コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「ルクセンブルクの歴史」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
新規、疲れた。
(相違点なし)

2009年11月14日 (土) 13:00時点における版

この項目ではルクセンブルクの歴史について述べる。

ルクセンブルクの性質

ルクセンブルクは国土が小さいながらも主権を確保した独立国であるが、古来よりドイツ語、フランス語圏として存在してきた。そのため『フランス語』、『ドイツ語』が主な母語であったが、1984年に始めてドイツ語を元にした『ルクセンブルク語』が格上げされた。さらに、ルクセンブルグは多言語を操ることができる人々が多いため、人口の30%が外国人であり、その多様性をあらわしている。しかし、この多様性の中、ルクセンブルグはアイデンティティの確保に成功しており、その結果、幾度と併合されつつもその苦難の道を乗り越え、現在も独立国として存在、このことは1992年マーストリヒト条約を調印したにもかかわらず、それに対して国民らが懸念をあらわした事からも明らかである[1]

初期の歴史においてはルクセンブルク領域だけではなく、他の国々の歴史についても断片的ではあるが記述する。全般については各項目を参照されたい。

始まり

先史時代の遺跡、ルクセンブルク

ルクセンブルクで発見されたもっとも古い石器旧石器時代前期に属するものである。ただし、人類自体の生活遺跡は旧石器時代後期のこととなり、ミューレンダールで発見されている。そののち、ロシュプールでは中石器時代に生存していたと見られる若い男性の頭蓋事が発見されたが、これまでのものはすべて洞窟や岩陰で発見されている。新石器時代以降は大地で発見されており、人々が森や谷から活動範囲を移動していたことが推測されている[2]

青銅器時代はヨーロッパ東部からケルト人らが進出してきたころにはすでに始まっており、そのまま鉄器時代へ移行、ケルト人の一派でゲルマン人と混合していたと考えられるトレヴィール人らが紀元前3世紀頃にモゼール川中流に住み着いた。その後、ローマ人らの進出が始まり、ゴール戦争紀元前58年紀元前50年)により、ルクセンブルク地域一帯はローマに征服されることとなったが、ローマ人たちは小規模な形で駐屯したため、ルクセンブルク周辺の人種構成には影響を与えることはなかった。ただし、言語構成はその影響を受けたため、ケルト語からラテン語へ重心が移動した[3]

ルクセンブルクにおけるローマ時代の遺跡

ローマ支配化であった4世紀間、ルクセンブルク周辺は平穏であり、基幹道路網の建設なども行われた。そしてキリスト教もこの時代に布教され、ツールの聖マルタンが活動を行い、聖マルタンを頂点とする活動が行われた。しかし3世紀から4世紀にかけてゲルマン人が侵入を開始、特に406年から407年にかけてのライン地方への侵入は規模が大きくルクセンブルク周辺のほとんどがその略奪の対象となった。ローマもこれには対応しきれず、総督府をトリアからアルルへ撤退させ、450年以降に北ゴール地域からローマは撤退、ゲルマン人支配下となった[4]

この時期以降、フランク王国の成立まではゲルマン人らの支配と化したがゲルマン化が急激に進むこともなく、北部をフランク人、南部をアラマン人らが支配した。その後、フランク人をクロヴィスが統一したことによりルクセンブルクはフランク王国支配下となった。その後、カロリング王朝の成立により、ルクセンブルク一帯はその中心地域となりティオンヴィル、ロングリエに王宮が建設されカール大帝もこの地域で重臣会議を開き、さらにはトリアの聖マクシミン修道院にこの地域を与えている。その後、ルートヴィヒ1世が840年に死去したことにより、フランク王国は三分割されることとなり、この地域は長男のロタールの支配下となった。そしてロタールが死去したことにより、中フランク王国はさらに三分割され、この地域は次男のロタール2世が引き継ぐこととなり、ロタリンギア王国と称された。しかし、ロタール2世が早世するとその叔父である西フランク王シャルル2世 、東フランク王ルートヴィヒ2世 らが介入、870年メルセン条約によりロタリンギア王国は分割され、ルクセンブルグ周辺は西フランク王国へ併合されることとなったが、880年リベモント条約において西フランク王国に併合された地域は東フランク王国が無理やりに奪い取ることとなった[5]

成立と中断

ジークフロイト

フランク王国の分裂とその衰退は各地の有力な人々が地域で立ち上がることを可能にした。その中の一人にジークフロイト伯爵 (enの名前が残っている。しかし、ジークフロイトは伯爵ながらも収める地域も小さく、土地も分散していた。彼は神聖ローマ皇帝とトリア司教の間で立場を入れ替えながら活動していたが、彼とその子孫は領土の拡大を狙っていた[6]

ファイル:Giselbert zoon van Reginar Lankhals.jpg
ジゼルベール

ルクセンブルクの名前は963年にジークフロイト伯爵とトリアの聖マクシミン修道院との間で交わされた契約書によりはじめて現れることとなる。この契約は土地の交換に関するものでジークフロイトの所有地(約15ヘクタール)と聖マクシミン修道院の所有する土地を交換するものであったが、この地域は現在のルクセンブルク市中心部を形成することとなった。ジークフロイト伯爵の親であるウィゲリック・クネゴンデ夫妻 (enは大アルデンヌ家の始祖であり、後にヴェルダン、バール、ルクセンブルク家の3家を出すこととなる。このジークフロイト伯爵は『アルデンヌ伯』を名乗り『ルクセンブルク伯』を名乗ることはなく、孫のジゼルベール (enが『ルクセンブルク城伯』を、さらに曾孫のコンラッド1世が初めて『ルクセンブルク伯爵』と名乗ったことにより、事実上のルクセンブルクが形成されることとなった。ただし、現在ではジークフロイトが国の創設者であり、963年の契約書により、ルクセンブルクが形成されたと位置づけがなされている[7]

クネゴンデとハインリヒ2世

さらにジークフロイトは娘のクネゴンデ[# 1]パヴァリア公爵ハインリヒ2世に嫁がせたが、ハインリヒ2世が神聖ローマ帝国皇帝に即位するとジークフロイトの息子で後を継いだアンリ1世がパヴァリア公領を託され、その権力の拡大を図ったが、トリア司祭を手中に収めようとしたことがハインリヒ2世に見咎められ、アンリ1世はパヴァリア公領を失うこととなった。その後、アンリ1世の後を継いだアンリ2世が再びパヴァリア公爵の地位を得たが、アンリ2世は早世したため、その併合は成功しなかった[8]

その後もルクセンブルグ伯らは領土拡大を図っていたが周辺には司教区が存在しており、その領域拡大は成功しなかった。しかし、8代目のコンラッド2世が死去したことにより男系が途絶えることとなったが、神聖ローマ皇帝の命令により、ルクセンブルグ領域はナミュール伯家のアンリ4世(盲目王) (enが継承、ここにルクセンブルク・ナミュール家が成立した[9]。さらにアンリ4世は実家の父親が死去したことによりナミュール伯爵領を1139年に継承、さらに1153年にはラロッシュ (enダービュイの伯爵領(現在はベルギー領)も受け継いだ[10]

エルムディンド女伯爵

しかしアンリ4世には結局、男子が生まれることなく晩年に娘、エルムシンド (enが生まれたのみであった。老齢のアンリ4世はこの領土を受け継がせるために、当時1歳であったエルムシンドを|シャンパーニュ伯アンリ2世 (enパール伯ティボー (enらと婚約させた。1199年、ディナン条約によりナミュールを失うこととなったが、ティボーと結婚したエルムシンドはルクセンブルク、ラロッシュ、ダービュイの各地方の確保には成功した。さらに1214年、ティボーが死去したことにより、エルムシンドはリンブルク公爵家の跡継ぎ、ヴァレラン (enと再婚、アルロンの侯爵領を得ることとなった。その後、1226年にヴァレランが死去したことにより、エルムシンドは女伯爵となった。この時代、これまで神聖ローマ帝国の影響下にあったルクセンブルク伯らは皇帝と距離を置き始め、フランスの影響を受けることとなり、フランスから当主の妻を迎え、さらに公用語もフランス語に置き換えられた。そしてフランス国内の諸侯が中央集権に従順であったとに対し、ルクセンブルク伯は独立性を高めていた。さらにこの時代に伯爵家の紋章が確定したが、この紋章には銀(白)、紺碧(青)の10本の横縞、火を吐くライオン(赤)が描かれ、この3色は現在のルクセンブルクの国旗に使用されることとなる[11]

アンリ5世

エルムシンドの息子、アンリ5世(金髪王) (enは領土の形を整え、後にルクセンブルグ領となるフィアンデン伯を自らの傘下におさめることに成功した[12]。なお、このとき、ルクセンブルク伯家は再度、男系が途絶えたため、この時代以降、ヴァレランの出身であるリンブルク家にちなみ、ルクセンブルク・リンブルク家と称されることとなる[13]。アンリ5世の息子、アンリ6世 (enはリンブルク公家の継承問題に介入、ブラバント公爵と対決するまでに至ったが、1288年ウォリンゲンの戦い (enで敗死、領土拡大の野望は一旦、途絶えた[8]

ハインリヒ7世

ルクセンブルクは徐々にその勢力を拡大し、すでに本家のアルデンヌ家とバール、ヴェルダン両分家は没落していたが、ルクセンブルク家は隆盛を迎えており、当時選挙制となっていた神聖ローマ皇帝にハインリヒ7世が選出されることとなった[9]。ハインリヒ7世は即位後、領土の拡大を狙い息子ジャンとボヘミア王ヴェンツェル3世の妹エリザベートの間で婚約を結ばせたが、ヴェンツェル3世が死去したことにより、ジャンとエリザベートらを結婚させたため、ボヘミア王領はルクセンブルク家の領土となった。そしてハインリヒ7世が皇帝に選出されたことにより、これまでフランス寄りであったルクセンブルクはドイツにひきよせられることとなった。ハインリヒ7世の死後、その息子ジャンは若年であり、なおかつルクセンブルク伯の勢力が強力すぎるという理由から選ばれなかったが、パヴァリア公ルートヴィヒの支援を行い、その結果、ルートヴィヒが皇帝に即位した[14]

戦場を駆け巡るジョン

ジャンは勢力拡大のためにリトアニアからイタリアまで駆け巡り、子供たちをそのために利用した。ボヘミアの統治は暗礁に乗り上げていたが、ルクセングルクでは成功を収め、1340年に開設された定期商業市は現在も続いている。ジャンはフランス王家との関係を深めており後のフランス王となったシャルル美貌王へ妹のマリーを、ジャン2世善良王へ娘のボンヌを嫁がせることに成功、さらに再婚相手にもフランス王女ブルボンのベアトリックスを選んだ。ジャンはルクセンブルク家によく見られた視力衰弱の結果、視力を失うこととなったが百年戦争が勃発するとフランス王フィリップ6世の元へ駆けつけた。その後、息子シャルルがカール4世として神聖ローマ皇帝に選出された後の1346年クレシーの戦いで戦死したが、ジャンの功績はルクセンブルクにおける歴史上、もっとも輝かしい英雄として語り継がれることとなる[15]

クレシーの戦いで戦死するジョン

カール4世は即位の後、帝国統治のための資金を得るためにルクセンブルク伯領を買い戻せるという権利をつけた上で売り払ったが、これは父ジャンの遺言、異母弟のヴェンセラス1世へ譲るということを無視するものであった。しかし、1353年、ヴェンセラス1世にルクセンブルク領を譲るとさらに翌年には伯爵位から公爵位へ昇格させることにより、その地位を強化した。ヴェンセラス1世はジャンの時代に併合していたシニー伯領の残り半分を併呑、この領域は『ルクセンブルク公爵領』の名前で総称されることとなった[16][# 2]そしてヴェンセラス1世はブラバント公家の跡継ぎであったジャンヌと結婚していたため、1355年にはブラバント公領をも受け継がれたが、ヴェンセラス1世とその妻ジャンヌらが子供を残さずに死去するとブラバント公領は失われることとなった[18]。ただし、ヴェンセラス1世がブラバント公爵を受け継いだとき、ブラバントの人々の権利や習慣を尊重するとして『ブラバントへの歓喜の入国』の誓約を結び、ブラバントの人々から歓迎されている[19]

1350年頃のルクセンブルク伯領域

ヴェンセラス1世の死後、カール4世の息子で神聖ローマ皇帝でもあったヴェンツェル(ヴェンセラス)2世が後を継いだが、ヴェンツェル2世は凡庸でなおかつルクセンブルクを資金を得るための道具として扱ったため、現在のルクセンブルクでの評価は著しく厳しいものとなっている。ヴェンツェル2世は2度しかルクセンブルクを訪れておらず、さらに1388年、資金を必要としていた彼は従兄弟のモロヴィアのジョッスへルクセンブルク公国を抵当として明け渡した。そのため、1388年から1461年の間をルクセンブルクでは『抵当物件時代』と呼ばれ、さらにブルゴーニュ公爵家が手中に収めることとなる[20]

1388年、抵当とされたルクセンブルク領は転売の連続であった。モラヴィアのジョッス、オルレアンのルイ、ブルゴーニュのアントワーヌ、アントワーヌの妻ゴエリッツのエリザベートとそれぞれ転売され、最終的に1441年ヘズディン協定により、ブルゴーニュ公フィリップ善良公の手に渡った。フィリップにとってルクセンブルクは各地に散らばる領土を接続する重要な土地であり、これらの領土を纏め上げ勢力を拡大してフランス、ドイツの間で新勢力を形成しようとしていた。しかし、ルクセンブルク自体の所有主権者であるエリザベート[# 3]の夫アルベールが死去したことにより、アルベールの女婿ザクセンのギヨームがアルベール死去後に生まれたラディスラスが主権者であると主張したことにより、国内はザクセン派、ブルゴーニュ派に分かれるて争うこととなった[22]

首都ルクセンブルク市はザクセン派についたが、1443年、フィリップが占領することによってルクセンブルクを手中に収めたが、形式上、ギヨームがその権利を放棄した1461年までフィリップがルクセンブルク公爵と認められることはなかった[22]

そして一旦、途絶えたルクセンブルク家はアンリ5世の時代に次男のヴァレランが分家のリニー(ムース)の地域を受け継いでおり、分家のルクセンブルク・リニー家を立てており、これは名称を変えつつも長く受け継がれることとなる[23][# 4]

隷属時代

1443年、ルクセンブルクはブルゴーニュ公国の一部となったが、この隷属状況は1839年にルクセンブルク大公国として独立するまで続く[25]

ブルゴーニュ時代

ブルゴーニュ公シャルル

ブルゴーニュ公フィリップの息子、シャルルブルゴーニュおよびネーデルラントの諸公国の合体を目論見てロレーヌ、リエージュ両公国の併合しようとした。リエージュにおいては保護権を手中に収めたが、ロレーヌで蜂起が発生、この鎮圧に向かったが、1477年ナンシーの戦いでシャルルは戦死した。そのため娘のマリーがブルゴーニュ公を継承した。その後、マリーはハプスブルク家のマクシミリアンと結婚したため、マクシミリアンがブルゴーニュ公を継承した。そしてさらにマリーが早逝したことにより、ブルゴーニュ公の地位はフィリップが受け継いだが、フィリップは後にアラゴンカスティーリャ両王国を結婚で継承した[26]

ハプスブルク時代

カール5世

さらにフィリップの息子シャルル(カール5世)はこれらを受け継いだ上で1520年、神聖ローマ皇帝に選出されるが、ルクセンブルクは広大なハプスブルク領の一翼を担っていた。シャルルが神聖ローマ皇帝に即位した後の1542年、以前より対立していたフランスがルクセンブルクへ攻撃を仕掛けたが、これは撃退した。しかし翌年、再度フランス軍が攻撃を仕掛けたがルクセンブルクは持ちこたえれず、フランスのフランソワ1世が入城する事態にいたったが、さらに翌年カール5世はルクセンブルクの奪取に成功した[# 5]。これらの戦いが発生したことから、ルクセンブルクはハプスブルク家におけるネーデルラント防衛の最前線と化し、フランス王国(ヴァロア家、ブルボン家)の進出に備えて要塞化された[28]。カール5世は1556年に退位するが、その際に広大な領土を二分割、ルクセンブルクを含むネーデルラントとスペインは息子のフェリペ2世に受け継がれた[29]。そして、

フェリペ2世

これまでの各統治者らはルクセンブルクを含むネーデルラントは諸公国の集合体であったことからその権利と習慣を尊重してきたが[30]、フェリペ2世はネーデルラントの統治において伝統や自治を無視して中央集権化を図って絶対主義を押し付けた[# 6][31]。しかし、カルヴァン主義の影響を受けていたネーデルラントにおいてオランダ独立戦争が勃発、北部の諸州は後に独立を勝ち取り、オランダを形成することとなる。一方、カトリックの影響を受けていたルクセンブルク[# 7]を含む南部の諸州はスペインにとどまり、『スペイン領ネーデルラント(南ネーデルラント)』を形成した[33][32]

1547年頃のハプルスブルク領

1598年、フェリペ2世は娘のイザベルとその婿、アルベールに南ネーデルランドを譲り、アルベールは南ネーデルランド総督となった。この時、ルクセンブルクは南ネーデルランドという枠組みに取り込まれ消滅の危機を迎えたが、アルベールには跡継ぎがなかったため、アルベールとイザベルの死去後、南ネーデルランドは再びスペイン・ハプスブルク家の元へ戻り、南ネーデルランドでの国家形成のチャンスは消滅、ルクセンブルクの危機も去った[34]

フランス領、そして再びハプスブルク家へ

1616年三十年戦争が勃発すると、ルクセンブルクもその混乱に巻き込まれた。特に1635年にフランスが参戦するとルクセンブルクは戦場と化し、傭兵達がルクセンブルクで暴虐の限りを尽くした上に、飢えとペストがルクセンブルクを覆い尽くした。結局、1648年ヴェストファーレン条約が結ばれて、三十年戦争が終了しても戦闘は続き、1659年ピレネー条約によりスペイン、フランス間で講和が結ばれるまで戦場であり続けた[35]。そしてこの時、ルクセンブルクの一部[# 8]がフランスに割譲され、『フランス領ルクセンブルク』を形成した[36][31]

しかしフランス王ルイ14世はそれだけで満足せず、ピレネー条約を都合よく解釈してルクセンブルクの大部分を要求、1679年から1681年の間に攻撃を開始、1684年にはルクセンブルク市を占領した。その年、休戦協定が結ばれルクセンブルクは徐々にフランスに取り込まれつつあり、この時代にルクセンブルク市街地の外周壁は建設された。しかし、ルイ14世にスペイン王位継承のチャンスが発生すると1688年に勃発していた大同盟戦争レイスウェイク条約を結ぶことによって妥協、ルクセンブルクはフランスから再びスペイン・ハプスブルク家の元へ戻ることとなった[37][31]

ルクセンブルク要塞

1700年カルロス2世が死去したことによりスペイン・ハプスブルク朝が途絶えたが、カルロス2世はスペイン王位を妹の婿、アンジュー公フィリップへ譲ることを表明していたが、同じようにカルロス2世の別の妹の婿であり、なおかつ同族であるオーストリア・ハプスブルク家のカール6世もその権利を主張、1701年、ここにスペイン継承戦争が勃発した。この戦争により、スペイン王位、スペイン本土はフィリップが継承することとなったが、『スペイン領ネーデルラント』はカール6世が受け継ぎ『オーストリア領ネーデルラント』となった[33][31]

カール6世はルクセンブルクの戦略価値を考え、1726年から要塞化、この工事は40年にも渡ったが、ルクセンブルクはヨーロッパ各地での戦争、ポーランド継承戦争やオーストリア継承戦争、7年戦争に巻きもまれることもなかった。これは1754年のフランス、オーストリアの和解による恩恵の賜物であったが、この時期、戦争資金や兵士への徴用などはあったものの、これまでの2世紀間と比べれば押しなべて平和な時代であった[38][31]

マリア・テレジアとその息子ヨーゼフ2世の時代、ルクセンブルクは改革の時代に入った。マリア・テレジアは執政に義弟のシャルル・ド・ロレーヌを任命したが[39]、シャルルはネーデルラントの諸特権の尊重を行ないながら有用な改革を行なうよう勧告、1740年以降、様々な改革が行われ、1766年には徴税を公平にするために土地台帳の制定も行なわれ、それまでの特権や既得権などにまで改革の手は及んだ[40]。そのため、シャルルはネーデルラントでは人気のある統治者となり、1753年以降、負債も解消され1760年代には黒字へ転換した[39]。さらにマリア・テレジアの40年にも及ぶ治世の間、ルクセンブルクではオランダとを結ぶ幹線道路も建設され、交通網の整備が整ったが、その後を継いだヨーゼフ2世の改革は伝統的な諸特権を廃止したため、すこぶる人気が悪かった[41]

1789年7月にフランス革命が勃発するとその影響を受けたベルギーでは『ブラーバント革命』が勃発、オーストリア軍はルクセンブルクへ撤退、ベルギーでは『ベルギー合衆国』の設立が宣言された。しかし、ヨーゼフ2世の死後、後を継いだレオポルト2世はベルギー合衆国を撃破、再びネーデルラントはオーストリア領となった[42]

そしてフランス革命の波及を恐れたレオポルト2世は1791年プロイセンと同盟を結んだが、これを危機としてフランスは4月にオーストリアへ宣戦布告を行なった。当初はプロイセン・オーストリア軍らが有利であったが、ヴァルミーの戦い以降、形勢が逆転、さらにジュマップの戦いによりオーストリア軍は撃破され、オーストリア領ネーデルラントはフランスに占領された。その後、一時的にオーストリアはネーデルラントを奪取する事もできたが、結局、1795年、ネーデルラントはフランスに併合され、1797年カンポ・フォルミオ条約および1801年リュネヴィルの和約によってハプスブルク家当主、フランツ2世がネーデルラントを正式に放棄[43]、ルクセンブルクはフランスに併合された[44]

フランス革命の影響

1795年フランス国民議会は『オーストリア領ネーデルラント』および『リエージュ聖職公国』の併合を宣言、ルクセンブルクはフランスの県に組み込まれ、ルクセンブルクは一旦、消滅した。さらにフランス国民議会はルクセンブルクにおいて同化政策を強行、これまでの行政機関は近代的行政機関に置き換えられた。しかし、この改革はメートル法共和暦の導入などにまで及び、旧来の習慣と衝突したため、ルクセンブルクでは不満が高まっていた。1798年9月、ルクセンブルクでは徴兵制に対する抗議運動が発生したが、これは鎮圧された[45][46]

ナポレオン・ボナパルトが第一執政に着任したのちの1801年に結ばれた『宗教協約』により、この空気は和らげられはしたが、ルクセンブルクの人々が新体制の中で高い位置を得ることは困難な状態に変化はなかった。その後、ナポレオンが即位したことにより、フランス帝国の一部となったルクセンブルクもその興亡に巻き込まれることとなり、徴兵が急増、その半分が生きて返ることはなかった[47]

その後、1839年、ルクセンブルクは独立を果たすこととなるが、このフランス革命による影響をうけた20年間、ルクセンブルク内のフランス語人口を大きく減りはしたが、現在も公用語とされているフランス語の地位を強化するものとなった[47]

ルクセンブルク大公国の成立

仮の国

ルクセンブルク大公、ギョーム1世(オランダ王としてはウィレム1世)

1813年10月、諸国民戦争でナポレオンに勝利した同盟軍は1814年5月、ルクセンブルクの占領に成功した。評論家ジョセフ・ゲレスによれば、ルクセンブルクの人々は再びハプスブルク家による統治を望み、『神聖ローマ皇帝万歳』と叫んだとされている。しかし、列強国はフランスの解体と封じ込め、そしてフランスから奪い返した領土の分配を考えていた。そのためにウィーン会議が開催されたが、これは各国の利害が衝突し、遅々として進まなかった。その中、ルクセンブルクの立場は低く、ハプスブルク家はルクセンブルクにこだわりを持っておらず、さらにルクセンブルクを含むネーデルラントの地域をフランスに対する障壁として用いることをイギリスが強く推していた。そのため、ハプスブルク家はネーデルラントを手放す代わりにヴェネツィアロンバルディアを手に入れ、そしてネーデルラントを新たに大オランダ王国(オランダ、ベルギーの集合体)を形成、オラニエ=ナッサウ家ギョーム1世(ウィレム1世とも[# 9])にゆだねることとなり、ルクセンブルクもその中にとりこまれた。この時、プロイセンがルクセンブルク、リェージュナムールの各公国の併合を強く望んでいた場合、併合される可能性が存在したが、結局、プロイセンは行動を起こさず、ルクセンブルクはプロイセンに併合されることはなかった[49]

ルクセンブルク領の変遷

さらにルクセンブルクに幸運なことに、ルクセンブルク公の地位も大オランダ王国へ統合される可能性があったにも関わらず、オラニエ=ナッサウ家が飛び地であった小公国[# 10]を手放す代わりにルクセンブルクが与えられた。この時、ルクセンブルク公国は大公国へ格上げされ[# 11]、さらに大オランダ王国との同君連合とされ[# 12]、さらにオラニエ=ナッサウ家の個人所有地[# 13]という結果に帰結した。そしてさらに大オランダ王国をフランスへの障壁にすることを考えいたイギリスは大オランダ王国だけでは不十分と考えており、40近くのドイツにおける諸国を集めて『ドイツ連邦』を形成、ルクセンブルクもその中に編入された。ドイツ連邦ではプロイセン、オランダ、ルクセンブルクの各部隊が駐屯することとなっていたが、ギョーム1世はその権利をプロイセンに譲ったため、ルクセンブルク大公国首都ルクセンブルク市にはプロイセン軍が駐屯、フランスに対する圧力となった[51]

ルクセンブルクは1815年、ドイツ連邦に編入され国民もゲルマン系ではあったが、東部ではドイツ語方言のルクセンブルク語を話していた。さらに西部ではフランス語系のワロン語を話すという状況であり、どちらかといえばフランス語を使用する人が過半数という状況であった。そのため、ルクセンブルクが独立を得たのも結局はヨーロッパ列強国の思惑の範囲内であり、ルクセンブルクの人々が得たわけでななかった。そして、ギョーム1世もルクセンブルク大公国にオランダ王国の憲法などを適用し、実質、オランダ第18番目の州として扱われオランダ王国に取り込まれたが、ルクセンブルクの人々は抗議もせず、さらに所属しているはずのドイツ連邦も問題にしなかった[52]。このことを後にベルギー人の作家で評論家のピエール・ノトンはルクセンブルク大公国が『仮の国』であったと評している[53]

ベルギー革命の勃発

1830年8月、ブリュッセルで暴動が発生した。これはギョーム1世が独裁的であり、なおかつ北部があまりにも優遇されたためであったが、これは数週間後に革命化した。ルクセンブルクの人々もこれに同調し、徐々にルクセンブルクも広がっていった。ルクセンブルク市のみは駐屯していたプロイセン軍がこれを鎮圧したが、その他の地域は革命派が占領した。そして1830年10月4日、ブリュッセルにおいてベルギー革命政府が独立を宣言、16日にはドイツとの衝突を避けるためにルクセンブルク大公国はドイツ連邦との関係は続けるがベルギーの一部となると宣言した。その後のベルギー独立の過程においてルクセンブルクの人々はそれに協力したが、その結果、オランダ王国時代に冷遇されていたルクセンブルクの人々もベルギー新政府においてはその要職に就任することとなった[54]

これらの状況に対し、列強各国はこれはオランダ王国内の揉め事であるとして重要視していなかったが、唯一、フランスのみがウィーン会議で形成された障壁となっていたオランダ王国の分断を狙ってベルギーの独立を支持した。一方、イギリスはベルギーがフランスに取り込まれた場合の危険を予想、1830年11月にロンドン会議を開催した。そこでベルギーの独立にはロシアと利害関係のあるプロイセンが反対はしたが、原則としてベルギーをオランダから分離することに同意、さらにその領土制定も行なった。ただし、ルクセンブルクの処遇についてはベルギーとオランダ王国の間で強く対立したため決定がなされなかった[# 14][56]

結局、ベルギーの独立を承認した列強国はルクセンブルク帰属問題をオランダ、ベルギーの間で交渉を行なうとし、決着がつくまで現状維持とした。しかし、すでにルクセンブルク大公国はプロイセンが抑えている首都ルクセンブルク市以外はベルギーが占領しているため、ベルギーに有利な状況であった。1831年8月、オランダはこの奪取を目論んで、ベルギーを攻撃したがフランス軍の支援を受けたベルギー軍はなんとかこれを撃退したが、この戦いによりベルギー軍の戦力が露呈、1831年に列強はルクセンブルクを分断、西側がベルギー領、東半分がルクセンブルク大公国としてオランダに所属という案を24か条条約を提案したが、ギョーム1世はこれを拒否、結局、これにより現状維持が保たれ、ルクセンブルクは実質的にベルギー統治下となった[57]

この事態によりルクセンブルクが実質的にベルギー領と化していた事に気がついたギョーム1世は前回拒否した24か条条約を受け入れ、ルクセンブルク分割に同意すると宣言した。しかし、すでに9年間もの間、実質的にルクセンブルクを統治していたベルギーはこれを拒否したが、1831年に決定された条約を列強は支持していた。結局、ベルギー議会はこれを賛成多数で受け入れを決定、1839年4月に結ばれたロンドン条約によりベルギーとオランダの関係が決定、ルクセンブルク大公国は国土が半減したが[# 15][52]、ウィーン会議で決定されたオランダ王国との同君連合とドイツ連邦所属の位置は維持した。さらにオランダ王国はドイツ連邦の一部であるリンブルクを手に入れたため、ギョーム1世はオランダ王として、さらにルクセンブルク公としてドイツ連邦に二重に所属することとなった[60]

ルクセンブルク大公国の独立

1839年、ルクセンブルク大公国は独立を果たし現在でも身近なルクセンブルクの生まれた日として祝われている。しかし、この独立には諸問題が含まれていた。第一に政治面、第二に経済面、第三に国民意識の問題である。第一は列強が承認していたことと好ましい君主ではなかったが、ギョーム1世の存在でなんとかクリアはしていた。しかし、第二の経済面は小国であるルクセンブルクには緊急課題であり、第三の国民意識もルクセンブルクが国として存在し続けるためには必要なものであった[61]

ルクセンブルクの指導者たちは経済面の課題をクリアするために関税同盟を締結することを急いだ。この対象はプロイセン、ベルギーに絞られていたが、ベルギーという選択は君主ギョーム1世が認めることができないものであった。しかし、国内には親ベルギーの意識があり、首都ルクセンブルク市に軍を駐屯させているプロイセンに対しては反感を持っていた。これらのルクセンブルク指導者らの行動にいらだっていたギョーム1世は結局、独断でプロイセンと交渉、ドイツ関税同盟への加盟条約を調印したが、その批准前の1840年、ギョーム1世はオランダ王とルクセンブルク大公から退き、1840年10月、息子のギョーム2世が後を継ぐこととなった。ギョーム2世はベルギーやルクセンブルクに理解を示し、ドイツ関税同盟の白紙撤回を試みたが、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世はこれを認めなかった[# 16]。この脅迫を伴った回答に対し、ギョーム2世はプロイセンとの衝突を避けるために、不本意ながらも批准、ルクセンブルクは『ドイツ関税同盟』に加盟した[63]

しかし、このドイツ関税同盟はルクセンブルクにとって有益な同盟であった。ルクセンブルクの皮革工業や金属工場はドイツ市場へ進出し、さらに鉄鉱石が発見されてことにより、ルクセンブルクにおける重要産業となった。そのため、1864年、ドイツ関税同盟1回目の更新の際にはルクセンブルクは快く更新、その後、長期契約に変更された[64]

ギョーム2世は即位後、オランダとルクセンブルクの間にベルギーが存在したために、ルクセンブルクの統治が困難と考え、1841年6月、ルクセンブルクがルクセンブルク人によって統治することを宣言した。そしてルクセンブルクは1848年、ヨーロッパを席巻した革命に乗じてギョーム2世に議会制の導入を記した憲法の導入を要求、それまでの名士議会の改革が行なわれ、さらにベルギー憲法を参考にした憲法が制定された。そして納税有権者による直接選挙が行なわれ、1831年、ルクセンブルク発の内閣がウィルマルを首班として組閣された[65]。しかし、1856年、ギョーム2世の後を継いだギョーム3世は権威主義者であったため、ルクセンブルクが所属するドイツ連邦の規則を利用してドイツ型の憲法をルクセンブルクに押し付けることに成功した。ただし、1868年にドイツ連邦が解体したことにより、ルクセンブルクの人々は行動を起こし、再び1848年に制定された憲法を取り戻したが、この憲法は三度の改定が行なわれた上で現在の憲法として存続されている[66]

1843年以降、ルクセンブルク政府は地方制度法、初等教育法、中等教育法を制定するなど法律の整備を行い、政治・司法はベルギーとフランス、経済・社会制度に関してはドイツをそれぞれ模範としてさらにルクセンブルクに適した制度へ変革した。さらにインフラ整備も行い、独立時には総延長177kmであった幹線道路が1889年には総延長700kmまで整備された。鉄道は1857年にギョーム鉄道会社を設立した後、東西南北を走る幹線を建設し、フランスと結ばれた。そしてプランス・アンリ社が第二の鉄道網をの整備を行い、建設資金が不足すると考えられる路線については政府が資金を補填した。そのため、20世紀初頭までには総延長544kmまでに達した[67][68]

ルクセンブルクにおける移民

1871年、ドイツ帝国が成立したことはルクセンブルクにおいても転機となった。特にプロイセンが普仏戦争に勝利してロレーヌ地方を獲得したことにより、ザクセン、ロレーヌ、ルクセンブルクの各地域が一大工業地帯と化し、さらにロレーヌで鉄鉱石の鉱床が発見されたこと(これはルクセンブルクまで続いていた)、ザール、ロレーヌで石炭が発見されたことにより、近代製鉄が開始された。そのため、ルクセンブルクはドイツの協力の元[# 17]、工業化が促進されることとなった[70]

1879年ドイツ帝国が自由通商政策を取り入れると、ルクセンブルクの製鉄のほとんどがドイツへ輸出されることとなり、製鉄を中心とした産業がルクセンブルクの基幹産業と化し、そのためにそれまでルクセンブルクの中心産業であった農業の近代化が遅れることとなった。そして1820年代から始まっていた海外移民が加速されることとなり、その兆候は第一次世界大戦の勃発まで続いた。産業革命後は人々の流出が収まったかのように見えはしたが、その実、ルクセンブルクの工場で働く移民が増加しただけのことであり、ドイツ人イタリア人フランス人ベルギー人らが流入、製鉄業に従事する労働者の60%が外国人と化し、その大半がドイツ人であった。そのため、ドイツ化の懸念が発生していた[71]

ルクセンブルクにおける外国人比率[72]
1875年 1880年 1890年 1900年 1910年 1922年 1930年 1935年 1947年
総人口 205,158 209,570 211,088 235,954 259,891 260,767 299,933 296,913 290,922
外国人人口
総人口に占める割合
5,895
3%
12,543
6%
17,990
9%
28,988
12%
39,723
15%
33,436
13%
5,831
19%
38,369
13%
29,142
10%
ドイツ人
外国人人口に占める割合
3,497
60%
8,412
67%
12,296
68%
14931
52%
21,762
55%
15,501
46%
23,576
42%
16,815
44%
7,525
26%
イタリア人
外国人人口に占める割合
71
1%
219
2%
439
3%
7,432
26%
10,138
26%
6,179
19%
14,050
25%
9,268
24%
7,622
26%
フランス人
外国人人口に占める割合
853
15%
1,085
9%
1,425
8%
1,895
7%
2,103
5%
4,335
13%
4,669
8%
3,78
9%
3,660
13%
ベルギー人
外国人人口に占める割合
1,353
23%
2,548
20%
3,234
18%
3,877
13%
3,964
10%
3,695
11%
4,080
7%
3,273
9%
3,645
13%

揺れる存続問題

ルクセンブルクは独立は果たしたものの、その立場は微妙であった。特に1839年に結ばれたロンドン条約ベルギーオランダの対立を解消するためのものでしかなく、ルクセンブルクについてはあくまでも暫定措置でしかなく、ルクセンブルク独立について事細かに制定されていなかった。そのため、オランダもベルギーもルクセンブルクの併合を主張することも可能であり、さらにフランスドイツも主張することができた[# 18]。特にドイツはプロイセン軍がルクセンブルク市に駐屯していることや1848年にドイツ統一を目的とした議会がフランクフルトで開催されるとドイツ連邦所属国は全て代表を送るよう要請され、ルクセンブルクにもそれは至り、ルクセンブルクの危機が迫ったが、結局、議会は失敗に終わりルクセンブルクの独立は保たれた。

1866年普墺戦争が勃発するとルクセンブルクは慎重な姿勢を示し中立を保った。戦後、北ドイツ連邦が形成されたが、プロイセンビスマルクはルクセンブルクの不参加を承認した。しかし、ルクセンブルクは息をつく暇もなく、次の危機が迫っていた。ルクセンブルクはこの時点でもオラニエ=ナッサウ家の個人所有であったが、それを見越したフランス皇帝ナポレオン3世がオラニエ=ナッサウ家当主ギョーム3世に買収を持ちかけ、ギョーム3世もこれを承諾した[# 19][75]。また、ベルギーもこの状態にいたり、ルクセンブルクの領土は1839年に譲ったに過ぎないとしてルクセンブルクの『返還』を主張、ルクセンブルクは風前のともし火になるかと思われ、ある人物は「国の存続ができるとは思わない」と書き残している[76]。プロイセンはルクセンブルクに部隊を駐屯させていることやその戦略価値から猛烈に反対、プロイセンとフランスの激突は秒読み寸前にまで至っていた。しかし、1867年5月、この事態を憂慮した列強各国がロンドンで会議を開いて妥協点を模索、結局、イギリスフランスプロイセンオーストリア=ハンガリーイタリアロシアらの保証の元、ルクセンブルクは『非武装永世中立国』とされることが決定、プロイセン軍は引き上げ、さらにルクセンブルク城塞も解体された[74][77]

しかし1870年普仏戦争が勃発するとその状況が一変した。当初、プロイセン軍は中立国であるベルギー、ルクセンブルクを通過せず、ロレーヌ経由でフランスを攻撃、ルクセンブルク政府も国民に中立を呼びかけたが、国民の同情はフランスに向いていた。さらに、プロイセン軍が勝利を収めるに従い、ドイツの新聞はルクセンブルクの併合を論じ始めた。しかし、ルクセンブルクの人々はそれに対抗、ギョーム3世の弟でルクセンブルク総督のアンリ公に請願書を手渡し、ルクセンブルクの独立と中立を要請した。そして、ルクセンブルクの人々は国歌をもじって『Mir wëlle jo keng Preise gin(我々はプロイセンにはならない)』と歌いナショナリズムの高揚が始まった[78]。しかし、1870年12月、オットー・フォン・ビスマルクはルクセンブルクへ東フランス鉄道会社(ルクセンブルクの鉄道と路線を結んでいた)が怪しい行動を行なっているとして『プロイセン政府は軍事作戦においてルクセンブルクの中立を考慮しない』と威嚇的な通告をおくったが、これは領土についてではなく、鉄道についての通告であり、ギョーム鉄道網はドイツの管理下におかれ、1872年には鉄道を譲渡させたが、この状態は普仏戦争終了後も続き、ルクセンブルクの経済面をドイツが支配することとなった[79]。しかし、ルクセンブルクではナショナリズムの高揚が続いており、総人口20万のうち、成人男子4万4千人らが独立を保つ請願書に参加している[80]

同君君主の解消

1890年、ルクセンブルク大公でオランダ国王のギョーム3世が後継ぎの無いまま、この世を去った。オランダ王位は娘のウィルヘルミナが後を継いだが、ルクセンブルク大公には女性が継承するという規定がないために、結局、ナッサウ・ヴァイルブルク家(のちのルクセンブルク家)のアドルフが継ぐこととなった。ルクセンブルク国民は元ドイツの公爵であるアドルフに対してドイツの影響が強まることを懸念したが、初代アドルフ大公、二代その息子ギョーム4世、さらに三代その娘マリー・アデライードの間、ルクセンブルクの独立は保たれ、その伝統も尊重してフランス語の取得まで行なった。このため、ルクセンブルクはオランダとの決別に成功、『ルクセンブルク家』はそれまでのオラニエ=ナッサウ家とちがい、ルクセンブルクに定着することとなった[81]。また、ルクセンブルクではドイツへの併合の懸念からそれまでルクセンブルク語が『ルクセンブルクで話されるドイツ語』という概念であったことを否定、議員のミッシェル・ウェルターは「我々は外国語であるフランス語、ドイツ語らを習得することはできない、我々の母国語はルクセンブルク語である」と発言、ルクセンブルクにおけるアイデンティティが確立されつつあった[82]

第一次世界大戦の勃発

シュリーフェン・プラン

第一次世界大戦が勃発すると1914年8月2日、ドイツ軍はシュリーフェン・プランに従い、ルクセンブルクへ侵入した。4日、ドイツはその非を認め、これはあくまでも作戦上のものであってルクセンブルクに敵意があるわけではないと説明したが、状況に変化はなかったが[# 20]、ドイツはルクセンブルクの政治には最小限でしか干渉しなかった。このドイツ軍の侵入はルクセンブルクにとっては突発的なことであり中立を侵害していると抗議したが、それも受け入れられず、結局、ルクセンブルク政府はなんとか中立の維持に努めた[84]

しかし、その実、ベルギーはルクセンブルク併合の野心を抱いており、亡命中であったベルギー外務省は1839年に失った領土を取り戻して『大ベルギー』を形成することを目論んでいた。ただし、一部熱狂者を除いたベルギー国王アルベール1世を含むベルギー政府らは検討の結果、領土要求を先送りすることを決定、過去にナポレオン3世がルクセンブルクを併合したことを鑑みて、牽制の意味を含めた上でルクセンブルク大公国の『自国領土への復帰』の表明を1915年6月に行ない、さらに連合国へ主張の正当性について宣伝を行なった。

エヒタナハの橋を渡るアメリカ第125歩兵師団、1918年12月1日

一方でフランスはルクセンブルクが戦前と同じ地位にいることを許すべきではないと考えていたが、国内でも意見が割れたため、フランス首相アレクサンドル・リボーはベルギーに対し、ルクセンブルクはフランスの戦争手段ではないと秘密裏に通告、これは『リボー宣言』とされた[85]。。

戦争直前の1914年6月、ルクセンブルクでは国会選挙が行なわれていたが、その結果、左翼連合(自由党、社会民主党)とカトリック党が主導権争いをしており、ルクセンブルク政府はこの危機に対して挙国一致体制で臨むことができず、ルクセンブルクの舵取りは若干24歳のマリー・アデライード大公にゆだねられることとなった。この当時、ルクセンブルク政界はドイツとの関係維持に肯定的であったため、アデライードもそれに習い、1914年9月にはルクセンブルクを訪れたドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とも会見を何度か行なった。そして1915年、アデライードは国会を解散、これにより右派が勢力を増したが、これは左派の敵愾心を募らせただけにすぎなかった[86]

連合軍を歓迎するルクセンブルク市民。1918年11月

1918年11月11日、第一次世界大戦が終結すると、左派の『労働者・農民ソヴィエト』グループが共和国宣言を行ったが、これは鎮圧された。そしてアデライード大公に敵対心をもっていた左派は国会において大公の退位を求める動議を提出したが、これはなんとか僅差で否決された。さらに連合国もアデライードが親独的であったため、フランスなどはルクセンブルク外相との会見も拒否していた。1919年1月、左派はクーデターを起こして人民委員会を樹立、共和国宣言を行なった。これに対し右派もアデライード大公を支えることができなくなったために退位を進言、妹のシャルロットが大公に就任した。さらにこの事態によりルクセンブルクの秩序が乱れることを恐れたフランス軍が決起軍を解散させたため、このクーデターは失敗に終わった。さらに左派はシャルロットの即位も阻止しようとしたが、この時は国会で大差で否決されたため、シャルロッテは大公に即位、君主制批判も和らいだ。そして政府は君主制か共和制かを選択する国民投票を行なうことを宣言、これにベルギーが介入したが、ルクセンブルク国民らはデモを行い、「ルクセンブルクはルクセンブルク人のもの!」と宣言した[87]

経済面では1918年12月、連合軍の指導によりルクセンブルクはドイツ関税同盟から離脱させられたが、このためにフランスへの依存が拡大した[88]

戦間期

1918年9月以降、連立政権が政権を担っており、1919年の選挙でカトリック党が勝利した後も、左派を含む連立政権で運営を行なっていた。しかし1921年、左派の大臣が個人的理由で辞任すると左派との繋がりも消滅し、カトリック党単独政権となった。1925年の選挙において右派は第一党は確保はしたが絶対多数を失ったため、左派とリベラル諸派らの連合が政権を担うこととなったが、これは連立というよりも寄せ集めに過ぎず16ヶ月で崩壊したが、社会保障改革や労働者評議会の復活等、労働関係の政策が取られた。1926年、右派が政権に就くとジョゼフ・ベッシュen)が首相と外相に就任し、1937年まで外相の地位を保持したが、右派は最大勢力ではあったものの単独で政権を担うことはなく、リベラル派や左派との連立を行なった[89]

世界恐慌が発生すると1921年に結成されたがその勢力が脆弱であったルクセンブルク共産党が勢いを増したが、1937年ベッシュはこれを禁止するための法案を提出、この法案は議会こそ通過したもののベッシュが国民投票で決定させようとしたが、反対票がわずかに(50,7%)上回り否決された。さらに同時に行なわれた議会選挙において右派は勢力は維持したものの連立を組んでいたリベラル派は勢力を減じることとなったためにベッシュは退陣、右派のピエール・デュポンを首班として左派社会党を連立を組むこととなった[90]

経済問題

ドイツ関税同盟からの離脱により、ルクセンブルクは大きな影響を受けることとなった。これまで保護されてきた農業は新たに結んだベルギーとの関税同盟により大きな影響を受けると考えられたが、政府は新たな経済同盟についても保護措置の導入に成功したが大改革の必要が発生した。しかし、農業の市場化[# 21]は行なわれること無く、第二次世界大戦後にヨーロッパ経済共同体(EEC)創設の際に結ばれたローマ条約交渉時に問題となることとなる[91]

さらに醸造業も、これまでのたいして高級でもないワインをドイツに出荷[# 22]していたが、それも不可能となったためにこれまでのぶどう畑は高級ワイン用のぶどう畑に転換され、協同組合による酒蔵も設立、1925年にはワイン醸造研究所が設置されその品質管理を行なった。そのため、ワイン生産量の3分の1が輸出向けとしてベルギーへ出荷され、さらにベルギー政府もルクセンブルク・ワインの保護は支持した[91]

旧アルベット社本社(現アルセロール社本社)

製鉄業はこれまで工場を所有していたドイツ資本が第一次世界大戦の敗北により全てを放出、さらにドイツという最大の市場を失うこととなった。そのため工場にはフランス・ベルギー系の資本がルクセンブルクに流入することになり、アルベット社 (en(現アルセロール社)、ラ・ハディル社が二大製鉄会社となった[91]

ルクセンブルクにおける製鉄量(単位はトン)[92][93][68]
1868年 1870年 1880年 1900年 1913年 1926年 1929年 1937年 1974年(参照)
鋳鉄 935,000 128,000 260,500 971,000 2,548,000 2,560,000 2,900,000 2,520,000 5,469,000
鋼鉄 - - 184,700 - 1,182,000 - - 1,550,000 6,448,000

ルクセンブルク系のアルベット社はドイツ市場を失ったことにより多国籍に輸出を行なったように製鉄業は世界規模で活動を続けたが世界市場は流動的であった[# 23]。そして、1923年、フランスのルール占領によりクセンブルクの製鉄業は大打撃を負った。そのため、アルベット社の経営者エミール・マイリッシュはフランス、ドイツ両経済界へ働きかけ、さらに1925年のロカルノ条約、1926年のブリアン・シュトレーゼマン会談などの好影響を受けた上で『鉄鋼国際了解(Entente internationale de l'acier)』の結成にこぎ付けた。この了解は一種の国際カルテルではあったがドイツ、フランス、ベルギー、ルクセンブルク、ザールによる生産高の自主規制を行なうことになり、ルクセンブルクの製鉄業は第一次世界大戦後の状況に対応することができた[95]

しかし、この努力も世界恐慌により、大打撃を受けることとなる[93]

労働問題

第一次世界大戦中、ルクセンブルクはドイツに占領されたため、労働者の生活環境は著しく低下、ルクセンブルク政府もこれには無為無策であった。そのため、1916年8月、労働者たちは組合の結成を開始していた。第一次大戦後、ドイツ軍は撤退したが、ルクセンブルクの製鉄業はドイツから資源が供給されなくなった事、さらに市場であったドイツが疲弊し切っていたことから苦境に陥っており、さらに1918年2月のドイツ関税同盟からの離脱もさらにそれに拍車をかけることとなった。特に1918年11月から1919年1月の間、ルクセンブルク独立が危機に陥っていたため、政府はこれに対応する余裕がなかった。そのために1919年から20年にかけてストライキが頻発、1921年になると全金属製品の価格下落が発生したため、フランス系のハディル社では社員のまず7%、後には17%もの解雇が発生したが、労働運動が急進化していたため、解雇期限を越えても彼らは働き続けていた[96]

しかし、これも1921年のハディル社を代表とする解雇問題と1917年のロシア革命の影響で急進化していた労働運動はついに解雇が行なわれなかったルクセンブルク資本のアルベット社にまで波及、ロックアウトで対応した会社に対し、労働評議会を形成して経営権を掌握しようとしたが、これは政府が武装警察を投入したこととフランス軍が介入の意思を示したため、流血を見ることなく終わった。政府はこれらの諸問題を重く見てフランス系ハディル社やベルギー系のウグレ・マリエ社、地元系アルベット社と労働者の仲介を試みたが、ハディル社、ウグレ・マリエ社は妥協しようとしなかったが、アルベット社は妥協した。このため、労働者側の敗北に終わったが、これには他にも不況が経営者に有利に動いたこと、製鉄業のみがストをおこなっただけに過ぎなかったこと、農民や中流階級が参加しなかったことが要因として挙げられている。しかし、敗北したのは労働者だけでなく政府も傷を負っており、フランス・ベルギー政府の閣僚らがルクセンブルク首相ロイターの元を訪れて労働者評議会制度の廃止を申し入れ、これに屈していた[97]

1921年のストライキはルクセンブルクに大きな影響を残した。労働組合らは共産主義者に代わってこれまでに得た社会権利や賃金の維持を図るようになった。また、政府も改良主義的方針を採用、1924年に成立した法律で職能会議を設立、その中には『労働会議』も含まれ関連法案制定時にはその意見を聞くことが条件とされていた。そして1925年、工場労働評議会が再設立され、労働組合、労働会議、労働評議会の三機関を通じて労働者は意見を表明することが可能とされた。しかし、1929年、世界恐慌が発生すると賃金がカット(世界恐慌前の6割)されたが、政府はこれに対して『賃金委員会』を設立、経営者側も賃金是正を了承した[98]

しかし、諸組合は『賃金委員会』のさらなる規模拡大を狙って1936年1月に大規模なデモを実施、労働者側発表4万人、警察側発表2万人にまで達したこのデモはアルム広場で大会を開催したが、政府はこれに対して『労働国家評議会』の設置[# 24]を設定、経営者も組合を正式な代表と認めざるを得なくなった。そして国会では労働運動に関する諸刑罰について廃止を行い、労働者の権利が拡大した[100]

対外問題

1918年2月、パリにおいて10カ国により会議が開かれたが、ベルギーはルクセンブルクの併合を強行に推し進めようとしたが、これをフランスが阻止した。ルクセンブルク首相エミール・ロイターは会議でルクセンブルクの独立維持を訴え、結果、ヴェルサイユ条約では永世中立の義務は解消されたが、ルクセンブルクは戦前と同じ地位を確保することとなったが、ここにはフランスとベルギーの存在が関係しており、ベルギー軍がルクセンブルクを占領しようとした際にはフランスはそれを妨げていた。そしてアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンの唱えた『民族自決』の精神もルクセンブルクの独立に寄与していた[101]

1918年9月28日、君主制か共和制かを選択する国民投票が行なわれたが、これは80%もの圧倒的多数で君主制の維持が選択された。さらに同時に経済同盟をベルギー、もしくはフランスどちらと選ぶかの国民投票も行なわれたが、これはフランスとの同盟を選んでいた。しかし、ベルギーと交渉を重ねていたフランスはこれを拒否、ベルギーを選ばざるを得なくなっていた。1921年7月、ベルギー・ルクセンブルク経済同盟協定が結ばれたが、これはルクセンブルクに不利なものであり、この利益は当初、ベルギー、フランスが得ることとなった。しかし、この経済同盟は以前のドイツ関税同盟とはちがい、ルクセンブルクにも発言権があったため、やがてルクセンブルクの利益と化すこととなる[101][# 25]

しかし、この関税同盟も製鉄[# 26]、アルコール[# 27]、鉄道[# 28]の諸問題で軋轢が発生、さらには1929年に発生した世界大恐慌により破綻しつつあった。そして世界恐慌のために各国が保護主義に走り始めるとベルギー・ルクセンブルクの国境関税も復活、同盟は崩壊寸前であった。しかし、1935年、両国は交渉を開始、輸入割当と輸入税において共通政策が導入され、司令権はベルギーが握り続けたが、同盟内の自由通商の原則が再確認され、同盟は両国が対等な地位となった[106]

ヴェルサイユ体制の下、ルクセンブルクはそれまでのドイツ依存から抜け出し行動の自由を得ることとなった。確かにフランス・ベルギーにも依存していたが、以前のドイツほどではなく、さらに国際連盟にも1920年に参加、早期参加国となった。中立義務は廃止されたが、ルクセンブルク政府としては中立政策の維持を考えていた。1925年のロカルノ条約には参加しなかったが、その恩恵は受けることとなった。しかし1935年、イタリアエチオピア侵攻により、その立場を変則的に適用しなければならず、イタリアへの経済制裁には参加するが、軍事制裁には参加しない立場を表明した[107]

1930年以降、ベルギーはフランス・ベルギー軍事協定から離れ、第一次世界大戦時の中立方針を採っていたが、1936年3月、ナチス・ドイツラインラント駐留を開始すると状況が一変した。しかし、ベルギーが中立政策を取っている以上、ルクセンブルクも中立方針を放棄することはできず、1937年4月、ルクセンブルク首相ジョセフ・ベッシュも中立政策は放棄しないと海外プレスの前で強調した。ベッシュは諸国から中立の保証得るための活動を行なったが、イギリスを筆頭に各国はこれを拒否、1938年には国民の支持を得ているにも関わらず、ルクセンブルクの中立の保証を得ることは成功しなかった。1930年代、外相を兼務していたベッシュは国際連盟の諸会合にも常に出席を続け、ルクセンブルクの中立を維持すためのありとあらゆる努力を行なったが、結局、中立の保証を得ることはできず、第二次世界大戦においてナチス・ドイツの侵攻を受けることとなる[108]

第二次世界大戦

始まり

1939年9月1日、ドイツがポーランドへ侵攻を開始、それに伴いイギリス・フランスがドイツに対して宣戦布告、ここに第二次世界大戦が開始された。当初、西部戦線では戦闘も無くまやかし戦争と呼ばれた。しかし1940年5月10日、ドイツ軍は西部戦線において攻勢を開始、ルクセンブルク政府及びシャルロット大公らはすぐさま、亡命を開始した。元々、非武装中立方針を採用していたルクセンブルクへドイツ軍は首都ルクセンブルク市西方へグライダーで奇襲を行なったため、寸での差でフランスへの亡命に成功した[# 29]。しかし、フランス軍はドイツ軍の攻撃の前にまもなく崩壊、大公らは中立国スペインへ脱出、6月24日にはポルトガルリスボンへ至ることとなった[110]

ルクセンブルクは非武装中立であったため、ドイツ軍の攻撃の前にフランス軍が立ちはだかり、ルクセンブルクでも戦闘が行なわれ5万人がフランスへ、4万人がルクセンブルク内の戦闘が発生していない地域へ避難したが、幸いにもルクセンブルクでは激しい戦闘が行なわれることはなかった。しかし、政府及び大公があまりにも突然に亡命したため、ルクセンブルク内では国民への声明も行なわれず、また、政府亡命後のルクセンブルクにおける行政権の担当も決まっていない状況であった。一応、国会では5月11日に中立国への侵犯について抗議を行い、さらに16日には亡命した政府の代わりとして官房長官ウェーラーを長として政府評議委員会の設立を行なった。ドイツ占領軍はこの評議委員会を行政委員会へ変更した[111]

フランスの降伏によりフランスを頼みとしていたルクセンブルク国民らは失望していたが、仮政府と化した行政委員会はドイツと交渉を開始、シャルロッテ大公の復帰についてドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップへ書簡を発したが、これは無視された。そのため、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーローマ法王などへの呼びかけを行なったが、このためにゲシュタポににらまれることとなり、ナチス・ドイツはルクセンブルクのゲルマン化とドイツへの併合方針を決定していた[112]

さらにポルトガルへ脱出した亡命政府もポルトガル政府が政治活動を行なわないことを条件に滞在を許可している状態のため身動きが取れなかった。そのため、シャルロット大公の夫、フェリックス・ド・ブルボン=パルム殿下がワシントンにおいて活動を行い、ホワイトハウスとの交渉に成功、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトは巡洋艦をリスボンへ派遣した。一時的に帰国を要請する書簡がシャルロット大公へ届いたためシャルロットはアメリカ行きをためらったが、1940年8月2日、ルクセンブルクを担当していたドイツのガウライターがルクセンブルクの行政権を全て掌握、さらにルクセンブルクのゲルマン化を開始したため、シャルロット大公や亡命政府はカナダへ拠点を移動させることを決定、さらにシャルロット大公はBBC放送を通じて国民へ呼びかけを行なった[# 30][114]

亡命政府はカナダに到着するとモントリオールを拠点とした[# 31]。ただし、ベッシュ外相など一部閣僚はロンドンに残して外交拠点としたために、この拠点を2箇所にしたことは問題を生じることとなった[115]

亡命政府の苦悩

ルクセンブルク亡命政府は資金をベルギー国立銀行に預託していたが、その資金の内、3分の2を取り戻すことには成功、さらにコンゴ植民地から収益のあるベルギー政府から資金を借りることもできた。そのため、亡命政府は第二次世界大戦終了後の自国の地位を確保するための活動を開始、連合国へ働きかけを行なった。さらに当初、見捨てられたと考えていたルクセンブルク国民たちもナチス・ドイツによるゲルマン化政策を中心とする占領期間が長引いたため、その亡命を正しいことであったと考えられるようになった[116]

亡命政府は占領されたルクセンブルクの国民たちを鼓舞して連合軍の勝利を確信させるために頻繁にBBC放送を通じて宣伝が行なわれ、さらにシャルロット大公もそれに加わった[# 32]。そして連合軍に所属する諸国の一般世論へもその支持を訴え、ナチスによるゲルマン化の恐ろしさを伝え、さらに1942年8月、ルクセンブルクで発生したゼネストをドイツ軍が鎮圧したときについには世界規模でナチスを非難する反響を得ることに成功した。しかし、あまりにも国土が狭いために連合国首脳のコメントの中にルクセンブルクが含まれないこともあったため、『忘れられないための常なる戦い』を亡命政府は続けなければならなかった。ただし、ルクセンブルクはアメリカが策定した戦後の援助プログラムに加えられ、ロンドンでの諸国外相会議にも常に参加した[118]

一方でルクセンブルクは非武装中立方針であったため、兵士などがほとんど存在しなかった。1944年、ルクセンブルクから亡命した人々や他国の外人部隊に所属していたルクセンブルク人らを召集してルクセンブルク中隊を編成、ベルギー第1旅団に所属させたが、戦後、この影響からルクセンブルクでは兵役義務制が実施されることとなる[119]

そして、この期間に亡命政府は同じく亡命していたベルギー政府やオランダ政府との関係を深めることとなり、終戦後に新たなベルギー・ルクセンブルク経済同盟(UEBL)が一新された上で締結され、さらに三国らは1945年9月5日、ベネルックス協定を締結する関係にまで至った[119]

占領下の苦悩

ルクセンブルクを訪問する親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラー、1940年7月

1940年7月29日、ルクセンブルクにガウライターが配属されることとなった。ただひ、ルクセンブルク単独ではなく、『モーゼル大管区』に含まれた上でグスタフ・ジーモンが着任、ルクセンブルクの民政を担当することとなり、これは終戦まで続く。

ジーモンは着任早々、公用語を全てドイツ語へ変更、フランス的なものの破壊を開始、フランス語の授業は停止されルクセンブルク国民らの姓名にいたるまでドイツ語へ変更された。そのためにバスクのベレー帽までが禁止される事態にまでいたった。ジーモンはゲルマン化の名の下、ルクセンブルクという国の解体を目論み、1940年8月から10月にかけて政党の禁止、憲法の停止を行い、最終的には行政委員会も廃止、ドイツの法制が導入されて事実上、ドイツへの併合状態に至り、最後には「ルクセンブルクはもはや存在しない」と宣言まで行なった[120]

さらに文化面でもその活動は始まり、ルクセンブルクでは元来フランス文化が優位であったが、1934年に設立された『GEDELIT(Gesellschaft für deutsche Literatur und Kunst、ドイツ文学芸術協会)』が秘密裏にナチスとの協力関係を結んでいたが、1935年ダミアン・クラッツェンベルクが会長に就任したことにより、それまでドイツ伝統文化を宣伝するだけであった協会はナチスの宣伝も開始した。1940年6月、クラッツェンベルクはさらに『VDB(Volksdeutsche Bewegung、ドイツ国民運動)』を結成、ルクセンブルク人は人種的にも言語的にもドイツ人であると宣伝を開始、ルクセンブルクは祖国ドイツへ復帰すべきであると説いた。そして1940年8月の時点で600人が参加していたが、9月には6,000人にまで増加したが、これは様々な圧力があり、やむなく参加した人も含まれている[121]

ファイル:WolzStreikmonument01.jpg
1942年8月31日のゼネストを記念して建てられた塔、ヴィルツ郡 (en

翌年になるとさらにその圧力は強まり、ルクセンブルク国民の『ゲルマン化』が促進された。そしてヨーロッパ各地で連勝を続けるドイツ軍らの情報を聞くに及び、連合国の勝利を疑う者まで現れた。そのため、1941年、ドイツはVDBへの参加者を7万人と発表、1941年10月に予定していた国勢調査においてドイツに有利な状況を作り出そうとしていた。この国勢調査はドイツにより誘導的なものとして自らが属する国籍、使用する言語、属する人種に関する質問が用意されており、返答次第では逮捕することになっていた。しかし、国勢調査の寸前、ひとつのメッセージ『dreimol Letzebuergrsch!(全てルクセンブルクと書こう!)』が国中を駆け巡ったため、国勢調査表の強制回収は中止されることとなった。この1941年10月10日の出来事は『ゲルマン化』へ邁進するナチス・ドイツに対してルクセンブルク国民の間でナショナリズムが高揚することとなり、現在も10月10日は『国民連帯の記念日』として祝われている[122]

この国勢調査の失敗により、ナチスは別の手段で『ゲルマン化』の促進を考案、ルクセンブルクにおいて徴用制、後に徴兵制を導入するに至った。1942年8月31日、ルクセンブルク国民らはこれに対してゼネスト (enで対抗したが、ガウライターはこれに弾圧を加え、死刑や強制収容所へ送られるものも存在した。そしてガウライターは『ルクセンブルク人らに自発的にゲルマン化を選択させる』ことをあきらめ、徹底的な抑圧政策を実行、『ヒンツェルト』には強制収容所が設立された。そしてさらにルクセンブルク国民の30%をドイツ東部へ追放することも開始されたが、これは4000人ほどが追放された時点で終戦を迎える事となった[123]

ルクセンブルクにおける犠牲者数[124]
全人口(ルクセンブルク国籍) 290,000(260,000)
逮捕、もしくは強制収容所へ送られた者
内、死亡者
3,963
791
ドイツ東部へ強制移送された者
内、死亡者
4,186
154
抵抗活動へ参加した者
内、死亡者
589
57
政治的追放者 640
合計
内、死亡者
9,373
1102

そして徴兵制により10,211人がドイツ兵として徴兵され東部戦線へ送られることとなった。その内2,848人が故郷の土を踏む事がなかったが、徴兵された人々の34%が脱走を図った。脱走兵の家族らはドイツ東部へ強制移送され、捕らえられた兵士らも軍法会議で処刑されたが、一部の者はベルギーの抵抗組織『ベルギー白軍』やフランスの『マキ団』に参加、さらにイギリスにまで至り『ルクセンブルク中隊』に参加するものも存在したが、その多くはルクセンブルク国内で戦争が終わるまで隠れ住むこととなる[125]

さらにユダヤ人たちはさらに過酷な運命をたどる事となり、ヴィシー・フランスへ追放された者も存在したが、その多くが強制収容所へ送られることとなり、ルクセンブルク国内に存在したユダヤ人3,700人の内、3分の1が犠牲となった[126]

抵抗活動

このような状況の中、ルクセンブルク内では『ゲルマン化』への抵抗が開始された。一つは1939年に作成された独立百周年記念バッジを着用して抵抗を示した者も現れ、そして1940年10月、第一次世界大戦に参加して戦死した義勇兵の記念碑の撤去にも抵抗した。そして『1941年国勢調査』事件らの発生によりルクセンブルクでもレジスタンス運動が組織化され本格的な抵抗活動を開始する。初期においては各組織は連携もとれずにバラバラに活動を行なっていたが、『Union(結合)』が1944年3月に結成されたことにより、共産系から保守系まで党派を分け隔てることなく、一つに纏まることとなった[127]

ただし、非武装中立であったために軍事的な活動は不可能であったために、国民の指揮を鼓舞することと、ナチスの犠牲者の救済およびその家族の保護に重点が置かれ、1942年8月31日のゼネストに対して行なわれた大弾圧以降、ナチスの犠牲となった人々らの救済に力が注がれた[127]

しかしその一方でナチスに協力する人々も現れNSDAP(国家社会党)への参加者は1941年9月の時点で4000人を数えた[126][# 33]

第二次世界大戦の終結

1944年9月9日から11日かけてのアメリカ軍の作戦行動により、ルクセンブルクは解放された。しかし、12月16日、ドイツ軍が反撃を開始、このバルジの戦いにおいて大損害を追うこととなった。これまでさほど損害のなかったルクセンブルクはこの戦いで建物の3分の1が破壊され、その損害は72億フランにまで達した(当時のルクセンブルク国家予算が20億フラン)。第二次世界大戦中、戦争行為で死亡した人々は5,700名に及び、1972年、ルクセンブルク政府は彼らの補償に100億フランを抽出することとなる。しかし、この第二次世界大戦におけるナチスの弾圧に耐えたことにより、ルクセンブルクの人々は民族の独立を護り通し、その最後の過程が完成することとなった[128]

第二次世界大戦以降

1944年9月23日、ルクセンブルク亡命政府は帰国した。ただし、バルジの戦いにおける連合軍の作戦活動により、制約が存在しており、しばしば軋轢を生む事となった。1944年12月、初めて議会が召集されたが議員が集まらず、その代わりに国会議員やレジスタンス代表を招集して国会の代えようとしたがこれは反対が噴出した。そのため、レジスタンスは亡命政府の早期退陣と投票による新政府の選出を求めていたが、これに対し戦前より継続していたデュポン内閣は政権維持nために基盤拡大をおこなった。しかし、レジスタンス及び共産党が反政府キャンペーンを開始、これをなんとかしのぎ切ったデュポンは10月に選挙を行う事を宣言した[128]

1945年10月の選挙においては右派『キリスト教社会党』が第一党を治め、さらに第二党には社会党、第三党には愛国国民グループ、そして第四党の座には共産党がそれぞれついた。この時、亡命政府閣僚4人は苦戦を強いられ、1名は落選することとなった。11月13日、デュポンは4党合意により連立政権を樹立した。しかし1947年2月、各党の思惑が一致することなく4党連立は崩壊、このためキリスト教社会党、愛国民主グループらで連立政権を樹立した。結局、各種政権交代があったもののデュポンは1953年、死去するまで首相を務め、さらにそのあとを継いだのは戦前の首相、ベッシュであった。共産党は一時的に勢力を増したが、冷戦が発生したことにより1980年代には勢力を失う事となる[128]

また、政府はロンドン条約で規定していた非武装永世中立規定を破棄、徴兵制を導入した。そして国際的な出来事には全面的に参加して義務を果たした。さらに1945年国連憲章にも署名、国際連合にも参加した。さらに冷戦が発生すると1947年ブラッセル協定にも参加、各国の相互防衛義務を負った上で1948年には北大西洋条約機構(NATO)にも加盟した[128]

さらに1944年、ベルギー・ルクセンブルク経済同盟が復活するが、さらに9月に亡命先のロンドンにおいてベルギー・オランダ・ルクセンブルク三政府の協議により関税同盟の創設が決定、発行は1948年1月にずれ込んだ。しかし、当初は関税抜きとされたものの物品税や流通税が徴収され、その税金はお互いに国境で保管するなどその効果は限定的であった。そのため翌年の10月に『仮同盟』がベルギー・ルクセンブルク経済同盟とオランダの間で締結され、1958年のベネルックス経済同盟条約が発足されていこう、三国が対等な国として経済活動も活発化することとなった。しかし、これも1960年代以降、ヨーロッパ防衛共同体(EEC)が発足するとEECが完全にベネルックス経済同盟に取って代わる事となった。それに対してベルギー・ルクセンブルク経済同盟は1998年の時点で健在であった[128]

注釈等

注釈

  1. ^ 彼女はルクセンブルク出身の唯一の聖人に列されている[8]
  2. ^ この名はその後も受け継がれ、この地域を領土とした君主らはルクセンブルグ公爵の名称を受け継ぐこととなった[17]
  3. ^ カール4世の息子ジキスムントの娘でオーストリアのアルベールに嫁いでいた[21]
  4. ^ リュクサンブール・リニー家(1288年 – 1371年)、リュクサンブール・リニー・セントポル家(1371年 – 1557年)、リュクサンブール・ピネー家(1557年 – 1661年)、リュクサンブール・ピネー・モンモランシー家(1661年 - 1878年)などがその命脈をつなぎ、その中にはジャンヌ・ダルクをイギリスに引き渡したリュクサンブールのジャンや様々な軍人も生まれており、パリのリュクサンブール公園の名前は現在のルクセンブルク大公家ではなく、このリュクサンブール一族から名づけられている[24]
  5. ^ この一連の戦いにおいてジークフロイト時代に建設されたルクセンブルク伯爵の城やミュンスターの僧院などは破壊されてしまっている[27]
  6. ^ ただし、フェリペ2世もルクセンブルク公爵とシニー伯爵を兼務することとなった時にはルクセンブルク公国、シニー伯国の権利、習慣を尊重していく誓言をしており、その誓言が守られる場合、各国が従うという形ながらも契約になっていた。そのため、ネーデルランドでの蜂起はフェリペ2世がその契約を無視したことがその理由として使用されている[30]
  7. ^ 1666年、ノートル・ダム・ド・リュクサンブール『悲しむ人々の慰め人(聖母マリア)』がルクセンブルク市の守護神に選ばれ、1678年にさらに公国全体の守護神となったが、これはルクセンブルクがカトリックが深く浸透していたことに起因しており、今日でもその伝統は受け継がれている[32]
  8. ^ ティオンヴィル、モンメディ、イヴォワ・カリニャン、マルヴィル、ダムヴィレーの各都市と住民[36]
  9. ^ 通り名としてはウィレム1世が有名ではあるが、ルクセンブルク大公としてはフランス語でギョーム1世と呼ばれ、さらにルクセンブルク内には『ギョーム広場』も存在することからギョーム1世とする。注意されたい[48]
  10. ^ ハダマルジーゲンディレンブルクディーツなどでプロイセンのコブレンツ北部に存在した。
  11. ^ これはルクセンブルクが大公国に格上げされることにより、儀礼上ではあるがギョームが『殿下(Altesse royale)』の称号を使用することを可能とし、新たに形成されたドイツ連邦の会議に出席した際、ギョームが『殿下』と呼ばれることとなった[50]
  12. ^ 大オランダ王国とは別の国とされ、君主こそ同じではあるが法律上、国家、主権すべてが別とされた[50]
  13. ^ これにより、オラニエ=ナッサウ家の当主がルクセンブルクをどう処分しても自由であるとうことが決定され、のちの1867年には実際に売られる寸前までに至った[50]
  14. ^ ベルギーはルクセンブルクが『オーストリア領ルクセンブルク』を友の形成した仲であり、また、ルクセンブルクの人々もそれを求めていると主張、それに対してオランダ王国のギョーム1世はルクセンブルクが独自の主権国であり、オランダ王国は別の国であること、そしてオラニエ=ナッサウ家の個人所有物であるということを主張した。このため、ベルギーはこれを買うことを申し出たが、ギョーム1世はこれを拒否した[55]
  15. ^ この時、ルクセンブルクはフランス語圏であった西半分を失い、さらにアルロン地方もベルギーへ割譲することとなった。なお、この地域は現在のベルギー領、リュクサンブール州となっている[58]。そして、ルクセンブルクはフランス語圏を全てベルギーに割譲したことにより、事実上、ドイツ語圏となり、また、1848年に制定された憲法にドイツ語とフランス語が同等と明記され、一般市民の多くが使用していたにも関わらず、ルクセンブルクにおける行政や司法などの政治分野や高等教育関係ではフランス語が維持された[59]
  16. ^ ハーグ駐在プロイセン公使は「ルクセンブルクにはドイツ軍の要塞が存在しており、プロイセンの防衛を担っている。ルクセンブルクとの関税同盟は関税だけでなく、ルクセンブルク内の要塞がドイツに属するのか、それとも外国に属することになるのかという問題を含めているのだ」と本国へ報告している[62]
  17. ^ ドイツからは資本、技師、労働者、ノウハウなどの大半が導入されたが、分け前もドイツへ分配されている[69]
  18. ^ ドイツ併合の理由はルクセンブルクが元来、神聖ローマ帝国の一部であったこと、さらに皇帝もルクセンブルクから生まれており、さらにドイツ連邦に所属していることやルクセンブルク語ドイツ語派生であること。ベルギー併合の理由はルクセンブルクがブリュッセルに長く帰属していたことやベルギー革命に参加したこと、大分割の際にもベルギーにしがみつこうとしたこと。フランスの理由はルイ14世時代にルクセンブルクはフランスの一部であったこと[73]
  19. ^ これには3つの理由があった。一つは金が必要であったこと(提示額は500万フローリンであった)。次にルクセンブルクが好きではなかったこと。最後にルクセンブルクが国際紛争の火種と化していたため、オランダ政府が安くてもいいので処分するべきであると提案していたこと[74]
  20. ^ この非を認めたドイツ宰相ベルトマン・ホルヴェークは8月末に皇帝ヴィルヘルム2世に随行してルクセンブルクを訪れたが、その後、「ルクセンブルクは目障りだ」と発言している[83]
  21. ^ 政府は保護は行い補助金も支給したが、これは生産額ではなく種を蒔いた面積に基づいたものであり、穀物栽培が牧畜より優遇されるなど収益の改革にいたるものではなかった[91]
  22. ^ ただし、この輸出されたワインはそのまま飲まれるのではなく、ライン地方のワインへ混入されるためのワインであった[91]
  23. ^ 1923年 – 1925年間の輸出先はヨーロッパ(ベルギー、ドイツ、イギリス、イタリア、オーストリア、オランダ、フランス)で75%(その内の41%が後の欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)地域で、20%がベルギー、11%がドイツ)、南北アメリカ大陸とアジアが12%など世界中に存在した[94]
  24. ^ これは労使代表の数がそれぞれ同じとされ、議長を政府代表が勤めており、労働紛争を交渉によって解決することを行なうための機関である[99]
  25. ^ このベルギー・ルクセンブルク経済同盟は人口比が関税収益の配分比などの全ての基準(当時ベルギーとルクセンブルクの人口比は28対1であった)とされ、さらに自由貿易とされたが、ルクセンブルクはそれまで保護主義であった。しかし、この同盟は司令権こそベルギーに存在したが、協議の上で発動することになっており、ベルギーに有利な同盟組織においてもこれは訴えることも可能であり、ルクセンブルクの経済活動が拡大する余地となる[102]
  26. ^ これはルクセンブルクとベルギーらがそれぞれ条約署名時から対等でないと主張しており、1929年の協定でルクセンブルクが落ち着くまで続いた[103]
  27. ^ これは対象となる醸造所がルクセンブルクに圧倒的に多く、税収面でルクセンブルクに有利であった。この問題は第二次世界大戦後まで解決されなかった[104]
  28. ^ 鉄道輸送問題であり、結局、第二次世界大戦後の1946年、ルクセンブルク、ベルギー、フランス共同出資の『国立ルクセンブルク鉄道会社(GFL)』が設立されたことにより解決された[105]
  29. ^ ただし、ルクセンブルク政府閣僚5人の内、1人がドイツ軍に捕らえられたため、亡命できたのは4人の閣僚と10人足らずの官僚にすぎなかった[109]
  30. ^ 『大西洋のこちらと向こうの友邦がいつの日か私たちの元へ祖国をもどしてくれるでしょう』[113]
  31. ^ これには大公をロンドンで空爆にさらさないこと、モントリオール周辺がフランス語圏であったこと、頼りになるアメリカがすぐそばにあることが理由として考えられる[113]
  32. ^ 当初、宣伝放送は散発的であったが、のちに週1回になり、さらに1943年以降は毎日放送されるようになった[117]
  33. ^ 『ドイツ国民運動』への参加さが1942年5月の時点で83,500人にまで増加していたが、これは圧力のために加入したものも存在しているので全てがナチス協力者とするのは疑わしい。それに対してNSDAPへの加入はドイツへの忠誠心が疑う余地のないくらい強い者でなければ入れないため、その数字がより真実に近いとする[126]

脚注

  1. ^ トラウシュ(1999)、pp.4-9.
  2. ^ トラウシュ(1999)、p.11.
  3. ^ トラウシュ(1999)、pp.11-12.
  4. ^ トラウシュ(1999)、p.12.
  5. ^ トラウシュ(1999)、pp.12-16.
  6. ^ トラウシュ(1999)、pp.28-29.
  7. ^ トラウシュ(1999)、pp.18-21.
  8. ^ a b c トラウシュ(1999)、p.33.
  9. ^ a b トラウシュ(1999)、pp.22. 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "T22"が異なる内容で複数回定義されています
  10. ^ トラウシュ(1999)、pp.29-30.
  11. ^ トラウシュ(1999)、pp.30-31.
  12. ^ トラウシュ(1999)、p.31.
  13. ^ トラウシュ(1999)、pp.22-3.
  14. ^ トラウシュ(1999)、pp.34-6.
  15. ^ トラウシュ(1999)、pp.37-8.
  16. ^ トラウシュ(1999)、pp.31-2.
  17. ^ トラウシュ(1999)、p.32.
  18. ^ トラウシュ(1999)、pp.33-34.
  19. ^ トラウシュ(1999)、pp.49-50.
  20. ^ トラウシュ(1999)、pp.41-2.
  21. ^ トラウシュ(1999)、p.43.
  22. ^ a b トラウシュ(1999)、pp.42-43. 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "T42-3"が異なる内容で複数回定義されています
  23. ^ トラウシュ(1999)、p.23.
  24. ^ トラウシュ(1999)、pp.25-26.
  25. ^ トラウシュ(1999)、p.49.
  26. ^ トラウシュ(1999)、pp.45-7.
  27. ^ トラウシュ(1999)、p.56.
  28. ^ トラウシュ(1999)、pp.55-56.
  29. ^ トラウシュ(1999)、pp.47-56.
  30. ^ a b トラウシュ(1999)、p.50.
  31. ^ a b c d e 森田(1998)、p.402.
  32. ^ a b トラウシュ(1999)、p.57.
  33. ^ a b トラウシュ(1999)、p.48.
  34. ^ トラウシュ(1999)、p.52.
  35. ^ トラウシュ(1999)、pp.57-58.
  36. ^ a b トラウシュ(1999)、p.58.
  37. ^ トラウシュ(1999)、pp.59-60.
  38. ^ トラウシュ(1999)、p.61.
  39. ^ a b 森田(1998)、p.362.
  40. ^ トラウシュ(1999)、p.62.
  41. ^ 森田(1998)、pp.364-365.
  42. ^ 森田(1998)、pp.367-8.
  43. ^ トラウシュ(1999)、pp.48-9.
  44. ^ 森田(1998)、pp.369-370.
  45. ^ トラウシュ(1999)、pp.62-3.
  46. ^ 森田(1998)、p.372.
  47. ^ a b トラウシュ(1999)、p.64.
  48. ^ トラウシュ(1999)、p.69.
  49. ^ トラウシュ(1999)、pp.65-67.
  50. ^ a b c トラウシュ(1999)、p.70.
  51. ^ トラウシュ(1999)、pp.69-70.
  52. ^ a b 森田(1998)、p.406.
  53. ^ トラウシュ(1999)、pp.71-74.
  54. ^ トラウシュ(1999)、pp.74-75.
  55. ^ トラウシュ(1999)、pp.76-77.
  56. ^ トラウシュ(1999)、pp.75-77.
  57. ^ トラウシュ(1999)、pp.77-78.
  58. ^ トラウシュ(1999)、pp.82-83.
  59. ^ トラウシュ(1999)、p.95.
  60. ^ トラウシュ(1999)、pp.80-82.
  61. ^ トラウシュ(1999)、pp.84-85.
  62. ^ トラウシュ(1999)、p.87.
  63. ^ トラウシュ(1999)、pp.86-88.
  64. ^ トラウシュ(1999)、p.88.
  65. ^ 森田(1998)、p.408.
  66. ^ トラウシュ(1999)、pp.93-95.
  67. ^ トラウシュ(1999)、pp.95-97.
  68. ^ a b 森田(1998)、p.411.
  69. ^ トラウシュ(1999)、p.89.
  70. ^ トラウシュ(1999)、pp.88-89.
  71. ^ トラウシュ(1999)、pp.91-93.
  72. ^ トラウシュ(1999)、p.92.より引用
  73. ^ トラウシュ(1999)、p.98.
  74. ^ a b トラウシュ(1999)、pp.100-101.
  75. ^ 森田(1998)、p.409.
  76. ^ トラウシュ(1999)、p.110.
  77. ^ 森田(1998)、p.410.
  78. ^ トラウシュ(1999)、p.111.
  79. ^ トラウシュ(1999)、pp.102-103.
  80. ^ トラウシュ(1999)、pp.111-112.
  81. ^ トラウシュ(1999)、pp.105-106.
  82. ^ トラウシュ(1999)、p.112.
  83. ^ トラウシュ(1999)、p.107.
  84. ^ トラウシュ(1999)、pp.115-116.
  85. ^ トラウシュ(1999)、pp.116-117.
  86. ^ トラウシュ(1999)、pp.116-118.
  87. ^ トラウシュ(1999)、pp.118-120.
  88. ^ トラウシュ(1999)、p.120.
  89. ^ トラウシュ(1999)、pp.139-140.
  90. ^ トラウシュ(1999)、pp.141-142.
  91. ^ a b c d e トラウシュ(1999)、p.130.
  92. ^ トラウシュ(1999)、p.90.
  93. ^ a b トラウシュ(1999)、p.133.
  94. ^ トラウシュ(1999)、p.131.
  95. ^ トラウシュ(1999)、pp.131-133.
  96. ^ トラウシュ(1999)、pp.143-144.
  97. ^ トラウシュ(1999)、pp.144-146.
  98. ^ トラウシュ(1999)、pp.146-147.
  99. ^ トラウシュ(1999)、p.148.
  100. ^ トラウシュ(1999)、pp.147-148.
  101. ^ a b トラウシュ(1999)、pp.121-122.
  102. ^ トラウシュ(1999)、pp.125-127.
  103. ^ トラウシュ(1999)、p.127.
  104. ^ トラウシュ(1999)、pp.127-128.
  105. ^ トラウシュ(1999)、p.128.
  106. ^ トラウシュ(1999)、pp.127-129.
  107. ^ トラウシュ(1999)、pp.134-137.
  108. ^ トラウシュ(1999)、pp.136-139.
  109. ^ トラウシュ(1999)、p.156.
  110. ^ トラウシュ(1999)、p.152.
  111. ^ トラウシュ(1999)、pp.152-153.
  112. ^ トラウシュ(1999)、pp.153-154.
  113. ^ a b トラウシュ(1999)、p.155.
  114. ^ トラウシュ(1999)、pp.154-155.
  115. ^ トラウシュ(1999)、pp.155-156.
  116. ^ トラウシュ(1999)、pp.156-157.
  117. ^ トラウシュ(1999)、p.157.
  118. ^ トラウシュ(1999)、pp.157-158.
  119. ^ a b トラウシュ(1999)、pp.159-160.
  120. ^ トラウシュ(1999)、pp.161-162.
  121. ^ トラウシュ(1999)、pp.162-163.
  122. ^ トラウシュ(1999)、pp.163-166.
  123. ^ トラウシュ(1999)、pp.167-168.
  124. ^ トラウシュ(1999)、p.169.
  125. ^ トラウシュ(1999)、pp.168-9.
  126. ^ a b c トラウシュ(1999)、p.171. 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "T171"が異なる内容で複数回定義されています
  127. ^ a b トラウシュ(1999)、pp.166-7.
  128. ^ a b c d e トラウシュ(1999)、pp.173-4.

参考文献

  • G.トラウシュ著 岩崎允彦訳『ルクセンブルクの歴史小さな国の大きな歴史』刀水書房isbn=4-88708-239-8、1999年。 
  • 森田安一編『スイス・ベネルクス史史』山川出版社、1998年。ISBN 4-634-41440-6 
  • 在ベルギー日本国大使館編・外務省欧亜局監修『世界各国便覧叢書ベルギー王国・ルクセンブルク大公国』日本国際問題研究所、1977年。