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'''アーネスト・ヘンリー・グリューニング'''(英:Ernest Henry Gruening、[[1887年]][[2月6日]]-[[1974年]][[6月26日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[ジャーナリスト]]、政治家。[[1939年]]から[[1953年]]まで[[アラスカ準州]][[アラスカ知事|知事]]、[[1959年]]から[[1969年]]まで[[アラスカ州]]選出の[[アメリカ合衆国上院]]議員を務めた。[[民主党 (アメリカ合衆国)|民主党]]所属。 |
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== 初期の経歴 == |
== 初期の経歴 == |
2024年7月18日 (木) 23:47時点における最新版
アーネスト・グリューニング Ernest Henry Gruening | |
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アーネスト・ヘンリー・グリューニング | |
生年月日 | 1887年2月6日 |
出生地 | ニューヨーク州ニューヨーク |
没年月日 | 1974年6月26日(87歳没) |
死没地 | ワシントンD.C. |
出身校 | ハーバード大学 |
所属政党 | 民主党 |
配偶者 | ドロシー・エリザベス・スミス |
選挙区 | アラスカ州 |
当選回数 | 2 |
在任期間 | 1959年1月3日 - 1969年1月3日 |
アーネスト・ヘンリー・グリューニング(英:Ernest Henry Gruening、1887年2月6日-1974年6月26日)は、アメリカ合衆国のジャーナリスト、政治家。1939年から1953年までアラスカ準州知事、1959年から1969年までアラスカ州選出のアメリカ合衆国上院議員を務めた。民主党所属。
初期の経歴
[編集]グリューニングはニューヨーク市で生まれ、1907年にハーバード大学を卒業し、1912年にはハーバード・メディカルスクールを卒業した。その後医学を断念し、ジャーナリストへの道を歩んだ。当初は1912年に「ボストン・アメリカン」の記者となり、続いて「ボストン・イブニング・ヘラルド」の編集部員と校正員となり、1912年から1913年は論説委員となった。その後の4年間、「ボストン・イブイング・トラベラー」と「ニューヨーク・トリビューン」の編集主幹を歴任した。第一次世界大戦に従軍した後、1920年から1923年まで「ネイション」の編集員となり、1923年から1933年までは「ニューヨーク・ポスト」の編集員を務めた。
政歴
[編集]グリューニングはニューディール政策に興味を覚えその後の経歴を変えた。1933年の第7回パン・アメリカ会議代議員に指名され、1934年から1939年は内務省の領土および島嶼領有部長、1935年から1937年はプエルトリコ再建管理部管理者に指名された。1838年から1942年にアラスカ国際ハイウェイ委員会に移籍した。1939年、グリューニングはアラスカ準州知事に指名され、この職を14年間務めた。1952年、1956年および1960年の民主党全国大会にアラスカ代表となった。
グリューニングはアラスカの州昇格が未定のまま、1958年にアメリカ合衆国上院議員に選出され、1959年にアラスカ州が成立してから10年間上院議員を務めた。グリューニングの上院議員としての最も著名な行動は、オレゴン州選出のウェイン・モースと共にただ2人でトンキン湾決議に反対票を投じたことだった。また、全国的に緊急電話番号「911」を制定するある意味での議会決議案を提案した功績もあった。
グリューニングは1968年にも再選を求めたが仲間の民主党員マイク・グラベルに敗れた。グラベルは民主党予備選挙でグリューニングを破ったが、グリューニングは独立系候補として一般選挙に出馬し、3位になった。グリューニングは投資会社の社長と立法コンサルタントとして積極的な政治的関与を続けた。グリューニングは1974年6月26日に死んだ。
賛辞
[編集]アラスカ大学フェアバンクス校の講義棟であるアーネスト・グリューニング・ビルはグリューニングの栄誉を称えて名付けられた。1977年、アラスカ州はアメリカ合衆国議会議事堂の国立彫像ホール・コレクションにグリューニングの銅像を寄付した。アラスカ州のイーグル・リバーにあるアーネスト・グリューニング中等学校もグリューニングの栄誉を称えて名付けられた。
参考文献
[編集]- Gruening, Ernest (1973). Many Battles: The Autobiography of Ernest Gruening. Liveright. ISBN 0871405652
- Johnson, Robert David (1998). Ernest Gruening and the American Dissenting Tradition. Harvard University Press. ISBN 978-0-674-26060-3
- Johnson, Robert David (1997). “Anti-Imperialism And The Good Neighbour Policy: Ernest Gruening and Puerto Rican Affairs, 1934-1939”. Journal of Latin American Studies 29 (1): 89–110. doi:10.1017/S0022216X96004634. (Argues Gruening tried to implement the anti-imperialist principles he had outlined in the 1920s. He failed because he lacked local support.)
- Naske, Claus-M (2004). Ernest Gruening: Alaska's Greatest Governor. University of Alaska Press. ISBN 1-889963-35-6
外部リンク
[編集]- United States Congress. "アーネスト・グリューニング (id: G000508)". Biographical Directory of the United States Congress (英語).
- 本稿には、国立彫像ホール・コレクション ウェブサイトの記事を用いた。
公職 | ||
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先代 ジョン・ウェア・トロイ |
アラスカ準州知事 1939年–1953年 |
次代 ベンジャミン・フランクリン・ハインツェルマン |
アメリカ合衆国上院 | ||
先代 州昇格前 |
アラスカ州選出上院議員(第3部) 1959年–1969年 |
次代 マイク・グラベル |