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岩手県種市町妻子5人殺害事件

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岩手県種市町妻子5人殺害事件
地図
場所 日本の旗 日本岩手県九戸郡種市町第23地割39番地[注 1][6][7](現:洋野町種市第23地割39番地)[注 2]
座標
北緯40度24分35.7894秒 東経141度42分48.4819秒 / 北緯40.409941500度 東経141.713467194度 / 40.409941500; 141.713467194座標: 北緯40度24分35.7894秒 東経141度42分48.4819秒 / 北緯40.409941500度 東経141.713467194度 / 40.409941500; 141.713467194
標的 妻子5人[8]
日付 1989年平成元年)8月9日[6][9]
5時ごろ[6][9] (UTC+9)
概要 妻から離婚話を持ちかけられていた男が「妻は離婚を決意しており、このままでは自分1人を残して子供4人とともに実家に帰ってしまう」と不安を募らせ、咄嗟に妻子を皆殺しにしようと決意[10]。就寝中の妻子5人を鋭利な刃物(マキリ)で刺殺し、自身も漠然と「死んだほうがいい」と考えて自殺しようとしたができず、4日後に自首した[10]
攻撃手段 鋭利な刃物(マキリ)で首を斬りつける[10]
攻撃側人数 1人
武器 マキリ漁業用の刃物[11]/刃体の長さ約15.5 cm[9][注 3]
死亡者 5人[6][14]
犯人K・H(事件当時42歳:元漁船員・無職)[6][7]
容疑 殺人罪[6][7]
動機

加害者Kが就寝中の妻Aの近くに寄ったところ、Aが寝返りを打って自身に背を向けたことで妻子5人の殺害を決意した[10]

  • 第一審 - 「妻子を道連れにして自分も自殺しよう」と考えた末の無理心中[14]
  • 控訴審 - 短絡的に「妻子を妻の実家に取られるくらいなら、いっそ皆殺しにした方がましだ」と考えたこと[10]
対処 加害者Kを岩手県警が逮捕[6][7]・盛岡地検が起訴[15]
謝罪 犯行後に妻の実家へ謝罪の手紙を送ったが、一方で金の要求・妻の実家への不満の念を書いて送ったり、公判で自己の行為を正当化・合理化するような主張をした[10]
刑事訴訟 第一審で無期懲役判決[11][16]控訴審で死刑判決[17][18]上告中に病死(公訴棄却[19][20]
影響 事件を受け、種市町の夏祭り(同月17日)が中止になった[21][22](翌1990年から復活)[5]
管轄
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岩手県種市町妻子5人殺害事件(いわてけんたねいちまち さいしごにんさつがいじけん)は、1989年平成元年)8月9日朝に岩手県九戸郡種市町(現:洋野町種市)[注 2]の民家で発生した殺人事件[6]

概要

本事件の加害者K・H(事件当時42歳・無職 / 以下「K」と表記)[6]漁船員として働いていたが、船主・船頭との関係がうまく行かなかったことなどから漁船を下り、そのことを咎めた妻に暴力を振るったことがきっかけで離婚話が浮上した[10]。その後は一時期こそ真面目に働くようになったが、再び仕事の不満から漁船を下りて妻と喧嘩になり、「このままでは妻は4人の子供を連れて実家に帰ってしまう」と考えた[10]。そこで「このまま1人になるなら、いっそ妻子を皆殺しにしよう」と決意し[8][10]日本酒を多量に飲んだ上で[9][10]、就寝中の妻子5人をマキリ(漁業用の刃物)[注 3][6]で刺殺した[9][10]。その後、Kは自殺を考えたが決行できず[10]、事件4日後に自首して逮捕された[14]

第一審・盛岡地裁 (1990) は本事件を「Kが真剣に自殺を考えた上で無理心中を図った事件」として、被告人Kに無期懲役判決を言い渡したが[14]控訴審・仙台高裁 (1992) は「Kが事件後、真剣に自殺しようとした形跡はない。反省の色も薄い」として死刑を言い渡した[10]。被告人Kは控訴審の死刑判決を不服として最高裁上告していたが、上告中の1992年(平成4年)10月に病死したため[19]、本事件は公訴棄却となった[20]盛岡地検は第一審の論告求刑で本事件について「岩手県の犯罪史上、最大の悪質重大事件」と述べたほか[27]、仙台高裁 (1992) は判決理由で「本事件は新聞・テレビなどによって大きく報道され、地域住民(特に本件で殺害された中学生から保育園児までの被害者らと同じ多感な時期にある友人やその家族ら)に計り知れない衝撃を与え、地域社会にも甚大な影響を与えた」と指摘した[10]。地元紙『岩手日報』を発行する岩手日報社も、本事件を「岩手の事件史上まれにみる凶行として県民に衝撃を与えた」と評している[28]

なお日本の刑事裁判では死刑適用を判断するにあたり、特に殺害された被害者数を重視する傾向が強く[29]、3人以上を殺害した場合は死刑とされる場合が多い[注 4][29][31]。この流れは1983年(昭和58年)に最高裁が「犯行の動機、手口のむごさ、被害者の数、遺族の処罰感情など9項目に照らし、やむを得ない場合のみ死刑を適用できる」とする基準(通称「永山基準」)を示して以降も同様だが[32]、親族間の殺人事件の場合は無理心中・被害者側の落ち度を認めたり、犯行の計画性を否定したりして死刑を回避する傾向が目立っている[注 5][31]。そのため、親族間の殺人でありながら死刑が適用された本事件は例外的な事例とされる[31][33]

事件に至る経緯

Kは次男として種市村(後の種市町)で出生し、地元の小中学校を卒業後[注 6]、一時は父が営んでいた廃船解体作業を手伝った[注 7][8]。父の死後[34]、1968年(昭和43年)ごろからは転々と船を替えながら漁船員[注 8]をしたり、土木作業員などをして働いてきた[8]。1973年(昭和48年)ごろに胃炎で青森県八戸市内の病院へ入院した際、同じ病院に入院していた女性A[注 9]と知り合って懇ろの仲になった[8]。当初は財産もなく、生活も安定しないとの理由でAの両親から結婚に反対されたため、東京方面に駆け落ちするなどしたが、結局Aが妊娠したことから結婚を許され、1974年(昭和49年)10月4日にA(当時22歳)と入籍した[8]。その後、実家近くの住居地(事件発生現場)に借家住まい[注 10]し、妻Aとの間に長女B[注 11]、長男C[注 12]、次男D[注 13]、三男E[注 14]を次々にもうけ、はた目には平穏な家庭生活を営んでいた[注 15][8]

しかしKは必ずしも勤勉な性格ではなく、対人関係の拙さもあって[注 16]、一定の船主の漁船に乗り続けることができず、転々と乗る船を替え、あるいは漁期の途中で次の仕事の宛もないのに下船してしまうことが重なった[8]。陸上では土木作業員などをして日銭を稼いだり、失業保険金の支給を受けたりすることもあったが、育ち盛りの子供たちを抱えて一家の収入は必ずしも安定せず、家賃すら満足に払えなかったため、妻Aが内職の針仕事をして辛うじて家計を保つという生活が続いていた[8]。そのうちに、1987年(昭和62年)初めごろにKは例によって[8]、船主と水揚げの精算のことで折り合いがつかなかったことや、船頭と気が合わないことなどを理由に、当時働いていた漁船から下りてしまった[10]。以降は土工などとして働くこともあったが、一家を養うだけの収入もなかったため、Aの内職により辛うじて一家の糊口を凌ぐ生活をせざるを得なかった[10]。そのため、KとAとの間でしばしば口論が起こるようになり、1988年(昭和63年)春ごろには、妻Aから「働きがない」と難詰されたKが興奮し、Aに殴る蹴るの暴行を加えたため、AがKとの生活の前途に見切りをつけ、八戸の実家に戻った上で離婚を求め、子どもたちもそれに従うという事態になった[注 17][8]。この時は、Kが再三Aに謝罪し、「以降は真面目に働き、無断で仕事を辞めたりしない。暴力も決して振るわない」と誓約し、Kの母親らもよく監督して誓約を守らせることをAや実家の父親らに保証したため、1か月あまりで解決し、Aや子どもたちもKのところに戻ってきた[8]

Kはしばらく上述の誓約に従い、八戸港所属の漁船[8]イカ釣り漁船)[注 18][2][35]に乗って漁船員として働いた[8]。当時は漁期の途中に船が八戸港へ寄港した際、帰宅して一家団欒をするなど平穏な生活を送っていたが[10]、1989年(平成元年)7月20日に船が漁期の途中で八戸港に一時寄港した際、他の漁船員の働きぶりに対する不満を理由に船を下り[8]、出港当日(7月26日)に迎えに来た漁労長(Kの従兄弟)の誘いを断って[10]家に帰ってきてしまった[8]。さらに同月26日夜、Kはその事情を知った妻Aから口うるさく難詰されたことに腹を立て、Aの顔面を殴った[8]。先述の誓約がことごとく破棄された結果になったため、Aはまもなく町役場から離婚届の用紙をもらってきてKに突きつけ、離婚を迫ったりする気配を示したが、Kはその場で用紙を破り捨てた[8]。Aもそれ以上は離婚話を持ち出さなかったため、一旦は家庭内の雰囲気も落ち着くように見えたが、Aは同月29日 - 30日に「実家の家業(民宿)を手伝う」と言って八戸の実家に帰った[8]。そのため、Kは「もともとAの実家はAと自分との結婚自体に反対しており、先の離婚騒ぎの時も離婚に積極的だった。Aは実家に帰って再び自分との離婚について話し、実家側もそれに賛意を示しているのではないか」と気を回し、穏やかでない心境になっていた[8]

事件発生

そして同年8月8日、KはAの実家から「Aの父親(義父)が病院で検査を受けるので、翌日Aを実家の手伝いに寄越してほしい」という趣旨の電話があったことを実母(近所に在住)から聞かされ、「Aが実家に帰ってしまえば、いよいよ離婚させられ、前回の離婚騒ぎの時と同様に子どもたちもAについて行ってしまい、自分は一人きりになってしまうのではないか」と不安の思いを深めることとなった[8]。そして同晩、Kは不安を隠したままAと一緒にウイスキーの水割りを飲みながら台所兼居間で寝込んでしまった[注 19]が、翌9日(事件当日)5時ごろに目を覚ました[8]。寝直そうとしたKはAと三男Eが寝ていた東側七畳間に入り、Aの隣で寝ようとしたが、その弾みに自身の左腕がAの右腕に触れたところ、Aはこれを跳ね除け、Kに背を向けるような動作をした[8]。Kはその際、Aが目を動かしたように感じられたため、「Aは目を覚ましており、先ほどの動作は自分に対する嫌悪感の現れだ」と感じ、そのような態度に出る以上は自分との離婚の決意は固く、前述の不安は的中したと考え、凶行におよんだ[8]。なお動機について、第一審判決 (1990) は「『自分がAや子どもたちと別れさせられ1人になるくらいならば、妻子を道連れに自分も死んだ方が良い』との思いに駆られ、就寝中の妻子5人を皆殺しにしようと決意した」と[8]、控訴審判決 (1992) は「短絡的に『Aと離婚してAや子供たちを実家に取られるくらいなら、妻子を皆殺しにした方がましだ』と考えて犯行におよんだ」とそれぞれ事実認定している[10]

Kは同日(1989年8月9日)5時ごろ[注 20]、勢いをつけるため、一升瓶に約7[注 21]くらい残っていた日本酒をラッパ飲みにし、自宅の居間兼台所北西隅天井近くに設けられた神棚から凶器のマキリ(刃体の長さ約15.5 cm)[注 3]を持ち出し、自宅東側七畳間で就寝していた妻A(37歳没)と三男E(6歳没[9] / 種市町立種市保育園の園児[6])を、西側七畳間で就寝していた長女B(14歳没[9] / 種市町立種市中学校3年生[6])・長男C(13歳没[9] / 種市中学校1年生[6])・次男D(10歳没[9] / 種市町立種市小学校5年生[6])を、それぞれ殺意を持った上で頸部を掻き切ったり刺したりして殺害した[9]。殺害の順序はA・E・B・D・Cの順とされる[10]。被害者は寝込みを襲われたため、長男Cを除く4人はいずれも抵抗する暇もなくマキリで頸部を掻き切られて殺された[注 22][40]。長男Cは弟Dが殺されそうになった際に目を覚まして逃げ出し[39]、驚愕のあまり逃げ惑ったが[注 23]、父Kにより執拗に部屋の隅まで追い詰められて背中を刺され[10]、最終的には頸部を掻き切られ殺された[40]

その後、Kは凶行におよんだ寝室・子供部屋から居間兼台所へ戻り、隣室(妻Aの仕事部屋)から持ち出した日本酒一升瓶の封を切り、約5合の日本酒を飲んでその場で寝込んだ[10]。Kは同日22時ごろに目を覚まし、冷蔵庫の上に置いてあったAの鞄の中から141,000円を抜き取り、洗面道具・飲み残しの酒が入った一升瓶を携え、犯行現場を他人に見られないよう、留守を装って玄関の外側から南京錠を掛けて自転車で実家[注 24]に向かい、実家で眠った[10]

Kは事件翌日(8月10日)10時ごろに起床し、ちり紙にペンで「みんなつれていく ゆるせ」と書いてこれを財布の中に入れたほか、物置の中からロープを取り出し、その先端に輪を作った[10]。そのロープを持って実家近くの川尻川に架かる鉄橋(国道45号)の下[注 25]に行き、ロープを橋桁の鉄骨部分に掛けるなどして自殺を図ろうとしたが、断念して実家に戻り、屋敷内の木陰にござを敷いて日本酒を飲み、昼寝するなどして過ごした[10]。Kはその翌日(11日)・翌々日(12日)も食事もせず、ぶらぶら過ごしていた[10]。その間、実家の台所から持ち出したマキリで手首を切って自殺しようと考えたが、マキリを構えただけで手首に当てることもせず断念した[10]

その後、Kは格段に自殺を試みようとはせず[10]、同月13日5時20分ごろ、自宅付近の公衆電話から久慈警察署岩手県警察)に電話で「妻子5人を刺し殺した」と110番通報して[41]自首した[10]。遺体はその間、4日間にわたり放置されたため[7]、発見時にはいずれも腐敗して悪臭を放ち、蛆虫が湧いていた[注 26][10]。一方でこの間、近隣住民や被害者である子供たちの同級生は彼らがクラブ活動の練習・夏祭りの神輿作りに来なかったことを訝しがっていたが、当時は盆近くだったため「実家にでも帰ったのだろう」と信じていた[注 27][43]

捜査

加害者Kからの通報を受け[21]、久慈署員がK宅を確認したところ、奥の2部屋(寝室・子供部屋)で死亡している妻子5人の遺体を発見した[7]。このため、岩手県警(捜査一課・久慈署)は同日朝に被疑者Kを殺人容疑で緊急逮捕[注 28][6]、翌14日に盛岡地方検察庁送検した[21][23]。また14日 - 15日の2日間にかけて被害者5人の遺体を岩手医科大学医学教室(桂秀策教授)で司法解剖し、5人の死因をいずれも「頸動脈・頸静脈切断」と断定した[注 3]ほか、長男Cの背中に多数の刺し傷があることを確認した[42]。被疑者Kは警察官の取り調べに対し、記憶があることを前提に具体的な殺害の順序・方法を供述したり、検証に際して具体的な殺害行為の再現[注 29]をしていたが、検察官の調べに対してはそのような態度を翻し、「警察の取り調べでは、殺害の状況について記憶がないのに想像で述べた[注 30]ので、思い出せないのが本当だ」と述べた[40]

被疑者Kは大筋で犯行を認めたが、犯行の経過・動機などに関する供述が曖昧で、その裏付けに時間を要したため、盛岡地検は拘置期限(当初は1989年8月24日)を同年9月2日まで延長した[45][46]。また地検は同年8月31日に検事拘置をいったん中断し[24]、9月1日 - 28日にかけて被疑者Kを精神鑑定のために盛岡周辺の病院に入院させて鑑定留置し[注 31][47][49]、「犯行時は心神喪失状態ではなく、刑事責任は問える」と判断[24][15]。同月29日にKを殺人罪で盛岡地方裁判所起訴した[24][15]

事件後、同月17日に予定されていた町内の夏祭りは中止になった[注 32][21][22]。また、種市町では被害者の子供3人が通っていた種市小・種市中も含め、全12小中学校が同月15日を登校日とし[21]、各校で追悼集会を開いた[43]

刑事裁判

被告人Kは捜査段階では「Aから腕を振り払われたことで妻子5人を道連れに一家心中することを決意し、勢いをつけるため日本酒をラッパ飲みした」と供述していたが、公判では一転して「Aに触った腕を振り払われたことで腹は立ったが、そのことがきっかけで妻子を道連れに一家心中しようと思いついたりしたことはない。日本酒をラッパ飲みしたことに『妻子を殺すための勢いづけ・景気づけ』という意味はなかった」という趣旨の供述をした[40]。また、被告人Kは犯行後約1年間にわたり、被害者である妻Aの両親ら遺族に謝罪することはなく[10]、第一審段階までは遺族らに対し、被害感情を慰謝すべき言動は取らなかった[14]。その後、Aの父親に謝罪の気持ちを記した手紙を送ったが、その直後には同じくAの父親に金の要求・Aの実家の者たちに対する恨みの思いなどを書き綴って送った[10]

第一審

本事件の刑事裁判の初公判は1989年11月1日に[50]盛岡地方裁判所刑事部(守屋克彦裁判長)で開かれた[39]。刑事裁判では起訴事実に関しては争われず、犯行時に多量に飲酒していた被告人Kの責任能力の程度と[16]、被告人Kが確定的殺意を抱いた時期が主な争点となった[51]

第一審・控訴審における争点
検察官の主張 弁護人の主張 盛岡地裁の判断 仙台高裁の判断
確定的殺意を抱いた時期 飲酒する前[51]
(飲酒は殺意を煽るため)[16]
多量に飲酒した後、マキリを手に取った時[51] 「まず一家心中を決意し、勢いづけのため飲酒した」と認められる[40]
責任能力の程度 完全な責任能力があった[注 30][16] 心神耗弱の疑いがある[16] 「責任能力の問題は認められない」として完全責任能力を認定[40]
量刑 「動機に情状酌量の余地はなく、死刑が妥当」と主張[53] 「事件当時は心神耗弱状態で、犯行後に何度も自殺を図り、自首した」として減軽を求める[11] 無期懲役刑を選択。
「犯行は残忍だが、真剣に自殺を考えた末の無理心中事件。強盗殺人・強姦殺人などの反社会的犯罪とは異なり、情状酌量の余地がある」[14]
死刑を選択。
「真剣に自殺を考えたとは認められず、K自身の身勝手な動機による殺人で酌量の余地はない。反省の念も乏しい」[10]

初公判で弁護人は「被告人Kはもともと知的水準が低く[注 33]、短絡的になりやすい資質だったところ、妻との結婚問題について煩悶し、精神的疲労の極に達した状態で、たまたま触れた腕を妻Aに払いのけられたことをきっかけに、日本酒7合ほどを一升瓶から一気飲みしたことで意識朦朧状態になった。その状態で初めて、兼ねて心中に伏在させていた妻子5人を道連れにした一家心中の犯意を具体化・明確化させ、本件犯行におよんだものである。よって、被告人Kは本件犯行時、心神耗弱の状態にあった。」と主張し[40]、起訴前の簡易的な精神鑑定の結果に異議を唱え、再度の精神鑑定を申請した[50]

第2回公判(1989年11月15日)で盛岡地裁が弁護人の申請を認め、保崎秀夫慶應義塾大学医学部教授(精神・神経科学)による2度目の精神鑑定[注 34]が実施された[注 35][57][54]。その結果、1990年(平成2年)5月30日に開かれた第3回公判で「飲酒の影響により、(犯行時に)判断力が低下していた可能性がある」とする鑑定結果が提出され[55][58]、第4回公判(1990年6月20日)で鑑定人・保崎が[注 36]「被告人Kは以前から『(妻子を)殺してやりたい』と思っていたところ、妻Aに腕を払われたことで殺意を抱いたが、この時点では(心神耗弱に該当する)複雑酩酊の状態ではなかった。しかし、自分を勢いづけようと日本酒をラッパ飲み[注 37]した直後(犯行におよんだ際)には複雑酩酊状態だった可能性が否定できない」と証言した[59][60]

第5回公判(1990年7月25日)では裁判官および検察官・弁護人双方からの被告人質問が行われ、被告人Kは「犯行前、イカ釣り漁船を下りたことで妻Aと口論になった際、Aから『他の男性と関係を持っている』と聞かされたため、『妻子を殺して自分も死のう』と思った。Aの男性関係がいずれ子供たちにもわかると考えたので、『みんな死んだ方がいい』と考えて子供4人も殺したが、(事件当日には)実際にやろうとは思わなかった(=殺意はなかった)。犯行状況もよく覚えていない」と供述した[61]。また、犯行直前に多量の日本酒を飲んだことについては、それまでの「勢いづけのため」という供述を翻し、「寝ようとした際、妻Aに腕を振り払われて腹が立ったため」と供述した[62]。盛岡地裁 (1990) は被告人Kの公判中の態度について、「次第に自己の行為を合理化するような気配を示したり、Aの実家側の遺族の被害感情を逆撫でするような供述[注 38]をしたりした」と指摘している[14]

1990年9月12日に盛岡地裁刑事部(守屋克彦裁判長)で論告求刑公判が開かれ[27]、盛岡地検は被告人Kに死刑を求刑した[注 39][53][52][63][27]。検察官は論告で、保崎が行った精神鑑定による「被告人は事件当時、責任能力に問題があった」との鑑定結果について「被告人Kの知能水準は低かったが正常の範囲内。精神病歴はなく、事件は自己中心的・短絡的なKの性格が起こしたものだ」と主張した[27]上で、犯行について「就寝中の妻子5人を一瞬にして殺害した犯行は犯罪史上稀に見る残虐・重大事件で、罪もない子供の人格を無視し、身勝手な考えから犯行に至ったもので、動機に情状酌量の余地はない。事件の社会的重大性・遺族の感情からしても極刑が妥当」と主張した[53]。一方、弁護人は最終弁論で「犯行時、被告人Kは飲酒のため複雑酩酊に近い状態で、意識は正常性を欠いていた」と述べ、減軽を求めた[52]

無期懲役判決

1990年11月16日に判決公判が開かれ、盛岡地裁刑事部(守屋克彦裁判長)は被告人Kに無期懲役判決を言い渡した[注 40][11][16][64]。盛岡地裁 (1990) は判決理由で、弁護人の「被告人Kは犯行時、心神耗弱状態だった」とする主張を退け、「殺害動機はかなり短絡的だが、一応了解可能なものだ。犯行を決意した後で多量に日本酒を飲んだという事実が動かし難い以上、複雑酩酊による責任能力の低下を論ずる余地はない。犯行自体に目撃者などの客観的証拠は存在しないが、妻子5人の殺害を決意し、その勢いづけのために酒をラッパ飲みしたことは捜査段階における多数の供述調書などから疑う余地はない。犯行時の合理的・合目的的な行動や、犯行後に事件発覚を防ぐため施錠したことなどから見れば、『妻子5人を殺害する勢いづけのために日本酒を多量に飲み、まだ酔いが回らないうちに一気に犯行を敢行した』と認定でき、殺害行為の実行を容易にするために酒に頼ったに過ぎない。意識障害などの存在も窺えない」として、完全な責任能力の存在を認定した[40]。その上で、量刑については最高裁判所が1983年(昭和58年)に示した死刑選択基準「永山基準」に沿って検討し[16]、「自分が約束を守らずに退職するなど、再燃すべくして再燃した離婚問題を適切に解決しようとせず、自分の行状に対する反省もないままに皆を道連れして死んだほうがましだという動機は極めて身勝手で、同情の余地はない。公判でも、自己の行為を合理化したり、被害者である妻Aの実家側の遺族の被害感情を逆撫でするような供述をしたりしており、彼らのKに対する処罰感情は極めて強い[注 41]。有期懲役はあまりにも軽すぎ、検察官の死刑求刑も重すぎるとは言えない」と指摘した[14]。しかしその一方で、「本件犯行は、どのような角度からも正当化する余地のない重大な犯罪であるにしても、その本質は、自らの死を決意すると共に家族をも道連れにしようとしたいわば無理心中の事件であり、どちらかといえば、被告人Kの反社会性よりも非社会的な不適応性が表面に浮かび上がる事件だ。通常死刑の対象となることが多い強盗殺人強姦殺人・誘拐殺人などのように、共同社会に正面から敵対する犯人の強固な犯罪性が示され、一般社会が同種再犯の危険におののくような凶悪な犯罪とは類型を著しく異にするところがあるところは否めない。同じ家族に対する犯罪でも、保険金殺人・異常な性犯罪などのように、一般人に対する犯罪と同様の凶悪性を感じさせる犯行と同視することはできない。この点で、本件に対する社会の処罰感情が、一般の凶悪事案に比して微妙に異なるものがあることは否定できないと思われる。このような犯行に出た遠因である被告人Kの怠惰・粗暴・短絡的で自己中心的な行動傾向が、Kの十全とは言い難い知能水準や性格の偏りという人格面での障害に起因することは否定できないこと、相手の身になっての真の愛情ではなく、自己中心的で身勝手なものではあったにしても、KがKなりに妻子に愛情を注いでいたことは事実と認めざるを得ず、現在ではそのように愛する妻子を自らの手にかけたことについて、それなりの反省の思いと、妻子すべてを失い一人取り残された悲哀の念にさいなまれながら、獄舎において手にかけた妻子の冥福を祈る日々を送っている様子が窺えること、必ずしも勤勉であったとは言い難いにしても、過去においてはそれなりに勤労生活に従事し、前科罰金刑(道路交通法違反)1件のみで、不良無頼の徒とはいささか異なるところがあること、自首した事案であることなど、Kに有利に汲むべき事情もいくつか認められる」と指摘し、「本件は5人の尊い生命を奪ったという真に重大な事案ではあるが、死刑が究極の刑であることを考えれば、極刑である死刑をもって臨まなければ国民の正義の観念に反することになるとまでは言い難いものがある」と結論づけた[14]

盛岡地検は同月30日付で、量刑不当を理由に仙台高等裁判所控訴し、被告人Kの弁護人(松下壽夫)も同日付で控訴した[注 42][66][67]。ただし、Kは代理人の弁護士に対し「私は一審判決に不服はないので控訴するつもりはなかった」という心境を綴った手紙を送っている[68]

控訴審

控訴審は仙台高裁刑事第二部(渡邊達夫裁判長)に係属し[69][70]、初公判は1991年(平成3年)6月20日に開かれた[68][70]。それ以来、公判は結審までに計7回にわたって開かれ[71]、検察官は控訴趣意書で、「本件は『永山基準』に照らし、いずれから見ても被告人Kの刑事責任は重大だ。Kに反省悔悟の念が認められないこと、被害者遺族の被害感情が未だに深刻[注 41]であること、社会的影響が甚大であることなどの犯情を考慮すれば、犯罪史上稀にみる残虐極まる凶悪重大犯罪であり、極刑もやむを得ない事案だ。本件は単なる家庭内の無理心中事件ではなく、本来庇護すべき家族5人を理不尽にも皆殺しにした事件で、原判決の量刑(無期懲役)は他の類似事犯との量刑[注 4]の均衡も考慮しておらず、あまりにも軽い」と主張した[10]。一方、弁護人は控訴趣意書で、Kが深く反省していることを挙げ[68]、「無期懲役は不当に重い」と主張した[注 43][10]

控訴審は1992年(平成4年)3月19日に結審し、同日の最終弁論で検察官は「犯行は残虐で、無理心中とは認められない」[72]「被告人Kには反省がなく、他の同種事件[注 4]と比較しても第一審判決は軽すぎる」と主張し[73]、第一審判決の破棄と死刑適用を求めた[73][72]。一方、弁護人は[72]「死刑は日本国憲法第36条が禁じている『残虐な刑罰』に該当し、それを定めた刑法第199条(殺人罪)は憲法違反だ」[10][73]「犯行後、自首するなど反省が認められる」として第一審と同様、無期懲役刑を求めた[73][72]

死刑判決

仙台高裁刑事第二部(渡邊達夫裁判長)[69][18]は1992年6月4日に第一審・無期懲役判決を破棄(自判)し、求刑通り被告人Kに死刑判決を言い渡した[注 44][17][18][74]。仙台高裁 (1992) は、事実関係については原判決(第一審判決)と同様の認定をしたが、「本事件は罪質・結果とも誠に重大な事案で、犯行態様の残虐性や、動機に格別酌量の余地がないことなどを合わせ考えると、検察官が(控訴趣意書の)所論で指摘する通り、稀に見る凶悪重大な犯罪だ。Kは確定的殺意を持って凶行に及び、血にまみれて横たわる被害者らの姿を目にし、苦痛のあまり呻吟する被害者らの声を耳にしながら、なんら意に介しておらず、冷酷非道な所業というほかない。犯行態様はまさに凶悪・残忍の極みだ」と指摘した[10]。その上で、Kが犯行に至った経緯・動機について、「Kが妻Aから離婚話を持ちかけられた原因は、Kが真面目に働かず、それを難詰したAに暴力を振るうなどしたためだ。挙句、『真面目に働く。暴力を振るわない』などの約束を反故にして下船し、それを詰問されるとAに再び暴力を振るったため、Aが離婚の決意を固めて離婚届用紙への署名を迫り、Aの両親が離婚に賛同したとしても無理はない。このような事態に立ち至った原因は、Kの怠惰かつ暴力的な性格・無責任な生活態度にあったと非難されてもやむを得ないし、殺害された妻子5人に殺されるような落ち度はまったくない。Kは犯行動機に関連して、第一審にて『親が死んだ後に残される子どもたちがかわいそうだから殺した』と、あたかも親心から子どもたちを殺害したかのように弁解しているが、従前のKの生活態度・言動に鑑みると、子供の人格を無視し、子供を親の私物化するあまりにも身勝手な言い分と評するほかない。本件犯行の動機はあまりにも自己中心的・短絡的で、単に自分の意のままにならない事態となったことに対し、激情の赴くまま家族皆殺しを図ったというのが事の真相であって、『親心から殺害行為に及んだ』などとは到底認められない」と指摘した[10]

そして、本件犯行について「原判決が『本事件は無理心中』と判示したことは量刑に関する事実認定・本件犯行の本質への評価を誤ったものだ。Kは犯行後、直ちに自殺を企てるどころか、そのまま日本酒を飲んでその場で寝込み、妻Aの現金・洗面用具などを持って実家に帰った。その後、自首するまで4日間にわたり自殺を決行しようとすればその機会・方法はいくらでもあったが、首吊り自殺・マキリを用いた自殺を試みようと考えただけで、真剣に自殺しようとした形跡は認められない。よって本件は心底から真剣に『妻子を道連れにして自分も自殺しよう』と決意したと言うには程遠く、ただ漠然と『自分も死んだほうがいい』あるいは『生きていけない』と考えたに過ぎない。加害者(親)と被害者(子供)の置かれた境遇にそれなりの世間の同情を誘う、いわゆる家庭内無理心中事件[注 45]などとは全く性格を異にするもので、『実家に妻子を取られるくらいなら、妻子を皆殺しにしたほうがましだ』というこの上なく身勝手・自己中心的・短絡的な意図から出た犯行で、まさに『Kの反社会的性格に起因する凶悪犯罪』と言わなければならない」と非難した上で、「Kは今なお真摯に反省しているとは認められず、Kの家族らも全く被害者遺族への慰謝を講じていない。原判決が極刑を回避すべき要素として挙げた点の多くは判断の誤りか、その理由となり得ないもので、検察官の論旨の通り、無期懲役の量刑は本来重視すべき結果の重大性などを軽視したもので、破棄を免れない。被告人Kが事件後に自首したことや、罰金刑以外に前科がないことなどを考慮し、慎重に熟慮を重ねても、Kに対しては極刑をもって臨むこともやむを得ない」と結論づけた[10]。また、弁護人が主張した「死刑は憲法違反」との主張については、「最高裁の判例で示された通り、死刑制度は憲法に違反しない」として退けた[10]

上告中に病死

弁護人・服部耕三は判決後、「死刑を違憲とするこちらの主張が認められず残念だ」と述べ[注 46][17][18]、Kは翌日(6月5日)に最高裁へ上告した[76]。このため、事件の決着は死刑制度の是非論も含めて最高裁の判断に委ねられることとなったが[75]、被告人Kは1992年10月6日夜に拘置先・宮城刑務所仙台拘置支所で体調を崩して[注 47]国立仙台病院宮城県仙台市)へ入院し、同月16日午後に同病院で死亡した(45歳没)[注 48][19]。このため、刑事訴訟法[注 49]に基づき本事件は公訴棄却されることとなった[20]

評価

菊池さよ子は、1997年に高裁で言い渡された2件の夫による妻子3人殺害事件の判決(無期懲役とした第一審判決を支持)[注 50]および、それらの事件について(当時、控訴審で無期懲役判決が言い渡された死刑求刑事件に対して積極的に上告を行っていた)[注 51]検察側が上告しなかったことについて言及し、夫婦間の不和が原因の事件では刑が軽くなる傾向があることや、検察当局が過去の死刑確定事件の例と比較して上告の可否を判断している(=過去と死刑確定事件と類似した事件についてのみ上告している)可能性を指摘した上で、仮にそれらの事件と同様に妻子を殺害した事件である本事件の犯人Kが上告中に病死せず、最高裁で死刑確定を迎えていた場合、先述の2判決のような妻子殺害事件の判断にもその判例が影響していただろうという可能性を指摘している[82]

関連書籍

  • 法務省大臣官房司法法制部 編『法務年鑑 平成元年』法務省、1990年9月、100頁。 

脚注

注釈

  1. ^ 事件現場となった家(犯人Kが被害者である妻子5人とともに住んでいた家)は、種市駅JR東日本八戸線)から西へ100メートル (m) [1]、ないし200 m西側の住宅地に位置していた[2]位置座標[3]。家は第一審判決時点では現場保存のため、事件当時と同じく立入禁止措置が取られていたが[4]、一審判決後に地主(加害者Kの親類)によって取り壊され、1992年(控訴審判決)時点では更地(駐車場)となっている[5]
  2. ^ a b 種市町は2006年(平成18年)1月1日に大野村と合併して「洋野町」になり[25]、「九戸郡種市町第23地割」の住所表記は同日から「九戸郡洋野町種市第23地割」に変更された[26]
  3. ^ a b c d 凶器のマキリ(漁業用の刃物)[11]平成元年押第33号の2(刃体の長さ約15.5 cm)[9]。同年7月にKが乗っていた漁船から持ち帰り[12]、新聞紙に包んだ上で神棚に差し込んであり、新品かつ鋭利な刃物だった[10]が、事件後には刃こぼれした状態で発見された[13]
  4. ^ a b c 日本弁護士連合会(日弁連)によれば、1983年に「永山基準」が示されてから2009年(平成21年)1月までに5人を殺害して死刑判決が言い渡された事例は本事件を含め8件で、うち7件は死刑が確定している[30]
  5. ^ 杉並一家放火殺人事件(1986年・4人殺害)や中津川一家6人殺傷事件(2005年・5人殺害)など[31]
  6. ^ 1963年(昭和38年)3月に地元の中学校[12](種市町立種市中学校)を卒業[2]
  7. ^ Kは中学卒業後、広島県石川県神奈川県で船の解体作業の手伝いなどに従事していた[12]
  8. ^ 蟹工船・イカ釣り漁船に乗船したが長続きしなかった[12]
  9. ^ 女性A(加害者Kの妻)は1951年(昭和26年)12月3日生まれ[8]。実家は八戸市内にあり[35]、中学校卒業後、結婚まで洋裁を習って東京や岩手県内の縫製工場で縫製工として働いていた[10]。また、夫Kが働かず生活が困窮している中で、洋裁の内職をしながら家計を助けていたが、実家に愚痴をこぼすことはなかった[10]
  10. ^ 『岩手日報』は「1974年(昭和49年)5月に現場の借家に移住した」と報じている[2]
  11. ^ 長女Bは1975年(昭和50年)1月17日生まれ[8]
  12. ^ 長男Cは1976年(昭和51年)5月13日生まれ[8]
  13. ^ 次男Dは1978年(昭和53年)11月29日生まれ[8]
  14. ^ 三男Eは1983年(昭和58年)4月9日生まれ[8]
  15. ^ Kは家庭内でこそ専横だったが、周囲からはむしろ「温厚な人間」と受け取られ、酒癖も悪くなく、家族思いで子煩悩な印象を与えていた[14]。また近隣住民によれば、Kは留守がちで近所付き合いは少なかったが、息子とよくキャッチボールをしたり、銭湯へ子供たちを連れて行ったりしたほか、近所の子供と一緒に遊ぶこともあった[36]
  16. ^ Kは人付き合いが良くなかったほか[34]、学校当時の成績は最低に近く[10]、読み書きが不自由なために仕事が見つからないことも多かった[34]
  17. ^ また、『毎日新聞』は「子供たちがKに殴られ、顔などに痣ができたこともあった」と報道している[35]。また、長男Cは小学校6年生の際に作文で「(両親が)夫婦喧嘩をしょっちゅうするのでやめてほしい」と書いていたほか、中学進学後も友人に「家を出たい」と話していた[36]
  18. ^ この漁船はKの従兄弟が漁労長を務めており、Kは彼の世話で乗船した[10]。『朝日新聞』は「今年(1989年)7月までニュージーランドのイカ釣り漁船に乗っていた」と[12]、『岩手日報』は「Kは7月、漁から帰った際には近隣住民に『日本海のイカです』とイカを配って回り、住民らを喜ばせていた」と報じている[2]
  19. ^ 『岩手日報』は岩手県警による取り調べ結果を基に「事件前日(8月8日)、Kは21時ごろからウイスキーを飲み出し、妻Aから離婚話を持ち出されていた。Aは『9日、八戸の実家の用事で帰る』と言ったため、Kは『妻子5人はそのまま帰ってこないのではないか』と思い込んで犯行におよんだものとみられる」と報道している[37]
  20. ^ 事件当時のKは上半身裸で、浴びた返り血は自宅の流し台で洗い、逮捕時に来ていた服装に着替えた[38]
  21. ^ 7合=約1,260 ml[11]
  22. ^ ただし、妻Aの遺体には左指に防御損傷と認められる傷があったため、若干の抵抗を示したと思われる[10]。また、長女Bの左指、次男Dの右指にもそれぞれ防御損傷と思われる傷があったほか、Dは首を切られてからしばらくは生存しており、死亡するまでの間、呻吟する声を発したか、あるいは救いを求めて別室に移動したような形跡が認められた[10]。なお、検察官は冒頭陳述で「被告人KはDを刺した後、Dの苦しそうな息遣いを聞くに耐えず、襖を閉めた」と述べている[39]
  23. ^ 長男Cの顔面・腹胸部・左右の上肢などに多数の傷があったほか、左手指・掌に防御損傷と思われる傷があった[10]
  24. ^ Kの実家は現場から約1 km離れた場所(種市町内)[37]
  25. ^ Kが首吊り自殺しようとした場所を岩手県警が調べた結果、自供通り首を吊ろうとした形跡が確認された[37]
  26. ^ 事件発生直後、現場検証に立ち会った被疑者Kは家の中に入ることを必死に拒んでおり、室内は捜査員たちが目を背けるほどの惨状になっていた[42]
  27. ^ 『岩手日報』久慈支局長・藤原敬之はこの点について、「長期不在の際に隣近所に声を掛ける習慣は廃れてしまったのだろうか?核家族化の進行で地域社会のつながりも薄くなりつつある。K夫婦が積極的に外に向かって心を開かなかったことも(一因に)あるが、近くに悩みを打ち明けられる人がいなかったのも残念だ。」「事件は地域社会の在り方も問いかけている」と指摘した[43]
  28. ^ 逮捕時刻は7時20分で、『岩手日報』は「久慈署員が公衆電話ボックスにいたKを緊急逮捕した」と[6]、『中日新聞』は「通話中に駆けつけた署員がKに任意同行を求めた」とそれぞれ報道している[41]
  29. ^ 県警捜査一課・久慈署は1989年8月25日に被疑者Kを立ち会わせて現場検証を行った[44]
  30. ^ a b 検察官は冒頭陳述の際、精神鑑定(起訴前)の結果について「被告人Kの記憶には曖昧な部分があるが、これは事件のショックによる心因性選択的健忘(思い出したくないことを忘れる)で、刑事責任は問える」と指摘し[50]、論告求刑でも「不自然な供述をしているのは、極刑を恐れるあまりの弁解だ」と指摘した[52]
  31. ^ 盛岡地検次席検事・片山博仁は『岩手日報』の取材に対し、被疑者Kを起訴前に鑑定留置した理由について「必要な捜査はほぼ終わっているが、責任能力について疑う余地があれば、捜査段階で十分明らかにすべきである」と説明した[47]。鑑定留置期限は同月28日10時までで[48]、飲酒後の性格・知能程度などに関し、専門医が精神鑑定を実施した[24]
  32. ^ 夏祭りは翌1990年から復活した[5]
  33. ^ 保崎の鑑定によれば、被告人Kの知的水準は軽愚級で、WAISでは総合IQ 65(精神遅滞)とされた[40]。一方、鹿野協亮作成の鑑定書によれば、被告人Kの知能指数はWAISでは総合IQ 89、鈴木・ビネー式では知能指数69と、いずれも「正常値の低域」とされている[40]
  34. ^ 鑑定期間は1989年12月 - 1990年5月[54]
  35. ^ 精神鑑定は1989年12月1日 - 1990年5月12日まで163日間にわたって行われ、事件当時の(責任能力に関する)精神状態と、公判時点の精神状態の2点について鑑定が実施された[55]。またKは鑑定のため、1990年1月 - 4月26日までの間、当時拘置されていた盛岡少年刑務所から東京拘置所へ身柄を移されていた[56]
  36. ^ 検察側は保崎鑑定書の証拠採用に同意しなかったため、弁護人は鑑定人尋問を行った[55][58]
  37. ^ 保崎はこの行動について、「Kは当時、妻Aから離婚書類を見せられるなどして精神的に追い詰められ、感情の動きが激しい『情動』状態にあったところ、かつてないぐらいの量の酒を飲んだ」と指摘した[59]
  38. ^ 盛岡地裁 (1990) はその内容について「被告人Kは妻Aの身持ちをあげつらったり、その醜関係の相手方として、格別の根拠もなくAの義兄弟の名前を挙げたり、『夫婦仲が悪化したのは、もっぱらAの実家が原因である』と言い募ったりした」と指摘[14]
  39. ^ 論告求刑にあたり、検察官は求刑意見で凶器のマキリの没収も求めたが、盛岡地裁 (1990) は「本件で使用されたマキリ(平成元年押第33号の2)は被告人Kが乗船していた漁船から無断で持ち帰ったもので、Kの所有に属しない疑いがある」として没収を言い渡さなかった[14]
  40. ^ 盛岡地裁で無期懲役判決が言い渡された事例は、1981年(昭和56年)6月に盛岡市で発生した児童の身代金目的誘拐殺人・死体遺棄事件で3被告人のうち、2人に言い渡されて以来だった[11]
  41. ^ a b 遺族(特にAの実親・兄弟ら)は第一審判決前、異口同音に被告人Kを極刑に処すよう求めていた[14]。また、被害者Aの親類は第一審判決(無期懲役)を受け、「刑が軽すぎる。今後も同種の犯罪があるだろう。死刑で当然」と不満の弁を述べていた[4]
  42. ^ 被告人Kは第一審判決前、弁護人(松下)に対し「どんな判決が出ても受け入れる」と話していた[4][65]
  43. ^ 「原判決は妥当」と主張したという旨の報道もある[70]
  44. ^ 仙台高裁が盛岡地裁の無期懲役判決を破棄して死刑判決を言い渡した事例は、1965年に盛岡市でアパート経営者が殺害された強盗殺人事件について、1966年(昭和41年)9月に言い渡された控訴審判決(最高裁で死刑確定)以来だった[17]
  45. ^ 仙台高裁 (1992) は「いわゆる家庭内無理心中事件」の例として「親が何らかの事情によって自殺の途を選ばなければならない状況に追い込まれたときに、心身に重篤な疾病をもち他人の介助を必要とする子供をその道連れにする」事件などを挙げている[10]
  46. ^ 服部は当時の被告人Kの様子について、「Kは仙台拘置支所の中で1日3回、北を向いて手を合わせて拝んでいると聞いている。被害弁償・文章など目に見える形ではなくても、心の中で深く反省していたと思う」と述べている[75]
  47. ^ 『朝日新聞』は「Kは宮城刑務所内で6日、くも膜下出血で倒れた」と報じている[20]。また村野薫 (2002) は「Kの父や2人の姉は同じ病気で倒れたり死亡しており、K自身も獄中で『自分もアタルのでは』と、病気を常日ごろから最も恐れていた」と述べている[77]
  48. ^ Kの死因について『岩手日報』は「くも膜下出血」と[19]、『毎日新聞』は「脳梗塞」とそれぞれ報じている[78]
  49. ^ 刑事訴訟法第339条(第1項)にて、「次の場合は、決定で公訴を棄却しなければならない。…(中略)…被告人が死亡し、又は被告人たる法人が存続しなくなつたとき。(第4号)」と規定されている。
  50. ^ 1件はつくば妻子殺害事件の控訴審判決(同年1月31日宣告:東京高裁)で[79]、もう1件は1993年(平成5年)2月に福岡県で発生した妻子3人殺害・放火事件の被告人に対する控訴審判決(同年12月4日宣告:福岡高裁[80]。いずれも被告人にとって酌むべき事情を認め、無期懲役とした原判決に対する検察官の控訴を棄却したもので、いずれも検察側は上告せず、判決はそのまま確定している[81][80]
  51. ^ 当時の検察当局の動向については以下の項目を参照。

出典

  1. ^ a b 朝日新聞』1989年8月14日東京朝刊第12版岩手版第一地方面21頁「種市の妻子5人殺害 一家に何があったのか 争った形跡もなし 盆入りの街にショック」(朝日新聞東京本社・盛岡支局)
  2. ^ a b c d e 『岩手日報』1989年8月14日朝刊第2版17頁「種市の5人惨殺 凶行血染めの布団 妻子無残 身勝手な父に怒り 住民、遺体に花を供え涙 K、定職なく妻に暴力」(岩手日報社)
  3. ^ 『岩手県 九戸郡種市町 [1988]』株式会社ゼンリン(発行人:大迫忍)〈ゼンリンの住宅地図〉、1988年8月、4頁A-5頁。国立国会図書館書誌ID:000003554542全国書誌番号:20437421 
  4. ^ a b c 『岩手日報』1990年11月17日朝刊第2版21頁「種市の妻子5人殺害 無期判決 身じろぎせぬ被告 妻の親類は量刑に不満」(岩手日報社)
  5. ^ a b c 『朝日新聞』1992年6月5日東京朝刊第12版岩手版第一地方面27頁「種市の妻子5人殺人 『凶悪犯罪』と断罪 仙台高裁 一審破棄し死刑判決 惨劇の舞台“風化”」(朝日新聞東京本社・盛岡支局)
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 岩手日報』1989年8月14日朝刊第3版1頁「妻子5人を惨殺 凶行の父親を逮捕 種市 酔って離婚話に逆上 ナイフで刺殺遺体を4日間も放置」(岩手日報社)
  7. ^ a b c d e f 読売新聞』1989年8月14日東京朝刊第一社会面27頁「別れ話、酒に酔い逆上 岩手で元漁船員、就寝の妻子5人刺殺 4日間放置し自首」(読売新聞東京本社
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad 盛岡地裁 1990, 本件犯行に至る経緯等.
  9. ^ a b c d e f g h i j k 盛岡地裁 1990, 罪となるべき事実.
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw 仙台高裁 1992, 理由.
  11. ^ a b c d e f g 『岩手日報』1990年11月16日夕刊1頁「種市の妻子5人殺害 K被告に無期判決 盛岡地裁 妻の「自殺考えた上での無理心中」」(岩手日報社)
  12. ^ a b c d e 『朝日新聞』1989年8月15日東京朝刊第12版岩手版第一地方面21頁「種市の妻子殺害 最近は無職 けんか絶えず」(朝日新聞東京本社・盛岡支局)
  13. ^ 『岩手日報』1989年8月16日朝刊第2版15頁「種市の母子惨殺 凶行供述以前あいまい」(岩手日報社)
  14. ^ a b c d e f g h i j k l m 盛岡地裁 1990, 量刑の理由.
  15. ^ a b c d 『朝日新聞』1989年9月30日東京朝刊第12版岩手版第一地方面27頁「種市の妻子五人殺し 殺人で起訴」(朝日新聞東京本社・盛岡支局)
  16. ^ a b c d e f g 『朝日新聞』1990年11月17日東京朝刊第12版岩手版第一地方面23頁「妻子5人殺しに無期懲役 地裁判決 妻子に愛情、深く反省『無理心中」と認定」(朝日新聞東京本社・盛岡支局)
  17. ^ a b c d 『岩手日報』1992年6月5日朝刊第4版1頁「種市の妻子5人殺し K被告に死刑判決 仙台高裁 無期懲役を破棄」(岩手日報社)
  18. ^ a b c d 『朝日新聞』1992年6月5日東京朝刊第12版岩手版第一地方面27頁「種市の妻子5人殺人 『凶悪犯罪』と断罪 仙台高裁 一審破棄し死刑判決 『無理心中認めず』 被告側、上告の方針」(朝日新聞東京本社・盛岡支局)
  19. ^ a b c d 『岩手日報』1992年10月20日朝刊第2版17頁「種市の妻子5人殺害 K被告が入院先で病死」(岩手日報社)
  20. ^ a b c d 『朝日新聞』1992年10月21日東京朝刊第12版岩手版第一地方面27頁「妻子五人殺人 被告病死で公訴棄却」(朝日新聞東京本社・盛岡支局)
  21. ^ a b c d e 『岩手日報』1989年8月15日朝刊第2版15頁「妻子5人殺害の夫送検 久慈署 おどおどし護送車に」「「種市夏祭り」は中止 きょう全町で臨時全校集会」(岩手日報社)
  22. ^ a b 『朝日新聞』1989年8月15日東京朝刊第12版岩手版第一地方面21頁「種市の夏まつり中止」(朝日新聞東京本社・盛岡支局)
  23. ^ a b 『朝日新聞』1989年8月15日東京朝刊第12版岩手版第一地方面21頁「種市の妻子殺害 妻になじられカッと… Kを身柄送検」(朝日新聞東京本社・盛岡支局)
  24. ^ a b c d e 『岩手日報』1989年9月30日朝刊第2版19頁「種市の妻子5人殺し起訴 盛岡地検 「心神喪失せず」と判断」(岩手日報社)
  25. ^ 種市町 e-Town WEB”. 洋野町(旧:種市町) 公式ウェブサイト. 洋野町. 2020年9月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年9月13日閲覧。
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  27. ^ a b c d 『朝日新聞』1990年9月13日東京朝刊第12版岩手版第一地方面23頁「妻子5人殺人 死刑の求刑 涙浮かべる被告 弁護側は心神こう弱主張」(朝日新聞東京本社・盛岡支局)
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  29. ^ a b 石川淳一「裁判員裁判:死刑は被害者数を重視、司法研修所が報告」『毎日新聞毎日新聞社、2012年7月23日、1面。オリジナルの2012年7月27日時点におけるアーカイブ。2012年7月27日閲覧。
  30. ^ 『朝日新聞』2009年1月13日名古屋夕刊第一社会面11頁「『無期』うつろな目 孫の場面、体揺らす 岐阜の一家5人殺害・×被告 ≪解説≫『母との確執』に理解」(朝日新聞名古屋本社 記者:大内泰) - 中津川一家6人殺傷事件(2005年)の関連記事。
  31. ^ a b c d 『中日新聞』2010年1月26日夕刊第一社会面13頁「中津川一家殺傷判決 『遺族に謝罪努力必要』 裁判長 被告に呼びかけ 親族間、目立つ死刑回避」(中日新聞社) - 中津川一家6人殺傷事件(2005年)の関連記事。
  32. ^ 中日新聞』2010年1月26日夕刊一面1頁「一家殺傷 二審も無期 『責任重いが死刑ためらう』 名高裁判決 (解説)被告の反省重視 最高裁基準にとらわれず」(中日新聞社 社会部記者:北島忠輔) - 中津川一家6人殺傷事件(2005年)の関連記事。
  33. ^ 東京新聞』2010年1月26日夕刊第一社会面9頁「家族5人殺害 元市職員、二審も無期 名古屋高裁 『極刑にはちゅうちょ』」(中日新聞東京本社) - 中津川一家6人殺傷事件(2005年)の関連記事。
  34. ^ a b c 村野薫 2002, p. 171.
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  41. ^ a b 中日新聞』1989年8月14日朝刊第一社会面21頁「【種市=岩手県】妻子5人を次々刺殺 “離婚話”に逆上 無職の夫、遺体を4日間放置 岩手」(中日新聞社
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  70. ^ a b c 『朝日新聞』1991年6月21日東京朝刊第12版岩手版第一地方面27頁「一家5人殺し控訴審始まる 殺害方法も残虐 検察側 一審判決は妥当 弁護側」(朝日新聞東京本社・盛岡支局)
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  74. ^ 『読売新聞』1992年6月5日東京朝刊第一社会面31頁「岩手の妻子5人殺し 一審破棄、死刑判決 『無理心中』を退ける/仙台高裁」(読売新聞東京本社)
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  79. ^ 年報・死刑廃止 1998, p. 114.
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参考文献

  • 盛岡地方裁判所刑事部判決 1990年(平成2年)11月16日 『判例時報』第1474号152頁、『TKCローライブラリー』(LEX/DBインターネット)文献番号:25402843、平成1年(わ)第126号、『殺人被告事件』。
  • 仙台高等裁判所刑事第二部判決 1992年(平成4年)6月4日 『判例時報』第1474号147頁、『高等裁判所刑事裁判速報集』(平成4年)号93頁、『TKCローライブラリー』(LEX/DBインターネット)文献番号:28025070、平成2年(う)第129号、『殺人被告事件』「〔『高等裁判所刑事裁判速報集』〕妻子5人を殺害した被告人に無期懲役判決を言い渡した第1審判決が検察官の控訴により破棄されて死刑が言い渡された事例」、“〔『高等裁判所刑事裁判速報集』〕犯行の罪質、経緯、動機、態様、なかんずく殺害方法の執拗性、結果の重大性、殊に被害者の数、年齢、被告人の反省の態度、遺族らの被害感情、地域社会に与えた影響の甚大さ、同種事犯に対する量刑の実情等を考慮すると死刑の選択もやむを得ない。”。
    • 裁判官:渡辺達夫(裁判長)・泉山禎治・堀田良一
    • 判決主文:原判決を破棄する。被告人を死刑に処する。
    • 検察官:片山博仁(盛岡地方検察庁検察官・控訴趣意書を作成)・小林永和(控訴趣意書を提出)・吉田年宏(弁護人の控訴趣意書に対する答弁書を作成)
    • 弁護人:服部耕三(控訴趣意書を作成)
  • 菊池さよ子 著「97年死刑判決・無期懲役判決(死刑求刑)一覧」、(編集)年報・死刑廃止編集委員会(編集委員)阿部圭太・岩井信・江頭純二・菊池さよ子・菊田幸一・島谷直子・高田章子・対馬滋・永井迅・安田好弘・深田卓(インパクト出版会) / (協力:深瀬暢子・フォーラム90実行委員会) 編『犯罪被害者と死刑制度 年報・死刑廃止98』(第1刷発行)インパクト出版会、1998年8月25日、114-121頁。ISBN 978-4755400797NCID BA37394461国立国会図書館書誌ID:000002746734全国書誌番号:99055469http://impact-shuppankai.com/products/detail/74 
  • 村野薫「第六部 五人殺し【岩手・種市町の妻子5人殺害事件】離婚されるのを恐れ、酩酊状態で凶行に及んだ男の末路は?」『日本の大量殺人総覧』(発行)新潮社〈ラッコブックス〉、2002年12月20日、171-173頁。ISBN 978-4104552153 

関連項目

  • 中津川一家6人殺傷事件 - 2005年(平成17年)2月に岐阜県中津川市で発生。同じく家族5人が家族の手で殺害された事件。本事件は加害者の男が被害者の1人である母親と深刻な確執を抱えていたことに加え、事件後に自殺を図った(失敗)ことなどから「無理心中」とされ、一・二審とも無期懲役判決が言い渡された。検察官は死刑を求め上告したが、最高裁も同判決を支持して上告を棄却。5人殺害で、かつ被告人の完全責任能力を認めながら死刑を回避した異例の判決となった。
  • 別府3億円保険金殺人事件 - 本事件と同じく、死刑判決を受けた被告人が上告中に死亡したため、最高裁が公訴棄却を決定した事例。