遺伝学
遺伝学(いでんがく、英: genetics)は、生物の遺伝現象を研究する生物学の一分野である。遺伝とは世代を超えて形質が伝わっていくことであるが、遺伝子が生物の設計図的役割を果たすものであることが判明し、現在では生物学のあらゆる分野に深く関わるものとなっている。
概要
遺伝現象は、元来は世代を超えて生物の形質が伝えられることを指す。これは生物に見られる重要な特徴であり、例えば分類学や系統学もこれを基礎とするものである。この現象を扱う生物学の分野が遺伝学である。ただし、生物学の分野で実験が取り入れられた、という点ではこれは古いものである。これは品種改良などの形で現実世界でこれに近いことが行われてきたからでもあるだろう。その意味では、この分野はその初期から実用的側面が強く、それは育種学へと引き継がれる。
メンデルの得た法則はこの分野の進歩の基礎となったが、遺伝学の実質的な進歩はその法則の再発見からである。これによって遺伝子という概念が確立し、具体的に追求すべき対象が明らかにされた。しかも、それがその後すぐに染色体を介して細胞核に結びつけられることで、遺伝現象は単に世代を超えて何かを伝えるしくみではなく、生命の日常的活動をその基礎で支えるものと判明したことで、生物学の中心的な位置に出てくることになった。
ワトソンとクリックらによるDNAの二重らせん構造の発見後は、DNA上にある遺伝子の物質的な側面からの研究が発展し分子生物学とよばれる研究分野が開拓された。遺伝子の機能の解析は生物学のほとんどの分野と関係がある。特にグリフィスが発見した形質転換は生物の遺伝子を人為的に操作する方法へと道を開き、遺伝子工学へと発展した。
一方、個体群における遺伝子頻度の変化を、特に自然選択の視点から実験、観察、および数学的手法にもとづいて研究する分野は集団遺伝学と呼ばれる。
さらに、遺伝基盤のもとに成立する生物進化について実験的、理論的研究が今後期待される。
このように、遺伝学は遺伝子という生物の基本的な要素につながっているため、現在ではあらゆる分野に結びついている。
遺伝学の歴史
前史
遺伝現象は古くから知られていたが、その理論付けは困難であった。古くはヒポクラテスがこれについて言及し、生物体の各部分が何らかの物質を作り、これが子孫に伝わって子を親の形に似せる、という、遺伝物質を想定したような表現をしている。アリストテレスはこの点についてははっきりとした表現をしていない。彼は優性を現象的には知っていたが、説明を持ち合わせなかった。彼は多くの生物が異種間の雑種として生まれたと考えていた[1]。
他方、農業部門では雌雄異株の植物(イチジクなど)を通じて人工授粉の手法が古くから成立し、17世紀頃にはこれが交配に当たるとの認識が成り立った。植物で交雑実験を行ったのはドイツのヨーゼフ・ケールロイターとされる。彼は18世紀半ばに様々な交配実験を行い、雑種は中間の形質を示すこと、ただし片方に似ることもあること、両者の縁が遠い場合には不稔の雑種ができること、また時に両者より強い雑種を生じること(雑種強勢)などを認めた。それ以降19世紀までこれに追随する交配実験が行われた。1830年にはオランダの科学アカデミーが交雑によって新変種を作る研究の懸賞論文を出している[2]。
このような中で、遺伝する形質(表現型)は交雑とともに混じりあっていくと考えられていた。これは、雑種がその両親の中間的な性質を示すことが多いことに基づく。しかし、たとえばトーマス・ナイトは純系の株同士の交配では片親の形質だけが子に現れることを報告している。ちなみに、彼が行ったエンドウの実験が、後のメンデルの実験の基礎となっている。他に、1824年にジョン・ゴスはやはりエンドウについて、一代目で見られなかった形質が二代目に出現することも見ている。カール・ゲルトナーは上記懸賞論文に応募して賞を得た。彼は想定された遺伝物質をエレメントと名付け、これはメンデルも採用したところである。チャールズ・ダーウィンも交配実験に取り組み、一代目が片親の形質を示すこと、二代目には両方の形質が現れることなどを見ている。ただし二代目の分離比が一定になる、というような観点を持たず、やはり体で作られる物質が子の体の各部に配分される、というような説にまとまっている[3]。
メンデルとその再発見以前
メンデルはエンドウマメの形態に注目して1856年から交配実験を行い、その結果を分析し、それが三つの法則にまとめられると考えた。彼は1865年にブルノ自然研究会で口頭発表し、翌年には会誌に論文を発表した。彼によると、形態の遺伝は一対の遺伝粒子を仮定することで説明できる。それは親の体内では変化を被ることなく子に受け継がれる。また各個体は両親からこれを1個ずつ受け取り、子をなす際には自分の作る配偶子にこれを1個ずつ分配する。詳しくはメンデルの法則を参照。
彼の発表、および論文がある程度の範囲の専門家の耳に入っていたのは間違いないが、大きな評価を得ることはできず、1900年に再発見されるまで反響はなかった。他方でそれまでと同様に様々な交配実験が行われ、時にはその報告にメンデルの論文が引用された例もある。むしろ、この間に細胞や染色体に関する知見が正確化した点が大きいかもしれない。たとえば植物において花粉と卵子が受精することが判明し、また減数分裂の存在が予想されるようになっている。
この時期、上記の流れとは別に、生物の多様性に注目した研究としてフランシス・ゴルトンによる生物統計学も創始されている。これは現代では非科学的な優生学を含んだものであったが、「継承されるもの」としての遺伝の性質を説明したメンデルの研究では捉えきれなかった、「集団内の連続的な多様性」を説明する遺伝の性質を捉えたものであった。[4]これらの研究は、対象の過程を研究する中で統計学の発展と生物現象への統計解析の導入を促し、集団遺伝学が誕生する土壌となったと言える。
再発見以降
1900年に3人の研究者(ユーゴー・ド・フリース、カール・エーリヒ・コレンス、エーリヒ・フォン・チェルマク)がそれぞれ独自にメンデルの法則を再発見した。ちなみに、同年、ウィリアム・ベイトソンはたまたまメンデルの論文を入手して、その重要性に驚いて広く説いて回った。とりわけ、ベイトソンとカール・ピアソンの間では激しい論争が繰り広げられた。
このようにして遺伝子の論が広く知られると、1902年にはウォルター・S・サットンが染色体の観察から遺伝の染色体説を提唱した。染色体上に遺伝子があるとすると独立の法則が危うくなる(実際、ベイトソンや後述のモーガンがそれぞれスイートピーやショウジョウバエでこの法則が成立しないケースがあることを発見している[5])が、これを埋めたのが連鎖と組み換えの発見である。モーガンらは、ショウジョウバエを材料として突然変異を調べ、目が白いものを筆頭にいくつもの突然変異を見つけ、そのうちのいくつかは伴性遺伝をすることから、雌雄によって本数が違うX染色体上にこれがあるはずだが、突然変異の数だけX染色体があるわけではない(雌2本、雄1本)のでこれらの突然変異が何か一定の関係をもってX染色体に乗っていることが推察され、そこで染色体上の遺伝子が「乗り換える」という仮説を立て、2本の相同染色体が互いにその一部を交換すると仮定して分析をしたところ、各々の遺伝子は染色体上の一定の位置に規則正しく配列されているという結論に達した(これ以外に突然変異の起こる率が染色体の長さに比例することや、染色体の不分離現象からもこうしたことが確認された)。こうしたことを基に染色体説が証明され、ショウジョウバエなどでどこに何の遺伝子が乗っているかを調べる染色体地図(リンゲージ地図)という物が作成された[6]。
さらに1933年のペインターによる双翅類の唾腺染色体(普通の染色体に比べて長さも幅も100倍以上ある)の遺伝子のあると思われる部分にアセトカーミンで染めた場合濃い帯の縞模様が出てくるが、これが熟練するとどこの部位かも分かるほど太さや間隔に規則性が見られ、染色体異常の個体の場合も異常が明瞭に観察できると報告し、モーガンの弟子のブリッジェスはこの研究を進めショウジョウバエの「唾腺染色体地図」という物を作成し、ショウジョウバエの研究に前述のリンゲージ地図と共に重要な役割をしたが、この「遺伝子は染色体上に一定の順序で並んでいる」というのはその後人間を含む高等生物からカビ・バクテリア・ファージといった微生物まで成立すると分かった[7]。
また、この時代と平行して、集団遺伝学の成立、ハーマン・J・マラーのX線によるショウジョウバエの人工突然変異の誘発、テロメアの発見、自然選択説と遺伝学の統合を図るネオダーウィニズムの誕生、バーバラ・マクリントックによるトウモロコシにおけるトランスポゾンの発見も起こっている。
分子生物学の黎明期〜DNAの立体構造決定
これ以降、セントラルドグマの時代までの研究は大きく2つの流れがある。一つは遺伝子の物質的な基礎の研究であり、もうひとつは遺伝子の形質発現のしくみの解明である。
遺伝子の本体の追求
染色体は DNA やタンパク質から構成されており、当時、遺伝子の正体はタンパク質であると考えられていた。しかしまず、1944年の肺炎双球菌の形質転換の研究や、1952年のハーシーらの実験により DNA が遺伝子の本体であることが明らかにされた。その立体構造については、1953年にワトソンとクリックが二重螺旋構造を提唱し、認められた。
形質発現の過程
フェニルケトン尿症などの研究から、遺伝子の発現が酵素の合成に関わるものであるとの予測はあった。ビードルとタータムはアカパンカビを用いて栄養要求株の研究を行い、遺伝子は特定の酵素の合成に与るもので、形質は酵素の働きの結果であるとする一遺伝子一酵素説を1941年に発表した。
遺伝子発現 〜 ゲノムへ
DNAの立体構造決定以後、DNAが細胞にどのように作用するかという点が研究されていった。mRNA、tRNA、コドンの発見、機能解明から遺伝子発現の基礎的な仕組みが現在では分かっている。
技術的な発展としては、1977年に発表されたサンガー法が改良されたDNAシークエンシングや、80年代に発展したPCR法が標準的な手法となっている。
そして、2003年にはヒトゲノムが解読完了しており、今後はゲノムレベル、細胞レベルでの遺伝子の役割や、多様性が注目されていくだろうと言われている。
他分野との関連
発生学
発生学は『蛙の子がカエルになる』のはなぜかを解き明かすという点で、遺伝学と裏表の関係にある。ただし対象が組織であったためにその発達は早かった。実験発生学は胚発生の仕組みとして誘導を発見したが、その原因要素の解明の段階で深い混迷に沈んだ。これに手が着くようになったのは1990年代以降で、胚発生の段階で部域特異的に発現する遺伝子やそれによって合成されるタンパク質群の機能を研究するような方法で進み始めた。そこでは遺伝子工学の方法が積極的に活用され、発生遺伝学といわれる分野を形成している。
脚注
- ^ 中沢(1985)、p.15-17
- ^ 中沢(1985)、p.22-25
- ^ 中沢(1985)、p.27
- ^ http://www.iwanami.co.jp/.PDFS/00/9/0050550.pdf 鎌谷直之(2007) 遺伝統計学入門
- ^ 後にこれは同じ染色体上にそれらの遺伝子が一緒に乗っていたためと判明。
(吉川・西沢(1969)p.134「独立の法則」) - ^ 吉川・西沢(1969)p.134「独立の法則」
- ^ 吉川・西沢(1969)p.134「独立の法則」・p.149「唾腺染色体」
参考文献
- 中沢信午『遺伝学の誕生 : メンデルを生んだ知的風土』中央公論社〈中公新書〉、1985年。ISBN 4-12-100761-1。
- 吉川秀男・西沢一俊(編集責任者・代表)『原色現代科学大事典 7-生命』株式会社学習研究社、1969年。
関連項目
外部リンク
- “日本遺伝学会”. 2010年12月18日閲覧。
- “国立遺伝学研究所 - National Institute of Genetics”. 2012年12月13日閲覧。
- “遺伝学電子博物館 - 国立遺伝学研究所”. 2012年12月13日閲覧。
- “日本遺伝学会 遺伝学用語集編纂プロジェクト”. 日本遺伝学会 遺伝学用語編集委員会. 2012年12月13日閲覧。
- “オンライン学術用語集”. 国立情報学研究所. 2012年12月13日閲覧。