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オルガ (架空の怪獣)2007-01-17T11:53:07(UTC)から曖昧さ回避部分を移動
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*Olga - ヨーロッパ系(主にスラヴ系)の女性名。'''[[オリガ]]'''も参照。
**[[オルガ・クゼンコワ]] - ロシアの陸上競技選手。
**[[オルガ・コルブト]] - ソ連(ベラルーシ)の体操選手。
**[[オルガ・コンティ]] - 『[[美少女紀行]]』の人気モデルの一人。
**[[オルガ・シシギナ]] - カザフスタンの陸上選手。
**[[オルガ・ブリズギナ]] - ソ連(ウクライナ)の陸上競技選手。
**[[オルガ・ボンダレンコ]] - ソ連の陸上競技選手。
**[[オルガ・モロゾワ]] - ソ連のテニス選手。


*オルガ山 - オーストラリアの[[ノーザンテリトリー]]にある巨大な岩山[[カタ・ジュタ]]の別名。

*[[特撮映画]]『[[ゴジラ2000 ミレニアム]]』に登場した架空の[[怪獣]]。本項で後述。
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[[Image:Княгиня Ольга.jpg|right|thumb|オリガ大公妃]]
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2007年1月17日 (水) 12:12時点における版

オリガロシア語Ольгаオーリガウクライナ語Ольгаオーリハ)は、スラヴ人を中心にしばしば見られる女性名前である。ラテン文字表記ではOlgaとなり、オルガと読まれる。



オリガ大公妃
オリガと侍女たち。年代記の挿絵から。

オリガ969年7月11日没)キエフ大公国第2代大公イーゴリ1世の妃。キエフのオリガとも。 夫の死後、キリスト教の一教派、東方正教会洗礼を受けた。洗礼名はヘレナ。ルーシでは最初期のキリスト教改宗者であり、ルーシでもっとも早い時期に聖人とされた一人である。東方正教会では亜使徒の称号をもつ。

プスコフの出身で、903年頃のちのキエフ大公イーゴリ1世と結婚した。平民の娘であったとも貴族の娘であったともいわれる。『ルーシ原初年代記』によれば、879年生まれだが、彼女が息子を産んだのがその65年後であることを考えると、この年代は受け入れがたい。イーゴリ1世の死後、オリガは、イーゴリ1世との間の子スヴャトスラフ1世の摂政としてキエフ・ルーシを統治した(945年963年頃)。

オリガは摂政としての統治のはじめ、夫を暗殺したドレヴリャネ族への徹底した復讐を行ったとされる。また税制を改革し、税法を整備すると共に、それまでは地方の諸侯に頼っていた徴税を、大公直轄の貢税所を設置した上、自身が直接任命した徴税人を配置した。

伝承によれば945年または957年コンスタンティノポリスでキリスト教に改宗した。東ローマ帝国皇帝コンスタンティノス7世は、自著『儀式の書』に、コンスタンティノポリスにおけるオリガ歓迎の儀式の記録を残している。洗礼名へレナはコンスタンティノス7世の皇后へレナ・レカペナにちなむ。スラヴの諸年代記は、洗礼式の際、コンスタンティノス7世をオリガが魅了したなどの恋愛に関する記事を載せているが、実際にはこのとき彼女は相当な高齢であり、またコンスタンティノスも妻帯していたため、このエピソードの史実性は疑わしい。コンスタンティノス7世の記録によれば、オリガの随員もまた全員洗礼を受けた。

洗礼は、東ローマ帝国の援助と支持を獲得し、またその高度な文化を移植しうる人材を獲得するための、たぶんに政治的な動機によるものであったと考えられる。オリガは東ローマ帝国に接近する一方で、東フランク王国オットー1世にも接近し、959年に使者を送ってラテン教会の僧侶の派遣を求めたと西方の記録は伝えている。それによれば、オリガは「司教と司祭たち」をキエフに任命してくれるようオットーに嘆願したが、これは偽りの申し出だったと記録は非難している。メルゼブルクのティトマー(Thietmar of Merseburg)は、マグデブルクの初代司教プラハのアダルベルト(Adalbert of Prague)がキエフの司教として任じられたが、異教徒たちによって追放されたとその年代記に記している。他のいくつかの西方の記録も同様の事件を伝えている。

スヴャトスラフ1世が成人すると、オリガは政治の表舞台から離れた。しかしスヴャトスラフ1世の遠征時には、オリガは孫たちとともに残り、キエフ市を治めた。オリガは986年、Pecheneg族に包囲されたキエフで病没した。

オリガはキリスト教をルーシに広めようとした。息子スヴャトスラフ1世にも洗礼を勧めたが、断られた。オリガの時代には、ルーシにおけるキリスト教(東方正教会)への改宗は個人的・散発的なものに留まっていた。大規模な改宗が行われるのは、オリガの孫でその薫陶を受けたウラディミール1世の時代に入ってからのことになる。