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「ジェファーソン・デイヴィス」の版間の差分

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{{Otheruses||その他のジェファーソン・デイヴィス|ジェファーソン・デイヴィス (曖昧さ回避)}}
{{Otheruses||その他のジェファーソン・デイヴィス|ジェファーソン・デイヴィス (曖昧さ回避)}}
{{Infobox officeholder
{{大統領 | 人名=ジェファーソン・デイヴィス
| 各国語表記=Jefferson Davis
| name =ジェファーソン・F・デイヴィス<BR>Jefferson F. Davis
| 画像=Jefferson Davis portrait.jpg
| image =Jefferson Davis portrait.jpg
| imagesize =250px
| 代数=[[ファイル:ConfederateStatesofAmericaSeal.jpg|20px]] 初
| caption =晩年の肖像画([[:en:Daniel Huntington|ダニエル・ハンティングトン]]、[[1874年]])
| 職名=[[アメリカ連合国大統領|大統領]]
| 国名=[[ファイル:Confederate National Flag since Mar 4 1865.svg|25px]] [[アメリカ連合国]]
| order =[[ファイル:Confederate National Flag since Mar 4 1865.svg|25px]]初代[[アメリカ連合国大統領]]
| term_start =[[1861年]][[2月18日]]
| 副大統領職=あり
| term_end =[[1865年]][[5月5日]]
| 副大統領=[[アレクサンダー・スティーヴンズ]]
| vicepresident =[[アレクサンダー・スティーヴンズ]]
| 就任日=[[1861年]][[2月18日]]
| predecessor =初代就任<br/><small>[[ハウエル・コブ]] ([[アメリカ連合国臨時議会|連合国臨時議会議長]])</small>
| 退任日=[[1865年]][[5月10日]]
| successor =政権崩壊<br/><small>戦後統治の開始([[レコンストラクション]])</small>
| 国名2={{USA}}
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| 代数2=第23
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| 職名2=[[アメリカ合衆国陸軍長官|陸軍長官]]
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| predecessor2 =[[チャールズ・マギル・コンラッド]]
| 出生日={{生年月日と年齢|1808|6|3|死去}}
| successor2 =[[ジョン・ブキャナン・フロイド]]
| 生地=[[ファイル:US flag 15 stars.svg|25px]] [[アメリカ合衆国]]、<br />[[ケンタッキー州]]クリスチャン郡
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| 生死=死去
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| 死亡日={{死亡年月日と没年齢|1808|6|3|1889|12|6}}
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| 没地=[[ファイル:US flag 38 stars.svg|25px]] [[アメリカ合衆国]]、<br />[[ルイジアナ州]][[ニューオーリンズ]]
| predecessor3 =[[:en:Jesse Speight|ジェシー・スペイト]]
| 配偶者=[[ヴァリナ・デイヴィス|ヴァリナ・ハウエル]]
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| 政党=南部民主党
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| term_end4 =[[1861年]][[1月21日]]<ref name="Shelby Foote 1986 p. 3">Shelby Foote (1986): ''The Civil War: A Narrative, Fort Sumter to Perryville'', p. 3. Retrieved 2009-08-04</ref>
| predecessor4 =[[:en:Stephen Adams (politician)|ステファン・アダムス]]
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| term_end5 =[[1846年]]6月<br/><small>[[:en:Stephen Adams (politician)|ステファン・アダムス]]、[[:en:Robert W. Roberts|ロバート・W・ロベルト]]、[[ジェイコブ・トンプソン]]らと共同</small>
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| order6= [[ファイル:Flag of the United States.svg|25px]][[アメリカ合衆国上院軍事委員会|上院軍事委員会]]委員長
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| birth_place =[[アメリカ合衆国]]<br />[[ケンタッキー州]]クリスチャン郡
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| religion =[[キリスト教]]([[米国聖公会]])
| alma_mater =[[陸軍士官学校 (アメリカ合衆国)|ウェストポイント陸軍士官学校]]
| profession =軍人・政治家
| signature =Jefferson Davis Signature.svg
|signature_alt =Cursive signature in ink
|allegiance=[[ファイル:Flag of the United States.svg|25px]] [[アメリカ合衆国陸軍]]
|rank=義勇軍少将
|battles=[[ブラック・ホーク戦争]]<BR>[[米墨戦争]]<BR>[[南北戦争]]
}}
}}
'''ジェファーソン・デイヴィス''' ('''Jefferson Davis''', [[1808年]][[6月3日]] - [[1889年]][[12月6日]]) は、[[アメリカ合衆国]]の[[軍人]]および[[政治家]]。下院議員([[ミシシッピ]]全州区選出)上院議員(ミシシッピ州選出)務めたのち[[フランクリン・ピアース]]政権で[[アメリカ合衆国陸軍長官|陸軍長官]]を務めた。そ後は再び上院議員復帰するものの、南部諸州の分離に伴って上院議員を辞職し、南部諸州が集合・建国した[[アメリカ連合国]]代大統領となった。しかし、その後すぐ勃発た[[南北戦争]]におい南軍が敗北し、アメリカ連合国は消滅したために、彼はアメリカ連合国の唯一の[[アメリカ連合国大統領|大統領]]でもある。
'''ジェファーソン・フィニス・デイヴィス''''''{{lang-en-short|Jefferson Finis Davis}}''', [[1808年]][[6月3日]] - [[1889年]][[12月6日]]は、[[アメリカ合衆国]]及び[[アメリカ連合国]]の[[軍人]][[政治家]]。政治家軍人として様々な経歴重ねているが歴史上においては主にアメリカ内戦([[南北戦争]][[分離独立]]した[[アメリカ連合国]]における、最初にして最後の[[アメリカ連合国大統領|連合国大統領]]として記憶されている。


ジェファーソン・デイヴィスは米国陸軍士官学校(ウェストポイント)の士官候補生として歴史上に現れ、一時的な退役期間を挟みつつ[[米墨戦争]]でミシシッピ州義勇軍を指揮し、戦後に政治家へ転身して[[フランクリン・ピアース]]の秘書となった。政界ではミシシッピ州選出の下院議員となり、更に上院議員へ転じて[[アメリカ合衆国上院軍事委員会|上院軍事委員会]]委員長を務めた。また政界における恩人であるピアースが合衆国大統領に就任すると、[[アメリカ合衆国陸軍長官|陸軍長官]]として入閣を果たした。
== 生涯 ==
=== 生い立ちおよび軍歴 ===
ジェファーソン・デイヴィスは[[1808年]]6月3日に、[[ケンタッキー州]]トッド郡との境界の近く、クリスチャン郡の農場で生まれた。彼はサミュエル・エモリー・デイヴィスの10人の子供の末っ子で、母親のジェーンは裕福な家庭の出であった。祖父は[[ウェールズ]]からアメリカ合衆国に移住し、[[バージニア州]]と[[メリーランド州]]で[[官吏]]として暮らした。彼の父親と伯父は[[アメリカ独立戦争]]に於いて[[大陸軍 (アメリカ)|大陸軍]]に加わり、父親はジョージア州騎兵隊に所属、サヴァナの戦いでは[[歩兵]][[士官]]として戦った。彼の兄も独立戦争に貢献した。[[米英戦争]]では彼の兄弟の内の三人がイギリスと戦い、二人はニューオーリンズの戦いでの功績を[[アンドリュー・ジャクソン]]によって称えられた。


南部分離に関する政治対立が決定的になるとデイヴィスは南部出身者として、また南部諸州の一角を占めるミシシッピ州の代弁者として立場を決めねばならなかった。デイヴィス個人は内戦やその根源的な理由である奴隷制維持を支持しなかったが、分権論者として[[地方政府]]が[[中央政府]]から離脱する事は[[連邦制]]における自治権の範囲であると結論した。[[1861年]][[1月21日]]にデイヴィスはミシシッピ州の連邦離脱を支持する演説を行った後、自らも合衆国議会の議席を放棄すると宣言した。1861年2月18日、アメリカ連合国が組織されるとデイヴィスは連合国臨時議会により暫定大統領に選出され、同年の間に正規の初代大統領(任期6年)に就任した。
デイヴィスの幼年時代に一家は数回転居した。[[1811年]]に[[ルイジアナ州]]セント・メアリー・パリッシュに移り住み、翌年には[[ミシシッピ州]]ウィルキンソン郡へ転居した。


連合国大統領としてデイヴィスは開始された南北戦争における国家指導を担当したが、総論から言って連合国より遥かに豊かで、また政治的にも結束している合衆国に対抗する方策を見つける事ができなかった。外交面では欧州の有力国からは何の支持を得る事もできず、経済面でも独立によって混乱する南部経済の組織化に失敗し、急場を凌ぐ為に行われた紙幣乱造は南部独立通貨の価値を不安定化させた。統率面でも歴史学者[[:en:Bell I. Wiley|ベル・I・ウィレー]]によれば、デイヴィスの性格や気質は国家指導者として不利に働いたと評されている<ref>Bell I. Wiley, "Jefferson Davis: An Appraisal," ''Civil War Times Illustrated,'' January 1967, Vol. 6 Issue 1, pp 4-17</ref>。デイヴィスはどんな細事でも自らの手で決済する事を望み、極端に委任を拒む彼の行動はしばしば各部門の責任者との衝突を生んだ。またお世辞にも柔和とは言い難く、むしろ神経質な人嫌いであったデイヴィスは民衆からの人気も今ひとつであり、本人も国民に好かれようと努力しなかった。気難しい性格は人事面にも悪影響を与え、自らの好悪感情より能力の有無を優先するという冷静な判断に欠けていた。
[[1813年]]にデイヴィスは姉のメアリーと共に自宅から1マイルほど離れた丸太小屋の学校に通い始めた。彼は二年後にケンタッキー州ワシントン郡の聖トマス・アクィナスのカトリック神学校に入学した。彼は[[1818年]]にミシシッピ州ワシントンのジェファーソン・カレッジに進学し、[[1821年]]にはケンタッキー州レキシントンのトランシルヴァニア大学に入学した。[[1824年]]には[[ニューヨーク州]]ウェストポイントの[[陸軍士官学校_(アメリカ合衆国)|アメリカ陸軍士官学校]]に[[士官候補生]]として入学した。


敗戦後の1865年5月10日、デイヴィスは戦犯として合衆国政府に拘束されて[[国家反逆罪]]に問われ、有罪にはならなかったものの公職就任の資格を剥奪された<ref>This limitation was removed by Congress in 1978.</ref>。デイヴィスは先述の通り、民衆と距離を置いた指導者であった為、主に連合国国民の愛国心は南部連合軍総司令官[[ロバート・E・リー]]に集まる傾向が見られた。しかし戦後に開始された合衆国による[[レコンストラクション]](南部占領統治)への反対など、南部連合国に殉じ続けるデイヴィスの姿は旧連合国住民から強い尊敬を集め、唯一にして最後の「連合国大統領」はかつての国民から敬愛される存在となった。今日、デイヴィスは南部独立に生涯を費やした人物として、それを押し留めようとした北軍に立ち向かったロバート・リー元帥と並び、南部人から最も尊敬される偉人となっている<ref>Wilm K. Strawbridge, "'A Monument Better Than Marble': Jefferson Davis and the New South," ''Journal of Mississippi History,'' December 2007, Vol. 69 Issue 4, pp 325-347</ref>。
デイヴィスはウェストポイントで4年の任期を全うして卒業し、[[1828年]]6月に[[少尉]]として任官した。彼は第1歩兵師団に配属され、フォート・クロフォードに配置された。彼の最初の任務は[[1829年]]に、砦の修理および拡張のためにレッド・リバー堤防の材木切断を監督することであった。同年彼は[[ウィスコンシン州]]フォート・ウィネベーゴに転属となる。[[1831年]]にイエロー・リバーの製材工場の建設および監督の間に[[肺炎]]に罹患し、彼はフォート・クロフォードに戻ることとなった。


=== 退役と政治活動 ===
== 前歴 ==
=== 生い立ち ===
デイヴィスは[[1834年]]に、所属[[連隊長]]であった[[ザカリー・テイラー]][[大佐]](のち第12代アメリカ合衆国大統領)の娘と恋愛関係なったが、テイラーに結婚を反対された。そのため、[[1835年]]に軍を除隊し、ケンタッキー州ルイビル近くの叔母の家でテイラー嬢と結婚した。しかしながら、夫妻はまもなく[[マラリア]]にかかり、夫人は新婚3ヶ月で死亡した。
[[1808年]][[6月3日]]、ジェファーソン・フィニス・デイヴィスはサミュエル・エモリー・デイヴィス([[1756年]] - [[1824年]])と、その妻ジェーン・デイヴィスの末子として[[ケンタッキー州]]クリスチャン郡に生まれた。デイヴィス家はウェールス系移民の一族であり、祖父エヴァン・デイヴィスの代にアメリカへ移民し、父エモリー・デイヴィスは叔父と共に[[大陸会議]]派の義勇兵として[[アメリカ独立戦争]]に加わった他、兄の何人かは[[米英戦争]]に参加している。一族はメリーランド州やフィラデルフィア州、バージニア州などを転々としていたが、ジェファーソン・デイヴィスが生まれた時には母方の実家のある[[ケンタッキー州]]へ移住していた。


生まれはケンタッキー州であるが、デイヴィスが幼少の間に一家は二度に亘って他州へ移り住んでいる。一度目は1811年のルイジアナ州セント・メアリーパリッシュへの移住で、二度目は1812年のミシシッピ州ウィルキンソン郡への移住であった。1813年、小さな農園の所有者となった一家はミシシッピ州に腰を落ち着け、デイヴィスもミシシッピ州民としての帰属心を抱く事となった。ウィルキンソン郡学校で初等教育を開始したデイヴィスは、2年後にドミニコ会のセントローズ修道院が運営する寄宿学校に入る為にけケンタッキー州へと戻った。因みに一家は米国聖公会に属していた為、カトリック系学校では珍しいプロテスタント系の生徒であった。[[:en:Jefferson College|ジェファーソン陸軍学校]]を経て[[:en:Transylvania University|トランシルバニア大学]]に進み、1824年に[[陸軍士官学校]]への入校推薦を受けた<ref name=hamilton>{{cite book |last=Hamilton |first=Holman |title=''The Three Kentucky Presidents'' |chapter=Jefferson Davis Before His Presidency |publisher=University Press of Kentucky |location=[[レキシントン (ケンタッキー州)|Lexington, Kentucky]] |year=1978 |isbn=0813102464}}</ref>。士官学校では中庸な成績を収め、1828年6月に33名中23位の席次で卒業した<ref>U.S. Military Academy, Register of Officers and Graduates of the U.S. Military Academy from March 16, 1802 to January 1, 1850. Compiled by Capt. George W. Cullum. West Point, N.Y.: 1850, p. 148.</ref>。
[[1843年]]から、デイヴィスは[[民主党 (アメリカ)|民主党]]から政治活動に入り(兄の死によって後を継いだとも言われる)、ミシシッピ州で連邦下院議員に立候補したが、このときは落選した。[[1844年]]の選挙では当選し、連邦下院議員となった。[[1845年]]には社交界の花形であった[[ヴァリナ・デイヴィス|ヴァリナ・ハウエル]]と再婚した。


少尉任官後は第1歩兵連隊に配属され、ウィスコンシン州のクロフォード要塞に駐留した。最初の任務は1829年に砦の修理および拡張のためにレッド・リバー堤防の材木切断を監督することであった。同年にウィネベーゴ要塞に転属となるが、1831年にイエロー・リバーの製材工場の建設および監督の間に肺炎に罹患してクロフォード要塞に帰還した。1832年、ブラックホーク戦争が始まるとデイヴィスは直接戦場に従軍する機会は与えられなかったものの、上官であるザカリー・テーラー大佐の命令で捕縛された[[ブラックホーク]]の護送役を務めた。
=== 2度目の軍役 ===
[[1846年]]に[[米墨戦争]]が勃発すると、デイヴィスは下院議員を辞職し、[[義勇兵]]連隊(ミシシッピ・ライフル連隊)を組織し、その連隊長となった。この連隊は(当時新兵器であった)雷管銃を装備し、十分な訓練によって戦闘能力の高い部隊として注目された。


===退役と政治活動===
デイヴィスと彼の連隊は、同年9月に[[モンテレーの戦い|モンテレー包囲戦]]に参加した。翌年2月の、[[ブエナ・ビスタの戦い]]では勇敢に戦い、足に銃創を負った。[[総司令官]]であったテイラー将軍(デイヴィスの元義父)は、彼の勇気と積極性を評価して「娘は、私よりも勇敢な男を見る目があった」と評した。
ブラックホーク戦争の縁が元で、テーラーの娘である[[:en:Sarah Knox Taylor|サラ・ノックス・テイラー]]と恋仲になったデイヴィスは結婚を申し込むが、テイラーは結婚に反対した。1835年6月17日、軍を除隊したデイヴィスはサラと駆け落ち同然に結婚して、妻の叔母に匿われて新婚生活を始めたが、結婚生活はサラがマラリアを患って早世した事で余りに早い終わりを迎えた。


妻の死後、デイヴィスは一転して無口で寡黙な性格に豹変して、塞ぎ込んだままにミシシッピ州のウォーレン郡で一軒家を買い取ると、そこで周囲との連絡を一切絶って世捨て人の様な生活を始めた。塞ぎ込んだデイヴィスは他者との交わりも避けて、読書や学問に没頭する隠遁者としての生活は実に8年間にも亘って続けられた。隠遁生活を続けるデイヴィスの拠り所は知識収集であったが、その中でも特に政治学と歴史学に強い熱意を注いでいた。何時しかデイヴィスは兄のジョセフらと政治討議に興じるようになり、社会活動への熱意を取り戻し始めた<ref>Hamilton, Holman (1978). "Jefferson Davis Before His Presidency". The Three Kentucky Presidents. Lexington, Kentucky: University Press of Kentucky. ISBN 0813102464.</ref>。[[1843年]]、デイヴィスは兄と同じ民主党に入党して政治活動を開始、退役軍人としてミシシッピ州の連邦下院選挙に出馬した。また政略結婚として有力政治家の孫娘であった[[ヴァリナ・デイヴィス|ヴァリナ・ハウエル]]と再婚、6人の子供を儲けた。
[[ジェームズ・ポーク]]大統領は、ディヴィスを連邦軍[[准将]]に昇進させ[[州兵]][[旅団長]]に任命しようとしたが、彼は合衆国憲法が州兵[[士官|将校]]の任命権は連邦政府ではなく州政府にあると定めているとして、この昇進を断った。ミシシッピ州知事は、デイヴィスの戦功を理由として、彼をジェシー・スパイトの死去によって空席となっていた連邦上院議員に指名した。彼は[[1847年]]12月に連邦上院議員となり、翌年1月の選挙で正式に議員となった。


[[1843年]]、デイヴィスにとっての最初の選挙は落選であったが、[[1844年]]に再出馬した時には当選を勝ち取り、ミシシッピ州選出の下院議員として連邦議会に加わった。
=== 政治活動への復帰 ===
デイヴィスは、[[アメリカ合衆国上院軍事委員会|上院軍事委員会]]の委員長に就任した。彼は上院議員に再選されたが、1年もたたない[[1851年]]9月にミシシッピ州知事選挙に出馬するため議員を辞職した。しかし、知事選挙には999票差で敗れた。彼はポストを失った後も政治活動を続け、[[1852年]]の大統領選挙では民主党の候補である[[フランクリン・ピアース]]のために、南部諸州で選挙活動を行った。


===米墨戦争===
ピアースは大統領に当選すると、デイヴィスを陸軍長官に任命した。[[1857年]]の大統領選挙ではピアースに代わり[[ジェームズ・ブキャナン]]が民主党の大統領候補となり当選したが、デイヴィスは内閣には留まらず、上院議員選に立候補して当選した。
議員当選から2年後となる[[1846年]]、メキシコ政府との間に[[米墨戦争]]が勃発すると、再びデイヴィスは後方での政治活動よりも軍務への復帰で貢献したいと考え始めた。1846年6月、任期途中で議員を辞職してミシシッピ州の義勇軍(州軍)に志願したデイヴィスは、元士官としての経験を買われて義勇軍大佐に任命され、[[:en:Mississippi Rifles|ミシシッピ・ライフル兵]]連隊の指揮官として前線に復帰した<ref name="tin-soldier.com">http://www.tin-soldier.com/mexwar.htm#rifles</ref>。1846年7月21日、デイヴィスはミシシッピ義勇連隊と共にニューオリンズからテキサスへ海路を使って上陸した。連隊兵は当時としては新式であった雷管銃の[[:en:M1841 Mississippi Rifle|M1841ミシシッピライフル]]を装備しており、デイヴィスは装備の利点を最大限に活用してメキシコ軍に効果的な打撃を与える事に成功した<ref name="tin-soldier.com"/>


1846年9月、デイヴィス率いるミシシッピ義勇連隊は[[モンテレーの戦い]]に参加し<ref>[http://www.helium.com/debates/156160-was-jefferson-davis-a-traitor/side_by_side?page=4]</ref>、1847年2月22日に両軍の決戦となった[[ブエナ・ビスタの戦い]]では少将となっていたザカリー・テーラーの指揮下に加わった。デイヴィスはブエナ・ビスタでメキシコ軍相手に勇猛な戦いぶりを見せ、自身も足を負傷しながらも兵を鼓舞して、メキシコ軍に決定的な打撃を与える事に貢献した。戦いを指揮していたテイラーは「娘は私よりも勇敢な男を見る目があった」と賞賛した伝えられている"<ref name=hamilton/>。ジェームズ・ポーク大統領は[[ブエナ・ビスタの戦い]]での戦勝を高く評価して<ref name="jeffersondavis.net">http://www.jeffersondavis.net/</ref>、大統領令によってディヴィスを義勇軍准将に昇格する事を考えた。しかし合衆国憲法は義勇軍の人事権は連邦政府ではなく各州政府にあると定めており、ディヴィスは各州の自治権を侵害しかねない人事案を拒否している<ref name="jeffersondavis.net"/>。
[[1858年]]から[[1859年]]にかけてデイヴィスは健康を害し、北東部で静養していたが、その間に何度か議会外で、南部の分離運動に反対する演説を行っている。


キューバの合衆国合流を目指していた政治家[[ナルシソ・ロペス]]はロバート・E・リーにキューバ独立軍の軍事顧問に就任するよう打診した事で知られているが、デイヴィスにも同様の働きかけが行われている。しかし両名共に職務との兼ね合いから、独立軍への参加は難しいと返答している<ref>p. 121 Thomson, Janice E. ''Mercenaries, Pirates and Sovereigns'' 1996 Princeton University Press</ref>。
[[1860年]]には、(反奴隷制派政権の誕生への奴隷制維持派の危機感の高まりから)南部での分離運動はさらに強くなり、現実に共和党(反奴隷制派)の候補であった[[エイブラハム・リンカーン]]が大統領に当選すると、サウスカロライナ州は連邦からの分離を宣言した。デイヴィスは、南部諸州が分離することが必要とは考えなかったが、憲法上の理由から各州が連邦から分離する権利を認めたようである。[[1861年]]1月、デイヴィスは連邦上院において、ミシシッピ州代表として連邦からの分離を宣言し、決別演説を行って議員を辞職した。


=== 大統領職 ===
===政界復帰===
デイヴィスは、上院軍事委員会の委員長に就任した。彼は上院議員に再選されたが、1年もたたない1851年9月にミシシッピ州知事選挙に出馬するため議員を辞職した。しかし、知事選挙には999票差で敗れた。彼はポストを失った後も政治活動を続け、1852年の大統領選挙では民主党の候補であるフランクリン・ピアースのために、南部諸州で選挙活動を行った。ピアースは大統領に当選すると、デイヴィスを陸軍長官に任命した。1857年の大統領選挙ではピアースに代わりジェームズ・ブキャナンが民主党の大統領候補となり当選したが、デイヴィスは内閣には留まらず、上院議員選に立候補して当選した。1858年から1859年にかけてデイヴィスは健康を害し、北東部で静養していたが、その間に何度か議会外で、南部の分離運動に反対する演説を行っている。
議員辞職の4日後、デイヴィスはミシシッピ州兵の[[少将]]に任命された。1861年2月9日、アラバマ州[[モンゴメリー (アラバマ州)|モンゴメリー]]にあった分離諸州の憲法制定会議は、彼をアメリカ連合国(南部)の暫定大統領に指名し、彼は2月18日にこれを受諾した。デイヴィスはミシシッピ州議会で分離に反対の意見を述べたが、多数が分離賛成であることを見て多数意見に従うことにした。また、デイヴィスは大統領に指名されるとは予想しておらず、過去の経歴を生かせる、陸軍長官か[[将軍]]のポストを希望していた。


1860年には、(反奴隷制派政権の誕生への奴隷制維持派の危機感の高まりから)南部での分離運動はさらに強くなり、現実に共和党(反奴隷制派)の候補であったエイブラハム・リンカーンが大統領に当選すると、サウスカロライナ州は連邦からの分離を宣言した。デイヴィスは、南部諸州が分離することが必要とは考えなかったが、憲法上の理由から各州が連邦から分離する権利を認めたようである。1861年1月、デイヴィスは連邦上院において、ミシシッピ州代表として連邦からの分離を宣言し、決別演説を行って議員を辞職した。
デイヴィスは直ちに[[ワシントンD.C.|ワシントン]]へ平和的な分離の達成、南部領域の連邦資産の買い取り、連合国政府の承認などを求めて使節団を派遣した。一方では、[[P・G・T・ボーリガード]]将軍を、サウスカロライナ州チャールストン周辺の部隊の[[司令官]]に任命し、ついでボーリガードにチャールストン港内のサムター要塞接収を命じて事実上南北戦争の口火を切った(4月12日の[[サムター要塞の戦い]])。連合国の首都は1861年5月にヴァージニア州[[リッチモンド (バージニア州)|リッチモンド]]に移り、デイヴィスと彼の家族は5月29日に大統領官邸に入った。


==アメリカ連合国大統領==
デイヴィスは11月の選挙で、任期6年の大統領に正式に当選した。彼は、それまで選挙で当選した職で一度も任期を全うしたことがなかったが、このときも(アメリカ連合国の消滅により)任期を全うすることは出来なかった。
===暫定政権の組織===
辞任の4日後、デイヴィスは南軍の義勇軍少将としてミシシッピ州軍の指揮官に任命され、これが連合国政府との最初の明確な関わりとなった<ref name=hamilton/>。1861年2月9日、アラバマ州のモンゴメリーで暫定的に設置された「連合国憲法制定会議」(実質的なアメリカ連合国の準備政府)は、ジェファーソン・デイヴィスをアメリカ連合国の暫定大統領に指名すると発表した。デイヴィス個人は南部分離と内戦に強く反対する立場であったが、各州の自治権を認める分権論者としてミシシッピ州全体の決定に従い、連邦議会で同州の連邦離脱を宣言する役目を担ったという経緯があった。故に分離政府の元首に指名された事に対しても、暫く回答を留保するなど慎重な姿勢を見せたが、最終的に[[1861年]][[2月18日]]に要請を受託して連合国暫定大統領へ就任した。


暫定大統領就任後、デイヴィスは連合国と合衆国との協議の場を設けるべく、議会の許可を得て外交使節団を創立した。1861年3月、外交使節団は[[サムター要塞の戦い]]の前にワシントンD.C.に向かう手筈になっており、予定では南部諸州における連邦政府の直轄資産を全て接収ではなく国費を投じて合法的に購入したいと申し出るなど、可能な限り連邦政府からの平和的離脱を目指す事になっていた。しかし逆に言えば外交使節団は南部側の交渉条件として「再統合」を出す事を禁じられていた訳であり、連邦政府内の自治権拡大で決着を望んでいた合衆国政府との議論は期待できなかった。
[[1862年]][[2月22日]]に正式大統領に就任。6月1日に、[[ロバート・E・リー]]将軍を北バージニア軍(連合国の東部戦域における主力軍)司令官に任命した。また、12月には西部地方の軍隊への視察をおこなった。[[1863年]]8月、[[ゲティスバーグの戦い]]で敗北したリー将軍は辞任を申し出たが、デイヴィスは却下した。[[1864年]]には戦況は連合国にとって最悪の状況となり、デイヴィスは士気高揚のため、ジョージア州で遊説をおこなった。


またデイヴィス自身も融和政策の一方で[[P・G・T・ボーリガード]]大将を南軍総司令官に指名し、密かに開戦に向けた準備を始めさせていた。ボーレガード大将はサウスカロライナ州のチャールストンに軍を集結させると、南部側の国境要塞で唯一南軍への合流を拒否していた[[サムター要塞]]の武力接収を政府に提案した。デイヴィスは連合国暫定大統領として、サムター要塞攻撃を許可する政府の閣議決定を承認している。[[1861年]][[4月12日]]、サムター要塞に対して南軍が砲撃を開始、実質的に両国は内戦状態に突入した([[南北戦争]])。
デイヴィスは、彼の行なった連合国の戦争指導について批判を受けている。彼は、戦争末期まで総司令官を任命しようという周囲の働きかけを拒否し続け、彼自身でその任務を遂行した。[[1865年]]1月31日にリーが総司令官に任命されたが、このときには成功の可能性のある戦略を策定するにはすでに手遅れであった。彼自身もウェストポイント出身の優れた将官だったのだが健康に問題を抱えており、また大統領として他の仕事も山積しており戦争指導者として強力に戦争を指導したとは言いがたいだろう。


開戦から程なく中立を維持していた[[バージニア州]]がアメリカ連合国に合流すると、デイヴィスは連合国の首都をモンゴメリーからより北方となる[[バージニア州]]リッチモンドに遷都した。建設されていたバージニア州議会議事堂が連合国政府の新しい連合国議会議事堂として使用され、デイヴィスが執務室を構えた議事堂から2ブロック北の古典主義式の邸宅は[[:en:Museum of the Confederacy|連合国政府のホワイトハウス]]と呼ばれた。1861年11月6日、連合国議会はデイヴィスを任期6年の初代大統領に選出、[[1862年]][[2月22日]]に大統領就任式が行われた。これにより正式にアメリカ連合国が発足し、デイヴィスも名実共に新国家の初代元首となった。
また、デイヴィスは連合国のすべての拠点に、同程度の防衛努力をおこなうという戦略方針を遂行したことにも責任を問われた。この戦略は、連合国の限られた戦争資源を薄くばらまくことになり、結果として西部にある戦略的重要拠点が、合衆国軍の戦力を集中させた攻撃にさらされることとなった。ただし、南部連合と言う特殊な国の大統領を務めていた事情を考えればこれはある意味仕方のない選択でもあった。南軍と北軍を比べた場合、南軍は「軍隊」と言うより「郷土防衛軍」と言う存在に近かったのだ。例えばリー将軍の場合などはバージニア州出身の将軍がバージニア州やノース・カロライナ州出身の兵を指揮してバージニア及びノース・カロライナ周辺でバージニア州などに侵攻してくる北軍と戦っていたのである<ref>ゲティスバーグやメリーランド州侵攻など少数の例外を除けば北バージニア軍は常に守勢に立って戦っていた。</ref>。
逆に北軍の場合は攻勢に回ることの方が多かったのでこれはあまり大きな問題にはならなかった。


[[File:1861 Davis Inaugural.jpg|thumb|left|210px|ジェファーソン・デイヴィスを暫定大統領へ選出した際の連合国臨時議会前(1861年2月18日、モンゴメリー)]]
他の戦線でも多かれ少なかれこの傾向は見られ、大規模な配置転換や一部の拠点を見捨てると言うような事は非常に行いにくかった。もし特定の部隊が所属する州を見捨てるような配置転換を強行したら(もしくは強行しようとしたら)その州が連合国から脱退する可能性すらあった。西部戦線の要衝だったヴィックスバーグが陥落寸前だった時、状況を改善するため南軍司令部はリー将軍の北バージニア軍から部隊を抽出して援軍として派遣しようとリー将軍に何度か掛け合ったが正面に位置する北軍の数的優勢を盾にリー将軍は援軍派遣を拒否し続けた。それどころかリーはデイヴィスに「北部勢力圏内で会戦に勝利することができれば西部戦線の危機も解決できる」と力説し、デイヴィスに北部進撃を認めさせている。結局南軍司令部が北バージニア軍から1個軍団抽出して西部戦線に派遣できたのはリーがゲティスバーグで敗北し、[[ヴィックスバーグ (ミシシッピ州)|ヴィックスバーグ]]が陥落した後だった。


===国家指導===
ちなみにこの時西部戦線に派遣された[[ジェイムズ・ロングストリート]]将軍率いる1個軍団は北軍のウィリアム・ローズクランツ将軍率いるカンバーランド軍と南軍の[[ブラクストン・ブラッグ]]将軍が率いるテネシー軍が激突した[[チカマウガの戦い]]に間に合い、ロングストリート将軍の指揮の妙もあり大いに活躍した。この戦いで完敗を喫した北軍はチャタヌーガに向けて敗走する事となるがブラッグ将軍が敵を迅速に追撃せず、また特にミスを犯していない部下の将軍を3人も罷免するなどと言うことを行ったため<ref>ミスを犯したのは総指揮を取ったブラッグの方であり、部下の将軍達ではなかった。この時罷免された3人がすぐ復職している事からもそれは明らかであろう。結局このせいでロングストリート将軍も反ブラッグ派となってしまった。</ref>部下の信望を失う事となった。
1862年6月、戦争が激化する中で主要戦線の一つである北バージニア戦線の総司令官[[ジョセフ・ジョンストン|ジョセフ・E・ジョンストン]]大将が負傷する事態が発生した時、恐らく人事面で最も成功した決断となる[[ロバート・E・リー]]大将を北バージニア軍に抜擢する決断を下した。それまで大きな役割を与えられていなかったリー将軍は北軍に対して大きな軍事的功績を上げ、戦局を大きく覆す勝利を得た。気難しく周囲の閣僚や高官達を信任しなかったデイヴィスはしばしば独断で戦争政策を取り決めたが、リー将軍の提案に関しては信頼を寄せ、これを容認する事が多かった。


1862年12月、デイヴィスは自ら西部戦線の前線を視察して、兵の閲兵を行うなど前線の士気を鼓舞する為に労を払った。彼は連合国が国家資源や国力の面でそもそも合衆国に大きく差を付けられている事を理解しており、連合国が合衆国から対外的な独立を維持するには危険な攻勢には転じず、徹底して戦略的防御に徹し続ける事が唯一の方策であると結論していた。デイヴィスのこうした持久主義は連合国軍の基本路線となり、特に輸送路の要である首都リッチモンドの防衛には全力を注がねばならないと考えていた。しかし南軍が優勢に転じて合衆国政府に動揺が広がるのを目の当たりにすると、次第にデイヴィスも首都ワシントンの占領による講和という短期決戦論に傾き始め、軍による攻勢計画を承認する決断を下した。そして攻勢計画は戦力に勝る北軍の前に頓挫して、アンティータムの戦いとゲティスバーグの戦いで破局を迎える結果となった<ref>Joseph G. Dawson III, "Jefferson Davis and the Confederacy's 'Offensive-Defensive' Strategy in the U.S. Civil War," ''Journal of Military History,'' April 2009, Vol. 73#2, pp 591-607</ref>。1863年8月、リー将軍は二度に亘る攻勢作戦の失敗から退任を自ら申し出たが、デイヴィスはリーを慰留する事に努めた。
また、野戦軍の指揮官人事についても大きな失策をおこなっている。デイヴィスは、個人的に親しいブラクストン・ブラッグ将軍を(米墨戦争時からの付き合いがあった)、重要な会戦で大失策を犯して部下の司令官たちの信頼を失っているにもかかわらず、交代させることを拒否し<ref>チカマウガの戦いの後ブラッグは北軍を追撃しチャタヌーガに篭ったカンバーランド軍を包囲したまでは良かったが、北軍が手早く対応したせいもあり包囲されているカンバーランド軍より包囲している側のテネシー軍の方が飢えが深刻だと言う状況に陥ってしまう。低下する士気をなんとか鼓舞するためにデイヴィスはこの戦線を訪れたが、そこでロングストリート等にブラッグを更迭するように求められた。この時はデイヴィスはブラッグを更迭することを拒否しているが、その後に行われた[[第三次チャタヌーガの戦い#ミッショナリー・リッジの戦い|ミッショナリー・リッジの戦い]]でブラッグが完敗を喫したためついに彼を罷免し、代わりに[[ジョセフ・ジョンストン]]将軍をテネシー軍司令官に任命している。</ref>、一方では、有能だが自分に対して批判的な[[ジョセフ・ジョンストン]]将軍を更迭して、代わりに無謀なところのある[[ジョン・ベル・フッド]]将軍をテネシー軍司令官に任命した<ref>ブラッグの後を継いだジョンストンはシャーマン将軍率いる北軍の矢面に立たされる事となった。テネシー軍は物量でも兵力でも完全に圧倒されていたためジョンストンは会戦を避けつつなんとかアトランタ失陥を防ごうとしていたのだがその消極的な態度が嫌われ、積極的な(と言うより積極的なだけの)フッドが代わりに任命された。</ref>。
<!-- [[File:Confederate National Flag since March 4, 1865.svg|thumb|<center>[[Flags of the Confederate States of America#Third national flag|Third Confederate National Flag.]]]] -->
フッドは、アトランタの失陥とテネシー軍の壊滅という無残な結果を導くこととなった。アトランタ失陥に関しては北軍の物量に圧倒されたと言う側面が強いので誰が指揮を執っていても最終的には陥落していた可能性が高いが、無謀な攻撃を繰り返してテネシー軍を疲弊させ最終的に[[ナッシュビルの戦い]]で壊滅させた責任は間違いなくフッドのものだった。その後テネシー軍は一応再建されたが補充された将兵の大半は民兵上がりの年配者か銃を撃ったことすらないような若年兵ばかりであり、更迭されたフッドに代わって再度テネシー軍の司令官に任命されたジョンストン将軍は「[[ウィリアム・シャーマン]]将軍率いる北軍を撃破せよ」と命令された時「(このような軍では)彼(シャーマン)を多少悩ます程度しかできません」と答えている。


[[File:Jefferson Davis.jpg|thumb|right|210px|連合国大統領就任時のジェファーソン・デイヴィス(1861年)]]
1865年4月3日、[[ユリシーズ・グラント]]中将指揮下の合衆国軍によるリッチモンド占領が目前となると、デイヴィスは閣僚たちと共にリッチモンド=ダンヴィル鉄道を利用し、ヴァージニア州ダンヴィルに逃れた。追いつめられた首脳たちはW.T.スサーリン少佐邸に滞在した。デイヴィスはこの邸宅で連合国大統領としての最後の布告を書いた。ダンヴィル到着から6日後、彼はノースカロライナ州グリーンスボロに移動した。4月16日には、ミシシッピ州メリディアンへ脱出しようとしたが、5月10日にジョージア州アーウィンヴィルで、郵政長官[[ジョン・レーガン]]、前テキサス州知事フランシス・ラボックと共に逮捕された。
歴史学者達の幾人かは、デイヴィスが人事面で実力の有無より自身が信頼するか否かで決断を下した事と、戦時下での経済拡充を最初から放棄していた事を適切な国家指導ではなかったと指摘している<ref>Richard E. Beringer, Herman Hattaway, Archer Jones, and William N. Still, Jr. ''Why the South Lost the Civil War'' (1986)</ref><ref>Steven E. Woodworth, ''Jefferson Davis and His Generals: The Failure of Confederate Command in the West'' (1990)</ref>。戦争後期までデイヴィスは連合国大統領が軍の最高指揮官を兼ねる事を必要視し、効率面から連合軍最高司令官職を創設すべきとする意見を却下し続けた。1865年1月31日になって漸くデイヴィスは信任するリー将軍を連合軍最高司令官に任命したが、余りにも遅すぎる決断であった。またデイヴィスは持久戦に備えて、或いは郷土防衛の色合いが強い南軍が結束を失わないように、南部連合国の領土を出来る限り失わない配慮をしたが、これはデイヴィス自身が理解していた連合国の乏しい資源を更に分散させる事と同義であった。更に当初の持久路線を支持する論者からは最終的にリー将軍に説き伏せられる形で攻勢計画に転じ、軍の短期決戦論を抑えれなかったと批判される傾向にある<ref>Steven E. Woodworth, "'Dismembering the Confederacy': Jefferson Davis and the Trans-Mississippi West," ''Military History of the Southwest,'' 1990, Vol. 20 Issue 1, pp 1-22</ref>。


恣意的な人事については米墨戦争以来の盟友である[[ブラクストン・ブラッグ]]将軍を、重要な会戦で失策を犯して司令官たちの信頼を失っているにも関わらず交代させることを却下している。逆に実績があるものの反りが合わなかった[[ジョセフ・ジョンストン]]将軍を更迭して[[ジョン・ベル・フッド]]将軍をテネシー軍司令官に任命している。後にフッドはアトランタ失陥とテネシー軍の壊滅という失態を犯し、後に再任されたジョンストン将軍は「[[ウィリアム・シャーマン]]将軍率いる北軍を撃破せよ」との命令に対し、打撃を受けた自軍では「シャーマンを悩ます程度の事しかできない」と返答している<ref>Hattaway and Beringer, ''Jefferson Davis, Confederate President'' (2002)</ref>。
逮捕時に妻のコートを羽織っていた事から「変装の為に女装していた」と言う噂が広がったが、事実ではない<ref>http://www.georgiaencyclopedia.org/nge/Article.jsp?id=h-640</ref>。


内政面ではデイヴィスは自らも退役将官という事もあり兵士や士官への閲兵や激励に労を厭わない一方、国民に向けて熱心な演説を行う事は余りなかった。戦争を通じて高まりつつあった連合国国民としての一体感や国家主義的な雰囲気を、デイヴィスは有効に活用する事をしなかった<ref>Paul D. Escott, ''After Secession: Jefferson Davis and the Failure of Confederate Nationalism'' (1978)</ref>。デイヴィスは民衆を奮い立たせる様な演説を得意とせず、代わりに運命に従って死に向かうように諭す事が多かった<ref>Cooper, ''Jefferson Davis'' (2000) p. 475, 496</ref>。デイヴィスは二度に亘る前線への閲兵を除けば派手な示威行為を殆ど行わず、リッチモンドでの実務に情熱を傾けていた。新聞などの報道機関はまだ未発達で、地方では十分に首都における大統領の動向を広める事ができず、戦局が悪化するにつれて大統領への不信感を根付かせることになった<ref>J. Cutler Andrews, "The Confederate Press and Public Morale," '' Journal of Southern History'' 32 (1966)</ref>。また国内の戦時経済は日に日に悪化していき、1863年4月には首都で大規模な食糧暴動が発生している<ref>Cooper (2000) pp. 447, 480, 496</ref>。デイヴィスの気難しさは最も近い立場である筈の副大統領[[アレクサンダー・スティーヴンズ]]との口論まで生み出した。独立心の旺盛さから南部連合に加わった各州の政治家達との協議も、柔和さに欠けるデイヴィスとの論争で暗礁に乗り上げることが多かった<ref>Cooper (2000) p. 511</ref>。
==== 内閣 ====

{| cellpadding="1" cellspacing="4" style="margin:3px; border:3px solid #000000;" align="left"
===連合国崩壊===
!bgcolor="#000000" colspan="3"|
[[File:Map of CSA 4.png|thumb|right|350px|アメリカ南部連合政府の支配圏]]
1865年4月3日、首都リッチモンドの防衛が不可能となるまでに衰退した南軍は遂に首都防衛を諦めて撤退を開始し、デイヴィスも閣僚陣と共に列車でリッチモンド南方のダンヴィル市に政府機能を移動させた。彼はダンヴィルで連合国大統領として最後となった公文書を執筆すると、北軍の追撃を逃れる為にバージニア州から離れてより遠方のノースカロライナ州に向かい同州のグリーンズボロに到達した所で、リー将軍から合衆国軍の総司令官グラント元帥へ全軍降伏を行うとする報告書を受け取った。

連合国軍総司令官の地位にあったリー将軍による降伏が宣言されて尚、連合国国民の多くは抗戦意思を残していた。ルイジアナ州シュリーブポートで開かれた民衆集会ではデイヴィス政権は北軍への抵抗を続けるべきであり、連合国国民はそれを支持するべきとの声が次々と上がった。実際に政府内ではデイヴィスら閣僚陣をキューバに移動させてそこにアメリカ連合国亡命政府を樹立し、北部の占領統治に対する民衆の抵抗を指導する計画があったと言われている<ref>[[ジョン・D・ウィンターズ|John D. Winters]], ''The Civil War in Louisiana'', [[バトンルージュ (ルイジアナ州)|Baton Rouge, Louisiana]]: [[ルイジアナ州立大学|Louisiana State University]] Press, 1963, ISBN 0-8071-0834-0, p. 419</ref>。事実はともかく、デイヴィスは閣僚と共に各州の支持者から支援を受け、自らの支持基盤でもあるミシシッピ州へと向かっていたと思われる。

しかし1865年5月5日、ジョージア州で北軍による追跡の手が迫り、もはやこれ以上の逃避行は無意味になりつつあった。支持者から提供されていた邸宅でデイヴィスは閣僚達を集め、最後の「閣議」を開いて連合国政府の解散を宣言し、その5日後の1865年5月10日にジョージア州アーウィンヴィルで郵政長官[[ジョン・レーガン]]、前テキサス州知事フランシス・ラボックと共に拘束された<ref name="Jefferson_Davis">{{cite web |year=2007 |url = http://www.americaslibrary.gov/jb/civil/jb_civil_jeffdav_1.html|title = Jefferson Davis Was Captured |publisher = [[アメリカ合衆国政府|USA.gov]]| accessdate = 2010-02-04 | last= |quote=}}</ref>。このとき妻が所有していたオーバーコートを寒さを凌ぐ為に肩にかけて歩いていたが、以前から北部政府による南部批判の一環としてデイヴィスへの中傷が行われており、この一件も北部の新聞では「女装してまで逃げようとした」と歪曲される中傷を受けた<ref>[http://www.georgiaencyclopedia.org/nge/Article.jsp?id=h-640]</ref>。

=== 内閣 ===
{| class="infobox" style="font-size:88%; width:auto; text-align:left; white-space:nowrap; float:left; clear:left; "
! style="background:#DCDCDC; text-align:center;" colspan="3" | デイヴィス内閣
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! 職名
|align="left"|'''職名'''||align="left"|'''氏名'''||align="left"|'''任期'''
! 氏名
! 任期
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!bgcolor="#000000" colspan="3"|
! style="background:#000;" colspan="3" |
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|[[アメリカ連合国大統領|連合国大統領]]
|align="left"|大統領||align="left" |'''ジェファーソン・デイヴィス'''||align="left"|
! ジェファーソン・デイヴィス||1861&ndash;1865
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|[[:en:Vice President of the Confederate States of America|連合国副大統領]]
|align="left"|副大統領||align="left" |'''[[アレクサンダー・スティーヴンズ]]'''||align="left"|1861 - 1865
! [[アレクサンダー・スティーヴンズ]]||1861&ndash;1865
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! style="background:#000;" colspan="3" |
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| rowspan="3"|[[アメリカ連合国国務長官|国務長官]]
!bgcolor="#000000" colspan="3"|
! [[ロバート・トゥームズ]]||1861
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! [[ロバート・マーサー・タリアフェロー・ハンター|ロバート・ハンター]]||1861&ndash;1862
|align="left"|[[アメリカ連合国国務長官|国務長官]]||align="left"|'''[[ロバート・トゥームズ]]'''||align="left"|1861
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! [[ジュダ・ベンジャミン]]||1862&ndash;1865
|align="left"|&nbsp;||align="left"|'''[[ロバート・マーサー・タリアフェロー・ハンター|ロバート・ハンター]]'''||align="left"|1861 - 1862
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! style="background:#D1D1D1;" colspan="3" |
|align="left"|&nbsp;||align="left"|'''[[ジュダ・ベンジャミン]]'''||align="left"|1862 - 1865
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|align="left"|[[アメリカ連合国財務長官|財務長官]]||align="left"|'''[[クリストファー・メミンジャー]]'''||align="left"|1861 - 1864
| rowspan="3"|[[アメリカ連合国財務長官|財務長官]]
![[クリストファー・メミンジャー]]||1861&ndash;1864
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|align="left"|&nbsp;||align="left"|'''[[ジョージ・トレンホルム]]'''||align="left"|1864 - 1865
![[ジョージ・トレンホルム]]||1864&ndash;1865
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|align="left"|&nbsp;||align="left"|'''[[ジョン・レーガン]]'''||align="left"|1861 - 1865
![[ジョン・レーガン]]||1865
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! style="background:#D1D1D1;" colspan="3" |
|align="left"|[[アメリカ連合国陸軍長官|陸軍長官]]||align="left"|'''[[リロイ・ポウプ・ウォーカー]]'''||align="left"|1861
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| rowspan="6"|[[アメリカ連合国陸軍長官|陸軍長官]]
|align="left"|&nbsp;||align="left"|'''[[ジュダ・ベンジャミン]]'''||align="left"|1861 - 1862
![[リロイ・ポウプ・ウォーカー]]||1861
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![[ジュダ・ベンジャミン]]||1861&ndash;1862
|align="left"|&nbsp;||align="left"|'''[[ジョージ・ランドルフ]]'''||align="left"|1862 - 2009
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![[ジョージ・ランドルフ]]||1862
|align="left"|&nbsp;||align="left"|'''[[グスタヴス・スミス]]'''||align="left"|1862 (Acting)
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![[グスタヴス・スミス]]||1862(代行)
|align="left"|&nbsp;||align="left"|'''[[ジェイムズ・セードン]]'''||align="left"|1862 - 1865
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![[ジェイムズ・セードン]]||1862&ndash;1865
|align="left"|&nbsp;||align="left"|'''[[ジョン・ブレッキンリッジ]]'''||align="left"|1865
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![[ジョン・ブレッキンリッジ]]||1865
|align="left"|[[アメリカ連合国海軍長官|海軍長官]]||align="left"|'''[[スティーヴン・マロリー]]'''||align="left"|1861 - 1865
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! style="background:#D1D1D1;" colspan="3" |
|align="left"|[[アメリカ連合国郵政長官|郵政長官]]||align="left"|'''[[ジョン・レーガン]]'''||align="left"|1861 - 1865
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|align="left"|[[アメリカ連合国司法長官|司法長官]]||align="left"|'''[[ジュダ・ベンジャミン]]'''||align="left"|1861
|[[アメリカ連合国海軍長官|海軍長官]]
![[スティーヴン・マロリー]]||1861&ndash;1865
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! style="background:#D1D1D1;" colspan="3" |
|align="left"|&nbsp;||align="left"|'''[[トマス・ブラッグ]]'''||align="left"|1861 - 1862
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|[[アメリカ連合国郵政長官|郵政長官]]
|align="left"|&nbsp;||align="left"|'''[[トマス・ワッツ]]'''||align="left"|1862 - 1864
![[ジョン・レーガン]]||1861&ndash;1865
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! style="background:#D1D1D1;" colspan="3" |
|align="left"|&nbsp;||align="left"|'''[[ジョージ・デイヴィス (アメリカの政治家)|ジョージ・デイヴィス]]'''||align="left"|1864 - 1865
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| rowspan="4"|[[アメリカ連合国司法長官|司法長官]]
![[ジュダ・ベンジャミン]]||1861
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![[トマス・ブラッグ]]||1861&ndash;1862
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![[トマス・ワッツ]]||1862&ndash;1863
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![[ジョージ・デイヴィス (アメリカの政治家)|ジョージ・デイヴィス]]||1864&ndash;1865
|}
|}
[[File:LC-B815-911 Rt side stereoview 1865 LOC.JPG|300px|thumb|right|大統領官邸]]
<br clear="all">
[[File:Va State Capitol.JPG|300px|thumb|right|連合国議会議事堂]]
{{Clear}}


=== 収監と引退 ===
== 戦後 ==
[[File:Jefferson Davis - 1875.jpg|170px|thumb|left|晩年のデイヴィス]]
[[1865年]]5月19日にデイヴィスはヴァージニア海岸にある[[フォート・モンロー]]の穹窖砲台に収監された。彼は三日間足かせを付けられた。一年後に反逆罪で起訴される。収監中ディヴィスは自らの元[[奴隷]]であった[[ベン・モンゴメリー]]にミシシッピの自宅を売却するように手配した。
[[File:Monument avenue richmond virginia.jpg|350px|thumb|right|ヴァージア州に建設されたジェファーソン記念堂]]
[[1865年]][[5月19日]]にデイヴィスはバージニア海岸にある[[フォート・モンロー]]に収監され、それから2年間にわたって国家反逆罪の審議が終了するまで拘束された。最初の3日の間は鉄の重りが足に結び付けられていたが直に外され、警備兵付きながらも比較的に自由な生活を許された。拘束から1年後には国家反逆罪での起訴が決まり、デイヴィスは既に解放された身となっていたが、依然としてデイヴィスに従っていた元奴隷の使用人の手を借りてミシシッピ州の不動産などを全て処分させた。翌年、連合国大統領の保釈を求める運動が起き、[[ホレス・グリーリー]]、[[コーネリアス・ヴァンダービルト]]、[[ガーリット・スミス]]を含む北部・南部州の著名な国民によって支払われた10万ドルの保釈金により、デイヴィスは要塞から開放された。


保釈中、デイヴィスはカナダやキューバなどの近隣地域を訪問した後、在職中には叶わなかった欧州諸国への歴訪を行った。1869年2月、合衆国議会でデイヴィスへの起訴を取り下げるべきとする動議が出され、議案自体は否決されたもののデイヴィスへの国家反逆罪に関する起訴は実際に取り下げられた。自由の身となったデイヴィスは旧連合国支持者のネットワークから、テネシー州メンフィスに本社を置くノースカロライナ保険会社の顧問に招致された。更に[[テキサスA&M大学|テキサス工科大学]]からは学長に打診されたが、これは辞退している。[[1876年]]、デイヴィスは対南米貿易奨励協会を発足させ、南米貿易の拡充を主張する形で部分的に政治活動を再開した。
翌年、2年間におよんだ監禁の後に、デイヴィスは[[ホレス・グリーリー]]、[[コーネリアス・ヴァンダービルト]]、[[ガーリット・スミス]]を含む北部、南部州の著名な国民によって支払われた保釈金により釈放された。釈放後デイヴィスは[[カナダ]]、[[キューバ]]および[[ヨーロッパ]]を訪れた。[[1868年]]12月に法廷は起訴を無効にする動議を拒絶した。しかし検察当局は[[1869年]]2月に訴訟を取り下げた。


その後もデイヴィスは欧州と南部を往復しながら政治活動を続け、連合国時代の回想録となる『''The Rise and Fall of the Confederate Government''』(アメリカ連合国の興亡)を執筆するなど、連合国の大義を訴え続けた。失われた連合政府の大義に殉じる彼の姿は南部の民衆に深い敬意を抱かせ、また敗戦の痛手が残る南部諸州を幾度に亘って歴訪する事で戦時中にはなかった民衆との結束が深まっていった。南部人の間に所謂「[[失われた大義]]」論が形成されていく中、デイヴィスは高潔で理想主義的な人柄と南部諸州の自治の為に生涯を費やした姿から、連合国国民にとって誇るべき指導者であったと見なされた。南部諸州を歴訪する旅で彼は各州の旧連合国を偲ぶ集会に招致され、民衆から暖かい賞賛と労いの言葉で迎えられた。
1869年にデイヴィスは[[テネシー州]][[メンフィス (テネシー州)|メンフィス]]のカロライナ生命保険会社の社長に就任した。[[1870年]]の[[ロバート・E・リー]]の死に際してデイヴィスは[[リッチモンド (バージニア州)|リッチモンド]]で行われた追悼集会の司会を務めた。その後再び上院議員に選出されたが、憲法修正第14条によって連邦政府から除外され、[[1875年]]にその職を拒絶した。


1889年10月、デイヴィスは南部連合国に関する記録である「南部連合の物語」を書き終えた2ヵ月後、ニューオリンズで81年の生涯を閉じた<ref>[http://leearchive.wlu.edu/?page=reference/misc/fenner/index.html Eulogy of Robert E. Lee By Charles E. Fenner]. Washington & Lee University</ref>。彼の葬儀は南部出身の偉人達の中でも特に大規模であり、ニューオリンズからかつての連合国の首都であったリッチモンドに至るまで各地で葬列に人々が加わり、大勢の参列者が彼の死を悼み弔った<ref>Donald E. Collins, ''The Death and Resurrection of Jefferson Davis'' (2005)</ref>。デイヴィスの遺骸はニューオリンズにある北バージニア軍の戦没者墓地に埋葬されたが、1893年に夫人の要望でバージニア州リッチモンドのハリウッド墓地に改葬された<ref>[http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GSln=davis&GSfn=Jefferson&GSmn=finis&GSbyrel=in&GSdyrel=in&GSob=n&GRid=260&]</ref>。
[[1876年]]にデイヴィスは対南米貿易奨励協会を発足させた。翌年、彼はイギリスを訪れ、[[1878年]]に帰国し[[ミシシッピ州]]の「[[ボーヴォワール (ミシシッピ州)|ボーヴォワール]]」に向かい三年をそこで過ごす。そこで生活する間にデイヴィスは『''The Rise and Fall of the Confederate Government''』の執筆を始める。執筆が終わると彼は再びヨーロッパを訪れ、翌年[[アラバマ州]]、[[ジョージア州]]に旅行した。


==関連項目==
デイヴィスは[[1889年]]10月に『''A Short History of the Confederate States of America''』の執筆を完了した。ジェファーソン・デイヴィスは1889年[[12月6日]]に81歳で[[ニューオーリンズ]]で死去した。彼の葬儀はそれまで南部で行なわれた葬儀の中で最大のもののうちの一つであり、葬列はニューオーリンズからリッチモンドまで続いた。彼はバージニア州リッチモンドのハリウッド墓地に埋葬された。
*[[アメリカ連合国]]
*[[アメリカ連合国大統領]]
*[[南北戦争]]


==資料==
[[1978年]]には彼の米国市民権が議会によって回復された。
===二次資料===
* Allen, Felicity. ''Jefferson Davis: Unconquerable Heart'' (1999) [http://www.questia.com/PM.qst?a=o&d=106229784 online edition]
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* Thomas, Emory M. ''The Confederate Nation, 1861-1865'' (1979), scholarly history of CSA


== 豆知識 ==
===重要資料===
* Davis, Jefferson. ''Jefferson Davis: The Essential Writings,'' ed. by William J. Cooper, Jr. (2003), 496pp
奴隷制堅持を標榜するアメリカ連合国の大統領だったにも関わらず、実は[[黒人]]の[[養子]](Jim Limber Davis)がいた。彼はデイヴィスが北軍によって逮捕されたときに北部に連れ去られしまい、消息不明となってしまった。
*Dunbar Rowland, ed., ''Jefferson Davis: Constitutionalist; His Letters, Papers, and Speeches'' (10 vols., 1923).
* ''The Papers of Jefferson Davis'' (1971- ), edited by Haskell M. Monroe, Jr., James T. McIntosh, and Lynda L. Crist; latest is vol. 12 (2008) to December 1870 published by [[:w:en:Louisiana State University Press|Louisiana State University Press]]
* Jefferson Davis. ''The Rise and Fall of the Confederate Government'' (1881; numerous reprints)


== 注釈 ==
=== 注釈 ===
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== 外部リンク ==
=== 外部リンク ===
* {{gutenberg author| id=Davis+Jefferson | name=Jefferson Davis}}
* {{gutenberg author| id=Davis+Jefferson | name=Jefferson Davis}}
* [http://jeffersondavis.rice.edu The Papers of Jefferson Davis at Rice University]
* [http://jeffersondavis.rice.edu The Papers of Jefferson Davis at Rice University]
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* [http://encyclopedia.jrank.org/DAH_DEM/DAVIS_JEFFERSON_18081889_.html Extensive Biography] from [[public domain]] 1911 Encyclopædia Britannica
* [http://encyclopedia.jrank.org/DAH_DEM/DAVIS_JEFFERSON_18081889_.html Extensive Biography] from [[public domain]] 1911 Encyclopædia Britannica
* [http://www.virginia.org/site/description.asp?AttrID=12802 Jefferson Davis' final resting place]
* [http://www.virginia.org/site/description.asp?AttrID=12802 Jefferson Davis' final resting place]
*[http://encyclopediavirginia.org/Davis_Jefferson_1808-1889 Jefferson Davis in ''Encyclopedia Virginia'']
*[http://www.archive.org/stream/inauguraladdress00conf#page/n1/mode/2up Inaugural address of President Davis (1861)]
*[http://encyclopediavirginia.org/Jefferson_Davis_s_Imprisonment Jefferson Davis's Imprisonment in ''Encyclopedia Virginia'']
*[http://jeffersondavis.rice.edu The Papers of Jefferson Davis at Rice University]
*[http://www.georgiaencyclopedia.org/nge/Article.jsp?id=h-640&sug=y Capture of Jefferson Davis]
*[http://www.virginia.org/site/description.asp?AttrID=12802 Jefferson Davis's final resting place]
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2011年6月1日 (水) 15:19時点における版

ジェファーソン・F・デイヴィス
Jefferson F. Davis
初代アメリカ連合国大統領
任期
1861年2月18日 – 1865年5月5日
副大統領アレクサンダー・スティーヴンズ
前任者初代就任
ハウエル・コブ (連合国臨時議会議長)
後任者政権崩壊
戦後統治の開始(レコンストラクション
第23代アメリカ合衆国陸軍長官
任期
1853年3月7日 – 1857年3月4日
大統領フランクリン・ピアース
前任者チャールズ・マギル・コンラッド
後任者ジョン・ブキャナン・フロイド
アメリカ合衆国議会
ミシシッピ州上院議員
任期
1847年8月10日 – 1851年9月23日
前任者ジェシー・スペイト
後任者ジョン・J・マクレー
任期
1857年3月4日 – 1861年1月21日[1]
前任者ステファン・アダムス
後任者ミシシッピ州連邦離脱
アメリカ合衆国議会
ミシシッピ州下院議員
任期
1845年3月4日 – 1846年6月
ステファン・アダムスロバート・W・ロベルトジェイコブ・トンプソンらと共同
前任者ウィリアム・H・ハメット
ロバート・W・ロベルト
ジェイコブ・トンプソン
ティルマン・M・タッカー
後任者ヘンリー・T・エレット
上院軍事委員会委員長
任期
1849年 – 1851年
前任者トマス・ベントン
後任者ジェイムズ・シールズ
任期
1857年 – 1861年
前任者ジョン・ウェラー
後任者ジェイムズ・ウィルソン
個人情報
生誕 (1808-06-03) 1808年6月3日
アメリカ合衆国
ケンタッキー州クリスチャン郡
死没 (1889-12-06) 1889年12月6日(81歳没)
アメリカ合衆国
ルイジアナ州ニューオーリンズ
政党民主党
南部民主党
配偶者サラ・ノックス・テイラー(前妻)
ヴァリナ・ハウエル(後妻)
出身校ウェストポイント陸軍士官学校
専業軍人・政治家
宗教キリスト教米国聖公会
署名Cursive signature in ink
兵役経験
所属国 アメリカ合衆国陸軍
最終階級義勇軍少将
戦闘ブラック・ホーク戦争
米墨戦争
南北戦争

ジェファーソン・フィニス・デイヴィス: Jefferson Finis Davis, 1808年6月3日 - 1889年12月6日)は、アメリカ合衆国及びアメリカ連合国軍人政治家。政治家や軍人として様々な経歴を重ねているが、歴史上においては主にアメリカ内戦(南北戦争)の際に分離独立したアメリカ連合国における、最初にして最後の連合国大統領として記憶されている。

ジェファーソン・デイヴィスは米国陸軍士官学校(ウェストポイント)の士官候補生として歴史上に現れ、一時的な退役期間を挟みつつ米墨戦争でミシシッピ州義勇軍を指揮し、戦後に政治家へ転身してフランクリン・ピアースの秘書となった。政界ではミシシッピ州選出の下院議員となり、更に上院議員へ転じて上院軍事委員会委員長を務めた。また政界における恩人であるピアースが合衆国大統領に就任すると、陸軍長官として入閣を果たした。

南部分離に関する政治対立が決定的になるとデイヴィスは南部出身者として、また南部諸州の一角を占めるミシシッピ州の代弁者として立場を決めねばならなかった。デイヴィス個人は内戦やその根源的な理由である奴隷制維持を支持しなかったが、分権論者として地方政府中央政府から離脱する事は連邦制における自治権の範囲であると結論した。1861年1月21日にデイヴィスはミシシッピ州の連邦離脱を支持する演説を行った後、自らも合衆国議会の議席を放棄すると宣言した。1861年2月18日、アメリカ連合国が組織されるとデイヴィスは連合国臨時議会により暫定大統領に選出され、同年の間に正規の初代大統領(任期6年)に就任した。

連合国大統領としてデイヴィスは開始された南北戦争における国家指導を担当したが、総論から言って連合国より遥かに豊かで、また政治的にも結束している合衆国に対抗する方策を見つける事ができなかった。外交面では欧州の有力国からは何の支持を得る事もできず、経済面でも独立によって混乱する南部経済の組織化に失敗し、急場を凌ぐ為に行われた紙幣乱造は南部独立通貨の価値を不安定化させた。統率面でも歴史学者ベル・I・ウィレーによれば、デイヴィスの性格や気質は国家指導者として不利に働いたと評されている[2]。デイヴィスはどんな細事でも自らの手で決済する事を望み、極端に委任を拒む彼の行動はしばしば各部門の責任者との衝突を生んだ。またお世辞にも柔和とは言い難く、むしろ神経質な人嫌いであったデイヴィスは民衆からの人気も今ひとつであり、本人も国民に好かれようと努力しなかった。気難しい性格は人事面にも悪影響を与え、自らの好悪感情より能力の有無を優先するという冷静な判断に欠けていた。

敗戦後の1865年5月10日、デイヴィスは戦犯として合衆国政府に拘束されて国家反逆罪に問われ、有罪にはならなかったものの公職就任の資格を剥奪された[3]。デイヴィスは先述の通り、民衆と距離を置いた指導者であった為、主に連合国国民の愛国心は南部連合軍総司令官ロバート・E・リーに集まる傾向が見られた。しかし戦後に開始された合衆国によるレコンストラクション(南部占領統治)への反対など、南部連合国に殉じ続けるデイヴィスの姿は旧連合国住民から強い尊敬を集め、唯一にして最後の「連合国大統領」はかつての国民から敬愛される存在となった。今日、デイヴィスは南部独立に生涯を費やした人物として、それを押し留めようとした北軍に立ち向かったロバート・リー元帥と並び、南部人から最も尊敬される偉人となっている[4]

前歴

生い立ち

1808年6月3日、ジェファーソン・フィニス・デイヴィスはサミュエル・エモリー・デイヴィス(1756年 - 1824年)と、その妻ジェーン・デイヴィスの末子としてケンタッキー州クリスチャン郡に生まれた。デイヴィス家はウェールス系移民の一族であり、祖父エヴァン・デイヴィスの代にアメリカへ移民し、父エモリー・デイヴィスは叔父と共に大陸会議派の義勇兵としてアメリカ独立戦争に加わった他、兄の何人かは米英戦争に参加している。一族はメリーランド州やフィラデルフィア州、バージニア州などを転々としていたが、ジェファーソン・デイヴィスが生まれた時には母方の実家のあるケンタッキー州へ移住していた。

生まれはケンタッキー州であるが、デイヴィスが幼少の間に一家は二度に亘って他州へ移り住んでいる。一度目は1811年のルイジアナ州セント・メアリーパリッシュへの移住で、二度目は1812年のミシシッピ州ウィルキンソン郡への移住であった。1813年、小さな農園の所有者となった一家はミシシッピ州に腰を落ち着け、デイヴィスもミシシッピ州民としての帰属心を抱く事となった。ウィルキンソン郡学校で初等教育を開始したデイヴィスは、2年後にドミニコ会のセントローズ修道院が運営する寄宿学校に入る為にけケンタッキー州へと戻った。因みに一家は米国聖公会に属していた為、カトリック系学校では珍しいプロテスタント系の生徒であった。ジェファーソン陸軍学校を経てトランシルバニア大学に進み、1824年に陸軍士官学校への入校推薦を受けた[5]。士官学校では中庸な成績を収め、1828年6月に33名中23位の席次で卒業した[6]

少尉任官後は第1歩兵連隊に配属され、ウィスコンシン州のクロフォード要塞に駐留した。最初の任務は1829年に砦の修理および拡張のためにレッド・リバー堤防の材木切断を監督することであった。同年にウィネベーゴ要塞に転属となるが、1831年にイエロー・リバーの製材工場の建設および監督の間に肺炎に罹患してクロフォード要塞に帰還した。1832年、ブラックホーク戦争が始まるとデイヴィスは直接戦場に従軍する機会は与えられなかったものの、上官であるザカリー・テーラー大佐の命令で捕縛されたブラックホークの護送役を務めた。

退役と政治活動

ブラックホーク戦争の縁が元で、テーラーの娘であるサラ・ノックス・テイラーと恋仲になったデイヴィスは結婚を申し込むが、テイラーは結婚に反対した。1835年6月17日、軍を除隊したデイヴィスはサラと駆け落ち同然に結婚して、妻の叔母に匿われて新婚生活を始めたが、結婚生活はサラがマラリアを患って早世した事で余りに早い終わりを迎えた。

妻の死後、デイヴィスは一転して無口で寡黙な性格に豹変して、塞ぎ込んだままにミシシッピ州のウォーレン郡で一軒家を買い取ると、そこで周囲との連絡を一切絶って世捨て人の様な生活を始めた。塞ぎ込んだデイヴィスは他者との交わりも避けて、読書や学問に没頭する隠遁者としての生活は実に8年間にも亘って続けられた。隠遁生活を続けるデイヴィスの拠り所は知識収集であったが、その中でも特に政治学と歴史学に強い熱意を注いでいた。何時しかデイヴィスは兄のジョセフらと政治討議に興じるようになり、社会活動への熱意を取り戻し始めた[7]1843年、デイヴィスは兄と同じ民主党に入党して政治活動を開始、退役軍人としてミシシッピ州の連邦下院選挙に出馬した。また政略結婚として有力政治家の孫娘であったヴァリナ・ハウエルと再婚、6人の子供を儲けた。

1843年、デイヴィスにとっての最初の選挙は落選であったが、1844年に再出馬した時には当選を勝ち取り、ミシシッピ州選出の下院議員として連邦議会に加わった。

米墨戦争

議員当選から2年後となる1846年、メキシコ政府との間に米墨戦争が勃発すると、再びデイヴィスは後方での政治活動よりも軍務への復帰で貢献したいと考え始めた。1846年6月、任期途中で議員を辞職してミシシッピ州の義勇軍(州軍)に志願したデイヴィスは、元士官としての経験を買われて義勇軍大佐に任命され、ミシシッピ・ライフル兵連隊の指揮官として前線に復帰した[8]。1846年7月21日、デイヴィスはミシシッピ義勇連隊と共にニューオリンズからテキサスへ海路を使って上陸した。連隊兵は当時としては新式であった雷管銃のM1841ミシシッピライフルを装備しており、デイヴィスは装備の利点を最大限に活用してメキシコ軍に効果的な打撃を与える事に成功した[8]

1846年9月、デイヴィス率いるミシシッピ義勇連隊はモンテレーの戦いに参加し[9]、1847年2月22日に両軍の決戦となったブエナ・ビスタの戦いでは少将となっていたザカリー・テーラーの指揮下に加わった。デイヴィスはブエナ・ビスタでメキシコ軍相手に勇猛な戦いぶりを見せ、自身も足を負傷しながらも兵を鼓舞して、メキシコ軍に決定的な打撃を与える事に貢献した。戦いを指揮していたテイラーは「娘は私よりも勇敢な男を見る目があった」と賞賛した伝えられている"[5]。ジェームズ・ポーク大統領はブエナ・ビスタの戦いでの戦勝を高く評価して[10]、大統領令によってディヴィスを義勇軍准将に昇格する事を考えた。しかし合衆国憲法は義勇軍の人事権は連邦政府ではなく各州政府にあると定めており、ディヴィスは各州の自治権を侵害しかねない人事案を拒否している[10]

キューバの合衆国合流を目指していた政治家ナルシソ・ロペスはロバート・E・リーにキューバ独立軍の軍事顧問に就任するよう打診した事で知られているが、デイヴィスにも同様の働きかけが行われている。しかし両名共に職務との兼ね合いから、独立軍への参加は難しいと返答している[11]

政界復帰

デイヴィスは、上院軍事委員会の委員長に就任した。彼は上院議員に再選されたが、1年もたたない1851年9月にミシシッピ州知事選挙に出馬するため議員を辞職した。しかし、知事選挙には999票差で敗れた。彼はポストを失った後も政治活動を続け、1852年の大統領選挙では民主党の候補であるフランクリン・ピアースのために、南部諸州で選挙活動を行った。ピアースは大統領に当選すると、デイヴィスを陸軍長官に任命した。1857年の大統領選挙ではピアースに代わりジェームズ・ブキャナンが民主党の大統領候補となり当選したが、デイヴィスは内閣には留まらず、上院議員選に立候補して当選した。1858年から1859年にかけてデイヴィスは健康を害し、北東部で静養していたが、その間に何度か議会外で、南部の分離運動に反対する演説を行っている。

1860年には、(反奴隷制派政権の誕生への奴隷制維持派の危機感の高まりから)南部での分離運動はさらに強くなり、現実に共和党(反奴隷制派)の候補であったエイブラハム・リンカーンが大統領に当選すると、サウスカロライナ州は連邦からの分離を宣言した。デイヴィスは、南部諸州が分離することが必要とは考えなかったが、憲法上の理由から各州が連邦から分離する権利を認めたようである。1861年1月、デイヴィスは連邦上院において、ミシシッピ州代表として連邦からの分離を宣言し、決別演説を行って議員を辞職した。

アメリカ連合国大統領

暫定政権の組織

辞任の4日後、デイヴィスは南軍の義勇軍少将としてミシシッピ州軍の指揮官に任命され、これが連合国政府との最初の明確な関わりとなった[5]。1861年2月9日、アラバマ州のモンゴメリーで暫定的に設置された「連合国憲法制定会議」(実質的なアメリカ連合国の準備政府)は、ジェファーソン・デイヴィスをアメリカ連合国の暫定大統領に指名すると発表した。デイヴィス個人は南部分離と内戦に強く反対する立場であったが、各州の自治権を認める分権論者としてミシシッピ州全体の決定に従い、連邦議会で同州の連邦離脱を宣言する役目を担ったという経緯があった。故に分離政府の元首に指名された事に対しても、暫く回答を留保するなど慎重な姿勢を見せたが、最終的に1861年2月18日に要請を受託して連合国暫定大統領へ就任した。

暫定大統領就任後、デイヴィスは連合国と合衆国との協議の場を設けるべく、議会の許可を得て外交使節団を創立した。1861年3月、外交使節団はサムター要塞の戦いの前にワシントンD.C.に向かう手筈になっており、予定では南部諸州における連邦政府の直轄資産を全て接収ではなく国費を投じて合法的に購入したいと申し出るなど、可能な限り連邦政府からの平和的離脱を目指す事になっていた。しかし逆に言えば外交使節団は南部側の交渉条件として「再統合」を出す事を禁じられていた訳であり、連邦政府内の自治権拡大で決着を望んでいた合衆国政府との議論は期待できなかった。

またデイヴィス自身も融和政策の一方でP・G・T・ボーリガード大将を南軍総司令官に指名し、密かに開戦に向けた準備を始めさせていた。ボーレガード大将はサウスカロライナ州のチャールストンに軍を集結させると、南部側の国境要塞で唯一南軍への合流を拒否していたサムター要塞の武力接収を政府に提案した。デイヴィスは連合国暫定大統領として、サムター要塞攻撃を許可する政府の閣議決定を承認している。1861年4月12日、サムター要塞に対して南軍が砲撃を開始、実質的に両国は内戦状態に突入した(南北戦争)。

開戦から程なく中立を維持していたバージニア州がアメリカ連合国に合流すると、デイヴィスは連合国の首都をモンゴメリーからより北方となるバージニア州リッチモンドに遷都した。建設されていたバージニア州議会議事堂が連合国政府の新しい連合国議会議事堂として使用され、デイヴィスが執務室を構えた議事堂から2ブロック北の古典主義式の邸宅は連合国政府のホワイトハウスと呼ばれた。1861年11月6日、連合国議会はデイヴィスを任期6年の初代大統領に選出、1862年2月22日に大統領就任式が行われた。これにより正式にアメリカ連合国が発足し、デイヴィスも名実共に新国家の初代元首となった。

ジェファーソン・デイヴィスを暫定大統領へ選出した際の連合国臨時議会前(1861年2月18日、モンゴメリー)

国家指導

1862年6月、戦争が激化する中で主要戦線の一つである北バージニア戦線の総司令官ジョセフ・E・ジョンストン大将が負傷する事態が発生した時、恐らく人事面で最も成功した決断となるロバート・E・リー大将を北バージニア軍に抜擢する決断を下した。それまで大きな役割を与えられていなかったリー将軍は北軍に対して大きな軍事的功績を上げ、戦局を大きく覆す勝利を得た。気難しく周囲の閣僚や高官達を信任しなかったデイヴィスはしばしば独断で戦争政策を取り決めたが、リー将軍の提案に関しては信頼を寄せ、これを容認する事が多かった。

1862年12月、デイヴィスは自ら西部戦線の前線を視察して、兵の閲兵を行うなど前線の士気を鼓舞する為に労を払った。彼は連合国が国家資源や国力の面でそもそも合衆国に大きく差を付けられている事を理解しており、連合国が合衆国から対外的な独立を維持するには危険な攻勢には転じず、徹底して戦略的防御に徹し続ける事が唯一の方策であると結論していた。デイヴィスのこうした持久主義は連合国軍の基本路線となり、特に輸送路の要である首都リッチモンドの防衛には全力を注がねばならないと考えていた。しかし南軍が優勢に転じて合衆国政府に動揺が広がるのを目の当たりにすると、次第にデイヴィスも首都ワシントンの占領による講和という短期決戦論に傾き始め、軍による攻勢計画を承認する決断を下した。そして攻勢計画は戦力に勝る北軍の前に頓挫して、アンティータムの戦いとゲティスバーグの戦いで破局を迎える結果となった[12]。1863年8月、リー将軍は二度に亘る攻勢作戦の失敗から退任を自ら申し出たが、デイヴィスはリーを慰留する事に努めた。

連合国大統領就任時のジェファーソン・デイヴィス(1861年)

歴史学者達の幾人かは、デイヴィスが人事面で実力の有無より自身が信頼するか否かで決断を下した事と、戦時下での経済拡充を最初から放棄していた事を適切な国家指導ではなかったと指摘している[13][14]。戦争後期までデイヴィスは連合国大統領が軍の最高指揮官を兼ねる事を必要視し、効率面から連合軍最高司令官職を創設すべきとする意見を却下し続けた。1865年1月31日になって漸くデイヴィスは信任するリー将軍を連合軍最高司令官に任命したが、余りにも遅すぎる決断であった。またデイヴィスは持久戦に備えて、或いは郷土防衛の色合いが強い南軍が結束を失わないように、南部連合国の領土を出来る限り失わない配慮をしたが、これはデイヴィス自身が理解していた連合国の乏しい資源を更に分散させる事と同義であった。更に当初の持久路線を支持する論者からは最終的にリー将軍に説き伏せられる形で攻勢計画に転じ、軍の短期決戦論を抑えれなかったと批判される傾向にある[15]

恣意的な人事については米墨戦争以来の盟友であるブラクストン・ブラッグ将軍を、重要な会戦で失策を犯して司令官たちの信頼を失っているにも関わらず交代させることを却下している。逆に実績があるものの反りが合わなかったジョセフ・ジョンストン将軍を更迭してジョン・ベル・フッド将軍をテネシー軍司令官に任命している。後にフッドはアトランタ失陥とテネシー軍の壊滅という失態を犯し、後に再任されたジョンストン将軍は「ウィリアム・シャーマン将軍率いる北軍を撃破せよ」との命令に対し、打撃を受けた自軍では「シャーマンを悩ます程度の事しかできない」と返答している[16]

内政面ではデイヴィスは自らも退役将官という事もあり兵士や士官への閲兵や激励に労を厭わない一方、国民に向けて熱心な演説を行う事は余りなかった。戦争を通じて高まりつつあった連合国国民としての一体感や国家主義的な雰囲気を、デイヴィスは有効に活用する事をしなかった[17]。デイヴィスは民衆を奮い立たせる様な演説を得意とせず、代わりに運命に従って死に向かうように諭す事が多かった[18]。デイヴィスは二度に亘る前線への閲兵を除けば派手な示威行為を殆ど行わず、リッチモンドでの実務に情熱を傾けていた。新聞などの報道機関はまだ未発達で、地方では十分に首都における大統領の動向を広める事ができず、戦局が悪化するにつれて大統領への不信感を根付かせることになった[19]。また国内の戦時経済は日に日に悪化していき、1863年4月には首都で大規模な食糧暴動が発生している[20]。デイヴィスの気難しさは最も近い立場である筈の副大統領アレクサンダー・スティーヴンズとの口論まで生み出した。独立心の旺盛さから南部連合に加わった各州の政治家達との協議も、柔和さに欠けるデイヴィスとの論争で暗礁に乗り上げることが多かった[21]

連合国崩壊

アメリカ南部連合政府の支配圏

1865年4月3日、首都リッチモンドの防衛が不可能となるまでに衰退した南軍は遂に首都防衛を諦めて撤退を開始し、デイヴィスも閣僚陣と共に列車でリッチモンド南方のダンヴィル市に政府機能を移動させた。彼はダンヴィルで連合国大統領として最後となった公文書を執筆すると、北軍の追撃を逃れる為にバージニア州から離れてより遠方のノースカロライナ州に向かい同州のグリーンズボロに到達した所で、リー将軍から合衆国軍の総司令官グラント元帥へ全軍降伏を行うとする報告書を受け取った。

連合国軍総司令官の地位にあったリー将軍による降伏が宣言されて尚、連合国国民の多くは抗戦意思を残していた。ルイジアナ州シュリーブポートで開かれた民衆集会ではデイヴィス政権は北軍への抵抗を続けるべきであり、連合国国民はそれを支持するべきとの声が次々と上がった。実際に政府内ではデイヴィスら閣僚陣をキューバに移動させてそこにアメリカ連合国亡命政府を樹立し、北部の占領統治に対する民衆の抵抗を指導する計画があったと言われている[22]。事実はともかく、デイヴィスは閣僚と共に各州の支持者から支援を受け、自らの支持基盤でもあるミシシッピ州へと向かっていたと思われる。

しかし1865年5月5日、ジョージア州で北軍による追跡の手が迫り、もはやこれ以上の逃避行は無意味になりつつあった。支持者から提供されていた邸宅でデイヴィスは閣僚達を集め、最後の「閣議」を開いて連合国政府の解散を宣言し、その5日後の1865年5月10日にジョージア州アーウィンヴィルで郵政長官ジョン・レーガン、前テキサス州知事フランシス・ラボックと共に拘束された[23]。このとき妻が所有していたオーバーコートを寒さを凌ぐ為に肩にかけて歩いていたが、以前から北部政府による南部批判の一環としてデイヴィスへの中傷が行われており、この一件も北部の新聞では「女装してまで逃げようとした」と歪曲される中傷を受けた[24]

内閣

デイヴィス内閣
職名 氏名 任期
連合国大統領 ジェファーソン・デイヴィス 1861–1865
連合国副大統領 アレクサンダー・スティーヴンズ 1861–1865
国務長官 ロバート・トゥームズ 1861
ロバート・ハンター 1861–1862
ジュダ・ベンジャミン 1862–1865
財務長官 クリストファー・メミンジャー 1861–1864
ジョージ・トレンホルム 1864–1865
ジョン・レーガン 1865
陸軍長官 リロイ・ポウプ・ウォーカー 1861
ジュダ・ベンジャミン 1861–1862
ジョージ・ランドルフ 1862
グスタヴス・スミス 1862(代行)
ジェイムズ・セードン 1862–1865
ジョン・ブレッキンリッジ 1865
海軍長官 スティーヴン・マロリー 1861–1865
郵政長官 ジョン・レーガン 1861–1865
司法長官 ジュダ・ベンジャミン 1861
トマス・ブラッグ 1861–1862
トマス・ワッツ 1862–1863
ジョージ・デイヴィス 1864–1865
大統領官邸
連合国議会議事堂

戦後

晩年のデイヴィス
ヴァージア州に建設されたジェファーソン記念堂

1865年5月19日にデイヴィスはバージニア海岸にあるフォート・モンローに収監され、それから2年間にわたって国家反逆罪の審議が終了するまで拘束された。最初の3日の間は鉄の重りが足に結び付けられていたが直に外され、警備兵付きながらも比較的に自由な生活を許された。拘束から1年後には国家反逆罪での起訴が決まり、デイヴィスは既に解放された身となっていたが、依然としてデイヴィスに従っていた元奴隷の使用人の手を借りてミシシッピ州の不動産などを全て処分させた。翌年、連合国大統領の保釈を求める運動が起き、ホレス・グリーリーコーネリアス・ヴァンダービルトガーリット・スミスを含む北部・南部州の著名な国民によって支払われた10万ドルの保釈金により、デイヴィスは要塞から開放された。

保釈中、デイヴィスはカナダやキューバなどの近隣地域を訪問した後、在職中には叶わなかった欧州諸国への歴訪を行った。1869年2月、合衆国議会でデイヴィスへの起訴を取り下げるべきとする動議が出され、議案自体は否決されたもののデイヴィスへの国家反逆罪に関する起訴は実際に取り下げられた。自由の身となったデイヴィスは旧連合国支持者のネットワークから、テネシー州メンフィスに本社を置くノースカロライナ保険会社の顧問に招致された。更にテキサス工科大学からは学長に打診されたが、これは辞退している。1876年、デイヴィスは対南米貿易奨励協会を発足させ、南米貿易の拡充を主張する形で部分的に政治活動を再開した。

その後もデイヴィスは欧州と南部を往復しながら政治活動を続け、連合国時代の回想録となる『The Rise and Fall of the Confederate Government』(アメリカ連合国の興亡)を執筆するなど、連合国の大義を訴え続けた。失われた連合政府の大義に殉じる彼の姿は南部の民衆に深い敬意を抱かせ、また敗戦の痛手が残る南部諸州を幾度に亘って歴訪する事で戦時中にはなかった民衆との結束が深まっていった。南部人の間に所謂「失われた大義」論が形成されていく中、デイヴィスは高潔で理想主義的な人柄と南部諸州の自治の為に生涯を費やした姿から、連合国国民にとって誇るべき指導者であったと見なされた。南部諸州を歴訪する旅で彼は各州の旧連合国を偲ぶ集会に招致され、民衆から暖かい賞賛と労いの言葉で迎えられた。

1889年10月、デイヴィスは南部連合国に関する記録である「南部連合の物語」を書き終えた2ヵ月後、ニューオリンズで81年の生涯を閉じた[25]。彼の葬儀は南部出身の偉人達の中でも特に大規模であり、ニューオリンズからかつての連合国の首都であったリッチモンドに至るまで各地で葬列に人々が加わり、大勢の参列者が彼の死を悼み弔った[26]。デイヴィスの遺骸はニューオリンズにある北バージニア軍の戦没者墓地に埋葬されたが、1893年に夫人の要望でバージニア州リッチモンドのハリウッド墓地に改葬された[27]

関連項目

資料

二次資料

  • Allen, Felicity. Jefferson Davis: Unconquerable Heart (1999) online edition
  • Ballard, Michael. Long Shadow: Jefferson Davis and the Final Days of the Confederacy (1986) online edition
  • Cooper, William J. Jefferson Davis, American (2000), 848pp; a standard biography
  • Cooper, William J. Jefferson Davis and the Civil War Era (2008) excerpt and text search; 128 pages; 9 short essays
  • Current, Richard, ed. The Confederacy (1998), useful 1-vol encyclopedia short version of Current, ed. Encyclopaedia of the Confederacy (4 vol. 1994)
  • Davis, William C. Jefferson Davis: The Man and His Hour (1991) a standard biography excerpt and text search
  • Dawson, Joseph G. III. "Jefferson Davis and the Confederacy’s ‘Offensive-Defensive’ Strategy in the U.S. Civil War," Journal of Military History, 73 (April 2009), 591–607.
  • Dodd, William E. Jefferson Davis (1907), 396pp; outdated scholarly biography online edition
  • Eaton, Clement. Jefferson Davis (1977), a standard biography
  • Escott, Paul. After Secession: Jefferson Davis and the Failure of Confederate Nationalism (1978).
  • Hattaway, Herman, and Richard E. Beringer. Jefferson Davis, Confederate President. (2001), scholarly study of war years
  • Neely Jr., Mark E. Confederate Bastille: Jefferson Davis and Civil Liberties (1993) online edition
  • Rable; George C. The Confederate Republic: A Revolution against Politics. (1994). online edition
  • Stoker, Donald, “There Was No Offensive-Defensive Confederate Strategy,” Journal of Military History, 73 (April 2009), 571–90.
  • Strode, Hudson. Jefferson Davis (3 vols., 1955–1964), old popular biography
  • Swanson, James L. Bloody Crimes: The Chase for Jefferson Davis and the Death Pageant for Lincoln's Corpse. New York: HarperCollins, 2010.
  • Thomas, Emory M. The Confederate Nation, 1861-1865 (1979), scholarly history of CSA

重要資料

  • Davis, Jefferson. Jefferson Davis: The Essential Writings, ed. by William J. Cooper, Jr. (2003), 496pp
  • Dunbar Rowland, ed., Jefferson Davis: Constitutionalist; His Letters, Papers, and Speeches (10 vols., 1923).
  • The Papers of Jefferson Davis (1971- ), edited by Haskell M. Monroe, Jr., James T. McIntosh, and Lynda L. Crist; latest is vol. 12 (2008) to December 1870 published by Louisiana State University Press
  • Jefferson Davis. The Rise and Fall of the Confederate Government (1881; numerous reprints)

注釈

  1. ^ Shelby Foote (1986): The Civil War: A Narrative, Fort Sumter to Perryville, p. 3. Retrieved 2009-08-04
  2. ^ Bell I. Wiley, "Jefferson Davis: An Appraisal," Civil War Times Illustrated, January 1967, Vol. 6 Issue 1, pp 4-17
  3. ^ This limitation was removed by Congress in 1978.
  4. ^ Wilm K. Strawbridge, "'A Monument Better Than Marble': Jefferson Davis and the New South," Journal of Mississippi History, December 2007, Vol. 69 Issue 4, pp 325-347
  5. ^ a b c Hamilton, Holman (1978). “Jefferson Davis Before His Presidency”. The Three Kentucky Presidents. Lexington, Kentucky: University Press of Kentucky. ISBN 0813102464 
  6. ^ U.S. Military Academy, Register of Officers and Graduates of the U.S. Military Academy from March 16, 1802 to January 1, 1850. Compiled by Capt. George W. Cullum. West Point, N.Y.: 1850, p. 148.
  7. ^ Hamilton, Holman (1978). "Jefferson Davis Before His Presidency". The Three Kentucky Presidents. Lexington, Kentucky: University Press of Kentucky. ISBN 0813102464.
  8. ^ a b http://www.tin-soldier.com/mexwar.htm#rifles
  9. ^ [1]
  10. ^ a b http://www.jeffersondavis.net/
  11. ^ p. 121 Thomson, Janice E. Mercenaries, Pirates and Sovereigns 1996 Princeton University Press
  12. ^ Joseph G. Dawson III, "Jefferson Davis and the Confederacy's 'Offensive-Defensive' Strategy in the U.S. Civil War," Journal of Military History, April 2009, Vol. 73#2, pp 591-607
  13. ^ Richard E. Beringer, Herman Hattaway, Archer Jones, and William N. Still, Jr. Why the South Lost the Civil War (1986)
  14. ^ Steven E. Woodworth, Jefferson Davis and His Generals: The Failure of Confederate Command in the West (1990)
  15. ^ Steven E. Woodworth, "'Dismembering the Confederacy': Jefferson Davis and the Trans-Mississippi West," Military History of the Southwest, 1990, Vol. 20 Issue 1, pp 1-22
  16. ^ Hattaway and Beringer, Jefferson Davis, Confederate President (2002)
  17. ^ Paul D. Escott, After Secession: Jefferson Davis and the Failure of Confederate Nationalism (1978)
  18. ^ Cooper, Jefferson Davis (2000) p. 475, 496
  19. ^ J. Cutler Andrews, "The Confederate Press and Public Morale," Journal of Southern History 32 (1966)
  20. ^ Cooper (2000) pp. 447, 480, 496
  21. ^ Cooper (2000) p. 511
  22. ^ John D. Winters, The Civil War in Louisiana, Baton Rouge, Louisiana: Louisiana State University Press, 1963, ISBN 0-8071-0834-0, p. 419
  23. ^ Jefferson Davis Was Captured”. USA.gov (2007年). 2010年2月4日閲覧。
  24. ^ [2]
  25. ^ Eulogy of Robert E. Lee By Charles E. Fenner. Washington & Lee University
  26. ^ Donald E. Collins, The Death and Resurrection of Jefferson Davis (2005)
  27. ^ [3]

外部リンク

アメリカ合衆国下院
先代
ウィリアム・H・ハメット
ロバート・W・ロバーツ
ジェイコブ・トンプソン
ティルマン・M・タッカー
ミシシッピ州選出下院議員
[[ミシシッピ州at-large district

1845年3月4日 – 1846年6月
同職:ステファン・アダムス, ロバート・W・ロバーツ, ジェイコブ・トンプソン
次代
ヘンリー・T・エレット
アメリカ合衆国上院
先代
ジェシー・スペイト
アメリカ合衆国の旗 ミシシッピ州選出上院議員(第1部)
1847年8月10日 – 1851年9月23日
同職:ヘンリー・S・フート
次代
ジョン・J・マクレー
先代
ステファン・アダムス
アメリカ合衆国の旗 ミシシッピ州選出上院議員(第1部)
1857年3月4日 – 1861年1月21日
同職:アルバート・G・ブラウン
次代
アデルバート・エイムズ(1)
公職
先代
チャールズ・マギル・コンラッド
アメリカ合衆国陸軍長官
Served under: フランクリン・ピアース

1853年3月7日 – 1857年3月4日
次代
ジョン・ブキャナン・フロイド
先代
建国
アメリカ連合国大統領
1861年2月18日 – 1865年5月5日
次代
国家消滅
注釈
1. ミシシッピ州の脱退により、上院の議席はデイヴィスの後エイムズが就任するまで9年間空席となった。