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解放戦争 (ドイツ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
諸国民戦争から転送)
解放戦争(ドイツ)
第六次対仏大同盟

アレクサンダー・サウルヴァイドによるライプツィヒの戦い
1813年–1814年
場所ドイツ、中央ヨーロッパ
結果 対仏大同盟の勝利
領土の
変化
ライン同盟の解体[1]
ノルウェースウェーデンへ割譲
衝突した勢力

当初からの参戦国
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国
ロシア帝国の旗 ロシア帝国
プロイセン王国の旗 プロイセン王国
スウェーデンの旗 スウェーデン
イギリスの旗 イギリス
メクレンブルク=シュヴェリーン
ライプツィヒの戦い後

ザクセン王国
バイエルン王国の旗 バイエルン王国
ヴュルテンベルク王国の旗 ヴュルテンベルク王国

フランスの旗 フランス帝国


ライン同盟[注釈 2]

デンマークの旗 デンマーク=ノルウェー
指揮官
オーストリア帝国の旗カール・フィリップ
ロシア帝国の旗 アレクサンドル1世
ロシア帝国の旗 ミハイル・バルクライ・ド・トーリ
ロシア帝国の旗 ピョートル・ヴィトゲンシュテイン
ロシア帝国の旗 レオンティイ・レオンティイエビッチ・ベニグセン
ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル
スウェーデンの旗 カール・ヨハン王太子
ナポレオン1世
ウジェーヌ・ド・ボアルネ
ジャック・マクドナル
ニコラ・ウディノ
ミシェル・ネイ
戦力

1813年8月16日:
合計: 860,000名[2]

野戦軍:
512,113名[2]
1,380門[2]

1813年8月16日:
合計: 700,000名[3]

野戦軍:
442,810 名[4]
大砲 1,284門[4]
被害者数
299,000名[5]
  • 戦傷者 223,000名
  • 捕虜・行方不明者 76,000名
446,000名[5][6]
  • 戦死者 60,000名
  • 戦傷者 196,000名
  • 捕虜・行方不明者 190,000名

解放戦争(かいほうせんそう、ドイツ語: Befreiungskriege英語: German War of Liberation)は、ナポレオン戦争の最終段階のドイツにおける呼称である。

1813年3月17日プロイセンの対フランス宣戦布告に始まり、10月16日-19日のライプツィヒの戦い(諸国民の戦い)を経て、1814年3月31日パリ陥落によってナポレオン1世のドイツ支配は打倒された。1815年ワーテルローの戦いまでを含める見方もある。

日本では「諸国民戦争」ないしは「諸国民解放戦争」と呼ぶ用例も見られるが、この呼称はドイツ語の「解放戦争」(Befreiungskriege)と「諸国民の戦い」(Völkerschlacht, ライプツィヒの戦いの別称)との混同による誤用であると考えられる[注釈 3]また、英語またはドイツ語で「諸国民の戦争」(英語: The War of Nations, ドイツ語: Völkerkrieg)といえば、通常は第一次世界大戦を指す[要出典]

概要

[編集]

ナポレオン1世がロシア遠征に失敗する[1]と、その支配下に置かれたドイツを中心とした各国から反ナポレオンの声が上がってきた。プロイセンでは国軍のみならず義勇軍も組織され、フリードリヒ・ウィルヘルム3世は「鉄十字勲章」を創設するなど、督励、鼓舞に熱心であった。

1813年プロイセンの元首相でロシアの皇帝顧問カール・シュタインはナポレオン1世の敗退を好機と捉え、ドイツ諸侯に大同同盟を勧め、「ロシア・ドイツ諸侯軍」を結成。さらにプロイセンにもロシアとの同盟を打診し(カリシュ条約英語版[1]第六次対仏大同盟が成立した。

3月17日に満を持してプロイセンがフランスへ宣戦を布告した[1]。元ナポレオン1世麾下で、王太子となったベルナドットスウェーデンも同月にフランスに宣戦布告した[1]

ロシア・オーストリア・プロイセン・スウェーデンその他の連合軍は、10月16日-19日のライプツィヒの戦いでフランス軍を破り[1]、ナポレオン1世のドイツ支配を打倒した。連合軍はフランス国内へ進撃し、1814年3月31日パリへ入城した[1]

脚注

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注釈

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  1. ^ Duchy of Warsaw as a state was in effect fully occupied by Russian and Prussian forces by May 1813, though most Poles remained loyal to Napoleon.[要出典]
  2. ^ Many member states defected after Battle of Leipzig.[要出典]
  3. ^ 教科書検定において、「諸国民戦争」という用語の用法の誤りが指摘されている[7]

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g 解放戦争』 - コトバンク
  2. ^ a b c Maude 1908, p. 156.
  3. ^ Maude 1908, p. 149.
  4. ^ a b Maude 1908, p. 148.
  5. ^ a b Bodart 1916, p. 46.
  6. ^ Bodart 1916, p. 130.
  7. ^ 文部科学省