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Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨降りしきる 20211222

これはこのページの過去の版です。のりまき (会話 | 投稿記録) による 2022年1月5日 (水) 21:38個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

選考終了日時:2022年1月5日 (水) 11:44 (UTC)2022年1月19日 (水) 11:44 (UTC)

  • (推薦)月間新記事賞に漏れた記事です。評価や太宰治との関係などについてうまく解説できているものと思いますので推薦します。
  • 賛成 推薦者票。--勝錦会話2021年12月22日 (水) 11:44 (UTC)[返信]
  • 賛成 一通りの内容を記述できているものと思います。--Tam0031会話2021年12月31日 (金) 05:37 (UTC)[返信]
  • 反対 主題が「伊藤左千夫の短歌」と「太宰治の遺書」で揺れ動いており、整理が必要であると考えます(太宰に関する情報のウェイトの方が重くなっているように感じます)。また、「制作の背景と評価」節は時系列に沿った「制作と発表のプロセス」、「作品の解釈」、「作品の評価」に分けた方が良いと思います。その際、「評価」はいつ頃のものか分ると(伊藤の生前なのか、近年の評価なのか等)ありがたいです。--MTBM3会話2022年1月2日 (日) 01:49 (UTC)[返信]
    • コメントMTBM3さん、ご意見どうもありがとうございます。う~ん、困ったなあというのが正直な感想です。伊藤左千夫の作品全体に言えることですが、本作品を含む初期作品の評価は高くなく(一首のみ例外がありますが)、晩年の作品の中に発表当時から現在に至るまで高い評価がなされているものがあります。この短歌も評価解釈は全て太宰の自殺後のもので、多くは伊藤左千夫の短歌をなぜ辞世に使ったのかについてフォーカスしています。従って評価解釈は太宰の自殺に引きずられたものになってしまっているとも言え、太宰の遺書として使われなかったら特筆性が無かったと考えています。ですから確かに文学作品の記事としては異例なことですが、作品そのものの評価よりも使用された経過や評価、つまり太宰に関わる情報の方が重たくなってしまうのはやむを得ないことであると判断しています。
    • ご意見の中で「制作の背景と評価」節の件については確かに頷けるところが多いです。ただ解釈評価は全て太宰の死後のものでもあり、発表が古いか新しいかによる差異は認めがたいのではと考えています。まずは改稿をしてみたいと思いますが、選考終了が近いので2週間の選考延長を希望します。--のりまき会話2022年1月2日 (日) 07:42 (UTC)[返信]
  • コメント:ノートにも記しましたが、MTBM3さんのご意見におおむね賛同致します。そこでですが、思い切って、記事名を太宰治と短歌に変更して、その一節に佐千夫を入れ込むのは如何でしょうか。のりまきさんにはその方が書きやすいと思うのですが。--Falcated会話2022年1月2日 (日) 10:14 (UTC)[返信]
    • う~ん、それはそれでどうでしょうか?本作は太宰の死後であるとはいえ、しっかりとした評価・評論があって(だから特筆性が担保されているわけですが)、論者の多くが伊藤左千夫の短歌の特性が太宰治が遺書として選んだ理由になったとしています。太宰治と短歌という記事に仕立て上げることは不可能ではありませんが、今度は伊藤左千夫の短歌としての特徴の多くを省くことになって、多くの論者による論旨の展開が見えなくなるのではと危惧します。私としてはこの短歌は結局、太宰によって世に知られるようになったことから逃れられないわけで、太宰治に関わるウエイトが大きい形にすることが、参考文献に最も忠実な書き方であると考えています。ですから自殺の経緯等をある程度省く程度なら良いと思うのですが、太宰との関わりを削ることには基本的に反対します。--のりまき会話2022年1月2日 (日) 10:38 (UTC)[返信]
  • インデント戻します。とりあえず手もとにある参考文献をもとに「制作の背景と評価」節の再構成を行い、「制作の背景と発表」、「評価と解釈」に分割してみました。--のりまき会話2022年1月2日 (日) 10:46 (UTC)[返信]
  • 無論決めるのはのりまきさんですから、お任せしますが、「太宰治に関わるウエイトが大きい形にすることが、参考文献に最も忠実な書き方」であるとしても、それを読者に理解してもらうのは難しいだろうということです。現にMTBM3さんと私は異議を唱えているわけですし。--Falcated会話2022年1月2日 (日) 10:50 (UTC)[返信]
    • 他の方のご意見も伺いたいところですが、自分のブログ等で書くのならばともかく、私は参考文献のニュアンスから離れた形で記事を構成するのはまずいことだと判断しています。まあ、「太宰治によって遺書に使用されたことにこの作品の存在価値がある」とまで断言した参考文献は無いわけですし(中井英夫の論旨は近い線言っていますが)、参考文献の内容を取捨選択して構成し直せば出来ないことではないので、皆さんのご意見がどうしてもやれという話になればやってみますが。--のりまき会話2022年1月2日 (日) 11:06 (UTC)[返信]
  • 報告:選考期間を2週間延長致しました。--Falcated会話2022年1月2日 (日) 10:50 (UTC)[返信]
  • コメント 本作について、のりまきさんが言われるような「太宰の遺書として使われなかったら特筆性が無かった」ことが事実なら、この作品の特筆性はきわめて限定的ということになるでしょう。例えば、浅野長矩が切腹する際に歌を詠んだことはよく知られていますが、ではその辞世の句が記事主題として適当なのかといえば、なかなかそうはならないことと近いのではないかと。この記事のリンク元を見たところ、太宰治伊馬春部伊藤左千夫の関連項目としてあるほかには記事空間内に内部リンクが見当たらず、ほぼ孤立状態となっています。おそらくは上記特筆性の問題と、短歌をそのまま記事のタイトルにしている珍しいスタイルが理由として考えられます。
個人的には、記事の前半は「伊藤左千夫」、後半は「太宰治」でそれぞれ述べるべき内容ではないかと考えますが、現状で単純に加筆するのは部分的に突出してしまい、かえってバランスを崩してしまうかもしれません。あるいは、三島事件チャイコフスキーの死のような単独項目としての特筆性が認められるなら、「太宰治の死」として心中事件を記事主題として扱う中で活かす方法はありそうに思います。--みっち会話2022年1月4日 (火) 13:25 (UTC)[返信]
    • みっちさん、ご意見どうもありがとうございます。
    現在、文献について再確認を進める中で見い出した、1944年に刊行された伊藤左千夫に関する評論集の入手を手配中です。太宰の死の前の評価について改めて確認をした上で、まず記事の構成、内容等を再検討したいと考えております。
    これまで入手した参考文献を読む限り、この短歌は太宰が死に臨んで辞世のような形で撰んだだけあってやはり優れた短歌であり、太宰によってその良さが見い出されたというのが実情なのだと思います。太宰の死によって知名度が上がり、伊藤左千夫初期の短歌の特徴を論述する材料として利用されるようになったのが見て取れます。従って短歌そのものの特筆性には問題が無いと判断しています。
    今回の記事を立てるにあたって参考文献を読む中で、私も当記事内容を利用して「太宰治の死」ないし「太宰治の心中」という記事を立てることを考えていました。あくまで当記事の中で触れる太宰の死は、重要ではあるもののその一面の紹介にすぎません。太宰治の死に関しては多くの論者による論文があり、単著も出されていますので特筆性は十分にあります。これも良いきっかけと考え、立項を検討していきたいと考えております。記事立項の際には、当記事の主に後半部分を簡略化して組み込むことになると思います。