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'''古屋野 橘衛'''(こやの きつえ、[[1878年]]([[明治]]11年)[[1月1日]]<ref name=全国>『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、335頁。</ref> - [[1957年]]([[昭和]]32年)[[4月10日]]{{R|全国}})は、[[岡山県]][[都窪郡]][[豊洲地区 (倉敷市)|豊洲村]](現・[[倉敷市]])出身の[[政治家|地方政治家]]。[[倉敷市]]長。 |
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== 来歴 == |
== 来歴 == |
2024年4月15日 (月) 22:30時点における版
古屋野橘衛 こやの きつえ | |
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生年月日 | 1878年1月1日 |
出生地 | 岡山県倉敷市 |
没年月日 | 1957年4月10日(79歳没) |
出身校 | 京都帝国大学法学部 |
親族 |
兄・槙尾信太郎 (豊洲村長) 弟・古屋野宏平 (医学者・長崎大学長) |
在任期間 | 1923年 - 不明 |
3代 岡山県倉敷市長 | |
在任期間 | 1937年7月27日 - 1947年4月5日 |
その他の職歴 | |
岡山県議会議員 (不明 - 不明) | |
倉敷市議会議員 (1928年 - 1937年) |
古屋野 橘衛(こやの きつえ、1878年(明治11年)1月1日[1] - 1957年(昭和32年)4月10日[1])は、岡山県都窪郡豊洲村(現・倉敷市)出身の地方政治家。倉敷市長。
来歴
1878年1月1日、都窪郡豊洲村[2]に槙尾利八の二男として生まれる。その後、古屋野家を継ぐ[2]。同志社中学・三高を経て[2]、京都帝国大学法学部へ進学[2]する。
卒業後は貿易業へ就き[2]、その後アメリカへ渡る[2]。17年間滞在し、1922年に帰国[2]する。
1923年、万寿村長となり[2]、その後、岡山県議会議員に3回当選[2]する。1927年、倉敷市制実現のため、倉敷町・万寿村・大高村の3町村合併に尽力[2]した。
合併後の、1928年、倉敷市議会議員となり[2]、その後、市議会議長となる[2]。
1937年から1947年まで、倉敷市長を務め[2]、公職追放を受けた[3]。
追放解除後の1957年4月10日死去。享年80。
脚注
参考文献
- 吉岡三平 監修 『岡山人名辞典』 日本文教出版、1978年。
関連項目