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{{Infobox Scientist
| name = マリア・スクウォドフスカ=キュリー[[ファイル:Nobel prize medal.svg|20px]]
| image = Marie Curie 1903.jpg
| caption = 1903年、最初のノーベル賞(物理学賞)を受賞した頃
| birth_date = {{生年月日と年齢|1867|11|7|no}}
| birth_place = [[ワルシャワ]]、[[ポーランド立憲王国]]
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1867|11|7|1934|7|4}}
| death_place ={{Flagicon|FRA}} [[フランス]]
| residence =ポーランド(帝政ロシア)、フランス
| nationality = {{Flagicon|POL}}ポーランド
| field = [[物理学]]・[[化学]]
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| alma_mater = [[パリ大学]](ソルボンヌ)
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| known_for = [[放射能]]の研究<br />[[ラジウム]]の発見<br />[[ポロニウム]]の発見
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'''マリア・スクウォドフスカ=キュリー'''(Maria Skłodowska-Curie, [[1867年]][[11月7日]] &ndash; [[1934年]][[7月4日]])は[[ポーランド]]([[ポーランド立憲王国]])出身の[[物理学者]]・[[化学者]]。フランス語名は'''マリ・キュリー'''(Marie Curie)。[[ワルシャワ]]生まれ。'''キュリー夫人'''(Madame Curie)として有名である。
'''マリア・スクウォドフスカ=キュリー'''(Maria Skłodowska-Curie, [[1867年]][[11月7日]] - [[1934年]][[7月4日]])は、現在の[[ポーランド]]([[ポーランド立憲王国]])出身の[[物理学者]]・[[化学者]]。フランス語名は'''マリ(マリー)・キュリー'''(Marie Curie)。[[ワルシャワ]]生まれ。'''キュリー夫人'''(Madame Curie)として有名である。[[放射線]]の研究で、1903年の[[ノーベル物理学賞]]、1911年の[[ノーベル化学賞]]を受賞し<ref>{{cite web | title = Nobel Laureate Facts | url = http://nobelprize.org/nobel_prizes/nobelprize_facts.html|language=英語 |accessdate =2010-12-10}}</ref>、パリ大学[[:en:University of Paris|(en)]]初の女性教授職に就任した。[[放射能]] (radioactivity) という用語は彼女の発案による<ref>[[#Robart1974|Robert (1974)、p.184]]</ref>


== 生涯・事跡 ==
== 生涯 ==
=== 幼少時 ===
フランスの[[ソルボンヌ大学]]を卒業。夫の[[ピエール・キュリー]]ともに、大量の[[ピッチブレンド]]([[瀝青ウラン鉱]])の残渣から[[ラジウム]]と[[ポロニウム]]を精製、発見した。
[[File:Marie Curie birthplace.jpg|thumb|left|175px|マリの生誕地。ワルシャワのニュータウン[[:en:Warsaw New Town|(en)]]にあり、現在はマリア・スクウォドフスカ=キュリー博物館[[:en:Maria Skłodowska-Curie Museum|(en)]]となっている。]]
[[File:Sklodowski Family Wladyslaw and his daughters Maria Bronislawa Helena.jpg|thumb|left|175px|ブワディスカ・スクウォドフスキと3人の娘たち。左から、マリ、ブワディスカ、ヘラ]]
生誕時の名前はマリア・サロメ・スクウォドフスカ(スクロドフスカ<ref name=Koizumi1>{{cite web|url=http://www.jfcr.or.jp/Ra100/innervision/koizumi-1.html |title=キュリー夫妻の業績と生涯 マリア・スクロドフスカとその時代|author=小泉英明|year=1998年|publisher=㈱医療科学社 月刊INNRRVISION 1998年4月号/財団法人 癌研究所|language=日本語|accessdate=2010-12-10}}</ref>)(Maria Salomea Skłodowska)。父ブワディスカ・スクウォドフスキ(スクロドフスキー<ref name=Koizumi1 />)は下級貴族階級出身で、[[帝政ロシア]]によって研究や教壇に立つことを制限されるまでは[[ペテルブルク大学]]で[[数学]]と[[物理]]の教鞭を執った[[科学者]] <ref name=Eve19>[[#エーヴ2006|エーヴ (2006)、pp.19-34、マーニャ]]</ref>。父方の祖父ユゼフも物理・[[化学]]の教授であり、[[ルブリン]]で若い頃のボレスワフ・プルフ[[:en:Bolesław Prus|(en)]]も師事した<ref>[[#Robart1974|Robert (1974)、p.12]]</ref>。母ブロニスワバ・ボグスカも下級貴族階級出身で、女学校([[ボーディングスクール]])の校長を勤める教育者だった<ref name=Eve19 /><ref name=Gold14>[[#ゴールドスミス2005|ゴールドスミス (2005)、pp.14-24、第一章 マリーを育てたもの]]</ref>。


マリは5人兄弟の末っ子で、姉ゾフィア(1862年生)、ブロスニワバ(母と同名、1865年生)、ヘラ(1866年生)、兄ユゼフ(祖父と同名、1863年生)。その中でもマリアは幼少の頃から聡明で、4歳の時には姉の本を朗読でき、記憶力も抜群だった<ref name=Gold14 />。
[[1903年]]に夫婦で[[ノーベル物理学賞]]を受賞した。夫ピエールは[[1906年]]に事故死したが、彼女は[[1911年]]に単独で[[ノーベル化学賞]]を受賞した。


だが当時、ポーランドは[[ウィーン会議]]にて分割され、[[ワルシャワ公国]]はポーランド立憲王国として事実上帝政ロシアに併合された状態にあり、独立国家の体をなしていなかった<ref name=Koizumi1 />。帝政ロシアは知識層を監視して行動に制約をかけた。マリ6歳の時、父ブワディスカが密かに講義を行っていたことが発覚して職と住居を失った。さらに母ブロニスワバも身体を壊してしまった。投機への失敗も重なり<ref name=Eve35>[[#エーヴ2006|エーヴ (2006)、pp.35-50、暗い日々]]</ref>貧窮した一家は移り住んだ家で小さな寄宿学校を開いたが、1874年に生徒が罹患した[[チフス]]が一家に移り、姉ゾフィアが亡くなった。1878年には母ブロニスワバが[[結核]]で他界した。14歳のマリは深刻な鬱状態に陥り<ref name=Gold14 />、母に倣った[[カトリック]]の信仰を捨て<ref name=Eve35 />、[[不可知論]]の考えを持つようになったという<ref>{{Cite book| last = Reid| first = Robert William| title = Marie Curie| year = 1974年| location =ロンドン| publisher = Collins| page = 19| copyright = 1974| isbn = 0-00-211539-5}} "Unusually at such an early age, she became what T.H. Huxley had just invented a word for: agnostic."</ref>。
夫が事故死した後、夫の弟子の物理学者[[ポール・ランジュバン|ランジュバン]]と恋愛関係にあるとマスコミに書き立てられ、彼女の科学者としての名声にもかかわらずフランスの[[外国人嫌悪|外国人嫌い]]の犠牲になった。これが原因で、[[科学アカデミー (フランス)|科学アカデミー]]会員に選ばれることはなかった。


=== 家庭教師のキャリアと破れた恋 ===
1934年5月、体調不良で療養所に入院した。同年7月4日、研究の影響による[[白血病]]で死去した。{{没年齢|1867|11|7|1934|7|4}}。亡骸はパリ郊外のソーに埋葬されたが、1995年、夫ピエールの遺体と共にパリの[[パンテオン (パリ)|パンテオン]]に改葬されている。
1883年6月に[[ギムナジウム]]を優秀な成績で卒業した<ref name=NRPB>{{cite web|url=http://wwwsoc.nii.ac.jp/jarap/data/nrpb_205.html |title=「NRPB Bulletin」最新号から|year=1998年|author=放射線防護問題協議会|publisher=国立情報研究所 学協会情報発信サービス|language=日本語|accessdate=2010-12-10}}</ref>。 しかし当時、女性には進学の道は開かれていなかった<ref name=Eve51>[[#エーヴ2006|エーヴ (2006)、pp.51-72、少女時代]]</ref>。父は、マリを親戚やかつての教え子が住む田舎で息抜きさせ、彼女は自然の中でのんびりした生活を堪能した<ref name=Eve51 />。


[[File:Marie Sklodowska 16 years old.jpg|thumb|right|175px|マリア・スクウォドフスカ。16歳(1883年)<ref>Helena Skłodowska-Szalay: Ze wspomnień... Nasza Księgarnia, Warsaw, Poland, 1958</ref>]]
[[ファイル:Dyplom_Sklodowska-Curie.jpg|thumb|left|200px| マリ・キュリーの1911年のノーベル賞賞状]]
[[File:Krakowskie Przedmiescie, Warsaw.JPG|thumb|upright|農工博物館の実験室。1890年から1891年にかけて、マリが初めて科学実験をおこなった場所。]]
彼女は女性としては最初のノーベル賞受賞者であり、物理学賞と化学賞を受けた唯一の人物である<ref>他にノーベル賞を2度受賞した人物には、[[ジョン・バーディーン]](物理学賞を2回)、[[フレデリック・サンガー]](化学賞を2回)、[[ライナス・ポーリング]](化学賞と平和賞)がいる。</ref>。彼女の功績を称え[[放射能]]の単位「[[キュリー]]」に、また[[パリ大学]]のキャンパスに名が残る。パンテオンの近くにある国立科学学校で当時彼女が活動した研究棟は現在キュリー夫妻博物館となっている。彼女の肖像は祖国ポーランドの旧20000[[ズウォティ]]紙幣に描かれたほか、夫のピエールと共にフランス最後の500フラン紙幣に描かれている。
その後ワルシャワに戻って[[チューター]]などを勤めていたが<ref name=Eve73>[[#エーヴ2006|エーヴ (2006)、pp.73-88、使命]]</ref>、ピャセツカという女性教師の紹介で非合法の「さまよえる大学[[:en:Flying University|(en)]](ワルシャワ移動大学<ref name=NRPB />)」で学ぶ機会を得た<ref name=Eve73 />。その頃、姉ブロスニワバが[[パリ]]で[[薬学]]修学のために貯金をしていたが、マリは申し出て働き、姉を援助することを決めた<ref>Marie Curie,『Autobiography』</ref><ref name=Eve73 />。1885年からマリは住み込みの[[家庭教師]]を始めた。最初は[[クラクフ]]の法律家一家で、その後チェハヌフ[[:en:Ciechanów|(en)]]で農業を営む父方の親戚筋に当るゾラフスキ家で[[ガヴァネス]]となった<ref name=Eve73 />。ここで勉学に打ち込んだ彼女に、[[ワルシャワ大学]]で数学を学んでいた一家の長男カジュミェシュ・ゾラフスキ[[:en:Kazimierz Żorawski|(en)]]が惹かれ、ふたりは恋仲となった<ref name=Gold25>[[#ゴールドスミス2005|ゴールドスミス (2005)、pp.25-36、第二章 どんなときも胸を張って]]</ref>。しかし、カジュミェシュが結婚の希望を両親に告げると、社会的地位の違いを理由に猛反対された<ref name=Eve103>[[#エーヴ2006|エーヴ (2006)、pp.103-120、忍耐の日々]]</ref>。彼女は失意のまま契約の2年間を終えると<ref name=Gold25 /><ref>{{cite book| title= Marie Curie: A Life |author=スーザン・クイン[[:en:Susan Quinn|(en)]] |publisher= Simon and Schuster |year=1995年|location=ニューヨーク|isbn=0-671-67542-7}}</ref>チェハヌフを去り、[[バルト海]]沿岸にある[[ソポト]]の町に住むフックス家でさらに1年間家庭教師の仕事を続けた<ref name=Eve121>[[#エーヴ2006|エーヴ (2006)、pp.121-135、脱出]]</ref>。


1890年3月、数ヶ月前に医師カジュミェシュ・ドウズキと婚約した姉ブロスニワバがパリで一緒に住むよう誘う手紙がマリに届いた<ref name=Eve121 />。だが彼女は断る。父や姉の元にいると決めた事、ワルシャワの家庭教師の仕事が順調で、ワルシャワ移動大学での勉学に楽しさを感じている事、留学するには蓄えが充分ではない事、そしてカジュミェシュ・ゾラフスキを忘れられずにいた事があった<ref name=Eve121 />。彼女は家庭教師をする傍ら、オールドタウン[[:en:Warsaw Old Town|(en)]]近郊のクラクフ郊外通り[[:en:Krakowskie Przedmieście|(en)]] 66にある農工博物館[[:en:Museum of Industry and Agriculture|(en)]]の実験室で科学研究の技能習得に努めた。この実験室は[[サンクトペテルブルク]]でロシアの著名な化学者[[ドミトリ・メンデレーエフ]]の助手を勤めたこともあるいとこのユゼフ・ボグスキーが管理しており、また[[ローベルト・ブンゼン]]に学んだN. Milicerも彼女を指導した<ref name=NRPB />。
[[ファイル:20000 zl a 1989.jpg|240px|thumb|マリア・スクウォドフスカ=キュリーの紙幣 <br /> 旧 20 000[[ズウォティ]] ([[1989年]])]]
また、ポーランドの[[ルブリン]]には、彼女を記念した[[マリー・キュリー・スクウォドフスカ大学]]がある。


転機は1891年秋に、彼女にとって決して幸福ではない形で訪れた。結婚は認められなかったが、カジュミェシュ・ゾラフスキとマリは連絡を取り合っていた。そして9月、二人は[[ザコパネ]]で避暑の旅行を共にした。もうすぐ24歳になるマリは膠着した人生に変化を期待したが、彼は優柔不断で何も決断できずにいた。そのため二人は喧嘩別れしてしまい、マリは自らフランス行きを決意した<ref name=Eve121 />。
彼女とその一家は歴史に名前をとどろかせている。彼女が物理学賞と化学賞、夫ピエールが物理学賞、娘夫婦([[イレーヌ・ジョリオ=キュリー]]と[[フレデリック・ジョリオ=キュリー]])がそれぞれ化学賞を得ている。一族4人で獲得した[[ノーベル賞]]の数は5つである。また次女[[エーヴ・キュリー|エーヴ]](イヴ)は芸術家として活躍した。


一方のカジュミェシュ・ゾラフスキは、博士号取得後に数学者としての履歴を積み、また[[ヤギェウォ大学]]の学長、ワルシャワ教育庁の長官まで上り詰めた。だが晩年には、1935年に建てられたマリ・キュリーの銅像の前に座り込んで何かの想いにふける、ワルシャワ工科大学[[:en:Warsaw Polytechnic|(en)]]の老教授となった彼の姿が見られたという<ref>[[#Robart1974|Robert (1974)、p.24]]</ref>。
== 脚注 ==

{{reflist}}
=== パリでの苦学 ===
3日間の汽車の旅を経て<ref name=Eve121 />、1891年10月、マリはパリに移り住んだ。当時、女性でも科学教育を受講可能な数少ない機関の1つであった<ref name=Pono>{{cite book|和書|title=量子のさいころ 量子力学歴史読本|author=レオニード・I・ポニョマノフ|translator=澤見英男|publisher=シュプリンガー・フェアラーク東京|year=1996年|pages=190-193|url=http://books.google.co.jp/books?id=2dxtQ2g4R1EC&pg=PA191&dq=%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%BC&hl=ja#v=onepage&q=%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%BC&f=false|isbn=4-431-70696-8}}</ref>[[ソルボンヌ]](パリ大学)<ref name=Yone97/>の登録用紙には名前を「マリア」からフランス語風に「マリー」と書き、物理、化学、数学を学ぶ日々が始まった<ref name=Eve139>[[#エーヴ2006|エーヴ (2006)、pp.139-153、パリ]]</ref>。[[スラブ人|スラブ系]]の美しい顔立ちに明るい[[ブロンド]]、グレーの瞳のマリは学内でも人目を引き、彼女自身も義兄を通じて若き[[イグナツィ・パデレフスキ]]などパリ在住ポーランド人らとも親交を持った<ref name=Eve139 />。

しかし、将来はポーランドに戻ると決めていた自分には時間が無い事に気づき、姉夫婦の元を離れてパリによくあった7階建石造りアパートの屋根裏部屋を借りて<ref name=Yone97>[[#米沢2006|米沢 (2006)、pp.97-99、ポーランドからパリへ]]</ref>引っ越した<ref name=Eve139 /><ref>[[#Robart1974|Robert (1974)、p.32]]</ref>。マリは昼に学び、夕方はチューターを務める一日を送った。生活費に事欠いて食事もろくに取らず<ref name=Eve154>[[#エーヴ2006|エーヴ (2006)、pp.154-172、ひと月四十ルーブル]]</ref>、暖房も無かったため寒い時には持っている服すべてを着て寝る日々を過ごしながら勉学に打ち込んだ<ref name=Yone97 />。ついには倒れて医師である義兄の面倒になったこともあったが、努力を重ねた結果1893年には物理学の学士資格を得た<ref name=Eve154 />。この年、貯蓄が底をつき一度は諦めたが、同郷の学友が彼女のために[[奨学金]]を申請し勉学を続けることができた<ref name=Eve154 />。

=== ピエール・キュリー ===
学士を獲得後、それまでの蓄えに頼る生活を変えてマリはフランス工業振興協会の受託研究を行い、わずかながらも収入を得るようになった。相変わらず屋根裏の貧乏生活は続いたが、その中で貯蓄し奨学金を全額返納した<ref name=Eve154 /><ref group="注">この奨学金は返納不要で、マリの行動は前例が無いことだった。[[#エーヴ2006|エーヴ (2006)、p.169]]、[[#パサコフ2007|パサコフ (2007)、pp.32-33]]</ref>。

[[File:Pierrecurie.jpg|thumb|upright|left|[[ピエール・キュリー]]。天才マリを理解したもうひとりの天才。]]
しかし、受託した[[鋼鉄]]の[[磁気]]的性質の研究は大学や勤めていた[[ガブリエル・リップマン]]の工業試験場で行うには手狭で困っていた。そんな頃、チェハヌフ時代に知り合った女性が新婚旅行でパリに来て、マリを訪ねてきた。彼女の夫であるフリブール大学[[:en:University of Fribourg|(en)]]物理学教授のユゼフ・コヴァルトスキが悩みを聞き、場所の提供を頼めそうな人物を紹介する運びとなった。それが、フランス人科学者・[[ピエール・キュリー]]だった<ref name=Yone97 /><ref name=Eve173>[[#エーヴ2006|エーヴ (2006)、pp.173-201、ピエール・キュリー]]</ref>。

ピエール・キュリーは当時35歳。パリ市立工業物理化学高等専門大学 ([[:en:École Supérieure de Physique et de Chimie Industrielles de la Ville de Paris|EPCI]]) の教職に就いていた<ref name=Yone99>[[#米沢2006|米沢 (2006)、pp.99-100、ピエール・キュリー]]</ref>。当時のピエールはフランスでは無名に近かったが、彼はイオン結晶の誘電分極など[[電荷]]や磁気の研究で成果を挙げており<ref name=Yone99 />、キュリー天秤開発や後に[[キュリーの法則]]へ繋がる基本原理などを解明していた<ref name=Eve173 />。1893年には[[イギリス]]の[[ウィリアム・トムソン]](ケルヴィン卿)がわざわざ面会に訪ねる程、フランス国外では既に天才の呼び声が高かった<ref name=Eve173 />。

しかし彼自身は出世や<ref name=Yone99 />女性との交際<ref name=Gold43 />など念頭に置いていなかった。[[勲章]]を断り、薄給<ref group="注">当時の、EPCIでのピエールの給与は月300フラン。これは工場の非熟練労働者の収入とさほど変わらない。[[#エーヴ2006|エーヴ (2006)、p.179]]</ref>と粗末な研修設備に甘んじながら無心に研究に打ち込む日々を送っていた<ref name=Eve173 />。異性観について、ピエールは日記に「女性の天才などめったにいない」<ref>[[#エーヴ2006|エーヴ (2006)、p.174]]</ref>と、自身の学問的探求心を理解してはくれないと考えていた<ref name=Eve173 />。

1894年春、初対面のピエールを見た第一印象を、マリは「長身で瞳は澄み、誠実で優しい人柄ながら、どこか奔放な夢想家の雰囲気を湛えていた」と振り返り、科学や社会のことを語り合った際には自分と共通するところを多く感じたという<ref name=Gold43>[[#ゴールドスミス2005|ゴールドスミス (2005)、pp.43-49、第四章 ピエール・キュリー]]</ref>。そしてピエールも同じように感じており、彼はマリに惹かれた<ref name=Eve173 />。後に娘夫婦を加えると家族で通算5度のノーベル賞を受賞することになる[[キュリー夫妻]]はこうして出逢い、磁気<ref>[[#Williams 1986|L. Pearce Williams (1986)、p.331]]</ref>とコヴァルトスキ教授が二人の天才を引き合わせた[[クピードー|キューピット]]役となった<ref name=Eve173 />。

ピエールは一念発起して学位取得を目指し、仕上げた「対称性保存の原理」([[キュリーの原理]])論文の写しを彼女に贈り、二人の距離は縮まった。そしてマリは自分の屋根裏部屋に彼を招待し、ピエールは貧しく慎ましい彼女に打たれた<ref name=Eve173 /><ref name=Koizumi2>{{cite web|url=http://www.jfcr.or.jp/Ra100/innervision/koizumi-2.html |title=キュリー夫妻の業績と生涯 ピエール・キュリーとの出会い|author=小泉英明|year=1998年|publisher=㈱医療科学社 月刊INNRRVISION 1998年4月号/財団法人 癌研究所|language=日本語|accessdate=2010-12-10}}</ref>。お互いに尊敬し信頼し合う親密な間柄になった二人だが、マリはいつかポーランドに帰ると誓っていた。1894年に数学の学士資格を得た<ref name=Yone97 />マリは夏季休暇を利用してワルシャワに里帰りしたが、ふたたびフランスに戻るかどうか決めかねていた<ref name=Eve173 />。彼女は働き口を探してみたが、ヤギェウォ大学[[:en:Jagiellonian University|(en)]]は女性を雇い入れなかった<ref name="Wierzewski, p. 17"/>。その間、ピエールはマリに、求婚の手紙を何度も送り、10月にマリはパリに帰ってきた。ピエールは熱意を直接マリに語り、一緒にポーランドに行ってもよいとまで伝えた。彼女が彼のプロポーズを受諾したのは1895年7月になった<ref name=Eve173 /><ref name=Koizumi2 />。

1985年7月26日、質素な結婚式が行われた。新婦のドレスは義兄の母が贈ったもの。教会での誓いも、指輪も、宴も無い式にはポーランドから父や姉たちもかけつけた。祝福の中で式を終えた二人は、祝い金で購入した[[自転車]]に乗ってフランス田園地帯を巡る新婚旅行に出発した<ref name=Koizumi2 /><ref name=Eve173 />。こうしてマリは、新しい恋、人生の伴侶、そして頼もしい科学研究の同志を得た<ref name="Wierzewski, p. 17">Wojciech A. Wierzewski, "''Mazowieckie korzenie Marii''" ("Maria's Mazowsze Roots") [http://www.gwiazdapolarna.com/czytaj.php?nr=813&cat=4&art=04-01.txt], ''Gwiazda Polarna'' (The Pole Star), a Polish-American biweekly, no. 13, 21 June 2008, p.17.</ref>。

[[File:Marie Pierre Irene Curie.jpg|thumb|200px|right|(左から)ピエール、長女[[イレーヌ・ジョリオ=キュリー|イレーヌ・ジョリオ]]、マリ]]
[[File:Marie Curie Messapparatur 1904.png|200px|thumb|right|夫妻が用いた放射能計測システム(概念図)。物質(B)の放射能で電離した空気の電荷をAで捉え、下げた[[分銅]](H)の[[重さ]]で応力が決まる水晶のピエゾ素子圧電効果を用いた応力計(Q)に通して相殺する。補償点(釣り合い)の精密な測定には、象現電圧計(E)が使われた。Erdeは[[アース]]。<ref name=Koizumi7>{{cite web|url=http://www.jfcr.or.jp/Ra100/innervision/z7.html |title=精密計測による新元素の発見 図7|author=小泉英明|year=1998年|publisher=㈱医療科学社 月刊INNRRVISION 1998年4月号/財団法人 癌研究所|language=日本語|accessdate=2010-12-10}}</ref>]]
=== 放射能 ===
グラシエール通りのアパートで新生活が始まった。マリはEPCIで研究を続けながら家事もこなした。裁縫は前から得意だったが、独身の頃はろくにやらなかった料理もどんどん腕を上げた。収入を助けるために中・高等教育教授の資格を取得した<ref name=Gold56>[[#ゴールドスミス2005|ゴールドスミス (2005)、pp.56-66、第六章 前人未到のテーマ]]</ref>。1897年9月12日には長女[[イレーヌ・ジョリオ=キュリー|イレーヌ・ジョリオ]]に恵まれ、その出産と育児には義父で医師のウジューヌ・キュリーが彼女を助けた<ref name=Gold127>[[#ゴールドスミス2005|ゴールドスミス (2005)、pp.127-135、第一四章 呼び覚まされない生命力]]</ref>。同年末には鉄鋼の磁化についての研究論文を仕上げた。<ref name=Eve202>[[#エーヴ2006|エーヴ (2006)、pp.202-221、新家庭]]</ref>

マリは夫と話し合い、博士号取得という次の段階へ進む検討に入った。二人はここで、1896年にフランスの物理学者[[アンリ・ベクレル]]が報告した、[[ウラン]]塩化物が[[放射]]する[[X線]]に似た透過力を持つ[[光線]]に着目した<ref name=Eve222>[[#エーヴ2006|エーヴ (2006)、pp.222-237、ラジウムの発見]]</ref>。これは[[燐光]]などと異なり外部からの[[エネルギー]]源を必要とせず、ウラン自体が自然に発していることが示されたが、その正体や原理は謎のまま<ref name=Eve222 />ベクレルは研究を放棄していた<ref name=Gold56 />。マリとピエールは、論文作成のため<ref name=NRPB />この研究を目標に据えた<ref name=Eve222 />。

ピエールが確保したEPCIの実験場は倉庫兼機械室を流用した暖房さえ無い粗末なもので、訪問したある学者は「ジャガイモ倉庫と家畜小屋を足して2で割ったような」と例える<ref name=Pasa45 />程だった。そこにピエールと兄のジャックが15年前に発明した光テコを利用する高精度の象現電圧計と、ピエール開発の水晶板ピエゾ素子電気計など機器を持ち込み<ref name=Koizumi7 /><ref name=Gold56 />、ウラン化合物の周囲に生じる電離を計測した<ref>{{cite journal | title = Marie Curie and the Science of Radioactivity| url =http://www.aip.org/history/curie/resbr1.htm|language=英語 |accessdate=2010-12-10}}</ref>。そしてすぐに、サンプルの放射現象が実際のウラン含有量に左右され、光や温度など外的要因に影響を受けないという結果を得た<ref name=Eve222 />。つまり、放射は[[分子]]間の相互作用等によるものではなく、[[原子]]そのものに原因があるという事を示す<ref name=Pasa45>[[#パサコフ2007|パサコフ (2007)、pp.45-63、至福のとき]]</ref>。これは、夫妻が明らかにしたものの中で最も重要な事柄である<ref>[[#Robart1974|Robert (1974)、pp.61-63]]</ref>。次にマリは、この現象がウランのみの特性かどうか疑問を持ち、既知の元素80以上<ref name=Pono />を測定し[[トリウム]]でも同様の放射があることを発見した<ref name=NRPB />。この結果から、マリはこれらの放射に[[放射能]]と、このような現象を起こす元素を[[放射性元素]]と名づけた<ref name=Eve222 />。

彼女は発見した内容を即座に発表することを強く意識し、科学における先取権[[:en:scientific priority|(en)]]を持つことに敏感だった。2年前にベクレルが自身の発見を[[科学アカデミー (フランス)|科学アカデミー]]に公表せずぐずぐずと翌日に伸ばしていたら、発明者の栄誉も、そして[[ノーベル賞]]もシルバナス・トンプソン[[:en:Silvanus Thompson|(en)]]のものになっていた可能性がある。夫妻も彼と同じく素早い手段を取り、マリは研究内容を簡潔に要約した論文を作成し、ガブリエル・リップマンを通じて1898年4月12日に科学アカデミーへ提出した<ref>[[#Robart1974|Robert (1974)、pp.64-65]]</ref>。しかし、夫妻はトンプソン同様、トリウムの放射能発見競争では敗れた。2ヶ月前に[[ベルリン]]でゲアハルト・シュミット[[:en:Gerhard Carl Schmidt|(en)]]が独自に発見・発表していた<ref>[[#Robart1974|Robert (1974)、p.65]]。このようなことは科学や技術の発見・発明ではよく起こっている。参照:[[:en:List of independent discoveries]]。</ref>。

=== 新元素の精製と研究 ===
[[File:Pichblende.jpg|thumb|150px|left|[[ピッチブレンド]]鉱石]]
マリの探究心は止まることを知らず、次にEPCIにある様々な鉱物サンプルの放射能評価を始めた<ref name=Eve222 />。やがて、2種類のウラン鉱石について調べた結果、[[トルベルナイト]](燐銅ウラン鉱)の電離がウラン単体よりも2倍になり、[[ピッチブレンド]]では4倍に相当することが分かり、しかもそれらはトリウムを含んでいなかった<ref name=Pono />。測定が正しければ、これらの鉱石にはウランよりも遥かに活発な放射を行う何かしらの物質が少量ずつ含まれると彼女は考察した<ref name=Eve222 /><ref>[[#Robart1974|Robert (1974)、pp.63-64]]</ref>。マリは「できるだけ早急にこの仮説を確かめたくなる熱烈な願望にかられた」と後に述べた<ref name="Robert Reid p. 65">[[#Robart1974|Robert (1974)、p.65]]</ref>。

1898年4月14日、夫妻はピッチブレンドの分析にかかり、100グラムの試料を乳棒と乳鉢ですり潰す作業に着手した<ref name="Robert Reid p. 65"/>。ピエールはマリの考察の正しさを確信し、やがて取り組んでいた結晶に関する研究を中断して彼女の仕事に加わった<ref name=Eve222 /><ref name="Robert Reid p. 65"/>。1898年7月、キュリー夫妻は連名で論文を発表した。これは[[ポロニウム]]と名づけた新元素発見に関するものだった<ref name=Eve222 />。さらに12月26日には、激しい放射線を発する[[ラジウム]]と命名した新元素の存在について発表した<ref name=Eve222 />。

夫妻の発表に学会の反応は冷淡だった。物理学者は新元素の放射線がどのような現象から生じるのかが不明な状態では賛同しづらく、化学者は新元素ならばその[[原子量]]が明らかでなければならないと考えていた<ref name=Eve239>[[#エーヴ2006|エーヴ (2006)、pp.239-255、倉庫での四年間]]</ref>。そのためには純粋な新元素の塊を得なければならない。マリはそれに挑む決意をした<ref name=Eve239 />。しかしピッチブレンドは非常に高価で、それを入手する資金など無かった。熟考の末、ガラス製造時に着色目的で<ref name=Pono />使うウラン塩を抽出した後の廃棄物を利用する方法を思いつき、主生産地である[[オーストリア]]の[[ボヘミア]]・[[ザンクト・ヨアヒムスタール]]鉱山へ伝を頼って問い合わせたところ、無償で提供を受けられる事になった<ref name=Eve239 />。しかし運送費は夫妻が負担しなければならず、家計を圧迫する要因となった<ref name=Eve239 />。

次に必要なものは、精製に必要な広い場所だった。ピエールがEPCIに掛け合った末、二人は建物を借りることができたが、以前は医学部の解剖室に使われていた<ref name=Pasa45 />、床板も無い小屋だった<ref name=Eve239 />が、ここがキュリー夫妻の様々な業績を生む舞台となる。

ピッチブレンドは複雑な化学組成を持つ<ref name=Pasa45 />混合鉱物であり、分離精製は非常に難しいものだった。しかし、夫妻はラジウム塩を特殊な[[結晶化]](分別結晶法<ref name=Pasa45 />)をさせて取り出すという方法に挑んだ<ref name="L. Pearce Williams, p. 332">[[#Williams 1986|L. Pearce Williams (1986)、p.332]]</ref>が、それは過酷な肉体労働を要求した。数キロ単位の鉱石くずを大鍋や壷で煮沸・攪拌・溶解や沈殿・ろ過などの方法で分離し、溶液を分離結晶させることを何段階も繰り返す<ref name=Eve239 />。小屋には煙突も無く、大きな火を使う作業は屋外で行った。平行して放射能の研究も行わなければならず、やがて夫婦間で仕事が分担され、細かな研究をピエールが、精製作業をマリが行うようになった<ref name=Eve239 />。しかし最初に手に入れた1トンを処理しても全く足りなかった。夫妻は新元素の含有率を1/100程度と目論んでいたが<ref name=Eve239 />実際には1/1000000相当でしかなく<ref name=Pasa45 />、有意な量を得るために必要な鉱石量は何トンにもなることはまだわかっていなかった<ref name="Robert Reid p. 65"/>。

夫妻には時間が足りなかった。実験にかかる経費の負担、妻を亡くした義父ウジューヌ・キュリーの同居で家族が増えて引っ越した一戸建ての家賃など生活費を稼ぐため、ふたりとも教職を続けなければならなかった<ref name=Eve239 />。ピエールは収入を上げようとソルボンヌ教授職の空きに応募したが、師範学校を出ていない事などを理由に落選した<ref name=Eve256>[[#エーヴ2006|エーヴ (2006)、pp.256-275、苦難続き]]</ref>。そんな折の1900年、[[スイス]]の[[ジュネーヴ大学]]から夫妻へ好条件の<ref group="注">ジュネーヴ大学のオファーは、ピエールには物理学教授職、月給1万フランに住宅手当など、実験室を用意し、マリもそこでポスト付で雇用される。当時夫妻の収入は月500フラン。[[#エーヴ2006|エーヴ (2006)、p.260]]</ref>教授職オファーが舞い込んだが、実験を中断しなくてはならず辞退した<ref name=Eve256 />。これを伝え聞いた数学者[[アンリ・ポアンカレ]]は、優秀な頭脳の国外流出を防ぐために骨を折ってピエールをソルボンヌ医学部の物理・化学・博物学課程(PCN) 教授に招聘し、またマリもセーブルの女子高等師範学校の嘱託教師となった。こうして収入は少し増えたが実験には焼け石に水程度だった<ref name=Pasa45 />。

[[File:Radium.jpg|thumb|150px|right|ラジウム発光のイミテーション。夫妻はこのような青い光に希望を見出した<ref name=Pasa45 />。]]
=== ラジウムの青い光 ===
ポロニウムは化学的性質が[[ビスマス]]に近く、鉱石の中でビスマス様物質を探すことで比較的簡単にたどりついた。しかしラジウム発見は一筋縄ではいかなかった。化学的性質が近い元素に[[バリウム]]があるが、鉱石中にはバリウムとラジウムの両方が含有していた。1898年の段階で夫妻はラジウムの痕跡を掴んでいたが、純粋な状態で充分な量を確保するには至らなかった<ref>[[#Williams 1986|L. Pearce Williams (1986)、pp. 331-332]]</ref>。

劣悪な環境と過酷な作業、逼迫した家計を賄うための教職の多忙さゆえ、夫妻の健康状態にまで悪影響を及ぼし、ピエールは精製を一時中断すべきとも考えた。しかしマリは少しずつ着々と進む作業に希望を見出していた。1トンのピッチブレンドから分離精製できたラジウム塩化物は1/10グラムにしかならなかったが<ref name="L. Pearce Williams, p. 332" />、放射性元素は着々と濃縮され、やがて試験管や蒸発皿から発光が見られるようになったからだ。マリはこれを「妖精のような光」と形容している<ref name=Pasa45 />。1902年3月には濃縮に効果的な[[試薬]]を発見し、これを用いて精製した試料の[[スペクトル]]がラジウム固有のものであることを突き止め、夫妻は純粋ラジウム塩の青い光に感動を覚えた<ref name=Pasa45 />。夫妻は、優位な純粋ラジウム塩を得るまでに11トンのピッチブレンドを処理した<ref name=Pono />。

しかしこの頃、度重なる不幸が夫妻を襲う。1902年5月、マリの父ブワディスカ危篤の知らせが届き、帰郷のさなか訃報を受けた。彼女は親不孝な自分を責めたが、晩年のブワディスカは届くマリの論文を楽しみに読み、特に3月にラジウム精製成功の手紙には大いに喜び、娘を誇りに思っていた<ref name=Eve256 />。一方のピエールに友人たちはアドバイスを送りアカデミー会員になるよう薦めたが、7月の選挙で落選する<ref name=Eve256 />。しかしこのような活動も栄誉ではなく研究のためのもので、逆に[[レジオンドヌール勲章]]の候補となった時には研究活動に寄与しないと断っている<ref name=Eve256 />。夫妻は研究に戻るが体に変調をきたし、ピエールは[[リウマチ]]を悪化させたびたび発作に苦しみ、マリは神経を衰えさせ[[睡眠時遊行症]]を起こすようになった<ref name=Eve256 />。翌1903年には待望の第二子を[[流産]]してしまい、マリは悲しみにくれた<ref name=Eve256 />。

[[File:Pierre and Marie Curie.jpg|thumb|right|ピエールとマリ夫妻、研究所にて。1890年代に撮影。手前に写っている機器が放射能測定機器。<ref name=Pasa45 />]]
このような苦境の中で進められた研究結果を夫妻は逐一学会に知らしめ、1899年から1904年にかけて32の研究発表を行った。それらは他の学者たちに放射能や放射性元素に対する認識に刷新を迫り、研究に向かわせた。放射性元素の追求はいくつかの[[同位体]]発見に繋がり、さらに[[ウィリアム・ラムゼー]]と[[フレデリック・ソディ]]のラジウム崩壊による[[ヘリウム]]発生の確認、[[アーネスト・ラザフォード]]とソディの元素変換説などがもたらされた。これらは、当時の概念であった「元素は不変」に変革を迫り、原子物理学に一足飛びの進歩をもたらした<ref name=Eve276>[[#エーヴ2006|エーヴ (2006)、pp.276-291、博士論文と五分の話し合い]]</ref>。

さらに、1900年にドイツの医学者ヴァルクホッフとギーゼルが、放射能が生物組織に影響を与えるという報告がなされた。早速ピエールはラジウムを腕に貼り付け、[[火傷]]のような損傷を確認した。医学教授らと協同研究した結果、変質した細胞を破壊する効果が確認され、[[皮膚疾患]]や[[悪性腫瘍]]を治療する可能性が示唆された。これは後にキュリー療法を呼ばれる<ref name=Eve276 />。こうしてラジウムは「妙薬」として知られるようになった<ref name=Pasa71>[[#パサコフ2007|パサコフ (2007)、pp.71-83、有名になるということ]]</ref>。この頃、夫妻は有害な放射線被爆[[:en:radiation exposure|(en)]]の影響について認識しておらず、放射能物質を扱う作業では防護対策を行わなかった。夫妻は、これらの研究が健康についてどれだけのリスクを払っているか念頭に置いていなかった<ref name="Wierzewski, p. 17"/>。

新元素ラジウムは、学問対象に止まらず、[[産業]]分野でも有用性が次々と明らかになった<ref name=Eve276 />。キュリー夫妻は、ラジウム精製法に対する[[特許]]を取得せず公開した。これは珍しい事だが、そのために他の科学者たちは何の妨げも無くラジウムを精製使用することができた<ref>[[#Robart1974|Robert (1974)、p.265]]</ref>。フランスの実業家アルメ・ド・リールはラジウムの工業的生産に乗り出し、夫妻の協力を仰ぎ、医療分野への提供を始めた<ref name=Eve276 />。ラジウムは世界で最も高価な物質となった<ref name=Eve276 />。

=== 栄誉の光と影 ===
放射性物質の研究は元々マリの博士号取得を目的に始められたが、多忙のためなかなかその準備にかかれなかった。しかしそれもやっと纏められ、アンリ・ベクレルが後押しして<ref>{{cite journal | title = The discovery of radium in 1898 by Maria Sklodowska-Curie (1867–1934) and Pierre Curie (1859–1906) with commentary on their life and times | last = Mould | first = R. F. | journal = The British Journal of Radiology | volume = 71 | year = 1998 | pages = 1229–1254 | url = http://bjr.birjournals.org/cgi/reprint/71/852/1229.pdf |format=PDF|language=英語 | accessdate = 2010-12-10 | pmid = 10318996 | issue = 852}}</ref>1903年6月に論文審査を受けた。夫と義父、姉、教え子たちが見守る中、3人の論文審査教授陣は、マリにパリ大学の[[博士 (理学)|理学博士 (DSc)]]を授けた<ref name=Eve276 />。その日の夕食会には、知り合いの他にたまたまパリに来ていて訪問した[[アーネスト・ラザフォード]]夫妻も加わっていた<ref name=Pasa71 />。

夫妻の業績を最も早く評価したのはイギリスだった。1903年6月、[[王立研究所]]は夫妻を正式に[[ロンドン]]へ招待し、講演を依頼した。ピエールは実験を交えた講演で喝采を浴び、マリは研究所会合に初めて出席した女性となった。ケルヴィン卿や[[ウィリアム・クルックス]]、[[ジョン・ウィリアム・ストラット]](レイリー卿)らとも親交を持った。さらに11月には[[王立協会]]から[[デービーメダル]]が授与された<ref name=Eve292>[[#エーヴ2006|エーヴ (2006)、pp.292-316、栄光という名の敵]]</ref>。そして1903年12月、[[スウェーデン王立科学アカデミー]]はピエールとマリそしてアンリ・ベクレルの3人に[[ノーベル物理学賞]]を授与する決定を下した<ref group="注">この当時、ノーベル賞の認知度はあまり高くなかった。それがピエール夫妻の受賞で著名な賞となった。[[#米沢2006|米沢(2006)、p.106]]</ref>。その理由は「アンリ・ベクレル教授が発見した放射現象に対する共同研究において、特筆すべきたぐいまれな功績をあげた事」であった<ref name=Eve292 />。こうしてマリは、女性初のノーベル賞を授与された人物となった。夫妻は[[ストックホルム]]の授賞式には出席できなかったが、得た7万フランの賞金は一家の経済状態を救っただけでなく、金銭的に恵まれない知人や学生たちのためにも役立てられた<ref name="Wierzewski, p. 17"/><ref name=Eve292 />。

このノーベル賞の審査が行われた際、アカデミーは物理学賞授与で検討を進めていたが、選考委員会の中には新元素発見は化学賞が該当するのではという疑問の声があがった。このため、1903年度受賞理由からはラジウムとポロニウムの発見はあえて外され、将来の授与に含みを持たせる対応が行われた<ref name=Pasa71 />。

ノーベル賞受賞は、二人を一気に有名人にした。しかしそれは夫妻の望むものではなかった。数々の取材や面会の依頼、舞い込む多量の手紙などに時間を取られ、あまつさえ一家の自宅や研究所にまで踏み入ろうとするマスコミに辟易し、何より研究をする余裕が奪われた<ref name=Pasa71 />。1904年、パリ大学はピエールを物理学教授職に迎える打診を行ったが、実験室が用意されない事を知ったピエールはこれを辞退しようとした。大学側は折れ、議会に掛け合って研究費と設備費を捻出し、やっとピエールの承諾を得た<ref name=Eve317>[[#エーヴ2006|エーヴ (2006)、pp.317-345、ともにある日々]]</ref><ref name=Kikuchi>{{cite web|url=http://www.shinko-keirin.co.jp/hakubutukan/no8/no8.htm |title=欧米の化学博物館めぐり フランス(1) キュリー研究所|author=菊池文誠|publisher=新興出版社啓林館|language=日本語|accessdate=2010-12-10}}</ref>。

この年、マリは妊娠していたこともあり、一家は段々隠遁的な生活を送るようになった。研究はできず、大衆に追い回されるために偽名を使って[[ブルターニュ]]の田舎へ避難することもあった<ref name=Eve317 />。そんな夫妻は、1904年12月6日に次女[[エーヴ・キュリー|エーヴ]]が産まれたことで落ち着きを取り戻し始めた<ref name=Pasa71 />。1905年には教職に復帰し、実験室に入る時も持ち始めた。相変わらずパーティーなどは避けていたが、心に余裕ができると演劇鑑賞などにも出かけたり、舞踏家[[ロイ・フラー]]や彫刻家[[オーギュスト・ロダン]]、科学者関係では隣に住む[[ジャン・ペラン]]夫妻、[[ジョルジュ・ユルバン]]や[[シャルル・エドゥアール・ギヨーム]]などとも親交を持ち、たびたび家に招いた。そこには教え子たちも交じることもあり、その中にはピエールの生徒[[ポール・ランジュバン]]もいた<ref name=Eve317 />。

=== 1906年4月19日 ===
1906年に入り、教授職とともに得た新しいキュヴィエ通りの実験室が動き始めた。手狭で交通に不便な郊外だったが、助手と手伝いが加わった上に実験主任にはマリが任命され、給与も支払われた<ref name=Eve317 />。夫妻は相変わらず多忙だった。マリはセーブル女子学校の教師を続け<ref name=Eve317 />、ピエールは科学者そして大学教授としての様々な雑務に追われていた<ref name=Eve346>[[#エーヴ2006|エーヴ (2006)、pp.346-369、一九〇六年四月十九日]]</ref>。

それは4月19日木曜日に起こった。雨模様の日ピエールは様々な予定をこなし、馬車が行き交う狭いドフィーヌ通り[[:en:Rue Dauphine|(en)]]を横断していた際にぶつかった荷馬車に轢かれ、事故死した<ref name=Eve346 /><ref name=Pasa85>[[#パサコフ2007|パサコフ (2007)、pp.85-96、残酷な栄誉]]</ref>。野次馬は被害者が有名な科学者だと気づいた。すぐ大学に電話連絡がなされ、学部長と教授のジャン・ペランがキュリー家に向かった。その時マリは不在で、義父が彼らを招き入れて沈痛な時を待った。午後6時、イレーヌを連れて帰宅した<ref name=Pasa85 />マリはその知らせに凍りつき、暫くは誰の問いかけにも何の反応を示さなかった。遺体や遺品を受け入れたマリがとめどなく涙を流したのは、翌日に駆けつけた義兄ジャックの姿を見たときだった<ref name=Eve346 />。この不慮の事故は世界中に報道された<ref name=Pasa85 />。しかし、21日に生家の[[ソー (オー=ド=セーヌ県)|ソー]]で行われた葬儀では、代表団の派遣も弔辞も大げさな行列もマリは断り、質素な式となった。義父や義兄ジャックらは、感情がそぎ落ちたような彼女を心配していた。この当時のマリは日記に「同じ運命をくれる馬車はいないのだろうか」とまで書いている。その後も彼女は沈黙に沈んだまま、時に悲鳴を上げるなど不安定な精神状態にあり、日記には悲痛な言葉が並んだ<ref name=Eve346 />。

5月13日、パリ大学(ソルボンヌ)物理学部はピエールに用意した職位と、実験室における諸権利をマリのために維持することを決めた。葬儀の翌日に申し入れられた国の遺族年金はきっぱりと断ったマリだったが、この件は回答を保留した<ref name=Eve346 />。色々なことが頭をよぎったが、やがて彼女は「重い遺産」を受け継ぎ、ピエールにふさわしい研究所を作ることが自分のやるべき事と決断し、大学の職位と実験室の後任を受諾した。こうして、パリ大学初の女性教授が誕生した<ref name=Pasa85 />。

夏の期間、住居をピエールの実家であるソーに移して大学講義の準備に費やした。そして11月5日午後1時30分、マリは万雷の拍手を受けてソルボンヌの教壇に立った。どんな挨拶が語られるのかと興味津々の生徒や聴衆たちの前で、マリが最初に話した言葉は、ピエールが最後となった講義を締めくくった一文だった。淡々としながら、彼の志を受け継ぐマリに観衆は感動を覚えたという<ref name=Eve346 />。

=== 誹謗の渦中に得た二度目の栄誉 ===
[[File:Marie Curie (Nobel-Chem).png|thumb|upright|left|1911年当時のマリ・キュリー]]
研究に復帰したマリが最初に取り組んだ事は、長年ピエールを支援したケルヴィン卿の論破だった。あえて『[[ロンドンタイムズ]]』を選び発表したケルヴィン卿の理論とは、ラジウムが元素ではなく化合物だというものだった。彼女は実験結果で反論しようと、夫妻の同僚らとともにウランの約300倍の放射能を持つ純粋なラジウム[[金属]]0.0085グラム<ref name=Pono />の分離に取り組み、1910年に成し遂げて<ref name="L. Pearce Williams, p. 332" />卿の誤りを立証した<ref name=Pasa85 />。同年2月25日、義父ウジューヌ・キュリーが亡くなった。息子が連れてきた貧乏な異国の女を何の偏見も無く受け入れ、様々な困難に遭ったときに支え、何より娘たちの良きおじいちゃんであった<ref name=Gold127 />彼の死に家族は悲しみに沈んだ<ref name=Eve373>[[#エーヴ2006|エーヴ (2006)、pp.373-387、ひとり]]</ref>。

研究所は1907年から[[アンドリュー・カーネギー]]の資金援助もあり、10人程の研究員を抱えるまでになった<ref name=Eve388>[[#エーヴ2006|エーヴ (2006)、pp.388-405、成功と試練]]</ref>。この年にはそれまでの研究を纏めた『放射能概論』を出版し、またラジウム放射能の国際基準単位を定義する仕事も行った<ref name=Pasa85 />。1911年に決定されたこの単位は、夫妻の姓から「[[キュリー]]」(記号:'''Ci''')と名づけられた<ref>{{cite web|url=http://www.britannica.com/eb/article-9028251/curie#245574.hook |title=curie – Britannica Online Encyclopedia |publisher=Britannica.com |date=15 April 2006 |language=英語 |accessdate=2010-12-10}}</ref><ref>{{cite web | author = Paul W. Frame | title = How the Curie Came to Be | url = http://www.orau.org/ptp/articlesstories/thecurie.htm |language=英語 | accessdate =201-12-10}}</ref>。

だが同年、周囲から推されて科学アカデミー会員の候補になった事がマリを煩わしい事態に巻き込んだ。空席を巡って対立候補となった[[エドアール・ブランリー]]との間で、支持者による二つの陣営が出来上がってしまった<ref name=Eve388 />。自由主義者のマリと敬虔な[[カトリック]]のブランリー、ポーランド人対フランス人、そして女性対男性<ref>[[#Goldsmith 2005|Barbara Goldsmith (2005)、pp.170-171]]</ref>。特にかつて1902年にピエールを負かせて会員となった人物が、女性の会員に猛反対した<ref name=Eve388 />。さらには、カトリックの投票権者達に対してマリが[[ユダヤ人]]だというデマまで流れた<ref name=Eve388 />。エクセルシオール紙[[:fr:Excelsior (journal)|(fr)]]などは一面でマリを攻撃し、右翼系新聞には彼女の栄誉はピエールの業績に乗っかっただけという記事まで載った<ref name=Pasa97>[[#パサコフ2007|パサコフ (2007)、pp.97-113、重い病]]</ref>。

1911年1月23日、アカデミー会員の選出投票が行われたが、詰め掛けた記者たちや野次馬で会場は混乱の中にあった。夕方に判明した結果は僅差<ref group="注">投票結果は文献で差がある。[[#エーヴ2006|エーヴ (2006)、p.393]]では1票差、[[#パサコフ2007|パサコフ (2007)、p.99]]では2票差とある。[[#米沢2006|米沢(2006)、p.107]]では詳しく、58人の投票でマリ28票、ブランリー29票、他の候補1票となり、2候補に絞られた決戦投票でマリ28票、ブランリー30票とある。</ref>でブランリーが選ばれ、研究所の面々はマリ本人を除いて落胆に暮れた<ref name=Eve388 />。この時には、マリは請われて既にいくつかの外国のアカデミー会員になっていた。彼女を拒絶したフランスが初の女性会員を選出するのは1979年であった<ref name=Yone106>[[#米沢2006|米沢(2006)、pp.106-107、科学アカデミー]]</ref>。淡々としたマリだったが、手記にはフランスアカデミーの古い因習を嫌っていたことが書かれており、二度と候補にならなかったばかりか、機関紙への論文掲載も拒否し、科学アカデミーと完全に袂を分けた<ref name=Pasa97 />。後の事になるが、フランスの公的機関が正式な栄誉を与えたのは、1922年にパリ医学アカデミーが医療への貢献という理由で、前例を覆して彼女を会員に選出した事だった<ref name=Pasa97 />。

[[File:1911 Solvay conference.jpg|thumb|left|200px|1911年に開催された第1回[[ソルベー会議]]の模様。マリ・キュリーは着席した前列右から2番目。後列一番右にポール・ランジュバンがいる。]]
マリは研究に戻り、[[ヘイケ・カメルリング・オネス]]と協同で低温環境でのラジウム放射線研究の構想を練った。ところが有名人のスキャンダルを売りに購買欲を掻き立てていた当時の新聞が、11月4日付け記事でマリの不倫記事を大々的に掲載した。相手は5歳年下で、ピエールの教え子ポール・ランジュバン。彼は既婚だったが夫婦間は冷めて別居し、裁判沙汰にまでなっていた<ref name=Pasa97 />。マリは私生活の問題で悩むランジュバンの相談を聞くうちに親密になっていた<ref>Robert Reid, ''Marie Curie'', pp. 44, 90.</ref><ref name=Yone108>[[#米沢2006|米沢(2006)、pp.108-109、二度目のノーベル賞]]</ref>。1911年10月末に[[ブルッセル]]で開かれた[[ソルベー会議]]には二人揃って出席し、マリは論文を発表した若き[[アルバート・アインシュタイン]]へ[[チューリッヒ大学]]教職への推薦状を書いたりしている。その最中の報道は、ランジュバンに宛てたマリの手紙を暴露し、他人の家庭を壊す不道徳な女とマリを糾弾した<ref>[[#Goldsmith 2005|Barbara Goldsmith (2005)、pp.165–176]]</ref>。その後も報道は続き、またも彼女をユダヤ人だ、ピエールは妻の不倫を知って自殺したのだと、あらぬ事を連日書き立てた<ref name=Pasa97 />。ついには記者がブリュッセルまで押し寄せ、マリは会議の閉幕を待たずに去らなければならなくなった<ref name=Pasa97 />。

ソーの自宅に帰ると、そこは群集に取り囲まれ、投石する輩までいた。マリは子供たちを連れて脱出し、親しい[[エミール・ボレル]]夫妻が一家を匿った。政府の公共教育大臣はボレルにマリを庇うなら大学を罷免すると迫ったが、夫妻は一切ひるまなかった。ボレル婦人マルグリットはジャン・ベラン教授の娘で、彼女はマリを損なうなら2度と顔を合わせないと父を逆に脅した<ref name=Pasa97 />。騒動はいろいろなところへ飛び火していた<ref group="注">ランジュバンは手紙を公開した週刊誌記者ギュサーブ・テリーに[[決闘]]を申し込んだ。1911年11月26日、拳銃を持つ両者は対峙したが、どちらも「人殺しはできない」と弾丸が放たれる事は無かったという。[[#宇佐2001|宇佐 (2001)、p172]]</ref>。

[[File:Dyplom Sklodowska-Curie.jpg|thumb|right|1911年に受賞したノーベル化学賞の感状。]]
この騒動の渦中の11月7日、スウェーデンからノーベル化学賞授与の電報が入った。理由は「ラジウムとポロニウムの発見と、ラジウムの性質およびその化合物の研究において、化学に特筆すべきたぐいまれな功績をあげた事」と、新元素発見を取り上げて評価していた<ref name=Pasa97 />。マリは、初めて2度のノーベル賞受賞者となり、また異なる分野(物理学賞・化学賞)で授与された最初の人物ともなった。だが、渦中のスキャンダルを理由に、スウェーデン側からも授与を見合わせてはどうかという声があがった<ref group="注">文献によって差がある部分。[[#宇佐2001|宇佐 (2001)、p.175]]では「体調を慮り関係者が受賞を遅らせてはと打診した」とあり、[[#パサコフ2007|パサコフ (2007),p.107]]では「マリの支持者が、泥沼化したスキャンダルが間違いと証明されるまで辞退すべきと手紙で勧めた」と書かれ、[[#米沢2006|米沢 (2006)]]ではアカデミー会員の[[スヴァンテ・アレニウス]]が「賞を辞退しろ、授賞式に来るなとの手紙を寄越した」とある。[[#エーヴ2006|エーヴ (2006)]] ではランジュバンの件にほとんど触れていないが、河野は訳者あとがきで簡易に解説を加えている。</ref>。しかしマリは毅然と受賞する意思を示し、今度はストックホルムへ向かった。記念講演でマリは、ピエールの業績と自分の仕事を明瞭に区別した上で、この成果の発端はふたりの共同研究にあったと述べた<ref name=Pasa97 />。

受賞後の12月29日、マリはうつ病と腎炎で入院した。一時退院したが1912年3月には再度入院し腎臓の手術を受けた<ref name=Eve388 />。その後郊外に家を借りて療養したが6月にはサナトリウムに入った。8月には少々の回復を見せ、女性物理学者ハーサ・エアトンの招待に応じてイギリスへ渡った。2ヶ月間過ごした後の10月にパリへ戻ったが、ソーの家はあきらめ新たにアパートを借りた。この間、マリはずっとスクウォドフスカの姓を使っていた<ref name=Pasa97 />。マスコミは相変わらず何かネタを見つけてはマリを叩くことが多かったが、その一方で他国がマリを評価するとフランスの先進性の象徴に祭り上げるなど都合の良い記事ばかり載せ<ref name=Eve388 />、マリはジャーナリズムを嫌悪した<ref name=Pasa131>[[#パサコフ2007|パサコフ (2007)、pp.131-149、ふさわしい研究所]]</ref>。

マリにとって苦しい期間、彼女を支えたのは多くの知人友人、そして家族たちだった。1912年5月には、[[ヘンリク・シェンキェヴィチ]]を団長とするポーランドの教授連代表団がマリを訪問し、ワルシャワに放射能研究所を設立して彼女に所長を務めてもらいたいと打診した<ref name="Wierzewski, p. 17"/>。1905年の[[ロシア第一革命]]以後、帝政ロシアのくびきが緩み、何よりマリの名声が世界的なものになっていたことが大きかった。この申し出をマリは熟考し、本来自分が目指していたこと、すなわちピエールから受け継いだ研究所を彼に相応しいものにすることを思い出した。こうしてポーランド帰国は断ったが、彼女はパリから指導することを受諾した。1913年、ワルシャワの研究所開所式に出席したマリは、初めてポーランド語で科学の講演を行った<ref name=Eve388 />。

夏頃には健康も回復し、一家でスイスを旅行するなど好きな田舎で休息を取ると、マリはまた積極的に動きはじめる。1914年7月には、夫の名を取ったピエール・キュリー通りにラジウム研究所の新しい建物キュリー棟が完成した。だが実験には取り掛かれなかった。7月28日、[[第一次世界大戦]]が勃発したためである<ref name=Eve388 />。

=== 第一次世界大戦 ===
戦争は研究所のスタッフたちも兵士として招集し、男性で残った者は持病を抱える機械技師だけだった。娘たちをブルターニュに止め、マリはパリに残っていた<ref name=Eve406>[[#エーヴ2006|エーヴ (2006)、pp.406-430、第一次世界大戦]]</ref>。9月2日にはドイツ軍の空爆がパリに及び、マリは政府の要請で研究所が所有する貴重な純粋ラジウム金属をボルドーに疎開させるために汽車に乗った。しかし彼女はこの非常事態に自分がやるべき事を見出し、すぐパリに舞い戻った<ref name=Pasa115>[[#パサコフ2007|パサコフ (2007)、pp.115-125、野戦病院をかけめぐった日々]]</ref>。

[[ヴィルヘルム・レントゲン]]が1895年に発見したX線はすでに[[X線撮影]]による医療への貢献が可能となっていた。しかしフランスにはそれを実施する設備が非常に少ないことをマリは知っていた<ref name=Eve406 />。手術において、銃弾や破片など人体に食い込んだ異物を事前に確認できれば、負傷者の生存率は上がる。彼女はX線研究に携わった経験こそ無かったが、大学の講義で教えるために知見を持っていた。マリは大学や製造業者などを廻って必要な機材を調達し、複数の病院にそれらを設置した上、教授や技師たちに依頼して操作を行った<ref name=Eve406 /><ref name=Pasa115 />。

[[File:Marie Curie - Mobile X-Ray-Unit.jpg|thumb|第一次大戦時に活躍したレントゲン車に乗るマリ]]
そこに物静かな研究者の姿は無かった。マリは軍がX線撮影設備を充分に持っていないことを知っており、移動が可能になる[[自動車]]に設備と発電機を搭載して、1914年8月頃から病院を廻り始めた。[[マルヌ会戦]]の負傷者治療に威力を発揮した<ref name=Eve406 />この移動レントゲン車は、軍の中で「プティット・キュリー」(ちびキュリー)<ref name=Itoh>{{cite web|url=http://www.jfcr.or.jp/Ra100/innervision/ito.html |title=キュリー夫人の死--100年目の真実|author=伊藤彬|year=1998年|publisher=㈱医療科学社 月刊INNRRVISION 1998年4月号/財団法人 癌研究所|language=日本語|accessdate=2010-12-10}}</ref>の名で呼ばれた<ref name=Pasa115 />。しかし戦局の長期化によって1台では不足すると、マリは公的・私有の車を募り改造を施した。有力者夫人たちは協力的だったが、軍や行政機関は難色を示すところが多かった。マリは役人らを説き伏せて調達や通行の許可を受け<ref name=Eve406 />、機材調達のために政府から赤十字放射線局長という役職を貰って活動した。未熟な利用者のために設備使用マニュアルを用意し<ref name=Pasa115 />、負傷者の治療に役立てた。

マリが設置したレントゲン設備は、病院や大学など200箇所に加え、自動車20台となった。マリ自身も、技術者指導の講義と平行してこのX線照射車1台に乗り込んで各地を廻った。そのために自らも解剖学を勉強し、自動車の[[運転免許]]を取得し、故障時に対応するため自動車整備についても習得した<ref name=Pasa115 />。イレーヌはそんな母の姿に自分もこの活動に加わりたいと申し出て、マリはこれを認めた。さらに母子は貯蓄の相当額を戦債購入に充て、さらにノーベル賞を含む数多い[[メダル]]を寄付しようとした。ただし後者は流石に役所の担当が恐れ多いと拒否した<ref name=Eve406 />。

レントゲン装置には、より効率的な[[ラドン]]を使うようになり、ボルドーから持ち帰ったラジウム金属を使ってマリはチューブにラドン気体を詰める作業も行った<ref name=Eve406 />。これマリにX線被爆を起こし、後の健康状態に悪影響を及ぼしたのではと考えられている<ref name=Pasa115 />。

1918年11月、戦争は終結した。戦債は紙クズ同然となって一家は貯蓄をかなり失ったが、元々覚悟していた<ref name=Eve406 />。そんなことよりマリが喜んだ事は、1919年に故郷が他国の支配から脱し[[ポーランド第二共和国]]が建国された事だった。その初代[[首相]]は、パリ学生時代の旧友、イグナツィ・パデレフスキだった<ref name=Pasa115 />。

=== アメリカ訪問 ===
研究所は再開したが、それは設備も試料にも事欠く状態であった。1920年に[[ロスチャイルド家]]が出資したキュリー財団が設立され、放射線治療の研究を支援したが、物理や化学の研究にはほとんど費用が廻らなかった<ref name=Pasa131 />。

この年の5月、アメリカの女性雑誌『ディリニエター (Delineator)』編集長のウィリアム・ブラウン・メロニー女史からの申し入れを受けて、マリはインタビューに応じた。この席で今何が欲しいかという質問に、1グラムのラジウム金属と答えた。その価格は既に10万ドルに相当したが、アメリカの恵まれた科学研究所を知るメロニーにとって驚きの回答だった。彼女は帰国後にキャンペーンを行い、マリにラジウムを贈呈する資金を集めた<ref name=Pasa131 /><ref name=Eve448>[[#エーヴ2006|エーヴ (2006)、pp.448-466、アメリカ]]</ref>。

彼女の求めに応じ、1921年マリは娘ふたりとアメリカ渡航を決めた。そのスケジュールに多くの大学などへの歴訪から、アメリカ大統領との式典までもが準備されていると知ったフランス政府は慌て、自国が何ら名誉を与えていない不細工さを補おうとまたもレジオンドヌール勲章を授与しようとした。しかし以前と同じ理由でマリは断った。研究から離れたこの[[宣伝]]活動は気の進まないものだったが、マリは各地で大歓迎を受け、大統領[[ウォレン・ハーディング]]から直々にラジウム授与が行われた。ただし彼女はこれを個人への贈与ではなく研究所への寄贈と扱ってもらい、個人の財物にはしなかった<ref name=Pasa131 /><ref name=Eve448 />。

1929年には再渡米し、マリは1925年にワルシャワに姉妹と設立したキュリー研究所に導入する機器類の資金を得るのに成功した<ref name=Pasa131 />。

=== 研究所 ===
アメリカの旅は大成功を修め、研究所はラジウム以外にも多くの鉱石サンプルや分析機器類、そして資金を得た<ref name=Pasa131 />。だが彼女はこの旅で、自分の名声や影響力が想像以上に大きくなってしまい、よもや研究や実験に没頭することは許されないことを悟った。ならばと、マリはパリのラジウム研究所を立派な放射能研究の中心に育てようとした<ref name=Pasa131 />。

また、1922年には[[新渡戸稲造]]が事務局を務めた[[ユネスコ]]の前身に当る国際知的協力委員会 (International Committee on Intellectual Cooperation, ICIC) メンバー12人のひとりに加わった<ref>{{cite web|url=http://www.mext.go.jp/unesco/003/002.htm |title=ユネスコのあゆみ|publisher=[[文部科学省]] |language=日本語|accessdate=2010-12-17}}</ref>。ただし、相変わらず着飾ることなどしなかったため、第1回会合時の彼女の印象を自著に残した新渡戸は「見栄えもしない愛想の無い人物」と、あまりよろしくない<ref>{{cite web|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/110002545819 |title=キュリー夫人の理科教室「マリー・キュリーってどんな人?」|author=吉祥瑞枝|publisher=Cinii Article |language=日本語|accessdate=2010-12-17}}</ref><ref group="2-">新渡戸稲造『東西相触れて』「世界第1の女性碩学」たちばな出版、2002年、pp.263-270</ref>。

[[File:Curie Joliot 1934 London.jpg|thumb|right|200px|イレーヌとフレデリック・ジョリオ=キュリー。1934年。]]
研究所は性別・[[国籍]]を問わない多様なスタッフを抱え、マリは彼らの指導に多くの時間を割いた。毎朝のように彼女の周りには研究や実験の指針や進捗を相談し、論文の校正などを願う研究員らが集った。マリは適切な指示や指導を与え、成果が上がった際には祝いのお茶会を開くなど彼らを導き、その実力を伸ばした。[[アルファ粒子]]のエネルギーが一定ではない事を示したサロモン・ローゼンブルム、真空中のX線観察を行ったフェルナン・オルウェック、[[フランシウム]]を発見した[[マルグリット・ペレー]]などが研究所から出た<ref name=Pasa131 />。その中でも際立ったものは、娘イレーヌとその夫[[フレデリック・ジョリオ=キュリー]]の人工放射能の研究であり、夫妻は1935年にノーベル化学賞を受賞した<ref name=Yone108 />。1919年から1934年の間、研究所から発表された論文は483件になった<ref name=Eve497>[[#エーヴ2006|エーヴ (2006)、pp.497-515、実験室]]</ref>。

だが、放射能が健康へ与える悪影響も次第に明らかとなってきた。[[日本]]の[[山田延男]]は1923年から2年半、ラジウム研究所でイレーヌの助手としてアルファ線強度の研究を行い、マリの支援も受けながら5つの論文を発表した。しかし原因不明の体調不良を起こして帰国し、翌年亡くなった。マリはその報に触れ弔意を表す手紙を送っている<ref>{{cite web|url=http://cert.kyokyo-u.ac.jp/OkaHP/OkaHP/science/tusin95.pdf|format=PDF |title=私たちの教育改革通信 第95号|chapter=「キューリー夫人伝」によみがえる山田延男 |author=山田光男|year=2006年|publisher=[[京都教育大学]]附属教育実践センター機構|language=日本語|accessdate=2010-12-17}}</ref>。1925年1月には別の元研究員が[[再生不良性貧血]]で死亡。さらに個人助手も[[白血病]]で亡くなった。しかし明白な因果関係や対処法にはすぐに繋がらなかった。

=== 死去 ===
[[File:Smithsonian Institution - Portrait of Marie Curie (1867-1934), Physicist (pd).jpg|thumb|left|175px|1934年のマリ。]]
1932年、転倒したマリは右手首を骨折したが、その負傷がなかなか癒えなかった。頭痛や耳鳴りなどが続き、健康不良が続いた<ref name=Pasa131 />。1933年には[[胆石]]が見つかったが手術を嫌がった<ref name=Pasa131 /><ref name=Eve516>[[#エーヴ2006|エーヴ (2006)、pp.516-528、使命の終わり]]</ref>。春にマリはポーランドを訪問したが、これが最後の里帰りとなった<ref name="Wierzewski, p. 17"/>。1934年5月、気分が優れず研究所を早く後にした。そのまま寝込むようになったマリは検査を受け、結核の疑いがあるという診断が下った<ref name=Eve516 />。

療養に入ることを決め、エーヴはマリをフランス東部のオートサボア[[:en:Haute-Savoie|(en)]]、パッシー[[:en:Passy, Haute-Savoie|(en)]]にあるサンセレルモ[[:en:Sancellemoz|(en)]]の[[サナトリウム]]へ連れて行った。しかしここで受けた診察では肺に異常は見つからず、ジュネーヴから呼ばれた医師が行った血液検査の結果は、再生不良性貧血だった<ref name=Eve516 />。

7月4日水曜日、マリはで亡くなった。7月6日に夫同様近親者や友人たちだけが参列した葬儀が行われ、マリは、夫ピエールが眠るソーの墓地に、夫と並んで埋葬された<ref name=Eve516 />。

[[File:Pantheon paris.jpg|thumb|right|[[パンテオン (パリ)|パリのパンテオン]]]]
彼女の実験室はパリのキュリー博物館として、そのままの姿で保存されている<ref name=Kikuchi />。マリの残した直筆の論文などのうち、1890年以降のものは放射性物質を含まれ取り扱いが危険だと考えられている。中には彼女の料理の本からも放射線が検出された。これらは鉛で封された箱に収めて保管され、閲覧するには防護服着用が必須となる<ref>Bryson, ''A Short History of Nearly Everything'', p. 148.</ref>。また、キュリー博物館も実験室は放射能汚染されて見学できなかったが、近年除去が施されて公開された。この部屋には実験器具なども当時のまま置かれており、そこに残されたマリの指紋からも放射能が検知されるという<ref name=Kikuchi />。

60年後の1995年、夫妻の業績を称え、ふたりの墓はパリの[[パンテオン (パリ)|パンテオン]]に移され、フランス史の偉人のひとりに列された<ref name=Itoh />。マリは、パンテオンに祀られる初の女性である<ref>{{cite web|url=http://www.mukogawa-u.ac.jp/~ushida/europe/cluny.htm |title=クリニュー美術館|author=牛田智|year=2003年|publisher=[[武庫川女子大学]]生活環境学科 |language=日本語|accessdate=2010-12-10}}</ref>。この際、マリの棺内部の放射能測定が行われた。その結果360Bq/ccは若干高めながら許容濃度の5%程度にとどまり、ラジウムの[[半減期]]から考えて放射能被爆説には疑問が挟まれた。その代わりに、プチ・キュリー号で活動中に浴びたX線被爆が病気を起こしたのではという説が提唱されている<ref name=Itoh /><ref name=Kana-u>{{cite web|url=http://web.kanazawa-u.ac.jp/~med60/download/Radium.pdf |title=金沢大学市民講演会 キュリー夫人ラジウム発見100周年記念講演会要旨集|author=利波紀久、森厚文、中西孝、中西義信、道岸隆敏、菊池雄三、稲部勝幸、他|year=1998年|publisher=[[金沢大学]]|language=日本語|accessdate=2010-12-10}}</ref>。

== 人物 ==
=== ポーランド人として ===
[[File:Sklodowska-Curie statue, Warsaw.JPG|thumb|left|100px|ワルシャワのラジウム研究所前に立てられたマリの像。1935年]]
父方も、母方も、マリの一族はポーランド人の国民運動の中で地位や財産を失った。これはマリや彼女の兄や姉たちにも苦難として襲い掛かるものとなった<ref name= Wierzewski>Wojciech A. Wierzewski, "''Mazowieckie korzenie Marii''" ("Maria's Mazowsze Roots") [http://www.gwiazdapolarna.com/czytaj.php?nr=813&cat=4&art=04-01.txt], ''Gwiazda Polarna'' (The Pole Star), a Polish-American biweekly, no. 13, 21 June 2008, pp. 16–17.</ref>。小学校では査察官が来ては生徒にロシア皇帝の賛辞をしゃべらせる。優秀なマリはたびたびこの役を指名されたが、それは大変な屈辱だった。マリの父はロシア人上司と対立し公職を追われ、貧窮に落ちた生活苦が母と姉の一人を亡くす要因となった<ref name=Eve35 />。

それでも愛着があるポーランドで生涯を過ごすことを考えていたマリは、パリに出てからも帰国するつもりでいた。彼女はピエール・キュリーという伴侶を得てフランスに定着するが、故郷を忘れる事は無かった。1898年、マリは初めて見つけた新元素にポロニウムと名づけた。これは、18世紀中に彼女の故郷はロシアや[[プロシア]]・[[オーストリア]]などに蹂躙され独立できずにいるポーランドへ世界の眼を向けようとする考えがあった。マリによって、ポロニウムは政治的な意図を含んだ名称がつけられた初めての元素となった<ref>K. Kabzinska, "Chemical and Polish Aspects of Polonium and Radium Discovery", ''Przemysł chemiczny'' (The Chemical Industry), 77:104–7, 1998年.</ref>。

フランス世論は外国人に向ける目は厳しく、差別の対象にもなっていた。その背景には[[ドレフュス事件]]が影響したとも言われる。ピエール一家など常に彼女の味方をした人々もいたが、後半生のマスコミとの対立には苦しめられた。それでも矜持を忘れず、また娘たちにも[[ポーランド語]]を習得させるなどの教育を施した<ref>[[#Goldsmith 2005|Barbara Goldsmith (2005)、p.149]]</ref>。

しかし、マリは決してフランスを蔑ろにした訳ではなく、第一次世界大戦時の活動や戦債購入などで示される通り、フランスを「第二の故郷」と考えていた。ポーランドに戻る機会は何度もあったが、ピエールの研究所を世界随一にするために努力し<ref name=Pasa131 />、彼女は骨をフランスに埋めた。

=== 女性として ===
学問の世界において、20世紀初頭は未だ女性に対する偏見が存在した時代だった。マリ・キュリーの履歴には数多い「女性初」という言葉がつくが、これはジェンダーを根拠とする理不尽な扱いを受けながらもそれに毅然とした態度で臨んだ結果でもある。最初のノーベル賞受賞は、1902年に提出されたフランス[[病理学]]者シャルル・ブシャール[[:en:Charles-Joseph Bouchard|(en)]]の推薦による。しかし、翌年フランス科学アカデミーが申請した推薦状ではマリだけが意図的に外されていた。決定においてスウェーデン科学アカデミーの数学者[[ヨースタ・ミッタク=レフラー]]がブシャールの推薦を根拠に強く推したことでマリも受賞対象となったが、フランス科学アカデミーには女性蔑視の風潮があったことを示す。これは受賞後のマスコミの論調にも見られた<ref name=Yone105>[[#米沢2006|米沢 (2006)、pp.105-106、一度目のノーベル賞]]</ref>。

このような中、マリは夫と自分それぞれの功績を区別して強調するようになった。ピエールもそれを尊重し、同じ態度を取った。誹謗中傷の中で2度のノーベル賞受賞が決まった際、マリは、科学者とはその業績によって評価されるべきであり、性別や出身および私生活などではないという強い意志を持ち、誇りを持って記念講演を行った<ref name=Yone108 />。

ただし、「キュリー夫人(Madame Curie)」という呼称は夫に従属する妻という意味ではなく、これはマリ自身が中学時代の友人に婚約を知らせる手紙の中で、「次に合うときには姓が変わっています」と書き「キュリー夫人。これが私の新しい名前です」と自ら使っている。<ref name=Eve173 />

=== 教育者として ===
両親も教育者であったマリは、その人生において多くの人々を教えた。大学進学が叶わないポーランド時代は家庭教師を勤めた。パリではセーブル女子高等師範学校で多くの生徒を教えた。

娘イレーヌが学校で受ける詰めこみ型の教育内容に疑問を感じたマリは、共感する一部の人々と「共同授業」というフリースクールを立ち上げた。10数人の子供たちを相手に、マリなど当代一流の学者らが体験中心の授業を工夫して行った<ref name=Eve373 />。

== 業績 ==
=== 優れた発想 ===
ロバート・リードは、ピッチブレンドの測定結果から2つの新元素発見に漕ぎつけた発想はマリ独自のもので、誰からの助けも受けず定式化に辿り着いたと、そして夫に意見を求めたとしても明瞭に彼女の業績に帰すと述べた。夫がどんな曖昧な形でも機会は全く無いと言い張ったと、彼女自身が記した自伝の中で2度も触れている。これは、経歴の初期段階で彼女が関わる分野において多くの科学者が女性に独創的な仕事をする能力があると信じさせることが難しいと悟ったことを示すと、リードは解説している。<ref>[[#Robart1974|Robert (1974)、p.64]]</ref>

[[File: Marie Curie and Albert Einstein.jpg |thumb|175px|upright|[[アルバート・アインシュタイン]]とマリ・キュリー]]
=== 科学そして社会への貢献 ===
マリ・キュリーは、初期の原子核物理学<ref name=Yone96>[[#米沢2006|米沢 (2006)、pp.96-97、科学が人生最高の喜び]]</ref>そして社会学・医学や生物学の面において21世紀の世界にまで影響を与える大きな貢献を残した<ref name=Kana-u />。[[コーネル大学]]の科学史家L.ピアース・ウィリアムズ[[:en:L. Pearce Williams|(en)]]は以下のように述べた。
:マリ・キュリーの仕事は画期的な結果をもたらした。ラジウムの放射は強く、彼女はそれを看過しなかった。それは一見して[[エネルギー保存の法則]]に矛盾するため、基礎的な物理学の知見に再考を迫るものだった。実験レベルでのラジウム発見は、[[アーネスト・ラザフォード]]らに放射能の発生源を考えさせ、原子の構造論構築へと導いた。ラザフォードの[[アルファ線]]研究は[[原子核]]存在の仮説へと繋がった。[[医学]]の領域には、ラジウム放射線は[[癌]]治療に繋がる手段を提供した。<ref name="L. Pearce Williams, p. 332"/>

マリ・キュリーが物理や化学に革新的な考え方を提供したことと同様に、社会へ与えた影響も大きかった。彼女は自身の研究結果を世間に知らしめる上で、[[ジェンダー]]と[[国籍]]という学問とは全く別の壁を打ち破る必要に迫られた。フランソワーズ・ジルー著『Marie Curie:A Life』が描き出したマリの人生は、彼女が[[フェミニスト]]の先駆的存在だったことを明らかにしている。マリは時代に先んじて、束縛を断ち、自立した生涯を過ごし、その資質は損なわれる事は無かった。アルバート・アインシュタインも、このような美点は彼女が得た栄誉によっていささかも曲がってしまうことはなかったと記している。<ref name= Wierzewski />

== 評価 ==
[[File:Lublin UMCS Pomnik Marii Curie-Skłodowskiej.jpg|thumb|175px|upright|ポーランド、[[ルブリン]]の[[マリー・キュリー・スクウォドフスカ大学]]にあるマリの像]]
=== 受賞歴 ===
マリ・キュリーは女性初のノーベル賞受賞者であり、かつ2度受賞した最初の人物である。
*1899年、1900年、1902年:ゲーグネル賞(鋼鉄の磁性研究に対して<ref name=Gold56 />)
*1903年:[[ノーベル物理学賞]](ピエール・キュリーおよびアンリ・ベクレルと同時受賞)
*1904年:オリシス賞(パリ新聞組合より)
*1907年:アクトニアン賞[[:en:Actonian Prize|(en)]](イギリス王立科学研究所)
*1911年:[[ノーベル化学賞]]
*1921年:エレン・リシャール研究賞
*1924年:1923年度アルジャントゥイユ侯爵大賞
*1931年:キャメロン賞([[エディンバラ大学]])
このような多くの賞を受けた科学者の生活が裕福になるとは限らない。マリの場合も同様で、伝えられるところによると、これらの賞金を得てやっと住居の壁紙を換えたり、配管工事を行ったりすることができたともいう<ref>『人間博物誌[[:en:People's Almanac|(en)]]』、デヴィッド・ワルチンスキー、アーヴィング・ウォーレス、1975年、[[ダブルデイ]]</ref>。

=== 受賞メダル ===
*1903年:ベルトロー賞メダル(ピエールと)、パリ市名誉賞メダル(ピエールと)、[[デービーメダル]](ピエールと。イギリス王立協会)
*1904年:[[マテウチ・メダル]](ピエールと。イタリア科学協会)
*1908年:クールマン賞大金メダル(リール工業協会)
*1909年:エリオット・クレッソンメダル[[:en:Elliott Cresson Medal|(en)]](フランクリン協会)
*1910年:アルバート賞メダル(王立技術協会、ロンドン)
*1919年:スペイン・アルフォンソ12世文官勲章大十字勲章
*1921年:ベンジャミン・フランクリン賞メダル(アメリカ哲学協会、フィラデルフィア)、ジョン・スコット賞メダル(アメリカ哲学協会)、国立社会科学学会賞金メダル(ニューヨーク)、ウィリアム・ギブス賞メダル(アメリカ化学協会、シカゴ)
*1922年:北アメリカ放射線学協会金メダル
*1924年:ルーマニア政府第一級功労賞メダル
*1929年:ニューヨーク婦人クラブ連合会金メダル
*1931年:アメリカ放射線学会メダル

=== 称号 ===
存命中だけでも、マリは各国の科学アカデミー名誉会員など受けた称号は100を超える<ref name=Pono />。
*1904年:モスクワ帝国文化人類学民俗学協会名誉会員。イギリス王立科学研究所名誉会員。ロンドン化学協会在外会員。[[バタヴィア]]哲学協会通信会員。[[メキシコ]]物理学協会名誉会員。メキシコ科学アカデミー名誉会員。ワルシャワ通算奨励協会名誉会員。
*1906年:[[アルゼンチン]]科学協会通信会員。
*1907年:[[オランダ]]科学協会在外会員。[[エディンバラ大学]]名誉法学博士。
*1908年:[[サンクトペテルブルク]]帝国科学アカデミー通信会員。[[ブラウンシュヴァイク]]自然科学協会名誉会員。
*1909年:[[ジュネーヴ大学]]名誉医学博士。[[ボローニャ]]科学アカデミー通信会員。[[チェコ]]科学文学美術アカデミー在外客員会員。[[フィラデルフィア]]薬学学会名誉会員。[[クラクフ]]科学アカデミー科学会員。
*1910年:[[チリ]]科学協会通信会員。アメリカ哲学協会会員。スウェーデン王立科学アカデミー在外会員。アメリカ科学協会会員。ロンドン物理学協会名誉会員。
*1911年:(フランス科学アカデミー会員選挙で落選)。[[ポルトガル]]科学アカデミー在外通信会員。[[マンチェスター大学]]名誉理学博士。
*1912年:ベルギー化学協会会員。サンクトペテルブルク帝国実験医学協会客員会員。ワルシャワ科学協会普通会員。[[リヴォフ大学]]哲学名誉会員。ワルシャワ写真協会会員。リヴォフ理工科学校名誉博士。[[ヴァルナ (ブルガリア)|ヴァルナ]]科学協会名誉会員。
*1913年:[[アムステルダム]]王立科学アカデミー特別会員(数理物理科)。[[バーミンガム大学]]名誉博士。エディンバラ科学技術協会名誉会員。
*1914年:[[モスクワ大学]]物理医学協会名誉会員。[[ケンブリッジ]]哲学協会名誉会員。[[モスクワ]]科学協会名誉会員。ロンドン衛生学会名誉会員。[[フィラデルフィア]]自然科学アカデミー通信会員。
*1918年:スペイン王立医学電気放射線学協会名誉会員。
*1919年:スペイン王立医学電気放射線学協会名誉会長。[[マドリッド]]・ラジウム研究所名誉所長。[[ワルシャワ大学]]名誉教授。ポーランド化学協会会長。
*1920年:[[デンマーク]]王立科学文学アカデミー普通会員。
*1921年:[[エール大学]]名誉理学博士。[[シカゴ大学]]名誉理学博士。[[ノースウェスタン大学]]名誉理学博士。スミス単科大学名誉理学博士。ウェルズレイ単科大学名誉理学博士。ペンシルヴァニア女子医科大学名誉博士。[[コロンビア大学]]名誉理学博士。[[ピッツバーグ大学]]名誉法学博士。[[ペンシルヴァニア大学]]名誉法学博士。バッファロー自然科学協会名誉会員。[[ニューヨーク]]鉱物学クラブ名誉会員。北アメリカ放射線学協会名誉会員。[[ニューイングランド]]化学教員協会名誉会員。アメリカ自然史博物館名誉会員。[[ニュージャージー]]化学協会名誉会員。工業化学協会名誉会員。クリスティアニア・アカデミー会員。ノックス技芸科学アカデミー名誉終身会員。アメリカ・ラジウム協会名誉会員。[[ノルウェー]]医療ラジウム研究所名誉会員。ニューヨーク・アリアンス・フランセーズ名誉会員。
*1922年:パリ医学アカデミー自由客員会員(フランス初)。ベルギー・ロシア学術団体名誉会員。
*1923年:[[ルーマニア]]医療鉱水学気候学協会名誉会員。[[エディンバラ大学]]名誉法学博士。[[チェコスロヴァキア]]数学者物理学者連盟名誉会員。
*1924年:ワルシャワ市名誉市民。ニューヨーク市民ホールの座席に名前が記載される。ワルシャワ・ポーランド化学協会刑余会員。[[クラクフ大学]]名誉医学博士・クラクフ大学名誉哲学博士。[[リガ]]名誉市民。[[アテネ]]精神科学協会名誉会員。
*1925年:[[ルブリン]]医学協会名誉会員。
*1926年:[[ローマ]]≪ポンティフィチア・ティベリアナ≫普通会員。[[サン・パウロ]]化学協会名誉会員。[[ブラジル]]科学アカデミー通信会員。ブラジル婦権振興連盟名誉連盟員。ブラジル・サン・パウロ薬学化学協会名誉会員。ブラジル薬学師協会名誉会員。ワルシャワ理工科学校化学科名誉博士。
*1927年:モスクワ科学アカデミー名誉会員。[[ボヘミア]]文学科学協会在外会員。[[ソヴィエト連邦]]科学アカデミー名誉会員。北アメリカ州連合医学研究科協会名誉会員。ニュージーランド学士院名誉会員。
*1929年:[[ポズナニ]]科学協会名誉会員。[[グラスゴー大学]]名誉法学博士。[[グラスゴー]]名誉市民。[[セント・ローレンス大学]]名誉理学博士。ニューヨーク医学アカデミー名誉会員。在アメリカ・ポーランド法人医学歯科学協会名誉会員。
*1930年:フランス発明学者協会名誉会員。フランス発明学者協会名誉会長。
*1931年:世界平和連盟名誉会員。アメリカ放射線学学会名誉会員。物理学自然科学アカデミー在外通信会員。
*1932年:帝国ハレ・ドイツ自然科学アカデミー会員。ワルシャワ医学協会名誉会員。チェコスロヴァキア化学協会名誉会員。
*1933年:イギリス放射線学レントゲン協会名誉会員。

=== 栄誉 ===
マリ・キュリーは1902年に夫とともに<ref name=Pasa71 />、1910年には単独で<ref name=Eve388 />フランスから[[レジオンドヌール勲章]]を贈られたが、どちらも辞退した<ref name=Eve388 />。

1935年、ワルシャワに設立されたラジウム研究所の前に彼女の銅像が建立された。序幕はイグナツィ・モシチスキ[[:en:Ignacy Mościcki|(en)]]の夫人が行った。この像は1944年の[[ワルシャワ蜂起]]の際、銃撃を受けて損傷した。戦後修復を受けたが、銃創をあえて残す決定が下された<ref name="Wierzewski, p. 17"/>。

[[File:20000 zl a 1989.jpg|thumb|150px|マリ・キュリーの肖像が使われたポーランドの旧20000[[ズウォティ]]札。]]
[[File:Soviet Union stamp 1987 CPA 5875.jpg|150px|thumb|[[ソビエト連邦]]の切手]]
[[File:PMCurie.jpg|150px|thumb|ピエール・エ・マリー・キュリー駅[[:en:Pierre et Marie Curie (Paris Métro)|(en)]]。]]
[[File:Maria Skłodowska-Curie Medallion.JPG|thumb|150px|マリ・スクウォドフスカ=キュリー・メダリオン[[:en:Maria Skłodowska-Curie Medallion|(en)]]、[[ニューヨーク州立大学バッファロー校]]]]
=== その他 ===
歴史に残る著名な女性科学者として、マリ・キュリーの名や[[肖像]]は、さまざまな場所で用いられている。
*[[原子番号]]96の元素名[[キュリウム]]は夫妻の姓に由来する。
*3つの放射性鉱物も彼女に由来する名称がつけられている。キュリー石 (curite)<ref>{{cite web|url= http://webmineral.com/data/Curite.shtml |title=Curie Mineral Data |publisher=Mineralogy Database|author=David Barthelmy |language=英語 |accessdate=2010-12-10}}</ref>、スクロドフスカ石 (sklodowskite)<ref>{{cite web|url= http://webmineral.com/data/Sklodowskite.shtml |title=Sklodowskite Mineral Data |publisher=Mineralogy Database|author=David Barthelmy |language=英語 |accessdate=2010-12-10}}</ref>、銅スクロドフスカ石 (cuprosklodowskite)<ref>{{cite web|url= http://webmineral.com/data/Cuprosklodowskite.shtml |title=Cuprosklodowskite Mineral Data |publisher=Mineralogy Database|author=David Barthelmy |language=英語 |accessdate=2010-12-10}}</ref>である。
*[[通貨]]の肖像にも使われ、ポーランドでは1980年代後半[[インフレーション|インフレ]]時発行された20000[[ズウォティ]]札<ref>{{cite web|url= http://www-personal.umich.edu/~jbourj/money1.htm |title= Marie Curie on the 500 French Franc and 20000 old Polish zloty banknotes |language=英語 |accessdate=2010-12-10}}</ref>、フランスでは[[ユーロ]]統一前の500[[フランス・フラン]]札の他にも[[硬貨]]や[[切手]]でも見られた。
*2009年に[[国際連合教育科学文化機関]] (UNESCO) と[[ロレアル]]が協賛した「For Women In Science」プログラムの一環として、雑誌『[[ニュー・サイエンティスト]]』で行われた「Most inspirational woman in science」にて、マリ・キュリーは25.1%の得票を受けて1位に選ばれた。これは2位の[[ロザリンド・フランクリン]](得票率14.2%)の倍近い支持だった<ref>{{cite web|url= http://www.newscientist.com/article/mg20327156.600-most-inspirational-woman-scientist-revealed.html |title= Most inspirational woman scientist revealed |publisher=[[ニュー・サイエンティスト]] |language=英語 |date=2009-07-02|accessdate=2010-12-10}}</ref><ref>{{cite news|url=http://www.telegraph.co.uk/scienceandtechnology/science/sciencenews/5715220/Marie-Curie-voted-greatest-female-scientist.html|publisher=www.telegraph.co.uk|title=Marie Curie voted greatest female scientist|quote=Marie Curie, the Nobel Prize-winning nuclear physicist has been voted the greatest woman scientist of all time. | location=London | date=2 July 2009 |language=英語| accessdate=2010-12-10}}</ref>。
*ポーランドにて、彼女の名を冠した機関・団体等には以下の例がある
**[[マリー・キュリー・スクウォドフスカ大学]]。1944年創立、[[ルブリン]]。
**キュリー研究所[[:en:Curie Institute (Warsaw)|(en)]]。ワルシャワ。
**マリア・スクウォドフスカ=キュリー博物館[[:en:Maria Skłodowska-Curie Museum|(en)]]。1967年、生誕地<ref name="Wierzewski, p. 17"/>。
*フランスにて、彼女の名を冠した機関・団体等には以下の例がある
**パリ第6大学‐ピエール・マリー・キュリー大学[[:en:University of Paris VI: Pierre et Marie Curie|(en)]]。1968年、パリ大学の理学・医学部が分割された際に創立。研究分野に伝統を持ち、産業界とも連携しつつ科学や技術分野の研究や人材育成を行う<ref>{{cite web|url=http://www.bureau.tohoku.ac.jp/kokusai/exchangej/scientificj/kyotei-pdf/7Europe/712france/01pierre/Pierre&Marie.html |title=フランス パリ第6大学ピエール・マリー・キュリー|publisher=[[東北大学]]国際交流課|language=日本語|accessdate=2010-12-10}}</ref>。
**キュリー研究所[[:en:Curie Institute (Paris)|(en)]]とキュリー博物館[[:en:Curie Museum|(en)]]。パリ。
**ピエール・エ・マリー・キュリー駅[[:en:Pierre et Marie Curie (Paris Métro)|(en)]]。パリの[[メトロ (パリ)|メトロ]]7号線の駅<ref>{{cite web|url= http://www.hitoriparis.com/metro/7m/ |title=パリのメトロ7号線で探す観光ガイド|publisher=パリ観光ガイドNana |language=日本語|accessdate=2010-12-10}}</ref>。
*アメリカ合衆国にて、彼女の名を冠した機関・団体等には以下の例がある
**ロヨラ大学キュリーコミュニティ。シカゴ。
**キュリー・メトロポリタン高校[[:en:Curie Metropolitan High School|(en)]]。[[シカゴ]]、1999年1月創立<ref>{{cite web|url=http://www.ibo.org/school/001083/ |title= Curie Metropolitan High School|publisher=International Baccalaureate |language=英語|accessdate=2010-12-10}}</ref>。
**マリ・キュリー中学校158[[:en:Marie Curie Middle School 158|(en)]]。[[ニューヨーク州]][[クイーンズ区]]<ref>{{cite web|url=http://schools.nycenet.edu/Region3/ms158/ |title= Marie Curie Middle School 158 |publisher=ニューヨーク市教育庁|language=英語|accessdate=2010-12-10}}</ref>。
**マリ・スクウォドフスカ=キュリー・メダリオン[[:en:Maria Skłodowska-Curie Medallion|(en)]]。[[ニューヨーク州立大学バッファロー校]]ポーランド教室にあるメダリオン型の[[ステンドグラス]]。ヨセフ・マズール[[:en:Jozef C. Mazur|(en)]]作。
*イギリスにて、彼女の名を冠した機関・団体等には以下の例がある
**マリー・キュリーがんセンター<ref>{{cite web|url= http://www.mariecurie.org.uk/ |title=Homepage |publisher= Marie Curie Cancer |language=英語|accessdate=2010-12-10}}</ref>
*イタリアにて、彼女の名を冠した機関・団体等には以下の例がある
**マリー・キューリー夫人財団。ボローニャ大学内。<ref>{{cite web|url= http://www.ocha.ac.jp/topics/h180911.html|title=お茶の水女子大学NEWS&INFO |publisher=[[お茶の水女子大学]]|year=2006年 |language=日本語|accessdate=2010-12-10}}</ref>
*日本にて、彼女の名を冠した機関・団体等には以下の例がある
**キュリー祭。[[鳥取県]]の[[三朝温泉]]が世界有数の[[ラドン]]温泉であることを縁に、マリ・キュリーの業績を讃えて1951年([[昭和]]26年)から行われている祭り。<ref>{{cite web|url= http://www.town.misasa.tottori.jp/~misasa01/kouhou/2004/0407/NewFiles/top07.html |title=あの日あの時みさきの歴史(3)キュリー祭|publisher=[[鳥取県]][[三朝町]]役場|language=日本語|accessdate=2010-12-10}}</ref>


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*{{cite book|和書|title=キュリー夫人伝|author=[[エーヴ・キュリー]] |translator=河野万里子|publisher=[[白水社]] |year=2006年|isbn=4-560-02613-0|ref=エーヴ2006}}
* 『ノーベル賞の輝き ―地球へ・未来へ・人類へ―』[[テルモ]]、非売品
**{{cite book| title= Madame Curie: A Biography |author= Eve Curie |publisher= Da Capo Press |year=2001年|isbn=0306810387}}
:本書は次女エーヴが、マリが亡くなった3年後の1937年に著した母の伝記。彼女は、マリと距離を置く記述をするために表題をあえて『Madame Curie』とした<ref name=Gold127 />。
*{{cite book|和書|title=マリー・キュリー 新しい自然の力の発見|author=ナオミ・パサコフ|editor=オーウェン・ギンガリッチ|translator=西田美緒子|publisher=[[大月書店]] |year=2007年|isbn=978-4-272-44045-0|ref=パサコフ2007}}
**{{cite book| title= Marie Curie and the Science of Radioactivity |author= Naomi Pasachoff |publisher=[[オックスフォード大学]]出版局|year=1996年|location=ニューヨーク|isbn=0195092147}}
*{{cite book|和書|title=マリ・キュリー:フラスコの中の闇と光|author=バーバラ・ゴールドスミス|others=監修:小川真理子|translator=竹内喜|publisher=WAVE出版|year=2007年|isbn=978-4-87290-289-1|url=http://books.google.co.jp/books?id=eGVPTmMqg3wC&printsec=frontcover&dq=%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%BC&hl=ja#v=onepage&q=%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%BC&f=false|accessdate=2010-12-04|ref=ゴールドスミス2005}}
**{{cite book| title= Obsessive Genius: The Inner World of Marie Curie |author= Barbara Goldsmith |publisher= W.W. Norton |year=2005年|location=ニューヨーク|isbn=0-393-05137-4|ref= Goldsmith 2005}}
*{{cite book|和書|title=人物で語る物理入門(下)|author=米沢富美子|chapter=第11章原子核物理学を築いた女性たち|pages=95-132|publisher=[[岩波書店]] |year=2006年|isbn=4-00-430981-6|ref=米沢2006}}
*{{cite book|和書|title=100人の20世紀(下)|chapter=キュリー夫人|pages=171-179|author=宇佐波雄策|publisher=[[朝日新聞社]] |year=2001年|isbn=4-02-261351-3|ref=宇佐2001}}
*{{cite book| title= Marie Curie |author= Robert Reid |publisher= New American Library |year=1974年|location=ニューヨーク|ref= Robert1974}}
*{{cite book| title= [[アメリカ大百科事典]]|chapter= Curie, Pierre and Marie |author= L. Pearce Williams |publisher=[[:en:Grolier|Grolier Inc.]] |edition= vol. 8|pages=331-332|year=1986年|location=ダンバリー[[:en:Danbury, Connecticut|(en)]] |ref= Williams 1986}}
*Teresa Kaczorowska, ''Córka mazowieckich równin, czyli Maria Skłodowska–Curie z Mazowsza'' (Daughter of the Mazovian Plains: Maria Skłodowska–Curie of Mazowsze), Ciechanów, 2007年.
* フランソワーズ・ジルー[[:en:Françoise Giroud|(en)]], ''Marie Curie: A Life'', translated by [[:en:Lydia Davis|Lydia Davis]], Holmes & Meier, 1986年, ASIN B000TOOU7Q.

== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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<references group="注"/>
</div>
=== 脚注 ===
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=== 脚注2 ===
本脚注は、出典・脚注内で提示されている「出典」を示しています。
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== 読書案内 ==
*{{cite book|和書|title=キュリー夫人の理科教室|author=|others=監修:吉祥瑞枝|translator=岡田勲、渡辺正|publisher=[[丸善]] |year=2004年|url=http://www.amazon.co.jp/gp/product/4621075012 |isbn=978-4621075012}}
:マリ・キュリーと友人たちが、娘イレーヌら子供たちの教育のため立ち上げた「共同授業」を受けたイザベル・シャヴァンヌが取った古いノートの再現。[http://pub.maruzen.co.jp/book_magazine/curie_rika/mokuji.html 主要目次]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{commons}}
* [http://nobelprize.org/physics/laureates/1903/marie-curie-bio.html Marie Curie – Biography] - ノーベル財団のサイトにあるマリ・キュリーの伝記。英文ページ。
{{wikiquote}}
{{Commons|Marie Curie}}
*{{en icon}}[http://nobelprize.org/physics/laureates/1903/marie-curie-bio.html Marie Curie – Biography] ノーベル財団のサイトにあるマリ・キュリーの伝記。
*{{en icon}} [http://www.cambridge.org/us/catalogue/catalogue.asp?isbn=9780521821971 Out of the Shadows] 女性科学者の業績
*{{en icon}} [http://www.nobelprize.org/physics/articles/curie/index.html Marie and Pierre Curie and the Discovery of Polonium and Radium] ノーベル財団のサイトにあるキュリー夫妻の伝記。
*{{en icon}}[http://www.staff.amu.edu.pl/~zbzw/ph/sci/msc.htm Detailed Biography at Science in Poland website].
*{{en icon}}[http://cordis.europa.eu/fp7/mariecurieactions/home_en.html European Marie Curie Fellowships]
*{{en icon}}[http://www.mariecurie.org Marie Curie Fellowship Association]
*{{en icon}}[http://www.woodrow.org/teachers/chemistry/institutes/1992/MarieCurie.html ''Marie Sklodowska Curie: Her Life as a Media Compendium'' ]
*{{en icon}}[http://alsos.wlu.edu/qsearch.aspx?browse=people/Curie,+Marie Annotated bibliography of Marie Curie from the Alsos Digital Library]
*{{en icon}}[http://www.nytimes.com/learning/general/onthisday/bday/1107.html Obituary, New York Times, 5 July 1934 ''Mme. Curie Is Dead; Martyr to Science''] マリ・キュリー死去のニュース。ニューヨーク・タイムス1934年7月5日報。
*{{en icon}}[http://himetop.wikidot.com/marie-curie Some places and memories related to Marie Curie]
*{{Imdb title|id=0956189|title=Marie Curie}} – Animated biography of Marie Curie on DVD from an animated series of world and American history – Animated Hero Classics distributed by Nest Learning.
*{{Imdb title|id=0281993|title=Marie Curie – More than Meets the Eye}} – Live Action portrayal of Marie Curie on DVD from the Inventors Series produced by Devine Entertainment.
*{{Imdb title|id=0075534|title=Marie Curie}} – Portrayal of Marie Curie in a television mini series produced by the [[BBC]]
*{{worldcat id|id=lccn-n80-155913}}
*{{en icon}}[http://www.nobelprize.org/physics/laureates/1903 1903 Nobel Prize in Physics], [http://www.nobelprize.org/chemistry/laureates/1911 1911 Nobel Prize in Chemistry] ノーベル賞委員会ページ。マリ・キュリーの受賞スピーチ 他。
*{{en icon}}[http://www.aip.org/history/curie/contents.htm Long biography] [[米国物理学協会]](子供向け解説[http://www.aip.org/history/curie/brief/index.html "Her story in brief!"])
*{{ja icon}}[http://repository.lib.tottori-u.ac.jp/Repository/file/3000/20100907114245/lj100(2)_102.pdf キュリー夫人の手紙] [[鳥取大学]]附属図書館が所蔵する、マリ・キュリーがミス・ロイに宛てた手紙。実物写真や訳文など。
{{en icon}}[http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GRid=1613 Find A Grave]


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2010年12月17日 (金) 16:16時点における版

マリア・スクウォドフスカ=キュリー
1903年、最初のノーベル賞(物理学賞)を受賞した頃
生誕 (1867-11-07) 1867年11月7日
ワルシャワポーランド立憲王国
死没 (1934-07-04) 1934年7月4日(66歳没)
フランスの旗 フランス
居住 ポーランド(帝政ロシア)、フランス
国籍 ポーランドの旗ポーランド
研究分野 物理学化学
出身校 パリ大学(ソルボンヌ)
主な業績 放射能の研究
ラジウムの発見
ポロニウムの発見
署名
プロジェクト:人物伝
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ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:1903年
受賞部門:ノーベル物理学賞
受賞理由:放射能の研究
ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:1911年
受賞部門:ノーベル化学賞
受賞理由:ラジウムおよびポロニウムの発見とラジウムの性質およびその化合物の研究

マリア・スクウォドフスカ=キュリー(Maria Skłodowska-Curie, 1867年11月7日 - 1934年7月4日)は、現在のポーランドポーランド立憲王国)出身の物理学者化学者。フランス語名はマリ(マリー)・キュリー(Marie Curie)。ワルシャワ生まれ。キュリー夫人(Madame Curie)として有名である。放射線の研究で、1903年のノーベル物理学賞、1911年のノーベル化学賞を受賞し[1]、パリ大学(en)初の女性教授職に就任した。放射能 (radioactivity) という用語は彼女の発案による[2]

生涯

幼少時

マリの生誕地。ワルシャワのニュータウン(en)にあり、現在はマリア・スクウォドフスカ=キュリー博物館(en)となっている。
ブワディスカ・スクウォドフスキと3人の娘たち。左から、マリ、ブワディスカ、ヘラ

生誕時の名前はマリア・サロメ・スクウォドフスカ(スクロドフスカ[3])(Maria Salomea Skłodowska)。父ブワディスカ・スクウォドフスキ(スクロドフスキー[3])は下級貴族階級出身で、帝政ロシアによって研究や教壇に立つことを制限されるまではペテルブルク大学数学物理の教鞭を執った科学者 [4]。父方の祖父ユゼフも物理・化学の教授であり、ルブリンで若い頃のボレスワフ・プルフ(en)も師事した[5]。母ブロニスワバ・ボグスカも下級貴族階級出身で、女学校(ボーディングスクール)の校長を勤める教育者だった[4][6]

マリは5人兄弟の末っ子で、姉ゾフィア(1862年生)、ブロスニワバ(母と同名、1865年生)、ヘラ(1866年生)、兄ユゼフ(祖父と同名、1863年生)。その中でもマリアは幼少の頃から聡明で、4歳の時には姉の本を朗読でき、記憶力も抜群だった[6]

だが当時、ポーランドはウィーン会議にて分割され、ワルシャワ公国はポーランド立憲王国として事実上帝政ロシアに併合された状態にあり、独立国家の体をなしていなかった[3]。帝政ロシアは知識層を監視して行動に制約をかけた。マリ6歳の時、父ブワディスカが密かに講義を行っていたことが発覚して職と住居を失った。さらに母ブロニスワバも身体を壊してしまった。投機への失敗も重なり[7]貧窮した一家は移り住んだ家で小さな寄宿学校を開いたが、1874年に生徒が罹患したチフスが一家に移り、姉ゾフィアが亡くなった。1878年には母ブロニスワバが結核で他界した。14歳のマリは深刻な鬱状態に陥り[6]、母に倣ったカトリックの信仰を捨て[7]不可知論の考えを持つようになったという[8]

家庭教師のキャリアと破れた恋

1883年6月にギムナジウムを優秀な成績で卒業した[9]。 しかし当時、女性には進学の道は開かれていなかった[10]。父は、マリを親戚やかつての教え子が住む田舎で息抜きさせ、彼女は自然の中でのんびりした生活を堪能した[10]

マリア・スクウォドフスカ。16歳(1883年)[11]
農工博物館の実験室。1890年から1891年にかけて、マリが初めて科学実験をおこなった場所。

その後ワルシャワに戻ってチューターなどを勤めていたが[12]、ピャセツカという女性教師の紹介で非合法の「さまよえる大学(en)(ワルシャワ移動大学[9])」で学ぶ機会を得た[12]。その頃、姉ブロスニワバがパリ薬学修学のために貯金をしていたが、マリは申し出て働き、姉を援助することを決めた[13][12]。1885年からマリは住み込みの家庭教師を始めた。最初はクラクフの法律家一家で、その後チェハヌフ(en)で農業を営む父方の親戚筋に当るゾラフスキ家でガヴァネスとなった[12]。ここで勉学に打ち込んだ彼女に、ワルシャワ大学で数学を学んでいた一家の長男カジュミェシュ・ゾラフスキ(en)が惹かれ、ふたりは恋仲となった[14]。しかし、カジュミェシュが結婚の希望を両親に告げると、社会的地位の違いを理由に猛反対された[15]。彼女は失意のまま契約の2年間を終えると[14][16]チェハヌフを去り、バルト海沿岸にあるソポトの町に住むフックス家でさらに1年間家庭教師の仕事を続けた[17]

1890年3月、数ヶ月前に医師カジュミェシュ・ドウズキと婚約した姉ブロスニワバがパリで一緒に住むよう誘う手紙がマリに届いた[17]。だが彼女は断る。父や姉の元にいると決めた事、ワルシャワの家庭教師の仕事が順調で、ワルシャワ移動大学での勉学に楽しさを感じている事、留学するには蓄えが充分ではない事、そしてカジュミェシュ・ゾラフスキを忘れられずにいた事があった[17]。彼女は家庭教師をする傍ら、オールドタウン(en)近郊のクラクフ郊外通り(en) 66にある農工博物館(en)の実験室で科学研究の技能習得に努めた。この実験室はサンクトペテルブルクでロシアの著名な化学者ドミトリ・メンデレーエフの助手を勤めたこともあるいとこのユゼフ・ボグスキーが管理しており、またローベルト・ブンゼンに学んだN. Milicerも彼女を指導した[9]

転機は1891年秋に、彼女にとって決して幸福ではない形で訪れた。結婚は認められなかったが、カジュミェシュ・ゾラフスキとマリは連絡を取り合っていた。そして9月、二人はザコパネで避暑の旅行を共にした。もうすぐ24歳になるマリは膠着した人生に変化を期待したが、彼は優柔不断で何も決断できずにいた。そのため二人は喧嘩別れしてしまい、マリは自らフランス行きを決意した[17]

一方のカジュミェシュ・ゾラフスキは、博士号取得後に数学者としての履歴を積み、またヤギェウォ大学の学長、ワルシャワ教育庁の長官まで上り詰めた。だが晩年には、1935年に建てられたマリ・キュリーの銅像の前に座り込んで何かの想いにふける、ワルシャワ工科大学(en)の老教授となった彼の姿が見られたという[18]

パリでの苦学

3日間の汽車の旅を経て[17]、1891年10月、マリはパリに移り住んだ。当時、女性でも科学教育を受講可能な数少ない機関の1つであった[19]ソルボンヌ(パリ大学)[20]の登録用紙には名前を「マリア」からフランス語風に「マリー」と書き、物理、化学、数学を学ぶ日々が始まった[21]スラブ系の美しい顔立ちに明るいブロンド、グレーの瞳のマリは学内でも人目を引き、彼女自身も義兄を通じて若きイグナツィ・パデレフスキなどパリ在住ポーランド人らとも親交を持った[21]

しかし、将来はポーランドに戻ると決めていた自分には時間が無い事に気づき、姉夫婦の元を離れてパリによくあった7階建石造りアパートの屋根裏部屋を借りて[20]引っ越した[21][22]。マリは昼に学び、夕方はチューターを務める一日を送った。生活費に事欠いて食事もろくに取らず[23]、暖房も無かったため寒い時には持っている服すべてを着て寝る日々を過ごしながら勉学に打ち込んだ[20]。ついには倒れて医師である義兄の面倒になったこともあったが、努力を重ねた結果1893年には物理学の学士資格を得た[23]。この年、貯蓄が底をつき一度は諦めたが、同郷の学友が彼女のために奨学金を申請し勉学を続けることができた[23]

ピエール・キュリー

学士を獲得後、それまでの蓄えに頼る生活を変えてマリはフランス工業振興協会の受託研究を行い、わずかながらも収入を得るようになった。相変わらず屋根裏の貧乏生活は続いたが、その中で貯蓄し奨学金を全額返納した[23][注 1]

ピエール・キュリー。天才マリを理解したもうひとりの天才。

しかし、受託した鋼鉄磁気的性質の研究は大学や勤めていたガブリエル・リップマンの工業試験場で行うには手狭で困っていた。そんな頃、チェハヌフ時代に知り合った女性が新婚旅行でパリに来て、マリを訪ねてきた。彼女の夫であるフリブール大学(en)物理学教授のユゼフ・コヴァルトスキが悩みを聞き、場所の提供を頼めそうな人物を紹介する運びとなった。それが、フランス人科学者・ピエール・キュリーだった[20][24]

ピエール・キュリーは当時35歳。パリ市立工業物理化学高等専門大学 (EPCI) の教職に就いていた[25]。当時のピエールはフランスでは無名に近かったが、彼はイオン結晶の誘電分極など電荷や磁気の研究で成果を挙げており[25]、キュリー天秤開発や後にキュリーの法則へ繋がる基本原理などを解明していた[24]。1893年にはイギリスウィリアム・トムソン(ケルヴィン卿)がわざわざ面会に訪ねる程、フランス国外では既に天才の呼び声が高かった[24]

しかし彼自身は出世や[25]女性との交際[26]など念頭に置いていなかった。勲章を断り、薄給[注 2]と粗末な研修設備に甘んじながら無心に研究に打ち込む日々を送っていた[24]。異性観について、ピエールは日記に「女性の天才などめったにいない」[27]と、自身の学問的探求心を理解してはくれないと考えていた[24]

1894年春、初対面のピエールを見た第一印象を、マリは「長身で瞳は澄み、誠実で優しい人柄ながら、どこか奔放な夢想家の雰囲気を湛えていた」と振り返り、科学や社会のことを語り合った際には自分と共通するところを多く感じたという[26]。そしてピエールも同じように感じており、彼はマリに惹かれた[24]。後に娘夫婦を加えると家族で通算5度のノーベル賞を受賞することになるキュリー夫妻はこうして出逢い、磁気[28]とコヴァルトスキ教授が二人の天才を引き合わせたキューピット役となった[24]

ピエールは一念発起して学位取得を目指し、仕上げた「対称性保存の原理」(キュリーの原理)論文の写しを彼女に贈り、二人の距離は縮まった。そしてマリは自分の屋根裏部屋に彼を招待し、ピエールは貧しく慎ましい彼女に打たれた[24][29]。お互いに尊敬し信頼し合う親密な間柄になった二人だが、マリはいつかポーランドに帰ると誓っていた。1894年に数学の学士資格を得た[20]マリは夏季休暇を利用してワルシャワに里帰りしたが、ふたたびフランスに戻るかどうか決めかねていた[24]。彼女は働き口を探してみたが、ヤギェウォ大学(en)は女性を雇い入れなかった[30]。その間、ピエールはマリに、求婚の手紙を何度も送り、10月にマリはパリに帰ってきた。ピエールは熱意を直接マリに語り、一緒にポーランドに行ってもよいとまで伝えた。彼女が彼のプロポーズを受諾したのは1895年7月になった[24][29]

1985年7月26日、質素な結婚式が行われた。新婦のドレスは義兄の母が贈ったもの。教会での誓いも、指輪も、宴も無い式にはポーランドから父や姉たちもかけつけた。祝福の中で式を終えた二人は、祝い金で購入した自転車に乗ってフランス田園地帯を巡る新婚旅行に出発した[29][24]。こうしてマリは、新しい恋、人生の伴侶、そして頼もしい科学研究の同志を得た[30]

(左から)ピエール、長女イレーヌ・ジョリオ、マリ
夫妻が用いた放射能計測システム(概念図)。物質(B)の放射能で電離した空気の電荷をAで捉え、下げた分銅(H)の重さで応力が決まる水晶のピエゾ素子圧電効果を用いた応力計(Q)に通して相殺する。補償点(釣り合い)の精密な測定には、象現電圧計(E)が使われた。Erdeはアース[31]

放射能

グラシエール通りのアパートで新生活が始まった。マリはEPCIで研究を続けながら家事もこなした。裁縫は前から得意だったが、独身の頃はろくにやらなかった料理もどんどん腕を上げた。収入を助けるために中・高等教育教授の資格を取得した[32]。1897年9月12日には長女イレーヌ・ジョリオに恵まれ、その出産と育児には義父で医師のウジューヌ・キュリーが彼女を助けた[33]。同年末には鉄鋼の磁化についての研究論文を仕上げた。[34]

マリは夫と話し合い、博士号取得という次の段階へ進む検討に入った。二人はここで、1896年にフランスの物理学者アンリ・ベクレルが報告した、ウラン塩化物が放射するX線に似た透過力を持つ光線に着目した[35]。これは燐光などと異なり外部からのエネルギー源を必要とせず、ウラン自体が自然に発していることが示されたが、その正体や原理は謎のまま[35]ベクレルは研究を放棄していた[32]。マリとピエールは、論文作成のため[9]この研究を目標に据えた[35]

ピエールが確保したEPCIの実験場は倉庫兼機械室を流用した暖房さえ無い粗末なもので、訪問したある学者は「ジャガイモ倉庫と家畜小屋を足して2で割ったような」と例える[36]程だった。そこにピエールと兄のジャックが15年前に発明した光テコを利用する高精度の象現電圧計と、ピエール開発の水晶板ピエゾ素子電気計など機器を持ち込み[31][32]、ウラン化合物の周囲に生じる電離を計測した[37]。そしてすぐに、サンプルの放射現象が実際のウラン含有量に左右され、光や温度など外的要因に影響を受けないという結果を得た[35]。つまり、放射は分子間の相互作用等によるものではなく、原子そのものに原因があるという事を示す[36]。これは、夫妻が明らかにしたものの中で最も重要な事柄である[38]。次にマリは、この現象がウランのみの特性かどうか疑問を持ち、既知の元素80以上[19]を測定しトリウムでも同様の放射があることを発見した[9]。この結果から、マリはこれらの放射に放射能と、このような現象を起こす元素を放射性元素と名づけた[35]

彼女は発見した内容を即座に発表することを強く意識し、科学における先取権(en)を持つことに敏感だった。2年前にベクレルが自身の発見を科学アカデミーに公表せずぐずぐずと翌日に伸ばしていたら、発明者の栄誉も、そしてノーベル賞もシルバナス・トンプソン(en)のものになっていた可能性がある。夫妻も彼と同じく素早い手段を取り、マリは研究内容を簡潔に要約した論文を作成し、ガブリエル・リップマンを通じて1898年4月12日に科学アカデミーへ提出した[39]。しかし、夫妻はトンプソン同様、トリウムの放射能発見競争では敗れた。2ヶ月前にベルリンでゲアハルト・シュミット(en)が独自に発見・発表していた[40]

新元素の精製と研究

ピッチブレンド鉱石

マリの探究心は止まることを知らず、次にEPCIにある様々な鉱物サンプルの放射能評価を始めた[35]。やがて、2種類のウラン鉱石について調べた結果、トルベルナイト(燐銅ウラン鉱)の電離がウラン単体よりも2倍になり、ピッチブレンドでは4倍に相当することが分かり、しかもそれらはトリウムを含んでいなかった[19]。測定が正しければ、これらの鉱石にはウランよりも遥かに活発な放射を行う何かしらの物質が少量ずつ含まれると彼女は考察した[35][41]。マリは「できるだけ早急にこの仮説を確かめたくなる熱烈な願望にかられた」と後に述べた[42]

1898年4月14日、夫妻はピッチブレンドの分析にかかり、100グラムの試料を乳棒と乳鉢ですり潰す作業に着手した[42]。ピエールはマリの考察の正しさを確信し、やがて取り組んでいた結晶に関する研究を中断して彼女の仕事に加わった[35][42]。1898年7月、キュリー夫妻は連名で論文を発表した。これはポロニウムと名づけた新元素発見に関するものだった[35]。さらに12月26日には、激しい放射線を発するラジウムと命名した新元素の存在について発表した[35]

夫妻の発表に学会の反応は冷淡だった。物理学者は新元素の放射線がどのような現象から生じるのかが不明な状態では賛同しづらく、化学者は新元素ならばその原子量が明らかでなければならないと考えていた[43]。そのためには純粋な新元素の塊を得なければならない。マリはそれに挑む決意をした[43]。しかしピッチブレンドは非常に高価で、それを入手する資金など無かった。熟考の末、ガラス製造時に着色目的で[19]使うウラン塩を抽出した後の廃棄物を利用する方法を思いつき、主生産地であるオーストリアボヘミアザンクト・ヨアヒムスタール鉱山へ伝を頼って問い合わせたところ、無償で提供を受けられる事になった[43]。しかし運送費は夫妻が負担しなければならず、家計を圧迫する要因となった[43]

次に必要なものは、精製に必要な広い場所だった。ピエールがEPCIに掛け合った末、二人は建物を借りることができたが、以前は医学部の解剖室に使われていた[36]、床板も無い小屋だった[43]が、ここがキュリー夫妻の様々な業績を生む舞台となる。

ピッチブレンドは複雑な化学組成を持つ[36]混合鉱物であり、分離精製は非常に難しいものだった。しかし、夫妻はラジウム塩を特殊な結晶化(分別結晶法[36])をさせて取り出すという方法に挑んだ[44]が、それは過酷な肉体労働を要求した。数キロ単位の鉱石くずを大鍋や壷で煮沸・攪拌・溶解や沈殿・ろ過などの方法で分離し、溶液を分離結晶させることを何段階も繰り返す[43]。小屋には煙突も無く、大きな火を使う作業は屋外で行った。平行して放射能の研究も行わなければならず、やがて夫婦間で仕事が分担され、細かな研究をピエールが、精製作業をマリが行うようになった[43]。しかし最初に手に入れた1トンを処理しても全く足りなかった。夫妻は新元素の含有率を1/100程度と目論んでいたが[43]実際には1/1000000相当でしかなく[36]、有意な量を得るために必要な鉱石量は何トンにもなることはまだわかっていなかった[42]

夫妻には時間が足りなかった。実験にかかる経費の負担、妻を亡くした義父ウジューヌ・キュリーの同居で家族が増えて引っ越した一戸建ての家賃など生活費を稼ぐため、ふたりとも教職を続けなければならなかった[43]。ピエールは収入を上げようとソルボンヌ教授職の空きに応募したが、師範学校を出ていない事などを理由に落選した[45]。そんな折の1900年、スイスジュネーヴ大学から夫妻へ好条件の[注 3]教授職オファーが舞い込んだが、実験を中断しなくてはならず辞退した[45]。これを伝え聞いた数学者アンリ・ポアンカレは、優秀な頭脳の国外流出を防ぐために骨を折ってピエールをソルボンヌ医学部の物理・化学・博物学課程(PCN) 教授に招聘し、またマリもセーブルの女子高等師範学校の嘱託教師となった。こうして収入は少し増えたが実験には焼け石に水程度だった[36]

ラジウム発光のイミテーション。夫妻はこのような青い光に希望を見出した[36]

ラジウムの青い光

ポロニウムは化学的性質がビスマスに近く、鉱石の中でビスマス様物質を探すことで比較的簡単にたどりついた。しかしラジウム発見は一筋縄ではいかなかった。化学的性質が近い元素にバリウムがあるが、鉱石中にはバリウムとラジウムの両方が含有していた。1898年の段階で夫妻はラジウムの痕跡を掴んでいたが、純粋な状態で充分な量を確保するには至らなかった[46]

劣悪な環境と過酷な作業、逼迫した家計を賄うための教職の多忙さゆえ、夫妻の健康状態にまで悪影響を及ぼし、ピエールは精製を一時中断すべきとも考えた。しかしマリは少しずつ着々と進む作業に希望を見出していた。1トンのピッチブレンドから分離精製できたラジウム塩化物は1/10グラムにしかならなかったが[44]、放射性元素は着々と濃縮され、やがて試験管や蒸発皿から発光が見られるようになったからだ。マリはこれを「妖精のような光」と形容している[36]。1902年3月には濃縮に効果的な試薬を発見し、これを用いて精製した試料のスペクトルがラジウム固有のものであることを突き止め、夫妻は純粋ラジウム塩の青い光に感動を覚えた[36]。夫妻は、優位な純粋ラジウム塩を得るまでに11トンのピッチブレンドを処理した[19]

しかしこの頃、度重なる不幸が夫妻を襲う。1902年5月、マリの父ブワディスカ危篤の知らせが届き、帰郷のさなか訃報を受けた。彼女は親不孝な自分を責めたが、晩年のブワディスカは届くマリの論文を楽しみに読み、特に3月にラジウム精製成功の手紙には大いに喜び、娘を誇りに思っていた[45]。一方のピエールに友人たちはアドバイスを送りアカデミー会員になるよう薦めたが、7月の選挙で落選する[45]。しかしこのような活動も栄誉ではなく研究のためのもので、逆にレジオンドヌール勲章の候補となった時には研究活動に寄与しないと断っている[45]。夫妻は研究に戻るが体に変調をきたし、ピエールはリウマチを悪化させたびたび発作に苦しみ、マリは神経を衰えさせ睡眠時遊行症を起こすようになった[45]。翌1903年には待望の第二子を流産してしまい、マリは悲しみにくれた[45]

ピエールとマリ夫妻、研究所にて。1890年代に撮影。手前に写っている機器が放射能測定機器。[36]

このような苦境の中で進められた研究結果を夫妻は逐一学会に知らしめ、1899年から1904年にかけて32の研究発表を行った。それらは他の学者たちに放射能や放射性元素に対する認識に刷新を迫り、研究に向かわせた。放射性元素の追求はいくつかの同位体発見に繋がり、さらにウィリアム・ラムゼーフレデリック・ソディのラジウム崩壊によるヘリウム発生の確認、アーネスト・ラザフォードとソディの元素変換説などがもたらされた。これらは、当時の概念であった「元素は不変」に変革を迫り、原子物理学に一足飛びの進歩をもたらした[47]

さらに、1900年にドイツの医学者ヴァルクホッフとギーゼルが、放射能が生物組織に影響を与えるという報告がなされた。早速ピエールはラジウムを腕に貼り付け、火傷のような損傷を確認した。医学教授らと協同研究した結果、変質した細胞を破壊する効果が確認され、皮膚疾患悪性腫瘍を治療する可能性が示唆された。これは後にキュリー療法を呼ばれる[47]。こうしてラジウムは「妙薬」として知られるようになった[48]。この頃、夫妻は有害な放射線被爆(en)の影響について認識しておらず、放射能物質を扱う作業では防護対策を行わなかった。夫妻は、これらの研究が健康についてどれだけのリスクを払っているか念頭に置いていなかった[30]

新元素ラジウムは、学問対象に止まらず、産業分野でも有用性が次々と明らかになった[47]。キュリー夫妻は、ラジウム精製法に対する特許を取得せず公開した。これは珍しい事だが、そのために他の科学者たちは何の妨げも無くラジウムを精製使用することができた[49]。フランスの実業家アルメ・ド・リールはラジウムの工業的生産に乗り出し、夫妻の協力を仰ぎ、医療分野への提供を始めた[47]。ラジウムは世界で最も高価な物質となった[47]

栄誉の光と影

放射性物質の研究は元々マリの博士号取得を目的に始められたが、多忙のためなかなかその準備にかかれなかった。しかしそれもやっと纏められ、アンリ・ベクレルが後押しして[50]1903年6月に論文審査を受けた。夫と義父、姉、教え子たちが見守る中、3人の論文審査教授陣は、マリにパリ大学の理学博士 (DSc)を授けた[47]。その日の夕食会には、知り合いの他にたまたまパリに来ていて訪問したアーネスト・ラザフォード夫妻も加わっていた[48]

夫妻の業績を最も早く評価したのはイギリスだった。1903年6月、王立研究所は夫妻を正式にロンドンへ招待し、講演を依頼した。ピエールは実験を交えた講演で喝采を浴び、マリは研究所会合に初めて出席した女性となった。ケルヴィン卿やウィリアム・クルックスジョン・ウィリアム・ストラット(レイリー卿)らとも親交を持った。さらに11月には王立協会からデービーメダルが授与された[51]。そして1903年12月、スウェーデン王立科学アカデミーはピエールとマリそしてアンリ・ベクレルの3人にノーベル物理学賞を授与する決定を下した[注 4]。その理由は「アンリ・ベクレル教授が発見した放射現象に対する共同研究において、特筆すべきたぐいまれな功績をあげた事」であった[51]。こうしてマリは、女性初のノーベル賞を授与された人物となった。夫妻はストックホルムの授賞式には出席できなかったが、得た7万フランの賞金は一家の経済状態を救っただけでなく、金銭的に恵まれない知人や学生たちのためにも役立てられた[30][51]

このノーベル賞の審査が行われた際、アカデミーは物理学賞授与で検討を進めていたが、選考委員会の中には新元素発見は化学賞が該当するのではという疑問の声があがった。このため、1903年度受賞理由からはラジウムとポロニウムの発見はあえて外され、将来の授与に含みを持たせる対応が行われた[48]

ノーベル賞受賞は、二人を一気に有名人にした。しかしそれは夫妻の望むものではなかった。数々の取材や面会の依頼、舞い込む多量の手紙などに時間を取られ、あまつさえ一家の自宅や研究所にまで踏み入ろうとするマスコミに辟易し、何より研究をする余裕が奪われた[48]。1904年、パリ大学はピエールを物理学教授職に迎える打診を行ったが、実験室が用意されない事を知ったピエールはこれを辞退しようとした。大学側は折れ、議会に掛け合って研究費と設備費を捻出し、やっとピエールの承諾を得た[52][53]

この年、マリは妊娠していたこともあり、一家は段々隠遁的な生活を送るようになった。研究はできず、大衆に追い回されるために偽名を使ってブルターニュの田舎へ避難することもあった[52]。そんな夫妻は、1904年12月6日に次女エーヴが産まれたことで落ち着きを取り戻し始めた[48]。1905年には教職に復帰し、実験室に入る時も持ち始めた。相変わらずパーティーなどは避けていたが、心に余裕ができると演劇鑑賞などにも出かけたり、舞踏家ロイ・フラーや彫刻家オーギュスト・ロダン、科学者関係では隣に住むジャン・ペラン夫妻、ジョルジュ・ユルバンシャルル・エドゥアール・ギヨームなどとも親交を持ち、たびたび家に招いた。そこには教え子たちも交じることもあり、その中にはピエールの生徒ポール・ランジュバンもいた[52]

1906年4月19日

1906年に入り、教授職とともに得た新しいキュヴィエ通りの実験室が動き始めた。手狭で交通に不便な郊外だったが、助手と手伝いが加わった上に実験主任にはマリが任命され、給与も支払われた[52]。夫妻は相変わらず多忙だった。マリはセーブル女子学校の教師を続け[52]、ピエールは科学者そして大学教授としての様々な雑務に追われていた[54]

それは4月19日木曜日に起こった。雨模様の日ピエールは様々な予定をこなし、馬車が行き交う狭いドフィーヌ通り(en)を横断していた際にぶつかった荷馬車に轢かれ、事故死した[54][55]。野次馬は被害者が有名な科学者だと気づいた。すぐ大学に電話連絡がなされ、学部長と教授のジャン・ペランがキュリー家に向かった。その時マリは不在で、義父が彼らを招き入れて沈痛な時を待った。午後6時、イレーヌを連れて帰宅した[55]マリはその知らせに凍りつき、暫くは誰の問いかけにも何の反応を示さなかった。遺体や遺品を受け入れたマリがとめどなく涙を流したのは、翌日に駆けつけた義兄ジャックの姿を見たときだった[54]。この不慮の事故は世界中に報道された[55]。しかし、21日に生家のソーで行われた葬儀では、代表団の派遣も弔辞も大げさな行列もマリは断り、質素な式となった。義父や義兄ジャックらは、感情がそぎ落ちたような彼女を心配していた。この当時のマリは日記に「同じ運命をくれる馬車はいないのだろうか」とまで書いている。その後も彼女は沈黙に沈んだまま、時に悲鳴を上げるなど不安定な精神状態にあり、日記には悲痛な言葉が並んだ[54]

5月13日、パリ大学(ソルボンヌ)物理学部はピエールに用意した職位と、実験室における諸権利をマリのために維持することを決めた。葬儀の翌日に申し入れられた国の遺族年金はきっぱりと断ったマリだったが、この件は回答を保留した[54]。色々なことが頭をよぎったが、やがて彼女は「重い遺産」を受け継ぎ、ピエールにふさわしい研究所を作ることが自分のやるべき事と決断し、大学の職位と実験室の後任を受諾した。こうして、パリ大学初の女性教授が誕生した[55]

夏の期間、住居をピエールの実家であるソーに移して大学講義の準備に費やした。そして11月5日午後1時30分、マリは万雷の拍手を受けてソルボンヌの教壇に立った。どんな挨拶が語られるのかと興味津々の生徒や聴衆たちの前で、マリが最初に話した言葉は、ピエールが最後となった講義を締めくくった一文だった。淡々としながら、彼の志を受け継ぐマリに観衆は感動を覚えたという[54]

誹謗の渦中に得た二度目の栄誉

1911年当時のマリ・キュリー

研究に復帰したマリが最初に取り組んだ事は、長年ピエールを支援したケルヴィン卿の論破だった。あえて『ロンドンタイムズ』を選び発表したケルヴィン卿の理論とは、ラジウムが元素ではなく化合物だというものだった。彼女は実験結果で反論しようと、夫妻の同僚らとともにウランの約300倍の放射能を持つ純粋なラジウム金属0.0085グラム[19]の分離に取り組み、1910年に成し遂げて[44]卿の誤りを立証した[55]。同年2月25日、義父ウジューヌ・キュリーが亡くなった。息子が連れてきた貧乏な異国の女を何の偏見も無く受け入れ、様々な困難に遭ったときに支え、何より娘たちの良きおじいちゃんであった[33]彼の死に家族は悲しみに沈んだ[56]

研究所は1907年からアンドリュー・カーネギーの資金援助もあり、10人程の研究員を抱えるまでになった[57]。この年にはそれまでの研究を纏めた『放射能概論』を出版し、またラジウム放射能の国際基準単位を定義する仕事も行った[55]。1911年に決定されたこの単位は、夫妻の姓から「キュリー」(記号:Ci)と名づけられた[58][59]

だが同年、周囲から推されて科学アカデミー会員の候補になった事がマリを煩わしい事態に巻き込んだ。空席を巡って対立候補となったエドアール・ブランリーとの間で、支持者による二つの陣営が出来上がってしまった[57]。自由主義者のマリと敬虔なカトリックのブランリー、ポーランド人対フランス人、そして女性対男性[60]。特にかつて1902年にピエールを負かせて会員となった人物が、女性の会員に猛反対した[57]。さらには、カトリックの投票権者達に対してマリがユダヤ人だというデマまで流れた[57]。エクセルシオール紙(fr)などは一面でマリを攻撃し、右翼系新聞には彼女の栄誉はピエールの業績に乗っかっただけという記事まで載った[61]

1911年1月23日、アカデミー会員の選出投票が行われたが、詰め掛けた記者たちや野次馬で会場は混乱の中にあった。夕方に判明した結果は僅差[注 5]でブランリーが選ばれ、研究所の面々はマリ本人を除いて落胆に暮れた[57]。この時には、マリは請われて既にいくつかの外国のアカデミー会員になっていた。彼女を拒絶したフランスが初の女性会員を選出するのは1979年であった[62]。淡々としたマリだったが、手記にはフランスアカデミーの古い因習を嫌っていたことが書かれており、二度と候補にならなかったばかりか、機関紙への論文掲載も拒否し、科学アカデミーと完全に袂を分けた[61]。後の事になるが、フランスの公的機関が正式な栄誉を与えたのは、1922年にパリ医学アカデミーが医療への貢献という理由で、前例を覆して彼女を会員に選出した事だった[61]

1911年に開催された第1回ソルベー会議の模様。マリ・キュリーは着席した前列右から2番目。後列一番右にポール・ランジュバンがいる。

マリは研究に戻り、ヘイケ・カメルリング・オネスと協同で低温環境でのラジウム放射線研究の構想を練った。ところが有名人のスキャンダルを売りに購買欲を掻き立てていた当時の新聞が、11月4日付け記事でマリの不倫記事を大々的に掲載した。相手は5歳年下で、ピエールの教え子ポール・ランジュバン。彼は既婚だったが夫婦間は冷めて別居し、裁判沙汰にまでなっていた[61]。マリは私生活の問題で悩むランジュバンの相談を聞くうちに親密になっていた[63][64]。1911年10月末にブルッセルで開かれたソルベー会議には二人揃って出席し、マリは論文を発表した若きアルバート・アインシュタインチューリッヒ大学教職への推薦状を書いたりしている。その最中の報道は、ランジュバンに宛てたマリの手紙を暴露し、他人の家庭を壊す不道徳な女とマリを糾弾した[65]。その後も報道は続き、またも彼女をユダヤ人だ、ピエールは妻の不倫を知って自殺したのだと、あらぬ事を連日書き立てた[61]。ついには記者がブリュッセルまで押し寄せ、マリは会議の閉幕を待たずに去らなければならなくなった[61]

ソーの自宅に帰ると、そこは群集に取り囲まれ、投石する輩までいた。マリは子供たちを連れて脱出し、親しいエミール・ボレル夫妻が一家を匿った。政府の公共教育大臣はボレルにマリを庇うなら大学を罷免すると迫ったが、夫妻は一切ひるまなかった。ボレル婦人マルグリットはジャン・ベラン教授の娘で、彼女はマリを損なうなら2度と顔を合わせないと父を逆に脅した[61]。騒動はいろいろなところへ飛び火していた[注 6]

1911年に受賞したノーベル化学賞の感状。

この騒動の渦中の11月7日、スウェーデンからノーベル化学賞授与の電報が入った。理由は「ラジウムとポロニウムの発見と、ラジウムの性質およびその化合物の研究において、化学に特筆すべきたぐいまれな功績をあげた事」と、新元素発見を取り上げて評価していた[61]。マリは、初めて2度のノーベル賞受賞者となり、また異なる分野(物理学賞・化学賞)で授与された最初の人物ともなった。だが、渦中のスキャンダルを理由に、スウェーデン側からも授与を見合わせてはどうかという声があがった[注 7]。しかしマリは毅然と受賞する意思を示し、今度はストックホルムへ向かった。記念講演でマリは、ピエールの業績と自分の仕事を明瞭に区別した上で、この成果の発端はふたりの共同研究にあったと述べた[61]

受賞後の12月29日、マリはうつ病と腎炎で入院した。一時退院したが1912年3月には再度入院し腎臓の手術を受けた[57]。その後郊外に家を借りて療養したが6月にはサナトリウムに入った。8月には少々の回復を見せ、女性物理学者ハーサ・エアトンの招待に応じてイギリスへ渡った。2ヶ月間過ごした後の10月にパリへ戻ったが、ソーの家はあきらめ新たにアパートを借りた。この間、マリはずっとスクウォドフスカの姓を使っていた[61]。マスコミは相変わらず何かネタを見つけてはマリを叩くことが多かったが、その一方で他国がマリを評価するとフランスの先進性の象徴に祭り上げるなど都合の良い記事ばかり載せ[57]、マリはジャーナリズムを嫌悪した[66]

マリにとって苦しい期間、彼女を支えたのは多くの知人友人、そして家族たちだった。1912年5月には、ヘンリク・シェンキェヴィチを団長とするポーランドの教授連代表団がマリを訪問し、ワルシャワに放射能研究所を設立して彼女に所長を務めてもらいたいと打診した[30]。1905年のロシア第一革命以後、帝政ロシアのくびきが緩み、何よりマリの名声が世界的なものになっていたことが大きかった。この申し出をマリは熟考し、本来自分が目指していたこと、すなわちピエールから受け継いだ研究所を彼に相応しいものにすることを思い出した。こうしてポーランド帰国は断ったが、彼女はパリから指導することを受諾した。1913年、ワルシャワの研究所開所式に出席したマリは、初めてポーランド語で科学の講演を行った[57]

夏頃には健康も回復し、一家でスイスを旅行するなど好きな田舎で休息を取ると、マリはまた積極的に動きはじめる。1914年7月には、夫の名を取ったピエール・キュリー通りにラジウム研究所の新しい建物キュリー棟が完成した。だが実験には取り掛かれなかった。7月28日、第一次世界大戦が勃発したためである[57]

第一次世界大戦

戦争は研究所のスタッフたちも兵士として招集し、男性で残った者は持病を抱える機械技師だけだった。娘たちをブルターニュに止め、マリはパリに残っていた[67]。9月2日にはドイツ軍の空爆がパリに及び、マリは政府の要請で研究所が所有する貴重な純粋ラジウム金属をボルドーに疎開させるために汽車に乗った。しかし彼女はこの非常事態に自分がやるべき事を見出し、すぐパリに舞い戻った[68]

ヴィルヘルム・レントゲンが1895年に発見したX線はすでにX線撮影による医療への貢献が可能となっていた。しかしフランスにはそれを実施する設備が非常に少ないことをマリは知っていた[67]。手術において、銃弾や破片など人体に食い込んだ異物を事前に確認できれば、負傷者の生存率は上がる。彼女はX線研究に携わった経験こそ無かったが、大学の講義で教えるために知見を持っていた。マリは大学や製造業者などを廻って必要な機材を調達し、複数の病院にそれらを設置した上、教授や技師たちに依頼して操作を行った[67][68]

第一次大戦時に活躍したレントゲン車に乗るマリ

そこに物静かな研究者の姿は無かった。マリは軍がX線撮影設備を充分に持っていないことを知っており、移動が可能になる自動車に設備と発電機を搭載して、1914年8月頃から病院を廻り始めた。マルヌ会戦の負傷者治療に威力を発揮した[67]この移動レントゲン車は、軍の中で「プティット・キュリー」(ちびキュリー)[69]の名で呼ばれた[68]。しかし戦局の長期化によって1台では不足すると、マリは公的・私有の車を募り改造を施した。有力者夫人たちは協力的だったが、軍や行政機関は難色を示すところが多かった。マリは役人らを説き伏せて調達や通行の許可を受け[67]、機材調達のために政府から赤十字放射線局長という役職を貰って活動した。未熟な利用者のために設備使用マニュアルを用意し[68]、負傷者の治療に役立てた。

マリが設置したレントゲン設備は、病院や大学など200箇所に加え、自動車20台となった。マリ自身も、技術者指導の講義と平行してこのX線照射車1台に乗り込んで各地を廻った。そのために自らも解剖学を勉強し、自動車の運転免許を取得し、故障時に対応するため自動車整備についても習得した[68]。イレーヌはそんな母の姿に自分もこの活動に加わりたいと申し出て、マリはこれを認めた。さらに母子は貯蓄の相当額を戦債購入に充て、さらにノーベル賞を含む数多いメダルを寄付しようとした。ただし後者は流石に役所の担当が恐れ多いと拒否した[67]

レントゲン装置には、より効率的なラドンを使うようになり、ボルドーから持ち帰ったラジウム金属を使ってマリはチューブにラドン気体を詰める作業も行った[67]。これマリにX線被爆を起こし、後の健康状態に悪影響を及ぼしたのではと考えられている[68]

1918年11月、戦争は終結した。戦債は紙クズ同然となって一家は貯蓄をかなり失ったが、元々覚悟していた[67]。そんなことよりマリが喜んだ事は、1919年に故郷が他国の支配から脱しポーランド第二共和国が建国された事だった。その初代首相は、パリ学生時代の旧友、イグナツィ・パデレフスキだった[68]

アメリカ訪問

研究所は再開したが、それは設備も試料にも事欠く状態であった。1920年にロスチャイルド家が出資したキュリー財団が設立され、放射線治療の研究を支援したが、物理や化学の研究にはほとんど費用が廻らなかった[66]

この年の5月、アメリカの女性雑誌『ディリニエター (Delineator)』編集長のウィリアム・ブラウン・メロニー女史からの申し入れを受けて、マリはインタビューに応じた。この席で今何が欲しいかという質問に、1グラムのラジウム金属と答えた。その価格は既に10万ドルに相当したが、アメリカの恵まれた科学研究所を知るメロニーにとって驚きの回答だった。彼女は帰国後にキャンペーンを行い、マリにラジウムを贈呈する資金を集めた[66][70]

彼女の求めに応じ、1921年マリは娘ふたりとアメリカ渡航を決めた。そのスケジュールに多くの大学などへの歴訪から、アメリカ大統領との式典までもが準備されていると知ったフランス政府は慌て、自国が何ら名誉を与えていない不細工さを補おうとまたもレジオンドヌール勲章を授与しようとした。しかし以前と同じ理由でマリは断った。研究から離れたこの宣伝活動は気の進まないものだったが、マリは各地で大歓迎を受け、大統領ウォレン・ハーディングから直々にラジウム授与が行われた。ただし彼女はこれを個人への贈与ではなく研究所への寄贈と扱ってもらい、個人の財物にはしなかった[66][70]

1929年には再渡米し、マリは1925年にワルシャワに姉妹と設立したキュリー研究所に導入する機器類の資金を得るのに成功した[66]

研究所

アメリカの旅は大成功を修め、研究所はラジウム以外にも多くの鉱石サンプルや分析機器類、そして資金を得た[66]。だが彼女はこの旅で、自分の名声や影響力が想像以上に大きくなってしまい、よもや研究や実験に没頭することは許されないことを悟った。ならばと、マリはパリのラジウム研究所を立派な放射能研究の中心に育てようとした[66]

また、1922年には新渡戸稲造が事務局を務めたユネスコの前身に当る国際知的協力委員会 (International Committee on Intellectual Cooperation, ICIC) メンバー12人のひとりに加わった[71]。ただし、相変わらず着飾ることなどしなかったため、第1回会合時の彼女の印象を自著に残した新渡戸は「見栄えもしない愛想の無い人物」と、あまりよろしくない[72][2- 1]

ファイル:Curie Joliot 1934 London.jpg
イレーヌとフレデリック・ジョリオ=キュリー。1934年。

研究所は性別・国籍を問わない多様なスタッフを抱え、マリは彼らの指導に多くの時間を割いた。毎朝のように彼女の周りには研究や実験の指針や進捗を相談し、論文の校正などを願う研究員らが集った。マリは適切な指示や指導を与え、成果が上がった際には祝いのお茶会を開くなど彼らを導き、その実力を伸ばした。アルファ粒子のエネルギーが一定ではない事を示したサロモン・ローゼンブルム、真空中のX線観察を行ったフェルナン・オルウェック、フランシウムを発見したマルグリット・ペレーなどが研究所から出た[66]。その中でも際立ったものは、娘イレーヌとその夫フレデリック・ジョリオ=キュリーの人工放射能の研究であり、夫妻は1935年にノーベル化学賞を受賞した[64]。1919年から1934年の間、研究所から発表された論文は483件になった[73]

だが、放射能が健康へ与える悪影響も次第に明らかとなってきた。日本山田延男は1923年から2年半、ラジウム研究所でイレーヌの助手としてアルファ線強度の研究を行い、マリの支援も受けながら5つの論文を発表した。しかし原因不明の体調不良を起こして帰国し、翌年亡くなった。マリはその報に触れ弔意を表す手紙を送っている[74]。1925年1月には別の元研究員が再生不良性貧血で死亡。さらに個人助手も白血病で亡くなった。しかし明白な因果関係や対処法にはすぐに繋がらなかった。

死去

1934年のマリ。

1932年、転倒したマリは右手首を骨折したが、その負傷がなかなか癒えなかった。頭痛や耳鳴りなどが続き、健康不良が続いた[66]。1933年には胆石が見つかったが手術を嫌がった[66][75]。春にマリはポーランドを訪問したが、これが最後の里帰りとなった[30]。1934年5月、気分が優れず研究所を早く後にした。そのまま寝込むようになったマリは検査を受け、結核の疑いがあるという診断が下った[75]

療養に入ることを決め、エーヴはマリをフランス東部のオートサボア(en)、パッシー(en)にあるサンセレルモ(en)サナトリウムへ連れて行った。しかしここで受けた診察では肺に異常は見つからず、ジュネーヴから呼ばれた医師が行った血液検査の結果は、再生不良性貧血だった[75]

7月4日水曜日、マリはで亡くなった。7月6日に夫同様近親者や友人たちだけが参列した葬儀が行われ、マリは、夫ピエールが眠るソーの墓地に、夫と並んで埋葬された[75]

パリのパンテオン

彼女の実験室はパリのキュリー博物館として、そのままの姿で保存されている[53]。マリの残した直筆の論文などのうち、1890年以降のものは放射性物質を含まれ取り扱いが危険だと考えられている。中には彼女の料理の本からも放射線が検出された。これらは鉛で封された箱に収めて保管され、閲覧するには防護服着用が必須となる[76]。また、キュリー博物館も実験室は放射能汚染されて見学できなかったが、近年除去が施されて公開された。この部屋には実験器具なども当時のまま置かれており、そこに残されたマリの指紋からも放射能が検知されるという[53]

60年後の1995年、夫妻の業績を称え、ふたりの墓はパリのパンテオンに移され、フランス史の偉人のひとりに列された[69]。マリは、パンテオンに祀られる初の女性である[77]。この際、マリの棺内部の放射能測定が行われた。その結果360Bq/ccは若干高めながら許容濃度の5%程度にとどまり、ラジウムの半減期から考えて放射能被爆説には疑問が挟まれた。その代わりに、プチ・キュリー号で活動中に浴びたX線被爆が病気を起こしたのではという説が提唱されている[69][78]

人物

ポーランド人として

ワルシャワのラジウム研究所前に立てられたマリの像。1935年

父方も、母方も、マリの一族はポーランド人の国民運動の中で地位や財産を失った。これはマリや彼女の兄や姉たちにも苦難として襲い掛かるものとなった[79]。小学校では査察官が来ては生徒にロシア皇帝の賛辞をしゃべらせる。優秀なマリはたびたびこの役を指名されたが、それは大変な屈辱だった。マリの父はロシア人上司と対立し公職を追われ、貧窮に落ちた生活苦が母と姉の一人を亡くす要因となった[7]

それでも愛着があるポーランドで生涯を過ごすことを考えていたマリは、パリに出てからも帰国するつもりでいた。彼女はピエール・キュリーという伴侶を得てフランスに定着するが、故郷を忘れる事は無かった。1898年、マリは初めて見つけた新元素にポロニウムと名づけた。これは、18世紀中に彼女の故郷はロシアやプロシアオーストリアなどに蹂躙され独立できずにいるポーランドへ世界の眼を向けようとする考えがあった。マリによって、ポロニウムは政治的な意図を含んだ名称がつけられた初めての元素となった[80]

フランス世論は外国人に向ける目は厳しく、差別の対象にもなっていた。その背景にはドレフュス事件が影響したとも言われる。ピエール一家など常に彼女の味方をした人々もいたが、後半生のマスコミとの対立には苦しめられた。それでも矜持を忘れず、また娘たちにもポーランド語を習得させるなどの教育を施した[81]

しかし、マリは決してフランスを蔑ろにした訳ではなく、第一次世界大戦時の活動や戦債購入などで示される通り、フランスを「第二の故郷」と考えていた。ポーランドに戻る機会は何度もあったが、ピエールの研究所を世界随一にするために努力し[66]、彼女は骨をフランスに埋めた。

女性として

学問の世界において、20世紀初頭は未だ女性に対する偏見が存在した時代だった。マリ・キュリーの履歴には数多い「女性初」という言葉がつくが、これはジェンダーを根拠とする理不尽な扱いを受けながらもそれに毅然とした態度で臨んだ結果でもある。最初のノーベル賞受賞は、1902年に提出されたフランス病理学者シャルル・ブシャール(en)の推薦による。しかし、翌年フランス科学アカデミーが申請した推薦状ではマリだけが意図的に外されていた。決定においてスウェーデン科学アカデミーの数学者ヨースタ・ミッタク=レフラーがブシャールの推薦を根拠に強く推したことでマリも受賞対象となったが、フランス科学アカデミーには女性蔑視の風潮があったことを示す。これは受賞後のマスコミの論調にも見られた[82]

このような中、マリは夫と自分それぞれの功績を区別して強調するようになった。ピエールもそれを尊重し、同じ態度を取った。誹謗中傷の中で2度のノーベル賞受賞が決まった際、マリは、科学者とはその業績によって評価されるべきであり、性別や出身および私生活などではないという強い意志を持ち、誇りを持って記念講演を行った[64]

ただし、「キュリー夫人(Madame Curie)」という呼称は夫に従属する妻という意味ではなく、これはマリ自身が中学時代の友人に婚約を知らせる手紙の中で、「次に合うときには姓が変わっています」と書き「キュリー夫人。これが私の新しい名前です」と自ら使っている。[24]

教育者として

両親も教育者であったマリは、その人生において多くの人々を教えた。大学進学が叶わないポーランド時代は家庭教師を勤めた。パリではセーブル女子高等師範学校で多くの生徒を教えた。

娘イレーヌが学校で受ける詰めこみ型の教育内容に疑問を感じたマリは、共感する一部の人々と「共同授業」というフリースクールを立ち上げた。10数人の子供たちを相手に、マリなど当代一流の学者らが体験中心の授業を工夫して行った[56]

業績

優れた発想

ロバート・リードは、ピッチブレンドの測定結果から2つの新元素発見に漕ぎつけた発想はマリ独自のもので、誰からの助けも受けず定式化に辿り着いたと、そして夫に意見を求めたとしても明瞭に彼女の業績に帰すと述べた。夫がどんな曖昧な形でも機会は全く無いと言い張ったと、彼女自身が記した自伝の中で2度も触れている。これは、経歴の初期段階で彼女が関わる分野において多くの科学者が女性に独創的な仕事をする能力があると信じさせることが難しいと悟ったことを示すと、リードは解説している。[83]

アルバート・アインシュタインとマリ・キュリー

科学そして社会への貢献

マリ・キュリーは、初期の原子核物理学[84]そして社会学・医学や生物学の面において21世紀の世界にまで影響を与える大きな貢献を残した[78]コーネル大学の科学史家L.ピアース・ウィリアムズ(en)は以下のように述べた。

マリ・キュリーの仕事は画期的な結果をもたらした。ラジウムの放射は強く、彼女はそれを看過しなかった。それは一見してエネルギー保存の法則に矛盾するため、基礎的な物理学の知見に再考を迫るものだった。実験レベルでのラジウム発見は、アーネスト・ラザフォードらに放射能の発生源を考えさせ、原子の構造論構築へと導いた。ラザフォードのアルファ線研究は原子核存在の仮説へと繋がった。医学の領域には、ラジウム放射線は治療に繋がる手段を提供した。[44]

マリ・キュリーが物理や化学に革新的な考え方を提供したことと同様に、社会へ与えた影響も大きかった。彼女は自身の研究結果を世間に知らしめる上で、ジェンダー国籍という学問とは全く別の壁を打ち破る必要に迫られた。フランソワーズ・ジルー著『Marie Curie:A Life』が描き出したマリの人生は、彼女がフェミニストの先駆的存在だったことを明らかにしている。マリは時代に先んじて、束縛を断ち、自立した生涯を過ごし、その資質は損なわれる事は無かった。アルバート・アインシュタインも、このような美点は彼女が得た栄誉によっていささかも曲がってしまうことはなかったと記している。[79]

評価

ポーランド、ルブリンマリー・キュリー・スクウォドフスカ大学にあるマリの像

受賞歴

マリ・キュリーは女性初のノーベル賞受賞者であり、かつ2度受賞した最初の人物である。

  • 1899年、1900年、1902年:ゲーグネル賞(鋼鉄の磁性研究に対して[32]
  • 1903年:ノーベル物理学賞(ピエール・キュリーおよびアンリ・ベクレルと同時受賞)
  • 1904年:オリシス賞(パリ新聞組合より)
  • 1907年:アクトニアン賞(en)(イギリス王立科学研究所)
  • 1911年:ノーベル化学賞
  • 1921年:エレン・リシャール研究賞
  • 1924年:1923年度アルジャントゥイユ侯爵大賞
  • 1931年:キャメロン賞(エディンバラ大学

このような多くの賞を受けた科学者の生活が裕福になるとは限らない。マリの場合も同様で、伝えられるところによると、これらの賞金を得てやっと住居の壁紙を換えたり、配管工事を行ったりすることができたともいう[85]

受賞メダル

  • 1903年:ベルトロー賞メダル(ピエールと)、パリ市名誉賞メダル(ピエールと)、デービーメダル(ピエールと。イギリス王立協会)
  • 1904年:マテウチ・メダル(ピエールと。イタリア科学協会)
  • 1908年:クールマン賞大金メダル(リール工業協会)
  • 1909年:エリオット・クレッソンメダル(en)(フランクリン協会)
  • 1910年:アルバート賞メダル(王立技術協会、ロンドン)
  • 1919年:スペイン・アルフォンソ12世文官勲章大十字勲章
  • 1921年:ベンジャミン・フランクリン賞メダル(アメリカ哲学協会、フィラデルフィア)、ジョン・スコット賞メダル(アメリカ哲学協会)、国立社会科学学会賞金メダル(ニューヨーク)、ウィリアム・ギブス賞メダル(アメリカ化学協会、シカゴ)
  • 1922年:北アメリカ放射線学協会金メダル
  • 1924年:ルーマニア政府第一級功労賞メダル
  • 1929年:ニューヨーク婦人クラブ連合会金メダル
  • 1931年:アメリカ放射線学会メダル

称号

存命中だけでも、マリは各国の科学アカデミー名誉会員など受けた称号は100を超える[19]

  • 1904年:モスクワ帝国文化人類学民俗学協会名誉会員。イギリス王立科学研究所名誉会員。ロンドン化学協会在外会員。バタヴィア哲学協会通信会員。メキシコ物理学協会名誉会員。メキシコ科学アカデミー名誉会員。ワルシャワ通算奨励協会名誉会員。
  • 1906年:アルゼンチン科学協会通信会員。
  • 1907年:オランダ科学協会在外会員。エディンバラ大学名誉法学博士。
  • 1908年:サンクトペテルブルク帝国科学アカデミー通信会員。ブラウンシュヴァイク自然科学協会名誉会員。
  • 1909年:ジュネーヴ大学名誉医学博士。ボローニャ科学アカデミー通信会員。チェコ科学文学美術アカデミー在外客員会員。フィラデルフィア薬学学会名誉会員。クラクフ科学アカデミー科学会員。
  • 1910年:チリ科学協会通信会員。アメリカ哲学協会会員。スウェーデン王立科学アカデミー在外会員。アメリカ科学協会会員。ロンドン物理学協会名誉会員。
  • 1911年:(フランス科学アカデミー会員選挙で落選)。ポルトガル科学アカデミー在外通信会員。マンチェスター大学名誉理学博士。
  • 1912年:ベルギー化学協会会員。サンクトペテルブルク帝国実験医学協会客員会員。ワルシャワ科学協会普通会員。リヴォフ大学哲学名誉会員。ワルシャワ写真協会会員。リヴォフ理工科学校名誉博士。ヴァルナ科学協会名誉会員。
  • 1913年:アムステルダム王立科学アカデミー特別会員(数理物理科)。バーミンガム大学名誉博士。エディンバラ科学技術協会名誉会員。
  • 1914年:モスクワ大学物理医学協会名誉会員。ケンブリッジ哲学協会名誉会員。モスクワ科学協会名誉会員。ロンドン衛生学会名誉会員。フィラデルフィア自然科学アカデミー通信会員。
  • 1918年:スペイン王立医学電気放射線学協会名誉会員。
  • 1919年:スペイン王立医学電気放射線学協会名誉会長。マドリッド・ラジウム研究所名誉所長。ワルシャワ大学名誉教授。ポーランド化学協会会長。
  • 1920年:デンマーク王立科学文学アカデミー普通会員。
  • 1921年:エール大学名誉理学博士。シカゴ大学名誉理学博士。ノースウェスタン大学名誉理学博士。スミス単科大学名誉理学博士。ウェルズレイ単科大学名誉理学博士。ペンシルヴァニア女子医科大学名誉博士。コロンビア大学名誉理学博士。ピッツバーグ大学名誉法学博士。ペンシルヴァニア大学名誉法学博士。バッファロー自然科学協会名誉会員。ニューヨーク鉱物学クラブ名誉会員。北アメリカ放射線学協会名誉会員。ニューイングランド化学教員協会名誉会員。アメリカ自然史博物館名誉会員。ニュージャージー化学協会名誉会員。工業化学協会名誉会員。クリスティアニア・アカデミー会員。ノックス技芸科学アカデミー名誉終身会員。アメリカ・ラジウム協会名誉会員。ノルウェー医療ラジウム研究所名誉会員。ニューヨーク・アリアンス・フランセーズ名誉会員。
  • 1922年:パリ医学アカデミー自由客員会員(フランス初)。ベルギー・ロシア学術団体名誉会員。
  • 1923年:ルーマニア医療鉱水学気候学協会名誉会員。エディンバラ大学名誉法学博士。チェコスロヴァキア数学者物理学者連盟名誉会員。
  • 1924年:ワルシャワ市名誉市民。ニューヨーク市民ホールの座席に名前が記載される。ワルシャワ・ポーランド化学協会刑余会員。クラクフ大学名誉医学博士・クラクフ大学名誉哲学博士。リガ名誉市民。アテネ精神科学協会名誉会員。
  • 1925年:ルブリン医学協会名誉会員。
  • 1926年:ローマ≪ポンティフィチア・ティベリアナ≫普通会員。サン・パウロ化学協会名誉会員。ブラジル科学アカデミー通信会員。ブラジル婦権振興連盟名誉連盟員。ブラジル・サン・パウロ薬学化学協会名誉会員。ブラジル薬学師協会名誉会員。ワルシャワ理工科学校化学科名誉博士。
  • 1927年:モスクワ科学アカデミー名誉会員。ボヘミア文学科学協会在外会員。ソヴィエト連邦科学アカデミー名誉会員。北アメリカ州連合医学研究科協会名誉会員。ニュージーランド学士院名誉会員。
  • 1929年:ポズナニ科学協会名誉会員。グラスゴー大学名誉法学博士。グラスゴー名誉市民。セント・ローレンス大学名誉理学博士。ニューヨーク医学アカデミー名誉会員。在アメリカ・ポーランド法人医学歯科学協会名誉会員。
  • 1930年:フランス発明学者協会名誉会員。フランス発明学者協会名誉会長。
  • 1931年:世界平和連盟名誉会員。アメリカ放射線学学会名誉会員。物理学自然科学アカデミー在外通信会員。
  • 1932年:帝国ハレ・ドイツ自然科学アカデミー会員。ワルシャワ医学協会名誉会員。チェコスロヴァキア化学協会名誉会員。
  • 1933年:イギリス放射線学レントゲン協会名誉会員。

栄誉

マリ・キュリーは1902年に夫とともに[48]、1910年には単独で[57]フランスからレジオンドヌール勲章を贈られたが、どちらも辞退した[57]

1935年、ワルシャワに設立されたラジウム研究所の前に彼女の銅像が建立された。序幕はイグナツィ・モシチスキ(en)の夫人が行った。この像は1944年のワルシャワ蜂起の際、銃撃を受けて損傷した。戦後修復を受けたが、銃創をあえて残す決定が下された[30]

ファイル:20000 zl a 1989.jpg
マリ・キュリーの肖像が使われたポーランドの旧20000ズウォティ札。
ソビエト連邦の切手
ピエール・エ・マリー・キュリー駅(en)
マリ・スクウォドフスカ=キュリー・メダリオン(en)ニューヨーク州立大学バッファロー校

その他

歴史に残る著名な女性科学者として、マリ・キュリーの名や肖像は、さまざまな場所で用いられている。

  • 原子番号96の元素名キュリウムは夫妻の姓に由来する。
  • 3つの放射性鉱物も彼女に由来する名称がつけられている。キュリー石 (curite)[86]、スクロドフスカ石 (sklodowskite)[87]、銅スクロドフスカ石 (cuprosklodowskite)[88]である。
  • 通貨の肖像にも使われ、ポーランドでは1980年代後半インフレ時発行された20000ズウォティ[89]、フランスではユーロ統一前の500フランス・フラン札の他にも硬貨切手でも見られた。
  • 2009年に国際連合教育科学文化機関 (UNESCO) とロレアルが協賛した「For Women In Science」プログラムの一環として、雑誌『ニュー・サイエンティスト』で行われた「Most inspirational woman in science」にて、マリ・キュリーは25.1%の得票を受けて1位に選ばれた。これは2位のロザリンド・フランクリン(得票率14.2%)の倍近い支持だった[90][91]
  • ポーランドにて、彼女の名を冠した機関・団体等には以下の例がある
  • フランスにて、彼女の名を冠した機関・団体等には以下の例がある
    • パリ第6大学‐ピエール・マリー・キュリー大学(en)。1968年、パリ大学の理学・医学部が分割された際に創立。研究分野に伝統を持ち、産業界とも連携しつつ科学や技術分野の研究や人材育成を行う[92]
    • キュリー研究所(en)とキュリー博物館(en)。パリ。
    • ピエール・エ・マリー・キュリー駅(en)。パリのメトロ7号線の駅[93]
  • アメリカ合衆国にて、彼女の名を冠した機関・団体等には以下の例がある
  • イギリスにて、彼女の名を冠した機関・団体等には以下の例がある
    • マリー・キュリーがんセンター[96]
  • イタリアにて、彼女の名を冠した機関・団体等には以下の例がある
    • マリー・キューリー夫人財団。ボローニャ大学内。[97]
  • 日本にて、彼女の名を冠した機関・団体等には以下の例がある
    • キュリー祭。鳥取県三朝温泉が世界有数のラドン温泉であることを縁に、マリ・キュリーの業績を讃えて1951年(昭和26年)から行われている祭り。[98]

参考文献

  • エーヴ・キュリー 著、河野万里子 訳『キュリー夫人伝』白水社、2006。ISBN 4-560-02613-0 
    • Eve Curie (2001). Madame Curie: A Biography. Da Capo Press. ISBN 0306810387 
本書は次女エーヴが、マリが亡くなった3年後の1937年に著した母の伝記。彼女は、マリと距離を置く記述をするために表題をあえて『Madame Curie』とした[33]

脚注

注釈

  1. ^ この奨学金は返納不要で、マリの行動は前例が無いことだった。エーヴ (2006)、p.169パサコフ (2007)、pp.32-33
  2. ^ 当時の、EPCIでのピエールの給与は月300フラン。これは工場の非熟練労働者の収入とさほど変わらない。エーヴ (2006)、p.179
  3. ^ ジュネーヴ大学のオファーは、ピエールには物理学教授職、月給1万フランに住宅手当など、実験室を用意し、マリもそこでポスト付で雇用される。当時夫妻の収入は月500フラン。エーヴ (2006)、p.260
  4. ^ この当時、ノーベル賞の認知度はあまり高くなかった。それがピエール夫妻の受賞で著名な賞となった。米沢(2006)、p.106
  5. ^ 投票結果は文献で差がある。エーヴ (2006)、p.393では1票差、パサコフ (2007)、p.99では2票差とある。米沢(2006)、p.107では詳しく、58人の投票でマリ28票、ブランリー29票、他の候補1票となり、2候補に絞られた決戦投票でマリ28票、ブランリー30票とある。
  6. ^ ランジュバンは手紙を公開した週刊誌記者ギュサーブ・テリーに決闘を申し込んだ。1911年11月26日、拳銃を持つ両者は対峙したが、どちらも「人殺しはできない」と弾丸が放たれる事は無かったという。宇佐 (2001)、p172
  7. ^ 文献によって差がある部分。宇佐 (2001)、p.175では「体調を慮り関係者が受賞を遅らせてはと打診した」とあり、パサコフ (2007),p.107では「マリの支持者が、泥沼化したスキャンダルが間違いと証明されるまで辞退すべきと手紙で勧めた」と書かれ、米沢 (2006)ではアカデミー会員のスヴァンテ・アレニウスが「賞を辞退しろ、授賞式に来るなとの手紙を寄越した」とある。エーヴ (2006) ではランジュバンの件にほとんど触れていないが、河野は訳者あとがきで簡易に解説を加えている。

脚注

  1. ^ Nobel Laureate Facts” (英語). 2010年12月10日閲覧。
  2. ^ Robert (1974)、p.184
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脚注2

本脚注は、出典・脚注内で提示されている「出典」を示しています。

  1. ^ 新渡戸稲造『東西相触れて』「世界第1の女性碩学」たちばな出版、2002年、pp.263-270

読書案内

マリ・キュリーと友人たちが、娘イレーヌら子供たちの教育のため立ち上げた「共同授業」を受けたイザベル・シャヴァンヌが取った古いノートの再現。主要目次

外部リンク

(英語)Find A Grave

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