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'''角川源義'''(かどかわ みなよし、[[1917年]]([[大正]]6年)[[10月9日]] - [[1975年]]([[昭和]]50年)[[10月27日]])は[[日本]]の[[実業家]]。[[角川書店]](現・角川ホールディングス)の創立者、[[俳人]]。俳号は源義(げんぎ)、水羊(すいよう)。
'''角川源義'''(かどかわ げんよし、[[1917年]]([[大正]]6年)[[10月9日]] - [[1975年]]([[昭和]]50年)[[10月27日]])は[[日本]]の[[実業家]]。[[角川書店]](現・角川ホールディングス)の創立者、[[俳人]]。俳号は源義(げんぎ)、水羊(すいよう)。


==経歴==
==経歴==

2009年3月22日 (日) 14:07時点における版

角川源義(かどかわ げんよし、1917年大正6年)10月9日 - 1975年昭和50年)10月27日)は日本実業家角川書店(現・角川ホールディングス)の創立者、俳人。俳号は源義(げんぎ)、水羊(すいよう)。

経歴

富山県中新川郡東水橋町(現富山市)生まれ。生家は北陸一と謳われた富裕な米穀問屋。既に旧制神通中学校(現在の富山県立富山中部高等学校)に在学中から俳句を作り始め、国語漢文に関しては教師を困らせるほどの博識ぶりだったが、数学が苦手で第四高等学校受験に失敗し、1936年に上京して第一東京市立中学校(東京都立九段高等学校)の補習科で浪人生活を送っていたが、古書店で折口信夫の著書『古代研究』に出会ったことが契機となり、父の反対を押し切って國學院大學文学部予科に入学。在学中、国文学科折口信夫に師事した。1941年12月8日、臨時徴兵制度によって大学を繰り上げ卒業。

城北中学校教師を経て、1945年(昭和20年)11月東京都板橋区小竹町で角川書店を設立。既に岩波書店から刊行されベストセラーになっていた阿部次郎著『三太郎の日記』を合本として上梓し、成功を収めた。

1949年角川文庫を発刊。文庫という分野は岩波書店新潮社という二つの老舗によって既に開拓されていたため、新興出版社である角川書店の進出が成功するかどうか危ぶまれたが、結果としては関係者が驚くほどの成功ぶりだった。

1952年11月、全25巻の『昭和文学全集』を発刊。1巻あたり15万部強の記録的な売れ行きを示し、文芸出版社としての角川書店の評価を確立した。私生活の面では鬼源と綽名された癇癪持ちであると同時に漁色家でもあり、自らの家庭を顧みずに複数の愛人を作って私生児を産ませるなど奔放な生き方を貫いた。長男の角川春樹が父に対しての反逆心が出発点だったと「私の履歴書」ほかで述べている。

1975年、句集『西行の日』で読売文学賞受賞。同年、58歳の若さで急逝。1979年(昭和54)年に学術賞「角川源義賞」が開始。毎年国史国文学の著作に授与される。25回目(2003年)から、文学・歴史研究部門に名称が変更された。

家庭

辺見じゅん(作家、幻戯書房代表)、角川春樹(俳人、角川春樹事務所特別顧問、幻戯書房会長)、角川歴彦(角川ホールディングス社長)の父にあたる。

トピックス

井沢元彦の小説『GEN-源氏物語秘録』や荒俣宏の小説『帝都物語』に登場する。

また関連書籍として、鎗田清太郎『角川書店をいかにして興したか』(角川書店 1995年)、『角川源義読本』俳句編集部編 (角川学芸出版 2005年)

著書

  • 『語り物文芸の発生』 東京堂出版 1975年 遺著
  • 源義経』 現在は講談社学術文庫 共著
  • 『角川源義全集』全5巻 (角川書店 1988年)

関連項目

外部リンク