出来よう。
  13. ^ 鈴木自身の回想によれば、丹下とは東京オリンピック以前に既に知り合いであり、電力業界の大物・松永安左エ門1956年(昭和31年)に組織した民間のシンクタンク「産業計画会議」で関わりがあったと言う。そこでの議題のひとつに東京臨海部の開発計画があり、丹下は当時住宅公団総裁だった加納久朗とともに、東京湾に巨大人工島を造る計画を提案しており、これが後に「東京計画1960」に繋がって行くことになる。平松剛2008、275-276頁。
  14. ^ 本来ならば一個人の弔辞であるが、期せず簡にして要を得た優れた「丹下論」になっているので、参照されたい。→[3]

出典

  1. ^ 井上章一2006、289-292頁。
  2. ^ 丹下健三1997、62頁。
  3. ^ 丹下健三・藤森照信2002、139-143頁。
  4. ^ 丹下健三・藤森照信2002、142-143頁。
  5. ^ 井上章一2006、297-298頁。
  6. ^ ヒロシマ・ナガサキ、86頁。
  7. ^ 東琢磨2007、33-36頁。
  8. ^ 濵井信三2006、57-64頁。
  9. ^ ヒロシマの記録、137頁。
  10. ^ 丹下健三1997、64-65頁。
  11. ^ 丹下健三・藤森照信 2002、184頁。
  12. ^ Casa BRUTUS 2009、84頁。
  13. ^ Casa BRUTUS 2009、146頁。
  14. ^ a b 丹下健三・藤森照信 2002、326頁。
  15. ^ 日経BP 2005、118頁。
  16. ^ 平松剛2008、170-172頁。
  17. ^ 平松剛2008、283-284頁。
  18. ^ 平松剛2008、351-359頁。
  19. ^ 五十嵐太郎2006、222頁。
  20. ^ 平松剛2008、25-29、452頁。
  21. ^ 建築三粋人1997、75頁。
  22. ^ 宮内嘉久2005、171-172頁。
  23. ^ 平松剛2008、338-345、351-359頁。
  24. ^ a b 五十嵐太郎2006、221-224頁。
  25. ^ 平松剛2008、457頁。
  26. ^ 丹下健三・藤森照信 2002、57、62-65頁。
  27. ^ ル・コルビュジエと日本、200-203頁。
  28. ^ 論拠を丹下健三・藤森照信2002の詳解な立論に負う。とくにその「第2章 学生時代」「第3章 修業時代-前川事務所にて-」を参照。
  29. ^ Casa BRUTUS2005-6、45頁。
  30. ^ a b c 新建築2005-5、20頁。
  31. ^ 越後島研一2003、88頁。

関連項目

外部リンク

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