コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

アル=マンスール2世ムハンマド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アル=マンスールの依頼によって製作された大理石製の洗面器。(ヴィクトリア&アルバート博物館所蔵)

アル=マンスール2世ムハンマドとは、アイユーブ朝マムルーク朝の領主であり、1244年から1284年にかけてシリアハマーを統治していた。アイユーブ朝の創始者であるサラーフッディーン(サラディン)の兄弟シャーハンシャーの玄孫にあたる。

若年期

[編集]

アイユーブ朝のスルターンであるアッ=サーリフが権力を強化していた時期に、アル=マンスールはハマーのアイユーブ家の当主となった。1247年の春にアッ=サーリフはシリアを巡行し、アル=マンスール、ホムスの領主であるアル=アシュラフ・ムーサーと対面した。アル=マンスールは12歳、アル=アシュラフは18歳と二人とも若年であり、領地を相続したばかりだった[1]。アッ=サーリフは競争相手であるアレッポのアン=ナースィル・ユースフと戦い、1249年に十字軍の進攻にに対応するため、エジプトに帰還した。エジプトに帰国して間もなく、アッ=サーリフは没する[2]。アッ=サーリフの子アル=ムアッザム・トゥーラーン・シャーがスルターンの地位を継承するが、彼の政権は短命に終わり、1250年にアイユーブ朝に代わってマムルーク朝政権がエジプトに成立した。

モンゴルの脅威

[編集]

エジプトにおける政変の結果、アレッポのアン=ナースィルがアイユーブ家の主導権を握り、アル=マンスールは他のアイユーブ家の王侯とともに、彼がエジプト侵攻のために招集した軍団に加わった。アイユーブ朝軍はカイロ郊外のサーリヒーヤで大敗し、その後の数年間にマムルーク朝はパレスチナとシリア南部に勢力を拡大していった。マムルーク朝の成立と同時期に、東方のモンゴル帝国の進出が中東諸国の深刻な脅威となり、1258年にモンゴル軍はアッバース朝の首都バグダードを占領した[3]。1259年9月にフレグはシリア遠征を開始し、モンゴルの攻撃に際してアル=マンスールはハマーの守備を宦官のムルシードに委ね、ダマスカスに移動した[4]。1260年1月にモンゴル軍はアレッポを包囲し、アレッポの司令官はフレグの交付勧告を拒絶したが、7日間の包囲の後にアレッポは陥落し、町は略奪に晒された[5]。アレッポの陥落後、ムルシードも町を脱出してダマスカスに逃れ、残されたハマーの住民はフレグに降伏を申し入れた[6]。フレグは町の助命に同意し、ホスローシャーというペルシア人の官吏を代官として派遣し、フレグの命令でハマーのシタデル(城塞)は破壊された[7]

アレッポ陥落の報告がダマスカスにもたらされると、アン=ナースィルはアル=マンスールや少数の部下を伴ってエジプトに向かい、マムルーク朝のスルターン・クトゥズに支援を求めた[8]。しかし、アン=ナースィルはクトゥズの陣営に近づくにつれて、不信感を抱くようになっていった。南に進むモンゴル軍と北に進むマムルーク軍に挟まれ、彼は家族をアル=マンスールに託し、軍の指揮権を彼に委譲し、クトゥズの陣営に参加するよう指示した。アン=ナースィル自身は少数の従者を連れてカラクに向かったが、移動中にモンゴル軍に捕らえられ、フレグの元に移送された[9]

マムルーク朝への従属

[編集]

アン=ナースィルの指示に従ってマムルーク軍に参加したアル=マンスールは、マムルーク朝に従属しているとはいえ、ハマーを回復する決定的な一歩を踏み出した。マムルーク軍は北のアイン・ジャールートに向かい、モンゴル軍に大勝を収めた(アイン・ジャールートの戦い)。アル=マンスールは戦闘で功績を挙げ、マムルーク朝の臣下としてハマーの領地に帰国した[10]。彼がマムルーク朝に忠誠を誓ったことが契機となり、その後の数年間に他のアイユーブ家の王侯も徐々にマムルーク朝に吸収されていったが、ハマーのアイユーブ家はシリアの都市の中で最も長く存続し、1341年に支配権を喪失した[11]

1284年までアル=マンスールの治世は続き、彼の子のアル=ムザッファル3世マフムードが跡を継いだ。

脚注

[編集]
  1. ^ Humphreys, R.S. From Saladin to the Mongols: The Ayyubids of Damascus 1193-1260, SUNY Press 1977 p.91
  2. ^ Riley-Smith, J. (ed.) The Atlas of the Crusades, Times Books, London 1990 p.96
  3. ^ Mundhir Fattah, Hala and Caso, Frank, A Brief History of Iraq, Infobase Publishing, New York 2009, p.101
  4. ^ ドーソン 1973, pp. 303, 318.
  5. ^ ドーソン 1973, pp. 315–316.
  6. ^ ドーソン 1973, p. 318.
  7. ^ ドーソン 1973, pp. 318, 325.
  8. ^ ドーソン 1973, p. 319.
  9. ^ ドーソン 1973, p. 327.
  10. ^ Humphreys, R.S. From Saladin to the Mongols: The Ayyubids of Damascus 1193-1260, SUNY Press 1977 p.91
  11. ^ Irwin R., The Middle East in the Middle Ages: The Early Mamluk Sultanate 1250-1382, Southern Illinois University Press, Carbondale 1986, p.46

参考文献

[編集]
  • ドーソン 著、佐口透 訳『モンゴル帝国史』 4巻、平凡社〈東洋文庫〉、1973年。