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[[延長 (元号)|延長]]5年([[西暦]][[927年]])に成立した[[延喜式神名帳]]で一座とされるが、近世には、[[スサノヲ|須佐之男命]]を祀る男体社、[[クシナダヒメ|奇稲田姫命]]を祀る女体社、[[オオクニヌシ|大己貴命]]を祀る簸王子社の三社に別れ、それぞれ岩井家・内倉家(後に断絶し、角井家が継承して西角井家を称する)・角井家(後に東角井家を称する)が神主を世襲していた([[社家]])。三社の祭神や順位を巡る論争もあったが、[[江戸時代]]の[[元禄]]12年([[1699年]])三社・三社家を同格とする裁定があった。 |
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埼玉県周辺の広域から参拝者を集め、正月三が日の初詣の参拝者数([[警察]]調べ)は全国10位以内に数えられる。特に全国的に初詣客が増加した[[2008年]]([[平成]]20年) |
埼玉県周辺の広域から参拝者を集め、正月三が日の初詣の参拝者数([[警察]]調べ)は全国10位以内に数えられる。特に全国的に初詣客が増加した[[2008年]]([[平成]]20年)以降は連年200万人以上が訪れている。 |
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==歴史== |
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社伝によれば、[[孝昭天皇]]3年([[紀元前473年]])4月に創建されたというが、[[倭奴国王印]]が[[1世紀]]中頃のことであり、[[卑弥呼]]が[[3世紀]]前半の人物であり、[[倭の五王]]が[[5世紀]]の人物たちである、ということを考えると、氷川神社の創建が紀元前5世紀であるとは考え難いという意見もある。 |
社伝によれば、[[孝昭天皇]]3年([[紀元前473年]])4月に創建されたというが、[[倭奴国王印]]が[[1世紀]]中頃のことであり、[[卑弥呼]]が[[3世紀]]前半の人物であり、[[倭の五王]]が[[5世紀]]の人物たちである、ということを考えると、氷川神社の創建が紀元前5世紀であるとは考え難いという意見もある。「[[国造本紀]]」によれば、[[景行天皇]]の代に[[出雲国|出雲]]の氏族が須佐之男命を奉じてこの地に移住したと伝える。 |
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本社には、 |
本社には、景行天皇の皇子・[[ヤマトタケル|日本武尊]]が東征の際に負傷し、夢枕に現れた老人の教えに従って当社へ詣でたところ、立てるようになったという伝説が残されており、このことから本地域を[[足立郡|足立]]と称するようになったとされる。 |
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[[成務天皇]]の時代に |
[[成務天皇]]の時代に出雲の兄多毛比命(えたもひのみこと)が武蔵[[国造]]となり、当社を崇敬した。この一帯は出雲族が開拓した地であり、武蔵国造は[[出雲国造]]と同族とされる。社名の「氷川」も出雲の「[[簸川郡|簸川]]」(現在の[[斐伊川]])に由来するという説がある。 |
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[[治承]]4年([[1180年]]) |
[[平安時代]]後期には、[[関東地方]]を実質的に支配していた[[武士]]に幅広く信仰され、[[荒川 (関東)|荒川]]流域に数多くの分社が建てられ、武蔵国中に広がった。[[治承]]4年([[1180年]])には[[源頼朝]]が[[土肥実平]]に命じ社殿を再建して社領3000貫を寄進、[[建久]]8年([[1197年]])には神馬神剣を奉納している。 |
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江戸時代には[[江戸幕府|幕府]]より社地三百石が寄進されていた。江戸初期の[[中山道]]は[[大宮宿]]の南で参道を使用していたが、この地を治めていた関東郡司[[伊奈忠治]]が、参道を街道とすることは恐れ多いとして、[[寛永]]5年([[1628年]])に西側に街道を付け替え、参道沿いの宿や家およそ40軒を新設街道沿いに移転させ、これが現在に至る大宮の町となった。 |
江戸時代には[[江戸幕府|幕府]]より社地三百石が寄進されていた。江戸初期の[[中山道]]は[[大宮宿]]の南で参道を使用していたが、この地を治めていた関東郡司[[伊奈忠治]]が、参道を街道とすることは恐れ多いとして、[[寛永]]5年([[1628年]])に西側に街道を付け替え、参道沿いの宿や家およそ40軒を新設街道沿いに移転させ、これが現在に至る大宮の町となった。 |
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東京奠都の際 |
[[明治]]元年([[1868年]])10月、東京奠都の際に[[明治天皇]]は東京入都から4日目には当社を武蔵国総鎮守・[[勅祭社]]と定め、10日目には大宮に行幸し、[[10月28日]]に関東の神社の中で最初に親祭を行った <ref>「氷川神社ヲ武蔵国ノ鎮守ト為スノ詔」が出された。[http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?IS_STYLE=default&REFCODE=A04017123000 国立公文書館(28葉目)]</ref>。以来、例祭には勅使の参向があり、宮内庁楽師による歌舞が奉納される。明治天皇は[[1870年]](明治3年)にも再度参拝し、[[昭和天皇]]も皇太子時代の[[1917年]]([[大正]]6年)[[11月12日]]、天皇となった[[1934年]]([[昭和]]9年)11月に、それぞれ軍事演習視察の帰途に参拝した。 |
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明治初頭の寺院整理神社統合により、供僧観音寺は本地仏とともに北足立郡下加村の満福寺(日進町)へ退転した。また、神域である社有林が開かれて、埼玉県で最初の近代公園「[[大宮公園]]」として整備された。 |
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[[1882年]](明治15年)に社殿を改造し、簸王子社と女体社を廃して男体社に三神を祀るようになり、さらに[[1940年]]([[昭和]]15年)に国費で社殿・楼門等を改築し、現在の姿になった。また、[[1929年]](昭和4年)9月には埼玉縣招魂社が境内に建立され、県内の戦死者2000余柱が祀られた。招魂社は[[1939年]](昭和14年)3月に分離して埼玉県[[護国神社]]となり、同4月には国指定護国神社となった。 |
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[[1966年]](昭和41年)[[7月22日]]に[[明治神宮]]の大鳥居(第二鳥居(木造鳥居では国内最大))が落雷によって破損したため、新たな鳥居が[[1975年]](昭和50年)に竣功。落雷した鳥居は移設され、[[1976年]](昭和51年)[[4月5日]]に氷川神社に竣功された。これが現在、市立図書館前にある二ノ鳥居である。このとき、もともとの二ノ鳥居は「裏参道」側に移設されている。 |
[[1966年]](昭和41年)[[7月22日]]に[[明治神宮]]の大鳥居(第二鳥居(木造鳥居では国内最大))が落雷によって破損したため、新たな鳥居が[[1975年]](昭和50年)に竣功。落雷した鳥居は移設され、[[1976年]](昭和51年)[[4月5日]]に氷川神社に竣功された。これが現在、市立図書館前にある二ノ鳥居である。このとき、もともとの二ノ鳥居は「裏参道」側に移設されている。 |
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*[[末社]] [[稲荷神社]] [[倉稲魂命]] |
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== 主な恒例祭儀 == |
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*[[大宮暦]] |
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*[[氷川神社 (曖昧さ回避)]] 各地の氷川神社の一覧 |
*[[氷川神社 (曖昧さ回避)]] 各地の氷川神社の一覧 |
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*[[氷川信仰]] |
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*[[氷川丸]] |
*[[氷川丸]] |
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2010年1月10日 (日) 09:01時点における版
氷川神社 | |
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拝殿 | |
所在地 | 埼玉県さいたま市大宮区高鼻町一丁目407番地 |
位置 | 北緯35度55分00秒 東経139度37分46秒 / 北緯35.91667度 東経139.62944度 |
主祭神 |
須佐之男命 奇稲田姫命 大己貴命 |
社格等 | 式内社(名神大)・武蔵国一宮・官幣大社・勅祭社・別表神社 |
創建 |
孝昭天皇3年 (紀元前473年) |
本殿の様式 | 流造 |
例祭 | 8月1日 |
氷川神社(ひかわじんじゃ)は、埼玉県さいたま市大宮区高鼻町一丁目にある神社である。足立郡を中心に武蔵国(東京都・埼玉県)各地にある氷川神社の総本社である。式内社(名神大)、武蔵国一宮、勅祭社で、旧社格は官幣大社。大宮の地名は氷川神社を「大いなる宮居」すなわち「大宮」と称えたことに由来する。主祭神は須佐之男命・奇稲田姫命・大己貴命。他の氷川神社と区別するために「大宮氷川神社」とも呼ばれる。
武州六大明神[1]の一つとされる[2]。特に明治以後は国都が武蔵国に設置された事から、四方拝などの宮中祭祀の対象に加えられるなど、皇室からも重んじられた。
概要
一般に武蔵国の一宮は当社とされているが、大國魂神社(六所宮)の祭神や南北朝時代の『神道集』の記述では、多摩市の小野神社を一宮、あきる野市の二宮神社(旧称小河大明神)を二宮、氷川神社を三宮としており、今のところ中世まで氷川神社を一宮とする資料は見つかっていないとされる。室町時代に成立した『大日本国一宮記』では氷川神社が一宮とされており、室町時代以降、当社が小野神社に替わって一宮の地位を確立したのではないかと考えられている。
氷川神社の位置は、かつての見沼の畔であり、氷川神社の神池は見沼の名残で、もともと氷川神社は見沼の水神を祀ったことから始まったと考えられている。また、霊峰富士山と筑波山を結んだ線と、浅間山と冬至の日の出を結んだ線の交差地点にあり、大宮の氷川神社、中川の中氷川神社(現・中山神社)、三室の氷川女体神社が、浅間山と冬至の日の出の線上に一直線に並ぶ。この三社が男体社・女体社・簸王子社として一体の氷川神社を形成していたという説がある。なお、この三氷川とかつて大宮の氷川神社境内にあった三社(男体社・女体社・簸王子社)をよく混同しているが、別のものである。
延長5年(西暦927年)に成立した延喜式神名帳で一座とされるが、近世には、須佐之男命を祀る男体社、奇稲田姫命を祀る女体社、大己貴命を祀る簸王子社の三社に別れ、それぞれ岩井家・内倉家(後に断絶し、角井家が継承して西角井家を称する)・角井家(後に東角井家を称する)が神主を世襲していた(社家)。三社の祭神や順位を巡る論争もあったが、江戸時代の元禄12年(1699年)三社・三社家を同格とする裁定があった。
埼玉県周辺の広域から参拝者を集め、正月三が日の初詣の参拝者数(警察調べ)は全国10位以内に数えられる。特に全国的に初詣客が増加した2008年(平成20年)以降は連年200万人以上が訪れている。
歴史
社伝によれば、孝昭天皇3年(紀元前473年)4月に創建されたというが、倭奴国王印が1世紀中頃のことであり、卑弥呼が3世紀前半の人物であり、倭の五王が5世紀の人物たちである、ということを考えると、氷川神社の創建が紀元前5世紀であるとは考え難いという意見もある。「国造本紀」によれば、景行天皇の代に出雲の氏族が須佐之男命を奉じてこの地に移住したと伝える。
本社には、景行天皇の皇子・日本武尊が東征の際に負傷し、夢枕に現れた老人の教えに従って当社へ詣でたところ、立てるようになったという伝説が残されており、このことから本地域を足立と称するようになったとされる。
成務天皇の時代に出雲の兄多毛比命(えたもひのみこと)が武蔵国造となり、当社を崇敬した。この一帯は出雲族が開拓した地であり、武蔵国造は出雲国造と同族とされる。社名の「氷川」も出雲の「簸川」(現在の斐伊川)に由来するという説がある。
平安時代後期には、関東地方を実質的に支配していた武士に幅広く信仰され、荒川流域に数多くの分社が建てられ、武蔵国中に広がった。治承4年(1180年)には源頼朝が土肥実平に命じ社殿を再建して社領3000貫を寄進、建久8年(1197年)には神馬神剣を奉納している。
江戸時代には幕府より社地三百石が寄進されていた。江戸初期の中山道は大宮宿の南で参道を使用していたが、この地を治めていた関東郡司伊奈忠治が、参道を街道とすることは恐れ多いとして、寛永5年(1628年)に西側に街道を付け替え、参道沿いの宿や家およそ40軒を新設街道沿いに移転させ、これが現在に至る大宮の町となった。
明治元年(1868年)10月、東京奠都の際に明治天皇は東京入都から4日目には当社を武蔵国総鎮守・勅祭社と定め、10日目には大宮に行幸し、10月28日に関東の神社の中で最初に親祭を行った [3]。以来、例祭には勅使の参向があり、宮内庁楽師による歌舞が奉納される。明治天皇は1870年(明治3年)にも再度参拝し、昭和天皇も皇太子時代の1917年(大正6年)11月12日、天皇となった1934年(昭和9年)11月に、それぞれ軍事演習視察の帰途に参拝した。
明治初頭の寺院整理神社統合により、供僧観音寺は本地仏とともに北足立郡下加村の満福寺(日進町)へ退転した。また、神域である社有林が開かれて、埼玉県で最初の近代公園「大宮公園」として整備された。
1882年(明治15年)に社殿を改造し、簸王子社と女体社を廃して男体社に三神を祀るようになり、さらに1940年(昭和15年)に国費で社殿・楼門等を改築し、現在の姿になった。また、1929年(昭和4年)9月には埼玉縣招魂社が境内に建立され、県内の戦死者2000余柱が祀られた。招魂社は1939年(昭和14年)3月に分離して埼玉県護国神社となり、同4月には国指定護国神社となった。
1966年(昭和41年)7月22日に明治神宮の大鳥居(第二鳥居(木造鳥居では国内最大))が落雷によって破損したため、新たな鳥居が1975年(昭和50年)に竣功。落雷した鳥居は移設され、1976年(昭和51年)4月5日に氷川神社に竣功された。これが現在、市立図書館前にある二ノ鳥居である。このとき、もともとの二ノ鳥居は「裏参道」側に移設されている。
1982年(昭和57年)の東北新幹線開業を祝い、この年から薪能が毎年5月に催されている。
参道
旧中山道の大宮区吉敷町から神社まで、およそ2kmの表参道が、ほぼ南北に延びており、「氷川参道」と呼ばれている。参道には三つの大鳥居があり、中山道と分かれる位置に「一の鳥居」、前述の市立図書館近くに「二の鳥居」、境内入り口に「三の鳥居」がある。参道周辺には勅使斎館等の行事施設や市立図書館・博物館が並ぶほか、大型マンションが並ぶ地域もあるが、おおむね閑静な住宅街である。特に神社周辺の高鼻町は古くから高級住宅地となっており、建築制限が課せられている。
参道はすべてケヤキ(埼玉県の木)等の並木で覆われている。古来より松が多かったが、明治以降は杉が主体となる。太平洋戦争中から戦後にかけて燃料として伐採され、また参道に自動車を走らせたことから排気ガスで枯死し、汚染に強いケヤキが6割を占めるようになったが、ケヤキもまた汚染により弱っている。ケヤキを含め、参道には30種類680本の木々があり、幹回りが2メートルを超える古木25本を市の天然記念物に指定している。
2キロに及ぶ参道は3つの区間に分かれている。神社から埼玉県道2号さいたま春日部線(旧国道16号)までの約500mは往事の面影が残された広い参道が延びている。中央に歩行者用の広い参道があり、東側に対面通行の自動車道がある。
県道2号から大宮中央通り(大宮駅東口の駅前通り)までの約300mは「平成ひろば」と名づけられた公園になっている。中央が歩行者用の広い参道であり、その周囲が公園となっている。自動車は「平成ひろば」の両側を南北方向とも一方通行で走ることができる。
- 「平成ひろば」は参道を利用していた住宅・店舗を移転させた跡地に造られた。この住宅や店舗はもともと、第二次世界大戦敗戦後に大宮駅東口に集まっていた闇市やバラック街であったが、1947年(昭和22年)に駐留軍が排除命令を出し、警察と大宮市、氷川神社の間で、参道の一部に移転することが決められた。その後40年にわたって参道の一部が生活の場となったが、そのために樹木は荒れ、往事の面影は失われた。昭和の終りに大宮市によって街道の再生が行われ、住宅や店舗は下町の市営住宅へ移転し、跡地は1989年(平成元年)に「平成ひろば」となった。
大宮中央通りの南の約1000mは狭くなっており、参道を車道として開放している。歩道と車道が分離されており、自動車は北向きの一方通行である。将来構想としては、自動車を完全に排除して、往事の参道に再生することが考えられている。
- この区間は住宅街を貫き、並木に覆われて静かなために、自動車の違法駐車が後を絶たなかった。また南大通りより南の部分(一の鳥居から南大通りまで380m)は狭いながら対面通行であり、歩行者、自転車、双方向の自動車、路上駐車で混乱していた。さいたま新都心が街開きしたことから、参道南部を歩く人が飛躍的に増え、違法駐車の排除が検討される。そこで、参道再生の一環として車道部分を通過できるだけの広さにし、残りを御影石風のブロックを敷き詰めた歩道にした。2002年(平成14年)に第一期が完成(南大通りより北の450m)、2006年(平成18年)に第二期(上記の380m)が完成した。特に第二期は自動車を一方通行に変更するため、数次に亘る社会実験を経て実現した。2009年(平成21年)に第三期(中央通りより南の約200m)が着手され、全区間の歩車分離が完成した。
参道では毎年12月10日に「十日町」という祭が催され、さいたま市屈指の賑わいをみせる。このほか、中山道土手町から神社北側に至る「裏参道」がある。
大宮公園
神社の周辺は明治期に社有林を開いて設置された大宮公園となっているが、現在でも境内と特に分かれているわけではない。公園にはサッカー場、野球場、競輪場、小動物園、児童公園、水泳場、弓道場、県立博物館等が置かれている。また隣接して埼玉県護国神社がある。
交通
- 鉄道:東武野田線・大宮公園駅もしくは北大宮駅(徒歩10分)、大宮駅(徒歩20分)
- 道路:埼玉県道35号川口上尾線(産業道路)・埼玉県道2号さいたま春日部線「堀の内」交差点から数分
文化財
- 算額 明治31年(1898) 都築利治門人奉納(復元)
境内神社
- 摂社 門客人神社 足摩乳命 手摩乳命
- 摂社 天津神社 少彦名命
- 摂社 宗像神社 多起理比売命 市寸島比売命 田寸津比売命
- 末社 山祇神社 大山祇命
- 末社 石上神社 布都御魂命
- 末社 愛宕神社 迦具土命
- 末社 雷神社 大雷命
- 末社 住吉神社 底筒男命 中筒男命 上筒男命
- 末社 神明神社 天照大御神
- 末社 天満神社 菅原道真公
- 末社 松尾神社 大山咋命
- 末社 御嶽神社 大己貴命 少彦名命
- 末社 稲荷神社 倉稲魂命
主な恒例祭儀
- 歳旦祭 1月1日
- 節分祭 2月節分日
- 的神事 2月7日
- 祈年祭 2月17日
- 郷神楽 3月15日
- 鎮花祭 4月5,6,7日
- 御鎮座祭 5月9日
- 道饗祭 5月21日
- 粽神事 6月5日
- 大祓式 6月30日
- 例大祭 8月1日
- 神幸祭 8月2日
- 抜穂神事 10月9日
- 朔瓶祭 10月21日
- 新嘗祭 11月23日
- 大湯祭 12月10日
- 誓詔祭 12月11日
- 毎月1日に月次祭、15日に献詠祭、国民奉祝日にはそれぞれ祭事あり。
脚注
関連項目
- 大宮暦
- 氷川神社 (曖昧さ回避) 各地の氷川神社の一覧
- 氷川信仰
- 氷川丸