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「マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス」の版間の差分

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2007年3月21日 (水) 01:54時点における版

マリー・テレーズMarie Thérèse)はフランスブルボン家の女性(他家から嫁いできた人物を含む)に多く見られる名前。マリア・テレジア(Maria Theresia)あるいはマリア・テレサ(Maria Teresa, Maria Theresa)のフランス語形でもある。


ファイル:Madame royale.jpg
マリー・テレーズ(アドルフ・ヴェルトミュラー作、1784年)

マリー・テレーズ・シャルロットMarie Thérèse Charlotte de France, 1778年12月19日 - 1851年10月19日)は、フランス王太子ルイ・アントワーヌアングレーム公、シャルル10世の長男)の妃。父はルイ16世、母はマリー・アントワネット

生涯

革命下の少女時代、流転の王女

マリー・アントワネットと子供たち(ヴィジェ=ルブラン作、1787年。ヴェルサイユ宮殿

マリー・テレーズはルイ16世とマリー・アントワネットの長子、第一王女として生まれた。幼少期からブルボン家とオーストリア・ハプスブルク家の血を引くことに誇りを持つプライドの高い性格であったと伝えられる。フランス革命以前は、人々からマダム・ロワイヤル(Madame Royale, 王女様)と呼ばれ愛される。12歳でヴァレンヌ事件が起こり、13歳でタンプル塔軟禁された。父母と叔母エリザベート王女は革命軍によりギロチンで処刑され、弟ルイ・シャルル(ルイ17世)とも引き離され、約2年間は1人で幽閉生活を送る。

1795年、フランス人捕虜と引き換えにウィーンへ送られる。1799年、従兄のアングレーム公ルイ・アントワーヌと結婚する。この結婚は叔父アルトワ伯爵(後のシャルル10世)が、王政復古が成った際に気の毒な王女とともにフランスに戻ることでイメージアップを図る狙いがあったとの説もある。結婚後は、亡命中の身分であったアルトワ伯爵らとロシアポーランドなどを長期間転々とすることになったため、「流転の王女」というニックネームもある。

当時のポーランド(ポーランド分割後で独立国としては存在しなかった)では熱心なカトリック信者である彼女を非常に歓迎したが、その他の国々ではアルトワ伯爵一家を旧時代のお荷物として疎み、決して厚遇されることはなかった。一家は生活のため借金を重ね、マリー・テレーズの宝石を売りながら亡命生活を送った。

マリー・テレーズ(ハインリヒ・フューガー作、1795年。エルミタージュ美術館蔵)

王政復古後

マリー・テレーズはブルボン家の再興に熱意を燃やし、ナポレオン百日天下では、反ナポレオンの強烈なアジテーションを行い、ナポレオンから「ブルボン家唯一の男性」と揶揄される。中道的で、時には自由主義者と妥協する事もいとわなかった叔父ルイ18世とはそりが合わず、政治面で何度も衝突したという。また、過激で無慈悲な白色テロを扇動した。これには、幼少期に受けた過酷な体験が影を落としていたといえる。そのため、復讐のためフランスに戻った王女とも呼ばれるほどであった。

1824年、アルトワ伯爵が国王シャルル10世となり、マリー・テレーズはフランス王太子妃となる。宮廷では、ナポレオン時代に貴族となった新興貴族には決して気を許さず、名前を呼ぶときも平民時代の名前で呼んでいたとの記録がある。1830年7月革命によって、またしても長い亡命生活を送ることとなる。1851年、亡命先のロンドン郊外で死亡。フランス・ブルボン朝最後の王太子妃となった。

タンプル塔幽閉までは、かわいらしい笑顔の肖像画が沢山ある。しかし、その後の過酷な体験により、以後の数少ない肖像画には気難しそうな女性が描かれている。革命から解放された当初の彼女は、その悲痛な体験のため、フランス国民からの同情を受けていた。しかし堅物で暗い性格のため、王太子妃となっても、一部の王党派や聖職者の人気を除いて、民衆からの人気はあまり無かったと伝えられる。

弟ルイ17世の生存説に対しては、問題視することもなく「弟の髪の色は違います」と一蹴したという。シェーンブルン宮殿フェルセン伯爵と再会した時には、一言も言葉を交わさなかったという。

関連

近年ドイツに、「マリー・テレーズはタンプル塔で別人と引き換えられてオーストリアに送られた」とする説を研究する人々がいる。