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* その一方で、大勲位の勲章を授与された後、養父である吉田健三の墓の前で「(養父の)財産は使い果たしてしまったが、その代わり(天皇)陛下から最高の勲章を戴いたので許して欲しい」と詫びたと言うエピソードも残している。 |
* その一方で、大勲位の勲章を授与された後、養父である吉田健三の墓の前で「(養父の)財産は使い果たしてしまったが、その代わり(天皇)陛下から最高の勲章を戴いたので許して欲しい」と詫びたと言うエピソードも残している。 |
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* 名ヴァイオリニストの[[ユーディ・メニューイン]]が来日公演を行った際、[[日比谷公会堂]]で演奏を聴き終えた吉田は感想を聞かれ、'''「大変立派なピアノ演奏でした」'''と答えたために、周囲からは「吉田は音楽がわからない」等と批判されたが、その日の演奏会は主役のメニューインの演奏の出来が実際に良いとは言えず、逆に伴奏のピアノ演奏の方が立派であったと言う。 |
* 名ヴァイオリニストの[[ユーディ・メニューイン]]が来日公演を行った際、[[日比谷公会堂]]で演奏を聴き終えた吉田は感想を聞かれ、'''「大変立派なピアノ演奏でした」'''と答えたために、周囲からは「吉田は音楽がわからない」等と批判されたが、その日の演奏会は主役のメニューインの演奏の出来が実際に良いとは言えず、逆に伴奏のピアノ演奏の方が立派であったと言う。 |
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==暴言放言== |
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吉田は外交官出身であり、駐英大使時代にイギリス流の生活様式に慣れ、貴族趣味に浸って帰国した。そのため、官僚以外の人間、共産党員や党人などを見下すところがあった。その彼のワンマンぶりがよく表れているのが、彼の言い放った暴言の数々である。 |
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*戦後、GHQにより公認された[[共産党]]が、ストや反吉田闘争を繰り広げていたとき、吉田は「'''あのような曲学阿世の徒が、国民の大多数を占めるとは私は考えていない'''」と言い放った。 |
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*保安隊が改組され[[自衛隊]]=[[防衛庁]]が発足された際、野党は「自衛隊の存在は[[違憲]]ではないのか」「自衛隊は軍隊となんら変わらない」と、吉田を追及した。それに対し、吉田は「'''自衛隊は軍隊といっても差し支えない。しかし戦力ではない'''」と答弁した。 |
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*最も有名なのがこれ。サンフランシスコ講和条約に関する条項の審議を国会で行っていた際、野党・[[社会党]]の議員の追及にあった。それに対し、吉田は「チャーチルやアイゼンハワーもこの意見に賛成している」と答弁。それに対し、社会党議員は「外人の意見ではなく、首相自身の意見が聞きたい」と食い下がった。「これは私個人の意見でもある。無礼なことを言わないで頂きたい」と吉田。「無礼者とは何だ」と議員。そしてついに「'''バカヤロー'''」と吉田がキレて、吉田自由党は解散総選挙に打って出ることとなった。これが世に言う「[[バカヤロー解散]]」である。 |
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== 内閣 == |
== 内閣 == |
2005年9月11日 (日) 07:22時点における版
米内内閣・小磯内閣の閣僚を務めた同姓同名の別人については、吉田茂 (内務省出身)を参照のこと。
吉田 茂(よしだ しげる、1878年9月22日 - 1967年10月20日)は、日本人の外交官・政治家・内閣総理大臣(第45・第48 - 51代)。英文学者の吉田健一は長男。
戦前
出自及び学歴
高知出身の自由民権運動家、竹内綱の5男として東京都に生まれ3歳で実業家吉田健三の養子となる。11歳のとき養父が死去したため家督を相続した。耕余義塾から高等商業学校(後の一橋大学)、東京物理学校(同東京理科大学)、学習院をへて1904年東京帝国大学に入学した。1906年7月、東京帝大を卒業し、外交官試験に合格。
外務官僚時代
外務省に入り、翌1907年奉天領事館に勤務した。1909年、牧野伸顕の長女雪子と結婚後ロンドンに勤務し、1912年帰国した。その後天津総領事、奉天総領事を経て田中義一内閣の下で外務次官、駐伊大使、駐英大使等を歴任した。
外務省時代の吉田の行動を見てみると、田中(義)内閣で外務次官を務めてその外交政策を支えるなど、その立場は「英米協調派」ではなく、有田八郎らと同じ「アジア派」に属すると言われている。だが、イギリスのネヴィル・チェンバレンとは個人的に親しく、政治思想的にはナチス・ドイツとの接近には常に警戒していたため、岳父である牧野伸顕との関係とともに枢軸派からは「親英米派」と看做された。二・二六事件後の広田内閣の組閣では外務大臣・書記官長の候補にあがったが陸軍の反対で叶わなかった。日独伊三国同盟に反対していたが、1939年待命大使となり外交の一線からは退いた。
太平洋戦争末期には、牧野伸顕、元首相近衛文麿ら重臣グループの連絡役として和平工作に従事、憲兵隊に拘束される。
第二次世界大戦後
重光葵の後をうけて東久邇宮稔彦王内閣の外務大臣となり、つづく幣原喜重郎内閣においても外相を務めた。公職追放となった鳩山一郎の要請で急遽日本自由党の総裁となり、1946年5月、首相に就任し第1次吉田内閣を組織した。非国会議員では最後の首相である。
1947年5月、日本国憲法の発布にともなう第23回総選挙では、日本国憲法で国会議員であることが首相の要件とされたため、竹内綱の選挙区であった高知全県区から立候補した。自身はトップ当選したが、与党の日本自由党は日本社会党に第一党を奪われた。社会党の西尾末広は、第一党として与党に参加するが、社会党からは首相を出さず、吉田続投を企図していた。しかし、吉田は首相は第一党から出すべきという「憲政の常道」を強調し、また社会党左派の「容共」を嫌い下野した。こうして初の社会党政権である片山哲内閣が成立したが、長続きせず、続く芦田均内閣も、翌1948年、昭電疑獄により瓦解した。これを受けて吉田は第2次内閣を組織し、直後の総選挙で大勝し第3次内閣を発足させた。
朝鮮戦争の勃発により内外で高まった講和促進機運により、1951年9月8日、サンフランシスコ平和条約を締結、同日日米安全保障条約を結んだ。以後、公職追放解除後の鳩山一郎グループとの抗争やバカヤロー解散、造船疑獄などを経て、1954年12月7日に内閣総理大臣と自由党総裁を辞任した。
首相辞任後
1955年の自由民主党結成には当初参加せず、佐藤栄作らとともに無所属となるが、池田勇人の仲介でのちに入党する。1963年10月14日、次期総選挙への不出馬を表明し政界を引退。引退後も大磯の自邸には政治家が出入りし、政界の実力者として影響を及ぼした。1964年、日中貿易覚書にともなう中共との関係促進や周鴻慶事件の処理に態度を硬化させた台湾を池田勇人首相の特使として訪問、蒋介石と会談した。同年、生前者叙勲制度の復活により、大勲位菊花大綬章を受章。
1967年10月31日、第二次世界大戦後初の国葬が日本武道館で執り行われた。
吉田学校
自由党入党・総裁就任後の吉田は、当初少なかった子飼いの勢力を拡張するため、多くの官僚出身者を国会議員に引き立てた。「吉田学校」と呼ばれた集団で、池田勇人、佐藤栄作などがその代表的人物とされる。
分割統治案
首相在任中に示された連合国(アメリカ・ソ連・中国・イギリスら)による分割統治案に対し、吉田は「冗談ではない」の一言で一蹴、拒否したという。連合国と敗戦国である日本の能力には大きな差があるものの、吉田のこの一言が、日本の領土分断の危機を回避するのに一役買った、とする見解もある。
マッカーサーとの関係
- GHQ最高司令官マッカーサーと初対面した時、葉巻きタバコをすすめられたが「それはマニラでしょう?私はハバナしか吸いません」と断り、評価されたという。このエピソードは、マッカーサーに葉巻を勧められた吉田が、懐から日本の紙巻タバコ「光」を取り出して「私はこれしか吸わないのです」と言った、という話に改変され、第2次内閣での解散・総選挙の際、吉田が「贅沢をしない、国産品を愛用する愛国者」であることを示すエピソードとして、吉田の率いる民主自由党の候補者によって喧伝された。
- 吉田とマッカーサーは、マッカーサーがトルーマン大統領によって解任されるまで親密であった。前述のエピソードに示されているが、吉田は「戦争に負けても外交で勝った歴史はある」として、マッカーサーに対しては「よき敗者」(good loser)としてふるまうことで個人的な信頼関係を構築することを努めた。
- 復興を成し遂げた日本を見てもらいたいと考えた吉田は東京オリンピックにマッカーサーを招待しようとしたが、マッカーサーは重病を患っており来日出来なかった。マッカーサーはオリンピック以前に死去し、吉田はその葬儀に参列した。
ユーモア
癇癪持ちの頑固者であり、また洒脱かつ辛辣なユーモリストとしての一面もあった。公私に渡りユニークな逸話や皮肉な名台詞を多数残している。有名な例として、以下のやりとりがある。
- 知人であった寺内正毅(田中義一とする説もある)が首相になった時、祝いを述べに言った吉田は寺内から総理秘書官就任の要請を受けた。だが、吉田の返答は「秘書官は務まりませんが、総理なら務まります」。
- 「血色がよろしいが、何を召し上がっておられるのか」と世辞を言われた。吉田の返答は「わたしは人を喰ってます」。
- ある日、会いたくなかった客人に対して居留守を使った吉田であったが、その客人に居留守がばれてしまった。抗議をする客人に対して、吉田の返答は「本人が「いない」と言っているのだから、それ以上確かな事はないだろう」。
- その一方で、大勲位の勲章を授与された後、養父である吉田健三の墓の前で「(養父の)財産は使い果たしてしまったが、その代わり(天皇)陛下から最高の勲章を戴いたので許して欲しい」と詫びたと言うエピソードも残している。
- 名ヴァイオリニストのユーディ・メニューインが来日公演を行った際、日比谷公会堂で演奏を聴き終えた吉田は感想を聞かれ、「大変立派なピアノ演奏でした」と答えたために、周囲からは「吉田は音楽がわからない」等と批判されたが、その日の演奏会は主役のメニューインの演奏の出来が実際に良いとは言えず、逆に伴奏のピアノ演奏の方が立派であったと言う。
暴言放言
吉田は外交官出身であり、駐英大使時代にイギリス流の生活様式に慣れ、貴族趣味に浸って帰国した。そのため、官僚以外の人間、共産党員や党人などを見下すところがあった。その彼のワンマンぶりがよく表れているのが、彼の言い放った暴言の数々である。
- 戦後、GHQにより公認された共産党が、ストや反吉田闘争を繰り広げていたとき、吉田は「あのような曲学阿世の徒が、国民の大多数を占めるとは私は考えていない」と言い放った。
- 保安隊が改組され自衛隊=防衛庁が発足された際、野党は「自衛隊の存在は違憲ではないのか」「自衛隊は軍隊となんら変わらない」と、吉田を追及した。それに対し、吉田は「自衛隊は軍隊といっても差し支えない。しかし戦力ではない」と答弁した。
- 最も有名なのがこれ。サンフランシスコ講和条約に関する条項の審議を国会で行っていた際、野党・社会党の議員の追及にあった。それに対し、吉田は「チャーチルやアイゼンハワーもこの意見に賛成している」と答弁。それに対し、社会党議員は「外人の意見ではなく、首相自身の意見が聞きたい」と食い下がった。「これは私個人の意見でもある。無礼なことを言わないで頂きたい」と吉田。「無礼者とは何だ」と議員。そしてついに「バカヤロー」と吉田がキレて、吉田自由党は解散総選挙に打って出ることとなった。これが世に言う「バカヤロー解散」である。
内閣
- 1945年(昭和20年) - 外務大臣
- 第1次吉田茂内閣 - 1946年(昭和21年)5月22日 - 1947年(昭和22年)5月24日
- 第2次吉田茂内閣 - 1948年(昭和23年)10月15日 -
- 第3次吉田茂内閣 - 1949年(昭和24年)2月16日 -
- 第4次吉田茂内閣 - 1952年(昭和27年)10月30日 -
- 第5次吉田茂内閣 - 1953年(昭和28年)5月21日 - 1954年(昭和29年)12月10日
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