丸毛兼利
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 正保4年1月28日(1647年3月4日) |
改名 | 兼利→道和(法名) |
別名 | 三郎兵衛、親吉、安職、兼頼、長隆、姓:丸茂 |
主君 | 斎藤道三→織田信長→豊臣秀吉→前田利常 |
藩 | 加賀藩士 |
氏族 | 藤原北家道兼流丸毛氏 |
父母 | 父:丸毛長照 |
兄弟 | 兼利、利勝 |
妻 | 稲葉一鉄娘(寛政重修諸家譜) |
丸毛 兼利(まるも かねとし)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。
略歴
当初は父と共に斎藤道三に仕え、後に織田信長に転仕。永禄12年(1569年)の大河内城攻め、元亀元年(1570年)の小谷城攻め、天正元年(1573年)の槇島城攻め、天正2年(1574年)の長島攻めなどの諸戦に信長の馬廻として参加した。本能寺の変で信長が死去した後は、豊臣秀吉の家臣となった。小牧・長久手の戦い、九州平定、小田原征伐と歴戦し、天正17年(1589年)に美濃国福束城主となり、2万石を拝領した[1]。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいて西軍に属し、8月16日の前哨戦で、東軍の市橋長勝、徳永寿昌と戦い、敗れて居城の福束城を放棄して大垣城に逃亡する。戦後、前田利常に仕え2,000石を領した。弟・利勝(五郎兵衛)の系統は800石の旗本として存続している。
正保4年(1647年)に死去。生年は不明だが、永禄12年(1569年)時点で既に信長に仕えて戦場に赴いている記録(信長公記)があるため、非常に長命であった事は事実である。
丸毛氏
元々は石見国の国人領主益田氏の一族で、益田兼季の四男とされる兼忠が丸茂を領し、その地名をとって丸茂(丸毛)を称した。その兼忠には子がなかったため、近隣の小笠原長氏より養子を貰い受けて後継者とした。後に美濃国多芸郡大塚城に移住し、美濃国の国人領主として勢力を拡大した。
登場作品
- 漫画
- 『丸毛戦記 : 福束城主・丸毛兼利奮戦記』
脚注
出典
- ^ “アニメ「丸毛戦記(前編)」制作開始”. 岐阜県. 2021年3月4日閲覧。