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[[1866年]](慶応2年)に、前島密は「[[漢字御廃止之議]]」という建議書を将軍[[徳川慶喜]]に提出した。これは、国民の間に学問を広めるためには、難しい漢字の使用をやめるべきだという趣旨のもので、我が国の国語国字問題について言文一致を提言した歴史的な文献である。前島は青年時代、江戸から帰省したとき、土産の絵草紙と三字経を甥に教えてみて、漢字教育の難しさを痛感し、漢字廃止を思い立ったのに加えて、[[1862年]](文久2年)長崎で[[チャニング・ウィリアムズ]]([[立教大学]]創設者)から英学の教えを受ける中で、後述の郵便制度に加え、漢字廃止論もウィリアムズから示唆を受けたのである<ref>[https://web.archive.org/web/20221101063456/https://rikkyo-hs-ob.com/pdf/suzukake2019.pdf ウィリアムズ主教の生涯と同師をめぐる人々]</ref>。
[[1866年]](慶応2年)に、前島密は「[[漢字御廃止之議]]」という建議書を将軍[[徳川慶喜]]に提出した。これは、国民の間に学問を広めるためには、難しい漢字の使用をやめるべきだという趣旨のもので、日本の国語国字問題について言文一致を提言した歴史的な文献である。前島は青年時代、江戸から帰省したとき、土産の絵草紙と三字経を甥に教えてみて、漢字教育の難しさを痛感し、漢字廃止を思い立ったのに加えて、[[1862年]](文久2年)長崎で[[チャニング・ウィリアムズ]]([[立教大学]]創設者)から英学の教えを受ける中で、後述の郵便制度に加え、漢字廃止論もウィリアムズから示唆を受けたのである<ref>[https://web.archive.org/web/20221101063456/https://rikkyo-hs-ob.com/pdf/suzukake2019.pdf ウィリアムズ主教の生涯と同師をめぐる人々]</ref>。


前島はその後も、国語調査委員としてこの問題に取り組んでいる。郵便制度にも「切手(きって)」「はがき」「手紙(てがみ)」「小包(こづつみ)」「為替(かわせ)」「書留(かきとめ)」など[[やまとことば]]を導入した<ref>[https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/181028/ 郵便用語は「やまとことば」ばかり!日本郵便の父・前島密がこだわった理由とは | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!]</ref>。
前島はその後も、国語調査委員としてこの問題に取り組んでいる。郵便制度にも「切手(きって)」「はがき」「手紙(てがみ)」「小包(こづつみ)」「為替(かわせ)」「書留(かきとめ)」など[[やまとことば]]を導入した<ref>[https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/181028/ 郵便用語は「やまとことば」ばかり!日本郵便の父・前島密がこだわった理由とは | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!]</ref>。


; 江戸遷都を建言
; 江戸遷都を建言
明治政府は新しい首都をどこにするか検討している中、前島密は、[[1868年]](慶応4年)に[[大久保利通]]の大阪遷都論を読んで、これに対し、遷都の地は我が国の中央にあたる江戸でなければならないと大久保に建言した。この意見は大久保を動かし、実現することとなる。この年7月江戸は東京と改められ、9月に天皇は東京へ行幸になり、江戸城皇居となった。
明治政府は新しい[[首都]]をどこにするか検討している中、前島密は、[[1868年]](慶応4年)に[[大久保利通]]の大阪遷都論を読んで、これに対し、[[遷都]]の地は我が国の中央にあたる江戸でなければならないと大久保に建言した。この意見は大久保を動かし、実現することとなる。この年7月江戸は[[東京市|東京]]と改められ、9月に[[天皇]]は東京へ行幸になり、[[江戸城]]派皇居となった。


; 鉄道敷設の立案
; 鉄道敷設の立案

2024年5月21日 (火) 09:50時点における版

前島 密
まえじま ひそか
生年月日 1835年2月4日
天保6年1月7日
出生地 日本の旗 日本 越後国頸城郡下池部村(現・新潟県上越市大字下池部
没年月日 (1919-04-27) 1919年4月27日(84歳没)
死没地 日本の旗 日本 神奈川県三浦郡西浦村大字芦名(現・横須賀市芦名二丁目)
称号 男爵

当選回数 1回
在任期間 1904年7月10日 - 1910年3月10日
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前島 密(まえじま ひそか、1835年2月4日天保6年1月7日〉 - 1919年大正8年〉4月27日)は、日本官僚政治家教育者華族位階勲等爵位従二位勲二等男爵本姓上野幼名房吾郎)は巻退蔵通称来輔如々山翁鴻爪

越後国出身。日本の近代郵便制度の主要な創設者の一人であり「日本近代郵便の父」と呼ばれ[1][2]大蔵省駅逓頭(後の郵政大臣・現総務大臣)、逓信省次官を務めた[3]。今も使われる「郵便」「切手」「葉書」という名称を定めたほか、1円切手の肖像で知られる。また、東京専門学校及び早稲田大学の建学に深く関わり、早稲田大学第2代校長を務め、校賓の名誉を受けている[4]

人物

漢字廃止を建議

1866年(慶応2年)に、前島密は「漢字御廃止之議」という建議書を将軍徳川慶喜に提出した。これは、国民の間に学問を広めるためには、難しい漢字の使用をやめるべきだという趣旨のもので、日本の国語国字問題について言文一致を提言した歴史的な文献である。前島は青年時代、江戸から帰省したとき、土産の絵草紙と三字経を甥に教えてみて、漢字教育の難しさを痛感し、漢字廃止を思い立ったのに加えて、1862年(文久2年)長崎でチャニング・ウィリアムズ立教大学創設者)から英学の教えを受ける中で、後述の郵便制度に加え、漢字廃止論もウィリアムズから示唆を受けたのである[5]

前島はその後も、国語調査委員としてこの問題に取り組んでいる。郵便制度にも「切手(きって)」「はがき」「手紙(てがみ)」「小包(こづつみ)」「為替(かわせ)」「書留(かきとめ)」などやまとことばを導入した[6]

江戸遷都を建言

明治政府は新しい首都をどこにするか検討している中、前島密は、1868年(慶応4年)に大久保利通の大阪遷都論を読んで、これに対し、遷都の地は我が国の中央にあたる江戸でなければならないと大久保に建言した。この意見は大久保を動かし、実現することとなる。この年7月江戸は東京と改められ、9月に天皇は東京へ行幸になり、江戸城派皇居となった。

鉄道敷設の立案

前島密が明治政府に出仕して間もない1870年(明治3年)、上司の大隈重信から、鉄道の建設費と営業収支の見積りを作るよう命じられる。当時日本には、その標準となるような資料は全くなかったが、苦心の末に精密な計画案を作り上げた。のちにこれを見た外国人はその的確さに敬服したという[要出典]。前島はこの案に「鉄道臆測」と名づけた。品川横浜間に鉄道が仮開業したのは1872年(明治5年)5月、新橋横浜間の正式開業は9月のことであった。

郵便創業

前島密は、1862年(文久2年)、長崎でチャニング・ウィリアムズから英学を学ぶ中で、郵便制度についても学び、後に日本の近代的郵便制度の基礎確立に繋がることとなる。ウィリアムズは、前島に「通信の国家に於けるは、恰も血液の人身に於ける様な者である(中略)通信は即ち血液で、血管は駅逓である(後略)」と説明し、切手の貼られた書状を見せ、切手の持つ役割を教示した[7][8]。かくして、1871年(明治4年)3月1日(新暦4月20日)、前島密の発議により、東京大阪間で官営の郵便事業が開始される。前島は、大蔵省や内務省の官僚としての仕事をこなしながら、1870年(明治3年)から11年間もの長い間郵政の長として、熱心にこの事業の育成にあたり、その基礎を築いた。そのため「郵便の父」とたたえられている。「郵便」や「郵便切手」などの用語は、彼自身が選択した言葉である。

新聞事業の育成

前島密は、欧米社会を見聞して、広く世間の出来事を伝える新聞が必要なことを痛感し、その発達を助けるために、1871年(明治4年)12月新聞雑誌の低料送達の道を開く。その翌年6月には、自ら出版者を勧誘し、太田金右衛門に郵便報知新聞(後の報知新聞)を創刊させた。また、1873年(明治6年)には記事の収集を容易くするため新聞の原稿を無料で送れるようにした。

陸運元会社を創立

江戸時代から陸運業務と併せて信書送達を行なっていた定飛脚問屋(じょうびきゃくどんや)は、郵便事業に強く反対していたが、前島密の説得を受け入れ、1872年(明治5年)6月に日本通運株式会社の前身となる陸運元会社を設立した。この会社は、全国の宿駅に誕生した陸運会社を統合し、郵便輸送を中核として貨物専門の近代的な通運会社として発展した。

海運政策の建議

海運の大切なことに着眼し、函館では自ら廻送業者の手代に加わって、その実務を体験した。その経験を持って、1872年(明治5年)日本帝国郵便蒸気船会社が生まれたのである。1875年(明治8年)大久保利通は、前島密の建言によって、画期的な海運政策を建て、岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社(当時「三菱商会」)を補助して、その政策を進めることとなった。これが今日の日本郵船株式会社の前身である。近代海運はこのときから始まったといわれている。

郵便為替を開始

1875年(明治8年)1月、郵便為替が始めらたが、前島密は、イギリスでの経験から郵便創業の翌年、経済拡大には郵便為替の実施が必要だと建議したが運転資金や取り扱い者の技術的な問題もあって採用には至らなかった。しかし前島の熱意により、郵便に遅れることわずか4年でその創始を見ることとなった。

郵便貯金を開始

1875年(明治8年)5月、東京横浜の両地で郵便貯金の取り扱いが開始された。イギリスで郵便貯金が国民の生活や国家の発展に大きな役割を果たしているのを見て、日本でもこれを実施することにした。しかし当初は、中々一般に理解されず、前島は私金を出して、それを貯金発端金として預けさせるなど奨励には苦心している。

訓盲院の創立

1876年(明治9年)に視覚障碍者の教育を目指す楽善会に入会した密は、杉浦譲など同志たちとともに私金を出し合い、訓盲院の設立に力を尽くした。1879年(明治12年)に完成した訓盲院は、その後文部省へ移されたが、前島は引き続き同校の役員として、長くその運営発展に力を注いだ。そのため1917年(大正6年)の皇后行啓の際、前島は特に招かれて玉音を受けている。訓盲院は現在の筑波大学附属視覚特別支援学校の前身である。

勧業博覧会の開催

維新後、前島密は静岡藩において開業方物産掛として産業振興に取り組んだ経験を持ち、産業奨励に深い関心があった。大久保利通は前島の主張を取り入れ、勧業博覧会を内務省の所管として、1877年(明治10年)、東京上野で第一回勧業博覧会を開催し、審査官長に命じた。この博覧会は日本の産業発達に大きな影響を与えた。

日本海員掖済会の創立

前島密は、1880年(明治13年)、海員の素質の向上とその保護救済などを目的とする日本海員掖済会を発足させ、その後も長くその発展に尽力し、海員の寄宿と乗船の仲介を行ったまた、海員養成、無料職業紹介、診療事業を行ない、殉難職員の遺族に対する慰藉、海員の養老扶助まで事業を拡大した。

東京専門学校の創立

1882年(明治15年)、早稲田大学の前身、東京専門学校が創立された。この学校は学問の独立を主張する大隈重信の発意で生まれものだが、密はその創立に参画してこれを助けた。その後、1887年(明治20年)に校長に就任し、財政の独立など経営上の困難な問題の解決にあたり、校長を退いたのちも、長く同校の発展のために尽くした[4]。早稲田大学正門横にある「早稲田大学教旨」の石碑の刻字は、前島密の自筆が原本である[9]。また、長女の不二は、高田早苗の夫人となっている。

電話の開始

1890年(明治23年)12月、東京横浜市内とその相互間で初めて電話の交換業務が開始された。電話事業については、1883年(明治16年)以来官営にするか民営にするか議論されていた。前島密は1888年(明治21年)逓信大臣だった榎本武揚の依頼で逓信次官に就任すると、官営に意見を統一し電話事業を開始した。

年譜

幕末期の前島
和服姿の前島(1911年〈明治44年〉)

栄典

位階
勲章等

その他

  • 東京専門学校校長、議員、評議員、評議員会長を歴任した上、1901年(明治34年)には第一回の基金募集委員長に就任し、早稲田大学で最初の募金事業の陣頭指揮を執っている。1925年(大正14年)、早稲田大学校賓。前島彌と親子2代に渡って、早稲田大学校賓に推されている[27]
  • 大久保利通らが当初進めていた大阪遷都に対し江戸遷都を建白した事でも知られる。
    • 紀尾井坂の変にて事件直後に駆け付け、そこで目撃した大久保の遺体を「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」と生々しく表現している。
  • 日本海員掖済会の委員長・会長である赤松則良を助け、同会の副委員長(1889年〈明治22年〉-1891年〈明治24年〉)・副会長(1891年〈明治24年〉 - 1905年〈明治38年〉)・理事会長(1905年〈明治38年〉-1910年〈明治43年〉)を務めた。
  • 前島は晩年を別荘「如々山荘」で過ごし、如々山翁を称した。この別荘は三浦半島西海岸の、現横須賀市芦名二丁目にある浄土宗寺院、浄楽寺の境内にあった。前島夫妻の墓所も浄楽寺境内にある。また、前島の胸像と一体になった御影石製記念郵便ポスト(使用可)がある[28][29]郵政民営化を断行した小泉純一郎の選挙区(神奈川県第11区)内である。

切手

日本における近代郵便制度の父として、現行の1円普通切手に前島の肖像が描かれているほか、いくつかの記念切手にも彼の肖像が描かれている。

他の日本の切手が頻繁にデザインを変更している中、前島の肖像が描かれている1円切手だけは昭和22年(1947年)の初発行以来、文字などに若干の調整があるほかは一度も基本のデザインが変更されていない。日本郵便も、1円切手の前島の肖像だけは今後も変更することはないと公式に発表している[30]

令和3年(2021年)4月14日に日本郵便のマスコットキャラクター「ぽすくま」をデザインした1円切手が1億枚限定で発行されたが、現行の前島1円切手も継続して販売される[31]

普通切手

  • 15銭(昭和21年(1946年)11月20日発売)
  • 1円
    • 昭和22年(1947年)8月10日発売
    • 昭和26年(1951年)4月14日発売 - 意匠変更
    • 昭和27年(1952年)8月11日発売 - 位省略
    • 昭和43年(1968年)1月10日発売 - 刷色変更、文字列「NIPPON」追加
    • 平成22年(2010年)12月1日発売 - 額面と「NIPPON」の書体変更[32]
    • 平成27年(2015年)2月2日発売 - 額面と「NIPPON」の位置を入れ替え、書体変更[33]

記念切手

  • 1銭及び3銭、万国郵便連合加盟50年(昭和2年(1927年)6月20日発売)
  • 30銭、郵便創始75周年、前島密像(昭和21年(1946年)12月12日発売)
  • 10円、郵便90年(昭和36年(1961年)4月20日発売)
  • 60円、前島密生誕150年、郵便駅逓寮と前島密(昭和60年(1985年)6月5日発売)
  • 80円、郵便切手の歩みシリーズ第1集竜切手 竜切手と前島密、四種(平成6年(1994年)8月10日発売) - 竜切手は、四十八文、百文、二百文、五百文の四種類
  • 80円、民営会社発足記念(郵政史)シート内の一種(平成19年(2007年)10月1日発売)
  • 500円、「郵便創業 150 年切手帳(特別版)」(令和3年(2021年)8月25日発売) - 赤・緑・青・紫・桃・黄の各1枚、世界初の和紙シール切手用紙[34][35]

著作

  • 市野弥三郎 編『鴻爪痕』前島弥、1920年4月。 
  • 市島謙吉 編『鴻爪痕 前島男爵略歴郵便創業談』市島謙吉、1922年5月。NDLJP:986504 
  • 遞信協会 編『郵便創業談 郵便の父前島密遺稿集』遞信協会、1936年12月。 
  • 佐々木元勝 編『郵便創業談』逓信協会郵便文化部、1951年3月。 
  • 『鴻爪痕』(改訂再版)前島会、1955年12月。 
  • 前島勘一郎 編『前島密自叙伝』前島密伝記刊行会、1956年3月。 
  • 前島勘一郎 編『前島密郵便創業談』前島密伝記刊行会、1956年3月。 
  • 『福沢諭吉・渋沢栄一・前島密』平凡社〈日本人の自伝 1〉、1981年4月。 
  • 郵政省逓信博物館 編『日本郵便の父前島密遺墨集』郵政省逓信博物館〈郵政省逓信博物館資料図録 別冊2〉、1986年8月。 
  • 『前島密 前島密自叙伝』日本図書センター〈人間の記録 21〉、1997年6月。ISBN 9784820542629 
  • 『日本海員掖済会沿革小史稿』日本海員掖済会、2001年10月。 
  • 『鴻爪痕 前島密伝』通信文化協会博物館部監修(復刻版)、鳴美、2017年8月。ISBN 9784863550667 

親族

伝記

  • 萩原達『前島密 日本郵便の父』通信教育振興会、1947年9月。 
  • 小田嶽夫『前島密』前島密顕彰会、1958年2月。 
  • 山口修『前島密』吉川弘文館〈人物叢書 新装版〉、1990年5月。ISBN 9784642051910 
  • 橋本輝夫『時代の先駆者前島密 没後80年に当たって』ていしんPRセンター、1999年6月。 
  • 総務省郵政研究所附属資料館 編『前島密一代記 郵政事業の創始者前島密の人生と業績』総務省郵政研究所附属資料館(逓信総合博物館)〈資料図録 第53号〉、2001年3月。 
  • 小林正義『みんなの郵便文化史 近代日本を育てた情報伝達システム』にじゅうに、2002年3月。ISBN 9784931398207 
  • アチーブメント出版編集部 編『便生録 「前島密郵便創業談」に見る郵便事業発祥の物語』日本郵政公社郵便事業本部監修、アチーブメント出版、2003年4月。ISBN 9784902222005 
  • 童門冬二『小説 前島密 天馬 陸・海・空を行く』郵研社、2004年4月。ISBN 9784946429538 
  • 加来耕三『〈郵政の父〉前島密と坂本龍馬』二見書房、2004年12月。ISBN 9784576042206 
  • 小林正義『知られざる前島密 日本文明の一大恩人』郵研社、2009年4月。ISBN 9784946429200 
  • 井上卓朗『前島密 創業の精神と業績』通信文化協会監修、鳴美、2017年8月。ISBN 9784863550667 
  • 加来耕三『明治維新の理念をカタチにした前島密の構想力』つちや書店、2019年5月。ISBN 9784806916703 

登場する作品

テレビドラマ

脚注

注釈

  1. ^ 『前島密自叙伝・年譜』(前島密伝記刊行会)には、「元治元年1864九月三十才長崎に於いて、貧しい遊学生のために少費の合宿所を設け、瓜生寅を学長に依頼し、何先生の許可を得て倍社と称する私塾を開き、貧生のために英学を教授す。倍社は禅宗某寺の空堂を借りた。」とある。禅宗某寺の空堂とは、フルベッキが寓居としていた崇福寺広福庵と考えられる。

出典

  1. ^ 前島密‐日本郵政”. www.japanpost.jp. 2021年7月8日閲覧。
  2. ^ 郵便の父・前島密が築いた 誰もが平等に使える制度”. PROJECT DESIGN - 月刊「事業構想」オンライン (2017年6月5日). 2021年7月8日閲覧。
  3. ^ デジタル版『渋沢栄一伝記資料』 『〔参考〕夜会招客人名書 明治二十二年三月十一日』 第28巻,p.592-615
  4. ^ a b 早稲田大学・早稲田ウィークリー『東京専門学校第2代校長 前島密 ― 【外部から来た校長・学長】第1回』2016年4月28日
  5. ^ ウィリアムズ主教の生涯と同師をめぐる人々
  6. ^ 郵便用語は「やまとことば」ばかり!日本郵便の父・前島密がこだわった理由とは | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!
  7. ^ 前島男爵 談 市島謙吉 編「鴻爪痕」、市島謙吉 デジタル化出版者:国立国会図書館、1922年、doi:10.11501/986504 
  8. ^ 全特 平成29年4月号(2017年4月1日発行)全国郵便局長協会連合会
  9. ^ 嶌田 修「システム共同運用記念シンポジウム「早慶図書館の挑戦」併設展示に寄せて」『早稲田大学図書館紀要』第68巻、早稲田大学図書館、2021年3月、97-110頁、ISSN 02892502 
  10. ^ a b c 郵政博物館『前島密一代記』
  11. ^ a b 意志力道場ウォーク 『日本を変えた出会い―英学者・何礼之(が のりゆき)と門弟・前島密、星亨、陸奥宗光―』 丸屋武士 2012年6月1日
  12. ^ 村瀬寿代「長崎におけるフルベッキの人脈」『桃山学院大学キリスト教論集』第36号、桃山学院大学総合研究所、2000年3月、63-94頁、ISSN 0286973XNAID 110000215333 
  13. ^ 井上卓朗 『日本文明の一大恩人』前島密の思想的背景と文明開化 郵政博物館 研究紀要 第11号 2020年3月
  14. ^ 男爵安保清康自叙伝によると、生徒はその他に5名ほどはいたとされる。
  15. ^ 一般社団法人長崎親善協会 『長崎フルベッキ研究会レポート』
  16. ^ 日本郵政『前島密年譜』
  17. ^ 田原啓祐 『幕臣前島密がみた文明開化の礎』 郵政博物館 研究紀要 第10号 2019年3月
  18. ^ 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年、84頁。
  19. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、13頁。
  20. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、18頁。
  21. ^ 『太政官日誌』明治6年、第152号
  22. ^ 『官報』第1635号「叙任及辞令」1888年12月10日。
  23. ^ 『官報』第5722号「叙任及辞令」1902年7月31日。
  24. ^ 『官報』第319号「叙任及辞令」1913年8月21日。
  25. ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
  26. ^ 『官報』第5687号「叙任及辞令」1902年6月20日。
  27. ^ 『早稲田大学校賓名鑑』
  28. ^ 仲野 2018, p. 136.
  29. ^ 前島密翁について”. 浄楽寺. 2021年6月20日閲覧。
  30. ^ 切手デザイン一新 1円の前島密だけは「変えられない」朝日新聞デジタル”. 朝日新聞 (2014年11月13日). 2019年6月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年11月13日閲覧。
  31. ^ “「ぽすくま」1円切手を限定発行 70年ぶり新デザイン 前島密肖像の現行絵柄は継続”. 毎日新聞. (2021年1月28日). https://mainichi.jp/articles/20210128/k00/00m/020/184000c 2021年1月29日閲覧。 
  32. ^ 普通切手の一部券種で使用している書体の変更』(PDF)(プレスリリース)郵便事業株式会社、2010年11月29日https://www.post.japanpost.jp/whats_new/2010/1129_01_c01.pdf2022年6月9日閲覧 
  33. ^ 新デザインの普通切手の発行』(PDF)(プレスリリース)日本郵便株式会社、2014年11月12日https://www.post.japanpost.jp/notification/pressrelease/2014/00_honsha/1112_01_01.pdf2022年6月9日閲覧 
  34. ^ 郵便創業150年切手帳 郵便局
  35. ^ 「郵便創業 150 年切手帳」の発売 (PDF) 日本郵便株式会社(2021年7月5日)
  36. ^ a b c d e f 『平成新修旧華族家系大成』下巻、528頁。

参考文献

関連項目

外部リンク

公職
先代
野村靖
日本の旗 逓信次官
1888年 - 1891年
次代
(欠員→)河津祐之
先代
浜口成則
駅逓頭
日本の旗 駅逓総官
1880年 - 1881年
内務省駅逓局長
1877年 - 1880年
駅逓頭
1875年 - 1877年
1871年 - 1875年
次代
野村靖
先代
大山巌
日本の旗 内務大輔
1880年
次代
(欠員→)土方久元
先代
林友幸
日本の旗 内務少輔
1876年 - 1880年
(林友幸と共同)
次代
品川弥二郎
ビジネス
先代
(新設)
日清生命保険社長
1906年 - 1912年
次代
中野武営
先代
銀林綱男
北越鉄道専務
1896年 - 1897年
次代
渡辺嘉一
先代
(新設)
関西鉄道社長
1888年
次代
中野武営
その他の役職
先代
赤松則良
会長
日本海員掖済会理事会長
1905年 - 1910年
次代
内田正敏
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
前島(密)家初代
1902年 - 1919年
次代
前島弥