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2024年4月15日 (月) 22:48時点における版
青木 雷三郎(あおき らいさぶろう、1881年(明治14年)12月26日[1] - 1960年(昭和35年)7月8日[2])は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、明石市長。弁護士。
経歴
岡山県浅口郡富田村(現在の倉敷市)に尾藤廉平の三男として生まれ、青木与八郎の養子となった[3]。1912年(大正元年)、弁護士試験に合格[1]。翌年に中央大学法科を卒業し、弁護士を開業[1]。後に神戸弁護士会会長に選ばれた[1]。1920年(大正9年)、明石市会議員に選出され、議長に当選した[1]。
1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第18回、第19回でも再選された。1937年(昭和12年)、明石市長に就任した[1]。1946年(昭和21年)、明石市長を辞任した。その後、公職追放となった[4]。
その他に山本製鋼株式会社取締役などを務めた[3]。
脚注
参考文献
- 人事興信所編『人事興信録 第11版(上)』人事興信所、1937年。
- 『自治制実施五十周年記念 全国市長銘鑑』帝国自治協会、1938年。
- 衆議院・参議院編『議会制度七十年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1962年。