「アル=マンスール2世ムハンマド」の版間の差分
Yukimaru11 (会話 | 投稿記録) from en: Al-Mansur II Muhammad 13:27 26 March 2024 UTC |
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'''アル=マンスール2世ムハンマド'''とは、[[アイユーブ朝]]、[[マムルーク朝]]の領主であり、1244年から1284年にかけて[[歴史的シリア|シリア]]の[[ハマー (都市)|ハマー]]を統治していた。アイユーブ朝の創始者である[[サラーフッディーン]](サラディン)の兄弟シャーハンシャーの玄孫にあたる。 |
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== 若年期 == |
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アイユーブ朝のスルターンである[[サーリフ|アッ=サーリフ]]が権力を強化していた時期に、アル=マンスールはハマーのアイユーブ家の当主となった。1247年の春にアッ=サーリフはシリアを巡行し、アル=マンスール、ホムスの領主であるアル=アシュラフ・ムーサーと対面した。アル=マンスールは12歳、アル=アシュラフは18歳と二人とも若年であり、領地を相続したばかりだった<ref>Humphreys, R.S. From Saladin to the Mongols: The Ayyubids of Damascus 1193-1260, SUNY Press 1977 p.91</ref>。アッ=サーリフは競争相手である[[アレッポ]]のアン=ナースィル・ユースフと戦い、1249年に[[十字軍]]の進攻にに対応するため、エジプトに帰還した。エジプトに帰国して間もなく、アッ=サーリフは没する<ref>Riley-Smith, J. (ed.) The Atlas of the Crusades, Times Books, London 1990 p.96</ref>。アッ=サーリフの子[[トゥーラーン・シャー|アル=ムアッザム・トゥーラーン・シャー]]がスルターンの地位を継承するが、彼の政権は短命に終わり、1250年にアイユーブ朝に代わってマムルーク朝政権がエジプトに成立した。 |
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| name = アル=マンスール2世ムハンマド |
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| title = [[ハマのエミール]] |
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| reign = 1244年 - 1284年 |
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| predecessor = [[アル=ムザッファル2世マフムード]] |
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| successor = [[アル=ムザッファル3世マフムード]] |
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| dynasty = [[アユービード朝|アユービード]] |
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| birth_date = {{birth year|1214}} |
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| death_date = {{death year and age|1284|1214}} |
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| religion = [[スンナ派イスラム教]] |
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| module = {{Infobox military person | embed = yes |
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| serviceyears = {{c.}} 1260年 - 1280年 |
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| branch = アユービード軍(マムルーク部隊) |
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| battles = [[アイン・ジャールートの戦い]] |
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| allegiance = [[アユービード朝|アユービード]] |
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== モンゴルの脅威 == |
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'''アル=マンスール2世ムハンマド'''は、1244年から1284年まで[[ハマ]]の[[アユービード]]エミールであり、[[アル=ムザッファル2世マフムード]]の息子で、[[アル=マンスール1世ムハンマド]]の孫である。彼は[[サラディン|サラディン]]の兄弟[[ヌール・アッディーン・シャハーンシャー]]の曾孫でもあり、母はガジーヤ・カトゥーンである。 |
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エジプトにおける政変の結果、アレッポのアン=ナースィルがアイユーブ家の主導権を握り、アル=マンスールは他のアイユーブ家の王侯とともに、彼がエジプト侵攻のために招集した軍団に加わった。アイユーブ朝軍は[[カイロ]]郊外のサーリヒーヤで大敗し、その後の数年間にマムルーク朝はパレスチナとシリア南部に勢力を拡大していった。マムルーク朝の成立と同時期に、東方の[[モンゴル帝国]]の進出が中東諸国の深刻な脅威となり、1258年にモンゴル軍は[[アッバース朝]]の首都[[バグダード]]を占領した<ref>Mundhir Fattah, Hala and Caso, Frank, A Brief History of Iraq, Infobase Publishing, New York 2009, p.101</ref>。1259年9月に[[フレグ]]はシリア遠征を開始し、モンゴルの攻撃に際してアル=マンスールはハマーの守備を宦官のムルシードに委ね、[[ダマスカス]]に移動した{{Sfn|ドーソン|1973|pp=303,318}}。1260年1月にモンゴル軍はアレッポを包囲し、アレッポの司令官はフレグの交付勧告を拒絶したが、7日間の包囲の後にアレッポは陥落し、町は略奪に晒された{{Sfn|ドーソン|1973|pp=315-316}}。アレッポの陥落後、ムルシードも町を脱出してダマスカスに逃れ、残されたハマーの住民はフレグに降伏を申し入れた{{Sfn|ドーソン|1973|p=318}}。フレグは町の助命に同意し、ホスローシャーというペルシア人の官吏を代官として派遣し、フレグの命令でハマーのシタデル(城塞)は破壊された{{Sfn|ドーソン|1973|pp=318,325}}。 |
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アレッポ陥落の報告がダマスカスにもたらされると、アン=ナースィルはアル=マンスールや少数の部下を伴ってエジプトに向かい、マムルーク朝のスルターン・[[ムザッファル・クトゥズ|クトゥズ]]に支援を求めた{{Sfn|ドーソン|1973|p=319}}。しかし、アン=ナースィルはクトゥズの陣営に近づくにつれて、不信感を抱くようになっていった。南に進むモンゴル軍と北に進むマムルーク軍に挟まれ、彼は家族をアル=マンスールに託し、軍の指揮権を彼に委譲し、クトゥズの陣営に参加するよう指示した。アン=ナースィル自身は少数の従者を連れて[[カラク (ヨルダン)|カラク]]に向かったが、移動中にモンゴル軍に捕らえられ、フレグの元に移送された{{Sfn|ドーソン|1973|p=327}}。 |
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== 初期の経歴 == |
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アル=マンスールは、エジプトのスルタン[[アス=サリーフ・アユーブ]]が権力を consolidating している時期に即位した。1247年の春、アス=サリーフ・アユーブはシリアへ向けて出発し、[[ホムスのアル=アシュラフ・ムーサ]]およびアル=マンスールと会見した。二人はどちらも若く、アル=アシュラフ・ムーサは18歳、アル=マンスールはわずか12歳であった<ref>Humphreys, R.S. ''From Saladin to the Mongols: The Ayyubids of Damascus 1193-1260'', SUNY Press 1977, p.91.</ref>。 |
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== マムルーク |
== マムルーク朝への従属 == |
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アン=ナースィルの指示に従ってマムルーク軍に参加したアル=マンスールは、マムルーク朝に従属しているとはいえ、ハマーを回復する決定的な一歩を踏み出した。マムルーク軍は北のアイン・ジャールートに向かい、モンゴル軍に大勝を収めた([[アイン・ジャールートの戦い]])。アル=マンスールは戦闘で功績を挙げ、マムルーク朝の臣下としてハマーの領地に帰国した<ref>Humphreys, R.S. From Saladin to the Mongols: The Ayyubids of Damascus 1193-1260, SUNY Press 1977 p.91</ref>。彼がマムルーク朝に忠誠を誓ったことが契機となり、その後の数年間に他のアイユーブ家の王侯も徐々にマムルーク朝に吸収されていったが、ハマーのアイユーブ家はシリアの都市の中で最も長く存続し、1341年に支配権を喪失した<ref>Irwin R., The Middle East in the Middle Ages: The Early Mamluk Sultanate 1250-1382, Southern Illinois University Press, Carbondale 1986, p.46</ref>。 |
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エジプトでのアユービード朝の崩壊後、アレッポの[[アナーサー・ユースフ]]が主なアユービードの支配者となり、アル=マンスールは彼の軍に加わったが、カイロ近郊の[[アル=クーラの戦い]]で敗北を喫した。この後、モンゴルの侵攻が始まり、アル=マンスールはハマを守るために外交を行った<ref>Grousset, R. ''The Empire of the Steppes: A History of Central Asia'', State University of New Jersey 2002, p. 362.</ref>。 |
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1284年までアル=マンスールの治世は続き、彼の子のアル=ムザッファル3世マフムードが跡を継いだ。 |
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アル=マンスールはマムルークに加わり、1260年の[[アイン・ジャールートの戦い]]での勝利に貢献し、モンゴルの侵略を食い止めた。彼の忠誠心により、彼はマムルークの保護の下でハマを支配することが許された<ref>Irwin, R. ''The Middle East in the Middle Ages: The Early Mamluk Sultanate 1250-1382'', Southern Illinois University Press, 1986, p. 46.</ref>。 |
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== 脚注 == |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* {{Citation|和書|author=ドーソン|author-link =アブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン|translator=佐口透|title=モンゴル帝国史|volume=4|series=東洋文庫|publisher=平凡社|date=1973年}} |
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2024年10月14日 (月) 02:03時点における版
アル=マンスール2世ムハンマドとは、アイユーブ朝、マムルーク朝の領主であり、1244年から1284年にかけてシリアのハマーを統治していた。アイユーブ朝の創始者であるサラーフッディーン(サラディン)の兄弟シャーハンシャーの玄孫にあたる。
若年期
アイユーブ朝のスルターンであるアッ=サーリフが権力を強化していた時期に、アル=マンスールはハマーのアイユーブ家の当主となった。1247年の春にアッ=サーリフはシリアを巡行し、アル=マンスール、ホムスの領主であるアル=アシュラフ・ムーサーと対面した。アル=マンスールは12歳、アル=アシュラフは18歳と二人とも若年であり、領地を相続したばかりだった[1]。アッ=サーリフは競争相手であるアレッポのアン=ナースィル・ユースフと戦い、1249年に十字軍の進攻にに対応するため、エジプトに帰還した。エジプトに帰国して間もなく、アッ=サーリフは没する[2]。アッ=サーリフの子アル=ムアッザム・トゥーラーン・シャーがスルターンの地位を継承するが、彼の政権は短命に終わり、1250年にアイユーブ朝に代わってマムルーク朝政権がエジプトに成立した。
モンゴルの脅威
エジプトにおける政変の結果、アレッポのアン=ナースィルがアイユーブ家の主導権を握り、アル=マンスールは他のアイユーブ家の王侯とともに、彼がエジプト侵攻のために招集した軍団に加わった。アイユーブ朝軍はカイロ郊外のサーリヒーヤで大敗し、その後の数年間にマムルーク朝はパレスチナとシリア南部に勢力を拡大していった。マムルーク朝の成立と同時期に、東方のモンゴル帝国の進出が中東諸国の深刻な脅威となり、1258年にモンゴル軍はアッバース朝の首都バグダードを占領した[3]。1259年9月にフレグはシリア遠征を開始し、モンゴルの攻撃に際してアル=マンスールはハマーの守備を宦官のムルシードに委ね、ダマスカスに移動した[4]。1260年1月にモンゴル軍はアレッポを包囲し、アレッポの司令官はフレグの交付勧告を拒絶したが、7日間の包囲の後にアレッポは陥落し、町は略奪に晒された[5]。アレッポの陥落後、ムルシードも町を脱出してダマスカスに逃れ、残されたハマーの住民はフレグに降伏を申し入れた[6]。フレグは町の助命に同意し、ホスローシャーというペルシア人の官吏を代官として派遣し、フレグの命令でハマーのシタデル(城塞)は破壊された[7]。
アレッポ陥落の報告がダマスカスにもたらされると、アン=ナースィルはアル=マンスールや少数の部下を伴ってエジプトに向かい、マムルーク朝のスルターン・クトゥズに支援を求めた[8]。しかし、アン=ナースィルはクトゥズの陣営に近づくにつれて、不信感を抱くようになっていった。南に進むモンゴル軍と北に進むマムルーク軍に挟まれ、彼は家族をアル=マンスールに託し、軍の指揮権を彼に委譲し、クトゥズの陣営に参加するよう指示した。アン=ナースィル自身は少数の従者を連れてカラクに向かったが、移動中にモンゴル軍に捕らえられ、フレグの元に移送された[9]。
マムルーク朝への従属
アン=ナースィルの指示に従ってマムルーク軍に参加したアル=マンスールは、マムルーク朝に従属しているとはいえ、ハマーを回復する決定的な一歩を踏み出した。マムルーク軍は北のアイン・ジャールートに向かい、モンゴル軍に大勝を収めた(アイン・ジャールートの戦い)。アル=マンスールは戦闘で功績を挙げ、マムルーク朝の臣下としてハマーの領地に帰国した[10]。彼がマムルーク朝に忠誠を誓ったことが契機となり、その後の数年間に他のアイユーブ家の王侯も徐々にマムルーク朝に吸収されていったが、ハマーのアイユーブ家はシリアの都市の中で最も長く存続し、1341年に支配権を喪失した[11]。
1284年までアル=マンスールの治世は続き、彼の子のアル=ムザッファル3世マフムードが跡を継いだ。
脚注
- ^ Humphreys, R.S. From Saladin to the Mongols: The Ayyubids of Damascus 1193-1260, SUNY Press 1977 p.91
- ^ Riley-Smith, J. (ed.) The Atlas of the Crusades, Times Books, London 1990 p.96
- ^ Mundhir Fattah, Hala and Caso, Frank, A Brief History of Iraq, Infobase Publishing, New York 2009, p.101
- ^ ドーソン 1973, pp. 303, 318.
- ^ ドーソン 1973, pp. 315–316.
- ^ ドーソン 1973, p. 318.
- ^ ドーソン 1973, pp. 318, 325.
- ^ ドーソン 1973, p. 319.
- ^ ドーソン 1973, p. 327.
- ^ Humphreys, R.S. From Saladin to the Mongols: The Ayyubids of Damascus 1193-1260, SUNY Press 1977 p.91
- ^ Irwin R., The Middle East in the Middle Ages: The Early Mamluk Sultanate 1250-1382, Southern Illinois University Press, Carbondale 1986, p.46
参考文献
- ドーソン 著、佐口透 訳『モンゴル帝国史』 4巻、平凡社〈東洋文庫〉、1973年。